些細な事だった。
レイセンが足を止めたのは、少し疲れたという理由だけであり、他意は一切ない。
襲い掛かってくる自分と似た姿をした『何か』を撃退しながらただひたすらに走り続けていたのだから、そうなるのも無理はないだろう。
山を越え、谷を越え、草原を走り、森を抜け、走って、走って、走りぬいた。
どこへ行けばいいのか、そんな事は解らず。
何をすればいいのか、そんな事も解らず。
レイセンは、ただ走るしかなかった。
全てから、逃げるように。
そうして行き着いたのは、小高い丘の上。
頭上を飛び交う赤い物は蜻蛉というものだろうか。
知識では知っていたが、実物を見るのはこれが初めてだった。
他にも聞こえてくる色々な音。
火照った体を冷やす風が運んでくる草の匂い。
かぁ、とどこか呆けた声を上げるのは烏。これも知識でしか知らなかった。
警戒は怠る事無く。否、怠らなかったからこそ、レイセンはその些細な移り変わりを見逃す事はなかった。
「……赤い?」
そう、赤かったのだ。
草も、木も、ふと見下ろした自分の体も。
世界の全てが、赤に染まっていた。
狂視を使いすぎたかと思って目を擦ってみるも、それらは変わる事なく赤に染まったまま。
そしてレイセンは、それを見た。
青かったはずの、空。
最初この地に下りた時、その青い空に驚いた。
だが、今自分の頭上に広がる空はどうだ。
山裾に身を下ろした太陽からその赤が溶け出たように空は染まり、そして次第にそれは藍へと移り変わっていく。
「わぁ……」
漏れたのは、感嘆の声。
まるでそれに呼応するように、ざぁと草を鳴らした風が長い髪を舞い上げた。
知識では、知っていた。
知識でしか、知らなかった。
数多の勲章を付けた上官も、
共に激戦を潜り抜けてきた同胞も、
自分を作り出した者でさえも、
この気持ちまでは、教えてはくれなかった。
「綺麗でしょう?」
「!?」
考えるよりも早く、レイセンはその場から飛び退いて声の主へと敵意の視線を向けた。
いくら見惚れていたとはいっても、誰かが近づけば解らないはずがない。
そのはずなのに、何故自分の真横に立たれるまで気づけなかったのか。
いや、そんな思考は後で構わない。
今はただ、目の前のソレを――
「何をそんなに怯えているの?」
だが、レイセンは出来なかった。
今まで『敵』と見なしたものに対して、一手を繰り出す事に躊躇いなど持った事がなかったはずなのに、だ。
夕日を背負った彼女の姿が、あまりにも綺麗だったから――。
風に揺られて散らばる長い黒髪が、あまりにも美しかったから――。
その微笑みをもっと見ていたいと、思ってしまったから――。
けれど、レイセンのそんな想いなど知らぬと彼女は背を向けた。
「あっ……」
「何をしているの? 行くわよ」
いや、あるいは全てを知っていたのか。
彼女が誰なのか、自分は知らない。
彼女がどこに行くのか、自分は知らない。
彼女が何故ついて来いというのか、自分には解らない。
萎れた耳に止まった赤蜻蛉が、そんな心情を代弁するように首を傾げていたが、耳がぴくりと動くとすぐに飛び立ってしまった。
レイセンを導くように、彼女の元へと飛んでいく赤蜻蛉。
夕日の中に小さくなっていく、彼女の背中。
何をすればいいのか、そんな事は解らず。
どこに行けばいいのか、そんな事も解らず。
髪を揺らす風は、その答えは運んできてはくれなくて。
そもそも、答えなんてものは最初からどこにもなかったのかもしれない。
でも、それでも。
振り返れば、藍色の空に浮かぶ月。
レイセンは小さく何かを呟くと、もう一度前を向いて、遠ざかる彼女を追うために歩き出した。
ねぇ、私はもう、走らなくてもいいのかな――?
伸びた影の一番先で、黄昏色の後ろ姿が夕陽に溶ける。
夜がくればまた、空には月が昇ってゆくだろう。かの珠はいつの世でも、等しく夜に輝き続ける。
ずっと孤独だったけれど、だけど今夜はどうやら――横にいてくれる人が、いるらしかった。
いつもうら寂しいはずの黄昏が、なぜか今日だけは、包み込むように温かかく思える。
朱に染まった髪が、篝火のように揺らめいて……月の姫はもう一度だけ、こちらを振り向いてくれた。
――なんて電波を受信。
何とも近藤さんらしい、美しい空気の作品です。