ひと月に一度。
はっきりそうと決まっているわけではないが、まあ大体それくらいの頻度。
それじゃ今夜ね、と姫が気まぐれに宣言して、兎たちが期待に目を輝かせる。
たとえば、今日が、その日だった。
◇◇― ―◇―◇― ◇◇―◇―
ひのきの香りと湯煙にはいささか不似合いな喧騒が、広い湯殿を陽気に満たしている。
少し早めに今日の仕事を終えた兎たちが、そこかしこで踊るようにお互いを洗いっこしている。
耳と尻尾は特に念入りに。くすぐったいだの手が滑っただのといったやりとりが水のかけ合いやじゃれ合いになるのも、やはりそこかしこだった。
「こらっ! 姫がお待ちなんだから、真面目に洗って早く出なさいよー!」
兎は兎でも月兎、鈴仙・優曇華院・イナバが幾度目かの檄を飛ばす。
はーい、と返事。リーダーに似て跳ねっ返りの多い兎たちも今日は素直なもので、身を寄せ合って桶の湯をかぶり、桜色に温まった体をひと振るいすると、いそいそと洗い場を出ていった。
兎たちの聞き分けがいいのも、今こうして耳と尻尾を念入りに洗っているのも、むろん理由あっての事である。
今夜は、姫の「物語り」があるのだ。
屋敷中の兎を一部屋に集め、その前で姫が話をしてくれるのだ。
なんの話かといえば特に毎回決まっているわけでもないのだが、少なくとも説法や愚痴のたぐいではなく、いずれ兎たちの興味を存分に引く内容には違いない。月の都の話、地上の古いお伽話、姫や従者のこしらえた創話――とにかくいろいろだ。
話の内容もさることながら、姫自身が語り上手ということもあって、このイベントは兎たちにすこぶる評判が良い。この日に限ってはどんなぐうたら兎もツンデレ兎も居残りを命ぜられまいと真面目に働くし、抜け毛の多い時期ともなれば貴人の服を毛だらけにしないよう、事前の風呂にだって素直に入る。
「いつもこうならいいのに」
兎たちの扱いにつねづね手を焼いている鈴仙は複雑な思いで溜め息をついたが、しかしすぐに鼻唄を再開させて目の前に手を伸ばす。
鈴仙の指がしなやかに絡みつく、そこには一対の白い兎の耳があった。
「……あの子たちもそうだけどさ、」
耳の持ち主――鈴仙に背を向けて座る因幡てゐが口を開く。
「鈴仙もさっきから楽しそうだよね」
「えっ? そ、そう見える……かな」
誰にだってそう見える。
ただ鈴仙の場合、ご機嫌の理由は他の兎と少々異なるのだが。
「ねえ、私もそろそろ上がりたいんだけど」
「んー、もうちょっと」
答えながら、鈴仙は純白の耳に続けて指を這わせる。
触れたポイントがくすぐったかったらしく、てゐは声とも息ともつかぬものを小さく漏らした。
「んっ……さっきから指使いがどことなくやらしいよねぇ……」
「な、なによそれ。気のせいよ気のせいっ」
例えるならば、溶けない初雪。
あるいは、食べても無くならないマシュマロ。
そんな白くてふわふわな地上兎の耳を、実は鈴仙、愛してしまっていた。
自分にはこういう耳は似合わないだろうなあ――そう自覚しているだけに、余計に羨ましかったりする。ひとの人参が大きく見えてるだけよ、とてゐは言うのだが。
で、普段なかなか触るチャンスのないその兎耳を、今日は堂々とさわさわしたりふにふにしたりこっそりかみかみしたりできるわけで、鈴仙としては不敬ながら、姫のお話よりもこっちのお風呂タイムの方が楽しみだったりする。兎たちを監督するという名目のもと湯殿に入り浸り、精魂込めて洗い上げた兎はこれで三人目である。あぁ、やっぱりてゐの耳が一番綺麗だなあ。
さぱー。
「はい、おしまい」
「ん。ありがと」
……あぁ。
◇◇― ―◇―◇― ◇◇―◇―
永遠亭の大座敷。
湯浴みを済ませた兎たちが、開け放たれた襖からころころと入ってきては、思い思いの場所に腰を降ろしている。
上座には姫――この屋敷と兎たちの主たる輝夜姫が床の間の花を背にして座り、兎の一人に酌をさせて悠然と盃を傾けている。
組織の頂点と末端が共に吸っているとは思えぬ、くだけた空気だった。
御前ということで最低限の羽目は外していないものの、兎たちが一日の終わりの開放感と物語りへの期待に浮かれていることは目に明らかであったし、姫は姫でその様子を咎めもしない。どこぞの紅い悪魔が見れば「なめられてるわね」と笑うかもしれないし、どこぞの死神なら「うちのボスもこれくらい寛容なら」とぼやいたかもしれない。
「姫さまー。今日はどんなお話、してくださるですか?」
