Coolier - 新生・東方創想話

ピアノは見ている

2021/01/24 19:09:31
最終更新
サイズ
22.13KB
ページ数
1
閲覧数
528
評価数
6/9
POINT
700
Rate
14.50

分類タグ


 ピアノの音が止んで、あとから拍手が起こる。小雨を思わせる下手な拍手だ。その小雨はすぐにやみ、声がかかる。
「見事だよ。この時代、もはや君は世界で十本の指に入る」
「大げさに言い過ぎです」
 本当だよと返す男は、灰色混じりの黒髪をオールバックにして、白いコートで体の大半を覆っている。笑うときに見える歯は不自然に白く、作り物であることが判る。
「もはやノスタルジィは無くなってしまった。あるのは下手な退廃だけだ」
「それを知っていながら、ピアノを教えるのですか?」
「私はこれしか知らないからね」
 男は目尻に皺をたくわえ、かつての自分を思い返した。時代が進めど浄化されることのなかった屑箱に居た時代だ。
「私がスラム出身だというのは話したかな」
 マエリベリー・ハーンは頷きかえす。
「そんな掃溜めからこの学校に来れたのは、このピアノの腕があったからさ」
 彼が初めてコカインに手を出したのは三歳の時だった。そこから常用者になった。彼の腕にはまだいくつもの注射痕が残っている。
ハイになった彼は、いつもピアノを弾いた。周りのクズ共はヤク中の弾くピアノをはやし立て、面白がった。彼の母親もその中の一人だった。ややあって母親は彼を売った。
「後に日本の東京で買われ、こうして此処に立っている。運命とは解らぬものだな」
「…とても今の時代の出来事とは思えません」
「まぁ、特殊なケースだからね」
 ピアノの個人授業は終わり、彼女は廊下を歩いている。空は曇っていて、雨が降りそうにも見えた。何となく憂鬱になり、過去の質問を思い出してみた。


—今の時代に、ピアノを習う必要があるのでしょうか?
—興味深い指摘だ。
 そう言って教授は笑う。この時の教授はいつもの白いコートではなく、祭司用の神父服だった。
—必要はないだろう。しかし芸は身を助く。私が正にそうだ。


 そういえば、損はさせないと言うから習い始めたのだった。しかも蓮子はデュエットしたいからヴァイオリンを習うとか言い始めるし。ヴァイオリンの練習は他の棟だからどれほど進歩したのか判らない。そう言う私もどれほど進歩したのか判らないのだけれど。いつかは蓮子の言う通り、デュエットをしてみたいとも思う。
「あら」
 考え事をしていたせいで見逃すところだった。珍しいことに、中庭に置いてある消火栓の境界が開いている。消火栓とはいってもオブジェのようなもので、実際に火を消せるような機構はない。つまりはトマソンである。
「それにしても、大きい…」
 屈めば人くらい入れてしまう。蓮子ももう少しでヴァイオリンの授業が終わるだろうし、側で待っていようか。しかしその考えを笑うように、私の目の前で境界は小さくなり始めた。
「あぁ、勿体ない」
 本当は今すぐにでも飛び込みたかったけど、蓮子がいないのなら行く意味がない。とっても勿体ないけど、今回は見逃すしかない。思わず溜息を吐いた。
 すると、背中を押された。首だけ回して確かめると、無表情の教授が立っている。
 驚く時間すら与えられずに、閉じかけていた境界に呑み込まれた。

———

 空間に揺蕩って弄ばれて、ようやく吐き出された場所はレンガの道だった。空は赤暗く、日暮れは近いらしい。
 街の灯りが近遠くに見える。ここらは少し田舎なのかもしれない。レンガの道を目で追うと、街と集落とを繋いでいるようだ。集落の方はこじんまりとした家々がつらなり、薄い煙が立ち昇っている。きっと晩御飯を作っているのだろう。
 どうするべきか。場所の確認もさながら、夜に成りかけているのなら床を借りるべきか。どちらにせよ誰かに訊いてみるしかないので、人がいる方に向かうのだが、ここで悩む。集落に行くのか街に行くのか。
 何となくだが、集落のほうが暖かみがある気がする。それに此処から近いのは集落の方だ。レンガを踏みしめて、夕焼けを横目に歩き始める。


