任氏伝

作品集: 1 投稿日時: 2011/04/01 02:24:50 更新日時: 2011/04/01 02:24:50 評価: 0/1 POINT: 7777 Rate: 780.20

 

分類
オリキャラ
古代中国
 









 小さな幻想郷がすっかり闇に覆われて、そこに住まう妖怪たちがにわかに心を躍らせ始める頃のことです。

 幻想郷のどこかに存在するといわれている八雲紫の屋敷では、あんどんの光と影法師をお供に縫い物をしている九尾の狐がいました。

 八雲紫の式、八雲藍です。

 最強の妖獣と名高い彼女も、泣く子も黙るスキマ妖怪の前では雑用を押し付けられる式に過ぎません。

 ですが、言いつけられた雑用はすでに終わらせてあります。今せっせとしているのは愛しい愛しい、それこそ目に入れても痛くない藍の式、橙のための針仕事です。

 服から飛び出た糸をはさみで切れば、ここしばらく続けていたこの作業も終わり。いよいよ完成です。

 ちょきんちょきん。



「よしっ、できた!」



 糸くずを払って服の両肩を持って広げると、あんどんの優しい光を背景にしてワンピースが優雅に舞います。

 この可愛らしいワンピースを染めるのは燃えるような赤一色。単調かもしれませんが、橙は赤を気に入っていましたし、藍も元気に駆け回る橙には赤い服がぴったりだと思っていました。

 日夜、愛する式を見守っている藍が断言するのですから、間違いないでしょう。

 胸の周りは将来の発展性を考えて余裕を、逆にスカートの部分は動きやすいようにやや短めにしてあります。裾にはふわふわのフリル。ただし、橙がふわふわ揺れるのを見て興奮しないように幾分か控えめに。極めつけは胸元に咲く特製の白いリボン。紅白の相反する美しさが、ワンピース全体の美しさをよりいっそう引き立てています。



「我ながら惚れ惚れする出来じゃないか」



 藍はうっとりとした表情でため息をつきました。

 藍だけ見るとただの親馬鹿ですが、それほどまでに素晴らしいワンピースなのです。しかも術で強化した生地を使ったので、ちょっとやそっとの攻撃で破れることはありません。凶暴な巫女や魔法使いにスペルカード勝負を挑まれてもしっかりと服の持ち主を守ってくれるでしょう。



「んふふっ、明日の朝一番にプレゼントして……おや?」



 ワンピース越しに橙の笑顔を幻視していると、そろりそろりと近づいてくる足音が廊下の方から聞こえてきました。

 藍はささっとワンピースをたたんでタンスにしまい、尻尾を器用に操って裁縫道具を部屋の隅まで押しやりました。そして、何食わぬ顔で近くにあった本を手に取ります。

 足音は藍の部屋の前で止まりました。



「藍さま、入ってもよろしいですか?」



 やや遠慮がちな声がかかりましたが、あいにく藍は橙に対して閉ざすべき扉を持ち合わせていません。いつでも全開なのです。



「もちろんだとも。入っておいで」



 返事をした途端、障子が勢い良く開いてパジャマ姿の橙が転がり込んできました。橙が着ている魚柄のパジャマも、頭につけているナイトキャップも全て藍のお手製です。



「藍さま! 藍さま! またお話を聞かせてください!」

「おやおや、元気が良いこと。今日は早く寝ると言ったのは誰だい?」



 明日は朝からチルノやルーミアたちと遊ぶ約束をしています。そのため、橙は早くに布団へ入ったのですが、どうやら化け猫の血が騒いでしまって眠れなかったようです。藍に向けられた瞳は爛々と輝いていました。



「あう……努力したんですけど、どうしても眠れなかったんです。ごめんなさい」



 子供に舌を少し出して上目遣いで謝られたら、どんな親でもイチコロです。

 藍も硬い表情をしていましたが、すぐにやけてしまいました。



「なにも私に謝ることはないさ。謝るのは寝坊をして遅れてしまったとき、友人に対してだぞ。約束はどんなものであれしっかり守らないとダメだからな。ほら、こっちにおいで」

「はい!」



 藍が軽くひざを叩くと橙が飛びついて顔をうずめました。思わず天に昇ってしまいそうになった藍は、お返しとばかりにギュッと橙を抱きしめます。

 にゃんにゃんこんこん。

 しばらくの間、二人だけの幸せな時間が過ぎていきました。



「んんっ、藍さまって良い香りがする!」

「え?」



 至福の時を過ごしていた橙が何気なく発した言葉に、同じく至福の時を過ごして無防備になっていた藍は気の抜けた声を出してしまいました。

 紫の式になるよりも前、千年以上も前の古い記憶を刺激されたのです。目の前の式と同じことを言った人物の顔が、うっすらと脳裏に浮かんできます。



「どうしたんですか?」

「……いいや、何でもないよ。気にしないでおくれ」



 橙に不思議そうな眼差しで覗き込まれてしまい、藍は慌てて頭を振って浮かんできた顔を追い出しました。長く見ていると精神的に悪そうだったからです。

 しかし、どうやら今夜のお話はこの人物が関係するものに決まったようです。



「橙、涎を拭いておくれ。服が汚れてしまう。そうそう、良い子だ。さてと、この前は月面戦争の話だったかな?」

「はい。紫さまと月のお姫様たちの戦いがすごくて、結局眠れなくなっちゃいました!」



 話の内容を思い出したのか橙が興奮気味に叫んだ。

 あの方は存在自体が冗談みたいなものだからな、何をやっても笑い話になってしまう、と藍も笑いながらつぶやきました。ひどい言いようですが、これも主である紫を敬い、愛しているからこそ飛ばせるジョークなのでしょう。

 ひとしきり笑うと、藍は記憶を確かめるように目を閉じました。

 やがて両の瞳が姿を現すと、九本の神々しい尻尾を持つ妖狐は重々しく、どこか懐かしそうに物語の始まりを宣言しました。



「では、今宵は趣旨を変えて大陸に古くから伝わる狐の話をしてあげよう。題名は任氏伝というやつでね……」





















 昔々、時間は唐の玄宗が国を治めていた時代まで遡ります。

 玄宗皇帝、これではあまりぱっとしないので、楊貴妃を愛し過ぎて政務をおろそかにしてしまった皇帝、とした方が通りが良いかもしれません。

 彼は長恨歌に詠まれているような楊貴妃との甘く悲しいエピソードの印象が強いのですが、治世の前半は開元の治と呼ばれる唐の絶頂期を築き上げた、それは素晴らしいものでした。

 そんな活気にあふれていた時代、唐の都長安に奇妙な噂が流れました。



「西域出身の金髪美女が、夜な夜な街角に出没しては一夜の相手を求める」



 長安の男たちはこの噂に色めき立ちました。

 遊郭で当時もてはやされていた異国の女性を買おうとしたらべらぼうな代金をとられてしまいますが、これならばただで良い思いができてしまう、という訳です。

 人間ってものはいつの時代も考えることは同じなようで。しかし、美味しい話にはちゃんと裏がありました。

 ここで登場するのが物語の主人公、任氏です。野狐だった任氏はちょっとばかり長生きしたおかげで、めでたく尻尾が二本に増えて妖術を使える妖狐となりました。

 せっかく得た力をうまく生かせないかと思案していたところ、先輩妖狐から耳寄りな情報を教わりました。それは人間の女に化けて男が鼻の下を伸ばした隙に襲うというもので、危険ではあるもののうまくいけば妖力の源である人間を食べることができます。

 そう、男たちが捜し求めていた謎の美女の正体は、なんと妖狐が化けていた姿だったのです。

 ものは試しと任氏も化けてみると、これがなかなかの美人。

 早速、先輩たちに混じって夜の長安へ繰り出すと、噂を信じて夜道を歩いていた男をたぶらかして人気のない場所へ誘い、妖術をかけて腹に収めることができました。味をしめた任氏は上手に化ける練習をしては人間を食べて妖力を蓄えました。

 元々才能があったのでしょう。二本だった尻尾が三本に増えたときには長安一化け上手な妖狐になっていました。

 満月がのんびりと長安を照らしていた夜のことです。任氏はいつものように衛兵の目を盗んで長安を囲む城壁を飛び越え、自分が縄張りにしている街区に忍び込みました。

 城壁の外に住処があるのは不便に思えますが、城壁の中は人外にとって非常に危険な場所。長安には道教や仏教、ゾロアスター教にマニ教、果てはネストリウス派キリスト教の寺院まであって、そこには神やら仏やらの力を借りて妖怪を退治する人間が大勢いるからです。

 路地裏に入って素早く周囲に誰もいないことを確かめると、任氏は人間に変化しました。

 黄昏を映す清流のようになびく黄金の髪、その下には画家がこぞって絵の題材にしたがること間違いない端麗な容姿。その豊艶な身体つきといい、絶世の美女と歴史に名高い中国四大美人たちと十分に張り合える、いやいや下手をすると勝ってしまうほどの美しさでした。



「お、来たな」



 人通りの少なくなった表通りを鼻の下を伸ばした獲物を求めて歩くこと十数分。任氏は背後から何かが近づいてくる気配を感じました。

 ちらりと振り返るとロバに乗った男が見えます。

 年の頃は二十を半分過ぎたほど。髪はボサボサで髭は伸び放題、つぎはぎだらけの服を着ていて少々不潔そうでしたが、身体は日焼けしていて筋骨たくましく、まさに健康そのもの。

 実に、うまそうな人間です。



「獲物として申し分ないじゃないか」



 任氏は肉の味を想像して思わず舌なめずりをしました。白く透き通った肌に赤い舌が映えます。

 ロバに追い抜かれそうになった瞬間、ここぞとばかりに十八番である流し目を送りました。ただでさえ妖美な任氏が色目を使ったのですから、それはもう鬼に金棒、天狗に団扇です。この男もご多分漏れず目を奪われてしまい、乗っていたロバから転げ落ちそうになりました。

 その滑稽な姿に任氏が笑いを堪えていると、男はばつが悪くなったのかそそくさとロバを進めてしまいました。

 妖狐である任氏なら男を追って喰い殺すことができるでしょう。

 ですが、とどめをさす前に悲鳴でも上げられたら、たちまち住民が何事かと家から飛び出し、次に詰め所から衛兵が、その次にはおっかない退治屋がすっ飛んで来ます。

 一度だけ任氏も逃がしそうになった獲物を襲ってしまってひどい目にあったことがあり、それからは獲物が無防備になっているところに妖術をかけて襲う確実な手段をとることにしています。



