朝、私はいつも館の周りを歩くようにしている。紅魔館には素敵なことが沢山あるけれど、その中でも最も素敵なお嬢様は、朝になると見かけることができなくなる。
それでも私は、朝の紅魔館が好きだった。
履き替えたばかりの厚めのソックスが、ブーツの中を満たしている。仕事には向かないそれも、今みたいな時間には硬くなった体を解してくれた。
館の周囲に茂った背の低い草たちの上を歩く。五月初旬の朝陽は白味が強くって、暖かいというよりも「朝だぞ」と自己主張しているみたいで、微笑ましい。
そんな陽射しが館の赤い外壁に当たり、明るい赤も暗い赤も光に溶け合っている。まだ冷たい外壁に私は手を当て、そのまま壁沿いに歩き始めた。
幻想郷の太陽も、外の太陽とは違うのだろうか。考えてはみたが、外では微笑ましいなんて言葉も使った覚えが無かったから、すぐに止めた。
角を曲がった先には前庭が広がり、花々が彩りも豊かに陽射しを迎えていた。その様子を見られるのは朝と昼下がりに限る。真昼には背の高い門の影が前庭にかかってしまうからだ。
館の中でなら私はいくらでも空間を弄っていたが、それを外でも無闇矢鱈にしてしまっては興を削ぐことにもなりかねない。
「面白きことも無き世を面白く」
ふと思い出した言葉だったが、それは誰かの辞世の句だった。
今も昔も、面白いことは山ほどあると私は思う。今だからそう思えるのではなく、以前からのことだ。つまりは、私だけが面白くない人生なのだと考えていた。
今でさえお世辞にも自分が面白い人生を送っているとは思えないのだが、わざわざつまらない気持ちになろうとする悪癖は無くなったようだ。
最近ではつまらないことに熱心になれる人を見ると、唇の端が吊り上がるまでになっている。
その最たる例がお嬢様なのだけれど、私の場合、大半の事例の一番上にはお嬢様が優雅に足を組んだ格好で座っている。これでは参考にならない。
パチュリー様や妹様も、本人にしてみればさぞ面白いことをしているように見受けられる。
霊夢や魔理沙などは、そもそも周りのことを気にしていない。
その点、門柱に寄りかかって腕組みをしながら欠伸をかいている門番の美鈴ときたら、誰がどう見てもつまらなさそうだ。
そのくせ私が声をかけると、
「おはよーさんでーす」
と楽しげに返してきた。こういうとき私は、彼女が妖怪なのだと再認識させられる。
私は口元が緩むのを誤魔化しながら美鈴に手を振っただけで、館の中に入った。
午前中の余暇を睡眠に充て、自室で食事を取る。パンにサラダとハムを挟んだだけの軽いものだ。
昼間の館は静けさの他に閑散とした雰囲気があって、時折聞こえる鳥やメイドの声が際立つ。パン屑を食器に落としながら、それらの音に耳を任せる。
私には孤独な時間が多い。好き好んでそうしているわけではなくって、こうも館が広いと、必然的にそうなった。
人恋しいとは思わなくても、自分に与えられた時間について考え込むことはある。
私はお嬢様との時間さえあれば十分だけど、お嬢様はそうではない。時間は思い通りに操れても、時間の使い方までは無理なのだ。
紅魔館での私の時間は思いの外に使い道が多くて、持て余すこともある。そういうときは手元で済ませられることに充てるようにしている。
館の掃除などは決まった時間に決まった分を終えられるし、急な用事で時間内に終えられそうになかったら、時間を操れば良い。
今は食器を片付けてから、洋服の繕いをしていた。近頃はこれといった異変も無く、私の服はあまり傷んでいない。針を通すのは他の子の予備ばかりだ。
面倒臭さは無いけど、傷み方によっては呆れることもある。袖口や裾、襟首とかならわかるけれども、肩口が取れそうになっていたりするものがザラにあった。
