それは、愛しすぎたが故の断罪だったのかもしれない。
さー、というノイズが永続する薄闇の中、女は一人、さまよう。その手に握られた紅は、未だ、ぽたぽたと雫を落とし、彼女の足下にひとしずくの穴を穿つ。
彼女は、幸せだった。
何の不自由もない日々と、幸福な時間。四角く切り取られたフレームの中に存在する笑顔は永遠であり、無限であり、そして絶対であると信じていた。そこに浮かんでいる色は常に暖かく、その色と暖かさは自分たちの中から生まれてくるものだと思っていた。
そう。繰り返すが、彼女は幸せだったのだ。
その幸せが、一体どこで狂ってしまったのだろう。一度、かみ合うことを忘れた歯車は、永遠に、そのずれを修正することなど出来なかった。小さなずれは、徐々にそのひずみを大きくしていき、やがて、もう二度とあり得ない形にまで変わってしまっていた。
それは違う、と彼女は言った。
だが、すでにその言葉の方が間違いであることに、彼女は感づいていたのだろう。狂ってしまった方が正しいのだ、と。狂っているのは自分なのだ、と。
認めたくなかった。
絶対に、それを認めたくはなかった。
だって、そうじゃないか。私は、もっと昔の私を知っているじゃないか。あの頃の私は、こんな風じゃなかった。こんな顔をしなかった。こんな夜を知らなかった。こんな孤独を知らなかった。こんな世界があるだなんて、信じたくなかった。
……しかし、いくら否定しても、もはや真実は覆らない。
目の前に突きつけられた現実は、あまりにも残酷で。どれほど目を背けようとしても、それは自分の存在を彼女へと突きつけてくる。にじり寄る真実という名の凶暴な獣を前に、彼女は悲鳴を上げ、怯え、背を向けて逃げ出した。
それは、彼女を追いかけて走り出した。
すぐ後ろに獣の足音が聞こえる。獣の息づかいが聞こえる。その、爛々と光る赤い瞳が私を見据えている。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。ここは私のいるべき場所じゃない。私のいるべき場所は、私の帰る場所は、私がいなければいけない場所は。
一体、どこにあるのだろう。
そう思った瞬間に、彼女の中の何かが崩壊した。その崩壊は連鎖し、やがて、『彼女』というものにすら到達する。
壊れきってしまったものを前に、獣すら、足を止める。それは、もはや、悟ったのかもしれない。自分の牙で引き裂く必要が、この女にはないことを。すでに、この女は食われてしまっていて、自分が食うべき場所はどこにもないのだと。
獣が足を引き返すのと、彼女が歩み出すのとは、同時だった。
彼女は、決断した。
ここに自分はいない。この世界に自分は必要とされていない。ならば、帰ろう、と。自分が必要とされていた、自分だけの大切な思い出のある場所に帰ろう。彼女はそう決断した。
彼女は自らの手に『鍵』を持った。
その鍵を、彼女は、『扉』へと押し当てた。突き当てたそれを、ゆっくりと押し込み、静かにひねる。かちん、という音がした。目の前に、新しい世界が広がった。
――新しい世界への旅路は、元の世界との決別だった。
目を背けていた現実から立ち直った時、彼女の前に広がる新世界には、何もなかった。
降り注ぐ雨が全てを押し流してくれる。彼女が背負ったもの全てを洗い流してくれる。――そう信じて、彼女はその場に膝を突いた。
手にした『鍵』をゆっくりと、自分という名の『扉』に向ける。今度は、それが自分を新しい世界へと――今ある、認めたくない、こんなはずじゃなかった世界から決別してくれることを信じて。
彼女はそれを、自分の中の『扉』へと押し込んだのだ――。
「なぁ、妖夢」
「はい?」
「お前、すごいな!」
「……は?」
唐突なその一言に、彼女、魂魄妖夢は首をかしげた。その仕草のかわいらしさは、どこぞの紅の館の吸血鬼に匹敵すると、後のワーハクタクが語ったのだが、今はそれは関係ない。
「ほんと、すごいわね。まさか、妖夢にこんな文才があったなんて思わなかったわ」
「えっと……何のことでしょう?」
