明日は明日の風が吹く

作品集: 最新 投稿日時: 2010/06/14 02:32:44 更新日時: 2010/07/31 22:48:26 評価: 19/44 POINT: 2230 Rate: 10.02
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 船体の細かな揺れが小さな船橋を満たしている、船橋に居るのは私とナズーリンのただ二人だけ、星は船内の破損箇所の点検、雲山と一輪は甲板で見張りに立っている。
 私は窓の外に目を向けた、小さな硝子の窓から見える空は黒い、その魔界の黒い空の中に時折赤い光やら稲光やらが閃いた。
 私はそんな光景を見つめる内にまるで血が滲むような不安を覚えるのだった。
 弾ける様な烈しい音が私の頭から抽象的な不安を追い払ってとても具体的な不安を連れてきた。
 また雷を喰らったのだ、雷鳴は魔界に入ってから引っ切り無しに聞いているが流石に直撃を受けた回数はそう多くない。
 この船は木製である、火が出てはならぬと、私は大声でナズーリンに呼び掛けた。

「何処に喰らったか調べる! 舵をお願い!」
「了解だ! 船長殿!」

 そういってナズーリンは舵に取り付いた、私は転がる様にして船橋を出た。
 胸の悪くなるような魔界の大気、要は瘴気を吸い込み、聞き慣れた筈の雷鳴に嫌というほど耳を打たれて私の足は竦んだ。
 足を絡ませながらヨロヨロと走っているうちにこんな事を考えてしまった。
 法界にも瘴気はあるのだろうか?法界にも雷は鳴っているのだろうか?
 聖は強大な力を持つと言っても人間である、人間の体は瘴気を吸い込んでも平気な様に出来てはいないし、この赤黒い空も絶え間なく鳴る雷鳴も精神に良い影響をもたらす訳は無い。
 先ほど覚えた抽象的な不安が具体的な物となった、具体的になるにつれて明らかになった不安の正体、私は聖の安否を疑った。
 この徐々に姿形をハッキリとさせていく不安は目の前の心配事、例えば先ほど船に落ちた雷の事を覆い隠してしまった。

「ムラサ! 何ボケっとしてるの!」

 一輪の声が私に落雷の危険性を思い出させてくれた。

「さっき甲板に雷が落ちたでしょう? 被害を教えて」
 
 私は不安を悟られぬようにわざとらしく大声を張り上げた。

「甲板に一発落ちて火が出たけど私と雲山で消した、問題無い」

 私は、そう、とだけ答えると来た時と同じぎこちない足取りで船室に戻った。
 今すべきは聖の安否を疑う事ではない。
 
「舵を変わって頂戴」

 私はそう言って舵に戻った、舵を操りながら呟くように言った。

「歯痒いね」
「法界に行けるのは一人だけだ、勝負に負けた以上、仕方が無い」
「あの人間は信用できるの?」

 ナズーリンは壁に背を持たせ掛けたまま視線をこちらに向けた。

「解らない」
 
 ナズーリンの尻尾は相変わらず緊張のために一本の棒のようだ。

 「だが奴がかなりの使い手だというのは間違いない」

 ナズーリンは視線を窓の外に移して言った。

「それに魔界を好き好んで飛び回る酔狂は役に立つ筈だ」

 ナズーリンの目に閃光が映る、窓の外では相変わらず雷が鳴いていた。
 私達はそれからというもの専ら黙りこくっていた。
 暫くして甲板から雷鳴に交って悲鳴が聞こえた、私は再び舵をナズーリンに託すと錨をしっかりと握って駆け出した。
 悲鳴に聞こえたのは歓声だった、聖が帰って来たのだ、聖を連れてきた人間は気を使っているのか、甲板の端っこに縮こまっていた。
 一輪が聖を抱き締める傍では雲山が感涙にむせび泣いていた。
 聖は私の姿を認めるとニコリと笑った。
 私は錨を取り落とした、溢れてくる涙は拭ったそばから溢れて来た。

「ただいま、ムラサ」

 聖は静かに歩み寄ってくるとそう言った。

「おかえりなさい聖、奥で星が待っています」

 涙でふやけた声でそう言うと聖は私を軽く抱擁して答えた。

「解りました」

 船室の中で舵を操っていたナズーリンは一瞬表情の作り方を忘れたかのようなボケた表情をした後。

「おかえりなさい」
 
 と一言だけ言った。
 船室を抜けて廊下を通り星の元にたどり着いた、そそっかしい毘沙門天の化身は煤だらけの顔をくしゃくしゃにして流れる涙を拭う事もせず「おかえりなさい」という言葉を何度も呟いていた。
 私はそんな星が可笑しくてクスリと笑った、笑う私の顔も涙でくしゃくしゃだった。

「なんで笑うんですか?」

 星がこちらを向いて怒ったように言った。
 
「あんまり星が泣くもんだから」

 聖がクスリと笑って言った。

「ムラサ、貴女もですよ」

 恐らくはその通りなのだろう、私はとても幸せな気分だった。  

「さあ、星、こんな所は早く出て私達の世界に帰りましょう」

 私が言うと星は途切れ途切れに文字の端をしゃくりあげながら「そうですね」と言って船室に向かって歩き出した。
 船室について私が舵を取ると星は急に厳かな顔になって呪文を唱え始めた。
 目の前の黒い空に一本青い線が入るやいなや日の光が硝子を躍り超えて差し込んできた。
 青い空の中に幾筋か人里の炊煙が上がっている、こちらはもう飯の時間か、そう思うと急に腹が減って来た。
 今日は聖にとびきり美味しいものを御馳走して差し上げるのだ。
 そう考えると何だかウキウキした、私は幸せだった。



A

 聖が帰ってきてから丁度一週間になる、命蓮寺では幻想郷の人妖を招いて宴会が催されていた。
 宴会を開くというのは霧雨魔理沙の提案である、理由は二つ、命蓮寺が円滑に幻想郷の他の勢力に馴染むためである、それは魔理沙にとっては建前に過ぎなかったが命蓮寺の面々にとってはどのようにして幻想郷に馴染むかというのは重要な問題だった。
 こういう経緯で今、命蓮寺では宴会が催されている、しかし、命蓮寺の面々の緊張をよそに集まった人妖の視線は振舞われるタダ酒に注がれていた。
 悪戯好きで鳴るぬえも今日は大人しくしている。
 村紗水蜜も最初は半ばかしこまってお酌なんかして回っていたのだが、ここに集まった面々に命蓮寺が十分に歓迎されている事とそれ以上にタダ酒が歓迎されている事に気づくと馬鹿馬鹿しくなったのか水割りなんかをチビリチビリと嘗め始めた。
 それはそれで本人にとっては平穏で幸せな時間に違いなかったのだがこの手の平穏は決まって打ち砕かれるものである、殊に幻想郷では。
 平穏を打ち破った少女の頭にはニョキリと生えた角二本、昔も今も変わりはしない鬼の出で立ちである。
 それが矢庭にコップをひったくり中身を飲み干して曰く。

「薄い酒飲んでるねえ!」

 萃香は勢いよくコップを卓に叩きつけそう言った。
 村紗は萃香を知っている、かつて地底で不遇をかこっていた頃、当時地底の実力者だった萃香は村紗達にとても良くしてくれたのだった。
 萃香はある日突然地底を出て行った、その後、村紗には萃香の安否さえも解らなかったのだった。
 突然の再開に唖然とする村紗をよそに萃香は空のコップにに自前の酒であろうか、ヒョウタンの中身を注いでいた。

「再会を祝うにはこいつが一番だ、さあ」
 
 村紗は差し出された盃を受け取って中身を呷ると喉の焼ける様な感覚に顔をしかめた、酒が喉を通ると頭がグラリと揺れるのを感じた。
 対して萃香は事も無げに杯を干す、すでにしたたか酔ってはいるものの潰れる気配はまるで無い。

「ところで何時から来てたんです?」

 そう聞かれると萃香はカラカラと笑ってこう言う。

「私はいつでもどこでも居るよ」

 そんな謎めいた事を言って萃香はまた笑った。

「まあでも良かったよ、心配したんだよ、私がいなくなった後苦労してないかとかさ」

 不意にしみじみとした声音で萃香は言った。
 萃香は酒で満たされた盃をクイと傾け言う。

「聖とやらにもこうして会えたみたいだしね」

 そう言って萃香は聖の方を見やった、聖は三人の魔法使いに囲まれて談笑していた。

「優しそうな人だね」
「ええ、とても」
「坊主って言うからもっと強面かと思ってた、丁度あんな感じかな」

 萃香は雲山を指差した、村紗が笑うと萃香は少し顔を赤らめて「坊主にはちょっとした偏見があったんだよねえ」なんて言って頭をかいていた。
 そんな取りとめのない話をしながら杯を傾けていると村紗は次第に頭が重くなってゆくのを感じた、呼吸する度に揮発したアルコールが鼻腔をついた。
 酔いが村紗をゆっくりと前のめらせていく、そのまま村紗の頭は畳に軟着陸した。
 村紗はうつ伏せになって心地よい藺草の香りと頭の重みを感じていた。
 村紗は体を起こそうと試みたがそれは叶わずただゴロリと寝返りを打つに止まった。
 広間に満ちた馬鹿騒ぎが村紗からゆっくりと遠ざかって行く。
 聖たちの声が喧騒の中を縫って村紗のもとにやって来た。

「魔界、行ってみたいわね」

 そう言ったのはアリスだった、その隣でパチュリーは好奇心に満ちた瞳で聖を見つめている。

「頼む! 魔界にもう一度連れて行ってくれないか?」
 
 魔理沙が手を合わせて頼んだ。

「私もお願いするわ」

 アリスが小さく頭を下げるとパチュリーも小さな声で「私もお願い」と言った。
 一瞬の沈黙ののちに聖の首が縦に揺れた、頷いたというよりは俯いたという表現がしっくりくるように思われた。
 勢いに押しきられた聖が承諾すると同時に一座は色めきたった。
 魔界への好奇心に沸き立つ三人をよそに聖の表情は笑みを浮かべてこそいたが苦々しかった。 
 何かの重みに耐えかねたように目を瞑り俯いた聖の表情は村紗に不安を与えた。
 
「すっかり潰れちゃったみたいだね」

 萃香が村紗を抱き起こして言った、意識を引き戻された村紗は抗議の声を上げたが声は言葉にならずにポトリと畳に落ちた、無論畳に落ちた声は酔っ払いのうわ言として処理された。
 村紗は半ば引きずられる様にして酒気と寝息の満ちる別室へと連れてこられた。
 酩酊時特有の倦怠感の中で村紗はさっきの聖の表情について考えていた、何故私は不安を感じたのだろう?
 聖は本当は魔界に行きたくないのではないか?村紗の頭にそんな考えが浮かんだ、その次の瞬間には村紗の体は布団の上に投げ出されていた。
 夜気に冷えた布団がヒンヤリと村紗の首筋を冷やした。
 眠りに落ちてゆく村紗の頭の中で聖の悲しげな表情がチラチラと浮かんでは消える、その日、村紗は夢を見た。



