Zippo lighter vintage model 『Mad Dog』

作品集: 1 投稿日時: 2011/04/01 08:43:17 更新日時: 2011/04/01 08:43:17 評価: 2/7 POINT: 2038885 Rate: 50972.75

 

分類
犬走椛
射命丸文
河城にとり
基本害悪集団な天狗さん社会
 陽光を反射し、川面より跳ねた真鍮の釣り針がきらりと輝いた。どうやら餌だけ食われて逃げられてしまったようだったけど、犬走椛はさして残念そうな顔もせず、穏やかな表情のままに新たな餌を手に取った。
 ひとひらのすっかり紅葉した槭(かえで)の葉が川面をすぅと流れている。ふと顔を上げれば遠くにうろこ雲。蒼穹に燕のつがいが舞っていた。今年も、もうあれらが南へと飛び立つ季節だ。
懐から、一本の紙巻き煙草を取り出し、燐寸(マッチ)で火をつけた。あまり品質の良い葉ではないが、こんなのは吸えれば何でもいいのだ。ふうと、満足げにひとつ紫煙を吐き出す。澄んだ秋の空気に融け行く向こうには、燃え上がるような色彩を鮮烈に盛大に見せつける一面の紅葉、紅葉。

 彼女にとっては揺籃の地。生を受け、経験を積み、守る為に今も刀を握る。愛すべき山の、まったく変わりない秋の姿だ。
 何百年と同じ景色を見て生きてきた。変わり映えしない生にはそろそろ飽いたかと、いつかそんな事を聞いてきたのは果たして誰だったか?
 曖昧な記憶に、そもそもがどうでもいい事であったと、椛はふっと笑いを零して再び釣竿を振った。ぽちゃんと、微かな水音を立てて釣り針が水に沈んだ。

 天狗の集落より山道を下った先にこの川はある。ここらでは一番大きな川だ。
 何でも人の世は戦乱だの下剋上だのであわただしいらしいけれど、そんな世相など意に介すること無くゆったり流れる様子は見ていて心地がよかったし、何より気兼ねなく一人でいられるから椛のお気に入りであった。もちろん山が嫌いなわけではないが、あそこにいると何かと気を使ってしまう。

 椛は真面目な天狗である。そしてその真面目さ故に疲れてしまう事もあるのだ。群れるのが好きな天狗族にあって、彼女は珍しく一匹狼の気質を有していた。
さして頭を働かせる事も無く、ぼんやりと紙巻きを咥えたまま椛は釣り針を垂らし続ける。釣れる釣れないは二の次だった。
 天上にあって太陽も雲ものんびり休憩しているような、このどこか気だるい時間の流れに身を任せられれば、それで満足。陽光はぽかぽかと優しかった。

 ふっと一陣の風が吹いたのはそんな時だった。紙巻きの先端の灰が、散り散りに飛ぶ。満喫する椛の眉間に、険しく皺が入った。

「釣れてるかしら?」

 どこか生ぬるく、それでいて芯に冷酷さを秘めた風は穏やかなこの岸辺に相応しくない。優しさを欠く、主の気性をそのまま体現したようなそれに、椛は表情をあからさまに不機嫌にしたのだった。
「一体何の用です、文さん? 今日は休暇なので、出来れば一人にしておいて欲しいのですが」
「そう邪険にする事もないでしょ。一応は同朋なんだし」
「甚だ不本意ながら、一応はそうみたいですね。しかし私はあなたの直属の部下というわけでもないので」
「あらあら随分な言い草じゃない狂犬」

 射命丸文は椛と山を同じくする鴉天狗だ。階級は幾らか上で椛からすれば上司に当たる。もっとも、十分な敬意を込めて接しているようには見えなかった。
 そもそも椛は碌に働く事せず遊んでばかりな鴉天狗という奴を内心軽んじているし、その中でも、文と接する時は態度が特に露骨になる。
 文の艶めく黒髪は、僅かに濡れているようでもあった。好色な彼女の事だ。日も沈まない内から誰かと肌を重ねていたのかもしれない。そんな想像をして、椛は表情をさらに不機嫌にした。

 不誠実で、高慢で、狡猾で。美徳とは程遠い女。もっとも、そもそも天狗とはそういう存在だと皆は言うし、椛も頭では理解しているが、しかし感情まで納得させるのは中々に難しいのだった。
 天狗にしては珍しく硬骨な気性のせいで、偏屈と皆から思われているのだろうと、椛は時々考えたりもする。しかし、そういった事情を全部慮ってみても、やはり文は嫌な女だと思う。
 単純に性格が悪い方向にねじ曲がっている。わざわざ嘲るような事を、悪意を込めて、かつ、さらりと目の前で言ってのけるのは、山でも彼女だけだ。

「狂犬って……その渾名好きじゃないってこの前も言ったと思いますが。鴉も鶏みたく三歩歩けば聞いた事全部忘れてしまうんでしょうか? それとも年です?」
「どうでもいい事はすぐに忘れるようにしてるのよ。楽しく長生きするコツだわ」
「年功序列って嫌ですねぇ。どうして文さんみたいなのに敬語使わなきゃ駄目なのか」
「あら、なら頑張って出世すればいいじゃない。大天狗の椅子まで登りつめれば横柄な口もきき放題よ」
「まったく……出世に興味はありませんが、あなたと話す時だけは本気で考えてしまいますよ」
「もっとも、椛がその辺の階級まで上がる頃には、私はもっと上まで行ってるだろうけど」
「はいはい、優秀な鴉天狗様は、私みたく凡庸な白狼とは大違いでございますね」
「そういう皮肉は、可愛くないなぁ」

 文はいつ見ても、ニヤニヤと軽薄な笑顔でいた。悪口を言い合っている今この時だってだ。
 紅い瞳には喜色が浮かんでいた。このやりとりですら、彼女にとっては好奇の対象でしかないのだろうと椛は思う。それがまた、気に食わない。

「……それで、何の用です? できれば手短にお願いします」
「いや、別に。暇だから様子見に来ただけ」

 はぁと、椛は大きな溜息を煙と一緒に吐き出した。半分程まで燃え落ちた紙巻きを地面に擦りつけ、火を消す。
 文のこういう態度は全く愉快でない。血が滾っているなら噛み付いていたかもしれなかったが、しかし生憎今に限ればそういう気分でもなかった。

 結局、己が何をしようともあの嫌味な笑みを歪める事など出来はしないのだろうと、諦めた椛は視線を川面に戻す。文は別段話かける事もなく、ただそんな椛の背中を眺めていた。穏やかさと呼ぶには些か異質な静寂が、しばらく続いた。
 先に沈黙を破ったのは文の方であった。椛は鬱陶しそうな表情を顔に張り付かせたまま返した。

