「しょくざい、したいなあ、ようむで」
妖夢が、主である幽々子の呟きを聞いたのは、宵闇が辺りに満ち始めた頃だったろうか。まな板の上で、もしもキャベツが人間であればはち切れんばかりの悲鳴をあげているだろう速度で包丁を動かしていた妖夢は、思わず手を止めてしまったのだ。
「……食材? したいなあ? 妖夢で?」
主の言葉を反芻してみた。額を冷や汗が伝った。自然と口元に笑みが零れて、がたがたと肩が震えた。膝が笑った。
白楼剣と楼観剣を携えた妖夢が白玉楼から逃げ出したのは、その数瞬後の事である。冗談ではなかった。断片的な言葉ではあったが、意味は充分に伝わった。彼女だって(半分とはいえ)まだ死にたくは無い。
喰われて溜まるかァァァァァーーーーー! などと叫びながら、彼女は現世目掛けて駆け出したのだ。
後ろから追ってくる主の言葉に耳も貸さなかった。
「ようむー! 待ってよー!」
「待ちませんッ!」
「ようむー! 晩ご飯はどうするのよー!」
「う。……ごめんなさいすいません勘弁して下さいッ!」
「ようむー! しょくざい、されたくないのー?」
「――当たり前ですよォォッ!」
「ええーっ! 折角、私が腕によりをかけて、妖夢のご飯つくってあげようかと思ったのにー!」
「え? ――だ、騙されませんからねッ! だだだ騙されないからァァァ! そんな甘い言葉は危険! 危険が危ないッ! きっと妖夢“で”ご飯つくってあげようかの間違いッ……!!!」
「ようむー! 待ってったらぁ~! どうしたのよ~?」
おおよそこんな感じで追いかけっこする事、数刻。
二人はいつの間にか神社の鳥居の前まで来てしまっていた。そこで境内の掃除をしていた巫女の後ろに、ぴたりと隠れる半泣き侍。
「わっ! い、いきなり何よ?」
と驚く霊夢をよそに、
「助けて下さい! 危険が食材で食べられちゃうんですっ!」
「落ち着きなさいよ……食材?」
上目遣いで喚く妖夢の言葉に、ぎらりと霊夢が反応した。瞳が爛々と輝いているのを見て、妖夢が竦み上がる。
「……あ……いや、その」
「ああ、別に教えてくれなくてもいいのよ? 針山にされたいならだけれど」、と呟いた時には、目にも留まらぬ動きで妖夢の喉もとに針を突き立てている。霊夢はあくまで笑顔、そして淑やかだった。その動作は妖夢の心を鉈で真っ二つに割るように冷たく、まるで容赦が無かった。相手を脅迫するにおいて、最も効果的且つ冷酷な方法を躊躇いなく実行に移す霊夢からは、食に対して並大抵ではない執着が感じられた。
ぽたり、と雫が落ちる音がした。それは妖夢の体から流れ出る滝のような汗が、顎先から地へとダイブする音だった。今までぶっ通しで走ってきたというのもあるが、その汗がどこか冷たい。冷たいだけでは無く何だかねばっとしているような、怯えの涙も少し混ざっているような、というか顔をぐちょぐちょにして泣いている。
「…………ひっく」
「おらおら、早くなさいよー。晩ご飯ー、晩ご飯ーっ」
最早アウトローと化して機嫌良く歌う霊夢の前で、ざしり、と砂を踏む音。
「ふう、ふう……もう、ようむったらー」
涎を垂らしている幽々子様が光臨なされました。
「…………ひっく、ひっく」
妖夢の思考は散り散りになってしまっていた。主人公格に羽交い締めにされて、6面ボス格に蛇睨みされているというこの絶体絶命の状況で、冷静な思考など出来るはずも無かった。損な役回り大杉だぜフゥーハハハハー、なんて頭の中で機関銃の音が響いて涙が零れるのも無理のないことでせう。そして霊夢は云つた。
「手前! 如何なる用にて参つた。否、寧ろ詣れ」
「あらゝゝ此方、妖夢を囲つて於ゐて……屹度豪奢に脂の載つた肝を納めてゐるに違い在りませんことね。FUCK!!」
「動くな! こいつがロースト妖夢になっちまっても知らねえぞ!」
「むむ、人質とは卑怯な! この外道巫女め!」
「HUHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA! その台詞を吐けば勝てる、なんてベタな展開は、最近じゃ通らねーんだよ!」
「……むううう。落ち着け、落ち着けユユコ。落ち着いてコックピットだけを狙うn」
※ ※ ※
パソコンの乗せられた机から、人間は立ち上がった。
ふらふらと洗面所まで歩くと、そこに置いてあったコップを掴み、水道水を汲んだ。それを自らの頭にぱしゃりとかけた。
そして、「何書いてるんだ私は、私は落ち着け、落ち着いた私、私は落ち着いた、うん。……あ、もう朝か」と呟いて再びパソコンに向かって文章を訂正し始めた。
※ ※ ※
時間はほんのちょっと遡って、
「…………ひっく、ひっく」
