シトラスグリーンの約束

作品集: 最新 投稿日時: 2010/06/14 02:15:29 更新日時: 2010/07/31 22:51:49 評価: 31/69 POINT: 3820 Rate: 10.99
「て、てーをいただきたい」

 顔を赤くしながら、そんなことを言ったのは上白沢慧音。香霖堂の数少ない客であった。

「てー?」

 霖之助は思わず聞き返した。そんなもの聞いたことないからだ。

「れ、れっどてーだ。あるんだろう?」
「――ああ」

 合点がいった、というように霖之助は頷いた。
 それと同時に霖之助は、何故かはわからないが、恥ずかしがりながら注文をする慧音を少しからかいたくなった。

「残念ながら、レッドティーは置いてないんだ」
「ええ!? そ、そうなのか?」
「ああ」
「う、む……。おかしいな。阿求殿が、こちらに置いてある紅茶は絶品だと言うので、来てみたのだが……」
「代わりと言ってはなんだが、ブラックティーなら置いてあるよ。いかがですか?」
「ぶ、ぶらっくてぃー?」
「そう、ブラックティー」
「に、苦いのか?」

 恐る恐る訊ねてくる慧音を見て、霖之助はとうとう我慢できなくなった。

「ぷっ、あはははは!」
「へ?」

 自分がなぜ笑われているのか理解できない慧音は、ただ口を開けて呆然とするしかなかった。

「いや、すまない。ブラックティーとは紅茶のことだ。レッドティーは間違いなのさ。あまりにも典型的な間違いだったから、少しからかいたくなってしまってね」
「な――っ」

 かー、と顔を赤くする慧音。先ほどの羞恥から来るものではなく、今度は怒りから来るものだった。

「ひ、ひどいじゃないか!」
「ああ、本当にすまなかった」

 霖之助は素直に頭を下げた。

「え? あ、うう……」

 そんな霖之助を前に、慧音は怒りをどこにぶつけていいのかわからず、ただ「ううー」と、うなることしかできなかった。

「うう、恥ずかしい思いをして頼んだのに、あんまりだ……」
「そこなんだが」
「え?」
「なぜそこまで恥ずかしがる必要があるんだい?」
「む、だ、だって……日本人が紅茶なんて、気取っている感じがしないか?」

 霖之助は思わず呆れた顔になった。

「……君は思った以上に考えが古い人間なのかもしれないね」
「そ、そうなのか?」
「そうだろう。君は教師なんだから、もっと柔軟に物事を考えなくてはいけないよ」
「むう……」

 いまいち納得しきれていない様子の慧音を見て、霖之助は優しく問いかけた。

「考えてもみてごらん。阿求が君に紅茶を勧めたのだろう? 君は阿求が気取っていると思うのかい?」
「いや! そんなことはない」
「そうだろう? つまりはそういうことなんだよ」
「あ……」

 しゅん、と俯く慧音。
 根が真面目なだけに、自分の悪いところを知って恥ずかしくなったのだろう。

(さすがにやりすぎたか……)

 そう思った霖之助は、すっ、と立ち上がった。

「少し待っていてくれ」
「え?」
「すぐもどるよ」

 そう言って、霖之助は台所へと向かった。







「おまたせ」

 戻ってきた霖之助の手にはティーポットとカップが納まっていた。

「ご馳走しよう」
「え? いや、それは売り物だろう? さすがにそれをいただくというのは……」
「お詫びだと思ってくれ」
「む、うむ……」

 こぽこぽこぽ、と慧音の前で紅茶が注がれる。

「ああ……いい香りだ。私は紅茶に明るくはないが、これはいい茶葉なのだろう」
「さあ、遠慮せずに飲んでくれ」
「ああ。いただきます」

 こくん、と慧音は喉を鳴らした。「ほぉ……」と熱い溜息が漏れる。

「おいしいな」
「だろう?」

 霖之助は得意顔になって笑った。
 そんな子どものような表情に、慧音はついつい笑い返してしまった。
 そうすると、慧音の心にも余裕ができてきた。紅茶を飲みながら辺りを見回す。

「……森近殿」
「なんだい?」
「この、ガラクタはどうにかならないのか?」

 慧音が指差したのは、香霖堂の店内に散らばる雑多な品々だった。マジックアイテムや貴重な書籍に紛れて、外の世界の使い道もわからないような道具が山積みになっている。慧音でなくても眉をひそめたくなる。

「ガラクタとは酷い言い草だね、これは商品だよ」

 しれっとしてそう答える霖之助に、慧音は呆れるより他になかった。
 しかしよく見るとそのガラクタの中には、いつぞやの烏天狗の新聞にあった水煙管がある。

「うん? 森近殿 、これは非売品ではなかったか」
「そうだよ。貴重だからね」
「では商品だけではないということか」
「ああ。そうだよ」

 霖之助はあっさりと肯定した。

「外の世界の道具には面白いものが多いからね」

 その顔があまりにも無邪気で、おもわず慧音は寺子屋の生徒を思い出した。

「……森近殿。こういうのは良くない、きちんと片付けるべきだぞ」
「まあ、そのうち」
「ダメだ。今すぐだ。崩れでもしたら大変だろう?」

 生徒に対して言うような調子で詰め寄る慧音に、霖之助は「あ、ああ……」と頷くしかなかった。
 こうして始まった香霖堂の大掃除であったが、予想以上に店内には物が多い。中々掃除は上手い具合には進まなかった。

「森近殿。どうしてこんなに物が多いのだ」
「ぼくの店にはお客さんが少なくてね、そのせいじゃないかな」

 うず高く積み上がった本の山を分類する霖之助は、慧音の方を向かずに答える。

「本当に物が多いな……む、森近殿。この古書の山ははなんだ」

 霖之助が分類していくうちに現れたのは、数百年前のものだと思われる古書だった。すべて日本語で書かれており、そのどれもが歴史や風土学を扱ったもののようだ。

「これは僕が修行時代に集めた歴史書の類だよ。もうほとんど内容を覚えてしまったから必要ないのだけれど、捨てたりするわけにもいかなくてね」
「ほう、興味深い……森近殿、少し読ませていただいてもいいだろうか」
「どうぞ。君になら安心して貸せるね」
「ありがとう」

 慧音は、にこり、とお礼と言うと、高く積みあがった本の塔に手を伸ばした。

「んっ」

 慧音が背伸びをして、指先が届くか届かないかの高さ。そんな状態で無理に積み上がった本を引き抜こうとすれば、当然、塔は崩れる。

「きゃ――」
「慧音!」

 霖之助は咄嗟に慧音を抱き寄せ、押し倒す。大量の本の山から慧音を守るには、そうするしかなかったのだ。
 どさどさ、と霖之助の頭、肩、背中に本が落ちてくる。
 紙とは言え、ぶ厚い歴史書である。鍛えていない半妖の体にあざを作り、頭から血を流すには十分な重量があった。