「椛」
「なんですか、用がないならいい加減……」
「引いてるわよ」
「え?」

 途端、釣り竿が大きく撓(しな)った。川に引き込まれてしまいそうなほど強力な手応えに椛は慌てて釣り竿を握り締める。

「ほう、これはこれは。川の主でも引き当てたかしらねぇ」

 想定外の重量感に、座ったままでは力負けすると椛は立ちあがって竿を引っ張る。踏みしめる両の足。文の暢気な口調に付き合えるほどの余裕はなかった。
 そして、ふんと一息の気合と共に、椛は一気に獲物を引き上げる。大きな水飛沫。
 水面から大きく跳ね上がるようにしてそれは姿を見せた。宙にあって逆光になるそれを、椛も文も注視していたのだが、しかしそれは魚と言うには余りに大きく、そもそもすらりと伸びた四肢は、形状からして明らかに魚類とは異なっていて……。







 ◆ ◆ ◆







「いやはや、河童の川流れねぇ。実際に見たのは初めてかも。まあ、土左衛門でなくてよかったわ。結構不衛生だからね、あれ」

 胡坐を組み腕組みをする椛の視線の先には、静かに寝息を立てる少女の顔がある。先ほど釣りあげた物体の正体だ。
 空色の髪が印象的だった。温和そうな顔立ちはまだまだ幼さを残しているように見える。河童か、そういえば川の上流の方に河童の集落があったなぁとか、そんな事を思い出しながら椛はしばらく少女を眺めていた。
 表情は些か厳しい。濡れた衣服を代えた際、裸体を見た。幾つかの傷痕。そしてその中に川底の石に裂かれたというにはあまりに不自然な、鋭い切り傷を見つけて椛は悟る。目の前の少女は、どうやら訳ありらしい。

「とりあえず、拾ってきたけど。さてはて、この河童の娘はただの厄介者か、それとも私達に何らかの利を与えてくれる存在か」

 黒檀(こくたん)の煙管を吹かしながら文が言う。漂ってきたやたら甘ったるい煙に、椛は少し顔をしかめた。

「文さん。そうやって、損得で全てを計ろうとするのはどうかと思いますよ」
「あら? でも結局のところはそれよ。義理とか正義とか信頼とか、ああいう貨幣でないものも結局損得の一つの形に過ぎないもの」
「私には、文さんのそういう考え、よく理解できません……」
「まあ、理解できないならそれでもいいけど。でも、椛はちょっとは私に感謝していいと思うのよ。私のその思想のおかげで、その子は安穏と手当てを受けられる状況にある」

 むぅと、椛は唸った。言い返す言葉が見つからなかったからである。
 質素なこの八畳間は、文の家のそれだ。排他的な天狗の集落。どこの馬の骨とも分からぬ他人を中に入れるのは良い顔をされないのだが、ここだけは例外だった。

 文は日頃見せる軽薄な笑顔そのままの女ではない。むしろあれは上手に世渡りしていくための仮面だと椛は思っている。奸智と保身に長け、闘争の場においても一流の腕を持つ。椛にとってはどこまでも気に食わないのだが、上司筋のこの鴉天狗はその実才覚の塊であった。
 上からの覚えもいい。猫可愛がられている節すらある文は、結果"少々やんちゃしても皆が目を瞑る"という特別な立ち位置を確保するに至った。
 すなわち、文の家に匿われている限り、天狗達は本来排除するべき他人を見て見ないふりをする。彼女の手を借りる事を、椛は正直気に食わないと思っているが、しかしこの状況では仕方がなかった。

「正規の手続きを踏むなら大天狗様に報告して、それから河童の集落に送還って形になると思う。でも、やりようによっては我々にとってより大きな利益となるかもしれない。それを確認したいから軒下を貸しているのだわ。まあ、しばらくはこの事黙ってるつもりだから、椛は安心していいよ。じゃ、私は席外すから、後はお願いね」

 文はすっと立ち上がり、下駄を引っかけると玄関の扉に手をかけた。背中を向けたまま、椛は尋ねる。

「彼女と話さなくてよいので? 利を探るなら必要な事に思えますが」
「あなたの目の前でそれをやると、きっと噛みつかれるからね。差し当たっては任せるわ」

 ぴしゃりと音を立てて扉が閉まった。上物の煙草の、甘い香りだけが残っていた。
 これは恩を押し売られたのだろうかと椛は思う。天狗にとってより賢い手段を確保できるなら、裁量を任せると文は言ったのだ。ただし、彼女は優しくはない。見限ればすぐさまその不正義を以って利潤の道を進むだろう。椛の意志など関係なしに。

 やれやれと、椛は溜息をついた。河童の少女を保護した理由は何の事はない。『窮する者を助けるは当然』、ちっぽけなれど美徳に沿い、しかし天狗の社会にあっては些か異端な椛の正義がそれをさせた。
 異端と知ってなお――とりあえずではあるが――そんな正義を尊重してくれた文には、感謝してもいいのかもしれないとも椛は思うのだが……。
 何となく自分も吸いたくなって、懐をごそごそまさぐろうとしたところで、椛は少女の瞼がぴくりと動いた事に気付く。

「……あれ? ここは?」
「気がついたようだな。きっと状況を飲み込めていないだろうが、とりあえず安心はしてくれていい。川を流されていた君を救い上げ、ここで介抱をした。その分だと体に特に問題はなさそうだな、安心した。……ああ、まずは自己紹介をしようか。私は犬走椛。この山で哨戒を務める白狼天狗だ」
「て、天狗……」
「怖がらなくてもいい。君を取って食ったりは誓ってない」

 臆病な性質(たち)なのかもしれない。確かに天狗は妖怪からも畏怖される、そういう種族ではあるが。
 出来るだけ穏やかに語りかける。すると少しだけ安心したのかもしれない。少女の表情は僅かに柔らかくなった。

「そうか……助けてくれたんだ。ありがとう。え、えーと……椛さんでいいのかな?」
「椛でいい。下っ端の白狼だ。畏まられると、かえって面映ゆい。ところで、目覚めて早速で悪いのだが、少し聞きたい事がある。……ああ、そんな不安そうな顔をしないでくれ。悪いようにはしない。ただ私としても君の事を知らなければ動きようがないのだ」
「う、うん」

 最初はおずおずとした口調だった彼女も、話す内に少しは打ち解けてくれたようだった。名前は河城にとりというらしい。生まれは、椛が見立てていた通り、上流にある河童の集落。
 どうやら歳は椛とさほど違わないらしいが、話してみると幾らか幼い印象を持った。少し舌っ足らずな喋り方もそうだし、何より表情がころころと変わる娘だった。狡猾な天狗達がまず見せないその明け透けさには、好感が持てそうだった。しばらく取り留めない身の上話が続いた。

「ねえ椛……ひとつ聞いてもいいかな?」

 ふとにとりの顔が俯いたのは、そんな一言と共にだった。

「どうして椛は、私を助けてくれたのかな? 訳ありって、分かっていたんだよね?」
「何らかの事情がある事は推察している。だが、窮している者を助けるのは、当然だろう?」
「聞かないの? 刀傷の理由……」
「聞かせてくれるなら。しかし言いたくないならそれで構わない」

