「ここにいたんだ」
背中から声が聞こえた。気安く穏やかな、それでいて品のある美声。振り向かずとも、いや、声を聞かずとも妹紅が来たのだとわかる。私はずっとこの場所にいるし、妹紅以外に毎日訪ねてくるような者はいないのだから。
こくりとだけ頷き、私は眼下へと眼を戻した。どこまでも広がるのは、地平線までも埋め尽くさんと林立するビルの群だ。私が立つのは、その中でも一際高い、数百メートルには達しようかというビルの屋上。ここからの眺望はただ無機質で、それ故に美しい。
カチカチと、針の進む音までも聞こえそうな静かな時間が刻まれることしばし。私は毎日恒例の観察を終えると、漸く妹紅に向き直った。縁に腰掛けて頬杖をついていた妹紅は、私を認めると微かに笑み、手にしていた本を閉じる。退屈だっただろうに、文句一つ言わずに待っていてくれるのが有り難い。
「すまない、待たせたな」
「別にいいよ、時間だけは幾らでもあるからね。それより、何か飲むものない?」
「ああ、喉が渇いただろう。お茶とお茶請け、いるか?」
「待ってました。お願いしようと思ってたんだ」
「そう思って準備はしておいた」
「お見通しか」
以心伝心とはよく言ったものだ。長い時間を共に過ごしたせいか、今では妹紅の思考と行動が手に取るようにわかる。妹紅にしてもそれは同じだろう。
妹紅は茶筒を手に取り、屋上の縁に腰掛けた。リボンにもんぺ、すべらかな長髪という変わらぬ姿。時代を考えればアナクロもいいところなのだろう。もっとも、私は私で箱帽子に縁取りをあしらったドレスだ。人のことは言えないかと、内心苦笑する。
紅の夕陽が街並みと私たちを照らし出す。
冷たい風の音がビルの谷間を吹き抜ける。
「綺麗だね」
縁に並んで腰掛けると、湯呑を弄んでいた妹紅がふと呟いた。
「ああ」
「だけど、寂しいよね」
「……そうだな」
建物が果てなく続く様は壮観だ。だが、主が――人が住まない家屋はどこか物悲しく、瞬く間に寂れゆく。木と紙から出来ていようと、鉄から成っていようと同じことだ。目を凝らせば、あるビルの壁面は頗割れ、またあるビルは半ばから折れ粉々に朽ちている。昔、路面と建物を埋め尽くしていたであろう人の姿は欠片も見当たらない。
「今日は誰か見かけた?」
「残念だが、誰も。妹紅はどうだ」
「さっぱりだね。結構あちこち飛んでみたけど、全然だよ」
「そうか」
はあ、と。我知らずの内に溜息をついてしまう。その溜息を聞く者は、私と妹紅以外に見当たらない。
――世界がこうなってしまってから、もう隨分と経つ。
何があったわけでも、誰が悪かったわけでもない。私が歴史を覗いても、はっきりした理由は何一つ見つからない。
ただ、人はいつしか緩やかに数を減らし、一人、また一人と消えていった。
ステラーカイギュウ、リョウコウバト、トキ。
数多く存在しながら、あっさりと絶滅してしまった動物たちのように。今では、残っている者がいるのかすら解らない。
ただ静かな破滅。
どこまでも穏やかな衰亡。
博麗大結界の意味が失われた世界。
そんな世界を、私は未練がましく彷徨い見守っている。
「……ね、慧音」
後ろ手をついて空を見上げ、妹紅が声をかけてきた。
「そろそろいいんじゃない? 悲しいけど、多分もう誰もいないんだよ。どこかで二人、静かに暮らそうよ」
「……」
妹紅の言う通りかもしれない。
いや、おそらくそうなのだろう。だが――
「……今日は駄目でも、明日があるかもしれない。街に誰もいなくても、小さな島や隠れ家までそうとは限らない。だから、まだしばらくは続けるつもりだよ。ただ、ね」
「ただ、何さ?」
「妹紅に迷惑をかけているのは確かだし、すまないと思う。毎日手伝ってくれるのは助かるし、嬉しいけれども、もし負担ならいつでも言って欲しい。無理をさせるようなことだけは――」
「はいそこまで」
私の言葉は半ばで遮られた。
妹紅は腰に手を当て、朱の瞳で私を睨む。
「そうやってすぐ自虐的になるんだから。迷惑ってことなら、私は慧音にどれだけ迷惑かけたか知れやしないよ。それにさ」
強気が一転、ふう、と寂しげに息をつく。
