しまった! 前回の粗筋を脳裏に描き出す事に微塵の躊躇も抱いていなかった燦然とした光景に、
ややあって瞼を再度瞬かせる白が一つ、何かに耐えるような表情で佇んでいる。
あぁ、なんか今日も無難に行け無難に行けと仰ってたなぁ。
そう呟くのは白の少女を覆う、枯れた桜吹雪の風が晴れた瞬間だった。
辺りは霧で覆われるも、彼女の心にはより重く凍て付く靄が若干残っている。
それの一翼をその少女が遣える主が担っている事は目に見える事。
手にした箒は最早ここら一帯を履くべき使命を追えていた事に、彼女は、魂魄妖夢は漸く気付いたのだ。
この次の予定はそれなりに積んである。予定といっても彼女の私用には何も感化はしようがないが。
改めて顔を見回し、気付くこの場の優麗な佇まいの恐るべき事、ここ白玉楼に与するならば、
大なり小なりの犠牲は嫌でも支払わねばならないのだ。
どうせ今日何を働いても。
給金を渡すなどと言う思考が妖夢の主の思考に欠片も無い限り、あの紅い館の給士らと同じ運命を辿る事は明白。
「しまった……今日は信用失う日だった……」
何かぐるぐると思考を募らせるたび、彼女の思想の中に浮かぶ4つの星。
今日の事は今日考えるようにはしている。
妖夢はもう一度眉を顰めた。握る箒に力は篭らないが、わざわざ星座を結ぶかのように飛びまわらねばならない日。
それはある種、妖夢の君主西行寺幽々子嬢の最も頂けない習性に従う時なのだ。
「これが終わらないと幽々子様の信用もなくなるんだけど、むう」
自分の身上が何故彼女に身を捧げるのかは知らないが、とりあえず彼女の命は単純明快、その上で背く事は許されない。
亡霊という概念がそこまで業の深いものなのか。……やれやれ今日の自分はよく考え事をする。
冬に入る前に、加速度的に収益を成さなければ追いつかない。
いずれにせよ今考えるべきはそこだけだ。
というわけで幻想郷各地から溜め込めそうなものは全て、半分無理に強奪せねばならない。らしい。
ずーっと昔から白玉楼に冬もクソもないと思っていたが、幽々子は風情がどうのこうのと適当な事を言って妖夢を駆り出すのだ。
ふぅ。話が長くなった。
というわけで今週――来週もあるのか――の標的は主に紅魔館迷い家永遠亭、そして珍しい向日葵の咲く高原、に定めておいた。
掃除を終わらせた妖夢に残された時間は門限の夕方など曖昧な時間だ。
冥府とはいえ日も高い――なに、そこらのボスに直接頼むよりは下の妖怪にモノを頼んだほうが話は早い――たかだか四件は軒並みけりがつく。
後は観葉植物のために白玉楼にはクソ似合わない、色彩鮮やかな花を勝手に毟ってこい、との命も受けてある。
この際もののついでだ、と、妖夢は箒を片手に、幽々子へ挨拶する間も惜しんで飛び立った。
さて、文句付ける前に……3つの家から肥しになりそうな食料を、大量に頂く。
・
「いやですから、食料を」
「無理を言わないで下さい。というか名だたる西行寺家が食料の無心ですか、嘆かわしい」
最初に訪れた紅魔館では物の見事に門前払いを言い渡される。
実際問題、食料を無心して貰うほど白玉楼は困っていない。
妖夢本人ですら何故こんなお使いを頼まれるのかすら理解できていないのだ。
「そこをなんとか」
「駄目です無理ですお断りです。物々交換や金銭のやりとりならならまだしも、ただ単に食料を下さいではいそうですかなんて言えますか」
応対に出たのは紅い紅毛を風に揺らす大陸風の衣装を着こなす美女、紅美鈴である。
紅魔館の門番にして、取り次ぎ役である彼女は柔らかな外見とは裏腹に結構な頑固者であった。
