本当の月が隠された。
それは幻想郷を生きる者たち――月の影響を受ける妖怪たちと、妖怪の影響を受ける人間たち――にとっては、とてもではないが無視できない一大事だった。真の月が隠されればその影響は計り知れない。種族によっては滅亡すらしてしまうだろう。
月の光を得て生きる妖精がいる。
月の光で力を得る化生がいる。
月の元で最強となる鬼がいる。
彼女たちにとっては、月は決して欠かすことのできないものだった。
それはなにも、妖怪だけではない。
魔法使いという種族にとっても、月の重要性は変わりなかった。月の満ち欠けはバイオリズム。魔力の道幅は月に大きく作用される。
そんな理屈を全て差し置いても――月がすりかえられるというのは、ここしばらくなかった、本当の【危機】だ。
普段は酔狂な魔法使いや、サボり気味の巫女に事件の解決を任せている者たちも、今度ばかりは立ち上がらざるを得なかった。
それは――七色の魔法使いこと、アリス・マーガトロイドも、例外ではなかった。
だからこそ彼女は、万全の準備を整えて、最も頼りになる友人の元へと出向いたのだった。
* * * * *
こん、こん、と控えめなノックが二回。その音で、霧雨 魔理沙は眼を覚ました。
わずかな物音でも眼を覚ませたのは、眠りが浅かったからだろう。なぜ浅いのか、起きたばかりの魔理沙には分からない。まさか月が関係しているのだと、それこそ夢にも想わなかった。
眠さを堪えきれずに、一度大あくびをしてから「はぁ……い」と扉の向こうに向かって返事をした。
自分では元気よく答えたつもりだったが、声は、どうしようもないほどに寝ぼけていた。
が、声以上に頭が寝ぼけていたので、そのことについて深く考えることはできなかった。
あくまでも自分はしゃっきりと起きているつもりで、魔理沙は扉の向こうにいる誰かに向かって、
「だぁーれー……」
いつもの気丈さがまったく感じられない、とろけたような声だった。
扉の向こうで、一瞬驚いたような気配がした。寝ぼけていても魔理沙にははっきりと分かったが、やはり分かるだけでそれについて考えようともしない。
その誰かはしばらく躊躇したのち、
「私だけど。入っていいかしら?」
――聞き覚えのある声。
微かに置き始めた脳が動き出す。声には確かに聞き覚えがあった。『私だけど』だけで通用する間柄。
七色の魔法使い。
人形遣い。
アリス・マーガトロイドの声だった。
寝ぼけていてもそれくらいは分かった。なんでこんな時間に来たんだろう――とも思ったが、考えるのは面倒だった。
ベッドから上半身だけ起こし、思い切り背伸びをし、さらに欠伸をしてから魔理沙は答える。
「いいぜ……入っても……」
「ありがとう――お邪魔します」
返事と共に、鍵のかかっていない扉があっさりと開かれた。
欠伸の後眼をこすっていた魔理沙には、その姿がはっきりと見えない。
ただ、音だけは聞こえた。
七人分の足音が。
そのことについて、魔理沙が疑問を感じるよりも早く。
扉から入ってきた一人目――赤い服のアリスが言う。
「アリス・アカガトロイド!」
扉から入ってきたニ人目――黄色い服のアリスが言う。
「アリス・キガトロイド!」
扉から入ってきた三人目――赤い服のアリスが言う。
「アリス・アカガトロイド!」
扉から入ってきた四人目――赤い服のアリスが言う。
「アリス・アカガトロイド!」
扉から入ってきた五人目――黄色い服のアリスが言う。
「アリス・キガトロイド!」
扉から入ってきた六人目――赤い服のアリスが言う。
「アリス・アカガトロイド!」
扉から入ってきた七人目――赤い服のアリスが言う。
「アリス・アカガトロイド!」
そして、まったく同じ顔の七人の魔理沙は、声をそろえて言う。
『七人揃って、七色の魔法使い・アリス・マーガトロイド!』
「………………」
寝ボケが、一瞬で遠くへ飛んで行った。
それでも魔理沙は何も言えない。目は覚めたが、それ以上の衝撃で脳が固まってしまったのだ。
パーフェクトにフリーズした魔理沙に向かって、七人のアリスは容赦なく言葉を投げかける。
『さあ魔理沙、事件を解決しに行くわよ!』
自信満々の七人のアリス。声は活気と活力に満ち溢れていた。
この幻想郷という素晴らしい楽園で起こる異変を、自らの手で解決しようという意気込みが、彼女の声に力を与えているのだろう。
が――
言っちゃあなんだが、そんなことは、魔理沙にとってはどうでもいいとすら思えた。
今、目の前に広がる、たちの悪い悪夢のような光景に比べれば。
「…………七色の魔法使い?」
脳を凍りつかせた氷をマスタースパークで溶かし、魔理沙はようやくそう口にした。
七人のアリスが、まったく同じ動作で首を縦に振る。一糸乱れる行動は、見ていて清々しいような、それでいてハリセンで殴りたくなるような素敵な眺めだった。
