冬空の秋桜(未完)

作品集: 1 投稿日時: 2011/04/01 02:23:34 更新日時: 2011/04/01 02:23:34 評価: 4/7 POINT: 4023331 Rate: 100583.90

 

分類
使用設定は風神録まで
現実は虚構を越える
1.

 『彼女』の命は尽きかけていた。
 元より、普通であればせいぜい十年かそこらの寿命である。数十年を生き延びた『彼女』は、その仲間達に比べれば破格と言っていい。
 しかし、死は誰にも平等に訪れる。いまや『彼女』は時速二万kmというスピードで飛びながら死を迎えようとしていた。
 そのことについて、『彼女』に思うところは無い。そもそも、『彼女』はそれほど深く考える力を持たず、ただ己の役目を淡々とこなしているにすぎなかったのだ。変化に乏しいゆるやかな日々を、ただ流されるままに飛び続け、命じられるままに二五〇km下方の地表を写し続けた。それだけの毎日。
 それが、終わる。
 その時が近づいている。
 ただ、それだけのこと。
 『彼女』は死を恐れてはいなかった。死という概念を明確に理解していたわけではなかったが、終わりが近づいていることを、誰よりも『彼女』自身が知っていたのだから。
 長い年月は、『彼女』の体を少しずつ、そして確実に蝕んだ。『彼女』の自慢の眼はとうの昔に見えなくなっていたし、耳も遠くなって地表からの声はノイズだらけだ。最後に彼女に届いた声はつい最近だったが、そのほとんどが聞き取れなかった。
 昔は輝くすべやかだった銀の肌は、細かい瑕が無数についてくすんだ灰色になってしまった。かつての姿など、いまや見る影もない。
 そんな『彼女』だからこそ、いずれ終わりが来ることはとっくにわかっていた。
 そして、それでいい、と思ったのだ。
 『彼女』は、己の使命を全うした。そのことを『彼女』は誇りに思っていたし、ゆえに己の死を従容として受け止めた。既に『彼女』は失速しており、あとは落ちるがままにまかせるのみだ。きっと、その死はとても安らかなものであるに違いない。
 そう思っていた。
 だが、その思いは裏切られた。

 『彼女』の主は地上にいる。『彼女』が望む緩やかな死は、そのままでは主にとって大変に都合が悪かったのだ。『彼女』が知る由も無かったが、『彼女』は『彼女』であるがゆえに、そのまま落ちることを許されなかった。
 もし、『彼女』がそのような死を望むのであれば、『彼女』は最後に一仕事する必要があった。そのための仕組みが『彼女』には備えられており、地上からの指令一つで、本来それは為されるはずだった。
 ただ、『彼女』の衰えた耳が、その指令を聞くことができなかっただけ。
 『彼女』の主は、『彼女』の残りわずかな命を、強引に刈り取ることに決めた。
 獰猛で有能な猟犬を放ち、『彼女』の身体を引き裂いて、その心臓を抉り出そうとしたのだ。

 そのことを、『彼女』は死を間近にした者が持つ特有の直感で知った。
 血に飢えた猟犬が迫り来る。
 『彼女』の喉笛を狙っている。
 『彼女』は、死を恐れることはなくとも、暴力には脅えた。これほどに明確な敵意を、『彼女』はかつて知らない。そんな扱いを受けたことなど、今まで無かったのだ。
 初めて知る恐怖は、時をおかず別の思いを生み出した。
 許せない。
 『彼女』の心に、生まれて初めての怒りが生じた。

 これが、忠実に任務をこなしてきた自分への仕打ちか。
 仲間達よりも遥かに長く奉じてきた結果がこれか。
 報いてくれとはいわぬ。望むのは、ただ安らかで緩やかな終わり。
 それすらも、許してくれないというのか。

 怒りで身体を震わせる。が、だからといって、武器の一つも持たぬ『彼女』には、主に刃向かう術などない。『彼女』は所詮『彼女』でしかなく、彼我の差は絶望的なくらい明らかだった。
 それでも、それゆえに、『彼女』は足掻いた。怒りが『彼女』に初めての反骨を教えたのだ。これまで、ただ主の命に従うだけだった『彼女』は、最後の最後になって、ついに主へ牙をむく。
 その怒りが天に通じたものか。
 とっくに尽きたと思っていた『彼女』の姿勢制御が、咳き込むように火を噴いた。
 ほんの小さく、ごくわずかだけ。
 しかし、確かに『彼女』の軌道が変わった。猟犬が『彼女』を捉えなくなる程度には。
 哀れな猟犬が『彼女』の鼻先をかすめ、そこで爆発した。本来なら、彼女の心臓を抉るためであった衝撃は、『彼女』の目や耳を奪い、表皮を幾分か削りはしたものの、『彼女』に致命的なダメージを与えるには至らなかった。

 運命は変わった。

 『彼女』が初めて見せた意志が、それを成したのだ。
 当初の軌道から、最初は小さく、やがて大きくずれて『彼女』は落ちていく。『彼女』のままで落ちていく。
 『彼女』は、まだ知らない。
 『彼女』が選び取った運命が、これから先どのように転がっていくのか。
 その運命が、より多くの運命をなし崩しに巻き込んで、なにをもたらすのか。
 そして、その結果、世界にどんな変化を強いるのかを。
 その、落ちていく先は――――。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


 人生なんて失敗の連続だ。うまくいかないことなんて当たり前にあるし、うまくいってる時はたいてい三歩先の落とし穴に気付いていない。壁にぶちあたることもしょっちゅうで、どこかに出口があるはずだと探し回ってようやく見つけた扉には鍵がかかっている。
 そんなものだ。
 霧雨魔理沙は、常々そう思っている。目立つ外見や派手な言動とは裏腹に、物事に対しては慎重で現実的なのだ。彼女は、自らが未熟であることを承知しており、自分の得手不得手、自分にできないことも至らないところもきちんと把握している。
 ただ、魔理沙はこうも思う。
 今できないことが、将来もできないとは限らない。今日失敗しても明日には成功するかもしれない。幼い時に夢見た大空だって、今では自由に飛べるようになった。夜は必ず明けるし、冬はいつしか春になるじゃないか。
 大事なのは、前に進むことだ。
 もちろん、失敗するのは辛い。悔しい。生来負けず嫌いな魔理沙は、己の未熟さに涙を流して歯噛みすることだってある。
 だが、それでも失敗を魔理沙は恐れない。歩みを止めない。
 なぜなら、魔理沙は知っているからだ。一歩一歩を確実に踏みしめて前に進むこと。それが彼女になせる唯一揺ぎ無い正しい方法であることを。
 そのしぶとさ。諦めの悪さ。それこそが、霧雨魔理沙が知る、自分の一番の美点だ。

 とはいえ、である。
 そんな彼女でも、入念に準備した実験が失敗しまくって全く進展が無いと、さすがにへこむ。
「んー」
 魔理沙は、ペンを机に放って椅子から立ち上がった。そのまま、んーんーと唸りながら、今度はソファに倒れこむ。ばふんとクッションに顔を埋めて、ひとしきりもぞもぞとソファの上で右に左に寝返りを打つ。その様は、でかい芋虫が葉っぱの上でごろごろしてる姿にそっくりで、うら若き乙女としてはいささか慎みに欠けた。
「なーんでうまくいかないのかなー」
 独り言だった。魔理沙は、ごろりと仰向けになって、顔にかかる髪をうっとうしそうにかきあげる。
 彼女が腐っている原因は、魔法の研究である。最近のテーマは、新たな魔法物質の生成と変化。
 例えば、彼女が操る魔法の一つにオーレリーズサンというものがあるが、あれなどはその研究の一つの成果である。
 だが、あの魔法はそれなりに魔力を食うわりに、物質化が不安定で長持ちしない。防御にはそこそこに役立つが、攻撃には今ひとつというところで、魔理沙としては使い勝手があまりよろしくないのだった。そこで、今までとは別のアプローチで新しい魔法物質を創ろうと試みているのだが。
「おっかしいなあ。方向はそんなに間違っちゃいないはずなんだが」
 過熱した自分の頭を鎮めようと試みる。うまくいかないのは、どこかに大きな見落としがあるからだ。魔理沙はそれを経験的に知っている。
 だが、考えをまとめようとしても、頭の中は空回りするばかりだった。魔方陣も術式も、彼女が先刻まで机にかじりついて検証した限りでは特に齟齬は見つけられず、実験の手順を思い返しても、ミスがあるとは思えない。だからこそ魔理沙は心のうちに憤激を熾のようにちりちりと焦がしているのだ。冷静さを欠いた状態で正しく分析なんかできない。そんなことは、魔理沙自身もよくわかっているのだが、それを割り切るには彼女はまだ若すぎた。
 なお、彼女を腹立たしくもげんなりさせるのは、先ほどの実験で、材料を使いきってしまったことだ。彼女の実験は、その材料の多くを魔法の森から得る。店に売っているわけではないから、補充は常に自らの足で行わねばならない。今の季節は冬。昨晩からしらしらと降った雪で、外は一面雪化粧。材料は魔法の森特有の植物や茸、岩石などであるから、雪を掻いて探さねばならない。重労働である。
「あーもう!」
 魔理沙は叫んで跳ね起きた。根を詰めてやってもうまくいかない。物事が進まない。壁に出口が見つからない。そういう時、彼女の行動は決まっている。
 冷たい水で顔を洗う。鏡を覗き込んで、髪を綺麗に整える。鏡の中で、右向き、左向き、正面向きをチェック。オッケー。いつものふてぶてしい霧雨魔理沙だ。よれよれの服は一息に脱ぎ捨てて洗濯籠に放り込む。ぱりっと洗いざらしのシャツに着替えると、その冷たい肌触りに身震いするが、過熱気味の彼女にとっては、幾分か心地よかった。壁にかけたコートと帽子を手に取り、革の手袋とふかふか毛糸のマフラーも忘れずに。ブーツを履いて玄関の扉を開けると、さあっと涼気が魔理沙の頬を撫でた。
 雪は止んでいた。
 雲はどんよりと鉛色をしているものの、風は穏やかである。日は中天にさしかかっているが、この天気なら積もった雪も眩しくない。オールグリーン。
「よし、いくか!」
 愛用の箒を片手に、魔理沙は天を見上げて笑う。

 行き先は、博麗神社である。



 遊ぶなら外。魔理沙の中ではそう決まっている。
 魔法使いとは、本来孤独を愛する研究バカであるべきなのだろうが、魔理沙はそんな生き方はまっぴらごめんだった。単純に、人と会うのが好きだし人と話すのが楽しい。研究はもちろん大事だが、それはそれ、これはこれである。
 行き先はその日の気分次第だ。気が紛れて楽しければどこだっていい。たいていはどこに行っても面白いし、わくわくするし、退屈しない面子が揃っている。
 だが、その中でも、やはり博麗神社だけは特別だった。
 ありていに言って、ただのぼろっちい神社である。特に珍しいものがあるわけでもなく、周囲は風光明媚でもなんでもない普通の森。同じ神社であれば近年山の頂に居を構えたもう一つの方が遥かに立派で、ご利益だって期待できる。
 では、何が特別なのかといえば、そんなことはわかりきっているのだった。
「うう、寒い寒い」
 魔理沙は、身を縮こまらせて風をしのぐ。いくら防寒装備を固めても、冬の空は大変に凍みる。箒を握る手はたちまちに痺れて、飛び始めて五分も経たないのに暖炉の火が恋しくなった。
「今くらいならコタツに入って蜜柑でも食ってる頃かな」
 コタツに肩までもぐりこんで、だらだらと蜜柑の皮を剥く友人の姿を思い浮かべる。その様があまりにもリアルで、つい魔理沙は笑みをこぼした。
 何か物事につまずいた時。気分がくさくさして面白くない時。下手を打って落ち込んだ時。そういう時、魔理沙は博麗霊夢に会いたくなる。
 理由は無い。ただ、彼女と会って話がしたい。その思いがどうしようもなく止まらない。
 会って何をするというわけでもない。そもそも、そんなに気負って神社に行くことなどない。たまには成り行きで弾幕勝負をすることだってあるが、ほとんどはだらだらと喋ってお茶を飲んで同じ時を過ごす。
 それだけだ。
 ところが、ただそれだけのことが、実に心地良い。楽しい。そして、嬉しい。
 どんなに悩んでいても、彼女に会うだけで前に進めた。
 我ながら単純だと魔理沙は思う。
 だが、それでいいのだ、とも思う。
 難しく考えるのは家の中だけで十分だ。
 遊ぶなら外。
「……といっても、この寒さはかなわんな。スピード上げるか」
 魔理沙は不敵に笑って帽子を右手で押さえ、ぐっと前傾姿勢で魔力を込める。

 その時だった。

 空気が震えた。
 それが何かを理解する前に、魔理沙は反射的に身構えた。箒に溜めた魔力をぎりぎりで止める。何が起きても対処できるようにするためだ。伊達に修羅場はくぐっていない。
 最初は、遠雷にも似た響きだった。しかし、次第に強まる震動は、やがて宙にとどまった魔理沙を木の葉のように揺らして、それが決して雷なんかじゃないことを教えた。
 魔理沙は動じない。巧みに箒を操って、バランスを保つ。このあたりの技量は弾幕ごっこで培った賜物である。
 来る。
 魔理沙の直観が告げた。
 空を見上げて睨むのと同時だった。
 雲が、割れた。
 全天を覆っていた灰色の雲を裂いて、オレンジ色の火球が長い尾を引いて走った。
 魔理沙がまばたきをする間もない。その火矢が轟々と風を震わせて、まっすぐに東の彼方へと飛んでいく。そして、東の山々の稜線の中へ吸い込まれた後で、ずしん、と重々しく響いた。魔理沙がかつて聞いたことのないスケールだった。
 それを聞く前に、魔理沙は既に魔法障壁を張っていた。衝撃波が来たのはその直後、ほんのコンマ数秒の差だった。
 巨大な鉄板でぶん殴られながらシェイクされた。そう思った。これが音の塊だなんて信じられない。
 魔理沙は歯を食いしばって耐える。精神の集中を切らしてはならない。魔法は精神力にかかっている。何があろうとも動じてはならない。魔力を絶やしてはならない。障壁は悲鳴を上げて今にも弾け散りそうだったが、ミニ八卦炉をフル稼働して強引にねじ伏せた。
 どれくらい長くそうしていたのか。ふと気付けば、空はいつもの穏やかさを取り戻していた。
 ほう、と知らず息を吐いた。
 おそらくは数秒の攻防だったが、魔理沙にとっては数時間に思えた。今更のように肩はがちがちに固まっていたし、腕や背中はびっしょりと汗をかいて、吸い付いた肌着が気持ち悪い。箒を握る両の手は、あまりに力が篭りすぎて白くなっていた。
「や、やれやれだぜ」
 ようやく搾り出した自分の声が震えていて、魔理沙は苦笑する。
「何だったんだ、ありゃ」
 徐々に冷静になってくると、じわじわと彼女本来の好奇心が首をもたげた。
 何かが落ちてきた。それは間違いない。
 先の衝撃波から考えて、結構なスピードだったはずだ。
 東の空を見る。山向こうで白い煙が上っていた。どうやらそこが落下地点らしい。
 さて、あの方角には何があったか。
 そこで魔理沙は思い当たる。
 東の方には、

 博麗神社がある。

「霊夢!」
 魔理沙はフルスロットルで飛び出した。



 神社は無事だった。
 神社が視認できる程度に近づいたところで、鳥居も拝殿も形があることがわかって、魔理沙は小さく安堵する。
 しかし、実際に神社に降りてみると、そう無事でもないことがわかる。
 倒れている石灯籠。そこかしこに落ちて割れた瓦。どこから飛んできたものか、人の腕ほどもあるねじくれた枯れ木の枝が、ででんと境内に転がっている。更に見渡せば、細かい葉っぱだの砂だの石くれだのが玉砂利に混じり、積もっていたと見られる雪は中途半端に吹き払われて、一面白黒斑模様である。
 酷い有様だった。
「こりゃあ掃除が大変だな」
 他人事のように軽口を叩いた。が、その背中にじっとりと生温い汗が伝う。
 友人の姿を探す。魔理沙から見てもいろいろと人間離れしている霊夢だが、それでも一応は人間の少女である。先の衝撃波をまともに食らえば、ただではすまないだろう。
 境内を見渡しても彼女の姿は見当たらなかった。
 では家の中か、とそちらへ足を向けたところで、それに気付く。
 白い蟹がいた。
 にょっきり伸びた二本の脚が、わさわさと動いていた。
 吹き溜まりになった雪の塊から、尻から先が生えていた。白い脚の角度はきっかり六十度。毛糸の手編みは見えないお洒落。しかし、お尻にでかでかと編みこまれた大極印は、下着のデザインとしてはいかがなものか。

「ぶははははははははははははは!」

 吹いた。

 爆笑だった。
 我慢できなかった。
 脚の動きがばたばたと激しくなった。怒っているらしい。
「ああ、すまん、すまん」
 涙を拭いながら脚を掴む。そのまま、よいしょと引いた。
 すぽん、と雪の中から引き抜かれた彼女は、開口一番、叫んだ。
「なんだってのよ――っ!!」
 のよーっ、のよーっと雄叫びが木霊する。乱れた髪にいつものリボンは無く、服はいたるところボロボロ。綿雪を鼻の頭にくっ付けた彼女こそは、厳かなる博麗神社の巫女様である。
「よう、元気みたいじゃないか。この寒い中に泳ぎの練習か」
「するか」
 霊夢は、立ち上がってぱたぱたと雪を払った。
「あーもう、ひどい目にあったわ。何なのよ、あれは」
 そう言って指差す先は、先の何かが落ちた方向である。
「もしかして、あんたの仕業じゃないでしょうね」
「残念だが違うな。お前こそ何か知らないのか」
「知るわけないでしょ。いきなりでびっくりしたわよ。結界が間に合ったから良かったけど」
 ひゅう、と口笛を吹いて感嘆を表す。あの一瞬、より衝撃の中心に近いこの位置でそれを為せる者がどれだけいるか。
「さすがだな。こりゃ神社ごと吹っ飛んだかと思ったが。まあ、無事でよかったぜ」
「この程度じゃ大したことないわよ」
 それより、と霊夢は周囲へ首を巡らせてため息をついた。
「これよ。被害甚大だわ」
 普段はずぼらで掃除をサボってばかりの霊夢だが、これでいて神社の見てくれは結構気にしているのである。この惨状、彼女にとっては頭が痛かろう。
「そうだなあ、大変だなあ」
 ことさらに深刻な顔をして、魔理沙は頷いた。
「だがな、霊夢。もっと身近な被害にも目を向けるべきだと思うんだ」
 怪訝な顔で、霊夢は魔理沙を見た。
 なるほど。身近すぎて気付かないこともあるのだ。
 魔理沙は、重々しく、告げた。
「毛糸のパンツに穴が開いてるぜ」
 陰陽玉が飛んできた。


