- 分類
- イリヤの空、UFOの夏
- 本編終了後妄想後日談
あれから、ちょっとの時間が経った。
"あれから"というのはお兄ちゃんが学校からヘリ(後で聞いたのだが名前はブラックホークというらしい)に乗って出て行った事で、ちょっとというのは一年の時間を指す。
一年が過ぎて色々な事が有った。
保健室の先生が椎名先生から黒部先生に代わったり、長い間故障していた公衆電話が急に新しい物に変わったり。
お兄ちゃんが連れて来た猫の校長がいなくなったり。
あの勢いの塊の様な新聞部の部長・水前寺邦博が卒業したり。
お兄ちゃんと須藤さんが三年生に上がったり。
お母さんについて行って始めた少林寺の段が上がったり。
園原電波新聞が、園原中学校新聞に変わったり。
あの悪名高き伊里野可奈がいつの間にか消えていたり。
……この一年は本当に色んな事が有った。
これから話すのは、今年の六月二十二日の事。
お兄ちゃんに聞いた所だと、この二日後の二十四日は全世界的にUFOの日らしい。
何故六月の二十四日がUFOの日なのか理由は良く知らない。いや、確かお兄ちゃんが受け売りだとか言って話してたのは憶えてるけど、内容までは憶えていない。
確か……ケネスなんとかって人が世界で初めて空飛ぶ円盤を見た日だとかなんとか。
水前寺テーマという言葉が有る。
これは新聞部の前部長である水前寺邦博の興味が季節毎に変わる事を意味する。
水前寺テーマによれば、春は幽霊の季節らしい。
この話の初めは、私が聞いた学校の怪談から始まる。
× × ×
一年ほど前に伊里野可奈という女子生徒がいた。
その子は何かの病気だったのか、何時も血色が悪い顔をして時折信じられない程の鼻血を出してたという。
そんな彼女はある日の事、突然いなくなった。戦争の開幕と同時に忽然と姿を消した。
彼女には幾つもの不思議が有る。
一つ、本来なら誰も知らないであろう筈の防空壕の開け方を知っていた事。
園原中学校には不釣合いな程に立派でかなり本格的な防空壕が存在する。これは園原市という土地の産物というべきか、航空基地が置いてある園原は戦争になれば勿論爆撃の標的の一つにされる。その時の為の避難場所として設けられている物だった。
しかし、その隔壁は学校にいる校長ですら開ける事は出来ない。元々隔壁の管理は園原基地が直接制御しており、生徒はおろか教師ですらその中身を見た者はいないだろう。
そんな開かずの間の開け方を、彼女は知っていた。
教師すら知らない物を一生徒が知っているのも不合理な話である。
二つ、彼女は頻繁に不特定多数の誰かから呼び出しがかかっていた。
田中に山田に鈴木に佐藤。……そう言った良く有る名前の誰かから職員室に電話がかかって来て、彼女は欠かさずそれに出ていたという。
人の名前にケチを付ける訳では無いが、確かにここまでザラな名前が並ぶと些か不気味である。
三つ、彼女は電話が好きだった。
午前に一回、午後に一回。彼女は毎日確実に電話をかけていたという。
そして彼女は特に好んで右端の公衆電話を使っていたというが、それは故障が多かったらしい。なのに彼女が使う時だけ普通に使えていたという。
現在彼女が使っていた公衆電話は無い。というか、公衆電話は全て新しい機種に変わってしまった。
四つ、これは去年の夏休み最終日の事だ。
A君はその日、ジュースをコンビニに買いに午後九時頃に外へ出た。その最中でパトカーがサイレンを上げるのを見て、彼は好奇心にかられてそれを追ってみた。
パトカーが止まったのは学校だった。しかし考えてもみるとおかしな話だ。
夏休み最終日、園原中学校の校舎には誰もいないというのに。
A君はその辺の電柱に隠れて様子を伺った。そのままお巡りさんに事情を聞いても良かったが、どうにも嫌な予感がしたからだ。
しばらくが経って、スーツ姿の男に連れられバスタオルを肩に掛けた女の子が出て来た。
途中でA君は気味が悪くなって逃げ出したが、数日後に信じられない物を目にする。
廊下を歩いている最中、あの時の女の子を見たのだ。
その女の子の名前を伊里野可奈だとA君が知ったのは、そのすぐ後の事である。
かくして、これらの彼女の存在を胡散臭くさせる要因が合さった結果。伊里野可奈の怪談は完成する。
曰く、伊里野可奈は宇宙人だった。
曰く、伊里野可奈はUFOに連れて行かれた。
曰く、伊里野可奈は米軍(場合によっては自衛軍)のスパイだった。
曰く、伊里野可奈は黒い陰謀に巻き込まれた。
そんな根も葉もない噂が園原市立園原中学校に、ひそやかながらもブームとなっていた。