妖夢の思考は散り散りになってしまっていた。主人公格に羽交い締めにされて、6面ボス格に蛇睨みされているというこの絶体絶命の状況で、冷静な思考など出来るはずも無かった。なんか私、損な役回り多くないだろうか、最期まで本当に損な役回り……なんて思ってしまうのも無理のないことである。
そんな涙目の妖夢を余所に、霊夢は幽々子を睨みつけて言った。
「あんた、何の用事で来たのよ! たまには賽銭入れてきなさい!」
「あらあら霊夢。私の妖夢を泣かせておいて……貴方はきっと脂の乗った肝臓しているわね、美味しそう。……妖夢を返しなさい!」
ちくり、と霊夢が妖夢の頬に針を寄せて、妖夢が竦み上がった。
「おっと。動くとこの子の可愛いお顔に傷が出来ちゃうわよ? ……さあ、食材って何か教えなさいっ!」
「くっ! ……この外道巫女!」
「あっはははははははは! この勝負、決まったも同然ね!」
「……むう。何か別の、別の方法があるはずよ。こんな絶体絶命の状況を覆す勝利の方程式が」
幽々子は呟きながら辺りを見回してみた。桜が綺麗に咲いていた。モンシロチョウが飛んでいた。ハルジオンが花開いていた。何故か七草粥のことを思い出してぶんぶんと首を振った所で、彼女は妖夢を取り戻すための、一か八かの賭に出る覚悟を決めた。ぴんと指を張り、霊夢の後方を指差し、
「あっ、あんな所にホタテのバター焼きが!」
「えっ、どこどこ?」
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「――あ!」
恐れも限界だったのだろうか、妖夢は泣き叫びながらも、僅かな隙を逃さずに霊夢を突き飛ばした。倒れ込みながら、「しまった」とでも言いたげにその手を伸ばす霊夢。
幽々子はほくそ笑んでいた。こうも賭がうまくいくとは思いもしなかったが、ともあれ成功した。主従、感動の再会である。
「ようむー!」
抱き合って離すまいと広げた幽々子の手とは反対の方向に、妖夢は駆けていく。
「……あら?」
「助けてェェェー!」
「ま、待ちなさいッ! 食材!」
霊夢が起き上がって駆け出す。
それをぽけーっと、手を広げたままの状態で眺める幽々子。
数秒後に、はわわ、と慌てて二人の後を追いかけた。
「ま、待ってよ~! ようむー!」
昼でも薄暗い森の中を、真夜中に駆け抜けるマジ泣き侍。妖夢は楼観剣と白楼剣も何処かに落として来てしまっていた。余裕も無ければ明日も無いと訴える顔。今を生きる為に必死なのである。その瞬間に背後で、
ざざ、
と草を掻き分ける音が聞こえて、追いつかれたのかと思った妖夢は再度竦み上がった。大粒の涙がこぼれ落ちる。
「誰かァ、誰か助けてェっ!!」
走りながら叫んだ。声は虚しく木霊した。誰も彼女を助ける者などはいないのだ。そう、誰も。
がさり、
と、目の前の草むらで何かが動いた。
先回りされたのだと勘付いた時には遅かった。妖夢の本能が張り詰めた一本の線のように伸びきり、足を止めてしまった時、“それ”は茂みから飛び出してきた。
――終わってしまった。
恐怖の余りに瞳を閉じて、妖夢は遂に諦めてしまった。体から力が抜けて、ぺたりと座り込んだ。
幽界から神社へ、神社から薄暗い森の中へ、数刻も走り通してきた彼女は疲れ切っていたのだった。思考することすらままならない。
もうどうでも良くなっていた。口元に自虐的な笑みを浮かべると、ふふ、と自嘲が零れた。
「……もう、好きにして」
なんて言ってみて彼女が涙を零すと、目の前に飛び出てきた相手は素っ頓狂な声をあげた。
「あれ? あなた誰?」
妖夢が聞いたその声は、霊夢の物でも幽々子の物でも無かった。ぱちくりと目を開けてみると、
「――あ、あれ?」
目の前に居たのは、黒いスカートの裾をひらひらと揺らす少女だった。くりくりとした目で妖夢を眺めて、金色の髪には可愛らしいリボンを飾り付けて――ルーミアは首を四十五度に傾げて笑っていた。
妖夢は呆然と座り込んだままであった。数秒経って、霊夢にも幽々子にも追いつかれていない現状をようやく理解できた。
「――た、助けて下さい! 追われてるんです!」
自分よりも背の低いルーミアに抱きついて、妖夢は涙目で懇願する。恐怖が頭を支配し、体を突き動かしていたのだ。恥じらいなど感じる暇も無かった。
ルーミアは至って無邪気そうな顔で、
「え、どしたの?」
と悠長に聞き返す。
「だから追われてるんですッ! 幽々子様に、霊夢にぃ!」
「そーなのかー。なんで追われてるの?」
「食べられちゃいそうなんですよぉっ! 二人して私を食べようと――」
「へえー。貴方っておいしいの?」
さらりと耳を抜けた言葉を、妖夢はいつまでも反芻していた。
貴方っておいしいの?
