注:同作品集内「子は親に似る」の設定を引き継いでいます。
「この状況、どうしろってのよ……」
一人、ぼやく少女。
本来なら、普段と何ら変わるはずのない部屋の一室。その、一角に据え付けてあるテーブルについて、彼女は紅茶を口にしていた。
優しく香る甘い匂い。ゆらりと揺れる水面は、見事なまでに紅葉色に染まっている。もうすぐ秋も来るかしら、と思いながら、また紅茶を一口して。
しかし、それは単なる現実逃避にしか過ぎないことを思い出す。
「……寝るなよ」
もはや、ぼやくしか出来ない。
そんな彼女の視線の先には、テーブルに突っ伏して、気持ちよさそうにすやすやと寝ている女の子の姿があったのだった。
事の発端は、目の前の彼女――霧雨魔理沙が、『お茶会』と称した他人様の家への乱入&隙を見ての魔法書窃盗にやってきたことに始まる。
家の主、アリス・マーガトロイドは、「盗んだらぶっ飛ばすわよ」と笑顔で警告するのだが、今のところ、彼女がそれに恐れをなしたことはない。詰まるところ、それだけ、彼女は魔理沙を家に迎えているのだ。結論などわかっているのに、である。無論、結末がわかっているからこそ、注意を怠らないのだが、しかし、天性のスキルのたまものなのか、今のところ、アリスが魔理沙をとっちめることに成功したことはなかった。
それに、だ。
彼女は別段、魔法書を盗むことが目的……ではないのだろう。きちんと、お茶会そのものは楽しんでいくのだから。ただ、その目的の本質がどこにあるのか――それだけは探らないと出てこないことかもしれない。
アリスは、魔理沙が「お茶会に来たぜー」と喜色満面の笑みを浮かべている時ほど、彼女を警戒する。絶対に、彼女はその笑顔の裏に何かよくないことを企んでいるからだ。その予想は的中し、そういう笑顔を浮かべている時に限って、三冊もの魔法書を一度に持って行かれるという目にもあったのだが。
――さて、閑話休題。
今回も、魔理沙はお茶会を名目にやってきた。ただし、おまけとして、今まで持って行った魔法書のうち、恐らく、必要なくなったのだろうと思われるものを数冊、持ってきてのことだったが。
そうして、テーブルについて、「じゃ、茶を頼む。茶菓子はケーキがいいなー」なんてことを堂々と言い放って、アリスをキッチンへと追いやった。もちろん、その間、魔理沙が暴挙に出ないよう、アリスは手持ちの人形達のうち、何体かを彼女の見張りとしてつけた。今回はろくでもないことをしでかさないよう、あくまで、『お茶会』だけを達成させるつもりでの見張りだ。
ところが、である。
そのうちの一体が、奇妙な話を持ってきた。その奇妙な話というのが――、
「人の家を何だと思ってるのかしら」
テーブルについて、何分もしないうちに、彼女は堂々と居眠りを始めたのだ。
時刻から行くのなら、お昼寝、と言い換えることも出来るだろう。疲れていたのだろうか。にしては、やってくる時は、アリスの警戒する満面の笑顔だったのだが。
ともあれ、お茶を淹れ終わり、お菓子もきちんと用意してテーブルに戻ったアリスが見たのは、これまた気持ちよさそうな顔をしてすやすやと寝ている魔理沙の姿だったわけである。
さて、どうしたものか。
「叩き起こす……のが一番よね」
お茶は冷めてしまうし、ケーキは生菓子だ。あっという間に腐るというわけではないが、それでもナイフを入れて、そのまま放置というのはケーキそのものにもかわいそうである。両方とも、今が食べ頃飲み頃なのだ。せっかくお茶会を始めようとしたのに、その主役の一人がこれではアリスも興が削がれてしまう。
仕方ないわね、とうなずいてから、そっと手を伸ばして、魔理沙の肩を掴んで揺する。無論、当然のことだが、起きない。
「ああ、もう。私の家は紅魔館でも香霖堂でも、ましてや博麗神社でもないのに」
魔理沙が恒常的に『宿屋』扱いしてそうな施設の名前を挙げてから、全く、と肩を怒らせる。
こうなったら、ちょっとばかり強引な手段にでも訴えようか。たとえば、椅子をさっと後ろに引いてしまう、などの。そうしたら、そのまま魔理沙は床に落下。確実に目を覚ますことだろう。いきなり人の家にやってきて、そしていきなり断りもなく寝息を上げるなんて事は言語道断だ。いい機会だから、彼女には人に対する礼儀というものを知ってもらおう――などということをアリスが考えたかどうかは本人しか知り得ないことだが、立ち上がったアリスが、魔理沙のついている椅子の背もたれに手をかける。
――のだが。
「……す~……」
可愛らしい寝息が聞こえてきた。
それで、ぴたっと動きを止めてしまう。
「……起こすに起こせないじゃない」
見れば、本当に幸せそうな寝顔だった。すっかりと顔からは警戒の色が消えてとろけきっている。すぅすぅと、小さな寝息を立てながら、時折、唇を動かしたりして。まるで赤ん坊のようだった。
どうしようかな。