魔理沙は悩む。
今すぐここでファイナルマスタースパークを全方位に向かって放つのと、ベッドで丸くなって毛布を頭までかぶって楽しい夢に戻るのと、どちらの方が幸せになれるだろうか、と。
悩みに悩んで、結局、魔理沙は現実逃避することができずに、
「……違うよな、それ」
アリス・マーガトロイドに向かって、そう告げた。
「え?」
今度は、同時に七人のアリスが首を傾げる。一瞬のタイムラグもなかった。
「おかしいぜアリス、アリス・マーガトロイド。何、何が何だって?」
『七色の魔法使い』
えっへん、と七人のアリスが胸を張る。どこまでも誇らしげだった。
その反応に、魔理沙はばん、とベッドを叩いて声を荒げた。
「おかしいぜ!? 何色だよ。むしろ何者だよ」
「アリス・アカガトロイドよ」
『七人そろって、七色の魔法使い!』
これはきっと悪い夢に違いない――そう思って魔理沙は目をこするが、目の前にいる七人のアリスは消えることも、一人になることもなかった。わずかな差異すらない七つの顔がそこにある。違うのは服の色だけだ。
しかし――七色の魔法使い。
何をおいても、そこを突っ込まねばいけないと魔理沙は思う。自分以外の誰かにやってほしかったが、生憎と、この場にはアリス(たち)と魔理沙しかいない。
自分が言わなければ、誰も言ってくれないのだ。
なけなしの勇気をかき集め、魔理沙は七人のアリスのうちの一人――正面に立つ、黄色を基調とした服を着たアリスに問う。
「……何色だって?」
「アリス・キガトロイドよ」
その返事を聞いてから、隣の隣、同じく黄色の服を着たアリスを指さして、魔理沙は問う。
「……お前は?」
「私もアリス・キガトロイドよ」
「おかしいだろ!? なんで黄色が二人いるんだよ」
再びばん! と魔理沙はベッドを叩く。一度では飽き足らず、二度、三度とベッドを叩く。できることならばアリスの頭にチョップを振り下ろしたかったが、ベッドに座ったままでは手が届かなかった。
ベッドから降りて近寄る勇気など、もちろんない。
二人の黄色いアリスは、魔理沙の激昂にも堪えた様子もなく、さも当然のように答えた。
「赤は五人いるわよ。些細な問題ね」
「赤多いよ! なんで赤が五人で黄色が二人なんだ!? 全然七色じゃないじゃない。二色じゃないぜ」
「『じゃないじゃない』ってすごい面白い言い回しね魔理沙」
「突っ込み返すところはそこか!? 私何かおかしいこと言ってるか?」
くすり、と笑う七人のアリスに向かって、魔理沙は枕を投げつけた。が、アリスたちはあっさりと枕を避けてしまう。普段弾幕を避け続けている彼女にとってしてみれば、空気抵抗が大きすぎる枕になど当たるはずもないのだろう。
七人のアリスは不敵に微笑み、そのうちの一人、赤いアリスが代表して口を開く。
「話せば長くなるんだけど――」
「長くてもいいからきっちり話して欲しいぜ」
心の底から力を込めて、魔理沙はそう言った。
なんでアリスが七人もいるのか。色の偏りは趣味だと諦めるとして――そのことだけは説明して欲しかった。
アリスは、神妙な顔つきで、重々しい口調と共に、その秘密の理由を吐き出した。
「私が七人いたら、七倍強くなれると思わない?」
「…………」
「というわけで、自分と同じ人形を六体作ってみたのよ」
その声は、どこまでも、誇らしげだった。
自分の考えたアイディアを疑ってもいない、そして疑うことなく実行してみせた、自信と自慢に満ちていた。
けれども――
魔理沙は、頭に浮かんだ疑問を、ぽつりと漏らした。
「……魔力は一人分なんだから、一人あたりの実力は1/7だろ?」
「――――」
「――――」
「――――」
「――――」
「――――」
「――――」
「――――」
七人が七人、一斉に沈黙した。魔理沙も同じように沈黙し、半眼で七人のアリスを睨みつける。
つぅ、と汗が七人同時に伝った。魔理沙の目がさらに細まる。氷のような視線だった。
そのまま、アリスはしばらく沈黙し、魔理沙も何もしようとしなかった。
先に動いたのは――アリス・マーガトロイドの方だった。
七人のアリスは、一斉に人差し指をぴんと立て、
『今日のところは、これくらいにしておいてあげるわ!』
一方的にそう告げて、踵を返し、嵐のような勢いで外へと出て行った。
後に残されたのは、呆気にとられた――放心した、魔理沙だけ。
「…………」
ぽりぽり、と魔理沙は頭をかき。
「……寝るぜ」
誰にともなくそう呟いて、ベッドの上で丸くなった。枕がないことに気付いたが、ベッドから降りてとりにいく気力など残っているはずもなかった。
丸くなり、毛布を頭までかぶり、何も考えずに眠りにつく。
窓の外には偽者の月。
ああ、夜は終わらない。
魔理沙 → アリス の間違いかな?
ウドンゲにあったらもっとまずいことに……!