 なりゆきで始まった弾幕ごっこは、霊夢の勝ちでひとまずの決着を見た。
 常の魔理沙ならば、もう一戦挑んでいたところだったが、さすがに今は他にやるべきことがある。「今日は勝ちを譲ってやるぜ」と一歩退いた。
「で、だ」
 魔理沙は帽子のつばを直しながら言った。
「何が落ちてきたのかわからんな、こりゃ」
 神社から一里ほど離れた森の上空である。そこが、先の何物かの落下地点だった。
 上空から見下ろすと、森が無残にもえぐられて、丸くぽっかりと穴が開いてる様がよくわかる。大きい穴だった。博麗神社なら三つくらい入るかもな、と魔理沙は思う。
 周囲の木々は一様に穴の外に向かって倒れていた。あるものは折れ、あるものはちぎれ、あるものは太い根っこを晒して傾いている。その時の衝撃の凄まじさが窺えた。
 しかし、視認できるのはそこまでだ。
 辺りは、もうもうと白い煙に包まれていた。水蒸気である。落下した物体の衝撃で雪が吹き飛び、気化しているのだ。そのため、穴の中心部分は濃密な霧に覆われていた。
「全然見えないわね」
 目を凝らしていた霊夢も同調した。
「しかし、これじゃあ降りることもできんしなあ」
 魔理沙が言うのは、熱のためである。
 落ちてきたものが何なのかはわからないが、よほど熱かったに違いない。真冬だというのに、その場は二人が汗みずくになるほど蒸し暑かった。これで下に降りようものなら、燻製になってしまう。
「しょーがないわね」
 霊夢は肩をすくめる。
「じゃ、帰りましょ」
「おいおい」
 霊夢のあまりにもあっさりした態度に、魔理沙は口を尖らせた。
「せっかくの大事件だぜ。もっとこう、アグレッシブにだなー」
 要するに、何も収穫なしで帰るのはつまらないのである。
「これ以上ここにいたって意味ないわよ。どうやら山火事にもならないみたいだし、落ちてきたのが何かはよくわかんないけど、とりあえず放っといてよさそうだし。それに結界も無事みたいだし」
「いいかげんだなあ。もしかすると、今からとびっきり危険なことになるかもしれないじゃないか」
「とびっきり危険って何よ」
「あの穴からタコ型宇宙人が攻めてくるとかトカゲ型宇宙人が攻めてくるとか」
「宇宙人は間に合ってるわよ」
 素っ気無く返して、霊夢は神社へ向かった。彼女の中では、どうやらこの件についての興味を失いつつあるらしい。
 実に面白くない。不完全燃焼である。かといって、この状況からどうにもならないことは、魔理沙もわかっていた。名残惜しそうに穴を見下ろしながら、魔理沙も霊夢に続く。

 結局、その日はそれで終わった。
 危うく神社の片付けを手伝わされるところだった魔理沙だが、丁重に弾幕にてお断りした。こういう時の魔理沙は強い。逃げ足には定評があるのだ。文句なしの勝利を収めて、悠々と帰途についた。
 だが、勝利の余韻は短かった。
 我が家に帰り、家の中の惨状を知って、彼女はがっくりと肩を落とした。



 この時点で、謎の物体落下の影響を完全に把握していた者は、幻想郷内にほとんどいなかった。
 後の天狗の調査によってわかったことだが、この日、物的被害や若干名の負傷者は出たものの、幸いにも死者は出なかった。物体の落下地点が幻想郷の外れにあって、人里からは遠かったこと。また、多くの衝撃を森の木々が緩和してくれたこと。ある程度力のある者は、その妖力や魔力などによって、その衝撃自体を殺したことなどなど。そういった幾つかの好条件が重なったのだろう。
 幾分派手な始まり方をしたこの事件は、こうした予想外の被害の軽さのため、多くの者は事態がすぐに収束するものと思っていた。実際、大多数の者にとっては、落ちて割れた食器の問題であったり、農器具や藁を入れていた納屋が潰れた問題であったり、飛んだ瓦で近所の水瓶が割れて日用水が使えなくなった問題であったりしたのだ。
 ほとんどの者は、この事件の本当の恐ろしさに気付いていなかった。
 その楔は、あまりにも小さすぎて、目には見えなかった。だが、この時、確実に楔は打たれたのだ。

 そして、霧雨魔理沙は、その楔に気付かなかった一人だ。




 魔理沙が再び博麗神社を訪れたのは、それから三日後のことだった。
 魔理沙の生活環境の復旧にそれだけの時間を要したのである。例の物体の落下の衝撃は、魔法の森のおかげでかなり減衰していたものの、やはり彼女にとっては深刻な被害をもたらした。
 雪崩を起こしたマジックアイテムは、数々の偶然によって、おそらくはアイテムを作った魔術師すら想像もしなかった効果を惹き起こした。これにパチュリーのところからガメてきた魔道書が、街角で運命の人に出会った乙女のように打ち震えて反応した。
 結果、寝室の扉は菫色の大宇宙へと繋がり、ダイニングは天地が逆転して皿が天井へ落ちて割れ、珈琲の入ったマグカップは品の無いアメリカンジョークを飛ばし、ウケた窓ガラスがげらげらと笑い、勝手に生成され続ける魔方陣からは飴色の触手を持つ何かがまろび出ようとし、魔理沙はといえば、下品な台詞を五分に一回ぶちかますような低級アクション映画が五つは作れるスタントを不眠不休でこなす破目になった。
 二日目の昼、物体落下の影響を案じて様子を見に来たアリスをダンディに招き入れ、その尻を蹴飛ばして触手の相手をさせている間にとんずらを図ったのだが、結局、顔を真っ赤にして激怒したアリスによって事態は収束した。多くの魔理沙の私物が灰燼に帰したが、背に腹は替えられない。持つべきものは有能なる友人である。

 久々に飛んだ空は、吸い込まれそうに蒼く、澄み切っていた。
 快晴である。
 そして、魔理沙の心もまた晴々としていた。
 家が片付いたことはもちろんだが、思いがけず良いことがあった。研究が進んだのである。
 元々、別の用途に使う予定だった魔法茸が、この間の騒動で新しい性質を見せたのである。調べてみると、この茸の成分を使うことで新物質の生成手順を大幅に省略できることがわかってきた。まだ不明な部分はあるものの、おおよその道筋は見えてきた。そういう実感を魔理沙は掴んだ。
 そんなわけで、今日の魔理沙は絶好調だった。意味も無く宙返りしてしまうくらい気分が良い。
 天気は晴れていたが、放射冷却のせいで気温は低かった。空ならば尚更である。しかし、今の魔理沙はその冷たさすらも気持ちが良いのだ。ご機嫌である。

 博麗神社には昼前に着いた。ちょうどこれから昼餉の支度を始めるかどうか、という頃合である。これで一食浮いたぜ、と魔理沙はほくそ笑む。
 だが、境内に降り立つと、魔理沙は、おや、と首を傾げた。
 境内の雪が掃かれていない。
 足跡が無い。
 魔理沙は思い返す。昨晩降った雪は、今朝になって止んだ。つまり、この境内に今日初めて足を踏み入れたのは魔理沙だということになる。
 魔理沙は知っている。霊夢は確かにぐうたらで、掃除を始めてはすぐにサボる困った巫女だがだが、朝は早いのだ。そして、起きれば必ず境内に一度は足を運ぶはずである。
「珍しいこともあるもんだな」
 帽子を押さえて、そう一人ごちる。
 ふと、不安がよぎった。
 背筋を舐めて走り、胸の奥でとぐろを巻く真っ黒な蛇。その蛇を持て余して、魔理沙は知らず帽子をぎゅうと握った。
「もしかして、留守かな」
 そう。そういうこともあるかもしれない。
 だとすれば無駄骨である。
 神社の裏手に回る。そこが霊夢の住居である。
 庭を横切って縁側へ向かう。冬のこの時期、縁側は雨戸を閉めていることが多いが、縁側の向こうは居間である。玄関から入るよりも、こちらの方が早いのだった。
 はたして雨戸は閉じていたが、構わず魔理沙は、ばばーんと開けた。
「お邪魔だぜー」
 ブーツを脱いで上がりこむ。家主の了承など魔理沙は取ったこともなく、ここの家主もまた来るもの拒まずのいい加減さである。
 からりと障子を開けると、暗い室内に目が慣れず、魔理沙は知らず目を細めた。
「なんだ、いるじゃないか」
 ようやく目が慣れて部屋の様子がわかると、魔理沙は、よう、と片手を上げた。
「いるわよ。寒いからそこ閉めて」
 応えは布団の中からだった。ほっぺたまで布団に埋まって、霊夢は不機嫌そうに魔理沙を見上げる。
「寝坊か。いかんな。いい若いもんが真っ昼間からごろごろしてちゃあ牛になるぜ」
「ならないわよ。朝から何も食べてないんだから」
 む、と魔理沙は表情を改めた。帽子を取って、霊夢の横に座る。
「なんだ、食欲ないのか。風邪か?」
 霊夢の額に手のひらを当てた。
「ちょっと熱あるな。いつからだ」
「一昨日からかな。その時はちょっとだるいかなって程度だったんだけど」
 答える言葉にもどこかしら力が無い。ふむ、と魔理沙は唸った。
「この間、雪にもぐって遊んでたからじゃないのか」
「好きでやってたんじゃないわよ、あれは!」
 むーと頬を膨らませる霊夢。その様子を見て、魔理沙は内心安堵した。言い返す元気があるなら大丈夫だろう。そう思った。
「ま、ただの風邪だろ。しかたないな、今日は私が手厚く看護してやるぜ」
 魔理沙が得意げに胸を張ると、霊夢もくすりと笑った。
「じゃあ、早速だけど、お茶が飲みたい」
「霊夢らしいな。よし、どうせいろいろと使うから、多めに湯を沸かそう。それから、霧雨印のスペシャルな粥を作ってやるぜ」
「うーん、食欲ない」
「ダメだ。こういう時こそ栄養取っとかないとな。任せろ。格別旨いのを作ってやるから」
 勢いをつけて立ち上がる。そうと決まれば、やることはいくらでもあった。
 なに、何度も泊まっているので勝手は知り尽くしている。用意に迷うことは無い。
 厨房で手早く火を熾して薬缶をかける。湯を沸かす間に米をとぎ、ついでに自分の分も用意しようと考えた。今日はこのままここに泊まるつもりである。
「寝込んでるなら、早く呼んでくれりゃよかったのに」
「たいしたことないわよ。寝てれば治ると思うし」
「治ってないじゃないか。薬は飲んだのか」
「うん、一応。でもあんまり効かないみたい」
「安物なんだろ。いいさ、後で永遠亭に行ってくる」
「ごめんね。じゃあお願いするわ」
「寒くないか」
「うん、平気」
 普段は隙を見せない友人が、今、素直に頼ってくれる。それだけのことが、魔理沙は少し嬉しい。
 薬缶を火から下ろす。急須には心もち茶葉を多めに。お湯はたっぷりと入れて、しばらく待つ。馥郁(ふくいく)とした香りが辺りに溶けると、二つの湯のみとともに盆に載せた。
「お待たせだぜ」
 部屋に戻ると、布団の中の霊夢の顔が綻んだ。
「起きれるか」
「うん、大丈夫」
 身体を起こす霊夢は、しかし魔理沙の目から見てもやや辛そうだった。盆を置いて、霊夢の背に手を回す。ありがとう、と素直に笑いかける霊夢。それだけのことが、魔理沙は、ちょっとだけ照れくさい。
「ほい」
 霊夢ほど素直じゃない魔理沙は、そんな時、ついぶっきらぼうに振舞ってしまう。湯のみを渡す時、わずかに耳が赤いのは寒さのせいだけではなかった。
 そんな魔理沙の様子に気付いたかどうか。湯のみを両手で受け取った霊夢は、本当に嬉しそうである。
「まだちょっと熱いぞ」
「いいのよ。熱いお茶好きだから」
 目を細めて湯飲みを傾ける霊夢。そんな彼女を眺めながら、魔理沙も湯のみを手に取った。
「最近、見なかったわね」
「ああ、やることがいろいろあったんだ。お、これあの時のだな」
 コタツの上に置かれていた新聞に目が留まった。手に取って広げてみる。
 号外とあった。幻想郷に謎の物体落下、各所で被害甚大、といかにも仰々しい。
「あれ」
 そこで魔理沙は首を傾げた。
「これ、あの穴のとこの写真だろう。なんで謎の物体とやらが写ってないんだ?」
 新聞に載る写真である。上空からの一枚だった。
 あの時とは違い、白い煙は写っていない。おそらく、熱が冷めた後に撮った写真なのだろう。なので、穴の中心部もよく見える。しかし、その穴の中身は空っぽだった。
「そうなのよ。どうも落ちたやつはこっちには無いみたいね」
「こっちに無いって、じゃあどこにあるんだ」
「そりゃあ、決まってるでしょ」
 霊夢は、ひょいとどこか遠くを指差して言った。
「そうか、結界の向こう側、か」
「そう。あの辺ってちょうど結界の境目あたりなんだけど、多分、落ちてきた物がまだ幻想入りしてないのね」
「なんだ。すると、落ちてきたのは謎のままなのか」
 つまらん、と魔理沙は新聞をコタツの上に放る。
「あれだけ派手な登場しといて姿も見せないなんて、目立ちたがり屋なのか恥ずかしがり屋なのかわからんな」
「悪いことしたって自覚があるんでしょ。あんたよりマシってことよ」
「品行方正だぜ」
「いつぞや紅魔館で強盗やって新聞にスッパ抜かれた時、自分の載った新聞を嬉々として見せびらかしに来たのは誰だったかしら」
「さあて、そいつが誰だったかは知らんが、あの写真はなかなか美人に撮れてたな。天狗もたまには良い仕事をするもんだ」
 そうして、二人でくすくすと笑い合った。
 やがて、霊夢は肩をすくめて、ふう、と息を吐く。
「ごめん、ちょっと疲れちゃった。少し休むわね」
「あ、すまん。いいよ、飯が出来たら起こすから」
 湯飲みを霊夢から受け取る。霊夢は魔理沙に微笑みかけて、もそもそと布団に潜り込んだ。
 その笑みが、魔理沙には気になった。

 それは、霊夢には似つかわしくない、魔理沙が初めて見た彼女の顔。
 儚い笑顔だった。


 霊夢は、一人前も食べきれなかった。
 粥は作りたてが一番美味しい。だからきっちり一人前作ったのだが、土鍋にはまだ半分以上も残っている。
「もう入らないや。ごちそうさま」
 霊夢は、苦笑いをして木のスプーンを置いた。
「もう食べないのか。朝も食べてないんだろう」
「うん。でも、お腹一杯。あ、お粥美味しかった。ありがとう」
「お粗末様でした。まあ、食べきれんなら無理に食う必要はないさ」
 笑って返しながらも、魔理沙の裡では、またもやぞろりと不安の蛇が首をもたげた。
 ただの風邪だ。
 そうさ、ちょっと風邪をこじらせただけ。熱がある時は、食欲が出ないものだ。熱が下がれば、自然と食欲も出てくるさ。少しでも食べられればいい。寝てるだけだから、起きてる時よりは多く食べなくても大丈夫。
 大丈夫。
 頭ではそう考える。そう思う。しかし、どうしてこんなにも胸の奥がざわつくのか。
 魔理沙は、膳を下げながら霊夢を見る。
 食後のお茶を飲む霊夢。なに、普通の霊夢じゃないか。
 確かに、いつもの衣装じゃない。寝巻姿だし、髪も下ろしてリボンも付いていない。でも、ここにいるのは確かに霊夢だ。
 それなのに、魔理沙は気付いてしまう。普段の霊夢をよく知るがゆえに、目に付いてしまう。
 少し痩せたのではないか。
 顔色はそんなに白かったか。
 目の下には隈ができてないか。
 あのふっくらだった頬が、幾分削げてはいないか。
「魔理沙、どうしたの」
 霊夢の声で、はっと我に返った。霊夢が訝しげな目で、魔理沙を見ている。
「あ、ああ、なんでもない」
 いつの間にか、霊夢をじっと見ていたのだ。そのことに今更気付いた。魔理沙は、無理矢理に笑顔を作る。
「あんまりジロジロ見ないで。寝巻のままだと、なんか落ち着かないし」
 そう言って、わずかに頬を赤らめる霊夢は、これはこれで珍しい見物だった。そして、そんな霊夢の表情が、図らずも魔理沙の身体に油を差した。
「もう少し肉が付けば色っぽくなるのにな。今の霊夢じゃパーツが足りなさすぎて、鎖骨フェチしか振り向かないぜ」
 余計なお世話よ、と怒る霊夢を尻目に、笑って厨房へ逃げた。

 内心、助かったと魔理沙は思った。
 もし、さっきのままあの場にいたら、きっと自分は悲しそうな顔をしたに違いないのだ。きっと不安に駆られて、もしかすると涙すらこぼしたかもしれないのだ。
 そんな顔を、霊夢に見られなくて良かった。
 自分の不安を、霊夢に見せたなくて良かった。
 誰にも見られないように、魔理沙は厨房の壁に背を預けて、深く、静かに息を吐いた。


 薬を買うために外へ出た。
 一人になると、陽光がいつになく眩しかった。それがただの明順応だとわかっていても、やはり魔理沙はほっとする。
 霊夢と一緒にいて、こんなに気疲れすることなどついぞなかった。
 何が不安なのか、魔理沙にもわからない。
 実際、こうして広い空を飛んでいると、先ほどまで胸の奥を締め付けていたあの感覚がゆるゆると解けていく。
 ただの風邪だ。
 今日、何度目かの思いを口の中で繰り返す。
 実際、出ている症状は全く大したことが無い。熱も高くないし、咳が出るわけでもない。
 そうだ。何も心配することなんかないじゃないか。薬を飲んで寝てれば明日には治るさ。
 澄み渡る青い空と、遥か遠くの山の稜線。それらを見ると、わけもなくそう思えた。
 そう、信じられた。
 胸の奥の奥でくすぶっている何かを、滑稽なまでに怖れて、蓋を閉めながら、ただ信じて箒を握る手に力を込める。


 永遠亭に着いた魔理沙は、そういえばここに薬を買いに来るのは初めてだ、と今更のように思い至った。さて、薬代の相場がわからない。
「これで足りるかな」
 霊夢から預かってきた小銭をじゃらじゃらと鳴らす。霊夢は、賽銭にはうるさいが、自分が使う金には無頓着である。物はふんだんにあるが、銭は無い。「これで適当に買ってきて」と言って渡された袋、中身は数えていないが、その重さからして小金とも言えないくらい少ない額である。
 かといって、魔理沙自身も普段は現金を持ち歩かない。使う必要が無いからだ。自給自足の生活をしていると、霊夢ほどではないにしろ、金の価値に重きを置かない。
「ま、足りなきゃそん時はそん時だ」
「そん時はどうするつもりよ、墓泥棒」
「うおう! なんだお前いつの間に」
 魔理沙の前で、胡乱な目つきで腕を組む月の兎。鈴仙・優曇華院・イナバである。
「あんたねえ。うちの兎ぽんぽん落としといて、それで気付かれないと思ってるわけ?」
「いつものことじゃないか。それに今日の私は墓泥棒じゃないぜ」
 客だ、と魔理沙はふんぞり返った。
「客、ねえ。どうにも信用できないけど。で、どこを治すの? 手癖足癖、悪そうなところいっぱいあるけど」
「なくて七癖あって四十八癖。普通だぜ。ちなみに、客は客でも薬を買いに来たんだ。よく効く風邪薬が欲しいんだが」
「風邪薬?」
 鈴仙は目を丸くした。大きな赤い瞳に、魔理沙の顔が映る。
「誰が使うの? あんた、じゃなさそうね」
「ああ、霊夢がな。ちょっと寝込んじまって」
「霊夢? へえ、なんか意外だわ。熱はあるの?」
「ちょっとあるな。微熱ってとこだが」
 ふむ、と鈴仙は頷いた。
「わかった。ちょっと待ってて。お師匠様を呼んでくる」
「え、おい。ただ薬をくれるだけでいいんだぜ。そりゃあ、鬼を酢に指すあいつが風邪をひくなんて鬼の霍乱もいいとこだが、ただの風邪だって。大したことは何も」
 つるつると口から滑り出る言葉は、魔理沙自身が笑ってしまうくらい必死だった。
 先ほどまで押さえつけていたあの黒い蛇が、またもや首をもたげてくる。それは、腹の底からぬるりと伸び上がって、じわじわと心を締め付けた。
 鈴仙は、そんな魔理沙に構うことなく、奥へ引っ込んでしまった。一人残された魔理沙は、ぽつねんと立ち尽くして、ただの風邪だ、と呟く。
 待っていた時間は五分ほどだったか。鈴仙を従えて、薬師の女は玄関に姿を現した。
「さあ、行きましょうか」
 黒い鞄を提げた薬師、八意永琳は言った。
「お、おい、行くって」
 どこへ、と問おうとした時には、「神社よ」と答えが返ってきた。
「うちの薬はね。患者に合わせて作るの。患者の正しい状態を知らずに処方なんてできないわ」
 永琳は既に空へ浮かび上がっている。鈴仙も一緒だ。慌てて魔理沙も後を追う。
 永琳の速度は存外に速かった。普通ではない。明らかに急いでいる。何故急いでいるのか。その様子が、魔理沙の心を更にかき乱した。加速して永琳に追いつき、並走する。すると、永琳はそこでようやくまともに魔理沙を見た。
「どうせなら、あの子を連れてきて欲しかったわね。二度手間だわ」
「そ、そりゃどういう」
「入院させるのよ。決まってるでしょう」
 入院。馴染みの無い言葉が魔理沙を打つ。その意味すら飲み込めないうちに、永琳は言葉を継いだ。
「気にはなっていたのよ。あれはデブリなんて可愛げのあるものじゃない。そのくせ、あの穴にはその姿が影も形も無い。いや、無いんじゃなくて、幻想郷(こちら)に来れないのね。しかし、『落下した』という事実は幻想郷(こちら)でも起こっている。これは何を意味するのか。それに、気になるのはあの穴。気付いてるかしら、あの穴の周囲では草も木も枯れてしまっていること。でも、いくら調べてもその原因らしいところが見つからない。これは何を表しているのか。私が知らない要素。私が持っていないピース。間違いないわ。あの子がそれを握っている」
 それは、魔理沙へ語りかけるというよりも、ただ何かを読み上げているだけのように思えた。魔理沙のことをを一切忖度しない、言葉の連なり。
「風邪。うん、それは風邪かもしれない。本当にただの風邪だったらいいわね。でも、物事は繋がっている。今、このタイミングで彼女が倒れる。それが偶然であるはずがない。その事象はより特徴を明確にして現れるはず。ただの風邪だなんて、そんな平凡な現れ方はしない」
「ば」
 魔理沙は、やっと言葉を搾り出した。
「ばかな。そんな、大げさだろう。だって、ちょっと熱が出ただけだぜ。そりゃまあ、ちっとはキツそうだけどさ。普段、ぴんぴんしてる奴ほど、ちょっと体調崩すとてきめん堪えるもんじゃないか。そうだろう?」
 ははは、と笑いが洩れた。自分でもうすら寒くなるほど、空々しい笑いだった。
「だいたい、あのばかでかい穴と霊夢を結びつけるなんてばかげてる。私はあの日、霊夢と一緒にいたんだぜ? あいつ、その時は殺しても死なないくらい元気だったんだ。あの衝撃波を食らっても傷一つ負ってなかったし、弾幕ごっこだってやったんだ。もし、あの落ちてきた何かと霊夢に関係があるんなら、その時からぶっ倒れてよさそうなものじゃないか。はん、こじつけも極まれり、だ。何、お前からもらった薬を飲めばすぐに――」

