霞漂う闇の奥、二色の蝶が舞い遊ぶ
残りわずかな灯火を、互いに与ふようにして
……と書けば幻想的な光景であるが、実際は巫女が紅白の服を着て、ほこりっぽい蔵で片付けをしているだけである。
屋内の収納物は、一応大小種類に分けて整頓されていたが、数がうんとあるため、外の光が入ると、雑然とした雰囲気が浮かび上がる。
そんな中、巫女は物をどかし、またよく見て確かめては元の場所に戻して、たまに床に置いた箱に詰めていた。手際がよいものの、表情はいかにもそっけない。
「これで……まだ半分ね」
博麗霊夢はそう呟いて、箱の上に置いた紙に目を通してから、大きな楯を横に下ろし、また奥へと向かった。
紙の一番上には、「葛琉祭 祭具」と書かれており、その下には道具の名と細かい特徴が記されている。
三方、神器、鏡等の基本的な神具はすでに在処を知っていたものの、残りの半分については、殆どが蔵の奥に眠っているらしかった。
したがって、必然的に片付けをしながら進まなければならない。
博麗神社に、里で行う神事の依頼が来たのは、先日のことである。
何でも遙か昔のこと、里を襲った大災害を当時の巫女が祈祷を用いて鎮めたらしく、それから六十年ごとに博麗の巫女が、再び災厄を招くことのないよう祭礼を務めているのだとか。妖怪や異変の解決と比べて、肩の凝りそうな仕事だったが、報酬もはずむと聞き、それならばと霊夢も引き受けたのである。
しかし手始めに、儀式の際に使う道具を神社から探し出さねばらないと知り、暑くて地味で退屈な作業に、士気はすでに下降気味だった。
「……また六十年区切り。これからそんな神事があと何度あるのかしら。うちじゃなくて里で道具を保管しておいてくれれば、よかったのに。……よいしょ」
もちろん蔵で見つかる物は、目当ての神具ばかりではない。
ここには古い物から割と新しい物まで、博麗神社に代々伝わる遺物が収められている。
遺物といっても、金目の物はわずかばかり。大抵は家財道具や生活用品、妖怪の文献や退治道具など。
一々興味を惹かれていては日が暮れてしまうので、霊夢はそれらの多くを放っておいたが、ふと目について開いたある巻物は、探す作業の手を止めるだけの面白さがあった。
博麗の巫女の系図である。大結界が引かれる前から、幻想郷における人間の代表として、妖怪に立ち向かい、関係を繋ぎ続けた巫女達。
一番左を見ると、ちゃんと自分の名前が書いてあった。後には空白が続いている。
「へー。やっぱりみんな名前に霊がついてるのね。……でもちょっと薄汚れてるわね。ここなんて染みになってるし」
古紙の表面を指でなぞりながら、霊夢は博麗の歴史について、思いを馳せてみた。
ここに書かれた巫女の多くが、妖怪退治に勤しみ、様々な異変を解決し、そして必要とあらば、今回のような祭りの役も負ったのだろう。
六十年は短くないが、人の一生で計れなくもない。ひょっとして、人生のうちに二度、今回の神事を行わなければならない巫女がいたりしたのかもしれない。
それを考えると、
「……長生きも考え物ね」
と軽く嘆息して、霊夢は巻物を元に戻した。
やがて、サボらず働いた甲斐があってか、お八つの時間までには、探している物は殆ど全て見つかった。
後の自分の仕事は、祭りの当日に儀式を執り行うだけである。まだ一月あるので、手順を覚える期間としては十分だ。
今日のところはこれくらいにして、お茶でも飲んで過ごそう。そう思って上機嫌で蔵から出ようとした時だった。
その「箱」を見つけたのは。
「あれ、こんなのあったんだ」
霊夢は足を止め、体を家具の隙間に入れて手を伸ばし、奥からその箱を取り出した。ちょうど、さっき持ち出した大きな楯の影になっていて、見えない位置にあったらしい。祭りの準備が無ければ、たとえこの先蔵に入ったとしても、ずっと気付かなかった可能性がある。
かぶっていた埃を吐息で吹き払うと、白い綺麗な桐箱だった。蓋に何かの絵が描かれていたが、その上の封が邪魔でよく分からない。
というか、その封が紐や風呂敷でなく、御札でなされている辺りが面妖でもあった。手をかざしてみると、自然と眉がひそまる。かなり強い封印である。
中身は何だろう。ぱっと思いつくのは妖怪の類であるが、それにしては、禍々しい気が感じられない。どちらかというと、神具に触れた時に似た、霊験のような澄んだ気が、肌を通して伝わってくる。
一覧には無かった気がするが、この箱もあるいは、何かの祭りに使う道具なのかもしれない。
「ま、詳細は後で、あいつにでも聞いてみればいいわね」
霊夢は軽い気持ちで言って、御札に念をこめ、手早く封印を解いた。この手の術は、自慢じゃないが得意である。
しかし御札を剥がしてみて、蓋を開けて中身を確認する前に、霊夢は小さく息を呑んだ。
一羽の白い鳥が、箱の上で飛んでいた。
白と霞色を大胆に使い、筆捌きの力加減だけで、風に乗って渡っていく様を巧みに描いている。
左上に墨で描かれている大きな丸は、月か、それとも太陽か。
どちらとも取れるそれに向かって、斜め後ろから遠ざかるように描かれた鳥は、指でそっと触れようとすれば、今にも音を立てて、羽ばたき去っていきそうであった。
けれども、仲間のいない桐箱の空で独り、届かぬ存在を仰いでるようにも見え、胸を打つ物悲しさも、同時に伝わってくる。
しばし霊夢は、その絵に見とれていた。
こうなると中身も気になってくる。
早速、箱の蓋を取り除くと、薄紅の袱紗で包まれた球体が現れた。
儀式に使う際の宝玉だろうかと見当をつけ、絹布を丁寧に解いていくと……。
「え、これって」
予想外の代物に、霊夢は何の気無しに、その品に指を伸ばした。
その瞬間、ざわりと、肌の表面を悪寒が通り抜けた。
自由、驚愕、歓喜、親愛。体の内に侵入するいくつもの感情に対し、勘が下した判断は、
「危険」だった。
☯
「ん……?」
霧雨魔理沙は箒の速度を緩め、空中に停止した。大地よりも雲の方が近い高度を、真っ直ぐ飛んでいた所である。
幻想郷の空には障害物が多い。しかし、全速前進をモットーとする魔理沙は、飛行にブレーキをかけるということをあまりしない。
鳥や妖精、妖怪、あるいは神が飛んでいようと、お構いなし。最速を保った状態で、軽やかにかわしていく自信があるからだ。
そんな彼女が今回珍しく停止した理由は、途中で触れた風の幕に少し、不思議な感情が湧き起こったからである。
微風を通り抜けるうちに、ポケットに開いていた小さな穴から、何かが砂のように零れていく。そんな奇妙な喪失感。
「……なんだ? 家に鍵はかけてきたよな」
箒を横に回転させつつ、魔理沙は来た方角に目を向けた。
眼下に広がる深緑の森が、雲の少ない青空に無言の抵抗を見せている。隣接した人里からは、細い煙が立ち上り、その向こうにそびえ立つ山からは、さらに幾筋もの煙が上がっていた。真下にあるはずの湖は霧で覆われていて、その端で赤い館が霞んで見える。
別段おかしい所はない。いつもの幻想郷の昼下がり、それを上空から見た光景である。
いや、山の方角に、青い点が小さく動いて見えた。向こうもこちらに気付いたらしく、点はだんだん大きくなり、人の姿へと変わっていく。
「魔理沙さ〜ん」
緑色の髪に蛇と蛙のアクセサリー、青と白の巫女服を着た少女は、幻想郷ではすでにおなじみの姿となった。
風をまとって近づいてきた東風谷早苗に、魔理沙は、傍目には邪気のない笑みを見せて言った。
「そうか。何か怪しい風だと思ったら、お前の仕業だったか」
「怪しい風とはなんですか。守矢におわす神様二柱の御利益たっぷりの風ですよ。英語で言うとゴッドウィンドです」
もっと怪しげである。名前だけなら妖怪も洗濯物も、残らず一掃されそうだった。
早苗は膨らませていた頬を引っ込めて、魔理沙の隣へと移動し、微笑んで言う。
「博麗神社に行く所ですよね。一緒に行きましょう。私も霊夢さんに用事があるんですよ」
「お茶菓子でもたかりにいくのか?」
「何言ってるんですか。お祭りの話ですよ。来月に人里で行う……あれ、聞いてませんか?」
「知らんな」
魔理沙は肩をすくめて言った。人里で行う祭りに、特に興味はない。
しかし早苗は、ご丁寧に説明を始めた。
彼女がその話を聞いたのは、河童からだという。
何でも遙か昔に、幻想郷中を危機にさらした未曾有の天災があり、当時の妖怪も人間も大変な被害を被ったらしい。
しかし、博麗の巫女がその天災を異変として解決し、それから六十年ごとに神事を執り行うことで、代々鎮めているからこそ、今も幻想郷は平和だという。
いつの頃からか、その神事のついでに、お祭りも行われるようになったとか。
「そして今年が、その六十年の節目というわけなんです」
「なるほど、よくわかったぜ。お前が守矢神社を代表して、その神事を横取りしようってわけだな」
「人聞きの悪いこと言わないでください。お手伝いさせてもらえないか頼みに行くだけです」
早苗はまた心外そうな顔つきになる。
しかしどちらにせよ、霊夢と彼女は、別の神社の巫女。互いに分社を置いているとはいえ、本来は商売敵の間柄である。
一悶着起こりそうな気がしたが、それについては魔理沙は黙っていた。
さりげなく、箒の先を東へと向ける。
「なら、私はその話も祭りも、端から見物させてもらうことにするぜ。じゃお先に」
「あ、待って!」
その声を置き去りにして、魔理沙は当初の予定通り、猛スピードで目的地へと飛んだ。
幻想郷の東端にある、楽園の小さな象徴、博麗神社へと。
☯
箒を飛ばして二分も経たぬうちに、神社が見えてくる。
鳥居をくぐり、箒を縦にして急制動。最後に一回転して勢いを逃がし、両足で着地。
満点の着陸だった。後から飛んでくる早苗の姿は、まだ遠い。
「ふふん、風を操る神の遣いとはいえ、空での速さは、まだまだだな。さてと……」
魔理沙は境内を見渡して、神社の主の姿を探した。
この時間の巫女の行動といえば、石畳を箒で掃いてるか、賽銭箱の側に座って涼んでいるか、裏の母屋の縁側に座って日向ぼっこしているか、中のちゃぶ台でお茶を飲んで過ごしているか。まぁ大体この四通りである。
境内を見渡しても誰もいなかったので、神社の表ではなく、裏にいるのだろう。もちろん妖怪退治、もしくは里へ買い物に出かけて留守という可能性もある。
今の着陸の感想が聞けないのは、少し残念だった。まぁ、大したコメントはもらえないだろうが。
そんなことを考えていると、遅れて早苗が下りてくる。
「は〜、やっと追いついた」
「甘いな。私が飛ぶ限り、追いつけてないぜ」
「ひどいですよ。いきなりスピードを上げて行っちゃうんだから」
母屋へと歩き始めた魔理沙の背中に、早苗はさらに諫めるような口調で、
「聞いてるんですか? 誰かにぶつかったらどうするつもりですか」
「ん? 因縁をつけられた時は、弾幕ごっこで結着をつければいい。ここの常識だぜ」
「ははぁ、やっぱり幻想郷ですねぇ」
「けど私は、事故なんて起こさん。飛ぶのが下手な奴は、あっちこっちふらふらしていて、私より危険だ。だから注意するなら、そういう奴らに対して……」
台詞が途中から、小さくなって消えた。
神社の裏庭に、何かが横たわっているのが目にとまる。
「だめですよ。事故を起こすまでは、みんなそう言うって、学校の先生が……え?」
早苗も気付いたらしく、後ろで息を呑み込む音がした。
「あれ……霊夢さんですよね……」
答える前に、魔理沙は走り出していた。近づくにつれて、紅白の巫女服、それに赤いリボンをつけた黒髪がはっきりと見えてくる。
駆け寄って、体を仰向けにすると、目を閉じたその顔は、まさしく霊夢だった。
魔理沙は手首に触れて確かめてから、彼女の頬を叩いて、
「おい! 霊夢、こんなとこで寝てる場合か! しっかりしろ!」
「霊夢さん!? 大変! えーと救急車はないし……そうだ、人工呼吸! 心臓マッサージ!」
「待て待て。息もしてるし脈もあるぜ」
来るなりいきなり胸に触れようとした早苗の肩を、魔理沙は引き留めた。うっかりすると、ただの変態である。
魔理沙はもう一度霊夢の頬を叩き、早苗と共に何度も呼びかけた。
「妙だな。生きてるようだが、触っても声をかけても、まるで反応がない」
「何かの病気かもしれませんよ! 早く何とかしなきゃ……」
「慌てるな。こういう時には近場で、医術の心得がそれなりにあるものを探してだな」
「誰かー! 参拝客の中にお医者様はいらっしゃいませんかー!」
「おいおい早苗。博麗神社に参拝客なんていないぜ」
「あ、そうでした。てへっ」
はっはっは、と二人で朗らかに笑ってから、
「魔理沙さん! 漫才なんてしてる場合じゃないんですよ!? 何をさせてるんですか!」
「ほ、ほとんどお前のネタだった気がするぜ!?」
肩を掴む風祝の気迫と、その背後から吹く暴風に気圧され、魔理沙は喘ぎながら指摘した。
「い、いいか。まず必要なのは専門家だ。お前はとりあえず、里か永遠亭の所に行って、誰か連れてこい。霊夢の方は、私が様子を見ている」
「わかりました! じゃあ早速行ってきますから、霊夢さんを頼みますね!」
指示を受けた早苗は、すぐに突風を従えて、神社から飛んでいった。
後に残った魔理沙は、その姿を見送ってから呟く。
「……役割、逆の方がよかったかな」
動転した早苗を留守番役にするのが心配だったのだが、考えてみれば、移動の速さでも竹林の地理でも、魔理沙の方が有利だった。
たかが知人が倒れていたくらいで外から来た人間は大げさな……と思っていたけど、案外自分も慌てていたのかも知れない。
とはいえ、
「ま、命に別状は無さそうだし、いいか」
と、魔理沙はしゃがんで、ニヤニヤ笑った。
地べたに倒れていたのを見た時は確かに驚いたものの、魔理沙は寝ている巫女の状態について、楽観視していた。
何しろ霊夢である。妖怪ですら恐れる怪物巫女であり、運も生命力も折り紙付き。ちょっとやそっとのことじゃ、くたばりそうにないことくらい知っている。
それに彼女は博麗の巫女だ。幻想郷の要となる存在を、大物妖怪達が簡単に見捨てるとは思えない。
つまり、よっぽどのことが無い限り、この友人の命が重大な危機にさらされることなんて、ありえないはずなのである。
――まぁそうは言っても、こいつも人間だしな。
指で彼女の頬をつつきながら――普段やったらまず間違いなく手を叩かれる――魔理沙は考えた。
何かの拍子で気を失うことだってあるかもしれない。考えられる理由としては、空腹とか食あたり。
お腹が空いて変な茸を食べて倒れたんだったら、からかうネタにしつつ、今度からちゃんとした茸料理でも差し入れしてやるか、などと魔理沙は思いつつ、
「よしよし。お前が早く目覚めるように、お賽銭を入れておいてやるぜ」
そう言って、立ち上がりかけた直後である。
霊夢がかすかに呻き声を上げ、両の瞼が徐々に開いたのは。
魔理沙は呆れて吹き出す。
「なんだ。やっぱり現金なやつだな。こんな簡単な呪文で目覚めるとは」
霊夢はむくりと体を起こし、緩慢に周囲を見渡して、魔理沙の位置で顔を止めた。
「なんだよ変な顔して。やっぱ何か悪いもん食ったのか」
こちらを向いた容姿は、まさしく霊夢である。幼い頃から見慣れている、整った目鼻立ちだ。
しかしその目付きは、無表情とまでは言わないが、夢遊病の患者を思わせる瞳だった。
おかしな様子はさらに続く。
「あの……どなたですか?」
「どな……」
魔理沙は思わず、言葉を失った。
かすれるような弱い声は、どこか浮世離れした、聞いたことの無い声色だった。
しかも敬語。霊夢に最も似合わない言葉遣いである。
「そうか。わかった。寝不足で頭がぼーっとしてたんだな。私もよくやってしまうことがあるが、夜更かしは体に良くないぜ。夢から覚めろ」
「………………」
「ああそうか。ここは思いっきり笑うところだったのか。確かに面白かったけど、そういう冗談は来年の春まで取っておけ」」
「………………」
「そういやこの前、お前の家に勝手に上がり込んで、煎餅食べたのは私だ。けどとりあえず、紫の仕業にしておいたぜ」
「………………」
何を言っても、霊夢は反応しない。異国の地に迷い込んだような顔つきで、茫然とこちらを見ている。
怒るのを待っていた魔理沙は、ついに笑みを消し、多少不機嫌な調子で言った。
「おい、まさか本当にボケちまったのか。魔理沙だよ。霧雨魔理沙」
「魔理沙……君?」
「そうだ。魔理沙……なんで君付けなんだ」
「あ、やっぱり女の子なんですね」
目の前の巫女は、顔を赤らめ、うつむき加減で言った。
「だって、男の子みたいなしゃべり方するから」
「…………」
「でも男の子にしては綺麗な顔だなって思って……」
「…………っ!」
ぞぞぞ、と魔理沙の背筋に何かが走った。
よろめきながら立ち上がり、目の前の少女から半歩後ずさって、
「待て。一体何の真似だ霊夢。どういうつもりだ」
「れいむ……それ私の名前ですよね。れいむ……」
「やめろ。ちょっと止まれ。それ以上近づくな。そこにいろ」
「ここはどこでしょう。のどかな空気ですね。初めて見た光景なような……懐かしいような……」
「口も開かなくていい。いや、いなくなるわけじゃない。少し時間をくれ。頼む」
片手で箒を抱きかかえ、もう片方を前に広げて、魔理沙は立ち上がる巫女と距離を取る。
心中は半端じゃなく狼狽していた。それこそ、先ほどの早苗のうろたえぶりが、全く笑えないほどに。
あしらわれれば軽口で返すし、ストレスが溜まってるようなら弾幕ごっこに付き合ってやる。
じゃあこんな風に、180度ずれたような発言を繰り返す時はどうすればいいのか。全く経験が無い。
「何してんのあんた達」
動揺のあまり、魔理沙は背後に接近していた気配に気がつかなかった。急いで振り返ると、またまた予想外の人物が立っている。
色白で金髪、フリルのついたワンピースも含めて、周囲に連れている人形よりも人形らしい容姿。同じ魔法の森に住んでいる魔法使い、アリス・マーガトロイド。
なぜ彼女がここにいるのかは知らなかったが、今は天の助けに思えた。
「アリス! いい所に! お前に任せたぜ!」
「はぁ? ……って、ちょっと、何よ」
「霊夢がさっきから変なんだ。こいつの目を覚ましてやってくれ」
「何の話なの。私は、今度里の祭りで使う人形の相談で……」
「今はそんなことどうだっていい。人形なんかについて話してる場合じゃ……」
そこまで言って、魔理沙は不意に気がついた。
押していた人形遣いの背中から飛び退き、確信を持って、指を突きつけ、
「わかった! 犯人はお前だな! これはお前の作った人形だろう! どうりでおかしいと思ったぜ!」
「……さっきからあんたが何を言ってるんだかわからない」
「とぼけるな!」
魔理沙は怒鳴って、ぽかんと成り行きを眺めていた、巫女姿の少女の腕を引っ張った。
「こんな悪趣味な物作りやがって! 本物の霊夢はどこだ! 二人で私をからかってるんだな!」
「きゃあ! 痛い! やめて!」
強く引いたつもりはなかったのに、巫女はよろめいて膝をついた。
それだけならまだしも、いつもの霊夢ならお祓い棒で即座にぶっ叩かれてもおかしくないというのに、あろうことか彼女は目に涙を浮かべ、
「や、やめて……許してください。乱暴しないでください」
「………………」
よよよ、とエプロンドレスにしがみつかれ、魔理沙はしばらく硬直した後、ゼンマイ人形のように首を回して、アリスを見た。
「何その目」
「いや……お前のセンスがちょっと心配になってきて」
「あのね。私はそんなダサくて弱そうな人形、一度でも作ろうって思ったことないわ」
「人形じゃなきゃ何なんだよ。こんな霊夢は、私の知ってる霊夢じゃない」
巫女を服から引きはがしながら、魔理沙は呻くように言った。
立ち上がった霊夢は、アリスと魔理沙を見比べ、か細い声で人形遣いの方に聞く。
「あの、二人はお姉さんと妹さん……ですか?」
「……舐めたこと言ってると殺すわよ」
「ひぃ」
ドスのきいた人形遣いの声に、霊夢が怯えた顔つきになり、また魔理沙の方に寄ってくる。
どうやら、何かにすがってなければ心細いようである。
そこでアリスは、射るような視線を発していた瞳を、疑問の色へと変えた。
「もしかして……。霊夢、私のことわかる? 覚えてる?」
「……いいえ」
「ここがどこかは?」
「さあ……」
「自分の歳とか、誕生日とか」
「……思い出せません」
相次ぐ質問に、霊夢は困惑した表情で答える。一つ一つの返答の度、声に不安が増していた。
アリスは魔理沙の方を向いて言う。
「これって記憶喪失じゃないかしら」
記憶喪失。生まれてからの自分の記憶が、ほぼ全て失われてしまっている状態とされる。