「う……ぐ……」
「も、森近殿!」
「……怪我はないかい?」
「わ、私は大丈夫だ。それより森近殿が……!」
「何、かすり傷さ。それよりも、僕の眼鏡を知らないかい? さっきの衝撃で落ちてしまったようだ」
「あ、それならここに……」
「ここ?」

 自分の眼鏡が近くにあるとわかった霖之助は、自然と辺りを探った。今、自分がどのような状況にあるかも忘れて。
 ふにゅ、というやわらかい感触が霖之助の手に伝わる。

「む、これは……?」

 ふにゅふにゅ。

「あう……も、森近殿……その……それは、わ、私の胸だ……」

 慧音の、甘く、かすれたような声を聞いて、霖之助は飛び退いた。

「す、すまない……!」
「い、いや、いいんだ。私が不注意だった」

 す、と立ち上がり、慧音は霖之助に眼鏡を手渡した。

「これ……」
「あ、ああ……」

 ちょん、と慧音と霖之助の手が触れる。
 その瞬間、慧音の肩が、ビクン、と震えた。
 少し傷ついたような霖之助の顔を見て、慧音は、はっ、とした表情になる。

「あ、す、すまない!」
「……いや、いいんだ。胸を触られたんだ。嫌悪感を抱くのは必然だよ。本当にすまなかった」

 慧音は慌ててそれを否定する。

「ち、ちがうんだ! そうじゃない! ただ、ちょっと……びっくりしちゃって、その……とにかく森近殿に嫌悪感など抱いてはいない。信じてくれ」
「……ありがとう」
「うん……」
「…………」
「…………」

 気まずい沈黙が流れる。

「あー……なんだ、その……」

 沈黙を破ったのは慧音だった。

「そ、そもそも! きちんと普段から片付けをしていないから、こういうことになるんだぞ!」
「反省しているよ」
「本当か? 今日私が片付けても、明日になったら元通り、とかはないだろうな?」
「大丈夫さ」
「イマイチ信用できんな」
「ひどい言われようだね」
「その、だから……」

 慧音は、そっぽを向きながら、ぼそぼそとつぶやいた、

「こ、これから毎日来てチェックするからな……」
「え?」
「え、ええい! これから毎日紅茶を飲みにくるから用意をしておけと言ったんだ! わかったか!」

 気恥ずかしさからくる、慧音の剣幕に圧倒され、霖之助は――

「わ、わかった……」

 ――と頷く以外になかった。

 こうして、慧音の奇妙な通い妻生活が始まった。














 香霖堂に、湯飲みが一つ増えた。
 慧音が持ってきたものだ。
 慧音の髪の色を、少しくすませた様な深い藍色で、どこか暖かみを感じさせる。

「これは?」
「見ればわかるだろう」
「わかるから聞いているんだ」
「何かおかしくないか?」
「おかしくないさ。僕は、なぜ持ってきたのかと聞いている」

 霖之助がそう言うと、慧音は、ぐっと真剣なとした顔つきになった。

「……森近殿。わからないか?」
「ふむ」

 霖之助は慧音が持ってきた湯のみを、じっと観察し、答えた。

「わからないな」
「諦めるのがえらい早いな」
「考えてもわからないことは考えない主義なんでね」
「そうか……」

 ふう、とため息を吐き、慧音は言う。

「森近殿。あなたはよく視野が狭いと言われないか?」
「外に出ろとは言われているが、視野が狭いとは言われたことがないな」
「言われてないだけだ。そんなんだから、この有り様に平気でいられるんだ」

 昨日あれだけ片付けたのに! と慧音は悲観した。
 そう、香霖堂内は、先日慧音が片付けたにも拘らず、昨日までほどとはいかなくとも、似たような状態にまでちらかっていたのだ。
 慧音が怒るのも無理はない。

「森近殿はだらしないぞ」
「そうかな」
「そうだ。本当に本の虫なんだな。その様子だと、まともに食事もとっていないじゃないのか?」
「そんなことはないさ。おなかが空いたら、何か適当なものを口にして、今日まで生き延びてきた」
「……栄養バランスとか考えてなさそうだな」

 こめかみをく、と押さえ、慧音は何やら思案顔になる。
 これは本格的に通いつめねばなるまい。
 こうなるのではないかと思って、湯のみを持ってきておいたのは正解だった。
 慧音はそう思った。

「よし、わかった。森近殿、とりあえず今日は私が炊事をしよう」
「えっ?」

突然の宣言に戸惑う霖之助をよそに、慧音は湯飲みや茶器を持って台所へ向かう。

「洗うものは他にあるかな。ああ、エプロンはどこだろうか」

 テキパキと居住スペースに上がりこむ慧音。霖之助は慌ててそのあとを追った。

「ま、待つんだ慧音。僕は別に……」
「む、意外と綺麗だ。ちゃんと片付けてあるな」

 香霖堂の台所は慧音の予想に反し、スッキリとしていた。というか何もなかった、例えば洗っていない食器とかは。

「魔理沙や霊夢が勝手に使ったりするしね、一応彼女たちが片付けてくれてるから」
「そうだったのか……まあいい。一度言った以上、この茶器は私が洗おう」
「えっ」
「森近殿はカウンターにいていいぞ。店番がいなくては大変だからな」
「あ、ああ。じゃあ甘えさせてもらうよ」

 世話焼きモードになった慧音を止められるはずもなく、半ば追い出されるようにして霖之助は再び自分の定位置へ戻る。ふと振り返ると、魔理沙達が持ち込んだ淡い色のエプロンを、慧音が羽織っていた。その後ろ姿は里の守護者というよりは、年頃の娘婿に見えて。