今日も今日とて博麗神社。わいわいがやがやと人やら妖やらが騒ぐ中、唐突に、その神社の主である巫女と宴会の主催者である魔法使いにそんなことを言われて、妖夢の疑問は留まることを知らずに膨れあがっていく。
「これだよ、これ!」
と、魔法使い――魔理沙が差し出したのは一冊の本だった。
タイトルは、『終の刻が終わるまで』。今、ちまたで大人気の悲劇系恋愛小説である。
「いやー、私も、まぁ、なんつーか……読んだ後、涙が止まらなかった! ありがとう!」
「え? え、っと……?」
「……うん、私も、無重力巫女だの根無し草だのフーテンの巫女次郎だの言われてるけど、今回ばかりは心を揺り動かされたわ。ありがとう、妖夢」
後ろ二つは違うんじゃなかろうかと思ったが、妖夢はあえて口に出さなかった。と言うか、これは一体何の話だろう? その疑問を、素直に、妖夢は口に出す。途端、二人は『え?』という顔をした。
「え? あの?」
「あれー? 妖夢、これ、お前じゃなかったのか?」
「……そりゃ、確かに私は刀を持ってますけど。こんな物騒なことに使いませんよ」
「初めて逢った時、いきなり斬りかかってきたのはどこの誰だったかしら」
「はう」
その一言に、妖夢は顔を赤くして黙り込む。
そんな彼女をさておいて、霊夢と魔理沙の二人は、本の背表紙に書かれている作者名を一瞥した。
「作者名、妖々夢、ってなってたから、てっきり、私はお前がこれを書いたもんだと……」
「私もよ」
ちなみに、その一言が聞こえたはずはないのだが、宴会場の片隅でとある幽霊お嬢様が何の理由もなくあのBGMと共に扇広げたそうだが、それはさておこう。
「咲夜なんて、これ読んでる間にティッシュ箱三つくらい使い切ったらしいぜ?」
「あの人らしいわよねー。しかも、ファンレター書きまくって白玉楼に持って行かせたそうじゃない」
「ああ……あの不幸の手紙みたいに延々届きまくったやつですか……」
「お前じゃないのか?」
「はい。その……ご期待に添えなくて悪いんですけど」
「なーんだ。咲夜、がっかりするだろうなー」
「『今度、サインをもらいたいわ』って言ってたしねー」
あっはっは、と二人は声をそろえて笑うと、手にした文庫本を、それぞれどこへともなくしまった。心なしか、霊夢は上着の裾から、魔理沙は帽子の中に放り込んだように見えたが、それは気のせいだろう。
「しかし、世の中広いもんだなー。まさか、この私に涙を流させてくれる本が書ける奴が、この幻想郷にいたとは思わなかったぜ」
「それには同意ね。
けれど、妖夢。本当にあなたじゃないの?」
「あ、はい。その本のことですけど、私も文さんに『あなたも読んでみませんか?』って渡された次第ですから。もちろん、文さんも、私を作者と思っていたようですけど……」
涙の突撃取材をされました、と妖夢。
へぇ、とうなずいた霊夢は、片手に、どこからともなくとっくりとおちょこを取り出した。そして、それの中身をぐいっと一口してから、
「まぁ、だとしても……悲恋ってのは寂しいものだけど、読んだ後……というか、感じた後に何か思うところを残してくれるのよね」
「フィクションだからな。それが現実なら、そんな甘っちょろいことは言ってられないぜ。
フィクションだからいい、ってものは、世の中、たくさんあるものさ」
「魔理沙にしては珍しく、いいこと言うわね」
「あははは」
「こら、妖夢。笑うな。そんなお前には、酒の一気飲みだ!」
「わっ、やめてください。私、そんなにお酒に強くないんですから」
だめだー! と妖夢を捕まえてうりうりやっている魔理沙を見ながら、霊夢は、そんな彼女たちに微笑ましい笑みを送った後、空を見上げた。
今宵は満月。少しだけ、それに雲のかかった朧月だが、こんな夜もたまにはいいだろう。
特に、こんな悲しい物語を読んだ後には、少しでもその余韻を感じていたいものなのだ。何せ、霊夢も女の子なのだから。
「……けど、ちょっと残念だったな。
ほんと、この物語を書いた人、誰なんだろう」
少しだけ、それが心残りだったな、と彼女はつぶやいて。そうして、また一口、お酒を口にしたのだった。