実はといえば魔理沙も、日頃と違う霊夢の振る舞いから、薄々そんな予感はしていたのだが。
「いやでもおかしいぜ。記憶が無くなっただけならまだしも、性格まで変わってるんだぞ」
「何も覚えていないっていうことは、人格も白紙になったと考えられるでしょ。それに見た目も気配も、私の知ってる霊夢のままだし」
あくまで冷静に持論を展開するアリスに、魔理沙は押し黙った。
二人の会話が途切れた所で、霊夢が及び腰で聞いてくる。
「すみません……教えてくれませんか? ここはどこで、私が誰なのか」
魔理沙はちらりと彼女に目をやり、仕方なく説明してやった。
「ここは幻想郷で、今いる場所は博麗神社、そしてお前はここに住んでいる、博麗の巫女だ」
「博麗の……巫女」
「そうだ。思い出したか?」
問われた霊夢は、何かを探すように、神社の建物と庭、その周囲の林まで見渡し、
「懐かしい気はするんですけど……思い出せません。博麗の巫女……どこかで聞いたような……」
「なら教えてやる。博麗の巫女の仕事は、お茶を飲むことと妖怪退治だ」
「妖怪退治?」
「ちょうどいい。ここにいるアリスを退治してみろ」
「えっ? 貴方は、人間じゃないんですか?」
「私は魔法使い。あんたと闘ったことも、何度かあるわ」
アリスの細めた目が好戦的な光を帯び、周囲に従えていた小さな人形も、彼女を補佐する形に移動する。
魔理沙も自然と、場の流れに従い、一歩引いた形で状況を見守った。
空気が徐々に張り詰め、周囲の木々からも、気配に圧されたように、生き物の音が遠ざかっていく。
神社の庭を舞台に、決闘が、始まろうとしていた。
そんな中、当の霊夢は、拳を口に当てて、もじもじとしながら、
「あ、あの……お茶ならきっと飲めると思います」
ひゅ〜、と寒い風が一つ吹いた。
アリスが困ったように眉を上げる前で、巫女はぺこペこと謝り始める。
闘いに臨む意志どころか、小猫ほどの戦意も感じられない。
脱力のあまりしゃがみこんでいた魔理沙は、何とか立ち直り、腕を組んで唸った。
「まいったな。こりゃ一大事だぜ。妖怪退治ができなくなった博麗の巫女なんて前代未聞だ。幻想郷中の妖怪が残らずひっくり返るぞ」
「そうね、大騒ぎになることは予測できるわね」
「………………」
いつもの魔理沙なら、それは面白そうだと野次馬に回るところだが、あいにく霊夢はいつもの霊夢ではない。
のらりくらりと妖怪を相手することもできず、この状態なら会話するだけで、心労で倒れてしまいかねなかった。
それはそれで、ちょっと可哀想だ。
「でも記憶喪失なら、霊夢が記憶を取り戻せば問題ないだろう。今から早苗が連れてくる医者が、すぐに治してくれるなら……」
と、言いかけたところで、来訪者を告げる風が、三人の間に吹いた。
「来たか。どうやら迷わず帰って来れたらしいな」
魔理沙は二人を置いて、駆け足で早苗を迎えに行って……
……顔を引きつらせた。
「お邪魔します。清く正しい射命丸です」
戻ってきた風祝は、髪が黒くなり、背中から漆黒の翼を生やし、服も巫女服からミニスカートに変わっていた。
首から提げたカメラを手にして、にんまりと笑っている。
魔理沙は前髪をかきむしって、頭を振り、
「どういう風の吹き回しだ一体……」
「人間の里で守矢の巫女さんにお会いしましてね。霊夢さんが倒れていたと聞いて、何やら事件のにおいがしたので、急いで飛んできました」
早苗は迷いの竹林ではなく、里に医者を探しに行ったようだ。
判断としては正しかったが、そこでこの妖怪の山に住む鴉天狗の新聞記者、射命丸文に目撃されてしまったのはまずかった。
何とも悪いタイミングにぶつかったものだ。
文は顔を魔理沙の背後に、ひょい、と覗かせて、
「あれ? 向こうにいるの、霊夢さんですよね。もう起きたんですか?」
「……ああそうだぜ。何もないから帰った帰った」
「せっかくですから、一枚記念に写真を撮らせてください」
「こらこら」
魔理沙の手をかわし、文は軽快な足取りで神社の縁側に向かう。
一方、近づいてくる天狗の姿を見て、霊夢は小さく悲鳴を漏らし、アリスの後に隠れた。
「およ、霊夢さんどうして顔を見せてくれないんですか」
「…………」
天狗が覗き込む反対側に、巫女は体を縮めて、ささっと隠れる。
盾にされた状態のアリスは、表情から察するに、説明を保留しているようだった
「あーちょっと待った! お前は離れなくちゃだめだ! 霊夢は鳥アレルギーになっちまったんだぜ!」
魔理沙は瞬間的に、出任せを口にしていた。
それを聞いた文は、巫女からこちらに顔を戻して、小首をかしげ、
「アレルギー、ですか?」
「そうだ。だからカラスを連れた鳥っぽいお前を嫌がってるんだ。肌に湿疹ができるくらいな」
「それと倒れたことと、関係があるんですか?」
「大ありだぜ。箒で掃除してた所に、雀を見つけてぶっ倒れたんだぞ。今のあいつには、魔王に見えているらしい」
「私達もついさっき知ったばかりなの。これから医者に診せに行く所よ」
アリスは慌てたところもなく、魔理沙の大げさな嘘に乗っかっていた。
口調が落ち着いているだけに、なんとなく説得力がある。
鴉天狗の方は、ペンをあごに当てて、う〜ん、と唸り、
「それは大変困った問題ですね。これから取材させてもらえなくなるじゃないですか」
「そういうことだ。治るまでしばらく我慢するんだな」
「今ちょっとどうなるか、試してもいいですか?」
「却下だ。すぐに帰れ」
魔理沙はアリスと共に、霊夢の防壁となり、天狗の記事の餌食にならぬようガードする。
仲間はずれにされた文は、興ざめした顔で、手帳を閉じた。
「仕方ありませんね。じゃあ、何か進展がありましたら、教えてください」
そう言い残して彼女は、つむじ風を一つ巻き、瞬きする間に消え失せる。
危機が去ったことを確認し、霊夢がほっと落ち着いていた。アリスはそれを見て嘆息し、
「アレルギーねぇ。いつまで誤魔化せるかしら」
「さぁな。お、次こそ本命だぜ」
また新たな風が吹き、神社に騒がしい影が二つ現れた。
「魔理沙さん! お医者さんを連れてきました! 里ですぐに見つかったんです!」
「はいはい下がって下がって。まだ倒れたまま? 頭に触ったらダメよ」
無事に戻ってきた早苗は、ブレザーにネクタイを締めた兎耳の少女の手を引いていた。
今度は魔理沙にとっても歓迎すべきスタッフである。
「鈴仙か。待ってたぜ。さっそく霊夢を診てくれ。もう起きてるが、様子が変なんだ」
「え? よかった、霊夢さん。気がついたんですね」
「倒れてるんじゃなかったの? ただの貧血かしら」
早苗は胸をなで下ろし、鈴仙は肩すかしを食らったようだが、医者道具の入った黒鞄を手早く開いていた。
博麗の巫女は、現れた二人を見てから、目をぱちくりとさせて、
「えーと……お二人とも、私のお友達なんですか?」
風祝も兎も、それぞれのポーズのまま、一瞬だけ凍り付いた。
「貴方は……巫女さんですか? そちらは兎さんの耳をつけた……人間さん?」
「れ、霊夢さん。冗談ですよね?」
「……もう何度も言ったと思うけど、これは付け耳じゃないわよ霊夢」
「あ、ごめんなさい。思い出せないもので……」
縮こまる霊夢から、二人が視線を外せば、あさっての方向を見て返答を避けている魔理沙とアリスがいた。
その微妙な空気、そして普段の霊夢からかけ離れた雰囲気と、隙だらけの気配、台詞が意味することといえば……、
「霊夢さん……様子が変って……もしかして…………」
「……記憶喪失?」
「ええええええ!? 嘘ぉ! 初めて見たー!!」
まるで、宇宙人を空き地で発見したかのように、早苗は一オクターブ高い声で叫ぶ。
魔理沙はそれを面倒くさく押しのけて、
「まだそうと決まったわけじゃないんだぜ。鈴仙、早く何とかしてくれ」
「わ、わかったわ。とりあえず、本当かどうか診断してみましょう」
鈴仙が動揺しつつも霊夢の手を引くと、場違いなシャッター音がした。
場にいた者達は、いっせいにそちらに目を向けた。
去ったとばかり思っていた鴉天狗が、神社の影からこちらを覗いていた。
構えていたカメラを下ろし、文は満面の笑みを浮かべ、
「号外を出します! これは間違いなく大事件ですね! 詳しくは、また後でお伺いいたします!」
誰かが捕まえようとする前に、今度こそ姿を消してしまったのだった。
☯
天狗が号外を出す。さらに内容が博麗の巫女の記憶喪失となれば、幻想郷中に噂が広まるのは時間の問題である。
そうなれば、これから博麗神社に、巫女を知る妖怪やら何やらが次々に押しかけてくることも明らかであった。
が、とりあえずそのことについて考えるのは後回しにして、魔理沙達は神社の縁側に霊夢を座らせ、来てもらった永遠亭の兎、鈴仙に診断をしてもらっていた。
「いくつか質問させて。貴方の名前は?」
「れいむ……さっき魔理沙さんに言われて、思い出しました」
「そう。倒れている前のこと思い出せるかしら」
「いえ……気がつくと、あそこに立ってました。背中から声をかけられて、魔理沙さんがいました」
「ちょっと目を見せて。そのままじっと、私の瞳を見続けて」
「………………」
「もういいわ。吐き気がするとか、どこか痛いとか、痺れているとかある?」
「痛くはないです、吐き気も……さっきはちょっとぼんやりしてましたけど、今はそんなに」
陰陽玉を膝の上に抱きながら、霊夢は小声で答えていく。
質問を終えてから、鈴仙は屈んだ体を伸ばし、魔理沙達に説明を始めた。
「もう少し様子を見る必要があるけど、記憶喪失であると考えて間違いないわね。身体に目立った外傷はないし、脳波に異常も見られないわ」
「異常だらけだぜ。記憶を失うついでに、人格まで変わってるんだぞ」
「それ以外は極めて健康体っていうことよ。ただ記憶を失った原因は不明なまま」
「原因が分からなくても、いくつか見当はつくのかしら」
と、軽く腕組みしていたアリスが、横から口を挟んだ。
鈴仙はわずかに下を向き、顎に手を当てて、学んだ知識を探るように答える。
「記憶を失う理由ならいくつか考えられるわ。頭を打ったり、ストレスだったり、薬だったり病気だったり……。でも頭部に損傷は無いし、内臓に不調があるわけでもないので、何かを食べた可能性も低い。酒で意識を失ったレベルじゃないしね。それに私見だけど、ストレスなんて感じるような性格に思えないし。後は考えられるのは、魔法や妖術の類かしら」
「それなら容疑者がいるぜ」
「あんたもでしょ」
言い合う魔法使い二人の顔が、残る一人に向いた。
早苗は慌てて首を振り、
「わ、私は何もしてませんよ!」
「いや、考えてみれば、お前が一番怪しいぜ。異変解決の主役を奪うために、こいつをへた霊夢にする奇跡を起こしたに違いない」
「そこまで便利な能力じゃありませんってば! 魔理沙さんこそ主役を奪うために、変な茸食べさせたんじゃないんですか!」
「失礼な!? 私はそんなことしなくても、異変の時は毎回主役級の働きだぜ! それに、こっちの人形遣いだって怪しいからな!」
「何でよ。私にはこんなことする動機がないわ」
「動機が無いところが怪しいぜ!」
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」
「だ、大丈夫です! 早苗さんも魔理沙さんもアリスさんも、悪いことするような人には見えません!」
当事者の霊夢が立ち上がり、言い争う三人をなだめるように、両手を左右に広げて言った。
「みんな優しくて……いい人だと思います」
彼女は柔らかく微笑む。
早苗は頬を紅潮させて照れ、アリスは無表情で咳を一つ。
そして魔理沙は……思いっきりのけぞって、霊夢から距離を取っていた。
鈴仙がその様子を見て眉をひそめ、
「貴方、さっきから何を恐がってるの? 霊夢だけじゃなくて、貴方の方も変よ」
「お前らこそなんで平気なんだ。薄気味悪いと思わんのか」
「全然平気ですよ。怖がらなくてもいいんですよー霊夢さん。私達はみんな味方ですからねー」
商売敵の間違いだろう、と魔理沙はツッコミを入れたかったが、何とか耐えた。
早苗の方は無視して、代わりに鈴仙に向かって聞く。
「で、専門家さんよ。記憶喪失っていうのは、治るまで放っておくしかないのか」
「そうね。まず催眠療法を試してみるわ。記憶を失ってすぐだから、効果も期待できるし、後遺症も残らない可能性があるし……」
「何でもいい。早く治せるんなら治してくれ。私はちょっとそこら辺うろついてるぜ」
四つの視線が自分に集中する。やはり皆、それなりに驚いているようだった。
わざと帽子を指で上げて、軽薄な調子で告げる。
「おかしいか? 治療をするんなら、今ここにいない方がいいかと思っただけだが」
「別に、邪魔をしないなら、この場にいても構わないわよ」
「つまり、いなくても構わないってことだろ。終わったら呼んでくれ」
それ以上何か言われる前に、魔理沙はさっさと背を向けて、縁側から立ち去った。
残った四人の内、まず口を開いたのは、鈴仙だった。
「意外に、一番ショックを受けているのは、彼女みたいね」
「ああいうところは、普通の人間の娘と変わらないのかしら。意外だったわ」
アリスも珍しいものを見つけたように言う。足元では、上海人形がふむふむと頷いていた。
縁側に座る巫女は、ずっと魔理沙の去った方を見ていたが、やがて陰陽玉を抱えて俯き、
「私……魔理沙さんに嫌われていたんでしょうか。さっきから怒られたり、怖がられたりして……」
「そんなことないですよ。あれはきっと照れ隠しです。二人は幼なじみの親友なはずですから」
「そうなんですか?」
「ええ。ですよね、アリスさん?」
「まぁ、暇さえあれば、あんたの神社に通ってるみたいだし、仲がいいのは間違ってないでしょうね」
指を立てて明るく言う早苗に、アリスも肩をすくめて同意する。
二人の意見を聞き、霊夢は大きく深呼吸してから、はっきりした声で言った。
「じゃあ……私も早く、そのことを思い出したいです」
顔を上げて、鈴仙の方を見る。不安がっていたこれまでと違って、その表情には、確かな決意が宿っていた。
兎の方もそれを受けて、気合いを入れ直すように、背筋を伸ばす。
「それじゃあ、治療を始めるわ。貴方は楽にして」
鈴仙の両の瞳が、赤く輝き始めた。
☯
一方、四人を放っておいて、神社の周りをぶらつく魔理沙はというと、
「……あー、何か嫌な汗かいたぜ。善の霊夢があんなに気味悪いとは思ってなかった。蕁麻疹が出そうだ」
と、元の本人が聞いたら激怒しそうなことを呟いていた。
不覚にも、大人しくなってしまった霊夢と会ってから、調子が狂いっぱなしである。
例えていうなら、芋焼酎を口に含んだと思ったらお汁粉で、しかも穴を埋めるべき酒がこの世から全て消えてしまったような……ちょっと違うかもしれないけど、そんな心境だった。
記憶が失われているというのも不可思議だが、あんなお淑やかになってしまったのはさらに奇妙である。
霊夢がこれまでの性格を作っていたのは到底信じられないので、何かのショックで性格が一時的に変わっている説の方を採用したい。
いずれにしても、驚異の変貌ぶりだったが。
「……とりあえず、これからは絶対に記憶喪失にならないように気をつけることにするぜ」
いまいち、はっきりしない目標を立ててから、魔理沙は散歩を延長して、神社を一周してから戻ることにした。
すると、視界の端に妙なものが映った。
神社のすぐ側にある蔵、いつもは閉まっているその扉が、半開きになっている。
――そういえば、博麗の巫女が代表して、来月祭りをやるとかいってたな。もしかしてあいつ、ここでその道具を探してたのか。
早苗の話によれば、今度人里で行われる祭りは六十年に一度の、大がかりな神事だということである。
人里と言えば、あまり顔を合わせたくない人間も住んでいるので、魔理沙は祭りに積極的に参加する気はなかった。
きちんと博麗の巫女をしている霊夢を、冷やかしてやりたい誘惑もあったが、しかしその霊夢があんな状態では、祭りが上手く行くかどうか……。
「それにしても散らかってるようだな。ちゃんと片付けておかないと、泥棒が入った時にわからなくなるぜ」
自分のことを二重に棚に上げて、魔理沙は蔵の中に入ってみることにした。
それから五分後、なぜか魔理沙は、蔵の片付けを始めていた。
ずらされていた箱を元に戻したり、葛籠の上に置かれたままだった巻物をしまったり。
何かしていないと落ち着かなかったからだろう。体は自然に動いた。
「これはこれ……と」
半分くらい片付けたところで、魔理沙は手を休め、蔵の中を改めて眺めた。
予想以上に広い。下手をすると、見越し入道の拳骨がすっぽり入りそうなほど大きい建物であり、入ってみても奥には闇が広がっていて、外の光も届きそうにない。いかにも何か隠れていそうで、怪しげな建物だった。
霊夢とは長い付き合いだったが、実は彼女は、ここに入ることを魔理沙に許したことがなかった。
信用ができないというより、ただ単に危ないから、と説明を受けている。
それを聞いてなくても、道具の一つ一つに、触れるだけで祟りがありそうな、剣呑な霊気が漂っていた。
だが、
「……今なら、この中から一つくらい借りていってもバレやしないかな」
あいにく魔理沙に、そんなものを気にする神経は存在しなかった。
「あいつもさすがに、ここにある物全部頭に入ってないだろうし。うん、決めたぜ。さっき脅かされた迷惑料だ。えーと、私の勘ではここら辺に」
と言って片付けを中断し、箱の一つに触れたその時、
ごと……
何かがぶつかったような音がした。
鼠でも紛れ込んでいたのか、と魔理沙がそちらに視線をやると、箱を探る手が止まった。
見覚えのある玉が、床に転がっていたのだ。
「これ……陰陽玉だよな」
手にとってそれを調べてみる。玉は紅白二色の勾玉を組み合わせたような形、すなわち宇宙を現す太極を表現していた。
詳しいことは知らないが、陰陽玉は博麗の巫女に代々継承される道具であり、特別な力を持っているという。
だが今みつけたこの玉は、魔理沙の知っている陰陽玉とは、色が明確に異なっていた。赤と白とは、おめでたい。
いや、異変の時に赤く輝いていたのを見たこともあるが、基本的に白と黒だったはずだし、それにさっき霊夢はその道具を手に持っていたはずだ。大きさも一回り小さい気がする。
とすると、さしずめこれは、レプリカか何かだろうか。
「ふぅん。こうして見ると、意外と綺麗なもんだな」
入り口から差し込む光に当て、軽く回して見分する。
血とも炎とも異なる紅色に、白磁よりも温かみのある白が融けあっていて。
触れていると、つるりとした曲面の裏に、力強い生命力が内包されているように感じられて……。
蔵に近づく足音が聞こえて、魔理沙は慌ててそれを懐に隠した。
入り口に姿を見せたのは、アリスだった。
「呆れたわね……また物色してるわけ?」
「人聞きの悪いことを言うな。私は片付けをして、道具を整頓してやってただけだぜ。お前がここに来るまではぐっちゃぐちゃだったんだぞ」
「それはずいぶん親切ね。でも掃除なら、あんたの家の方を先にやった方がいいんじゃないかしら」
「ふん」
腹の立つ言いぐさだったが、もっともな意見だった。
もちろん聞く気は無いため、魔理沙は鼻を鳴らして返事しただけだったが。
「催眠術、効かなかったみたいよ。戻ってらっしゃい」
☯
神社の庭に戻ってみたが、先ほど去った時と大して変わらぬ光景があった。
こちらに気付いて何か言いかけ、結局口をつぐむ早苗。その隣で無念そうに首を振る鈴仙。そして反対側には、縁側に座り、落ち込んだ表情でこちらを見る霊夢がいた。
なるべくそちらを視界に入れないようにして、魔理沙は医者の見習いの方に状況を聞いた。
「どうだ。だめなのか」
「催眠にかかってはくれるんだけど、なかなかその先まで入り込めないわ。やっぱり普通の人間じゃないわね。術者があまりいじると大変なことになるから、自然に取り戻してくれるのが一番なんだけど……」
自分の能力が通じなかったことが少々誇りを傷つけたらしく、続く鈴仙の台詞には、治療を継続する意気込みが感じられた。
「とにかく私は、帰って師匠に報告して、明日永遠亭に霊夢を連れて行くことにするわ。そうすれば何か分かるかも知れないし。それに、前にうちに来た記憶喪失の患者も、一晩眠ってから起きたら戻ってたこともあったからね」
「ぜひそうなることを願うぜ」
「ええー!! 戻っちゃうんですか!?」
素っ頓狂な声を上げたのは早苗である。
彼女はちょこんと縁側に座った巫女の側に近寄りながら、