「むぅ……」
当然と言えば当然な美鈴の態度に妖夢は唸って黙り込んでしまう。
考えているのはどうやったらこの面倒で意味不明なお使いを果たせるのか? という事。
「とにかく、紅魔館としても、私個人としてもそんなような誇りの無い行為はお断りです。理解できたならお引き取りください」
幼子に言い聞かせるように念を押した美鈴は用事はそれだけだと口を閉じて妖夢を見据える。
妖夢はしばし考え込む。
――お使いは果たしたい……が、こんな無茶を言いつけた幽々子さまにも疑問が残る、な。
「では、一つだけお聞きしたいのですが……」
やや躊躇いがちに妖夢は口を開いた。
「美鈴。貴女は幽々子さまは何を思って私にこんな事を言いつけたと思います?」
「そ……」
んな事解かる訳が無いでしょう。と言いかけたが、美鈴は口をつぐんだ。
妖夢の眼差しは本気である。迂闊な事を言うのはこの小さな少女には酷かもしれない。
「んー……っとね」
しばらく考えてみる。まさか単純に食料が欲しいだけであの当主がそんな事をするだろうか。
しかねない。しかねないのだが、あまりにも無理無茶無謀な言いつけだ、きっと裏があるに違いないと思う。
「私もあんまり頭がいいわけじゃないからなぁ……」
ぽつりと口から零れたのは諦めと嘆息と記憶の底に沈む過去。
裏があるのは間違いないと見ていいだろう。聞けば他にもマヨイガ、永遠亭、向日葵の花畑に行かなくてはならないと言う。
明らかに変である。しかし、変という事しか解らない。
「ごめん、ちょっと解らないわ」
ふにゃっとした笑顔で両手を合わせる美鈴に、妖夢ははぁと溜息をついて肩を落とした。
「そうですか……」
明らかに落胆した様子で回れ右をする妖夢。
「あ、ちょっと待って」
その背中に美鈴は声をかけると、ぱたぱたと室内に戻っていった。
「……??」
困惑しながらもしばらく待っていると、美鈴は何かの缶を抱えて戻ってきた。
「はい、答えられなかったお詫びに」
缶を渡しながら美鈴は笑う。
「これは?」
「お茶の葉。確か貴女の所は日本茶が多かったと聞いてたから、たまには紅茶や中国茶でもいいかなって」
受け取った缶を開けてみると、さらに小さな缶が二つ。ラベルには武骨な字で「烏龍」と書かれた缶と、「AreGray」と書かれていた。
「お茶でも飲んで、肩の力抜いた方がいいですよ? それに、これなら言いつけも果たせますし」
夕暮れの紅い光を浴びながら笑う美鈴の笑顔に、妖夢はなんともいえない優しさを感じながら、
「これは申し訳ない、恩に着ます」
堅苦しく礼を言い紅魔館を辞した。
「だから、肩の力を抜きなさいって言ったのにねぇ」
夕暮れの紅魔館には、美鈴の呟きだけが漏れたが、それを聞くはずの妖夢は既にいなかった。
・
「あんた馬鹿?」
一刀両断である。
身も蓋も、情けも容赦もない斬撃に妖夢は思わず一歩たじろいだ。
まぁ、考えてみれば当たり前。永遠亭を探して竹林に来たは良いものの小一時間も彷徨った挙句、偶々竹林を散歩していた詐欺兎を見かけるや否や「食べ物を分けてくれ」である。
そりゃ立場が逆なら自分だって「何処の赤貧チルドレンだおまいは」とか思うだろう。
「あーいや、無茶なのは承知ですが、その私にも立場というものがありまして……」
言い訳の言葉にも覇気がない。妖夢とて主の言葉に理不尽さを感じているのだ。自分で信じられぬものを他人に強制できる程、妖夢は強くない。開き直りが足りないとも言う。