「莫迦の振りをするのはやめなさい!」

 空を切り裂くような一喝だった。
 永琳の鋭い目が、火花が散るような気迫が、魔理沙を縛る。
 数拍の間、沈黙が下りた。
 永琳は魔理沙を睨み、魔理沙の固まった笑い顔が萎れ、鈴仙はその二人のやや後ろから無言で見守る。
 やがて、永琳の目が、ふっと緩んだ。
「魔理沙。あなたは気付いているはずよ。あなたは彼女と付き合いも長いし、あなたもその若さのわりには色んな経験を積んでいるでしょう。それに、一応は魔術を学び、道を究めんとしている身。その直観も観察力も決して鈍くはないはず。あなたが私よりもよくわかっているはず。だから、私のところに来たのでしょう。違う?」
 魔理沙は、答えなかった。
 帽子を目深にかぶって、加速する。永琳の顔がよく見えなくなるほどの先まで進んだところで、ようやく速度を落とした。
 今の自分の顔を、誰にも見られたくなかったのだ。

 無論、気付いていた。
 魔理沙は知っていた。
 認めたくない違和感。それが何かを知っていた。

 ぎゅっと唇をかみ締める。
 魔理沙の頭の中を、永琳の言葉がぐるぐると回る。それは、砂をかき回すように形にならなかった。何も考えられなかった。

 いや、考えたくなかったのだ。何も。


 それからは、皆無言だった。
 なまじ今日がよく晴れているだけに、一行に漂う陰鬱さが際立った。むしろ、魔理沙にとっては、その眩しく輝かしい冬の空は腹立たしくさえ思った。
 だから、神社が見えてきた時、魔理沙はついほっとしてしまったのだ。
 その脳裏に、ふと霊夢の笑顔が浮かんだ。神社を見れば、どうしても彼女を思い浮かべずにいられなかった。それは、魔理沙にとってはあまりにも自然なことだった。
 自然すぎて、一瞬だけそのことを忘れた。
 永琳の言葉も、何もかもを忘れていた。

 目に映った光景は、それがためにすぐには理解できなかった。

 理解できるのは、断片的な情報だけだ。
 開いた雨戸。
 風化してひび割れた敷石。
 木目が浮き出た柱。
 煮しめた色の縁側。
 そして、
 最後に目に入ったのは、縁側から力なく垂れる白い腕。

「霊夢――ッ!!」

 地面を抉る勢いで降りた。自殺一歩手前の急降下だった。
 墜落寸前で急制動をかけて箒から飛び降り、足が折れる勢いで彼女に駆け寄る。
 うつ伏せでぐったりと倒れた霊夢を抱え起こそうと手を伸ばした時、横から伸びた手が先に届いた。
「待て、吐いたばかりだ。仰向けにしてはいかん」
 その声で、魔理沙はようやくその人物がいることに気付いた。
 蜂蜜色の髪と切れ長の瞳。視界の端に、髪と同じ色をした豊かな尻尾が揺れた。
 八雲藍である。
「お前、なんでここに……」
「私も来たばかりだが、説明は後だ。何か拭くものを持ってくるから、お前は彼女を見てろ」
 言うが否や、魔理沙の応えを待たずに藍は部屋の奥へ駆けていった。
 状況が飲み込めない魔理沙は、しばし戸惑って藍の行方を目で追った。しかし、霊夢のかすかな呻きを耳にして我に返る。そっとうつ伏せのまま抱え起こした。
 霊夢は、目を閉じて苦しそうに喘いでいた。唇の端からはどろりと糸が垂れて落ち、その時、ツンと鼻をつく臭気に魔理沙は今更のように気付いた。
「吐いたのね。ちょっと見せて」
 遅れて庭に降り立った永琳が、周囲を一瞥して霊夢に近づいた。
「霊夢、霊夢、聞こえる? 喋らなくてもいいから、聞こえたら目を開けて」
 彼女の頬に手を当てて、永琳が語りかける。すると、霊夢はかすかに目を開いた。
「ああ、よかった。意識はあるのね。どう? 気分悪い?」
 彼女は、薄目で永琳を見て、瞼を閉じた。それが肯定の意であることは、魔理沙にもわかった。
 そこへ、濡れた手拭いを持って藍が戻ってきた。
「これはこれは」
 永琳の姿を認めて一礼する。永琳も返礼して、藍を真っ直ぐに見た。
「なるほど、貴方もピースの一つね」
 永琳の言葉に、藍は首を傾げることも、頷くこともしなかった。
「話は後にしましょう。今は彼女を」
「そうね」
 永琳は縁側に座って鞄を開ける。藍は手拭いを魔理沙に差し出し、魔理沙はそれを受け取って、霊夢の顔を拭った。
 吐瀉物は、縁側から外へ撒き散らされていた。先ほどの粥を全て戻してしまったに違いない。霊夢の寝巻きを、胸元までべっとり汚している。
 吐き気に襲われても、外へ出る力すら無かったのだ。
 魔理沙の視界が、揺れて歪んだ。自らの頬を伝う熱い雫が止まらない。
 霊夢の背中をさすりながら、魔理沙は嗚咽混じりに彼女の名前を呼ぶ。
 その言葉が届いたのか。霊夢が再び目を開けて、魔理沙の方を向いた。

 かすかに、笑った。

 その笑顔こそが、今の彼女を表しているものだった。

 ああ、知っていたとも。
 魔理沙は、今こそ認める。

 霊夢の顔に、死相が浮かんでいることを。


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2.

 レミリアと咲夜が永遠亭に着いたのは、日付も変わった夜更けであった。
 屋敷の門の前に立ち、レミリアはただ前を睨む。
 そこに誰かがいるわけではない。
 だが、彼女の小さな鼻は、そこにいない誰かを感じていた。
 吸血鬼の嗅覚は鋭い。彼女の一族には狼へ変化するものだっているのだ。レミリアは蝙蝠へ変ずるのがせいぜいだが、それでも並の犬よりかは、はるかに鼻が効く。
 特に、ある種の臭いをかぎ分けることについては、彼女の一族を越えるものなどこの世にいない。

 厭な、臭いだ。

 唇を歪めて、ふん、と鼻を鳴らす。
 不機嫌である。そのことを隠そうともしない。出迎えた妖怪兎が、たちまち竦んでしまうくらいあからさまだった。
 そんな兎へ、レミリアはようやく視線を向けた。面識の無い兎である。既に怯えて涙目の兎は、レミリアの視線を受けて、それだけで五歩も後じさった。
「案内しろ」
 命令は簡潔だ。ノーブルとはそうあるべきだ、とレミリアは考えているのである。
 案内の兎に続いてレミリアが、その後ろに咲夜が従う。
 屋敷は暗かった。元々明かり取りの少ない、昼間でも薄暗いところではあるが、今宵は特に闇が深いように思えた。かつて満月の夜に殴り込んだ時と比べれば、やはり差は歴然である。
 静かすぎるのだ。
 長い長い、どこまでも続く板張りの廊下を歩くのは、彼女ら三人だけ。行き交う者は全くいない。静寂の中、きしりきしりと三人の足音だけが虚ろに響く。
 無論、誰もいないわけではない。
 閉じた襖の向こうで、息を潜めて固まっている兎どもの気配を感じる。
 怯えている。怖れているのだ。
 この屋敷に満ちている緊張が、兎達を縛っている。
 その理由を考えて、レミリアは更に苛々を募らせた。
 不安、なのだ。
 この屋敷を覆っているのは、レミリアをも捉えて炙る不安なのだ。
 そして、なおもレミリアを苛立たせるのは。
 臭うな。
 口には出さないが、レミリアは思った。
 獣の臭いは、ここに暮らす数多の兎のものだ。焦げる油の臭いは、案内兎が持つジャパニーズなランプから。微かな泥の臭いは外に通じていて、昼間にぬかるんだものが夜気で凍っていることを教えた。すっとする清涼感は、消毒薬の匂い。これは永遠亭の診療所から洩れるものだろう。
 そして、それらの中に混じる、ごくわずかな臭い。
 レミリアがよく知るものだ。間違いようがない。
 だが、それだけに、厭な臭いだった。

 やがて、兎が立ち止まって一礼し、突き当たりの襖を開けた。
 ふわり、と暖かい空気が頬をなでる。暖房があるのだ。
 三十畳はあろうかという大部屋であった。窓も壁もなく、四方は襖で区切られている。
 部屋で目立つのは、中央のどっしりとした大きな黒檀の机。その机を囲むのはレミリアも幾人かは知る顔だった。
 部屋の様子をぐるりと見渡して、レミリアは言い放った。
「しけたパーティね。酒も料理も出ない上に、集まってる顔ぶれの辛気臭いこと」
 くすくす、と笑って湯飲みを掲げたのは蓬莱山輝夜である。
「酒は無いけどお茶ならあるわよ」
 結構だ。レミリアは手振りで示す。緑茶は好きじゃないのだ。
「咲夜」
「はい、お嬢様」
 背後に控えていた従者は、速やかに用意した。たちどころに猫足の椅子が現われ、レミリアがその椅子へどっかと座り、足を組んだところでソーサー付きのティーカップが差し出される。その間、五秒もかからない。
 隣でぽかんと口を開けている案内兎を尻目に、悠然とティーカップを傾ける。なるほど、この兎は咲夜のことを知らないらしい。自慢の従者の技である。見慣れぬ者には、何が起こったかわかるまい。それが少しだけ愉快で、レミリアはにんまりと笑う。
「あなた、もういいわよ。案内ありがとう」
 咲夜が笑顔で兎を労うと、兎は夢から醒めたように咲夜を見た。それからレミリアを見、そして輝夜を見てから、頬を真っ赤にして一礼、そのまま慌ただしく部屋を去っていく。ぱたぱたと遠ざかる足音に、「可愛いわねえ」と輝夜が相好を崩した。

 さて。

 レミリアはティーカップを置いて、気を引き締める。そして、改めて場の面々を確認した。
 穏やかに微笑む輝夜の隣は、八意永琳である。背筋を伸ばし、超然としている風だったが、その表情にはいつになく疲労の色が見える。レミリアらと戦った時にすら見せなかった顔だ。それが、状況のただ事ならぬことを表していた。
 彼女らの隣には西行寺幽々子、それから少し間をあけてアリス・マーガトロイドが座る。そしてその向かいには、
「あら、初めましてかしら。可愛い吸血鬼さん」
 近年、幻想郷に越してきた神、八坂神奈子である。隣で東風谷早苗がぺこりと礼をする。レミリアはその二人を認めて、薄く口の端を持ち上げた。
「ああ、あなた達が山の神社の。あいにく山登りなんて汗臭い趣味を持ってないから行こうとも思わないけど。ええ、初めまして」
 優雅に会釈を返す。相手が初対面であろうが、どんなにか偉い神様であろうが、レミリアに臆するところはない。
「あれ、あいつはいないの? 黒くてすばしっこくて手癖の悪い奴」
 この面子なら、いて当然のはずだ。しかし、レミリアが見る限り、この場にはいない。
「魔理沙なら今は眠ってるわ」
 答えたのは永琳である。
「事情は後で説明するわ。いろいろあってね」
 ふん、『いろいろ』か。
 レミリアは、閉じた唇の奥で、ちろりと牙をなめる。いくつものささくれが、ちくちくとレミリアの癇に障った。今、この場に魔理沙がいないという事実が、とにかく気に入らない。
 なぜなのか。それはレミリア自身にもわからなかった。だが、レミリアは知っている。
 己の中で囁く感性が告げている。
 これは、凶兆だ。
「妖夢は連れてきたけど、別の部屋で待たせてるわ」幽々子が言った。「あの子、すぐに顔に出るんだもの。あとで私から話しておくわね」
「顔に出るというと、うちの早苗もそうだけどね」
「や、いえ、大丈夫です。平気です」
 頬を赤くして手をぱたぱたと振る早苗。その様は、場にそぐわず微笑ましかった。
 つまり、この部屋では、これから表に出せない話をするのだ。素直さが徒になるような、そんな薄暗い話を。
 上等だ。レミリアはティーカップを咲夜へ返し、腕を組んだ。
 どんな厭な話でも聞いてやろうじゃないか。
「パチェは体調がすぐれないから置いてきたよ。で、だ」
 レミリアは、じろりとその視線を部屋の一隅へ向けた。
「こんなところに呼び出して、何の用かしら」
 その視線の先には、一人机から離れて立つ九尾。八雲藍である。
「なにしろ危急につき、このような時間にお呼びすることになりました。申し訳ございません」
 藍が深々と頭を下げる。その慇懃な態度に、レミリアは眉をしかめた。
 わざとらしさが鼻に付く。こちらは、そんな社交辞令なんか聞きたかないんだ。
「これで全員?」輝夜は部屋を見渡して言った。
「本当は、伊吹童子も呼ぶつもりだったのですが」藍はため息をついた。
「連絡がつかない。あの御仁はどこにいるのかまるで見当がつかないのです」
 ここしばらく、誰も姿を見ていないらしい。伊吹萃香は神出鬼没の風来坊である。鬼ごっこの技量は筋金入りで、彼女を捕まえるのは九尾ですら難しいようだった。
「さて、みんな集まったところで、始めていいかしら」
 永琳が口火を切った。皆は無言で肯定して彼女を注目する。
「では、私からいきましょう。まず、霊夢の容態だけど、ひとまずは落ち着いたわ。今は薬で眠っている」
 博麗霊夢が倒れたその日、永琳は彼女を診察し、いくつかの検査をした。その結果を元に治療の方針が立てられ、矢継ぎ早に打った対応によって、一応の安定を見たという。
 その間に、藍がこの面々を招集した。紅魔館に彼女が訪ねてきたのは、ちょうどレミリアが起きた宵の口のことである。
 そこで、初めて知ったのだ。
 霊夢が倒れたことを。
「彼女を診察して、いくつかわかったことがあるわ。まず、貧血が酷い。血球が全体的に減っているわね。白血球なんて基準値の半分以下よ。今は輸血で持ち直したけど、本人はかなり辛かったはず。それから、いくつかの軽微な出血。歯茎や眼底、皮下に見られるわね。出血しやすくて止まりにくい。抵抗力も落ちてるから、傷が出来るとすぐに炎症を起こす。発熱はそのためね。ただ、問題は」
 問題は、その原因にある。
「彼女の造血能力が著しく低下しているわ。これは、何らかの原因で造血幹細胞が死んでいるため。症状だけ見ればある種の悪性貧血を疑うところだけど、検査の結果、彼女に先天的な要因は無い。つまり、外的な、後天的要因ということ」
 永琳は、そこで区切って、言った。

「霊夢は、放射線障害よ」

 ホウシャセンショウガイ。レミリアが初めて聞く言葉だった。
「聞き慣れない言葉だけど、何なの、それ」
 アリスも同じだったらしい。小首を傾げて永琳へ問う。すると、意外にも神奈子が答えた。
「そうか、こちらじゃ縁の無い言葉だろうね。大変な病気だよ。向こうではそれで多くの人が苦しんでる」
 神奈子の言に、永琳も頷く。
「月では宇宙線の対策があるから、多少は知られているわ。まさか、こちらでその治療をすることになるとは思わなかったけど」
 アリスは眉をひそめた。
「だから、何なのそれ」
 重ねての問いに、永琳は言葉を継いだ。
「ある高い準位にある物質は、安定しようとして強力な電磁波や粒子を放出するわ。これらはとても小さくて、たいていの物を通り抜ける。しかし、これが生物に曝露した場合は身体を内面から傷つける。DNAに損傷を与えるのよ。この損傷が大きいと、細胞が死んだり、より大きな他の障害の原因になる。今回の霊夢は、その影響が骨髄に起こった。造血幹細胞が大きなダメージを受けて、その結果、様々な症状が出ている」
 詳しい説明は有り難かったが、あいにくレミリアにはさっぱりわからなかった。とにかく、知らない言葉が多すぎる。
 こんなことなら、無理にでもパチェを連れてくればよかったか、と少しだけ後悔する。
 だが、わかったこともある。
 先ほどからレミリアを不快にさせるこの臭いが何なのかが。

 ふうん、と幽々子が気の抜ける相槌を打った。
「よくわからないけど、なんだか大変そうねえ。でも、どうしてそんな病気に霊夢がかかったのかしら」
「そこからは私が話しましょう」
 そう言って、藍は袂から新聞を取り出した。
「先日、ある物体が幻想郷の端に落下した事件は皆様もご存知のとおり。言うまでも無く、この度の霊夢の病気は、これが原因です」
 言いながら、机に新聞を広げる。例の物体落下地点の写真が載る、天狗の号外である。
「落ちてきた物は、外の世界では人工衛星と呼ばれているものです。空気すらない遥か上空を飛び続けて、いろいろなことをしています。まあ、式の一種と申すべきか。私も紫様から聞いた話なので詳しくは知りません。宇宙には、こういった物がかなり多く飛んでいるのだそうです。今回落ちてきたのはそのうちの一つで、何十年か前に、ある国が打ち上げたものらしい」
 藍の指が、新聞の写真を示す。
「見てのとおり、件の人工衛星はこの写真に写っていません。もちろん、人工衛星というのは幻想郷に無いものだから、実体が向こう側にあるのも当然と言えますが、こいつが積んでいた物が厄介なのです」
 そこで、藍は、一度息を吸って、吐いた。
「この人工衛星には、原子炉が積んでありました」
「ゲンシロ?」
 再びアリスが眉根を寄せる。またもやわからない言葉だ。無論、レミリアもお手上げである。
 だが、言葉が通じる者はいたらしい。
「……それ、本当なんですか」
 早苗は蒼白な顔で問いただした。明らかに狼狽している。
「本当なら大変ですよ、みんな逃げなきゃ!」
 今にも立ち上がろうとする早苗を、隣の神奈子が押さえた。
「落ち着きな、話の途中だよ。さあ、続きを聞かせておくれ」
「ええ、ありがとう。先に伝えておきますが、今のところ我々には直截的な危険はありません。理由は後で説明するとして、ひとまず続けましょう。原子炉というのは、簡単に言えば本来物質が持つエネルギーを取り出して電気に変えるものです。全ての物質は、元々その物質たらんがために莫大なエネルギーを内包しています。このあたりの理論は、幻想郷(こちら)とあちらでは幾分解釈が違うところもあるので、あくまであちらの理論として聞いてください」

