八雲藍は自分について考えてみた。きっかけは些細なことである。勝手に人間と戦った咎で折檻されたとき、「あなたは式でしょう」という主の言葉に、化け狐としての藍の精神のほんの片隅に、小指の先ほどの反発心が沸いたのである。我が事ながら藍は驚いた。しかし主の言葉を否定する要素はない。式でなければ自分は何なのかと問われると答えを持たないことに気付いて愕然とした。生きることの意味を考えないと、存在意義とやらを見出さないと不安になるのは精神の未熟な人間くらいのものだと思っていたけれど、生きとし生ける者、案外誰もこの問題から逃れられないのかもしれない。自分について分からないということは即ち世界について分からないということで、分からないものを放置するのはどうも気色悪い。性分だ。「我思うゆえに我あり」で満足するようなレベルは人間ですら幾年も前に克服した。ならば妖怪は精神面ではそのさらに二、三歩先を往かねばなるまい。とかく、藍は自分について考えてみた。化け狐で、式である。式というのは明瞭で、ひと言でいえば記号によるルーティンの集積である。差し出された変数を投入し解を出すことの繰り返し。式にとって世界はただただ演繹のフィールドだ。記号といえば、自分を識別する記号は八雲藍である。八雲が姓で藍が名。姓とは所属を表す記号であり、自分が八雲紫の持ち物であることの証である。八というのは物事の基本にして不安定な二という数字を三回掛けて安定させた数字だ。不安定と安定の二律背反を併せ持った八は三と四を合わせて万物を示す七に並んで偉大な数字で、ときにはそのままの八という数だけではなく、物の数が大きいことも意味する。だから「八雲」はいくつもの雲ということになり、ひいては広大な空を表す。スサノオノミコトがこの国に初めて歌をもたらしたときにも「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」と歌いこまれている。誰かに賜ったのか自分で名乗り出したのかは知られていないが、古の幻想の化身にして境界の管理者たる妖怪には相応し過ぎる姓だ。しかしそれは藍の持ち物ではない。それを言うなら藍という名でさえ藍のものではない。名前は恣意的に与えられる。ならばらん、RANと記述されても同じことであるしあなたとかお前とかの言葉が藍を示す時だってある。仮に畳の上に置かれた湯飲みを「ヤクモラン」と名付けたところで何か不都合が生じるわけでもない。名前が同じでも自分と湯飲みは別物である。記号では駄目だ、八雲藍を八雲藍たらしめる根源とはなりえない。世界にはラプラスの魔という存在があり全てを数式という記号で記述してしまうそうだがそんな普遍性は藍の求めるところではない。試みに、いま八雲藍と呼ばれているこの身体をつぶさに、全体を記述すればそれは八雲藍といえるだろうか。八雲藍を構成する全てを記述すれば。八雲藍は狐が化けた妖怪であり人間に近い形をしているが、やはり妖怪である。普段は帽子に隠されているが、耳は頭のてっぺんにふたつひょこりと生えている。三角に尖った耳の先は漆器みたような焦げ茶色をしており、下に降りるにしたがってその毛並みは徐々に黄金色になる。耳の孔の周りにはふっくらとした乳色の和毛が生えてあたたかな空気を含み、風が吹けばふるりと震える。耳朶の内側は皮膚の下を毛細の動脈静脈が縦横無尽に走る。薄い紫色をした血管はごく控えめに脈動している。耳は感情に釣られてときおりぱたぱたと動き、何をしないときでも耳の後ろの随意筋がときおりピクピクと痙攣する。耳を美しく飾る毛並みは頭頂のあたりでいつしか髪と呼ばれるようになり、藍の髪の毛もやはり黄金色をしている。ただしそれは西洋人のブロンドヘアとは異なった黄金色で、狐独特の焦げたような黄味がかかっている。黄金の稲穂を蜂蜜に浸して染め上げたような色といえばおよそ的確に表される。髪は癖っ気が強く、快活に顔の内側に跳ねている。前髪は長いところでは鼻に届いて眉間を隠す。両鬢の毛があごの先端あたりの長さまで伸び、後ろはうなじの少し下あたりまでを隠す。頬からあごにかけての線はどこか鋭角的である。実際にそのような輪郭をしているのではないが、江戸浮世絵の美人画の中から抜け出てきたような感じを与える輪郭である。肌の色は西洋の彫像と見紛うような白。シミや吹出物の影すら見当たらない。きめ細かく、職人が丹念に磨き上げた能面のようで薄ら寒さすら感じさせる、まさに白面九尾のそれである。目は烏羽の漆黒の瞳を黄玉か琥珀のような虹彩が縁取る。目尻はやや釣り上がっている。通例大きく見開かれることはなく、細かく黒々とした睫毛に縁取られた目が白いカンバスの上をナイフで切った裂け目のように細くほそく開かれる。眉は髪と同じ黄金色をしていて、薄く、短い。眉間の両側から力強く毛が生え始めたかと思うとすぐに秋の夕にたなびく雲のように霞む。鼻は高く、稜線が顔の中心を正確に貫く。