Coolier - 新生・東方創想話

路上

2021/02/17 10:12:07
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 1
 クソを洗い流す便器の音さえどこかやる気のない憂鬱な月曜日の朝。わたしの頭の中では、いまだにプリズムリバーの獰猛なジャズが震えていた。彼女らが生み出した新機軸に、みんな震えて、みんな踊っていた。そこかしこに腰をまさぐりあってる番いがいたし、舌までもつれ込むキスをしているやつらがいた。
 そんな光景が、二日酔いだけが原因じゃない警鐘を頭の中でガンガン鳴らす。おぞましい吐き気が、過去の失敗や後悔、未来への不安や実らない期待と共にこみ上げてくる。一日は始まったばかりだというのに、心身ともに散々な調子だ。

 だけど、ルーティンはこなす。汗でびっしょりの服を脱ぎ捨てると、冷たい空気が地肌を滑ってく感覚が心地よかった。ここからは幾万通りの行動に派生できる。迎え酒をやる。タバコを呑む。もう一度トイレへ行く。二度寝する。なにをやるにしたって上手くいくとは思えないが、なにかをやらなきゃその先にだっていけやしない。行動力こそが人生を切り開く鍵だ。
 やれることはぜんぶやってみることにした。冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出し、タバコに火をつけ、どちらも半分ほど終わらせると、新しい可能性ににわかに火がつく。外に出て人を手当たり次第にぶっ殺すってのはどうだ?

 そんな体力なんかどこにもなかった。結局、ビールを最後の一滴まで飲み干し、タバコをおしまいまで吸い、裸のままでできることを考える。裸のままでできることなんか限られている。他人に裸を見せつけることに興味のないわたしは、ひとっ風呂浴びることにした。
 肌を焼くような熱いシャワーに体をくぐらす。浴室に募る煙が、まるで積乱雲の中にでもいるような錯覚に陥らせる。眠っていた細胞がドミノ倒しのように覚醒していく。自分とそれ以外に隔たれていた世界に、わたしが浸透してゆくような気分。温めに設定し直したシャワーのお湯が、わたしを有象無象にしてゆく。

 幾分か気分がよくなったが、風呂の中でいっぺんにやっておくべきだった歯磨きをし忘れたことに気がついて、また落ち込む。そんなことの積み重ねで、貴重な一日が少しずつ最悪になってゆく。だけど、今日に限って言うならば、わたしの一日を最悪なものにしているのは、そんな些細な出来事じゃない。もっと言えば、ずっと前から最悪だった。一週間くらい前から。
 新しいタバコに火をつけ、空っぽの部屋を見回す。命の気配をまるで感じない。かつてこの部屋は、わたしとみすちーの生命力で溢れていた。わたしとみすちーの音楽で張り裂けそうだった。いまじゃ、わたし達の思い出の上にすっかり埃がかぶっている。
 
 自嘲、後悔、破滅、阻喪、あらゆる情操を煙とともに吐き出す。ヤバいことになってしまった。
 一週間前、みすちーが家出してしまった。
 


 行動力こそが人生を切り開くのだという信条はいまも変わりないけど、自分の方向感覚に関して言ったらかなり自信がない。むかしからがむしゃらに、しゃにむに走ってきたけど、それでどこかに辿り着けるほど世界は単純でも愚かでもなかった。
 命蓮寺を破門されたのも、なにも考えずに突っ走った結果に過ぎない。だけど、あのときはまだ希望があった。バンドの相方をやってるみすちーの家に転がり込んだのだ。そこでずっと音楽をやったり、みすちーの屋台の仕事を手伝ったり、みすちーと夜に溶け込んでいた。
 
 甘かったというほかない。わたしの人生設計はマリファナの煙よりも甘かった。完全に失敗だった、クスリに手を出したのは。ことの詳細は省くけど、とにかく酒とクスリ漬けの生活が続いた。思い通りにならない人生に嫌気が差していた。
 そんなわたしを見兼ねて、みすちーは言った。
 「響子ちゃん。こんな状態がずっと続くなら、わたしにも考えがあるよ」
 別れをほのめかすこの発言に、わたしは頭を下げまくった。みすちーと離れ離れになってしまうのは、愛を失う以上の影響力があった。とどのつまり、わたしには貯金もなにもなかったのだ。
 
