視界はない。
しかし、私はそれがそこに居るのを知っている。
「隠(おに)、ね」
それは、笑い声まじりに応えた。
「あはは、そうだよ霊夢。『鬼』の元々の意味は『隠』、つまり、見えざるモノって事なんだ」
それ――伊吹萃香は、笑っている。
この状況で。
「見えざるモノ、理解出来ないモノ、理不尽なモノ!」
伊吹萃香は、笑っている。
こんな状況で。
「この世にポンと放りだされてみれば、周りはそんなモノばかり! さあ、お前たちは、どうする?」
私は、かの隠にもっと喋らせ続ける必要があった。こんな戯れ言に付き合う事に、それより他の意味はない。
「伊吹、萃香。あなたが隠たちの中でハズレ者扱いされているのは、どうして?」
笑い声が一段と高くなった。酒でもあおりたい気分なのであろうが、残念ながら今は無理だ。
「そうだよ、私には形がある!隠の身でありながら!」
その形は、彼女の力を使えば無くしてしまう事も出来る。しかし、残念ながら今は無理だ。
「理解できないモノには、形を与えるんだ。人間の理解の及ばぬ力で時には害を、時には恵みを与える自然。それには、精霊を、妖精を。疫病には疫病神を、ペストには死神を。夜道に出会う錯覚には狐を、狸を。妖怪を。例え仮初めでも、これでもうそれは見えざるモノでは無くなる。対称性の自発的な破れ。そうして、やがて人は見えざるモノ、理不尽なモノそれ自体を抽象化し、発見することに成功した。人はそれに、隠という形を与えた」
私は、彼女の言葉を引き継いだ。
「それをしたのは、人間のサガ、生き物のサガ――形なるモノのサガ」
笑い声が一度止み、そして弾けた。
「あははははははははははははははははははは! そうだよ霊夢! 人間! 生き物! 形なるモノ――隠から生まれたモノよ!」
「何が、言いたいのかしら?」
彼女がここに話を導きたかった事は、始めから分かっていた。あんまり甘やかすのも何なので、少しとぼけてみる。
「何って、だから隠を退治するなんて駄目だって事だよ」
思いの他、カンに障ったようだった。構いはしないが。
「大体さあ」
少し間を置いたのは、最も根本的な一言を発するためか。
「『萃香割り』なんて今更感の塊みたいなネタ、物凄く、どうかと思うんだ」
萃香は首から下を地面に埋められ、周囲に張られた私の札で能力を封じられている。
私は目隠しをして、お祓い棒を大上段に構えている。
視界はない。
節分という事で、どうも隠を退治して厄除けとするらしいのだが、具体的なやり方が良く分からないので、こういう形にしてみた。
周囲に人はなく、従ってこのスイカ割りは本当はノーヒントである。しかし私も博麗の巫女、この程度なら勘で当てる。向こうもその事を承知しているのであろう、黙って気配を消すより、なんとか説得する道を選んだようだ。
「形は、何かに産み出されなきゃ存在できないんだ。よって、始めに隠があった」
説得再会の第一声は、独り言に似ていた。次いで、問いかけ。
「来年の事を言うと鬼が笑う、って何でだか知ってる?」
「鬼には未来が見えるから、じゃなかったかしら」
「何だよそれ、おちょくってんの?」
うん、おちょくってる。
「未来は、誰も知らない。不確定。常に理不尽。そう、未来っていうのは、隠そのものなんだよ!」
へえ。
「どお? これでもまだ隠退治を続ける?」
「うん」
即答。沈黙。多分いじけてる。可愛い。食べちゃいたい。
「そりゃ、形を与える事は、見えざるモノに対する有効な対処だと思うよ。形がなければ排除する事も出来ないからね。自然に自然法則という形を与える事によって栄華を極めた人間の例を見るまでもなく。物質を形作る粒子のほとんどが、パウリの排他律に縛られたフェルミオンである時点で明白だね。この幻想郷だって、そうやって形を与えられたモノの一つ、なのかも?」
けれども、と萃香は続ける。
「隠っていうのは形なきモノの総称。けど、名前を与え、形を与えてしまった時点でそれは隠ではない。だからその名前を付けられたモノを除いた残りに再び隠という名前を与える。その行いを無限回繰り返した極限が隠という言葉の定義なんだ。よって有限時間内に形を与えられるモノは隠ではあり得ない。あ、私は別としてね。とにかく、形を与えて退治するっていう方法を隠そのものに対して適用するのは、土台不可能な事。やりすぎた一般化。重要な前提を欠いた類推。無理やりそれを実行して豆を撒いたところで、そこにいるのは隠とは見当違いな何かを一心不乱に退治している奇特な人間さ。ほら、分かったでしょ? 隠退治っていうのは、根本的に矛盾を孕んだ無意味な行いなんだよ」
上段の構えを解いた。
ふう、と大きく息をついた。
「あ、分かってくれたんだ? さっすが霊夢。さ、早く結界を解いて。少し早いけど一杯やろうよ」
饒舌は変わらずとも、安堵によって明らかに変わったトーンで発せられたその言葉を、私はほとんど聞いていなかった。
聴覚よりも勘に全てを任せ、
「霊夢?」
お祓い棒を力の限り、
「な、何で……」
振り下ろした。
何故って、これが。
「生き物のサガ、だからね」
棒に手応えはあった。しかし、目隠しを取ったところ、目の前に萃香の頭はなかった。
彼女を埋めていたはずの穴は、背後にあった。札は剥がされ、あちこちに散乱している。萃香本人の仕業であるはずはない。となると、誰かにかっぱらわれたのだろう。
では、棒の手応えは。先ほどまで私と話していた萃香の声は。
「ちっ、ミニ萃香か」
原形をほとんど留めていないそれは、お祓い棒の腹に付着していた。
悔しいが、逃げられてしまったものは仕方ない。私は棒をその辺に放っぽって、その場所を後にした。
夕さがり、小さな箱と手紙が届いた。届いた、というのは、気が付いたらある部屋に放置されていた、という事だ。瞬間移動でもしてきたかのように。
手紙にはこうあった。
――――
親愛なる霊夢へ
暦の上では明日から春だから、そろそろ冬眠から目を覚まそうかし
ら、と思っています。そうなるとこの手紙は寝ながら書いている事
になるけど、そこは深く考えないこと。
ごめんなさい、と言うべきかしら。橙が「鬼は外をやりたい」と
言うもので、勝手ながら鬼を一匹借りちゃいました。
小包の方はお詫びの印です。歳の数だけ炒って食べると、無病息
災で一年過ごせるらしいわよ。
それでは、要件までにて失礼だけど。
良い春を。
あなたのゆかりんより
――――
変な気遣い。まあ、貰うものは貰っておいて損はないか。とりあえず私は箱を持って台所に行った。「うう、酷い目に遭った」「変だと思ったんだ、紫が助けてくれるなんて」等と口々に呟く箱の中身、ミニ萃香たち。
それらを、あまりその声を聞かないようにしながら、一思いに火にかけた。
あとは汗ダラダラ流しながら半泣きで語りかけてくる彼女しか浮かばなくなりました、良かったです(w