「せめて一週間……だって、こんな可愛い霊夢さん、もったいないですよ」
「早苗、お前可愛いっていう意味本当に知ってんのか」
「可愛いじゃないですか。私、霊夢さんとこんな感じで話せたらなーってずっと思ってたんですよ? 年が近いし巫女なのに、全然うち解けてくれないから……だから幸せです!」
「あ、ありがとうございます」
霊夢はまた赤くなりながら、素直に礼を言う。
早苗の方は、きゃー、と今にもその巫女を、ぬいぐるみのように抱きしめかねない勢いであった。
「それなら、明日まで貴方が面倒見ればいいんじゃないかしら。そんな霊夢を見られるのも、今日一日だけになるかもしれないわよ」
提案したのは、その光景を傍観していたアリスである。早苗の方は「喜んで!」とたやすく引き受けていた。
「じゃあ私はこれで帰るわね。お祭りの用件について、霊夢と相談できる状態になるまで待つわ」
「そうだな。じゃあ早苗、後はよろしく頼むぜ」
「え? 魔理沙さんはお泊まりしないんですか?」
「いや、遠慮する」
きっぱり言った途端、霊夢は「えっ」と魔理沙を見つめてきた。
いつもの彼女なら絶対にしない目つき、まるで河原に捨てられた子犬が小箱から顔を覗かせているような……。
うっ、と魔理沙は心が痛むのを覚えた。
「違う。放っておくわけじゃない。私も家に帰って、記憶を取り戻す魔法や茸の文献を当たってみるつもりだ。明日もちゃんと来るから、そんな顔すんな」
「……はい。ありがとうございます、魔理沙さん」
ぱーっ、と効果音がつきそうなくらい、輝かしい笑顔で言って、彼女は頷いた。
早苗の言うとおり、確かにその姿は、元の容姿と合わさって、かなり愛らしかった。霊夢がやっていると思うと、やはりどこか違和感がぬぐえないが。
魔理沙はため息をつき、帽子の裏から頭をかきながら、
「さん付けはやめろ。魔理沙でいい。私もお前も基本は呼び捨ての仲だ」
「魔理沙……は、私の親友だったんですよね」
「いや……私だけじゃなくて元のお前も、それだけはきっぱり否定するはずだぜ」
そう言って、魔理沙は彼女の頭にぽんと手を乗せて不敵に笑って見せた。
「私とお前は腐れ縁の幼なじみ。そして終生のライバルだ。覚えておけ」
☯
魔理沙が神社を出て、魔法の森の我が家に着いたのは、空が茜色に染まり始める頃だった。
時間にしてみれば、さほど長居はしていなかったはずだが、ちょっとした異変旅行から帰ってきたような気がする。
解錠の魔法を使って家に入る、まず居間の床を乱しているアイテムの累々が、玄関まで浸食しているのが目に映った。
靴を脱いで、足先で踏み場を探しながら進むと、さっき片付けしていた蔵が思い出される。
「あ、そういえばこれ」
魔理沙は、スカートの中のポケットから、陰陽玉を取り出した。
蔵で片付けをしている際に見つけた、紅白の陰陽玉である。
盗んで帰ってくるつもりは無かった……はずなのだが、つい反射的に持って来てしまったのだ。
手癖の悪さは相変わらずね、と元の霊夢なら言いそうな気がした。ついでに拳骨も飛んでくるかもしれない。
居間に着いた魔理沙は、手に入れた品を改めてよく見てみた。
本物の陰陽玉を操れるのは、確か博麗の巫女だけだったはずだ。魔理沙も前に一度触らせてもらったことがあるが、いくら念をこめても、御札一つ動かすことはできなかった。悔しがる自分を尻目に、霊夢は何でもない様子で、簡単に使いこなしていたのも覚えている。
これはただの模造品なのか、あるいは霊夢が持っているものと同じく、何か不思議な力が宿っているのか。
道具の使い道についてなら、まさにうってつけの相談役が一人いるが、この陰陽玉を見せれば、ただちに博麗神社との関係性を疑われるであろう。そこに持っていくのは、最後の手段である。
ひとまず、右手に持って、玉を正面から睨みつけ、魔力を込めながら念じてみる。
――動け……動け……。
突然、ノックの音が聞こえて、「わっ」と魔理沙は陰陽玉を放り出した。
玄関に向かい、ドアを開けると、立っていたのはさっき神社で別れたはずの人形遣いだった。
蔵の時と似たようなシチュエーションである。
「なんだアリスか……何か用か。言っとくけど、家に上がらせる気はないぜ」
「『上がれる隙間もない』の間違いでしょ。ご心配なく。ここで済ませられる用件だから」
彼女とも付き合いは長い。辛口な言い回しはいつものことだし、何の話かもなんとなく予想がついた。
魔理沙も家の外まで出て、続きを促す。
「神社を出たところで話しても良かったんだけど、あんたがあっという間に帰っちゃったからね」
「霊夢の件だな」
「ええ。私は記憶が戻るまでしばらく会うつもりはないから、あんたに忠告しておこうと思って」
「私だって、できれば遠慮したいぜ」
「そういえば、ずいぶん苦手にしていたものね」
その様子を思い出したのか、アリスの口元がほころんだ。
対する魔理沙は仏頂面になり、低い声で言う。
「喧嘩を売りに来たんなら買うぜ」
「違う違う、そんなつもりじゃないわ。もちろん買ってくれても結構だけど……ただし」
「ただし?」
「今の霊夢はそうもいかないんじゃないかしら」
向き合った少女の気配が、少し変わった。
帽子に隠れた髪の毛が、持ち上がるこの感覚。これまで、何とも対峙してきた、妖怪の目だ。
「あいつは色んな奴らに好かれているわよね。記憶を失ったという噂が広まれば、妖精から大妖怪まで、興味を抱いて神社に集まる。その殆どが、性格の変わった霊夢に優しく接するよりは、面白がっていじる方を選ぶでしょうね」
「ああ。それくらい、わかってる」
「わかってる? 本当に?」
アリスの問いに、魔理沙は言葉に詰まった。
試しに、幻想郷に住み、特に神社に集まりそうな者達の顔を、さっと頭の中で並べてみる。いずれも、一癖も二癖もある者ばかり。あの性格の変わった霊夢では、対応に困ることくらいは、すぐに予想できた。
しかし、さらに考えを進めてみると、それだけで済むかどうか、怪しくなってくる。
これを機会に良からぬことを企む奴もいるかもしれないし、例え邪な考えがなくとも、日頃のノリで霊夢に接し、何か事故が起こったりするかもしれない。
いや、それどころではない。もし博麗の巫女として役に立たないと「幻想郷」に判断されれば、霊夢の身の安全の保証は消えて無くなる。
考えれば考えるほど、魔理沙の表情は険しくなった。
「……忠告はしておいたわ。じゃあね」
「あ、おい」
魔理沙は思考を中断し、アリスを呼び止めた。
しかし話は終わりとばかりに、彼女はさっさと背を向け、魔法の森の奥へと消えてしまった。
「……ちぇっ、言いたいことだけ言って帰りやがって」
独りごちる魔理沙の手が、箒を探し求めていた。
脅かされて機嫌を損なったものの、霊夢が危険な状態にあるのは本当である。
今の彼女は実際頼りない、というか、誰かを頼っていなければ不安な状態なのだ。早苗だけに任せるよりも、助けは一人でも多い方がいい。
しかし、いざ箒を手にして神社へと向かおうとした時、魔理沙は別の事も思い浮かべてしまった。
――霊夢だったら……私を守ってくれるだろうか。私が記憶喪失になって、性格がまるで変わってしまったら。
あまり愉快な想像ではなかった。
博麗の巫女は、幻想郷における異変の解決者であり、特定の誰かに肩入れすることがない。そして当代の霊夢も、その例に漏れない。
誰であろうと、水のごとき淡い付き合いをしていた彼女が、特定の存在を親身に世話する光景は、あまり想像できなかった。
大体、そんな真似をされるのは、魔理沙のプライドが許さない。許さないが、自分の立場で放っておかれると、それはそれで、一抹の寂しさがある。
そもそも彼女にとって自分は、どの程度の存在だったのか、急に分からなくなった。
親友というのもこそばゆいが、人間の中で一番仲が良かった自負はある。
ならどこまで許してもらえる。極端な話、自分が記憶喪失が原因で、命の危機に瀕したときには、霊夢は博麗の巫女としての役目を捨ててまで、自分を助けてくれるか。
……無理な相談な気がした。
「ふん、あいつが私を助けてくれないなら、私だって助ける義理はないぜ」
魔理沙は結局、箒を肩に担いで、神社に向かうのを止めた。
☯
次の日のこと、魔理沙は普段よりかなり早い時間に起きて、神社に行く支度をし、まだ日が昇りかけた朝焼けの空を飛んでいた。
睡眠も仮眠程度にしか取っていない。昨晩は遅くまで、記憶を取り戻す方法を探してみたのだ。
だが、家にある文献からは、あまりいい情報が手に入らなかった。今日時間があれば、紅魔館から調達してくる必要があるかもしれない。
今は箒の先にずだ袋を下げており、中には差し入れの茸が何種か入っている。一応、記憶に効くかもしれないと思って選別したものである。
やがて、朝日を浴びて、昼間よりも鮮やかな色になっている神社が見えてきた。
いつものように鳥居をくぐり、境内に箒を軟着陸させると、石畳の端で朝食を取っていた雀達が逃げていく。
「おっと、悪い悪い」
屋根の上に移動して鳴く彼らに謝り、魔理沙は箒を左肩に担いで、茸の袋を手に裏庭へと歩き出した。
一方で、魔理沙は霊夢が記憶をすでに取り戻しているのを期待していた。
いつもの調子で縁側に回って腰をかけ、お茶を飲んでいる霊夢の無愛想な歓迎を受けることを。
だが、
「あ、お早うございます、魔理沙」
顔を洗った後らしい。途中の神社の回廊で、手ぬぐいを手にさっぱりした笑顔で出迎えてくれたのは、まだ敬語の抜けきっていない霊夢だった。
魔理沙は心中の落胆を押し隠し、笑顔を作って返す。
「私に敬語を使う必要はないぜ。もう一度機会を与えてやる」
「え? あ……分かりました。お早う魔理沙」
「お早う様、霊夢。あれからまた、何か思い出したか?」
「いいえ……」
霊夢の表情が曇りかけたが、しかしそれはほんの一瞬だった。
彼女は魔理沙に近づき、弾んだ声で話し始める。
「でも、昨日の夜は、早苗さんが私のことについて、親切に教えてくれました。寝る前も色んな話をして、とても楽しかったです」
本当はまだ不安だろうに、こちらに気を遣っているのがわかる。前の霊夢には無かった健気な姿だ。
早苗もちゃんと面倒を見るだけじゃなく、記憶回復の手助けとなるべく努力していたらしい。
昨日自分が来るまでも無かったようなので、魔理沙は安心して聞いた。
「そうか。例えば、どんなことを教えてくれたんだ?」
「私は幻想郷の、博麗の巫女で……」
「ほうほう」
「異変解決の主役である、早苗さんを引き立てる、素晴らしい腋役でした」
「早苗ー!! 出てこい!! 話があるぜー!!」
☯
「やっぱりろくでもないこと考えていやがったな、お前は」
「何のことですか、ひゅ〜ひゅ〜♪」
「しらばっくれるな。そういうわざとらしい誤魔化しは、ちゃんと口笛が吹けるようになってからやれ」
視線をそらして汗を流す風祝を、魔理沙は厳しく問いつめる。
霊夢の方はといえば、一体何事かと目を丸くしていた。
「冗談のつもりだったんですよ。でも霊夢さん、なんでも信じちゃうから、私も少し不安になったんですよね……」
果たして本当だろうか。
守矢神社の開発した新手のマインドコントロールの可能性も捨てがたい。
「お前に任せたのは失敗だったぜ。悪い子は神社から叩きだしてやらんとな」
「ええ!? 待ってください! そりゃあ少し悪ふざけしたことは謝りますけど、それ以外はちゃんと面倒を見ましたよ! ご飯も一緒に食べたし、お風呂にも入れてあげたし……」
「風呂だと? 霊夢。こいつに何か変なことされなかったか。正直に話せ」
「早苗さんの方が、私よりも成長してるそうです」
「……どうやらこの後来る連中と一緒に、お前を裁判にかけた方がよさそうだぜ」
「誤解です! 無実です! 何もしてません! 魔理沙さんだって、普通一緒に入ったら比較してみるでしょう!?」
「おやおやみなさんお揃いで」
一陣、境内を風が吹き抜けたかと思うと、いつの間にか立っていたのは射命丸文。
状況の悪用に関しては早苗と並ぶほど腕にたけた危険人物である。
「おはようございます。毎度おなじみ清く正しい射命丸文です。……っと」
一言あいさつをしてから、文は舐めるような視線を一同に走らせる。それからぴたり霊夢に目が止まり、一瞬の間をおいてから、みるみる喜色がその表情に広がっていった。
「ああ良かった。その様子だと、どうやら昨日のままみたいですね。おかげで誤報にならず済みました」
「誤報にならずに済んだってまさか、お前」
「ええもちろん」
ぐっと立てた親指に、眩しいほどのスマイル。
思わず霊夢がサムズアップし返すのを、魔理沙は慌てて止めた。
「号外特報を組ませていただきました。おかげで寝不足ですよ、あれからすぐ記事を書いて印刷し、それから幻想郷じゅう駆け回って配ったのですから。ついさっき、予定していたぶん全て配り終えたところです」
最悪の事態だ――昨日、どうやってでも文を追いかけ撃ち落としておかなかったことを、魔理沙は深く後悔した。けれどももう遅い。
「直接お渡しできなかった方のぶんはここにありますので、ご安心を。さあどうぞどうぞ」
そう言って文は、自信満々に号外をその場の面々に配り始めた。
大見出しに書かれているのは、『博麗の巫女、記憶喪失か!?』の極めてセンセーショナルな文句。そしてその隣を飾るのは、かつての霊夢を知る者ならおおよそ目を丸くする――あるいは抱腹絶倒するに違いない、だらしない彼女の戸惑い顔の大写し。
例え記憶喪失になっていなくても、特ダネになること請け合いの写真だった。
続く記事が、例によって主観と偏見、そしていささか誇張を含んだケレン味たっぷりのものであるのは言うまでもない。
すぐに魔理沙がその号外をくしゃくしゃと丸めてポイするそばで、きゃあきゃあ早苗と霊夢は楽しげに読みっこしていた。
「……どうやらこれ以上お前に引っ掻き回されないように、ここで簀巻きにして物置に放り込んでおいた方がよさそうだな」
「ご安心ください。これから私は黒子に徹しますから。神社に集まってくる皆さんを、第三者の視点で撮影していきたいと思っています。あ、さっそく誰か来ましたね」
だが、来たのはこの場で唯一頼りになりそうな存在、鈴仙だった。
魔理沙は彼女を歓迎し、
「ご苦労さん。これから霊夢を連れて行くのか」
「ごめんなさい、残念ながら入院の許可が下りなかったわ」
肩を落として言う鈴仙に、魔理沙は目を剥いた。
「なんでだ。こいつは立派な患者だぜ」
「その理由だけど……永遠亭が霊夢を預かったら、連日妖怪がやってきて対応が面倒だから、らしいわ」
思わず舌打ちが出る。
さすがは月の天才。すでに先の事態を見越していたらしい。
確かに、いつもの博麗神社のノリを受け容れてくれるほど、永遠亭は開放的な陣営ではない。
というより、妖怪や妖精、人間や神まで含めた、あらゆる存在の交遊空間となっているこの神社の代役など、できそうな場所はほとんど無いのだ。
「なら、お前の師匠を連れて来なかったのはなんでだ。あいつならすぐに治せるかもしれないだろう」
「薬物を用いない治療じゃなければ、私が適任と言われたのよ。もう一度催眠を試してみるわ」
「昨日ダメだったんじゃなかったか?」
「一度の挑戦で諦められるもんですか。今日は長い時間をかけてやるつもり。貴方達、人払いをしておいてね」
「え、私達でですか!?」
驚く早苗の横で、魔理沙も渋面になった。
これから噂を聞きつけてやってくる連中に、この風祝と二人で対応。しかも相手の殆どが妖怪である。スムーズに従ってくれるとは思えない。
それが嫌だから、永琳も霊夢の入院を拒んだのだろうが。
鈴仙は自分の仕事にしか興味がないようで、早速霊夢の手を引いて縁側へと上がる。
「あ、待って。一つ忘れてたわ」
片足を廊下に乗せた状態で、彼女はまた二人の方を向いて言った。
「記憶を失う前に、霊夢と親しかった妖怪を、ここに連れてきてほしいの。ただし、一組ずつね」
「あー? 人払いする話と矛盾してないか?」
「あまりに大人数だと、患者に負担をかけるからよ。けど、逆に記憶を取り戻すきっかけになることもあるから。他には、好きな食べ物とかも有効ね」
「そうか! お茶ですね!私早速入れてきます!」
縁側に上がろうとする早苗の背に、魔理沙は声をかけた。
「四人分頼むぜ。霊夢にも手伝わせてやれ。何か思い出すかもしれん」
「わかりました! 行きましょう霊夢さん」
「はい、早苗さん」
三人は一緒に、早苗と霊夢は楽しげに、神社の奥へと消えていく。
残った魔理沙は、ぽりぽりと頭を掻きながら、空を見上げて独りごちた。
「妖怪を相手に列整理係ね。はたして今日はどんな一日になることやら……」
☯
ひとまず魔理沙は鈴仙の言いつけ通り、早苗と交代で、博麗神社にやってくる妖怪達の対応係を行うことに決めた。
一人が神社前の境内に立って、待合い場を作る。もう一人は神社の庭にて審査を行い、万が一の場合は霊夢と鈴仙を守る砦役となるのである。
初めは魔理沙が砦役で、早苗が受け付け役を請け負うことになった。
博麗の巫女の記憶喪失。天狗のガセネタ混じりの情報が、どれほどの信憑性をもって幻想郷中に伝わったのかは未知数であるが、ここは何も無くとも巫女を目当てにぶらり妖怪がやってきて、さらに宴会ともなれば百鬼夜行の現場へと変貌する神社である。
一体どんな輩が集まって来る事やら、と覚悟していたら。
「よりによって、お前が一番最初か……」
「たまには、主菜が先にテーブルに乗る、という趣向もありじゃない?」
自らを主菜と表現する傲岸な吸血鬼は、青銀の髪を小さな指で梳いて返答した。魔理沙を見る血色の眼は余裕と稚気を含んでいる。
レミリア・スカーレット。紅魔館の主で、霊夢が初めて異変で倒した相手でもある。見た目は幼く、霊夢に好感を抱いているものの、実力に見合った我が儘で時に凶暴。魔理沙の中では危険度ランクAに位置する妖怪だ。
「天狗の号外が発行された時には、もうお前も寝る頃だったんじゃないか」
「何かありそうな気がしてねぇ。私が一番に着くのも、霊夢との運命だったのよ」
ぬかせ、と魔理沙は思いつつ、その側に日傘を手にして立っている、十六夜咲夜の方を見た。
十中八九、このメイド長に知らされて、慌てて飛んできたのだろう。
「さぁ、さっさと件の病人に会わせてくれないかしら」
「あいつに会うには、ちゃんと決まり事が必要なんだ。あまり刺激しないよう、一人五分くらいを目安に考えている」
「まだるっこしいわね。大体待たせなんかしないで、一度に会えばいいじゃない」
「従ってもらわんと困るぜ。かかりつけの医者の命令でな」
レミリアの双眸が、わずかに鋭くなった。
「……霊夢の容態は、そんなに悪いの?」
「いや、命に関わる程のもんじゃないが、ちょっと事情が特殊でな。医者の卵によれば、お前らに会わせるのも、記憶治療の一環だとか」
「へぇ、面白いわね。つまり、霊夢の記憶を取り戻させたものが、最も霊夢に好かれていた、ということでいいのかしら」
魔理沙は言葉に詰まった。
なるほど、それは思いつかなかった。確かに彼女の記憶を呼び覚ますことができるのは、霊夢にとって最も印象的だった存在と考えるのが自然である。
まぁ、付き合いの長い自分であっても効果はなかったので、今さら他の連中がどうこうしても、効果があるとは思っていなかったが。
……いや、一つだけ忘れていた。いかにも霊夢が記憶を取り戻しそうな方法を、魔理沙はまだ試していない。
「これでも心配してるのよ。わざわざ寝ないで飛んできたんだから。それとも、私を会わせたくない理由が、お前にあるのかしら?」
台詞にわずかな挑発を含ませて、レミリアはあご先を突き上げる。
魔理沙はそれには取り合わず、彼女から視線を外して、神社の奥へと声をかけた。
「鈴仙、まず一組目だ。霊夢は出せるか」
「ええ。今そっちに行くわ」
奥の壁の端から、まずへにょり耳が返事をして、次に鈴仙本体が歩いてくる。
そして、彼女に連れられて、相変わらず人目を窺うような表情をした巫女が、おずおずと出てきた。
レミリアは尊大な態度を保ったまま、彼女に向けて婉然と微笑む。
「久しぶりね霊夢。意外と元気そうでよかったわ」
「貴方は誰ですか?」
不覚にも、魔理沙は吹き出しそうになった。自信と不遜で飾っていたレミリアの笑みが、レモンを丸ごと口にしたかのように崩壊したので。
自分のことを覚えていない、ということよりも、霊夢の口調に面食らったようである。いや、もしかしたら霊夢が自分のことをすぐさま思い出すことを信じて疑わなかったのかもしれないが。
「まさか、冗談でしょ?」
「……すみません、思い出せないんです」