「やれやれ」

霖之助は小さくそう言うと、眼鏡を袖で拭うのだった。














 慧音が霖之助の世話をするようになって、少し経った。

「森近殿」

 ティーポットを運んできた慧音が霖之助に話しかけた。
 いつも落ち着いている彼女にしては珍しく、少し不安げな表情が浮かんでいる。

「なんだい?」

 霖之助はそんな彼女を妙に思いながらも、読みかけの本を閉じた。
 慧音はティーポットをカウンターに置くと、予め温めてあったカップにゆっくりと紅茶を注いでいく。

「その、以前から聞こうと思っていたのだが」

 こぽこぽ、と白いカップに紅茶が注がれる。

「こうやって私が来るのは、その……迷惑ではないだろうか」

 霖之助の鼻孔を紅茶の香りがくすぐる。

「自分から押しかけておいて、こういうことをいうのもなんだが、私としては森近殿が嫌ならば、不快にさせてまで訪れるつもりは」
「そんな事はないよ」

 霖之助はティーカップを持ち上げると、慧音に優しく微笑みかけた。

「君のおかげで、今日もおいしい紅茶が飲める」

 それに、と霖之助は続ける。

「僕としても君がいると楽しいよ」

 そう言って、霖之助は再び紅茶を口に含んだ。
 慧音は顔を紅茶と同じ色に染めると、照れ隠しのようにこう呟いた。

「……黙って飲め」














 慧音が霖之助の世話をするようになって、しばらく経った。

「明日は満月だね」

 霖之助は視線を本から外さずに言った。

「ああ、そうだな」

 会話が途切れる。
 霖之助は、途切れ途切れに呟いた。

「その……なんだ、せっかくだし、月見酒というのはどうだい?」
「え? あ、明日、か?」
「あ、いや、すまない。嫌ならいいんだ。忘れてくれ。女性が遅くまで男の家にいるというのも危ないし……」
「いや! 私は森近殿のことを信頼している! それに、嫌じゃない!」
「そうか。それなら決まりだね」
「あ、ああ……」
「それじゃあ、明日を楽しみにしているよ」
「う、む……」








 秋の夕暮れ。沈み行く淡い日に照らされ、人々は通りを帰路に就く。

 慧音は寺子屋の帰りに、買い物に出かけていた。
 最近の日課となっている、香霖堂で夕食を作るための材料を調達しているのだ。

(今夜は満月か……)

 暮れゆく日を眺めながら、慧音は考える。
 行くべきか、やめるべきか。
 本来ならば行くべきではない。
 獣の私は……醜い。完全に妖怪と化した自分の姿を見られたくない。嫌われたくないのだ。
 だけど――
 なんとなく、森近殿には見られてもいい。
 そんな、相反する二つの想いが慧音を悩ませる。
 答えの出ない問題に悶々としていると、いつの間にやら目的地に着いていた。
 娘が八百屋で店番をしているのが目に入る。
 夕時の商売のピークが過ぎたのか、娘は店先で暇そうに青ゆずを転がしていた。

「やあ、こんばんは」
「え、先生?」

 慧音の突然の来訪に、娘は眉を上げた。
 月の出る日は、慧音は早めの帰路に就く。そのことを里の人間は知っていた。

「どうなさったんですか? 今日は、その……」

 娘が言い淀んでいると、慧音が口を開いた。

「いやなに、今日の分の買い物をするのを忘れていたんだ。まだ店は開いているかな」
「そうだったんですか。ええ、もちろん。何にしましょう」
「うん、そうだな……」

 慧音は口に指を当て、少し考える。

「何が食べたいって言うかな……」
「え?」
「あ、いや、なんでもない」
「はあ」

 無意識の内に呟いていた独り言を聞かれ、慧音は慌ててごまかす。

「じゃ、じゃあ、注文をいいかな」
「はいはい。なんなりと」

 慧音は買い物かごを娘に渡し、いくつかの野菜を注文する。
 娘は慣れた手つきで野菜をかごに入れていく。そんな中、慧音は少し薄暗くなってきた店内をぼんやりと眺めていた。
 そんな、いつもと違った慧音の様子を、娘は不思議に思った。
 何かを考えているように見える。何かに悩んでいるようにも見える。
 そして娘は、ふと、あることに気がついた。

(そういえば先生、最近買い物が多いなあ)

 家族でもできたのかな、などと、娘が冗談半分に考えていると、それまで黙っていた慧音が口を開いた。

「そういえば、おまえはいくつになったんだっけな」
「ふえっ? えと、十八です」

 慧音はそれを聞いて、しみじみと呟いた。

「そうか。もう、そんなになるか。……立派になったなぁ」
「いえ、そんな……」

 娘はくすぐったいような気持ちで、頭を下げるだけだった。

「はい、先生」
「ああ、ありがとう」

 品物をかごに入れ終わり、金銭のやりとりを終え、慧音は娘に背を向け、止まった。
 何かを言おうとして迷っているようだ。

「先生、どうしたんですか」
「その、なんだ。十八ともなれば、そろそろ結婚でも考える年じゃないか? 相手なんかはいないのか?」

 娘は一瞬、ぽかん、として――

「……ぷっ」
「む?」
「あはは! やだ、先生ったら! そんなことを聞くかどうかで悩んでいたんですか?」

 ――盛大に噴き出した。

「へ? ……あ、ああ。そうなんだ。いや、お節介かもしれないと思ってな、ははは!」
「あはは、そんなことないですって。ありがとうございます。でも、結婚のご報告はしばらくできそうにありませんね」
「そうなのか? お前ほど器量の良い娘なら引く手数多だろう」
「そんなことないですよ」

 娘は、はにかむように言った。

「気になる相手はいないのか?」
「いないですねぇ。理想が高すぎるのかなぁ」
「どんな男性が好みなんだ?」
「うーん、やっぱり頭が良くて」
「頭が良くて……」
「自分と趣味が合って」
「趣味が合って……」
「しっかりと自分というものを持っている」
「自分というものを持っている」
「そんな男性がいたら最高ですね」
「そ、そうか。も、森近殿は最高なのか……」
「先生?」
「へっ? いや、な、なんでもないぞ!」

 娘は小首を傾げた。

「ふふ、変な先生っ」
「はは、そうだな、変だな」

 ははは、と笑う慧音の声は次第に小さくなっていった。

「な、なあ」
「はい?」
「もし、仮にだぞ? そんな理想の男性が現れたとして、親密になったとしたら」
「なったとしたら?」
「自分の嫌いなところを、見せるべきだと思うか?」
「自分の嫌いなところを?」
「ああ、そうだ」
「うーん」

 娘は少し悩むようなしぐさをしたが、その答えは意外と早く出た。

「どっちが正しい、というのはないと思いますけど、私だったら見せます」

 慧音はその言葉が意外だったのか、驚いたように質問した。

「なんでだ? それでもし相手に嫌われたしまったら、悲しいじゃないか」
「それはそうですけど、逆に考えて、自分の嫌いなところを見せて、もし相手がそれを受け入れてくれたら、すごく嬉しいじゃないですか」
「む、それはそうだが……」
「それに……」
「それに?」

 娘は、にこり、と笑い、慧音に言った。

「好きな人なら、きっと受け入れてくれるって、信じたいじゃないですか」

 ね? と微笑むその顔は、慧音が教えていたころの、あどけない少女のそれではなく、立派な一人の女性として美しく輝いていた。

「……まいったな。教え子にものを教わるとは」
「先生の教え方が良かったのですよ」
「そんなことを教えた覚えはないんだけどな」

 ぽりぽり、と頭をかきながら慧音は言った。

「ありがとう。どうすればいいか、わかったような気がするよ」

 どこか晴れ晴れとした顔をする慧音に、娘は少し意地悪く言った。

「あれ? 先生、今のは『もし』の例え話なんですよね?」
「え、あ……そ、そうだ! もちろんそうだ!」
「ふふ。先生、頑張ってくださいね」
「ああ……って違う! 私の話ではないぞ!?」
「はいはい」
「うぅ……」