B

 私はいつもの様に食卓を囲んで慎ましやかな食事を楽しんでいた。
 聖、星、一輪、雲山、ナズーリン、それに私がいる、この中に血のつながりがある者は一人もいなかったが私は皆と過ごす日々に何物にも代えがたい穏やかさを感じていた。
 聖は私たち妖怪の中に人格が存在する事を認め、私たちが人間と共に生きる道を探してくれている殆ど唯一の人物と言って差し支えなかった。
 私は聖のお陰で人間らしい生活を手に入れる事が出来たのだった。
 例えば皆で囲む暖かな食卓、それに雨風を凌ぐことのできるねぐらである。
 こんな事を言っては聖はきっと怒るだろうが私は仏教にそこまでの関心は無かった、だが聖に対する愛情や忠義は誰にも負けぬ自信があった。
 聖には敵が多い、ことに最近は逃げ込んできた妖怪たちを匿ったりしているものだから尚更である。
 食事の途中にナズーリンの元に一匹のネズミが走って来た、ナズーリンはネズミを掌に乗せるとネズミの声に耳を傾けだした、次第にナズーリンの顔から血の気が失せていくのは傍目にも明らかだった。
 ネズミが一しきりしゃべり終えるとナズーリンは怯えた瞳で一同を見つめて説明を始めた。
 
「最近この辺にやって来た修験者や僧侶たちがここの近隣の村に集まっています、それだけじゃない、村の男たちは皆尽く武器を取りこの辺の妖怪を一掃するつもりでいます、恐らくはここにも向かってくるでしょう」

 聖は静かに頷くと私に聞いた。

「ムラサ、船を動かすにはどの位時間がかかるの?」
「荷の積み込みを除けばどこか壊れていない限り直ぐに動かせます」
「ナズーリン、貴女は山の河童にこの事を伝えてここに船を用意していると伝えてください、ムラサは船の準備と河童がやってきたら彼らを船室に案内してください、他の皆は私と荷物の積み込みを手伝ってください」

 この建物は大体半分は地下に埋まっていて平時は地下室として使われているが船として飛ぶときはそれがそのまま船室になる、船出には出力さえあれば時間はかからない。
 私がすべき事は船に破損箇所が無いか調べ機関を温めておくことだ。
 私は階段を掛け下り計器類や舵等に異常がないかを調べた。 
 一通り調べ終えると私は船内で機関の調節を始めた。
 上ではドタドタを慌しい音が聞こえる、大変なことになったがなんとかなる、そう考えていた。
 丁度機関が温まり始めたころ河童の一団がやって来た、彼らの内機械に特に詳しいものは操船の手伝いを申し出てきたが私はそれをやんわりと断って河童たちを船室に案内した。
 河童たちが船室に収まって一段落つくと私はいつもの顔を船上に探した、一輪、雲山、ナズーリンは居る、しかし聖と星が見当たらない。
 嫌な胸騒ぎがした、私は駆け出した、縋りつくナズーリンを突き飛ばすようにして振り払うと私は船を出た。
 夏の夜の真下だった、虫たちが命を燃やす音、微かな泥の匂い、それらが星影の下で肩をぶつけあっていた。
 聖が私に気づいて足を止めた、長い髪の毛から覗く首筋が夜の中で異様に白かった。
 その傍らに侍る星がゆっくりと振り向く、肩の羽衣が湿った風を孕んで揺れた、振り返る拍子に槍の穂先で光が爆ぜた、ひどく凄惨な輝きだった。
 走って来たせいですっかり息が上がっていた、息を整えて私は言った。 

「船の用意ができています、早くお乗りください」
「私は残ります」

 ゆっくりと振り向いた聖は答えた、その声音に

「私はここで人々の説得に当たります」
「奴らは私たちの話を聞いたりする気はありません、さあ早くお乗りください」
「いずれにしても彼らは私を逃す訳にはいかないのです、私は貴女たちと一緒には行けません」

 私は殆ど錯乱して星に向かって叫んだ。

「ねえ! 星も何か言ってよ!」
 
 星は黙っていた、代わりに聖は厳かな声で告げた。

「万が一私が説得に失敗した時、その時は星に毘沙門天の化身としての勤めを果たしてもらわねばなりません」

 星はゆっくりと首を動かして私を見た、普段のそそっかしい星ではなかった、その瞳には暗い光が宿っている、視線は夜の帳を突き破り全てを見透かしているようにさえ思えた。

「私の操船技術をお疑いですか、聖、きっと追い縋る人間たちを置き去ってご覧にいれます、だからどうか」

 私は殆ど懇願していた。
 不意に鋭い怒声が響き渡った。

「ムラサ!」

 聖の声音には有無を言わせぬ威が備わっていた、一瞬、私は呼吸する事さえも忘れた。

「解りました、それでは御武運をお祈りします」

 萎れた声で呟くと聖は優しく私を抱き竦めた。

「怒鳴ったりしてごめんね、私も貴女たちが無事逃げ切れるように祈ってるわ」

 この人と次に会えるのいつになるだろう、そう思うと涙が出た。
 涙が目を溢れて頬を濡らした、私は聖を顔を目に焼き付けようと体を離して聖の顔を見つめた。
 そうして見つめた聖の顔を私はよく覚えていない、きっと優しい顔をしていたのだろう。
 涙を拭いて駆け出した夜空の下、虫が喧しい位に鳴いていた。



C

「聖!?」

 叫びながら跳ね起きる村紗。やや乱れた呼吸を整え、汗ばむ額を腕で拭う。

「……ゆめ? そうだよね、今のはただの夢。だって聖はもう、帰ってきたんだから」

 落ち着きを取り戻し、辺りを見回す。座敷には酔い潰れた他の面々が転がり、死屍累々としていた。

「でへへ、神奈子様〜、諏訪子様〜。常識に囚われてはむにゃむにゃ」

 早苗はどんな夢を見ているのだろうか。
 宴会はとっくに終わり、彼女が寝言で呼んだ件の神様はどちらも自分たちの神社に帰っている。
 他にも、酔い潰れてしまった若干名を残し、ほとんどの者が引き上げていた。

 村紗が体を起こして外に出てみると、辺りはまだ闇に包まれていた。先の騒ぎが嘘のように、しんと静寂が張り詰める命蓮寺の廊下に、彼女だけが立っている。
 状況を見れば、村紗がつい今しがた見たのはただの夢で間違いない。しかし彼女の心はそれをどうしても「悪い夢だった」というだけでは済ませられなかった。
 何故なら、あの夢はかつての「現実」だったのだから。

(どうしてまたあんな嫌な事を思い出しちゃうかなぁ)

 夜風に当たり、頭が冴えてきた彼女は考えていた。

(やっぱりあれが気になってるのかな)

 宴会の途中で見た白蓮の表情は、夢や見間違いなどではない。

(あの表情の意味は? その理由は?)

 半刻程考えてようやく辿り着いた答えは“魔界”の存在であった。それが一番納得出来るのだ。

(聖はずっとあそこに封印されてたんだよね。……寂しく、なかったかな)

 村紗たちは閉じ込められてからも、地底の妖怪たちと交流を持ち、賑やかに過ごせた。
 しかし白蓮は千年以上もの間、孤独の中にいたのだ。ただの人間だった彼女が、たった一人で自己を保っていた。

(聖は変わらず、昔のままだった。いや、むしろ以前よりも器を広げたような気さえする。それはまさしく超人で……でも、感情はある)

 ようやく解放された身であそこへ足を踏み入れれば、やはり恐怖にも似た感情などが湧いてくるのではなかろうか。
 あくまで予想に過ぎない。しかし村紗にはもはやそうとしか思えなかった。

「魔界は、聖に法界の孤独を思い出させる」

 白蓮から聞いた法界の光景を想像する。星たちと聖輦船で乗り込んだ、あの魔界のさらに奥にある世界を。
 どこを向いても地平線。赤い空が広がり、他の生物の存在を一切感じさせないそこは、本当に寂しい場所だったという。
 解放された直後に白蓮が纏っていた法界の空気。その名残だけでも、村紗の心はまるで暗い海の底に沈んでいくかのような奇妙な虚しさを感じた。
 そんな場所で白蓮は千年以上も過ごしていたのだ。いつ終わるとも知れぬ、まさに地獄のような苦しみではないか。

(こんなことに気付かなかったなんて)

 自分の無神経さ、不甲斐無さを呪う。そして彼女は決意した。

「もう聖を魔界へは行かせない」



 村紗は僅かに浮遊し、体を透明にして機関室へ忍び込む。
 寺に機関室というのはおかしな話かもしれないが、これも命蓮寺ならではだ。

(本当に、他に手は無いのかな)

 彼女は迷っていた。何故ならそれを実行することは、誰あろう白蓮を裏切ることになるのだから。

(それでも、聖がこれ以上苦しまなくて済むのなら!)

 やはりこれしか無いと、決断する――“聖輦船を壊す”ことを。

 命蓮寺には飛倉が備わっており、それに宿る命蓮の力を使えば、魔界へ移動することも出来る。
 しかしこれだけではただ縦に浮くことしか出来ないので、自在に操れるように設けられたのがこの機関だ。
 法力を貯え、エンジンとバッテリーを兼ねた役割を果たしている。

 ちなみにぬえが散らせた飛倉の破片とは、地底に封じられる時や、間欠泉とともに地上へ飛び出す際の衝撃で削れてしまった船の一部である。
 飛倉本体には流石に手は出せない。あれは白蓮にとって誰よりも大切な弟君の、また何よりも大切な形見である。それを壊せば、どれだけ彼女を悲しませることになるか。

 しかし機関部を壊せば、船としての機能を失うことになる。それはつまり“聖輦船を壊す”ことに等しい。
 村紗にとっても、聖輦船は何より大切なものだ。かつて白蓮から授かった、まさに命よりも大切な宝である。
 それを他でもない、村紗自身が壊すのだ。全ては自分の恩人がために。

(聖から授かった聖輦船。聖のために壊すなら本望よ!)

 頭上に出現させた錨をギュッと握り締めて、一気に振り下ろす。が、

「ぐぁづッ」

 錨が機関に当たる前に強力な結界が発動し、ガキンという鈍い音をたてて攻撃を弾いてしまった。

「イタタタ……やっぱり一撃ってわけにはいかないか。流石は船の心臓部、厳重な守りね」

 腕を振って反動による痺れを払いつつも、彼女が慌てる様子は無い。
 命蓮寺は、千年以上前に白蓮によって張られた法力の膜で覆われている。それがこの機関部では特に集中しているのだ。
 長く地底にあっても朽ちることなく、舵がいかれることもなかったのもそのおかげである。
 これを破るのは極めて困難だろう。それを承知の上で彼女はここへ来たのだ。
 身体に影響を及ぼす魔法を得意とする白蓮は、結界という分野にはあまり明るくない。
 自分にも破ることは可能だ――村紗はそう、己に信じ込ませている。

「よし、こっからは根比べよ!」

 再び腕に力を込めると、一際大きな錨を出現させて、思い切り振り下ろした。



数十分が経ち、機関室には、荒く乱れた息づかいだけが響いている。

「はぁ……はぁ……」

 滝のように流れる汗を拭いもせず、村紗は倒れそうになる体を錨でなんとか支えていた。
 あれから幾度となく試み、文字通り全身全霊をぶつけたが、それでも結界を破るには至らなかった。結局、機関部には未だ傷一つ無い。
 今、村紗の体は亡霊らしく半透明になっている。これは彼女の意思ではなく、疲労のあまり実体を保てなくなってきているのだ。
 こんな状態ではもはや自慢の錨をまともに担ぐことさえ出来ない。