貴方っておいしいの?
貴方っておいしいの?
貴方っておいしいの?
貴方って お い し い の?
レジスターが勢いよく開くような音と共に、望ましくない死亡フラグが立った。
ルーミアの胴に抱きついたまま、妖夢はがたがたと震えていた。ぽたり、と頭に雨粒のように垂れたのはルーミアの涎だった。
「ねえねえ? 貴方っておいし――」
「ひゃあああっ!!!」
妖夢はルーミアを突き飛ばし、素早く抜刀した。もたらされた安堵は僅かな内に破られてしまったのだったが、それは死の恐怖から逃げようとするだけの気力を妖夢が取り戻すのに充分な時間があった。立ち上がるルーミアを、ぎらりと睨みつける。妖夢は、もしも再度飛び掛かってきた時は躊躇いなく相手を斬れる目をしていた。もう下がれる余地は無いと踏んだのであった。
目の前のルーミアは無邪気な目をして嬉しそうな顔をしている。ご馳走を前にして待ちきれない顔だ。
妖夢は正眼に構えると、妙な違和感を覚えた。それが何なのかは分からなかったが、吹っ切れて高揚している彼女には関係無いことのように思われた。獰猛に笑いながら刀を握り直す。
しかし握り直す刀が無かった。
にへらーと笑うルーミアを前に少し冷静になってみた。妖夢がルーミアと出会う前の地の文に、しっかりと『妖夢は楼観剣と白楼剣も何処かに落として来てしまっていた。』なんて書いてあった。つまり刀を抜いたと思ったのだが、妖夢は今、素手だったようだ。ははは、なんてこと書いてくれやがるんだこのファッキン造物主と妖夢は凍る笑顔と共に思わざるを得なかった。
ルーミアが両手を合わせて、食前の礼をとる。
「いただきまーす」
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
「そこまでよッ!」
ずしゃり、と霊夢の跳び蹴りがルーミアの背中を直撃した。
吹き飛んで、転がって、ルーミアはクヌギの大木にぶつかって止まった。
ふん、と鼻を鳴らして笑う霊夢。
「あんたなんかに、晩ご飯を渡す予定は無いわ!」
「……いたいなあー」
ルーミアはギャグ特有の頑丈さで立ち上がる。涙を流しながらも涎を垂らすその表情は、妖夢に対する執着がちっとも冷めていないことを物語っていた。
霊夢は霊夢で妖夢を晩ご飯と呼んでしまっているしで、妖夢はひたすら竦み上がるしか無かった。
「はあ、ふう……よ、ようむー。おいてかないでよ~」
そこに、息を切らした幽々子も到着した。
三者は妖夢を取り巻いて、魔のトライアングルならぬ食のトライアングルをつくりあげていた。もうどうにもこうにも逃げられそうにない。
「……ふふ。あははは。……あは」
妖夢は笑っていた。というよりは、こういう局面を迎えた時に、弱者は笑う以外に何をどうすればいいというのだろう。
展開の早さについていけなかった。己の不幸な境遇を理解したくなかった。妖夢は笑うしかなかった。
「……もう煮るなり焼くなり好きにしろォッ! どうぞ私を食べて下さいよ、ええ!」
ヤケクソになって叫ぶと、胡座をかいて腕を組み、成り行きに任せた。取り囲むルーミア、霊夢、幽々子は三者三様の反応をする。
「はーい。いただきまーす!」
「晩ご飯は私の物よッ!」
「え? なんで妖夢を食べないといけないの?」
空気が凍り、全員の視線が幽々子へと向けられた。
妖夢は恐る恐る、幽々子に尋ね返してみた。
「……今、なんて仰いました?」
「え? ……なんで、妖夢を食べないといけないの? だけど」
「だ、だって、幽々子様……しょくざい、したいなあ、ようむで……なんて一番初めに言ったのは幽々子様じゃありませんか?」
「ええ。言ったわよ」
「じゃ、じゃあなんで!」
すると幽々子は首を傾げて、こう言った。
「……私は日頃の殺生も度を過ぎるかなと思って、“贖罪”したいと言ったのよ? ようむで」
※ ※ ※
しょくざい 【贖罪】
(1) 金品を出したり、善行を積んだりして、犯した罪をつぐなうこと。また、刑罰を免れること。
(2) キリスト教で、人々の罪をあがない、人類を救うために、イエス-キリストが十字架にかかったとする教義。和解。
――goo辞書より転載。
※ ※ ※
なんという強引な勘違い……!
