辺りは一面の霧だった。濃い乳白色の帳が一面を包み込んでいる。
ほんの僅か先しか見えない。
とても静かだった。いや、
ちゃぷちゃぷという水音のような音と、木がきしむようなぎい、ぎいという
規則正しい音が聞こえた。――僕は一艘の小船の上にいた。
「…寝ちゃってたか。まあ長い道のりだし、しょうがないか」
そう語りかけてきたのは、船首に立って船を漕いでいた船頭らしき女性だった。
年の頃は十八…いや二十にかかるだろうか。
特徴的な赤い髪を二つに分けて結っていた。
名前は…確か小町、小野塚小町と言っていた。
目覚めの頭は薄く靄ががったような感覚だった。
「…俺は…死んだんだよな」
「此処にいるってことはそうなるねぇ…どうかしたかい?」
小町が答えた。
「…夢を、見ていたような気がする…」
内容は覚えていない。
もう分からなくなっていたのかもしれない。ここにいる事が夢なのか…それとも
生きていたことが夢なのか…。
その境が曖昧になってもうずいぶん経つような気がする。
「夢、ねぇ…生きてた頃のことでも思い出してたのか?」
「そうかもしれない」
辺りは相変わらず深い霧だった。
「疲れたかい?大丈夫、もう少しかかるだろうけどちゃんと渡りつけるだろうさ」
しばらく時間が経った。岸はまだ見えない。
今乗せている魂――十七、八くらいの青年は先程から
蹲るような姿勢のまま黙っていた。
時々、この仕事――三途の川の渡しが辛く思えることがあった。
それはこんな、十分に生を全うしたとは呼べないような魂を
乗せたときが多いように思える。
それは、悲しみや未練といった、死者が抱える想い。
それらが直に伝わってくるような気がするからだ。
死神である自分には理解できないものもあるのが確かだ。
――自分はきっと、それを恐れているのかもしれない。
向き合うことから逃げたいのかもしれない。
「…どうしたんだい、さっきから黙ったままで…」
少し間を空けて青年が答えた。
「…悲しいんだ」
「…悲しい?」
「…何もかも…無駄になった…死んだら、何もかも…それが、悲しくて…悲しくて…」
何も答えることができなかった。
「あたいには分からないけど…あんたはあんたなりに一生懸命生きたんじゃないか?」
持っていた渡し賃の額からしても決して悪い人間には見えなかった。
時間はかかるがぎりぎり辿り着けるだけは持っていた。
本当に、ごく普通の…だから余計に、なんで死ぬ必要があったのかと思った。
…まだまだこれからというところだったのだろう。
なのに…どうして?
誰に訊けばいいのかは分からなかった。
「でも…こんな短い間で、何を残せたんだ…? あったとしても…もう意味がないんじゃ…?」
俯きながら青年はそう言った。
顔は見えなかったが、とても悲しそうな声だった。
「…確かに、死ってのは悲しくて空しいよな。
どれだけ苦労して何かを築きあげても、あとに残るのは骨と花束だけだ」
青年は何も答えなかった。ただ黙って話を聞いていた。
「しかも何かがあったとしてもここまで来たらもう分からない」
やはり黙ったままだった。
「でもさ、自分でそれを否定しちゃ本当に意味がなくなってしまう。
…それに、残ったものがあるなら、
きっと誰かが受け継いでくれる…そうじゃないかい?」
「そう…なのか?」
初めて青年が答えた。
「ああ、そうさ。ここからじゃもう現世の事は分からない…
だからあんたがそれを信じなくてやらなくてどうするんだ。
まだこれから何かを成すはずの人間のことを否定する気かい?