無理矢理、叩き起こしてはかわいそうだ、という意識に、アリスの考えは変わっていた。こんな風に気持ちよさそうに眠っていられていては、むしろ起こした方が悪人である。
「……ほんと、寝顔はかわいいのに」
そのほっぺたを指先でつんとつついてみる。
子供のように柔らかい、ぷにぷにとしたほっぺただった。肌もすべすべで、恐らく、手入れに気を遣っているのだろうと言うことがわかる。普段は大雑把でがさつだというのに、この娘には変なところに女の子らしいところがあるから困るのだ。そっと、顔を寄せてみれば、きれいに伸びたまつげにまで手入れが加えられている。先端までが艶やかに伸びていて、薄いカールがかかっているのか、きれいな曲線を描いていた。
肌に当てた指先で、そっと彼女の頬をなぞる。その動きに感じるものがあったのか、少しだけ、魔理沙が身じろぎした。慌てて、その指先を離す。
「っとにもう……」
どうしたらいいだろう。
もう一度、彼女のすべすべの肌に手を置いてその感触を楽しみながら考える。起こすことも出来ない、放置しておくのもあれかもしれない。もしかしたら、熱いお茶と甘いケーキを楽しみにしているのかもしれないのだから。
出来ることは限られている。執れる手段も限られている。
しかしながら、そのどれにも手を出すことがはばかられた。
「かわいいのよね」
そうして眠っていれば、年相応――ひょっとしたら、それよりも幼い少女だというのに。なのに、何で、目を覚ませばあんなに憎たらしい人間になってしまうのだろう。世の中の七不思議として提唱してもいいんじゃなかろうか。そんな下らないことを考えながら、彼女の頬を指先で弾いた。
むにゃむにゃと、彼女の唇が動く。
小さくて、形のいい唇。リップケアもしてあるのか、どこか柔らかさのある優しい色に輝いていた。彼女はどんな夢を見ているのだろう。その寝顔を見つめていると、ふと、そんなことを考えてしまう。
「楽しい夢かしら」
楽しくないなら、こんな風にかわいい寝顔はしてないかも。
そんなことを思って、一人、苦笑する。
仕方ない、とばかりにアリスは彼女のそばに椅子を移動させて、そして、そっとそのそばに頬杖を突いた。視線を、なるべく彼女と同じ高さに持ってくるようにしながら、じっと寝顔の観察。子供を見守る母親というのはこんな気持ちなのだろうかと思いながら、優しく、彼女の頭をなでてみる。
そう言えば、自分が子供の頃は、こんな風に頭をなでてもらうと安心できたっけ。そんなことを考えながら、昔を思い出しながら。
「きれいな髪」
肌もすべすべなら、髪の毛もつやつや。全く、美少女というやつは得な生き物だ、と思う。アリスも、その定義から行くのなら、充分に『美少女』で通用するのだが、悲しいかな、女という生き物は自分と他人とを比べたがる生き物なのである。
金色の糸、と表現するのは陳腐だろうか。しかし、それ以外にどんな言葉も思いつかない。質のいい高級な金糸のように柔らかく、光沢のある魔理沙の髪。それをなでながら、そっと指先に絡めてみる。少しだけ力をほどけば、いともたやすく、絡んだ髪の毛は離れていく。枝毛など一本もない。長髪のくせに羨ましいな、と思いながら、彼女と同じ色の自分の髪に触る。少しだけ顔を近づけて、そっと、彼女の髪の毛を一房持ち上げる。シャンプーの匂い。甘い香り。それが、かすかに鼻腔をくすぐった。昨日は、どんなシャンプーを使ったのかしら。思わず、下らないことを考えてしまう。
自分の髪の毛と魔理沙の髪の毛を比べてみて、ふぅ、と一つため息。悲しいが、完全に軍配は魔理沙の方に上がっていた。そう言えば、最近、あんまり手入れしてなかったっけ、と考えながら、彼女の髪の毛の先で自分の髪をくすぐる。短髪故に微妙な感覚すら気になるアリスの頭に触れる、奇妙な感覚。しかし、妙にそれは心地よかった。
「顔にマジックでいたずら書きでもしてやろうかしら」
普段、散々きりきりまいさせられているお礼に。
絶対に落ちない油性マジックでいたずら書きをしてやったら、さぞ、魔理沙は怒るだろう。だが、いたずらのされた顔で怒っている魔理沙を想像してみたら、おかしくてたまらなかった。全然怖くない。それどころか、とても愛らしかった。
――それだけ、彼女は愛らしい顔をしているのかもしれない。
そんな結論に辿り着いて、もう少しだけ、彼女との距離を詰める。小さな寝息が、しっかりと耳に聞こえるくらいの距離にまで。
整った顔のパーツ。均整の取れた頬からあごにかけてのライン。灯りに照り映える色白の肌。それら全てが視界一杯に広がる。
ふと、気がつけば。
先ほどまでよりも魔理沙の顔が視界に広がっていた。ゆっくり、ゆっくり、顔を近づけていく。
閉じられた瞳。つんとかわいく自己主張する鼻。小さくて柔らかな唇。
そう……唇。
きれいな色。柔らかそう。暖かそう。少しだけなら……本当に、少しだけなら……触れてもいいよね?
