ずがらっしゃあああん!!
ここ、紅魔館においては、こういった破壊音が屋敷の静謐を破ることがある。
その音を聞きつけた者は、例外なくこう思うのだ。
「ああ、また中国か」と。
今回もまた例外ではなく、破壊音の発信源は紅魔館の門番、中国こと紅美鈴だった。
本来は門番として紅魔館唯一の出入り口である正門を守っている彼女だが、
彼女直属の上司であるメイド長、十六夜咲夜から時々館の廊下のモップ掛けを言い渡されることがあるのだ。
「廊下のモップかけ」とは言っても紅魔館内部は空間が組み替えられており
外見から予想されるよりもはるかに大きい内部面積を誇っている。
その紅魔館の廊下を、単独でモップ掛けしろなど、
罰当番として7200m級の宇宙戦艦のレーザー発振器を磨かされるに等しい絵に描いたような無理難題である。
だが、美鈴はこの仕事を成し遂げていた。
気を操る程度の能力を持つ彼女は、その能力を用いて自身の身体能力を限界にまで高め、
文字通り一騎当千の働きで、見事上司からの無理難題を達成しているのだ。
ただしその代価として翌日地獄の筋肉痛に見舞われるのだが、
メイド長の恐るべき罰を回避するためなら、それも正当な代価といえよう。
だがしかし、彼女は神でもなければ仏でもない。
そのため、ほんの僅か気を抜いた瞬間に、バケツに片足突っ込んでバク宙、後頭部から落ちた挙句に
そこらじゅうびしょぬれ、そして何時の間にか背後に仁王立ちのメイド長に弁解する隙も与えられずに
全身ナイフまみれの奇ッ怪ななオブジェと化す事がしばしばあるのだ。
だが、今回のケースには、いつもと違う点が3つあった。
1つ、彼女の清掃コースにいつもはいるはずのない通行人がいたこと。
1つ、彼女が破壊音を発して廊下をびしょぬれにして約3分が経過していたが、未だに彼女には
一本のナイフも刺さってはいないこと。
そして、もう1つ。
「あ…あの…咲夜、さん…?」
「……。」
いつもはびしょぬれになるのは美鈴一人なのだが、今回はもう一人、哀れな犠牲者がいた。
紅魔館メイド長、十六夜咲夜その人である。
いかなる因果に導かれてか、廊下の曲がり角から姿を現した咲夜を美鈴が視認したときには時すでに遅し。
回避することも出来ずに美鈴は咲夜に激突、二人はバケツの水をひっかぶりつつ絡まりもつれて数十メートル、
ようやく止まったその時から、どちらも微動だにせず固まっている。
その固まった体勢が、いかにもまずい。
美鈴が上。
咲夜が下。
客観的に説明するならば、「美鈴が咲夜を廊下のド真中で押し倒している」という状況である。
この誰に見られても目どころか色々当てられない噂話を立てられること確定の体勢のまま、
二人は固まりっぱなしなのである。
人に見られれば言い訳不能のこの状況下において、二人はどちらからも動くことなく、
そのままの姿勢を保っている。
沈黙に耐えかねた美鈴が、やっとのことで上記の台詞を搾り出したのだが、対する咲夜は無言無動作無反応。
ならば上になっている美鈴がさっさとどいてしまえばいいのだが、美鈴の方にもそうできない正当な理由があった。
咲夜の、表情である。
咲夜の部下として長い間働いている美鈴が知っている咲夜の表情は、
常に沈着冷静、「完全で瀟洒な従者」の二ツ名は伊達ではないと全身で誇るかのような、余裕の表情だけだ。
そして今美鈴に(不可抗力とはいえ)組み敷かれている咲夜が浮かべている表情は、
彼女直属の部下として働いてきた美鈴が初めて目にする、そして想像したことさえない表情だった。