 顔を真っ赤にした慧音は、こほん、と咳払いをし、店をあとにしようとした。

「じゃ、じゃあ私はそろそろ帰るとする。それではな」

 雑踏にまぎれようとする慧音の背中に、娘の声がかかる。

「先生!」
「ん?」

 ひゅん、と投げられるゆず。
 慧音はそれを、ぱしっ、と受け取ると、視線だけの質問をした。

「おまけします!」
「食べ物を粗末にするなー! だけど、ありがとうな!」
「先生! ゆずの花言葉、調べてみてくださいねー!」
「? ああ! わかった!」

 そう言って、今度こそ慧音は人ごみにまぎれていった。
 日は既に沈みきっていた。
 娘は、ふと、通りに出る。
 そして、慧音が見上げた空を見つめてみる。

「あ、月……」

 熟れたゆずのような満月が、ぽっかりと空に浮かんでいた。







 その姿を丸々と現した月は、その少女の姿を別のものとさせていた。
 一人、香霖堂へと続く道を行く。その道は、満月に照らされてほんの少しだけ優しかった。
 ひゅう、と吹く風は、慧音の心に一抹の不安をよぎらせる。

「大丈夫かな……」

 そんな呟きもまた、風に流されていった。
 確かなのは、頼りない足取りだけ。
 そっと角に触れる。仄かに感じる体温と硬さとは、紛うことなく自分の体だ。

「はあ……」

 恨めしい。
 慧音は、そんなことを思ってしまった。
 人の里に住み、人として生きる、しかし、人の域を踏み越えた存在。
 満月を見れば、たちまちに心は塗り替えられる。
 その身に流れる神獣の血は、人たる慧音の心を、一瞬で深い水底に追いやる。
 神獣足らんとする意思は、心とは関係なく存在する。
 それは人の形に収まることはなく、じわじわと人としての部分を侵食していく。
 そうして歪に出来上がった一つの疑問――上白沢慧音とは何なのだろう?
 神獣になりきれず、かといって人に留まる事も無い。
 私は――
 そんな馬鹿げたを、慧音は振り払えないでいた。
 同じ半妖なのに、どうしてこうも違うのか。
 慧音は誰かに問い詰めたいのだ。
 寄るべき性も、従うべき正義も無く、なのに移ろわない彼。
 対して自分は、その近くを行ったり来たりの迷い人だった。
 近づくごとに惑い、離れるたびに苦しくなる。
 それでも、毎日行くと言ったのは慧音だ。
 人間、上白沢慧音なのだ。
 月明かりを締め出した無明の世界で、一人きり。
 ざわざわと心は不安に踊る。
 ただの少女のように慧音は恐怖する。ここで立ち止まってしまえば、もうどこにも辿り着けないという確信めいた不安を感じる。

(怖い……)

 ぎゅっと握る手に力が入る。
 その瞬間、ふわ、と爽やかな香りが慧音の鼻をくすぐった。

「――あ」

 青柚子。
 指先に感じる確かな感触が、今の慧音には何よりも頼もしく思えた。
 可愛い教え子の顔が彼女の頭に浮かぶ。
 黄昏時の店先で、教え子はいつのまにか彼女の背丈に追いついていて。

 ――信じたいじゃないですか。

 にこりと笑って、柚子と、

 ――好きな人なら、きっと受け入れてくれるって。

 勇気を与えてくれたのだ。

「そうだ」

 慧音の視線の先には、目的の場所がある。

「信じたいんだ」

 慧音は、ほっと息を吐いた。

「……よし」

 秋風は幾度も通り過ぎていたらしい。すこし冷たくなった体が、温もりを求めるように歩調を速めた。
 ぽつんと夜に佇む、暖色の灯りの元へ。

「……っと」

 香霖堂まであと少しというところで、慧音は慌てて立ち止まった。
 ポケットに手を伸ばそうとして、気がついた。片方は買い物かご、もう片方は柚子でふさがっている。
 仕方なく慧音は籠を地面に下ろし、柚子を高く高く放り上げた。
 夜空に吸い込まれていくの柚子を見送ることなく、慧音はポケットからリボンを取り出し、さっと角に結びつける。
 パシッ、と柚子を受け止める。
 柚子の香りが慧音の肌を駆け抜けた。
 少女への変身。それはある種の決意。
 そうして、左の角に真っ赤なリボンをつけた少女――慧音は、瞳に光を灯し、扉を叩いた。

「も、森近殿、私だ。慧音だ――」







 トン、トン、トン、とぎこちない包丁の音が木霊する。
 野菜を切っていく慧音の胸中は穏やかではなかった。

(なぜ何も言わないんだ?)

 慧音の頭の中は、その考えでいっぱいだった。
 受け入れられるか、拒絶されるか。
 その二つを想定して、覚悟して叩いた扉の先には、いつもと変わらぬ店主の顔、そして「やあ、いらっしゃい」といういつも通りの言葉だけだった。
 何か特別な反応が欲しかったわけではない。だけど、なければないで不安になる。
 平静を装って調理を続ける慧音だったが、内心気が気ではなかった。
 すでに店を閉めた霖之助は、居間で本を読んでいる。
 こっちの気持ちも知らないで、気楽なものだ、と慧音は半ば八つ当たり気味な考えを振り払い、調理を続ける。
 そうして出来上がった料理を、慧音は居間に移し、霖之助と向かい合って食事を始める。
 怖いくらいにいつも通りの風景だった。

「いただきます」
「い、いただきます」

 両手を合わせて軽くお辞儀をし、箸を掴む。
 黙々と進んでいく食事に、慧音の心臓はバクバクと音を鳴らしていた。
 堪らずに慧音が口を開く。

「な、なあ、森近殿!」
「ん?」
「なんだ……その……」
「なんだい?」
「えと……み、味噌汁はうまいか?」

 霖之助は、きょとん、とした顔を慧音に向けたが、すぐに笑顔になり言った。

「ああ、もちろんだよ。大根の葉のシャキシャキとした食感が耳にも心地いいし、身の方も口に入れると、ほろりと崩れて上手く汁と溶け合う。おいしいよ」
「そ、そうか……」