最初は、指先で。
優しく、その指先で彼女の唇をなぞってから、その指を自分の唇へ。不思議な感覚だった。とても官能的な感じがする。別段、何をしたというわけでもないのに、妙に後ろめたいものがあった。
それなら、ととくんと胸が高鳴る。
もう少しだけ、間近で味わってもいいのではないだろうか。
勝手に人の家に上がり込んで、堂々と昼寝をしてくれているのだから。宿代代わりに、これくらいのことはしてもらっても罰は当たらないんじゃないだろうか。
彼女の顔にかかっている髪の毛を、そっと手でよけながら。最初は、ちゅっ、と小さな音を立てて彼女のおでこに唇をつけてみた。反応はなし。眠ったままの魔理沙は目覚めない。
王子様のキスで目覚めるお姫様。
古今東西、枚挙に暇がない、だが同時に、女の子の目と心を引きつけてやまない物語があるのを思い出す。
ちょうど、自分は王子様。悪い魔女に呪いをかけられたお姫様を助けるためのお膳立ては整っている。何をしても目覚めないお姫様が目の前にいる。今、彼女を目覚めさせるための、最後の儀式をこなすだけ。
頭がぼーっとしていた。
心臓が、うるさいくらいに高鳴っていた。
気分台無し。静かになりなさい。そう言っても、自分の体の中でも言うことを聞かないパーツというのはいくらでもある。
だから。
それならば。
もう、そのままでいい。
私のキスで、お姫様が起きてくれるなら。今は、そんなぶしつけなもの全てが心地いい。
そっと。優しく。静かに。
瞳を閉じて。顔を近づけて。
そうして――唇を重ねれば。
お姫様は起きてくれるのだろうか? 即席の王子様だけれども、あなたを愛する気持ちだけは誰にも負けないから。だから――。
――そして、その唇が重なる、その瞬間だった。
「っ!?」
唐突に、背後でけたたましい音が響いた。振り返れば、棚の上に飾ってあった花瓶が床の上へと落ちて砕けてしまっている。そして、そこには、どうやら花瓶を床に落とした張本人と思われる人形と、
『あらあら、上海姉さまったら。嫉妬ですの?』
『うるさいっ! よけいなこと言わないでよっ!