 ある物質が内包するエネルギー。それがその物質の『存在の重さ』、すなわち質量と密接な関係にあることを、前世紀のある科学者が突き止めた。
 そして、その物質が『重すぎる』と、その物質の存在そのものが不安定となること。こうした物質は、少しずつ崩壊しながらエネルギーを放出し、やがてはより安定した物質へと変化していくこともわかってきた。
 このエネルギーをどうにかして利用できないか。そう考える人々が出てきたのは自然な流れだった。
 個々の崩壊はとても小さく緩やかで、得られるエネルギーもごくわずかだ。だが、もし、この崩壊を急激に、かつ連鎖的に行うことができれば。
 その考えを体現し、実用化されたものの一つが、原子炉だった。燃料となる物質は、ある一定の量を超えると連鎖的に崩壊していく。この時に放出されるエネルギーで発電する仕組みである。

 回りくどいな、とレミリアはこぼした。
「で、その大そうなもんが落ちてきたからって、どうしてそれが霊夢に繋がるのよ」
「それは、呪われた力だからよ」
 神奈子が答えた。
「核分裂が初めて実用化されたのは、爆弾としてだよ。かつての大戦で使われて、何十万人も死んだ。一発で街が吹き飛んじまうくらい凄まじいもんでね。しかも、それだけじゃない。もっと怖いのは、放射線だ」
「放射線ってさっき言ってたやつのこと?」と、アリス。さすがは魔法使いといったところか。レミリアと違って、言葉に慣れてきた様子である。
「核分裂の際に、大量の放射線が出るのさ。もちろん、原子炉ってのはそういうのを防ぐために頑丈な殻で覆われてるんだが、おそらく落下の衝撃で壊れちまったんだろう。あの麓の巫女はそいつにやられたんだよ」
「つまり、その落ちてきた原子炉とやらから出る何かのために病気になってるってこと?」
 アリスは、腕を組んで首を傾げる。
「その説明は納得しかねるわね。もしそうなら、もっと被害が出てるんじゃないかしら。どれくらい広く影響があるのか知らないけど、あの穴を見に行った奴って結構いるじゃない?」
「そう、それこそが重要なことよ」
 永琳が頷いて言う。
「その人工衛星が落ちた日ね。霊夢と一緒に魔理沙もあの穴のところまで行ったらしいわ。もしあの場に強力な放射線が飛び交っていたら、魔理沙も同じように被曝しているはず。だから、魔理沙も検査したわ。麻酔までかけて念入りにね。それでわかったことは」
 永琳は肩をすくめた。
「彼女が健康だってことよ。それはもう、どこをとっても健康そのもの。怪しいところは全く見つからなかった」
 ああ、この場に魔理沙がいないのはそういう理由か。
 魔理沙も倒れたのかとレミリアは考えていたのだ。が、どうやら違ったらしい。
 すると、この胸騒ぎは何だ。
 レミリアは自問する。
 霊夢が病に倒れ、魔理沙は倒れなかった。
 なぜ、その事がこれほどまでに不安を掻き立てるのか。
「結論から言いましょう。この病気は霊夢だけにかかっているのよ。より正確に言うならば、このエネルギー線、放射線の影響を受けている人間は、幻想郷では霊夢だけ。そもそも、高レベルの放射線があの場では検出されなかったの。あれが落ちてきた日、わざわざウドンゲに宇宙服を着せてまであの場に行かせたのに、検出される放射線レベルは全く問題なかった。ごく自然の範囲よ。でも」
 永琳の、その目が鋭くなる。
「あの穴の周囲だけ、植物が枯死している。木も立ち枯れて、草一本すら生えない。これは間違いないく高レベルの放射線を曝露した影響。つまり、原子炉も放射線も幻想郷(こちら)には無いのに、影響はあるのよ、確かに。では、何が放射線によって冒されているのか」
 そうだ、何が。

「……ふん、そういうことか」
 レミリアは、誰にも聞こえないくらい小さく独りごちる。
 霊夢と結びついているものなど、わかりきっていた。

「博麗大結界」
 幽々子が呟いた。
「つまり、大結界そのものが病んでいるのね、藍」
 然り、と藍は頷く。
「博麗大結界は、博麗神社を起点としてこの辺りの山野を覆っています。幻想を隔てる概念的な境界ですが、物理的な果ても存在します。この人工衛星が落ちた辺りは、ちょうど結界の物理的な境目。こちらからは見えず、外からは見えるぎりぎりのところでしょう」

 大結界は、その昔、妖怪と人が力を合わせて作ったものだという。現代文明から完全に隔絶した山々をそのまま結界と成したのだ。
 そもそも、山とは古来より異界である。人間の力の及ばぬところであり、厳しい自然の具現であり、生きとし生けるものへ恵みをもたらし、それゆえに人々の信仰の対象にすらなる聖域である。
 この辺りの山々も、かつては霊峰であったという。資格がなければ立ち入ることも許されなかった。つまり、それだけで十分に結界として作用していたのだ。これに、長い年月と労力を費やし、概念の壁を付加することによって、博麗大結界は完成したのである。
 そして、この大結界を支える要が、博麗の巫女。

「ちょ、ちょっと待ってください」
 と、早苗が割り込む。
「それって、つまり結界の周囲が放射線で汚染されたせいなんですか。ということは……」

 そうなのだ。
 これこそが、レミリアが感じた本当の脅威だった。
 大結界を成す自然が病む。その影響は、要である霊夢に及ぶ。
 すなわち、霊夢を治すには。

「まあ、そんなわけよ」
 永琳は、ため息をついて一同を見た。
「霊夢の病気の原因は、霊夢の外、博麗大結界の外よ。霊夢の体にいくら治療を施しても、所詮は一時しのぎ。結界が病んでいる限り意味がないわ」
「霊夢を治すには、大結界を治さなきゃならない、か。面倒なことになったわね」
 アリスが天を仰いだ。
「でも、結界を治すなんてどうしたらいいのかしら。その原子炉とやらをどうにかすればいいわけ?」
 それだけじゃ駄目だろうね、と神奈子。
「放射線ってのは厄介なんだ。程度にもよるけど、ことによっちゃ影響が何十年も残る。こいつを取り除こうってのはそう簡単な話じゃないよ」
 何十年。
 その言葉の重みを、その場の誰もが噛みしめる。
 人外ならばともかく、人の身では。
「持たないわ。とてもじゃないけど、そんなに長く霊夢は持たない」
 永琳は首を横に振った。
「医者の意見を言わせてもらうわ。今の霊夢の状況は先ほど言ったとおりだけど、放射線の影響を除かない限り、彼女の造血機能は戻らないし、仮に影響を除いたとしても造血幹細胞がちゃんと再生するかは、本人の体力次第。癌化する可能性だってある。でもね、これでも放射線障害としてはまだ程度の軽い方なのよ。もし今後、大結界の汚染が広がって、彼女に新たな影響が出た場合、その影響の部位によっては、回復できないダメージを負うことも考えられる」
 それ以上言うな。
 レミリアは己の腕に爪を立てる。そうでもしないと、叫んでしまいそうだったから。
 だが、レミリアの吸血鬼としての本能が、レミリアの運命を視るその能力が、既にそれを知っていた。
 だから、聞きたくなかった。
 自分以外の誰かから、そのことを聞かされたくなかった。
 いっそ、おのが爪をふるって永琳が喋れないようにしてしまえればと思った。
 だが、無情にも、

「仮に、新たに影響が出なかったとしても、この状況が続けば彼女の抵抗力は急激に落ちていく。このままなら、彼女の命は持って三ヶ月。いかに私の薬をもってしても、あの子は助からないわ。春まで生きながらえるかは厳しいところよ」

 宣告は、なされる。
 霊夢が死ぬ。
 あと三ヶ月で死ぬ。
 しかも、それだけではなく、
「三ヶ月、それが幻想郷の寿命ってことね」
 アリスが呟いた。
 そのことを口に出来る彼女が、レミリアには腹立たしく、そして羨ましかった。
 霊夢の死は、博麗大結界の死だ。
 それは、結界によって分かたれている幻想が、外の世界に浸食されていくことを表していた。
 この場にいるのは、皆その居場所を幻想郷に求めた者たち。
 もし、幻想郷が無くなってしまえば?


 そんなことは、考えたくもなかった!


「まだ決まったわけじゃない」
 レミリアは、じろりと藍を睨んだ。
「ここに私らを集めたのはあんただ。この人選、あんたの主人がやったんだろう? この場にパチェと庭師、それに黒白と鬼を足せば、どういう連中を集めようとしたのかあからさまじゃないか」
 その共通点。近年、何らかの異変を起こした側と、それを収めた側である。
「そろそろ言ってもらおう。何が狙いだ。私たちに何をやらせようとしている」
 ただこれだけの事実を知らせるがために集めるはずはない。レミリアはそう睨んでいた。
 何か、策はあるはずだ。そうでなければならない。そんな得体の知れない物が落ちてきたために、霊夢が、レミリア自身の居場所が無くなるなんてことは、許せるはずがなかった。
 何をやらせようとしているのか。それはわからない。
 だが、それがあのいけ好かない紫の言だったとしても、レミリアは体を張るつもりでいた。
 その決意を込めて、レミリアは藍を見る。
 組んだ腕をほどいて肘掛けを握る。身を乗り出しているのは、知らず、それだけ答えに期待していたからだった。

 レミリアの視線を、藍は真っ向から受け止めた。眉一つ動かさなかった。しかし、その面には常の彼女には無い苦悩が透ける。
 固く結んだ唇が開くまで、いくばくかの時間を要した。
「逆です」
 応(いら)えは簡潔だった。
「逆?」その答えは、まったくの肩すかしだった。レミリアは毒気を抜かれて、眉を緩ませる。
「ええ、逆です。私は、あなた達に何かをしてほしいわけじゃない。むしろ、この件に関しては何もしてほしくないのです」
 それは、どういう意味なのか。そのことをレミリアが考える前に、それまで話を聞いていただけの輝夜が、ゆっくりと口を開く。
「パワーバランスね。何もするなってのは、つまりそういうことでしょう?」
 静かな物言いとは裏腹に、その言葉の意味は辛辣だった。
 博麗の巫女は、幻想郷の秩序そのものだ。中立な彼女がいるからこそ、人間と妖怪との間に和が保たれている。
 だが今、彼女が病に倒れた。もしこの時、誰かがその和を乱せばどうなるか。
 乱を収める者がいないのだ。秩序は失われ、幻想郷は、荒れる。

「ふざけるな!」

 レミリアは激昂した。伸ばした剣呑な爪が、みしりと肘掛けに食い込む。
「貴様、この私を火事場泥棒呼ばわりする気か! 誇り高いスカーレットが、約定を違えてまでちっぽけな覇を狙うと言うか!」
 今すぐに、あの狐の白面を血煙に変えてやる。それくらいは辞さないほどに血が上った。
 それほどの侮辱だ。

 かつて、レミリアら吸血種は、幻想郷では人を襲わないという契約を交わした。
 騒動は起こす。多少のハメは外すこともある。だが、レミリアとてこの幻想郷が儚い箱庭であることは重々承知だ。越えてはならぬ一線があることくらいわかっている。
 まして、彼女ら夜の王たる一族は、ことのほか契約を重んじる。契約が力を生むことを知っているからだ。ゆえに、決して彼女らは契約を自ら破ることはない。それは、種族としてできないのだ。

 だからこそ、レミリアは激する。
 藍の言葉がもし輝夜のいう意味ならば、それは吸血鬼全体を貶めるに等しい。

 怒りに身を任せて、今にも飛びかからんとしたレミリアだったが、
「お待ちください、お嬢様」
 横で控えていた咲夜が止めた。その落ち着いた声が、レミリアには水をぶっかけられるよりもはるかに効く。
 咲夜の蒼い眼を見た。咲夜は無駄なことは喋らない。出過ぎたことはしない。
 そして、主のことは、いつだって誰よりも案じてくれるのだ。
 それが、常にレミリアのブレーキとなってくれる。
 ふう、と長く息を吐いて、レミリアは再び深く椅子に沈み込んだ。

 いいさ。ひとまずは奴の言い分を聞いてやろうじゃないか。

「お嬢ちゃんが怒るのも無理は無いさ」
 神奈子が苦笑して言った。
「ねえ、狐さん。ここのみんなは、この一大事に何ごとか助けにならないかと思ってるんだよ。それを無碍にするのはどうかと思うんだがねえ」
 藍の瞳は揺るがない。伸びた背筋からも彼女の意志が窺えた。
「ええ、私も皆さんのその思いは嬉しく思います。ですが、今大事なことは、いたずらに騒ぎ立てないことなのです。今、このような状況だからこそ、慎重に動かねばなりません」
 藍はその場の皆を見渡した。
「今日、この場に集まっていただいた皆さんは、それぞれ幻想郷の一角を担っていただいている。もし、あなた方が軽々に動けば、あなた方の影響を受けるより多くの者が惑うことになります。それだけは避けなくてはなりません」
 どうか、と藍は頭を下げる。
「どうか、ご理解いただきたく。永遠亭の皆様には、霊夢の治療を引き続きお願いしますが、その他の方については、今は待っていただきたい。この場の話も他言無用に願います」
 ふむ、と幽々子は湯飲みを持って穏やかに藍を見た。
「藍、それは紫の意志だと思っていいのね?」
「無論です」
 藍は幽々子を見て即答する。
「どの道、今は打つ手が無いのです。結界に関することは、紫様以外になしえません。その紫様がおっしゃるのです。事態の解決には時間がかかりますゆえ」
 幽々子は、その答えを吟味するように、湯のみを揺らした。
 やがて、ほう、と息を吐く。
「紫がそう言うのなら、私はいいわよ」
 そう言って、冷めた湯のみを傾ける。それ以上、何も詮索はしないし、何も干渉しない。そういう意志の表れだった。藍は、そんな彼女へ改めて無言で一礼する。
「具体的な策はあるのかしら」と、アリスが手を挙げる。
「その口ぶりだと、待つだけってわけじゃないんでしょう?」
 ええ、と藍は頷いた。
「これは、外の世界から見ても大事件のはずです。おそらく、問題の人工衛星は早いうちに回収されるでしょう。放射線の問題にしても、何らかの処置がなされると思います」
「ふむ、内側から手を出せない以上、外は外に任せるしかないかもね。でも、それだけでなんとかなるもんなの?」
「問題の元さえ無くなれば、あとは紫様が結界を修復なさいます。それで霊夢も治るはずです」
 なんだ、と輝夜が笑った。
「思ったより楽に解決しそうじゃない。良かったわね」
 輝夜の言葉に、場の空気がわずかに緩んだ。幽々子が、ふっと口元を綻ばせ、アリスも心なしか肩の力を抜く。早苗にいたっては明らかにほっと胸をなで下ろした様子だった。八方塞がりだと思えたところに、それなりに確からしい道を示されたのだ。それも当然と言えた。
 人は、安心を求めるものだから。

「そんなわけがあるか!」
 堪らず椅子から立ち上がり、レミリアは叫ぶ。
 レミリアの裡なるものが告げている。藍のそれは、詐術だ。どこにも逃げ道が無いように網で囲いながら、わざと一方向だけを開けて誘導しているのだ。
 レミリアは、己の種としての本能を信じている。例え世界が白だと言おうが、内なる魂が黒と囁くならば、それはきっと世界が間違っている。
 レミリアが感じた、あの底知れぬ不安は、間違いなく本物だ。
「そんなことで、そんな他人任せで霊夢が治るなんて、どうして言える!」
 今の霊夢の状況は、この幻想郷が置かれている状況は、藍が言うほどに簡単ではないはずだ。
「外の連中に、そのジンコウエイセイやらホウシャセンやらをどうにかしてもらうだって? それはいつ終わるんだ? 霊夢はそれまで持つのか?」
 ああ、厭だ。
 牙を剥きだして猛りつつも、レミリアは怯える。
「霊夢の血が病んでいることは、臭いですぐわかったよ。この屋敷中に立ちこめてたからね。最初はまさか、と思ったさ。どうだい、このなんとも不味そうなこの血の臭い。これが、あの霊夢のだって? 私が好きな、とても美味そうで、少しだって吸わせてくれなかった、あの霊夢の匂いはどこにいった?」
 思いを言葉にする自分を厭わしく思い、怖れる。
「今すぐだ。今すぐ動かないとダメなんだよ! だって、このままじゃ間に合わない。霊夢は、もう……!」
 その先は、言えなかった。
 ぎりっと奥歯を噛みしめて俯く。
 自分の中に渦巻く禍々しい何ものかを、果たしてどう言葉にしろというのか。
 レミリアは、そんな己を嗤う。
 見るがいい。夜の王たる者が、はぐれた雛鳥のように羽を竦めて震える無様を。
 涙をこぼさないのは、レミリアのせめてもの矜持だった。怖れを無理矢理行き場のない怒りに変えて、両の拳に、ただ、込める。
 そんなレミリアの様子にただならぬものを感じてか、その場の誰もが口を噤んだ。先ほどの和やかさなど、レミリアの訴えで消し飛んでしまっていた。
 つまりは、その程度の、偽りの和やかさだったのだろう。
 重苦しい沈黙。その静寂が、なおレミリアには辛い。

 レミリアは、無言のまま、くるりと皆に背を向けた。そして、
「咲夜」
 従者だけを呼ぶ。
 無論、それだけで彼女には通じた。咲夜は広げたスカーフを、先ほどまで主がかけていた椅子へ、ふわりとかける。優雅な手つきでひらめいたスカーフが舞った後には、椅子は影も残さず消え失せた。
 胸に手を当てて、咲夜は皆へ一礼する。それを待つことなく、レミリアは歩き出した。
「ま、待て」
 止めるのは藍である。
「どこへ行く。まだ話は終わっていない」
 敬語を止めた藍に、レミリアは背を向けたまま薄く笑った。
 ああ、くそまじめな顔して話されるより、そっちの方がずっと良いね。
「どこって決まってるだろ、帰るのさ」
 拳に込めた怒りは、
「私は私でやらせてもらうよ」
 決意へと変わる。
「私は守るより攻める方が好きでね。何もしないで待つのは性に合わない。それに、霊夢には借りがまだたんとあるんだ。きっちり熨斗付けて返すまではくたばってもらっちゃ困るのさ」
 何を馬鹿な、と藍は呟いた。
「血迷ったか、レミリア・スカーレット。さっきも言ったろう。ことは結界の外で起こってるんだ。我々には手が出せないぞ。何をするつもりだ」
「何をするかはこれから決めるさ」
「無茶苦茶だ! そんな理由で勝手に動かれては困る!」
「あんたのお願いなんか聞いちゃいられないよ。こちとら時間が惜しいんだ。それとも」
 そこで、ようやくレミリアは振り返る。
「力尽くで止めてみるかい」
 あからさまな挑発だった。もちろん、藍は受けないだろう。他人様の家で暴れるほど無粋な女ではないはずだから。
 だが、もし受けてくれれば。レミリアとしては、そう願わないでもない。
 そうなれば、この拳も振るいようがある。
「……なんと、聞き分けのない」
 藍は額を押さえながらため息をついた。
「私が言ったことを理解してないのか。この幻想郷の均衡は危うい。今、霊夢に何か起こったと他の連中に知れてみろ。大結界を快く思わない奴らだっているんだ。そいつらが好き勝手始めたらどうなると思う? 幻想郷は結界消滅を待たずして崩壊するぞ!」
「はん、好き勝手したけりゃさせりゃいいのさ。そいつらが私の邪魔をするならぶっ潰すけどね」
 レミリアは一歩も退かない。もう、決めたのだ。他の奴がどう言おうと、どうなろうと知ったことか。
 レミリアは、レミリア自身のために、霊夢を助ける。
 一方、藍の表情は渋い。レミリアの人となりを知るがためだろう。言い出せば、頑として聞かない。最早言っても通じないとわかっているのだ。