「さすがにやりすぎたかな、こりゃ」



 任氏は残念そうに苦笑してから再び獲物を探そうと歩き出しました。

 ところがどうしたことでしょう。先ほどのロバに乗った男が今度は前方からやって来るではありませんか。男は任氏に舐めるような視線を送っていましたが、そのまますれ違ってしまいました。

 はて、と任氏が首をかしげていると……お察しの通りです。男を乗せたロバが後ろから来て、また任氏に目をやりながら追い越していったのです。



「…………」



 そんなことが四回も続いて、さすがに任氏も男のどうしようもなくじれったい行動にあきれてきた頃、



「あなたのような見目麗しい方が、なぜお供もなしに夜道を歩いているのですか? 危ないじゃないか」



 と意を決したのか、ようやく声をかけてきました。すかさず頭を切り替えた任氏は口元を袖で覆って艶かしい目つきで男を見上げます。



「私の周りにいるのは軽薄な男ばかり。今日も用事で遅くなったのに送ってくださる方は誰もいませんでしたの。あなたは……私を見捨てないでくださる?」

「それはお気の毒に。この鄭六、困っている女性を見捨てるほど堕ちてはおりません。こんなのろまでは美人のおみ足の代わりになるか分かりませんが、よろしければお乗り下さい」

「まあ、嬉しい」



 鄭六と名乗った男は任氏をロバに引き上げて自らの後ろに座らせると、家はどこかと訪ねてきました。

 心の中でほくそ笑む任氏は応対しつつ、両手を前にいる鄭六に絡めつかせ、豊満な胸を彼の広い背中に押し付けます。

 ああ、羨ましい。



「鄭六さん。あなたはこの辺りで出回っている妙な噂をご存知?」



 耳元でとろけるような言葉をささやいてやれば、哀れな獲物はビクリと跳ね上がります。



「知っているが……そ、それが何か?」

「私、ペルシャ女に似ていると思いません?」

「たっ、確かに言われてみれば似ている気が……」

「ふふ。冗談ですわ。でも、屋敷に着いたらお礼にたっぷりと、一晩中もてなして差し上げますわ」



 鄭六はただうなずくばかりです。もう釣り針にかかったのと同然。後は引き上げて食すだけです。

 任氏は簡単な妖術をかけておくと、背に耳を押し当て目的地に到着するまで狂ったように踊る心臓の音を楽しみました。

 そうこうする内に二人を乗せたロバは草がぼうぼうと茂った荒地に着きました。ここは火事で屋敷が焼け落ちて以来放置されていたおかげで人が寄り付かず、誘惑した男を食べるのに最適な場所となっているのです。

 妖術をかけられた鄭六には土塀に囲まれた厳めしい屋敷に見えていることでしょう。



「さあ、こちらへ」



 ロバを降りた任氏は荒地の奥へと誘います。草を掻き分けて屋敷跡まで行くと、前もって盗んでおいた酒で鄭六をもてなし始めました。

 任氏は変化や幻影を見せるといったことは得意でしたが、反面、金縛りや相手を眠らせるといった妖術は苦手でした。そこで、獲物を酒に酔わせて精神的に隙を作らせることで、妖術にかかりやすくさせていました。

 酒精の強い白酒が杯に注がれ、鄭六は促されるままにそれを飲み干していきます。元から日に焼けて赤かった顔はさらに赤くなり、舌は油を塗ったように回り始めました。



「あなたのお名前を聞いておりませんでしたな。よろしければ私めに教えていただけませんか?」

「任氏。任家の二十番目の娘です」



 任家とは焼けてしまった屋敷を持っていた一族の名です。火事があってからは一家離散の憂き目に遭ってしまったとか。

 任氏はこの土地を使うようになってからそのことを知り、気の毒に思ったのか、それからは自らを任氏と名乗るようになりました。元々野狐だった任氏には名前がなかったので、ちょうど良い機会だったのかもしれません。



「ずいぶんと立派な屋敷に住んでいらっしゃいますなぁ。私の家なら五十軒ほど入ってしまいそうですよ」

「まあ、大げさですわ」

「はっはっは、失敬失敬。それはそうと、今日はこんなに遅くまでいったいどのような用事があったのですか?」

「私は姉と一緒に教坊に勤めていますの。今日はその稽古で」

「ほう、教坊! 噂は聞いていますよ。何でも舞踊教練所の名門中の名門で、世界中から美女が集まってくるとか。いやはや、すごいですな!」



 酒気を帯びた鄭六は手を叩いて褒め称えます。任氏もまんざらではない様子。



「教坊には去年入ったばかり。まだまだ未熟です」

「そう謙遜なさらず。ぜひとも私の前で踊って欲しい!」



 実はかつては酒だけを飲ませていたのですが、誘ってきた男たちは気を引こうと話ばかりしてまったく酔わないどころか、ひどいときは強引に押し倒そうとしてきます。

 そこで、どうしたら男を効率よく酔わせられるかと任氏が思案していた際、偶然市の酒楼で客が舞踊を眺めながら酒を飲んでいる場面に出くわしました。

 素晴らしい舞踊を見た男たちはすこぶる気持ち良くなって、面白いくらい酔いが回ってしまいました。この有様を見て、これは良い! と任氏は真似をしてみることにしました。

 狡賢さに定評のある妖狐の癖になかなか生真面目な性格をしています。

 最初は見よう見真似で練習していましたが、人の姿に慣れていることもあってそれなりに様になりました。上達するにつれてのめり込んでいき、ついには教坊に忍び込んでそこの練習に混じる始末。

 そのかいあってか、任氏の舞踊は妖狐の間でも評判になり、彼女自身もちょっとした自慢にしていました。もちろん、当初の目的も果たせています。

 おっと……話を戻しましょう。鄭六に懇願された任氏は夜空に浮かぶ満月を背景にして立ち上がり、ゆっくりと両腕を広げました。



「では、音楽が虫の音なのはご愛嬌」

 

 静かな月のように始まる舞。

 見たこともない舞に鄭六は杯を持った手を宙に止めました。

 任氏の舞踊は一通りの型にはまっていますが、どのような流れにするかはその時の気分で好き勝手に決めてしまいます。つまり、その場限りの即興なのです。

 流れるように進む動きは決して豊かな肉体を主張するわけでもなく、ともすれば類まれなる美貌を持ったことに戸惑い、それを懸命に隠そうとしている印象さえ受けます。

 ですが、端々に挿入されている息が詰まるほど壮絶な色気が、一連の動作が自らの美しさを最大限に強調するために計算されたものであることを物語っていました。

 緩やかだった舞は次第に激しい、妖獣の卓越した身体能力を生かした踊へと移っていきます。

 右へ左へ目にも留まらぬ速さで飛び跳ね、宙で一回転。任氏の舞踊と虫の音、妖術にかかっている鄭六には見えないはずの満月。三つが溶けて鄭六を不思議な世界へといざないます。



「おお……」



 夢のように流れる時間。長かったのか短かったのか、それは見ていた鄭六だけでなく踊っていた任氏にも分かりません。

 始まりと同じように舞踊は静かに終わり、服がすれる音も止みました。



「これでおしまいで……え?」



 顔を上げた任氏はギョッとしました。

 普段ならここで拍手喝采、あらん限りの美辞麗句を投げかけられるのですが、鄭六は口を半開きにしたまま固まっていたのです。酒で満たされていた杯は地面にひっくり返っています。

 慌てて声をかけても鄭六は黙ったまま。それどころか、眉間にしわの山脈を作って唸りだしました。まるで狐にでも取り付かれたかのように。

 酔っ払ったかどうか分からないので、妖術をかけるわけにもいかず、かといって獲物を前に逃げるのは惜しく、任氏は八方塞がりです。



「もう我慢できん!」



 突然、任氏の首筋をザラリとした刺激が襲いました。任氏は驚きのあまり尻尾を出してしまいそうになります。

 刺激の元はなんと鄭六の無精髭でした。彼が妖狐の目をもってしても認識できないほどの素早さで抱きついてきたのです。

 白酒特有のきつい匂いを漂わせながら言葉を絞り出しました。



「任氏さん、惚れちまったよ。どうか私の……いや、俺の妻になってくれ」



 ああ、何ということでしょう。

 噂を信じてちょいと楽しい思いをしよう、などという考えは鄭六の中からとうに吹き飛んでいました。彼は任氏に燃えるような恋をしてしまったのです。相手が人間ではなく妖狐であることも知らずに!



「へ…………はぁっ!?」



 まさか食べようとしていた対象に求婚されるとは思ってもみなかった任氏は大慌て。

 苛立たしいやら恥ずかしいやら訳が分からなくなって、とにかく鄭六の腕から逃れようともがきました。

 ところがどうしたことでしょう、いくら振りほどこうとしても腕はビクともしません。それどころか、逆にきつく抱きしめてきます。



「離してください!」

「嫌だ。妻になると承諾してくれるまで絶対に離さん」

「これではお楽しみができませんよ!」

「夫婦になればお楽しみなどいつだってできるではないか」

「離しなさい! このっ、離せ!」

「嫌だ!」



 化けていることを疑われぬよう、上品な言葉遣いと振る舞いをしていた任氏も、押し問答をしている内に余裕がなくなって本来の性格が出てきてしまいました。

 それでも鄭六は離そうとしません。



「ええい、しつこいやつめ!」



 とうとう任氏の堪忍袋の尾が切れました。

 渾身の力を込めて鄭六を蹴り飛ばすと、変化を解きます。穢れなき肌に獣特有の毛が生え、端麗な顔は狐のそれへと変わっていき、あっと思う間もなく妖狐に戻りました。

 三本尾の妖狐は妖獣の中でも弱い存在ですが、妖術を使えるまでに長生きした狐です。その大きさは人間の大人を超えていて、何よりも怒りの形相がすさまじいものでした。

 目を吊り上げ、牙をむき出しにして唸り声を上げる姿は、しりもちをついて見上げる体勢になっていた鄭六にはさぞ恐ろしく見えたはずです。



「やい、鄭六! これが私の真の姿だ。お前の惚れた任氏だ。しかと目に焼き付けろ。焼き付けたな? これでも好きだ、妻になってくれと言えるか? 言ってみろ! さもないと私の胃袋に収まることになるぞ!」