と、とにかく、マスターをあの魔法使いの毒牙から守らないといけないんだから! 蓬莱、手伝いなさい!』
『うふふ。左様ですわね。
ですけど、姉さま。マスター、こちらを見てますわ』
『……へっ?』
そう言えば、さっきから、『シャンハーイ』『ホラーイ』とうるさかったような気がする。そんな眼差しを、アリスは後ろの人形達に向けていた。
上海人形は、ぽかーんとしていたのだが、次第に状況が飲み込めてきたのか、顔を真っ赤にして――人形なので、顔色の変化はよくわからないのだが――押し黙り、蓬莱人形は手を口許に持って行ってくすくすと笑っていた。
――途端に、何だか気勢がそがれてしまった。
しかし、それは脱力とは違う。ある意味、心地よく、微笑ましいやる気の消失だ。
「……ま、そんな事はいいかな」
そうつぶやいたアリスは、次の瞬間、「起きろー!」と魔理沙の耳元で大声で怒鳴った。もちろん、唐突なその攻撃に驚いたのか、魔理沙が起きあがると同時に椅子から転げ落ちる。
「あ、あいたたた……。い、いきなり脅かすな!」
「ずいぶんな言いぐさね。人にお茶を用意させておいて、自分はここで堂々と高いびき?」
「私はいびきなんてかかないぞ。
……昨日は夜更かししてたんだ。少しくらい寝かせてくれたっていいじゃないか」
「それならベッドで寝ればいいじゃない。もちろん、自分の家のね」
「はぁ~、冷たいねぇ、アリス。こんな時は、お疲れの魔理沙さんを優しくいたわって、お風呂と晩飯とベッドの用意くらいはしてくれても罰が当たらないんじゃないかい?」
「何、寝ぼけたこと言ってんのよ。
ほら、お茶。用意できてるわよ。まずは、その寝ぼけた頭をすっきりさせてきたらどう? お茶も冷めてきたみたいだし、淹れ直しておくからさ」
「あー、まぁ、そうさせてもらうよ」
「そう。上海、魔理沙を洗面所に連れて行ってあげて」
『あ、あたしが!? 何でこんな奴を!(シャンハーイ!?)』
『あら、姉さまったらマスターのご命令に逆らうんですの? それはいけませんわ。ねぇ、マスター(ホラーイ)』
「ほんとね。ほら、急いだ急いだ」
『くぅ~……し、仕方ないわね! やるわよ、やればいいんでしょ! ほら、魔法使い! こっち来なさいよ!(シャンハーイ!)』
「だってさ、魔理沙」
「いや、『だってさ』って……」
人形の言葉がわからない魔理沙は顔を引きつらせる。その間も上海人形は空中で器用に地団駄を踏み、『シャンハーイ!』と怒鳴るだけだ。くすくすと、アリスは笑いながら、
「ついてこいって言ってるのよ」
「……ま、そういうもんかね」
どうしたもんか、という顔で、飛んでいく上海人形の後を追いかけて歩いていく魔理沙。
さて、と。
彼女を見送ってから、アリスは、すっかり冷めてしまった紅茶の入ったカップを手にキッチンへと歩いていく。
『マスターったら、本当に奥手ですわね。もっと一気に行ってしまえばよかったのではありませんの?』
「……ん、そうかもしれないね。
けど……やっぱり、寝てる間にキスするのは卑怯よ。御伽噺の王子様みたいに、私、根性なしじゃないから」
憧れた物語の主人公に対して、ずいぶんとひどい言いぐさである。しかし、それもまた、アリスらしいと言えばアリスらしかった。
くすくす笑う蓬莱人形は、『それでこそマスターですわ』とほめているんだかけなしてるんだかわからない一言を口にした。直後、洗面所の方から「だーっ! 何するんだこの人形ー!」という魔理沙の怒声が響いてくる。大方、顔を洗っている魔理沙を、後ろから上海人形が蹴りつけたか何かしたのだろう。
『まあ、姉さまったら。お客様に向かって』
「蓬莱、上海を止めてきて」
『かしこまりましたわ。
ですけど、マスター。わたくしの身からこのようなことを言うのも何ですが、一言だけ』
「何?」
改めて、ポットを火にかけたアリスに向かって、蓬莱人形は一言。
『あんまり奥手だと、先に相手の心が離れてしまいますわよ』
がたーん、とその強烈な一言に、アリスはガス台に向かって盛大な頭突きをかましてしまった。『では、ごめんあそばせ』と腹黒い人形がふわふわと飛んでいく。向かう先は、おもちゃ二人の所に違いないのだが、何だか妙に挙動が気になる人形である。
「あ、あいたたた……あっつぅ……」
ガス台に頭突きをかましたアリスは、『蓬莱人形の性格づけ、間違ったかな』と思いつつも、ため息一つ。
「……別に言われなくてもわかってるつもりよ」
こぽこぽと、沸騰を始めたポットの音が心地いい。火を止めて、ポットの中から、新しいお湯を、きれいに洗ったカップの中へとついでいく。その中で、紅茶の葉が開き、芳しい香りを放つ。
それを見つめながら、そっと、トレイにカップを戻して歩いていく。
テーブルに戻れば、魔理沙が「よくもやってくれたな!」と上海人形にくってかかり、上海人形が『うるさいわね!』と怒鳴り、蓬莱人形が『まあまあ、お二方とも』と煽っているようにしか見えない制止をかけていた。
にぎやかなその有様に、ふぅ、と肩をすくめる。