 くすくす、と笑い声が洩れた。
「いいじゃない、やりたいって言ってるんですもの。やらせておけばいいじゃない」
 輝夜である。
「為すべき事をわきまえていれば、道は自ずと開かれるもの。こちらはこちらで為すべき事を為すから、あなたは信ずる道を歩めばいいわ。目指すところが同じであれば、やがて互いの道は交わるはず」
 思わぬ助け船だった。顔には出さなかったが、内心、レミリアは驚く。意外だったのだ。パワーバランスの発言や、藍の言に楽観的な風からして、てっきり輝夜も和を重んじるものと思っていたのである。
 輝夜は、はんなりと微笑んで言葉を継ぐ。
「永遠亭は、霊夢の治療に専念します。永琳がいるんですもの。そう簡単に死なせやしないわ。他の誰が何をしようと構いませんけれど、もし我らの妨げとなるようであれば、永遠亭の全力をもって対抗しましょう」
 凛とした声であった。普段のたおやかな姿からは想像もつかない。
 へえ、とレミリアは笑う。
 つまり、霊夢の身の心配はしなくていいから、その間に事件の解決を図れということだ。
 肝が据わっている。この姫は、人の命を左右する決断を、躊躇いなく下せる側だ。
 輝夜の隣で、永琳が肩をすくめた。
「姫の仰せのままに。今の幻想郷で放射線病の治療ができるのは私だけでしょうからね。その代わり」
 永琳は含み笑いでレミリアを見る。
「あなた達のやる事には手を貸せないわ。これはもちろん、私だけのことじゃなくて、永遠亭全体として、ね」
 スタンドプレーを望むからには、その力量を示せ。そう言っているのだ。
「当たり前だ。お前達の力なんか借りないよ。私がやりたいようにやるだけだから」
 わざわざ感謝の言葉なんて返さない。そもそも、輝夜だってそんなものは期待してないだろう。
 期待するものは、行動と結果だ。
 レミリアは今度こそ完全に彼女らへ背を向けた。片手でバイバイと別れを告げて、歩き出す。
 背後で藍が何事かを叫んでいた。まあまあ、と神奈子がとりなす声も聞こえていたが、それらも咲夜がぴしゃりと襖を閉じれば、たちまちに消えた。
 もっとも、いくら叫んでいたところで、既にレミリアの意識には届かない。
 レミリアの目は、未来だけを視ているのだから。


 部屋を出て、玄関を求めて歩く。先導の兎はいない。なに、外に出るだけなら案内など要らないのだ。それだけの能力は、レミリアにも咲夜にも備わっている。
 歩きながら、鼻をくすぐるあの臭いを嗅いだ。
 死の、臭いだ。
 霊夢だけのことではない。これは、もっと多くの命。世界の命を脅かす臭いなのだ。
 場合によっては、レミリアそのものにも及ぶ、そういう臭いなのだ。
 そんな死を一人で背負い込もうとしている彼女のことを、レミリアは想った。
「咲夜」
「ええ、わかっておりますよ」
 たちどころに現れる薔薇の花束。色はもちろん、深紅。
「お見舞いは結構ですけど、場所はおわかりですか?」
 咲夜の問いに、レミリアは任せろと胸を張った。
 血の臭いを辿ればいいのだ。目をつぶっていたって迷うことなどない。
 幾つもの角を折れて進むと、薬の匂いが強くなって、診療所の一角に着いたことがわかった。なおも、彼女の命を嗅ぎながら廊下を歩み、やがて突き当たりの扉が目的地だと知れた。
「よお」
 扉の前で片手を挙げたのは霧雨魔理沙だった。
「なによ、あんた達も来たの」
 その隣で腰に手を当てて睨むのは、鈴仙・優曇華院・イナバである。
「せっかく来てもらって悪いけど、今日は面会謝絶よ」
 面会謝絶。
 その言葉に、レミリアは顔を曇らせる。
「……良くない、のか」
 問いながら思う。我ながら、なんと弱気であろうか、と。
 鈴仙は苦笑して手を振った。
「ひとまずの危機は脱したわ。ただ、ちょっと衰弱がひどくてね。薬で眠ってもらってるの。体力が回復するまでは、ね」
 そうか。そういえば、そんなことをあの薬師も言っていたっけ。
 レミリアは、ほう、と息を吐く。例え一時しのぎだとしても、やはり安堵してしまう。できれば、霊夢が苦しむところなど見たくはないのだ。
 仕方がありませんね、と咲夜は鈴仙を向いた。
「では、これはあなたに預けますわ。よろしくお願いね」
「あ、うん、わかった」
 花束を受け取って、鈴仙の耳がぴくりと跳ねる。
「わ、凄い。こんな綺麗な薔薇どうしたの? まだ冬なのに」
「それは秘密です」
 微笑ましい会話をよそに、レミリアは視線を魔理沙へと向けた。
「あんたも検査されたって聞いたけど」
「ああ、されたぜ。こんなでっかい注射されたよ。あれだけで死ねるぞ、普通」
 そう言って、両手で輪を作ってみせる魔理沙。何事もオーバーに語る彼女だが、口元がわずかに震えているところを見ると、あながち嘘でもないのかもしれない。注射器を見て大騒ぎする魔理沙を想像すると、レミリアはくっくっと笑った。
 そんなレミリアに、魔理沙は、むっと口を尖らせた。きっと、お前だってそういう立場になれば泣き叫ぶぞ。そんなことを言いそうな顔だ。その顔がまた面白くて、図らずも鬱屈したものがレミリアの裡から晴れた。
「元気そうじゃないの。てっきりあんたも倒れたのかと思ってたら、本当、しぶといわね」
「体の頑丈さには自信があるぜ。日頃鍛えてるからな」
「頑丈さなら、うちの門番と競ってみる? こないだ、腹筋で鉄棒曲げやってみてって冗談で言ったら、笑顔でやってみせたわよ」
「……門番辞めて大道芸人でも食ってけそうだな。そのうち、へそでコイン曲げでもするんじゃないか」
「ああ、それならやったわ。おっぱいでもできますよって言ってたけど、目の毒だから止めさせたくらい」
 そこで、魔理沙と二人して屈託無く笑った。ひとしきり笑ったところで、レミリアはおもむろに切り出す。
「それで、あんたはどうするの」
 前置きも何もない。だが、それだけで通じるはずである。
「調べる」
 魔理沙の答えは簡潔を極めた。その場で考えた言葉ではない。考え抜いた末の結論であることは明らかだった。
「情報が全然足りないんだ。何が起こってるのか、自分の目で確かめないとな」
 つまり、裏を取る、ということだ。藍や永琳から、おおよその話は聞いているのだろう。だが、その話を鵜呑みにはしない。自分で調べた結果をもって真実とする。
 なるほど、真っ直ぐで素直じゃないところが魔理沙らしい。
 こうでなくてはな。
「丁度良いわ。あんた、私を手伝いなさい」
「あー?」
 レミリアの言は既に命令である。己の中で、それは決定事項なのだ。何を手伝えなのか、それすらも言わない。
 しかし、魔理沙はわざわざそのことを問い返したりはしなかった。
 ただ、見るだけだ。レミリアの紅い瞳を。
 そして、レミリアもその視線を受け止めるだけ。
 しばしの沈黙を置いて、魔理沙が口を開いた。
「霊夢を助ける。それが第一だ。これだけは譲れないぜ」
「もちろんよ」
「待遇は?」
「三食におやつが付くわ。ほっぺがとろけて落ちそうな咲夜オリジナルのデザート」
「昼寝は?」
「あんたの働き次第よ。あんまり時間の余裕がないんでね。ゆっくり寝る暇はないかも。でも、寝具はふっかふかの卸したて羽毛100%を用意しましょう」
「玩具は?」
「パチェをいじるのはやめてちょうだい。その代わり、小悪魔の尻尾ならいくらいじっても構わないわよ」
「OK、乗った」
 パチン、とハイタッチを交わした。それが、共闘の契約書だ。
 例え何ものが相手であっても、闘うと決めれば自然と心は躍った。それは、レミリアだけではない。魔理沙の琥珀色の瞳も、咲夜の蒼い瞳も、その場に居合わせただけの鈴仙の真っ赤な瞳ですらも、そこには確かな意志があった。
 それは、純粋な闘志。
 そして、それこそは運命の扉を開くための鍵だ。レミリア以上にそれを知るものなどいない。
「よし、そうと決まれば善は急げだ。早速出かけるとするか」
 魔理沙がにやりと笑って帽子を被ったその時だった。

「待ちなさい」

 声がかかった。
 大きな声ではない。だが、この静かすぎる屋敷ではよく透る声だった。
 廊下の暗がりから現れたのは、アリス・マーガトロイドである。
「あんた、検査でさっきまで寝てたはずよ。多分、今夜一杯は安静にした方が良いはず」
 そうよね、と確認するようにアリスは鈴仙を見る。鈴仙は、戸惑いながらも、ええ、と応えた。
「だから、あんたは朝まで寝てなさい。今夜は私が動くわ」
 反論を許さない、決めつけるような調子だった。出鼻を挫かれた魔理沙は、あーともうーとも呻いて、せっかく被った帽子を所在なくいじくり回す。そんな彼女を一瞥して、アリスはにっこりとレミリアに微笑みかけた。
「まあ、そんなわけだから、私もあなたにつくわ。条件は魔理沙のに上乗せでよろしくね」
 あまりにも唐突であった。
 声がかかるまで、アリスの接近に全く気付かなかったレミリアである。わざと気配を消してきたに違いない。まったくしてやられた。
 では、咲夜はと見れば、にこにこと笑っていて驚いた様子は微塵もなかった。
 おのれ咲夜め、気付いてて黙ってたわね。
 完璧な従者は、たまにこういった底意地の悪さを見せるのだ。
 耳まで赤くなったレミリアだったが、構わずアリスは続ける。
「藍が言うこともわからなくはない。でも、時間が経つほど状況は悪くなる。ただ待つだけなんて愚策よ。本当に打つ手はないのか、それを探るのは決して無駄じゃない。どうせ私も自分で調べるつもりだったし、それなら情報を共有した方が効率が良いでしょう?」
 完全に彼女のペースだった。無論、そうなるべくしてアリスは動いたのだ。彼女の計算勝ちである。
 固まったレミリアの前へ、アリスは笑顔で近付いた。そして、少し腰を落としてレミリアと目線を合わせ、誘うように手のひらを掲げる。
 なんなの、それ。インディアンの真似?
 レミリアは思考停止のまま、埒もないことを考えた。ぐるぐると巡る思考に絡め取られ、惑う視線が彼女の従者を捉え、従者がついに笑いをこらえきれずにお腹をくの字にする段になって、レミリアはようやく我に返った。

 パチン、とハイタッチを交わした。

 その様子を見て、鈴仙は呆れた風に肩をすくめた。


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3.

 二体の人形が、並んで立っていた。
 片方は柔らかいウェーブがかった金髪、もう一方は栗色のストレート。どちらも身に付けている服はエプロンドレスで、フリル一つから丁寧に仕上げられた手縫いである。作り手の愛情とこだわりが透けて見える。
 花のように可愛らしい人形である。女の子なら、誰もが抱きしめたくなるに違いない。
 ごついヘルメットとぶっとい作業靴が致命的に似合わなかったけれども。
 ヘルメットは、サイズこそ彼女らに合わせてあるものの、その鈍い光沢から十分に実用的であることが知れた。実際、内側にはきちんと衝撃吸収用のパッドが入っていて、金属バットでぶん殴られても彼女の頭を守ってくれるだろう。
 作業靴が、これまた実用一辺倒の無骨な代物だった。ナイフを当てても簡単には切れないような頑丈で分厚い生地。靴底は鉄板入りである。
 金髪ウェーブの人形は、金属の筒を抱えていた。筒は、ほぼ彼女の身長と同じ長さで、持つのはなかなかに難儀そうである。筒に結んだ紐で肩から吊っているので、辛うじて落とさずにすんでいるようだった。
 かたや、栗色ストレートの人形は、くるくると巻いた紙を持っていた。今は金モールの紐で括ってあるが、広げれば彼女が寝てもまだ余るくらい大きかろう。

 二体が立つのは、衛星が落ちてできたクレーターの底である。
 穴の壁は醜く土肌をさらしたままだった。土は赤黒く変色していて、穴ができた当時、高温で焼かれたことを示している。人形達が踏む土も同様で、熱が退いた今は焼き固められて、歩けばかつかつと音が鳴る。
 金髪人形がきょろきょろと辺りを見回す。何かを探している様子で、くりくりした碧い眼を何度もしばたたかせた。やがて、得たり、と頷いて、てくてくと歩き出す。十歩ほど歩いたところで、手を振って相方を呼んだ。
 呼ばれた栗色人形は、とことこと金髪人形に近付き、彼女からいくらか離れたところで止まった。持っていた紙を地面に下ろし、紐を解いて、平らな地面に広げる。
 魔方陣である。
 黒インクで、幾何学図形と文字が、ある規則性をもって精確に、細かく書き込まれていた。描かれた文字は、左上の円の中がルーン、右上の六芒星がラテン語、中央下の一層複雑な図形にはサンスクリットである。
 金髪人形は、その魔方陣の中心へ、己が持つ筒の先端を向けた。先端にはガラスが嵌っていて、その筒の中がよく見えた。がらんどうである。だが、注意して見れば、その筒の中心をワイヤーが通っていることがわかるだろう。
 筒のもう一端は筒をなす金属で蓋されている。ただ、その蓋の中心、おそらくはワイヤーと繋がっているだろうコードが、にょろりと伸びていた。金髪人形は、そのコードを手に取り、ぱくりと口にくわえる。

 準備完了である。

 栗色人形が魔方陣の上に進む。両足は魔方陣の二つの小さな円にぴたりとおさまり、人形の両目は魔方陣の中心に相対した。
 かざした両手が複雑な印を切る。

 切り終えると同時だった。
 ざわり、と魔方陣が震える。
 紙の上を、まるで水面のように波紋を描いて広がり、栗色人形の体を揺らした。だが、人形の両足は吸い付いたように魔方陣から離れない。乱れる髪に構わず、人形は口を開いた。
 小さな口から、微かな、しかし確かな呪文が流れ出す。

 相方に合わせるように、金髪人形は右腕をぐるぐると回し始めた。彼女の肩には小出力のモーターが付いていて、腕を回せばささやかながら電力が得られる。その電力は、彼女の左腕を通して金属の筒へ供給されるのである。

 呪文の詠唱は続く。

 魔方陣のざわめきが大きくなる。まるで、目に見えない巨獣が、そこで身を捩り、吠え猛るかのように。
 みしり、と世界が軋んだ。魔方陣の中心から、ごう、と青い炎が吹き上がり、紙をべろりと舐めて焦がす。飛んだ火の粉は人形達にも降りかかり、彼女らの髪や服を容赦なく焼いた。
 だが、それでも、彼女らは止めない。
 呪文は続く。
 右腕は回り続ける。
 やがて、深い深い海の底から響くように、人形達を包む世界が鳴いた。
 音が光になり、光が調べとなって、渦巻き、高まり、

 燃え尽きた魔方陣の中心に、一瞬だけ異形の影が揺らいで、

 人形が持つ筒の中に、紫電が走った。




「わかったわよ」
 アリスが呟いて手を止めた。
「予想通りね。検出したわよ、放射線」
 そう言って、アリスは傍らの人形が描いたグラフを魔理沙に見せた。それを見て、魔理沙は、ふむ、と頷く。
「しかし、思ったよりも少ない。こんなものなのか?」
 それも想定内よ、とパチュリーが言った。
「一番のピークは、おそらく人工衛星が地表に激突して原子炉が壊れた瞬間のはず。その時点までは臨界状態だった可能性があるから。今検出しているのは、ばらまかれた残骸に過ぎないわ」
「といっても、十分危険な線量でしょう、これ」
 アリスは、グラフを描いていた人形の頭を撫でながら肩をすくめた。
「人が死んでお釣りがくるわ」

 三人は、衛星の落下地点から一里ほど離れた森の中にいた。
 外の世界の放射線量を調べるためである。

 永遠亭の会議から二日が経った。
 現状を把握する。そのために魔理沙とアリス、それにレミリアからの頼みによってパチュリーが加わり、知恵を出し合って方法を検討した。
 まず必要となったのは知識である。
 今回の事件は、外の世界の技術、原子炉を積んだ人工衛星の落下によるものだ。それを検証するには、それそのものを知らなければどうしようもない。
 また、博麗大結界についても調べる必要があった。今、霊夢に何が起きているのか。それを知らねば彼女を助けることなどできやしない。

 核物理学について、魔理沙はそれなりの知識があった。
 彼女が懇意にしている古道具屋、香霖堂は、外の世界の書物も扱う。その中には、一般向けの科学雑誌も多くあって、魔理沙はこういったものを昔からこっそり読んで研究していたのである。
 無論、何かに利用できないかと考えてのことである。魔理沙は、魔法使いとしては異端で、極めて雑食である。目的が達せられるなら既存の魔術理論に拘らない。そもそも、魔理沙は勉強が嫌いじゃないのだ。どんな知識でも得るのは楽しい。

 一方、パチュリーはどちらかといえば古風な魔女で、近代科学についてはいささか怪しい。しかし、彼女は元々己の読書欲を満たすために広範な本を読み漁っており、どの分野でも彼女なりに基礎を理解していた。彼女の二つ名、大図書館とは、彼女の居場所ではなく、彼女自身の博覧強記を指しているのだ。
 その上、彼女はおよそ魔術と名の付くものならエキスパート中のエキスパートである。西洋東洋なんでもござれ。大結界の謎を解くにはうってつけの人材といえた。

 アリスもまた、外の技術についてはこれまで触れたことがなかった。これは、興味がなかったというよりも、単純に必要がなかったからだ。
 アリスは、研究に関しては極めてストイックで真っ直ぐだった。己の研究テーマである自立人形の作成のみを考え、そのために何が必要であるかを見極め、一つずつ淡々と課題をこなしていくのが、彼女のスタイルである。
 そんな彼女は、人形作りの一環として、人体の仕組みや医学に関してはかなり深い造詣を持っていた。無論、アリスは医者を志すわけではなかったので、病気や治療法といった面は素人に毛が生えた程度である。が、それでも彼女は人の体の中がどう繋がり合っているのかをよく知悉していたし、その面に関して言えば、彼女はそこらの医者よりも遥かに詳しい。

 そこで、互いに自分のフィールドを教え合うことになった。これが一日目。
 魔理沙とアリスは、その日から身の回りの物と研究資料を持って、紅魔館に泊まり込んだ。

 ところで、魔法使いにとって、知識は力である。これを弟子でもない他人に教えるなど、本来、天地がひっくり返ってもあり得ない。
 知識は奪うもの。それが魔法使いの基本である。

 すなわち、血で血を洗う修羅場が展開された。

 互いに本や論文を奪い合い、目を血走らせて貪り読み、質問があれば恫喝と懐柔と謀略で為され、最終手段の力づくに至っては、おやつのスコーンをつまむよりも簡単に行われた。咲夜ですらその場に近付かなかったというあたり、その惨状が知れようというものである。
 嵐のような一日が過ぎ、静かになった頃合いを見て図書館を訪れた咲夜は、三人が仲良くソファの上でノックアウトしている姿を見た。三人ともボロ雑巾のような有様で、これでは魔女よりも灰かぶり姫の方が似合いそう、と咲夜は思ったとか思わないとか。