 てっきり私は欧羅巴に来たのだと思っていたが、目の前のアジア系の服装の女性を見ると疑わしくなった。女性は門の傍らで背を壁につけ目を閉じている。寝ているようにも見えた。
 起こすというのも気が引けるが、しかしこの屋敷以外の家は失礼ながら貧相なのである。できれば此所に泊めてほしい。意を決して起こそうとした。
「すみません」
 その一声で女性は目を覚ました。少し吃驚した様子だが、ここが頑張りどころだ。
「道に迷ってしまって、どうかこのお屋敷に泊まらせてほしいのです。お願いします」
 女性はしばらく言葉を発さず、私の懇願を咀嚼しているように見えた。何度か小さく頷いたあと、門を開けて中に入っていった。“ここで待て”という意味のジェスチャーを残して。
 少しして戻ってきた。人のよさそうな笑顔を浮かべていた。
「お嬢様がよろしいと。歓迎します」
「ありがとうございます」
 こうして館に招き入れられた。広間まで案内される途中で女性から注意を受けたが。
「私以外の方には貴女の言葉は通じませんので、ご注意を」
「はぁ…」
 大丈夫だろうか。私は日本語以外は話せないのだけど。
 広間に入ると、寝間着姿の二人の少女がいた。一人はソファに寝転んで本を読んでいる。もう一人は私を見て、持っていたグラスを掲げた。
「もしかして、今から寝るところ…?」
「いえ、一人はたった今起きたところです」
 私の言葉にそう答えた女性は、ソファに寝転がっている少女に近づいていった。私の方を指さして、何かを話している。少女のほうは面倒くさそうな表情を浮かべ、広間から去っていった。
「少し待っててくださいね。パチュリー様が石を持ってきますので」
「石?」
「魔法石です」
 あまりに自然に言うものだから、違和感すら抱けなかった。魔法石。言葉通りに受け取ればいいのか、それともそういう名前の石があるのか。いや、この状況で石を持ってくるということは、やはり魔法の石なのだろう。
 答えを知らせるように、面倒くさそうな表情はそのままにして少女が戻ってきた。私に小さな石を渡して、ちょいちょいと耳を指さす。
「耳に当ててください」
 女性が通訳してくれた。言われるがままに耳に当てる。
「初めまして、歓迎するわ」
 どう聞いても歓迎する意思は感じ取れなかったが、それは紛れもなく目の前の少女が発したセリフだった。どうやらこれは翻訳機代わりらしい。
 少女は名前も名乗らずに、また広間を去ろうとする。あくびをしていたから、やはりこれから眠るところだったのだろう。
「おやすみパチュリー」
「おやすみ」
 旧型の葡萄酒—一般的にはワインと呼ばれている—を嗜んでいる少女が一声かけ、パチュリーというらしい少女は去った。
「美鈴、もう門番はいいわ。休んでなさい」
「ありがとうございます」
 唇に当てれば相手に伝わりますよ、と言い残して女性も去り、広間には私と起きたばかりだという少女が残された。グラスに揺れているワインを飲み乾して、私に向き直る。
「歓迎するわ、お嬢さん。貴女も飲む?」
「いえ、旧型はあまり得意でなくて…」
 旧型?と首を傾げる少女。というかそれ以前に、こんなに幼い子がお酒を飲んでいいのだろうか。色々とまずいと思うが。そんな私の視線を感じ取ってか、少女は立ち上がる。
「確かに、寝間着で応対するのは失礼だったわ。ごめんなさいね」
 見当違いのことを言って、チュールを脱ぎだす少女。少し狼狽えたが、その後で呆気に取られた。
 何か、腰のあたりに巻き付いている。それは黒い布のようで、蝙蝠の羽に似た形で、背中から生えていて。その内にぶわりと動き始める。
「…それは…何?」
 ふふ、と微笑んで笑う少女。
「吸血鬼に逢うのは初めて?お嬢さん」