さー、というノイズが永続する薄闇の中、女は一人、さまよう。その手に握られた紅は、未だ、ぽたぽたと雫を落とし、彼女の足下にひとしずくの穴を穿つ。
彼女は、幸せだった。
何の不自由もない日々と、幸福な時間。四角く切り取られたフレームの中に存在する笑顔は永遠であり、無限であり、そして絶対であると信じていた。そこに浮かんでいる色は常に暖かく、その色と暖かさは自分たちの中から生まれてくるものだと思っていた。
そう。繰り返すが、彼女は幸せだったのだ。
その幸せが、一体どこで狂ってしまったのだろう。一度、かみ合うことを忘れた歯車は、永遠に、そのずれを修正することなど出来なかった。小さなずれは、徐々にそのひずみを大きくしていき、やがて、もう二度とあり得ない形にまで変わってしまっていた。
それは違う、と彼女は言った。
だが、すでにその言葉の方が間違いであることに、彼女は感づいていたのだろう。狂ってしまった方が正しいのだ、と。狂っているのは自分なのだ、と。
認めたくなかった。
絶対に、それを認めたくはなかった。
だって、そうじゃないか。私は、もっと昔の私を知っているじゃないか。あの頃の私は、こんな風じゃなかった。こんな顔をしなかった。こんな夜を知らなかった。こんな孤独を知らなかった。こんな世界があるだなんて、信じたくなかった。
……しかし、いくら否定しても、もはや真実は覆らない。
目の前に突きつけられた現実は、あまりにも残酷で。どれほど目を背けようとしても、それは自分の存在を彼女へと突きつけてくる。にじり寄る真実という名の凶暴な獣を前に、彼女は悲鳴を上げ、怯え、背を向けて逃げ出した。
それは、彼女を追いかけて走り出した。
すぐ後ろに獣の足音が聞こえる。獣の息づかいが聞こえる。その、爛々と光る赤い瞳が私を見据えている。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。ここは私のいるべき場所じゃない。私のいるべき場所は、私の帰る場所は、私がいなければいけない場所は。
一体、どこにあるのだろう。
そう思った瞬間に、彼女の中の何かが崩壊した。その崩壊は連鎖し、やがて、『彼女』というものにすら到達する。
壊れきってしまったものを前に、獣すら、足を止める。それは、もはや、悟ったのかもしれない。自分の牙で引き裂く必要が、この女にはないことを。すでに、この女は食われてしまっていて、自分が食うべき場所はどこにもないのだと。
獣が足を引き返すのと、彼女が歩み出すのとは、同時だった。
彼女は、決断した。
ここに自分はいない。この世界に自分は必要とされていない。ならば、帰ろう、と。自分が必要とされていた、自分だけの大切な思い出のある場所に帰ろう。彼女はそう決断した。
彼女は自らの手に『鍵』を持った。
その鍵を、彼女は、『扉』へと押し当てた。突き当てたそれを、ゆっくりと押し込み、静かにひねる。かちん、という音がした。目の前に、新しい世界が広がった。
――新しい世界への旅路は、元の世界との決別だった。
目を背けていた現実から立ち直った時、彼女の前に広がる新世界には、何もなかった。
降り注ぐ雨が全てを押し流してくれる。彼女が背負ったもの全てを洗い流してくれる。――そう信じて、彼女はその場に膝を突いた。
手にした『鍵』をゆっくりと、自分という名の『扉』に向ける。今度は、それが自分を新しい世界へと――今ある、認めたくない、こんなはずじゃなかった世界から決別してくれることを信じて。
彼女はそれを、自分の中の『扉』へと押し込んだのだ――。
「なぁ、妖夢」
「はい?」
「お前、すごいな!」
「……は?」
唐突なその一言に、彼女、魂魄妖夢は首をかしげた。その仕草のかわいらしさは、どこぞの紅の館の吸血鬼に匹敵すると、後のワーハクタクが語ったのだが、今はそれは関係ない。
「ほんと、すごいわね。まさか、妖夢にこんな文才があったなんて思わなかったわ」
「えっと……何のことでしょう?」
今日も今日とて博麗神社。わいわいがやがやと人やら妖やらが騒ぐ中、唐突に、その神社の主である巫女と宴会の主催者である魔法使いにそんなことを言われて、妖夢の疑問は留まることを知らずに膨れあがっていく。