霊夢が頭を下げるのを、レミリアは相変わらず困惑した表情で見つめ、咲夜の方に顔を移す。
完全で瀟洒なメイド長は、さすがにうろたえた所は無かったが、それでも多少は驚いたらしく、まぁ、と軽く目を見開いていた。
魔理沙は胸を張って言った。
「二人とも驚いたようだな。記憶喪失のあおりを食って、性格までこうなっちまったんだ。どうだ、思い知ったか」
「なんでお前がそんなに偉そうなのかわからないけど、これは天狗のニュースを真に受けて来た甲斐があったわね」
「自己紹介するなり、なんなりするといいぜ。ただし、いつもの霊夢と思うなよ。かなりの恐がりなんだから、取り扱い慎重に、だぜ」
釘を刺しておいて、魔理沙は一端会合の行方を見守ることにした。
レミリアは目を閉じ、胸に手をかざして、仰々しく名乗り始めた。
「我が名はレミリア・スカーレット。夜を統べる王、偉大なる闇の眷属が血をこの身に受けた、欠けることのない赤い月。吸血鬼よ。そしてこちらは、自慢のメイド、十六夜咲夜。完全にして瀟洒な私の従者。特技は投げナイフと手品」
「レミリアさんに、咲夜さんですか……貴方は人間じゃないんですね」
「ええ、れっきとした妖怪よ。その中でも頂点に位置する実力とカリスマを併せ持つ危険な種族。本来なら人間が姿を目に映すだけで平伏し、魅了され、自ら首を掻き切って……」
自己紹介は途中で止まった。
レミリアが話すにつれて、霊夢がどんどん後に下がって、ついには鈴仙の影に隠れてしまったので。
魔理沙は帽子に手をやって、大きくため息をついた。
「あのな、ちゃんと話聞いてたのか。目的は霊夢の記憶を取り戻すことなんだぜ。お前の自己宣伝で怯えさせてどうする」
「脳味噌を使っていないっていう噂は本当だったのね」
「二人とも、お嬢様はこれで霊夢の記憶が戻ると信じていらっしゃるのだから。温かく見守っていてくださいな」
鈴仙は呆れて汗を一粒流し、咲夜も咲夜で、主人のために、フォローになってないフォローをする。
「……ふん、黙ってみてなさい三人とも」
レミリアは縁側の側まで近づき、奥に隠れた巫女を呼んだ。
「霊夢……」
その甘い囁きに、魔理沙は瞠目した。この吸血鬼が、こんなに優しい声を出すのを初めて聞いたので。
レミリアは幼くかすれた声で、囁き続ける。
「さぁ、こっちに来てちょうだい……脅かして悪かったわ……貴方と私は、確かにかつては敵同士だった……でも今は、大切な友人……それ以上の関係で、大の仲良しなのよ……」
語っている内容の真偽についてはともかく、彼女が霊夢をなだめ、落ち着かせようと試みているのはわかった。
本気で心配していたというのも、あながち嘘ではなかったのかもしれない。
霊夢自身も警戒を解き、奥からゆっくりと、レミリアの声に引かれるように姿を見せ、歩いてくる。
「いい子ね……顔を見せてちょうだい……怖がらなくてもいい……貴方が私にくれた思い出を……月の満ち欠けのようにゆるりと……優しく語ってあげるわ……」
ついに霊夢は、レミリアと半歩の距離まで近づいていた。
大きな成果だ。初めに自分がこの霊夢を見た時とは、えらく対応力に差がある。魔理沙はレミリアをちょっと見直し、少し反省した。
しかし、その評価は一瞬で裏切られた。
「だから……吸わせて」
「は?」
と言ったのは、鈴仙と魔理沙。
レミリアはぽかんとする霊夢に、すっと顔を近づけて……
その前に鈴仙が彼女から霊夢を引きはがし、魔理沙が八卦炉でレミリアをど突いた。
吸血鬼は後頭部を両手で押さえてうずくまり、恨みがましい目付きを投げかけてくる。
「何すんのよ」
「こっちの台詞だ、お前今何しようとしてた」
「別に。首筋に軽〜く口づけしてみようかと思っただけよ」
「ペナルティ扱いで二度と会わせんぞ」
「だってぇ」
レミリアはおやつをつまみ食いしそびれた子供のように、いやいやと翼をくねらせて、
「霊夢があんなに怯えている姿を見ると、牙がうずいて仕方ないんだもの。性格が変わっても、肌のきめも血の匂いも霊夢のままだし、ああ側にいるだけでぞくぞくするわ」
「おい、メイド長さんよ。こういう暴走しがちな主人を止めるのも、メイドの役割だと思うぜ」
魔理沙は側で待機していた咲夜の方に注文をつけた。
彼女は無言で腕組みをして、場の光景をじっと眺めていたが、やがて口を開いた。
「一人五分だったわよね」
「ん? ああ」
「お嬢様、僭越ながら、次は私の用意した案を試行させていただく番かと」
その台詞に驚いたのは、魔理沙だけではなかった。
場の面々、何よりもレミリアが片眉を上げて、従者の態度にケチをつける。
「まれに見る僭越ぶりね咲夜。主人を差し置いて何を言い出すのやら」
「申し訳ございません。与えられた時間は、大切に使いたい物ですわ」
「なら、あんたの五分も、私によこしなさい。反対はさせないわよ」
「それは望むところです。お嬢様のご協力が是非とも必要でしたので」
訝しがる主と他数名の前で、咲夜はエプロンのポケットから小物を取り出した。
普段の彼女なら銀製のナイフという流れだが、持ってこちらに見せているのは、茶色いガラス製の瓶である。
「実は今回の件についてパチュリー様に相談したところ、ちょうどいい秘薬があるということで預かっていたのです」
「パチェに? あいつがそれを作ったわけ?」
「はい。どんなに血の巡りが悪いものでも、たちまち肝心なことを思い出す薬だそうです。しかも後遺症の心配もないとか」
「ちょっと待って。そんな薬があるならとっくに師匠が」
「魔法薬、と仰ってましたわ。貴方の治療の成果が上がっていない以上、試してみる価値はあるかと」
口を挟んだ鈴仙に、咲夜は慌てず騒がず、よどみのない返答をする。
レミリアは続きを促した。
「で、それが私とどう関係があるのかしら」
「この薬の最大の欠点は、とても苦いこと。通常では人間も妖怪も本能的に飲み込むことを拒否するそうです。そこで取り得る手段は一つ」
「つまり?」
「口移し、だそうです」
「なっ!」
魔理沙と鈴仙の声がハモる。次いで、頬にも血が上る。
対してご機嫌斜めだった吸血鬼の表情は、会心の笑みに変わっていた。
「なるほど……そこで私の出番という事ね」
「待て待て待て、そんな怪しい薬認められないぜ」
「パチュリー様は自信ありげでした」
「あいつの自信なんて、あてになるか。百歩譲って効果があるとしても、こいつに口移しさせるだと?」
「あら、これはれっきとした治療の一環よ。血を吸ったりするわけじゃないわ。咲夜。薬をここに」
「はい、あーんしてください」
「あーん」
魔理沙が止めに入る前に、レミリアは口をいっぱいに開けて、薬を待ち受けた。
……が、咲夜が持つ小さじが鼻先に近づいた途端、アッパーカットを喰らったかのようなモーションで、ぶっ倒れた。
「ぐっ!?」
魔理沙はその香りに、喉を締められるような殺気を感じた。数歩離れたこの位置からでも、嗅ぐだけで口の中に苦い物が混じる。
例えて言うなら、ドクダミに菊の葉を混ぜてゴーヤをすり潰してヒ素をトッピングしたかのような味だった。
反射的に鼻と口を押さえる。鈴仙が慌てて取り出したマスクを借りて、霊夢も大きく位置を引いていた。
夜の王といえば、いまだに地面の上で七転八倒していた。咲夜だけが平然と佇んでいたが、やがて小瓶に蓋をして主人に駆け寄る。
「お嬢様、しっかりしてください」
「がっ……ふっ……くっ……」
「そんなに動かれては、お口の中に入れて差し上げられませんわ」
「誰が入れるのよこんなもん!!」
目尻に涙まで浮かべて、レミリアはわめき立てる。吸血鬼の新たな弱点が誕生した瞬間である。
「にっ、苦いにも程があるわ! それを飲み込ませるだって!? 死の接吻になるわよ!」
「良薬は口に苦しということわざがあります。とするなら、これはまさしくグレート良薬でございますわ。グレートな効果が宿り、グレートな喉越しと引き換えに、グレートな健康体を取り戻すことができるのです」
グレートをつければいいという問題じゃない、と一同は思った。
避難する三人と離れた場所で、紅魔館の主従の寸劇は続く。
「さぁ、お嬢様。もう一度チャレンジしてみては」
「嫌に決まってる! やるんなら、あんたがやりなさい!」
「かしこまりました。では私が霊夢に口移しする役でよろしいんですね?」
「何をしてるの咲夜。早く口にそれを持ってきなよ」
レミリアは額にびっしりと汗を浮かべて、ぶるぶる震えながらも、空中に腰をかけるカリスマポーズに入っていた。
恐るべき助平根性である。
「では」
「ぐべっ!!」
咲夜が隙の無い動作で、小さじをレミリアの口の中に運んだ。
入れられた方は唇をすぼめて、それを吐き出しかけたが、顔面を紫色にして両拳を音が鳴るほど握りしめて踏みとどまり、ヴァンパイヤというよりはゾンビのような動きで、霊夢の方へと進み始めた。
が、三歩も行かぬうちに、力尽きて倒れ伏した。
そのまま、沈黙が場を支配する。
五分が経過し、魔理沙が動かないレミリアの寝姿について、律儀に日傘をその上にさしている咲夜に聞いた。
「おい、死んだんじゃないか」
「ご心配なく。この薬の副作用は苦みだけ。他は無害だそうです」
本当かよ、思ったが、咲夜が言った途端に、レミリアはすっくと起きあがった。
虚ろな瞳を空間に向け、ぼんやりとした顔で呟く。
「そうだ……思い出した……」
「あ?」
「三日前、パチェの分のプリン、私の分だと思って食べたんだったわ。思い出した……」
そこで魔理沙も鈴仙も、紅魔館の魔女がそもそも何故この薬を作ってレミリアに使わせようとしたのか、理解した。
しばらく呆けていた吸血鬼のお嬢さんは、やがて両目に炎を湛え、咲夜から日傘をぶんどり、
「あんの紫もやしぃぃぃ!!」
と雄叫びを上げて、紅魔館の方角へと飛んでいった。
残った従者の方は、何が何だかわかっていない霊夢の方に会釈し、
「じゃあ霊夢、お大事にね」
「助かったぜ咲夜。けど、あんまり主人をからかうと、後が怖いと思うがな」
「私はパチュリー様に頼まれていただけよ。貴方達が困っているのもわかったし。美鈴も記憶を取り戻すツボのことを教えてくれたけど、それを試すのは次の機会にするわ。お嬢様をなだめにいかなくちゃ」
忠誠と親交のバランスを保ちながら、忙しさや不平を見せることがない。だから彼女はパーフェクトメイドと呼ばれているのだ。
そんな彼女に、巫女は遠慮がちに近づいて言った。
「あの……咲夜さん……」
「え? 何かしら、霊夢」
「レミリアさんに、心配してくれてありがとう、って伝えてくださいね」
これには魔理沙だけじゃなく鈴仙も、こらえきれずに吹き出した。
紅魔館の主だけじゃなく、その従者の面白い顔を見られるという一日も、滅多にあるもんじゃないと思ったから。
☯
「れーむだ〜。久しぶりっ」
背中の羽をぱたつかせ、とぼけた調子で霊夢に声をかけたのは、湖に住む妖精のチルノだった。陽気な笑顔でこちらに向かって来るが、その雰囲気とは裏腹に周囲の気温は五度は下がったように感じる。
「チルノか、それとお前らは……」
「こんにちは」
「霊夢さん、身体は大丈夫なんですか?」
礼儀正しく挨拶をしたのは蛍の妖怪のリグル。
霊夢の心配をしたのは夜雀のミスティアだった。
そして、
「あなたは取って食べてもいい人間?」
と物騒に聞こえる事を言ったのは、宵闇の妖怪ルーミアだ。
それを聞いた霊夢はズザザザザと効果音が聞こえそうな程の勢いで後ずさり、素早く早苗の後ろに隠れてしまった。早苗はと言うと、「怖くないですよ〜。私が付いてますからね〜」と嬉しそうに彼女の頭を撫でている。
霊夢は強い妖怪だけでなく、弱い妖怪にも好かれている。しかし今の彼女には相手の力量を測る事もできないようだ。
「悪いな。今のこいつは冗談が通じる状態じゃないんだ」
「そーなのかー」
「じゃあまだ記憶が……」
「ああ。お前らじゃああまり期待できんが、適当に話でもするか?」
そう聞いてみると、チルノは自信ありげに胸を張って答えた。
「ふっふっふ。あたいたちが何も考えずにここに来たとでも?」
「お前は何も考えてないだろ」
この妖精が何か考えて行動してるとは思えない。ろぐでもない悪戯を考えて失敗するのが関の山だろう。魔理沙の言葉に対して、「そんなことない!」と喚いて反論しているが、結局何がしたいのか要領を得ない。
一向に話が進まないのを見かねたのか、リグルが前に進み出てチルノの代わりに答えた。
「えっとですね。私達で永夜異変の再現をしようと思いまして」
「ほう。それは面白いな」
霊夢の本分である異変解決。それを思い起こさせれば、記憶が戻る可能性はあるかもしれない。こいつらに何ができると思っていたが、意外と良く考えているようだ。
「それで具体的にはどうするんだ?」
「じゃあミスティア、よろしく」
ミスティアが一歩前へ出ると同時に、残りの三人は魔理沙達を囲むように少し遠ざかった。
一体何をする気だろうと、早苗に目をやったが彼女も首を傾げていた。魔理沙がわからないのだ。永夜異変を経験していない彼女にわかるはずもなかった。
霊夢はというと、こちらも何が起こるのかわかっていない様子。早苗との違いは、これから何が起こるのかと、期待に目をキラキラ輝かせているところだった。
「それでは、一番ミスティア歌います! 私の歌を聴けぇええええい!」
ミスティアは右手を天に向かって突き上げ、高らかに宣言した。
があまりに唐突な反応で、魔理沙達はおろか、チルノ達もぽかんとした表情でミスティアを見つめていた。
「続いてよぅ! みんな!」
「あ、ごめん。ミスティアが急にテンション上げるからついていけなかった」
「続くところだったのかー」
「まったくミスティアったら」
アイデアは良かったが、打ち合わせは不十分だったようだ。
「だ、大丈夫なんですかね魔理沙さん……?」
「さあな。まあ悪いようにはならんだろ。好きにやらせようぜ」
四人は、それからしばらく相談していたが、ようやく準備ができたようでこちらに向き直った。
「こほん。改めまして、不肖ミスティア・ローレライが心を込めて歌います。聞いてください」
ふっと、辺りが急に夜になったかのように暗くなる。
「な、なんですか、これ!?」
「早苗は知らなかったか? ルーミアの能力だよ」
「ふえ〜。なかなかやりますね」
永夜異変のときはこんな暗さだったろうか。月がない、という違いはあるものの、ルーミアは上手い加減で暗さを演出しているようだ。
「〜〜♪」
ミスティアの歌声が響く。リグルが操る虫達も、自慢の音を奏で始める。
霊夢のほうを観ると、目を閉じうっとりした表情で、この演奏会を聞き入っているようだった。
あれからいくつも異変があったが、魔理沙に取って一番忘れられない異変は永夜異変だろう。
あの夜の決闘の事は今も深く心に刻まれている。
異変時の本気の霊夢との勝負。適当な理由をつけたものの、魔理沙は彼女と本気で戦ってみたかったのだ。普段はのらりくらりとかわされるが、異変の時であれば本気を出さざるを得ない。
異変時に霊夢と戦うのは数年ぶりの事だった。
素振りは全く見せたつもりはないが、あの夜の決戦の為に魔理沙は入念に準備をしていた。日々の魔法研究はもちろんの事、対霊夢用の術式も用意していた。
しかし後一歩及ばず霊夢に敗れた。いや、今思うと本当に後一歩だったのかも怪しい。なぜなら霊夢はどんな攻撃にも対応し、涼しい表情を崩さなかったからだ。
どんなに力で押しても、数で圧倒しても、全く怯む事のない霊夢。
今隣にいる霊夢が、本当にあのときの霊夢なのか魔理沙は全く自信がなかった。
「わぁ。きれい」
霊夢が唐突に声を上げたので、彼女の視線の先を追うと、黒一色だった空間に、淡く翡翠色に輝く光が浮かんでいた。
「蛍……か」
自分の目標であり、ライバルの少女が、ただの妖怪達に感動させられている。そんな様子を見て、魔理沙は無性に悔しくなってきた。
そして――。
「ふん。やっぱりまだまだだな。肝心なものが足りないぜ」
「魔理沙?」
「私がとっておきを見せてやるよ」
そう言って、漆黒の空に向かって手を振る。魔理沙が描いた軌跡に沿って、色とりどりの星が空に散りばめられていく。
「魔理沙……。キレイ」
真昼の永夜異変は、いつまでも続くかのようだった。
「どうだ! あたい達の力を思い知ったか!」
「達って、お前は何もしてなかっただろ」
「してたよ! 温度を夜とおんなじくらいに下げてた!」
「そうだったか……?」
「そう言われてみれば……?」
と早苗と目を合わせる。
「まあ、決め手は私の星空だったと思うがな。そうだろ霊夢?」
「皆さん本当に素晴らしかったです。とってもステキな演奏会でした」
「そうですね。でも何か忘れてるような気がするんですが」
「楽しければ問題ないぜ」
そう言って一同は笑いあった。
霊夢の記憶を取り戻すという目的は、すっかり忘れ去られていた。
☯
「お次はお前か。本当に誰でも来るな今日は」
「幽々子様に言われて、とりあえず様子を見に来たんだけど……」
現れた半人半霊の庭師、魂魄妖夢を見て、霊夢はハッと立ち上がった。
まさか何か思い出したのか、と一瞬魔理沙は期待したが、
「そ、それは貴方のですか。触ってもいいですか?」
「いいけど……」
彼女は単に、庭師の回りを漂うふよふよした白い物体に興味を持っただけらしい。
妖夢が面食らいつつも、半霊を差し出すと、霊夢は抱き枕のようにしがみつき、意外な冷たさにびっくりしたようで、今度はぷにぷにと触り心地を確かめ始めた。
「なんだか……まるで霊夢じゃないみたい。記憶喪失って不思議ね」
「ようやく話がわかるやつが来たようだな。何か記憶が戻りそうな、いい案があれば試してくれ」
魔理沙の依頼に、妖夢はしばらく考えていたが、やがておもむろに腰の刀を抜いた。
「何かすっきりしない時は取り敢えず斬ってみる!」
すかさず霊夢は神社の中に逃げ出し、「なんて事するんですか!」と早苗が割って入る。
「知人にそんな刃物を向けるなんて、正気とは思えません! 常識外れにも程がありますよ!」
「霊夢はいつも私の剣をかわしていたわ。今ここでそれができれば、当時のことを思い出すかもしれない」
「それは記憶が無くなる前の話でしょう! 今の霊夢さんの精神は、生まれたての子犬も同然なんです! もっと気を使ってあげてください!」
叱りつける早苗の後方で、霊夢は柱の影に立ち、震えてこちらを窺っている。
妖夢は剣を構えたまま、その様子をじっと見ていたが、やがて鞘に得物を収めて問うた。
「……そういう貴方は、何か案があったわけ?」
「ええ。もう色々試しましたよ。霊夢さんの面倒を一晩見たのも私ですから」
「例えば?」
「まず、右四十五度からチョップしました」
早苗は自信たっぷりの表情で言った。
「うちのテレビは、それでいつも直していたんです」
「妖夢。名案がある。霊夢じゃなくてこいつをぶった斬るといいぜ」
「では」
「きゃー! ストップストップ!」
また剣を抜く妖夢に、今度は早苗が逃げ出した。
「さっきから勘違いされてるようだけど、この刀は白楼剣といって、人の迷いを断ち斬ることができるものなの。人を斬れないわけじゃないけど、当てる必要もないから、大丈夫」
「それを早く言ってくださいよ!」
霊夢と一緒に柱の陰に入り、風祝は赤面して文句を言った。
治療責任者の鈴仙は、黙って話を聞いていたが、やがて妖夢に尋ねる。
「人の迷いを斬るというけど、霊夢の精神を斬って、記憶を取り出すということ?」
「……言葉じゃちょっと説明しにくい。私は刀が取り柄だし、霊夢に世話になったことも無いわけじゃないから。幽々子様が行ってみなさいって」
「試してみるのは結構だが、肝心のあいつがな」
魔理沙が親指で示す先で、霊夢はいまだに、刀を怖がっていた。
例え脇差しほどの長さでも、刃物は刃物。一般の少女よりも勇気が下回る今の霊夢には、酷というものかもしれない。
しかし、魔理沙はいいことを思いついた。
「よし、じゃあこうしよう。おーい、霊夢。剣が怖いか」
「……は、はい。怖いです」
「そうか。でも治療を我慢したら、妖夢の半霊を半日貸してやるぞ。どうする」
どきーん、と柱の陰から音がしそうな程、霊夢は魅了されていた。
ちなみに妖夢の方はというと、口をへの字にしてから、
「か、勝手に決めないで欲しいんだけど」
(まぁまぁ。成功すれば問題ないだろう。元に戻ったあいつなら、そんな約束どうでもよくなってるぜ)
(でも前に、クーラー代わりに使われそうになったことがあったもの)
(たった半日だぜ。もしかして、腕に自信が無いのか?)
(……っ! やるわよ! 馬鹿にしないで!)