「何で、どうして私はこんなに無力なのよ」

 悔し涙を流し、ついにその場に伏せる。
 そもそも亡霊の村紗と法力では相性が悪いのだが、そんなことは今の彼女には関係ない。ただただ、思いを形に出来ない自分が憎らしかった。

「あんなに意気込んでおいて、私の決意なんて所詮この程度なのね」

 自嘲気味に呟く。
 葛藤も何もかもが無駄だった。最初から自分に出来ることなんて何も無かった。
 そう思いつつも、いつまでもその場から動こうとしない。まだ諦め切れないのだ。

「ん〜、ここらが限界か」
「!? 誰ッ」

 突如聞こえた声にハッと顔を上げる。咄嗟に体を起こして身構える村紗は、その時になって初めて、自分の背後にある気配を認識した。
 慌てて振り向き、その者の正体を確認する。
 そこにいたのは、小柄な体に逞しい二本角を携えた鬼であった。

「す、萃香さん!?」
「おや、本当に気付いてなかったのか。ま、それだけ集中してたんだね」

 誰、と予想していたわけではないが、それにしても意外過ぎる人物の登場に、驚きを隠せない。

「どうして……いつからここに?」
「何言ってんの、ずっといたよ。それにさっきも言ったでしょ? 『私はいつでもどこでも居るよ』ってね」
「えっ……亡霊の私よりおばけみたいな方ですね」
「あんたは鬼より正直だな」
「し、失礼しました」

 あまりにあっけらかんとした萃香の雰囲気に、村紗はぽろりと本音をこぼしてしまった。
 慌てて謝罪するも、わざとらしくむくれる萃香に失笑してしまいそうになる。
 つい今しがたまで漂わせていた悲愴感が、いつの間にやら払拭されていることに、果たして彼女は気付いているだろうか。

「と、ところで、いったい何の御用ですか?」
「さぁねぇ。厠を探してたらうっかり迷い込んじゃったかな?」
「厠の場所なら……」
「あーあー、それはもういいからさ。それより今の質問、あんたにそっくりそのまま返すよ。自分たちの住んでる大事な寺に、そんな物騒なもん何度も叩きつけて、どういうつもりさ」

 自分の方ははぐらかしつつも、村紗には何故このようなことをするのか尋ねる。
 鬼は嘘をつくことはないが、かと言って正直でもないのかもしれない。

 村紗は一瞬だけ焦りを浮かべ、しかし現場を見られてしまった以上、もはやどう言い繕っても無駄であろうと、表情に影を落としたながらも素直に話すことにした。

「聖は魔界への運航に関して何も言いませんが、宴会で魔理沙さんたちにその話題を振られた時、僅かに表情を歪めました。あの顔は、人間たちに封印される時のそれと同じでした! 本当は辛い筈なのに、それを押し込めて無理してるんです!」
「ふーん。で、あんたはどうしたいんだい?」
「魔界へ行くなと言っても、おそらく『私は大丈夫だから』と気丈に振舞うことでしょう。聖はそういうお方です。だから魔界への移動手段そのものを断つつもりでした」
「あんた、そんなことしたら自分が皆に恨まれるのはわかってるだろう。それ程の覚悟をしてまでやることかい?」
「はい。聖の為なら」

 どこまでもまっすぐな瞳で、はっきりと言ってのけた。

(なるほどねぇ。地底で騒いでたのは格好だけじゃなかったか)

 その堂々とした態度に、萃香は内心で感嘆する。

「しかし聖やその弟様の力が宿ったこの寺は、やはり私なんかが手を出せる代物ではなかったようです」

 己の無力さに改めて打ちひしがれる村紗。そこに意外な言葉がかけられる。

「私が壊してやろうか」
「へ?」

(今、この人は何て言った?)

 聞き間違いだろう。ボーッとしているからだ。そう思い、確認する。

「あの〜、もう一度仰って頂いても?」
「だぁから、私があんたの代わりにこいつを壊してやろうか、って言ってんの」

 親指で機関部をクイッと指しながら、黒い笑みを浮かべてる萃香。
 どうやら聞き間違いではなかったらしい。

 萃香がまだ地底にいた頃、村紗たちが白蓮を心から慕っていることは知っていた。千年以上もの間、ずっと個人を慕い続ける変わり者とは、なかなかに有名なものだったのだ。
 萃香もその義理堅さには感心しており、そして今、村紗の気持ちがどれ程真剣なものかも伝わった。
 だからこそ、彼女も手を貸してやろうという気になったのだ。

「危ないから離れてな」

 言われた通り退避する村紗。そして十分に離れたのを確認すると、萃香は拳を固めて力を溜め始めた。

(ムラサ、自分だけで抱え込もうとするんじゃないよ。あんたが白蓮を慕うように、白蓮もまたあんたを慕っている筈だ。これはそんな白蓮の気持ちを裏切る行為だって、気付いてるかい?)

 萃香も何もただ村紗の代行をしようというわけではない。それなりに考えがあった。

(せめて白蓮との仲を改めるきっかけぐらいは、作ってやるかね)

 そう思いつつも、それを直接口に出して伝えることはしない。そこまで面倒を見るつもりは無いし、村紗に自分でわかってもらいたいのだ。
 気合を入れ、一息に突きを放つ。と、その腕はいとも容易く結界を貫いた。村紗が何百回と挑んでも敵わなかったというのに。
 雷でも落ちたかのような轟音が鳴り響き、機関は見事に砕かれた。どころか、その衝撃は機関室そのものにヒビを走らせ、壁や天井を所々崩れさせた。

「す、凄い」

 初めて目にする、力にものを言わせた鬼の豪腕に、村紗は驚きを隠せない。
 あまりに豪快なその光景に圧倒されて立ち尽くすが、ボケっとしている暇は無い。

「あ、そ、そうだ。今の音を聞きつけてすぐに誰かが来る筈です。早く逃げて下さい!」
「……」

 ハッとして萃香に促すが、当の本人はその場にジッと腕を組んで仁王立ちしている。
 慌てる村紗とは実に対照的である。

「何してるんですか!? 本当に早くしないと、こんなところで見つかったら……」
「急ぐも何も、逃げるつもり無いし」
「えっ」

 思わず絶句する村紗だが、萃香は事も無げにどっしりと構えている。

「んー、とりあえず捕まったら拷問とかされちゃうかなぁ」
「いや、流石にそんなことはしないと思いますけど……と、とにかく大変なことになるのは確かですよ! なのに、どうしてそんな落ち着いてられるんですか」
「どうしてって言われてもねぇ。私はあんたやあんたの仲間にとって大事なもんを壊したんだから、それぐらいは覚悟してるよ。それにね――」

「あんただって覚悟、してたんでしょ?」

 ニッと笑顔を向けられて、村紗は僅かに息を詰まらせるが、それでも納得は出来ない。

「それは当然です。悪いのは私なんですから。でも萃香さんはただ私の代わりにやってくれただけで、その責任まであなたが背負うことじゃありません」
「そうかな? まず代行を持ち掛けたのは私から。引き受けたのも私の意思。実行したのも私。それで本当に責任は無いと言い切れる?」

 ここまで言われてしまっては、もはや村紗には否定出来なかった。
 もう反論してこないのを確認すると、萃香は小さく頷いた。

(悪いね、ムラサ。あんたを試させてもらうよ)

 そんな彼女の内心を知る者はいない。
 そうこうしているうちに、二人分の足音が近づいて来るのを感じた。

「さっきの音はここからでしょうか」
「そうだね。鍵も外されているし、どうやらただの事故ってわけじゃなさそうだ。もしかしたらまだ中に誰かがいるかもしれない」

 部屋の前から星とナズーリンの声が聞こえる。これでもう逃げることは出来ない。

「中にいるのは誰ですか!? 大人しく出てきなさい。抵抗すれば、こちらも相応の対処をしますよ!」

 警告だ。村紗は慌てて萃香を見遣るが、何の反応も無い。
 そして、返事が無いことをどう取ったのか、勢いよく扉が開けられた。

「あれ、なんだムラサじゃないですか」
「それに鬼まで。いったいこんなところで何をしているんだい?」

 警戒しながら中に入ってきた二人は村紗の姿を認めて脱力したが、その奥の光景に気づくと身を硬くした。
 次の瞬間、萃香の体は星の発した光の帯に巻かれる。村紗はそれをただ呆然と見ていた。



D

「鬼のくせに往生際の悪いやつだ」

 朝日に照らされる中、星の術によって上半身を拘束される萃香へ、険しい表情の一輪が吐き捨てるように言う。
 胡座をかく萃香の隣には、束縛こそ受けていないものの、それ以上に萎縮して身を固く正座する村紗の姿があった。
 始めは一早く賊に気付いて駆けつけていたと思われたのだが、状況の説明を求めても何も答えない村紗を不審に思い、一応共犯の可能性も含めて萃香とともに尋問を受けている。
 機関室ではすぐさま星が事情聴取にかかったのだが、萃香と村紗はどちらも無言を貫い。そのため、轟音を聞いて様子を見に行ったままなかなか戻らない星とナズーリンを気にして次々に他の者たちもやって来てしまった。
 そして粉々になった機関を見ると、一様に驚愕。村紗が口を挟む間もなく事態は勝手に進み、結局全員の前で尋問されるという状況になってしまった。
 あまりに不可解な事件に、命蓮寺の面々だけでなく、宴会の後も残っていた者たちまで困惑している。
 特に山の妖怪たちは驚きのあまり目を剥いた。萃香が宴会に参加しているということで、勝手に帰ることも出来ずにほとんどの者が残っていたのだ。
 そんな彼女らだからこそ、かつての四天王の一人が縛られている姿など、すぐには信じられなかった。

「萃香さん、何故このようなことを?」
「……」

 白蓮が問うても、無言で返す萃香。このやりとりも既に何度目だろうか。
 誰に問い詰められても、萃香が口を割ることは無かった。理由も目的もわからないままだ。

「船長もどうして何も言わないのよ!? 萃香さんに脅されて案内させられたとかなら、そう言いなさいよ。庇う必要なんてないんだからね!」
「……」

 一輪が村紗へふるが、こちらもまた無言。いい加減彼女もイライラしていた。
 そんなこうちゃく状態が続き、夜が明け始めた頃、業を煮やした一輪がついに行動に出る。

「あー、もう限界よ。萃香さんには地底でお世話になったこともあるから、素直に白状してもらえばすぐに解放するつもりだったけど、これじゃ埒が明かないわ。口で言ってわからないなら、体に叩き込んであげる。鬼にはこっちの方がわかりやすいみたいだしね」
「!? 待って、一輪ッ」

 一輪が雲山を操り、巨大な拳を振り下ろす。制する白蓮の声も間に合わない。村紗は息を呑むが、一輪の気迫に圧されて動けなかった。
 固められた質量は、萃香の頭上に落とされる。並の妖怪ならこの一撃で潰されてしまうだろう。
 だが、それも直撃の寸前で霧散した。黙ったまま微動だにしなかったが、間違いなく萃香の能力だ。
 一輪は嘆息する。

「星の法力に拘束された状態で雲山を弾くなんて……流石は鬼の中でも屈指の実力、というところかしら」

 彼女も本気で通用するとは思っていなかったが、せめてもう少し何か反応を期待していた。

(肝が据わり過ぎなのよ)

 そう思う彼女自身も、知人の鬼に攻撃出来るだけ相当肝が据わっている。

(とにかく怒りは示せたかしら。それにしても……)