「考えてみれば、他にやることがあるわけじゃないんだよね。あいつも月に帰っちゃったし、そもそも幻想郷が無くなっちゃったし」
その通り。外の世界がこうなったと同時に、博麗大結界は砕け、幻想郷は消え去った。
思えば当然だ。つまるところ、幻想は現実という対立項があってこそ存在し得たのだから。人々が外の世界から消えてしまった時点で、幻想郷と外とを分け隔てる理由は無くなったのだろう。
それから幾星霜。
博麗の巫女、黒い魔法使い、紅魔館のメイド、懐かしい彼女たちはとうに亡い。
人より遙かに長い時を過ごす妖怪たちも、眠りにつき、何処かへと消え、故郷へと去った。
朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける
知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る――
ふと、そんな言葉を思い出す。なるほど人も妖も、永遠の時から見れば同じく泡沫のようなものかもしれず――
「……慧音、どうしたの? ぼうっとしちゃって」
妹紅の訝しげな声が物思いを破った。慌てて意識を戻し、声を返す。
「……あ、すまない。何でもないよ」
「ならいいんだけどね。そういえば、前から不思議だったことがあるんだけど」
「何だ?」
「慧音は何で、残った人を探すのにそんなこだわるのさ。人間が好きなのは知ってるけど、ちょっと入れ込みすぎな気もするよ」
そのことか。
そういえば、妹紅にきちんと説明したことはなかった。私にとってはあまりに自明のことだからだ。話しておくのも良いだろう。
「私が歴史の幻獣だからだよ。人であれ妖怪であれ、紡ぎ手が存在している限り、私はその者たちが作り出す歴史を記憶し続けなければいけないんだ」
「世界が終わりそうでも?」
「勿論だよ。いいかい、妹紅。人や妖怪がいなくなっても、世界は終わらないんだ。仮に私と妹紅がここで消えても同じだ。世界の存在と、人妖の存在には関係がないんだよ」
でもね、と一息ついて続ける。
「歴史はそうはいかない。出来事を記録し再構成し、物語る者がいなければ終わってしまう。だから私は、残っている人を探しているんだ。その人が世界最後の一人でも、生を終えるまで、歴史を紡ぎ終えるまでは見届けたい。神獣ハクタクの末裔としてね」
だから
「だから――もう少しだけ、世界を見守らせてくれないか」
しん、と。沈黙が降りた。
妹紅は黙って空を見上げた。
私は何だか申し訳なくなって、少しだけ目を伏せた。
影法師が、長く長く、どこまでも伸び、ビルの屋上を黒々と染めていた。
一分。
二分。
三分――
そろそろ沈黙が耐え難いばかりになった時
「……はあ、そんな顔しないでよ。放っておけないじゃないか」
夕陽に顔を向けたまま、妹紅が言う。表情は、影になって見えない。
「わかった、この際とことんまで付き合うよ。ホント、昔から頑固なんだから」
「……すまない」
「あーもう、謝らないでってば。いいのいいの。私は蓬莱人だからね、時間なんて関係ないもの。のんびり暮らすのはいつでも出来るわ」
私は伏せていた目を戻す。
そこには笑顔があった。
呆れたようで、それでいて優しげな妹紅の笑みだった。
「慧音の気が済むまで一緒にいるよ。共同作業も悪くない」
「……ありがとう」
「ん」
笑みかわす。
風が吹き、ビル壁にからみついた蔦がみしりと音を立てた。その音に空を見れば、夕陽は地平線に沈もうとしている。赤く染まる妹紅が美しい。
「今日も終わりか」
「だね。慧音、そろそろ行こう。今夜休む場所を探さなきゃ」
「……そうだな」
私と妹紅は、空に向けて足を踏み出す。ふわりと、宙に浮く体。こんな時でも、空を飛ぶ力は役に立つ。
夕陽の光は、徐徐に弱くなってゆく。
やがて夜が来て、私たちは眠りにつくだろう。昨日がそうだったように。そのまた昨日もそうしたように。
世界がこうなってから、何度も何度も夜を重ね、その度にまた目を覚ましてきた。
明日は目を覚まし、また残された人々を探すだろう。
明後日も、また明後日も繰り返したいと思う。
いつか私たちも消える、その日までは。