 わたしは約束をした。必ずクスリをやめてみせる、と。酒はちょっと難しいかもしれないけど、クスリはやめるよ、と。みすちーは納得してくれた。
 約束は簡単だ。口でならなんとでも言える。みすちーに「プリズムリバーに入団してくれ」と言われてもわたしは約束しただろう。
 迂闊だったのは隠し場所を変えないことだった。トイレの棚に隠しておいた注射器のセットを首尾よく見つけたみすちーは、わたしの眼前にそれを突きつけ、やっぱりね、的な顔をした。わたしはその場でみすちーを押し倒し、朝まで愛してやった。

 目を覚ますと、みすちーは影も形もなかった。枕元に幾ばくかの金銭が置かれているのみだった。書き置きもなにもなかった。
 みすちーは本物だ。
 
 
 2
 いつものライブハウスのバーで飲む。ディタをベースにしたスプモーニ。プリズムリバーのサプライズ演奏の熱がまだ残っているみたいで、もしかしたら今日も、みたいな期待が店中に渦巻いていた。
 わたしは酒を飲む。なにがディタだ。なにがスプモーニだ、気取りやがって。こんなものを飲んでたってだれもわたしを見つけてくれやしないし、だれもわたしの言葉には耳を傾けちゃくれないんだ。
 それでも飲まなきゃやってられない。この世に存在してもしなくてもいい音楽がステージからここまで漂ってくる。バーテンダーは曖昧に首を振り、グラスをキュッキュッと磨き上げている。ステージ下の男や女はそのときを待ちわびている。まるでプリズムリバーの音楽が流れていないときはセックスしちゃいけないという決まりでもあるみたいに。 

 味がわからなくなるくらい酔っ払った頃合いに、隣にだれかが座った。顔をそっちに向けたけど、酔眼朦朧としていて、結局だれかはわからなかった。
 「みすちー⁉︎」一か八かに賭けてみた。「もしかして、みすちーじゃない⁉︎」
 「違うよ」
 モザイク顔が首を振ったような気がした。目を擦って視界を判然とさせると、たしかにそいつはみすちーじゃなかった。
 「なんだ、みすちーじゃないのか」わたしはがっかりしてハイネケンをあおった。「みすちーじゃないやつが、なんか用?」
 「カンパリソーダ」みすちーじゃないやつが指を鳴らしてバーテンダーに注文する。「ね、あんた、もしかしたら幽谷響子じゃない?」
 動揺を押し隠すために、わたしはタバコに火をつけた。
 「へえ、わたしのことを知ってる人がこの世にいたなんて、鳥獣伎楽も有名になったもんだね」
 「鳥獣伎楽?なにそれ」
 「……」
 「わたしのこと、覚えてないかな。リグルだよ、リグル。ミスティアの屋台に通ってたんだけど」
 
 わたしはタバコをとっくりと吸い、隣の顔をじっと見つめた。見れば見るほど、自分の中の記憶と齟齬が生じるみたいだった。こんな顔の知り合いはわたしにはいなかったはずだ。
 「悪いけど、覚えてないや」
 「ふうん。ずっと裏方にいたもんね。ミスティアは元気?」
 「屋台、出してないの?」
 「最近は見かけないけど……」リグルはカンパリソーダを舐め、タバコを咥えた。「なに、喧嘩でもしちゃった感じ?」
 「そんなとこ」
 「ふうん」
 わたし達は無言で酒を飲んだ。あれほど自分の隣にだれもいない夜を呪ったのに、いざ隣にだれかがいると、無性にムカついてくるのだった。
 ガラスの灰皿に手が伸びかけたとき、リグルが口をきいた。
 「ねえ、いま、仕事ってどうしてるの?」
 わたしは灰皿を置き、その上に吸い差しを置いた。
 「お金、ないんじゃない?」
 返事代わりにハイネを喉に流した。泡が妙に粘っこかった。
 「いい仕事があるの」
 その言葉を待っていたんだ、という気分を悟られないように、わたしはタバコをスパスパ吸う。