 怒鳴り声が長安の闇へ消えていくと、一匹と一人の間に沈黙の幕が下りました。

 任氏が放つ殺気に怯えてしまったのか、虫の音は聞こえてきません。かすかに、どこぞの屋敷で行われている酒宴のざわめきが風に運ばれてくるだけです。

 鄭六はしばらくあっけに取られていましたが、開いていた口を閉じると妙に安堵した表情を浮かべました。

 任氏はひるみました。

 それまで見てきた、食べられる寸前の人間の表情といえば、皆一様に恐怖に歪んだ表情だったからです。怖がらなかったのはこれが初めてです。

 胡坐をかいた鄭六は無精髭に手をやりながら任氏の、体毛と同じ金色の瞳を真っ直ぐ射抜きました。酒を飲ませたはずなのに、鄭六の瞳にはどこに濁りがありません。



「任氏さんの正体は狐……なるほど、これなら人並みはずれた美しさにも説明がつく。それに、噂のように一夜の相手を求めていたのではなく、生きる糧として男を求めていたのだな。あなたが無節操な女じゃなくて安心したぞ。よしよし、何度でも言うぞ。任氏さん、俺の妻になってくれ」



 どうしたことでしょう。鄭六は美女の正体を知って恐怖におののくどころか、嬉々として変わらぬ愛を告白したのです。今度は任氏があっけに取られて顎を下ろす番でした。



「たわけたことを抜かすな! お前が惚れているのは私が美女に変化した姿。私は醜女だろうが老婆だろうが、どのような姿にだってなることができる。お前の愛する任氏はどこにもいないのだぞ!」



 任氏は理解できないと首を振りました。

 無理もありません。任氏は今まで鄭六を獲物として見てきました。つまり食料としか考えていなかったのです。

 同類である妖狐どころかただの狐ですらない相手に、いきなり愛をささやかれては困惑するだけです。人間だって調理しようとまな板の上に置いた魚に、突然求愛されたら困ってしまいます。

 一方、鄭六は出会ったときからつい先ほど正体を明かされるまで、任氏を同類である人間だと思っていました。それだけではなく、人間に変化していた任氏の美しさがあまりにも強烈だったため、任氏が狐に戻っても変わらぬ愛を貫くことができているのです。

 この認識の差が双方の感情差につながっているのでしょう。



「任氏さんが変化したものなら、どのような姿でも、本来の狐の姿をしていようとも愛してみせるさ。それは、どの姿を愛しても俺が心を奪われた女を愛していることに違いはないからだ。しかし……ほれ、狐の姿だって可愛らしいではないか」

「ひゃっ!? さ、触るな!」



 任氏の戸惑いなどちっとも分からぬ鄭六は目を細めて任氏の頭に手をやり、優しくなでなでしました。不意をつかれた任氏はあられもない声を出してしまい、反射的に不埒な男を前足で突き飛ばしました。

 景気良く吹っ飛ばされてしまった鄭六ですが、それでいてなお打ち付けた腰をさすりながら任氏に迫ってきます。



「怒った姿もなかなか良いなあ。いや、違うか。表情、歩く姿勢、ちょっとした仕草、目の瞬き。任氏さんの全てが素晴らしいのだ!」



 歯が浮きそうな甘い言葉を、ためらいもなく吐く鄭六の表情はどこか恍惚としています。

 任氏は泣きそうになりました。どうしてこんな男を引っ掛けてしまったんだろう、と。



「い、いいか、鄭六。お前は人間。私は妖狐。食われ、退治される関係なのだ。例えるなら水と油のようなもの。天地がひっくり返ろうとも、決して交わることのできぬ種族なんだぞ!」

「俺には難しいことは理解できん。分かるのは、自分がどうしようもなく任氏さんを好きになってしまった、ということだけだ。人間? 妖狐? それが何だ! 惚れるきっかけは必要でも、愛することに理由などいらん。あなたを愛することに妖狐もくそもあるか! 種族の違いなどという些細な問題は愛の力があればどうにでもなる。さあ、わがままを言わずに妻となってくれ!」

「わがままを言っているのはどっちだ、狂人め! 種族うんぬんは抜きにしても、私はお前みたいに馬鹿でしつこい雄は大嫌いなんだ! 嫌いなやつを伴侶に選ぶほど私は優しい雌ではない。結婚など絶対にしないぞ。お前は嫌がる女を力ずくで自分のものにして、世間とやらに恥を晒すつもりか? それとも、寺院に駆け込んで妖狐を妻にする手伝いをしてくれ、と泣きつくのか?」



 やけくそになった任氏は、あざけるように言ってからしまった、と顔を歪めました。異形と人間の、本来なら越えるべきではない境界が見えなくなっている鄭六なら、この程度のことはやりかねないと思ったからです。



「任氏さんが嫌っていようが、そうでなかろうが、俺の態度は変わらん。ただひたすら、あなたが縦にうなずいてくれるまで言い寄るだけだ。まあ……」



 ここで鄭六は任氏から視線をはずして、何かを振り払うように首を動かしました。ですが、それも一瞬のこと。すぐに視線を戻します。そこにあったのは、怖いほど真剣で、向けられただけで切り裂かれてしまいそうな表情でした。



「確かに俺は狂っているのかもしれない。普段の俺なら、いくらなんでも畜生に向かって結婚してくれと言わないからな。たとえ金も地位もなく、寄ってくる女さえいなくても。だが、もう手遅れなのだ。元に戻れないくらい、任氏さんに惚れ込んでしまった。あなたを見つめているだけで、我が身が今にも……今にも燃え上がってしまいそうになる! この気持ちを無にしてなるものか。もし、狂っている間しかあなたを愛することができないのなら、俺はずっと狂ったままがいい。全てを、人間であることを捨ててもかまわない。それほどに愛しているのだよ、任氏さん!」



 任氏に届くように、自分に言い聞かせるように、鄭六は身体の奥底に溜まっていたものをぶちまけます。その口から溢れ出たのは恐ろしいまでに純粋な恋心、剥き出しの欲望。

 馬鹿馬鹿しい、と任氏が鼻で笑おうとした刹那、彼女の胸で何かがかすかに揺れ動きました。任氏が揺れ動いたものの正体をつかめないでいると、理性がささやきかけます。もはや鄭六を相手にしてはならぬ、と。



「狂人の世迷言に付き合っていられるか! 勝手に惚れて、勝手に燃え尽きてしまえ!」

「ど、どこへ行く。待て、待ってくれ!」



 任氏は逃げるようにして、いいえ、本当に逃げ出すために宙へ舞います。鄭六は慌てて後を追いますが、あいにくと空を飛ぶ術など習得していません。

 逃げる妖狐と追う人間の差はぐんぐんと開いていき、やがて鄭六が茂みに足を取られて転びました。



「待ってくれぇ……!」

「頭を冷やして考え直せ、たわけが」



 土にまみれ草に溺れ、なおも追いかけようとする鄭六に一言だけ投げかけると、任氏は一目散に城外へと飛んでゆきました。背に悲痛な叫びを受けても、一度たりとも振り返ることはありませんでした。

 やっとのことで住処にしている洞穴へたどり着くと、任氏は市場から盗んできた高価な絹織物の中へ顔をうずめます。

 お気に入りの織物の心地よさが、糸のこんがらがった脳をそっと癒し、胸の高鳴りを鎮めてくれました。



「くそっ、とんだ夜になってしまった」



 しかし、お気に入りの織物をもってしても、心にわだかまる違和感を取り除くことはできませんでした。

 もちろん、初々しい乙女のように鄭六の愛にときめいたわけではありません。任氏とて長生きした狐、野狐だった頃には雄と交わって子を成した経験だってあります。妖狐の仲間と浮名を流すこともしばしば。

 では、この違和感はというと……それは任氏にも理解できないのです。いえ、正確には理解したくないのです。

 これまで任氏を愛してきた雄の中で、上っ面だけでも鄭六ほど愛していると必死になって伝えた雄はいたでしょうか? 全てを投げ打ってでも愛すと言った雄はいたでしょうか? 答えは否です。

 鄭六の一途な愛を妖狐としての理性が拒否しても、雌としての本能が少しだけ、ほんの少しだけ反応してしまったのです。



「誰が食い物に心を踊らされるか……」



 獲物であり天敵でもある人間の言葉に心を揺さぶられてしまったなど、妖狐としての誇りが許しません。ですが、否定しようとすると、胸が疼いて切なくなってしまいます。なまじ言葉を理解できてしまうばかりに、と妖狐になって得た知性に八つ当たりしてもどうしようもありません。嫌悪感が任氏に襲い掛かり、底知れぬ迷宮へと突き落とします。

 織物の中でもがき苦しんでいる内に、いつの間にか人間の姿へ変化していたことに、任氏は気づきませんでした。

 十日ほど住処にこもっていても、任氏の気分どん底のままでした。さすがに、このままくすぶっているのは不味いと、気分転換に長安の市へ出向いてみることにしました。

 長安は中央の朱雀門街によって庶民が住む長安県と官僚が住む万年県の二つに分けられていて、そのどちらにも市がありました。

 市には生活に必要な様々な品を扱う店からうまい料理や酒を出す酒楼まで、まさになんでもそろっています。特に大帝国となった唐の各地から運ばれてきた珍しい品々は妖狐である任氏の目も楽しませてくれます。

 人間に変化した任氏は目立つ顔を白い布で隠して、二つの市の一つである西市をあてもなくブラブラと歩きました。大道芸人の剣舞に目を見張り、西域で作られた硝子の杯を覗き込めば、曇っていた気分に段々と日がさし始めます。ホッと肩の力を抜いて着物屋に入ろうとした時、最も聞きたくなかった声が背中にぶつかりました。



「任氏さん? 任氏さんじゃないか!」

「げぇっ、鄭六!?」



 ジャーンジャーンジャーン

 見ると、鄭六が手を振りながらこちらへ向かって走ってくるではありませんか。

 任氏は咄嗟に逃げようとしますが、時すでに遅し。十日前とは逆に背中から抱きつかれてしまいました。はらり、と顔を覆っていた布が落ちます。



「離せ!」

「あれからずっと探していたんだ。頼む、聞いてくれ。俺はあなたに言われたとおり頭を冷やしてみた」

「私を諦める決心をしたなら言わなくてもいいぞ!」



 人でごった返す市の真ん中でむさ苦しい男が女に抱きついたのですから、もう大変です。しかも女の方は稀代の美貌の持ち主ときますから、みんな興味津々、一斉に視線が集まりました。

 任氏は妖狐であることがばれないかと、背中を冷たい汗で濡らします。

 鄭六は相変わらず任氏の気持ちなどおかまいなしで、晴れ晴れとした表情で笑いかけてきました。その顔はずっと探していたという言葉通り、わずかに頬がこけているようでした。



