四時を過ぎると、白玉楼からはたりと音がなくなった。
座っているだけでもあくびの出るような、暖かくのどかな夕まぐれ。広い庭は此処も彼処も
すっかり手入れが行き届いて、身だしなみの整った木々は、初夏の風に煽られてもがさがさと
騒がしい音は立てず、静かに身を揺らしていた。
人気もない。耳を澄ませてみても、やはり楼内はしんと静まりかえっている。いつもは夕方
近くまでこまめに働く庭師が、はかどったからか疲れたからか、ともかく今日は早々と仕事を
終えたに違いなかった。
***
夕明かりが庇に斜めに差し込んで、室内は蔭と赤とにくっきり区切られている。その明るい
ところに、小さな両の足がまっすぐ投げ出されていた。腿までが陽にひたされて、体は蔭の中
に隠れている。仰向けになっているようだった。タオルを折りたたんだだけの簡単な枕に頭を
乗せて、さやかに寝息を立てているのは、一人の少女だった。
東も西も、あらゆる帷が払われている。蔭を作るわずかな屋根と壁と、四方に立つ柱とがか
ろうじて部屋のおもかげであって、あとはほとんど庭の一郭のようにも見える。体温の低い彼
女には蚊帳を吊る必要もなかった。寝姿を覆うものは暗がりの他に何もない、実に開放的な寝
処である。
ここは彼女のお気に入りの避暑地なのだ。燈火を消して暗いところに横たわり、四方開け放
して存分に畳に風を流すと、単純ながら涼を納れるには最高だった。無防備に人目にさらされ
ることも、もとより楼内に人が少なければ、さして気にはならなかった。
胸の下までまくれたシャツの裾が、そよ吹く風にひらひらと揺れる。露わになった小さなへ
そが、寝息に合わせてささやかに上下する。足下では夕陽を浴びてほんのり赤く染まった半身
の幽霊が、まどろむようにゆっくりと畳の上をすべっている。
これこそ白玉楼の庭すべて、二百由旬をひと身に担う小さな庭師、魂魄妖夢その人である。
――そう言えば不意をついたようで可哀想だけれど、そのどこか頼りない寝姿も昼の疲れを思
えばこそ、見た目にはよく似合うかわいらしい様子であると言えば、そう貶めた言い草でもな
い。気を張った仕事の合間にありついた至福のひとときに、思わず心も体もゆるんでしまう不
出来さもまた彼女の愛嬌である。
陽の当たり方が変ってきたからであろう、一度小さく寝返りを打って、あたたかくなりすぎ
た腿のあたりを蔭に逃がす。体は枕を離れてまた仰向けになる。そうしてまた、安心したよう
にくうくうと眠りの深そうな寝息を立てはじめた。少女のすこやかな眠りは、もう少し長く続
きそうな気配であった。
***
赤い畳に、不意に影が差した。
庇の真下に何者かが立っていた。山の向こうに沈みかけた太陽の炙るような西日を背に受け
て、その姿はか黒く定かではない。輪郭は人のものであった。西風にはためく衣が光を跳ねて、
右手に握ったナイフ大のものを微かに照らし出す。
影は今し、限りなく静かに一歩を踏み出した。陽は遮られて、臥した少女の体はどっぷりと
闇の中に沈む。
鞘はない。抜刀の音が響けば、或いは少女は目覚めたかもしれない。しかし得物は既に抜か
れていた。剥き出しの先端には緋が滴っている。影は少女の枕元に立ち止まり、その表情を見
定めるようにじっと真下を見下ろしている。
寝息は途絶えない。一息一息、何かの不吉なカウントダウンのように、時を打つ如く一定の
リズムを保っている。少女は目覚めない。悪意に満ちた先端が、徐々にその肌に迫る。影は口
元に三日月を思わせる不敵な笑みを浮かべて――得物を額めがけて静かに降ろす。
***
白玉楼にあっては、三食こそ最大の欠かさざるべき仕事である。仕事に忠実な妖夢が目を覚
ましたのは、きっちり夕食の十分前だった。
上体を起こすと、身体の調子はすこぶるよく思われた。まるで昼寝の間に、日々の疲れが
しゃぼんできれいに洗い落とされたようだった。よく体をほぐして、食卓を整えに向かう。米
櫃に米が満ちていることを確認して、食器とともに食卓に運び込む。向かい合わせに箸を二膳
据えて、正座して待っていると、まもなく幽々子が時間通りにやって来る。腹ぺこのわかりや
すい合図に、片手でお腹を押さえている。
「ごはんごはんー」
「こんばんは。用意、できてます」
「いただきましょう。あら、今日は赤味噌なのね」
二言三言交わして、早速御膳の前に腰掛ける。
「今日の梅干しはとくべつおいしいですよ」
「ほんと。いつものよりいいわねぇ」
幽々子の食べ方はがつがつと慌ただしいわけでもなく、箸の扱いはどちらかといえば丁寧で
上品である。こうして時折会話も交わす。それなのに夕食のメニューは掃除機をかけたように
みるみるなくなっていく。一度に頬張る量が多いのだろうか、と妖夢は思う。けれどもそれを
真剣に考えるまもなくおかわりの声がかかって、おかずが足りなければ妖夢が自分の分を差し
出したりもして、普段通り、米櫃が空になるまでそんなやりとりが続く。
「ねえ妖夢、今日はなんだか調子がよさそうね?」
不意に幽々子が尋ねる。妖夢はやや頬に紅を潮して、
「はい。少し、その、昼寝をさせていただきましたから。おかげさまで随分すっきりしました」
「ええ、とても元気そう――というか、幸せそう」
幽々子はそう言って可笑しそうに笑う。
言葉の意味を解し得なかったのだろう、妖夢はきょとんとして、はぁ、と芯のない返事を
返す。しかしそんな様子を正面から見ると、たしかに幽々子の言う通り――その額にくっき
りと赤く描かれたおひさま模様は、いかにも幸せそうに見えた。
犯人は紫かしら?
でも……油性ですよね!当然!
でもきっと油性ですね。(笑)