一つが二つ、二つが四つ、四つが八つ、八つが十六――剣を振うたびに分かたれていく木の葉を見ていると雑念がはれていくように妖夢は思う。一つを二つならば難しくない。二つを四つにするのにはコツがいる。四つを八つにするのは至難の業で、八つを十六にするには刀に意識を集中させねば不可能だ。十六を三十二には――不可能だった。それ以上剣を振う前に、粉々に避けた葉は地面へと落ちてしまう。
師ならば出来たのだろうか、と思う。
師であり、祖父である魂魄 妖忌ならば、三十六どころか千の葉を作ることさえ可能だったのではないか――幼いころみた祖父の姿を思い起こすたびにそのような念に囚われる。
実際、祖父は強かった。
――今の私より、ずっと、ずっと。
「――――」
そう思えばこそ、剣の修行を休むことなどできるはずもない。朝も早くから、太陽が目覚めるよりも主が目覚めるよりも早く、妖夢は刀を振う。漂う朝霧を裂くかのように、不乱に刀を振う様は鬼気迫るものすらある。肌から弾けた汗が雫となって地へと落ちる。たん、たん、たん――踏み込む脚の音が、二百を越える庭に響き渡る。たん、たん、たん――
足音に興味をひかれてやってきた幽霊の前を、妖夢の刀が高速で一閃した。瞳も顔もないが『眼前』であったらしい。幽霊は踵を返して――もちろん脚もないけれど――彼方へと去っていってしまった。
「……あ」
思わず、手足が止まってしまった。
悪いことをしたな、と思う。魂魄 妖夢は半霊だ。物心ついたときにはすでに、その身には巨大な霊魂がまとわりついていた。もう一人の自分。時には己の姿を模して剣を振う、完全たる半身。半人半霊、という意識は自身にはあまりないが、この浮かぶ霊魂が何よりもの証拠だ。
そういった事情もあり、白玉楼をうろつく幽霊たちに対して、いってみれば一種の仲間意識があるのは確かだ。驚かせてしまったのならば、本当に申し訳ないことをしたと思う。
『――――』
そんな妖夢の内心を察したのだろう――あるいは察するまでもなく、同一の存在なのだから当たり前なのかもしれないが――霊魂が擦り寄ってきて妖夢にほお擦りしてきた。まるで犬のような仕草で、少しくすぐったいが――悪い気はしない。妖夢は頬を赤くして、自分を慰めてくれる自分をそっと撫でた。
撫でられたのが嬉しいのか、霊魂は尻尾のようなものをぱたぱたと振った。その揺れ動く先を見ながら、妖夢の思考はあらぬ方へと跳んでいた。
幽霊を驚かせて悪かった、とは思う。思うがその反面で、それしきのことで集中をなくしてしまった自分を恥じてしまう。
師ならば、あれしきのことで気を散らすことはなかっただろう。一度修行をすると決めたのならば、雨が降ろうが地が昇ろうが惑うことなく剣を振り続けたに違いない。
それが剣士の生き様なのだと――あの口数少ない背中が物語っていた気がする。
その背に追いつきたいと妖夢は思う。ならばこそ、修行をしなければならない。
師に追いつくために。
主を守るために。
「……よしっ」
自身に渇をいれ、妖夢は再び刀を振う。楼観剣と白楼剣のニ刀を、まるで舞いでも踊るかのように振う。手に扇を持たせたとしても違和感はないだろう。それはどちらかといえば、魂魄の剣ではない。主である幽々子を思いながらの剣舞だ。
たん、たん、たん――
音を踏んだ足運び。丁々発止とはいわぬまでも、まじないのように足音は連なっていく。反して刀は音もなく葉を切っていく。一つが二つ、二つが四つ、四つが八つ、八つが十六――たん、たん、たん。
楼観の剣が閃き。
白楼の剣が煌く。
朝霧を反射し、割き、穿ち、返しながら、たん、たん、たんと――足音の舞いは続く。見るものを惹きこむような刀の冴えに、此方を跳んでいた幽霊たちが遠くから円を描いて見守っている。
そのことにも気付かずに、妖夢はただただ刀を振う。