 長い沈黙があった。にとりは難しい顔で思案をしている。それを言う言わないは彼女にとって重大な分水嶺となる。少なくとも彼女はそう考えている。
 分かっていたから椛は先を促す事はしなかった。代わりに「吸っていいか」と尋ねた。にとりは「うん」と答えた。にとりが次に口を開いたのは、三本目の紙巻きが半分ほどまで燃え朽ちたあたりだった。

「……きっと、これを言うと失望されると思う。でも言わないと私は椛を騙してる事になっちゃう」

 椛は吸いがらを陶磁の灰皿に押し付け、耳を傾ける。

「私は……つまりは信を破ったんだよね。集落の共有財に手を出した。石油が欲しくて……、研究で必要だったけど、でも、とても貴重な物でこっそり倉庫に忍び込むしか手に入れる方法がなかった」
「石油。燃える水だったか、確か」
「うん……。でもそれだけならまだ良かったのかもしれない。すぐ近くに金庫があって……つい魔が差して……」
「組織の金に手をだしたのか、ふむ……」

にとりの瞳は悲愴の暗色を湛えていた。深い罪悪感とはそういう色を呈すものだと椛は知っていた。

「ごめんね……本当なら私はこんな所にいて女じゃないの。怖くなって逃げた。甘受すべき罰から。掟に従えば私は片腕を切り落とさないといけない。でも、そんなの嫌だって、無責任に逃げた」

 あるいは、その瞳は遠い昔に見た、川面に映る自身であったのかもしれないと、そんな事も思った。諦観に今はすっかり掠れてしまった、あの色。
 だから、なのかもしれない。椛がにとりを誹(そし)る事もなく、ただ、四本目の紙巻きに火をつけたのは。

「逃げる事も、また大きな決断だ。汚名はいつまでも離れず、一生影となりて付いてくる。しかし、そんな生き様に同情をする変わり者の白狼が一匹くらいいてもいいだろう?」
「椛は……優しいんだね」

 目を少し細めた。優しさなどではない、そんな柔和なものではないのだ。あるいはもっと利己的な何か。そう思ったから言葉を返そうとしたのだけれど。躊躇があったのは、にとりの瞳が縋るようなそれであったからなのかもしれない。
 彼女がそう思いたいなら、それでいいと結局椛は押し黙る事をした。窓を覆う簾(すだれ)から差し込む、細切れになった午後の陽光が紫煙に影を作っていた。







 ◆ ◆ ◆







 その後、椛はしばらくの休暇を貰った。事情については直属の上司である大天狗も承知しているはずだったが、互いにそ知らぬ振りを通したまま、いくつかの建前を挟んで休暇は速やかに許可された。
 八畳間。文の邸宅はここしばらく主人の帰還を見ていない。なんでも、文はここ数日、飲んで騒いて寝る事をしに友人宅を渡り歩いているらしかった。
 多分、彼女なりの気の使い方なのだろうと、河童の少女と二人きりな屋根の下で椛は思う。

「ごはんできたよ。おいしく出来てるといいけど」

 にとりとの生活は上手くいっている。過ごした時間が三日を過ぎた頃になるとすっかり気安いやりとりができるようになった。
 彼女が作ってくれた昼餉に箸を伸ばす。想像していた以上に結構な腕前で思わず頬がほころんだ。感じたそのままを伝えると、にとりは照れ臭そうにはにかんでいた。お盆を胸に抱えて微笑む彼女の向こうでは、対局中の将棋の駒達が槍を突き合わせたままじっと佇んでいた。

 平穏な、日常だ。毎日が余りにも平和なまま進行していた。それはまったく以って歓迎するべき事であるのだけど。
 しかし、だからなのかもしれない。椛の心の隅に巣食うある種のもやもやした感情が、この時になってはっきりとした容貌を見せつけたのは。
 焦燥。昼餉を手早く胃袋に収めた椛は、「少し出掛けてくる」と言い残し玄関の扉に手をかけた。







 ◆ ◆ ◆







「河童もヤクザなところあるからねぇ。共有財ちょろまかしたとなると、そりゃ、ごめんなさいで解決って訳にはいかないでしょうよ」

 目的の人物はすぐに見つかった。集落の入り口にぽつんと佇む切り株。文はそこで一人煙管を吹かせていた。
 残念ながら、時間はおそらく余りない。この平穏をいつまでも続けていられるほど、世の中の仕組みが甘く出来ていない事なら椛はよく理解していた。
 しかし、打開しようにも下っ端の白狼が切れる手札は極めて少ない。個人的な敵愾心を抑え、文の人脈と交渉力を借りる事が椛には不可欠だった。
 説明を聞いて、文はふむふむと頷く。

「で、椛はどうしたいのかしら? 何らかの方策は見いだせた? 内容によっては協力していい」

 表情は平素のような薄ら笑いだが、目だけはそうでない。まるで射殺すような重圧すら感じる、歴戦の交渉家としてのそれだ。
 見定められている。納得させるに十分な弁舌がなければ文は躊躇い無く椛の希望を蹴り落とすだろう。はっきりと認識をして椛は軽く震えを覚えた。慎重に言葉を選び、話を切り出す。

「彼女にとって最良は、遠国にある河童の集落への亡命でしょう。追っ手の眼の届かぬ遥かな遠方。幸いな事に彼女は優秀な技術者である様子。優秀な人材は何処であろうと欲しがるもの。それを紹介としたとなれば、我々は彼らに恩を売る事ができるでしょう」
「ふむ、なるほど椛はそう考えるわけだ。しかし遠国の集落と言っても心当たりはあるのかしら? 私の知る限り我々の山がコネを持つ集落ってそんなにないし、それに訳ありな彼女を無条件で引き受けるほど能天気な首長がいるとも思えない」
「だからこそ、文さんにお願いしているのです。……すなわち上を、動かして欲しいのです。天魔様の直接の交渉なら、彼らも受け入れざる得ない。文さんなら出来るでしょう? 文さんの人脈と信任を以ってすれば……」
「上手に頼み込めば上申を通す事もできると思う。ただし、相応の理由が必須となるけれど。我々は故無く他人の台所に踏み込むような嗜みを弁えない集団ではない。まして天魔様にそれをさせる事は極力慎まなければならない。ええ、つまりは簡単な事だわ。さっきあなたが示した利潤では、我々が動くに不足が過ぎるの。当然椛なら分かってるよね? さて、切り札はあるかしら? この圧倒的不利に傾く交渉を、一挙に逆転させる切り札は?」

 来た、と椛は思った。そうだ、これを必ず尋ねてくると思っていた。ここ三日の時間は、全てここの理由を選択するために存在したと言っていい。
 ……いや、それも些か語弊がある。実を言うなら選択は相当に早い段階で出来ていた。
 何も持たぬ白狼に支払える物とは? そんなのたった一つしかなかった。しかし、それを支払ってしまうのは椛にとってとても大きな決断で。

 三日の時は腹を決めるのに十分だったとは思っていない。しかし、もはや躊躇をしていられる場合でなかった。一つ大きな深呼吸をした。真珠色の鋭い牙がちらりと覗いた。
 ――そうだ。今まで十分好き勝手生きてきたのだ。今更だ。牙を折る程度、どうって事ない。
 あるいは自分に言い聞かすように、宣言は極めて静かになされた。