挙句、午後十一時になると校舎に伊里野可奈と思しき幽霊が出るとか出ないとか。
ちなみにこの噂を受けて「科学の僕」こと三年四組担任の河口泰蔵三十五歳独身のコメントは、馬鹿馬鹿しいの一言で済まされたという。
妹の口から語られるそんな噂話を聞いて、かつてのシェルター事件の当事者の一人である浅羽直之の感想は――
「幽霊に見えているんだよ、枯れススキが」
という、何処かで聞いた事の有る物だった。
「お兄ちゃんは信じてないの?」
「信じるも何もなぁ……」
浅羽直之は既に中学三年生となった。新聞部の前部長である水前寺邦博が卒業した後に、彼は水前寺の直々の指名によって新聞部の部長に就任した。
しかし、実質的には副部長の須藤晶穂がその全権を掌握していると言ってもいい。
現に新聞部は水前寺が卒業した直後、新聞部は彼女が部活届けを提出して正式な部活動に格上げされた。
名前も園原電波新聞から園原中学校新聞へとチェンジし、かつてメインだった幽霊やら超能力やらUFOやらの記事は鳴りをひそめた。現在のメイン記事はもっぱら地域に密着した話題をメインにしている。
水前寺が抜けて二人だけになった新聞部が、どうして正式な部活動として認可されたのかというと、晶穂に促された浅羽が夕子を説得したからだ。
……だが、実質は浅場と晶穂が活動しているだけで。彼の妹は殆ど幽霊部員と言っていいだろう。稀に部室に顔を出すが、それも二週に一回と言った程度だ。
結局の所中身はあんまり変わっていない。春の新入生確保の時期も逃し、きっとこのまま行けば園原中学校新聞部は浅羽と晶穂の卒業と同時に消滅するだろう。
「折角良い特ダネを見つけてきたのに」
「特ダネかぁ?」
いぶかしむ様な浅羽の言葉に、夕子は憮然とした調子で言葉を返した。
「前みたいな新聞はもう作らないの? お兄ちゃんは一応部長なんでしょう?」
「名前だけな」
本来ならば部長は晶穂になる筈だった。少なくとも水前寺の指名が有るまで浅羽はそう思っていたし、想像の域を出ないがきっと晶穂も少なからず思っていた筈である。
しかし、浅羽の元からの性分が災いした所為か。自然と晶穂が全てを仕切る結果となり、水前寺の采配は余り意味を為さなかった。
浅羽の部長という役職も、実質的にはヒラと何の代わりも無い。
ただ、晶穂が作る新聞の構成にちょいちょい口を挟むのが関の山だ。
――小さいながらも大きく変わった新聞部。
伊里野可奈がいた頃から最早残っている物と言えば、時折思い出したかの様に使う『特派員』という名称と、少し埃を被ってしまった「よかった探し表」のコルクボードぐらいか。
変わらない物は無い。
水前寺テーマが季節と共に変わる様に、何事も不変ではいられない。
それに伊里野とは、浅羽はあの時に終らせたのだ。
園原基地の裏山に伊里野の空に向けた「よかったマーク」を刻んだあの日、彼の中でUFOの夏は確かに終わりを告げた。
でも、興味が無い訳では無かった。
伊里野可奈らしき幽霊の存在。
怒りも無く、悲しみも無く。浅羽の心にはただ純粋な興味の念だけがそこに有る。
そう言えば、成増小の時も伊里野は幽霊と間違われていた事を思い出す。
誰かの悪戯かもしれない。
何かの見間違いかもしれない。
それでも。
もしかしたら。
「晶穂に聞いてみるよ」
……その言葉をその場凌ぎの物と勘違いしたのか、夕子は怒ってその場を出ていった。
× × ×
「学校の幽霊? ……あぁ、下らない噂話でしょう?」
新しく宛がわれた部室の中で、須藤晶穂はキーボードを打つ手を一旦止めてそう言った。
「全く失礼な話よねぇ。河口はいつも通り否定しているけど」
例え天敵たる「真実の探求者」がいなくなっても、「科学の僕」は健在である。巷間に蔓延る下らない怪談話など何のその、つい最近行われた全校集会でも熱弁を振るって幽霊話を否定した。
伊里野可奈という生徒は確かにいたが、彼女は家族の仕事の都合で急な転校をしただけだと。
現に先生には「元気です」という報告の電話が来たと。
――それが真っ赤な嘘だという事は、浅羽はちゃんと知っている。
伊里野はあの日。浅羽がブラックホークに乗せられて連れて行かれた南の島で、浅羽の目の前で空に帰っていった。
転校なんかしていない。
本当は終っていなかった戦争を終らせに。……いや、彼女は浅羽の為に戦いに行ったのだ。
そして、何にも囚われる事の無い自由の空へと帰っていった。
これが事の顛末だ。
だから、伊里野が河口に「元気です」なんて電話をかける訳なんか無いし。何よりも空に帰って行ったのに、何が悲しくてこんなチンケな学校で幽霊として出なければならないのだろうか?