…それは本当に悲しすぎるよ」
「逆にあたいから聞かせてもらうけど…
あんた、悪いことをしなかったって自信はあるかい?」
思えばどうしてそんなことを聞きたかったんだろうか。
…それはこの青年があまりにも純粋すぎたからかもしれない。
「自信は…ないよ」
「そりゃそうだろうね…あるって言う奴ほどしてるもんさ」
はは、と軽く笑いながらそう言った。
「…でも本当に自信が無いのなら、祈ってやるんだな」
「…祈る?」
「そう、まだ生きてる人間、これから生まれてくる人間に、
あんたみたいな悲しい…死が訪れないように」
…僕は泣いていた。
その言葉があまりにも悲しく…そして優しすぎて。
…本当は少しでも安心させたかったからこんなことを言ったのかもしれない。
賽の河原の説話が示すように、親を残して死ぬ子の罪は…重いものなのだ。
だから…
ひょっとしたら一番の罪人は自分なのかもしれない。
「…おや、雨が…降ってきたね」
「そう…だな…」
そう言って見上げた、ぼんやりとした薄明るい空からもぽつりぽつりと雨が落ちていた。
「…涙雨とはよく言ったもんだね…空も、あんたのために泣いてるよ」
死者の涙を湛えた三途の川は、ただその深さを増すばかり。
黄泉中有の旅の路、八重霧の渡しの空に雨は降る。
旅の終わりはまだ見えない。
ほんの僅か先しか見えない。
とても静かだった。いや、
ちゃぷちゃぷという水音のような音と、木がきしむようなぎい、ぎいという
規則正しい音が聞こえた。――僕は一艘の小船の上にいた。
「…寝ちゃってたか。まあ長い道のりだし、しょうがないか」
そう語りかけてきたのは、船首に立って船を漕いでいた船頭らしき女性だった。
年の頃は十八…いや二十にかかるだろうか。
特徴的な赤い髪を二つに分けて結っていた。
名前は…確か小町、小野塚小町と言っていた。
目覚めの頭は薄く靄ががったような感覚だった。
「…俺は…死んだんだよな」
「此処にいるってことはそうなるねぇ…どうかしたかい?」
小町が答えた。
「…夢を、見ていたような気がする…」
内容は覚えていない。
もう分からなくなっていたのかもしれない。ここにいる事が夢なのか…それとも
生きていたことが夢なのか…。
その境が曖昧になってもうずいぶん経つような気がする。
「夢、ねぇ…生きてた頃のことでも思い出してたのか?」
「そうかもしれない」
辺りは相変わらず深い霧だった。
「疲れたかい?大丈夫、もう少しかかるだろうけどちゃんと渡りつけるだろうさ」
しばらく時間が経った。岸はまだ見えない。
今乗せている魂――十七、八くらいの青年は先程から
蹲るような姿勢のまま黙っていた。
時々、この仕事――三途の川の渡しが辛く思えることがあった。
それはこんな、十分に生を全うしたとは呼べないような魂を
乗せたときが多いように思える。
それは、悲しみや未練といった、死者が抱える想い。
それらが直に伝わってくるような気がするからだ。
死神である自分には理解できないものもあるのが確かだ。
――自分はきっと、それを恐れているのかもしれない。
向き合うことから逃げたいのかもしれない。
「…どうしたんだい、さっきから黙ったままで…」
少し間を空けて青年が答えた。
「…悲しいんだ」
「…悲しい?」
「…何もかも…無駄になった…死んだら、何もかも…それが、悲しくて…悲しくて…」
何も答えることができなかった。
「あたいには分からないけど…あんたはあんたなりに一生懸命生きたんじゃないか?」
持っていた渡し賃の額からしても決して悪い人間には見えなかった。
時間はかかるがぎりぎり辿り着けるだけは持っていた。
本当に、ごく普通の…だから余計に、なんで死ぬ必要があったのかと思った。
…まだまだこれからというところだったのだろう。
なのに…どうして?
誰に訊けばいいのかは分からなかった。
「でも…こんな短い間で、何を残せたんだ…? あったとしても…もう意味がないんじゃ…?」
俯きながら青年はそう言った。
顔は見えなかったが、とても悲しそうな声だった。
「…確かに、死ってのは悲しくて空しいよな。
どれだけ苦労して何かを築きあげても、あとに残るのは骨と花束だけだ」
青年は何も答えなかった。ただ黙って話を聞いていた。
「しかも何かがあったとしてもここまで来たらもう分からない」
やはり黙ったままだった。
「でもさ、自分でそれを否定しちゃ本当に意味がなくなってしまう。
…それに、残ったものがあるなら、
きっと誰かが受け継いでくれる…そうじゃないかい?」
「そう…なのか?」
初めて青年が答えた。
「ああ、そうさ。ここからじゃもう現世の事は分からない…
だからあんたがそれを信じなくてやらなくてどうするんだ。
まだこれから何かを成すはずの人間のことを否定する気かい?
…それは本当に悲しすぎるよ」
「逆にあたいから聞かせてもらうけど…
あんた、悪いことをしなかったって自信はあるかい?」
思えばどうしてそんなことを聞きたかったんだろうか。
…それはこの青年があまりにも純粋すぎたからかもしれない。
「自信は…ないよ」
「そりゃそうだろうね…あるって言う奴ほどしてるもんさ」
はは、と軽く笑いながらそう言った。
「…でも本当に自信が無いのなら、祈ってやるんだな」
「…祈る?」
「そう、まだ生きてる人間、これから生まれてくる人間に、
あんたみたいな悲しい…死が訪れないように」
…僕は泣いていた。
その言葉があまりにも悲しく…そして優しすぎて。
…本当は少しでも安心させたかったからこんなことを言ったのかもしれない。
賽の河原の説話が示すように、親を残して死ぬ子の罪は…重いものなのだ。
だから…
ひょっとしたら一番の罪人は自分なのかもしれない。
「…おや、雨が…降ってきたね」
「そう…だな…」
そう言って見上げた、ぼんやりとした薄明るい空からもぽつりぽつりと雨が落ちていた。
「…涙雨とはよく言ったもんだね…空も、あんたのために泣いてるよ」
死者の涙を湛えた三途の川は、ただその深さを増すばかり。
黄泉中有の旅の路、八重霧の渡しの空に雨は降る。
旅の終わりはまだ見えない。
ただ、個人的にはこっちを創想話にしてもらいたかったかもしれません。分量は少なくても、こっちはしっかり『SS』になっていましたし。