「私は……逆らう事を止めます」
「言ってる意味がよく分からない」
「矜持を文さんに売り払うと言ったのです――」

 ――私は狼である事を止め、あなたの忠実な走狗に……
 後半は聞こえなかった。強い風が唸りを立てて吹き抜けたからだ。文の瞳が、不機嫌そうに歪められたが、そこに一抹の悲愴が見えたのは果たして気のせいだったのか。
 椛の声をかき消した肌寒い風は、冬の足音を感じさせた。樹木が、ざわざわと揺れた。北風と共に到来した不穏な気配。振り向いた先。

 あまり見ない集団だった。幾らか距離がある事もあって、彼らの集落と椛の山はその実交流が薄い。
 だからこそ、にとりを匿うような事も可能だったのだが……。
 釣り上げた場面を目撃されていたのか、もしくは目星をつけてここまで来たのか。定かではないが、ともかく彼らがここにいるという事実が歴然と今存在した。

 河童の集団。先頭にて悠然と若衆達を率いる老河童は彼らの長老であろうか。異形と化すまで肥大した右腕。肌に残る火傷の痕。長年の鍛冶によって培われた姿だと容易に想像できた。
 椛は心中の動揺を悟られないよう、出来る限り冷静な声を繕った。

「河童の方々が、我らに何か御用ですか?」
「人探しをしております。空色の髪を持つ河童の少女なのですが。何でも天狗様の集落に侵入したやもしれぬという情報を耳にしましてな。それが本当であったなら、彼女が天狗様に危害を加えるような事がないとも限りませぬ。そうなってしまっては我々としても申し開きができません故、よろしければ、わたくしどもに協力いただければ恐縮でございます」

 舐めてかかってよい連中ではない。天狗程でないにしても、悪知恵が回るし腕っ節も強い。浅黒い肌に薄笑い。ギラギラした瞳に惑いはなく、どこか凶悪な色があった。どうやら彼は確信を持っているらしい。
 動揺が大きくなるのを椛は感じたが、ともかく今は彼らをどうにか立ち去らせなければならない。そのような少女など知らぬと言った無表情を作った。角を立てぬよう、口調は柔和に。

「集落に踏み入る許可を出せという事でしょうか? しかし、そのような事を突然申し出されても、我々としては信ずる論拠に足りないのです。今回はどうかお引き取りくださいませ」
「ふむ……天狗様がそう言うなら仕方ありませんな。分かり申しました。確かに言われてみれば急に訪ねた我々に非がある。この件は、後ほど然るべき手続きを踏んで、大天狗様の方へ話を通す事に致しましょう。今日のところは帰りますよ」

 じゃりと、砂を踏む足音を残して河童達は立ち去った。
 当面の危機を乗り越えてほっと胸を撫で下ろす椛。しかしその実問題は何一つとして解決していない、いやむしろ悪い方へ進んでいる事を上司の声で悟る。

「彼らの来訪は、実は願ったような時分だったのかもしれない。椛。あなたがさっき何を言おうとしたか私は問う事をしない。届いてしまった声も、聞えなかった事にする。その上で私は告げる。あなたの描いた絵図は、たった今全て無意味になってしまった」

 文の紅い瞳が、この時椛にはひたすらな寒色に見えた。優しさのない瞳。嫌いな瞳。
 忘れていた訳ではない。彼女は完全な意味で味方ではないのだ。そして意見食い違った時の対処は至難である事も。

「残念だけど、これはもうあなた一人だけの問題ではなくなってしまった。河童に感づかれた以上、時間はない。あの子をどうするか、"我々"は決めないといけない」

 文には、先ほどまでの飄々とした態度はない。彼女は残虐なまでの真剣さを以って、この問題を迅速に決着させようとしている。

「売ろうか」
「今、何と?」

 はっきりと聞えていて、言わんとする事も理解して、しかし椛は聞き直す。押し殺すような声。ぎりりと、歯噛みした奥歯が擦れる音がした。
 そんな椛を知って、文はそれでも冷酷に言い放つ。

「彼女の身柄を河童に売ろうかって言っ――」

 瞬間椛の体が跳ねたように見えた。ギラリと、幅広の白刃が禍々しく瞬いた。
 鞘と刃が擦れる金属音。抜き放たれた椛の柳葉刀は電光一閃となりて文の顔面へと直進している。
 音も無く煙管の雁首が断たれた。炎の赤みを残す火皿が宙を舞う。眼前に迫る凶刃に、しかし文は何ら反応を示さなかった。
 とっさの事に体が動かなかったのか? 否、彼女の紅い瞳には完璧に見えている、そして理解もしているからこそ動かなかったのだ。
 はっと、目覚めたように瞼を見開き、椛は慌てて右腕の勢いを殺した。文の鼻先一寸にも満たない距離で、柳葉刀は辛うじて停止した。

「申し訳ありません文さん。つい頭に血が上って……」
 
 刀を収め、頭を下げる椛。文は口の中に残っていた煙と一緒に、ぼそりと呟きを吐き出した。

「……軽挙」
 
 吸い口だけになってしまった煙管をぽいと後ろに放り投げ、文は続ける。

「あなたの悪いところだわ。時に浅慮な感情に阿り、理で行動する事を放棄する。そうやってあなたは今まで何度も失敗を重ねてきたんじゃなくて? そうでしょ"狂犬"? 今回の件だってそう。何が一番正しいかは、あなたも分かっているでしょうに。我々には彼女を庇い立てする義理も利害も何もない。今となっては彼女を相応の対価で売り渡すのが皆の利益なのよ。易い正義や同情を理由とするな。それをするなら、ごり押すだけの責任と行動を示せ。反論はあるかしら?」

 顔が自然と俯いた。椛は、何も言い返す事ができなかった。

「……時間だわ。仕事で今夜は家を空ける。一晩あげるから頭を冷やしなさい。そして明日あなたの答えを聞かせて頂戴」

 切り株の傍らで、一人立ちつくす椛。先ほどから吹き始めた北風は、また少し強くなったようだった。







 ◆ ◆ ◆







 結局椛が住居に戻ったのは、すっかり太陽が西空に沈み、紅葉が闇色に染まった後の事であった。遠く梟の鳴き声が重苦しく響いていた。

「おかえり」

 かけられた声に、しかし椛は応える事できなかった。気持ちがすっかり弱々しくなっていた。
 にとりは聡明な少女だ。尋ねる事はしなかったが、何かがあった事は容易に想像できたのだろう。座り込み、深刻に考え込む椛に、にとりが声をかけたのはしばらくの沈黙を挟んでだった。

「……していいよ」
「何を?」
「接吻して、それから……。天狗って、そういう種族だって聞いてる。私には少しの鉄と石油と工具以外、この体しかあなたにお礼できる物がないからさ」
「それは身内の中でだけだ。私は外の住人に軽々しく手を出したりはしないし、君もそういう事を軽々しく言わないで欲しい。どうか私の誠心を信じて……」

 言い切る前に、声が詰まった。

 ――そもそもどうして己は、この河童の少女を守ろうなどと思ったのか? 
 ――お前は単純な情けでそれが出来るほど慈悲深い狼ではなかっただろう? 