と妖夢は冷や汗を垂らしながら思った。
「そ、それじゃあ幽々子様……もしかしなくても私、勘違いしてました?」
こくりと頷く幽々子。
「……私、妖夢にいつも迷惑をかけていたわ。際限なく殺生をして、料理を口に入れてしまう……このままじゃいけないと思ったの。妖夢と同じように慎ましい食生活を心がけようと思ったの。そこで、それなら妖夢になりきってみようかと思って、」
食事の支度も庭掃除も洗濯も、一週間自分でやってみたいの。と目の前の幽々子は言い終えた。その瞳に邪気などは一片も無い。
対峙する妖夢は、だらりと肩の力が抜けてしまっていた。何故なら、ほんの数分前まで晒されていた死の恐怖から逃れることが出来たのだから。
でも、神社で涎を垂らしていたのはどうした訳だろうと思って聞いてみると、
「え? 私が涎を垂らす訳ないじゃないの。きっと汗を掻いていたのを見間違えたんでしょう」
とのこと。
妖夢は全身に満ちる安堵の他にも、別の感情を覚えていた。ひやりと冷たくて、居てもたっても居られなくなるような恥ずかしさがあって、
「すいませんでした幽々子様ァ! ……従者たる私が主を信じられなかったなんて、私は……私は……」
妖夢は土下座して謝っていた。口をへの字にして、瞳をうるうるとさせている。
対する幽々子は、ふっと笑って、
「いいのよ、いいのよ妖夢。誤解を招くようなことを言った私が悪かったのよ。……ごめんね」
和解した二人は抱き合った。しっかと互いの背中に手を回し、体の暖かみを分け合った。
そう、他人の視線も気にすることなく。
「ねえねえー、その子食べちゃいけないのー?」
「……つまり、晩ご飯って勘違いなの?」
ルーミアと霊夢があからさまにテンションダウンした顔で尋ねた。
幽々子は、そうなの、と返した。
「そうなのかー」
ルーミアは残念そうに納得した。がくりと肩を落とした。
しかし横にいる霊夢は、未だ晩ご飯を諦め切れない様子である。拳をうならせて、
「貴方たちの勘違いで何時間も追いかけっこするハメになったんだから、弁償するべきでしょ!? 例えば、白玉楼で晩ご飯を馳走するとかっ!」
「幽界まで飛んでくと明日になっちゃうわよ」
「う」
幽々子に諭されて霊夢撃沈。
しかし罪悪感を覚えていたのか、幽々子は少し思案顔であった。ちょっと首を傾げて考え込んで、やがて閃いたのか、ぽんと手を叩いた。
ルーミアを指差し、
「……それなら、その子を晩ご飯にすればいいんじゃないの?」
微笑むと、幽々子は妖夢を連れて幽界へ飛び立っていってしまった。
霊夢はちらりと横を見た。
そこには話の内容を理解できずに、にへらーっと笑ってごまかそうとするルーミアの姿があった。
その後、空腹の霊夢は、
どうしたんだー!
あと書き忘れ報告。
>>それが何なのかは分からかったが
→それが何なのかは分からなかったが
しかしギャグはいつまで経っても上手に書けない。誰かコツをおせーて欲しいです。
るーーみあーーーー!?
ルーミアァァァァァ!!!!!