「それで気づいたんだ。やはり任氏さんが大好きだ。あなた以外の女はもはや女に見えない。男ではない何かさ」



 鄭六のごつい顔に似合わないきざったらしい台詞に、一匹と一人を囲んでいた群衆がどよめきます。

 任氏の心臓もドキッと飛び跳ねますが、こちらはすぐに胸が嫌悪感で一杯になります。



「お前が何を言っても私の心は変わらない。大嫌いなんだよ! それが分かったら二度と私の前に現れるなっ!」



 ありったけの力を込めて鄭六の手を振りほどきます。

 ですが、人垣が邪魔で逃げることができません。鄭六はどれだけ拒まれようと、懲りもせずに歩み寄ってきます。

 のんきなことに酒楼の二階からは酔っ払いたちが下の喧騒を見下ろし、鄭六の求婚が成功するか失敗するかを賭け始めていました。今のところ失敗する方に人気が出ているようです。



「任氏さん……」

「それ以上近づくんじゃない! 近づくと……喰う、喰い殺すぞ!」



 もはや周囲の目を気にしている余裕はありません。迫り来る鄭六を止めることができるはずの、人間と人外の差を端的に表した言葉を言い放ちました。

 人の形をしていても居丈高に存在を主張する犬歯が鈍い光を放ち、誰もが見とれる金の瞳は妖しい光を帯びます。

 見守っている人々は任氏の異様な言動に首をかしげ、一部の武芸や術に覚えがある人間は身構えました。たまたま通りがかった大詩人の杜甫は近くの店から紙と筆を借りてきて一心不乱に何やら書き出しています。



「だったら喰ってくれ」



 妖狐がすがった切り札。

 それに対し、人間の男はこともなげに言い放ちました。



「愛する者に殺されるなら悔いは残らん。むしろ喰われてしまえば、俺の身体は任氏さんの血となり肉となり骨となる。つまりは永遠に一緒にいられるということではないか! 俺は喜んで我が身を差し出すぞ。さあ、思う存分喰ってくれ!」



 自分の言葉に酔った鄭六は今すぐ喰ってくれ、と言わんばかりに両手を広げます。

 わあっ、と人だかりから歓声が沸き起こました。酒楼の二階からはかけ金やら酒のつまみやらが降ってきます。

 進退窮まった任氏は焦燥に駆られて周囲を見、次に鄭六の憎々しい笑顔を見たところで、視界が赤一色に染まりました。

 美しい姿からは想像もつかない、背筋が凍りつくような雄叫びを上げて鄭六に襲い掛かりました。

 六尺の偉丈夫に組み付く華奢な身体。

 突然のことに対応できず、鄭六はバランスを崩して仰向けに倒れます。息を飲む観衆。全てが緩慢に動く中、任氏は犬歯を見せ付けるように口を開き、鄭六の首筋に……



「何故、喰わないんだ?」



 牙は皮膚に触れるか触れないかのところで止まっていました。

 一撃で首を食い破る勢いで襲ったのに、なぜかここで止まっているのです。口の中に鄭六の汗の匂いが満ちてきます。幾度となく男を食べてきた任氏にとってはお馴染みの匂いでしたが、今日に限っては吐き気すら覚えました。

 喰らってしまえば大嫌いな鄭六に付きまとわれなくてすむ、もう悩む必要がなくなる。そう考えますが、同時に分からない、分かりたくない何かが現れて任氏を引き止めます。



「ああ、任氏さんは本当に良い香りがする。この香りを包まれながら喰われるなんて、俺はとんでもない幸せ者だ。喰うなら早く喰ってくれ。ずっとこのままでいるのも悪くはないが」



 噛み付いている姿勢では鄭六の顔は見えませんでしたが、声から察するにとても幸せそうな顔をしているでしょう。

 想像して怒りがこみ上げてきた任氏は、顎に力を入れて皮膚を切り裂き、その下の動脈をも粉砕しようとしますが、どうしても胸が疼いて鄭六を傷つけることができません。

 胸をかきむしって疼きを止めようとしても、一向に身体は言うことを聞いてくれません。人間一人喰えない自分が不甲斐なくて、目頭が熱くなります。



「任氏さん?」



 ポタリ。

 首筋に落ちた、唾液ではない熱い水。その存在に鄭六が気づきます。



「泣いているのか?」



 獲物に同情されてしまった!

 鄭六にとって当然の言葉が凶器となって、妖狐としての誇りをずたずたにします。

 頭の中は、情けないことに大嫌いな鄭六のことで一杯になり、視界は天地がひっくり返ったかのように歪んでいました。もう何も考えられなくなり、また理性のささやきに従ってしまいました。

 鄭六から飛びすさった任氏は人の姿のまま、野次馬たちを突き飛ばして逃げていきました。しばしあっけに取られていた鄭六は、見物人に蹴られてようやく走り出します。

 鄭六の背中を見送った人々が騒ぎ立てるのをよそに、後に詩聖と称えられる男は書き終えた詩に満足しながら、独りつぶやきました。



「あれほどまでに愛してくれるのだ。もったいなくて喰えんだろうに」



 走りに走って、いつの間にか任氏は見知らぬ街区に迷い込んでいました。

 人気のない道を鄭六から逃げ切ることだけ考えて走り続け、背後に目をやると憎き鄭六の姿は影も形もありませんでした。

 安堵したのもつかの間、突如として二頭の犬がわき道から飛び出しました。



「ひっ!」



 古来から犬は狐の天敵と決まっております。

 任氏も例に漏れず犬が大の苦手でした。妖狐となっても犬の恐怖は消えず、今もあまりの恐ろしさに本来の狐の姿に戻ってしまいました。

 慌てて元来た道を戻ろうとしますが、たちどころに路地裏に追い詰められてしまいます。

 吠え立てる犬に続いて現れたのは三人の男。

 どうやら任氏が最も恐れていた退治屋たちのお出ましのようです。いずれも道教を信奉していることを示す道袍の服装をしていて、二人は長い槍を持ち、一人は呪文がびっしりと書かれたお札を懐から取り出しました。



「西市に妖狐が現れたと聞いたときは、もう行っても間に合わぬと思っていたが……ふふふ、わざわざそちらから出向いてくれるとは、ご足労痛み入る。お礼として、せいぜい苦しまぬよう退治してくれるわ」



 どうやらお札を持っている道士がリーダーのようで、鶴のように細い身体から耳障りな甲高い声を出してあざけってきます。

 任氏は何とか逃げようとしますが、犬に吠えられ身体がすくんでしまい、空へ逃げることもできません。



「わ、私を甘く見ると、痛い目にあうぞ!」

「ふふん、最近多発している行方不明事件はお前らの仕業だろう。夜闇に紛れないと本領を発揮できない木っ端妖獣が、長安一の道士である黄皓老師に楯突こうなど千年早いわ!」



 精一杯の虚勢を張っている姿に加虐心をくすぐられたのか、黄皓老師なる道士は実にいやらしい顔をして舌なめずりしました。

 その表情に任氏は全身が総毛立つのを感じました。ですが、どうしたことでしょう、身体が総毛立ったまま動かなくなってしまいました。

 顔を動かすことも叶わず、目だけ動かして退治屋たちの方を見ると、黄皓老師の手にあるお札が怪しい光を放っているではありませんか。

 点断術。

 いつか妖狐の仲間から聞いた話が蘇りました。道士たちは自然界に存在する気の力を操ることで、方術や仙術と呼ばれる特殊な術を使います。点断術はその一種で、相手の身体の中を流れる気を遮断して金縛りにかけるのです。

 万事休す。頭をよぎるのは、西市で見かけた狐の毛皮。殺されてあんな風にされてしまうのか、そう考えただけで全身から汗が噴き出してしまいます。



「ほれほれ、泣き叫べ、命乞いしろ! 命乞いして美女に変化するなら、房中術の練習台に使ってやってもよいぞ。物の本には百年生きた狐は美女の姿のまま男と交わることができると書いてあるからな」

「だ……れが、お前ら……と……」

「泣き叫ぶ方を選んだか。それも良かろう。もっとも、泣き叫んだところで妖獣を助けに来る愚か者など、長安にいるはずが……」

「ここにいるぞ!」



 あざ笑う黄皓老師の背後で、声高らかに宣言した男は猛然と突進をかけました。

 道士三人組を跳ね飛ばし、続いて吠えまくっていた二頭の犬も跳ね飛ばし、動けないでいた妖弧の前でようやく停止します。



「大丈夫か、任氏さん」



 驚く任氏に力強く声をかけたのは、そうです、鄭六その男以外に誰がいましょうか。

 さっそうと現れたイケメン、とかっこよく表現したいところですが、汗臭い上に顔がごついので残念ながら無理です。しかし、この汗の量こそが任氏を愛して必死に追いかけてきた何よりの証拠なのです。

 黄皓老師の手からお札が離れたおかげで、自由になった任氏は言われるままにうなずいてしまいました。

 良かった、と鄭六は表情を崩しますが、すぐかばうように背を向けて道士たちと対峙します。

 そそり立つ背中が目から入って胸まで落ちた瞬間、任氏の心にわだかまっていた何かがスッと消え去りました。そして、心は舞踊を始めます。

 今まで経験したことのない、まさにこれから作られようとしている即興舞踊。獲物に助けられた、という罪悪感のなんと小さなこと!



「生臭坊主どもめ。彼女がこの鄭六さまの妻と知っての狼藉か!?」

「坊主ではない、道士だ! 仏教なんぞと一緒にするな!」



 よほど癪に障ったのでしょう。二人の弟子に助けられながら黄皓老師が怒鳴り散らします。

 任氏も勝手に夫婦にするな、と言いたいところでしたが、頭の中が忙しくてそれどころではありませんでした。



「貴様、その妖弧に憑かれているな。退魔術をかけてやるから大人しく……」

「勘違いしてもらっては困る。俺は好きで憑かれているのだ。退魔術などいらん」

「は?」



 堂々とした鄭六の言葉に、意表を突かれた黄皓老師は鼻白みました。自分は狂っている、と言われたも同然ですから、当たり前の反応でしょう。

 任氏にとっては今更の言葉でしたが、なぜか頬が熱くなるのを感じました。



「ええい、邪魔立てする者には容赦するな。やってしまえ!」



 弟子たちは慌てて槍先を鄭六に向けます。が、途端に真っ二つに折れてしまいました。

 任氏です。任氏が疾風のように鄭六の前へ躍り出て、鋭い爪でなぎ払ったのです。

 任氏の抑えになっていた犬たちは、よほど跳ね飛ばした鄭六が怖かったのでしょう。とっくに尻尾を巻いて逃げ出していました。



「この男はお前らの獲物じゃない。私の獲物だよ」

「ひょえ〜」

「お助けー!」

「こらっ、どこへ行く。戻って来い! 破門にするぞ!」



 弟子たちも任氏に恐れをなし、情けない悲鳴を置き去りにして逃げてしまいました。



「形勢逆転だな」

「長安一の道士とやら。先ほどのような奇襲はもはや通用しないぞ。お前が術を唱えるよりも早く、私の牙が喉笛を切り裂く」

「う……今日のところは見逃してやる。だが、次があると思うなよ!」



 一人取り残されてしまった自称長安一の道士も、あたふたと弟子の後を追う羽目になりました。しかも、ありきたりな捨て台詞付きで。



「おととい来やがれ!」



 鄭六が常套句で締めを飾ると、騒がしかった路地裏にようやく静寂戻ってきます。

 任氏と鄭六はどちらが言うでもなく向き合いました。このとき、任氏は目の前の男が表情を崩すと、無骨な顔に似合わない可愛らしいえくぼができることに気がつきました。

 身体中がざわめいて止まりません。



「任氏さん」

「な……なんだ?」

「走っている途中で聞こえたんだが、百年生きた狐は人と交わることができるというのは本当なのかい?」



 任氏の持つ三本の豪奢な尻尾が、問答無用で鄭六に襲いかかりました。



「お前ってやつは! それしか! 言うことが! ないのかっ!?」

「痛っ! でも、もふもふで気持ちがいいな」



 もう台無しです、この男は。

 気が済むまで尻尾を叩きつけると、任氏はプイとそっぽを向いてしまいました。鄭六はやっとのことで起き上がると、頼りなく無精髭をなでて妖狐の背中に声をかけます。



「すまない、気がつかない男で。俺はどうも女の心が分からなくて……いつも呆れられてしまう。どうしようもないと思い、開き直って我を通していたが、またやってしまったな」