「すまない。誠心などと、易く呼べるほど私のそれは綺麗ではなかった……」

 あるいは本当に慈悲だけで彼女を守ろうとしていたなら、どれだけよかっただろうと思う。血の通わぬ組織の論理に、ただただ義憤を燃やせばよかった。全力で噛みついてやればよかった。例えそれでにとりが救われなくても、少なくとも自分自身は救われた。悪いのは、己ではないと。
 打ちひしがれていた。目を覆いたくなるようなこの失敗をもたらしたのは、結局は己のせいであるように思えてならないのだ。根底に度し難い甘えと利己があった。

「椛は、本当に優しいんだね」

 呟くようなにとりの声に、そんなのじゃないと否定しようとして、しかしそれを彼女の手が制した。

「煙草、吸うんだったね。……ちょっと待ってて」

 すっと立ちあがったにとりの背中を見送る。彼女が閉じこもった隣室からは、金属の擦れるような音が断続的に聞えていた。数刻の間があっただろうか。部屋から出てきたにとりの手には何やら小さな金属の箱が握られていた。

「煙草咥えて」
「そういう気分じゃ……」
「いいから」

 今までにない強い語調に、椛は訝しげに思いながらも、懐から紙巻きを一本取りだし、唇に挟む。
 にとりは金属箱をその先端に近づける。ぱかりと蓋が開いた。ぽっと、火が灯った。
 初めて見る光景に少し驚いた椛だったが、「いいから吸って」とにとりに促されて、紫煙を吸い込んだ。その様子をにとりはただ微笑んで椛を眺めているだけだった。一本吸い終わるのを見届けて、にとりは口を開いた。

「発火石を利用した点火器。燃料には石油を蒸留したものを使ってる。燐寸(マッチ)は湿気があると使えなくなっちゃうけど、これならいつでも吸えるでしょ。椛に贈るわ」

 金属箱をそっと差し出すにとり。彼女が己の為に作ってくれた事は理解している。しかし受け取るには躊躇があった。
 受け取ってしまえば、もう彼女と会う事叶わなくなってしまう気がしたのだ。
 だが、そのある種の確信すら伴った未来は、残念ながら、椛がその小さな手で払いのけたところで、もはやどうにもならない事ならきっと二人とも分かっていて。
 立ち上がったにとりが、懐に手を入れた。酷くぎこちないようにも見えたその仕草。腕は小さく震えていた。

「にとり……一体何を……?」
「ごめんね椛。あなたに優しくしてもらって、本当にうれしかった。でも、そんなあなただから、私はこれ以上迷惑をかけたくない」

 瞬間ばちりと、体の中に衝撃が迸った。まるで落雷が直撃したようだった。
 にとりの右手に握られた見た事もない金属製の機械。おそらくは体に押しつけられたそれが衝撃の原因だろうと推察できたが、確かめる事も出来ず椛は畳の上にぐたりと倒れ伏す。抗うこと能わぬ強烈な痺れ。

「このままじゃ、みんなが不幸になる。あなたは天狗としての立場を全うするべきだわ。そう、元は私が無責任にも咎から逃げた事が始まり。私が当たり前の事をすれば、全ては正しく収まる」

 にとりの目尻には涙が浮かんでいるようにも見えた。しかし、感情を噛み殺すように、あるいは笑顔を崩さないように。そして、最後に。

「ばいばい、椛」

 暗夜に、声は溶けていった。







 ◆ ◆ ◆







 椛がむくりと起き上がったのは、嫌味なまでに眩しい朝日に顔面を照らされてだった。小鳥の囀りが聞えた。軽く痺れが残る右手。果たしてその原因は何だったかと、ぼんやりした頭で思いだそうとして。

「にとり!?」

 一気に覚醒した。きょろきょろと落ち着きなく周りを見渡すがにとりの姿はない。
 小さな金属の箱が転がっていた、にとりが作ってくれた点火器。ぎゅっと握りしめ、椛は全てを理解したのだ。
 膝を抱え座り込む。涙ならすでにうっすら浮かんでいるのだ。涙腺は殆ど限界まで張りつめていた。
 玄関からのガラガラと音が聞えなければ、憚る事なく号泣していたに違いない。一瞬、もしかしてという希望を抱くが、やはり視線の先に、にとりはいない。

「文さん……」
「一晩経ったからね。回答を聞きに来たわ」

 昨日別れた時と同じ表情をして、文はそこに立っていた。
 椛は無意識に唇を噛んでいた。回答。誠実に応えるべきその単語が酷く残虐なものに思えた。

 ――何が窮する者は助けるが当然だ。

 結局の顛末はこうだ。無力な己には助ける事なんて出来ないと、最初から分かっていて、いい格好をしようとしただけではないか。
 無責任に手を差し伸べ、当然のように失望された。無為に反骨を振り回した惨憺たる結果がこれだ。全ては己がちっぽけな正義のせいだ。
 ぽつりぽつりと、絞り出すように、あるいは自嘲するように、椛は一言ずつ言葉を紡いでいった。

「回答……よくよく考えればそんな物、用意できるはずがなかったのかもしれません。通るはずない事を知って、それでも理想を押す事しかしなかったのが私だから。より現実的な手段はいくつかあったのでしょう。しかしそれを選ばなかったのは何でもない、ただただ私の高慢な矜持が許さなかったからですよ。そして、今朝、回答はなるべくして無意味になってしまったのです……」

 声は諦観が支配していた。

「文さんの言っていた通りですよ。軽挙が過ぎるのは私の悪いところです。そして、その軽挙のままに誰にも彼にも噛み傷をもたらす。道理、狂犬などと呼ばれるわけです。そして私はまた、軽挙がため大きな過ちを犯してしまったようです。思うに、守るという行為自体が、そもそも高慢なのです。誰かを守ると言いますが、その実本当に守りたいのは己が意志主張であるのではないか? 汚される事を嫌うからこそ、擁護するのでは? 結論から言うなら、私は結局のところ抗いたかっただけなのかもしれません。当然のように罷り通る力と打算の理論に。言うなれば私は私の正義を確かめる為に彼女を利用した。同じですよ、文さんと。私もまた不誠実な天狗そのものだった」

 最後は消え入るような声だった。文は思案をしているようだった。しばらくの間があって、口が開かれる。

「なるほどね……。ところで、これでも結構人を見る目はあるつもりなのよ。今までそれで身を立ててきたのが私だしね。そんな私から一言言わせてもらっていいかしら」

 しかし、その声がいつもの彼女らしくない、酷く優しげなそれに聞こえたのは、気のせいだったのだろうか。

「あれこれ難しい言い訳してるけどさ、きっと椛は考え過ぎなのよ、本質は至って単純。下らない虚飾を省いた先にそれはある。つまり、単純に彼女の事を好意から助けたいと思ったんでしょ? 好きだから助けたい。それでいいじゃない」
「そんな、私は……」
「あなたほど尊大な矜持を持つ白狼を私は他に知らないわ。そんなあなたに、牙を折ってもいいとまで言わせた。まったく、妬けるわね。何を疑念抱く事あるのかしら? そうでしょ、椛。ああ、何たる高慢。しかしそれ故に美しく肯定されるべき天狗の子よ。正義を謳い異端を貫き通してきた誇り高き狂犬。そんなあなたの生き様が、私にはすこしだけ眩しかったりもする」