 今のは萃香がいつでも自由に動ける身であることを証明した。
 と同時に、「何故彼女はおとなしく捕まっているのか」という疑問を一同に抱かせた。
 この拘束はあくまで見かけだけで、実際に萃香を抑える効果などほとんどない。

「何故あなたは理由を話さず、抵抗もせず、逃げようともしないのですか? 目的がわかりません。あなたはいったい何がしたいのです?」

 白蓮がつとめて冷静に問いかける。おそらくこの質問も無駄だろう、と思いながら。

「私は――」

 しかし予想に反して萃香は反応を見せた。
 ようやく発せられた言葉。萃香の返答は、

「私は、鬼だよ。鬼は気の赴くまま、やりたいようにやるだけさ」

 それだけ言い、口を横に広げて愉快そうに笑った。
 いよいよどうしたものかと皆が途方に暮れた時、小さな声が上がった。

「ごめんなさい」

 今までジッと黙っていた村紗が、ついに口を開いたのだ。

「萃香さんが機関を壊したのも、元はと言えば私が望んだことなんです」

 そしてとうとう自白した。

「何を言ってるのよ、船長」
「どういうことですか」

 一輪と星が問う。白蓮、ナズーリン、雲山は難しい顔をし、他の面々はぽかんとしていた。

「話しちゃって良かったのかい?」

 萃香が尋ねる。

「あなたが責められるなんて、やっぱりおかしいですよ。壊すことを決めたのは私なんですから、このまま黙ってるのは卑怯です」
「……なるほどね」

(合格だ。あとのことは気にせず、今は目の前のことに集中するといいさ)

 萃香は彼女らのことを案じているのだ。そのためにわざわざ機関を壊した。自分が汚名を被ることも厭わずに。

(本音でぶつかりな。絆にすれ違いが生じたなら、一旦当たって砕けてから、また萃まれば良いんだよ。そうすれば前よりもっと固い信頼が築けるさ)

 村紗は白蓮を信じきれなかった。白蓮は村紗たちを頼れなかった。今回の件は、「そんなことではいけない」という萃香のお節介だった。

「星、もうその方に拘束は必要ありません。術を解いて下さい」
「わかりました」

 星が萃香に向けて指を一文字に切ると、光の縄は蒸発するように消えた。

「いやいや、結構きつかったよ。あんた強いね。どう、今度私と勝負しない?」
「弾幕ごっこでしたら、いつでも」

 萃香の方は動機が判明したため、場の空気は幾分緩和された。
 山の妖怪たちもホッとした直後、しかし盛大な怒号が響き渡る。

「ムラサぁ! あんた、姐さんへの恩を忘れたかッ」

 一輪は激昂して村紗に詰め寄った。そのまま胸倉を掴み、殴ろうと手を振りかぶる。

「お待ちなさい」
「!? 姐さん」
「落ち着いて、一輪」

 しかし白蓮がすぐさま対応し、寸でのところでその腕を掴んだ。

「まだムラサの話を聞いていません。怒るのはその後でも遅くはないわよ」

 敬愛する白蓮にそう諭されては、一輪もそれ以上暴れるわけにはいかなかった。おとなしく振り上げた腕をおろす。

「確かに姐さんの言う通りです。ムラサ……いや、水蜜。姐さんのご厚意に感謝し、素直にことの成り行きと謝罪を述べなさい」

 一輪の声には有無を言わせない凄みがあった。これ程までに怒りをあらわにする一輪は、長い付き合いの村紗でもそうそう見た事などない。

「一時の気の迷いで、あんたは取り返しのつかないことをしたのよ? みんなの誇りであり、家でもある寺を傷付けた。信頼を踏みにじった。姐さんと私たち、そして……盟友の絆を無下にしたのよ!」
「気の迷いなんかじゃない!」
「だったらどうして!?」
「それは……」

 聖のため――などと言える筈が無い。もしそんなことを言えば、またそのせいで余計な苦しみを与えてしまう。優しい白蓮は己を責めてしまうだろう。
 そもそも、冷静になって考えてみれば、白蓮が本当に魔界へ行きたくないのかどうかも定かではないのだ。

(やっぱり気の迷い、だったのかな)

 だんだんと不安に蝕まれていく村紗を、萃香はただジッと見つめていた。

(どうした、そんな簡単に揺らいでしまうような決意だったのか。やれやれ、私の見る眼も落ちたかな)

 内心ではそう考えながらも、表情には決して出さない。まだ村紗を信じているのだ。

「わ、私は……わた、しは……」

 言うべきか言わざるべきか。迷いをあらわにし、村紗は体を震わせる。その姿は哀れですらある。

「大丈夫よ、ムラサ。あなたにも事情があったのよね。でもどうしても言いたくないなら、無理することはないわ」
「姐さんは甘過ぎますッ」
「そうかしら。そもそも聖輦船は彼女の存在そのものに関わる、大切なものよ。彼女が船を動かすための機関を壊すなんて、よほどのことでしょう」
「彼女が理由も無しにあんなことをするような愚か者でないことはわかっています。だからこそ事情を知りたいんです!」

 一輪はあくまでも厳しい態度を貫こうとするが、白蓮はどこまでも村紗を心配していた。
 そんな二人のやり取りを見て、村紗も決心する。

「……わかりました。お話しします」

 村紗が語ることを決めたのは、白蓮がかばってくれたからでも、一輪の言葉に応えたかったからでもない。彼女らの表情が、あまりに悲しそうだったからだ。
 自分のせいでこれ以上仲間たちを揉めさせるわけにはいかない。

(情けないなぁ)

 己の不甲斐無さに落ち込み、白蓮への申し訳ない気持ちに苛まれつつも、口だけははっきりと動かした。



 村紗が事情を説明し終わると、興奮していた一輪も含め、辺りはしんと静まりかえっていた。

「そう、だったの」

 自分のために魔界へ行けないよう船まで壊したと聞いて、白蓮はやはり難しい顔をする。

「ごめんなさい。ごめんなさい聖」

 しきりに謝る村紗。もはや彼女を責める者はいない。
 事の成り行きを静観していた萃香は満足気に頷くと、白蓮に話しかけた。

「なぁ白蓮。ムラサが正直に話したんだ、あんたも腹を割っちゃくれないかな」
「しかし私は――」
「それともあんたはそんなに自分の仲間が信じられない?」
「……どういう意味ですか」
「余計なお節介かもしれないけど、こいつらのあんたへの信頼は地底でも有名な程だったんだ。だからどうしても気になっちゃってね」

 白蓮は額に汗を浮かべながら萃香と対峙する。その真剣な瞳が灯すのは怒りか、はたまた焦りか。

「あんたは仲間たちに自分を信じてくれなんて言っちゃあいるが、あんた自身はその仲間たちを信じてるのかい?」
「もちろんです」
「本当に? なら何故自分の気持ちを打ち明けない。自分の弱みを背負わせるに値しない? そんなにこいつらは頼りないか」
「そんな、ことは……」
「曖昧に濁して逃げるな!」

 萃香の一括に白蓮はもちろん、他の者まで面食らう。

「私は地底とここでムラサの覚悟をこの目で確認した。だから自信を持って言える。あんたは自分が思ってる以上に慕われてるんだよ。そしてこいつらはあんたを支えられるだけの強さもある」

 厳しい表情から一転、柔らかい笑みを浮かべる。

「ちょっとやそっと弱音を吐いたところで、この寺は揺るがないさ」

 萃香の言葉に、白蓮はハッとする。それに続くように、命蓮寺の面々も口々に思いを告げる。

「姐さん、私たちは何があっても姐さんについていきますよ。雲山も『心配するな』と言ってます」
「聖もご主人様と同じで、どこか抜けてることぐらいとっくに承知だよ」
「完璧な人なんていませんよ。もちろん妖怪もです。あなた一人で何もかも背負う必要なんてありません。あとナズーリン、後でちょっと話があります」
「あなたに不安なんて感じさせません。その為に私たちがいます」

 一輪、雲山、ナズーリン、星、そして村紗が言葉を紡いでいく。

「やれやれ、私が付いてってあげようと思ったぐらいなんだから、もっと自信持ちなよ?」

 ぬえだけは他とは少々異なった調子だが、彼女なりに白蓮のことを気遣っているようだ。

「皆……」

 ゆっくりと彼女らを見回した後、白蓮はしばらく俯いていたが、

「そうね。私だけ格好つけたままじゃあ、卑怯よね。お寺は開けても自分の心は開けていなかったみたい。私もまだまだ修行が足りないわね」

 やがて独り言のように小さく呟くと、キッと顔を上げた。その表情はとても引き締まっていた。決意を固めたのだ。

「ムラサの言う通りです。私は魔界が怖い。千年以上も孤独を植え付けられた法界は、やはり魔界の一部なの。いつ終わるかもわからない。いえ、終わらないだろう悪夢の中に閉じ込められた恐怖は決して忘れられないでしょう。解放された今でも、たまに悪夢にうなされることがあります。魔界にいると、その法界の存在をすぐ近くに感じてしまって、どうしても怖いの」

 震える体を自分の両腕で抱き締めながら語る白蓮。
 その姿は、村紗たちの知る温厚尊大な聖とはあまりにかけ離れた、か弱い小さな人間のものだった。
 村紗たちは動揺するとともに、喜びも感じていた。
 皆の弱さを受け止めるばかりだった白蓮が、初めて自分の弱さを曝け出した。それはどこか遠い存在のようだった白蓮を、今までより身近に感じさせてくれたのだ。

「よくぞ話してくれました、聖」
「やっと前に進めたようだね。安心したよ」
「あ、姐さんは独りではありません!」
「もっと早く助けに行けなくてごめんなさい。これからはその分、皆で一緒に暮らしていきましょう!」
「なんだ、聖にも恐いものあったんだ。じゃあどうせ恐れるなら、そんな孤独なんかより正体不明にしときなよ」

 ワッと白蓮を取り囲む村紗たち。口々に慰めの言葉と、自分たちの想いを伝えた。雲山も男泣きである。

「ありがとう、皆。なんだか、あなたたちがいてくれたら、法界のことも克服出来そうな気がするわ」

 白蓮は皆の輪の中で、憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔を浮かべる。
 萃香と早苗はその光景を実に穏やかな心境で眺めていた。

「やぁやぁ、これにて一件落着かな?」
「良かったですねぇ。私ももっと神奈子様や諏訪子様と隠し事の無い関係になりたいです。なんて、おこがましい考えですね。反省反省」
「そんなことはないよ。あんたんとこの神様だって同じように願ってるかもよ?」
「そうでしょうか。そうだと嬉しいですねぇ。ところで水を差すようで悪いんですが、壊れた機関室は結局どうするんですか?」
『……あ』

 早苗の声が聞こえたのか白蓮たちまで固まった。どうやら全員すっかりその事を忘れていたようだ。

「ご、ごめんなさいッ。私は取り返しのつかないことを……」

 急に青ざめる村紗だったが、

「大丈夫だよ。幻想郷には腕の良い技術屋集団がいるからさ」

 共犯の筈なのに全く物怖じしない萃香は、ニッと笑って言う。

「山の河童は有能だよ」
「ひゅい!?」

 そして突然話題を振られて驚いたのは河童のにとりだ。

「ちょちょ、ちょっと待って下さいよぉ! いくら私たちが機械弄りが性分だからって、そんな千年以上も前のからくりを直せる保証なんてありませんって。それに壊れる前の状態を見てなかったら、流石にどんな構造かもわかりません。分解・再構築が理解を深めるんです!」
「まぁそう言わずにさ、頼むよ」
「うっ、うぅ」