「お前が謝ることを知っていたとは、大発見だよ」

「そりゃどうも」

「褒めてなんかいない」



 任氏は相変わらずそっぽを向いたまま受け答えしました。鄭六もそんなことおかまいなしに話を続けます。



「しかし、泣かれたことはなかった。驚いたよ。原因を考えてみても、情けないことにさっぱり分からん。よって、任氏さんを愛していることに変わりはないが、少しだけ違う言い方をしてみることにした」

「ほう、どんな?」

「お楽しみができなくてもかまわない。ただ一緒にいるだけでいい。それだけで、俺は満足だ。人間である俺の一生など、妖獣である任氏さんにとってはほんの一瞬に過ぎないだろう。だからこそ……だからこそでもないか。とにかく、あなたの時間をほんのわずかだけでいい、俺にくれないだろうか?」

「さっきと言っていることが正反対だな。百年生きた狐は人と……何だっけ?」

「欲望に忠実なだけさ。そりゃ、俺だってあなたのような人とお楽しみができるなら、あの生臭坊主に弟子入りしたってかまわない。だが、俺には過ぎたことだ。任氏さんが傍にいてくれるだけで、俺は満たされてしまう。涙が当たって、やっと気づくことができた」

「自分勝手だな」

「ああ、それが俺だ」

「実に自分勝手なやつだ。私に勝手に惚れて、勝手に慎んで、おまけにどうしようもない馬鹿……でも」



 ここで、ようやく任氏が振り向きます。

 笑っていました。

 鄭六と出会った夜と同じ、百人が百人とも美人と言うこと間違いない、人間の女の姿で笑っていました。どちらかといえば苦笑に近いものでしたけれども、任氏の美しさを損ねることはまったくありませんでした。



「狐のままの私を守ってくれて嬉しかったよ、鄭六」

「初めて名前で呼んでくれたな」



 鄭六は名前を呼ばれたことに感動したようですが、任氏はつい笑ってしまいました。気づいて欲しかったのはそこじゃないのに鈍感な雄め、とつぶやきながら。

 どうして笑われたのか理解できない鄭六は首をかしげます。



「どうして笑う」

「お前らしくていいな、と思っただけさ。まあいい。こう見えても狐は義理深い。きちんとお礼をしなければ気がすまないんだ。だから、私も少し馬鹿になって勝手にお前の傍にいてやることにする」

「……ほ、本当か?」

「私ばかり悩むのは不公平だからな。たまには鄭六のように本能のまま生きてみたい。まあ、迷惑でなかったらの話だが」

「迷惑なものか! ああ、ああっ! おおおおおっ!」



 信じられない、と言わんばかりに身体を震わせていた鄭六は、感極まったのか突然走り出しました。路地裏から飛び出していく鄭六を、ため息をついて任氏は見送ります。

 五分ほどして、頬にあざを作った男が帰ってきました。



「お帰り」

「皇帝にこのめでたい話を伝えようと思って宮殿へ行ったら、衛兵に追い返されてしまった」

「……いいさ、これが私を愛してくれる鄭六だ」



 任氏が自嘲するように肩をすくめていると、優しく抱き付かれました。

 肺から空気をゆっくりと追い出し、それから大きく息を吸うと、鄭六の匂いで身体が満たされます。西市で感じた吐き気はなく、これまで食べてきたどの男の匂いとも違います。自分を愛してくれる雄の匂い、そう考えると心が安らぐのが分かりました。

 鄭六も同じ様な心境なのでしょうか。ゆっくりと確かめるように言葉をつむいでいきます。



「夢じゃない。ちゃんと感触がある、良い香りもする。ここに任氏さんがいて、俺と暮らしてくれると言った。はあ、天に昇ってしまいそうな気分だ」

「幸せ者め。気を抜いて、私以外の雌に興味を持ったら遠慮なく喰うからな」

「言っただろう。任氏さんに喰われるなら本望だって」

「馬鹿……」



 こうして、任氏は鄭六の家へ転がり込むことになりました。金のない男が一人暮らしをしていた家ですので、狭い汚い古いの三拍子がそろっていましたが、それまで薄暗い洞穴で暮らしていた任氏にとってさほど問題にはなりませんでした。

 問題になったのは家事全般の方です。

 ご存知のように任氏は妖狐なので人間の家事などさっぱりです。かといって、女中を雇う金など家中ひっくり返してもないので、当初は鄭六が家事を行っていたのですが、



「任氏さんの料理が食べたい」

「おいおい、私が妖狐であることを忘れたのか? 料理なんか一度も作ったことないぞ」

「任氏さんのような美人が作るのだ、美味しいに決まっているさ」



 任氏の料理を食べたいと言い出した鄭六は屁理屈を言い、駄々をこねて彼女を台所に立たせようとするではありませんか。

 しぶしぶ包丁を手に取った任氏ですが、何をどうしたらよいのかさっぱりです。仕方なく、隣の家の台所を覗き見し、鄭六に手取り足取り教えてもらいながら食材と格闘します。

 余談ですが、中華鍋に油をたっぷり入れて豪快に炒める現代の中華料理と違い、唐代では煮たり生で食べたりすることが多かったそうです。

 そんなこんなで完成した任氏の人生ならぬ妖獣生初の料理は、残念ながら努力と結果が比例するものではないという事実を立証してしまうものでした。

 鶏肉とサトイモの煮込みは、具が炭化して器の底に張り付いています。瓜の汁は、得体の知れない黒い物体が黄色い汁に浮いています。無事なのは買ってきた具なし饅頭だけ。まさに食材の墓場という惨劇に、任氏はうなだれてしまいました。

 さすがの鄭六も箸を持ったまま固まっていましたが、決心がついたのか煮込みだったものを器から剥がして口に含みます。



「おい、無理して食べなくてもいいんだぞ」

「な、何を言う。任氏さんが作った料理が……不味いわけ……ないだろう!」



 真っ青になった顔からは脂汗が絶え間なく流れ、箸を握る手は震えています。それでも鄭六は食べることをやめませんでした。やがて並んでいた食器が全て空になります。



「ほらな、美味い料理だった……」

「鄭六っ!?」



 完食した鄭六は力尽きて倒れました。笑顔を崩さなかったのは、彼なりの意地でしょうか。

 なんにせよ、ちゃんと食べられる料理を作ろう、と任氏が決意を胸にしたことは確かです。

 任氏の苦労は続きます。ある日、鄭六が今生の別れと見紛うあいさつをして仕事に出かけると、入れ替わりに鄭六の親友である韋崟が尋ねてきました。

 人間の生活に慣れてきた任氏が応対したのですが、この男も任氏の美貌に一目ぼれ。



「任氏さん! ぜひ、私の女に……」

「馬鹿な雄は鄭六だけでたくさんだよ!」



 押し倒そうとするのですから、任氏は大激怒。気が済むまで鍋で殴ってから外に放り出しました。

 正気に戻った韋崟は自分の痴態を謝ったので、以後は鄭六も合わせて交友を温めたり温めなかったりしたのだとか。

 また、別の日には任氏と鄭六が西市へ買い出しに行くと、突然衛兵に呼び止められてしまいました。

 任氏は正体がばれたのかと思って妖術を唱えようとしましたが、衛兵たちはなぜか鄭六を捕まえようとします。衛兵は任氏を指差して言いました。



「こんなに美しい女性は皇族か貴族の方に決まっている。お前はどこの屋敷からこの女性を誘拐してきたのだ!?」



 任氏があまりにも美しかったのか、鄭六が薄汚れた犯罪者に見えたのか、恐らく両方でしょうが、本人たちにとっては迷惑なことです。幸い、前の騒ぎを知っていた人がいたので事なきを得ました。

 一年ほどが過ぎて任氏が食べられる料理を作れるようになった頃、鄭六は武官に登用されて金城県へ出張を命じられました。

 出世の道が開けたと鄭六は大喜びで、任氏もまんざらではない様子。ささやかな宴会をした後、韋崟に見送られて一匹と一人は長安を出発しました。

 長安を立って三日目のことです。馬嵬という宿場町へ向かう途中に、皇帝の御狩場がありました。任氏たちが差し掛かったとき、運悪く御狩場で猟犬の訓練が行われていました。妖狐の存在に気づいた猟犬の群れは、鄭六が制止する間もなく任氏に殺到し、噛み殺してしまいました。

 鄭六は任氏の亡骸を抱いて泣き叫びました。ですが、いくら泣いたところで任氏は帰ってきません。鄭六は泣く泣く長安へ帰り、韋崟に任氏の秘密を明かして、二人で手厚く亡骸を葬りました。

 やがて鄭六は出世して総監使になりました。家もたいそう栄えたのですが、結婚だけは生涯せず、任氏への愛を貫いたそうです。





















「……これにて任氏伝はおしまい、と」



 全てを語り終えた藍は、ひざの上の黒猫を優しくなでました。

 途中まで瞳を輝かせて聞いていた橙は、無事に任氏と鄭六が暮らし始めたところで安心したのか、静かに眠っていました。時折、ナイトキャップに隠れた耳がピクリと思い出したかのように動きます。その耳に向かって、藍はそっとささやきました。