この事を知っているのは浅羽と晶穂と水前寺。それに榎本と椎名しかいない。
晶穂にこれを教えた時、晶穂は「そっか」という一言を漏らしただけであった。怒りもしなければ涙も流さなかった。
……多分、晶穂の中でもUFOの夏は終っているのだろう。
それが浅羽には悲しくも有り、嬉しくも有る。
「なぁ、晶穂」
一息を置いて、浅羽はこう続ける。
次の記事はこの伊里野の幽霊にしないか、と。
「どうして?」
返って来た晶穂の声音は静かだった。
冷やかとは違う、ただ純粋な静けさだ。
「何て事は無いよ、ただ理由が有るとするなら――水前寺テーマ的には春は幽霊の季節だ」
暦の上では六月。初夏というには少し遠く、残春というのがピッタリな頃合。
そう言えば、去年は帝都線市川大門駅の女子トイレに深夜の突撃取材を部長と共に慣行した。夏の足音は近いが、それでも未だ春である事に変わりは無い。
だから、伊里野可奈の幽霊というのは今以って旬な話題だ。
「まぁ、浅羽がやりたいんだったら良いけど」
思わず、唖然とした。
それを見て彼女は苦笑いと共に言葉を続ける。
「腰の重たい部長が珍しく企画を持ち出して来たからね、……それに浅羽今ミステリーサークルの時と同じ顔をしてるわよ?」
思わず浅羽は自分の顔を撫でたが、晶穂の言が正しいとするのなら園原基地にミステリーサークルを作った時、自分は笑っていたという事になる。
「浅羽が責任を取るっていうのなら、……一面は流石に上げられないけど二面ぐらいだったら譲って上げられるわ」
「いいの、本当に?」
「その代わり私は付き合う事は出来ないわよ? 今じゃ新聞部は正式な部活として認められた訳だし、女子トイレに突入するみたいな目立つ事は出来るだけ避けてね」
思えば園原電波新聞が園原中学校新聞になってから、こんな事をするのは初めての事かもしれない。
そんな年でも無いが、浅羽はほんの少しだけ懐かしさを感じた。
懐かしさは少しだけ人の心を大きくする。
だからか、思わずこんな言葉を滑らしてしまったのだろう。
「大丈夫、夜の学校に忍び込むだけさ」
結果、晶穂にちょっとしぼられる事となった……。
帰路につく浅羽直之を呼び止める声が一つ。勢いの良いソレは一年前はしょっちゅう聞いていた物だ。
「浅羽特派員っ! 久しぶりだな!」
栄養万点のゴキブリの背中の様なてかてかとした光沢を放つオールバックと、ギラギラした光沢を放つ銀縁の伊達メガネは卒業してからも変わりは無い。
元自称・園原中学校新聞部、元・部長兼編集長。
水前寺邦博がそこにいる。
……真新しい園原高校の学生服は、何だか知らないが異様な程似合っていなかった。
「これから帰りか?」
「えぇ、部長は?」
「俺も同じだ。今日はバイトも休みでな」
水前寺は結局CIAには進まず、近くに有る園原高校へと進学した。
そこで今もまた真実の探求者として「真・園原電波新聞」なる物をゲリラで作りながら日夜活動しているのだという。
ついでにバイトというのは園原に密着した地域新聞である「そのはらしんぶん」の「園原のウ・ワ・サ♪」という一コーナーを時折水前寺がお呼びにかかって手伝っている事を指す。
同業者曰く、オカルト面に関しては大人よりも強いとの事。
「というか、今の部長はお前だろうが」
卒業しても浅羽の水前寺に対する呼び方は「部長」のままだった。二年も一緒にいて、今更呼び方を変えるのもどうかと思ったし、一度晶穂が「水前寺さん」と呼んだら何とも気味悪そうにした為、水前寺は今以って「部長」と呼ばれている。
とりあえず良い呼び方が有るまで今まで通り部長で通して良いらしい。
「そう言えば、……今の新聞はどうなっている?」
今の新聞というのは「園原中学校新聞」の事だ。
どうやら水前寺はその名前で呼びたくないらしい。
一度新聞部関係で凄い問題になったが、何だかんだで余り口を出さないのは水前寺が「今の新聞は今の奴らの物」と考えているからだという。
「今回は部長好みの特ダネ記事をやりますよ」
「ほう、どんなのだ?」