「ほら、魔理沙。お茶が入ったわよ。お茶会しよ」
今は、この部屋はこんな風ににぎやかだけど。
いつかは、しっとりとした空気が流れる空間になったりもするのだろうか。
まだ見ぬ未来に思いを馳せながら、アリス主催のお茶会は始まった。
「この状況、どうしろってのよ……」
一人、ぼやく少女。
本来なら、普段と何ら変わるはずのない部屋の一室。その、一角に据え付けてあるテーブルについて、彼女は紅茶を口にしていた。
優しく香る甘い匂い。ゆらりと揺れる水面は、見事なまでに紅葉色に染まっている。もうすぐ秋も来るかしら、と思いながら、また紅茶を一口して。
しかし、それは単なる現実逃避にしか過ぎないことを思い出す。
「……寝るなよ」
もはや、ぼやくしか出来ない。
そんな彼女の視線の先には、テーブルに突っ伏して、気持ちよさそうにすやすやと寝ている女の子の姿があったのだった。
事の発端は、目の前の彼女――霧雨魔理沙が、『お茶会』と称した他人様の家への乱入&隙を見ての魔法書窃盗にやってきたことに始まる。
家の主、アリス・マーガトロイドは、「盗んだらぶっ飛ばすわよ」と笑顔で警告するのだが、今のところ、彼女がそれに恐れをなしたことはない。詰まるところ、それだけ、彼女は魔理沙を家に迎えているのだ。結論などわかっているのに、である。無論、結末がわかっているからこそ、注意を怠らないのだが、しかし、天性のスキルのたまものなのか、今のところ、アリスが魔理沙をとっちめることに成功したことはなかった。
それに、だ。
彼女は別段、魔法書を盗むことが目的……ではないのだろう。きちんと、お茶会そのものは楽しんでいくのだから。ただ、その目的の本質がどこにあるのか――それだけは探らないと出てこないことかもしれない。
アリスは、魔理沙が「お茶会に来たぜー」と喜色満面の笑みを浮かべている時ほど、彼女を警戒する。絶対に、彼女はその笑顔の裏に何かよくないことを企んでいるからだ。その予想は的中し、そういう笑顔を浮かべている時に限って、三冊もの魔法書を一度に持って行かれるという目にもあったのだが。
――さて、閑話休題。
今回も、魔理沙はお茶会を名目にやってきた。ただし、おまけとして、今まで持って行った魔法書のうち、恐らく、必要なくなったのだろうと思われるものを数冊、持ってきてのことだったが。
そうして、テーブルについて、「じゃ、茶を頼む。茶菓子はケーキがいいなー」なんてことを堂々と言い放って、アリスをキッチンへと追いやった。もちろん、その間、魔理沙が暴挙に出ないよう、アリスは手持ちの人形達のうち、何体かを彼女の見張りとしてつけた。今回はろくでもないことをしでかさないよう、あくまで、『お茶会』だけを達成させるつもりでの見張りだ。
ところが、である。
そのうちの一体が、奇妙な話を持ってきた。その奇妙な話というのが――、
「人の家を何だと思ってるのかしら」
テーブルについて、何分もしないうちに、彼女は堂々と居眠りを始めたのだ。
時刻から行くのなら、お昼寝、と言い換えることも出来るだろう。疲れていたのだろうか。にしては、やってくる時は、アリスの警戒する満面の笑顔だったのだが。
ともあれ、お茶を淹れ終わり、お菓子もきちんと用意してテーブルに戻ったアリスが見たのは、これまた気持ちよさそうな顔をしてすやすやと寝ている魔理沙の姿だったわけである。
さて、どうしたものか。
「叩き起こす……のが一番よね」
お茶は冷めてしまうし、ケーキは生菓子だ。あっという間に腐るというわけではないが、それでもナイフを入れて、そのまま放置というのはケーキそのものにもかわいそうである。両方とも、今が食べ頃飲み頃なのだ。せっかくお茶会を始めようとしたのに、その主役の一人がこれではアリスも興が削がれてしまう。
仕方ないわね、とうなずいてから、そっと手を伸ばして、魔理沙の肩を掴んで揺する。無論、当然のことだが、起きない。
「ああ、もう。私の家は紅魔館でも香霖堂でも、ましてや博麗神社でもないのに」
魔理沙が恒常的に『宿屋』扱いしてそうな施設の名前を挙げてから、全く、と肩を怒らせる。
こうなったら、ちょっとばかり強引な手段にでも訴えようか。たとえば、椅子をさっと後ろに引いてしまう、などの。そうしたら、そのまま魔理沙は床に落下。確実に目を覚ますことだろう。いきなり人の家にやってきて、そしていきなり断りもなく寝息を上げるなんて事は言語道断だ。いい機会だから、彼女には人に対する礼儀というものを知ってもらおう――などということをアリスが考えたかどうかは本人しか知り得ないことだが、立ち上がったアリスが、魔理沙のついている椅子の背もたれに手をかける。
――のだが。
「……す~……」
可愛らしい寝息が聞こえてきた。
それで、ぴたっと動きを止めてしまう。
「……起こすに起こせないじゃない」
見れば、本当に幸せそうな寝顔だった。すっかりと顔からは警戒の色が消えてとろけきっている。すぅすぅと、小さな寝息を立てながら、時折、唇を動かしたりして。まるで赤ん坊のようだった。