「そうねえ。最近ちょっと暑くなってきたし、聞いた人は死んじゃうっていう怪談なんかどうかしら? 私は蓬莱人だから死ななかったけど」
「えぇっ!?」
やだやだぁ。
頬に耳を張りつけて頭を振る兎の少女に、姫は冗談よと笑いかける。
まったく、こんな相手に尊大ぶったところで滑稽なだけなのだ。
「ところで、あと何人くらいで全員集まるの?」
「えっと……たぶん五、六人と、永淋さまとうd、鈴仙さまです」
「そう」
皆が一箇所に集まっていて防犯上の心配はないのかというと、あまりない。
もともと永遠亭のセキュリティは兎だけに依存しているものではないし、奥深い竹林を抜けてこの屋敷まで到達する侵入者自体が稀だった。殺し合いに来たはずの姫のご友人がいつのまにか座敷の一角に座り込み、兎を一匹膝に乗せて話に聴き入っていた、などという事例もあるにはあるのだが。
「え~、夜話のお供に甘いお菓子~、甘い人参はいらんかね~」
風呂から上がってきたてゐが、里で仕入れたと思しき干菓子やら竹筒に入ったにんじんスティックやら、他愛もない物を箱に並べて兎たちの間を売り歩いている。今日に限って値を上げたりしていないのは、彼女にしてはかなり良心的な振る舞いなのかもしれない。
永い隠遁生活は終わり、地理的にはともかくとして、今や永遠亭は幻想郷に開かれた存在となった。「輝夜姫の話し上手」も少しは知られつつあるようだった。
かつて何人をも寄せ付けなかったこの奥深い竹林を抜けて、少しづつ新しい風が吹き込んでくる。風と一緒にまたぞろ天狗あたりが姫の話を目当てにやってくるかもしれない。
それら諸々の移り変わりを、輝夜は楽しんでいた。
生の根源的なところで変化を拒否した私が、おかしいかしらね――。
軽く自嘲して、永遠と須臾の姫君はまた盃を傾ける。
◇◇― ―◇―◇― ◇◇―◇―
「……」
風呂場。
鈴仙が硬直中である。
原因は、彼女の目の前にあった。
「…………」
そりゃあ言いましたよ。「他に洗って欲しい子いるー?」って。
そしたら現れました。目の前にさらりと腰掛けましたよ。洗って欲しい子が。
子、か?
「……師匠、なにやってるんですか」
想定外のサイズ。
想定外の凹凸。
出現したボデーは兎のそれではなく、月の頭脳にして鈴仙の師匠――八意永淋のものであった。
鈴仙の脱力的な問いかけに永淋はすまし顔で振り返り、
「なにって、洗ってくれるんじゃないの?」
「いやあの、そうじゃなくて……」
「なに?」
「……………………なぜ師匠に兎耳が?」
そう兎耳。
月の民ではあっても断じて兎ではない永淋の頭に、他の兎たちと同じ長い耳がにょっきり生えていた。
「それは手段を訊いているのかしら。それとも目的?」
「……まずは手段を」
「もちろん、不思議な薬で」
「師匠に毒や薬は効かないはずでは?」
「そこが不思議なのよねぇ」
いいのかその不思議。
「それじゃあ、目的は?」
「だから、洗ってもらおうかと」
「…………、」
「ほらほら、早く。姫がお待ちなんだから」
「早くっていうか、そもそも無駄に手間を増やしてるだけだと思うんですが……」
「つれないわねぇウドンゲ。せっかくあなたが悦ぶと思ってこんなモノを生やしてみたのに」
その言い方やめてください。
「師匠に兎耳が生えて、なんで私が喜ぶんですか」
「あら、好きでしょ? あなたの趣向くらいお見通しよ」
「わ、私は別に……」
「 ノシ 」
耳振るな。
「そ、そんなことより、とにかく洗っちゃいますよ。耳、あんまり動かさないでくださいね」
「 _ _ 」
速成の耳でもちゃんと思いどおりに動くあたり、さすがといえばさすがなのだが。
深く考えるのは色々と虚しくなりそうなのでやめ、とにかく鈴仙は永淋の兎耳にそっと手を添えた。
「――はふんっ」
「へ、変な声出さないでくださいよ!」
「あらごめんなさい。ちょっと慣れないものだから、くすぐったくて」
そりゃ慣れないでしょうよ。
「……やりにくいので、なるべくこらえて欲しいんですけど」
「努力するわ」
「それじゃ失礼して洗いま、」
「ひふんっ」
「……だから、」
「はゅんっ」
「……」
なんというか、こう。
天才で不死身で美人でスタイルも良くて、なにかとアレな点はあるにせよ日頃から敬愛の対象である師匠が、自分の指先ひとつで悩ましげーにタオルを咥えながら身をよじる様というのは、なんというか。こう。
「…………」
