薔薇は咲くより、散るよりも

作品集: 最新 投稿日時: 2010/06/14 02:09:58 更新日時: 2010/07/31 22:53:29 評価: 42/92 POINT: 5950 Rate: 12.85

 
 
 
 
 
§.プロローグ あるいは過去を振り返るためのお話
 
 
 
 
『まぁ。ちょっとかなしいことなんだよ』
 
 
 口をついて出たのはそんな言葉だった。それぎり声は続かなくて、頭上の耳にはさやさやと音が流れ込んでくる。地の底にだって風は吹く、灼熱の釜からちょっと離れてしまったなら、季節によってはそれで寒さに震えたりもするのだった。そんな時は人型を保っているよりも、猫の姿に戻った方がよいのだけど。普段よりも高い位置から景色を眺めたい気分だったから、二本の足で立っている。
 
 今、地上の季節はなんだっけ。随分行ってないからどうにも感覚が鈍ってしょうがない。さほど冷え冷えした感じじゃないから、それに似合った頃合なんだろか。
 
 あたいの言葉を受け取った筈のお相手はと言うと、少し不思議そうな表情を浮かべてた。家族としては新入り、尾っぽが二股に分かれてからそこそこ歳は喰ってるのであろう化け猫。今は人の型をとっていて、いつも通り見た目はあたいよりも若い……ちょっと違うか。「幼い」の方が合ってる? どうでもいいか、そんなこと。
 次の声を投げ出すまで様子を伺ってみれば。ゆるい風は感じられているのか、その耳が微かに動いてる。
 
「あんまり気にしなくっていいことさ。お前には関係ないことだもの」
 
 関係ない、って言葉。声に出してみたら、ぼんやりと字面が頭に浮かんでくる。
 『関係ない』。字面は勿論、響きもなんだかかなしい。
 この言葉をひとたび投げ出してしまったら、色々とおしまいになってしまう。
 何でもない、ほんとに何気ないことかもしれない何かが終わる。
 
「ごめんねぇ。悪気があったってわけじゃないんだけど」
 
 おしまいになった後で流れる文字や声は、きっと風に乗って遠くへ行ってしまうんだ。
 
 幾ら放った処で、きっと誰にも受け止めて貰えず。
 かと言って投げかけられれば自ら受け止めきれず。
 黙りこくればいよいよ何もなくなるのが常だった。
 
「……」
 
 お相手はしゅんとした様子で耳を垂れ下げる。
 やっぱりおしまいだった。小さくこの場が終わった。
 こんな小さなおしまいを、多分あたいは沢山繰り返してきたような気がする。
 
 積もり積もって大きな終わりがくるわけじゃあないのだけど。
 悪いことかと言われても、別にいいんじゃないかねぇとか答えるだろけど。
 あたいが「かなしい」と思ったことを、この娘に言って聞かせてしまったら。
 いちいち持たなくてもよかった筈の感傷じみたものを、味あわせちゃうかもしんない。
 それは厭だなって思っただけなのにねぇ。
 
 足元を見やれば、こんなゆるい風じゃあちっとも身を動かす素振りのない花が咲いてる。
 
 自分が担当してる作業がないときだって、他の家族がちゃんと働いてるのかって見回る仕事はある。長く棲んでれば棲んでるだけ、自然とそういう役割が回ってくるもの。
 新入りの娘は庭弄りを任されてる。草だの樹だのに水やってみたり、長く伸びすぎれば鋏で切ってみたり。この娘は普段から真面目にそれらをやってるみたいだったから、あんまり心配してなかった。でも何だか今日はちょっと様子が変だった。
 
 しゃがみ込んで、何かを見ている様子。忍び足で近付く意味もなかったし、普通に歩いて普通に声をかけた。ちょいちょい、ちゃんと仕事してんのかって。
 そこで視界に入ったのは、なつかしい花のかたち。
  
 
『ここいらで生花を見かけるなんて。随分と久しいもんだ、しかも薔薇じゃあないか』
 
 
 花びらに触れてみると、きちんと生きてる感触がした。こと地底じゃあ草木ぼうぼうなんてのは珍しいもんでもなかったけど。住まいの近くだと、何故かとんと花を見る機会がない。
 暫くしげしげと眺めてたら、話しかけられたんだ。
 
 
  『生花、久しぶりなんですか?』 ああそう、そうなんだよ。
  『どんな風にお世話したらよいものか迷います』 そうだねぇ、普通に水をあげておやり。
  『屋敷の中にもありますよね、あれは造花ですけれど』 ああ、ご主人様が好きだったのさ。
  『へぇ、思い出深い花なんですね』 うん、まぁ。
 
 
  『どんな思い出ですか? お燐さん』
 
 
 どんな。どんなか。
 そうだねぇ、
 ……、……。
 
 
 
 ◆
 
 
 
「お燐さん」
「ん?」
「そんなの、ずるいです」
 
 お相手から、ちょっと予想外の言葉が返ってきた。
 
「ずるいって。どういうことなのさ」
「そのままの意味ですって」
 
 そのまま、って奴がよくわかんないから訊いてるってのに。目線を少し逸らす素振りをされてから、口を噤まれてしまった。
 
 元は只の猫、普通の獣だったはずの自分たち。言葉を持たずとも、互いの思いってやつをわかりあっていたように思う。なんとなくだけどさ。ただ、感じた思いに食い違いみたいのがあったからって。特に困るわけでもなかったんだ。
 今はどうだろ。こうして言葉を話してみたら、だんまりを決め込まれたらそれでおしまいみたいな。そんな感じすらある。受け止められないかもって幾ら思っていても、答えて貰えなければもどかしく。小さなおしまいが眼の前に差し迫るばっかりで。
 ああ、言葉なんかひとつもなかったって。相手の心を見通せたら。すぅっと染み込ませるように理解出来たのなら。なんて思ったこともあったかねぇ。この屋敷から、ご主人様が居なくなってしまってから。
 
 ご主人様、あのお方こそ。言葉を持たない、あたいみたいな獣たちの心を見透かしていたのだった。
 にゃあにゃあ口で言ってて、思いを上手く纏められなかった時も。
 人型になって言葉を口にすることを覚えてからは、よりはっきりと。
 
「お燐さん」
「……どしたい」
「ご主人様、と言われましたよね。私はお逢いしたことがありませんけれど」
 
 真っ直ぐな視線と共に言われた。この娘の声色はどこか凛としている。きんきん響くでもなく、聴いていて耳に心地よい。
 
「私、訊きたいです。『ご主人様』のこと」
「そりゃまた。どうして?」
「ずるいからです」
「そりゃ先達ても聴いたんだがね」
 
 薄暗い地底で、特に変哲もないやりとりが続く。もう仕事の見回りなんかはどっかに置いた感じで、ふたりで腰を下ろして。どうせ時間は有り余ってる。
 この娘は水遣りをしていた筈だけど、今座った辺りは土が乾いてるみたいなのでよかった。
 
「私はそりゃあ、新入りですけれど。でも、でも。私だって、家族になったんです」
「……」
「知らなくていいことだってあるかもしれません。でも『関係ない』だなんて。そんなの、それで終わっちゃう。おしまいです」
 
 おしまい。あぁ、そうだねぇ。本当にそうだ。
 
「どんな思い出なのかって。軽率に訊ねてしまったのは申し訳なかったと思ってます。ごめんなさい」
「や、気にしちゃ駄目だよ。繰り返しになっちまうけどさぁ」
「気にするんですよ。私みたいなはぐれ者を、家族として受け入れて貰って。でも新入りだから、知らないことはいっぱいで」
 
 そうさ。お前の知らないことがいっぱいあるさ。
 とりわけ今の話題を胸に抱えている輩は、此処じゃあ随分少なくなっちゃったけど……。
 今こうして思っていることなんて、この娘には伝わらないだろう。あたいは声に出さないから。言葉にしないから。
 
「お燐さん、かなしいって言ったでしょう」
「『ちょっと』かなしい、ね」
「少しでも何でも。言葉にして欲しいんです。なんとなくならわかりますよ? でも、言葉にして貰わないとはっきりしない。私は心を読めるような妖怪じゃありませんもの」
 
 うん……そうだね。
 
「お燐さんがかなしいのなら。まして、『ご主人様』のお話だと言うのなら。私にとってもきっと『ご主人様』なんです。お燐さんだけかなしいなんて、ずるい。ずるくて、やさしすぎます」
「……」
「私にも分けてください。ちっとも軽くならないかもしれないけれど」
 
 大袈裟だなぁ。ほんと大袈裟だ。
 
「そんな大した話じゃないんだって。昔は此処にご主人様が居た。今は居ない。つらつら話してもそんくらいなんだけど」
「いいです。それでも」
 
 凛とした声の調子は変わらずに、けれど何処までも真っ直ぐに、この娘は言葉を投げかけてくる。
 
「言葉なんかなくたって、わかって欲しいもんだ。空気読めとかさ、そういうことだよ」
「……ごめんなさい」
「ああもう、しょげるな。怒ってるわけじゃないの。言葉に頼ってるのは、あたいだっておんなじだもの」
 
 仕事はまぁ、もうちょっとばかし休んでも平気だね。他愛ない思い出話でもしてやろうか。
 こんな話ひとつ伝えるのに、どれほど多くの言葉が費やされることか。
 
 本当、頼りすぎだ。いつからこうなったのだろ。
 声に出す言葉。指先で記す文字。耳や眼に届くものがあれば大丈夫だって思うようになったのは。
 一体いつからだった?
 
「いいよ。お話してあげるさ」
 
 どうだろう。
 言葉なくとて、すぅっと理解してくれたあのお方に逢った時からかもしれない。
 
 わかってもらえるのに。それが嬉しくて堪らないのに。
 それよりもっと、自分が理解出来るものを求めた。
 
 そう。
 
「今にして思えば――」
 
 
 
 
 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
 
 
§1.古明地さとり
 
 
 
 
 花びらを摘んでは折り曲げ、微妙な反り具合を調整する。目から離して全体の出来映えを確かめると、最後に指先でその曲線をなぞり、私は一応の満足をみた。
 
 手ずから造り上げた薔薇の一輪。そっと卓上の花瓶に挿し、椅子の背もたれへと上体を預ける。机の上には色とりどりの生地や鋏、針金に糊壷と、造花造りの小道具が散乱していた。
 
「……ん」
 
 一つ伸びをして、強張った筋肉をほぐす。
 
 内職に頼らざるを得ないほど地霊殿の財政が困窮している訳もなく、これは単純に私個人の暇潰しだった。
 大半の業務をペット達に任せ、自身のこなすべきことといったら精々書類仕事くらいのものか。日課である敷地の見回りを怠らなかったとしても、宙ぶらりんの時間は有り余る。
 
「あんまり念入りに回っても、皆に煙たがられてしまいますしね」
 
 そんなこんなで手持無沙汰な時は、こうして机に向かうのが常だった。手先の器用さと集中力を要する作業に没頭している間は、憂き世の思い患いから解放される。
 鮮やかな草花は地底世界で貴重品だから、実用的な意味もあるにはあった。屋敷の廊下や踊り場を飾るささやかな彩りは、ほとんど自分が手慰みに拵えたものだ。自慢じゃないが、遠目から見れば本物と区別がつくまい。
 
 長い間姿勢を緊張させていたためか、目はしょぼしょぼするわ、手先の震えが止まらないわ。元から体力のある方ではなかったが、最近はとみに体調が優れない。昔なら、これだけの時間で三輪は完成させていたはずなのだけれど。しかし手間暇が掛かった分、我ながら上出来な一品であろう。
 
 と、のどの渇きを覚えて席を立とうとした矢先、すぐ背後で佇んでいた人影に息を呑む。
 
「――。驚かせないで、こいし。部屋に入る時はノックをするように言ったでしょう」
「えへへ、ごめんなさい。出る時にはちゃんとしますから」
 
 お気に入りのフェルト帽を胸元に抱える、背格好なら同じくらいの少女。あっけらかんと微笑んでみせたのは、私のただ一人の肉親だった。この第三の目に接近を勘付かせない者など、彼女をおいて他に居ない。
 その姿を目にするのは、もう一週間振りになろうか。今度はどこをほっつき歩いてきたのやら。私が呆れる間、こいしは肩越しに机を覗き込む。今日は心なしか上機嫌なご様子である。
 
「それ、お姉ちゃんが作ったのよね」
「ええ、まあ」
「綺麗ねぇ。まるで、本物のお花みたいよ」
「ありがとう。自然の造形とやらには、到底敵う気がしませんが」
 
 とはいえ、面と向かって褒められて悪い気はしない。訳有って、妹は世辞と無縁なのだ。
 
「こいし。これ、良かったら貰ってやくれないかしら?」
「いいの? やったっ」
 
 にこにこと造花を受け取り、胸元に挿してみせるこいし。どうしても目が行ってしまうのは、隣り合う閉じた瞳だった。
 
「……そう、まだ」
 
 あとは時間の問題なのだと、一体何度自分に言い聞かせただろうか。着実にその瞼へ血が通っていることは見て取れても、まだその心を透かし読むことは叶わない。
 
 飾る薔薇の色は純白。花言葉は純真であり、未踏の処女地だ。妹には相応しくもあり、また痛烈な皮肉とも取れる。
 
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「そうね、丁度お茶にしようと思ったところだったの。一緒にいかが?」
「勿論、大歓迎ですわ。お姉ちゃんと一緒に、おー茶っ」
 
 屈託無く頷くこいしに微笑み返し、改めて席を立つ。扉へ手を掛ける背に、躊躇いがちな呼び声があった。振り向くことができないまま、ぎくりと心臓が跳ねる。
 
「そう、あのね、こいしちゃんったらすっかり忘れてたの」
「何かしら?」
「ただいま、お姉ちゃん」
「……。お帰りなさい、こいし」
 
 追い付いてきた妹がこんこんと扉を叩く。もう一息、きっと、もう一息なのだ……。
 
 
 
 ◆
 
 
 
「あら、もう無くなっちゃってるのかしら」
 
 百匹を下らない地霊殿のペット。彼ら彼女らの胃袋を預かる厨房はそれなりの面積を誇るが、時間帯が外れた今は人気も無くがらんとしている。下拵えに付き合わされて文句たらたらな新入りも、隙あらばつまみ食いに走る悪戯っ子の影も見当たらない。
 
 さりとて困ることもあるまい。紅茶なら普段から自分の手で淹れているし、いざとなれば簡単なお茶請けも調達できる。頭数の少なかった昔は、一人で皆の食事を準備していたものだ。こいしはその悲劇的な料理の才から、今も昔も戦力外通告だったが。
 問題は、花蜜の小瓶が空っぽになってしまっていたことだ。これが有るのと無いのとでは風味が段違い。調味料が切れそうだったら逐次補充するよう言い付けておいたのに。茶器を用意する段階でまだ助かった。
 
「こいしー?」
 
 火に掛けた薬缶を見ておいてもらおうと妹を呼ぶも、返事が無ければ姿も無い。またふらふらとどこぞへ行ってしまったのだろうか。廊下では、のべつ幕無しにお喋りしていたというのに。
 
 ――とってもとっても綺麗だったんだよ。お姉ちゃんにも見せてあげたかったな。
 
 一方的に語られる話題は、地上の風光明媚についてが大半を占めていた。はしゃいだ様子の妹へ羨望の念を抱いている自分に気付き、これは意外と感じ入る。日の光への憧憬なんて、とうの昔、この地底世界へ骨を埋めようと決心した際には枯れ果てていたものだと思っていたのに。事実、もう何百年も森の腐葉土を踏んだ記憶は無いし、この先も機会は無いだろう。
 
 今ばかりは、こいしが私の心を読めない事実に感謝しよう。
 
「本当に、しょうがない子ね」
 
 また匂いに釣られて寄ってくるのならば御の字とし、ひとまずのところ火を止めた。厨房に近い、食糧庫を兼ねた倉庫へと向かう。
 
 土といえば、私の数少ない趣味には造花造りの他に土いじりがある。如雨露のお役目は欠かしていないが、スコップや草刈り鎌の握りとはご無沙汰だった。この後時間があるようなら、貧乏苔でも剥がしに行こうか。地上から新しい園芸の本を取り寄せるのもいい。倉庫の片隅には、まだ余った煉瓦が隅に寄せられているはずだ。
 
 内部はひんやりと薄暗く、スイッチを入れるも弱々しい照明しか灯らない。灯芯が古くなっているようだ。担当の者――確か蝙蝠の化生だったか――には機会をみて注意しなければ。
 立ち並ぶ戸棚。埃の地層。以前と配置が変わっているらしく、目的物は所定の位置に見当たらない。例の慢性的な疲労感も手伝って、少なからず苛立ちを感じながら薄暗がりに目を凝らす。
 幸い、一巡りもしないうちに半抱えもある大瓶を発見する。月の半ばも過ぎていないというのに、既に中身は半分を割っていた。花がそうなら蜜もまた高級品なのだが、動物達は往々にして節制を軽視するものだ。頭より高い位置のそれを取ろうと爪先立つも、どこかしら引っ掛かっているようで動きそうにない。
 
「よいしょ、っ、――と!?」
 
 力任せに引き抜いたのがいけなかった。その拍子に別の容器が傾ぎ、積み上げ方が悪かったのだろう、巻き込まれた周りの荷物が雪崩落ちる。崩落の直撃を受けた私には悲鳴を上げる暇も無かった。どんがらごろごろ、盛大な激突音と重い打撲音とが一緒くたに響く。
 
「え、ぐぅ」
 
 何とかぐうの音は出た。重い荷物の下敷に、私は床へ押し潰されている。抜け出そうともがいてみれば、身体のあちこちに鈍い痛みが走った。かと思えば左腕の感覚が無い。元より腕力自慢の妖怪でなし、まるで仔象にでものしかかられたかの如く身動きが取れなくなっていた。無機物による不慮の事故は古来から言い伝えられる覚りの急所。沈着よりも諦念が思考を占める。
 
「誰、も……、ぁ」
 
 助けを求める呼び声も後が続かない。最も近場に居たペットの心象に焦点を合わせようとして、像がぐなりと歪む。読心を司る第三の目が、どうも直接的な損傷を受けているらしい。どろどろと、失われてはいけない液体が零れてゆく。
 状況は深刻だった。血と呼気の巡りが堰き止められてしまったかのように、痺れが左腕から広がっている。辛うじて光を拾う第三の目が、声を上げて届く範囲に誰も居ないことを教えてくれた。
 
 ……、こいしは、どこへ行ってしまったのだろうか。
 
 いよいよ万事休す。これ以上の精神的負担は禁物だ。限界を訴える神経系に逆らわず、私はあくまでも意識的に自らの意識を手放した。
 
 
 
 
§2.霊烏路空
 
 
 
 
 しまった。忘れた。
 
 地下センターの管理室、ノートを開いたところで、私は途方にくれていた。ぱらぱらとめくっても、そこには文字で埋まったページばかり。これじゃあ、今日が終わらない。その日に起きたできごとを、そのまま紙に書き写す日記は、仕事の終わりに必ずつけているもの。覚えることがあまり得意でないのは自分でも判っていて、対策として毎日書くようにしているのだ。
 それが昨日で埋まってしまったから、新しいのを買わないと、と思っていたのだけれど、忘れてしまった。これからひとっ飛びで買いに行って、はたして間に合うのかどうか微妙なところである。旧都は夜の訪れが早く、そして長い。下手に行くと、それこそ目的を忘れて飲み明かしてしまうこともある。そうしていけないこともないが、今日はそんな気分でもない。
 
 最後のページをぼんやりと眺めていたら、ふとその右側のページに目がとまる。まっしろで、そしてつるつるした硬いページ。裏表紙の裏で、本来はページと呼べるかどうかも定かではないし、少なくとも字を書くところではない。
 仕方がない、という言葉は好きではないけど、ここに至っては、仕方がない。今日のことは、これに記そう。椅子を引き、ペンを取り出し、書き残すべきことを思い浮かべる。
 
 仕事に関しては、特筆すべきことはなかった。私のやることは、灼熱地獄の跡地のころから変わってはいない。一言でいえば、エネルギーの調整、である。扱うものは変わった。この間欠泉地下センターで精製しているのは核エネルギーで、細心の注意を払っていることもあり、開設して以来、事故らしいものは起こっていない。
 