「タイトルは『激撮!! これが怪談・伊里野可奈の正体だ!!』です」
瞬間、水前寺は凍りついた。
「……おい、浅羽特派員」
「何でしょうか?」
「伊里野可奈って、もしかして……伊里野特派員の事か?」
「そうですよ、今学校で怪談として密かに囁かれてるんですよ。河口は勿論いつも通りですけどね」
「……どうして、やろうと思った?」
「春は幽霊の季節じゃないですか。晶穂にも許可は既に取っていますよ」
春は幽霊。夏はUFO。秋はUMA。冬はESP。
四季と共に移り変わる水前寺テーマのラインナップは大体これだ。
「まぁ、浅羽特派員がやるというなら俺は何も言わんが……」
それは奇しくも晶穂に言われた事と同じ言葉だった。
「それ、晶穂も言っていました」
「何!? ……ふむ、須藤特派員と俺が意見を一致する時が来るとはな」
しばし悩んだ後、水前寺はこう訊いて来た。
「浅羽特派員。取材の敢行日はいつだ?」
「六月二十二日の十時。UFOの日の前々日です」
「どうしてその日を選んだ?」
「だって、六月二十四日が全世界的にUFOの日でUFOの夏が始まるなら、幽霊の春は六月二十三日までじゃないですか」
浅羽のその言葉に水前寺は笑みを浮かべた。
それは中学生時代で毎年入ってくる新入生女子を詐欺の様に魅了したあの笑みだ。
「その日は空けておく。――俺も行くぞ、浅羽特派員」
浅羽理容店の客も、だんだん少なくなって来た。
園原基地の撤退が決まってからは、特に米兵の客が遠退いていた。
撤退は三年計画で行われるという。その内の一年が過ぎてこれなのだから、きっと来年になればもっと客足は遠退くに違い無いだろう。
元々は戦中から軍事基地が有る事が経済発展の一つだった園原市にとって、これは痛手以外の何物でも無いだろう。
軍事基地以外に目ぼしい物は、生憎園原には存在しない。
……現在、園原市は薄く過疎の空気が流れている。
「あら、おかえり」
浅羽が帰ってくると母は夕食の支度して、父はテレビに齧り付いていた。
つい先月買い換えたばかりの25インチ・ブラウン管に映るのは、何の変哲も無い時代劇だった。
父の傍にはビデオ屋の物と思しきケース。戦争が終ってから、レンタルビデオ屋は再び一週間レンタルという生温い商売も再開した。
「夕子は?」
「厠でござる」
そう言ったのは父だった。
「何か有ったの?」
「ちょっとお腹を壊しちゃったんだって」
「そっか。ありがとう」
とりあえず浅羽は二階の自室に上がると、鞄を置いて制服から私服へと着替える。
そして妹が籠っているというトイレへと向かうと、そのドアを二階ほど叩いた。
内側からノックと死にそうな声での「入ってまーす」という返事が返って来たのは、一拍遅れての事だった。
「夕子ー」
「ほ兄ちゃん。……なぁにぃ?」
「怪談の事だけどさ」
「うーん」
「記事作る事になったから二十二日に取材行く事になったけど、お前も行くか?」
返事は直に返って来なかった。
しかし再び一拍遅れて、先程よりも死にそうな声で「私も行くー」という答えが返ってきた。
「解った。その日は部長も一緒だからなー」
そう言い残して浅羽はその場から去る。後から聞こえてくる実妹の本当に死にそうな呻き声は耳に入れない事にした。
去りがてら二階へと続く階段の五段目で猫の校長がちょこんと座っていた。
……伊里野が拾った猫は、まるで怪談など下らないと言わんばかりに大きな欠伸をした後。浅羽の目の前から姿を消した。
× × ×
浅羽夕子からの眼で見て、水前寺邦博は制服を除けば殆ど一年前と何も変わっていなかった。
「久しぶりだなぁ、浅羽くん! 元気そうで何よりだ!」
水前寺邦博は兄の事は「浅羽特派員」と呼び、夕子の事は「浅羽くん」と呼ぶ。その呼び方も一年前と何ら変わりは無い。
六月二十二日の十時丁度。
空には月。空気は暖かいを通り越して少し暑く、額からは汗が一筋垂れそうだった。
須藤晶穂は来ないのかと兄に聞いた所、どうやら来ないらしい。
だから夜の校舎に潜入取材を果たすのは自分達兄妹と、何故だか付いて来た水前寺邦博の三人となる。