「いっそノースリーブにしてあげようかしら」
詮無いことを口にして、かけた眼鏡に手を遣る。スカートの上にノースリーブでは、メイドではなくアイドルになってしまうだろう。
考えながらの作業を続けている内、段々と手元が暗くなってきた。日課の廊下の掃除を、そろそろしておかなければ。
私は取り掛かっていたものを手早く仕上げ、糸を切った。
部屋の外に出てみれば、館内はにわかに騒がしくなっていた。外に出ていたメイド達が帰って来たり、自分の分の片付けを急いで終わらせているのだろう。
私は掃除箇所へと向かう道すがら、仕事を手伝ってくれそうなメイドに声をかけていった。コツとしては、たったこれだけのことをすれば良い、と相手が思えるように頼めば良い。
大まかな部分は自分でやった方が早いし、メイド長とはいえ強引に仕事をさせる気も私には無い。放っておいても何かあれば自分から動いてくれる子も多い。それが仕事とは限らない所が、気を揉ませるのだけれども。
仕事の合間に窓から門の方を窺ってみると、美鈴が休憩がてらに傍にいた者達に茶を振舞っていた。茶器を演舞みたく振り回しつつ茶を注いでいく様は楽しそうだ。
あまり調子に乗られても困るので、適当な所で私はナイフを美鈴に向けて投げておいた。それを避けてから美鈴は頭を掻き、私と目を合わせてから仕事に戻っていった。
お嬢様が起きる前に済ませるべきことは全て終わり、いよいよ夕暮れが訪れる。館の壁には継ぎ目から影が染み出し、壁中に行き渡り始める。
短い夕暮れの後には夜が来る。お嬢様のためだけの時間が、これから始まるのだった。
「お休みなさいませ」
もう聞こえてはいないだろうが、私は意識して声に出し、お嬢様の寝室から出た。
私のお嬢様との時間は眩いばかりで、後になってから具体的に思い出そうとしても、まるで空白でも空いたかのようになってしまう。だからこそ、その時間は貴重だった。
そして朝が訪れ、私は自室で身なりを直してから館の外に足を伸ばす。天気は生憎の雨だったが、朝陽以外のものが空間を埋める朝というのも、私には価値があった。
お嬢様が入っても大丈夫な大きさの傘を私のためだけに差し、ブーツの爪先を濡らす。
門柱では天気に関わらず美鈴が欠伸をかいていて、如何にも妖怪らしい暢気さだった。
「おはようございます」
少しは気分が落ち込んでいるらしく、言葉遣いは丁寧だった。いつも被っている民族色豊かな帽子には水が溜まっていて、長い後ろ髪は萎れていた。
「おはよう。いつも思うんだけど、傘ぐらい差したらどう?」
「弾が当たったら破れちゃうじゃないですか」
「それぐらい、私が」
言いかけてから、私は言葉を続けるのを止めた。
「まあ、良いわ。門番らしく、雨にも負けず風にも負けず、ついでに鼠にも負けないよう、頑張りなさいな」
「そうさせてもらいます」
美鈴が門の外に向く。その先の湖は雨に打たれて表情を暗くしていた。
こういう朝も私は好きなのだろうか。私は自問して、時間を止めた。
背もたれにクッションの付いた椅子を一つだけ用意し、再び時間を進める。私から傘を手渡された美鈴は何事かと眉を顰めたが、構わずに私は椅子に腰掛け、足を組んだ。
「昼まで寝るから、ちゃんと濡れないようにしておいてよ」
「……私が?」
「他にいないでしょう。私がこうしていれば、お客も無茶なことはしないわよ」
それだけ答えて、瞼を閉じる。傘に当たる雨の音が、しずしずとした歩調で眠気に近付いていく。
私もつまらないことに熱心だ。素敵な朝を楽しむには、それも必要なのだった。
確かにこの雰囲気はどこかで、とも
静の中の動、ていうんでしょうか。重い腰を、ゆっくり上げる、みたいな書き方がステキ