 リグルの話はこうだ。
 リグルは虫をたくさん飼っていて、幻想郷じゃ見られないようなのもいるらしい。それらは外の世界では「特定外来生物」と呼ばれ、やたらデカかったり毒を持っていたりと危険なものばかりのようだ。
 「おっと、どこで仕入れたのかは訊かないでよ。企業秘密だからさ」リグルはカンパリソーダで喉を潤し、話を続けた。「そいつらを顧客に届けてもらう。あんたには運び屋をやってもらう」
 「顧客?」
 「中にはいるのさ。虫を愛したり、虫を使って愛したりするやつらがね」
 リグルがヘドを吐く真似をした。
 「ヤバい仕事なんじゃないの?」
 「でなきゃ、あんたなんか必要ないだろ?」
 「たしかに」

 わたしはタバコを吸い、考えるフリをした。実際は考えるまでもない。第一に、みすちーが帰ってくるまで金の入るアテもない。第二に、虫を客に届けるだけで金を貰えるなんてボロい商売、断る理由がない。第三に、なにかをやっていないと、頭の中から「自殺」の二文字を追い出せない。
 
 グラスをテーブルにタンッと置き、一大決心をしたためたように、やるよ、と言った。リグルはにやりと笑い、バーテンダーにタバコとバドワイザーを注文した。わたしはラッキー・ストライク。リグルはクールとかいういけすかない銘柄。
 グラスを合わせ、わたしは薄いビールをごくごく飲んだ。とりあえずの見通しは立ったというのに、どこまでも深い沼に沈んでくような悲しみや焦燥が胸を焼く。そんなときに浮かぶのは、いつだって救いのないメロディや詩。わたしはタバコでそいつらを焼き払い、ビールで鎮火した。

 と、ステージの方で歓声があがった。まさかまさかの二夜連続のプリズムリバーの出演に、だれもが沸き立っていた。服を脱ぐやつら、腰をアメリカン・クラッカーみたいに打ち付け合う男女、酒が足りないとバーにこぞってやってくる連中。人を見た目で判断するのは馬鹿のやることだけど、こいつらに関して言えば、みんな見た目で判断してもらいたがっているような感じ。
 やがて獰猛なジャズが聴こえてくると、さっきまで抜き差しならない光を瞳にたたえていたリグルも有象無象に混じって嬌声をあげ、ステージの方に走った。一人取り残されたわたしは、リグルがテーブルに置き忘れたクールをポケットにしまい、ビールを飲み干し、店を出た。

 虫なんか飼ってる野郎は、どいつもこいつもファシストだ。

 3
 ありふれた自己嫌悪に脳みそを蹴っ飛ばされて目を覚ます。酷い悪夢を見た。プリズムリバーのライブをみすちーと一緒に観に行ってるような、幸せな夢。悲しい願望。ありとあらゆる優しいもの達が「帰ってこい」と朗らかな笑顔でわたしを迎えてくれる夢。
 
 雑念を捨てるためにタバコに火をつける。ラッキー・ストライク。炭鉱夫が一発掘り当てたときの喝采が名前の由来だという。こんなものを吸ってたってなんの証明にもならないけど、気がついたらこいつに銭を吸われない日はなくなっていた。
 救いはそこら中に転がっている。「神」と言い換えてもいい。幻想郷は宗教の温床だ。神は貧乏人に牙を向く。神に人間を救えるなら、車にだって酒にだって音楽にだって救える。それらを買えない金のないやつが神を信仰する。
 わたしにとっての神。それは酒であり、タバコであり、クスリであり、音楽であり、みすちーだった。神は貧乏人に牙を剥く。わたしは、少なくともいまは貧乏人じゃない。

 なんとなくかけたラジオが、音楽を垂れ流す。プリズムリバーの新曲だった。
 玄関の戸がノックされる。わたしが許可を下ろす前に、ギシギシと音を立てて開く。
 「やあ、迎えに来たよ」既に出来上がってるらしいリグルが、まるで自分の家にあがるような感覚で踏み込んでくる。「仕事の時間だ」
 タバコを地面で揉み消し、ラジオも消した。新しい神が、牙を剥いてわたしを待っている。