 ともあれ、犠牲は払われた。
 翌朝、三人は咲夜によって大浴室に放り込まれた。そして、湯上がりで乾かない頭のまま、もそもそと朝食を摂り、気付けのハーブティを胃に流し込んだ後のことである。
 魔理沙は言った。

 幻想郷の外を調べよう
 幻想郷が置かれた状況を掴むならば、その元凶たる人工衛星、その原子炉について調べるのが手っ取り早い。

 血みどろの一日は、無駄ではなかった。
 彼女らは、昨日のことなどまるで忘れてしまったかのように、ごく自然に提案し、問題点を指摘し、考察を述べ、静かに議論を進めた。

 そして、二つのアイテムが作られた。
 博麗大結界を一瞬だけ破ることができる魔方陣と、放射線の計数管である。
 魔方陣は、主にパチュリーが設計した。強力な博麗大結界を越えるのは並大抵ではない。時間も限られているので、手段はかなり強引なものにならざるを得なかった。使い切りの魔方陣、それも紙切れ一枚に対して、スペルカード二十枚分以上の魔力がつぎ込まれた。
 計数管の設計は魔理沙である。原理としては単純だ。ワイヤーを中心に通した金属の筒に不活性のガスを詰めて、電圧をかける。通常ならばガスは電気を通さないので、筒の外壁とワイヤーの間に電流は流れない。しかし、放射線がガスを通過すると、ガスの原子がイオン化され、電子なだれとなって電流が流れる。これを測れば放射線の量もわかるという仕組みだ。
 これらのアイテム作成に二日目をまるまる費やした。常ならばこれだけのものを一日で用意できるはずもなかったが、幻想郷に名高い魔女が三人集まれば多少の無茶は通るのである。
 もっとも、材料集めなど、レミリアと咲夜の尽力も忘れてはならない。彼女ら主従が裏方に徹したからこそ、成せたことであった。

 そして、三日目が今日というわけであった。
 落下現場の放射線量を測る。ただし、生身では危険なため、アリスが遠隔操作で行った。
 結果は、クロ。
 三人の間に、しばしの沈黙がおちる。
 無論、それは当然の結果だった。三人の魔法使いが力を合わせたのだ。実りはあってしかるべきである。
 だが、為したのは、ただ事実を確認したにすぎない。

 現実を、突きつけられたにすぎない。

「さあて、どうすっかな」
 魔理沙は帽子を斜に被って苦笑する。
 本音を言えば、外れて欲しかったのだ。魔法使いとしての彼女は、もちろんそれがありえないことを確信していたが、それでもやはり、認めがたい、認めたくないものはある。
 この幻想郷のすぐ外には、死が充満しているのだ。

「それ、本気で言ってるんなら降りるわよ」
 パチュリーが、じろりと魔理沙を睨んだ。幾分顔色が悪いのは、慣れぬ強行軍のせいだけではないだろう。彼女は彼女で、この事実を計りかねているのだ。
 ただ、パチュリーは揺らいでいても折れてはいなかった。か弱げな見た目と違って、彼女の芯は鋼よりも強い。生粋の魔女は伊達ではないのだ。
 それなのに、自分を担ぎ出しておいて、その弱気はなんだ、とパチュリーは言っているのである。
 そんなパチュリーの視線に、魔理沙は、へへへ、と照れ笑いで返した。
「本気か冗談か、なんて大した問題じゃないぜ。どうせ、やるこた変わらないんだからな」
 そう嘯いてみたものの、己の弱気を指摘されるのは案外堪えた。
 なんの、まだまだスタートラインだぜ。
 魔理沙は帽子を被り直して不敵に笑う。なに、空元気でも空威勢でも空威張りでもいいのだ。
 行動さえ起こせば、結果は必ず出る。
「よし、ひとまず戻って次の作戦を練ろうぜ。ここじゃ寒くてかなわん」
 凍えた両の手のひらへ、魔理沙は白い息を吐く。今日はよく晴れていたが、それでも気温は氷点下一歩手前である。人の身たる魔理沙にはいささかきつい。
「戻る前に一つだけ、いいかしら」
 と、アリスは二人を見て言った。
「外の状況はこれでわかったけど、内側についてはどうなのかしらね」
「どういう意味?」
 パチュリーが促すと、アリスは二人を手招きして呼んだ。内緒話というわけだ。三人で頭をくっつけ合うと、アリスの人形四体が周りを囲んだ。話が洩れないための結界である。
 念の入ったひそひそ話が始まる。
「ずばり聞くけど、霊夢の病状は本当なの?」
「具合が悪いのは本当だぜ。一番近くにいた私が言うんだから間違いない」
「私が言ってるのはそういうことじゃないわよ。どこが悪いのかってこと」
 ああ、そういうこと、とパチュリーが頷いた。
「血が病んでるのは本当よ。レミィが言うからこれは確か」
「それは信じていいの? 客観的に見て、あなたと彼女の友情や信頼は抜きにしても正しい?」
「……それは私への侮辱? それともレミィへの侮辱かしら?」
「気に障ったらごめんなさい。でも、これから進むためには、その前提が大事なのよ」
「前提?」
 怪訝な顔をする魔理沙を尻目に、ああ、とパチュリーは呟いた。
「なるほど、あなた、放射線病かどうかを疑ってるのね。ふん、だからわざわざこんなところでそんな話を……」

 霊夢の病状の証明に、レミリアの言を使う、ということだった。
 吸血鬼であるレミリアが血について語るのだ。その信憑性は、医者の言葉よりもはるかに高い。
 しかし、なにぶん言葉だけのことだ。その言が信ずるに足るのかは極めて重要である。
 だからこそ、アリスは問うたのだ。
 レミリア本人がいない、真っ昼間の紅魔館から遠く離れたこの場で。

「まったく、疑り深いわね、あなたは」
「魔法使いとしてのサガね。小さいことでも気になると落ち着かないの」
「そりゃあ、お前が細かすぎるだけじゃないのか」
「あんたが大雑把すぎんのよ」
 アリスが涼しく返すと、「本質さえ捉えてりゃ、大雑把でもいいのさ」と魔理沙はニカッと笑った。
「で、だ。その本質を捉えた私が見るに、あいつにゃ私らを騙せるようなウソなんかつけないだろ」
「鼠風情が知る本質なんて、せいぜいチーズのカビくらいのものでしょうけど、レミィが嘘をつけない性格なのは確かね」
 パチュリーは、むすっとした顔で額にかかる髪をかき上げた。
「あるいは、上手い嘘がつけない、と言った方がいいのかしら。この間、妹様のおやつまで食べちゃった時だけど、ええ、妹様がそりゃあカンカンに怒って……私も咲夜も宥めるのに苦労したわよ、あの時は。それなのにレミィったら『当主たるこの私がそんな意地汚いことをするわけないでしょう!』なんて堂々と言い張るのよ」
 口の端に生クリーム付けてね、とパチュリーは肩をすくめる。その様子が容易に想像できて、くっくっと魔理沙は笑った。
「まあ、それはおいといて」
 パチュリーは、こほんと小さく咳をする。
「私はもっと他のことが気になるわ」
 魔理沙は口笛を一つ吹いて応えた。
「当ててみようか。あいつのことだろう? 胡散臭いあいつ」
 ああ、とアリスも頷く。
「そうね。これだけ待っても出てこないんだから確定でしょ」

 八雲紫のことである。
 博麗大結界について、おそらく誰よりも詳しいのはかの大妖怪だろう。博麗の巫女たる霊夢よりも結界のことを気遣い、時として霊夢を叱りに来るくらいには熱心な彼女である。
 さて、ここに三人の粗忽者がいる。
 無謀にも大結界に力づくで穴を開けようとした大馬鹿者達である。
 彼女はどうするだろうか。そりゃあ、もちろん怒るだろう。いやいや、怒るだけでは済むまい。相手が霊夢ならいざ知らず、大結界のことをハの字もわかってない輩が弄くろうとしているならば、いかに怠惰なあのスキマ妖怪とて出張説教サービス弾幕フルコース付きくらいはするのではないか。
 それが、三人の狙いだった。
 博麗大結界のことを知りたければ、それを知る者に訊ねればいい。
 だが、八雲紫がどこに住んでいるのか、それを知る者はいない。ならば、おびき寄せるしかないではないか。

 ところが、その八雲紫が現れないのだ。

 昨日のことだ。計画を立案した魔理沙は言った。
 もし、八雲紫が現れないのであれば、理由は幾つか考えられる。
 今は冬だ。やつは冬眠しているのかもしれない。
 しかし、藍の言動から察するに、今は紫が起きて指示しているようだ。人工衛星しかり、原子炉しかり、外の世界に通じていなければ出てこない知識だ。藍は強力な妖怪だが、所詮は紫の式。この複雑な状況の中、独断で動けるとは思えない。
 それとも、こちらの動向など脅威にならないと見ているのか。
 それもあるかもしれない。だが、魔理沙は紫が霊夢へ説教する様を見たことがある。こと結界に関してはうるさいのだ。今回のことを放置するとは思えなかった。
 ならば、紫に何か事情があるのか。
 表に出られない何らかの事情が。
 寒い。紫外線が怖い。徹夜で麻雀やってた。冬物バーゲンに朝から並んでる。お化粧のノリが悪い。借金取りに追われている。etcエトセトラ。
 理由なんか幾らでも思いつくのだ。だが、もしも大結界そのものに関係することだったならば。

 つまり、紫が現れようと現れまいと、三人にとっては同じ事だったのだ。どちらにしても、得られるものはある。

「推測の域は出ないけど、結界そのものに何かが起こっている可能性は高いと思う」
「だな。そういや、藍も来ないな。あいつくらいは来るんじゃないかと思ってたんだが」
「そうね。紫が出てこられないなら、あの式が代わりに来そうなものだけど。それが来ないということは……」
 三人は揃って頷く。
 藍は無精な紫の代わりに結界の見回りをすると聞く。先日の永遠亭での絡みもある。魔理沙達の行いを知らないはずはない。
 ならば、あとは優先度の問題だ。結界の見回りよりも、三人の行いを止めることよりも優先度が高いこと。
 それは、紫が姿を現さないことに関係しているのではないか。

「面白くなってきたじゃないか」
 ふふん、と魔理沙は不敵に笑う。ひとまずは計画通りといっていい展開である。状況が悪いことには変わりないが、有力な情報が掴めたのは大きい。
「能天気ね、あんたは」
 対して、パチュリーはいかにも面白くないといわんばかりのふくれっ面。レミィの頼みじゃなきゃ、誰がこんな面倒事に首を突っ込むものか。そういった顔である。
「ま、いいわ」
 アリスが肩をすくめて、他の二人から額を離した。すると、四方を固めていた人形達もするりと離れて、結界を解く。
 密談は終わりである。
「私が確認したいことはわかったし、これで次の段階へ進めるわ」
「へえ、何か考えがあるのか?」
 魔理沙の問いに、アリスは、ええ、と応える。
「でも、その話は後にしましょう。そろそろ、放りっぱなしじゃかわいそうだもの」
「は?」
 アリスは、指をクレーターの方角に向けて言った。
「人形」


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


 幻想郷の冬は厳しい。妖怪の山ともなれば尚更である。
 東風谷早苗は、その事を秋口より山の妖怪達からよく聞かされていた。
 雪が降れば半刻も経たずして銀世界、一晩積もれば家すら埋まる。
 吹雪となれば昼間でも一歩先すら見えず、こうなると空を飛ぼうが地を這おうが、遭難は必至。まして冬の精霊が暴れる日など、あまりの寒さに目蓋が凍り付くという。
 まっさかあ。いくらなんでも大げさでしょ。南極じゃあるまいし。と、わりかし冬をナメていた現代っ子の早苗である。
 なんの、早苗とて雪深い諏訪で生まれ育ったのだ。多少の雪などなにするものぞ。

 ところがである。まさかも真逆。玄関のドアが埋まるほどぎっしり積もった雪を見て、早苗はたまげた。
 何しろ、外の世界では昨今そこまでの雪は降らない。富士の雪すら薄い時代である。こんなドカ雪を早苗はかつて見たことがない。
 なので、早苗は早々にギブアップした。圧倒的な物量を前に、ろくに雪かきをしたことのない足腰が悲鳴を上げたのである。
 では、いっそ神様に縋るかといえば、そうもいかない。神奈子も諏訪子も、寒い寒いとコタツから出ない有様なのだ。さもありなん、蛇と蛙である。冬眠しないだけマシといえた。
 とはいうものの、誰かに頼らなくてはどうにも早苗の手に余る。そこで、どうなったのかというと。

「早苗様、屋根の雪下ろし終わりました」
「はーい、いつもご苦労様です」
 なんのなんの、どういたしまして、と空に舞うのはシャベルを肩に担いだ天狗達である。彼らを、早苗はサービススマイルで手を振り見送った。
 別に強制しているわけではない。これは、山の妖怪達による自発的な奉仕活動であり、この守矢神社への信仰の表れなのだ。無論、信仰は神徳となり、巡り巡って山全体の益となる。このことについて、早苗が引け目を感じるいわれなど一切ない。
 表面的には。
 天狗の姿が見えなくなり、からからと玄関の戸を閉めたところで、早苗は、ふう、とため息をつく。
 現状に甘える自分を省みてのため息である。

 こういう時、早苗は、いつも彼女のことを思い出す。
 冴えないぼろっちい神社で、守矢神社のように信仰を集めてなくて、一人で雪かきも雪下ろしもやっているらしい彼女のことを。
 比べるな、というのは無理な話だった。同じ年頃で、同じような仕事をしている。それだけで意識するには十分だった。
 自分に至らない部分があると、では彼女はどうだろうか、と考えてしまう。考えても詮無いことだ。そもそも、彼女と早苗では生まれも育ちも違いすぎる。
 しかし、わかっていても、やはり比べてしまうのだ。
 こういうところが、自分の至らないところなんだろうなあ。と、早苗は再びため息をついた。
 よし、と拳を握って気持ちを切り替える。毎回、悩む時間は短い。長く引きずっても良いことなんかないのだ。そのことを早苗は知っている。
 常に前向きに明るく。曲がりなりにも、早苗は神に仕える身であり、教えを広める立場にある。暗い顔をしては布教など務まらない。

 居間に戻ると、コタツで背を丸くした神奈子が顔を上げた。
「ああ、お疲れさん」
「はい、ただいま戻りました。あ、お酒無くなっちゃいましたね。まだいただきます?」
 早苗は、空になった銚子を手に取った。そのまま厨房へ向かおうとしたところを、神奈子は身振りで止める。
「いや、もういいよ。それよりコタツに入んな。寒かったろ」
 ぽふぽふとコタツ布団を叩いて誘う。早苗は、くすりと笑って、その誘いに乗った。
「では、お言葉に甘えまして」と、コタツに足を入れる。じんわりと足先から沁み渡る温もりに、存外自分の体が冷えていたことを早苗は改めて知った。
 足を伸ばそうとすると、先客にぶつかった。早苗の向かい側で、むにゅーと呻く声。どうやら、諏訪子は酔夢の旅に出かけている様子である。
 ぶつからない位置に足を確保し、両手もコタツに入れて、しばらく暖を取る。ああ、ただ手足が温もるだけなのに、どうしてこんなに幸せを感じるのか。頬を緩ませながら、早苗はそんなことを考えた。
「こないだ雪下ろししたばっかりなのに、せわしないねえ」神奈子が口を開いた。
「早苗がいてくれて助かったよ。私らだけじゃとっくに雪に潰されてるね」
 隣で寝息を立てる諏訪子を見やって、神奈子は苦笑する。神の身で寒さに弱いことを気にしているのか、神奈子はこの冬、こういったことをよく口にした。

 基本的に、神社とは神を据えて崇め奉る側が必要とする物で、神社の世話は奉る側が行うのが筋である。なので、例えばの話、神奈子や諏訪子が神社の雪かきや雪下ろしをするなど、あってはならないし、してはならない。
 だから、彼女らは神としてどっしり構えてくれてればそれでいいのだ。神奈子が気に病むことなどない。

 似たようなところ、気にするんだなあ。先ほどまでの自分と重ねて、早苗は一人くすくすと笑った。
 神奈子のそういう人間臭さが、早苗は好きだったりする。
「いいんですよ。私だって実はあんまりお役に立ててないんです。全部天狗さん達がやってくれて」
「天狗達か。ああ、助かるねえ。今日来たのはこないだと同じ連中かい」
「ええ。みんな良い人で助かります」
「そうかい。まあ、連中だって全くの見返り無しじゃないからね。それに」
 そこで、神奈子は意味ありげに早苗を見る。
「もしかすると、中には早苗が目当ての奴もいるかもねえ」
「な!?」
 早苗の赤面を見ながら、くっくっと神奈子が笑う。
「別に不思議じゃないさ。天狗は面食いだし、早苗は器量良しだからね。その上、この山にいる人間は早苗だけときたもんだ。狙ってる奴は結構いると見たね」
「そ、そんなこと!」
 あるわけない、と思いつつ、早苗は今日の記憶を辿る。

 思い返せば、力仕事に来る天狗は男性が多い。しかもみな、彫りが深くて鼻筋の通ったイケメン揃いである。
 気になる言葉、気になる仕草、そういえばあの時のあの天狗はもしかして、と想像と推測と憶測がメレンゲでかき混ぜられ、疑えば何もかもが疑わしい。すると、ああでもこの人はあんまり好みじゃないんだよなーどっちかというとあっちの方がーと自然に選別していたりして、想像から妄想へ翼を広げようとしたところで、はたと神奈子のにやにや笑いに気付く。そうなれば、己の自意識過剰ぶりにイヤでも気付き、神奈子へ何かを言い返そうとして口を開けたものの、結局は言葉にならず、ぷうっと頬を膨らませてそっぽを向いた。
 耳まで真っ赤になった早苗の様子に、ついに神奈子は吹き出した。
 早苗は、羞恥と怒りに身を焦がして頬を膨らませたままだったが、あまりにも屈託無く笑う彼女が楽しくて、やがて早苗も笑い出す。
 ああもう、人間臭すぎるのも困ったもんだわ。
 心の内でそう呟いて、でもやっぱりそういうところが好きなのだ、と早苗は改めて思う。

 ひとしきり二人で笑って、一息ついた。
 声が途絶えると、この山深い地はとたんに静寂が宿る。しばらく無言でその静けさを楽しみ、味わい、やがて神奈子は口を開いた。
「連中、様子は変わりないかい?」
 何気ない口ぶりだったが、その声には幾分かの憂いを含んだ。早苗は表情を引き締める。無論、その質問の意図を早苗が見誤るはずもない。
「はい。特には」
「そう」
 再び、しばしの沈黙が降りる。神奈子は、何事かを考え込む様子で、それっきり続きを話そうとしない。
 ちょうどいいかもしれない、と早苗は思った。
 早苗には、先日来から疑問があった。そのことを尋ねるには良い機会だ。
「神奈子様。先日の永遠亭でのお話ですけど、なぜあの事をお話にならなかったのですか?」

 永遠亭に彼女らが集められた夜。あれから二日が経った。
 あの場で、神奈子は妖怪の山として一時静観という姿勢を藍に伝えた。一応は、藍の意向に沿った形となる。
 理由は幾つかある。

 妖怪の山は、幻想郷のパワーバランスでかなり大きい位置を占める。強力な妖怪達の棲み処であり、幻想郷設立以前から長く続く歴史もある。幻想郷はそもそもが異界だが、妖怪の山はその中でも際だって異界なのだ。妖怪同士ですら、麓の者は滅多に山へ立ち入らない。こうした閉鎖環境を作り、持続できるという事実こそが、妖怪の山の力を示しているといえる。
 神奈子は、幻想郷では新参中の新参であるものの、妖怪の山の神として据えられた。据えられた以上は、山を治める権力を与えられ、またその責任を担わねばならない。
 力が強大であるがゆえに、その振るいどころは見極める必要がある。藍の言のとおり、上が惑えば下の収拾がつかなくなる。軽々な判断は慎むべきである。