 語りかけるように、その紅い瞳が細められた。確かな慈愛を湛えて。
 どくりと、心臓が躍動したのを椛は感じた。それは、このまま諦観に身を委ねようとする己への反駁であったのかもしれない。胸を抱え、思考をする。
 
 果たして勇気の定義とは? それは例え度し難い高慢であろうとも、一歩を踏み出してみせる決断の事ではないのか。
 今となっては鼻で笑うような若年の無鉄砲。しかしひたすらに熱かったあの闘志が、再燃を始めるのを椛は確かに見たのだ。狂犬と呼ばれた少女は、今一度の蛮勇を願った。

「文さん……私は正義の味方に、今からでもなれるでしょうか」
「正義の定義は人それだしね。それが正しいと私は思わないけど、でもそれが椛にとっての正義なら遅くはないんだと思う」

 咽び泣くのは死ぬ時にでもすればいいのだ。それよりも今は出来る事がある。
 あの優秀な彼女が、まだ遅くないと言ってくれたのだ。ならば間に合わせなければならないのだ。
 刀と盾に手を伸ばした。伝わって来たのは、信頼に足る鋼の無骨な肌触り。

「文さん。おかげでどうやら私は後悔をしなくて済みそうです」

 涙はもう止まっていた。瞳には自棄も諦観もなく、力強い決意だけがあった。点火器は懐へと、丁寧に仕舞う。身支度する椛を、文はただただ静かに眺めていた。

「立場上は止めないといけないんだけどね。でも。特別に見なかった事にしてあげる。行ってきなさい。後始末は上手くやっとくから」
「感謝します、文さん」
「そうそう。最後に一個だけ言わせて、勘違いされたままじゃ、寝覚め悪いしさ。あの時椛は代償に牙を折るって言ったけど……それじゃ私は動かなかった。我々全体の利益に何ら寄与しないからってのは勿論だけど、何よりもそんな椛を私が望まないから。私に噛みついてくるような阿呆、椛だけだったからね。知ってる? 私、結構椛の事面白い奴だって思ってたのよ」
「私も、ですよ。嫌味で、冷酷で、鬱陶しくて、小賢しくて。でもそんな文さん、何だかんだで嫌いじゃなかったですよ」

 深々と頭を下げ、最後に、にっこりと笑んだ。

「さようなら文さん」







 ◆ ◆ ◆







 河童の集落より少し離れた位置にその広場はある。刑罰はこの場で執行されるのが古くからの習わしだった。
 執行役の大柄な河童の手には鋼の両手斧が握られていた。周りを取り囲む十人程の若い河童は手製の銃を携えている。彼らは見物の為ではなく不測の事態に対応するため召集されている。
 中央の台座。にとりは四肢を拘束されその上にいた。
 厳めしい顔つきのまま長老が言う。

「おぬしの気持ち、分からん訳ではないのだよ。わしも同じ技術者だからな。しかし『縄は曲がれるに撓(たわ)まず』。情で掟を破る訳にはいかぬのだ。すぐに終わる。そして償ったならわしがとびっきりの義手を作ってやるから、粛々と罰を受けてくれ」

 にとりの表情には、抑えきれぬ恐怖が滲んでいたが、しかしすでに覚悟ならできていたのだろう。微かに震える声で、しかし確かな決意を以って答えた。

「はい、ありがとうございます長老」

 長老が指示を出す。執行役の河童がこくりと頷く。高々と振り上げられた斧。にとりの細腕を断ち切るには十分過ぎる鋭さと重量があった。にとりは、ぎゅっと固く目を閉じた。
 そして、執行の時がいよいよとなって――。
 しかし、長老がそれを一端制す。若衆らが俄かにざわめきだしたからだ。

「何奴?」

 闖入(ちんにゅう)者の正体に、長老は見覚えがあった。

「あなたはこの前の……我らに何か御用ですかな? しかし見ての通り今は取り込み中でして。それに、この場は部外者の立ち入りは許可されておりませぬ。どうかお引き取りを」

 表面上の丁寧さの端々に棘を持たせた口調だった。しかし椛は何ら動揺を示す事もなく静かに口を開く。

「もはや私と山は無関係だ。たった今私はあそことの縁を断ち一匹狼となった。あと取りこみ中とかそんなのはどうでもいいんだ。私は今この場で生起をしている問題に、急ぎ用がある」

 そんな椛を、にとりは信じられないような表情で見ていた。

「椛……一体どうして」
「助けたいと思った。だから私はそれをするだけだ」

 椛の瞳に淀みはなかった。柳葉刀に手をかける。鞘から覗いた白刃に、若衆達がどよめいた。長老がはっきりとした敵意で睨みつける。もはや丁寧さを取り繕う事もなく。

「にとりを、たぶらかすつもりか?」
「たぶらかす? まさか、そんな紳士的なものじゃない。最悪彼女の同意ですら必要ないと思っている。
 理不尽だと思うか? ああ、まったくだな。しかし私はもはやそれでいい。あなたがたの決定は間違っていると私は断定をしたのだ。そしてその決定を叩き潰す為なら、私は狂犬である事を全力で肯定できるだろう」

 カツンと軽い金属音があった。投げ捨てられた鞘が地面の小石に当たったのだ。
 自信に満ちた椛の表情は、殆ど不敵ですらあった。
 盾を構え、刃を高々と掲げ、朗々と椛の声が響き渡る。

「守るという行為の苛烈な攻撃性を。衝突を厭わぬ覚悟を。私の盾は迫りくる刃を凌ぐためにあるのではない。白刃を叩き折るためにこそ存在するのだ。
 天狗の流儀に則るのはこれが最初で最後。だからこそ私は出来る限りの高慢さを以ってそれを履行しようと思う。河城にとり。私は君を攫いにやって来た!」

 その咆哮が合図となった。
 長老の怒声。若衆達が照準を定めた銃が一斉に火を吹く。甚大な推力で撃ち出された弾丸が、真っ直ぐに椛へと殺到した。

「椛!?」

 にとりの殆ど悲愴な叫び。
 人間が使っている火縄銃よりも、遥かに大きな初速を持つ銃だ。例え盾で防ごうとも、あの程度の分厚さの金属板など易々と貫通する。
 視界を霞ませていた立ち上る硝煙。しかし、血の匂いがしない事に長老は表情を怪訝なものにした。
 急いで次弾を込めるよう指示を飛ばすが、彼らが鉛弾に手を触れるよりも早くそれは起こった。