 リグルの家はみすちーの家からそれほど遠くない場所にあった。なにせ、虫を大量に飼ってるやつの家だ。どんな魔窟かと身構えいたけど、思っていたのとはだいぶ様子が違った。だからと言って落ち着くわけでもない。そこら中に馬鹿でかいムカデやらサソリやら、絶対に自然に誕生したとは認められないような色彩を纏ったカエルやらが入れられた透明なケースが置かれている。蛇もいた。頭の先が二つに割れた、飼い主に似てずる賢い感じのする蛇。
 
 ちょっと出てくる、と言ってリグルが部屋の外に出て行くと、無人島に一人で取り残されたみたいに心細くなった。阿呆になったような気分でぐるぐるとケースを見回す。蛇にもカエルにも、価値があるようには見えない。こんなものを可愛がるやつらは、いったいどんな境遇で育てられてそうなったんだろう?親の愛情が足りなかったのか?
 
 冷蔵庫から勝手にビールを取り出し、虫どもを肴に飲む。命を狙われているような感覚。こいつらはケースに閉じ込められて尚、自分に世界を変えられる力があると思い込んでいる。そんな風に見えた。だからかもしれないが、ケースの端っこで大人しくしてるカエルのことを、わたしはいちばん気に入った。
 空き缶が二つになり、タバコを三本吸ったところでリグルが戻ってきた。
 「おまたせ。早速、仕事をやってもらうよ」
 「どこ行ってたの?」
 「クライアントとちょっと行き違いがあってね」
 「大丈夫なの?」
 リグルは、そんなことは神さまにでも訊いてくれ、とばかりに肩をすくめた。イライラを悟られないようにタバコを咥えた。リグルが火をつけてくれた。儀式めいた所作だった。実際、虫どもに囲まれて吸うタバコの味は、どこか神秘的なものを感じさせた。まあ、どうでもいいんだけど。
 
 「金は?」
 わたしが訊くと、リグルは指をパチンと鳴らした。どこからともなく真っ黒い煙が部屋に侵入してくる。思わず身構えてしまったが、黒い煙の正体は虫だった。虫はわたしの足下に近づき、わらわらとその場に留まった。嵌められたのかと思ったが、そうではないみたいだ。虫がはけてくと、そこから封筒が現れたのだった。
 「前金で半分」わたしは封筒を拾い、中身をあらためた。「仕事が終わったらもう半分だ。いいね?」
 断る理由もないので頷く。
 
 わたしとリグルは虫の入ったショーケースを表に停めてあるリヤカーまで運び、その上に大きな布を被せた。
 「これ、届け先の住所ね」
 渡された紙を一瞥し、折り畳んでポケットにしまう。
 「いいか、絶対に人に見られないでよ。幻想郷に外来種を持ち込んだのがバレたら、面倒なことになるんだから」
 「なんで?」
 「なんでって、そりゃ……」
 「なんで危険を冒してまで、こんなビジネスをやるの?」
 リグルが面食らったように目を見開いた。こんなことを言うやつは初めてだ、という感じに。
 「河豚は食いたし命は惜しし、じゃあ、幻想郷ではやっていけないだろ?」
 「幻想郷に河豚はいないけどね」
 毒蛇みたいに狡猾な笑みを浮かべながら、リグルはわたしの背を叩いた。
 かわいそうな虫達を送り届けるため、わたしはリヤカーを引いて歩き出した。


 奴隷のように車を引き回しながら、森の中を往く。リグルの家からかなり歩いたような気がするけど、いまだに出口が見えてこない。虫どもは大した重さじゃないけど、酒やタバコで体力が落ちているのか、車を引き始めてから五分たらずで息があがってしまった。あまりの情けなさに涙が出てくる。まだ春も来てないというのに、汗をかきまくった。
 
 限界は唐突にやってくる。酒を飲んだ次の日の朝。みすちーが屋台を出す一時間前。タバコを吸って物思いにふけっているとき。トイレが詰まったとき。いつまでも出口が見えない森の中を歩いているとき。そんなとき、わたしはなにもかもを投げ出してしまいたくなる。あるいは、すべてを取り戻そうと躍起になる。悲しいのは、そのどちらも叶わないということ。要は、地の底まで落ち込んだと思っていても、まだまだ先があるということだ。
 そのことをよく知っているから、わたしはリヤカーを引くことができる。人生はいつだって崖っぷちで、最後の一押しを待っている状態なのだ。こんなところでくたびれている場合じゃない。救いなき魂が、救いなき虫達を待っている。