 今日はお昼時に碧色の巫女が来て、一緒にお弁当を食べた。碧、という字を教えてくれたのは早苗だった。最初のうちは霊夢と早苗の区別もつかなかったが、それは時間が解決した。霊夢は皆から紅白と呼ばれていたけれど、早苗は人によって青白だったり緑だったりと一定しない。覚えにくいと文句を言ったときに、先の字を教えてくれたのだ。碧という字は、「あお」とも「みどり」とも読むんです、だから、とりあえずこれで覚えて、その日の気分で呼び分けてください。重ねてどっちで呼ばれたいかと聞く私に、服より髪を見てもらったほうが嬉しいです、と返した彼女は、少し苦笑いだった。
 その碧色だった巫女も、既に巫女を辞めた。今の早苗は、何人目だろうか。名前を覚えては新しくなり、新しい名前はなかなか定着しない。今日などは顔を見るなり、早苗じゃありませんよ、と言われてしまった。まぁ、おむすびをくれたりしたから、嫌われてはいないのだろう。
 
 人に見せるものでもないし、思ったことは、そのまま字になる。普段と違う紙質は、さらさら書くというよりざくざくと刻みつけるような感じ。書き味の硬さに言いようのない不安を覚えると、一面の白が黒く埋められてゆくことすら気になる。何度か頭を左右に振って、やっとの思いで追い出した。
 
 日記を書き終え、そのついでに、第三の足に日記帳と書きつけておく。これで明日は忘れないで済むだろう。ここから後は帰るだけである。ぱたんと閉じて、がらっと開けて、ぽんとしまい込む。がたっと動かし、ぱっと投げ置き、ぱたぱた歩いて、ばたんと開け閉め。体が覚えているから、何も考える必要はない。ばさっと飛び立ち、ぎゅいんと加速する。
 
 生ぬるい空気を切り裂いて、頭からっぽ、一直線。すいすいと怨霊たちを避けながら、まっすぐ家を目指す。
 旧地獄とひとくくりにされてはいるが、その構造は多層にわたり、また様々なところにつながっている。ちなみに、間欠泉地下センターから、ずうっと上に行くと、妖怪の山の麓に出る。もともと地脈は通っていたらしいが、センター建設にともなって人妖や物資が行き来できるように通路を整備したのだ。
 センターから灼熱地獄跡地を通りすぎて、地霊殿に向かう途中に、私たちの家がある。灼熱地獄は、私にセンターを管理する必要があったことから、その温度調節を河童たちの機械に全自動でやってもらっている。もう使わないようにする方向で検討もされたのだけど、その案は温泉が冷泉になってしまうことを心配した霊夢によって却下された。レイセンは二人もいれば十分だと言っていたが、何のことかは判らずじまいだった。
 
 灼熱地獄を一気に抜けて、さあラストスパートと意気込んだところで、妙な違和感を覚える。空気がざわついていて、落ち着かないのだ。何かあったんだろうな、と思っても、スピードが上がらない。体にまとわりつくような重たい感じに捉われてしまっている。いつの間にか怨霊たちの姿も見えなくなっていて、何があったのかを知るすべもない。それでも、嫌な予感がする。
 やっと家が見えてくるところまでたどりつきはした。さとり様と暮らす者たちがともに寝起きする場所であり、さまざまな情報の集まる場所でもある。けれども、ここもざわめいている。ということは、さとり様に関係することかもしれない。ここから地霊殿まではそう遠くはないから、先にそっちに行ってみるほうが良さそうだ。何とかは急げというとかいった気がする。気合いを入れなおして、もう一度スピードを上げにかかる。
 
 はやる心に、進まぬ体。二つがばらばらになりそうになるのをなだめすかして、何とか地霊殿までやってきた。門の内側にあわただしく着地して、すぐさま体勢を立て直して建物へと走り出す。と、向こうからも人影が近づいてくる。見覚えのある姿に、足を緩める。彼女に聞くのが手っ取り早い。
 
「お燐! 何かあったの?」
「さとり様が……」
「さとり様が?」
「倒れたんだ」
 
 たおれたという音を、倒れたという言葉に変換するまでには多少の時間を要した。拒絶したくて、それでも他に変換できなくて、どうしようもなくなってさとり様は倒れた。
 
「大丈夫かい?」
 
 気がつくと、前にいたはずのお燐が上にいる。助け起こされて、初めて自分が倒れていたことを知った。どうやらさとり様と一緒に倒れてしまったらしい。
 
「さとり様、大丈夫?」
「たぶん」
「だったら、私も大丈夫」
「じゃあ、あたいはちょっくら医者を探してくるから、おくうはさとり様を看ていてくれないか」
「この時間なら、もう店じまいじゃないの」
「自分の目で確かめないことには、どうにも心配なのさ」
「判った」
 
 お燐を見送ってから、さとり様の部屋へと向かう。やっぱりさとり様を心配してか、今日の地霊殿にはみんなが集まってきている。あれやこれやと捕まえて、なんやかんやと話を聞いて、おおざっぱに出来事を把握する。
 事実としては、積荷の下敷きになったさとり様がついさっき発見されて、今もまだ意識は戻らないというのが現状らしい。みんなパニックになってしまって、それぞれ医者を探しに行ったりご飯を作ったり部屋の掃除をしたり絵を描いたり変形合体したりと大変な状況になっていた。何しろ、誰もさとり様の側についていないのだから。さて、そのさとり様はドアの先に眠っている。音をたてないようにそっと開けたけれど、むしろ目覚めてほしいのだからと考え直し、閉めるときは音をたてた。微動だにしないその体に近づけば、布団の中まで確認するつもりはないが、目立った外傷はなさそうである。
 
「さとりさまー……」
 
 呼びかけてみるけど、返事はない。心の中で、さとりさまがこだまする。さとりさまが小さく消えてしまう前に、もう一度さとりさまを大きくする。それを延々と繰り返した。最初は数えていたけれど、すぐに覚えていられなくなった。
 
 それから、何人もさとり様の具合を見にきては帰っていった。皆の反応はそれぞれで、もうさとり様が二度と目を覚まさないのではないかと悲観する者から、体力が回復するまで眠っているのだと言う者、実は起きていて密かに心を読んでいるなどと言った奴もいて、そいつは殴った。
 
 ばたんばたんと何度も開け閉めされるドアがそろそろ心配になってきたところで、さすがに次で立ち入り禁止にしようと思ったのだけど、実現はしなかった。
 
 コンコン
 
 ノックしてきたのは初めてだった。そういえば私もしていなかった。ドアはそっと開いた。私もそっと開けた!
 
「あ、おくう」
 
 お燐だった。
 
「どうだった?」
「どこも閉まってた」
「そっか。仕方ないね」
 
 言葉にして気づいた。今の私は、仕方がないに囲まれている。さとり様が起きないのも仕方ないし、医者が来ないのも仕方がない。やることがないのも仕方なくて、私が何もできないのも仕方がないんだ。
 
「だめだめ。仕方ない禁止」
「い、いきなりどうしたんだい?」
「ねぇお燐、さとり様を起こそう」
「おくうちょっと待ちなって」
 
 さとり様に向かっていった私の腕をお燐がつかむ。ちょっとしたもみ合いみたいになって、それでもさとり様に迷惑がかからないように配慮しながらだった。だから、さとり様の体がほんの少しでも動いたときに、私たちは示し合わせたようにぴたっと止まったのだ。
 
「……貴方たち、何でダンスなんか踊っているの」
「え、あ、成り行きで、ですかねぇ」
「さとり様を起こそうとしてたんです」
 
 さとり様は横になったまま私とお燐とを交互に見て、軽くため息をついた。
 
「不思議な踊りじゃ眠った相手は起きないのよ」
「でも、起きましたよ」
「まだ起きられそうにはないわね」
 
 どうやら、体を起こすことは難しいらしい。いつの間にやらお燐がコップに水を入れてもってきた。上半身が少しだけ傾いて、少しずつコップの水は減っていった。
 
「ありがとう。みんな心配しているでしょう。安心させてきてあげて」
「わかりましたー」
「ああ、空」
「引出しにノートがあるから、持って行きなさい」
「ううん? あ、日記帳!」
 
 すっかり忘れてしまっていた。さすがさとり様だ、と思っていると、ゆるゆると首を振られた。
 
「書いてありましたから」
「ほんとだ。さとり様、ありがとうございます」
 
 さとり様はまた目を閉じて、私は、そっとドアを閉めた。絶対に音をたてないでいてやろうと思って本当にそろそろと閉めたのだけど、少しだけぎいっと鳴ってしまった。
 
 お燐がみんなに伝えて回って、みんなも落ち着いた様子だった。さっき誰かが作ってた料理をみんなで食べた。あんまり美味しくなかったのは、腕の問題だったのか、気分の問題だったのかは、判らなかった。見回すと、みんなも同じ様子だった。
 
 そのほかに、私には気になっていたことが一つだけあった。今日はこいし様を見ていない。この頃は毎日のように地上の話をしてくれていたのに。誰か見なかったか聞いてみたけど、誰も見ていなくって、でもそれはみんなにとっては当たり前のことだったから、特に気にとめられることはなかった。
 
 
 
 
§3. 火焔猫燐
 
 
 
 
 ああもう、どいつもこいつも。
 
 駆けながらに舌打ちする。旧都の雑多な街並み、妖怪どもの間をすり抜ける。走る分には、獣の姿でいた方が人型よりも段違いに速さが出る。
 勿論あたいだけじゃなくって、ペット達――家族達もみんな駆けずり回ってる筈だった。
 
 医者、医者だ。兎に角医者を。
 気ばかりが急いて、足が空回りしてるような気がしてる。もう其処かしこで囁かれてる話題は、大概おんなじものを指してる様子だった。
 
 
『地霊殿の主が倒れたってよ』
『あの覚りがか――』
 
 
 それを知られているのも当たり前の話。その噂の元ダネは、他の誰でもないあたい達だったのだから。
 昨夜はもう時間がかなり遅かったこともあってか、呑み屋以外は大概店じまいで。医者が住んでるらしい家、その扉をぶち破って叩き起こしてやろうかとも思ったけれど。ただでさえあんまり評判のうまくない地霊殿、ご主人様の心配ごとを増やすわけにもいかないし、やめておいた。
 
 それで今朝になってから本格的に走り回ってる。実感したのは、昨夜のことだけでも噂は十分に広がるということ。それもそうだ。一斉に獣妖怪たちが旧都を走り医者を探すその有様。周りからすれば十分奇異な光景として映ったことだろう。
 
 そして今。いざ医者と掛け合うためには、何においても先に「誰が倒れたか」を説明しなければならなかった。本当は、もうちょっとこう、ぼやかして伝えたいと思っていたけど。どうしたって倒れたのは誰それで、どんな妖怪だ? とか尋ねられる。
 
 走りに走った先々で、やっとこ捕まえた輩ども。どうやら仁術を心得てるらしいそいつらの話によれば、種族によって独特の症状もあるとのこと。そりゃごもっとも。猫なら猫。鴉なら鴉。鬼なら鬼の病ってやつがある――鬼についちゃあ、それこそ霍乱になっちゃうか。
 けれどあたいがひとたび「覚り」の名前を出してしまうと、相手はそれだけで竦み上がってしまった。
 
 ……なら、訊くなってんだ!
 
 恐れをなして「近付きたくもない」なんてのたまうのなら。一丁前にやれ患者がどうのこうのなんざ、初めから言うない。
 今走りながらに思ってることは、実際相手にもぶつけてきた言葉だった。そんな愚痴を零してる時間すら惜しい。実際のとこ、さとり様が一刻を争う病状にあるかどうかはわからなかった。けれどそれは、地霊殿には当たり前のように(自分を含め)素人目ばかりが揃ってたからかもしれない。診る者が診れば、何か取り返しのつかないことになってしまっているのかもしれない。動物なんて怪我はしょっちゅうだし、舐める以外に傷を落ち着かせる方法なんかを知ってるのもいたけど。さとり様が倒れた時に負ったらしい打ち身と擦り傷、その応急処置をして。あとは安静にさせる以上のことを誰も出来ない。そして、倒れてしまった詳しい原因を突き止められる輩だって、誰も居ない。
 
 不安なのだ。だってさとり様は。ただ転んだにしちゃあ、あまりに苦しみすぎている。
 昨夜はちょこっとだけ目覚めたものの、今日だってちっともよくなってる素振りがない。それどころか、息も苦しげに寝込んでしまっているのだ。
 
 風切りの響きと重なって耳に入ってくる音。本当にわずらわしい。旧都の裏通りを駆け抜ける時、その喧騒は厭でもあたいに届く。
 
 あぁ、
 
 ふと立ち止まった。無視して駆け抜けちまえばよかったってのに、出来なかった。息はそれほど切れていない。まだまだ幾らでも走り回れる。
 
 時間が惜しいのだろ?
 走れよ早く。
 探せよ急いで。
 
 自分でも驚いてしまうほど静かな呼吸をしているのがわかる。その代わり、身体の奥、本当に深い処からふつふつと湧き上がってくるものを感じている。不思議なもので、そうして生み出されたものは己の眼に映り込む。眼玉の裏っ側から滲み出て、表面に張り付いてくる。
 
 煮えたぎるような何か。
 眼の前で微かに明滅する何か。
 炎のようで、けれどとても白くゆらめく何か。
 
 こいつはさ。特にかなしい訳じゃない。怒ってるのに少しだけ似てる。けど、少し違う。
 誰にでもなく、あたいはあたい自身に語りかける。
 
 みずしらずの妖怪が二人一組、雑多な呑み屋で腰を下ろしてる。
 何が楽しいのか、陽気に酒を酌み交わしていた。
 
「いやよぉ、聴いたかよ。いや、まったく目出てェよな」
「な、ほんと清々すらぁな」
「お、なんだ。なんかされた口かお前?」
「いや別になんも」
「なんも、っておい。や、俺もなんかされた訳じゃあねぇけど」
「それでもよお前。なんつっても怖ぇだろが。覚りだぞ覚り」
「確かに確かに。そりゃわかるって。元は地上に居たんだろ? なんでこんなとこまで引っ込んで来たんだか。こちとらいい迷惑だっての」
 
 はぁ、なんだこの木っ端共は。
 よく知りもしない、多分逢ったこともないような誰かに向けて叩くのか。
 こんな口、くち、くちを。
 
「わからんけどよ。でもま、あれだな。犬だの猫だの鳥だのよ、大概そこいら飛び回ってるみたいじゃねぇの。あすこで飼われてる奴らなんだろ? はぁ、健気なもんだね。ご主人様のためによ」
「居なくなっちまってくれた方が、こちとら安心して酒呑めるのになぁ」
「ほんとなぁ。ま、乾杯しとくか」
「何に乾杯するのよ」
「いちいち言わすなって」
 
 突き合わせた杯の中身をだらだら零して。
 何が面白いのかげらげら笑って。
 
 
 ぱちん。
 
 
 衝動。
 直ぐだ。
 真っ直ぐに。
 その喉笛、爪で掻っ切ってやるのに一秒もかからんって。
 こいつらの死体は要らないな。見た目も小汚いし、その上多分ぐちゃぐちゃにするし、猫車が汚れちまう。
 普通に歩いて近付く。四つの足でしたしたと。阿呆な奴らの直ぐ足元。
 
 さァほらお前等、その辺転がってろって――
 
 
「――にゃッ!?」
 
 
 気配を察せなかった。
 我に返ったあとは首根っこ上から掴まれてて、あたいは身体を捻ってばたばたするけど、ちっとも自由になれない。その後まもなく、「ごんッ」と何かをぶっ叩く音が耳に届いた。二回分。
 
「お前等さぁ」
 
 地面に立っている時よか随分高い位置から、木っ端妖怪二匹が丸木机に突っ伏してるのが見える。
 
「加減した。本気でやるとほんとにぶち割れるから」
「ひ、ひぃ……ほ、星熊の姐御」
「お前等がどんな理由で酒を呑んでも私は構わないんだけどね。そも酒を呑むのに理由なんぞ要らん。まぁ、そうだね」
「な、なんでしょう」
「とりもあえず、ぶっ飛ばされる前にとっとと塒(ねぐら)に帰りな。そうでないと」
「……そうでないと」
 
 びりり、と空気が震える。その呼気。あたいのすぐ頭の上からの声が、低く太く響く。
 
「おっ死ぬぞ」
 
 言われてからは早かった。二匹はほうほうの体という言い方が合ってる感じで走り去っていった。
 
「ああ、親父さん。あいつら勘定払ってなかったろ? 迷惑かけたね。私もこれから此処で呑んでくから。お代はあいつらの分も合わせて払うわせてもらうよ」
 
 あたいの首から手を離す様子がない星熊勇儀は、あっけらかんとした感じで言った。
 いつまでも中空にぶら下げれてるのも堪らなくて、人型に戻った処でやっと自由になる――その代償は、したたかにぶつけて痛めた腰だった。
 
「あんなわかりやすく殺気立たれたらうまくないわよ。喧嘩じゃすまないから」
 
 あれほどの怒気のようなものを孕ませておきながら、今は本当に落ち着いた物言いになっている。争いごとに禍根は残さぬ。それこそ鬼のあるべき姿、星熊勇儀の在り方なのだと思う。それでなんだか毒気が抜かれちまったみたいで。邪魔しやがって、と。今の気分ではとてもじゃないが言えなかった。
 
 この旧都で喧嘩は華と呼ばれども、まっさら無法と言う訳でもない。力ある者がそこそこの治安を保つからこそ成り立っている。
 その強き者の一人が、眼の前の古椅子にどっかと腰を下ろした。額から伸びる角が、ことさら眼の前の輩が鬼であることを強調させる。
 
「星熊の。あんたが先達ての奴等の頭、かち割ってくれればよかったよ」
「馬鹿言わないでよ。そんな酒の不味くなりそうなことは御免だね」
 
 早速酒の注文を取り付けて、ご自慢の盃で景気よく呑み始める。
 
「どう? 貴女も一献」
「遠慮しとくさ。これでも結構急いでるから」
「ふぅん。あぁ、あれか。噂で聴いてる。仲間の鬼達から。あのいけすかない大将が倒れたのかって。貴女、地霊殿に棲んでるよねぇ? 気の毒には思うけど、そも私達には関係ない」
「……」
「私達は陽気に酒が呑めりゃ事もなしだから。病と力比べは出来ないし、どうにもならない」
 
 旧都の走り回っている間、確かに鬼の輩からも同じ話を聞いていた。
 鬼は随分この場所では幅を利かせていて、自由気侭に過ごすのが常。勿論それがまかり通るのは普通に強いからで、力勝負となったらまず大概の奴等が敵わない。
 そんな彼や彼女達はと言うと、噂はするにしても随分冷ややかな感じだった。倒れたって? ふぅんそうか、そんなことも有るんだなぁって。
 そんな感想で済ませてしまうのは、きっと己が生きて感じる楽しみに合わないからなのだろうと思える。それは今こうして会話しても実感出来た。
 
「医者を」
「ふむ?」
「医者を探してるんだよ。あんたの言う通り、ご主人様が倒れた。でも、あたい達じゃどうにもならないんだ。あたい達が傍にいたって、よくならない。よくなる筈もない。駄目なんだよ、今も苦しんでる、うなされてるの、だからさ、」
「落ち着いてよ。とりあえず呑んでいきなよ」
「それはいいんだって!」
 
 勢い込んだら、頭に手を宛がわれた。
 そんな強い力じゃなかったけど、わしわしって撫でられる。
 
「急いては事を仕損じる。よく言われるでしょ? そんなんだと空回っちゃうな。医者を見つけるったって、もう粗方探し終わった後じゃないの?」
「そ、それは」
「やっぱりね。多分さ、地霊殿に喜んで行こうとする医者なんて誰も居ない。みんな怖いんだよ、覚りの妖怪が」
「あんたも怖いっていうの」
 
 頭を抑えられながら上目で睨み付けたら、やっとのこと手を離してくれた。
 
「まさか。あれを怖がるのは自分に正直じゃない輩だね。よく嘘をついたり誤魔化したり、兎に角何かしら疚しい処がある奴等。単純にあれだ、私とあいつじゃあウマが合わないの。いけすかないって言っても、私が嫌ってる訳でもないんだけどなぁ」
「……それじゃやっぱり駄目なんだよ。診て貰えなきゃ意味がないんだもの」
 
