麗日。
長廊は見通しがよかった。一歩進むたびに床板が軽快に軋む。随分暖かくなった、と妖夢は
思った。つい先日まで、雪の残る半夜などは氷の上を歩くようだったことを思い出す。あまり
の寒気にまさかと思い、悪戯な氷精を草陰に探したこともあった。ついに一度も見つけること
はなかったが、今はもう彼女も潜むには辛いだろう。
足下は一面に赤く、床板を踏むたびに靴下が床に溶けこんでいくように見える。烈しい照り
返しに楼観の黒鞘も朱を帯びている。涼しげな水辺を眺め、小径沿いに視線を滑らせると、夕
陽はちょうど鐘楼の軒先にかかっていた。山々の稜線は鮮明に空を分けている。夕餉にはまだ
早い。
裏戸をくぐると、厨は寂然として人影はなかった。昼の後始末から特に変わった様子も見あ
たらない。妖夢は小さく安堵の息をついた。どうやら一手先に要地を制したようであった。
***
微かな物音を聞いて、妖夢は食材を改める手を休めた。帳一枚と障子戸を隔てた向こうから、
きりきりと木廊のしなる響きが聞こえてくる。
やっぱり来た、と妖夢は思った。瞼を閉じれば、空腹の徒の抜き足して歩み来る様子が目に
浮かぶ。穏やかな気配に、ゆったりとした足運び。衣擦れの音が大きくなるにつれて、黙々と
張り詰めていた辺りの空気がゆるやかさを取り戻していく。やがて吐息の音が聞こえるまでに
なると、ふわりと心地よい匂いが鼻をついた。障子戸の擦れる音がして、帷が静かに開き、見
慣れた赤い渦巻きがひょっこりと現れた。
「遠路はるばるお疲れ様です、幽々子様」
待ちかまえるように厨の一角に佇んで、妖夢はつとめて丁寧に一礼し、落ち着いた口調で言い
添えた。瞳にはなみなみ呆れを湛え、またほんの少し、案の定に事が運んだ嬉しさを隠しきれ
ずに表している。
「……お腹が空いたの。すごく」
落胆した様子を見せたのもほんのつかの間、すぐに幽々子は自分の激しい空腹具合を訴えて
きた。番人を目の前に、まだつまみ食いを諦めていない。小首を斜に傾けて、哀れを誘う上目
づかいでじっと妖夢を見る。妖夢はそんな雰囲気に流されないよう毅然として立ち、咳払いを
ひとつして、
「わかっています。もう半刻もすれば夕食の支度が整いますから、お待ちください」
はっきりと告げた。それでも幽々子に拗ねた様子はなく、笑顔を浮かべてふたたび許しを請う。
「そうだけど、その前にちょっとだけ」
「今日は駄目です。夕食でちょうど買い置きがなくなるんですから、幽々子様のおやつになる
分はありません。そもそも、いいですか、本当なら今回の買い置きは明後日まで――」
「妖夢、手を出して」
妖夢の小言を半ばで遮って、幽々子は帷を離れた。片手で懐深くを探りつつ、ゆっくりと歩
み来る。
「なんですか?」
訝しみながらも反射的に片手を差し出すと、幽々子はその手に指をそっと重ねてきた。小さ
な、冷たいものが手のひらに落ちる。金属の触れ合う音が響いた。数枚の銀貨だった。
「次の買い置き、今買ってきて? 余った分はお駄賃にしてもいいわ」
「……幽々子様。行きませんよ」
手の中の銀貨の重みと、お駄賃なる言葉の響きに少し心が揺らぐ。それでも強引に押し切ら
れる前に、なんとか拒否の言葉を口にする。なかなか折れない妖夢に、幽々子はその顔によう
やく困ったような表情を浮かべた。それを見て取ると、ここぞとばかりに妖夢は勢いを取り戻
して、
「さあ、とりあえずいまは」
お部屋にお戻りください。――そう言いかけて、ふと感じた気配の変化に、妖夢は眉をぴく
りと揺らして動きを止めた。貰った銀貨を返そうと伸ばした腕が、だらんと自然体に垂れる。
「ねえ、妖夢」
俄に聲色が変わった。背景に溶け込むような、普段以上に落ち着いた色調で、呼吸すると感
情が聲で満たされそうだった。名を呼びかけられただけで、動悸が著しい。覚束ない焦点は、
幽々子の口元の弄ぶような微笑に揺れた。ふたたび唇が開く。
「今日はご飯まで待てないの。お願い」
二言目を吸い込んで妖夢は大きく目を見開いた。心臓を直に撫でられるような、身体の芯に
響く抑揚。耳の奥をくすぐるような柔らかい聲音漸加。全身がぞくぞくして、十分に身動きが
取れなかった。小刻みに震える膝を庇うようにして、妖夢は壁に僅かに身を寄せた。視線を懸
命にまっすぐ前に保ち、呼吸の乱れを覚えつつ、かろうじて口を開く。
「ですが、一日四食というのは」
「ほんのおやつじゃない。それに、夕飯も残さず全部食べるから」
ね、と可愛らしく付した語尾はなんでもなかった。それよりもこの聲色そのものが、他でも
ない自分を説き伏せるための聲なのだと、全身を繞る抗い得ない恍惚感が教えていた。俯いて、
涙をこらえて立ち尽くす。その聲で話しかけないでください、その聲はずるいです。唇を噛ん
で胸中必至に訴える。数秒の沈黙が過ぎて、ふと我に帰ると、いつのまにか調理場に広げた食
材への道を譲っていた。額には玉汗がうかんでいた。
「あらあらー、ありがとう」
幽々子は軽やかな足取りで傍を歩み過ぎ、加工の必要のない食品をひとつふたつ手にとって
封を切り、穏やかに微笑んだ。聲色はいつもの調子に戻っていた。妖夢は聲の余韻にぼんやり
と浸りながら、恍惚と戦慄が蒸気のように体から離れていくのを感じた。胸を衝く鼓動の波が
少しずつ収まっていく。
「妖夢」
「は、はい」
今度は主の呼ぶ聲が、妖夢をはっきりと現実に連れ戻した。返事の折に慌てて視線を返すと、
振り向きざまに口元に差し出されたのは薄い肉片の一枚だった。
「あーん」
七枚入りをぺろりと平らげて上機嫌の幽々子を相手に、逆らう気力はもうない。いただきま
す、と力なく呟いて肉片を口に含む。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「……ひゃい」
失礼しますと言いもあえず、情けない聲を最後に、妖夢は肩を落として厨を離れた。
***
ようやく肉片を嚥下して、幽々とした雑木林を過ぎる。飛び石には梢の影が幾重にも交叉し、
葉音の間には雲雀の声が飛び交っている。石橋を越え階段を降ると、門は静かだった。
冷たい風がひやりと肌に透る。宵闇が迫っていた。妖夢は身震いして、手にした小銭を改め、
がっくりと項垂れた。堪えていた涙と一緒に、嘆息が零れた。
直や二言とかは幾らなんでもやり過ぎでは。
内容は悪くないのに少し勿体ないと思います。
やはり振りすぎ……ですね。言葉選びからしてそうですが、ルビも真面目に按配が掴めていないでいます;
助言いただけて嬉しいです。次回はぐっと削る努力をしてみます。