たん、たん、たん――
葉が、落ちた。
すかさず剣が舞う。一つが二つ、二つが四つ、四つが八つ、八つが十六――
「――――ッ!!」
そこで、終わらなかった。
身を限りなく沈め、地面に落ちかけた十六の葉片めがけて剣が伸びた。一刀ではたりない楼観剣と白楼剣、ニ刀が同時に左右から葉を切り裂く。
結果――
見事に。
十六が、三十二へと成った。
三十二の塵が音も無く地面へと落ちた。たん、という音を最後に脚が止まる。地面に落ちた葉片は、細かすぎて自身を支えることもできないのだろう、風に吹かれて彼方へと飛んで行った。跳んだ先にあるのは――昇りつつある朝日だ。
耀く陽に吸い込まれるようにして――三十と二の葉片は、消えていった。
――初めて、為し遂げた。
奇妙な感慨があった。感慨は、すぐには喜びにはならなかった。達成感すらもなかった。奇妙な虚脱感が体を支配し、その奥底から――ゆっくりと充足感が顔を覗かせた。
「師匠――遂に、成しました」
心の奥から湧き上がってくる思いは、その一言に集約された。
妖夢は涙すら浮かぶ瞳で顔をあげ、
「うむ、よくやった」
目の前に祖父の顔があった。
「…………」
眼をこすってみた。
繰り返す。
目の前に祖父の顔があった。
「…………」
眼をさらにこすり、頭を叩いてみた。
再度繰り返す。
目の前に祖父の顔があった。
自身の半霊であるところの霊魂――その頭頂部分が祖父の顔になっていた。詳しく述べるのならば、魂魄妖忌の顔から幽霊の下半分が生えていた、ということになる。
「えっと……ナニ?」
心の奥から沸きあがってくる思いは、その一言に集約された。
別の意味で妖夢は涙すら浮かぶ瞳で顔をそらす。そらした先に妖忌(顔)はぐるりと回りこみ、満足げな顔で、
「よくやった、我が孫よ――わしはお前がこの極地に辿り着く日を一日千秋の思いで待っていたぞ」
そんなことを言ってのけた。
「…………」
沈黙。どうしようもないほどに沈黙。どうにもしたくならないほどに沈黙。
黙りこくる妖夢を無視し、妖忌(顔)はしたり顔で言葉を続ける。
「雨の日も風の日も、お前が剣を振うところを常にわしはみていた。よくやったな、妖夢。さすが我が孫だ」
「御祖父様――」
顔しかない異常な状況を無視して言葉を連ねる妖忌だが、その言葉には家族にしかわからない温かみがあった。状況こそは異常だが、言っていることはまともなのだ。確かに、雨の日も風の日も、雪の日も妖夢は剣を振い続けた。
それを間近で祖父が見ていたとなれば、喜びもこれ以上なく――――――――――などと思いかけて、妖夢はふと素面に戻る。
――常に?
その疑問を後押しするように、
「風呂の中でも寝ている時も、お前の姿をわしは常に見ていた。よく育ったな、妖夢。さすがは我が孫だ」
えたりと笑って、妖忌はそう言った。
「――待て、爺」
心から湧き上がってくる思いは、その一言から尊敬すら取り除かせた。
殺気立ち昇る妖夢をさらに無視して妖忌は喋る。
「正直亡き婆さんを思い出して襲いかけたことも一度や二度ではない――妖夢よ、よく育った。わしは、お前の祖父として嬉しく思うぞ」
「――ちょっと待て爺。いや、そこに座れ。斬るから」
ちゃき、と白楼剣と楼観剣を構えた妖夢に対し。
「――待たぬ! さらばだ妖夢、もう会うことはないだろう!」
ぽん、と幽霊(体)から抜け出した妖忌(頭)は、飛ぶ取りもかくやという勢いで空の彼方へと飛んで行った。それきり、彼が戻ってくることはなかった。
あとに残るは、半霊を失い茫然となる妖夢だけだった。
(了)
>三十六どころか
三十二では?
>楼観剣と白楼剣のニ刀を
>楼観剣と白楼剣、ニ刀が
二が片仮名になってしまっています
>飛ぶ取り
鳥では?
……なんという爺……一瞬で幽々子に成り代わる。否もとより幽々子だった?
どちらにしろ恐るべし!