頬を、染めている。
いや、頬だけではない。
濡れた銀髪に半ば隠れた耳たぶ、メイド服の襟元から覗く首筋までも赤くして、
バケツの水を被ったからか、また他に理由があるのか、潤んだ瞳で美鈴を上目遣いに見上げている。
その表情が、美鈴の全ての行動を封じていた。
(咲夜さんも…こんな顔、するんだ…)
冷たいバケツの水を頭から被ったというのに、妙に顔が熱い事を、美鈴は今更自覚する。
(ああ、そういえば、こんな近くで咲夜さんの顔見るの、初めてだな…)
水に濡れていなくても、きらきらとシルクのように輝く銀色の髪。
紅魔館の湖と同じ、深い深い青色の瞳。
紅を引かずとも艶やかな、その唇。
そして、密着した体から伝わる暖かい体温と、やわらかい感触。
初めて感じる、「メイド長」ではない、「十六夜咲夜」だった。
(咲夜さん、あったかい…やわらかい…)
以前、ひどい風邪を引いて、3日3晩寝込んだ時のことを思い出す。
あの時と同じに、全身が熱い。
頭がぼうっとして、地に足がついていない感じがする。
上になっている美鈴の四肢から自然に力が抜け、美鈴と咲夜の顔が、吐息がかかる程にまで近づく。
(綺麗、だな…)
霞のかかった思考で、そんなことを思う。
ぼんやりと目の前の、咲夜の顔を見つめる。
「メイド長」の顔をしていない、「十六夜咲夜」の顔。
一言も発することなく、潤んだ瞳で、こちらを見上げている咲夜。
その表情はまるで悪戯を咎められた子供のように、美鈴には見えた。
自分もこの人に叱られているときは、こんな顔をしてるんだろうか。
そんな考えが脳裡に浮かんで、泡のように消える。
(でも…、この咲夜さん、かわいいなあ…)
全く自然な動作で美鈴の右手が、咲夜の頬に添えられた。
咲夜の唇が、震えるように動き…「は」と、浅く息をついた。
決定的な甘さと熱を含んだ吐息。
(…あ…だ、め…)
誘蛾灯に誘われるように、美鈴は咲夜に唇を重ねた。
深くもなく、浅くもない、中途半端な接触はしかし、美鈴の思考を高熱であぶられた飴のように蕩かすのに十分だった。
接触の瞬間、咲夜は全身を硬直させた。
だがそれはほんの一瞬、美鈴の体の下で咲夜はゆっくりと体を弛緩させていく。
美鈴はそれに不思議な安堵を覚え、2回、3回とくちづけを繰り返した。
背中に感触。
咲夜の腕だ。
咲夜の腕が、美鈴の背中に回されている。
くちづけながら、美鈴はくすりと笑みを漏らした。
どのくらいそうしていただろうか。
美鈴の方から唇を離し、身を起こす。
床に身を横たえていた咲夜も、のろのろと身を起こす。
「…あの…お嫌、でした…?」
先程までの大胆さはどこへやら、すっかりいつもの様子に戻ってしまった美鈴が、先刻までの咲夜と同じように
上目遣いで恐る恐る、咲夜の表情を窺う。
咲夜は2、3回軽く頭を振ると、すっかり「メイド長」の顔を取り戻していた。
「―中国。」
ああ、ハリネズミになっちゃうよ、やっぱり慣れないことはするもんじゃないなあ、へぐう、などと
勝手に覚悟を決めている美鈴に対し…いつものナイフの雨はいつまで経っても降って来ない。
咲夜は、ナイフの雨の代わりに、こう言った。
「こんな格好じゃ風邪を引くわ。お風呂の準備をなさい。」
そして、もう一言。
「…あなたも一緒に入るのよ。」
背を向けたその頬が、少しだけ赤かった。
同じように頬を赤くして、美鈴は答える。
「はいっ!」
<END>
なんてタイムリーな。
風呂場の二人も見てみたいっす