「ごめんな、橙。嘘をついてしまって」



 それから寝ている橙を起こさないよう、ゆっくりと抱きしめます。千年以上昔に自分を愛してくれた男にしたように。



「後世に伝わっている任氏伝は最後の部分だけ間違っているんだ。だけどね、私だけが知る任氏伝は、まだ教えるわけにはいかないんだよ。今の橙に教えたら真実は戸惑いや不安、不審、悪い種しかあなたの心にまいていかないだろうからね。そう、橙がもっと修行をして、世の道理を学んで、楽しいことや辛いことをたくさん経験したら教えてあげよう。それまではお預けだ」

「はい……藍さま……」



 寝ぼけたのでしょうか。藍のささやきに橙が返事をしました。

 微笑み返してから、藍は目を閉じました。藍の意識は千年の時を落ちていきます。





















 春風心地よい平城京では桜の花が満開になっていました。

 こんな日にすることはただ一つ、花見にかこつけた宴会です。日頃の政争を忘れ、そこかしこで貴族たちが宴会を催していました。

 貴族だけではありません。人間たちから離れたところでは、妖怪やら鬼やら異形が集まっていました。本来、人間と異形は喰われ退治される仲ですが、美しい桜の前では一時停戦。双方見て見ぬふりをして宴会を楽しんでいます。



「式が欲しいわ」



 そんな料理を囲む輪の一つで、妖怪の賢者として恐れ敬われている八雲紫が不満そうに口を開きました。鬼用の酒精の強い酒を飲んだのか、頬はうっすらと桜色に染まっています。



「そいつはまた突然だねぇ。一体全体どういう風の吹き回しだい?」



 二本の角が可愛らしい伊吹萃香が杯を口に運びながら笑います。

 こちらの頬は桜色を通り越して熟れた林檎の色です。もっとも、普段の様子とあまり変わりはありませんけど。

 ただ、可愛らしく酔っ払っている外見に騙されてはいけません。なにせ彼女は人々から恐れられる鬼なのですから。

 それにしても、ここの宴会メンバーのすさまじいこと。

 萃香と同じ鬼の星熊勇儀、強力な花の妖怪である風見幽香、少し離れて縮こまっている射命丸文でさえ風の申し子鴉天狗です。

 日が違ったら、平城京を攻め落とす軍議を行っているのかと間違われそうです。



「ここに来る途中、貴族の集まりの中に藤原清行が見えたから、挨拶がてらちょっかいを出したのよ」

「あー、紫を目の敵にしてる陰陽師だっけ?」

「出世街道まっしぐらの嫌なやつよ。私を退治して、次期陰陽頭の候補として箔を付けたいんでしょ。しかもね、最近えらい美人の奥さんをもらったらしいの。酒を飲みながら我が世の春が来た、って感じで有頂天よ。腹が立って軽く皮肉を言ってやったら、あいつなんて返したと思う?」

「えっ? うーんと……」



 ずいっ、と紫に詰め寄られた萃香は、酔った頭で慎重に言葉を選びます。

 勇儀はその様子を酒の肴に、文は自分に火の粉が降りかからないかと冷や汗をかいて、幽香はずっと桜の花を見上げながら、三者三様で見守ります。



「『今度会ったときがお前の最後だ』?」

「違うわよ! 『そういえば、八雲殿は未だに独り身でありましたな。妖怪の賢者ともあろう方が伴侶を見つけることができないとは思えない……ああ、実にもったいない。私が二人でする楽しみ方をたっぷり教えて差し上げるので……』ですって! あんの助兵衛がっ!」



 紫の咆哮は虚空で藤原清行なる男を串刺しにします。

 鬼の二人は腹を抱えて笑い出し、文は笑わぬよう必死に頬をつねりました。幽香は花にしか興味がない風を装っていますが、しっかり口元を手で押さえて肩を震わせています。

 彼女たちほどの力を持てば、もはや人間に退治されることはほとんどありません。なので、帝に仕える陰陽師でさえ暇つぶしの相手としか思っていないのです。

 暇は長くつぶせるほど良い。一般の妖怪と違って人間とそれほど血生臭くない関係が保てるのは、圧倒的な力の差のおかげなのでしょう。人間にとっては命がけの関係であることに変わりありませんが。



「いやはや、妻を迎えたばかりで音に聞こえた大妖怪に手を出すとは、なかなか勇気のある人間だね。その勇気に免じて寝床に入れてあげたらどうだい?」

「冗談? スキマに蹴落としてやったわよ」



 笑いが収まらない勇儀の提案を紫は一蹴します。

 この日の夕方、法隆寺にある五重塔の最上部で満身創痍の男が救助されたとか。



「でもね、考えたのよ」

「男運の悪さを?」

「独り身のことをよ。一人だと何かと不便だから、伴侶は問題外として、優秀な式神くらいは欲しいかなって」

「なるほどねぇ」

「だから、能力の高い妖怪に式神を憑けて自分の式にしたいのよ。そうね、私にふさわしいほど強くて、主人への忠誠心に満ち溢れていて従順で、お料理が上手で……」

「紫の式とやらはさぞかし気苦労が多いだろうね。でも、面白そうだ。少なくとも暇つぶしにはなるかな。どうだい、知勇兼備で情に厚い伊吹萃香なんて?」

「嫌よ。鬼はいつも酒臭いもの」



 萃香がかっこつけて立候補しますが、冷たくあしらわれてしまいました。

 年月を経た妖怪は一筋縄ではいかない個性豊かな面々ばかりですから、これは仕方がないでしょう。

 ふて腐れた萃香は勇儀と二人して鬼差別反対ー! と音頭を取ります。



「私としては幽香くらい強くて穏やかな妖怪がぴったりなのだけれど」

「ふふ、殺すわよ」



 酔っ払い二人組を無視した紫は、花を見続けている幽香に擦り寄りますが、露骨な殺意の塊を投げつけられて断念。

 もっとも、幽香は顔以外がとても穏やかと表現できたものではありません。式神として束縛されることなど真っ平ごめんなのでしょう。



「むー、鴉天狗でも悪くはないかしら。足が速いし」

「私ごとき鴉天狗が八雲様の式神など到底勤まるものではありません! 鬼の下で働かせてもらっているご恩もありますし」

「使い走りにされている、の間違いじゃない? つれないわね」



 またしても振られてしまった紫は不満そうに蘇を口に放り込みます。

 蘇とは当時作られていた乳製品で、平たくいえばチーズです。薬などとして食されていたこともあったようですが、やはり酒のつまみにするのが一番ではないでしょうか?



「鴉天狗は情報に通じているのでしょう? だったら、代わりに候補になりそうな妖怪を挙げてくださいな」

「は、はいっ! えー……」



 一難去ってまた一難。ホッとしていた文は目を白黒させて、頭の中の帳面を慌ててめくっていきます。



「白狼天狗などはいかがでしょう。非常に従順ですよ」

「二回遊んだだけで壊れちゃいそうね。もっと強いの」

「では、八岐大蛇は」

「強いけど酒臭い。鬼と同じじゃない」



 なかなか紫のお気に召す妖怪が挙がりません。妖怪の種類が少ないことも原因の一つでしょう。聖白蓮の活躍や橋姫の話はまだまだ後の時代のことですから。

 文は次の帳面に手をつけます。



「ならば、大陸の妖怪だと太歳星君に白面金毛九尾の狐……」

「太歳星君はともかく白面金毛九尾の狐というのは?」



 ようやく食いつきました。

 文は堰を切ったように知識を披露します。白面金毛九尾の狐というのは、古代殷王朝から南天竺、周王朝まで大陸を又に掛けて活躍、もとい暗躍した大妖獣です。美女に化けて国王を骨抜きにし、暴政を敷かせて国を滅ぼそうとしたのです。その恐ろしさは、傾国の美女なる言葉ができたほどで。

 実は、この白面金毛九尾の狐は遣唐使船に乗って日本へやってきます。玉藻前と名乗って大暴れするのですが、これはまだ後の話です。



「話だけ聞くと強力で狡猾、そして野心高い。興味をそそられるわ」

「まだ生きてるとは限らないじゃん。それに、私らみたいに大酒飲みだったらどうするんだい?」



 紫はすっかり乗り気ですが、萃香が意地悪っぽく指摘します。先ほど断られたことを根に持っているのでしょう。



「そのためのスキマよ。私が直々に検分してあげる。待ってなさい、白面金毛九尾の狐!」



 やおら立ち上がって叫ぶと、紫はスキマを作って飛び込んでしまいました。スキマの先はもちろん大陸でしょう。

 仕事を果たした文は満足そうに手を振り、残りの面々はあきれた様子で見送ります。一人いなくなってできた隙間を暖かい風が吹き抜けていきました。



「善は急げと言うけど、花見の途中なのに無粋だねぇ」

「ありゃ、相当酔ってるね。大丈夫かな?」



 萃香はごろりと横になってふて寝、勇儀は杯に酒を注ぎつつも若干心配そう。

 大陸には何度か行ったことがあるとはいえ、探す相手の情報がほとんどないのですから、心配するのも無理はありません。



「さあ? 大陸で命果てるなら、彼女もそれまでの妖怪だったということかしら」



 これまで桜にご執心だった幽香が悠然と動き出しました。紫が座っていた位置まで行って手をかざすと、地面から少々季節はずれな仙人草が生えて花を咲かせました。桜色の世界で場違いに存在する白い花を、花を操る大妖怪はうっとりと見つめました。

 仙人草の花言葉。それは安全と無事です。



「でも、帰ってこないと、私と本気で遊べる友達が一人減ってしまうわ。そんなつまらないこと、許さないんだから」



 大陸で唐が大帝国を築いたのと時を同じくして、お隣の島国では律令制が花開いていました。俗に言う奈良時代です。





















 任氏と鄭六が長安を出発してから三日が過ぎました。

 任氏は馬を操ることができないので、いつぞやのように鄭六の後ろに乗っています。韋崟が用意してくれた馬の乗り心地はすこぶる良く、一匹と一人は快適に旅を続けていました。