 少女の着替えは終わって、今はローテーブルを挟んで向き合っている。特に話題もないので、二人とも黙ったままだ。
「自己紹介でもしたほうがいい?」
 少女からの提案。
「お願いできるかしら」
 曰く、吸血鬼のレミリア・スカーレット。妹がいる。美鈴(案内してくれた女性)は東方からのとある伝手で拾った。運命が見える。などなど。聞くかぎりでは明らかに時代が違っている。
 例えば目の前のアンティークなローテーブルもそうだ。その上に置かれたティーカップも。決して今の時代でも使わないことはないが、こうして普段使いにするには効率が悪い。これだけで確信は持てないが、一つの証左にはなるだろう。
「フルーツはどう?よく熟れてるわ」
「それじゃあ、頂きます」
 レミリアはどこかから赤い果実を持ってきて、ナイフで皮を剥いてカットする。
何かのパッケージで見たことがある。林檎だ。香りや味が再現されたものはよく食べるが、林檎そのものを見たのは初めてだ。皿に鎮座するそれは兎のようにも見える。
「どうぞ」
「あ、ありがとう…」
 恐る恐る手にとって口に運ぶ。黄色がかった白色の実はシャリシャリと崩れ、酸っぱさと甘さが染み出してくる。皮の強い食感も美味しい。
「甘いでしょう?イングランドの物だもの」
「ええ、とっても美味しい」
 三羽の林檎を食べ終えると、それなりの満足感と疲労感が襲ってきた。不可思議なものばかりに触れて、疲れが溜まっていたのかもしれない。ずっと石を持っていた右腕も辛くなってきた。
「眠りたいのなら案内するわ」
「お願い…」
 広間から出て大きな廊下を案内される。いやに窓が少ないのが印象的だ。つきあたりに下に行く階段があったが、レミリアはその直前の部屋で立ち止まる。
「この部屋を貸すわ。木があるからそれで歯を磨きなさい」
「木?」
 扉が開かれると、最初に暗いと感じた。やはり窓はない。それがなんとも吸血鬼の館然としていて、これから眠るのに興奮してしまう。ランプが灯されると、同心円状に光の輪が拡がって部屋を照らした。
 ドレッサーがない。その代わりというべきか、大きな本棚が二つある。中身は外国語の本ばかりだ。端末がなければとても読めそうにない。
 石を下ろしていたので、レミリアの言葉を聞き逃してしまった。見てみると、タンスの上に置いてある細い木の束を指さしていた。使い方を示すように、レミリアは木を手に取って歯で噛み始める。その内繊維がほどけて、歯ブラシのような形になった。どうやらこうやって歯を磨けということらしい。ならってやってみると、歯茎が痛くてろくに磨けなかった。
 少し血の味がする口内はそのままにして、ベッドに横になる。隣にある棺桶は気になるけれど。枕からは、心が安らぐような不思議な匂いがする。微睡みながら、そういえば吸血鬼の館で寝てしまっていいのだろうか、食べられはしないだろうか、などと今更な考えが浮かんだ。
 レミリアは私の近くにちょこんと腰を下ろし、やさしく髪を撫でる。
 あぁ、こんなにやさしく髪を撫でる吸血鬼なら、人を食べたりしないだろう。私は安心して睡魔に体を委ねた。ランプが消されると、部屋はまた暗闇に包まれた。


 ランプの灯りが私を起こしたとき、部屋には吸血鬼がいた。でもそれはレミリアじゃなかった。それは薄い黄色の髪だった。とりあえず近くに置いていた石を手に取る。
「初めまして」
「初めまして」
 挨拶を返す。紅い目はどことなくぼんやりしているように見えた。その目を細め、私を見据える。
「どうして貴女があいつの部屋で寝てるのかしら」
「あいつって…」
「レミリア・スカーレット。会ってたでしょ?」
 まさか、これがレミリアの妹だろうか。蝙蝠みたいな翼とか、似ているといえば似ているけれど。じっと私の目を覗き込むその様子は、あどけなく不思議と恐ろしい。
「ふーん」
 何かを感じ取ったように頷く吸血鬼。そうしてくるりと背を向ける。
「これから晩御飯なの。食べる?」
「あ、食べる…」
 反射的にそう言ってしまった。まさかこれは、血を啜る破目になってしまったか。いや、レミリアはそこらの気遣いは出来そうだから信頼しよう。それにしてもお腹が減った。
「ところで、誰?」
「あ、マエリベリー・ハーンっていうの。好きに呼んで」
「わかったわ、マエリベリー」
 あぁそうか、教授もそうだったけど、外国人は私をメリーとは呼ばないのだった。蓮子は外国語の発音が苦手だからメリーと呼ぶけれど。あれ、思い返してみると、レミリアに名乗ってなかった。後でやっておこう。
「それで、貴女は?」
「フランドール・スカーレット。お察しの通り、あいつの妹」