傍若無人唯我独尊が主流である幻想郷においては稀有な気質である。それが幸か不幸かでいえば、残念ながら右に天秤が傾きっぱなしではあるが。
対するは人を騙して数百年。筋金入りの詐欺師――因幡てゐ。
口をもごもごさせて俯く妖夢を横目で眺めると、口元に薄く笑みを浮かべた。
「まぁ、そっちの理不尽さはさて置いて……食料を分けてあげても良いけど?」
「ほ、本当ですか!」
「ただし……無料って訳にはいかないよね?」
てゐの顔に向日葵の様な笑みが浮かぶ。
人よ、知るがよい。悪魔の笑みはいつだって魅力的だという事を。
ぎりぎり半分人だった妖夢は、その笑みの恐ろしさを知っていた。まぁ、幽々子とか紫とかが良く浮かべる笑みと同じだったからかもしれない。
「えと……ど、どうすれば良いのでしょう?」
「そうね……お金ってのがシンプルで素敵だわ」
「……すいません。手持ちがあまり……」
「あらら、それじゃこの話はご破算ね?」
「あ、待って! その……お金はないけど……それ以外のものなら」
「ふ……ぅん」
てゐは妖夢の身体をしげしげと眺める。
女郎屋に売り飛ばすか? 否、こんな貧相な身体では売り物にならない。
刀を差し押さえるか? 否、あんな妖しげな刀だと、売りさばいたらあとあと祟りそう。
後は……
「ん? その風呂敷何が入ってるの?」
てゐは妖夢の背中に背負った風呂敷包みに目を付けた。何が入ってるのか知らないが妙に凸凹している。
「これですか? これは紅魔館で貰ったお茶ですが?」
「ふぅん、ちょっと見せてくれる?」
「え、あ、はい」
妖夢が風呂敷を解いて広げると、そこには小さな缶が二つ。
「烏龍は解るけど、AreGrayって何?」
「あ、紅茶です。前に飲ませてもらった事ありますし」
「ふむ……紅茶か」
てゐの頭で算盤が弾かれる。永遠亭では基本的に日本茶しか飲まないし、偶にはこういう毛色の変わったものも良いかもしれない。
「そうね……このお茶二缶とだったら交換しても良いわよ?」
「え! あ、でもそれは折角貰ったものですし……」
「馬鹿ね。わらしべ長者の話知らないの? 物々交換により莫大な富を得るという、これはその一段階目よ。どうせまだ他のところも回るんでしょ?」
「あ、はい」
「投資をする時はケチっちゃ駄目。株取引の基本よ?」
「はぁ、かぶ……」
妖夢の頭の中には八百屋の風景しか浮かばなかったが、てゐの言う事も解らないでもない。
しばらく考えて、一つ頷く。
「解りました。交換に応じましょう」
「そうこなくっちゃ」
てゐの顔にも妖夢の顔にも笑顔が浮かぶ。お互い納得できる取引というものは稀有なもの。その出会いは大事にすべきである。
「それでは……何を交換してくれるんですか?」
「そうね……竹林名物って事で筍は如何かしら?」
「わぁ、それは幽々子さまも喜びます!」
妖夢がぽんと手を叩きながら喜び、てゐもまた笑みを浮かべる。
「それじゃ、持って来るからちょっと待っててね」
「はい!」
竹林を飛び去っていくてゐを見送りながら、妖夢はその場にしゃがんで待つ事にした。
迷ってしまっていた分、時間を食ってしまっている。急がないと他のところを回れない。
さて、次は何処に行くべきかと考えていると、てゐが戻ってきた。
「お待たせー」
「わ、こんなに一杯! いいんですか、こんなに?」
てゐが抱えてきたのは風呂敷一杯の筍の山。はみ出るほどぎゅうぎゅうに詰まっている。
「いいのよ。家でも余ってたし」
「それでは、このお茶と交換という事で」
「契約成立ね。今後とも良しなに」
そうしててゐはお茶二缶を、妖夢は抱えきれない程の筍を手に入れた。