 上司にここまでされて、にとりに選択肢などな無かった。

「断れないのわかってて言ってます?」
「にゃはは! 悪いね、私の尻拭いさせちゃって」
「……まぁ、やるだけやってみますかね」

 渋々ながらも承諾し、にとりと一行は再び機関室へと向かう。



 始めこそ嫌がっていたものの、実際に機関を目の当たりにすると目の色を変え、緩慢だった動作も次第にきびきびとしたものとなっていった。

「流石、生粋のエンジニアですね」
「河童ってやつは何だかんだでこれが生き甲斐なのよね」

 早苗が感心する傍ら、文はさも当然といった様子。

「あれ? これは……」

 と、不意ににとりの手が止まった。

「どうかしましたか?」
「確かに私の分野みたいだね。多分直せるよ、これ」
「ほ、本当ですか!?」
「うん。だってこれ、河童の作ったものだ」
『え!?』

 にとりの発言に、その場にいた面々は驚きの声を上げた。萃香や命蓮寺の者を除いて。

「しかも――」
「『しかも機関だけじゃなく、この寺自体が河童の手によって建てられたもの』だろ?」
「はい、そうなんですよ」

 にとりの言葉に被せて訳知り顔の萃香が言う。

「そうか。あなたがあの“聖”だったのか」

 にとりが得心したという感じに声を上げる。
 事情を知らない早苗は素直に疑問を投げかける。

「あの、っていったいどういうことですか?」
「河童の間に伝わる“聖様”のお話ってのがあるんだ。私も昔、おばあちゃんからよく聞かされたもんだよ」

 目を瞑り、思い出に耽るように言う。萃香も同様の仕草を取り、語り始めた。

「実は私も知ってたんだよ。このお寺や船を造ったのが河童だってこと。私は別にからくりなんかにゃ詳しくないけど、自分の仲間だったやつらが造ったものかどうかぐらいは判るさ」
「じゃあ萃香さんは初めから直せるって知ってたから壊したんですね」
「んー、気づいたのはここに来てすぐだったけど、直せなくても多分壊してたかな」
「えぇ!?」
「私はあくまでムラサたちの溝が埋まるきっかけになれば、って思っただけさ」

 からからと笑う萃香に、雲山は苦笑を浮かべ、一輪はガクッと肩を落とした。
 そんなことは気にせず、萃香は話を続ける。

「昔、空飛ぶ船に乗った妖怪の集団が幻想郷にやって来た。その中には河童もいてね、そいつらは自分たちの住処として、水が綺麗な山を求めてたんだ」

 聖が封印されてしまい、寺にいた大勢の妖怪は聖輦船で人間の手から逃れていたのだが、それも限界を感じたために幻想郷へ避難したのだ。

「人間に追われてしまい、もう行く宛が無い。どうか山に受け入れて欲しいって、結構な大所帯でやって来てねぇ」

 懐かしむようにしみじみと目を細め、顔を上に向ける。一拍の間を置き、また話しだす。

「そいつらから聞いたことがある。ここに来る前、とある寺でお世話になってたってね。『そして自分たちのために、大切な盟友が人間の手に堕ちることになってしまった。彼女らの行為を無駄にしないためにも、私たちは何としてもここで生きて、生きて、生き抜かなければならない』だとさ」

 当時はまだ大結界も無かったので、紫は人間に目をつけられた妖怪たちを受け入れることに抵抗を見せた。しかし少数の者たちが船に残り、囮になって人間たちを幻想郷から遠ざけると約束したおかげで、彼らの幻想入りは認められたのだ。
 その代償として、囮となり、あえて目立つように行動した村紗たちはすぐに捕まり、船ごと地底に埋められてしまったのである。

「白蓮さんたちにそんな過去があったんですか! これは興味深いです。是非ともその話、お聞かせ願えますか!?」
「落ち着いて下さいよ文さん。ていうか空気読みましょう」

 スクープに飛び付いてしまうのは鴉天狗の性か。そんな文の肩を押さえて椛はため息を吐いた。

「構いませんよ。にとりさんとも今確認しました。騒ぎを起こしてしまった責任もありますし、事態を整理するためにも皆さんにお話ししましょう」

 にとりに目で合図すると、白蓮は皆に向けて語り始めた。命蓮寺と河童の過去を。



E

 生い茂る青葉、それらを掻い潜るように爽やかな風が抜けていく。
 季節は初夏、貴族やらが使う暦で言うなら皐月ということになる。
 山の頂上から噴き下ろす風が、幾人かの声を運ぶ。この山にある寺に住む、尼僧たちの会話である。
 聞き馴染んだ声、聞き飽きた会話。彼女たちは再三に渡り一つの議題に拘泥していた。

「だから、新たに大きく立派な本殿を建てるべきだと思うの」

 否、拘泥しているのは、今まさにこの言葉を発した尼僧一人のみであるかもしれない。
 雲居一輪。この寺にて修行を積む尼僧である。
 半ば強引に付き合わされている尼僧は「はあ……」などと曖昧な相槌で、最低限の会話の体裁を繕っている。

「毘沙門天様がいらっしゃってから寄進が絶えないのは嬉しいけど、このままでは倉が埋まって収める場所が無くなるわ。もっと大きな――そう、宝物庫みたいなものがあるといいわねえ」

 一輪は数多の名刹に負けず劣らずの伽藍を思い浮かべて言うが、

「しかし、聖が帰って来ないことには……」

 幾度も聞いたお決まりの文句にバツを悪くする。

「そう、その聖だけどね――」

 あらぬ方向から声をかけられた二人は、戸惑いながら辺りを見渡す。そして木の枝に腰かけ、二人を見下ろしている声の主を見つけた。

「もうしばらくで帰ってくるだろうとの報告があるよ。私の小ネズミからね」

 木陰の下、わずかに木漏れ日を浴びながら悠々と語る影が一つ。
 毘沙門天と共に寺にやってきた妖怪ネズミ、ナズーリンである。

「それなら、やんごとなき方の祈祷は成功したのかしら」

 一輪はナズーリンの方を見上げる。少し首が痛くなって癪だった。いつもは見下ろす側なのに。
 聖――この寺の主、聖白蓮はさる貴族からの依頼で、祈祷をしに山を下りて都まで出向いていたのだった。大方、貴族かその係累が病に伏したりしたのだろう。

「そうらしいね。どうやら大仰な荷物持ちも従えているようだし、お礼の品物
と見て間違いないだろう」
「お礼の品物ね……」

 まさしくその問題で頭を悩ませていただけに、素直に喜べる状況ではない。果たしてそれが倉に収まりきるかどうか。ナズーリンもその点には気付いているようだ。

「まあ、心配は無用だろう」
「どうしてそんなことが言えるのよ?」
「聖のことだ、私たちが懸念していることに全く気付かないような、そんな器は持ち合わせてはいまい」
「そうね――ってどうしてあんたが自信満々で姐さんのこと語ってるのよ!」

 一輪は聖のことを誰よりも信頼しているつもりだった。それを、それをこんなわけのわからないネズミに――
 ナズーリンは一輪の言葉も意に介さない様子で、何も返すことなく木の枝から降りた。

「それでは失礼させてもらうよ。私も私で、すべきことがあるのでね」

 そう言い残して妖怪ネズミは、毘沙門天のいる本堂の方へと去っていった。
 ふと、先ほどまで会話していた尼僧が消えていることに気付く。一輪とナズーリンの会話の間に自分は不要と判断したのだろう。
 一輪が一人になったのを見計らって相棒の雲入道、雲山が一輪の下にふわり寄ってきた。

「まったく、何なのかしらね、あのネズミは。姐さんのことを評価はしてるみたいだけど、心から信仰してるわけではない……」

 ナズーリンは元々聖に魅かれてこの寺に来たわけではない、毘沙門天のお付きとして来ただけだ、雲山は言うが一輪もそのことは承知していた。答えが出ないままに、一輪と雲山は本来の役目である倉の番へと戻っていった。

 そして程なくして、聖白蓮が寺に戻ってきた。



「これでも随分と減らしてもらったのだけど……」

 白蓮は、大の男でも持ち運びに苦労する俵を片手でひょいと持ち上げる。これなら先方に運ばせずとも、白蓮が自ら車を引いたほうがよほど早く帰って来れただろう。
 しかし、恩人に荷物を運ばせるなどという無礼を相手がするわけもなく、結果帰ってくるまでに日が開いてしまったという次第であった。

「それでも、倉に入れるには、ギリギリですね……」

 倉に仕舞う、というよりは詰める、という表現が正しいかもしれない。
 聖は俵を丁寧に積み上げて、倉の中に一つの山を作った。

「それを心配していたのだけど、やはり新しく寺を建てる必要があるようね」
「ですね、姐さんが戻り次第そのことについて話し合おうと考えていました」
「一輪、あなたは河童を知っていますか?」
「へ? あ、ええ。頭に皿があって、甲羅を背負っていて、あと緑色のなんだったかな……」
「キュウリ」
「そう、キュウリを好んで食べるという妖怪ですね」

 白蓮は人間と妖怪が友好な関係を築くことを信条としている。妖怪退治を頼まれたときなども、退治をしているように見せて、陰では妖怪たちを助けていた。
 そんなこともあり、弟子である一輪は白蓮から妖怪の話を度々聞かされていた。河童の情報についても白蓮から教えられたものである。

「どうやらこの山の渓谷に河童の根城があるらしいのです。河童といえば技術に長けた妖怪、寺を建てるのに大いに力となってくれることでしょう」
「しかし姐さん、河童は余所者と馴染もうとしない、気の難しい妖怪だって言ってたじゃないですか。どうやって河童に依頼するって言うんです?」
「この倉の中から手土産になるものを見繕って、河童たちに差し上げることにしましょう。依頼をするとなれば手ぶらで挨拶に行くわけにもいかないですし、私たちとしても、倉に空きができればそれに越したことはない」
「それはいい考えですね。河童の元へはいつ頃向かうので?」
「行くと決めたならば、すぐにでも行動に移すのが良いでしょう。直に日が暮れます。そうなれば――」
「妖怪の時間、というわけですね……」

 ええ、と白蓮は頷いた。
 そうして日が沈むまでの間、一輪を始め弟子たちは倉の中から、河童たちが喜びそうなものを見繕って荷車へと積んだ。
 少しずつ長くなりゆく日中の時間、名残惜しげに沈む夕日を見届けてから、白蓮とその弟子たちは寺を発った。

 道中、白蓮に同行した弟子は幾名、荷物を運ぶ最低限の人数である。
 未だ知られていない河童の住処が人間に割れないようにするために、移動を目撃されないようにと極力目立たないよう行動していた。

「姐さんは河童の住処がどこにあるかご存じで?」

 弟子の中でも、白蓮のことを姐さんと呼ぶのはただ一人、雲居一輪だけである。

「いいえ、渓谷に住処があると聞いているだけです。まずはその渓谷に向かいます。そこまで行けば、住処を見つけることができるでしょう」

 活動の拠点であろう河原まで行けば、後は臭いなど痕跡を辿れば探すのは困難ではないだろう。
 一輪は白蓮の言葉を信じて荷車を押す。途中荒れた道や急斜面の山肌を渡る際は白蓮がその荷車を持ち上げて進んだ。
 弟子たちの息が荒れてきた頃、ようやく件の渓谷へ辿り着いた。しばしの休憩と白蓮は手ごろな岩に腰かけ、弟子は清流から水を掬い喉を潤した
 白蓮が立ち上がり、河原を歩き出すのを見て、弟子たちは慌ててついていく。
 不意に白蓮は立ち止まり、