頬を紅潮させて、妖夢は魔理沙の案に乗った。
純情で馬鹿正直で意外とプライドの高いこの剣士は、実に、からかいがいのあるダチである。
かくして、博麗神社の縁側にて、迷える人の精神を斬るという、世にも珍しい、白玉楼剣士の名人芸が行われることとなり、一同はやんややんやと観劇することとなった。
ちなみに結果はというと、霊夢はめでたく、ぷにょぷにょの半霊まくらを半日預かることとなった。
☯
「まさか地上までこの私が連れ出されるとは……」
ぶつくさと小声で呟きながら最初に入ってきたのは、古明地さとりであった。
後ろにはにこにことした火車の猫お燐と、それから地獄鴉お空の姿もある。さしずめ地霊殿ご一行と言ったところだろうか。
「なんだ、呼んでもいないのに勝手に来たのはお前だろう。文句を言う割にはご丁寧にペットまで連れて、楽しそうじゃないか」
「いえいえお姉さん、さとりさまをお連れしたのはこのあたいさね」
「なんだと?」
声がしたと思うと、たちまち猫の姿に化身したお燐がぴょん、と魔理沙の胸に飛び込んでくる。慌てて抱きとめる魔理沙。
「あ、お燐ばっかりずるい!よーしわたしもっ」
「おいこらまて洒落にならん!」
お燐に続き、今度はお空が魔理沙にダイブ。もちろん、お燐のように気を利かせて鴉の姿へ戻るようなことはなく。
「まーりーさっ」
悲痛の叫びもむなしく、哀れ魔理沙は熱烈なハグとボディプレスを存分に味わったのであった。
彼女と運命を共にするはずであったお燐はというと、危機を察知して早々にさとりの膝の上へと避難を完了している。木霊するのは、ひとり魔理沙の悶絶のみ。
「お空どけっ……く、くるし……」
「なんで?久しぶりにあったのにぃ」
「いいからっ。病人の前だ!お前とはあとで存分に遊んでやるから!」
「うにゅ……分かった!約束だからね!」
元気一杯の返事とともに、ようやく魔理沙は解放された。
お燐とは違いお空はあまり地上へ出て来ることが少ないせいか、はしゃぐ気持ちを抑えられないようである。初めての地上という訳ではないのだろうが、地底の奥、地霊殿に暮らしていればそう地上人と触れ合う機会も少ない。
さとりがわざわざ彼女を伴ってきたのも、あるいはそんな彼女を思ってのことかもしれなかった。
やれやれと身を起して気を取り直すと、魔理沙は再びさとりとお燐に向かった。
「それで、お燐か。なんだってこいつを連れ出そうと?」
「ふふん、巫女のお姉さんが記憶喪失かもしれないんだってね。それであたいはびびーんときたんだ。さとりさまなら力になれるんじゃないかって」
「へえ、なにか妙案でもあるわけ?」
鈴仙が横から口をはさむ。するとお燐は首をくるりと回し彼女の方を向くと、大きく欠伸をして見せた。その仕草に、鈴仙の表情が僅かに曇る。
「あるとも、おおありさ。あんたお医者さんだってね、兎耳のお姉さん?」
「ええ、そうよ。なにか文句でもあるわけ?」
「文句なんかないけどさ。でもさっきそこで聞いた話じゃ、お姉さんの治療、上手くいかなかったって話じゃない。それであたい思ったのさ。うちのさとりさまにかかれば、もっとずばばーって解決できるかもなあって」
「なんですって?」
いよいよ鈴仙は語気を荒げ、魔理沙の腕におさまる黒猫を睨みつける。対するお燐は暢気に毛並みを舐めまわしていたが、やがてぽんと跳ねて今度は霊夢の胸へと飛び込んだ。相変わらず身のこなしは軽やかである。
「ひゃあっ!」
突然のことに霊夢の驚きの悲鳴が上がる。両手をわたわたと動かし、膝の上に居座った二尾の黒猫を見て、まさに「どうしよう」といった表情である。
「ちょっと!患者に不用意なことをしないでちょうだい」
「なあに大丈夫、同じ妖獣のよしみじゃないか」
「患者とは関係ないでしょう!それに、あなたの主人ならすぐ解決できるっていうのはどういうことかしら。医者としては聞き捨てならないわ」
「それは私も聞きたいぜ。いったいさとりになにをさせるつもりだ?」
相変わらず「あの、猫が、猫が」とあたふたしている霊夢のお守は傍の早苗にまかせ、魔理沙もやり取りに加わる。
けれども、お燐の代わりに答えたのは、当のさとりであった。
「この子が言うには、私が霊夢の心を覗くことで彼女の状態を知ることができると。どれくらい記憶を失っているのか、なにか覚えていることはないのか、そもそも本当に記憶喪失なのか……それらが分かるかも知れないと言うのです」
「確かに、そうかもしれないな。できるのか?」
「ええ、私の能力なら可能でしょう。今の霊夢が心を閉じでもしていない限りは」
そう言って胸元の第三の眼を撫でるさとり。彼女と霊夢を一度交互に見やり、むうと魔理沙は腕を組んだ。
なるほどお燐の思いつきとはいえ、心の状態を知るのは、記憶がどうなっているかを知ることにもなる。そのためには心を覗くのが最も手っ取り早い手段には違いないし、読心能力を持つさとりが適任なのは言うまでもないだろう。
「やってもらえるか」
「そのために来たのですし。主治医さんの了解が得られるなら、私はいつでも構いませんよ」
「だそうだ。鈴仙、いいよな?」
「……好きにしたら」
ぶっきらぼうに言うなり、鈴仙はそっぽを向いてしまった。どうやらお燐の提案が、医者としての彼女のプライドを傷つけてしまったらしい。
そのお燐はというと今や霊夢の膝の上になく、いつの間にか平然と人間の姿をとって、さとりの後ろでお空と戯れていた。どうもその口振りの挑発的だったのは、主人のさとりを誇る気持ちと、同じ妖獣として鈴仙への対抗心のためだろう、と魔理沙は思う。
ともあれ、今はどんなことでもやってみるしかない。
「じゃあ早苗、霊夢を……」
「はい。では霊夢さん、こちらへ」
「おや、そちらは」
じろり。切れ長の両眼が動くに合わせ、さとりの第三の眼が霊夢の手を取り立ちあがる早苗へ向いた。
「東風谷早苗さんですね。はじめまして」
「え、あ、はじめましてっ」
「あなたの所の神様に、お空が大変お世話になったそうで。……『この人ちっちゃくてかわいい!諏訪子さまといい勝負かも!』ですか。すみませんね、風貌が幼く見えるのは生まれつきですので」
「へ!?あ、そんなとんでもない!」
「さとり、あんまり早苗をいじめてやるなよ」
「と、そうでした。彼女の隣の、あの方でしたね」
再びじろりと三つの視線が動く。
その先には、少しおびえた表情の霊夢がいた。相変わらず、知らない妖怪を前にするとひるんでしまうらしい。
その場にいる全員の視線が集中するのを感じてか、霊夢はおずおずとさとりの前に進み出た。
「はじめ、まして。霊夢です……」
「『はじめまして』。ふむ、確かにその言葉に偽りはないようですね。あなたの心に私の姿は像を結んでいない……」
「ってことはさとり、お前のことも霊夢は憶えていないんだな」
「ええ。どうやらそのようです」
同時に――この期に及んでまったく考えられないことではあったが――霊夢が記憶喪失のふりをしているという疑いも、これで完全に消えた。
「そうか……他になにか、こいつの心から読みとれないか?」
本当に記憶喪失状態とはいえ、今の霊夢が何から何まできれいさっぱり忘れているはずがない。彼女の記憶の名残を見いだせれば、そこから手の打ちようも見出せるだろう。
なにせさとりの能力にかかれば、トラウマなどというこっちが忘れてしまいたいものまで引き出せてしまうのだ。些細なものでも、手掛かりとなる記憶の断片くらいは掴めるかもしれない。
第三の眼に意識を集中させるように、さとりはそっと残り二つの目蓋を落とした。
「……白紙」
「え?」
「まるで白紙のようです、今の彼女の心は。なにも分からず、なにも知らず、言われたことを縋るように信じて、真っ白なその心へと書き込んでゆく。そこにある思い出は産まれたばかりのものだらけ」
「じゃあそうなる前のことは、なにも?」
だとすれば、これでまた一つ可能性が断たれた事になる。
しかしさとりは、そっと首を横に振った。
「いいえ……その白紙の奥底……なんでしょう、あります」
「あります、だって?」
「ええ。漠然とした、『もや』のようなもの……分厚いヴェールに阻まれた先に、確かになにかを感じます。文字通り、それが『なにか』までは分かりかねますが……」
「なるほど。じゃあ、なんでもかんでも忘れちまったってわけじゃなさそうだな」
「恐らくはそうでしょう」
さとりが眼を開くと同時に、ほっと息が漏れた。霊夢がそれこそ空っぽになってしまったと言う訳ではないと、これで証明されたのだ。
ヴェールだかなんだか知らないがともかくそいつをとっぱらって、その奥にある鬼巫女の記憶を、この気持ち悪いおしとやか巫女に鉢合わせさせてやればよい。
それはそれで色々と問題はありそうだが、ひとまず、さとりを連れてきたのは正解だったようである。
「わかった。どうもすまんな、さとり。それと、」
まさに鼻高々の表情で見つめてくるお燐に、魔理沙は苦笑し肩をすぼめて見せた。
始終だんまりの鈴仙が、いよいよ不機嫌を濃くしているのが背後から伝わってくる。けれどもお燐の妙な対抗心のおかげで、結果的には少なくとも得る所が二三あったのだ。彼女が勲功第一と言ったところだろう。
「お燐、お前もな」
「ほおら頼りになるだろう。でもあたいはさとりさまを呼んだだけだから、やっぱり一番のお手柄はさとりさまだね」
「だとさ、さとり」
「なんの。飼い主に断りもなく得体の知れない力を押し付けられた、可愛い可愛いペットに気をもむ苦労を思えばこれくらい。どうということはありませんよ」
「はうっ!」
じろり。鋭い視線が化け猫も合わせて三対、風祝を射抜く。
何も知らずに眼を丸くする当事者二人、地獄鴉に博麗の巫女。
「なんだか今日の私、扱いが酷くませんかあー!?」
「自業自得だ」
「それにあれって私のせいじゃないしー!?」
☯
一度、昼食休憩に入ることになった。
ただし、この機会にもまだ、霊夢の記憶治療は続いていた。すなわち、彼女が好きだった食べ物、あるいは嫌いな物を試してみてはどうか、ということである。
とはいえ皆の記憶の中では、当代の博麗の巫女に目立った好き嫌いは無かったし、季節を感じる食材なら大概は好物だった覚えがあった。
しいていうなら兎鍋、ということで意見が一致しかけたが、治療責任者である鈴仙の猛反対により、やむを得ず却下となった。
さて、こうなると、自分のこれぞと思う一品で、霊夢の記憶を取り戻させてやろうと皆が調子づくのは、必然の流れである。
和食洋食中華というジャンルでわけられるならいいものの、焼き芋タワーに、キュウリ定食。鬼はお茶の代わりに濁酒を使った酒茶漬けなどという奇怪な代物を出す始末。
しかし霊夢本人は、出された物がよほど変な趣味に走ったものでなければ、嬉しそうによく食べた。
暴食の女王と謳われる亡霊とは比べられぬものの、彼女は元々食欲旺盛な方であったのだ。
「でもやっぱり、何か思い出す感じは無いわね……」
妖夢は、お手製のサンドイッチを美味しそうに口に運ぶ霊夢を見て、肩をすくめた。
「お茶が好きなのも変わってないし、出す物殆ど喜んで食べてるんだけど……むしろもっとわかりやすいくらい好き嫌いがはっきりしたものがあればよかったのかしらね」
「兎」
「却下、私が見張っている限り認めないわ」
口をへの字にしてきっぱりと言う鈴仙は、薬師見習いである前に、兎角同盟のリーダーであった。
一方、相変わらず事態を深刻に捉えずに、むしろ性格の異なる霊夢が可愛くてたまらないという人物もいる。
「霊夢さん、美味しいですか?」
「はい、とっても。早苗さんは、お料理が上手ですね」
「うふふ、どんどん食べてくださいね」
と微笑む早苗は、卵焼きや肉じゃがといった自分の得意料理で、下がった株を取り戻そうとしているようだった。
「そういえば、貴方は何も考えてこなかったの? てっきり、記憶を取り戻すキノコ料理とか作る気だと思ってた」
と、妖夢が聞いてきたので、魔理沙は答える。
「察しの通り、色々持ってきたぜ。だが試す前に、こいつらに没収されたんだ」
「できるだけ無難なものから試していくのは当然でしょう。あんな危険食丸出しの菌類、そう簡単に使えるもんですか」
「私はこれでも茸の専門家だぜ。それに霊夢だって、腹を壊すようなやわな胃袋持ってない。鍛え方が違うからな」
と嘯くものの、それで本当に記憶が戻ったとして、霊夢が何をするかと考えた時、一抹の不安があった。
間違っても、赤と緑と蛍光ピンクの茸を食べさせたことに、素直に礼を言うことはあるまい。
「無難な治療のままでいいじゃないですか。そのうち霊夢さんだって元に戻るでしょうし、これでも楽しくて平和なんですから」
「貴方はむしろ、直らない方が良いんでしょうに」
「うっ! ……で、でも私だけじゃなくて、他の人達にも評判ですよ! ほら、あれ見てください」
早苗が指差す先では、子供妖怪グループから、八目鰻の串焼きやらアイスキャンディーやらを恵んでもらっている巫女の姿があった。
さっきからあんな感じで、神社の方々に位置する妖怪やら妖精やら何やらのグループを巡っては、歓迎されているのである。
確かに、この神社のまったりした空気は、あの巫女が作りだしているとしか考えられなかった。
「私も見てるだけで、のほほんとしたくなるし、あれはあれで魅力なのかもしれないわね」
「そうね、ふふっ」
「………………」
和やかな空気の中、魔理沙だけはじっと霊夢の姿を追っていた。
実はもう一つ、魔理沙が強硬手段を取らずに待っている理由があった。茸よりも自信があって、考えようによってはさらに危険な案が一つ頭にあるのだ。
だがそれには、いくつかの障害があった。一つは霊夢が、かつての霊夢と比べて、どの程度変貌しているか。そしてもう一つは、自分がそれを行うことを、容認されるかどうか。
幸いなことに、今は誰も気付いていない。だが、気付かれてからは遅い。もしかしたら、最悪の事態にすら、繋がる可能性があるのだから。
魔理沙は手は早めに打っておいた方がいいと結論づけた。
「ちょっといいか、お前ら。協力してほしいことがあるんだ」
☯
午後になってから、博麗神社はいよいよ来客で混雑していき、魔理沙達は対応に追われることとなった。
やってくる者も多種多様、持参した治療法も様々。そのいずれもが、霊夢の様々な反応を引き出していた。
里のワーハクタク、上白沢慧音は、博麗霊夢に関する記録を長々と語ってくれたが、本人はさっぱりわからず、周囲の人間にも退屈で不評であった。
花の妖怪、風見幽香は、不穏な言動とプレッシャーで霊夢にトラウマを植え付けただけだったので、丁重にお帰りいただいた。
河童の河城にとりは、記憶を戻す装置とやらを持参したが、始めに実験台となった早苗が、危うくアフロヘアーになりかけただけだった。
騒霊三姉妹はミニライブを行い、天人は地震を起こそうとしてボコられ、厄神はひたすら回転し、封獣は正体不明の種で一騒動起こす。
そんな感じで、いよいよ収拾がつかなくなってきた時だった。
庭の空間を引き裂いて、彼女は現れた。
「お邪魔します」
その女性は、深い夕闇を思わせる紫色のドレスを身にまとっていた。
黄昏時に日傘を差し、長く伸ばした金髪を揺らして、口元には胡散臭い笑みを浮かべている。
縁側に腰を下ろしていた休憩していた魔理沙は、鼻を鳴らして言った。
「順番はきちんと守るべきだぜ」
「そこにいる藍は私の代理。きちんと並んでいましたわ」
拝礼する九尾の妖獣の前を、彼女はゆっくりと歩み進んでくる。
八雲紫。
異変を除く問題解決において、彼女を凌ぐものはいない。もっとも、異変を除く問題の多くが、彼女が関わっているという説もあったが。
しかし魔理沙は、彼女の来訪をそれほど悪く思っていなかった。このスキマ妖怪は、霊夢と親しい妖怪の代表格である。記憶を失った彼女を、そのまま捨て置くはずはない。
永琳や鈴仙等の専門家、そして他の知り合い達も、大して役に立たなかった以上、望みがあるとすれば、この妖怪の摩訶不思議な力以外には無い、と魔理沙は踏んでいた。
スキマから出た紫は、霊夢に向かって、悠然と歩を進める。
巫女の方はといえば、突然庭に現れた存在に、口に手を当てて驚愕していた。
その初々しい反応に、紫は目を細める。
「へぇ。本当に記憶を失ったなんてねぇ」
「……貴方は一体どなた? 私のお友達ですか?」
「説明する必要はないわ。すぐに元通りになるのだから」
表情にも声の響きにも、一切の揺らぎがなく、確かな自信が伺える。
魔理沙だけではなく、その場にいる存在全てが、彼女の一挙一動を、固唾を呑んで見守った。
紫の右手が、天の糸に引かれるように、徐々に持ち上がっていく。
彼女はその手を、魂の抜けた表情の霊夢に向かって、一気に……
「てい」
「ぁたっ」
チョップを受けた霊夢は、可愛い声を一つあげた。
涙目で彼女は頭をさすり、何事か、と不思議そうに紫を見る。
スキマ妖怪は周囲の面々を見渡して、指を一つ立てて陽気な声で、
「うちの式はこうすると直るのよね♪」
長く、気まずい沈黙が、神社に漂った。
「……すみません。これ持って帰りますんで。お邪魔しました」
九尾の式にずるずると引きずられて、八雲紫は指を立てたポーズのまま、スキマから帰っていった。
☯
切り札的存在ともいえるはずの、八雲紫が去り、神社に来た妖怪達も一通り霊夢に顔を見せ終わった。
しかし、肝心の霊夢の記憶復活に関しては、全くと言っていいほど進展が見られなかった。
朝から時間を作って、能力を試していた鈴仙も、ついに匙を投げかけたようで、
「催眠もダメ。知人も好物もダメ。ここまでくると、後は自然に記憶が戻るのを待つしかないわね」
「ごめんなさい鈴仙さん……ずっと頑張ってくれたのに……」
「霊夢さんのせいじゃないですよ」
縁側で落ち込む霊夢を、早苗が慰める。昨日から今日にかけて、それはすでにお約束の光景となっていた。
あちらこちらとインタビューしたり、写真を撮っていた文が、手帖にメモしつつ、
「ほとんど全員が、何か霊夢にあげたり、話したり、食べさせたりしたんですよね。こうなったら二週目をやるのはどうでしょう」
「そうね。みんな何だか飽きてきて、それぞれ勝手に遊んでるみたいだし。もう一度チャンスがあると思ったら、また色々考えてくれると思うわ」
「でも本人の強い思い出……何かなじみの深いもの……後は何があったかなぁ」
「弾幕ごっこ!!」
出し抜けに大きな声を上げたのは、氷精のチルノだった。
霊夢の周辺だけではなく、神社の四方で、適当に騒いでいた妖怪達が、一斉にその単語に反応する。
「……なら私の出番ね」
「いや、私だな」
「引っ込んでなさいあんたら! 私の出番よ!」
「なんでよ! あたいが一番最初に言ったんだから、あたいでしょ!」
「お前なんかお呼びじゃない!」
今日一日で集まった来訪者は、皆が庭の中心に固まり、猛烈な議論を始めた。
場内の空気はそれこそ、今にも戦闘が始まりそうなくらい、殺気だったものに変わる。
だが、冷静な一声が、その騒ぎを黙らせた。
「じゃあ魔理沙、貴方に頼んでいいかしら」
治療責任者である、鈴仙だった。
皆は喧噪から離れていた白黒の魔法使いを凝視する。
その中で守矢神社の巫女が、あ、と思い出したように、
「そういえば、魔理沙さんが一番、霊夢さんと付き合い長いですよね」
「うん。というか、今日はまだ何もしてないわよね。持ってきた茸も、結局使ってないし……」
騒ぎに混じって刀を抜きかけていた剣士も、相槌を打った。
まだ何か言い足そうな連中が残っていたが、魔理沙はそれを制するように、ひゅん、と箒を回転させる。
「……そうだな。まだ私は今日何もしてないし、ちょうどいいか」
「えー、あたいが一番に言ったのに!」
「悪いなチルノ。お前は一回自分の番を使っている。初戦は私で勘弁してくれ」
そう言って魔法使いは、一人呆然としていた紅白の巫女に、挑戦的な笑みを見せた。
「やろうぜ霊夢。弾幕ごっこだ」
☯
太陽はすでに落ち、主役は宵の明星へと代わる。空はオレンジから濃紺へと続くグラディエーションを描いていた。
風情を解するものであれば、息を潜めて見上げそうな天幕だったが、地上の神社の境内は、全く別のことで活気づいている。
石畳の外には神社に集まった者達が、そして見守る中央には、白黒の魔法使いと、紅白の巫女が対峙していた。
「霊夢ー! やっちゃえー!」
「怪我させんじゃないわよ、魔理沙ー!」
境内の四方から声援が飛び交う。これから彼女達は皆の前で、弾幕ごっこを行うのである。
ギャラリーが盛りあがっているのは、単にこの遊びが人気ということが一つ、当代の博麗の巫女の人も一つ。
そして何より、皆は記憶を失った霊夢がどんな弾幕戦を披露してくれるのか興味が尽きないということ。酒もまだ入っていないのに、すでに神社はお花見のごとき様相だった。
もちろん中には、その光景が気に食わない観客もいたが。
「……出し抜かれたわね。あいつの運命をひん曲げてやろうかしら」
ジト目で呟くのは、紅魔館から戻ってきた、吸血鬼のご令嬢である。視線はいち早く巫女の相手に名乗り出た、魔法使いの背に注がれていた。
隣に立つ従者は、周囲の喚声で音が途切れぬよう、そっと耳打ちする。
「後になればなるほど、楽しみは膨らむものですわ」
「ふん……まぁ、所詮は前座。譲るのも一興。夜はまだ始まったばかりだしね」
屋根の上に立つ鴉天狗が、マイクを片手に声を張り上げた。
『さぁ、いよいよ始まります! 本日のスペシャルシングルマッチ! 東は博麗霊夢、西は霧雨魔理沙! 片や泣く子も黙る博麗の巫女! 記憶喪失で弾幕が何かすら覚えておらず、その実力は未知数! 片や弾幕戦は経験豊か、人間の中では屈指の実力! 火力とお星様を愛する、お騒がせ魔法使い! 今宵の一戦、果たしていかなる攻防が繰り広げられ、どちらが勝利の栄光を掴むのか! 実況は私、射命丸文がお届けいたします! 観客席の皆様、熱い声援をどうぞよろしく!』
アナウンスが終わってから、拍手と歓声が沸き起こる。
魔理沙は霊夢に向かって人差し指を突きつけ、境内に響き渡るほどの声量で宣言した。
「霊夢! 言っとくが、手加減は一切しないぜ! 死んだらあの世で謝ってやる!」
「はっ、はひっ」
お払い棒を構えて、観衆をきょろきょろ見回していた巫女は、緊張に裏返りかけた声で返答した。
「いい返事だ! じゃあ行くぜ!」
箒にまたがった魔理沙は、一気に空へと離陸した。
打ち上げ花火のごとく垂直に上昇し、星を拝んで下向きに反転する。
そして霊夢の方は……、
「おい! 地上で闘う気か!? そっちの方が好みか!?」
「い、いえ、今行きますっ!」
魔法使いの飛行を見上げていた巫女は、遅れつつも、慌てて大地を蹴って飛んできた。
迫る紅白の姿に向けて、魔理沙は挨拶代わりに、軽い弾幕をばらまく。
霊夢は一瞬停止したかに見えたが、そのまま滑らかな曲線を描いて迂回し、こちらと同じ高度まで上がってきた。
――へぇ。流石に飛ぶのは上手いな。
魔理沙は口笛を吹いて賞賛する。
いつもの霊夢と比べて、回避は大げさだったものの、ブレが無い巧みな飛行である。
だが、それこそが彼女の最大の武器。速さではこちらが勝っているが、生まれつき飛ぶ力を身につけていた霊夢は、空中での細かい挙動が妖怪よりも卓越していた。
スピード競技には向かない技能だが、弾幕ごっこという舞台では、ある種絶対的な才能なのである。記憶を失っていても、能力は失っていなかったらしい。これで最初の関門はクリアした。
「じゃあ、お次はこれでどうかな? 魔符『スターダストレヴァリエ』!」
魔理沙がスペルカードを宣言する。今度の弾幕は、初めの一発よりも派手に広がった。
巨大な星が三色、術者を中心に幾つも広がる。
『魔理沙選手! 早速スペルカードを使用しました! 霊夢選手、この弾幕をどう凌ぐのか!』
「わっ、えっ、きゃっ!」
霊夢は空中で姿勢を変えながら、星の弾をかわす。巫女服の袖をばたつかせるその姿は、危なっかしいしみっともなくもある。
だが、結局その動作を続けることで、彼女は弾幕を最後まで回避することに成功していた。
撃ち終えた魔理沙は、今度は挑発を浴びせる。
「かわすだけじゃ能がないぜ! 少しは反撃してみたらどうだ!」
「は、はい! それー!」
「おっと!」
飛んできた四角いアミュレットの下をくぐり、次のアミュレットを乗り越えて、魔理沙は霊夢に接近した。
箒を一気に加速させ、スピードと魔力の障壁を生かした強烈な体当たりを仕掛ける。
「きゃあああ!!」
霊夢はあられもない悲鳴をあげて、くるくる回りながら落ちていった。
『ああっと! 霊夢選手がいきなりダウンか! 真っ逆さまに落ちていきます!』
直撃はしていなかったはずなのだが、風圧に驚いて飛ばされたらしい。彼女はふらふらと空中を漂った後、でたらめに御札を投げ始めた。
「わぁ!」
「ちょ、ちょっと!」
その多くは観客に向かって飛んでいき、一角がどよめいて崩れる。
中には運悪く直撃し、大の字になって倒れている妖怪もいた。
「あ、ごめんな……うわっぷ」
霊夢が謝るそぶりに入る前に、急降下してきた魔理沙は、彼女を片腕で抱きかかえ、上へと連れ去る。
(気にしてる場合か! 勝負に集中しろ!)
(はい、わかりました!)