 と、ガタンという音が後ろからした。振り返るのも億劫だったが、どうにか首をよじって音の鳴りし方を見やる。
 幻想郷崩壊の序曲が始まっている。なにかの拍子で倒れたケースから虫どもが這い出てきているではないか!肝を潰したわたしは、その場に尻餅をついて動けなくなってしまった。
 虫どもが殺戮の行進を始める。皆殺しの街道を爆進している。わたしには目もくれずに。まるでカナンの地にでも向かおうとしているかのように。
 崩壊していく自然界の秩序を、わたしは指を咥えて見殺しにしていた。あらゆる意味でどうすることもできないのなら、じたばたしようが落ち着いてようが同じことなのだ。わたしはリグルからもらった前金の額を確かめた。一週間くらいはどうにかなりそうな額が入っていた。一週間もあれば、小さな殺戮者どもが自然界に台頭しているかもしれない。一週間あれば、みすちーもわたしのことを許して家に帰ってきてくれるかもしれない。神はたった七日間で天地を創造したのだ。なんだって起こりそうなもんじゃないか。
 
 とりあえず、わたしはいつものライブハウスに向かった。

 4
 虫どもの大脱走劇から二日経ったが、幻想郷はいたって平和だった。ラジオは相変わらずプリズムリバーの音楽を垂れ流し、ライブハウスは酒池肉林の様相を呈し、みすちーはまだ帰ってこない。穏やかで、平和で、うんざりするくらいなんにも起こらない。きっと、幻想郷の平和を守るための知られざる戦いがどこかで起こっているに違いない。
 夕方頃にいつものライブハウスへ行くと、リグルがバーのスツールに座っていた。灰皿にこんもりと積まれた吸い差しを見るに、随分とわたしのことを待ち焦がれていたらしい。わたしは彼女の隣に座った。
 「やい」と、いきなり怒気含みで来た。「どういうつもりだ?」
 なにが、とシラを切ると、胸ぐらを思い切り掴まれてしまった。
 
 「虫を野に放っただろ!おまえのせいで、賢者に目をつけられちゃったんだぞ!どうしてくれ……」リグルの表情が固まったのは、わたしがタバコに火をつけて咥えたからだ。「上等だよ」
 が、リグルがなにか暴力的なアクションを起こす前に、彼女の背後の風景を塗り潰すように、眼球だらけの赤黒い空間が浮かび上がった。目をつけられたというのは本当らしい。そこから伸びた細くて美しい手が、リグルの頭に生えてる触覚を鷲掴みにした。どんな慰めも気休めにしかならないほどの絶望を顔に浮かべている。
 「ごめん、リグルちゃん」わたしは半分ほど吸ったタバコを彼女の口に咥えさせた。「でもね、あれは本当に仕方がないことだったんだ」
 「ざけんなー!」
 謎の空間に飲み込まれてくリグル。やがて空間の裂け目が閉じ、ライブハウスは平穏を取り戻した。
 わたしにできたことなんか、みすちーが家を出て行ったときからなんにもない。だというのに、このやるせなさはいったいなんだ?リグルはどうなってしまうのか?あの虫たちはどこへ向かったのか?どこかへ辿り着くことができたのか?みすちーはいつ帰ってくるのか?
 
 いまとなっては、なんにもわからない。幻想郷はいつも謎だらけだ。謎の当事者でないやつらにできることなんか、せいぜい酒を飲んだり、クスリをキメることくらいだ。罪悪感なんか感じない、お寺には血の池で溺れてハイになるような人もいたのだ。
 その人がよくて、わたしがダメな理由なんかどこにもないじゃないか。
 「ハイネケンとタバコ」
 バーテンダーに申し付けると、何万回も繰り返してきた動作で注文したものをテーブルの上に出してくれる。わたしはハイネを飲み、タバコに火をつける。問題は、再び食い扶持を失ってしまったということ。そろそろ本格的に音楽活動を再開しなくてはならない。
 酒を干し、ステージに上がった。困惑するスタッフからアコースティックギターを借りる。ボロボロのやつだったし、観客はまばらだったけど、一曲、即興でやってみた。あの逃げ出したムカデやカエルやサソリのことを思い浮かべながら、詩を紡いだ。
 わたしと観客の間には、決定的な隔たりがあった。いい感触だ。世界を滅ぼしたい気分になってくる。もう一曲やった。
 どこまでも続くなだらかなメロディ。暴力を肯定する詩。あるようで存在しないメッセージ性。擦り切れた魂。やがて観客が増えてきて、わたしもノリにノッてきたのだが、とんだ勘違いだった。みんな、プリズムリバー目当ての客だった。
 