「 ノシ 」
よく見ると永淋の耳は、一般的な地上兎のそれとは微妙に異なっているようだった。
全体にやや細身で毛足が長く、色も純白よりわずかに銀色を帯びていて、それが永淋自身の髪によく映えている。手触りにしても柔らかさより毛並みの方が印象的で、洗っていて指の谷間などをくすぐられるとむしろ鈴仙の口から甘い息が漏れてしまう。
てゐの耳が「無垢」だとすれば、これはやはり「瀟洒」というべきか。
「――――……」
てゐのものとは別路線の、これは、逸品かもしれない。
「ウドンゲ? 手が止まってるわよ」
「――あっ、す、すいません」
「やふゅんっ」
いかん、いかん――鈴仙は頭を振る。へにゃへにゃの耳も一歩遅れて揺れる。
師匠の思惑どおり、耳に魅了されずにはいられない自分が恨めしかった。
……ああ。それにしても。
「 ノシ 」
見れば見るほど……。
「 ノシ 」
――――……。
かぷ。
「――ぁひふんっっっ!!!???」
鈴仙、ぷち狂った。
虚ろに紅い眼をした月兎の歯が瀟洒な兎耳に甘く食い込み、永淋の背が若竹のようにのけ反った。
普段の鈴仙からすれば、破格といっていい暴挙である。
しかし、そのような暴走もやはり長続きしないのが彼女の美点であり――また、不幸な点であったかもしれない。
「……はっ!?」
我に返った鈴仙は、慌てて口を離した。
解放された兎耳が、よだれの糸を引いてくたりと崩れ落ちる。
「あ、ああああの、わたっ、私っ……!」
「…………」
「えっと、し、師匠……?」
永淋の背中は無言。
しかしその沈黙の中で危険な何かが急速に圧縮されてゆくのを、永遠亭きっての敏感バニーは肌で感じていた。
「――優曇華」
「は、はい」
永淋の形をした危険が、ゆらりと振り向く。
鈴仙に向けられたのは、柔らかい月光のような笑みだった。
「悪い子ね。指だけでは物足りずに口まで使うなんて」
「ご、ごめんなさいっ! でもあのちょっとその台詞は他のイナバに誤解を」
「ああ……まさか優曇華がこんな事をするなんて。兎鍋の撲滅に血道をあげていたあの頃のあなたは何処へ行ってしまったのかしら?」
「いやあの今の行為はそういう猟奇的な意味ではな」
「やあねえ優曇華。他のイナバなんてみんなとっくに上がってるわよ」
「あ、ほんとだ。って師匠、なんだか音速が狂ってま」
「そういうわけだからあなたを洗ってあげられるのは私だけよね。ふ、うふ、うふふふふふふふふ」
「や、ちょ、師しょ、」
なんかぬるぬるした動きで鈴仙に迫る永淋。
ずるずると永淋から遠ざかろうとする鈴仙。
「さあ、うふ、さあさあさあ遠慮しないで。ギブ&テイクは風呂場の掟なのよ!」
「ひっ!? こ、こうなったら……、師匠ごめんなさいっ!」
「あら綺麗な紅い眼。どうしたのそんなに見つめて誘ってるのフフフ」
うわーい。狂気の瞳を平然と見つめ返すなんてやっぱり師匠は凄いなあ。
◇◇― ―◇―◇― ◇◇―◇―
「あの二人、遅いわね……」
大座敷の上座で、姫はぽつりと呟いた。
すでに兎は皆が集まり、話が始まるのを今か今かと待ちわびている。
「ふむ」
兎の群れを見渡す。
前回の物語りの途中で寝てしまい、話の結末を聞き逃してひどく悔しがっていた兎が、持参してきたとびきりの渋茶をしかめっ面で飲み干している。
やり遂げた表情で湯飲みを置いたところで兎の少女は姫の視線に気付き、照れ笑いを浮かべながら姿勢を正した。
「――まあいいわ。始めちゃいましょう」
酌をしていた兎を下がらせると、輝夜は傍らに置かれた鈴飾りを手に取る。そして――しゃん、とそれを鳴らした。
開幕のベルだ。
兎たちの耳が、次いでその下の顔が、揃って姫に向き直る。行商に余念のなかったてゐも、商売道具をその場に置いてちょこんと座る。
一瞬の沈黙のあと、兎たちは一斉に、両手と両耳で拍手した。
――永夜のうちの一夜。さりとて零にはあらず――
粒ぞろいの観客たちに淡い笑みを返し、輝夜は今宵の語りの幕を開ける。
「これは、私の友達の友達が実際に経験した話なんだけどね――」
◇◇― ―◇―◇― ◇◇―◇―
ずるずる。ぬるぬる。
「いやあの師匠ほら、私の耳はこんなですから。別に洗わなくても抜け毛なんて、」
「じゃあ尻尾ォォォォォォォッ!!」
「超ヤブヘビーーーーーーーーーっ!?」
~続くけど書けない。もちろんせ(ry~
夜は、永いもんだ。色々と(笑)
そして、あの二人もいいなぁ。