「荷車に乗って、しがみついていなさい。ここからは私が運びます」

 何事かと思った弟子たちだったが、すぐに意味を理解し、その通りにした。白蓮は荷物と弟子を積んだ荷車を持ち上げ、川に足を踏み入れた。対岸へ渡るためである。
 川の中程まで来ると水面は白蓮の首まで達し、白蓮は微かに顎を上げて進んでいった。途中一輪が何度も心配そうに声をかけたが、まだ余力の幾分も出していないと余裕の笑みを見せる。
 しかし、それも束の間、白蓮は歩みを止めた。

「どうやら、向こうの方から私たちに会いに来てくれたようですね……」

 一輪はその言葉の意味がわからなかったが、すぐにその意味を知ることになる。
 ざぱんという音と共に乱れる水面、水中から飛び出した影、その影からは何か長い物が伸びている。
 竹槍か、一輪は月明かりでかろうじて見えたおぼろ気な形からそう判断した。
 そして水面に浮かぶ影は一つではなかった。二つ、三つ、四つと増えていき、白蓮たちを取り囲んで行く手を阻んでいる。

「あなたたちはこの渓谷に住んでいる河童ですね?」

 返事が無いのを気にせず白蓮は続ける。

「私たちはあなたたちの敵ではありません。私の名は聖白蓮、この山で修業をしている僧侶です。今日はあなたたち河童に御挨拶をしに参りました。見ての通り、手土産を持って」

 影は聖が掲げている荷車に視線を移した、ように一輪には見えた。その手土産には自分たちは入ってませんよ、と自分が人身御供でないことを主張しようかと思ったが場違いであるので取り止めた。
 影――やはり河童であろう、一輪はそう確信する――河童たちは互いに顔を見合わせているようだった。どう対処すべきか、なかなか判断を下せないのを見ると下っ端の河童なのかもしれない。
 互いに動きあぐねていると、新たに河童がやって来て竹槍を構える河童に耳打ちをした。その河童が竹槍の構えを解くと、他の河童も同様にした。

「話は向こう岸に渡ってから聞こう」

 そう言ったきり、河童は一言も話さなくなった。それでも白蓮たちを囲み監視することは止めなかった。
 川を渡り荷物と弟子を降ろした白蓮の元を、河童が取り囲む。その中から体は一回り小さいものの、一際威厳を放つ河童――長老格のそれが現れた。

「これはこれは僧侶様。わざわざあなた様のほうから出向かれるとは大儀なことでございますな。道中、さぞ危険であったことでございましょう」

 危険であったか、先ほどまで凶器を向けていた相手に聞くようなことではない。丁寧な口調であったが、その刺々しい態度には友好的な交流は期待できそうにない。

(それもそうだ……)

 一輪は白蓮の顔を眺める。白蓮は妖怪退治を得意とする僧侶として名が知られている。その僧侶が河童たちに「挨拶に来た」と言っているのだ。この河童の長老にしても、内心動揺していることだろう。
 白蓮はその誤解を解くために、自分が妖怪退治をしていると見せて実は妖怪を助けていること、妖怪と人間の友好的な関係を目指していることを語った。

 河童たちは話を聞き終え、微かに安堵の表情を見せた。しかし、まだ警戒の姿勢は解いていない。

「なるほど。それで、我々を訪れた本当の目的は如何なものでしょう?」

 鋭い、一輪は長老の洞察力に瞠目する。

「寺を、今あるものよりもさらに大きな寺を造って頂きたいのです」
「無理ですな」

 即答だった。長老は続ける。

「我々はまだ人間を信用してはいないのです。妖怪と人間の友好関係、大いに結構。しかしそれは我々には関係ないこと。どうかこの場は――」
「そんな堅苦しいこと言わなくたっていいじゃねえか」

 話の途中で割り込まれ、ちっと舌打ちをする。
 一回り大きな影が長老の元へと近づいた。
 体付きと口調こそ男のものであったが、声の響きから女であることがわかった。

「お前は黙っておれ」
「いいや、そうもいかねえ。大工組のまとめはおれだ、造るか造らねえかはおれが決める。そいつらの寺だって同じだ」
「黙れ、お前はただ――」
「おい、そこの僧侶。あんた、おれと相撲を取れ。おれに勝ったらオテラでもオケラでも造ってやらあ」

 大工の河童は白蓮を指差す。

「お前はただ、暴れたいだけだろうが……」

 長老の言葉も、その暴れん坊の耳には入っていないようであった。



 篝火の焚かれた河原、立ち上る煙が月の輪郭を朧にする。
 用意された土俵は地面に円を描いただけの粗末なものだった。河原であるので石ころがそこら中に転がっているが、件の河童は全く意に介していないようだった。

「何やら面白そうなことになっているね」
「ネズミ! どうしてここに……」
「私にはナズーリンという、れっきとした名前があるんだがね。まあそれはいいとして、私も河童がどんなものかが気になってね、こうして見物に来たというわけだよ」
「ふうん……」

 きっとこの狡猾なネズミのことだ、聖たちが川で河童に囲まれたときも安全な場所からこっそり眺めていたことだろう。
 一輪は相槌もそこそこに、土俵の中へと歩いていく白蓮を見やる。

「それにしても上手い具合に事が運んだわね。まさか向こうから力勝負を挑んでくるなんて」
「まあね、肉体強化は聖が得意とする魔法だしね」
「力比べで姐さんが負けるはずないわ。あんな河童なんか一捻りよ」

 河童の棟梁は、白蓮が勝てば寺の建築を引き受けると言った。
 一輪は白蓮が勝ち、新しい寺を建ててもらえるものと思っている。

「それはどうかな……」
「どういうこと?」

 そんなことを話している間に、二人は土俵の中で対峙していた。
 そして、勝負が始まった。
 鈍く響く音、互いに突進した体がぶつかり合う。
 二人は衝撃で体が跳ね返るが、つま先と腹筋に力を入れ仰け反ることなく二度目の突進に移る。
 一度目よりも少ない助走、互いの体がぶつかるが、音はそう響かなかった。
 そのまま体を密着させて組み合う。
 見物する河童たちから俄かに唸り声が混じった歓声が聞こえる。
 おそらく大抵の者は一度目、あるいはダメ押しの二度目の突進で勝負が決するのだろう。しかし白蓮はそれと同等の突進でもって応戦し、互角に渡り合っている。
 ただ者ではない――河童たちは白蓮が相当の手練であることを、この二撃で感じ取っていた。

「互角? 違うわね。姐さんは相手に合わせて戦っているだけよ」

 組み合う二人は動かず、膠着状態となっている。互角の力で押し合っているのでなく、呼吸を読み合い、機を逃さぬよう間合いを計っているのである。
 先に動いたのは河童であった。白蓮の法衣を掴んでいた左手を手繰り寄せるように手前に引いた。がくり、と白蓮の上体が下がり体勢を崩される。河童はその勢いのまま横に薙ぐように腰を捻り腕を振り払う。白蓮の体は大きく揺さぶられる、そして倒されようとしたそのとき、

 ピシッ、ビリ――

 白蓮の法衣に、河童の左手のところから裂け目が生まれ、そこから破れていく。

「……!」

 破けた法衣に力を分散され、河童の払いは思うようにその技が発揮されなかった。破けた法衣を握る左手、片腕だけであるものの宙ぶらりんの状態になる。

「姐さん、今の内に!」

 白蓮は一輪に言われずとも好機を嗅ぎ取り、体勢が緩んだ河童を押しにかかっていた。

「甘い!」

 河童は左手で白蓮の頬を張った。それだけではない、掌底は白蓮の顎を正確に捉え、その頭蓋を大きく揺らした。河童は即座に右手を法衣の襟元に持ち直し、その剛腕を振り下ろした。
 白蓮は顔から突っ伏すように土に倒れ込んだ。

 静寂に包まれる観衆、しかし何の拍子か、堰を切ったように大きな歓声が周りを包んだ。

「嘘、どうして……」

 呆ける一輪だったが、思い直し白蓮の元に駆け寄った。
 白蓮は伏したまま立ち上がらずにいた。

「そいつはトんでるよ。おれの張り手を受けたときにはもう勝負は決まってた」

 一輪は、ただひたすら気を失った白蓮に声をかけていた。
 ナズーリンは少し遅れて二人の元に寄った。

「よっと――」

 ナズーリンは一輪の顔に、水を思いっきりぶちまけた。

「あ、間違えた。こっちか」

 ナズーリンは、すでに半分以上減っている桶の水を白蓮の顔にかけた。

「やれやれ、小ネズミより重いものを持つのは慣れてないから手元が狂ってしまったよ」
「いきなり何すんのよ!?」
「何って、水をかけて聖を起こそうとしたんじゃないか」
「それはわかるけど、私に水をかけたことに謝罪はないわけ?」
「正直に言おう、あれはわざとだった。頭を冷やせと、そう言いたかったわけだよ」
「そうだったのね――って、それなら口で言いなさいよ!」

 ナズーリンに噛みつく一輪だったが、白蓮の微かなうめき声を聞いて、視線をそちらを戻した。

「姐さん、姐さんしっかり!」
「い、ち、りん……」

 白蓮はうつろな目で一輪を見て、そしてかっと目を見開く。

「どうやら、負けてしまったようですね」
「姐さん、どうして、どうして――」
「どうして、本気で戦わなかった」

 一輪の背後で仁王立ちしていた河童が言った。

「いいえ、私は本気で戦いました」
「あんたはここに来るとき荷物にお連れまで積んだのを軽々持ち上げてたじゃねえか。それも顔まで届く深さの川を歩いて渡りながら。あの川の流れは緩いわけじゃねえ。それがどんだけ力の要ることか、考えればすぐにわかる」

 白蓮は河童と視線を合わせ、整然と言った。

「私は全力で戦いました。あれが『人間』としての聖白蓮の全力なのです」

 一輪はそこで、ようやく気付いた。白蓮は勝負の際に魔法を一切使っていなかったのだ。

「だから、それが納得いかねえんだよ。あんたは修行で超人の域に達してるんだろ、何故その力を使わないんだ」
「それでは意味がないのです。私は人間として、あなたたち河童と本気で向き合いたい。そして、あなたたちにも人間と本気で向き合って欲しいのです」
「勝手なことばっかり言いやがって、口先だけなら誰だって何だって言えるんだよ」

 河童は土俵の中で再び構える。

「勝負は一度きりとは言ってねえ。何度でも相手してやるよ、かかってきな」

 白蓮は立ち上がり、それに応える。何かを言いかけた一輪を制し、土俵の外へ出るよう眼で語った。

「そんなこと抜かすくらいならよぉ……まずはおれを本気にさせてみろよ!」

 そうして二度目の勝負が幕を切った。



「ふっ、これでおれの百三十八勝……」

 河童は白蓮へと笑顔を見せた。

「……一敗か」

 昇る朝日を背に受けて、ただ一人立っていたのは聖白蓮であった。
 河童の棟梁は倒されたその場で胡坐をかき、立ち上がらずにいた。
 顔が手の平が甲が足が脛が、露出した肌は傷だらけで赤く染まっている。
 倒した白蓮の方がはるかに傷を負っていたのは目に見えて明らかだった。