 わたしはギターを置き、ステージを降りた。敗北が確定しているわたしの背中に、トゲトゲしい視線が突き刺さる。こんなにプリズムリバーの音楽が恋しくなったのは初めてだった。わたしの恥ずかしい勘違いごと、彼女らの音楽で吹き飛ばして欲しい。
 
 絶望と後悔の最中に、わたしを呼ぶ声があった。
 「響子ちゃん?」見やると、一輪さんが心配そうな面持ちでわたしを見つめているではないか!「やっぱ、響子ちゃんだよね?」
 わたしはなにも言わずにバーの方へ流れた。一輪さんが付いてくる気配があった。なにも考えないようにした。なにも答えないようにした。
 「ねえ、なんで黙ってるの?」その声には苛立ちとか不満とかそういうのは一切なく、ただただ純度の高い心配だけがあった。「響子ちゃん、ねえ……」
 わたしはスツールに上り、バーテンダーに酒を出せと申し付ける。この場に限って言えば、なにかを証明できる気がした。もう、一輪さんが知ってるかつてのわたしはどこにもいないのだと。
 「一輪さん」タバコに火をつけながら、わたしは彼女の名を久々に呼んだ。「なんでこんなところにいるんですか?」
 探るような間があってから、一輪さんは答えた。「プリズムリバーがライブをやってるって聞いて……」
 
 わたしは振り返りもせず、やっぱりね、というような顔をバーテンダーにしてみせた。バーテンダーはなにも語らない。他人の人生に深く踏み込まない、本物とはこういう人のことを言うのだ。
 「ねえ、姐さんは響子ちゃんを破門にしたけど、いっつも心配してるのよ」この話題になることはわかっていた。「ちゃんと頭を下げて謝れば、姐さんも許してくれるわよ、ねえ……」
 「わたしはね、虫なんです」
 背中に突き刺さっていた一輪さんの慈悲深い視線が、馬鹿を見るそれに変わったような感じがした。
 
 わたしはしっかりと自分を束ねてから、スツールごと体を回転させて一輪さんに振り返った。訝しげにわたしを睨みつけている一輪さん。
 「虫は、だれかの手の内に収まった時点で死んでしまう。自然から隔絶された時点で、命のあるなしに関わらずに死んでしまうんですよ」
 「……なにが言いたいの?」
 「わたしは世界を変えたいんです。でも、虫かごの中にいたんじゃ、世界を変えることなんかできやしない」
 「……だから?」
 「え?だから……ええと」自分がとんでもない阿呆にでもなったような気分で、わたしは言葉を探し出す。「お寺にいたんじゃわたしのやりたいことはやれないってことです。聖さまはわたしの音楽は認めてくれなかったけど、プリズムリバーの音楽は認めている。一輪さんがいまここにいるのって、そういうことでしょ?」
 一輪さんはとっくりとわたしの言葉に耳を傾けていた。たしかな手応えを感じた。
 「響子ちゃん」
 「はい」
 「大人になりなさい」
 「……」
 「世の中にはね、思い通りにならないことがたくさんあるのよ。あんたの知らない悲しい出来事だってたくさんある。それから目を背けて酒や夢に逃げてたら、いつか本当に自分を見失っちゃうわよ」
 「いや、その……」
 「でもね、どんなこと言ったって、あんたはまだガキなのよ。わたし達から見たらね」
 「ちょっと、わたしの話を……」
 「寺に帰ってきなさい」
 