 現実に差し迫ってる問題を改めて突きつけられた心地だった。決して諦めた訳じゃないけど、どうしようもなく肩を落としてしまう。
 
「これも何かの縁か。医者なら知り合いが居ないでもない。診にいかせるように、一人二人なら私が説得する。約束しよう」
 
 思わぬ言葉に顔を上げる。
 
「ほ、本当なの」
「本当よ。鬼は嘘をつかないのさ。まぁ、私が医者にかかってる訳じゃあないけどね! 笑い話にもならない、そんなの」
 
 からからと鬼は笑いを零す。そんじょそこらで過ごしてる輩とは、やはり何処か器が違う。
 
「……ありがとう……」
 
 心からの礼を残して、一先ず屋敷に戻ろうと思った。意味がないとわかってたって、さとり様のお傍に居たいと思った。
 ただ。走り去る前に、ひとつ気になったことを訊ねてみる。
 
「あのさ、酒を呑むのに理由は要らないんでしょ? なら別に悪口言いながら呑むのも勝手じゃないか。なんであいつらのことぶっ叩いたの」
「ん? あぁ」
 
 なみなみと盃に注いだ酒が零れそうになる。
 
「おぉっと。うん、まぁね。確かにあいつらが陰口叩くのは勝手だ。でも今、私はこの酒場で酒を呑んでこうと思ったわけ。そうなると、耳に入ってきちゃうから」
 
 もう先刻から三杯目を数える酒に口をつけながら、勇儀は言った。
 
「悪い話なんぞ肴にならないの。美味い筈ないんだよ、そうやって呑む酒なんて」
 
 
 
 ◆
 
 
 
 旧都を走り回ってた時の方がまだましだった。
 そう思える位の疲れっぷりで、やっとこ屋敷の前に辿り着く。あの時は無我夢中だったから自分でも疲れに気付けなかっただけかもしれない。酒場のごたごたを通り越したあと、いつもの速さで駆け抜けるだけで息が上がってしまった。人型に戻ったあとの汗のかきようがあんまりだったけど、気にしてる場合じゃない。
 
「さとり様」
 
 呟きながらに門を開けて屋敷に足を踏み入れる。ひょっとして、ほんとのほんとにもしかして、何かの奇跡が起きててくれないか。部屋に戻ればさとり様は普通に身を起こして、普通にいつもの表情で「あらお燐、どうしたの?」なんて言ってくれはしないか。
 
 部屋の前にたどり着いて、そっと扉の隙間から中を覗き見る。
 
「……」
 
 都合のよい奇跡なんて起きない。知ってた。わかってたさ、そんなことは。昨晩からちっともよくなりそうな感じじゃあなかった。だからこそ馬鹿みたいに願ってしまったんだ。それだけのこと。
 薄暗い視界に入ってきたのは、変わらずと床に臥しているらしいさとり様と。その傍でちょこんと佇んでいる人影がひとつ。
 
「おくう」
「あ、……」
「ちょっとこっち来て」
 
 ぼぅっとしてたのか、あたいの声に対する反応がちょっと鈍い。
 
「はやく」
 
 何度か手招きしたところで、やっとこ腰を上げて廊下へ出てくる。
 容態が芳しくないことは事実として、気がかりはもうひとつ。
 もう部屋の中を見た時点で答えはわかりきっていたけど、一応のこと訊いた。
 
「こいし様は?」
 
 おくうは黙って首を横に振る。
 
「……そう」
 
 こればっかりは奇跡なんかじゃなくて。普通に、普通であるからこそより強く「あって欲しい」と願っていたことだ。せめてさとり様のお傍に、こいし様が居てくれたならって。
 
「呼んでるの」
「うん?」
「時々、ちょっと眼をさますの。さとり様、よんでるのに。『こいし、こいし』って。でもこいし様、どこにもいないの」
 
 ただ。願う程度が普通であろうが何だろうが。結局叶わなければ何も意味がない。
 
「少し休みなよ。もう大分長く居たんじゃないの」
「帰ってきてからずっと。でもだいじょうぶ」
「おくうまで倒れたらどうすんの」
 
 今度はちょっと俯いて。か細い声でまた「だいじょうぶ」と言ったきり、おくうは口を噤んでしまった。
 
 医者を探しに出る際、何も出来ないとはいえ全員がさとり様の傍を離れる訳にはいかなくて。昨日は本当に皆混乱していたけど、今日は結局ペットで交代に見守ることと相成った。その中であたいは外を駆け回る役に。おくうは屋敷に残る役に。
 ただ、おくうはあたいと少し事情が違う。この娘が普段してる仕事と言えば、あたいのように一日二日怠けてても気にならないようなものとも違う。
 かつての火焔地獄跡。火が強くなりすぎたら天窓を開け、弱くなったらあたいの運んだ死体を投げ込むような。気軽な感じで誰かに頼めるようなものでもなくなってしまった。
 
 おくうが振るう力は、神の火と呼ばれる。ひとたび放てば悉く相手の身を焦がしてしまう。彼女がそんなでっかい力を備えて久しい。あれで色々ごたごたしたことがあったな、と何とはなしに懐かしく思う。
 
 大きな力を以て制御すべき仕事は、彼女以外の誰にも任せられない。たとい「火の調節」という内容に代わりがなかったとしても、本質が大きく違う。もうおくうは、あたいが運んだ死体を投げ入れる必要なんてない。
 一応のこと、おやすみの日だってある。おくうの仕事場には時々河童が訪れて、設備の調子をみたりする日がそれにあたる。そんなときはおくうも羽根を伸ばしておやすみを満喫するのだろうけど、生憎それがやってくるのも少しばかり先のお話。
 だからおくうは(本人は大分渋っていたけど)今日も仕事に行って、寝床に戻る前にこの地霊殿にやってきて。そのままずっとさとり様の傍に居たのだ。
 
 今おくうの纏う雰囲気が虚ろなのは、眠気の所為だけではないのだろうと思う。さとり様こそがいっとう苦しんでいるに違いないのに。それでもその周りに居るペット達の疲弊は明らかに見て取れた。
 ちょっとでも明るい話題を、って。別段気を利かせるつもりはなかったけど、とりあえず今日の出来事は伝えることにした。
 
「そうそう、そういえばね。星熊の鬼に逢ったよ」
「うにゅ?」
 
 心が読めなくてもわかる表情って、きっとこういう感じだ。「それがどうかしたのさ?」って言わんばかり、そんな小首の傾げ具合なんだもの。
 
「あいつがね、医者を紹介してくれるって。そう約束して貰ったの。此処に寄越すみたいなこと言ってたよ」
「ほんとに?」
「ほんと。鬼は嘘はつかないとか言うしね」
「ねぇお燐、そしたらさとり様、よくなるかな。またお話してくれるかな。元気になってくれるかな、ねぇねぇ」
 
 おくうは急に勢い込んで話すものだから、少したじろぐ。
 
「わかんないよ。医者が来てくれたからってよくなるとは限らないじゃないか」
 
 正直な感想。でもそれを言ってしまった後、あぁしくったと思う。何も馬鹿みたく思った通りのこと、わざわざ此処で言わなくったって。
 おくうはあんまり賢い方じゃないけれど、自分に正直だって点においてペットの中では随一。嬉しいことは手放しで喜び、怒るべき所は怒り、悲しければ泣く。そんな素直な感情の機微は見ていて安心出来て、だからこそずっと長いこと友達で居られたというのに。たった今あたいが放った言葉の所為で、みるみるしょぼくれていく。
 
「だって……よくなって欲しいよぅ。お話したいよぅ」
「……」
 
 『あたいだって、そうさ』とか。口には出さなかった。出さなくてもわかってくれるだろ、なんて思った訳じゃない。おくうはいつも通りの正直さをかたちにした、それだけ。でもそれだけで、この場の、この屋敷の思いはきっと満ち足りてしまった。あたいがこれ以上言っても、溢れて零れちゃうだけだ。
 
 ふと考える。
 心の中にある想いってやつは、多分ぎゅっと詰まってる。あんまりにも詰まり過ぎてて、巧く取り出せないこともあるだろし。外に出してみたら、とりとめなく膨らんで始末に負えなくなることもあるかもしれない。
 
 さとり様と初めて出逢った頃、あたいは嬉しくて仕方なかったんだ。
 ぎゅっと詰まった心の中を、あのお方はちゃんと感じてくれる。
 多分、想いを読まれても。そのまま黙りこくられたら、あたいは心を感じて貰えたことにも気付けない。でも、さとり様はそれをちゃんと伝えてくれる。あたいがわかるように伝えてくれる。
 
 言葉が。声や文字が大事なのかもしれない。わかるように。伝わるように。さとり様は心を読んだらそれで十分なのかもしれないけれど。それでも、それ以上にわかりやすくあたいも伝えたい。何気なくお話をする中で。そうするのがきっといい。
 
 今、お話したい相手は眠ってる。
 だから心の中に収めておかなきゃ。仕舞っておかなきゃ。
 
「どうしたの? お燐」
「や、なんもしないさ」
 
 元気になってくれたその時は、きっと。あたいは想ってる以上のことを口に出そう。おくうに負けない位に。
 
 穏やかな寝顔ならまだしも、苦しむ姿をずっと見続けるのはどうにも辛い。
 見守り役は別な仲間に交代してもらうことにして、あたい達は一旦寝床に帰ろうと思った。
 
 大きな門を潜り抜けて外に出る。本当地底ってやつは、朝ともなく夜ともなく暗い。門を開いている間、その隙間から地霊殿の中で灯るあかりがちょっと零れ出る。
 
 弱々しいひかり。地上に出たとき感じられるような、白く眩しいものとは違う。おくうが放つ神の火なんかとも比べ物にならない。ぼんやりとした橙色は、一応のこと「明るさ」と呼ばれるものを保っている。それが眼の前に広がっている草木ぼうぼうの景色を映し出す。
 そこはかとなく虚ろで。なんか寂しくて。自分が胸に抱いている想いも相まってか、泣きそうな気分になる。
 
「ねぇ、お燐。ちょっと」
 
 肩の辺りをつつかれつつ、小声で囁かれる。
 
「……んー?」
 
 あんまり言葉を交わす気力もなく、一旦は相槌をうつ。
 でも。
 
「んん?」
 
 背筋に、ぴりっとしたものが走った。
 
「誰。そこに居るの」
 
 おくうが背中の翼をばさりと広げながら言う。あたいはあたいで、おくうが向けている視線の先を追って眼を凝らした。
 
 居る。誰と言われてもわからない。けれど「誰か」居る。
 がさり、草の根を踏み締める音。随分ゆっくりとした歩調でこの場に影が近付いてくる。
 
 
『この辺り、の筈よね……』
 
 
 相手と思しき「誰か」の呟きが耳に届く。それ以外にもぶつぶつ言ってるみたいだったけど、それ以上はよく聞き取れなかった。
 
「えぇと、すみません。こちらの主殿が倒れられたと聞きつけたのですが」
 
 姿を現しきってから、先ずその頭らへんに眼がいった。長い髪に、長い耳。そして深い色合いの赤眼。
 ……見かけたことがある、ような。何処だったか? 少なくとも、ここ最近のお話ではないはずで。
 
「兎の妖怪が、何か用があるってのかい」
 
 呟くのはもうやめたみたいで、今や眼の前に現れた輩は取り澄ました声色で紡ぐ。
 
「倒れびとの元を訪ねるといったら、大概のところ要件はひとつに収まりましょう。私は薬師です。医療にも心得がありますし、症状に見合うお薬を処方しようと思うのですが」
 
 くすし。
 それ自体は耳慣れない言葉だったけれど、「おくすり」という音を聴けば大方想像がつく。
 薬なんて、あたいはあんまり好きじゃない。ただ熱があがっちまったときなんかはいっとう苦いやつを飲んで身体を落ち着かせたりすることもあった。
 
「是非ともお力になれればと」
「星熊の紹介なのかい?」
 
 話としては医者をよこすという話だったはずだけれど。
 しょってた荷物を、どんっと地面に置いてから相手は言う。
 
「ああ……はい、そうですよ。紹介にあずかりまして。ああ、あなた」
「ん? 私?」
「そうです。最近肩こりなんかが酷くありませんか? あと、眼がしぱしぱするとか」
「え、え」
 
 急に話しかけられたおくうが少し慌てる。
 
「えーと、えっと。や、たしかに。なんとなく」
「加えて寝不足もあるみたいですね。眼がやられている感じでしょう。強いひかりを眺め続けているとそうなります。眼が悪くなると通じて神経に障ったりもする、よくあることですよ」
「し、しんけい。うん、うん」
「肩こりに頭痛。あんまりにも酷くなるようなら、こちらの目薬をどうぞ。一日に何度か、ニ三滴ほど眼にさしてください。あとは飲み薬。正確に言うと『薬』とはちょっと違うものですが、疲れ眼を癒すものです。食後に一粒ずつ。一応注意書きも添えておきますね」
 
 荷物を漁って中身を取り出してから、さらさらっと紙に何かを書き付けて一緒におくうへ手渡す。
 
「あ、あ、ありがと」
「どういたしまして、お大事に」
 
 改めて相手はあたいの方を向き直る。
 現状、あたいを含めさとり様をよくする手立てがなかったのは明らかで。そこに知識を持った誰かが診てくれるというのなら断る理由は何もない。
 
「うちのご主人様も診てくれるのかい」
「ええ、そのつもりです」
「それはありがたい。さぁ中に入っておくれよ」
 
 踵を返して歩き出そうとすると、その前に呼び止められる。
 
「ああ、ちょっと待ってください。お伝えしたいことが」
「なんだい?」
「こちらの主人を診おわった後のお話なのですが」
 
 その言葉を受けて、ふと考えることになった。
 星熊の紹介で来たとはいえ、その謝礼は別の話か。なかなかどうしてしっかりしている。誰も近寄らないような処まで足を運んでくれたのだから、それなりの礼は返さねばなるまい。
 
 普通に医者に診てもらうのだってお金がかかるもの。
 地霊殿の蓄えはあたいひとりがどうのこうの出来るものじゃあないけれど、さとり様がよくなったらそれもなんとかなる。
 
「謝礼の心配ならしなくていいさ。あたいからご主人様にお話するから」
 
 その前にさとり様が読むと思うけどね、心の中を。
 そんなことを考えていると、相手は首を横に振る。
 
「いえ、元々お金を取るつもりはありません。ただひとつお願い事が」
「……なんだい?」
 
 お金でないなら一体何が、そんなら食い物かとか思ったところで。眉尻を下げながら、困った風に言われる。
 
「とりもあえず此処にきたものの、どうにも入り組んでて戻れそうにないのです。ですから、帰りの道を案内していただけると助かります」
 
 
 
 ◆
 
 
 
 れいせん。文字にして「鈴仙」と紙に記された名前で呼んで欲しいと本人から言われる。「呼び捨ての方が気安いです」と付け加えられて、こちらとしてはちょっと楽な感じになった。
 
 横になるさとり様を診て、鈴仙は少し難しい顔をして。いくつか薬を傷に塗ってから、新しい包帯をくるくると巻く。「定期的に塗ってほしい」とかいう薬と、痛みを抑えるらしい飲み薬を荷物から取り出す。
 
 さとり様はついぞ眼を覚まさず、時折苦しそうな素振りを見せるばかり。それでも包帯を取り替えた後は落ち着いたみたいで、今は穏やかな寝息を立てて眠っている。
 
「お力になれればと言いましたけれど、現状は応急処置です。思ったより負われた傷が手酷いみたいで。特に此処の」
 
 さとり様の胸のあたりにある第三の眼を指しながら鈴仙は言う。あたい達が見たときはよくわからなかったけれど、言われてみるといつもの半分くらいしかその眼を開けてなかったような気もする。
 今は包帯でぐるぐる巻きで、外ッ側が見えなくなってしまったんじゃないかというのが何だか心配だった。
 
 明日もまた普通に仕事のあるおくうは、とりあえず先に寝床へ帰し。
 これから鈴仙を地上に送る役目を負ったあたいは、長い廊下をふたり並んで歩いている。
 
「若干でも症状は軽くなると思います。すみません、治しきったというには至らず」
「いやいや、ありがとねぇ。あんなに落ち着いた感じになったんだ、それって苦しいのがちょっとでもなくなったってことじゃあないさ」
「そう言っていただけると気が楽になります。それにしても」
「うん?」
「怪我が思った以上に酷いというのもありましたが。現状の衰弱においては、日頃の疲れが溜まりすぎている感も否めません。……有体に言えば薬の効きが薄いというか、それはもう少し様子を見てからの判断になるでしょうけれど。血色もよくないですし」
 
 玄関のたたきを下りて門をくぐり、そして外へ。
 夜闇が深い。地霊殿のあかりは今度こそ消したから、本当に真っ暗になってしまった。あたいは猫眼があるから平気だけど、鈴仙に言わせれば「兎も夜目が利きますから」だそうで。実際特に不自由なく並んで歩くことが出来た。
 
「ねぇ、鈴仙」
「なんでしょう?」
「様子見とか言ってたけどさ。また診に来てくれるのかい?」
「そうですね。帰りの道も今覚えられるでしょうし、行き来はし易くなるんじゃないかと」
「是非とも頼むよ。ありがとう。そうだ、あと」
「なんでしょう? お燐さん」
 
 鈴仙の受け答えはとても丁寧で、高すぎず低すぎずの声色が耳にやさしい。
 
「話しづらい訳じゃぁないんだけど。鈴仙はそんなしゃべり方するからさ。あたいは呼び捨にしながらこんな感じだし、鈴仙もおんなじ風にしてくれるといいんだけど」
「そうですか、……そう? や、敬語は話し慣れてるから。いつもの癖みたいなものなのよね。そう言ってくれるなら私もそれに倣うわ」
「うんうん。そうしてくれるとありがたいねぇ。それにさ、あたい達って多分、こうしてお話したことはなくっても。ほんの何回か、顔くらいは見かけたことあると思うんだよねぇ。お互いにさ」
「うん? えーと……?」
 
 ちょっとだけ鈴仙が考え込む素振りを見せて、その後何かにぴんと来た表情を浮かべる。
 
「あぁ、博麗神社? 宴会とかそういう」
「多分。まぁあたいは普通に遊びにいってただけかもしれないよ。ほら、あの紅白巫女がさ……先代の、もうちょっと前とかそのくらい? 忘れちゃったな。それにしたって博麗神社ってのは、代々あんなのんびりした感じなのかねぇ。日なが縁側でお茶すすってるばっかりでさ」
「ほんとよねぇ。それでも宴会って言ったら、霊夢がいた頃が一番賑やかだったんじゃないかしら。あなた――お燐、でいいの? 先刻まで居た鴉妖怪の娘が言ってた感じの」
「ん、それで問題ないよ」
 
 お燐、は耳慣れた名前だから。
 さとり様はあたいのことを「燐」と呼ぶ。おくうのことは「うつほ」と。
 愛称は普段仲良く出来る誰かに呼ばれると嬉しい。本当の名前、あたいの場合は「お」の一文字付く付かないの違いだけなんだけども。それは自分にとって特別な誰かに呼んで欲しいもの。
 
 とりもあえず先ほどまでの会話よりは少し砕けた感じになって、またちょっと気が楽になった。
 
「とりあえず道案内は、地底を抜けるまでいいのかい」
「ええ、ありがとう。流石に上まで行けば一人でも大丈夫」
「どの辺りに棲んでるんだい? 訊いてもわかんないかもだけどね。たまに上に行くこともあるけど、色んなとこ見て回ってるわけでもないから」
「迷いの竹林っていう所。その奥深いところに永遠亭と呼ばれる建物があるわ。其処が私の住まい」
「ふぅん」
 
 ……こいし様の顔が浮かぶ。ひょっとしたら今は地上にいるのだろか。ふらふら当てもなくさまよって、ひょっとしたら鈴仙の棲んでるような場所にたどり着いているのかもしれない。
 
「鈴仙の家はお薬屋さんなの?」
「ふぅむ、薬屋というか病院というか……」
「うん?」
「大概のひとはお燐が思ってるみたいな印象を持ってる。ちゃんとした案内人が居ないと辿り着けないだろうけど。誰かが来たなら私は薬師として薬を出すし。あともう一人ね、私のお師匠が診察してくれるわ」
 
 それからしばらく、鈴仙の「お師匠」について話をしていた。
 
 曰く、お師匠はとんでもなく頭がいい。
 お師匠という呼び名は薬師のそれとしてのもの。自分など足元にも及ばないとか「ひるいなき天才」とか鈴仙は言ってて、とどのつまりとんでもなく賢いってことだねとあたいは理解する。
 
 曰く、お師匠は素晴らしいお方。ちょっと厳しいけど。
 賢い上に徳もあるかと少し驚く。先ほど鈴仙がお礼金にこだわらなかったのにも驚いたけど、そのお師匠もそうなのだとか。特別な力を持ったらそれだけでえばり散らしたりしちゃう輩も多いけど、なんとも珍しい。
 