耳元で助言した魔理沙は、スピードを力に変えて、巫女の体を投げ飛ばした。
霊夢はすぐに体勢を立て直し、今度は正確に、魔理沙めがけて御札を放ってくる。
『投げ技を受けた霊夢選手、しかしどうやらまだやれそうです! が、主導権を握っているのは、魔理沙選手! 霊夢選手よりも余裕が感じられます! この流れを変えることはできるのか!』
――よし。いいリズムだ。後はどれだけ勘を取り戻してくれるかだな。
ギリギリまで引きつけて、御札の束をかわしながら、魔理沙は次なるスペルカードを選んだ。
出来るだけ派手であり、なおかつ霊夢が『かわしやすい』弾幕を。
☯
「弾幕ごっこを、霊夢にやらせる!?」
話を聞いた三人は、一様に問い返した。
お昼の時間がつつがなく過ぎる中、話があるという魔法使いに誘われ、神社の一室に場所を移して、計画を明かされたところである。
当の霊夢だけが離れた位置で、頭に?を浮かべた表情で聞く。
「弾幕ごっこって何ですか?」
「後で詳しく説明してやるぜ。この後機会を設けて、お前と私でそれをやる。ただし、誰にも邪魔はしてもらいたくない。というわけで、お前らにも協力してほしい」
「絶対にダメです! 今の霊夢さんに、そんな危ないことさせられません!」
早苗は霊夢の前に立って、手で×を作り、断固拒否の姿勢を見せた。
しかし鈴仙は、魔理沙の意図に気付いたようである。
「……つまり、霊夢が記憶を呼び覚ます方法として、それが一番いいと貴方は考えるのね」
「そういうことだ。お前はどう思う」
「医者の立場からすると、許可は出しにくいわね。確かに強烈な印象として残っている可能性はあるけど、逆に何一つ覚えていないとしたら、怪我を増やすことになりかねない」
「そうですよ! 今の霊夢さんは臆病で弱虫でヘタレで意気地無しで、切れた輪ゴムほどの根性もない存在なんですよ! 相手が向日葵妖精でも秒殺に決まってます!」
「えーと、言い過ぎだとおもうな」
妖夢が汗を一粒流し、熱弁を振るう風祝にツッコミを入れた。
「おいおいお前等、こいつはあの博麗霊夢だぜ。毎度毎度でたらめな強さと運で異変を解決してきたこいつが、今さら弾幕ごっこで大怪我すると思うか? くたばると思うか?」
「それは、いつもの霊夢なら私だって止めないけど……」
鈴仙はまだ悩んでいる。
対して、まるで気にしていない笑顔だった魔理沙は、真面目な顔つきになって言った。
「もちろん私だって本気でやろうっていうんじゃない。それなりに手加減するつもりだ。こいつに記憶が戻るなら、それしかないと思うし、戻らなくなって、博麗の巫女である限り、いつかは通らなきゃいけない道なんだ。だったら、できないにしろできるにしろ、初めに相手するのは、調子に乗って何しでかすかわからん妖怪共より、私の方が適任だぜ。こいつを不慮の事故なんかで、死なせるつもりはないからな」
三人は押し黙り、その主張の可能性について考え始める。
まずは鈴仙が「いいわ、協力する」と頷き、妖夢も「じゃあ」と請け合った。
早苗だけは最後まで、無言の抵抗をみせていたが、結局は渋々ながら認めてくれた。
「でも、魔理沙さん、手加減なんてできるんですか?」
「そこら辺は上手くやるさ。霊夢、私が信じられるか?」
魔理沙は当事者である巫女の方を向いて聞く。
彼女は不安そうだったが、こちらと目が合うと、ちゃんと頷いた。
「はい、信じます魔理沙。それが私に必要なことなら、やります」
「決まりだな。実行は日が沈んでからにしよう。私の弾幕は、夜の方が見やすいからな。それまで手の空いた奴が、出来る限り色々とレクチャーしておいてくれ」
こうして、水面下で作戦が秘かに進行されることになったのだった。
☯
根回しの甲斐があって、弾幕ごっこの最初の対戦相手として、魔理沙はスムーズに名乗り出ることができた。
霊夢も期待を裏切らずに、何とかついてきている。観戦する者達も盛り上がっているし、今のところ作戦は順調だった。
しかしギャラリーの目は肥えている。あからさまに弾幕のレベルを落として、八百長ではないかと勘ぐられても困る。
だから魔理沙は、自らの弾幕に、ちょっとしたアレンジを施していた。
「魔空『アステロイドベルト』!」
爆音と光熱が、霊夢の周囲を駆け巡った。
下から見れば、星屑に紅白の巫女服が、飲み込まれたように思えただろう。
しかし、魔理沙と同じ高度に位置する霊夢は、へっぴり腰ではあるものの、何とか弾幕を捌けていた。
それもそのはず。この弾幕は上から見るのと下から見るのでは、迫力が違うのだ。
だから、初心者に戻った霊夢にとっては慣れるのにちょうどいいし、観衆も退屈させない。
仮にも魔法使いである。これくらいの芸当は、できて当然だった。後はどこで、この勝負を締めくくるかだ。
『霊夢選手、防戦一方か! ど派手な弾幕を必死に凌いでおります! あっ、反撃です!』
魔理沙が段取りを考えていると、霊夢のアミュレットが飛んできた。
直線的に投げてくるだけだったのが、始まって五分も経たぬうちに、四方から攻め立てるように誘導させている。
狙いも動きも悪くない。このままいけば記憶を取り戻してくれそうな気がしたが、まだ霊夢独特の余裕は感じられなかった。
魔理沙はレベルを一段階上げることにした。
「どうした! お前の弾幕は、その程度か!?」
星屑の広がる規模を大きく、配列をさらに複雑化する。
回避を続ける霊夢は反撃できず、迷子のようにうろうろと動き、弾幕に翻弄され始めた。
「しっかりしろ! そんなんじゃ、誰かに巫女を譲る羽目になるぜ!」
魔理沙は発破をかけてから、スカートからミニ八卦炉を取り出した。
十分相手が体勢を整え、こちらをしっかりと見定めるまで計ってから、構える。
「恋符『マスタースパーク』!!」
巨大な光線が、両手の先からほとばしった。
八卦炉に魔法をかけることで、その出力を最大に引き出したのだ。
単純な技だが、威力は桁外れ。妖怪が相手でも直撃すれば、一発で仕留めることができる。
爽快感と自信を同時に与えてくれる、お気に入りの一品、究極の魔砲だった。
だが、悦に入っていた魔理沙は、我が目を疑った。
霊夢の動きが鈍くなり、空中に立ち止まってしまったのだ。
それは魔砲の射線上だった。
――馬鹿! 何考えてやがる!
青くなった魔理沙は、咄嗟に照準をずらそうとした。
霊夢はいまだに、避ける姿勢を見せない。じれったくなるくらい緩慢に、お祓い棒を動かし、
一気に、払った。
魔理沙は八卦炉を通じて、異常な手応えを感じた。
過去何度撃ったか分からないこの技に、初めて、異質な感覚が滑り込んできたのだ。
「押し戻される」という感覚。
「なっ!?」
眼前で、信じがたい現象が起こった。
圧倒的な威力と範囲を誇る自慢の弾幕が、さらに強大な弾幕に、飲みこまれた。
霊夢の体から湧き出た、無数の鮮やかな色彩の光弾が、マスターパークをかき消したのである。
『こ……これは一体……!!』
耳に届く天狗の実況が、途中でかき消えた。
魔砲を食らいつくした弾幕の渦は、さらに飽きたらず、魔理沙の元まで突撃してきた。
「っとぉ!!」
八卦炉を抱え、箒を水平に保ったまま、魔理沙は高度を瞬時に下げた。急な運動に頭が重くなる。
その上を耳障りな音を立てて、魚群の群れの如き霊力弾が過ぎていった。
もう一度、霊夢がお祓い棒を振るうのが見えた。すかさずその背後から、大砲の一撃が、魔理沙の元まで飛んでくる。
一発、二発、三発と、続く攻撃に、魔理沙は曲芸じみた動きでかわしまくった。
下のギャラリーが沸くものの、気合いに頼った必死の回避であり、箒を握る手も汗ばんで滑りそうになる。
「魔符『ミルキーウェイ!』」
魔理沙は新たなスペルカードを発動させた。
ただしこれは攻撃ではなく、防御の手もかねていた。間断無い砲撃に、咄嗟に選んだ手段である。
回避へと移った霊夢は、魔理沙の弾幕に対し、直線的に移動してかわした。
そしてまた巨大な光弾を飛ばしてくる。風圧で帽子が飛びかけるほどの強さ。見た目や展開力は稚拙ながら、凄まじい威力だった。
――ど、どうなってるんだ!?
魔理沙は混乱していた。さっきまで軽い遊びの気分だったはずだ。なのに、今は異変の真っ直中のような緊張感を味わう羽目になっている。
霊夢の弾幕の激しさが、急に増したから、だけではない。質が全く異なっているのだ。
魔理沙の知る彼女は、封印術や結果術といった、相手を包み込むような弾幕、あるいは相手の動きに引き寄せられるような弾幕を得意としていたはずだった。それが今、目にはっきりと映るほどの霊力に任せて、思いっきり対象に攻めかかってきている。
そして動きも速い。最小限の動きで無駄なくかわしていた、以前の面影は皆無だ。残像を至る所に残して、魔理沙の先手先手を打ち、視界から消えながら弾幕を撃ち込んでくる。
人間とは思えない。鬼が巫女の姿で暴れているようである。そしてこのスタイルは、かつての霊夢よりも、今の魔理沙に近かった。
――まさか、さっきまでの私の弾幕を学んで、やってるのか。真似しようと思って、できるもんなのか!
できない。弾幕は個人の資質がそのまま現れる。
自らの魔法に対して火力を追い求め続けた魔理沙に対し、霊夢では瞬発力が足りない……はずであった。
しかし……、
魔理沙はある可能性に思い当たり、体中の血が冷たくなるように感じた。
霊夢との勝負で、これまでずっと、力加減されていたとすれば?
これが霊夢本来の、マックスの力だとすれば? 記憶を失ったことで自らの闘い方を忘れ、初めて本気になっているとすれば?
「……上等だ!!」
魔理沙の両目が燃え上がった。脈拍が速くなり、五感が鋭敏になる。
秘伝の魔法薬を服用したのだ。身体への負担は大きいが、魔力の量は跳ね上がる。
この土俵で負けるわけにはいかなかった。お遊びは止め、本気の勝負に移行することにした。
「恋心『ダブルスパーク』!」
魔理沙は八卦炉から、再び魔砲を放つ。
光線の出力を下げるかわりに、照射範囲を二倍に拡大する。霊夢はかわしきれないと見るや、すぐにまた、力業の弾幕で、無理矢理こちらの攻撃を相殺してきた。
やはり、見たことのない対応だ。回避よりも攻撃、曲線よりも直線を選んでいる。魔理沙の知る博麗霊夢とは、全く別の相手と考えた方がよさそうである。
「星符『メテオニックシャワー』!」
魔理沙は八卦炉を前に構え、細かい星弾をひたすら乱射した。
やはり霊夢はかわさない。お祓い棒をでたらめに振り回しながら、
「きゃああああ!!」
きゃああああ、なんていうスペルカードが認められるかは怪しいが、ひとまずそれが彼女の宣言だと受け取っておく。
魔理沙の星弾幕に見合う量の御札の山を、次から次へと飛ばしてくる。
どうやら、こちらが攻撃すればするほど、強い弾幕を返してくる戦術らしい。
魔理沙の結論はシンプルだった。パワーで劣っているなら、さらなるパワーをぶつければいい。
「おらおらマジックミサイル!」
「いやああああああ!!」
「黒魔『イベントホライズン』!」
「ひぃいいいいいい!!」
「光符『ルミネスストライク』!」
「来ないでええええ!!」
渾身の魔法シリーズを、霊夢は必死な形相で受け返す。
弾幕戦を楽しんでいるというよりは、恐怖のあまりがむしゃらに応酬している風にしか見えない。
しかし彼女の態度とは裏腹に、カウンターは凶悪そのものだった。
射出した緑の魔弾を潰して、巨大な陰陽玉が迫ってきた。弾幕の円陣を切り裂いて、箒ごと叩き折られそうな勢いでアミュレットが飛んできた。大星を飛ばしながら宙返りすると、御札の大群に呑み込まれかけた。
なんという巫女だろう。憎たらしい程力強い。こっちも全力でやっているのに、ぎりぎりの攻防にされている。
一部の妖怪は余波から神社の建物を保護していたが、他の観客の多くはとうに逃げ出して、遠巻きに闘い見守っていた。しかし、霊夢の動きに集中する魔理沙は、そちらに気付く暇がなかった。
ずっと、こんな勝負がしたかったのだ。全力で戦おうとする霊夢と競う機会を手に入れたのは、何よりの幸運である。
「まだまだ行くぜ、霊夢!」
魔理沙はマスタースパークを放った。
手加減無しの本気の一撃は、またもや霊夢の弾幕に封殺され、さらに霊弾は砕けて粒上になり、襲いかかってきた。
怒濤の寄せ波にも負けず、もう一度ミニ八卦炉から発射。かわしては撃ち、かわしては撃った。
繰り返しの最中に考え続ける。火力は殆ど互角。それゆえに遠距離ではどうしても見て対応されているのがわかる。
勝つためには近距離の攻防。そう判断した魔理沙は、覚悟を決めた。
「ああああぁ!!」
弾幕の狭間を見切り、一気に突っ込んだ。
皮膚を削られそうな悪寒が通り過ぎ、赤と白の巫女服が視界の中心に入る。
「もらった!」
と八卦炉を構えた瞬間、霊夢が霞に溶けた――としか思えないくらい自然に姿を消した。
フェイク。
そう気付いた時には、魔理沙はすでに弾幕の密集地へと誘われていた。
予想外の反撃に舌打ちする間もなく、四方八方から風切り音と共に、御札が飛んでくる。すぐさま適当な方角に見当をつけ、脱出しようとした。
「っつぅ!」
箒がたわみ、大きく揺れる。一発かわしきれずに、肩にぶつかったのだ。
かすったというには。骨まで響く重い一撃だった。
だが、長年の経験が功を奏し、瞼は敵の姿を見失わぬよう、しっかりと開いたままだった。
「恋符『ノンディレクショナルレーザー』!」
直線のレーザーを、でたらめに撃つ。いつもの霊夢相手なら子供だましにしかならないが、今日の霊夢なら話は別だ。
案の定、大きくかわすことしかしない巫女は、光線に阻まれて動きを止め、空中に立ち往生していた。
魔理沙は彼女に向けて八卦炉を構え、魔力を充填させていく。発射口の光が明滅するのを見て、霊夢が顔色を変え、お祓い棒を構えるのが見える。
彼女は悲鳴つきで、すでに今日何度目か分からない、巨大な弾幕を放ってきた。
――引っかかったな!
今度は魔理沙のフェイクだ。
八卦炉のチャージを中断し、目に慣れた弾幕を乗り越えて、さらに高く上昇する。反転して頭を下向きにし、旋回を開始。
巫女の姿が視界の端で逆さまになっていき、背後から光弾が追ってくる。だが、霊夢本人は動いていなかった。
彼女のパターンは、自分に似ているのだ。そして、自分の弱点なら分かっている。
大技を放ち、無防備な状態にある巫女の上空で、魔理沙は高らかに宣言した。
「『ブレイジングスター』!!」
マスタースパークの放射を、推進力へと変え、魔理沙は突進した。
捨て身の突撃だが、威力は魔砲に劣らない。何よりこの技は、術者の防御と命中率において、大きく凌駕している。
魔理沙の必殺の奥の手は、狙い違わず、移動できない霊夢の体に襲いかかった。
だが、またしても霊夢の対応は、予想を遙かに超えていた。絶叫と拒絶の意志を放ち、魔理沙に向かって右手を突き出す。
出現した巨大な陰陽玉が盾となり、魔理沙の障壁と激突した。
空間がひび割れたかのように、激しい火花が広範囲に散る。さらに二人を中心にして、轟音とともに、波紋が空に広がった。
魔理沙は歯を食いしばって、魔力を放出し続ける。霊夢も辛そうに顔をしかめて、その攻撃を受け止め続ける。
シンプルにぶつかりあうことで、霊夢の底知れぬ力が、直に伝わってくる。負けるつもりはない。奥へ、もっと奥へとイメージを貫く。
ついに、撃ち破ることができるか、と思った一瞬だった。
――えっ?
その奥にあるものを見つけた魔理沙に、空白の時間が生まれた。
何か変だ。一瞬乱れた思考は、均衡を破る引き金となった。
霊夢の召喚した陰陽玉のエネルギーが、ブレイジングスターの障壁を打ち砕いた。
吹き飛ばされた魔理沙は、箒にしがみついて、もう一度弾幕を仕切り直そうとするが、腕が上がらない。
痺れが脳まで伝わり、呼吸が止まりかける。
――しまった……さっきの一撃が。
魔理沙の体が、空中にとどまる力を失い、箒ごと落下していった。
霊夢はまだ、倒れていない。お祓い棒を構えて、また弾幕を絞りだそうとする。
しかし魔理沙の様子を見て、彼女は別の行動を取った。
こちらの体が石畳に叩きつけられる前に、急降下して、抱きとめたのだ。
「魔理沙! しっかりして!」
魔理沙の意識が薄くなっていく。
霊夢の声が遠くなる。必死な表情も、体を包む感触も、知っているはずなのに、何故だろう、今日一日で近づけたはずなのに。
闇の中で、寂しさだけが残った。
☯
夜が更けて、月が中天にさしかかっても、博麗神社に集まった妖怪達は、住み処に帰っていなかった。
すでに恒例となった宴会である。飲めや歌えや、弾幕撃てやの大騒ぎ。
鬼に天狗に吸血鬼、妖精半霊風祝、それぞれ違う種族でありながら、神社の境内に一体感を作っている。
そして宴の中心には、嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑っている、紅白の巫女がいた。
「………………」
魔理沙はその光景を、神社の回廊に座って一人眺めていた。
意識を取り戻したのは、勝負に敗れてまもなくのことである。魔法を扱う弾幕ごっこの際には、身体が自然と強化されているもあり、肩はまだひりついているが、ちゃんと動いた。
この程度の怪我は常に想定している。なんてことはない、はずなのに、なぜか向こうまで足が動こうとしなかった。
「珍しいわね。あっちに行かずに飲んでるの、初めて見たわ」
喧噪を縫って、そんな魔理沙に声をかけてきたのは、鈴仙だった。霊夢に助けられた後、意識を失ったのも介抱したのも彼女である。
「でも、怪我人がお酒を飲むのは止めた方がいいわよ」
「気にすんな。こいつは消毒用だぜ」
そう言って魔理沙は笑おうとしたが、上手くいかなかった。
酒を飲むという行為は、確かに中身を癒そうとする者の本能かもしれない。そんな馬鹿なことを考えてしまって。
こちらの考えを読んだわけではないだろうが、鈴仙は先ほどの弾幕ごっこの話題を振ってきた。
「下から見ても凄い闘いだったわ。記憶を失っても、霊夢は霊夢だったってことね」
「ああ、相変わらず馬鹿げた強さだった。けど……」
「あんな風に負けたのがショック?」
「そうじゃなくて……何だろうな……うまく説明できん」
もやもやした気持ちを振り払うつもりで、魔理沙はまた酒を飲んだ。
ぷはぁと息を吐いて、愚痴混じりに呟く。
「まぁ、あいつがよく分からん奴だなんて、今に始まったことじゃないしな」
博麗霊夢と知り合ってから、その付き合いは決して浅くない。時に遊んだり、時に喧嘩したり、たまに神社に泊まることもあったし、家に招待したことだってある。
妖怪をはじめとして、彼女と親しい存在は多いが、こと人間に限らずとも、最も彼女について知っている一人が、自分だと思っていた。
だけど日々感情的に生きる当代の巫女は、その本質を探ろうとした途端、掴むことすらできない空気のような存在へと化ける。
弾幕ごっこにおいて、それは顕著だった。やる気があるんだか無いんだか、本気なんだかそうじゃないんだか。けれども大事な一戦で、最後には勝利をおさめてしまう、摩訶不思議な強さ。
それに対して魔理沙は、わかりやすい強さで対抗していた。目にはっきり映る火力、肌ではっきり感じる危険。隠れた努力の積み重ねで、いつか届くと思っていた。
そしてついに今日、霊夢の知られざる実力の一端に指をかけたと思い、このチャンスを逃さぬよう、全てをぶつけたのだ。
けれどもまた、彼女は消えてしまった。そればかりか、闘いを終えた自分は、もっと大きな濃霧に迷い込んでいる気がした。
「私はこれで帰るわね」
魔理沙の思考を破ったのは、鈴仙の意外な一言だった。
「もう治療には来ないのか」
「定期的には来るつもりよ。でも、みんな受け容れているし、霊夢も相変わらずの実力だし、当面の心配は無いと判断したの」
「………………」
「記憶は確かに戻らなかったけど、あの様子を見る限り、貴方の治療が、今の霊夢にとって何よりの薬だったと思うわ」
「それはそれはお優しい言葉なことで。孫の代まで伝えるとするぜ」
「貴方も今の彼女を見習って、そういうひねくれた性格、直した方がいいわよ。それじゃあ、また今度」
鈴仙はそう言って、神社から去っていった。
魔理沙も帰ろうか、と思ったところで、宴の中にいた存在と目が合う。
彼女は輪を抜けて、こちらへと小走りに寄ってくる。
「魔理沙!」
すでに頬が紅に染まっていた霊夢は、側まで来て、空いている手を取った。
「どうしてここにいるの? みんなと一緒に飲みましょう」
「いや、今はそんな気分じゃないんだ」
やんわりと手を振りほどいて、魔理沙はまた盃を空にした。
案の定傷ついたのか、巫女は少し黙っていたが、やがて隣に座ってくる。
「じゃあ、私もここで飲むね」
「宴会の主役がこんな所にいていいのか?」
「魔理沙と話がしたかったんです」
相変わらず、霊夢らしくない発言である。けどその態度を邪険に扱うほど、魔理沙の性格は悪くない。
宴の中心地の方はというと、巫女がいなくなっても気付いてないんじゃないかというほどの騒ぎっぷりだったので、問題は無さそうだった。
その光景を見ながら、霊夢はぽつりと言った。
「みんないい妖怪さんで、私のことが好きみたいです。どうしてでしょう」
「……おかしいと思うのが普通なんだろうな。元はお前が退治した奴らばっかりだ」
「そうみたいですね。みんな嬉しそうに話してくれました。まだ思い出せませんけど、でもだったら、私のことを恨んでもよさそうなのに」
「それが弾幕ごっこの良さだぜ。気の済むまで遊んで……後はすっきりだ」
お互いの主義主張をぶつけ合い、勝った方も負けた方も、相手のことを知り、時にはずっと深くまで仲良くなれる。
かつて霊夢自身が提案した、人間と妖怪が対等に戦える魅力的な決闘法であり、今では誰もが知る遊びであった。
魔理沙もそれにのめり込み、その価値を知らしめるために、日夜妖怪退治に励んで、毎日のようにストレスを解消してきたはずだった。
なのにどうしたことだろう。今日の自分は弾幕ごっこの後にここで、一人酒を飲んでふてくされている。らしくないのは霊夢だけではない。
「……霊夢」
「え?」
「いい勉強になったぜ。完敗だった」
魔理沙はそう言って、きちんと先の勝負に、自分なりのけじめをつけた。今日の敗北を、明日に繋げるために。
けれども、それだけで終わらないのが、矜持の辛い所である。
「けど、異変の時には出し抜いてやるからな。覚えてろよ」
ようやく笑みを浮かべて、魔理沙は彼女の杯に酒を注ぐために、一升瓶を手に取った。
が、霊夢には言っている意味が通じなかったらしい。
魔理沙も肝心なことに気付いた。
「あれ、そうか。まだお前に異変の説明していなかったな。それとも、もう他の奴にされたか?」
「なんとなくですけど……。そう言えば、魔理沙と私はライバルだった、って言ってましたよね。あれはどういう意味ですか?」
「昨日も言った通り、博麗の巫女の仕事は、お茶を飲むことと妖怪退治、それに異変の解決っていうのもある。あそこにいる偉そうな妖怪やら何やらが異変を起こして、お前が弾幕ごっこで退治してきたんだよ」
「………………」
「で、だ。私は普通の魔法使いでありながら、お前の役目である妖怪退治や異変解決を、横から奪っていく役目だった」
「どうして……?」
「それはやっぱり、面白いから、だな」
大味な答えだったが、結局はそれにつきる気がする。
「幻想郷の主役を、博麗の巫女だけがやるなんて不公平だろう。私だって妖怪退治はできるし、異変を解決する力だってある。お前だけにやらせるつもりはないってことだぜ」
酒が入っているせいだ、と魔理沙は思った。普通はこんなこと、霊夢に言ったりしない。
例え記憶を失った相手でも、軽々と話したりしない。
「じゃあ、今度異変が起きた時は、一緒に異変を解決しに行きましょう?」
酒が入ってるせいか、一瞬、言われている意味が分からなかった。
けれども、黙って噛み砕いてみても、言っている意図がわからなかった。
だから魔理沙は聞いた。
「なんだそりゃ、どういう意味だ」
「だって、異変の解決は楽しくて、でも私だけやるのが不公平なら、一緒にやれば……」
「ごめんだな。異変は一人で解決するから面白いんだ」
「そうなの? じゃあ、代わり番こに解決しに行くのはどう? それなら、魔理沙の分も残してあげられるし」
彼女はにっこりと、そうすることに、全く疑いのなさそうな笑みを浮かべて、言った。
魔理沙はため息をついて、
「あのなぁ。何を言ってるんだ。それじゃ意味が無いだろう。お互い本気になって、先に異変解決をしに向かうから、楽しいんじゃないか」
「ううん、楽しくない」
彼女は首を振って言った。
「楽しくなんて、ないわ。そんなの嫌」
「……じゃあ何だ。仲良し子良しで、一緒に異変を解決しに行く方がいいのか」
「うん。そっちの方がいい」
また、彼女はあの笑みを浮かべる。純真で、無垢で、自分がよく知っている笑顔。
魔理沙はそれから、逃げるように立ち上がった。
「魔理沙……?」
「…………」
「魔理沙! 待って! どうして行っちゃうの!?」
「…………」
「魔理沙ってば!」
ついに手を掴まれて、魔理沙は足を止めた。
宴の音頭がが止んで、皆が自分たちを見ているのが分かった。
「どうして? 怒ってるの?」
「帰るだけだぜ」
「嘘。怒ってる」
「怒ってない」
魔理沙は不機嫌な声音で、繰り返した。
手を掴む巫女の声は、かすかに震えていた。
「私は魔理沙と争いたくなんてない。仲良し子良しじゃだめなの? 親友って、そういうものじゃないの?」
魔理沙はしばらく何も言えなかった。
やがて彼女の方を向き、頭に、ぽん、と手を乗せて、
「だから……昨日話したろ。私とお前は腐れ縁の幼なじみで……」
けど、その先の言葉が、上手く出てこなかった。
「……それだけだ。他の連中によろしくな」
皆の視線が突き刺さる中、箒を持って、魔理沙は霊夢から歩き去っていく。
だが、途中で足を止め、指をちょいちょい、と横に動かし、
「そうだ。宴会の片付けも、博麗の巫女の役目だ。きちんとやっとけよ」
「はい……わかりました。明日も来てくださいね、魔理沙」
それには答えず、魔理沙は帽子を深めにかぶり、神社を後にした。
次にこの場にいる自分が、まるで思いつけずにいた。
☯
幻想郷の東の果てにある、一軒の神社。縁側に、ひなたぼっこをしている、博麗の巫女がいた。
妖精が一匹やってきた。巫女はわざわざ立ち上がって、彼女の手を取りに行った。
妖怪がたくさんやってきた。巫女は嬉しそうに、皆を神社に招待した。
和やかな宴会が始まった。巫女は酒をよく飲み、引っ張りだこになった。
誰も巫女の前で暴れたりせず、異変は軽いちょっかいにかわり、巫女が泣き出せば慰めにいき、巫女が笑えば共に笑った。
こうして、いつも通り、幻想郷の博麗神社には妖怪達が集まって、毎日を楽しく過ごしている。
魔法使いは遠くから、それを眺めていた。
日の当たらない場所で、しゃがみこんでいた。
なぜこんな世界に変わったのか。
それは彼女が、博麗の巫女だからだ。
いつだってこの世界は、巫女を中心に、姿を変えていく。
彼女の光を通じて、周囲の者は自分の姿を知り、彼女に焼かれることで、自分の中身を意識する。
博麗の巫女は、幻想郷を照らす、太陽なのだ。
自分は星のつもりだった。
星は夜空に無数にあるが、太陽のごとく輝けるのは、自分だけだと思っていた。
けれども、巫女から離れてみて、自分の輝きは所詮、ほんのわずかに過ぎないと知った。
つまり自分は月だった。星のつもりで、月にしかなれなかった。
光が無ければ、夜空に穴を空けるだけの迷惑物。
森の中で膝を抱えて、生きるくらいしかできない。
世界はますます暗くなっていく。もう太陽は戻ってこないのかもしれない。
月の魔法使いは、膝に顔をうずめて、ただただじっと待って……
突然、背中で、恒星が生まれた。
――いい加減にしなさいよ!! あんたら!!