 わたしは口をパクパクさせる。これほど魅力的で、優しくて、政治的打算を含んでない提案は、この先一生かかってもお目にかかれないような気がした。
 入れ替わり立ち代わりにやってくる神。それは死神のときもあれば、自由をもたらす神もいた。そしていま、すべてを許してくれる神が目の前にいる。
 プリズムリバーの曲が始まるが、なにもかもが現実と剥離していた。ステージ上に立つ女たちの名を呼ぶ声。曲に合わせたコール。闇を切り裂くフラッシュ。波打つステージ下で人々は一体化し、だれがだれだかわからなくなり、まるでモダンアートのようにもみくちゃにされてゆく。

 混沌は店中に広がってるというのに、わたしと一輪さんはそれに飲み込まれなかった。
 「待ってるから」
 一輪さんのその一言が、魔法を解く合図だった。
 店中に渦巻く混沌が、わたしを飲み込んだ。一輪さんは吐き気がするほど波打つ人の中に消えた。その中に、かつての仲間の面影が見えたような気がした。
 わたしはスツールを回転させ、テーブルと向き合った。清潔感のあるテーブルが、わたしの顔だけでなく、内面まで映しているようだった。かつてお寺で可愛がられていたわたしの笑顔は、天使と悪魔に左右から引っ張られて、引き裂けそうになっていた。
 
 寺に帰ってきなさい

 頭の中に居座る一輪さんの声を、どうにかして振り払いたかった。どう頑張っても、そう、世界中を震わすこの音楽にだって、そんなことは不可能だ。
 だから、わたしは帰ることにした。

 
 5
 夢を見ている。
 ギザギザの歯をした幽霊楽団に、わたしは追われている。それは叶わなかった夢。敵わなかった現実。アルコールと毒気に満ちた色彩にまみれ、わたしは水の中をひたすらに泳いでいる。途中で、カエルの背に乗ったサソリとすれ違う。振り返り振り返り、わたしは泳ぐ。
 やがて彼らは、わたしが飛び込んだ岸へと辿り着く。彼らはついに新しい自分らしさを見つけ出せたのだ。
 
 何億年も前から存在するような轍の上を、わたしは歩いている。それはだれかが辿ってきた道。それはわたしが挫折した道。遠くにそびえる山々の稜線が、夜空と厳正なる境界線を引いている。見たこともない車輪のついた鉄塊が、会ったこともない人たちを乗せて遠くへと連れて行く。
 道中、サソリやカエルやムカデの大群と遭遇する。まるでおれらにはおれらのやることがあるんだ、と言わんばかりに、一様にして同じ方向へと突き進んでいる。自分以外のすべてを皆殺しにするために。人間に生まれ変わるために。わたしは虫になる。虫には自我がない。

 夜空の肥えた月が、地上のジェノサイドを見過ごしている。どこかで鶏がときを作ったが、それさえも夢であることを、わたしは知っている。


 目を覚まし、朝のルーティンを五分で済ます。体はすこぶる快調だった。
 シャワーから出ると、みすちーが味噌汁を作っていた。彼女を背後から抱きしめ、うなじに顔を埋め、匂いを嗅ぐ。彼女から熱を吸い取るように。
 「おかえり」と、わたしは言った。「どこ行ってたの?」
 「どこでもいいじゃない」肩越しに振り返ったみすちーは、何日か前に見た顔とぜんぜん変わっていなかった。「ここはわたしの家なんだから」
 「それもそうだね」
 それから、わたし達はみすちーが作ってくれた味噌汁には手も付けず、酒をかっ喰らった。かっ喰らいながら、わたしの来世は虫かなんかだろうな、などと思う。
精進します
いびでろ
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
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4.90名前が無い程度の能力削除
所々汚い部分があったので-10点です
7.100名前が無い程度の能力削除
掃き溜めでしたね
9.90名前が無い程度の能力削除
退廃の沼
10.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。響子の持ってる惰性とか依存性がリアリティを持って襲い掛かってきました。
11.無評価名前が無い程度の能力削除
面白くなかったですが文章表現は上手いと思いました。
12.100南条削除
めちゃくちゃ面白かったです
登場人物がどいつもこいつもキレッキレで最高でした
最後の最後には元の場所に戻ってこれたようで何よりでした