 霖之助の言葉に安心するも、慧音は「違う。そんなことを聞きたかったんじゃない」と苦悶する。
 よし言うぞ、すぐ言うぞ、今言うぞ。と意気込む慧音。
 そんな時――

「も、森――」
「むっ」
「ひぇっ?」

 出鼻を挫かれた慧音からは、情けない声が漏れた。

「え、な、何?」

 霖之助は、驚いたような、険しいような、とにかくいつもとは違う表情をしている。
 慧音の心臓は張り裂けそうなほど、ドキドキしていた。

「これは……おいしいな」
「ふぇ?」
「鰻の唐揚げ。初めて食べたのだけど、これほどだとは思わなかった。外はカリっとしているのに、中はふわりとやわらかい。嫌味にならないくらいの塩加減がまた絶妙だ。鰻の臭みもきちんと処理されているね」
「そ、そうか、それはよかった……」

 何気ない口調で――

「慧音はきっと、いいお嫁さんになるね」

 ――霖之助は言った。

「……え? えええええ!?」
「君を嫁に貰う男は幸せ者だな」
「あ、あぅぅ……。や、やめてくれ、森近殿……」
「……と、これは失礼。そうだな。少し無神経だったよ。すまなかった」
「い、いや、いいんだ……」
「そういえば、さっき何か言いかけたね。遮ってしまってすまない」
「あ、ああ。別に大したことじゃない。その……ほうれん草はどうかなと思って……」
「ああ、これもおいしいよ。ほうれん草そのものの味を損なわないように、申し訳程度に付けられた醤油の味と、柚子の香りが見事に合っている。ひんやりとしていて、どこか安心するね」
「そうか、よかったよ……」

 ふう、と慧音はため息を吐いた。
 霖之助は、その様子を不思議そうに眺めていた。







 夕食を終え、食後のお茶を飲んでいる時に霖之助は言った。

「風呂を沸かしておくから入るといいよ。僕はあとでいいから。そのあと、縁側で月見酒と洒落こもうじゃないか」
「む、家主を差し置いて一番風呂というのは気が引ける。森近殿が先に入ってくれ」
「いや、僕は寝る前に入るからいいよ。それに酒盛りの準備もあるしね。日ごろ世話になっているんだ。遠慮しないでくれ」
「むう、そこまで言うなら……お言葉に甘えさせてもらうよ」
「ああ。ゆっくりするといいさ」







 しなやかな肌色の肢体が、木造の浴槽と一体となっている。
 正直、一人になれるのはありがたかった。
 一人で考える時間が欲しかったのだ。
 森近殿は何も言わない。何かを思っているかどうかも感じさせない。
 受け入れてくれたようにも思えるし、拒絶されたようにも思える。
 わからないのだ。 
 ぶくぶくぶく、と顔を半分沈める。同時に、思考も沈んでいくように思えた。
 ぼー、と湯船を眺める。

「毛が……」

 見ると、湯船には尻尾の毛が浮いていた。
 少しずつ、少しずつ、桶でそれを掬い、捨てる。
 なんと惨めな気分だろう。
 慧音はそう思わずにはいられなかった。
 小窓からは、満月が見える。
 この醜い体を見るのは、満月ただそれのみ。
 それすらも、厭わしかった。
 落ち込む思考を振り払うように、顔をぷるぷると振る。

 ――信じたいじゃないですか。

「……そうだな」

 はっきりと聞いてみよう。
 慧音は、そう決意し、風呂から上がった。







「乾杯」
「乾杯」

 ちん、とお互いの猪口を合わせる。
 二人は、くい、とそれを一気にあおり、一息つく。

「ふう……うまいな」
「ああ。今日の日のための特別さ」
「ふふ、かたじけない」

 普段なら心地いいと思える沈黙の中、慧音の心中には焦りが生まれていた。
 はっきりと聞くと決めたではないか。
 そんな、攻めるような自分の声が聞こえてくるのだ。

「柚子の香りは、熟す前と後で変わるものなのかな」

 霖之助が突然そんなことを言い出した。

「いきなりどうしたんだ?」
「いや。今日君が持ってきてくれた青柚子を嗅いでふと思ったのさ。柚子の香りはこういうものだったろうか、とね」
「うん? 森近殿は青柚子は初めてだったのか?」
「まさか。去年、紫からもらったことがある」

 紫、という単語に慧音の眉がほんの少しだけ上がった。が、霖之助は気付かない。霖之助も酔いが回っているのか、それとも平時からこういう男なのか。前者であるようにという、慧音の願いはまだ叶えられていない。
 霖之助は居住まいを正し、慧音の目をまっすぐに見る。

「まだお礼を言ってなかった。ありがとう慧音。柚子の事も、そして今日のことも。嬉しかった」
「い……いいんだ。私が、勝手にやっていることだし。それに」

 ぼそぼそと言いながら慧音は顔を伏せた。
 水面に口づけるような形で如何にも不自然だったが、今は酔いがそれを黙過させてくれると信じるしかなかった。
 顔の紅潮し、鼓動は張り裂けそうなほど早く、今宵は時の進みが速いと感じるのも無理もないことだった。早く進めとも、このまま止まってしまえとも思い切れないまま、衝き動かされるように言葉を重ねる。

「青柚子は、教え子からもらったものなんだ」
「ほう。では改めて、その子にもありがとうと伝えて欲しい」
「……うん、承知した」

 教え子に言われたことを慧音は反芻する。それはすでに慧音自身の言葉となっていたはずだった。

 ――受け入れてくれると信じたい。

 だけど
 まだ慧音は、その先の言葉を繋げられずにいる。

「その子は、どんな子なんだい?」
「八百屋の娘だ。とにかくやんちゃで、手を焼かされたものだよ。今はもう、いくらか大人しくなった。気立てのいい看板娘だ」
「看板娘、か。香霖堂にも欲しいところだね」
「……だ、だめだそんなこと!」

 慧音の一声に、霖之助は虚を衝かれたようだった。猪口を取り落とさずには済んだようだが、目をぱちくりさせて慧音を見ている。その視線に、いよいよ慧音は混乱の極みに達した。

「い、いや。今のは、その……」
「……いや、わかっている」

 皆まで言うなといわんばかりに、霖之助は遮った。

「ただの人間では、妖怪も訪れる香霖堂で働くには危険すぎると言いたいのだろう?」

 慧音は思わずにはいられない。
 ああ、この鈍感がただ満月の呪いであってくれればよいものを!