「姐さん、姐さんやったわ!」
「ありがとう、一輪。あなたの応援、大変励みになりましたよ」

 白蓮は宣言通り、魔法を使わず人間としての力のみで戦い抜いた。
 何度も倒されながら、傷つきながら。
 それでも誓いを貫き通した、その末の勝利であった。

「約束通りあんたらの寺は、おれたちが責任を持って請け負うよ。手を抜いたりはしねえ。やるなら――全力でやってやるよ」

 白蓮は静かに、お願いしますと頭を下げた。

「勘違いするなよ、おれはまだ人間を信用したわけじゃねえ。ただ、あんたという人間を気に入っただけだ。お前らもそうだろ?」

 河童は観衆の方を見やって言った。歓声が上がり、それは寛容の響きでもって白蓮とその弟子たちを包み込んだ。
 白蓮はまたこの場所に来ると告げ、弟子たちと共に寺に帰って行った。



「空飛ぶ寺を造るだあ!?」

 河童の棟梁は素っ頓狂な声を上げた。

「ええ、その通りです。正しく言うならば、寺を建てるにあたり、寺を宙に浮かばせる必要があるということです」

 白蓮は淡々と続ける。

「最終的には今ある寺の付近に、新しい寺を配置する予定です。しかし、そこで作業をするわけにもいきません」
「そうか、寺にゃあ人間が来るわけだな。人間の目があっちゃあ妖怪のおれたちはいられない」
「ええ、ですから寺を他の場所で建ててもらい、それを宙に浮かべて山の上まで運ぶつもりです」
「だけど、そんなことできるのか? いや、できるから言ってるんだろうが……」
「はい、飛倉という私の弟の法力が込められた秘宝を使おうと考えています」
「トビクラ……?」

 白蓮が飛倉について掻い摘んで説明すると棟梁は納得した。

「なるほど、宙に浮かべる動力自体はそれでまかなえるわけだ」
「しかし、それだけでは宙に浮かぶのみで、空中で移動する術がありません。私の法力で移動させることもできますが、私がいなくても操縦ができるようにしていただきたいのです」
「私がいなくても、か。あんた、自分が寺からいなくなることを……」
「予期してはいません、ただし覚悟はしてあります」
「そうか……」

 棟梁は白蓮が妖怪を退治していると見せて実は救っていること、また弟子の中にそうした妖怪が混じっていることを聞いていた。それが人間たちに知れれば白蓮の信用は地に堕ち、寺にいる妖怪たちは駆逐されてしまうだろう。
 しかし、寺が宙に浮かぶものならば、仮にそうなったとしても逃げることができるだろう。そして、そのときには、自分は寺に残らないつもりなのだ。

「わかったよ、あんたの覚悟ってやつをさ! 寺のことはおれたちに任せろ。ちょっとやそっとじゃへこたれない、でかくて頑丈なやつを造ってやるからよ」
「ありがとう、ございます」

 程なくして寺の建築が始まった。作業には寺から白蓮や力自慢の妖怪がやって来て作業を手伝った。
 河童の技術力、ただでさえ迅速な作業が白蓮の法力の助力によってさらに速さを増す。時間が経つごとに深まる絆が能率と効率を上げてゆく。

 そして、寺が完成した。
 突如として現れ、空を飛び、そして山の上に降り立ったそれは皆の度肝を抜き、白蓮の名はさらに知れ渡ることとなった。
 寺の建築で今までの寄進のほとんどを使ってしまっていたが、さらに威厳の増した寺には今まで以上に人が集まり以前より多くの寄進が集まるようになった。

 それは実に足かけ四ヶ月、葉月の終わりのことであった。



F

「これは機関室どころか、建物自体もかなり傷ついているね。さすが鬼の……力だねえ」

 にとりは「馬鹿力」と言いそうになったのをすんでのところで堪えた。
 損壊は外まで達していて、微かに日の光が入っているのが見える。

「あはは、加減を間違っちゃったかもね。ま、その分働くから許してよ」
「別に私に許す権限があるというわけではないですからね」

 にとりは陽気な鬼に呆れながら言う。

「機関の方は私たちで修理しますから、萃香さんはそれ以外をお願いします」
「萃香さんだなんて余所余所しいなあ」

 萃香はにとりと強引に肩を組んだ。酒の香りをまとった呼気がにとりの鼻を突いた。

「一度盃を交わせば同胞さ。萃香でいいよ。ほら呼んでみな、す〜いか〜」
「うう、そういうわけにもいかないのです……」

 にとりは絡む萃香の追及を逃れるために話を本題に戻す。

「それで、修理の上で問題があるんですよ」
「うにゃ、何だい?」
「機関の方は私たちで材料を用意できるんですが、建物自体に使われている材料、木材ですね。その木材がちょっと特殊なものなんですよ」
「ふんふん」
「特殊な霊力の籠った木材なんですけど、ただ木に霊力を籠めればいいというわけではないんですよ。元の木自体に霊力との親和性がないと思ったように効果が発揮されないような代物でしてね、それをどう調達するかの見通しが立ってないんです」
「にゃ〜るほどね」

 肩を組んだまましばし考え込むにとりと萃香の元へ、

「呼ばれて飛び出て、現人神!」

 東風谷早苗が意気揚々と現れた。

「別に呼んではいないけど……」

 にとりが冷静に返すが早苗は気にせず続ける。

「困っている者に手を差し伸べる、それができなくて神や神の使いは務まりませんからね。聞けば木材の調達に悩んでいるとか」

 早苗は木材の損傷した個所を見たり、木を指でコンコンと叩いて、納得したように頷いた。

「ふむ、これは同じですね」
「同じって何と――そうか!」

 にとりはそこで早苗が自分たちの元を訪れた理由に気付いた。

「この寺の木材にはモミの木が使われています。モミの木は私にとっても縁のあるものです。私たちの神社と馴染みの深いオンバシラもモミの木からできています」
「ほう」

 萃香もこの現人神の言わんとすることがわかってきた。

「神奈子様が仰っていました。『命蓮寺は普通とは違う、霊力の籠った素材でもって造られている。それが壊れたとなれば、まずは木材の調達に困るはずだろう』と」

 律義に神奈子の声真似までして話しているのだが、にとりと萃香は茶化すことなく早苗の言葉を聞いていた。

「そして『私のオンバシラであればその代用、否、それ以上のものとなるだろう。私も尽力するに吝かではない、むしろ進んで力になろうではないか』と言って、まずは私に寺の様子を見てくるように言ったのです」
「ってことは、材料を、オンバシラを分けてくれると考えていいのかな?」
「にとりさんの言う通り、そのつもりで来たのです。神奈子様も『命蓮寺と鬼に借りを作っておけば、何かと良い事がありそうだ』って言ってましたし」
「それは言わなくてよかったんじゃないかな……」
「まあ、そういうことだと思ったけどね〜」

 にとりは呆れるが、萃香は余裕の表情でいた。

「しまった、これはアテレコでした!」
「吹替えしてどうするの!? それを言うならオフレコでしょ」
「と、に、か、く! 私たち守矢神社は命蓮寺の再建に尽力すると、そういうことです!」
「何にせよ力になってくれるなら頼もしいことじゃないか」

 萃香は言いながらグビグビと瓢箪に口をつけ喇叭飲みをする。
 にとりもそれに頷いた。

「そうだね、じゃあよろしく頼むよ」
「任せて下さい」

 誇らしげに胸を張る少女、にとりと萃香は笑顔で見送った。



「ほえー。うわ、まぶしい! 何これ?」

 萃香は目下作業に取りかかっているにとりの周りをうろちょろしながら、河童たちの仕事を眺めていた。
 にとりは渋々ゴーグルを外し、気ままな鬼と視線を合わせる。

「これは溶接です。熱で金属を溶かしてくっつけてるんです。それと、見学なさるのは自由ですが、河童たちの気を散らしたりはしないでくださいよ」
「この程度で気を散らすなんて修行が足りないねえ。どうだい、散らした気を萃めて来ようか?」
「はいはい、考えておきますよ。それはそうと萃香さんの方の作業はどうなってるんです?」
「オンバシラから木材を切り出すのが終わったところだよ。それはそうと、お寺の主がお呼びだよ」
「聖が、私を?」

 修復作業の進行度でも聞きに来たのだろうか、しかしにとりにはもう一つ理由に心当たりがあった。

「聖は今どこに?」

 萃香は寺の入り口で聖が待っていることを告げた。
 にとりは指揮下の河童たちにあれこれ指示を飛ばした後で、聖の元へと向かった。

「折角修理をしていただいているのに呼び出してしまってすみません」

 聖が優雅に頭を下げるのでにとりは恐縮してしまう。

「少しお尋ねしたいことがあるのです。お時間をいただけますか、河城にとりさん?」
「も、もちろん」
「あなたの名前を聞いてもしやと思ったのですが、『河城』というのは……」
「うん、そのことだろうと思ってた。この寺の建設を請け負った棟梁は、私の御先祖様だよ。私は一族の一人ってわけ」
「あなたを見たとき顔に棟梁の面影を微かに感じたのです。姓も同じでしたので、何かしら繋がりがあるかもしれないと思っていたのですが、そういうことでしたか」
「わたしにとっても憧れだからね、似てるって言われるのは嬉しいな。へへ!」

 にとりの話によると、その棟梁が元から幻想郷にいた河童と結ばれ、そこから始まったのが河城の一族ということらしい。
 余所者であったはずの彼女の姓が残る辺り、元からいた河童たちからも一目置かれる存在だったと言える。
 自慢げに御先祖を自慢するにとりだったが、途中で言葉を濁した。
 棟梁はにとりが生まれる前に亡くなっており、にとりは家族や周りの河童の話を通して棟梁のことを知っていただけであった。

「そうでしたか、もうお亡くなりに……」

 予想は、してたであろう。もし棟梁が生きていたとしたら盟友が帰って来たと聞いて真っ先に駆けつけたはずだ。

「お墓に行くなら案内するよ。河童は精鋭揃いだからね、私一人が抜けたって変わりはしないよ」
「ありがとうございます。是非お願いします」

 にとりは白蓮を従えて妖怪の山へと飛んで行った。墓に着くまで時間はさほどかからなかった。途中天狗に咎められることもなく、文か萃香辺りが口利きしたのだろうとにとりは勝手に思っていた。
 河童の集落の墓地は、特に規則があるわけでもないが天狗であっても軽々しく立ち入れないような特別な場所だった。しかし、河童にとって聖も特別な存在であった。

「河童が人間を盟友と呼ぶのはね、聖、あなたの教えがあったからなんだよ。いつかきっと人間と妖怪がわかりあえる日が来る。その言葉を信じて私たち河童は少しずつ、少しずつだけど人間に歩み寄れた。人間の方からはこちらに歩み寄ってはくれなかったから、陰から見守るくらいしかできなかったけどね……」

 聖はかつて馴染みのあった河童の墓を回った。そして最後に立ったのは、墓地の中でも一際立派な墓の前、にとりの御先祖の墓であった。
 白蓮が手を合わせているのを見て、にとりも黙祷を捧げた。
 そして改めて墓を見た。墓石の側面と後方を囲むように池が掘られている。

「この池はね、夏になったら綺麗な蓮の花が咲くんだ。この墓と池は、御先祖様が自分で造ったものなんだ」

 蓮の花に囲まれて、彩られたその墓の様子をにとりは語った。
 蓮――それは自分と弟の名前にもある、思い入れの深い花。
 にとりはその場を動こうとしない白蓮に気を遣ってその場を去った。
 この僧侶なら一人で帰れないということもあるまい。

 白蓮は棟梁がその花に込めた思いを、静かに受け取っていた。
 所詮、この墓を囲う蓮の花はささやかな慰みにしかすぎなかった。
 しかし、墓の主が最も望んでいた一輪の蓮花が今、この墓の前に咲いたのだ。
 無機質な石が優しく、それでいて快活に微笑みかけてきた気がして、

 白蓮は静かに涙を流した。



G

 時は流れるように過ぎていき、ばら撒くように配られた文々。新聞の紙面に『命蓮寺修復完了!』の見出しが踊った。
 それと同時に報じられた、命蓮寺、聖輦船の遊覧船事業の開始は幻想郷の住民の心を刺激した。
 手始めに試運転で魔法使いたちを魔界に連れて行くと聞いて、魔理沙やアリス、パチュリーは羨望の眼差しで見られたものだった.