夕子の持ち物は大きな懐中電灯。
兄の持ち物はカメラ。大きなストロボが付いたソレは元はと言えば水前寺が部室に置いて行った物である。
対して、水前寺が持ってきたのはあの追走劇でも使用した黒く大きなバッグである。あれ程の目に遭っても現役を張っている辺り、かなり丈夫に作られているのだろう。
侵入ルートは正門からでは無く裏口から。そして校舎内部には浅羽が昼間に空けておいたという一階廊下の窓から。
夜十時とは言え、校舎は無人では無い。
警備員に対する警戒を怠る事無く、彼らは夜の校舎の中を歩んでいく。
夜の校舎は一言で言えば不気味だった。
灯りの無く、人のいない校舎はとてもでは無いが昼間と同じ場所とは思えない。
もしかしたら幽霊の一匹や二匹ぐらい、本当にいるのかもしれない。
そう思うと、夕子の背に怖気が走る。
「どうした、浅羽くん。もしかしてビビッているのかね?」
……よりにもよってと言うべきか、それを水前寺に見抜かれた。
「ビビってる訳無いでしょう!」
克己する様に思わず大きな声を上げると、兄と水前寺が少し黙れのサインが出る。
兄はまだ解るが、話を振ってきたのは水前寺の方なのに。夕子には理不尽に思い、怒りながら押し黙った。
静けさが戻ると再び水前寺が話しを振ってきた。
「そう言えば知っているかね、浅羽くん? この学校の五不思議の事を」
「……普通は七不思議じゃないの?」
「元々は七不思議だったんだが、戦前から有ると噂される夜になると泣き叫ぶ音楽室のバッハは十年前に実は新調されていたり。美術室の走るダビデ像は俺が入学した時にヤンキーにぶっ壊されてしまった。だからこの学校に有るのは七不思議じゃなくて五不思議だ」
「で、その五不思議が一体何よ?」
「うむ。――その内の一つに"ユキサダ君"というのが有ってだな」
十年程前の話だ。
この学校にはユキサダ君という一人の男子生徒がいた。ユキサダ君は気が弱くおとなしい子だったが、それ故にイジメの対象になってしまった。
教科書やノート。机や椅子に落書きされるのは日常茶飯事。時には和式便所の水を無理矢理舐めさせられたり、無理矢理掃除用具箱の中に入れられて彼のお弁当を通気穴からブチ込まれたりもされたという。
そしてある日の事。ユキサダ君は度重なる苛烈なイジメにとうとう耐え切れず、それに屈する形で自殺をしてしまった。
それ以来この学校では夜になると、とある教室ではその場所で自殺したユキサダ君の怨霊が出て来て、時折夜に忍び込んだ生徒を地獄の底へと引っ張って行くのだという。
「それが、……どうしたのよ?」
普段なら笑い飛ばせる怪談の類も、今の状況では中々笑えない。
というか正直な話、恐かった。
そう言えば、夕子が小学五年生だった時テレビでやっていた心霊特集を見ている最中に彼女の母親はこう言っていた。
幽霊って、そういう恐い話をしている時にやって来るのよねぇ……と。
「いや、さっき通り過ぎた教室が有っただろう? あそこが今話したユキサダ君が自殺した場所だ」
あっけらかんと、水前寺はそう答えた。
――ちなみに水前寺が話した怪談は、現在ではバリエーションの一つとして伊里野可奈や椎名真由美の名前が、ユキサダ君に地獄の底へと引っ張って行かれた犠牲者として語られる時も有る。
急に告げられた事実に一瞬理解が出来なかった。
しかし、その一瞬が過ぎた後に夕子は理解する。
……直、後ろじゃん。
夕子は叫んだ。
「いやあ――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
余りにもデカイ声だった。多分、そこにいる水前寺と一緒に原チャリに乗ってコケた時以上の声量だったと思う。
夕子の叫び声に兄はびくんと反応した。
しかし、そんなデカイ声を出し続ける事が許される訳無く。元凶たる水前寺に直に叫ぶ口を手で無理矢理塞がれる事となった。
水前寺が夕子の口を塞ぐ力は必要以上に強く、酸欠一歩手前でようやく離される。
「何すんのよ! 変態! このばかぁ!」