裾野から鼻の頭にかけての長さは奇跡的な比率で顔の中に均整をもたらしている。毛穴には油気がないが、乾いた角質が剥がれたり荒れたりするそぶりもない。その下には控えめな薄紅色の唇があり、それはひとたび開かれると炎のような舌をべろべろと吐く。ぼんやりと黄味がかった歯が生えそろい、特に犬歯は真っ赤な歯茎を突き破った剣のごとく猛々しい鋭さを誇る。門歯も人間のそれに比べると尖っている。ほっそりとした首は若干長い。肩は水を流せば音もなく静々と流れを作りそうななで肩である。襟の内にわずかに鎖骨が覗き、首と肩の稜線の境に妙味のあるくぼみを作る。肌の白さとくぼみの陰影が女性的なただならぬ色気を匂わせる。手はそれほど大きくないが指が長い。特に中指が長い。爪の厚みは人間のそれとの比ではなく、鉤状で鋭い。普段は袖に隠れているが手首は折れそうなほど細い。手首からひじにかけては優美な線を描きながらしかしその皮膚の下には豊かな筋肉を有しており、膂力はもちろん人間など及ばない。二の腕は程よい脂肪がついて女性的な肉感をしている。椀の形をした乳房が豊かな弾力をもって法衣を押し上げているが、法衣はゆったりと布地を豪奢に使ったもので、体格を隠している。乳房のすぐ下にはうっすらと肋骨の凹凸がある。みぞおちからへそにかけてわずかなくぼみがあり、発達した腹筋を思わせる。臀部、鼠蹊部のあたりにはぽたりとした脂肪がついてまろやかな曲線を描く。股間には黄金色の陰毛が炎のように生えそろっている。尻の割れ目の少し上、人間で言えば尾骨のあるあたりからは尻尾が九本生えて、見る者を圧倒する。豊かな毛並みはたっぷりと空気を含んで急激に広がり、稲もみのようなシルエットを描く。その色のつややかさは他の部位の比ではなく、月下では光を反射して本当の金色に光るほどである。尻尾は先の方で細るにつれ処女雪のような白銀となる。太ももは筋肉と脂肪の両方をたっぷりと含んでいて太い。ひざに向かってやや内側にアーチし、ひざ下でまたわずかに外に反り返る。ふくらはぎは剛健な筋肉で引き締まっている。くるぶしはやや骨張っている。足は土踏まずが深いアーチを描く。足の指は人間のそれに比べて長く、爪はやはり鉤状になっている。かかとからつま先までの長さは……否、否、否。これだけの言葉を尽くしても、これは八雲藍ではない。無限の語彙があろうと八雲藍を記述しきれないし、個別の顔や、手や、足は八雲藍である必然性がない。見た目で魂の形が決まるのならばもはやこの青い法衣すら八雲藍だといえる。しかし抜けた髪は八雲藍ではなくなり、もがれた腕はただの肉塊であり、法衣は脱げばただの布である。もっと根本的な、これであるからこそ八雲藍であるというようなものはないのか。魂などと不可視なことを言いたいのではない。その魂に八雲藍という名がつく根拠が、自己確定の根拠が欲しい。どこまでも自己を分解していけたら、どこまでも真っ白な八雲藍になれたらあるいは、と思う。心の臓を捧げ持ってそれが八雲藍だといえるのならばいっそのことえぐり出してしまいたい。そう思うと全身に言いようのない違和感が走り始めた。むずがゆく、身体が自分のものではないように思えてきた。眉間の血流が増し、鼻の奥にツンとしたものを感じて、藍は叫びたくなる衝動をすんでのところでこらえた。そして叫ぶ代わりに、服に手をかけた。豪奢な布の重みが何より煩わしかった。それは藍の魂を縛り付ける枷のように思われた。藍は服を脱ぎ捨てた。途端に、全身の肌を冷たい空気が刺し、身体中の毛穴という毛穴の立毛筋が緊張しざわわと鳥肌が立った。空気に、世界に蹂躙されて藍の全身が大きくぶるりと震えた。その震えが脳に心臓につま先に耳の先に、藍の魂に伝わったとき、藍の目の奥で何かとてつもないものがチカッとスパークして、一瞬で消えた。藍は思わずアッと叫んだ。さっきは我慢した叫びが漏れていた。一糸纏わず仁王立ちする自分を発見して、藍は全てがわかったような気がした。それは言語化は出来ないが、確かに藍の全て、藍の魂の形であった。自分が自分であるということの答えは、ひどく難解で、ひどく卑近で、ひどく不可解で、ひどく当り前のことだった。藍はそのことを今すぐ記録として書き留めたいと思ったが、言葉が見つからなかった。なにより、その感覚はただ一瞬スパークして去ってしまい、今はただただ真理らしきものの余韻が胸中を駆け巡るのみであった。しかし藍は、それでもいい、と思った。生まれたままの姿で世界に立つこと、それだけが教えてくれることを知りえただけで満足だった。世界の大きさに抱かれて、藍はただただ滂沱した。清涼な涙が頬から胸を伝い、白い肌を温かく濡らした。
ごめんもういい
藍ちゃん頭良いよ!記号の本質を理解してるよ!
でも仮定の中とは言え畳の上に直に湯飲みを置くのはお行儀悪いよ!!
テンコーってそんな真面目なものだったのか…
それまでのくだりが台無しだ w