「すまない。不謹慎だった。君が人間を大切に思っているのはわかっているつもりだったが」
「……いいんだ。そんなに気にしないでくれ」

 二人の間に奇妙な沈黙が降りた。
 猪口を満たし傾けるだけの動作が、二人の時間を奪っている。いつしか慧音の酔いは深刻なものとなっていた。会話の糸口を掴もうとしても、思考は泥を掬っているよう。
 いたずらに時間が過ぎていく。早くもなく遅くもなく、満月が輝く速さで一定に。そんな中、教え子にもらった勇気ではなく、酔いによる焦燥と空転が彼女に口火を切らせた。彼女の思慮から遠く離れた位置で。

「なあ、森近殿」
「なんだい」
「なんで……何も言わないんだ?」
「何も、とは?」
「この醜い姿のことさ!」

 突然の出来事に霖之助は面食らった表情になった。
 慧音は吐き出すように続ける。

「醜い……。この角は何だ? この尻尾は? こんなの人間じゃない。化け物だよ、私は」
「……君は慧音だ。妖怪を退ける賢獣。君は名実ともに人間の守護者だよ」

 霖之助は慎重に言葉を選んでいた。慧音は明らかに普段と様子が違う。酔いのせいか、それとも満月の影響か。
 いずれにしても、濁した言葉を使うことだけは決してしてはならないと、霖之助はわかっていた。

「確かに人間には角も尻尾も無いものだ。それを不気味に思う者だっていてもおかしくはない。けれど、君は気付いていないのかい? そうでない者もいるということを」

「例えば僕のような、ね」と霖之助は続けた。
 霖之助は己の不器用さを自覚している。だから笑うことなく、ただ真摯に告げた。

「僕は半妖だ。人間と妖怪。両方の価値観を持ち合わせている。そんな僕から言わせてもらえば、角や尻尾があるものを醜いと思うことはおかしなことだ。人間として君はこんなに可憐で、妖怪として君はこんなに凛々しいのだから」
「……姿だけの話じゃないんだ」
「というと?」
「さっきの、八百屋の娘と会った時のことだけどな」
「ああ」
「私の目には、人間としか映らなかった」
「え?」
「可愛い教え子さ。手に塩をかけて教えた。あの子もそれに応えてくれた。それが……それが、だ」

 慧音は、くしゃ、と顔を崩した。

「満月の夜には、そんな関係の前でも、人間はただの人間だ! それまで築いてきたものなんて関係ない! 人間は、私にとっては、守らなくてはいけない存在なんだ!」

 吐き出すように、慧音は続ける。

「私は人間が好きだ! だけど、この気持ちは私自身から生まれたものなのか? ハクタクとしての血が、そうさせているのか? それすらも……わからない」
「慧音」
「こうして森近殿と過ごして、楽しいと思う気持ちも、私のものなのかすら、わからないんだ。情けないよ」

 情けないよ……。
 最後に、ぽつりと零し、慧音は黙った。
 少しの間、沈黙が流れる。

「慧音」

 それを破ったのは、霖之助だった。

「そんなに、妖怪としての自分が嫌いかい?」
「……嫌いだ」
「それはなぜ?」
「だって、角も生えるし、尻尾もある。気持ち悪いじゃないか!」
「慧音……」

 霖之助は、いつになく真剣な表情をし、手を振り上げた。

「ひぅっ」

 反射的に肩を震わせる慧音。しかし、予想していた衝撃はいつまで経っても来なくて――

「あた」

 ――ぺちん、と額を弾く音だけが響いた。

「……えぅ?」
「馬鹿。そんなこと言うもんじゃない」
「だって、だって……」
「だってじゃない。よく考えるんだ」
「う?」

 酒のせいか満月のせいか、不安定になっている慧音に、霖之助は優しく、諭すように言葉を紡いだ。

「いいかい? 上白沢慧音が人間を守ってきた事実は変わらない。今までも、そして、これからも。君は、人間が好きという感情が、自分のものかどうかわからないと言ったね? その答えは、すぐには出ないだろう。だけど、僕はそれもいいと思っている」

 教えて? と訪ねるように小首を傾げた慧音は、いつもと違った魅力に溢れていた。
 ごほん、と咳払いをし、続けた。

「だって、君は君じゃないか。角と尻尾が生えたくらいで頭を抱えて悩む、小さな少女だ」
「……少女って年でもない」
「大人の悩みとも思えないけどね」
「うー!」

 痛くない程度に、霖之助の肩を小突いた。

「悪かった。君にとっては真剣な悩みだ。……でも、そう。そんなもんなんだよ」
「?」
「人の目を気にして、人のことを考えて、人としてあろうとする。君は立派な人間であり、立派な妖怪であり――立派な慧音なんだよ」

 何も悩むことなんてないんだよ。

 眼鏡の奥から、そんな優しい思いが慧音には伝わってきた。

「……それでも、私はこれからも悩むと思う」

 それは、紛れもない本心だった。
 幾分気が楽になったということは、確かにある。しかし、自分が何年も悩み続けてきた問題が、そう簡単に自分の中から消えてくれるほど、浅い悩みではないことも事実だった。
 慰めてくれた森近殿には悪いが、と慧音は言った。

「それもいいんじゃないかな」
「いいのか?」
「悩んで、悩んで、それでも解決しなくて、また悩むのが人間ってものだろう」
「結局悩みは尽きないんだな」
「そんなもんさ」
「そんなもんか」

 どちらからともなく、ふう、とお互いにため息を吐いた。
 ことり、とお猪口を置き、慧音は言った。

「もし……」
「ん?」
「もし、森近殿が人間だったとしたら、それでも私は森近殿を――」

 人間としてではなく、森近殿として好きでいられただろうか――そう言いかけて、やめた。
 ふるふる、を頭を振り、慧音は立ち上がった。

「――すまない。少し酔ったようだ。今日のところは失礼するよ。……迷惑をかけたな」

 すっ、と背を向ける慧音に、霖之助は声をかけた。

「慧音」
「……なんだ?」

 慧音は、くるりと振り向き、聞いた。

「僕は、僕らは中途半端だ。だから気が合うのかもしれない。だけど、もし僕が人間だったとしても、君は僕と、ここでこうして酒を飲んでいたはずだよ」
「どうして、そう言えるんだ?」

 霖之助は、くい、とお猪口を持ち上げて言った。

「今日のために、特別に用意したお猪口だ。用途は、慧音と霖之助が酒を飲むための道具。つまり」

 ぱち、と眼鏡の奥からウィンクをしてみせる霖之助。

「これがある限り、君と僕は酒を飲んでいたのさ」

 ぽかーん、と口を開ける慧音、そして――

「あはははははは!」

 ――思い切り笑い出した。

 そんな慧音を見て、霖之助は満足気に微笑んだ。

「ウケたかい?」
「ふふふふふ、最高だよ。よくもまあそんな嘘八百がべらべらと出てくるものだ」
「バレたか」
「当たり前だ」

 慧音は、ふー、と呼吸を整え、満足そうな笑みを浮かべた。

「ありがとう。今日はいい酒が飲めたよ」
「それは何よりだ」
「では……あ」

 帰ろうと背を向けた慧音は、何かを思い出したように立ち止まった。

「どうかしたかい?」
「聞きたいことがあったんだ」
「僕にわかることであれば」
「うむ。柚子の花言葉って知っているか? いや、教え子に調べてみろと言われてね」
「どっちが教師だか」
「はは、全くだ。それで、知っているか?」
「ええと、確か……健康美」
「ほう、いい花言葉だな」
「それから、恋のため息」
「こ……!」