 響く硬質な衝撃音。硝煙に紛れ接近する人影を認識する事もできず、白目を向いて、河童の一人が盛大に吹き飛ぶ。
 盾による強烈な一撃だった。地を舐める低さで肉薄した椛が勢いそのままに殴打したのだ。

「……言うなれば経験の差だな。いくら武器が強力であろうとも、扱うのが実戦の素人では話にならない」

 弾丸は本来の役目を果たす事できず、全て椛の頭上を抜け、森林の樹木に幾つかの穴を穿っただけであった。
 椛は続けざまに柳葉刀を振るう。すぱりと、綺麗に断たれた銃の断面を見て、持ち主の河童は明らかな恐怖を顔に浮かべ後ずさった。
 彼だけではない。河童達は皆慄いていた。根が技術屋の河童と、戦闘を生業としてきた白狼では、単純な戦力差で天と地程に隔たっている事をはっきり認識したのだ。震える彼らを目の前に、ぬうと唸った長老は、狼狽する隣の河童より両手斧を取り上げ、一歩進み出た。

「下がれ。おぬしらでは相手にならぬ」

 丸太のように巨大な赤黒い腕。彼の肉体が有する怪力は容易に想像できた。一対一。椛は対峙する。
 最初に動いたのは長老の方だった。裂帛の気合と共に振り回された刃が唸りを上げ、椛の首に迫る。
 僅かな驚きを椛は瞳に滲ませた。重量ある両手斧だ。ここまでの速度で振り抜かれたのは、椛の想定を超えた。何より素人の斧捌きではなかった。
 思わず舌打ちをする。辛うじて盾が間に合った。甲高く響く金属同士の衝突音。

 が、しかし、並大抵の破壊力ではないのだ。盾をべっこりと凹ませてなお衝撃は殺されず、椛は殆ど吹き飛ばされる形で転倒しかける。

 意識が少し朦朧としたようだった。それは致命的な隙。追撃の一撃を繰り出すべく、長老は斧を振り上げている。
 力任せにあれが脳天に振り下ろされたなら、遺体はきっと無残な物になってしまうだろうなと、椛は漠然とそんな事を思った。
 体が倒れゆく、その数瞬。視界の端で、今にも泣き出しそうなにとりの顔が映る。どうやら心配してくれているらしいと、そんな風に思うと、こんな状況だというのに、ふと笑みが漏れた。

「まったく、言っただろう……」
 
 極めて自然な所作で柳葉刀の柄が、ぎゅっと握りしめられた。考えずとも、体は勝手に適切な動きをしてくれた。

「心配せずとも、私は経験が違うんだって!」

 勢いよく振り抜かれた右腕。ひゅんと、空気を裂かれる音が聞こえた。一直線に宙を突き進む刃は、ぎらりと禍々しく輝きを反射させていた。
 あの不安定な体勢から、右腕のばねのみで投げ放たれた椛の柳葉刀。熟練の腕による奇策は、狙いを寸分たりと外す事なかった。長老の苦しげな呻きが聞こえた。彼は深々と太ももに突き刺さった刃を驚愕の表情で見ている。
 流れ出る血液。左足が麻痺する感覚に襲われたに違いない。為す術もなく、彼は方膝を付いた。
 体勢を立て直した椛は、彼の眼前まで近接し、そして盾を振りかぶった。詰まるところ金属の塊であるこの武具は、鈍器として十分な破壊力を有する。

 ――頭蓋をかち割るには十分すぎるほどに。
 ふと、にとりの方を見た。いよいよ涙堪え切れないような表情だった。このまま長老を殺害せしめれば、全てが解決するといった単純な問題でない事は理解していた。

 そもそも、この長老に何ら責められる点はないのだ。彼は正当に掟を遵守しただけだ。それに、最近のごたごたがあったとは言え、にとりにとっての彼は長い時を共に過ごした仲間なはずだ。命奪うとなれば、きっと恨まれるだろうなとも思った。
 しかし、もはやそれでいいのだ。彼女をどこか遠くの集落に引き渡した後、一匹狼に戻ればいい。
 まったく、私はどこまでも狂犬だったなと、少しの自嘲を浮かべ。椛は長老の脳天目掛けて盾を振り下ろ――。

「そこまで!」

 刹那。猛烈に吹き荒んだ一陣の風が、軌道を狂わせた。命奪うはずだった盾は空を切った。
 椛にとってはよく知った風だった。振り返った先。別れを告げたはずの上司の苦笑を、驚きの表情で椛は見る事となる。

「冷や冷やものね……まったく」

文だけではない。同僚の白狼に、鴉、鼻高、山伏と格種族の面々。各々が武装し、一軍とすら呼んでよさそうな天狗の集団。そして、彼らを率いている、巨躯の壮年。椛にとっては直属の上司。大天狗が一歩進み出る。

「ご苦労だった椛。怪我など無いようで安心している。さて、とりあえずここは私が預かる事にしようか。君は集落に戻って体を休めたまえ」

 峻厳な声はいつもの彼のものだが、しかしそこにはある種の優しさが混じっているようにも聞こえた。
 酷く罵倒されるだろうと、椛はそう覚悟していたのだが。
 しかしちらりと横目に、文の意味深な笑みを見て。それで椛は全てを悟った。大天狗に向かって方膝をつき、御意と頭を下げ、命令を受諾する。
 満足そうに、あるいは安心したように大天狗は頷くと、河童の長老に向き直った。

「さて、ここから先は政治の話だ。一対一で、対談願えますな?」

 ぬう、と。彼の唸りが小さく聞えたが、回答によってはこのまま攻め込む事すら辞さないという言外の脅しは、一族の未来を背負う彼にとって重大が過ぎるものだった。
 苦虫を噛み潰したような表情で、長老は要求を飲んだ。







 ◆ ◆ ◆







 紅葉はすっかり落ちて、山の風景は寒々しくなってしまったけれど、久々の晴天に気温はいくらか柔らかだった。
 きっと今年最後の秋晴れの日。外出日和ではあるけれど、一応は自宅謹慎の命が出ているわけだし、薄く埃を被った釣り竿に目を向ける事もなく、椛はごろんと畳の上に寝転がっていたのだった。がらがらと、扉の開く音がする。

「椛、久しぶり。元気してた?」

 数日ぶりに見たその姿が、とりあえず元気そうだったから少し安心する。彼女もまた、ここ数日はあちこちに呼び出されたり説教喰らったりで大変だっただろうから。

「あなたの処分が決まったわよ。はい、これ通達書。また後日、正式な伝達があるだろうけどね」

 体を起こした椛は、文が差し出した数枚の文書を受け取り目を通す。

『此度の案件、我らの平穏を甚大に脅かしかねぬ重大な物であったが、これまでの功績を勘案し、また数々の情状の余地もあると判断し、処分を無期限の減俸と決定する。これは議長の天魔を始めとする審議会の寛大なる温情によるものと認識し、真摯たる反省と今後一層の忠勤を……』

「要約すると、三下の白狼の癖に調子乗ってんじゃねぇよ、次やったらただじゃおかねぇからなって事よね」
「そこまできつく書いてないでしょう……まあ、お叱りを受けてるのは確かですが」