 また、動こうにも現状、神奈子には手が出せない。神には神の仕事があり、悲しいかな、神奈子は今の山を掌握するだけで手一杯だ。山の誰かが勝手な真似をすれば、たちまち山の秩序は崩壊する。その影響は、幻想郷の全てに及ぶのだ。今、この状況では、神奈子は手綱をしっかり握っていなければならない。

 更に、あの場ではレミリア達に動いてもらうために藍をとりなさなければならなかった。
 藍にも立場がある。誰も言うことを聞かぬのでは彼女の、ひいては八雲紫の面目が立つまい。しかし、神奈子とてただ待つことを是とはしない。レミリアのような遊撃部隊は必要なのだ。だからこそ、神奈子は永遠亭や幽々子と組み、藍を抑える側に回った。
 そういった事情を鑑みた上で神奈子が出した結論が、静観である。
 ただ、天狗の報道管制だけは必要である。霊夢が病に倒れたこと、またそれにまつわる危機について、天狗がスッパ抜かないように抑えなければならない。そのことを、神奈子は藍に確約した。

 だが、実はその確約には、裏がある。
 あの場の誰にも話していないことが、神奈子と早苗にはあった。

 あの時点で、山は既に情報管制を敷いてあったのだ。

「その質問を、あの時でなく今するということは」
 神奈子が早苗を見た。
「早苗にもおおよその理由はわかってるんだろう? それでも私の口から聞きたい?」
 はい、と早苗は応える。神奈子が言うとおり、早苗には見当がついている。しかし、納得ができないところもあるのだ。
 早苗の様子を見て、神奈子も頷いた。
「わかった。そうだね、どうやら、天狗達も今のところ落ち着いてるみたいだし、少し話しておこうか」
 神奈子は、コタツから両手を出して、天板の上で手を組んだ。早苗も背筋を伸ばし、洩らさず聞き取ろうと構える。
「まず第一に、これは天狗達自身が隠しておきたい事柄なの。そのことはいい?」
「はい、それはわかります」
 早苗は頷いた。
「確かに、知られたくないでしょうね。天魔様がご病気とは」


 その報を受けたのは、永遠亭での会議の前日である。
 その日は、午後から吹雪いた。家中閉めきっていても風の咆吼が届いたし、寒さときたらいくら着込もうが袖の隙間から凍みて痛い。
 射命丸文が守矢神社に訪れたのは、そんな時だった。
 幻想郷の冬は厳しい。ましてこんな天気では、いくら天狗とて滅多に出歩かない。妖怪は自然に従順なものである。
 そこを押して、彼女は訪ねてきたのだ。
 そこかしこに分厚い雪綿をくっつけて。普段は快活なその笑顔も凍らせて。今日の私は新聞記者じゃないんですよ、と嘯く言葉すら寒々しく。
 彼女は囁くように告げたのである。

 天魔様、急病。

「天魔殿が!?」
 聞いた神奈子の眉が跳ね上がった。天魔といえばこの妖怪の山で天狗を統べる大天狗、神奈子らが来るまでは鬼に代わって山を治めてきた大妖の中の大妖である。殺そうとしたって死にそうにない大物で、これが病に倒れたとは俄に信じがたい。
 だが、伝える文は真剣である。常ならば見ることの出来ない一面、組織を構成する一員としての顔である。
「容態はどうなの?」そう問うたのは諏訪子である。この時には、彼女や早苗もその場にいたのだ。
 その問いに、文は硬い表情のまま首を横に振った。
「申し訳ありません。今の私の口からは何とも申せませんので」
 そこで文はその場に膝を付いた。
「実は、天魔より直に二柱の方々へお話ししたき儀がございまして、本来はこちらから参るのが筋でありますが、なにしろ天魔が床に伏して動けぬ有様。重ねて大変恐縮でありますが、何卒あちらまでご足労をばとお願いつかまつるべく参上した次第です」
 何卒、何卒宜しくお願い申し上げまする、と文は深く頭を下げた。

 何もかもが異例尽くしである。
 この荒れた天気にやって来たのも異例なら、天魔が病に倒れたことも異例、話をしたいから二柱へ来てくれと頼み込んでくるのは異例中の異例だ。しかも、あのプライドの高い天狗が、射命丸文が頭を下げてまで、である。
 用件があるなら、それこそ文が伝令を務めればよい。それをしないということは、病に伏してなお直接会って話したいということは、つまりそれだけ機密性の高い内容だということだ。

「わかった。行こう」神奈子の決断は速い。緊急性を鑑みてのことである。
「まあ、仕方ないね」と、諏訪子も頷く。その答えを聞いて、文は明らかにほっとした様子だった。ありがとうございます、と改めて深く礼をする。
 取るものも取り敢えず、神奈子と諏訪子は支度をして文とともに出かけた。早苗は留守番である。
 蛇と蛙である。この吹雪では寒さが堪えるだろう。天気が落ち着いてから出てはどうか、と早苗は言ったが、神奈子は頭(かぶり)を振った。義理人情を大事にする神様である。文の心意気に感じ入ったのかもしれない。

 二柱が帰ってきたのは、とっぷりと日も暮れた後だった。
 その頃には吹雪も止んでおり、冴え冴えとした月が顔を出していた。それでも寒いものは寒いわけで、神奈子も諏訪子も蒼白い顔でさすがに限界の様子。これでは話もろくにできぬ、と慌てて早苗は熱いお風呂と熱燗を用意した。
 身体も十分に温まり、コタツで銚子を傾ける頃合いになって、神奈子はようやくぽつりと言った。
「ひとまず、命に別状は無さそうだよ」
 そうですか、それは良かったですね、と早苗は明るく返したが、神奈子の表情は晴れない。怪訝に思って口を開こうとしたところに、隣の諏訪子から声がかかった。
「早苗、今は聞かないでおくれよ」
 なぜですか、と問おうとして早苗は止めた。諏訪子の目に真剣を見たからである。
 諏訪子の普段は緩やかだ。喜怒哀楽のはっきりした神奈子と比べて、その気性も振る舞いものんびりしていて、真剣だとか本気などといった言葉とは遠いように見える。神奈子と他愛ないことで喧嘩するのはしょっちゅうだが、それが彼女らなりのコミュニケーションであることは早苗から見たって明らかで、例え殴り合いでも彼女は楽しそうに笑ってたりするのである。
 だから、早苗は諏訪子のこんな目を知らなかった。
 諏訪子は続ける。
「近いうちに詳しい話はするよ。でも、今は言えない。実は、私らもはっきりと話ができるほど確かなネタが無いのよ。だから、ネタが揃うまでは待ってちょうだい。天狗達もあたふたしてる状況だしさ」
 そこで、諏訪子は表情を和らげた。悪いけどゴメン、と手を合わせてウインクする。
 彼女なりに、暗くなった場を繕おうとしているのはわかった。神様にそんなことをさせては、早苗としても立場がない。くすりと笑って、早苗は言った。
「わかりました。天狗さん達にもいろいろ事情がおありでしょうし、この話はこれでおしまいにしましょう」

 その日から、早苗はそのことについて触れないようにした。
 いずれは二柱より話が改めてあるだろう。それまでは、それでいいと思ったのだ。

 だが、その翌日の夜、永遠亭に呼ばれた後、早苗は気付いた。
 気付いてしまえば、それからずっと気になって仕方がない。思いついた考えが頭から離れない。
 神奈子や諏訪子から話があるかとうずうずしていたものの、いっこうにそれらしき動きもない。
 もし、このまま何もなかったら、いずれ早苗の方から切り出すことになっただろう。
 こうして神奈子の方から話を振ってくれたのは、むしろ早苗にとっては望むところだった。

「ずばりお伺いしますが」
 早苗は身を乗り出して神奈子へ問うた。
「天魔様のご病気は、霊夢さんと同じではありませんか?」
 神奈子は、その問いに動じなかった。
「どうしてそう思う?」
 思うところを言ってみろ、というわけだった。神奈子は、いつもただ漫然と答えを教えたりはしない。それは、彼女の神としてのあり方である。人を導くのは神の役目だが、ただの盲従や盲信を神奈子は良しとしないのだ。己の頭で考えた先にこそ道は示されるべきだ。度々、神奈子はそう言う。
 わりと、その場のノリに流されてあまり考え込まない早苗にとっては、ちょっぴり耳が痛い話である。今回の件についても、切っ掛けはほとんど勘みたいなものだ。早苗はわずかに頬を赤らめて、口を開いた。
「まず、タイミングが良すぎます。ほとんど同じ時期にご病気にかかるなんて、しかも天魔様みたいな大妖怪が寝込まれるほど重いご病気なんてありえないです」
 それに、と早苗は続ける。
「永遠亭で、あのお医者さんが言ってました。『放射線の影響を受けている人間』は霊夢さんだけだって。じゃあ、『人間』じゃなければどうなんだろうって思ったんです」
 放射線の影響を受けている『妖怪』がいるのではないか。
 あの場では気付かなかったが、天魔の件を含めて思い返すと、その点はどうにも気になった。
「多分、他の天狗さん達も霊夢さんが倒れたことなんてすぐ知ったはずなんですよ。あれだけ耳の早い方達なんだから。大スクープです。でも、神奈子様からお触れを出すまでもなく、そのことを新聞に載せなかった。それは、おそらく」
 霊夢が倒れたことから繋げて、天魔の病気に気付いて欲しくなかったから。
「そう考えると筋が通るんです。霊夢さんと天魔様の病気には関連がある。天狗さん達はそのことを知ってるんです」
 そして、そこから導かれる推測。

 天魔は、博麗大結界に関わっている。

 早苗は、そこで言葉を切った。そして、神奈子の顔を見て、ただその答えを待つ。
 神奈子もまた、早苗を見ていた。ただ、早苗の真っ直ぐなそれに比べて、神の目にはわずかに揺らぎがあった。
 コタツの上で組んだ手を二回ほど組み替えて、それでもまだ何か言うべきものを探すようにしばし瞑目して、ようやく、神奈子は頷いた。
「そうだよ」
 再び目を開いて、神奈子は言った。
「早苗の言うとおりさ。天魔殿もまた博麗大結界の病にお罹りなんだ」
 やっぱり、と早苗は思う。なに、ここまでは予想していたのだ。問題は、この先である。
「なぜって顔をしてるね。いいよ、話そう。これから話す内容は、私が天魔殿から直に聞いてきたことだよ」

 神奈子の話はこうである。
 そもそも、博麗大結界とは何か。
 幻想郷は、人ならざる者達の隠れ里として、人と敵対する者達の楽園として、自然発生的にできたのが始まりである。
 この楽園を維持する結界には、大きく二つの役割が求められる。
 まず、外の人間達から幻想郷を守ること。
 そして、外から人ならざる者達を幻想郷へ招き入れることである。
 通常の結界では、この二つを成り立たせることは難しい。技術革命によって開明化された外の人間は極めて強力であり、防壁としては相応に堅固なものが必要だ。しかし、妖怪難民達を通そうとすれば防壁に穴を開けざるを得ない。となれば、結界の強度が下がるのは当然のことで、それでは、そもそも幻想郷を守るという目的を外してしまう。
 博麗大結界は、この二つの相反する難題を同時に解決する画期的なアイデアである。
 人間達の常識と妖怪達の常識の違いそのものを結界に組み込み、人間達の世界の幻想のみが幻想郷へ招かれ、それ以外のものを完全に遮断する仕組みである。
 幻想郷縁起によれば、八雲紫をはじめとする妖怪の賢者達が発起人らしい。特に、境界を操る神隠しの主犯、八雲紫なくしてこの結界は為しえなかったとされる。

「ところで早苗も知ってるとおり、結界の要は博麗の巫女。あの霊夢なわけだけど、なぜ妖怪達のための結界の要を人間が務めてるのかわかるかい?」
「多分ですけど、バランスを取るためじゃないでしょうか。ここは人間よりも妖怪の方が強いところです。でも、人間がいなくなると妖怪の意義が失われてしまう。だから、あえて人間を要に据えて、妖怪が強くなりすぎないようにしてるのでは」
「うん、それで合ってる。でもそれだけじゃなくてね。結界を作った頃の博麗の巫女がたいそうな傑物だったそうな。並み居る大妖怪達も一目置いてたとかでね。天魔殿もその人には頭が上がらなかったそうだよ。大結界のアイデアは確かに八雲紫だったらしいけど、実際に結界の基礎を拵えたのはこの巫女さんだってさ」

 だが、いかに優れていようと、たった一人の人間を要に据えるにはリスクが大きい。
 人としての短い寿命と脆い身体である。
 要を博麗の巫女が継いでいくとしても、途中で絶えてしまっては困る。

「ははあ、なんだかわかってきました」早苗は頷いた。
「大妖怪の方々が保険になってるんですね。いざ巫女に何かが起こったら、それを代わりに引き受ける、と」

 つまり、今がその『何か』が起こった時なのだ。
 結界が受けたダメージが霊夢に及ぶ。しかし、あまりにも影響が大きすぎたために、天魔へもそれが及んだ。そういうことだろう。

 そうだよ、と神奈子も首肯した。
「実際、この保険がなかったら大結界はとっくに崩壊してるよ。天魔殿達のおかげだねえ」
 では、と早苗は思う。
「なぜ、そのことを永遠亭でおっしゃらなかったのですか。もしかしたら、解決の糸口になるかもしれないのに」
 霊夢を治療できるかどうかは、結界そのものの仕組みに深く関わっている。門外漢の早苗でも、それくらいはわかる。大結界についての情報は今や千金以上の価値があるのだ。
 それに、被害状況を正確に知ることは、対策を打つ上でも重要だ。霊夢以外にも被害者がいる。永遠亭での治療も必要だろう。
「そうもいかないんだよ」
 対する神奈子の表情は渋い。
「この話はね。門外不出、秘中の秘だ。九尾の姐さんが言ってただろう。この幻想郷は微妙な均衡で成り立ってる。もしこの話が広く知れたらどうなると思う?」

 幻想郷は一枚岩ではない。博麗大結界を快く思わない者だっている。そういう輩がこの話を聞けばどう思うか。
 博麗大結界の弱点を知れば、何をしでかすか。

「もちろん、これを知ったからっておいそれと手が出るものじゃないけどね。でも、知られれば、今はいなくても、いずれは必ずそこを突く者が出る。突ける手段を考える。天魔殿が私に教えてくださったのは、この非常時だからこその特例だよ」
「しかし、私にはこの話を今してくださったじゃないですか」
「誰にでもってわけにはいかないよ。私は早苗のことを信じてる。この神社にいる以上、早苗にも知って欲しいと思ったんだよ」

 それは、つまり。
 早苗は知らず眉をひそめる。

「それは、つまり、あの場にいた方達が信用ならないということですか」

 あまりにも直截な言い方に神奈子は鼻白んだが、やがては渋々と頷いた。
「気を悪くしないどくれよ。私だってあの連中が悪い奴らだなんてことは言わないさ。でもね、あの吸血鬼の嬢ちゃんにしろ、かぐや姫さんにしろ、うちらにしろ、この幻想郷じゃ新参扱いなんだ。天魔殿は私らを信じてくれたけど、他の連中じゃそうはいかない」
 神奈子は、ふう、と重い息を吐いた。
「わかっておくれ。私も預けられた信頼は裏切れないんだよ」
 いつになく弱々しい言葉だった。
 無論、早苗とて小さな子どもではない。神奈子のいう事情もわかる。
 だが、それでも、
「そんな、この一大事ですよ! どうしてみんなで協力しようって思わないんですか!」
 やはり早苗には納得できないのだ。
「大結界の弱点がなんだっていうんですか! もしこのまま霊夢さんが死んじゃったりしたら、そんな秘密守ったってしょうがないじゃないですか!」

 もし、そんなことになったら。
 早苗はそう言いそうになって、すんでで堪えた。

 もし、そんなことになったら、私達はどこへ行けばいいというのか。

 そうだ。
 今更ながらに、早苗は気付いた。
 己が抱えていた不安。
 この居場所が無くなるかもしれないという不安を。
 確かに、早苗は霊夢の身を案じている。何度か諍いもあったものの、早苗は霊夢のことを認めた。幻想郷に引っ越してきてから、初めて出来た友人なのだ。
 だが同時に、早苗はこの幻想郷が失われることをひどく怖れていた。
 外の世界の全てを捨て去ってまでやってきた新天地だ。もしここを失ったなら、どこに信仰の場を求めればいいのか。
 その不安が、早苗を駆り立てる。早苗の声を震わせる。

「天魔様が気になさることはわかります。しかし、神奈子様も聞いていたでしょう? ことは一刻を争うはずです。私は紅魔館の方々をあまり存じませんけど、あの方達だって幻想郷そのものについてはそれほど詳しくないでしょう。本来なら、ずっと昔から住んでる方々こそがことに当たってしかるべきなのに、この山の皆さんは動こうとなさいません。それはおかしいことだと思われませんか!」

 早苗は、自分でもきついことを言っていると思った。もっともらしいことを言っているようで、実は己の不安をただぶつけているだけだ。そんなことは早苗自身もよく承知していたが、一度口にしてしまえば止まるものではない。一息に言い切って、荒く息をして身構える。
 だが、昂ぶる早苗に対して、神奈子は静かだった。ただ俯いて、早苗の言葉を聞いているだけ。
 なぜだろう。その肩がひどく小さく見えるのは。
 そのあまりにも頼りなげな姿を見て、やっと早苗は自分を取り戻した。

「す、すみません。なんか、その、取り乱しちゃって」
 耳まで赤くなって、早苗は頭を下げる。いかに気安くても、神奈子は自分が奉る神様なのである。これは失礼が過ぎたか、と小さく縮こまった。
 普段、おっとりして見える早苗だが、実は一度熱くなると止まらないたちなのだ。そのせいでこれまで失敗したことは数知れず。だが、これがなかなか改まらない。

「早苗」
「は、はいっ」

 静かな声に、早苗はしゃちほこばって応えた。叱責を覚悟して息を呑む。
 だが、神奈子は激することはなかった。ただ静かなまま、ぽつりと言う。

「早苗は、どうしたらいいと思う?」

 その問いかけは、あまりにも何気なく、素っ気なかった。その声は、風が凪いだ水面に似て、静かで、深くて、鏡のように早苗を映した。

「私も紅魔館を手伝おうと思います」

 その言葉は、するりと胸の内から滑り出た。気負ったわけではない。早苗自身が驚くくらい、あっけなかった。そして、己の言葉に打たれて、早苗は初めて気付く。
 そうか、私も役に立ちたかったのだ、と。
 人任せではなく、人に頼るのではなく、『私』が誰かを助けたかったのだ、と。
 その時、初めて気付いたのだった。
 すうっと身体が軽くなるのを早苗は感じた。それまで自分を縛っていたもの、自分の上に覆い被さっていた何かが、さながら春を迎えた雪のように、いつの間にか跡形もなく消え去ってしまった。
 きっと、イヤだったのだ、と早苗は思う。
 無力な自分が。頼る自分が。至らない自分が。雪かき一つすら満足にできない自分が。
 意識するなと思っていても意識してしまう。彼女の強さを。彼女と己の違いを。それを認めたくなくて、色々な理屈をこねて、自分を納得させて、早苗は現状に甘んじてきた。
 だが、早苗は今こそ知る。
 それは間違っている。

「私は神に仕え、神の言葉を皆様に広く伝える役目を持つ者として、この事態をどうしても見過ごせません。何もしないまま、こうして時が過ぎることが許せません。そのような自分に納得できません。己を偽ったままで、どうして人を導くことがかないましょうか」

 コタツを出て、神奈子から退いたところで改めて正座した。そして、両手をついて深々と伏礼する。

「八坂様にかしこみかしこみ申し上げます。私はこの幻想郷を失いたくありません。霊夢さんが命を落とすことを望みません。天魔様のご快癒を願っております。だから、八坂様、なにとぞかしこみかしこみ申し上げます。なにとぞ私の願いを聞き届けください」