☯
「うわっ!」
叫び声と共に、魔理沙はベッドから跳ね起きた。
気がつけば、博麗神社も妖怪達の姿も無く、見慣れた自分の部屋に戻っていた。
「……なんだ。夢か」
大きく息をついて、部屋を見渡す。室内はまだ暗いが、輪郭に寝る前と変わった所もない。
着終わった服の塊も。無造作に放置された魔導書も。机の上のノートも片付けられずに開かれたままだ。
その向こうの窓のカーテンは、薄紫に色づいていた。夜が明けようとしている。
見慣れた部屋の散らかり様を眺めているうちに、荒れていた動悸が落ち着いていった。
枕元の照明に魔力を注ぎ、汗ばんでいた額をぬぐう。
おかしな夢だった。霊夢が夢に出てくるのはこれが初めてではないが、怒鳴られて起きるなんて結末は未体験である。
驚いた拍子に起こされたことを思うと癪だったが、それでも最後に聞いた声が、自分のよく知ってる巫女のものだったのを思い出すと、少し安心もした。
あいにく彼女の姿は見えなかったけれど。
ぼふっ、とベッドに仰向けに戻りながら、魔理沙は天井に目をやる。
そして先ほどの夢と、今起こっている現実について考え始めた。
――……霊夢の記憶が戻ったら、あいつあんな風に怒るかもな。今は性格が変わってるのをいいことに、みんな好き放題やってられるけど。
あれからしばらく神社に通っていなかった。だが噂によれば、彼女の様子を見に行く輩は、数が減るどころか日に日に増しているようである。
元々霊夢が人気者だということなのだろうが、知り合いの大半は心配しているというより、単に普段と違う彼女の様子を面白がっているだけな気がした。
そういう自分も、本来はそっち側で楽しんでいてもいいはずなのだが、今回に限ってはそんな気分になれずに、なんともいえない苛々を溜めて森に引きこもっている。
「……大体、あんなのが霊夢なんておかしいぜ」
低い声で言って、最後に見た博麗霊夢の姿を打ち消すように、寝返りをうつ。
会えば腰を折って丁寧な挨拶。可憐な笑顔は不当にお賽銭を要求することもない。不安げで、どこか人目を気にしていて、ちょっときついことを言っただけで泣き出した。何もかも、魔理沙が持つ霊夢のイメージと正反対だ。
けれども、彼女が依然博麗の巫女であることには変わりない。博麗神社に大物妖怪が集まっているという現状も、今まで通り。小物妖怪が悪さをすれば退治するし、異変が起これば解決しに行くのだろう。
だがその先を越してやろうとする意気が、どう頑張っても湧いてこなかった。記憶を失ったのは霊夢の方なのに、こっちも何かが抜け落ちているみたいで。
そんな感覚がすぐにおさまると思って、最早一週間が経つ。これからずっと、霊夢が元に戻るまで、このもやもやした気持ちが続くのだろうか。
黙って考えているうちに、あくびが一つ。
「……ふぁ……こんなことで悩むなんて、私らしくもない。みんなあいつのせいだ。霊夢が悪い。あんな夢さっさと忘れて、もっといいの見るか」
魔理沙は思案をやめて、眠気に頭を任せることにした。
照明を消し、瞼を閉じて布団をかぶり……、
その時だった。
階下の微かな物音が、耳に届いた。
「なんだ? 誰かいるのか?」
眠気が一瞬で吹き飛んだ魔理沙は、即座に体を起こす。
照明に手をかけず、今度は脇に置いてあった八卦炉を手にする。
そのままじっと息を潜めていると、やはりまた物音がした。
泥棒か。心当たりがないわけではない。何しろこの家には、玄関から二階の寝室まで、長い間かけて集めたアイテムが山ほど転がっており、あまりの多さに持ち主でも正確な数が分からない程なので。
幻想郷にて一攫千金を企む奴らが、舌なめずりするのは自然だったし、実際、過去に八卦炉を盗みに入られた失態すらあった。
とはいえ、もはや耳かき一つ渡すつもりはない。第一乙女の住居に不法侵入とは、誰であろうと重罪である。
――夜明け前から窃盗とは、大した根性だな。けど、人の物に手をだしたらどうなるか、きっちり教えてやるぜ
魔理沙は不穏な笑みを浮かべ、音を立てぬよう、静かにベッドから抜けだした。
寝室を出て廊下を忍び歩き。明かりをつけないまま、階段を滑るように下りる。その間も下から、ぶつかったり、何かを倒したりする音が何度か聞こえた。
話し声は無し。侵入者は一人である可能性が高い。そして盗人としては、素人に思えた。あるいは音を出しても構わないという、大胆な悪党かもしれない。
一階に着いた魔理沙は、侵入者が居間にいることに気がついた。
壁に体を当ててそちらに顔を向けると、時折闇の中を影が揺れ動くのが目に入る。
できれば不意をついて攻撃したいところだが、さすがにマジックアイテムが散乱しているあの居間で無闇に魔法を使うというのは、火薬庫で花火を試みるようなものなので自重する。
大技を使う必要があれば、外に逃げた瞬間を狙うことになるだろう。相手が逆上して向かってきた時は……その時はその時だ。
頭の中で、いくつものパターンを完成させ終え、無言の気合いを入れて、魔理沙は足を踏み出した。
居間へと飛び入る寸前、部屋の照明をつけ、侵入者に向かって叫ぶ。
「動くな! そして撃つと動く!」
手から弾を放つ間際で止め、相手を言葉で牽制する。
が、予想したどの状況も、眼前の光景とかけ離れていた。
「……………………え?」
照明の下、魔理沙は呆気にとられていた。
そこにいるのは、人間でも妖怪でも、妖精でもなかった。ましてや生き物ですらなかった。
紅と白に塗り分けられた、玉だった。光沢のある表面には、太極の模様が描かれている。
要するに、紅白の陰陽玉である。
それが床を転がっていたのではない。宙に浮かんでいたのである。
――確か……これは……。
思い出した。
その陰陽玉は、この前、記憶を失った霊夢と初めて会った日、博麗神社の蔵から持ち出したものだった。
家に帰ってから調べてみても、何の反応もなかったので、とりあえず後で香霖堂にでも持っていくつもりで、床に放っておいたはずだった。
それからずっと存在を忘れていたのだが、今になって急に勝手に動き出し、しかも空中に浮かんでいるのはどうしたことか。
戸惑っていた魔理沙は、一つ可能性を思いつき、ぽつりと言った。
「……霊夢の祟りか?」
がん。
「いだだだだ!?」
魔理沙は額を押さえて、床を転げ回った。
突如、急降下してきた陰陽玉が、魔理沙の頭部を一撃したのである。痛みに罵声を上げながら上を睨むと、涙でにじむ世界の中央で、玉は傲然と浮いている。
不意をついた攻撃に、怒りが湧き起こった魔理沙は、叩き落としてやろうとそいつに八卦炉をかざした。
が、魔弾を放つ前に、
(勝手に人を殺すんじゃないわよ!)
頭の中で、さらなる怒りの声がした。そして今度こそ、魔理沙は愕然とした。
陰陽玉が、喋った。
(なんだ。魔理沙の家だったのね。どうりで散らかってると思ったわ)
空中で一度ゆっくり回転してから、紅白の陰陽玉はふよふよと近づいてくる。
肉声ではない。念話でこちらに意思を伝えている。しかも口調も声音も、さっき夢で聞いたあの怒鳴り声と、全く同じものだった。
床に尻餅をついた状態で、魔理沙はぽかんとした顔のまま、頭上で止まったその球体を、見上げて言った。
思った以上に、間の抜けた声で。
「まさか……お前……霊夢なのか?」
☯
居間の椅子に腰掛け、額にできたこぶを濡れ布巾で冷やしながら、魔理沙は苦い声で言った。
「……信じたくはないが、信じる他なさそうだな」
その向かいには、コーヒーで意識をはっきりさせた後も、相変わらず消えることなく浮かんでいる、紅白の陰陽玉があった。
(だから最初から言ってるじゃない。まだテストするわけ?)
「いや……もう諦めた」
陰陽玉が霊夢の声で自己紹介したくらいで信じるほど、魔理沙は暢気な性格ではない。
おおかた妖精の悪戯か、暇な妖怪が自分を化かしているのだろうと最初は推理し、すぐに尋問したのである。
ところが。
「去年の十一月に博麗神社で焼き芋をした連中の数、覚えてるか」
(そんなの一々覚えてないわよ。っていうか、うちで焼き芋した時はまだ十月じゃなかったっけ。十一月は守矢神社じゃなかった?)
「先月の宴会でお前の神社に持っていった私のおつまみ三種、全部言え」
(三種って全部茸じゃない。松茸もどきとトリュフもどきと普通の椎茸。あ、三つじゃなくて二つよね。トリュフもどきは嫌な感じがしたんで捨てたんだった)
このように、霊夢に関する自分の記憶を照らし合わせてみたところ、この紅白の陰陽玉はことごとくそれに正当し、引っかけ問題すら見破り、さらに、こちらが忘れていた過去の細部まで覚えていたのである。
つまり、このアイテムには、本当に霊夢の精神が入っているということらしい。それを知らずに自分は持ち帰ってきて、今日まで放ったらかしにしておいたということになる。
「でも何で今になって覚醒したんだ? お前を神社から持ってきて、もう一週間近く経ってるぜ」
(私もついさっき、こんな状況になってることに気付いたのよ。目が覚めたらがらくたの山の中に埋もれていたってわけ。あんたが相変わらず家を片付けてないせいで、窒息するかと思ったわ)
「……その外見で息をしているとは思えないんだが」
(言葉のあやよ)
「第一お前、今私のこと見えてるのかも怪しいぜ。自分の姿確かめてみろよ。眼だって鼻だって腋だってないぞ」
(それもそうね。でも、あんたのこと見えるわよ。そのコーヒーの匂いもわかるし)
「……恐れ入った」
これはコーヒーのかわりに安眠剤が必要かもしれない。
鶏が鳴くこの時間に、陰陽玉ならぬ霊夢玉と会話しているというこの非現実感はどうしたものか。
さっき見た夢よりも、よっぽど悪夢じみていると、魔理沙は思った。
(ずいぶん顔色が悪いわね。ちゃんと睡眠取ってるの?)
「……誰かさんがさっき思いっきりぶつかって来たもんだからな」
(罰当たりなこと言うからよ)
「悪かった。けどそれだけじゃなくてなんていうか……面と向かって陰陽玉と会話するっていうのが、ちょっと慣れそうにないぜ」
通信しているだけというならまだいいが、陰陽玉があの悪友そのものだという現実は、やはり違和感がある。
「声だけなら霊夢だって信じてもいいけど、その見た目だと調子が狂う」
(あらそう。……じゃあ、ちょっと試してみるわ)
「何をだ」
(そっち見てごらんなさい)
そっちと言われても、陰陽玉に指はないので、魔理沙は適当に視線を彷徨わせた。
すると、部屋の隅にある立て鏡、その面が曇り始めた。
吐息をかけたように白い霧が表面を覆い、やがてその曇りが、ぼんやりと人間の表情、霊夢の顔を形作って……。
「こわあああああああああああ!!?」
魔理沙はコーヒーカップを投げ出し、二階へと猛ダッシュで逃げた。
すぐに寝室に転がり込むなり、ベッドに這い上がり、布団をひっかぶって、耳をふさいで震える。
「やっぱりこれは夢だ! 夢に違いないぜ! もしくは悪霊だ! 私の家から出て行け!」
(魔理沙! こら! 逃げ隠れてんじゃないわよ! あんたが慣れそうにないって言ったから試したんじゃないの!)
「知るか! 天使じみた霊夢だけでも勘弁なのに、陰陽玉になった霊夢の怪奇現象なんてまっぴらごめんだ! いなくなれ! 南無三!」
(起きなさい魔理沙! さもないと、こうよ!? この! この!)
「痛い、痛い!?」
毛布越しに何度も体当たりを仕掛けられ、魔理沙は悲鳴をあげた。
球体とはいえ、固い上に勢いがつけられているため、石でぶん殴られているような痛みである。
「わかった! とにかくその姿で我慢するから、体当たりはもうやめろ! 努力する!」
(ったく。最初からそうしなさいよね)
頭の中で聞き慣れた声が、ふてぶてしく響いた。
魔理沙はここにきて、ようやく事態を全て受け容れることにした。この遠慮知らずの無茶苦茶な言動は、まさしく自分の幼なじみ、博麗霊夢のものである。
姿が丸っこくなれば、性格も少しは丸っこくなるかと期待するのは、彼女には無駄だったようだ。むしろ人間状態の時よりだいぶ荒っぽいから始末が悪い。
せっかく記憶を失って、お淑やかになったというのに…………。
「……違う。じゃあ今神社にいるあいつは誰なんだ」
(あいつって誰よ)
「きれいな霊夢」
(は?)
「だからお前だよ。いや、お前の姿をした博麗の巫女だ。けど全然違う性格なんだ。巷では霊夢が記憶喪失になったってことになってるけど、お前が本物の霊夢なら、あいつは偽物ってことになるぜ」
布団の端から顔を出した状態で、魔理沙は興奮気味に言う。
元々、別人説を推していただけに、それみたことか、という気持ちであった。
が、てっきり霊夢の方にも心当たりが無いと思っていただけに、次の陰陽玉の台詞には意表をつかれた。
(たぶん……この陰陽玉に封印されていた、元の魂でしょうね)
封印されていた、元の魂。それが今、霊夢の肉体に入っている。
言葉の一つ一つに、何やら謎の臭いが漂っている。
魔理沙はベッドの上に胡座をかいて座り、神妙な面持ちで言った。
「わかった。全部信じるから、最初から話してくれ。お前がどうしてそんな格好になったのか」
☯
「これって……」
霊夢は箱の蓋を開け、薄紅の袱紗を解いてから、知らず呟いていた。
現れたそれは、二つの色で太極を描いた玉。博麗の巫女が代々受け継ぐ秘宝、陰陽玉だったのだ。
普段から見慣れた品であるので、どちらかというと、拍子抜けした気分である。
ただしこちらは、霊力を加えていない状態にあるのに、初めから色が紅と白になっているのが、違う所といえば違う所だったが。
――練習用の道具、とかかしら。
霊夢は何の気無しに、その風変わりな陰陽玉に指を伸ばした。
その瞬間、ざわりと、肌の表面を悪寒が通り抜ける。
咄嗟に腕を引っ込めようとしたが、間に合わない。
何かがするりと体内に忍び込み……
「……くぅっ!?」
心臓が大きく膨張したかのように、体が背骨から跳ねる。
霊夢は胸を押さえて倒れ込んだ。
呼吸が上手くできない。息を吸って吐くという当たり前のリズムに、何か別の意思が侵入して、かき乱そうとしている。
瞬きすらまともにならず、しまいにはバランスを失って、立てなくなった。床に倒れ伏しながら、霊夢は体に入り込んだ何かに対し、意志をぶつける。
――何よ一体! どういうつもり!?
だがその反動も、また大きかった。
切迫した霊夢のものよりも、さらに強い念。名前を付けるにはあまりに粗野で、原始的な本能が返ってくる。
「それ」は押し出そうとする霊夢にかわって、体の支配権を強引に奪おうとしていた。
させじと踏ん張る。精神と精神のとっくみあい、弾幕の撃ち合い、無数の連想が短時間で繰り広げられ、ついに結着がついた。
――なっ!?
はじき飛ばされたのは、霊夢の方だった。怨念じみた魂の狂気に、力負けしたのだ。
すぐにもう一度戻ろうとするものの、今度は別のものに吸い寄せられる。
床の隅に転がった、紅白の陰陽玉だった。
――嘘っ! ちょ、ちょっと!
抵抗も虚しく、陰陽玉は霊夢の魂を、すっぽりと包み込んだ。
自分の体が去っていく気配がする。追おうとするが、蝋で固められた四肢のごとく、陰陽玉は動かせる気配が無い。
かわって、急激な睡魔が襲ってきた。
もがく霊夢の意識は虚ろになり、やがてぷつりと途絶えて……
☯
「その時にお前の魂と、そこに封印されていた魂が入れ替わっちまったってわけか」
(たぶんそういうことよ。魂なのか精神なのか、よくわからないけど)
「どっちにしろ、よくそんな無茶なことに耐えられたもんだな。私がその時触ってたらと思うとぞっとするぜ」
(今試してみる?)
「近づくな。本気で撃つ」
(冗談よ。さすがに私も、何度も体験する気にはなれないわ)
そういう陰陽玉の口調はあっさりしたものである。対する魔理沙は事情を聞いて、呆れる他なかった。
見目麗しい博麗の巫女が、突如のっぺら球体ライフ。常人なら発狂してもおかしくない状況だというのに、彼女の態度は普段と変わらない。世の摂理と苦難を反復横跳びでクリアしていく、常識外れな巫女である。
ひとまず、そのことは置いておいて、魔理沙は腕を組み、話を頭の中で整理した。
「つまり、蔵を整理していて見つかった道具にお前が触った瞬間、何かの拍子で中身が入れ替わり、霊夢が陰陽玉になって、陰陽玉にあった魂は霊夢の体に入った……だとすると、やっぱり疑問が残るな。何でこのアイテムに魂が封印されていたのか。あいつの、つまり今動いている霊夢に入ってる魂は、誰の者なのか……」
(誰でもいいわよ! それよりも!)
ひゅん、といきなり陰陽玉が床から浮き上がった。
(勝手に私の体を乗っ取って、こんなものに封印して、それでのうのうと巫女をやって、うちのお茶まで飲んでるなんて許せないわ! 誰であろうとすぐに退治して、地獄送りにしてやるからね!)
霊夢の声で喚きながら、玉は激しく左右に飛ぶ。手足が無いために、何とか動きで怒りを表現しようとしているらしい。格好が丸っこいだけに、いまいち迫力に欠けているが。
魔理沙はベッドの上に座って、その高速UFOじみた飛行を観察しつつ、彼女の罵声を聞いていた。が、やがて、胡座を解いて言った。
「わかったわかった。とりあえず、神社に行くのは賛成だ。けど朝飯が終わってからにしてくれ。私も一緒に行く」
暴れていた陰陽玉が、ぴたりと空中に止まる。
気のせいだろうか、目鼻が無くとも、霊夢がジト目でこちらを見ている姿が、容易に想像できた。
「お前一人で行くと話がややこしくなるし、説明を補佐する役もいるだろう。それに元に戻る前に、まずあの偽霊夢の正体を確かめてからでも、遅くはないと思うぜ」
(何言ってんのよ。あのね魔理沙。あんたにとっては面白い話かもしれないけど、私にとっては……)
「おいおい。そいつは誤解だ。私はお前のためを思ってだな」
(あっそ。勝手になさい)
「了解。勝手にするぜ」
魔理沙は苦笑して肩をすくめた。
さすがに長い付き合いだけあって、こちらの性格が分かっている。
その通り。こんな面白そうな状況に、首をつっこまないわけにはいかない。
気付けば、さっきまであった靄は消えて無くなり、かわりに流れ星が心中で踊っていた。
――やっぱり、博麗霊夢はこうじゃなくっちゃな。
魔理沙は勢いよく立ち上がって、本物の博麗の巫女と共に此度の異変解決へと向かうため、早速支度を始めた。
☯
朝日の眩しい幻想郷の空、魔理沙は箒に乗って一人……いや、厳密には一人じゃないのだが、とにかく飛んでいる。
謎の博麗の巫女の正体を確かめるため、陰陽玉に入った本物の霊夢の肉体を取り戻すため、魔法の森の家から博麗神社へと向かっている最中である。
「しかし、他に場所はなかったのか」
眉を上げて、帽子の鍔に目をやると、すぐに、その奥に潜んでいる存在から、返事があった。
(文句言うんじゃないの。あんたのスカートの中に収まるくらいだったら、まだ帽子の中の方がマシよ)
「私だってお前をスカートに入れて飛びたいもんか」
魔理沙は口を尖らせて言い返した。
これこそいつものやり取りのはずなのだが、戻ってみるとそんなにいいものとは思えない。
幸せなんてそんなものかもしれんな、と哲学してみてから、もう一度魔理沙は尋ねた。
「でも、別に帽子の中じゃなくても、箱とか袋でもよかっただろう」
(それだと、誰かに中に何が入ってるか聞かれたら困るでしょ」
「別に話したっていいじゃないか。お前が今陰陽玉に入ってることも含めてさ。私だったら堂々と神社の正面から乗り込んで、どけどけ、本物のお通りだぜー! って突撃して……」
(……だめよ)
霊夢の念話が小さく、不機嫌そうになる。
魔理沙は訝しんだが、やがてピンときて、ニヤリとなり、
「ははーん、わかったぜ。お前実は恥ずかしいんだな」
(………………)
「陰陽玉になったって皆に知られるのがみっともないんだ。図星だるぃ!?」
脳天から響いた痛撃に、危うく舌を噛むところだった。
「何するんだ! 痛いじゃないか!」
(……今あんたの命は私が握ってるってこと、忘れんじゃないわよ。余計なこと口走ったら、すぐに天罰が下るからね)
「最悪だ……」
魔理沙は嘆きつつ、頭に爆弾を仕掛けられた気分で、箒を進める。
元の姿に戻ったら、いいだけ弱味を利用して、お茶菓子をたかってやろうか、と企んでもいた。
いや、この巫女のことだから、さらに恐ろしい口封じが待っていることも考えられる。
やがて、博麗神社の赤い鳥居が見えてきた。その先の石畳で作られた参道、さらに向こうの木造屋根も、二人にとっておなじみの光景であった。
しかし本当の住人である霊夢は、早速、不自然な点に気がついたようである。
(何か、いつもより騒がしくない?)