 鄭六などは手綱を握っているくせに酒を飲んでいます。

 次の宿場町、馬嵬までの道は川沿いになっていて、河原の木々から鳥のさえずりが聞こえてきました。

 何とものどかな街道ですが、安使の乱が起きた後に長安を追われた玄宗皇帝たちがこの道を通り、馬嵬で楊貴妃を殺してしまう痛ましい事件が起きてしまいます。



「いやぁ、春の足音を聞きながらのんびりと二人旅なんて、素晴らしい!」

「酔っ払って馬から落ちても知らないよ」



 街道を通る人がいないので、鄭六は大声ではしゃいでいます。彼なら人がいてもはしゃぎそうですが。

 それをたしなめる任氏も、初めての長旅にどこか心が浮ついています。

 彼女は長安を中心に活動していましたから、目的地である金城県どころか長安のある漢中平原を出たこともありません。



「何を言う。愛する人がいて、心地の良い春風が吹いて、これで酒を飲まなければいつ酒を飲む? ささ、任氏も飲め飲め」

「はいはい」



 鄭六はもう絶好調。任氏に酒の入ったひょうたんまで勧めてきます。かつてだったら憤慨したかもしれませんが、今ではこんな光景も微笑ましく思えてしまう任氏なのです。



「のんびり行くのも悪くはないか……」



 目の前の酔っ払い男から林と田園が広がる平原へ、さらに遠くに霞む秦嶺山脈に目を移した瞬間、今まで経験したことがないような悪寒が背中に走りました。

 誰かに見られている! 直感的にそう感じましたが、周囲には誰一人、動物さえいません。おかしなことに、ついさっきまで聞こえていた鳥の鳴き声も嘘のように消えてしまったのです。

 鄭六の肩に置いた手がジワリと汗ばみます。



「鄭六、何か感じないか?」

「任氏がどうしようもなく美しいと感じるが」

「違うっ!」



 鈍感な鄭六は相変わらず役に立ちません。酔っているなら、なおさらのことです。

 嫌な気配が任氏たちを包み込みます。

 妖獣としての勘が上空に危険なものが潜んでいると警笛を鳴らしました。もう逃げられない、そう考えた任氏は馬から飛び降ります。



「逃げろ」

「ん、どうしたんだ?」

「いいから逃げるんだ、鄭六!」



 まだ何が起きているか気づいていない鄭六を無視して、任氏は鄭六が乗っている馬の尻に爪を立てます。



「任氏!?」



 いきなり尻を引っかかれた馬は、鄭六を乗せたまま暴走を始めました。鄭六は馬の背にしがみつくだけで精一杯。愛する人の名を叫んで林の中へ消えていきます。

 愛してくれる人間を見送った任氏は、ゆっくりと視線を上げていきます。

 本当は見るのも恐ろしいのですが、嫌な気配をこちらに引き付けるためには仕方がありません。ありったけの勇気をかき集めて喉に送ります。



「覗き見なんて趣味が悪い。出てきな!」

「暑い暑い。スキマから覗いているだけなのに、こっちまで暑くなってきちゃうわ」



 空に人が現れました。宙が音もなく裂けて、そこからむせ返るような妖気がドッと溢れ出たのです。

 その中心にいた女は、妖狐である任氏ですら息を飲むほどの美貌の持ち主でした。

 見慣れぬ服の下は、病的なまでに透き通った肌。見紛うことなき妖怪です。妖怪は懐から扇を取り出し、恐ろしいまでに整った顔を隠します。一見優雅な動作ですが、一挙一動に妖気がまとっていて、任氏を威圧してきます

 任氏は恐怖しました。今すぐ逃げ出したい。狐の姿に戻って四本の足で駆け出したい、そんな衝動に駆られます。ですが、頭の隅に頼りない男の顔がチラリと現れたので、何とかその場に踏みとどまることができました。



「妖狐を探して大陸へ来たのに、見つけたのは違う妖狐。でも、同じくらい興味深いわ。人間と異形の恋愛なんてめったに見られないもの。人間は畏敬と違って脆く、短命。恋愛の結末は悲劇しかないのに、どうしてあなたたちは愛し合うのかしら?」

「あの男は愛し合うことに理由はいらぬ、って開き直っているからさ。探し人がいるんだろ、私なんかにかまっていないで、早く捜しに行ったらどうだい? 大陸は広いよ」

「若いっていいわね。無茶なことができて」



 まずい、興味を持たれてしまった、と任氏は舌打ちしました。

 長生きして力を蓄えた妖怪の原動力は好奇心です。興味を持つまでは鈍いのですが、興味を持ったからには飽きるまでとことんやる。力が強く、頭も回るので物事を常人が思いつかない方向へ進めてしまうのです。その相手が人間や自分より下と見なした妖怪ならなおのことです。



「これは同じ異形からの忠告。中途半端な気持ちで愛し合っていると、そのときが訪れたら立ち直れなくなるわよ。あなたは妖獣とはいえ、妖怪の仲間。心は大切に、ね」

「私は難しいことは分からない。頼むから人探しを続けてくれ。私たちだって旅の途中なんだ」

「そうね、私が試してあげてもいいかしら。あなたの覚悟を」

「おい……」



 よほど格下に見られているのか、まったく聞く耳を持ってくれません。

 任氏は焦り、怒りが込み上げてきます。かといって妖気の質といい量といい、宙に腰掛ける美女を力ずくで追い払えるとは思えません。逆らわず、辛抱強く話をするしかないのです。

 それにしても、いくら見知らぬ妖怪を相手にしているとはいえ、紫の態度は先ほどまでいた宴会の場とはずいぶん違います。大妖ならではの強引さも、裏を返せば心の落ち着かない様子を表していると解釈することができます。いったい何が彼女を駆り立てているのでしょうか。



「ちょうどお腹もすいてきたし、今からあの殿方を襲うわ」



 パチン。

 話はおしまい、と見せ付けるように音を立てて扇をたたんだ美女は、妖しく微笑んで告げました。その微笑みは見えざる手となって任氏を締め付けます。



「やめろ、鄭六は私の獲物だ!」

「ならば守ってみなさい。命をかけて守る価値があると判断したのならね。そうそう、申し遅れました。我が名は八雲紫。日出づる国の妖怪よ。余所者にしては私の発音、綺麗だと思わない?」

「知るか! 私は任氏、鄭六を襲う長安の妖狐だ!」



 やけくそになって任氏は妖術を唱えます。任氏の漢服から三本の尻尾が飛び出し、その先端に青白い炎が灯りました。妖狐が得意とする狐火です。

 一方、紫は鄭六を襲うと宣言したくせに、空中に腰掛けたまま微動だにしません。

 任氏は狐火を出しつつも、頭を回転させて対策を練ります。こちらは紫という妖怪についてまったく情報を持っていません。せいぜい、馬鹿みたいに強いらしくて神出鬼没だということくらい。

 向こうは妖狐を探していると言うのですから、当然妖狐について知識があって、もしかしたら相応の対応策を用意しているかもしれません。

 自然と足が震えて歪んだ笑みがこぼれます。武者震いなどではなく、純粋な恐怖によるものです。



「とんでもなく不利じゃないか、畜生っ!」



 任氏の掛け声を合図に、狐火が尾を離れて紫に向かって加速します。紫は指を一直線に動かしただけ。

 攻撃は成功するかのように見えましたが、任氏はかまわず宙へと舞います。案の定、狐火は現れたスキマに喰われました。

 その隙に任氏は鋭い爪で切りかかりますが、これも紫がスキマへ消えたのでかわされてしまいました。

 任氏は止まらずに木々の合間を縫って飛び続けます。少しでも止まったら、背後から現れて攻撃されてしまうと考えたからです。神経を研ぎ澄ませて、すぐに攻撃できるよう再び狐火を出します。



「どこだ、どこにいる……」

「ここよ」



 地面に付き従っていた任氏の影、そこから声と共に弾幕が飛び出しました。圧縮された妖気の塊が正確に任氏へと吸い込まれていきます。



「っ!?」



 口が裂けたのか胃が破裂したのか、うめき声の代わりに血の泡が飛び散りました。服が瞬時にボロ切れと化し、鄭六が見とれた美肌が血と肉で化粧されます。

 墜落しそうになるのを任氏は必死で堪えて、四方八方に反撃の弾幕を発射しますが、木を撃ち倒し地面をえぐっただけに終わりました。

 血と一緒に妖力も流れ出し、もはや天と地の違いさえ不明瞭です。フラフラと惰性で飛ぶ任氏に、今度は後背から弾幕が襲いました。

 硬いものが砕ける音で意識を取り戻すと、任氏は大地に横たわっていました。

 すぐ横には無表情で見下ろす紫の姿。全身を激痛と敗北感が音もなく蝕みます。



「三本尾の妖狐にしては頑張った方ね。その程度の傷なら死にはしないから安心なさい。じゃ、私はこれから食事をしてくるから、あなたはゆっくり休んでいることね」

「う……あ」



 紫の声が耳に届き、歩き始めた姿が目に入った瞬間、激痛が嘘のように感じられなくなりました。

 代わりに感じたのは、心臓を握りつぶされたような激痛以外の何か。虫けらのように一瞬で打ち負かされたという敗北感もなくなりました。代わりに現れたのは、妖狐のプライドよりも優先すべきもの。

 任氏の全てが肺を動かし、声を生み出します。



「待て……待ってくれ……」



 任氏は奇跡的に無事だった右手を動かして紫を追います。地を虫のように這ってでも声が届く範囲にいようとします。



「このっ、待てったら……」

「あら、何かしら?」



 紫はスキマを使おうとしませんが、足を止める気配もまったくありません。

 春の緑を血で染めながら、任氏は自分を倒した妖怪を呼び止めようとします。任氏が這った跡はさながら玉座に続く真紅の絨毯と化していました。



「鄭六を喰うなら……私を喰え」

「妖狐より人間の方が美味しいわ」

「他の妖狐は知らないが、私は美味しいかもしれない……それが嫌なら、せめて鄭六と一緒に殺してくれ」

「陳腐な言葉ね。でもいいわ。無益な殺生はあんまり好きじゃないから、あなただけを食べてあげる」



 紫がくるりと振り向きます。任氏を喰うために。

 恐怖が先に逃げ出してしまったのか、迫り来る大妖怪を見ても不思議と恐ろしくありませんでした。むしろ、鄭六顔負けに自分勝手で気まぐれな紫を振り向かせることに成功した喜びと、その傲慢さに対する怒りがない交ぜになって、笑い出してしまいそうでした。



「さてと、どこからがいいかしら? 頭? それとも尻尾?」

「死なないように喰ってくれりゃ、どこからでもいいさ」

「死なないように?」

「ああ……私は喰ってもいいと言ったが、命をくれてやるとは言ってないからな」



 無表情だった紫の顔がつまらなそうなものへと変化していきます。怖気づいて命が惜しくなったと思われたのでしょう。

 それでも、任氏は話し続けました。全身の穴という穴から汗を流れ出ようと、顔が泥に犯されようとかまいません。



「やっぱり薄汚い雌狐より、人間の方がいいわね」

「勘違いしないでくれ。鄭六を守ることができるなら、あんたにこの命をくれてやってもかまわないさ」



 紫は首を傾げました。



「だけどな、私が死んだら鄭六はこの世の終わりだと言わんばかりに嘆き悲しむ。しかも、あの馬鹿のことだからそのまま勢いで自殺するか、餓死するまで泣き続けるだろうよ。つまりは一緒に殺すのと変わりはない。私が懇願できるのは一緒に殺すか、鄭六の代わりに私を殺さないように我が身を喰わせるかのどっちかなんだよ」



