上海は人形である。
別に地名としての上海が人形というわけではない。幻想郷が隔離された楽園である以上、海のはるか向こうである上海が関係あるはずもない。ここでいう上海とは、遠く遠くの上海から流れてきた人形――すなわちアリス・マーガトロイド嬢のくる人形のことだ。
上海人形。
黄色い髪に赤いリボン。給仕服のような装い。まるで、誰かを思い出させるかのような――人形。人形。人形。人の形を模した物。
人形は、物だ。
人形は、人ではない。人の形をしただけの、別のものだ。勿論それに意識などあるはずもない。アリス・マーガトロイドによって操られる上海人形は、自由意志を持ちえたかのようにくるくると踊り戦う。アリス・マーガトロイドが人形に話しかけているのを見れば、『あああの人形は生きているのだな』と百人が百人思うだろう。
さもありなん。ここは幻想郷なのだから。人形が命を持ったとしてもおかしくなどない。現に、あのメディスン・メランコリーは――たとえその身にある『毒』こそが命だとしても――意志を持って動いている。
完全意志。
完全自立。
人の手を離れた人形。
それはもう人形ではないけれど――それでも、人形の目指すべき最果てであることに変わりは無い。
いや。
正確に言うならば、人形遣いが目指すべき最果てなのだろう。
人形は、何も考えないのだから。何も考えないし、何も思わないし、何も感じない。
それが、人形。
それこそが――人形。
とはいえ。
「……ねえ上海、聞いてる? あのね、魔理沙がね――」
そんなお題目など、『少女』にとってはどうでもいいことで――少女であるところのアリス・マーガトロイドにとっても時と場合によっては意味のないことであり、今こそがその時と場合なのだった。
幻想郷の何処其処にあるアリス・マーガトロイド邸宅。厳重な魔法による警戒と――主にソレは鳴子としてしか使われていないけれど――自らが創り上げた人形たちに囲まれた家。魔女の隠れ家。ヘンゼルとグレーテルが訊ねた魔女の家がお菓子で出来ていたように、この家は人形で出来ていた。
人形を好むものがいるのならば、ひきつけられずにはいられない魔性の家。
ただし主人以上に人形好きはいないので、もっぱらこの家にいるのはアリス・マーガトロイドただ一人である。たまに黒と白の魔法使いが遊びにくるが、それは雑事というものだ。
雑事こそが重大な使命であるかの如く、アリスは上海人形へと話し掛ける。
「でね、魔理沙が言うの。私の魔法は――」
机の中心に座る――座らされた――上海人形に向かってアリスは喋りかける。それは独り言でしかないものの、時折、アリスの手によって操られた上海人形はこくりと頷く。
さもしい一人芝居――と言ってはいけない。どちらかといえば、これは日記の類だ。自分以外には誰も見てはいけない、自分の全てを書き残す秘密の日記。書くことによって自分の内面を深く理解するように、語りかけることによって己の心を把握していく。
そのための話し相手が、上海人形だった。
誰にも聞かせてはいけないことを、聞かせるための相手。
矛盾したような願望を叶えるための道具こそが上海人形だった。
話し掛けるには、人がいる。
人に聞かれてはいけない話。
だからこその――人形。
上海は人形である。
此処は幻想郷である。
幻想郷の片隅で、人形を相手にしたアリスの独り言は続く。
「魔理沙が――」
「――魔理沙が――」
「――魔理沙が」
話される言葉はいつも似通っている。繰り返される名前は黒と白の魔法使い。
霧雨 魔理沙の名を、時に怒り、時に呆れながらアリスは繰り返す。
霧雨 魔理沙の名を、常に変わらぬ仕草で、上海人形は聞き届ける。
心がこもったその言葉。
思いがこもったその名前。
アリスの言葉と、魔理沙の名前を、上海人形は全て聞きとおす。
「――魔理沙が」
「――魔理沙が――」
「魔理沙が――」
人形に意志はない。だから、聞かないという選択肢はありえない。
それでも、たとえ意志があったとしても――上海人形はそれを聞いただろう。上海だけではない。アリスのことを少しでも快く思う人ならば、聞かずにはいられないだろう。
そのことを話すとき、アリスは本当に、本当に嬉しそうに笑っているのだから。
誰にも見せることのないその笑みを――上海だけは、見られるのだから。
上海は人形である。
此処は幻想郷である。
故に。
「ねぇ上海、魔理沙は私のこと、どう思ってるのかしら――」
いつものような、答を期待しない独り言の問いかけに。
その日、初めて。
かの泣くような声で。
「……きっと好きですよ」
上海人形は、答えたのだった。
人形が命を持ったとしても、おかしなことなど、何もないのだ。
「…………え?」
アリスが耳を疑い、首を傾げた。今何かが聞こえたが、本当にそれは聞こえたのだろうか――そんな顔をしていた。
わざとらしく耳元に手を当ててアリスは耳をすます。それでも何も聞こえない。
部屋の中にあるのは、人形たちだけだ。
静かに机の上に座る、上海人形があるだけだ。
「空耳――かしら」
反対側に首を傾げ、「まあいいわ」とばかりにアリスは話に戻る。魔理沙、魔理沙、魔理沙――いつものような、幸せそうな話。
身じろぎもせず。
話すこともなく。
上海人形は、それを聞いている。自分の主人の幸せそうな笑顔を独り占めしながら。
メディスン・メランコリーは、毒でその命を動かした。
上海人形は、愛でその命を動かしている。主人から注がれる絶えることのない愛を受けて、今日も人形はそこにいる。
・・・ゲシュタルト崩壊起こしてきた
上海好きの私には傑作でした、ありがとう!
>かの泣くような声で。
「蚊の鳴くような」ではないでしょうか?