 もう少しで地上へ繋がる洞窟へ差し掛かる。あすこまでいくと坂の調子や道の入り組んだ感じもきつくなるから、飛んでった方が早い。
 誰かが楽しげに話をしていれば、それを相手するあたいも何だか楽しい。気が紛れるって言い方のが合ってそうだけど。確かに鈴仙のお師匠とあたいのご主人様じゃ立場が違うったって、その存在がとても好きだという気持ちは多分一緒だ。
 
「そうかぁ、すごいねぇ。もうずっと居るのかい? 地上には」
 
 それがほんのちょっとだけ様子が変わってしまう。「お師匠は、とても長生きで」とか言うお話に、あたいが言葉を返したときから。
 
 曰く、お師匠は元々地上にいなかった。
 夜の地上に出れば見られる、まんまるの月からやってきたのだと。……罪を犯し、地上に逃げてきたのだと。「鈴仙も一緒に月からきたのかい?」と何気なく訊いてみたら、言葉をにごされてしまった。多分あんまり話したくないことなんだろなって思う。そんな感じの顔だ。今まではあたいの眼を見ながら歯切れよく受け答えしてた所為もあってか、その目線が足元の方に向いてったのがことさら目立つ。
 
「や、ごめんねぇ」
「ううん、気にしないで。こっちこそごめん。話しすぎたかも」
「お薬屋さんが気に病むってのもうまくないさ。今度はね、あたいのご主人様のお話をしよう。そうだねぇ……さとり様はね、鈴仙のお師匠みたくさ。あんまり誰彼から好かれる感じじゃあない。もちろんあたいは好きだよ? でもね」
 
 暗くなっちまうかも、って。そんな前置きをしてから話し始める。
 
「鈴仙も知ってるだろけど。ご主人様は覚りの種だから」
「ああ、……」
「何がいけないんだろうね? 心を読まれるってことがそんなに苦痛なのかねぇ。あたいにはよくわからんのさ。あんなにやさしいお方が」
 
 何がどうなってさとり様が地底にやってきたのかをあたいは聴かされていない。少なくとも本人からは。他人の噂話で言うならそれこそたくさんあって。いかにも実(まこと)しやかな話から、単なる与太話で済んじゃうようなものまで様々。
 
 あんまり嫌われるもんだから、そも厭になっちまって自分から地底にやってきただの。
 一族を皆殺しにされた挙句、石投げられてここに追いやられただの。
 
 とてもじゃないが確かめられない。確かめたくもない。
 ただひとつ、あたいの心の中で確かなものがあるとすれば。地底にやってきたさとり様……そしてこいし様。そのおふたりは、あたい達みたいな獣に随分好かれたということ。言葉を持たぬ存在に。その事実。
 
 元気になって欲しい。
 いっぱいお話したいなぁ。
 心の中だけじゃあ、伝えきれないよ。
 
「あれ? っ……」
 
 話してるうちに。なんか胸がくぅっとなってきた。じわりと眼の前がゆがむ。零れてしまわないように、袖で目尻をぐぃと拭った。
 みっともないとこ見られたかな。
 
「きっと良くなるわ。私も出来る限り協力するから。あと、お燐」
「なんだい?」
「あなたのご主人様だけど、お師匠にも診て貰えば良いと思うの。直接往診に行くことも出来るし」
「そんな凄い方が診てくれるってんなら願ってもないよ。ありがとう、鈴仙」
「いえいえ。それほど間をあけるつもりもないんだけど、緊急の事態だとか……もしくはお燐の気が向いた時とかでも良い。直接呼びに来てくれれば、そのまま地霊殿まで行くわ」
「呼びにったって、あたいは鈴仙の家に行ったことないし」
「うん、それでね。お願い事がひとつ増えるんだけど」
 
 洞穴に辿りついて、ふたり並んで飛び立つ。今は地上までの案内、あとは鈴仙が帰り道を覚える目的もあるから、そんなに速度は出さない。
 
「案内は地上に出るまででいいって言ったんだけど、ちょこっと私についてきて欲しいの。永遠亭まで。今度はお燐がその道を覚える番よ」
 
 
 
 
§4.古明地さとり
 
 
 
 
 もう、何刻ほど寝台の天蓋を眺めているだろうか。繰り返し訪れる悪寒とえずきから、机の時計を確認するために起き上るだけの気力も失われていた。
 次にお見舞いに来てくれたペットに置時計を持って来てもらおうと考え、のどがからからであることを思い出す。しかし寝台の傍ら、据え付けられた棚の水差しを使う余力すら見出せず、いじけて毛布を被り直した。
 
「やれやれ、様は無いですね」
 
 横目で見やる戸棚には、水差しや読書灯に並んで銘も堂々たる一升瓶が鎮座している。鬼の若い衆が持ち込んだものだ。送り主は、旧都の妖怪達の顔役を務める星熊勇儀。かれこれ長い付き合いになるが、特別親しくしている訳でもない。
 センスというか、気風がことごとく一致しないというだけの話なのだが。病床に酒を送られて喜ぶのは、同じ鬼くらいのものだろうに。きっと分かってやっているのだろう。
 
 快癒した暁にはまた飲もう。そう好意的に解釈しておこうか。
 
 皮肉っぽい笑みを浮かべるも束の間、つい気分は重く沈みがちだ。物思いに囚われても気が滅入るばかりだと分かってはいるが、他にすることも思い浮かばない。
 果たして、本当に私が完治することがあるのだろうか。ペット達はこれ幸いと仕事を怠けてはいないだろうか。
 こいしとは、あの日以来顔を合わせていない。放置された二つのティーカップが脳裏をよぎる。
 
 地上との交流が再開された頃に比べれば、妹は見違えて感情を取り戻していた。故に、今回のことを気に病んでいなければいいが。
 
 あの事故について、私は誰をも責めてなどいない。自身の不養生からくる注意散漫で私は怪我を負い、それを機に、身体のあちこちに蓄積していた無理が噴出したのだろう。  
 先日私を診た薬師も、遅々として回復しない原因は慢性的なものだとの結論を下していた。少なくとも過労では有り得ないから、昔日のやんちゃが今になって祟ったのか。
 
「とすると、最近の体調不良もそのせいかしら。拝聴した恨み節の数なら、誰にも引けは取りませんからね」
 
 この催眠術で屠ってきたご歴々の呪詛が今になって効いてきたのだとすると、まあ妥当な線か。くすくす笑いに引き攣ったのどが、軋んで痛みを訴える。
 ともあれ、遅かれ早かれこうなるだろうとの漠然とした予感はあった。首を打たれ、五体を引き裂かれたとしても妖怪はくたばらない。だから衰弱しているのは精神の方だ。乱暴に扱われ擦り切れた心が、ようやく寿命を迎えようとしていた。生命にも無機物にも、人にも妖にも、終わりは平等に訪れるのだ。
 
 死ぬこと自体は恐ろしくない。しかし、心残りはある。
 
「あの子は今、一体どこで何をしているのでしょうか……」
 
 
 
 ◆
 
 
 
 そんな折、ペットの一匹が予期せぬ来客を知らせた。驚くほどではないが、意外ではある顔だ。
 
「風の噂に、貴方が倒れたと聞きまして」
「それでわざわざ? お仕事の方は」
「周囲がたまには休め休めとうるさいもので、仕方無く有給休暇を取ってきたのです」
 
 幻想の郷の閻魔、ヤマザナドゥこと四季映姫。相も変わらず堅苦しい正装だが、肝心の説教道具は仕舞われているようで胸を撫で下ろす。案内のペットに注いでもらった水でのどを潤しつつ、神妙な顔付きの映姫へ尋ねる。
 
「どこかの誰かに、聞かせてやりたいエピソード、ですね?」
「自分が特別仕事熱心だとは思っていませんよ。ただ、果たすべき責任を果たしているだけで」
 
 と、閻魔は唇を尖らせた。誰彼構わず説教を吹っ掛けることで敬遠されがちな彼女だが、思い切って接してみれば意外と気安い一面も見せる。働きぶりは比べるべくもないが、私生活のだらしなさは私と同程度だとも聞く。
 
「何か失礼なことを考えていませんか?」
「あら、他人の心を読むなんて失礼ですよ」
「あらあら、私と貴方の仲ではないですか」
 
 まあ、こうやって軽口を叩き合うこともできる仲である。
 
「本日はこちらの査察も兼ねてお尋ねした訳ですが、皆さん、それどころじゃないみたいで」
「どうしたって、休むつもりはありませんか」
 
 つい微苦笑が漏れる。地霊殿は実質的に是非曲直庁から嘱託された施設だが、私と彼女の間に直接の力関係は無い。それでも互いを知己としているのは、疎まれ仕事同士馬が合うからだろうか。
 
「加減は、まだ優れないようね」
「ご覧の通り、半身を起こすにも人の手を借りなければならない有り様で」
「もう一杯注ぎましょうか?」
「ありがとう、お願いします」
 
 水のたっぷり入ったコップを受け取るも持ち損ね、ぱたぱたと水滴が零れた。自分一人では着替えもままならないほど萎えている腕に唇を噛む。
 
「怪我はほぼ治りかけているのですが、感覚は日増しに鈍くなる一方で。こうしてお話しする機会も、今日が限りかもしれません」
 
 映姫は淡然と頷いただけだった。私が人の本心を見透かすように、彼女は他者に嘘偽りを許さないし、また己にも安易な慰めを禁じている。
 
「病は気からと申します。そう気弱では、治るものも治らないわよ」
 
 どれだけ身体を害されようと、魂さえ無事なら妖怪はいずれ蘇る。逆に精神体を突かれると脆いことは、誰よりも私が心得ていた。
 心当たりならある。潰れてしまった第三の目、今はガーゼや湿布で固められているため確認のしようもないが、元通りの性能を取り戻すことは二度とあるまい。ただでさえ、ここ数十年は徐々に視力が落ちてきていたのだ。
 
「来るべきものの到来が、予定より早まった。それだけのこと」
「にしては、落ち着いているのですね」
 
 戸棚とは反対側、寝台の傍らへ棒立ちに、閻魔は何やら考え込んでいる。
 
「死を目前にして抗わず、恐怖も無ければ絶望も無い。その理由を伺っても?」
「ええ……」
 
 説明すべきかどうか、私は逡巡する。
 
 床に横たわったまま息を引き取ることができれば、覚りの一族にとっては幸運な方だ。その読心能力を忌避し危険視した他の妖怪達によって隠れ里に火の手が上がった日のことは、今でもありありと思い起こすことができる。血塗られたと形容するには、少々躍動感が足りなかったかもしれないけれど。
 襲撃者達の恐懼と憎悪を我がことのように理解できたからこそ、大人達の心象は諦観に満ちていた。一族郎党討ち果たされ、落ち延びたのはまだ生に貪欲でしかも運と才能とに恵まれた幼い姉妹のみ。
 
 その事情を知らぬ映姫ではあるまい。
 
「心というものを、常に突き放して見るよう努めてきましたからね。自分の心情も、つい他人事のように捉えてしまうのでしょう」
 
 無表情な、しかし無感情ではない眼差しを注ぐ閻魔に、私は辛うじて笑顔を取り繕う。
 
「映姫さん、私が落ちる地獄は、一体どのようなお所なのでしょうか? 何かしら手土産は必要で?」
 
 あえて地獄行きとして裁かれることの是非は問わない。施すことのできたささやかな善行に比べ、私の業は深すぎた。心弱き者らにも情け容赦をかけず、捨て置いた亡者達を顧みず歩んできた道程は。
 
「地底世界の担当官は別に居ますので、私から申し上げることはできかねましょう」
 
 断って、映姫は双眸を休める。半ば予想されていた答えだ。包帯で巻かれた瞳では、その真意を見透かすことは叶わない。
 
 何とは無しにそのかっちりした結び目を確かめる。術を施した薬師の腕は確かなようだ。地上の永遠亭という施設からやってきたと話していたが、知識としてはあってもさして馴染みの無い単語である。生理的な嫌悪感を抱いている様子こそなかったものの、やはり私のことを強く警戒していた。遠路はるばる回診に来てもらう義理も持たない割に、彼女の来訪は唐突だったろう。ペットの誰かが呼びに行ってくれたのか、それとも。
 
「実のところ、貴方自身については大して心配していませんでした。問題はその後、誰が地霊殿の管理を引き継ぐのかという件でして」
「そうですね。おいおい検討しておくつもりだったのですが、時間は待ってはくれませんか」
「我々としては、妹さんが継いでもらえれば話が早くて助かります」
「ご存知ないはずはないでしょう? あの子には荷が重いわ」
 
 純真故に、自分の手を汚しきれなかった子だ。覚りの武器を振るうには心が優しすぎた。
 
 私が居なくなったら、あの子はどうなってしまうのだろう。昔ならば、何も変わりはしないだろうと割り切ることができた。無意識の世界は弧絶の世界。何度も手を伸ばしては届かず、ようやく向こうから歩み寄りを見せてくれるかと思われた今、皮肉にも私の方から彼女の孤独を決定づけようとしている。
 
 私では、届かなかったのだ。
 
 ……あ、そうだ。届かなかったといえば。
 
「すみません。机の上に時計が置いてあるでしょう? 文字盤をこちらに向けて――いえ、ここに時計を持ってきておいてはいただけませんか」
「お安いご用ですよ。確かに、無性に気に掛かるものですしね」
 
 すっかり失念してしまっていた。恐縮する私に瞳だけ笑ってみせ、つかつかと机に歩み寄った映姫が軽い驚きの声を上げる。
 
「あら、地底でこのような花は珍しいですね」
「お好きなんですか?」
「ええ。自分でも育てているんですよ。といっても多肉植物が中心ですが。あのつやっとして愛らしく、時にはささくれ立ったような存在感がまた……、おほん」
 
 威厳たっぷりの咳払いを一つ。卓上の花瓶には、以前から作り置いていた造花が数輪挿されたままだった。
 
「恥ずかしながら、そちらは私が造ったものでして」
「造った? 育てたのではなく?」
 
 ここにきて彼我の微妙な食い違いに気付く。置時計と一緒に花瓶も持ってきてもらい、私もまた目を疑わざるを得なかった。
 
「よっ、と。こちらに並べておきますね」
「え、ええ……」
 
 造花の薔薇は、いつの間にかその全てが生きた花々へとすり替わっていた。容器にはちゃんと水も注がれている。色や形が異なっている以上、気付けなかったのは先入観のためだろう。
 そう、気付けなかった。いつから替わっていたのだろう、匂いに敏感なペットならすぐに嗅ぎつけそうなものだが、単に風邪気味だったのか、それとも指摘するほどのことではないと思い直したのか。少なくとも映姫の悪戯とは考えられない。はっとして部屋を見渡すも、誰かが見付かるはずもなく。
 
「管轄が違うまでもなく、私がとやかく説教するのはお門違いというものでしょう。ただ個人的な見解を述べさせてもらうならば、貴方の積める善行はまだ少なくない。最後に蝋燭が照らす影絵の、必ずしも優しいとは限りませんが」
 
 閻魔の口調は言い含めるでもなく淡々としていた。そのまま、踵を返す気配を見せる。
 
「映姫さん。こちらにはいつまで?」
「他に大した用事はありませんが、十数日は滞在できる予定です」
「数日……、数日中に、またお頼みしたいことができるかもしれません。その時は、またいらしていただけないでしょうか?」
「では五日後の午前、伺うことといたします」
 
 甘えをきっぱりと切り捨て、映姫は私に背を向けた。そのままきっかり十秒動かず、やっと肩越しに振り返った面差し。心なしかしんみりしているように見えたのは、私の錯覚だろうか。
 
「来世で巡り合う時が来るならば、それまでは甘んじて幾許の寂寥を負いましょう。追想は、果たされればまた五日後に断ずるとして」
 
 そうして閻魔は、ごく丁寧に扉を閉めたのだった。
 
 
 
 ◆
 
 
 
 こいしの心象を凍て付かせてしまったものとは何だったのか? 今となっては、その原因も推量する他ない。勇敢にも私達を庇って倒れた父か、悲観極まって心中を図った母か、その両方が妹の心を乱し傷付けたのは疑いようもないが、より深く彼女の胸を凍えさせたのは、里に背を向けて歩いた血生臭くぬかるむ道のりだったろう。しかしそのどちらもが、間接的であれ直接的であれ、決定的な要因ではなかった。
 
 当時、私達二人は不思議と動物達に好かれることに気付いた。種を知ってしまえば道理で、誰にでも共通する言葉を持たない動物達にしてみれば、言葉になる以前の心情を汲んでくれる読心能力はむしろ魅力的に映ったのだ。
 地霊殿へ腰を落ちつけられるようになった頃には、何匹かの動物達が一緒に住み着いていた。彼らが姉妹に自己表現を頼る代わり、私達はその温もりに慰めを見出す。
 他の地底の住人達からはやはり邪険にされることが多かったが、私はとうに嫌われることに慣れきっており、思えばそのために妹のことを気遣ってやれなかったのだろうと考える。こうして冷静に分析できている以上、今も心根には大して改善が見られないようだが。
 
 心を読めることと分かってやれることの違いを、若かりし日の私は理解できていなかった。怒りも悲しみも、処理すべき信号の一種としか捉えていなかった。
 
 こいしの可愛がっていたペットが悪性の病に倒れたのは、やっと暖色の花が咲き初める、まだ肌寒い時分か。薄情な私とは違い、妹はどうしても割り切ることができなかったらしい。方々を駆けづり助力を乞うては出自を理由に拒絶され、悪意に囲まれ打ちひしがれて。冷たくなってゆくペットの内に、最後、第三の目はいかなる心象を見出したのだろうか。
 
 花瓶の花々を見遣る。何気なく目に付いたのは薔薇の赤。真摯な情熱であり、心に灯す炎の色だ。
 
 人一倍繊細で内気だったかつての妹のものと、『ただいま』の言葉が重なる。映姫の言う通り、私の余命も望みも、まだ尽き果てている訳ではない。
 
「賭けてみる価値は、あるのでしょうね……」
 
 それでも、私は最後まで自分に希望的観測を戒めようと思う。他者の情動を操るためには、まず己の心を突き離すこと。覚りとしてずっと貫いてきたやり方だ。他にやり方を知らないだけともいうが、それは妹とおあいこだろう。
 
 折悪しく込み上げてきた悪寒を、奥歯を噛み締めながら遣り過ごす。この決意がどこまで通用するか明日も知れず、確かな事実といえば時間が残されていないことだけ。それでも、慎重に慎重を期す必要があった。
 こいしの胸に再び瑞々しい感情が萌え出しているのならば、尚更油断はできないのだ。昔日の葛藤もまた、その瞼の裏に甦っているはずなのだから。
 
 
 
 
§5.霊烏路空
 
 
 
 
 コンコン
 
 ノックは二回、ドアはそっと開ける。さとり様の部屋に入るときの決めごとだ。もちろん、そっと閉めることも忘れない。
 
「さとり様」
 
 眠っていたときのことを考えて、さほど大きくない声で呼びかけるのも決めごと。パターン化したいろいろを、一つ一つこなしていかないと、さとり様のステージにはたどりつけないのだ。
 この部屋のカーペットは良いものを使っているから、足音はしない。ふかふかと歩いて行くと、さとり様が片目を薄く開けてこちらを見ている。
 
「こんにちは。調子はどうですか」
「見てのとおり、よ」
 
 ベッドに横になったまま、枕をいくつか重ねて頭を高くしている。上半身を起こすまでいかないということであり、やはり調子は良くないのだろう。近寄ってみると、顔色は見慣れたさとり様と変わりはない。といっても、もともと良くはなかったのだけれど。
 
「窓、開けますね」
 
 この行為に、どれほどの意味があるかは判らない。窓を開けたとしても少しずつしか空気が流れていかないし、ほほを撫でるのは生温い、そして埃っぽい地底の空気。陽の光などもってのほか。さとり様には、どこかへ静養に行きましょうと言っているのだけど、どうしても首を縦に振らない。
 それでも、少しでも風通しを良くしようと、ドアも開け放つ。ついでに、水差しの水とコップを新しいものに取り換えてくる。戻ってきて、さとり様にコップを渡したところで、ふと花瓶に目がとまる。ありゃ、水が入ってない。水差しはもったままで、ふかふかと近づいて傾ける。
 