 あの時、大天狗と河童の長老の間で交わされた対談の詳しい内容を椛は知っているわけでない。
 ただ、伝え聞く情報によると、和解の証明として莫大な賠償金が河童の集落へ支払われたのは確からしかった。長老が酷い怪我を負わされた訳で、河童にも体面というものがあったはずだが、それを強引に有耶無耶にしたのである。
 多くの損失を覚悟して、しかし、それでも彼らが動いた理由については文が話してくれた。

「皮肉ではあるんだけどね。椛が独断で首を深く突っ込んでしまったからこそ、事態は椛一人の所有物でなく全体のものとなってしまった。要はそういう事」

 この社会は良くも悪くも連帯に重きを置く。群れの構成員を過剰なまでに贔屓する天狗の山だ。重き責を同朋一人の背に負わせない為に彼らは動いた。
 高慢で、身内に甘い、天狗の理論。椛が普段いけ好かなく思っているそれが、しかし結果事態を終息させた。
 つぎ込んだ金銭の量を物語るように、和解は順調過ぎるほど滑らかに締結されたという。印を押す際、河童の長老は笑みさえ浮かべていたらしい。現金な話だと椛は思った。
 今現在の河童と天狗それぞれの集落の関係は、椛の行動によって焚きつけられるはずであった深刻な対立など、まるで最初からなかったように、いや、むしろかつてのような顔だけを知る隣人の関係ではなく、一歩進んだ、交流し合う関係が構築されつつすらある。

 結果として、金銭的な損失は大きかったが、別の視点から見れば、天狗は利を得たと考える事もできた。今後、必要な時に河童の優秀な技術を融通してもらえる既知を得たのだから。
 とはいえ、一応法治の体制を取る天狗。椛のしでかした事に何の責任も問わないというのもまた難しい話であって、その処分が先ほどまで審議されていたのである。
 決定は、椛からしてみれば正直軽過ぎると思えるものだった。身勝手に動いた結果、危うく全面戦争の引き金となってしまう所だったのだ。極刑もあり得ると考えていた。

「一応は"未遂"だしね。しかし、私が上を動かさなかったら、今頃、どうなっていた事やら」
「まあ……感謝はしていますよ」
「それくらいはしてもらわないと困るわ。あの時、割に合わないの分かってて、それでもわざわざ巻き添えになってあげたんだから」

 椛がしでかそうとする事を知っていて、しかし見て見ぬ振りした責任。文も椛と同じ処分が妥当というのが審議会の見解だ。
 そういう見解が出されるであろう事なら分かっていたから、それが告げられた時も文は落胆する事粛々と受諾したという。
 ただ、天魔直々による凶器的に長い説教は流石に堪えたらしく、表情には若干の疲れが滲んでいた
 よっこいしょと椛の隣に腰を下ろし、ひとつついた溜息はらしくない程度に深かった。

「ふぅ……煙草頂戴。なんだか凄く吸いたい気分」
「紙巻きしかありませんよ」
「うん、それでいい」

 懐の煙草入れをごそごそやると、ちょうど、最後の二本だった。

「火」

 気だるげな文の声に、自分の分に火をつけてから、点火器を手渡す。

「へぇ、これが河童の作ってくれたっていう例の。便利そうじゃない」

 教えなくとも、使い方を見つけ出す程度容易い事だったらしい。数秒の後にしゅぽっという微かな着火音が聞えた。二人分の紫煙がゆったりと午後の陽気を漂う。
 しばらくは、点火器を弄ってすごいすごいと子供みたいに好奇心たっぷりでいた文も、少し時が経つと飽きたと見えて、蓋を開け閉めするあの金属音はもう聞えて来なかった。
 静寂の時間があった。文は押し黙っていると言うよりも、話題を切り出すのが面倒だといった塩梅だったから、椛の方から話しかけてみる。

「……いつか言ってた」
「ん?」
「出世がどうのこうのって、ずっと先の話になりそうですね」
「ああ、そういやそんな事言った気もするわね。まったくだわ。椛のせいなんだから。頑張って借り返しなさいよ」
「善処しますよ」

 曖昧に苦笑しながら、椛は一つ溜息をついた。
 振り返るに、結局問題を解決したのは不誠実な力の論理であり。しかし結果は、全てがなあなあになって丸く収まった。
 そう、全てが丸く収まってしまったのだ。最も椛が懸念していた問題ですらだ。
 
 交渉の席で、大天狗が和解と共に飲ませた一つの要求。
 すなわち河城にとりの罪を無かった事にする事。"縄を曲がれるに撓(たわ)ませた"のだ。
 その手法に、思うところが無いわけではない。正道とはかけ離れたやり方である。
 しかし、思うところあろうが、借りは借りだ。それも莫大が過ぎる借りだ。その要求は、すなわち己への配慮のためだけに用意されたという事なら椛は理解している。にとりは、もはや咎を背負わず、河童の集落で元のような日常を送っていると聞く。

 ともかく、全てに片が付いたのだ。だから今はそれで納得すればいいんだろうと椛は思う。
 どうせこれからの生も長い。また来年になれば山は紅葉に染まるし、あの赤色を生涯で飽きる程見る事になる。十分過ぎる時間がある。借りならゆっくり返していけばいい。
 唯一心に引っかかっているのは、泣きそうな表情が最後の記憶になってしまった彼女。
 
 もしかしたら嫌われたかも知れないなと、そんな事を考え、しかしそれも仕方ないかと自嘲するように苦笑いした。
 ふと、灰が落ちそうになっているのを見て、どうやら随分と考え事に没頭していたらしいと気付く。
 隣を見ると、煙草は咥えたままに立ち上がろうとしている文。

「あら、お帰りですか?」
「うん、邪魔しちゃ悪いしね。積もる話もあるだろうし、私は席を外すわ」

 その言葉の意図するところが分からず、一瞬きょとんとしてしまったけれど、扉の向こうからおずおずと聞えてきた、少し舌っ足らずな喋り方に理解をした。
 何となく、笑みが零れたのが分かった。

 文の手から投げ返された点火器の鋼が、陽光を反射してきらきら輝いている。不思議と綺麗に見えた。






 
合同誌「ななうた。」に寄稿させてもらった作品です。
ねじ巻き式ウーパールーパー
作品情報
作品集:
1
投稿日時:
2011/04/01 08:43:17
更新日時:
2011/04/01 08:43:17
評価:
2/7
POINT:
2038885
Rate:
50972.75
簡易匿名評価
POINT
0. 38885点 匿名評価 投稿数: 5
1. 1000000 文ちゃんを取り巻く一陣の風 ■2011/04/01 09:33:54
 天狗社会の闇とそこで揺れ動く個を描いた作品、ごちそうさまです。
 文と椛はいい相棒になれそうすなぁ。。
2. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 19:25:24
ヤクザなやつら
名前 メール
評価 パスワード
<< 作品集に戻る
作品の編集 コメントの削除
番号 パスワード