どうしようかな。
無理矢理、叩き起こしてはかわいそうだ、という意識に、アリスの考えは変わっていた。こんな風に気持ちよさそうに眠っていられていては、むしろ起こした方が悪人である。
「……ほんと、寝顔はかわいいのに」
そのほっぺたを指先でつんとつついてみる。
子供のように柔らかい、ぷにぷにとしたほっぺただった。肌もすべすべで、恐らく、手入れに気を遣っているのだろうと言うことがわかる。普段は大雑把でがさつだというのに、この娘には変なところに女の子らしいところがあるから困るのだ。そっと、顔を寄せてみれば、きれいに伸びたまつげにまで手入れが加えられている。先端までが艶やかに伸びていて、薄いカールがかかっているのか、きれいな曲線を描いていた。
肌に当てた指先で、そっと彼女の頬をなぞる。その動きに感じるものがあったのか、少しだけ、魔理沙が身じろぎした。慌てて、その指先を離す。
「っとにもう……」
どうしたらいいだろう。
もう一度、彼女のすべすべの肌に手を置いてその感触を楽しみながら考える。起こすことも出来ない、放置しておくのもあれかもしれない。もしかしたら、熱いお茶と甘いケーキを楽しみにしているのかもしれないのだから。
出来ることは限られている。執れる手段も限られている。
しかしながら、そのどれにも手を出すことがはばかられた。
「かわいいのよね」
そうして眠っていれば、年相応――ひょっとしたら、それよりも幼い少女だというのに。なのに、何で、目を覚ませばあんなに憎たらしい人間になってしまうのだろう。世の中の七不思議として提唱してもいいんじゃなかろうか。そんな下らないことを考えながら、彼女の頬を指先で弾いた。
むにゃむにゃと、彼女の唇が動く。
小さくて、形のいい唇。リップケアもしてあるのか、どこか柔らかさのある優しい色に輝いていた。彼女はどんな夢を見ているのだろう。その寝顔を見つめていると、ふと、そんなことを考えてしまう。
「楽しい夢かしら」
楽しくないなら、こんな風にかわいい寝顔はしてないかも。
そんなことを思って、一人、苦笑する。
仕方ない、とばかりにアリスは彼女のそばに椅子を移動させて、そして、そっとそのそばに頬杖を突いた。視線を、なるべく彼女と同じ高さに持ってくるようにしながら、じっと寝顔の観察。子供を見守る母親というのはこんな気持ちなのだろうかと思いながら、優しく、彼女の頭をなでてみる。
そう言えば、自分が子供の頃は、こんな風に頭をなでてもらうと安心できたっけ。そんなことを考えながら、昔を思い出しながら。
「きれいな髪」
肌もすべすべなら、髪の毛もつやつや。全く、美少女というやつは得な生き物だ、と思う。アリスも、その定義から行くのなら、充分に『美少女』で通用するのだが、悲しいかな、女という生き物は自分と他人とを比べたがる生き物なのである。
金色の糸、と表現するのは陳腐だろうか。しかし、それ以外にどんな言葉も思いつかない。質のいい高級な金糸のように柔らかく、光沢のある魔理沙の髪。それをなでながら、そっと指先に絡めてみる。少しだけ力をほどけば、いともたやすく、絡んだ髪の毛は離れていく。枝毛など一本もない。長髪のくせに羨ましいな、と思いながら、彼女と同じ色の自分の髪に触る。少しだけ顔を近づけて、そっと、彼女の髪の毛を一房持ち上げる。シャンプーの匂い。甘い香り。それが、かすかに鼻腔をくすぐった。昨日は、どんなシャンプーを使ったのかしら。思わず、下らないことを考えてしまう。
自分の髪の毛と魔理沙の髪の毛を比べてみて、ふぅ、と一つため息。悲しいが、完全に軍配は魔理沙の方に上がっていた。そう言えば、最近、あんまり手入れしてなかったっけ、と考えながら、彼女の髪の毛の先で自分の髪をくすぐる。短髪故に微妙な感覚すら気になるアリスの頭に触れる、奇妙な感覚。しかし、妙にそれは心地よかった。
「顔にマジックでいたずら書きでもしてやろうかしら」
普段、散々きりきりまいさせられているお礼に。
絶対に落ちない油性マジックでいたずら書きをしてやったら、さぞ、魔理沙は怒るだろう。だが、いたずらのされた顔で怒っている魔理沙を想像してみたら、おかしくてたまらなかった。全然怖くない。それどころか、とても愛らしかった。
――それだけ、彼女は愛らしい顔をしているのかもしれない。
そんな結論に辿り着いて、もう少しだけ、彼女との距離を詰める。小さな寝息が、しっかりと耳に聞こえるくらいの距離にまで。
整った顔のパーツ。均整の取れた頬からあごにかけてのライン。灯りに照り映える色白の肌。それら全てが視界一杯に広がる。
ふと、気がつけば。
先ほどまでよりも魔理沙の顔が視界に広がっていた。ゆっくり、ゆっくり、顔を近づけていく。
閉じられた瞳。つんとかわいく自己主張する鼻。小さくて柔らかな唇。
そう……唇。
きれいな色。柔らかそう。暖かそう。少しだけなら……本当に、少しだけなら……触れてもいいよね?