「空、せっかくで悪いのだけど」
「何ですか?」
「それ、造花なのよ」
「あ、ほんとだ。ごめんなさい」
「いいの。そのうち、本物になるかもしれないし」
 
 造花が本物の花になるなんてことはない。だから、さとり様が私を気づかってくれたのだろう。何かをする前にはいろいろと注意してくれるし、私はすぐ忘れてしまうのだけど、それでも滅多なことでは怒ったりしない。畏れられているけれど、本当はとても優しい方なのだ。
 さとり様は、コップの水を眺めていたかと思うと、不意にこちらを向いた。
 
「ねえ、空。貴方、私がいなくなったら寂しい?」
「いなくなったら? さとり様、家出でもする気ですか」
「私が死んだら、よ」
 
 さとり様が、死ぬ。そんなこと考えたことなかったし、これからも考えたりしたくない。じっとさとり様の顔を見つめても、その表情からは何も読み取ることはできなかった。
 
「死なれたことがないから、判りません」
「それもそうね」
 
 何故だか、さとり様は可笑しそうにしていた。そんな表情を見るのは久しぶりだったけど、私の心には、死という単語が暗い影を落としていた。どうして、そんなことを聞いたのだろうか。その理由を考えることが、まるで禁忌を犯すような気がして、私はそれ以上は何も考えないことにした。
 
 さとり様は、ベッドの横の小さな机にコップを置くと、枕を減らして、目を閉じた。どうやらお休みになるらしい。コップの水は半分も減っていない。置かれたときの衝撃で、水面がいつまでもゆらゆら揺れていて、私の言い知れない不安は少しずつ大きくなっていった。
 いつもだったらさとり様が眠りについた後もしばらくは側にいるのだけど、今日は胸が苦しくなってしまいそうになる。窓を閉じて、そそくさと部屋を後にしてしまった。
 
 
 ──私が死んだら、よ。
 
 寂しいに決まってるじゃないですか。その一言が、どうしても出てこなかった。
 
 
 
 ◆
 
 
 
 コンコン、コン
 
 三回目のノックは、タイミングが少しずれた。つい癖で二回で止めようとして、そこがお燐の部屋であることを思い出したのだ。二回はさとり様のものだから、お燐のために、もう一回叩く。お燐の部屋のノックは、こうして三回になることが決まった。
 じっとドアが開くのを待つのは、苦手。こうやってドアの前で立ち尽くす時間は、本当は短いはずなのに、とても長く感じるのはどうしてだろう。うずうず。ドア開けようかな、でも勝手に開けるとお燐が怒るんだよね、などと考えていると、体がみょんな動きをしそうになる。
 
 コン、ココン、ココココン
 
 思いつきでドアでリズムをとってみると、これが意外と楽しい。まるで太鼓でもたたいているような気分になる。嬉しくなってコンコンやっていると、どたどたと近づいてくる足音。
 
「ああもう、うるさいってば」
「う、ごめんなさい」
「ちょっと待ってて」
 
 ごめんなさいと言ってはみたものの、お燐はまだ片方しか三つ編みになっていなくて、邪魔しちゃったなぁという思いと、珍しいものがみれたなぁという思いで半々である。次に見るお燐は、きっといつもどおりのお燐なのだろう。残念だけど、いつもどおりであることは重要なのだ。
 
「はい、お待たせ。どうしたの?」
「うん……」
 
 今日は休みだから、お燐と地上にでも行こうと思ってここに来たのだけど、上手く言葉にできない。気晴らしに、という表現は、どうしても使いたくなかったから。さとり様はなかなか良くならず、毎日お見舞いしているけれど何の進展も見せない。じれったさは心に少しずつ重りを載せてゆく。心が沈んでしまわないように、たまには高いところに行きたかったのだ。
 
「よし判った。あたいもちょうど地上に行こうと思ってたんだ」
「え、声に出てた?」
「顔に書いてあったよ」
 
 お燐は、私がどうしてだまっていたのか、わかってくれていた。まこと、持つべきものはお燐である。
 
 特に急ぎの用事があるわけでもなかったから、私たちは人型のまま、おしゃべりをしながらゆっくりと飛んでゆく。地上に行くにはいくつかの方法がある。たとえば、橋姫が守っている、地上と地下を結ぶあの縦穴。一応あれが正式なルートとされているし、彼女が見守っていてくれるので通行にも危険はない。難点は、地霊殿からだと、少し遠いことだろうか。旧都を越えてゆかなければならないのだ。
 逆に、もっとも近いルートといえば、間欠泉の流れに乗って博麗神社近くの温泉まで噴きあがってゆくというものがある。冗談ではなく、これだとすぐに地上まで出られるのだ。ただし、これをやると怒られる可能性がある。昔、興味本位で通ってみたら、ちょうど入浴中の霊夢と鉢合わせして、散々な目にあったりもした。
 というわけで、私がいつも使っているのが、地下センターから地上に出るというルートである。休みの日にも仕事場に向かっているような錯覚がするところにさえ目をつぶれば、使い勝手は、悪くない。
 
 道すがら、他愛もないことを話していたけど、どうしてもさとり様の話題を避けては通れない。せっかくだから、と、こないださとり様に聞かれたことをお燐にも聞いてみる。
 
「ねえ、お燐は、さとり様がいなくなったら寂しい?」
「いきなり何さ。そんな縁起でもないこと」
「ん、さとり様に聞かれたの。死なれたことがないから、わからないって言ったんだけど」
「まぁ、確かにそうだよね」
「でも、お燐はさとり様が死んじゃっても話ができるし、それに、死体好きだし」
「いや……」
 
 私は何気なく言ったのだけど、お燐は神妙な顔になってしまった。ちょっと配慮が足りなかったかもしれない。
 
「ごめんね。私、変なこと言っちゃった。冗談だと思って」
「ああ、大丈夫……」
 
 苦笑しながら、何とか取り繕おうとしたけど、お燐は何ごとかを考えている様子。
 
 何となく会話が少なくなって、その分だけ、早く地上に着こうとしていた。
 
 
 
 ◆
 
 
 
 長い長い縦穴を抜けると、そこは妖怪の山であった。どこへ行く当てがあったわけでもない。そういうときは、やはり行き慣れたところに足が向くのだろう。私は、自然と山の上のほうに行こうとしていた。
 
「じゃ、あたいはこっち」
 
 お燐の足が向く先は、あれ、いつもの神社の方角じゃない。そういえばお燐には行く当てがあったようである。どこに行くの、とは聞かなかった。さっきの、神妙そうな顔がちらっと浮かんだのだ。何か考えがあるのだろうし、気が向いたら教えてくれるだろう。
 
 妖怪の山は、本来であれば上ってゆくのに面倒なことがいろいろとあるのだという。天狗とか天狗とか天狗とか。とはいえ、私は山の神様や河童たちのもとを訪れるのが目的だとはっきりしているので、特に妨害などを受けることはない。急ぎの用でもないため、適度に自然を楽しみながら、ゆっくりと上ってゆく。地底よりも地上が優れているとまでは思わないのだけど、やっぱり静養するのにどちらがよいかと言われれば地上と答えることになる。
 空には天井もなくどこまでも抜けてゆく青さしかなくて、木々の中に入ってゆけば木洩れ日がきらきらと輝いてみえる。水の流れはさらさらと、その上を流れる風はすいすいと。自然の音に囲まれながら、それでも、静かだと感じてしまうのだ。
 
 心に落ち着きを感じながら進んでゆくと、次第に神社が大きくなってくる。ちょいとスピードを上げて、鳥居をくぐればゴールである。もっとも、今日の神社は静けさを湛えているから、もしかしたら誰もいないのかもしれない。
 参道に降り立って、本殿へ歩いて、あ、お賽銭持ってない。ちょっとつけにしておいてもらって、ぱんぱんと手をたたく。頭を深々と下げて、願うことはただ一つ。さとり様が、早くよくなりますように。
 
「お、殊勝な心がけじゃないか」
 
 後ろからの声に振りかえると、参道の真ん中を歩いてくる、えーっと、あの人は確か……。
 
「何だい、また忘れちまったのか」
「あ、八坂さんだ八坂さん。忘れてないですよ」
「神奈子でいいって言ってるのに。変に律義な奴だね」
「私が様をつけるのは二人だけだし、だからといって、呼び捨てにも」
「まぁ、そういうところは嫌いじゃないよ」
 
 八坂さんは、私がまだどこにでもいるような地獄烏だったころに、大きな力をくれた神様だ。あの時はいろいろと舞い上がってしまってちょっと暴走気味だったけれど、すぐに落ち着いて、それからはずっと良好な関係でいる。彼女のくれた力をもとに、私はエネルギーを生み出していて、それがまた様々なことに使われているのだという。
 
「それで、あんたのご主人様は元気かい?」
「それが、あんまり」
「そうかい。ま、何かあったら相談に乗るよ」
「ありがとうございます。……八坂さん、一つ、聞いてもいいですか」
「はいよ」
「八坂さんは、大切な人がいなくなったら、寂しいですか」
 
 私は境内に上っている分だけ、彼女よりも高いところにいる。それだからか、彼女の視線が落ちてゆく様子が気になった。ため息は、びゅうと吹いた風に乗って、遠くへ行ってしまったけれど。
 ややあって再び上がってきた彼女の眼差しは、とても強くて、どこか優しさを感じさせて、そして、少し寂しげだった。
 
「寂しい、か。そういう感情はなるべく持たないようにはしているけど、寂しいよ。これでも神のはしくれで、長く人とともに生きてきた。今でも、失くしてばかりさ。どうしようもなく寂しい」
「私も、寂しいと思うのかなぁ」
「嫌かい?」
「怖いです。そういうの、今までなかったから」
「まぁ、悪いだけのものでもない。別れを寂しいと思えるだけのことがあったのだから、懐かしいと思うことだってできる」
 
 不意に、さとり様との思い出が頭の中を駆け巡る。まだ私やお燐を含めて幾らかぐらいしか一緒に暮らしていなかったころから、最近のことまで。細かいことはさておくとしても、今でも懐かしく思えるものだってある。確かにこれらはさとり様と出会えたからこそのものだ。
 
 それでも、さとり様がいなくなってしまったら、私は。
 
「寂しい……」
 
 頬を伝う涙は、温かかった。
 八坂さんは、今日はみんな出払っているからと言って、私のために一部屋用意してくれた。ちょっと横になっていけばいいと言ってくれたので、そうさせてもらうことにした。
 そして、夢を見た。不幸なことに、それが夢であることに気づいてしまったのだ。なぜなら、それがずっと昔のできごとだったから。まださとり様が一人ですべての世話をすることができていたころには、よくケーキを焼いては振る舞ってくれていたのである。もう随分と長いこと口にしていないから、味もさだかには思い出せない。それでも、焼き上がりのころにはとても良い匂いがあたりに漂ってきて、私は我を忘れてその匂いのもとへ向かったものであった。あのケーキにも、そしてケーキを切り分けるさとり様の姿も、もう二度と現実のものとはならないのかもしれない。
 
 夢の中の私は、口いっぱいにケーキを頬張って、とても幸せそうな顔をしていたのだ。
 
 
 
 ◆
 
 
 
 目を覚ますと、思ったほど時間は経っていなかったらしく、外の明るさが室内にも届いている。
 
「おはよう、おくう」
「あ、おはようございますこいし様」
 
 ん? こいし様?
 
「ええええ、こいし様!?」
「はい。恋に恋い焦がれ恋に泣くこいしちゃんですが何か」
「何でここにいるんですか」
 
 思わず飛び起きてこいし様に向き直る。最近ずっと見ていなかったのだけど、まさかここにいるとは考えてもみなかった。
 
「そこに山があるから、かな」
「さとり様のこと、ご存知ですよね」
「さとり様は私のお姉ちゃんだと、存じ上げておりますが」
「こいし様!」
 
 まともに返そうとしないから、肩をばーんとつかんでぐらぐら揺らして、気がついたらついでにとヘッドロックとチョークスリーパーもお見舞いしていた。
 
「きゅう……」
 
 近年まれにみる勢いでギブアップしたこいし様は、さすがにダメージの残る様子である。
 
「冗談が通じないのは良くないわよう」
「で、さとり様のことはご存じなんですよね」
「む。まあ、知ってるわ」
「どうして傍にいてあげないんですか」
「いや、いないわけじゃないけど、でも私なんかがいても迷惑だろうし」
「そんなことありません。これから一緒にお見舞いに行きましょう」
 
 こいし様がいなくなってしまわないように手をつないだまま慌ただしく八坂さんに挨拶をして、私たちは慌ただしく神社を後にした。帰る途中で、私は、こいし様にも同じ質問をしてみたのだ。
 
「こいし様は、さとり様がいなくなったら寂しいですか?」
「判らないねー。寂しいって何だろう。おくうはどんな感じか知ってるのかしら」
「うーん、辛くて、痛くて、でも温かかったです」
「やっぱり良く判らないわ。おくうはお姉ちゃんがいなくなったら寂しいの?」
「寂しいです。きっとどうしようもなく寂しいと思います」
「じゃあ、おくうをそんな目にあわせるお姉ちゃんはお仕置きしないといけないね」
 
 こいし様は、あくまでも普段と同じような感じで話をしていてた。寂しいという感情を本当に知らないのだろうか。でも、その割には、お仕置きしないとね、と言った声にはさほど元気がなかった。
 
 地霊殿に戻って、ノックは二回だと確認したけれど、私がドアを叩くことはなかった。お燐が戻っていたようであり、いつぞやの兎を連れてきていたから。そして、妙な服装の女性も一緒だったのである。

 誰だろうと不審に思って、こいし様を握っていた手に力が入る、はずだった。けれども、自分の手を握り込んだだけ。横を見ても、こいし様の姿はすでになかった。いつもだったら知らぬ間にいなくなってと怒るところだけど、今日はなぜだか、そんな気にはなれなかった。
 
 
 
 
§6. 火焔猫燐
 
 
 
 
「おくう?」
 
 振り返ってみればおくうが居る。帰り道でひょっとしたら逢うかもしれないかと思っていたけど、今ばかりは丁度良かったかもしれない。
 
 地霊殿へ戻る最中、あたいは色々と考えることになった。勿論それは、さとり様と初めて逢うことになる人物を連れていることについて。
 鈴仙のお師匠、八意永琳。いざ部屋へと連れて行ったときは、ひょっとしてさとり様に何か言われるかもしれないと思ったけれど、結局厭な顔ひとつせずその診察を受け入れた。部屋に入る前から、あたいの心を読んでたのかも。
 
 
『緊急の事態だとか……もしくはお燐の気が向いた時とかでも良い。直接呼びに来てくれれば、そのまま地霊殿まで行くわ』
 
 
 地上までの道案内をしたとき、鈴仙が零した言葉。
 今は火急っていうんでもない、そう願いたいのは自分だけなのか。でも、それでも。居ても立ってもいられなくなっちゃったのも事実。おくうと一緒に地上を出たのも、始めっから永遠亭に行く腹づもりだったから。気晴らしも大事よ、と。おくうはそう言う。実際そうだし、あたい達が疲れてぶっ倒れたりもしたら、それこそさとり様はますます気に病んでしまうだろう。

 だからこそいい機会だと思った。おくうの仕事がおやすみに当たった日。「ふたりして気晴らしの為に地上へ行く」、そんな建前を作り上げた。本心を読まれるとまた心配されるだろうから、(心苦しいけど)さとり様の部屋へは近付かず。あくまで他のペットに伝言を残すだけ。
 
 近頃さとり様がしている呼吸の具合は落ち着いてるようにも見える。けれどそれが身体が良くなってきてるお陰なのか、それとも弱くなってきてる所為か。あたいにはやっぱりわからないのだ。
 
 鈴仙がここを訪れてからしばらく後、星熊の紹介だとか言って更に医者が何人か地霊殿にやってきた。ただそれでも、鈴仙の置いていった薬とその但し書きを見ると大概は唸ってそのまま立ち去っていった。「現状を見るに、これ以上の薬を出すことはできないよ」と言いながら。だから鈴仙の残した薬に効き目がないわけじゃないんだと思う。
 
「……ふむ」
 
 鈴仙のお師匠は、直にさとり様の肌へ手を触れる。上着を全て脱いで、さとり様は床へ横になっている。ご主人様が肌を晒す場所に居合わせるのは少し気まずかったので、あたいとしては部屋の外に待機していたかったのだけど。
 
 
『燐、空。あなたたちも此処に居なさい。どうにも私は眠くて仕方ないのです。なるたけがんばりますけれど……もし眠ってしまったら、私は私の処遇を知ることが出来ない。だから一緒に永琳さんの言葉をきいておいてね。お願い』
 
 
 そう言われてしまっては、尚のこと立ち去りづらい。おくうなど眉をひそめて、じっとさとり様の様子を見守り続けている。
 
 ほそい。もともと線のつよい身体じゃないとは傍目から見てもわかっていたけど。今改めて見つめてみれば、その肩など強く抱きしめたらそのまま折れてしまいそうなほど。胸のあたりにはあばらが浮いて、肌などほんとに青っ白くて。
 
 死体みたいだ。
 
 生きているのか。ほんとうに。こんな有様で。
 
 また、胸の奥がくぅとなる。
 ふと、さとり様が横になりながら、あたいに眼を合わせてくる。まぶたはほとんど閉じたまま、でも何だかうっすらと笑ってるようにも見えた。
 
 さとり様。今、あたいの心を読んでますか? ちゃんとみえてますか?
 
 頷いたように見えた。ほんとに微かに。きっと理解されたかもしれない。
 思ってしまったことは止められない。ほんの僅かであったとしても。
 
 死体のようなこんな有様で。
 これでよくなる目処が立たないというのなら。それならいっそ――
 
「さて、さとりさん」
 
 ふと響いた声で我に返る。たった今までさとり様を診察していた、八意永琳の声。
 逢うまではどんな老人かと思っていたけど、顔を合わせれば物腰落ち着いた大人の女だったから驚いてしまった。
 
 彼女と逢うのは二度目。はじめ逢ったときは挨拶程度。さとり様のことをかいつまんで話してみたら、次にあたいが永遠亭を訪れた時こそ自らが出向く時だろう、などと言っていた。
 
 
『前々から興味はあったのですよ、覚りの類については特に。出来ればこちらに赴いて欲しいところですが。薬も設備も整っていますからね。これからについては、定期的にうどんげ――この娘を向かわせようと思ってます。ですが、お燐さん。あなたが直接私を呼ぼうと思うのならお話は別です。それは「あなたの願い」になります。求められれば、私は断りません。そういう体裁を整えておいてください』
 
 
 実際その通りになった。何か含みのある言い方だったのには違いない。それでも構わなかった。彼女が途方もない天才であることは本当らしいし、頼れるものには何でも頼りたいから。
 
 随分長生きとは聞いていてはいたものの、歳経た様子というものを感じさせず若々しい。強いて言うならその流れるような銀髪が白髪に見えなくもない、が。それは今、薄暗い部屋の中でもわかる程に深い艶のある銀色で、とてもきれいに思える。
 
「端的に言います。薬によって症状を抑え続けることは出来ましょう。細い生を長く伸ばすことは可能です。ですが今よりよくなる見込みは立たない」
 
 ごくり、と唾が喉を通る音が大きく響いた。誰のかと言われれば、あたいかおくうかどちらかの。さとり様は眉ひとつ動かさず、淡々と紡がれる言葉を聴いている。
 
 そしてその後、八意永琳から続けられた内容にあたいは眼をまるくしてしまう。
 
「あなたが良くならない原因は、その眼。覚りの類にとって命と呼ぶべき第三の眼がある所為」
「……そう、ですか」
「ええ。本来妖怪にとって、物理的な外傷など取るに足らない。まして聞くところに拠れば、あなたはあなた自身の不注意で怪我を負った。そうですね?」
「は、い……」
 
 弱々しい声。今にもぷっつりと消え入りそうな。そんな声。
 
「妖怪の死とは、精神の死。誰かの手にかかってあなたが今このような有様になっていると言うのなら、まだ理解出来るのです。明確な殺意。『殺してやる』という意志は、鋭くその対象を捕らえて離しません。鋭利な刃物のように魂を膾切る。無骨な鈍器のように圧壊する。紅蓮の炎が如く焼き尽くす。そうして精神は滅ぼされ、あるいは封印され、さすれば程なく身体も朽ちる」
 
 淡々と零れ続ける声に、今度のさとり様は何も答えない。今は身体を横たえたまま、ただ静かに。
 
「でも今回の場合は違う。どうやって平静を保っていられるのか興味深いですよ。凍傷を以て感覚が麻痺しているわけでもないのでしょう。幾ら薬の効果があるとは言えど、生きながらに身体の一部が腐りゆく痛みなんて通常なら耐え切れない。見た目では確かにわかり辛いでしょうけれど。神経には大分障っている筈」
 
 第三の眼。さとり様の眼。包帯にぐるぐる巻きにされてるあの眼が、腐り始めてるって?
 