重そうに筍を抱えて飛び去る妖夢を、てゐは笑顔を浮かべて手を振りながら見送る。
――仮面の笑顔を。
妖夢は忘れている。筍の旬は春だという事を。
この時期の筍など、固くて食べられないという事を。
「ま、私と会えたんだから幸せにはなれるでしょうよ。半分だけはね」
人を幸福にする詐欺兎。
足取りも軽くお茶の缶を軽くお手玉しながら、竹林の奥へと消え去った。
・
――一方その頃。
「はい王手」
ぱちん、と小気味のいい音が響いたのは、白玉楼は西行寺の屋敷、その縁側。
いよいよ追い詰められた幽々子は、膝の上で握る拳を震わせてむむむむぅ、と唸っていた。
もう冬も目前。何もわざわざ吹きっさらしの縁側で将棋などささなくてもいいだろうに、何故そんな事をしているのか。
それはひとえに幽々子の作戦だった。
「冬は冬眠する=寒さに弱い=寒けりゃ頭の回転も鈍るんじゃないか」などと、普段の幽々子からすればまず思いつきもしないであろう稚拙な作戦。
そんな子供じみた考えに行き着いてしまうほど、幽々子は焦っていたのだ。
その結果
「待った」
これ以上ないというような神妙な面持ちで、幽々子は目の前で意地の悪い笑みを浮かべる友人を見る。
「ダメ」
しかし必死の願いはあっさりと却下されてしまった。
「もう四回も待ってあげたじゃない。いい加減負けを認めなさいな」
ふあ、と欠伸を一つ。にやけた面を崩し、さも退屈そうな声で唸る幽々子を窘める。
しかし幽々子も今回のこの勝負にかける意気込みは相当のものだったのか、中々引き下がろうとはしない。
なにせ今までにも、もう何十、何百……数えるのも億劫になるほどの勝負の中で、たったの一度も勝てた試しがないのだ。そりゃあいい加減勝ちたくもなるだろう。
「それにしても、あの子もとんだ災難ねぇ……」
ふと、誰に向けるでもなく、紫が呟いた。
いつの頃からだろうか。やがて訪れる冬、春までのしばしの別れ。その前にこうしてここに来るようになったのは。
今、白玉楼には誰もいない。
式も、式の式も、半人半霊の庭師も。いるのはただ、紫と、幽々子だけ。
彼女等がいれば確実に場が荒れるであろう話題に華を咲かせ、そしていつの頃からか始まった、この勝負。
ようは、幽々子にだってちょっとはプライドというか、なんというか、そういうものがあるという事なのだ。
たかがゲームとはいえ、自分がここまで他人に完膚なきまでに負けるという姿を見られたくない、見せたくない。
しかし当の従者はそんな事はつゆ知らず。
「今頃はあいつの所かしらねぇ……」
いまだに唸っている幽々子を尻目に、紫が庭へと目を向ける。
すっかりと葉が落ちてしまった桜の木は、なんとも寂しげに見えた。
∽
「で、それと何を交換するんだっけ?」
黄色い芝草に覆われた小高い丘の上。夏は一面が向日葵で彩られるそこも、今はその影もなく。
だがしかし、彼女は今日もそこにいた。
一部ではそこに住み着いているんじゃないか、などと言われているが、彼女、幽香にだってちゃんと寝床とする家くらいはある。
では何故、花の一つもないこの季節になってもこの場所にいるのか。
その事を聞けば、彼女はこう答える。
「知らないの? 冬には冬の花があるのよ。少ないけど」
それに対し、妖夢が「はぁ……」と答えたのがもう随分と前の事。
どうにかして穏便に事を進めたい妖夢は、先ほどてゐから教えてもらった取引に関する云々を幽香に伝えようとしたのだが、付け焼刃の知識はあらぬ方向へと事態を運び、ようやっとの事で幽香の口から先の言葉が出たのだった。
