「ただいまー」
まだ新しい、油注したての扉は、少し押すだけで音もなく開いた。
つま先に力を入れ、ぱこんと靴から足首を引き抜くと、鈴仙・優曇華院・イナバは軽く跳ねて両足をいっぺんに抜き出した。
「おかーりー」
部屋の奥から気の抜けた返事が返る。
学生寮は基本的に相部屋で、鈴仙は同級生で同じクラスの因幡てゐと寝食を供にしている。
いつもなら鈴仙がてゐを向かえる方が自然な光景だったが、今日の夕御飯の準備当番は鈴仙だった。
学園からは一直線に寮に買えれば五分とかからないが、帰りにスーパーに寄るには坂を下りていく必要がある。両手いっぱいに下げたビニール袋をずしゃんと床に落とし、鈴仙はその場にへたり込んだ。
「はー。疲れたよー……」
「ずいぶん買ってきたみたいだけど、なに作るわけ?」
テレビに向かってあぐらをかいた小さな背が、ぶっきらぼうに聞いてくる。
その姿越しに、五秒に一回は切り替わる画面が見える。せわしないことこの上なかった。
鈴仙はその後ろに置かれた背の低いテーブルに袋を乗せなおし、壁際のソファーに腰を下ろす。
「普通のカレー、の予定だったんだけど、帰りにスーパーで師匠に会っちゃって、」
「……マジ?」
前かがみで微妙に前後に揺れていたてゐの背筋がぴんと伸び、丸くなった黒目がちな瞳がこちらを向いた。
「うん。で、レシピ見せたら『林檎とうずら卵を加えたら甘くなっておいしい』って。
それでちょうどタイムサービスで林檎とうずらが三割引ってなってたから、つい……」
袋からうずら卵のパックを取り出し、割れていないか確かめた。
よかった。ひとつもない。ゆっくりと、自転車を押して坂を帰ってきた甲斐があるというものだ。
ほわ、と表情を和らげた鈴仙に、てゐはぼそりとつぶやいた。
「……鈴ちゃん。あんた絶対あのヤブに騙された」
「ええ?」
だって考えても見てよ。
てゐは呆れ果てたといった様子でテレビを消し、きょとんとしたままの鈴仙に向き直り指を立てた。
「おかしい。薦められた商品が運良く割引されてました、って、偶然にしてもほどがあるわよ。
あそこの店ってアレだよ? スーパー白岩っていったら黒幕レティの実家じゃん?
しかも親はPTA入ってるし、絶対あの保険医とつるんでる! あやしい、裏金のにほひプンプン!」
「それって、すごい偏見だよてーちゃん……」
鈴仙はげんなりした。
てゐはいつもこうだ。機転は利くし行動力もある。でも肝心の判断力、思慮の深さが決定的に足りない。
早い話が子どもっぽい。
「いいやおかしい。百歩譲ってその時間の一致が偶然起こったものだとしても、あのヤブの選択はおかしい。
林檎と卵なんて、いっぺんに入れたら味が混ざって旨味が消えるもの。ほら、やっぱりおかしい!」
「別に、美味しいと思うけどなぁ……」
「いいやおかしい!」
おかしい、あやしい、がてゐの口癖だ。一度疑い出したらきりがない。
諦めて、鈴仙は早々に話題を切り上げることにした。
「じゃ、じゃあてーちゃん。卵はまた今度にして、今日は林檎カレーにしようよ」
「やだ。あたしは激辛じゃないと我慢ならない。あの保険医、薦めるんだったらザ・ソースでも薦めればよかったのよ。
それなら拍手喝采だってのに」
それでそんなに食い下がってたのか。鈴仙は脱力してソファーに寝そべった。
「じゃあ……今日は卵カレー?」
「辛いものが一品欲しい」
「じゃあ学園行って、レティさんに頼めば? そのザ・なんとかでも用意してくれるよ。うん、きっと」
「黒幕に頭を下げるのは屈辱だわ……」
「なんで頭を下げるのよ……」
鈴仙は腹を決めた。上半身だけで起き上がり、テーブルの上の袋に手を突っ込む。
怪訝な顔のてゐの眼前に、掴んだ『それ』を突きつけた。
「……なにこれ? ポテチじゃん」
「デスレイン……これ、ルーに投げ込めばいいんじゃない……?」
半ばやけくそでそう言った。
てゐが欲しがるだろうと思い、好意で選び買ってきたものだったが、ここで出してしまってはありがたみゼロだった。
目の前でぶらぶらと揺れているチップスの小袋をぼうっと眺めていたてゐだったが、突如、袋を奪い取るなり指を立てた。
「鈴ちゃん、頭いいね!」
「……ありがと」
その晩、できあがった卵カレーは異様な紅色の湯気を放ち、鈴仙の目鼻から水気を際限なく垂れ流したという。
――いや、続かないから。げほ、やだ。涙、止まんない――
あの辛さはタバスコの3000倍以上という、一時期世界最激辛ソースの名をほしいままにしたとかいう!?
てゐの舌はどーなってるんだ…?(((;д;)))ガクブル
東方学園…なんかこのお話を読んで、二人の情景が非常にありありと脳裏に浮かびました。GJ!
でも真の恐ろしさはその辛さよりもあの味……