最初は、指先で。
優しく、その指先で彼女の唇をなぞってから、その指を自分の唇へ。不思議な感覚だった。とても官能的な感じがする。別段、何をしたというわけでもないのに、妙に後ろめたいものがあった。
それなら、ととくんと胸が高鳴る。
もう少しだけ、間近で味わってもいいのではないだろうか。
勝手に人の家に上がり込んで、堂々と昼寝をしてくれているのだから。宿代代わりに、これくらいのことはしてもらっても罰は当たらないんじゃないだろうか。
彼女の顔にかかっている髪の毛を、そっと手でよけながら。最初は、ちゅっ、と小さな音を立てて彼女のおでこに唇をつけてみた。反応はなし。眠ったままの魔理沙は目覚めない。
王子様のキスで目覚めるお姫様。
古今東西、枚挙に暇がない、だが同時に、女の子の目と心を引きつけてやまない物語があるのを思い出す。
ちょうど、自分は王子様。悪い魔女に呪いをかけられたお姫様を助けるためのお膳立ては整っている。何をしても目覚めないお姫様が目の前にいる。今、彼女を目覚めさせるための、最後の儀式をこなすだけ。
頭がぼーっとしていた。
心臓が、うるさいくらいに高鳴っていた。
気分台無し。静かになりなさい。そう言っても、自分の体の中でも言うことを聞かないパーツというのはいくらでもある。
だから。
それならば。
もう、そのままでいい。
私のキスで、お姫様が起きてくれるなら。今は、そんなぶしつけなもの全てが心地いい。
そっと。優しく。静かに。
瞳を閉じて。顔を近づけて。
そうして――唇を重ねれば。
お姫様は起きてくれるのだろうか? 即席の王子様だけれども、あなたを愛する気持ちだけは誰にも負けないから。だから――。
――そして、その唇が重なる、その瞬間だった。
「っ!?」
唐突に、背後でけたたましい音が響いた。振り返れば、棚の上に飾ってあった花瓶が床の上へと落ちて砕けてしまっている。そして、そこには、どうやら花瓶を床に落とした張本人と思われる人形と、
『あらあら、上海姉さまったら。嫉妬ですの?』
『うるさいっ! よけいなこと言わないでよっ!