「えぇまぁ、その、何か食料を頂ければと」
その最中で何があったのか、服をボロボロにした妖夢は疲れた口調でそれを告げるのが精一杯だった。
だから妖夢は気付かない。
己の目的がいつの間にか「食料集め」から「食料交換」になっている事を。
もしこの一連の出来事を幽々子が見ていたら、きっと「妖夢はダメねぇ、ダメダメねぇ」なんて言っていただろう。笑いながら。
まぁその幽々子も今は盤面を睨んで唸っているのだが。
「でも食料って、この筍じゃダメなの?」
至極真っ当な質問を返されて、妖夢は咄嗟に返事ができなかった。
そしてその一瞬の間は、妖夢に一つの疑問を投げかけるには十分な間であった。
「あれ? そういえばなんで私は最初から交換なんて形に?」
どうやらそこまでダメな子ではなかったらしい。
だが、それを撤回して「食料ください、出せよあるんだろこの花野郎」なんて言った日には、服どころか身体までボロボロにされそうだ。色んな意味で。
「いえ、できれば何か珍しい食材とかがあると嬉しいのですが」
だから、妖夢は別の方向へと考え方をシフトさせた。
確かに筍は美味しい。美味しいが、そこまで珍しい訳ではない。
どうせなら、とびっきりの食材で幽々子の事を喜ばせようと考えたのだ。
なんとも微笑ましい従者根性である。が、それもまた当初の目的からズレている事に気付かない辺り、やはりダメな子らしい。
「珍しいもの、ねぇ……」
そうして暫く、何か思い当たる所があったのか、幽香がぽんと手を叩いた。
それを見た妖夢が期待の眼差しで身を乗り出し「私は何も持ってないわ」そのままこけた。
「まぁまぁそんな顔しないで。変わりにいい事を教えてあげるから」
「……いい事?」
「そ。あの――なんだっけ、猫がいるでしょう。式なんて憑けた黒猫が」
式、黒猫。そこから思い当たるのは妖夢もよく知る者の顔。
「橙の事ですか?」
「あぁ、そんな名前だったのね、あのおチビちゃんは」
自分から言い出しておいて名前も知らなかったのか、と言いそうになったが、これ以上場を荒らしたくない妖夢は黙って幽香の続きを待った。
「あの子がね、この前何か凄く美味しい物を見つけたって言っていたのよ。それを分けてもらえばいいんじゃないかしら?」
「へぇ……なんだろ?」
「さぁ、それは私も知らないわ。直接本人に聞いた方が早いでしょう」
なるほど、と今度は妖夢がぽんと手を打った。
ここでも予定外に時間を食ってしまったのだ。急がねばそろそろ日も暮れてくる。
妖夢は「ありがとうございます」と軽く一礼して、幽香に背を向けた。
「待ちなさい」
だが、いざ飛び立たんとしたところでかけられた制止の声に、妖夢はつんのめって……本日二度目の転倒。
何事かと、赤くなった鼻をさすりながら涙目になって振り返ると、そこにはついさっきどこかで見たような笑顔で妖夢を見る幽香の姿。
「な、なんでしょう……?」
「情報料くらい、あってもいいわよねぇ?」
先のてゐとのやりとりを思い出し、妖夢は一人あぁ、と納得したように頷く。
「でも、今は手持ちが……」
「それでいいわよ、それで」
と、幽香が指差したのは最初に交換しようと持ちかけた筍だった。
「でも、流石に全部は……次もありますし」
「いいわよ別に、そんなに食べないから」
「……」
「? なによ?」
「あぁいえ、てっきり全部取られるものだと――」
その言葉に幽香は一瞬むっとしたような顔を見せたが、すぐにそれを笑顔の下に隠すと、受け取った幾本かの筍を片手にそのまま妖夢を見送った。
そして妖夢の姿が十分に小さくなると、さて、と幽香もまた背中を向けた。