「程なく外側も引き摺られてしまう。ならば手立てはひとつ。物理的にこの眼を切除し――概念的に残りの身体を救う」
 
 せつじょ?
 始め、何を意味しているのかわからなかった。
 
「その施術を以て。今のあなたの体力ならば、成功率は五割を保証しましょう」
「お、お師匠」
「黙りなさい、うどんげ」
 
 空気がひび割れたようだった。ぴしゃりと言い収められた鈴仙は、耳を垂れ下げてしゅんとしている。
 
「あなたから聞いた所見は正しかった。処方した薬も、症状の進行と痛みを抑えるのには最善だった。その上で私は正直に言っているのよ。あなたが始めに診て直ぐ私が判断を下したとしても、成功の割合に変わりは無い」
「で、でも」
「仕方ないわ。さとりさん、あなたにはとりわけはっきり伝えた方がいい。隠す手立てが無いわけでもありませんが、今だけは曝け出しましょう。……わかりますね? 私の言いたいことが。五割、と私が言う意味についても」
「……」
 
 また、ほんの少し。よくよく見なければわからない位に小さく、さとり様は頷いた。
 
「施術したとて、最悪の場合も考えられましょう。ただ、今直ぐとりかかれるということならば成功の見込みも十分ある。五割という数字は決して小さくありません。しかしこれより、時間が経てば経つほどその率も下がりゆく。その第三の眼に引き摺られて他の部位も腐るなら。それを放っておくというのなら。いずれあなたは、目覚め続けることが出来なくなるでしょう」
 
 「あるいはそれも、回復の手立てと呼べなくもありませんが」と。意味ありげな言葉を残して、その説明を終える。
 
「さ、さとり様」
「……燐、その話はまた後で。鈴仙さん、永琳さん。今日は、ありがとう、……ございました……。少し、考えさせてください」
「ええ。この娘も時々診にこさせますから」
 
 ぽん、と鈴仙の頭に手をのせて。八意永琳は、静かな物言いだけは変えることなく言葉を続ける。
 
「ご家族ともよくよく相談されてください。病や傷に苦しむ患者を診るものとして。どうか健やかであって欲しいというのが私の本意です」
 
 
 
 ◆
 
 
 
 八意永琳が診断を下してから、あたいはさとり様の部屋に通い詰めになった。勿論それは、説得のため。
 
 もう何日経ったのか。近頃だと、さとり様の部屋を訪れるペット達の数も少なくなった。始めは沢山居たというのに。でも今は、そんなの気にしてる場合じゃない。
 
 「腐り始めている」と言われていたさとり様の第三の眼は、その言葉とは裏腹に見た目は乾いてる。包帯はもう巻かなくたって大丈夫だろうってことで、もう外されてしまった。
 
 近頃さとり様とお話する内容は、いつも一緒だ。
 
 
 ……
 
 
  ねぇ、さとり様。
 
  『いいんですよ、燐』 ……何がですか。
  『このままで良いといっています』 でも、でも。今ならまだ助かる見込みもあるって。
  『そうですね』 心が読めなくなるのが怖いんですか。
  『それは違います』 ……施術が失敗するのが、怖い?
  『それも違います』
 
  じゃあ、じゃあ。このまま死んでしまっても、構わないって言うんですか?
 
 
 ……
 
 
 そしてその問いにも、さとり様は「違う」と返す。
 あたいが部屋を訪れることについては、ちっとも拒絶されない。お話を続けるのはちょっと辛そうだけど、あたいと話をするとちょっと笑ったりもするし、全く厭ってんでもないんだと信じたい。
 けれど、あたいの説得についてはちっとも首を縦に振ってくれない。かたくなに。「燐の言うことはわかります」と、あたいの言いたいことは認めている筈なのに。
 
 夜中、ひっそりと猫の姿で寝床を抜け出した。昼間もさとり様の元には行っていたけど、なんとなく今顔を見たくなった。
 
「にゃあぉ」
 
 声を出す。猫の声。こんなの喋ったところで、さとり様以外の誰がわかってくれるってんだ。
 さとり様以外、としたした歩きながら思って。そういえばこいし様は今一体どうしてるのだろ、なんてことも考える。ここしばらく地霊殿に寄り付いてもいないみたいだし。
 おくうは一度こいし様に逢ったのだと言う。随分と辛そうだったとか聴いてはいても、実際に顔を逢わせて話をしないことにはその気持ちなんてあたいにはわからない。
 
 おくうと言えば、今は寝床でぐっすり眠っているだろう。
 
「……なぁー」
 
 おくうに言われたことが胸の奥でくすぶってる。
 
 
『ねえ、お燐は、さとり様がいなくなったら寂しい?』
 
 
 言葉を受けて、直ぐに返すことが出来なかったのだ。
 さとり様の死体なら、さぞかしはかなくうつくしい。それは多分あってる。あたいが丁寧にそれを飾っておいて、時々着替えさせて、お話してさ……
 
 あたいの、あたいの中での、なんら変わりない日常が保たれる。
 違うのは、さとり様に命があるか、ないかだけ。
 
 どうして。どうしてあたいはこんなにも、さとり様の生死にこだわるのだろう。
 考え事をしている内に、目的の部屋の前に辿り着く。元々ご主人様の部屋には普段鍵かかけられていない。それでも一応のこと扉はきちんと閉められているのが常だったから、人型に戻ってから開けようと思っていたのに。今日という日は、あたいがこの姿で此処へ訪れるのをさとられていたかのように、隙間が開いてる。
 
 するりと扉を通り抜けて、さとり様の寝床へ。あたいが枕元で息を殺していると、すぅすぅと静かに胸を上下させてるのが見える。
 まるで草木のように、さとり様が水しか口にしなくなってから長い。手の届きやすい場所には水差しを備えておいて。今となってはその中身もほとんど減っていないようだった。
 その水差しの傍らには、花瓶に活けられた薔薇の花が。それも花びらはひからびて、暗闇でも色の褪せ具合が見て取れる。
 
 顔をのぞきこむ。そうすると、さとり様はうっすらとまぶたを開く。
 
「……ごめんなさいね」
 
 言われて、にゃぁ、と返す。何がですか。何に対して謝るんですか? さとり様。
 掛け布団から出された片手に、身体を抱き寄せられる。あんまりにも弱々しくて、でもちっともそれに逆らえなくて。
 
「なぁー……ぁ」
「……」
 
 謝らなくてはいけないのは、あたいの方なんです、さとり様。
 地上の薬師が、さとり様を診てから――や、もっと前から。あたいはひょっとして、さとり様が……生きるのが辛いんじゃないかって、思ってたかもしれないんです。
 こいし様は帰ってこないし。いくらあたい達が傍にいたって。さとり様、ずっとひとりのような気がして。それなら、そんなのがずっとこれからも続いていくってのなら。
 
 それを認めたくないから。あたいは。
 さとり様のために、って。旧都を駆けずり回ったり、こうして説得しに毎日部屋にやってきて……
 
 なんて浅ましいんだ。そう、自分で思う。
 そんな思いすら止められなくて、さとり様はきっとそれを読んでしまう。
 
「ありがと……、う」
 
 居たたまれなかった。どうしてここで「ありがとう」なんて言葉を出すのか。
 思わず寝巻きに顔をうずめると。鈴仙のお師匠が診察しにここへやってきた日、その時見たさとり様の裸よりももっと痩せ細ってるような心地がした。胸のやわらかさもほとんどなくて、顔に伝わるのはからからに干からびた肌の感触。薄皮いちまい向こうにある骨のかたさ。更にその奥から響く心臓の音だって弱々しい。
 
 頭を撫でられる。やさしく。静かに。
 生き物の手とは、ここまで冷えるものなのか。ぶるりと身体を震わせてしまうくらいに、さとり様の手はつめたい。
 
 一緒に寝てもいいですか? さとり様。
 
 こくん、と。その小さい頷きを了承と得て、あたいはさとり様の右肩のあたりで丸くなることにする。さとり様のゆるやかに巻いた髪の毛に、すぐ届いてしまう距離。身体の上に乗っちゃうと重くて苦しがらせるだろうから、この場所で。少しでも温かくなってくれないだろか。
 ひとつの寝床に寝るのは、ほんとうに久しぶりだった。あたいが始めてこの場所に来たとき以来だったか。そんな記憶もぼんやり霞がかって、うまく思い出すことができない。
 
 うわ言のように呟く声を、この夜何度か聞くことになった。
 
「……こいし、……」
 
 自分がこんな有様になってまで、まだこいし様のことを案じている。
 こいし様がこの場に居てくれたらと前に思った。けれどそれも、早々に切り捨てた。願ったところで、叶わなければ何の意味もないと。
 
 さとり様は。このお方は、まだ諦めていないんじゃないだろか。
 自分がまだ心が読めるうちに。こいし様が帰ってくるのを、ひたすらに待っている?
 
 家族だから。たったひとりの、血の繋がった家族だから――
 
 そのために、命をかけているのだとしたら。
 あたいはこれ以上、何を言えるのか?
 
 ひょっとして。以前鈴仙をこの場に呼んだのは、こいし様なのか。ぼんやりと感づいてはいたけれど。そんなの仕方ないじゃないかって、投げ捨てちゃった考え。
 でも、でも、そうすると。こいし様は、さとり様に助かって欲しいと思ってる。それでいて、この家に帰ってくるための何かが足りない。
 
 あぁ。なんで。
 どうしてこんなにもすれ違ってるんだ。
 
 ひとりはじぃっと待つ。僅かな命を灯しながら、己は助かろうともせず。
 ひとりはふらふらさまよってる。姉の命を心遣いながら、それでも顔だけは合わせようとせず。
 
 おんなじ場所に留まるべきふたりが、『この場にいない』。
 
 そんなのって、ない。
 今のあたいに出来ることはなんだろ、って。睡魔も遠くにいっちゃった感じの頭で考えてる。
 
「にゃぁ」
 
 小さく声を出した。今のさとり様には、もう届かない声。此処には居ないこいし様にだって、勿論届くことのない声。
 幾らでも語りかけたいけれど、当たり前のようにそれが出来ない。
 
 想った。今も苦しみ続けているさとり様へ向けて。
 あたいは、あたい達は、さとり様が大好きです。早くよくなってほしいです。その気持ちにはお気づきでしょう。でも――今はそれよりもっと、ずっと大事なことがあるんですよね?
 
 想った。今は何処に居るかわからないこいし様に向けて。
 あたい達はこいし様のことだって大好きです。けれどそれ以上に、さとり様はこいし様のことが大好きです。此処に戻ってこないのは。ひょっとして、あたい達が居るからですか? あたい達が、ご自分の代わりになってくれてるだろうって。そう思ってるからですか?
 
 そして想った。今、何をすべきか考える己に向けて。
 ひとつのやり方。もうそれしかないってわけじゃないけど。結局、ふたりを一緒の場所に留まらせたい。それこそがあたいの叶えたいことなんだと。
 
 諦めるなんてもう厭だから。なりふり構わず成すために、あたいは悪者になったっていい。
 そうだ。さとり様はなんにも悪くないけど、色んな輩から嫌われてきた。
 それに倣うんだ。大好きなご主人様の有様をあたいはなぞる。
 
 もうこの地霊殿の中に、さとり様を信じてついていこうって輩も減ってきてる。随分と薄情な感じだけど。普段仕事を割り当てられてる筈のペット達はだらけ始めて、「そろそろ此処にいるのも潮時か」なんて言い出す輩もいる。
 ご主人様が、ご主人様としての役割を果たせていない。さとり様が動物たちに好かれていたのは、あたい達の心を深く理解してくれていたから。
 それがなくなってしまったら。心を読めなくなったさとり様を慕う理由を見つけられなくなったと言うのなら。そこにちょこっとあたいが口を添えれば、見る間にペットの数は少なくなってしまうに違いない。
 
 そしたら。さとり様はほんとにひとりになっちゃいますよ? 寂しくなっちゃいますよ?
 それでもまだ、此処に戻ってくる気になれませんか?
 ねぇ、こいし様。
 
 あたいは。あたいはきっとさとり様を慕い続けるのだろう。
 でももう、顔を合わせることもしない。今はまだ、心を読まれちゃうから。
 他の奴らなんてのも、もう知らない。どうにでもなれ。離れるというなら離れるし。
 
 どっちにしたって。さとり様が心を読めなくなるのは。ながいながい眠りについてしまった時になる。
 そうなっても良いんだって、さとり様はきっと思ってる。
 
 ならば、その意地を汲もう。
 
 いいでしょう? ねぇ、さとり様……
 
 
 
 
§7. 霊烏路空
 
 
 
 
 コンコン
 
 相変わらず、さとり様の部屋に入るときのノックは二回である。もう習慣づいてしまって、このドアを二回以外の回数叩くことなどできそうにない。
 けれども、これは私のささやかな抵抗なんだ。それほど、短い間にいろいろなことが変わってしまった。地霊殿全体も、今では何やら沈鬱な空気に包まれるようになっている。
 
 さとり様が倒れて、その力を失ってからというもの、これまで一緒に生活していたみんながどんどんばらばらになっていってしまったのだ。
 何をしても、もう何も言われない。だから、初めのころはみんな面白がって好き勝手やっていた。しばらくすると、それでも何も言われないので、誰も何もしなくなった。行きつく先がどうなるかは、考えるまでもない。最後には、そして、誰もいなくなった、となるのだろう。すでにさとり様に見切りをつけたのか、地霊殿を出て行った奴らも多くいる。
 
 私は別に、そうすることがいけない、とまでは思っていない。もともと、好きでさとり様のもとにいるのだから、嫌いになったら離れるのも当然だ。けれども、今のさとり様を見捨てていくようなことは、好きではないのだ。だから、どうしたって嫌な感じを持て余している。時にはお燐に相談を持ちかけたりもするのだけど、彼女は放っておけと言う。
 まぁ、お燐もお燐である。ちょっと前までは熱心にさとり様のところに通いつめて、いろいろ説得したりもしていたようなのだけど、どうやら諦めてしまったらしく、もう止めてしまったのだ。何だかんだで他の者からも頼りにされていたお燐がそんな風になってしまったことの影響は大きかったようで、近ごろはさとり様の部屋に近づく者がほとんどいなくなってしまった。
 
 何より辛いことに、当のさとり様も病状はゆったりと、しかし確実に悪くなっているみたいである。腫れものを扱うような、とはこのようなことをいうのだろう。行くたびに弱ってゆくさとり様を目の当たりにすれば、心が折れてしまいそうになるのも無理はない。
 
「さとり様」
 
 近ごろは、むしろ大きな声で呼びかけるようにしている。それでも、反応がある時のほうがはるかに少ない。だから、まず最初に窓を開けてしまうようになった。
 この行為は、やはり効果はほとんどなかったのだろうから、やらなくてもいいのかもしれない。けれども、少しでも空気を入れ替えたい。少しでも良いほうに循環させたいという想いは、私を突き動かさずにはいられないのだ。
 
 ドアは開けたままにして、ふかふかと窓に近づいてこちらも全開にする。相変わらず風通しは良くないけれど、今日は珍しく積もった空気がごとりと動いたような気がした。
 そのごとりが影響したのか、さとり様のほうにふと視線を向けると、体をこちらに向けようとするさとり様の姿があった。
 
「さとり様!」
 
 ひとっ飛びで隣に到着した私に対して、さとり様は人差し指を立てて口元にもってゆく。しまった、つい大声を出しちゃった。だけど、嬉しかったんだから、仕方がない。私は自然と笑顔になって、さとり様にうなずきを返した。
 
 やっぱり、私はさとり様のことが好きなんだ。
 
 近ごろは、そんな当たり前のことでさえも忘れてしまいそうになっていた。
 
 さて、さとり様のために何かしてあげられることはないだろうかと部屋を見回すと、何と水差しが空になっているではないか。これはいけない。すぐにでも足してこなければ。
 
「ちょっと水を足してきますね」
 
 軽くうなずいたさとり様を残し、台所まで急いで向かう。そして、水を足そうとしたときに、昔のことを思い出した。自分が病気にかかったときのことだったと思うのだけど、水に何かの花の蜜を加えて飲みやすくしてもらっていたはずである。少し入れただけでも香りが豊かで、甘さもしつこくなくて、さとり様も確か好きだった。よし、探そう。
 あまりさとり様を待たせてもいけないと思い、嗅覚を利かせてざっと探してみるが、どうも台所には置いていないようである。そうすると、あの倉庫だろうか。あまり行きたくはないのだけれど、さとり様のためであれば、たとえ火の中土の中である。
 
 倉庫についてみると、そこまで雑然とした感じはしていない。スイッチを入れると、意外と明るくなった。意外といえば、明かりとともにお燐が姿を現したので、思わず消したり点けたりを繰り返していると、さすがに怒られた。
 
「こら、いい加減にしろって」
「ごめんごめん、急にお燐が現れたから」
「ったく、おくうは相変わらずだねえ」
 
 やれやれだぜ、とでも言いたげなポーズであった。声は怒っているとは言い難く、普段どおりのお燐であった。そこまでふさぎ込んでいない様子であったため、少し安心した。
 
「お燐は何してたの?」
「ん、いや、ちょっとね。それよりおくうこそどうしてここへ?」
「あ、えっとね。花の蜜があったと思って探しに来たのよ」
「これ……じゃないか、ああ、こっちだ」
 
 だいたいの場所が頭に入ってでもいたのだろうか、お燐はすぐに見つけて渡してくれた。
 
「ありがと。これをさとり様に飲ませてあげようと思って」
「……ふぅん? 何だ。おくうはまだ行ってるのかい」
 
 お燐の語調が硬くなる。まるでさとり様のところに行くことが悪いみたいな言いかたであり、さすがの私もむっとする。
 
「いいじゃないの。だって、水差しだって誰も代えてあげてないんだから。せめて私ぐらい」
「あんな分からず屋のことなんか知らないよ」
「そんな言いかた!」
「ったく、まだ通っているのなんかおくうぐらいなんだから、もう行くのやめちまいなよ」
 
 パシンッ
 
 お燐の「よ」が終わるか終らないかぐらいのところで、私の左手がお燐の頬を捉えた。長いつきあいの中で、初めての平手打ちは、これ以上ないほど良い音を立てて、これ以上ないほどの痛みを二人に与えた。
 彼女に背を向けて、一度も振り返ることなく私は倉庫を出て行った。まさかお燐がさとり様のところに行かないようにと言うなんて思いもしなかった。けれども、同時に納得もした。みんな同じように言われて、みんな行かなくなったんだ。お燐が言うなら、もう行く価値なんかないんだって、そう思ったんだ。頭の中に残るお燐に、ありったけの弾幕を浴びせて、この感情を落ち着かせようとする。
 さとり様の部屋の前で、深呼吸を二つ、何とか平静を装うことはできないだろうかと考える。ダメだ、相手はさとり様だから。たとえどんなに弱っていても、さとり様だから。
 
 開け放ったままのドアをくぐりぬけて、さとり様の前に出る。花の蜜の瓶を見ると少し驚いた様子で、水に少し足して渡すと、こくこくと飲んでくれた。表情が和らいだのを見ると、私の心も少し落ち着きを取り戻す。良かった。まったく、それにしてもお燐の奴には幻滅した。後で一発叩きこんでやろう。
 
「空、ありがとう」
 
 さとり様が口を開いて、私はすぐには反応できなかった。小さくても、はっきりした声だった。
 
「喜んでもらえて良かったです」
「貴方の気持ちはありがたいのだけど、でも、やりすぎはだめよ」
「え、いや、でも……」
「いいのよ」
 
 ゆっくりと横に首を振られた。そして、ゆっくりと目を閉じる。私は、下がる前にコップに新しく水を入れて、机の上に置いた。もちろん、花の蜜を加えて。
 
 
 
 ◆
 
 
 
 さとり様の部屋を出て、私は行く当てもなくとりあえず廊下を歩いていた。いいのよ、とさとり様は言った。きっとお燐のことだろう。どうして許すのか、さとり様の考えることは私にはわからない。
 考えながら歩いていて、いろいろと油断していたところ、いきなり背中にキックを受ける。つんのめって何とか転ぶのだけは耐えたところで、誰の仕業と振り返ったら、こいし様だった。
 