 フランドールに案内されていったのは食堂だった。既に美鈴さんとレミリアは席についていたが、パチュリーはいない。フランドールは気にすることなく椅子に座った。
 テーブルにはパンとスープ、煮込まれた肉が置いてあった。おそらく本物の肉なのだろう。私も席についた。
「やぁ、よく寝てたわね」
「ごめんなさい、疲れてたから」
 ごめんなさいという言葉に不思議そうな顔をするレミリア。すると、フランドールが語った。
「東洋の人間は繊細だからねぇ。謝らなくていい事も謝るのよね」
「あぁ、確かに」
 美鈴さんも同意する。そういえば外国人って、愛想笑いなんかも通じないんだった。少しやりにくい。レミリアはフランドールの言葉に納得したらしかった。
「でも、貴女は東洋の者ではないでしょう?名前もそうだし」
「生まれは違うけど…ずっと日本で育ったから」
「お話は後にして、食べません?冷めますから」
 美鈴さんの言葉にみんな同意して、石を置いてさっそく食べ始めた。スープは貝と野菜が多くはいっていて、少し薄めのコンソメ風味。貝の出汁がでていてとても美味しい。
パンは柔らかく、ちぎるとよい匂いが湧き立った。口の中で少しずつ甘味が染み出して、温かみが頬の内側に伝わる。やっぱりパンもとても美味しい。紛い物でない食べ物は、こんなに美味しいのか。
とうとうメインに据えられた肉に手をのばす。ナイフに易々と切られたそれを、フォークで口に運ぶ。最初にソースの華やかな香りが漂ってくる。それに後押しされるように、口に入れた。肉はよく煮込まれていて、簡単に噛み切れる。肉の旨みとソースが混じり合い、調和して、なんとも言えない心地だ。
 そうして食事に集中していると、あっという間に食べ終えてしまった。
「ごちそうさまでした」
 合掌を不思議そうに見る二人の吸血鬼。ご馳走様をいうのも日本人の特徴だった。


 食事を終えると紅茶が出された。さすが外国というか、とても美味しい。フランドールが紅茶を淹れるのが上手なのは、以外といえば以外だけど。
 すっかり満足してソファに凭れていると、遅れて食事を終えたレミリアが隣に座った。すぐに石を耳に当てる。こうして石を使わないとコミュニケーションがとれないのは、少し不便だ。
「美味しかったでしょう。何しろ美鈴が作ったものだからね」
「へぇ」
 あれは美鈴さんが作ったのか。視線を送ると、照れくさそうな表情を浮かべた。なんだか彼女はとても日本人っぽい。
 こうも美味しい紅茶を飲んでいると、ずっと飲んでいた再生容器の紅茶が子供だましだったことが判る。所詮は紛い物ということか。そこまで考えて、ふと蓮子のことを思い出して、次いで今はどれくらいの時間なのかが気になった。
 食堂には小さいながらも窓があって、外がのぞける。辺りはすっかり暗くなっていて、街の灯りがぼんやりと見えた。こういう時、蓮子が居たらなぁと思う。隣に蓮子が立っていたら、もっと面白い探訪になったというのに。考えるだけで悔しい。