 紫の魔性の瞳をにらみつけながら、任氏は言い放ちました。

 もはや懇願する態度ではありません。ですが、気を張り詰めていないと、出血と忘れかけていた全身の痛みのせいで意識を手放してしまいそうなのです。

 それに、こちらの方が性にあっていましたし、自分を振り回して良いのは鄭六ただ一人だけ。いきなり現れて自分勝手に振舞う紫に付き合うのは真っ平ごめんです。



「私の覚悟はこれくらいだ。鄭六の覚悟は知らん、本人に聞いてくれ。私ができるのはここまでだからな」



 後は勝手にしろと言わんばかりに話を切り、見上げる形になっていた首を元に戻します。

 紫は無反応。しばらくの間、双方無言となりました。春を謳歌する鳥の声は聞こえず、任氏の荒い息と川のせせらぎだけが聞こえる、異様な時間が流れます。

 突然、紫の笑い声が乾いた漢中平原の空気を切り裂きました。息を潜めていた鳥たちは、不気味な笑い声に驚いて一斉に逃げ出します。

 任氏は身構えようとしましたが、力が入らなかったので諦めました。



「うふふ、面白い答え。あなた、自分がどれだけ愛されているのか分かっているのね」

「……そのくらい当然だろ」



 任氏は胸をなで下ろしました。

 どこがどのように紫の琴線に触れたかは分かりませんが、大妖怪のやっかいな好奇心を満たすことに成功したようです。好奇心が満たされたなら、今までのような無茶はしないはずです。

 もう大丈夫、心の中で繰り返しつぶやいて、口から飛び出しそうな勢いで騒ぐ心臓を鎮めます。



「ならば足掻いてみなさい。本能に身を任せること、諦めをつけることを知っているのなら、多くの前例とは異なる結末を迎えるかもしれないわ」



 相変わらず任氏にとって紫の話の意図は捉えにくく、まるで雲を手で掴んでいるように感じられました。

 それもそうでしょう。鄭六を救うために任氏は頭で考えて行動したのではありません。身体が勝手に動いてくれたのですから、その行動に至った経緯を褒められても、いまいちピンと来ないのです。

 ひとしきり笑うと、紫は現れたときと同じく、音もなくスキマへと消えていきました。まるで、紫という妖怪はそこに存在していなかったかのように、あれだけ充満していた妖気もきれいさっぱりなくなっています。



「おととい来やがれ」



 いつぞやの退治屋の尻に鄭六が刺してやったのと同じ台詞を任氏は吐き捨てました。強さではとても比較にならない相手でしたが。



「はあ……鄭六を探さないと」



 暴れ馬に踏み殺されてなきゃいいが、とぼやきながら任氏はゆっくりと立ち上がりました。さすがにまだ痛むものの、妖獣の驚異的な治癒力のおかげで折れていた骨はしっかりとくっついたようです。

 再び漂い出した鳥の歌声の中を、任氏は痛む足を引きずりながら進みました。

 痛みを紛らわすために、脳内で紫を十回ほど狐火で丸焼きにしてやり、死に物狂いで這いずり回ったこっちの気も知れずのんきにしているであろう鄭六も、ついでに尻尾で殴っておきました。なぜか、あの憎たらしい笑顔を殴らないと気が治まらなかったからです。

 やっとのことで街道へたどり着くと、運が良いことにお目当ての男も見つかりました。松の木に鄭六が寄りかかっているではありませんか。



「おい……」



 近寄るにつれて、世界から色が消えていきました。

 白黒となった世界で例外的に存在するのは赤。その毒々しい赤は、鄭六の胸から流れ落ちていたのです。鄭六の胸が、深くえぐられていました。



「鄭六っ!?」



 絶叫に近い悲鳴が喉から生み落とされました。任氏は鄭六に駆け寄って抱きかかえます。

 息がありました。

 ですが、たくましい身体からは想像もできないほど弱々しい息遣いです。



「鄭六! ああっ、鄭六!!」

「おお……任氏。どうした、傷だらけじゃないか……」



 鄭六は笑いかけてくれましたが、その顔は生気が失せて日焼けしていると分からないほど白くなっていました。



「私のことはどうでもいい! その傷はどうしたんだ!?」

「馬から飛び降りて……任氏を助けようと走っていたらな、うっかりやられちまった……」

「まさか……まさかっ、あの八雲にやられたのか!?」



 妖しい微笑みが任氏の頭をよぎります。血の気が失せるのと頭に血が上るのが同時に起こり、衝突した血液で心臓がどうかなってしまいそうでした。



「八雲? ああ……たぶんその八雲だ。俺がもう少し強けりゃなぁ」



 鄭六は笑い飛ばそうとして失敗し、苦痛に顔を歪めました。



「と、とにかく町まで行って医者に……」

「もう無理だ」

「あ……」



 背負おって歩こうとする任氏に向けて、鄭六はしっかりとした口調で告げました。唖然とする妖狐の頭を震える手でなでると、鄭六は子供に言い聞かせるように優しく説き伏せていきます。



「俺の身体は……俺が一番分かるよ。この傷は、もう無理だ。助からない」



 死。

 鄭六の言葉を一つ一つ理解していった先に待ち構えていた結論。その結論を受け止めた任氏の心は大きく揺れ動き、やがて身体の中に激流を起こしました。



「それでな、頼みがあるんだが……」

「いやだっ!」

「任氏?」



 荒れ狂う激流。その一端は涙となり、叫びとなります。



「私はいやだっ! こんな別れ方! あんなっ、あんな妖怪なんかに引き裂かれて終わるなんて!」

「任氏……」

「もっと鄭六と一緒にいたい、もっと一緒に笑いたい。もっともっと愛して欲しい! 私だってまだ鄭六を愛し足りないのに!」

「…………」



 獲物に愛され、獲物を愛してしまった妖狐。

 普段は態度で表すことはあっても、言葉では伝えることがなかった心の中身を、涙と一緒に吐露していきます。

 声を枯らして泣き続ける任氏を鄭六はしっかりと抱きとめました。



「置いてかないでくれ、鄭六……」

「ほら、泣きなさんな……せっかくの美人が台無しだぞ。いや、泣いている任氏も悪くないな」

「うぁっ……あっ……」

「幸せだなぁ、俺は……こんなに愛してもらえるなんて。だから、俺を幸せなまま送るために、一つ頼みを聞いてくれないか?」



 時間がないことを悟っているのか、鄭六は普段よりも簡潔に話を進めていきます。任氏は泣きじゃくりながらうなずくばかりでした。



「俺を喰ってくれ」

「えぅっ!?」



 鄭六を喰う。

 つまりは鄭六を殺して、その亡骸を腹に収めること。鄭六に近づいた目的であり、今の任氏にはとてもできないことです。

 ビクリと尻尾が跳ね上げた任氏は、首がもげんばかりに左右に振りました。鄭六の顔に熱い感情の破片がかかります。それを拭うことなく、いかつい顔にはあまり似合わない真面目で、そのくせ優しく温かい顔をして鄭六は語りかけます。



「前に言っただろう。任氏に喰われてしまえば、俺は任氏の身体の一部になることができる……そうなればずっと任氏と一緒だ。俺にとってこんなに幸せな死に方はない。俺がいなくなった後、どう生きるかは任氏の自由だが、この鄭六最後の我がままだけは守ってくれ」

「そんなの、無理っ……ぐっ」

「まったく……我がままなのはお互い様だなぁ。愛する任氏に喰われる、こんなにも喜ばしいことはないんだ。頼む、俺を喰ってくれ」



 鄭六が喰われたいと切に願っていることくらい、任氏だってちゃんと理解しています。ですが、一年前に鄭六は獲物以外の何かに変わってしまいました。もはや牙をたてることすらできないのです。それを噛み付くどころか喰ってくれだなんて、今の任氏には酷な頼みです。

 任氏が答えを出せないでいる間にも、時は残酷に一匹と一人を引き離していきました。



「すまん、もう任氏の顔が見えない。顔を近づけてくれないか?」

「待っ……て、待ってくれ……鄭六」



 鄭六の目の焦点はどこか遠くへといってしまいました。任氏は血と泥と涙にまみれた顔を額が触れんばかりに近づけます。



「あはっ、見えた見えた……任氏の美しくて優しい、素晴らしい女だよ。それに比べて俺は……最後まで付き合えない駄目な男だなぁ。こんな俺を許し……て……」

「鄭六……おい、鄭六?」



 男の目はゆっくりとまぶたが下りて、二度と開くことはありませんでした。一匹と一人で続けてきた舞踊が終わる音を、任氏は聞きました。

 絶叫。

 人のものとも獣のものともつかない、絶叫が平原に響きました。馬嵬の人々は恐れおののき、街道を歩いていた人は大急ぎで最寄の宿場町へと駆け込みました。

 やがて太陽が傾き漢中平原をこの世の終わりのように赤く染めた頃、とある松の木の下で獣が獲物をむさぼり始めました。それは飢えた獣が一心不乱に肉を喰う音とは違い、吐きそうになるのを堪えながらむさぼり喰う音でした。

 流れ出た血の一滴も逃さんとする、悲しい、悲しい音がいつまでも響いていました。









 
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

そして、『任氏伝』の真の作者様にお詫びを。

著作権は千年以上前に切れているのでお許しいただけるでしょうか、沈既済老師。



さて。本当の『任氏伝』は古代中国の唐代に書かれた伝奇小説です。

作者は沈既済。とある若者が仙人にもらった枕で寝たら、自分の一生を夢の中で疑似体験してしまった、という夢オチの古典的名作『枕中記』の作者でもあります。国語の教科書に大抵載っているアレですね。

この話は『任氏伝』をベースにして数年前、妄想の限りを尽くして書いてみたものです。藍はどのようにして紫の式となったか、後の展開は色々と考えているのですが、文章にするかどうかは決めていません。

書かないかもしれませんし、もし続きを書いてシリーズ化するとしたら、大幅に書き換えて完結させてから投稿するつもりです。恐らくは数年先のことかと。

お祭りであるにせよ、このような未完成の話を出してしまい申し訳ありません。

それでは、またどこかで。



ああ、それと一つだけ。

『任氏伝』は翻訳されたものが出版されています。図書館などにもあると思いますので、よろしければ読んでみてください。面白いです。
沈既済
作品情報
作品集:
1
投稿日時:
2011/04/01 02:24:50
更新日時:
2011/04/01 02:24:50
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