「これだよ、これ!」
と、魔法使い――魔理沙が差し出したのは一冊の本だった。
タイトルは、『終の刻が終わるまで』。今、ちまたで大人気の悲劇系恋愛小説である。
「いやー、私も、まぁ、なんつーか……読んだ後、涙が止まらなかった! ありがとう!」
「え? え、っと……?」
「……うん、私も、無重力巫女だの根無し草だのフーテンの巫女次郎だの言われてるけど、今回ばかりは心を揺り動かされたわ。ありがとう、妖夢」
後ろ二つは違うんじゃなかろうかと思ったが、妖夢はあえて口に出さなかった。と言うか、これは一体何の話だろう? その疑問を、素直に、妖夢は口に出す。途端、二人は『え?』という顔をした。
「え? あの?」
「あれー? 妖夢、これ、お前じゃなかったのか?」
「……そりゃ、確かに私は刀を持ってますけど。こんな物騒なことに使いませんよ」
「初めて逢った時、いきなり斬りかかってきたのはどこの誰だったかしら」
「はう」
その一言に、妖夢は顔を赤くして黙り込む。
そんな彼女をさておいて、霊夢と魔理沙の二人は、本の背表紙に書かれている作者名を一瞥した。
「作者名、妖々夢、ってなってたから、てっきり、私はお前がこれを書いたもんだと……」
「私もよ」
ちなみに、その一言が聞こえたはずはないのだが、宴会場の片隅でとある幽霊お嬢様が何の理由もなくあのBGMと共に扇広げたそうだが、それはさておこう。
「咲夜なんて、これ読んでる間にティッシュ箱三つくらい使い切ったらしいぜ?」
「あの人らしいわよねー。しかも、ファンレター書きまくって白玉楼に持って行かせたそうじゃない」
「ああ……あの不幸の手紙みたいに延々届きまくったやつですか……」
「お前じゃないのか?」
「はい。その……ご期待に添えなくて悪いんですけど」
「なーんだ。咲夜、がっかりするだろうなー」
「『今度、サインをもらいたいわ』って言ってたしねー」
あっはっは、と二人は声をそろえて笑うと、手にした文庫本を、それぞれどこへともなくしまった。心なしか、霊夢は上着の裾から、魔理沙は帽子の中に放り込んだように見えたが、それは気のせいだろう。
「しかし、世の中広いもんだなー。まさか、この私に涙を流させてくれる本が書ける奴が、この幻想郷にいたとは思わなかったぜ」
「それには同意ね。
けれど、妖夢。本当にあなたじゃないの?」
「あ、はい。その本のことですけど、私も文さんに『あなたも読んでみませんか?』って渡された次第ですから。もちろん、文さんも、私を作者と思っていたようですけど……」
涙の突撃取材をされました、と妖夢。
へぇ、とうなずいた霊夢は、片手に、どこからともなくとっくりとおちょこを取り出した。そして、それの中身をぐいっと一口してから、
「まぁ、だとしても……悲恋ってのは寂しいものだけど、読んだ後……というか、感じた後に何か思うところを残してくれるのよね」
「フィクションだからな。それが現実なら、そんな甘っちょろいことは言ってられないぜ。
フィクションだからいい、ってものは、世の中、たくさんあるものさ」
「魔理沙にしては珍しく、いいこと言うわね」
「あははは」
「こら、妖夢。笑うな。そんなお前には、酒の一気飲みだ!」
「わっ、やめてください。私、そんなにお酒に強くないんですから」
だめだー! と妖夢を捕まえてうりうりやっている魔理沙を見ながら、霊夢は、そんな彼女たちに微笑ましい笑みを送った後、空を見上げた。
今宵は満月。少しだけ、それに雲のかかった朧月だが、こんな夜もたまにはいいだろう。
特に、こんな悲しい物語を読んだ後には、少しでもその余韻を感じていたいものなのだ。何せ、霊夢も女の子なのだから。
「……けど、ちょっと残念だったな。
ほんと、この物語を書いた人、誰なんだろう」
少しだけ、それが心残りだったな、と彼女はつぶやいて。そうして、また一口、お酒を口にしたのだった。
なのに、なのに酷い裏切りだよww
ということはこれは旧作霊夢のことかァァアーッ
…ねえよwwww
そのうち妖夢が、「じっちゃんの名にかけて!」と小説家になるとみた
なんというようき