(了)
背中から声が聞こえた。気安く穏やかな、それでいて品のある美声。振り向かずとも、いや、声を聞かずとも妹紅が来たのだとわかる。私はずっとこの場所にいるし、妹紅以外に毎日訪ねてくるような者はいないのだから。
こくりとだけ頷き、私は眼下へと眼を戻した。どこまでも広がるのは、地平線までも埋め尽くさんと林立するビルの群だ。私が立つのは、その中でも一際高い、数百メートルには達しようかというビルの屋上。ここからの眺望はただ無機質で、それ故に美しい。
カチカチと、針の進む音までも聞こえそうな静かな時間が刻まれることしばし。私は毎日恒例の観察を終えると、漸く妹紅に向き直った。縁に腰掛けて頬杖をついていた妹紅は、私を認めると微かに笑み、手にしていた本を閉じる。退屈だっただろうに、文句一つ言わずに待っていてくれるのが有り難い。
「すまない、待たせたな」
「別にいいよ、時間だけは幾らでもあるからね。それより、何か飲むものない?」
「ああ、喉が渇いただろう。お茶とお茶請け、いるか?」
「待ってました。お願いしようと思ってたんだ」
「そう思って準備はしておいた」
「お見通しか」
以心伝心とはよく言ったものだ。長い時間を共に過ごしたせいか、今では妹紅の思考と行動が手に取るようにわかる。妹紅にしてもそれは同じだろう。
妹紅は茶筒を手に取り、屋上の縁に腰掛けた。リボンにもんぺ、すべらかな長髪という変わらぬ姿。時代を考えればアナクロもいいところなのだろう。もっとも、私は私で箱帽子に縁取りをあしらったドレスだ。人のことは言えないかと、内心苦笑する。
紅の夕陽が街並みと私たちを照らし出す。
冷たい風の音がビルの谷間を吹き抜ける。
「綺麗だね」
縁に並んで腰掛けると、湯呑を弄んでいた妹紅がふと呟いた。
「ああ」
「だけど、寂しいよね」
「……そうだな」
建物が果てなく続く様は壮観だ。だが、主が――人が住まない家屋はどこか物悲しく、瞬く間に寂れゆく。木と紙から出来ていようと、鉄から成っていようと同じことだ。目を凝らせば、あるビルの壁面は頗割れ、またあるビルは半ばから折れ粉々に朽ちている。昔、路面と建物を埋め尽くしていたであろう人の姿は欠片も見当たらない。
「今日は誰か見かけた?」
「残念だが、誰も。妹紅はどうだ」
「さっぱりだね。結構あちこち飛んでみたけど、全然だよ」
「そうか」
はあ、と。我知らずの内に溜息をついてしまう。その溜息を聞く者は、私と妹紅以外に見当たらない。
――世界がこうなってしまってから、もう隨分と経つ。
何があったわけでも、誰が悪かったわけでもない。私が歴史を覗いても、はっきりした理由は何一つ見つからない。
ただ、人はいつしか緩やかに数を減らし、一人、また一人と消えていった。
ステラーカイギュウ、リョウコウバト、トキ。
数多く存在しながら、あっさりと絶滅してしまった動物たちのように。今では、残っている者がいるのかすら解らない。
ただ静かな破滅。
どこまでも穏やかな衰亡。
博麗大結界の意味が失われた世界。
そんな世界を、私は未練がましく彷徨い見守っている。
「……ね、慧音」
後ろ手をついて空を見上げ、妹紅が声をかけてきた。
「そろそろいいんじゃない? 悲しいけど、多分もう誰もいないんだよ。どこかで二人、静かに暮らそうよ」
「……」
妹紅の言う通りかもしれない。
いや、おそらくそうなのだろう。だが――
「……今日は駄目でも、明日があるかもしれない。街に誰もいなくても、小さな島や隠れ家までそうとは限らない。だから、まだしばらくは続けるつもりだよ。ただ、ね」
「ただ、何さ?」
「妹紅に迷惑をかけているのは確かだし、すまないと思う。毎日手伝ってくれるのは助かるし、嬉しいけれども、もし負担ならいつでも言って欲しい。無理をさせるようなことだけは――」
「はいそこまで」
私の言葉は半ばで遮られた。
妹紅は腰に手を当て、朱の瞳で私を睨む。
「そうやってすぐ自虐的になるんだから。迷惑ってことなら、私は慧音にどれだけ迷惑かけたか知れやしないよ。それにさ」
強気が一転、ふう、と寂しげに息をつく。