 その後、これまた広いお風呂をかりて、体を洗った。脱衣所には鏡があった。おそらく美鈴さんが使うのだろう。
「それにしても」
 広い屋敷なのに、給仕なんかが一人もいないのは何故だろう。住人が少ないからか、もしくは吸血鬼の館として知られているからか。よく掃除が行き届いているなぁと思う。
 広間に戻るとレミリアが出迎えてくれた。
「貴女、ピアノは弾けるかしら」
「少しだけ」
 なぜかピアノを弾くことになってしまった。授業こそ受けているものの、まだ拙い腕前なのに。用意されたピアノは私がいつも弾いているものより立派そうで、鍵を叩くのは躊躇われた。
「そんなに緊張しなくていいわ」
 そうはいっても、こうも大きなピアノを前にして緊張しないわけがない。少し呼吸を整えてから、指をおく。
 曲はいつも弾いている練習用のもの。ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第一楽章。
 常時より不自由に動く指で、なんとか弾き終えた。三人から拍手が送られる。
「上手じゃない。言ってくれれば、私がヴァイオリンをしたのに」
 確かにヴァイオリンがないとこの曲は映えない。何より、聴いていてあまり面白くない。でも、蓮子以外の者と二重奏をするのは嫌だった。その旨を伝える気はないけれど。
「さて、部屋を決めないとね。日が当たるほうがいいでしょう?」
 どうやらこの館には、ちゃんと窓がつけられた部屋もあるそうだ。客人用の部屋や美鈴さん用の部屋だけらしいが。
 部屋はもっとも大きな窓がある部屋を貸してもらった。私はできるだけ朝陽に起こして欲しいから。例のごとく口を痛めながら歯磨きを終え、寝る段になってからフランドールが部屋を訪れた。
「貴女からは楽しい話が聞けそうだから」
 彼女はそんな事を言った。ただ、ずっと石を持っていた右手は本格的に疲れ始めていて、できれば早く寝たいというのが私の本音だった。疲れてるからと言ってベッドに入ると、なんとフランドールも入ってきた。
「寝ながらでもお話はできるでしょう?」
「危ないわよ。朝になったら陽が射しこむのに」
「大丈夫よ。メリーが盾になってくれるから」
 逢ったばかりでこうも信頼してくれるのはありがたいが、自分の命に関することなのに軽すぎやしないだろうか。
「じゃあ、私の友達の事から話そうかしら」
 こうして、眠るまで私はフランドールに話し続けた。




 背中にあったかい感触がひろがっていくと、瞼が自然と開いていった。どうやら朝を迎えたようだ。あまり疲れはとれなかったけど。
 吸血鬼は夜に活動する。夜が深まって私が眠くなるほど、フランドールは活動的になっていった。結果としてかなり夜更けまで話す破目になった。別に嫌ではなかったけれども、少しく疲れが残っている。
 フランドールは私に抱かれるようにして眠っていた。寝ているうちに私が抱きしめてしまっていたのだろうか。私が退いたら陽光が当たってしまうから、シーツで覆うようにしてからベッドから出た。そしてカーテンを閉める。とりあえずは心配しなくていいだろう。
 いちど背中を伸ばして、石を手に取り部屋から出た。
 広間に向かう途中の廊下で、何やら音がきこえた。ダンッ、という強い音だ。何かを打ちつけているような。好奇心がくすぐられたので、その方向まで向かう。


「あ、おはようございます」
「おはようございます、美鈴さん」
 エプロンをつけた美鈴さんが立っていた。
 音はキッチンから鳴っていて、美鈴さんが肉切り包丁を振るう音だった。エプロンには少し血が付いている。
「朝ごはんの準備ですか」
「それと、お昼ごはんと晩ごはんの仕込みです」
「一気にやるんですか…大変そうですね」
「慣れるとそんなに」
 小さく肉切り包丁があげられて、振り落とされる。わりと豪快なカットだ。
「手伝いましょうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。食堂で待っててください」
「わかりました」
 それにしても、朝から肉がメニューだろうか。食べれるか今から不安だ。他にどんなものが出るのか気になったので、背伸びしてすこしのぞき見る。
 鍋の中では掌が煮込まれていた。
「え」
 美鈴さんが切っていたのは、よく見ると脚だった。足首から下を落として、ふくらはぎの筋肉を切り取っていた。
「あれ、掌は苦手ですか?昨日の腿の煮込みがまだ残ってるので、それ」
 吐いた。