 慧音は瞬時に顔を赤くさせた。

(あいつめ……)

 教え子の、にやけた顔が慧音の頭に浮かんだ。

「そ、そうか。わかった。ありがとう」
「慧音」
「む、な、なんだ?」
「僕でよかったら、何でも相談に乗るよ」
「…………」

 慧音は、はあ、と深くため息を吐いた。

「一つ、約束をするよ」
「なんだい?」

 ――あなたにも、私と同じため息を吐かせてみせます。

「……いや、なんでもない。今日はありがとう」
「なんてことはないさ。慧音」
「今度はなんだ?」
「悩みのない人間なんていない。だけど、悩むことに悩む必要なんてないんだよ。もしそうなったら、いつでもおいで」

 その言葉を聞いた慧音は、居場所を得たような、宝物を見つけたような、とても優しい笑顔になった。

「そうさせてもらうよ」」
「そうしてくれ」

 それじゃあ、と慧音は出口に向かい――

「おやすみ、霖之助」

 ――そう言って、出て行った。

「霖之助……か」

 残された霖之助は嬉しそうに笑みを浮かべ、再びお猪口に酒を注いだのだった。














 秋の夜長を過ごし、凍える冬を越え、草木は花を咲かせていた。
 そよそよと流れる風を切って、ずんずんと歩を進める影が一つ。
 ガチャ、と扉を開ける。

「全く、あいつらときたら……ただいま」

 ノックはもう、いらない。
 寺子屋から戻ってきた慧音は、頬を染めながら、ぷりぷりと怒っていた。

「いらっしゃい。どうしたんだい? 顔を真っ赤にして。寺子屋で何かあったのかい?」
「うえ!? そ、そんなに赤くなっているか?」

 自分の顔の変化に気付いていなかったのか、霖之助に指摘された慧音は、驚いた表情で聞き返した。

「真っ赤だよ」
「そ、そうか……」

 ふー、と息をつき、慧音は、ぽつりぽつりと話し始めた。

「いや、実はだな、寺子屋の生徒たちが、その……キ、キスについて話し合っていて……上の兄弟がいる生徒なんかは、結構詳しいらしいんだ。全く……寺子屋に何をしにきているんだかああいった話は禁止にすべきかもしれないな」

 ふむ、と霖之助はあごに手を当てた。

「いや、それはいささか早計じゃないか? そんなことをしたら生徒たちの不満が募るだろう。ゆとりある情操教育も教師の役目ではないのかい?」
「う……そ、それはそうだが」
「それくらいの年齢の子どもは、そういったことに憧れを抱いているのさ。そういった時は、君が話をしてやればいい。大人の女性の経験を聞くだけで、子どもは満足するものさ」
「…………」

 すっかり俯いてしまった慧音を見て、霖之助は「しまった」と思った。
 本職の人間に、素人がずけずけと意見していいものではない。彼女のプライドを傷つけたか?
 霖之助がそう考えていると、蚊の鳴くような声が聞こえてきた。

「……んだ」
「え?」

 沈黙が破られたことに安堵しつつも、ぽつりと呟いた慧音の言葉が聞き取れずに、霖之助は聞き返した。

「……ないんだ。そういう経験」
「――――」

 これほど言葉に詰まる話もあるまい。霖之助はそう思った。

「だから、霖之助――」
「なんだい?」
「私に、キスを教えてくれないだろうか?」
「何を――うわ!」

 慧音は、霖之助の肩を、ぐっと押し、霖之助を床に押し倒した。
 ハクタクの血を持つ慧音に対して、力のない霖之助は、あっという間に組み伏せられてしまった。
 慧音の顔が、すっと、霖之助に近づく。

「霖之助……」
「慧音……」

 お互いの吐息が感じられるほど、二人は近づき、そして――

「冗談が過ぎるぞ」

 ――二人の距離は、再び離れていった。

 ぐい、と慧音の肩を押し返し、霖之助は立ち上がる。

「いたた、腰を打ったじゃないか。冗談を言うにしても、もうちょっとソフトにできないのか?」
「――はは、さすがにバレてしまったか! いや、すまないすまない。いつもしれっとしている霖之助をからかってみたくてな」
「全く……」
「怒らないでくれ。私だってたまには人をおちょくったりしてみたい時もあるさ」
「勘弁してくれ」

 明るい顔で慧音はからからと笑う。

「悪かったって。おわびに今日は霖之助の大好きなナメコ汁と 茄子の肉味噌和えにするからさ」

 そう言うと、慧音は台所へ向かっていった。
 慧音の姿が見えなくなるのを確かめて、霖之助は呟く。

「全く……」

 流れるような銀の髪、透き通るような肌、柔らかそうな桃色の唇――
 それらを思い出しただけで、霖之助の顔は耳まで赤くなった。

「我慢できなかったら、どうなっていたと思うんだ……」

 あんな冗談を言うということは、彼女は僕なんか相手にする気はないということだ。
 そのことを、少し――いや、かなり寂しく思う。
 だから僕は、君に言われたことを直すことはない。
 僕が、駄目なままでいれば、君はいつまでも、ここにいてくれるから。
 なんてことを言ったら、君は呆れるだろうか。笑うだろうか。それとも、喜んでくれるだろうか――――
















  
「……バカ。霖之助のバカ、アホ、鈍感男」

 トントントン、と包丁のいい音を鳴らしながらも、慧音は霖之助に対して悪態をついていた。

「なんでわかってくれないんだ。……私に女としての魅力がないからか?」

 想いが伝わらないことがもどかしい。それと同時に、伝わらないでくれ、と思う気持ちもある。
 伝わって、拒絶されることが怖いのだ。
 拒絶されるくらいなら、今のままの距離でいる方がいい。そう、思っていた。

「ふふ、霖之助」

 霖之助の鈍感具合に腹を立てながらも、慧音は満足していた。

「駄目な男だよな、霖之助は」

 何度同じことを言っても直さない霖之助。まるで子どものようだ。
 しかし、そのことをどこかほっと安心している自分がいる。
 霖之助が駄目でいる限り、私はここにいることができるのだから。

 なんてことを考える私は、教師失格なのだろうか――――
幻想郷競輪普及委員会(Ministery、katharsis、葉月ヴァンホーテン)
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/06/14 02:15:29
更新日時:
2010/07/31 22:51:49
評価:
31/69
POINT:
3820
Rate:
10.99
1. 60 如月日向 ■2010/06/28 00:11:31
これはいい競輪ですねっ。
なのでまず一言だけ言わせてください。
おまえら結婚しろ!