「こいし様!?」
「はい。絶え間なく注ぐ愛の名を永遠と呼ぶこいしちゃんでーす」
「いきなり何するんですか」
「だってー、おくうが難しい顔しながら歩いてるんだもの。らしくないわ」
 
 ころころと笑うこいし様に、もはや怒る気など持ち合わせてはいなかった。見ると、こいし様の体は傷だらけで、服もぼろぼろである。
 
「その格好、どうしたのですか?」
「おくうは服の切れ目から覗く乙女の柔肌に興味があるの?」
「何で切れ目ができたかのほうが気になりますよ」
「それは残念。まぁ、ここだと何だからちょっと出ましょう」
 
 そうして連れてこられた先は、地霊殿の一角にある、小さな空き地だった。ただ、空き地と思っていたのは間違いで、簡単な庭園のようになっている。小さなテーブルと椅子が二つあって、それをなかなかの色彩を誇る植物たちが囲んでいる。しばらく人の手が入っていない様子で、ところどころ形が崩れていた。
 
「ここ、お姉ちゃんの手作りなのよ」
「さとり様の」
「昔はよくここでお茶してたんだけどねー」
 
 聞けば、覚という種族は他者の心が読めるがゆえに、原始的な思考しか持たない植物には安らぎを見出すものらしい。さとり様もその例にもれることなく、地上にいたときから土いじりを趣味としてきたとのことであった。
 地底はろくに草花の育たないところではあるけれど、さとり様は何とか何とか長い時間をかけてここまで造り上げたのだ。このような趣味を持っていたなんて、知らなかった。さとり様に私が知らない部分があったことは残念だけど、それをこいし様が知っていたことは嬉しい。勧められるままに、椅子に座った。
 
「それで、どうしてそんな格好に」
「ちょっとねー、殺し合いしてきたのよ。旧都にね、こいしちゃん的美学に反する奴らがいて」
「やっちゃったと」
「お姉ちゃんのこと馬鹿にしててさ。ついかっとなっちゃった」
 
 今の話によると、さとり様のことを馬鹿にするのが、こいし様の美学に反することになるという。ちょっと待った。何かおかしい。
 
「かっとなるって、こいし様らしくないですね」
「そうかも。ああ、これが怒るって奴なのかな」
「多分、そうです」
「つまり『こいしちゃんの かしこさが 1あがった』ってことね」
 
 これまで何の感情も覚えなかったこいし様に、ここにきて変化が起きている。さとり様が知ったら喜ぶかなぁ、などと思っていると、こいし様が錆びついたスコップを一つ拾い上げた。
 
「ねえ、私、他にも判ったことがあるの」
 
 そう言って、こいし様がスコップを腕へと押しつける。尖った先が、こいし様の白い柔らかそうな肌に沈んでゆき、すっと滑らせると、当然ながら血が流れてゆく。
 
「前におくうが寂しいって何か教えてくれたから、考えたのよ。辛くて、痛くて、でも温かいってこういうことなんじゃないかしら。こいしちゃんのきれいなお肌に傷がつくのは辛い。そして、傷はじくじくとして痛いの。だけど、確かに温かいわ」
「こいし様……」
「そして何より、私も、こうやって血を流せるの。ねえ、流せる血があるって素敵なことだと思わない?」
 
 独特の表現ではあるけれど、きっと悪いことじゃないと思った。
 
「こいし様、もし、さとり様がいなくなったら……」
「判らない。でも、思い出してしまったことを、見て見ぬふりをすることも、きっとできないんじゃないかな、って」
 
 自分でもまだ何を言っているか良く判らないんだけどね、と言い残して、こいし様は姿を消した。点々と血痕は続いている。それはそれで、一つの道だった。
 
 
 
 
§8.古明地さとり
 
 
 
 
 寝台に、湿気った棒切れの如く横たわる。
 
 自分の身体がこんなに重いものだとは思ってもみなかった。寝台に沈み込んでいるものが肉と骨と水の塊であることを、否が応にも意識させられる。象の分厚い皮膚を通して外界と接しているかのように、感覚は鈍ってしまっていた。指先は泥のようで力が入らず、枕の上で首を巡らせることすら億劫だ。包帯はとっくに外れていたが、視力は元の十分の一にも及ばない。
 
 しかし現在、意識だけは奇妙なほどにはっきりしていた。長らく夢現をたゆたって、ここまで鮮明に世界を感じ取れるのは久し振りである。蝋燭の灯火は、消える直前に一際明るく燃え上がると聞く。
 
 花瓶の薔薇も、既に水気を失い枯れかけていた。萎れかける度に造花と入れ替えていたのは、妹がこっそり部屋に出入りしている事実を確かめたかったから。無意識に行われていたのだろう、その表情は想像することしかできなかったが、少なくとも見放されてはいないはず。
 
「…………」
 
 今の私にできることは、じっとあの子を待つことだけだ。静かな部屋に来訪の予感は無く。ただ、妄執だけが澱のように沈んでいる。
 
 
 
 ◆
 
 
 
 随分とまあ遠くなってしまった耳よりも、全身が扉の軋みを拾った。恐る恐るか、それとも躊躇いがちに近づいてくる気配へ、全ての神経を集中させる。
 
「お姉ちゃん、起きてる?」
 
 辛うじてその問い掛けを聞き取り、瞬きで応えた。こいしは枯れかけた薔薇の方を見遣り、無表情に面を伏せる。フェルト帽の鍔が、その面立ちを覆い隠した。
 
「それ、私がすり替えたんだ。お姉ちゃんの好きだった花なら、元気、出ると思って」
 
 陰より一瞬、眼光が瞬いたような。よほど私の表情が物問いたげに映ったのか、こいしは取り繕うかのように続ける。
 
「元気になってって、言おうと思ったの。でもね、でも、お姉ちゃんの顔を見てたら何だか怖くなっちゃって。怒られて、悲しまれて、嫌われちゃうんじゃないかって……。どうしてだか、分かんないんだけど」
 
 そんなことがあるはずなかろう。何とか首を振ってみせながら、そんな些細な運動だけでめまいを感じる自分を頼り無く思う。こいしが、つと寝台の脇へ立った。
 
「でもよく考えてみたら、死んじゃったお姉ちゃんは嫌ってすらくれないのかもしれない。お姉ちゃんの死体は、霊は、私のこと憎いって口に出してくれやしないのね。想像したら、すっごく恐ろしいことだったわ」

 思い出したように帽子を取り、私の顔を覗き込む。間近に見るその瞳は硝子細工じみていて、一切の情動を読み取れない。
 
「ねぇ、お姉ちゃんは、私のことおいて居なくなったりしないよね」
 
 私は答えず、身じろぎもしない。ややあって、こいしの唇が真剣さを帯びる。
 
「薬師の人に教えてもらったの。青息吐息に見せかけて、お姉ちゃんはまだ助かる見込みがあるんでしょう?」
 
 薬師本人から、そして入れ替わり立ち替わり見舞いに訪れるペット達から、その話は何度も聞かされていた。曰く、覚りの象徴たる第三の目の損耗が重しとなって、私を死の淵へと引きずり込んでいるらしい。自身、言われてみればという実感があった。
 故に治療法は単純明快だ。腐敗が全身に回らぬよう矢傷を負った腕を切り落とす施術に倣い、この器官を概念的に切除すればよいのだ。
 その結果は誰にも予想しようが無いが、大なり小なり精神活動に影響が出ることは避けられないだろう。こいしのような無感覚に陥ってしまうかもしれないし、最悪、植物状態か。どちらにせよ読心能力を失うことは避けられず、他に手を打たなければ臨終を待つだけであることもまた事実。
 
 あの薬師は五割方命を救ってみせると請け負うが、容体が悪化するにつれて成功率も低下するとも念押ししていた。重々承知の上で、私は皆の説得を拒み続けてきたのだ。何もかも覚悟の上。この子のためならば――
 
「――お姉ちゃんのためなら、私、お姉ちゃんに嫌われたって構わないわ。覚悟って、こういう時に使うものなのよね」
 
 低く呟くこいしに、私は一抹の不安を覚える。張り付いた能面のような微笑、機械的な抑揚と瞬き。これではまるで、あの頃の――心を閉ざしてしまった頃の妹ではないか。
 
「薬師さんに聞いたら、できないこともないんだって。だから私、決めたんだ。もう、お姉ちゃんの都合は考えない。お姉ちゃんが何を考えてても関係無い」
 
 乾いた声音で囁いて、胸の瞳に片手をかける。
 
「これ、お姉ちゃんにあげるわ」
「ぁ……」
 
 言葉の意味を理解した途端、鐘を撞くような衝撃に揺さぶられ、目の前が暗くなった。痺れた舌の奥から、声にならない呻きが漏れる。全く想定していなかった申し出に、思考が凍っていた。
 第三の瞳を、移植する。枯れゆく株へ、新たな遺伝子を接ぎ木するように。あの底知れない薬師が言うのならば、本当に不可能なことではないのだろう。しかし、それではあんまりではないか!
 
「新品同然だもの。お姉ちゃんは元通りに心を読めるようになる。そうしたらきっと、お燐達だって戻ってくるわ。全部、全部、元通りになるの」
 
 到底受け入れ難い提案に、力無く首を振る。心中に失望が広がっていくのが分かった。よりにもよって、最後の最後に選んだ結論がそれか。妹は、やっと心の内に芽吹きかけた情動を自ら手放そうとしていた。
 
「お姉ちゃんは、居なくならずに済むのよ。今までだって要らなかったんだもの。私は、こんなものが無くたって平気だわ」
 
 首を振る。ただただ屈託の無い笑みが正視に堪えず目を逸らす。ふと、その指がフェルト帽の鍔をきつく握り締めていることに気付いた。柔軟な生地へ、皺が寄るほどに硬く強く。
 
「うんって言ってよ、お姉ちゃん」
 
 首を振る。
 
「お願いだから……」
 
 首を、振った。ほとんど睨み付けるようにしてこいしの眼差しを受け止め、見詰め返す。冷たい眼差しを、より硬い眼差しで打ち伏せるのだ。命のやり取りを交わす相手へ、これまで何度もそうしてきたように。虚飾の仮面を剥ぎ取り、秘された心を看破するために。
 
「お、姉ちゃん?」
 
 ほんの一時その瞳をよぎった動揺を、私は見逃さなかった。頬肉を噛み切って流れる血が、辛うじてのどを湿らせる。優しさではなく厳しさを込めて、言ってやらねば気が済まない。
 
「生、意気、言うん……、ない、わ。こいし……」
 
 蚊の鳴くような呼びかけに、しかし一喝されたかのように目を見開き、立ち尽くす妹。唇が強張ってしまう前に、私は畳み掛ける。
 
「……それは、貴方が、たいせつ、に、……きゃ、だめ。おねえちゃん、には、お見通し……、なの」
「それは……、そんなの、知らないわ。――知らないったら!」
 
 叫ぶ。出し抜けに放り捨てられた帽子が、べしゃりと床に叩き付けられる。顧みず鼻息の荒いこいし。思わぬ豹変に驚く私へ浴びせかけられる言葉は、どこか苦しげな響きを伴っていた。
 
「お姉ちゃんの都合なんて訊いてないの! 私は、居なくなって欲しくないだけなのよ。それなのに――どうして?」
 
 激情に潤んだ眼差しをぶつけられて、束の間怯む。怒鳴るとまではいかないまでも、妹の双眸には明確な怒気が湛えられていた。
 
「お姉ちゃんが悪いわ。私はっ、みんなだって、きっとお姉ちゃんのことが心配で堪らないのよ。なのに、どうして、何にも言ってくれないの? 言葉にしてくれなきゃ、分かるものも分かんないわ……」
 
 地団駄を踏み、食ってかからんばかりの調子で――、いや、実際に肩へ掴みかかりながら、こいしはまなじりをいからせている。
 
「ええ、意地が悪いったらないわ! それで格好を付けてるつもり? いつも変なところで意地っ張りなんだから……。だからお燐達に愛想を尽かされちゃうのよ。でも、みんな好きでお姉ちゃんから離れたりした訳じゃない。ほんの一言、頼りにしてくれれば嬉しかったのに。何だって差し出せたのに。どうして!」
 
 こいしの声に湿ったものが混じった。私の頬へ、ぱたぱたと生温かいものが降り落ちる。
 
「お姉ちゃんは、このまま良くならなくってもいいの? 私は、嫌だよ」
 
 首を振る。私も好き好んで終わりを受け入れる訳ではない。ただ、より悲劇的な結末もまた世に存在するという事実を知っているだけのこと。ありふれた悲劇というものを、この子はまだ理解できないのだ。
 
「ねぇ、美味しいお茶を淹れてくれる約束でしょう? また元気になったら、一緒に地上へ遊びに行きましょうよ。私、色んな変人に会ってきたわ。あの連中なら、きっとお姉ちゃんだって恐がられやしない。見せたいものが沢山あるの。それともっ、もう私のこと、嫌いになっちゃった?」
「……ぃ、し」
 
 気力を振り絞り、片腕を持ち上げようと気を張る。自分に妹の涙を拭う資格は無いかもしれないが、せめてその温もりを確かめておきたかった。
 しかし、単に腕を伸ばすだけの距離がどこまでも遠い。張り詰めた筋のみならず全身が機能不全を訴え、四肢の末端から虚脱感が這い寄ってくる。
 
「お姉ちゃん、答えて……」
 
 その頬へ指先が触れるか否かのところで、どこかしらの神経が焼き切れた。力んでいた分だけ腕が暴れ、固い何かにぶつかってそれきり痛みすら喪う。
 
 視界の端で花瓶がぐらりとかしぎ、落下してゆく。
 
「何で……、ねぇ、お願い、だから」
 
 頬を濡らし、唇をわななかせながら、こいしは切々としゃくりあげる。その哀願だけがはっきりと聞こえていた。奇妙なことに、花瓶が床に叩き付けられ砕き割れる音は、一向に耳へと届かない。
 その矛盾が示す可能性を咀嚼して、私は一つの可能性に至る。これが末期の譫妄でないのなら、私は、報われたのだ。
 
「……ぁ。そんな、これ、おねぇちゃ」
 
 戦慄く妹の唇。流れ込んできたその混乱に押し潰されそうになり、必死に歯を食い縛る。ここで自分を失ってしまっては元も子も無い。
 
「嘘……、よ。お姉ちゃん、まさか――」
 
 他者から心中をなぞられる感触は、随分と久し振りだった。一通りの動機を理解して愕然とするこいしに、しかし、言い訳するだけの猶予は残されていない。萎えかけた意気地を叱咤し、精神を奮い立たせる。
 
「違うの、私、そんな。……どうして」
 
 零れる呟きは譫言のように。膝からくずおれた妹が、それでも私の片腕に縋り付く。そっちはまだ感覚が残っていて良かった。伝わってくる悲痛な感情の渦に、今更ながら暇乞いが惜しくなる。伝えたいことなら山ほどあるのだ。それでも、最初に見せてあげたい心象は決めていた。
 
 今も愛しい妹へ。心の窓にはまだきっと、眺むべきものがあるのだと。
 
「ねぇ……。こいし、覚えてる?」
 
 
 
 
 ◆ ◆ ◆
 
 
 
 
 燐へ。陳腐な出だしで申し訳ありませんが、この文面を読んでいるからには、私の口から直接伝えることができない事情があるのでしょう。備えあれば憂い無しとはよく言ったものです。
 
 筆を取る体力も心許無いため、この手紙は恐れ多くも閻魔様に代筆をお頼みしています。映姫さんなら一字一句書き違えようがありませんし、また届け先を失念することもないでしょう。説教のおまけが付いてこないとも限りませんが、つまるところ一種の職業病と言えましょうか。良い忠言は、それだけ耳に逆らうもの。
 地霊殿の管理運営については、映姫さんを通して是非曲直庁の担当部署に、また旧都を代表して星熊勇儀さんに委細をお任せしています。勇儀さんとは最後まで反りが合いませんでしたが、彼女の義侠心はこの私が太鼓判を押すものです。その目が黒い内は、まず盟約が破られることもないでしょう。
 
 燐には、損な役回りを押しつけることになってしまうでしょうね。恨んでもらって結構。済まない気持もありますが、反省こそすれ、謝罪するつもりはありません。代わりといっては何ですが、他の者への文には誤解の無きよう一筆添えておくことにします。貴方ならきっと如才無く立ち回れるでしょうけれど、念のため。
 
 そう、念のため、目に見える言葉として遺しておきましょう。
 
 姉の贔屓目かもしれませんが、最近のこいしは昔と比べてずっと感性が豊かになっているように感じます。地上との交流が復活したことも大きかったでしょうか。あれほど頑なに閉ざされていた瞳も、少しずつ血色が戻ってきているような。
 それでも、楽観することはできませんでした。あの子の心に甦るのは、決して優しい思い出ばかりではないでしょう。一線を跨ぐ最後の一歩は、それまでに歩んだ千里の道程にも増して胸に鑢を掛けるもの。かつてのトラウマを乗り越えることの、並大抵の克己では成し遂げようもありません。
 
 だからこそ、私は己の寿命をきっかけに仕立てようと考えました。もし妹に病床の姉について胸を痛める心理があれば、そこに付け入る隙がある。例えば私が頑として説得を受け入れないまま、皆に見放されてゆくようなことがあれば、助かる見込みを自ら手放そうとしているように見せかけることができれば、こいしは最後の手段として、読心に訴えてくれるかもしれません。
 妹が根負けするのが早いか、私が力尽きるのが早いか。五割と言わずもっと分の悪い賭け、あの子の情と良心を利用する卑怯な駆け引きであることは重々承知ですが、他の方策を講じるだけの猶予は残されていません。もう一度妹の手を引くことができれば、それが最後の機会になったとしても、古明地さとりの本望なのです。
 
 結果がどのようなものであったとしても、永遠亭の方々を責めるのはお門違いだと確認しておきましょう。彼女達には彼女達の哲学があり、そのためには腕と知識の粋を振るう用意があります。特に八意永琳は、私の思惑を察した上で選択を委ねてくれているように見受けました。底の底まで読みきった自信は無くとも、悪意が無いことは間違いありません。私には、それで十分でした。
 
 おくうは万事があの調子ですから大変でしょうが、辛抱強く付き合ってあげなさい。彼女はさして聡明で無かったとしても、一つことへ懸命になれる長所を持っています。そのつもりで耳を傾ければ、拙い言葉からも多くの含蓄を拾い上げることができるはず。絆に勝る財物など持ち得ないことを、よく肝に銘じておくことです。
 
 今後の身の振り方について、取り立てて指図することはありません。一応、私や地霊殿に拘る必要は無いと申し添えておきましょう。心の赴くままに生き、辿り着くままに死になさい。ただ、もし恩義を感じるようなことがあるとしたら、時折でいいから妹のことを気に掛けてやって欲しいと願います。
 
 最後に。これは言うまでもないことですが、忘れないで下さい。燐がそう望んでいる限り、貴方が私の大切なペットであることに変わりはないということを。
 
 
 
 
 ◆ ◆ ◆
 
 
 
 
§9.霊烏路空
 
 
 
 
 しまった。もうこんな時間じゃないか。今日は大事な用事があるっていうのに。
 
 地下センターの管理室、ノートを開いたところで、私は途方に暮れていた。ぱらぱらとめくっても、そこには真っ白なページばかり。これを書かないと仕事が終わらないのだけど、かといって書いていては間に合わない。こいし様の家にお呼ばれしているのだ。絶対に遅れるわけにはいかない。
 日記を書く、時間どおりに着く。両方やらなきゃいけないのが辛いところである。迷っている暇はない。私はまっさらな日記帳を手にとって、そのまま部屋を飛び出した。こうなったらこいし様の家で書かせてもらおう。
 仕事に関しては、今日も特筆すべきことはなかった。一時期、悲しみを忘れるために仕事に打ち込んでいたことがあって、そのころにシステム的な開発も集中的に行った結果、より効率的にエネルギーの生産ができるようになったのだ。それからは週に一度くらいはお昼過ぎに帰ることもできるようになって、まあ今日がそれに当たるわけである。とはいえ、ついでにセンター内にも私の部屋を用意した結果、なかなか帰ることが少なくなっているのも事実なのだ。
 