「ふふ……さぁ子猫ちゃん。今度の『鬼』は少しばかり素早っこいわよ。今度は上手く逃げられるかしら?」
そう言う幽香の顔には笑顔があった。
だがそれは、先ほどまで妖夢を見送っていた向日葵のような笑顔ではなく、ひどく嗜虐的なもので。
「さて、と。今晩は筍ご飯かしらね」
そんな事ばかり考えていた所為だろうか。幽香もまた気付かない。
その手に持つ筍は、ちょっとやそっと湯がいたところで、柔らかくはなってくれないという事に――
・
少しだけ嵩の減った風呂敷包みを手に、妖夢は足取りも軽くマヨヒガへ向かう。
紅魔館で首尾良く食料―――というかお茶なのだが、まぁ収穫を得たのは良いとして、次の竹林で兎詐欺の話術に幻惑されて折角の洋茶を筍と交換していたのは、本来の主旨からそれるところだ。
でもそれも筍の量から考えればまぁ許容範囲だろう。それに、風見の所で得た情報が確かならマヨヒガの主の式の式が大層美味しい物を見つけたようだから、それを分けて貰えれば今週の所は完了である。
それなりの収獲に対し、想定していた程信用を失う破目に陥っていないのは、妖夢にとって幸運と言えた。
少々風通しの良くなった服はまぁ繕えば良いし。
「ぃえっきし」
くしゃみを一つ、それでも妖夢の足取りは変わらない。
ただ、いくら交流があるとはいえ、明確な場所を知りえていないマヨヒガに狙っていくのは妖夢でも難しかった。
おおまかな場所こそ分かるのだが、まぁそこからはいつもの手を使えば全く問題も無い訳であはる。されど、その手段は場合によっては痛みを伴うのだ。
その場所に来た妖夢は、駆ける足はそのままに、まるで何かから身を護る為に両腕を顔の前で交差させる。
そして瞼を閉じた。
マヨヒガは迷わなければ辿り着けないのだ。
瞼を開いたままあてども無く彷徨う事でも辿り着けなくは無いが、その場合は迷っていると判断されるのに時間が掛かるためか、中々辿り着けない。
だから妖夢は瞼を閉じたのである。
だが一応は剣士である彼女は、瞼を閉じたくらいで前後を見失うような事にはならない。
なので、
「はっ!」
わざわざ軽く跳躍し、そのまま頭から地面へと突っ込むようにして盛大に転んだ。
闇の中何度か地面の上を転がり、そして持ち直して立ち上がれば、前後不覚の出来上がりである。
そして、再び妖夢は走り出す。その足取りはやはり軽く、今や何処へ向かっているかも分からないというのに、躊躇も気後れも全く感じさせなかった。
―――自信満々に迷ったまま六百歩くらいは走ったろうか。
その間坂を転がり落ちたり林に突っ込んで枝に酷い目に遭わされたり木に直撃したるもしたが、それでも妖夢は瞼を開くことは無かった。
ただ、踏みしめる土の感触が変わった事に妖夢は気付く。
先程までの未開で草交じりの不安定な大地ではなく、今踏んでいるのは住まう者によって踏み固められた硬い大地。
だがここで安心してはいけない。
ひょっとしたら思い違いかもしれないからだ。
慎重な妖夢は、マヨヒガに住む誰かに呼び止められるまでいつもそうしていた。
何故なら慎重なだけでなく、幽々子の言い付けだからでもある。
そうやった無明のままに妖夢は走り続け―――
「はい止まって止まって止まってー」
走り続け―――
「あれ? 止まってったらー」
走り―――
「飛翔韋駄てーん」
「っ!?」
横合いから思い切り体当たりを喰らって吹っ飛んだ。
これまたごろごろと転がって木にぶつかってやっと止まり、何事かと瞼を開いた妖夢の前には橙が居た。
「迷い家へようこそ」