 めでたいことがあると聞きつければどこからともなく集まり酒を飲むのが、幻想郷の面々である。
 改修された命蓮寺のお披露目にも、各自で酒や食事を持ち寄り、いつの間にか宴会の有り様になっていた。
 魔界に旅立つこととなった魔法使いを囲み、あれやこれやと騒ぎ立てている。

「まったく、出航前だってのに騒がしいわね」

 船長が呆れたように言うと、

「満更でもないって顔してるけど?」

 一輪は物知り顔で笑いかけた。後ろに控える頑固親父も心なしか柔和な表情を湛えているように見える。
 村紗ははにかみながら微笑み返した。そして一転、気を引き締めた顔つきになる。

「さあ、船に乗り込んで! まさか船に乗る前から酔ってたりはしてないでしょうね?」

 甲板に乗り込む幻想郷の魔法使いたち。最後には聖輦船の主である白蓮が乗り込んで出航の準備は整った。
 村紗は船の上から地上の早苗に合図を送る。
 早苗はこくりと頷くと、持っていた斧で、船と地上を繋いだ綱を断った。
 張り詰めていた綱は宙ぶらりんとなり、慣性に従って船体へとぶつかる。
 それと同時にカシャンと音が鳴ったのが聞こえた。
 綱に結びつけられた酒瓶が船体に当たって割れ、瓶の破片と中身の酒が、きらきらと日の光を反射させながら地上に降り注ぐ。
 守矢神社の代表として、綱を切る役割を果たした早苗はほっと胸をなで下ろした。

「進水式、のつもりだったのですが、聖輦船の場合は進空式といった具合ですかね」

 進水式では船に叩きつけた瓶が割れないと、船に不幸があると言われている。聖輦船の新しい船出は、まずは一安心というところだ。
 村紗がその様子を見届けて、船室に入ろうとしたそのとき、聞き慣れた声が呼び止めた。

「ちょっと待って頂戴よ、船長さん」
「す、萃香さん! いつからいたんですか!?」
「だから言ってるじゃない、私は『いつでも』いるって」

 萃香は持っている瓢箪を傾けてぐびりと酒を一口二口。

「今日は船が直って初めての出航、晴れの門出だからね。お祝いの品を持って来たよ」

 萃香は皮の袋を取り出すと、その中身を床に撒き落とした。
 ころころと、乾いた音を立てながら転がる木片を見てムラサは目を瞠った。

「これは飛倉の破片じゃないですか!?」
「何言ってるの、それはそっちのほうが詳しいはずでしょ。まあいいや。霊夢たちが集めきれなかった分を、私がちょっと『萃めて』みたのさ」

 呆ける村紗であったが、すぐに気を取り直して萃香に頭を下げた。

「ありがとうございます!」
「礼を言われるまでもないよ。私としてはこれでようやく埋め合わせできた気でいるんだからさ」
「埋め合わせ?」
「そう。これから私とこの寺の者は貸し借りなしの、対等な立場でお付き合いするの。宴会に呼んだり、呼ばれたりね」

 最後の一言に村紗は、ふふっ、と笑いを漏らす。

「じゃあね。しっかり操縦するんだよ、船長さん」
「自動操縦ですけどね。それでも船長としての役割はしっかり果たしますよ」

 萃香は満足げに頬笑み、村紗に背を向けると暢気にその場を去って行った。
 村紗は船室に入り、船の乗員に告げる。

「それでは、船を浮上させます!」

 操縦桿を握り、力強くそれを手前に引く。
 船がふわりと浮上し、地上からは唸るような歓声が上がった。

「取り舵いっぱい! ヨーソロー」

 宙に浮いた船が、幻想郷の住民にとって未知の方向へ船首を向けた。
 瞬く間にスピードを上げて飛んで行く聖輦船。地上の者はそれが小さくなり見えなくなるまで、ずっと眺めていた。
 萃香が持って来た飛倉の破片、その力で船はかつてと同じくらいの速度で飛ぶことができた。否、河童が修理がてら改造した機関のおかげで、以前よりも速く飛ぶようになっていた。

 自動操縦に舵を任せ、村紗は船室を出た。
 魔法使いたちと寺の者たちは甲板に座して和気あいあいと酒を飲んでいた。
 魔界へ行くことを危惧していた自分の考えが杞憂で安心する一方、船を壊そうなどという軽はずみな行動を取った自分を恥じた。
 そんなことを知ってか知らずか、村紗はその宴会の輪の中へと呼ばれていった。

「魔界は瘴気がひどいのよね、喘息大丈夫かしら……」
「あら、心配なら今すぐ帰ってもいいのよ。魔界の探索は私たちだけでも十分だもの」
「行かないとは言ってない」

 視線に電流を乗せて睨み合う紫の魔女と七色の魔女。白黒の魔女はその様子をケラケラと笑いながら眺めていた。

「お、誰かと思えばこの船の船長か。もう宴会は始まってるぜ。というか船長が持ち場を離れても大丈夫なのか?」
「自動操縦ですからね、一度方向を決めたらあとはそちらへ一直線です。もうじき魔界に着きますよ」
「そうか。ま、それは置いといて。折角の宴会なんだ、飲んでけよ」

 魔理沙は盃になみなみと酒を注いで渡そうとするが、

「いいえ、遠慮しておきます」

 村紗はそれをやんわりと断った。

「酒を断るたあ、どういうわけだ?」
「私はこの船の船長ですから。自動操縦とはいえ、飲酒運転するわけにもいかないですからね」
「まったく、大した船長だよ」

 魔理沙が声を出して笑うと、ほかの者も釣られて笑い出した。
 笑い声で包まれた船、もう舵を取ることはないだろうと諦めかけていたそんな船に村紗は今乗っている。
 速力を全開にして飛ぶ船がついに魔界へと突入した。
 荒れ狂う天候、皆は船の中に入り、村紗は船室で操縦桿を握っている。
 打ちつける雨、吹き荒ぶ風、鳴り響く雷鳴。
 しかし、その中で船長の心はいつになく晴れやかだった。

「全速前進! ヨーソロー」

 船を飲み込まんとする嵐の中、陽気に舵を取る少女が一人。



 彼女の名は村紗水蜜。
 聖なる尼を乗せる船、聖輦船の船長である。
読了ありがとうございました

それでは皆さん Bon Voyage !
チャイニーズマフィア(スパゲッチー、ずわいがに、智高)
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/06/14 02:32:44
更新日時:
2010/07/31 22:48:26
評価:
19/44
POINT:
2230
Rate:
10.02
分類
命蓮寺
萃香
河童
11. 70 名前が無い程度の能力 ■2010/07/03 21:24:08
聖が紡いだ命蓮寺の住人、そして河童たちとの旧きからの絆が、再び聖輦船を飛ばしたのでしょうね。
村紗と聖輦船、そして命蓮寺の新たな船出に乾杯! いいお話でした。
14. 80 名前が無い程度の能力 ■2010/07/06 02:39:03
聖がムラサたちを信用しきれていない、というのが新しかったです。

萃香と水蜜の絡みが意外とハマっていたので良かったです。
河童に関する解釈も面白いなぁと思いました。
15. 80 名前が無い程度の能力 ■2010/07/06 18:52:03
命蓮寺メンバーもさることながら萃香がいい味だしてました。
18. 50 あおこめ ■2010/07/10 02:50:15
仲間思いな地霊殿&萃香の良い話でした。
でも、作品オリジナルな設定が詰め込まれ過ぎていて、唐突かつ消化不良な印象を受けました。
21. 60 半妖 ■2010/07/11 01:15:20
すいかがかなり格好良くていい味出してます。
ただ一つ、@〜B当たりでどうにも句読点の付け方の気になるところが…
そこら辺が読みづらかったのが残念。
25. 50 名前が無い程度の能力 ■2010/07/19 23:39:53
誰が主人公なのか? その点が最後まではっきりしませんでした。
話が逸れている点が目立ってしまい、中々物語に入っていけませんでした。
26. 30 電気羊 ■2010/07/24 19:25:23
うーん。村紗が短絡的だなぁ……。
良い話として作られてはいるものの、それだけで、カタルシスをあまり感じることができませんでした。
少しばかし厳しい評価かもしれませんが、他の作品との兼ね合いもあるのでこれで。
29. 70 名前が無い程度の能力 ■2010/07/29 07:17:42
河童と聖輦船、聖の過去話面白かったです。
構成がちとやぼったい感じが。
30. 60 名前が無い程度の能力 ■2010/07/29 19:17:15
登場人物皆良い人。安心して楽しめる作品。
ちょっと、説得力が薄かったというか、ご都合主義が透けているような気もしますが。
31. 80 PNS ■2010/07/30 01:02:36
エピソードの見せ方にもう一つ工夫がほしいかな、と思いました。
でも命蓮寺ファミリーのあったかさは伝わりましたよー。
32. 40 即奏 ■2010/07/30 04:44:03
おもしろかったです。
34. 80 Ministery ■2010/07/30 15:41:40
屈折して、歪曲して、それでも愛は愛なのだよなあ。
エゴだとわかっていても、村紗の苦悩が、やはり愛しく感じられます。そして聖の慈愛も。
優しいお話でした。お見事。
35. 30 八重結界 ■2010/07/30 16:40:42
船を建造する女達のドラマとか見てみたかった。
36. 60 ムラサキ ■2010/07/30 19:11:03
聖の事を想い、船を壊す決心をする船長や、それを手伝う萃香。
大工と真正面からぶつかって行く聖の姿がとても面白かったです。
38. 60 如月日向 ■2010/07/30 22:03:22
村紗と萃香の組み合わせはなかなかいいですね。
これほどかっこいい萃香を見たのは初めてでしたっ。
39. 100 サバトラ ■2010/07/30 22:04:23
時間の都合上、点数だけの投稿とさせて頂きます!
大変申し訳ありません!
40. 60 黒糖梅酒 ■2010/07/30 22:22:18
眩しいお話だと思いました。面白かったです。
43. 70 つくね ■2010/07/30 23:36:27
取り急ぎ点数のみにて失礼します。感想は後日、なるべく早い時期に。
44. 100 ぱじゃま紳士 ■2010/07/30 23:52:36
 申し訳ございませんが、採点のみで失礼いたします。
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