と、とにかく、マスターをあの魔法使いの毒牙から守らないといけないんだから! 蓬莱、手伝いなさい!』
『うふふ。左様ですわね。
ですけど、姉さま。マスター、こちらを見てますわ』
『……へっ?』
そう言えば、さっきから、『シャンハーイ』『ホラーイ』とうるさかったような気がする。そんな眼差しを、アリスは後ろの人形達に向けていた。
上海人形は、ぽかーんとしていたのだが、次第に状況が飲み込めてきたのか、顔を真っ赤にして――人形なので、顔色の変化はよくわからないのだが――押し黙り、蓬莱人形は手を口許に持って行ってくすくすと笑っていた。
――途端に、何だか気勢がそがれてしまった。
しかし、それは脱力とは違う。ある意味、心地よく、微笑ましいやる気の消失だ。
「……ま、そんな事はいいかな」
そうつぶやいたアリスは、次の瞬間、「起きろー!」と魔理沙の耳元で大声で怒鳴った。もちろん、唐突なその攻撃に驚いたのか、魔理沙が起きあがると同時に椅子から転げ落ちる。
「あ、あいたたた……。い、いきなり脅かすな!」
「ずいぶんな言いぐさね。人にお茶を用意させておいて、自分はここで堂々と高いびき?」
「私はいびきなんてかかないぞ。
……昨日は夜更かししてたんだ。少しくらい寝かせてくれたっていいじゃないか」
「それならベッドで寝ればいいじゃない。もちろん、自分の家のね」
「はぁ~、冷たいねぇ、アリス。こんな時は、お疲れの魔理沙さんを優しくいたわって、お風呂と晩飯とベッドの用意くらいはしてくれても罰が当たらないんじゃないかい?」
「何、寝ぼけたこと言ってんのよ。
ほら、お茶。用意できてるわよ。まずは、その寝ぼけた頭をすっきりさせてきたらどう? お茶も冷めてきたみたいだし、淹れ直しておくからさ」
「あー、まぁ、そうさせてもらうよ」
「そう。上海、魔理沙を洗面所に連れて行ってあげて」
『あ、あたしが!? 何でこんな奴を!(シャンハーイ!?)』
『あら、姉さまったらマスターのご命令に逆らうんですの? それはいけませんわ。ねぇ、マスター(ホラーイ)』
「ほんとね。ほら、急いだ急いだ」
『くぅ~……し、仕方ないわね! やるわよ、やればいいんでしょ! ほら、魔法使い! こっち来なさいよ!(シャンハーイ!)』
「だってさ、魔理沙」
「いや、『だってさ』って……」
人形の言葉がわからない魔理沙は顔を引きつらせる。その間も上海人形は空中で器用に地団駄を踏み、『シャンハーイ!』と怒鳴るだけだ。くすくすと、アリスは笑いながら、
「ついてこいって言ってるのよ」
「……ま、そういうもんかね」
どうしたもんか、という顔で、飛んでいく上海人形の後を追いかけて歩いていく魔理沙。
さて、と。
彼女を見送ってから、アリスは、すっかり冷めてしまった紅茶の入ったカップを手にキッチンへと歩いていく。
『マスターったら、本当に奥手ですわね。もっと一気に行ってしまえばよかったのではありませんの?』
「……ん、そうかもしれないね。
けど……やっぱり、寝てる間にキスするのは卑怯よ。御伽噺の王子様みたいに、私、根性なしじゃないから」
憧れた物語の主人公に対して、ずいぶんとひどい言いぐさである。しかし、それもまた、アリスらしいと言えばアリスらしかった。
くすくす笑う蓬莱人形は、『それでこそマスターですわ』とほめているんだかけなしてるんだかわからない一言を口にした。直後、洗面所の方から「だーっ! 何するんだこの人形ー!」という魔理沙の怒声が響いてくる。大方、顔を洗っている魔理沙を、後ろから上海人形が蹴りつけたか何かしたのだろう。
『まあ、姉さまったら。お客様に向かって』
「蓬莱、上海を止めてきて」
『かしこまりましたわ。
ですけど、マスター。わたくしの身からこのようなことを言うのも何ですが、一言だけ』
「何?」
改めて、ポットを火にかけたアリスに向かって、蓬莱人形は一言。
『あんまり奥手だと、先に相手の心が離れてしまいますわよ』
がたーん、とその強烈な一言に、アリスはガス台に向かって盛大な頭突きをかましてしまった。『では、ごめんあそばせ』と腹黒い人形がふわふわと飛んでいく。向かう先は、おもちゃ二人の所に違いないのだが、何だか妙に挙動が気になる人形である。
「あ、あいたたた……あっつぅ……」
ガス台に頭突きをかましたアリスは、『蓬莱人形の性格づけ、間違ったかな』と思いつつも、ため息一つ。
「……別に言われなくてもわかってるつもりよ」
こぽこぽと、沸騰を始めたポットの音が心地いい。火を止めて、ポットの中から、新しいお湯を、きれいに洗ったカップの中へとついでいく。その中で、紅茶の葉が開き、芳しい香りを放つ。
それを見つめながら、そっと、トレイにカップを戻して歩いていく。
テーブルに戻れば、魔理沙が「よくもやってくれたな!」と上海人形にくってかかり、上海人形が『うるさいわね!』と怒鳴り、蓬莱人形が『まあまあ、お二方とも』と煽っているようにしか見えない制止をかけていた。
にぎやかなその有様に、ふぅ、と肩をすくめる。
「ほら、魔理沙。お茶が入ったわよ。お茶会しよ」
今は、この部屋はこんな風ににぎやかだけど。
いつかは、しっとりとした空気が流れる空間になったりもするのだろうか。
まだ見ぬ未来に思いを馳せながら、アリス主催のお茶会は始まった。
何故ガス台が幻想郷にっ?!
このツンデレ上海めっ!!
そのせいで上海の花瓶落としの時は凄く驚いて心臓がばくばく。凄い!