「静かにしろ! 警備員に見つかって捕まりたいのか!?」
そういう水前寺もデカイ声だった。
「あんたのせいでしょうが――――っ!!」
「むごおっ!」
思わず手が出る。母と一緒に習い始めた少林寺は格段の進歩を見せており、一年前の時とは比べ物にならない位の衝撃を水前寺の腹に与えた。
夕子にしても会心の一撃だった。
「おのれえっ!! ほ兄ちゃんの目の前で恥をかかしてやる!!」
しかし、相手は名高い「真実の探求者」水前寺邦博。基本的に彼は自分の目の前に存在する障害には一片の容赦もかけない男だ。
直そこに兄がいる目の前で、彼の妹にマジ蹴りを喰らわした。
水前寺邦博。年齢は今年で十六歳。
高校生とは思えない貫禄を持つが、今以って彼は成長期の少年だ。
スピード×体重×成長期=破壊力。
夕子が受けたマジ蹴りは、いつか受けた胡蝶蹴りよりも威力は高かった。
宇宙人だろうがチュパカブラだろうが、生理という一大イベントをこの先に控えた女の子だろうが水前寺に容赦の考えはない。
ドブ川の決闘再び。
一年の沈黙を破って、今再び幕が上がろうとしている。
「二人とも静かにしてくれっ!!」
そして夕子が少林寺仕込みの拳を、水前寺が取材仕込みの蹴りを互いに入れようとした時。浅羽によって中断される。
……とうとう浅羽すらも大きな声を上げた。
誰が誰のせいなのか、それは解らない。でも原因が有るとするのなら、きっと彼らの内の誰かだろう。
「――――――」
声がした。
その声を、その場にいる全員が耳に拾った。
「今の、何?」
夕子が不安げな声を漏らし、思わず兄のシャツの端を掴んだ。
暗い廊下の先。白い光が、ぼうっと現れる。
いや、それは光では無い。
白い制服だ。
それはこの学校の女子生徒の夏服を着ている。
遠くにいるソレは、顔は詳しく見えない。
長い髪を持つそれは、あの時のまま。
そうだ。
きっと、そうに違いない。
多分アレが噂となっている伊里野可奈の幽霊だ。
皆が強張る様に止まった中、浅羽はぽつりと言葉を漏らす。
「違う」
そうだ。
全然違う。
アレが伊里野だとするのなら、何故夏制服なのか?
アレが伊里野だとするのなら、何故ロングヘアーのままなのか?
アレが伊里野なら、服はあの耳なし芳一の様な呪いの言葉で溢れた白い戦闘服で無ければならない。
アレが伊里野なら、髪は浅羽が切ったショートカットで無ければならない。
そうだ、伊里野可奈の最後を知っているのは他でも無い自分だ。
伊里野可奈と最後に居たのは、他でも無い浅羽直之だ。
あの日、浅羽の為に戦うと彼女は言った。
あの日、浅羽の為に死ぬと彼女は言った。
そして彼女は空に帰ったのだ。
理解する。
アレは、枯れススキだ。
「部長」
「何だ?」
「アレの感想言って良いですか?」
「言え、浅羽特派員」
「――枯れススキです」
冷静な浅羽の言葉の後、水前寺は笑みを浮かべた。
それは光具合も相まって、悪魔の様な笑みだった。
その笑みを見て夕子がビクンと反応した瞬間。
水前寺は弾けた。
「よっしゃ――――――――――――――――っ!! おらおらおらぁ!! 待たんかぁ――――――――――――――――いっ!!」
水前寺邦博はハイスペックな男である。
十五歳時に身長は既に一七五センチを越え、現在は一八〇センチの大台に乗っている。
中学校時代の全国模試の偏差値は八十一。顔もまず整っている部類である。
そして何よりも一〇〇メートルを十一秒で走る。
たかだか幽霊もどきが、水前寺邦博から逃げ切る訳が無い。
「タッチ・ダウ――――――――――――――――――――――――――――――ンっ!!」
水前寺渾身のタックルに幽霊は為す術も無く捕まった。
そして、水前寺はマウントポジションを取ると幽霊もどきを殴り付けた。
水前寺邦博が嫌いな人間は二つ。
一つ目は、ガセネタ・ヤラセを行う人間。
二つ目は、自分の仲間を馬鹿にする人間だ。
「甘かったなぁっ、幽霊もどきぃっ!! こっちにはなぁ、あの伊里野可奈の最後を見た浅羽直之がいるんだよぉ!! 手前みてえな三下のコスプレなんか一目でニセモノだって解るんだっ!!」