笑顔で橙は手を差し出す。
お互い見知った中だが、それでも気取った挨拶をしたい年頃なのだろう。
「久しぶり」
言って、妖夢は橙の手を取って立ち上がる。
道中結構散々な事になってた気がするが、それでも手の風呂敷とその中身は無事だった。半霊が頑張ったからだろう。
「で、何の用? 今私しか居ないけど」
留守番で暇を持て余しに持て余して包んで捨てたい所だった橙は、思わぬ登場者に瞳が輝いている。
「いや……幽々子様の言い付けで食べ物を集めてる所で」
橙の瞳の輝きに押され気味になりながらも、妖夢は用件を果たそうと懸命だ。
「あ、お使い?」
「うん」
「でも私の所も、これから貯めなきゃいけない時期だし……そういうのは私が決めちゃいけないし」
「あー……」
「正直なところ、その筍を分けてもらいたいくらいかも」
言われて、妖夢は内心「またかー」と思った。
でも確かにてゐのくれた筍の量はかなりもので、お裾分けの代価を得れば色々と穏便に事が運ぶのだろう。
「じゃあ、分けてあげるから……その、聞いた話なんだけど、何か美味しい物を見つけたらしいね?」
妖夢の言葉に橙の耳がぴくりと動く。
「それと交か」
「駄目」
即答だった。
「駄目って……」
「アレは私が私の為に獲って来たのであって、誰かにあげる為の物じゃないの」
「そう言われると……じゃあ、他に何か、ある?」
「それは……あるにはあるんだろうけど……さっきも言ったじゃん?」
見詰め合う二人、しばしの間。
「つまり、無理と」
妖夢が言うと、橙はうんと頷いた。
ただ、頷いた後橙は不思議そうな顔をする。
その顔に対し妖夢が目線で理由を問うと、
「何で家に食べ物を貰うのに、わざわざお使いに来てるの?」
もっともな理由を橙は述べた。
確かにその通りなのである。
マヨヒガから食べ物が欲しいのであれば、幽々子が紫に言えば済む話なのだ。何せ二人は友達なのだし。
だのにこうして妖夢が此処にいる理由―――それは幽々子の言い付けである。
「私は幽々子様に頼まれたからお使いに来ているんだ」
だからそれを口に出して言ってみた。
対し橙とて、主からのお使いともなれば何としてでも達成したいものであり、そういう意味では妖夢を手伝おうと思いたくもある。
「でも、無理なんだよねぇ」
だけど、その思いよりも留守番を任せられた事の責任だとか諸々の方が勝っていた。
再び見詰め合う二人、風が吹き抜ける間。
「えー……っと」
ばつが悪そうに妖夢は頭を掻く。
此処がマヨヒガでなければ、相手が主の友人の式の式でなければ、或いは力づくという手もあったろう。
「それじゃあ、帰ろうか……な」
だがまさかマヨヒガで主の友人の式の式を打ち負かしてまで食料を得ようとはいくらなんでも思えない。
「あ、帰っちゃうの?」
回れ右をしようと半歩引いた妖夢に、橙は残念そうな声を掛ける。
前述の通りこの黒猫は暇で暇で暇で暇で暇だったのだ。
「そりゃあ、まぁ」
橙の眼差しを受け苦笑する妖夢である。
一度引き止めても尚無理ならば、そしてお使いの最中であるならば、いくら暇々とはいえ橙も強くは言えない。
「残念。じゃあ、またね~」
だから笑顔で手を振った。
こちらに背を向けるなり、顔面に腕を交差させて駆けて行く緑の少女をじっと見つめながら。
―――この後、マヨヒガを出た妖夢がふと思い出して幽香の下へ花を貰いに行き、筍の固さに難儀していた彼女にとても酷い目に遭わされるがそれはどうでもいい事なのであった。
妖夢にとても似ている男の子だと言うことになりますが・・・
宜しいですね!?