 目を覚ましたらベッドにいた。
 もしかしたらあれは夢だったのかと思ったけど、カーテンは閉まっていた。朝、フランドールに陽が射さないように私が閉めたから。
 思い出してまた吐きそうになり、でも胃液はすでに空だった。空気だけを吐き出した。吐き疲れて、壁にもたれて座り込んだ。
「ごめんね、蓮子」
 私、人を喰べたよ。
 それから長い間座っていて、立ち上がったのは決意が固まってからだった。
 フランドールを殺そう。そんな決意。
 復讐か、逆恨みか、それとも正義感からか。たぶんどれでもないだろう。ただ自然と、この化け物を殺そうと、そう思った。
 起こさないように、そっとシーツを捲りあげる。フランドールは最初と変わらない姿勢のままで、窓に背を向けて寝ていた。
 カーテンに手をかけ、思いっきり引いた。太陽光がフランドールの背を照らした。
 ぶすぶすと、音を立てながら蝙蝠の翼が焼かれていく。薄いからか、皮膜ははやくも無くなり始めていた。
「ん…」
 フランドールは小さく声をあげた。だけどそれは苦悶の声ではなかった。
 ゆっくりとフランドールが起き上がる。私はすぐにカーテンを閉めようとした。でもその前に、フランドールは私を見た。辛うじて石を耳に当てる。
「おはようマエリベリー」
 そう言って、フランドールはニコリと微笑みかけた。
「貴女、羽…」
 流れてきた雲がちょうど太陽を隠した。そこで身体は焼かれることをやめ、その背中には羽の芯だけが残った。
 私の言葉には反応せず、フランドールは続ける。
「こんなに早くに起こさないでよ。まだ朝じゃない」
「ご、ごめんなさい…」
 どういうこと。まさか気づいていないのか。いやそんな事はない、現に羽の芯をぶらぶらと揺らしている。
 ではなぜ、フランドールはこうして冷静に私と話している。
「ど…どういうことよ」
「何が?」
 いっそヤケクソめいた気持ちで、心情を吐き出した。
「どうして、どうして私が羽を焼いたのに、そんなに落ち着いていられるのよ!さっさとブチギレて私を殺せばいいじゃない!あんた吸血鬼なんでしょ、化け物なんでしょ!私くらい簡単に殺せるじゃない!」
 私の爆発にも、フランドールはきょとんとしたままだ。怒りで髄液が煮立ってしまいそうだ。どうしてこうも落ち着いていられるのか。
 そうして、心底不思議そうにフランドールは言った。
「だって、羽が焼かれただけでしょう?」
 その一言で、急速に心が鎮まっていくのがわかった。理解できてしまったのだ。
 フランドールはとうに狂っていたことが。
「それじゃあ、私はまた寝るわ。今度はちゃんと夜に起こしてね」
 カーテンを閉めて、ベッドで寝息を立てるフランドール。もう、私はどうすればいいか解らなくなってしまった。
「まぁ、そうなるでしょうね」
「え?」
 扉を開いたのはレミリアだった。
「何で、起きてるの…?」
 石を耳に当てたままだったけど、レミリアは私が何を言ったかを察したようだった。
「最初に言ったわ。私は運命が見えるって」
「でも、なら、何で止めなかったの」
「貴女が止まってくれると信じたから」
 そう言ってレミリアは小バカにしたように笑い、続く言葉を吐いた。
「まぁ、そんな訳ないけど。運命は変えようと思っても変えれないというだけよ」
 訊きたいことはそれだけ?とレミリアは言う。
 違う。もっと訊かないといけない事がある。
「レミリア、どうして私を食べなかったの…?」
 その質問はわかっていたのだろう、レミリアはすぐに答えた。
「まだ蓄えがあったし…貴女は綺麗だったから、殺したくなかったしね」
 綺麗だったから。そんな理由で、私は助かったのか。それは、なんという奇妙な運命なのだろう。
「さて」
 途端に空気が変わる。
 息が荒くなっていくのが止められない。息苦しい。怖い。
「それでも、フランドールを殺そうとしたのは見逃せないな」
 なんとか言い訳をしようと、石を唇に当てる。でも何も言えない。レミリアがそれを許さない。ボソリと何かを私に言う。その意味は解らない。
今にも私を殺しにかからんとするレミリアの後ろに、影があった。
「ハーンさん、大丈夫ですか…あれ、お嬢様。珍しいですね、起きてるなんて」
 美鈴さんだ。レミリアも不意を突かれたのか、振り返った。
 その瞬間に私は駆けだした。
レミリアの横を通り、美鈴さんを押しのけ、ただひたすらに玄関まで。
「ハーンさん!?」
 前のめりに転びそうになって、それでも持ちこたえて走り続ける。少なくとも外に出れば、吸血鬼は私を襲えないはずだ。
 玄関を出て、門を開ける。そして駆ける、何処かまで。
「そういえば、どうやって、帰るんだっけ」
 走りながら口に出した。そうだ、私には帰る術がないんだ。それに気づいて、足がもつれて転んだ。下はレンガだから、膝が擦れて血が出た。
「そうだ、レンガ」
 最初に此処に来たとき、レンガの道に出たのを思い出した。何処かにあるはずだ、私が通ってきた境界が。急がないと。美鈴さんが追ってくるかもしれない。