 だから、今日の日記には、こいし様のことを書こう。私の大好きな、こいし様のことを。
 
 縦穴を超スピードでかっとばす。ここのところセンターに籠りっきりだったから、最初は感覚がついてこなかったけど、地上に出るころにはもうフルパワーでも大丈夫。やっぱり地底と違って風が気持ち良い。びゅんびゅん切り裂きながら最短距離でゴールを目指す。
 
 それにしても、こいし様のところに行くのも久しぶりである。昔からいろいろなことをみんなに任せっぱなしにしてきて、それは今でも変わらない。
 さとり様がいたときもそうだったし、いなくなってからもそうだった。結局出て行った者たちの全員が戻ってきたわけではなかったけど、逆に言えば残った仲間たちの結束はより固くなっていたのだ。
 その中でも、まとめ役をやっているお燐などは特に大変だろう。何たって、私のように気ままな連中ばかりだから、ね。
 
 そんなことを考えていると、目指す家が近づいてきた。
 
 
 
 ◆
 
 
 
 玄関に近づくと、すでに美味しそうな匂いが漂っていた。匂いの段階では、懐かしさを感じさせるものである。そういえば、さとり様からこいし様には、手紙に添えて幾つかのレシピが伝授されたと聞いていた。さて、腕前のほうはどうだろうか。
 
 コンコン
 
「こいし様ー!」
「開いてるよー!」
 
 ノックは二回、それとともに、こいし様の名前を呼ぶ。まだ料理のために手が離せないのだろう。そのままドアに手をかけて家の中に入らせてもらう。中は、外よりもさらに美味しそうだった。
 
「こんにちは。お久しぶりです」
「おーおくう、こっちこそなかなか顔を出せなくて悪いねー。みんな元気?」
「元気、だと思いますよ。実は私もセンターに泊まりっきりで、似たようなものです」
「そっかー。じゃあ、座って待っててよ」
「あ、何か手伝いますよ」
「じゃあ、お皿お願い。温めてあるから」
 
 机の端に日記帳を置かせてもらって、お皿と、それからナイフやフォークを用意する。って、何か本格的なんですけど。
 
「こいしちゃん特製のフルコースだから、期待しててね」
 
 台所から顔だけ出して、こいし様が微笑む。ああ、これは楽しみだ。さっきの顔は、さとり様の面影があった。昔むかしに、ケーキを切り分けていたころの面影が。
 
 
 
 ◆
 
 
 
 期待はしていたのだけど、料理はそれを上回るものであった。こいし様の料理とは思えないような出来で、とても美味しかったのだ。まずはフルーツトマトと香草をコンソメゼリーで包んだアミューズ・ブッシュから始まって、オードブルには鮎のパテが出てきた。スープはヴィシソワーズだったし、メインは大ぶりなスズキをぱりっと焼き上げた一品に酸味のきいたソースがぴったり。ボリュームたっぷりで、大満足だった。
 
「ボリュームたっぷりで、大満足だった、っと」
「おくう、ほんとに思ったままのことを書くんだねぇ」
「いいじゃないですか。美味しかったんですから。それにしてもあみゅーず・ぶっしゅとか初めて聞きましたよ」
「お姉ちゃんの受け売りだけどね」
「さすがさとり様の味でしたねえ」
「で、肝心のデザートはどうだったのかな」
「う、言わせないでくださいよ」
「私もまだまだよねぇ。お姉ちゃんのレシピのあるやつは美味しくできるんだけど、自分でやるのはダメダメなんだから」
 
 まぁ、お世辞にも最後のケーキだけは、美味しいとは言えなかった。口に出す前から顔には出ていたし、どうせ筒抜けだからどうってことはなかったけれど。それでも、日記帳には、デザートについて書かれることはなかった。
 
 こいし様と一緒にお皿を洗って、食後の紅茶を用意する。ゆっくり食べたけれど、まだまだ日は高い。だから、こいし様の提案で、外でいただくことにした。
 家に入るときにもちらりと見たけど、決して広くはないが、手入れの行きとどいた庭である。草花は陽光をいっぱいに浴びてきらきらと輝いているし、ひと際目につくのは色とりどりのバラである。
 押す車椅子には、もう一人。二つしかない瞳は、残念ながら閉じたままだけど。
 
「ここ、造りが地霊殿にあった庭と似てますね」
「まーね。それがモデルになってるんだから」
 
 さとり様への施術は確かに成功したらしい。それでも、さとり様の意識が戻ったわけではなかった。こいし様にも、さとり様の意識は読み取れないという。それからというもの、こいし様はさとり様がいつ目覚めてもいいようにと、世話をしながら二人で暮らしているのだ。
 
「お姉ちゃんが起きたときに、まず見せてあげたいの」
「いきなり外に連れ出したりしたら、眩しくて倒れちゃいますよ」
「でも、起きてくれたら嬉しくてそれくらいやっちゃうと思うわ」
「こいし様、寂しくないですか?」
「その質問、何回目だろう。寂しいけど、大丈夫よ。あの時、お姉ちゃんからたくさんのものを受け取ったの。私が忘れてしまっていたようなことまで、全部。その思い出が私の心にある限り、懐かしい、温かい気持ちになるから」
 
 きっと、さとり様も同じ気持ちですよ、とは思ったけれど、口には出さなかった。今の私たちには、それで十分だったのだ。
 
 
 
 
 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 
 
 
 
 
§.エピローグ あるいは未来を語るためのお話
 
 
 
 
「はい、おしまいだよ」
 
 風がゆるく吹いた。あたいはよっこらと立ち上がって、お尻についた土を手で払う。
 随分長く話し込んだ気もする。長い長い、あたいのご主人様のお話。
 地底は相も変わらず薄暗くって、夜だか昼だかわかりゃしない。
 
「え、そんな。それで、どうなったんです?」
 
 あたいにならって立ち上がり、勢い込んで訊いてくる。耳がぴこぴこ動いてるあたり、よっぽど気になると見た。
 あたいとしては、もう色々語ったつもりだったんだけどねぇ。
 
「……そうだね。いっちゃあ何だけど、こいし様の料理の腕はさ。『最後』までひどいもんだったよ」
「さいご?」
 
 今はどうかな。ここ最近食べてないなぁ。それでも、まぁ。「今」ならきっと、ちょっとは上手くなってるかなぁ。なんせ――
 
「あぁ……今日も穏やかだねぇ」
 
 ずぅっとずっと、すれ違ってたんだ。
 だから。今も、そしてこれからも。どれだけ時間が経ったって、隙間を埋めきるのには足りないのかも。
 
「ねぇ、お燐さん」
「野暮だねぇ。言わぬが花って言葉あるだろ?」
 
 直ぐ足元で、薔薇の花が揺れる。ちょこっと頭を垂れる様はかわいらしい。
 
 生花か。こいつはきちんと生きてるから。いずれ枯れっちまってなくなるのだろう。それは小さなおしまいだ。
 
 でも、でも、また咲くよねぇ。
 
 これをこっそり植えてくれるのは。
 こうして「見せたい景色」を用意しておくのは。
 喜んでくれるに違いないから。――そうでしょう?
 
 見上げる。空を拝むことは出来ないけれど、あたいは想像する。
 その下にもきっと、薔薇の花畑が広がっているに違いないって。
 
「ありがとね」
「えっ?」
「お礼さ。何でもないお話を聞いてくれたお礼」
 
 わしわしと頭を撫でる。そうする度に尾っぽがふりふりするのを見てると楽しい。
 
「や、……そんな。私は何もしてませんよぅ」
「いいのいいの。あぁそうだ。ひとつお前、勘違いしてることがあるね」
「な、なんですか」
「ちょっとかなしいことだけど。別段辛いってわけじゃないんだ」
 
 だって。あたい達はただ、待っていればいいんだから。
 今にして思えば、ほんの些細なことだったのだ。
 心を読める読めないなんかこだわることなんてない。
 
「さぁ、お仕事はおしまいだ。ご飯にしよっかねぇ。そうだお前、料理はできるかい?」
「ええと、えっと、少しなら」
「それなら練習しとこうか」
「練習、ですか」
「そ。誰かさん方が、いつ来てもいいよにね」
 
 二本の足で土を踏み締め歩きだす。
 ご飯を食べる前に……また手紙でも見返してみよっかねぇ。
 確かに残った、眼に見える文字を。
 
 後ろの方から、元気な声が響く。
 
「は、はいっ!」
 
 たとい小さなおしまいを繰り返しても。
 造花のように、ずっと残り続けるわけじゃあなくっても。
 また新しく、小さな始まりを紡げばいい。
 
 何度も。何度でも。
 
「そう思わないかい?」
 
 後ろをついてくる娘には、多分届かないくらいの小さな声で言った。
 
 まだ視界から途切れることのない薔薇の花は。
 あたいの言葉に頷いてくれたみたいに、小さく揺れる。
 
 
 
 
 
たこ焼き(いこの、プラシーボ吹嘘、guardi)
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/06/14 02:09:58
更新日時:
2010/07/31 22:53:29
評価:
42/92
POINT:
5950
Rate:
12.85
分類
地霊殿
1. 70 白麦 ■2010/06/24 23:57:36
お燐やお空の心境がよかったと思います。妖怪の死亡ケースに肉体のダメージってのはなんとも意外(?)なもんで寿命物と違い楽しめました。
しかし物の崩れか。実際に起こりえるその辺のご老人方の死亡ケースのようで妙なリアルさを感じたりもしました。
8. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/01 07:45:34
とても印象的でした。うまく言葉に出来ませんが、ずっと忘れられないでしょう。

なんとなく、ですが。関わられた作家さんが判った気がします。
19. 100 山の賢者 ■2010/07/02 14:28:45
感動した。完全にバッドエンドじゃない(ぼかしてる)とこもGOOD。
お燐の言った「最後」ってのはなんなんでしょうね。
さとりが目覚めて、さとりが料理するようになって、だから、こいしは料理をしなくなって。
だったらいいな。

ハッピーエンドを期待する分、もしバッドエンドだったらと思うとこの先を知ることを躊躇いたくなってしまいます。
どうか、さとりの双眸が再び光を宿しますように。
26. 60 半妖 ■2010/07/04 01:24:00
自分が新入りになったような気分で、引き込まれました。
先行きも気になる展開で良かったです。
ただ、鬱々とした雰囲気が続くので個人的にちょっと疲れました。
27. 80 星見情景 ■2010/07/04 03:38:59
楽しませていただきました
地霊殿メンバーの強い絆を綺麗な文章で表現した
素敵な作品だったと思います

しかし情景の表現が多い割には薄く感じました
その為少し冗長に感じてしまった場面も少なくなかったです

これからの古明地姉妹は幸多く生きてほしいものですね
29. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/04 12:53:05
バッドかと思ったらハッピーエンドでした。
さとりが目を覚ます日が早く来るといいですね。
30. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/04 17:54:04
よかった……!
さとりさまが生きていてくれて本当に……!

序盤から、これどうなっちゃうんだって、とてつもなく不安でしたが。
いい終わり方でした。
映姫さまや神奈子さまも、いい味出してましたね。
36. 70 更待酉 ■2010/07/05 02:17:18
紡がれた未来。その先にはいったい何が待っているのでしょうね。

それぞれの交差する思いの物語り、楽しませてもらいました。
37. 20 電気羊 ■2010/07/06 05:59:56
むぅ。
本当に個人的な趣味を言って申し訳ないと思うのだけど、動物連中が人間以上に繊細なのを見ると首を傾げてしまうんです。
地霊殿そのものが暗い役割を背負ってばかりで、彼女らの持っている生命力が見えてこないのには食傷気味。
結果、ぼくの中ではもやもやとした気持ちが再生産されていくばかりなのです……。
43. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/07 19:39:45
読み終わったあとに上手く言葉にできないような感情を抱かせてくれる作品でした。
じっくり一人称で書かれた彼女たちからは書かれた以上のものが伝わってくる気がします。
45. 100 2C ■2010/07/09 21:39:30
自分の理想通りの、悪い子役を自分から引き受ける情け深さで
かつペットらしい可愛さもちゃんとみせてくれるなんて
もうこのお燐を具現化してくれただけで感謝感激100点余裕です、が

無意識の表現の大胆さにもやられたし
覚りの宿命のくだりもテーマにして欲しかった部分で嬉しかったし
さとり様がイケメンすぎて正義だし
適当に扱われるキャラが居ないのも凄いしで
お燐以外の部分も合わせてあと100点付けたいぐらいでした
47. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/10 19:04:10
この感動をどう言葉にすれば良いのか
わからないので、一言だけ。
面白かったです
48. 100 あおこめ ■2010/07/10 19:05:49
地霊殿の方々って何でこんなに離別する話が合うのでしょうね……
特にお空、まるで就職して家族から一人立ちしていく姿を見ているようでした。
49. 100 名前の無い程度の能力 ■2010/07/11 21:53:09
一発目から悲しいお話か!
と思ったけど最後はハッピーに終わってよかったです
51. 90 名前が無い程度の能力 ■2010/07/11 23:46:00
この古明地姉妹はとてもよかった
自分の命を賭けに、こいしの心の眼をひらかせようとするさとりん
お燐宛の手紙で涙出ました

キャラに見合った心情の動きは○、
描写力は十分あると思うのですが文字数が多い割に伝わってくるものが少ない印象がありました。冗長というかなんというか表現できなくてスマソ
54. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/13 22:21:43
作の途中からずっと泣きっぱなしでした。
弱っていくさとりや、それを見守るお燐・お空の心情が辛すぎる。
二人のさとりを想う気持ちからも、彼女の強さ、優しさ、温かさが伝わってきました。

未来の事を勝手に推測、妄想しちゃったけど、さとりとこいしには本当に幸せであって欲しいです。ずっと一緒に。
とても素敵な家族でした。
55. 80 ト〜ラス ■2010/07/14 09:07:20
いろいろ感想考えて気がついたらこうなった。

(・∀・)イイ
58. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/16 08:01:18
なんとも言えない切なさが・・・。
でも、終わったわけではないんですよね。
なら、その向こうにある幸せを信じさせていただこうかな、と。
59. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/17 13:51:11
ちょっとかなしいお話。でも希望は残った。
それだけで随分と救いがあると思います。
さとり様の悲しくなるくらいの強さが許せなくもあり、そしてとても尊い。
61. 90 ずわいがに ■2010/07/18 11:00:58
よくもこんなどシリアスを叩きつけてくれたもんです
おかげで私の涙腺はもうゆるゆるじゃないですか!

荒療治にも程があるさとりの行動にやきもきしながらも、それだけこいしのことを愛していたのだと考えれば無粋なことは言いますまい
そしてこいしもようやくその瞳を開くことが出来たようで、これはハッピーエンドってことで良いんでしょうかね
救いのある話で良かった、読後の気分も清々しいです、暗雲が晴れたような感じで

いったい何年後の未来なのかはわかりませんが、地霊殿は永遠に不滅ですね
62. 100 euclid ■2010/07/19 03:59:25
素晴らしいとしか言えない作品。
ただ、お燐とお空の仲が修復される直接的な描写があってもいいかもと思いました。
すっごく蛇足になりそうですが。
本当に、拝読させていただきありがとうございました。
63. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/19 23:51:03
雰囲気という点において、このSSはラグナロク作品で最も秀でていると思います。
三人の主役+こいしというこの構成も、合作らしさがストレートに感じられて面白かったです。

個人的にGLAYネタが何故かクリーンヒットしました。
67. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/28 12:03:02
最高
69. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/29 20:05:26
ふと思えば、こいしが目を開けるまでの話を読んだのは、これが初めてでした。
非常に難しい問題を、繊細に、優しく仕上げてくれたことに作者様への感謝を覚えます。
70. 100 暮森 ■2010/07/29 23:13:43
 素敵な御話でした。
 地霊殿組がどうなってしまうのか終始ハラハラしながら読みましたが……本当に素敵な御話でした。
72. 80 即奏 ■2010/07/30 04:48:29
達観した燐が素敵でした。
とても面白かったです。
73. 100 Admiral ■2010/07/30 05:12:37
泣いた。
まさか、このまま悲しい結末に…(TT
と終盤に至るまでハラハラしっぱなしでした。
地霊殿メンバーが皆とても魅力的でした。
薔薇の使い方が上手い、と感じました。
74. 100 赤井葵 ■2010/07/30 11:15:10
文章の精密な美しさ、物語にちりばめられたちょっとした優しさ。
味にたとえるのならば、ふわりとしたくどくない甘さ。それをひきたてる苦み。
素晴らしかったです。久しぶりに読むことへの感動を覚えました。
お気に入りの一作として、大事に心へと刻みこんでおきます。
素敵なお話をありがとうございました。
75. 80 Ministery ■2010/07/30 15:20:26
造花のような命はない。生花のようにまた咲くだけ。
美しい命についてのお話でした。お見事。
76. 70 八重結界 ■2010/07/30 16:42:51
切ないお話。血縁というのは一蓮托生なのですね。
77. 80 名前が無い程度の能力 ■2010/07/30 17:26:50
寂しくも温かい、家族のはなし。感動しました。
80. 90 ムラサキ ■2010/07/30 19:05:04
さとりに近づいていくこいしを見ていくのが面白かったです。
感情がどんどん大きく揺れて行くみんなの姿も見ていて心躍らされました。
姉妹をしっかりと思ってすれ違い無くぶつかって行く姿は、やっぱりいいものです。
また、綺麗な未来に繋がっていくような締め方がとても素晴らしかったです。
81. 80 如月日向 ■2010/07/30 21:37:38
薔薇が印象深いですね。
死を以ってこいしの目を開かせるというのは私としては納得できない……。
ですが、趣があってとてもよい作品でした。
82. 100 PNS ■2010/07/30 21:42:33
まだ1作品を残していますが、完成度はこれまで読んだラグナロク作品の中で一番だったと思います。
次に文章についてですが、読みやすく、丁寧で綺麗で、ラグナロク作品の中で一番だったと思います。
ストーリーについてです。美しく、奥行きを感じさせ、ラグナロク作品の中で一番だったと思います。
つまり一体何が言いたいのか、私が思うにこの作品は、ラグナロク作品の中で一番だったと思います。


言いたいことはそれだけさ。PNSはクールに去るぜ(キラーン
83. 100 サバトラ ■2010/07/30 22:05:26
時間の都合上、点数だけの投稿とさせて頂きます!
大変申し訳ありません!
84. 90 蛸擬 ■2010/07/30 22:22:13
姉妹それぞれに加え、地霊殿みなの思いに、感動の一言です。
85. 100 黒糖梅酒 ■2010/07/30 22:29:05
強く感情を揺さぶられました。
読めてよかったです。
ありがとうございました。
88. 80 つくね ■2010/07/30 23:34:26
取り急ぎ点数のみにて失礼します。感想は後日、なるべく早い時期に。
89. 80 ■2010/07/30 23:44:11
語りの役をするなら、お燐が地霊殿で一番向いている気がする。
喋り方のせいなのか、いっとう世故に長けていると言うか、なんとなくイメージ的に沙悟浄みたい。
90. 100 名前が無い程度の能力 ■2010/07/30 23:53:43
二人とも大馬鹿……
自分のことを軽く見すぎなんですよ。
何とか間に合ったと信じたい。

古明地姉妹の陰鬱な話は多々ありますが、悲しくても希望の持てる幕引きであってほしいものです。
この作品は切なくて、素晴らしい終わり方でした。
91. 100 ぱじゃま紳士 ■2010/07/30 23:54:13
 申し訳ございませんが、採点のみで失礼いたします。
92. 80 名前が無い程度の能力 ■2010/07/30 23:54:14
こいしの第三の目は開いてないのかな?でもちゃんと笑えてるみたいでよかった
物が当たっただけで目つぶれるのかと思ったが精神的なことと重なったのかとか寿命ならこのまま死ぬんじゃとか
設定が少し気になった
93. フリーレス 匿名評価
94. フリーレス 名前が無い程度の能力 ■2010/07/31 02:39:32 [管理者]
ありふれた悲しい結末・・・
美しき姉妹愛に泣いた
95. フリーレス 秋霞 ■2010/08/01 17:51:26
お見事、と言っておきます。
少々長く、余分に思われるところなどもありましたが、読み終えた後では些事ですかね。
惜しむらくは、こいしの主観がなかったこと。
私は、このお話の主人公はこいしだと思うのです。
もちろんの事、地霊殿の皆が主人公というのは間違いでない。
でも、このお話の中で一番、さとりが変化を望んだのは? お燐やお空が気にかけたのは?
一番成長したのは、こいしだと思うのです。
彼女は目を覚ました後、彼女の主観で、何を思ったのでしょうか。
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