「そうだな」
魔理沙は理由について心当たりがあったが、あえて何も言わなかった。
☯
まだ早朝にもかかわらず、博麗神社は大変な賑わいとなっていた。
境内は妖怪やら人間やらがまばらに集まり、参拝の列に至っては石段の下まで続いている。
宴会ならともかく、初詣にすらろくに客が集まらないこの神社では、ちょっ異変じみた騒ぎといえた。
なんと参拝客の多くは、お賽銭すらきちんと投入している様である。
「ほっほう、えらく盛況だな。どう思う、巫女さんよ」
神社の上空からその様子を見下ろし、魔理沙は意地悪く聞いてみた。
(朝からこんなに集まって、一体何を始めようっていうのかしら。私の体に入ってる奴が、変なこと起こしたんじゃないでしょうね)
「聞いてみればわかる。お、いたいた」
魔理沙は列の整理をしていた少女を見つけて、箒をそこまで下ろしていった。
「困りますよ。順番はちゃんと守って……あれ、魔理沙さん」
「よう早苗。一体この有様は何なんだ。説明してくれ」
「ふふ、驚きましたか」
おなじみ守矢神社の風祝は、いつもの青い巫女服姿だと思ったのだが、よく見ると、少し外見に変化があった。
服は新調したものらしかったし、何だか肌つやもいい。ブレスレットやネックレスまでつけて、お洒落している。
指輪をはめた片手で、彼女は自慢げに境内を示して、
「これはみんな、霊夢さんに会いにやってきた人達です」
「宴会でも無いのにか?」
「はい。霊夢さんの人気は、今やとどまる所を知りません。前の性格とのギャップが受けて、人も妖精も妖怪も、毎日のように彼女と遊びに来るんです。けれども、一度にお相手できませんからね。きちんと順番を守ってもらってるんですよ」
「それでお前が整理係を、まだやってたってわけか。ご苦労様だぜ」
「申し遅れました。私が先週からここに出向している、守矢神社風祝兼、博麗霊夢の敏腕マネージャー、ミス・サナエです」
キラーン、とこめかみにピースを当てて、早苗はポーズを取った。
物凄くいかがわしい単語を聞いた気がする。魔理沙は片眉を上げて、
「敏腕マネージャーだと? またお前ろくでも無いこと考えやがったか」
「悪い話じゃありませんよ。今はうちの神社が、彼女を全面的にプロデュースしているんです。お賽銭だけじゃなくて、おみくじに絵馬、霊夢人形に霊夢煎餅」
「………………」
「博麗のお茶に博麗饅頭、魔除けの壺に、開運リボン、その他多数の巫女グッズ。守矢神社の信仰と合わせて、評価はうなぎ登りですよ。今はなんと二時間待ちです」
「待て待て待て。商売上手なのは結構だが、霊夢本人の意思はどうなってるんだ」
「もちろん喜んでくれていますよ。前の霊夢さんは信仰を集める努力が足りませんでしたけど、今の霊夢さんは、巫女としてのやる気に満ちていますし、何より優しくてお淑やかです。お茶を切らしたり、お腹が減ってると機嫌が悪くて、修行をサボりがちだった過去の面影はありません」
鼻を天狗並に高くし、早苗はふんぞり返った。
とりあえず、頭の上の存在が怖かったので、魔理沙はフォローしておく。
「あー、それは言い過ぎじゃないか? 前の霊夢だって、やるときはちゃんとやっていたぜ」
「いいえ。あれは巫女じゃありませんでした。しいていうなら、巫女のコスプレをしたお茶魔人……」
(誰がお茶魔人よ!)
ついに我慢の限界に達したらしく、帽子越しに、強力な陰陽ストライクが放たれた。
見事に喰らった風祝は、「ひでぶ!」と叫んで倒れる。
魔理沙は慌てて帽子を押さえ、周囲を見回した。
――こ、こら! こんなところで暴れ出すな! みんな注目してるじゃないか!
(適当に誤魔化しなさい。こんな煩悩にまみれた巫女に、天誅を下すのは当然よ)
霊夢は念話で、無慈悲に言い放った。
「けどあっち見ろよ。早苗のおかげで、みんなお賽銭入れてるんだぜ」
(あら素敵ね。これから気が向いたら記憶喪失になろうかしら)
ころりと態度を変える陰陽玉に、魔理沙は心の中で舌を出す。
一方で、気絶していた早苗は、割と早く復活し、上体を起こして涙目で頬を押さえ、
「ひ、ひどい! いきなり何するんですか!? 神奈子様にも頭で殴られたことないのに!」
「悪い。頭が滑ったぜ。時々あるんだ」
「……器用な頭ですね」
恨めしげに見上げる早苗に、魔理沙は適当に弁明した。
「まぁそのなんだ。記憶を無くす前の霊夢に対して思うところがあっても、そういうことを言うのは良くないぜ。本人が聞いたら気を悪くするからな」
「本人って、霊夢さんのことですか? 今は神社の裏庭にいますけど……」
「そうか。とにかく霊夢に会わせてくれよ、敏腕マネージャーさん。ここで二時間待たされるのは勘弁だぜ」
頼み込むと、早苗は来場者の集まりを見渡してから、う〜ん、と考えるそぶりをしつつ、
「本当はダメなんですけど、今回だけはいいですよ。魔理沙さんが来たら、霊夢さんも喜ぶでしょうし」
「じゃあ遠慮無く入らせてもらうか」
「それでは、グッズを買っていってくださいね。今なら、博麗饅頭がオススメです」
代金の代わりに、再び陰陽ストライクが帽子越しにヒットした。
☯
伸びた風祝は放っておいて、魔理沙と霊夢は庭へと向かった。
建物を挟んだこちらは、表の境内ほど騒がしくなく、夏の草花がいい加減に生えていて、縁側からその向こうの幻想郷をのんびり眺めることができる。
魔理沙が前に来たときと、殆ど同じ光景である。一部を除いて。
「あれがお前の体だぜ」
(見ればわかるわ)
帽子の中にいるのに、見るも見ないもあるんだろうか、と思ったが、そこは指摘しないでおく。
件の偽霊夢は、子供妖怪達と「だるまさんが転んだ」をしていた。
林檎の木に顔を隠す鬼役の巫女。その後ろで、子役の妖怪達は、足を進めずに、何事か期待して待っている。
魔理沙達の側からは丸見えだったのだが、巫女の頭上には、どこからか飛んできたのか、化け傘が構えていたのだ。
巫女は振り向くなり、きゃぁ、と悲鳴をあげて腰を抜かしていた。
どっと笑いが起き、化け傘もドッキリが成功したことに、大喜びしている。
「おーい」
魔理沙はその平和ボケした微笑ましい集団に声をかけた。
「あー、魔理沙だ」
妖怪達が、こちらに気付いて指をさしてくる。
そして中央にいた巫女は、こちらを向くなり口がOの字になり、
「魔理沙!」
よう偽物さん、久しぶりだな――とでも言ってやろうかと思っていた魔理沙は、言葉に詰まった。
生き別れた主人と会えた犬かお前は、とツッコミたくなるような勢いで、霊夢もどきがこちらに駆け寄ってくるので。
「ああよかった、しばらく来てくれないから、心配してたの! ひょっとして嫌われちゃったんじゃないかと思って……」
「そ、そうか」
たじろぎながらも、魔理沙は答える。
気のせいか、帽子の中の温度が一気に冷えたように感じた。
「早苗さんは気にしなくてもいいって言ってくれたけど、やっぱり謝りたかったんです。この前はごめんなさい。弾幕ごっこが大事なことだってわかりましたし、妖怪退治も必要ならちゃんとやりますから……」
「いやまぁ、それはいいんだけど、ちょっと待ってくれ」
「……? はい、ちょっと待ちます」
魔理沙は彼女から距離を取ってしゃがみ、頭の上に隠れる陰陽玉と作戦会議に入る。
――おい、霊夢! こっからどうすんだ!
(……ちょ、ちょっと待って。今頭が働かない状態だから)
――ショック受けてる場合か! すぐに退治して、地獄送りにしてやるんじゃなかったのか!?
(だって! そのつもりだったけど、見てるだけで体がかゆくなってくるんだもの!)
かゆくなる体なんてあるのかお前は、と魔理沙は追求したかったが、もしそれが本当なら、手足が無い分さぞ苦痛であろう。
自分同様、霊夢にとっても、このお花畑な言動はショックが強すぎたようである。
(と、とにかく、私は他の連中に気付かれるわけにはいかないから。交渉役はあんたに任せるわ)
面倒な役を押しつけられたものである。
仕方なく魔理沙は、霊夢の希望に応えるため、立ち上がって振り向く。
「霊夢。悪いんだが、今時間取れるか。話したいことがあるんだ」
「話したいこと……ですか? ここじゃダメですか?」
「中の方がいいな。内密な話だ。頼むぜ」
「わかりました」
霊夢の姿をした巫女はさっきまで一緒に遊んでいた、子供妖怪達に向かって、
「みんなー! 私達は今から大事な話をしてるから、仲良く遊んでいてねー!」
「はーい!」
子供妖怪達も元気よく手を上げてお返事。博麗の巫女というより、保育所の先生を見ているようだった。
「じゃあ、魔理沙。上がってください。今お茶を入れますね。えーと、お茶菓子はまだ残っていたかしら……」
とてとて、と神社の廊下を走る彼女は、途中で卓につまずいて転びそうになっていた。
その後ろ姿に対し、魔理沙はぽつりと言う。
「……お前も今度から、あんなキャラ目指してみたらどうだ」
(……心の底から断るわ)
陰陽玉は帽子の中で、盛大にため息をついた。
☯
案内されたのは、霊夢だけじゃなく、魔理沙にとっても来慣れた、神社の母屋の居間である。
魔理沙は座布団を適当に持ってきて胡座をかき、これから起こること、今の博麗の巫女の秘密について、想像を巡らせていた。
やがて件の謎巫女は、お茶を二人分と、煎餅を盆に乗せて運んできた。
彼女はこちらを見て、あれ、と首をかしげ、
「帽子、脱がないんですか?」
「ああ、いや脱ぐぜ」
魔理沙はそろそろと、帽子を髪からずらしていき、中の陰陽玉が見えないように、膝の間に置いた。
そして、運ばれてきたお茶の容器を手にして、きょとんとなる。
「このカップ……中身は紅茶か?」
「はい。ひょっとして、嫌いでしたか?」
「いや、ここじゃ日本茶ばかり飲んでたからな。いただきます」
場違いな思いを抱きつつ、一口飲んでみて、魔理沙は「おっ」と声を上げた。
「へー、紅魔館の味だな」
「はい。咲夜さんが昨日教えてくれたんです。とても美味しかったので、教えてくださいって頼んだら」
「なるほどな。美味いと思うぜ」
(ちょっと、あんただけ飲むつもり?)
「…………」
頭に聞こえてきた声の主を満足させるため、魔理沙は帽子とお茶を、巫女の反対側に置いておいた。
霊夢の顔が醤油でスタンプされた煎餅をかじりつつ、さて、どう話を切り出そうか、と考える。
すると、巫女は「少し待っててください」立ち上がって、お菓子を数枚手にして外に出て行った。
(うんうん。お茶の煎れ方は、まぁまぁね。今度は玉露を煎れてもらおうかな)
「お、お前……今気付いたけど、その姿でお茶が飲めるのか!?」
(魔理沙。そのお煎餅も、ちょーだい)
球体の巫女の希望に応じて、煎餅をおそるおそる差し出すと、帽子の中でぱりぱりとかじる音が聞こえてきた。
魔理沙はこれは霊夢の魂が入ってるんじゃなくて、やはり何か妖怪に化かされているんじゃないかと疑いたくなってきた。
真実がそうならば、これから何を信じて生きていけばいいか難しい。
「魔理沙?」
「おおっと!? なんだ霊夢。話があるって言ったのに、どうしたんだ」
「ごめんなさい。あの子達にもあげないと可哀想だったから」
霊夢の姿をした巫女は戻って来るなり、両手を合わせて謝った。けれども、障子の向こうからお礼の声が一斉に聞こえてくると、にこにことそちらに返答する。
この優しさが人気の秘訣なのだろうか。もっとも霊夢だって、妖怪が来たときには文句を言いつつもちゃんと分けてあげていた……はずだ。
とにかく誰が何と言おうと、魔理沙は本物の方の味方であった。
巫女は向かいに座って、お茶を飲み、感慨深げに言う。
「毎日毎日、色んな妖怪さんが会いに来てくれるんです。名前は思い出せないから、また覚えている最中ですけど。ほら、そちらから見えますか? 煎餅を一口で食べてるのは、ルーミアちゃん。リグルちゃんに、お煎餅を凍らせて投げてるのは、妖精のチルノちゃん。さっき私にうらめしや〜って脅かしてきたのは、多々良小傘ちゃん。ね? 合ってますよね」
「ああ」
魔理沙は素っ気なく、相槌をうった。
「昨日は咲夜さんとレミリアさんが来て、紅魔館の招待状をくれたんです。その前は萃香さんと、飲み比べをしてみました。河童のにとりさんが、面白い道具を貸してくれましたし、命蓮寺の星さんが、一度ご挨拶に来て……」
「毎日そんなに相手にしてて、疲れなかったのか」
「はい。ちょっと疲れちゃうこともあったけど、早苗さんが助けてくれたおかげで、何とかやってます」
「あいつが?」
「一度に会うよりも、順番の方がいいし、変な事を考えている人がいたら追い返しますから、って」
「まさに、早苗本人が、追い返すべき人物だと思うがな……」
しかし守矢の暴走風祝が、魔理沙がいない間、霊夢の面倒を見ていたというのは事実らしい。
もちろん表の様子を見る限り、善意だけで動いているわけは無いだろうが、それでもずっと放っておいた魔理沙よりも、マシに聞こえた。
巫女の方も、早苗の事を信頼しているらしく、無邪気な笑みを浮かべている。
「でも、明日からはお相手ができなくなっちゃうんです。お祭りの準備があるから……」
「祭り……そうか、祭りがあったんだな。すっかり忘れてたぜ」
「覚えることも多いけど、博麗の巫女として、頑張ります。魔理沙さんも見に来てくださいね」
「楽しそうだな」
「はい。とっても幸せです」
むん、と拳を握って、気合いを入れてから、えへへ、と巫女は照れ笑いしていた。
どちらかというと彼女を嫌っていた魔理沙も、思わず苦笑を返してしまった。
いきなり押し付けられた役目にも、懸命に取り組み、ひたむきに努力し、苦手だった妖怪達と向き合おうとしている。
話せば話すほど、彼女は本物の霊夢と、正反対な存在だと思った。
そうなると、いよいよ好奇心が刺激される。本当に、この魂は、一体何者なのだろうか。最初からこの少女が博麗の巫女だったなら、魔理沙の運命もきっと違うものになっていただろうに。
しかし、彼女は本物ではない。いくら本物になろうとしても、真の魂は他にある。残酷なことかもしれないが、それが現実だったから。
「……そんなに頑張る必要はないぜ」
「え?」
「理由はだな……」
魔理沙がなるべく傷つけぬよう、言葉を選んでいると……
(魔理沙、もういいわ。帰りましょ)
頭に流れた声に、ぽかんとなった。
「……は? 何言ってんだお前」
「何も言ってませんが……」
「いや、違うお前じゃなくて」
狼狽しているうちに、魔理沙の帽子がひとりでに頭に乗っかった。
さらに中の陰陽玉が、髪の毛を引っ張りながら、
(帰ろうって言ったのよ。聞こえなかったの?)
「ど、どういうことだ! まだ話は全部終わってないぜ!」
「魔理沙、どうしたの?」
「あのな霊夢。お前は実は……痛てててて!!」
(余計なことは言わない)
「どうやって引っ張ってるんだお前は! 抜けたらどうする!」
後ろ向きにぴょんぴょん跳ねながら、魔理沙は神社の母屋を出て、巫女と妖怪達の呆気に取られた視線に見送られ、博麗神社から去っていった。
☯
(魔理沙、魔理沙)
「……………………」
(悪かったわよ。謝るから機嫌直しなさいって)
「知らん。もう口を利いてやらん」
(利いてるじゃないの。意外に根に持つタイプだったっけ、あんた)
「私は気に食わないんだ。髪の毛を引っ張られたことだけじゃないぜ」
二人は博麗神社を出て、魔法の森の家に一旦引き返すことになったのだが、肝心の家主がご機嫌斜めなため、まだ家に帰らずに、空中を飛んでいた。
魔理沙は憮然とした顔のまま、唸るように言う。
「せっかくあいつの正体を確かめようって時に、いきなり邪魔するんだからな。何が何だかわかんないぜ。お前あいつから、体を取り返すんじゃなかったのか」
(もうちょっと待ってもいいでしょ)
「ちょっと、っていつまでだよ。その間どうするつもりだ」
(んーと、そうだ。あんたの所に泊めて)
「何だと!?」
魔理沙は箒に急ブレーキをかけて、乱暴に帽子を取り払い、まん丸の陰陽玉を睨みつけた。
しかし中の魂は、あっけらかんとした口調で、言ってくる。
(三食お茶つきでお願いね。あ、できることはちゃんとやるわよ私も)
「……おいおい、何の冗談だ霊夢さんよ。今朝にあんな散らかった家一日いただけで息が詰まりそうになるなんて言ってたのは、どこの誰でしたっけ?」
(そうねぇ。じゃあ片付けしてあげるわ。朝から動いてみて、意外とこの陰陽玉でも、慣れれば快適に過ごせることがわかったし)
「そういう問題じゃないだろ!」
(じゃあ何よ。あれ、あんたって彼氏いたっけ)
「違う!!」
顔を真っ赤にして、魔理沙は怒鳴った。
「だから、お前がすぐに元の体に戻ればすむことだろうが!」
その発言は明快で、単純で、なおかつ正論のはずであった。
けれども霊夢は答えずに、くるりと半分回っただけだった。
魔理沙はふと気になって尋ねてみる。
「まさか、あいつが人気者になってることに、へそ曲げてんのか? あれはほんの一時で、みんな面白がってるだけだぜ」
(違うわよ。そんなんじゃないわ。妖怪にちやほやされても、面倒なだけだし)
「だったらなんで戻ろうとしなかったんだ」
(……あんたこそ、どうしてそこまでムキになるの? そんなに迷惑?)
「そうじゃないけど……」
魔理沙は口ごもった。
博麗の巫女は外見だけじゃなく、中身も霊夢でなくてはいけない。
それはごく当たり前のことで、ちゃんと守らなきゃいけないルールだと思っていた。
なのに、事態に苛立っているのは魔理沙だけで、世界はあの博麗の巫女を受け容れ、当の霊夢ですら、焦った様子もなく、もうちょっと待ってもいいなどと言い出している。
昨日まで霊夢が別人のようだったのが、今では幻想郷が別世界になってしまったようだった。
ひどい寂寥感が、背中から忍び寄ってくる。
(魔理沙?)
「……なぁ霊夢。お前って本当に霊夢だよな」
(そんな風に聞かれたのは初めてだけどね)
でも、そんな風に答えてくれるのは、魔理沙にとって本物の霊夢の証なのだ。
「……今ではあいつが、本物の霊夢みたいに振る舞ってるんだぜ。悔しいと思わないのか」
(それで丸く収まるなら、別にいいんじゃないかしら。お茶だって飲めるし)
こんな風に答えてくれるのも、魔理沙にとって本物の霊夢の証である。
ムカついた。
「よーし! そんなに言うんなら、うちに泊めてやるぜ! ただし! ちゃんと家事は手伝ってもらうからな! タダ飯は食わさん!」
「最初からそう言えばいいのに、本当に面倒なんだから」
「へん、そのうち泣き言いって、お前が神社に帰りたくなる方に賭けるぜ」
「あらそう。じゃあ今夜のあんたの料理は、茸料理である方に賭けるわ」
陰陽玉の奥で、霊夢が笑っている気がした。
魔理沙も微笑しつつ、心の中では、別のことを考えている。
霊夢に元の体に、すぐに戻ってもらうということ。それまで一体、陰陽玉との生活の中で、どんな毎日が待っているのか。
異変はまだ終わってはいない。
けど、今ではなんだか自分も、この状況を楽しめそうな予感がしていた。
☯<後編に続くわよ!
博麗ドラゴンミスト(蛸擬、PNS、如月日向)
- 作品情報
- 作品集:
- 最新
- 投稿日時:
- 2010/06/21 02:07:44
- 更新日時:
- 2010/08/11 22:58:20
- 評価:
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- POINT:
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元の霊夢とこの霊夢が両方居てもいいなと思いますがそうはいかないんだろうなあ。
後編に行って来ます。
それなのにはらはらした
すごい
でもそれも違っていて、本当は霊夢の魂と陰陽玉の中身が入れ替わっていた、という展開は意外性があって良かったです。
霊夢と陰陽玉が入れ替わる過程も、精神と精神のとっくみあいが行われていたとか、
玉に閉じこめられた後は蝋で固められたように動けなくなったとか細かく描写されていて、
入れ替わりが好きな私としてはすごく興奮する内容でした。
魔理沙が本当の事をいったら悪霊の如く豹変するんじゃないかとヒヤヒヤしたがそんなことはなかったねw
後編いってくる