「あった」
 境界だ。大きい、私が通ってきたものと同じくらいの大きさ。しかし、その境界は閉じている。
「開いて…開きなさいよ!」
 だめだ。力づくで境界が開くわけがない。でも、諦めるわけにはいかない。
 ふと、手から伝わる感触を思い出す。魔法石だ。走るのに夢中で気づかなかったけど、ずっと握り締めていたんだ。
「これ…魔法の力があるわけよね」
 これでこじ開けることが出来ないか。試すしかない。どうせ力では開かないんだ。
 右手に持った石を境界に近づける。バチリと大きな音がして、弾き飛ばされた。
「いった…」
見てみると石が割れている。肝心の境界は
「開いてる…」
 脇目も振らず飛び込んだ。

———

 気がつくと消火栓の側に倒れていた。
「う…」
 少し立ち眩みがするが、なんとか立ち上がる。どれだけの時間が経ったのだろう。
「起きたかい」
 教授がすぐ側に立っていた。黒い祭司用の神父服を着て。
「教授」
「行ってみると大したことはなかっただろう」
 私の言葉を遮って教授が言う。何をどこまで知っているのだろう。いやそれ以上に、教授は何者なのだろう。
「あー、質問は一つだけ受け付けよう」
「一つだけですか」
「そうしないと話が終わらない」
「……では、一つだけ」
「どうぞ」
「では」
 最後にレミリアが言ったあの言葉を、出来るだけ再現する。拙いとは思うが、伝わるだろうか。
「…なるほど。恐らく理解できたと思う」
「どういう意味なのですか?」
「言ってしまっていいかい?これ以降の質問は受け付けないが」
「構いません」
「では、言おう。“二度とその顔見せるなよ、マエリベリー・ハーン”」
「…ありがとうございます」
 溜め息を吐く。何を考えるにしても今は疲れすぎている。
「おや、蓮子君が迎えに来たよ」
「ええ。見えています」
「では、私は失礼するが…その内、活動に参加させてほしいね」
「蓮子に訊いてください。私は、教授をどう扱えばいいか解りません」
 教授は肩をすくめて去っていった。
 駆け寄ってくる蓮子はヴァイオリンケースを持っている。ということは、それほど時間は経っていなかったのか。あれだけの濃厚な旅だったというのに。
「ごめん、メリー。待たせちゃって」
「別に、もっと待ってもよかったのよ」
「え?」
「何でもないわ。それより、ちゃんとヴァイオリンの腕は上がってる?」
「ばっちりよ」
「そう。それじゃ、デュエットも遠くないわね」
「…何よ、メリー。変なもの食べた?」
「うん」

簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.150簡易評価
2.100サク_ウマ削除
何かを見落としているような気持ち悪さがあってとても好きです。奇妙な会話のテンポも心地良いですね。良かったです
3.80名前が無い程度の能力削除
よかったです
4.100名前が無い程度の能力削除
様々なイフが織り合わさった、血と狂気が滲んだお話。堪能させていただきました。
手放しに褒めたくはない後味の悪いお話ですが、この美しさと恐ろしさは素晴らしいと思います。
5.80めそふらん削除
正直メリーが吐いたまでは文章の雰囲気もとても好きでした。
平穏な生活から唐突に出てきた気持ち悪さが素晴らしいかったです。
ただ、それから先のメリーの心情の変わり具合に置いてかれてしまってちょっとそこが惜しいかなって思いました。
6.90水十九石削除
するすると読める感触は良かったのですが、終盤で動機付けと行動までの弱さや剥離だけが目立ってしまったというのが否めませんでした。失礼な言い方をしてしまえば吐くまですごい良かったという事になりましょうか。
あとは教授の豹変が分からない、色々考えたのはあれどどうしてそこまでピアノを教えていたのか、どのタイミングで因果が出来てしまったのか、そこら辺ももう少し描写して欲しかったというのはあります。
とは言えどもやはり序盤の柔らかい書き口から来る淡白な表現はとても良かったです。
7.100南条削除
面白かったです
逃げ出すメリーに真に迫るものを感じました
なにものだったんだ教授