水前寺が叫ぶ。
水前寺が殴る。
水前寺が怒る。
マジギレだった。先程の夕子に向けた怒りの百倍は有った。
「いっぱぁ――――つっ!!」
そう言って水前寺は五発目を放つ。
水前寺の怒りを、浅羽はただ無感動に見つめる。
最初から解っていた事だ。伊里野可奈が地上にいない事なんて。
そうだ、最初から解っていた事なんだ。
「にはぁ――――つっ!!」
六発目。
ボコボコだった、水前寺はまるで浅羽の分まで上乗せする様に怒りの鉄拳を放つ。
余りの怒りっぷりに、夕子はオロオロしはじめた。
「期待させやがってえっ!! さんぱぁ――――つっ!!」
水前寺計算で四発目にさしかかった頃で夕子が止めに入り。五発目にさしかかった頃で浅羽も加わり。六発目にさしかかった頃で幽霊がマジ泣きした。
十発目で、ようやく水前寺が殴る事を止めた。
「あ、織田……」
そう言ったのは夕子だった。知り合いか、と浅羽が尋ねる。
「うん、一年の頃のクラスメイト。今は別で、二年二組にいるヤツ」
顔は水前寺がボコボコにして見る事が出来ないが、良く見れば確かに身体のラインは男だ。
それに伊里野よりも背が高く、近くで見るととてもじゃないが似ていない。
それに良く見れば制服もダブダブだ。
頭に手をかけると、すぽりと外れた。
「ヅラかぁ、……そうだよなぁ」
納得する様に浅羽が声を上げる。
水前寺が織田の首元に手をかけて掴み上げた。
「いいか、二度とこんな事をやってみろ。今度は俺が本当の幽霊にしてやる!」
水前寺はやると言えば、必ずやる男だ。
その言葉に織田はコクコクと何遍も首を縦に振った。
「部長」
「どうした?」
「ちょっと避けて下さい」
あん、と言った後に水前寺は浅羽の方を見た。
そこにいた浅羽はカメラを向けていた。
準備はOKだ。後はシャッターを押すだけで良い。
「僕達は取材に来たんだ。だから、織田くんだっけか……君の事はちゃんと書かせてもらうよ」
そうして浅羽は、シャッターを押した。
× × ×
ちなみに少しだけ後の話をするとしたのなら、この後に伊里野可奈の幽霊を装った人間は全員で十二人だったという話を織田から「取材協力」で聞き出した水前寺は、織田に電話をかけさせて呼び出し三十分ばかり説教をした。
その後に再びカメラを取った浅羽に全員写真を撮られ、彼らは園原中学校新聞に名前を残す事となる。
河口には怒られたが、それでも少しだけで。新聞部を揺るがす様な事は無かった。
たっぷり幽霊騒ぎの犯人達をしぼった後、浅羽と夕子と水前寺の三人はコンビニによってカップラーメンを買った後。駐車場で座りながら食べた。
ちなみに夕子は財布を忘れており、夕子の分は水前寺のオゴリだった。
星空を眺めながら、ずるずるとカップラーメンを三人は啜る。
それはかつての榎本との事を何処となく浅羽に思い出させた。
榎本。もしかしたら椎名先生と同じく偽名だったのかもしれないが、結局の所「榎本」という名前しか浅羽は知らない。
ポリシーは屋根の上でカップラーメンを啜りながら、星空を眺める事と言った――子供みたいな大人。
榎本との事で一番記憶に残っているのは「親戚のおばあちゃん家」の屋根の上で、クロレラ入りのグリーンラーメンを食べた事。
二番目は南の島での事。三番目が出会った時の事だ。
伊里野の兄貴みたいなもの、と本人は言っていた。
本当は真面目に探すつもりなんてなかった、と本人は言っていた。
殺して見せろ、と言った。
彼とは色々な事が有った。殴られた事も有ったし、サブマシンガンで撃った事も有った。
憎んだ事も有ったが、浅羽は彼の事が不思議と嫌いでは無かった。
時折話すどうでも良い様な榎本の思い出話が、浅羽は実はちょっと好きだった。
生臭い現実を忘れてしまいたかったのだろう。榎本が思い出話を話す時は、いつも何処か遠く見ていたのを憶えている。
彼が生きているのか、それとも死んだのかは今ではもう解らない。椎名先生のシルバースター勲章付きの本当の事が書かれた手紙にも、実は榎本のその後の生死については書かれていなかった。