鈍感な霖之助と通い妻慧音という珍しい組み合わせ。
慧音が角や尻尾で悩むのはありがちかと思いきや、人間を種族、そして守るべき対象としてしか見られないというのは面白いと思いました。
残念なのはその点についての掘り下げが不足していることでしょうか。
そしてもう一つ、視点の変更が唐突で慧音と霖之助を行ったり来たりして、もどかしく思うこともあった事です。
ストーリーはとても好みなだけに惜しい作品でした。
2. 80 白麦 ■2010/06/29 21:57:52
慧音がかわいいですね。なんという通い妻&恋する少女。ニヤニヤと読めせてもらいました。
7. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/01 10:13:18
これはいい競輪ですね
12. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/02 01:44:05
柚子だけに甘酸っぺえ
恋のため息が、熟して香りも変わるわけですね
15. 100 山の賢者 ■2010/07/02 14:47:54
朴念仁同士お似合いだなあw
まあ、お二人とも寿命は長いようなので、あとは時間の問題でしょう。
19. 80 あおこめ ■2010/07/03 13:30:03
ああ、慧音と霖之助で競輪か……
互いに不器用な香霖と慧音がとってもいい感じ。
先は長い二人ですから、きっとゴールインしてくれるでしょう。
口から砂糖吐くぐらいの甘い甘い作品でした。
20. 90 名前が無い程度の能力 ■2010/07/03 18:02:21
とりあえず名前に使われる漢字にダウトだぁぁ!!
こんなツッコミも作者達の掌の上だと思うと悔しい!でも(ビクンビクン

甘いのに青柚子のようにさっぱりとした風味を感じる、素晴らしいSSでした。
霖之助はこれくらい朴念仁がいい。慧音先生はこれくらい初心がいい。
ただ、慧音が自身の妖怪部分をどうしてこれくらい毛嫌いするのか、その部分が若干薄いためちょっと減点。幼いころに罵られたりしてトラウマでも抱えたのでしょうかね…

でも、大変読みやすくて面白い作品でした。競輪流行れ!
23. 70 星見情景 ■2010/07/04 04:23:52
競輪ってそういうことなのかー

ハッキリしない関係性と相手に依存し過ぎている両者にモヤモヤしたけど
慧音先生がカワイイのでどうでもよくなりました
26. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/04 18:22:46
いい男だな、香霖。
裏表なく、そう言えるぜ。
30. 70 半妖 ■2010/07/06 00:34:10
霖之助め!相変わらずのニブチンで、でもいい男で、だから大好きだよ!
この関係がゆっくりとでも進展することを願います。
31. 90 名前が無い程度の能力 ■2010/07/06 02:15:46
行動がいちいち可愛らしい慧音に惹かれて読了。

こういう、両想いなのに気付いていない、相手は自分のことを想っていないとお互いが思っているシチュは大好物です!
終始穏やかな雰囲気で、安定して読めました。
結論、慧音可愛いよ慧音w
34. 10 電気羊 ■2010/07/07 04:19:47
ちょっとなぁ……。なんだかなぁ……。
霖之助ものが苦手というのもあるんですけど、ちょっと文量が足りないのもあいまって、霖之助好きな人には楽しいんでしょうけど、俺は楽しめなかったです……。
35. 80 名前が無い程度の能力 ■2010/07/07 18:37:02
慧音先生はなんでこんなに可愛いんだ。
お約束をきちんとするあたりがまた良かったです。
42. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/12 01:34:28
あまあああああああああああああい!!!!!!!!
色々言いたいことはありますが、とにかく乙!
45. 100 ト〜ラス ■2010/07/14 18:33:43
なんなんだ……なんなんだこのバカップルは!いいぞもっとやれwwwwてかけーね先生ただいまってw
さて祝儀袋も持ったし式場は博麗神社で合ってたかな?


途中のシリアスが後書きでもってかれたw全く持ってけしからんwww満点もってけ
48. 60 名前が無い程度の能力 ■2010/07/19 23:44:50
まぁ霖之助カプものは旗折りSSになりますよね……
慧音先生の通い妻っぷりは良かったですが、それだけでした。
50. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/25 01:17:03
砂糖
51. 70 名前が無い程度の能力 ■2010/07/27 21:15:52
もういいからおまいらけっこんしろ
53. 60 名前が無い程度の能力 ■2010/07/29 19:12:48
おとめ乙女してる慧音先生がこれほどの破壊力だとは……。
先生に対する違和感はありましたが、あまりの可愛さにそんなもの吹き飛んでしまいました。
54. 80 PNS ■2010/07/30 00:49:54
なんてイケメンな香霖……そしてなんてラブリーなけーね……。
しかし私は競輪と闘う運命にあるのだ! という個人的な感情は評価とは別にしてあります。本当です。
55. 40 即奏 ■2010/07/30 04:46:47
なんて乙女な慧音……!色々と衝撃を受けました……!

個人的な望みを言わせて頂ければ、慧音が霖之助に惹かれていく過程を見てみたかったです。
いや、けれどそんなシーンまであっては、僕はきっと糖尿病になっちまうでしょうから、
現状以上を望むのは危険なのかもしれませんね……!
58. 10 八重結界 ■2010/07/30 16:42:02
悶えたくなるような恋愛劇でしたが、若干私の肌には合わない感じでした。
59. 70 名前が無い程度の能力 ■2010/07/30 17:31:40
なにこれ甘酸っぱい。二人とも不器用で頬がニヨニヨして仕方ありません。ごちそうさまでした!
60. 60 ムラサキ ■2010/07/30 19:07:47
だんだんと自分の中の本音を、霖之助に話して行く慧音の姿が可愛かったです。
最初のて、てーは特に惹かれました
62. 100 サバトラ ■2010/07/30 22:05:00
時間の都合上、点数だけの投稿とさせて頂きます!
大変申し訳ありません!
63. 70 蛸擬 ■2010/07/30 22:27:33
純真な慧音さんはいいものです。
65. 100 つくね ■2010/07/30 23:35:13
取り急ぎ点数のみにて失礼します。感想は後日、なるべく早い時期に。
66. 100 春野岬 ■2010/07/30 23:39:26
なんというラブコメ空間。
慧音が可愛過ぎて困ってしまった。
67. 30 名前が無い程度の能力 ■2010/07/30 23:41:37
けーりんが嫌いなわけじゃないけどもっと話作って欲しかったなぁと
テンプレ読んでる気分だった
68. 100 ぱじゃま紳士 ■2010/07/30 23:53:37
 申し訳ございませんが、採点のみで失礼いたします。
69. 30 更待酉 ■2010/07/30 23:55:14
昔は里にいただろうから慧音との関係もありかもしれませんね。
ただ、やるからには何故好きなのかという理由とかの描写も欲しかったです。
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