――紫さまぁ。
必死に呼んでいるのに、起きてくれない。いつもならすぐに身体を起こして、なぁに? と頭を撫でてくれるのに。
――紫さまぁ。
強くゆすっては駄目だとは頭でわかっているのに、湧き上がる不安がそれを許してくれない。主の肩に両手を乗せて、起きて、起きて、と何度も身体をゆする。
――ゆか、り、さまぁ……
不安で胸が一杯になって、瞳から溢れた熱が頬を伝う。主の顔にそれがこぼれないよう、服の袖で涙を拭う。けれど、拭っても拭っても、次々に涙はあふれ出てくる。
目の前で血まみれになって横たわる主の姿に、不安と涙がとめどなく湧き上がってくる。
そもそも、何故、自分は主の側から離れてしまったのか。思い返せば、朝から主の様子はおかしかったではないか。
いつもの様にひざの上に自分を乗せて食事をした後、
「今日はちょっと留守を頼むわね」
と言った主の表情は、どこか遠くを見ていなかったか。あれはこれから訪れる危険な何かを予期していたのではないだろうか?
だから、普段はずっと側に仕えさせてくれるのに、自分を家に置いて出かけていったのだろう。
そうして主が出かけて数刻後、式としての本能が主の危険を教え、全力で飛んでいった先では大好きなその人が倒れていた。
あの時、どうして寂しさに負けて連れて行ってくれと言わなかったのか。主の言葉は絶対であり、自分自身も主を困らせたくはない。だからこそ、胸に生まれた寂しさを隠して素直にうなずいた。
何故、あの時嫌ですと言わなかったのか――恐ろしい程の力を持つ主をここまで痛めつける相手だ。たとえ自分が居たとしても足手まといにしかならなかっただろう。けれども、見えないところで大好きな主が傷ついているよりは、何千倍もましだろう。子牛程の大きさもない自分の身体では、それこそ本当に瞬殺されてしまうかもしれない。だけど、だけど、
――ゆ、かりさまぁ……
目の前で傷ついている主を瞳に写すよりは、まだ死んだほうがましだ。
「ぅぁぁ……」
ゆっくりと、倒れこむように、主の胸へと顔を埋めた。いつもは温かでいい匂いのする双丘は、冷たい血に塗れ、鉄錆の臭いしかしない。
ただただ涙と嗚咽しか出てこない。主の胸の中に顔を埋めたまま、ぐずるように身体を揺らす。少しでも主にかまって欲しいときにしてしまうのだけれども、今は目を覚まして欲しいから出た行動だった。
ふと顔を上げて顔を見た。前髪で目は隠れていて、こめかみからあごにかけて血の流れた跡がある。
あごにそっと顔を寄せて、その血を舐め取った。特に意味なんてない。甘えているだけなのかもしれない。だけど、こうして甘えていると、ひょっとしたら今すぐに目を覚ましてくれるかもしれないと思った。
だって、この人は私が泣いていたら、すぐに飛んできてくれた。私が甘えたいと思ったら、胸の中に抱きしめてくれた。
そんなやさしい主が、泣きながら甘えている自分を放っておくはずがない。儚すぎるそんな考えにすがりながら、ぺろぺろと主の血を舐め取っていく。
そうして、顔についた血を舐め終えた。
主は、目を覚まさない。
「――ッ!」
今まで堪えていた何かが切れた。きっと起きてくれる。泣きながらもそう信じていたからこそ、耐えていたのに。
「――ッ!」
叫ぶ。空に向かって、吼える。生まれたての赤子のように、獣が咆哮をあげるように、狂人が雄たけびをあげるかのように、
「――ッ!」
この世の全て響かんばかりの泣き声を、空に向かって放つ。
……と、頬に何かが触れてきた。
そうして、
「うるさいわ、よ。らん……?」
その声が聞こえた。
声を止めてゆっくりと視線を落とすと、そこには辛そうにしながらも、いつもの笑みを浮かべる主の顔があった。
最初は呆然とその顔を見た。次に、鼻先がしびれて、瞳が熱くなるのを感じた。
「ゆかりさまぁっ!」
覆いかぶさるように抱きつく。両腕を首の後ろに回して、ぎゅうと強く抱きついた。
「痛い痛い、藍、痛いわ」
そう言ってくるのもかまわず、顔を左右に振る。主の首筋に自分の顔をこすり付けて、強く主の存在を確かめる。生きている。生きてくれている。考えれば考えるほど、嬉しくて、嬉しくて、更に顔をこすり付ける。
「んもう、言うこと聞かない子になっちゃったわねぇ」
愚図り続ける自分の背中を、ぽんぽんとたたいてくれる。
「これはしばらく教育しないと駄目だから、側から離せないわね」
どこにもいかないから、安心しなさい。
言葉は違うのに、その時、確かに主はそういったように聞こえた。
☆ ☆ ☆
「――ぁっ」
声が聞こえる。誰の声だったか。
「――んさ――っ!」
ああ、そう、確か、この声は、自分の式の声だったか。
「らん――ぁっ!」
「ちぇ……ん?」
目を開けると、なぜか涙ぐみながら自分を見下ろしている式の姿が見えた。
怪訝に思って身体を起こしてみる。が、思いとは裏腹に、身体は一向に言うことを聞こうしない。
「藍さまぁっ!」
突然、式が抱きついてきた。
「橙、どうしたの」
「藍さまが、藍さまが、だって、血がっ」
どうにも要領を得ない返答に、ますます何が何やら分からなくなる。一体私がどうなって、何があったというのか。
力の入らない右腕を何とか上げて、顔に触れてみる。
「ああ……」
手のひらについた血を見て、納得の息を吐いた。それと同時、自分が何故こんなところで倒れているのかも思い出した。
主の下へと巫女が行こうとするのを阻止しようとして、見事に返り討ちにあったのだ。
「あの……反則巫女め」
どれだけの弾幕を展開しようと、あの巫女に当たる場面が想像できなかった。どれだけの時へ経ても、あれだけには勝てるとは思えない。あの巫女はそれほどに反則的な存在だった。
恐らくは、今頃主と弾幕合戦を繰り広げている頃だろう。
主が負けるだなんて微塵も思わない。どれだけあの巫女が反則であろうが、主が負けるなんてありえない。
「――」
その時、呼ばれる感覚が身体中にはしった。主が呼んでいる。
「そうか、そこまでなのか、あの巫女は」
「藍さま?」
独り言を言う私に、ちぇんが不思議そうな顔を向けてくる。
ちぇんの頭に手をおいて、笑いかける。
「ん、大丈夫。紫さまが呼んでるだけだよ」
「藍さま、まだ、やるんですか?」
とたんに不安気な表情を浮かべる、可愛い可愛い式。安心させるように、そっと抱きしめる。
「大丈夫だよ。大丈夫。いくらあの巫女が強くったって、私と紫さまには勝てないよ」
それに、と。ちぇんの鼻に人差し指をおく。
そう、私はどんなことがあろうと行かなければならない。
なぜなら、主が呼んでいるのだ。もう、あの時のような思いはしたくない。私の居ないところで、主が傷つくようなことだけは、絶対に。
それに――、
「――私は、紫さまの式だからね。主の居るところに、式は居るのさ」
橙に微笑みかけて、私は飛んだ。
が。
絵板の某絵と同じ想像をしてしまった俺は死んできます。
ケチャップ…