「考えてみれば、他にやることがあるわけじゃないんだよね。あいつも月に帰っちゃったし、そもそも幻想郷が無くなっちゃったし」
その通り。外の世界がこうなったと同時に、博麗大結界は砕け、幻想郷は消え去った。
思えば当然だ。つまるところ、幻想は現実という対立項があってこそ存在し得たのだから。人々が外の世界から消えてしまった時点で、幻想郷と外とを分け隔てる理由は無くなったのだろう。
それから幾星霜。
博麗の巫女、黒い魔法使い、紅魔館のメイド、懐かしい彼女たちはとうに亡い。
人より遙かに長い時を過ごす妖怪たちも、眠りにつき、何処かへと消え、故郷へと去った。
朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける
知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る――
ふと、そんな言葉を思い出す。なるほど人も妖も、永遠の時から見れば同じく泡沫のようなものかもしれず――
「……慧音、どうしたの? ぼうっとしちゃって」
妹紅の訝しげな声が物思いを破った。慌てて意識を戻し、声を返す。
「……あ、すまない。何でもないよ」
「ならいいんだけどね。そういえば、前から不思議だったことがあるんだけど」
「何だ?」
「慧音は何で、残った人を探すのにそんなこだわるのさ。人間が好きなのは知ってるけど、ちょっと入れ込みすぎな気もするよ」
そのことか。
そういえば、妹紅にきちんと説明したことはなかった。私にとってはあまりに自明のことだからだ。話しておくのも良いだろう。
「私が歴史の幻獣だからだよ。人であれ妖怪であれ、紡ぎ手が存在している限り、私はその者たちが作り出す歴史を記憶し続けなければいけないんだ」
「世界が終わりそうでも?」
「勿論だよ。いいかい、妹紅。人や妖怪がいなくなっても、世界は終わらないんだ。仮に私と妹紅がここで消えても同じだ。世界の存在と、人妖の存在には関係がないんだよ」
でもね、と一息ついて続ける。
「歴史はそうはいかない。出来事を記録し再構成し、物語る者がいなければ終わってしまう。だから私は、残っている人を探しているんだ。その人が世界最後の一人でも、生を終えるまで、歴史を紡ぎ終えるまでは見届けたい。神獣ハクタクの末裔としてね」
だから
「だから――もう少しだけ、世界を見守らせてくれないか」
しん、と。沈黙が降りた。
妹紅は黙って空を見上げた。
私は何だか申し訳なくなって、少しだけ目を伏せた。
影法師が、長く長く、どこまでも伸び、ビルの屋上を黒々と染めていた。
一分。
二分。
三分――
そろそろ沈黙が耐え難いばかりになった時
「……はあ、そんな顔しないでよ。放っておけないじゃないか」
夕陽に顔を向けたまま、妹紅が言う。表情は、影になって見えない。
「わかった、この際とことんまで付き合うよ。ホント、昔から頑固なんだから」
「……すまない」
「あーもう、謝らないでってば。いいのいいの。私は蓬莱人だからね、時間なんて関係ないもの。のんびり暮らすのはいつでも出来るわ」
私は伏せていた目を戻す。
そこには笑顔があった。
呆れたようで、それでいて優しげな妹紅の笑みだった。
「慧音の気が済むまで一緒にいるよ。共同作業も悪くない」
「……ありがとう」
「ん」
笑みかわす。
風が吹き、ビル壁にからみついた蔦がみしりと音を立てた。その音に空を見れば、夕陽は地平線に沈もうとしている。赤く染まる妹紅が美しい。
「今日も終わりか」
「だね。慧音、そろそろ行こう。今夜休む場所を探さなきゃ」
「……そうだな」
私と妹紅は、空に向けて足を踏み出す。ふわりと、宙に浮く体。こんな時でも、空を飛ぶ力は役に立つ。
夕陽の光は、徐徐に弱くなってゆく。
やがて夜が来て、私たちは眠りにつくだろう。昨日がそうだったように。そのまた昨日もそうしたように。
世界がこうなってから、何度も何度も夜を重ね、その度にまた目を覚ましてきた。
明日は目を覚まし、また残された人々を探すだろう。
明後日も、また明後日も繰り返したいと思う。
いつか私たちも消える、その日までは。
(了)