「子犬作戦」――つまりは浅羽を人質にして伊里野をブラックマンタに乗せて、世界を守らせる作戦は彼が立てた物だという。
そういった真実を知っても、今以って浅羽は彼を嫌いになれず。時折何処かで屋根の上に昇って、元気に星空を見ながらカップラーメンを啜っていて欲しいなぁと思う事が有る。
「浅羽特派員」
「どうしたんですか、部長?」
「残念だったか?」
水前寺はそうでも無いが、夕子が無言で心配そうな目で自分を見つめているのが解った。
浅羽は首を横に振った。
「いえ、別に」
「そうか、なら良い」
そうして水前寺と共に浅羽はラーメンを啜った。
次は夕子が聞いてきた。
「お兄ちゃんは、伊里野可奈と会えなくて悲しくなかったの?」
「……正直に言えば、ちょっぴり期待はしていた」
一息を置いて。
「あのさ、僕がヘリに乗って何処かに行った時の事憶えてる?」
「うん」
「あの時に着いた場所で伊里野と会ったんだよ」
「え?」
浅羽はスープを一口飲んだ。醤油味だった。
「伊里野はブラックマンタっていう凄い戦闘機のパイロットだった。それで世界が滅びかけている中で、伊里野はそれに乗って一人で戦わなければならなかった」
目をまん丸にする夕子。
信じられないだろうけど、これ本当の話。と、ちゃんと付け加える事を忘れない。
「でも、伊里野の人生にはそれまで何も無かった。仲間は確かにいたけれど、気付いたら生きてるのは伊里野は一人だった。だから伊里野は戦うのが嫌になったんだ。……それで、偉い人達は伊里野に子犬を上げる事にしたんだ」
「子犬って、伊里野可奈が飼っていたのは猫の校長じゃないの?」
「そういう意味じゃないよ。つまりこういう事さ、伊里野に子犬を上げて可愛がらせる。そしてその子犬を死なせたくないと思わせて、ブラックマンタの乗って戦わせるんだ」
「それが校長?」
「いや、僕さ」
「お兄ちゃん?」
「作戦名はまんまで子犬作戦。ついでに今はいなくなった椎名先生も、その作戦に参加していた」
水前寺は黙っているだけ。
夕子はぽかんとアホの子の様に口を開けている。
「伊里野は僕の目の前でブラックマンタに乗って飛んで行った。そしてそのまま空へと帰っていった」
南の島。
タイコンデロンガという奇妙な名前のそこが、伊里野が飛んでった場所だ。
「じゃあ、お兄ちゃんは最初から知ってたの? 幽霊が偽物だって」
「だから言ったろ、ちょっぴり期待はしてたって……」
園原基地の裏山に作った「よかったマーク」のミステリーサークルを作った時、終らせた筈なのである。
しかし、幽霊騒ぎを聞いてほんの少しばかり期待してしまった。
まだまだだなぁ、と浅羽はぼんやりと思った。
でも、偽物の幽霊のお陰で完全に吹っ切ったと思う。
吹っ切ったという表現はちょっと合わないが、それでもこの感情を表すのに一番近い言葉が「吹っ切った」しか浅羽には思いつかない。
「伊里野は、空に帰っていったんだよ」
これが解っただけでも良しとしよう。
戦争は終った。
日常は帰って来た。
伊里野は空に帰った。
浅羽は空を仰ぐ。
伊里野可奈が帰って行った空がそこに有った。
伊里野が地上に帰ってくる事は二度と無い。
二度と、無い。
- 作品情報
- 作品集:
- 2
- 投稿日時:
- 2011/04/01 22:55:58
- 更新日時:
- 2011/04/01 23:02:33
- 評価:
- 4/5
- POINT:
- 3001211
- Rate:
- 100041.20
誤字とか死にたい。後電撃文庫のトラップにやられた。誰だよ可奈って。加奈だろorz
まさかこんな場所でイリヤの空の良質なSSを読めるとは思わなんだ……。
幽霊の噂にちょっぴり期待しちゃう浅羽とかね、もうね、あのね……それでも「吹っ切った」んだよね……。
浅羽に確認を取ってから幽霊に飛びかかる水前寺が最高に清々しくて格好よくて……ほんと、浅羽にとってはいい先輩だ。最高の部長だ。最高だ――――――――――――ッ!!