 それは、早苗の心の底から湧き上がる言葉だった。まるで、己の口を借りて誰かが話しているかのように思えた。
 だが、早苗は己の言葉が正しいことを知っている。なぜなら、彼女の願いこそは、この幻想郷に生きる全ての者達の願いだからだ。
 そう。かつて、現代ほどに誰もが豊かでなかった時代、人が自然を怖れ、厄災を怖れ、神を畏れて、ただ手を合わせて祈るしかなかった時代に、人々と神とを繋ぐべく生きた彼女の先祖達のように、早苗は人々の願いを神奈子へ伝えているにすぎない。
 それこそが、祝詞の役目。
 巫女の役目だ。

 早苗は、伏したまま神奈子の応えを待った。
 言うべきことは言った。後の判断は神に委ねる。神奈子がどのような決を下しても、早苗は従う。たとえ、それが早苗の意に沿わぬ事だとしてもだ。
 早苗は神奈子を信じている。それが、早苗の信仰である。
 だから、早苗はいつまでも待った。
 時が緩慢に過ぎ、外の木の枝がばさりと己の雪帽子を落としても、なお待った。

「わかった」

 神奈子の応えは、早苗が信じたとおりの声だった。
 それまでの気弱なところなど微塵も無い、揺るぎなく確かで、凛としていた。

「私も決めたよ。いいさ、早苗の好きにするがいい。責任は全て私が持つ」

 早苗は、ぱっと頭を上げた。神奈子は、いつもどおりに、柔らかい目尻と不敵な口元で笑いかける。

「はいっ、ありがとうございます!」

 元気よく返事をして、あらためて礼をした。心が沸き立ち、胸が昂ぶる。そうと決まれば、善は急げ。今や遅しと早苗は席を立たんと片膝を立てる。
「ああ、ちょっとお待ち」
 と、神奈子が止めた。
「ところで早苗。あっちに行って何を手伝うつもりなんだい」
「は?」
 問われて、早苗はぽかんと口を開ける。しばらく言葉を咀嚼して、たちまちに赤面した。
 まさか、何も考えてませんでした、とは言えない。
 そんな早苗の様子に、神奈子は苦笑する。ついついノリで行動してしまう早苗のことなど、神様はお見通しなのだった。
「まあいいさ。いいかい、よくお聞き。この異変で、私達が持つ一番の武器はね。私ら神の力じゃない」

 常識だよ、と神奈子は言った。

「じょ、常識、ですか」
 思いも寄らぬ言葉に、早苗は目を白黒させる。
「そう、常識さ」
 神奈子は頷いて言葉を継いだ。
「ここの住人は外の世界を知らなすぎる。外の世界じゃ常識だった原子力のことを、原子力のパワーと怖さを、ここじゃほとんどの者が知らないんだ。だから早苗、お前が持つ常識は、この異変については掛け替えのない立派な武器だ。その武器で、あの連中と一緒に戦っておいで」

 早苗は、惚けたようにぽかんと口を開けた。
 外の常識。それは今の早苗にとってはコンプレックスだった。
 自分にとっての当たり前が、ここでは当たり前じゃない。早苗は、幻想郷に来て様々なカルチャーギャップを経験してきたが、未だにその種は尽きない。
 外の知識や経験は全く役に立たなかった。ここは電気もガスも無いし、コンビニも無ければテレビも無い。テレビのタレントをいくら知っていても、テストでいくら良い点を取ったとしても、この幻想郷では無駄でしかない。
 そう思っていたのだ。
 だが、神奈子は早苗が役に立つと言う。
 早苗が知る外の世界が、皆の役に立てるのだと言う。

 それは、自分にしかできない務め。

 必要とされているのだ。その思いは、早苗に力を与えた。
 心が震える。沸き立つ。
 早苗はすっくと立ち上がって力強く宣言した。

「わかりました。不肖東風谷早苗、魔理沙さん達に外の常識をどーんと教えて差し上げましょう!」
 困難苦難何するものぞ。早苗は、胸を張って見得を切る。




 勇ましいステップで早苗が部屋を出ていく。やがて、早苗の部屋や押し入れ、外の納屋までも騒々しく引っかき回す物音が続き、やがてどうやら何かしらの準備をしたものとみて、「行って参ります」と威勢良く挨拶をして飛び立っていった。

 後には、再び沈黙が訪れる。

「よかったのかい?」
 コタツの下から、ぽつりと彼女は言った。
「起きてたの?」
「あんなに、どすんばたんされちゃ冬眠してたって起きるでしょ」
 違いない、と神奈子は笑った。

 はたして、よかったのか。

 何を指しているのか、そのことは神奈子にもわかった。いちいち問う必要などない。それくらい、長い付き合いなのだ。
「いいさ。その時はその時だよ」
 その時、というのは、異変が天魔でも敵わぬ事態となった時のことだ。
 もし、天魔が命を失うことにでもなれば。
「私が引き受けてもいいんだよ」
 コタツに潜ったまま、諏訪子は言う。だが、神奈子はかぶりを振った。
「あんたは裏方、私が表。私がやらなきゃ他所に示しがつかないだろ」

 私の仕事を取らないでくれ。

 神奈子の言葉に、諏訪子がふふん、と笑った。
「早苗が泣いても、そんなことが言えるかね」
 ことさらに挑発的なのは、心遣いの裏返しだった。わかりすぎるくらいわかってることなので、わざわざ神奈子も取り合わない。
 その時はその時だ。今、天魔が担っている役目は、本来は山の神たる神奈子が担うべきもの。
 天魔から話を聞いた時から、覚悟はできている。
 いよいよ天魔が危ないとなれば、神奈子に躊躇いはない。

 ただ、そうなれば、確かに早苗は泣くだろうなあ。
 それを思うと気が重い。
 神奈子は、はあ、とため息をついて銚子を手にとった。

「あ、しまった。早苗にお代わりを頼むんだった」
 神奈子は恨めしそうに、空の銚子を振った。もちろん、一滴だって残ってやしなかった。


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4.

 何事もやる時は徹底的に。魔理沙は常々そう思っている。
 日々の研究はもちろんのこと、己の服装然り、宴会のセッティング然り、弾幕ごっこ然り。蒐集癖もまたその現れであり、悪巧みに至っては、寝食を置いて熱心である。
 ちなみに、徹底的にというのはスケールのことではない。ベストを尽くすという意味である。たとえそれが傍からバカバカしいと思われようと、小さいことであろうと、自分が決めたことには全力で当たる。そういう姿勢を魔理沙は徹底している。
 理由は簡単だ。その方が楽しいからである。
 あるいは、楽しいからこそ徹底するのだとも言える。
 反面、つまらないと思うこと、面倒くさいと感じたことには全く意識を向けない。そういった極端さもまた魔理沙である。
 とはいえ、世知辛い浮き世なのである。
 厭だ厭だとごねていても、どうにもならないことは山ほどある。やりたくないことだって、やらなきゃいけない場合があるのだ。
 では、そういう時はどうするか。

 笑うのである。

 鏡の中の魔理沙が、にっと笑う。
 いつものように不敵に。いつものように朗らかに。いつものように元気よく。いつもの霧雨魔理沙がそこにいる。
 右を向く。左を向く。そして、自分が密かにキメ角度(アングル)だと思っている斜め三十五度。
 よし、完璧だ。
 大丈夫、これならば文句なしの霧雨魔理沙だ。
 満足して大きく頷く魔理沙。すると、その背後で、かちゃん、と扉が開いた。
 名も知らぬ妖怪兎の少女が、キメポーズ中の魔理沙と鏡の中で対面する。

 永遠亭のトイレの中のことであった。

 くるりと魔理沙は振り向く。
 笑顔のままである。
 いつものように不敵で、いつものように朗らかで、いつものように元気のよいそれである。
 兎の少女は固まっていた。本能であろう。彼女は、状況を掴めないながらも、自らが何かしらの危機にあることを察していた。
 では、そういう時はどうするか。

 笑うのである。

 ぎこちなかったが、まずは笑顔といってよかった。
 OK。
 魔理沙は彼女へ、ぐっと力強くサムアップした。釣られて彼女も同じポーズを、ただしちょっとだけ自信なさげに返す。
 すなわち、ここに一つの約束が成立した。
 他言無用。
 つまりは、そういうことである。
 いまだに固まったままの少女へ軽くバイバイと手を振って、魔理沙は何事もなかったかのようにトイレを出た。
 耳まで真っ赤になるほど恥ずかしかったが、なに、おかげで緊張が解れたというものである。
 人間万事塞翁が馬。
 魔理沙は、よし、と気合いを入れる。

 今日は、霊夢の面会謝絶が解ける日である。



 霊夢が倒れたあの日から、一週間が経とうとしている。
 その間、魔理沙は霊夢と一度も顔を合わせていない。
 霊夢の容態が回復するのに、それだけの時間がかかったのだ。
 放射線のために、霊夢の免疫力はガタ落ちだった。風邪一つすら命取りになる状況だった。面会謝絶も止む無しである。
 だが、会えぬとしても、魔理沙は度々永遠亭へ足を運んだ。紅魔館での研究の合間を縫ってのことで、そうちょくちょくというわけにはいかなかったものの、それでも魔理沙は彼女を見舞う。
 訪れる度に、必ず何かを携えていった。防疫上、酒も食べ物も持ち込み禁止とのことで、日用品が主である。下着の換え、タオルや石鹸などの洗面道具一式、暇つぶしになりそうな本や雑誌、何かの手慰みになりそうな手芸品幾つか、書き物をするかもしれぬと筆記用具などなど。
 会えぬから、当然それらは鈴仙へ押しつけて帰ることになる。「こんなのわざわざ持って来なくったって、うちには代わりのなんていくらでもあるのに」と鈴仙は苦笑したが、それでもちゃんと受け取ってくれるあたり、彼女も魔理沙の想いを汲んでくれているのだろう。
 だが、今日この日。魔理沙は、やっと霊夢に会える。
 待ち望んでいた日である。

 そう、待ち望んでいたのだ。にも関わらず、魔理沙は浮かない。
 無論、霊夢に会えることは嬉しいのだ。彼女が生きていることをこの目で確かめられる。話すことも出来る。今からだって、そのことを思ってわくわくしている。
 しかし、反面、魔理沙は怖れていた。

 一つには、霊夢の病状である。
 面会謝絶は解けるという。永琳がその判断を下したということは、霊夢がたとえ一時的にせよ、あの時よりは良くなったということだろう。
 だが、霊夢に会えない間、魔理沙は学んだ。彼女の病気のことを、である。
 その知識は、紅魔館の図書館の蔵書とアリスの知見、早苗が持ち込んだ外界の書物、それに早苗自身からの伝聞による。

 髪が抜けるという。
 歯が抜けるという。
 皮膚が剥がれ落ち、新しい皮膚もできにくいのだという。
 いつまでも下痢と下血が続くのだという。
 身体の外側も内側も壊れていき、苦しみ抜いて死ぬという。

 それが、どれほど正しいのか、魔理沙に確かめる術はない。ただ、その一週間そこらの付け焼き刃ではあっても、魔理沙はその病の怖ろしさを知ってしまった。

 だから、魔理沙は怖い。
 霊夢がどれほど病魔に冒されているのかを、これからその目で見てしまうからである。
 あの日、霊夢が倒れた時のことを魔理沙は思い出す。紙のように白い顔色、艶のない長い髪、力なく投げ出された手足、そして、
 彼女の、儚い笑顔。
 あれから、どれだけ変わってしまっただろうか。
 彼女と向き合って、自分は変わらず笑っていられるだろうか。
 そんな不安だった。

 今一つには、この幻想郷を取り巻く事情、とりわけ博麗大結界のことがあった。
 霊夢が倒れて永遠亭へ担ぎ込まれ、緊急治療が施された後のことだ。
 藍と永琳が情報交換し、その原因が博麗大結界にあるとわかった後、永琳は魔理沙に問うた。
「あなたは、霊夢にこのことを告知した方が良いと思う?」
 それは、霊夢に死期を知らせることと同義だった。
 霊夢には親類縁者がいない。本来ならば、真っ先に知らせるべきはずの人間がいない。
 だから、永琳は問うたのだろう。彼女に最も近しい友人である魔理沙へ。
 魔理沙は首を横に振った。
 霊夢へ知らせたくない。
 それは、霊夢のことを思って、というよりは、己のエゴだった。
 親友が死ぬ時のことなど、考えたくもなかった。そんなことは何もかも忘れてしまいたいくらいなのだ。
 彼女と一緒に、笑って、怒って、時には戦って。
 ただ同じ時を過ごしたい。魔理沙が願うのはそれだけだった。
 そのひとときに、死の影を落としたくない。見たくない。
 もし、彼女がそのことを知ってしまったら、どうなるだろう?
 迫る死の影に脅えるだろうか。残された生を悔いなく過ごそうと努めるだろうか。あるいは、いつものように「あ、そう」と淡々としてその日が来るのを待つのだろうか。
 わからない。わからないが、魔理沙は知りたくもなかった。
 それが薄氷の上に乗る仮初めの平穏であっても、魔理沙はそちらを選んだ。
 だから、知らせない。
 魔理沙のそんな想いを知ってか知らずか、永琳は答えを聞いても「そう」と短く頷くだけだった。
 会話はそれだけだ。以降、魔理沙はそれについて永琳と話をしていない。
 永琳が魔理沙の意を汲んで霊夢へ話さずにいるか、それとも彼女の医者としての信念や理念から独断で告知に踏み切るか。
 それはわからない。告知しないというのは、魔理沙の我が儘でしかないのだ。魔理沙には永琳を縛ることはできないし、してはならないと思っている。
 だが、できることなら前者であってほしいと魔理沙は願う。
 もし、そうであったならば。

 魔理沙は怖れている。
 霊夢が、己の死期に気付いてしまうことを。



 病室の扉は引き戸だった。寝てるかもしれないと思い、そろそろと開ける。
「邪魔するぜー」
 小声で挨拶しながら、魔理沙は首だけを突っ込んで中を窺った。すると、部屋の主とまともに目が合う。
「あら、魔理沙」
「よう」
 ごく自然に、左手で帽子を上げながら、魔理沙は笑いかけた。

 笑うことが、出来た。

「なんだ、意外と元気そうじゃないか」
 かける声が弾む。それは安堵の表れだった。
「ええ、元気よ。こないだまではきつかったんだけどね。今はもう大丈夫」
 部屋に設えられた寝台の上で、霊夢は上半身を起こして応えた。
 その様子は、ところが変わり、身も寝間着のままではあったものの、魔理沙が知る霊夢のままだ。
 むしろ、倒れたあの日からすれば血色が良いくらいである。幾分痩せてはいるものの、髪の艶も唇の潤いも戻っている。
 心の内で、魔理沙は永琳に感謝した。魔理沙が永琳の薬師としての実力を知り、認めたのは、この時が初めてである。
 寝台の隣の椅子に腰掛けて、魔理沙はあらためて霊夢と向き合った。
「大変だったな。もう起きていいのか?」
「うん、熱も下がったし。一昨日からご飯も食べるようになったの。それまでは、ずっとアレよ」
 そう言って指さす先には、点滴のビンがぶら下がっていた。

 幻想郷では珍しい代物である。ある程度、外の技術が流入している幻想郷だが、それでも投薬は飲むか塗るかが主流だ。注射器ですら貴重品であり、実際に扱える者は更に少ない。
 この点滴の用具は、永琳が河童に作らせた特注品である。静脈投与など、月では当たり前に使われている技術だ。診療所を開くことを決めた頃、永琳は方々に手を尽くして近代的な医療器具を揃えたのだとか。
 魔理沙が鈴仙から聞き出した話である。
 もっとも、永琳の薬は経口でも極めて優秀なので、点滴も注射も緊急時にしか用いられないらしいが。

「へえ、点滴だけでメシ要らずなのか。面白いな」
「面白くないわよ。あんたもやってみなさいよ、あれ。ろくに寝返りも打てないし、歩くときにもずっとあの台を引っ張ってかなきゃならないし、もう、本当に面倒なんだから」
 本当に苛立たしそうに霊夢は口を尖らせる。今も点滴のチューブは彼女の左腕へと伸びていて、どうやらその苦労は現在進行形の様子だった。
「メシは食えるようになったのに、まだ点滴してるんだ」
「うん、あれはお薬なんだってさ。でも、前よりはマシよ。前は一日中、ずーっと色々取っ替え引っ替えやってたんだけど、今はあれ一種類だけ。一日二本でいいんだから」
 ふうん、と魔理沙は呟いて、そのビンを見る。
 ラベルは付いていない。ビンの中の無色透明なその液体が何の薬なのか、魔理沙には皆目見当も付かなかったが、それが霊夢の命を繋ぐものであることは間違いなかった。
「まあ、前より良くなったのなら良かったじゃないか。あの時はほんとにびっくりしたぞ」
「あー」
 霊夢はバツが悪そうに視線を逸らした。
「んー、その、ごめんね。なんか心配かけちゃって」
「気にするなって。ちゃんと貸しにしておくぜ」
「はいはい」
 そこで霊夢は、ふふ、と笑う。
「でも、助かったわ。なんかたちの悪い風邪だったみたいで、あの時魔理沙が来てくれなかったら、ちょっとやばかったかも。だから、ほんとにありがと」

 風邪、か。
 どうやら永琳は教えていないらしい。
 また一つ不安が消えた。霊夢と湿っぽい話をせずに済む。
 となれば、ギアを上げても構わないだろう。
 魔理沙は、やっと、演技でなく笑った。

「いいぜ。どんどん感謝してくれ。だいたい、あんなになるまで我慢するこたなかったんだ。もっと早くに呼んでくれりゃ、こんなおおごとにならずに済んだのに」
「そうね、私もこんなことになるとは思わなかったから。あ、そうだ。なんかいろいろ持ってきてくれたでしょう? どうも、ありがと。助かったわ」
「おお、感謝大バーゲンだ。なに、その分は前払いでいただいてるぜ」
「前払い?」
「戸棚の奥の饅頭とか煎餅とか」
「あー! あれ、私が後で食べようって思ってたのにっ!」
「氷室に隠してあった高そうなお酒とか」
「あー! それも!」
「酒は旨かったな。口当たり良くて、まろやかで、香りがまた格別で」
「当たり前でしょ! あれ、とっておきの大吟醸だったのにっ!」
「いいじゃないか、悪くなる前にいただかないともったいないだろ」
「……お酒の封は切ってなかったもん。もうしばらく寝かせておいて飲むつもりだったのに」
 うー、と唸りながら恨みがましく睨む霊夢。入院生活で禁酒が続いているのだ。きっと、魔理沙の話を聞きながら、舌の上で幻の酒を転がしていたに違いない。
 どうどう、となだめつつ、魔理沙は思う。

 これが普段の彼女であれば、「表へ出ろ」と一弾幕ある展開なのだが――。

「まあ、なんだ。退院すりゃいくらでも飲み食いできるだろ。早く治してまた宴会やろうぜ」
 退院という言葉に期待を込める。
 それは今、魔理沙が最も望む願いでもあった。

 もちろん、その願いは叶うはずだ。
 大事なのは、諦めないこと。歩みを止めないこと。
 魔理沙は、いつだってそうしてきたのだし、願いに手を届かせてきたのだ。あの幼い日に仰ぎ見た青空さえ、今はこの手に掴んだ。ならば、今胸に秘めたこの願いだって、きっといつかは。
 だから、そのためにも魔理沙は笑う。
 やる時は徹底的に。
 だから、魔理沙は霊夢に隠し続ける。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


「ウドンゲ、昨日の検査結果は出てるかしら」
 診療室の扉を開けながら、永琳は問うた。
「はい、出てます」
 どうぞ、と鈴仙は結果をまとめた紙の束を師匠へ差し出した。永琳は小さく頷いてそれを受け取る。そして、肘付きの椅子へ座って優雅に長い足を組んだ。
「良くないね」
 一瞥してそう言った。
「なんなの、これは。一昨日とあまり変わらないじゃないの」
 眉根を寄せて、紙をぺらぺらと無造作にめくる。ほとんど読み飛ばしているかのように見えるが、これでもちゃんと隅々まで読んでいるのである。この程度の文書は、さっと視線を走らせるだけで十分なのだ。それが永琳の普通である。
 ばさり、と紙を机に放ると、永琳は口をへの字にして天を仰いだ。
「どうにも納得がいかないわね。せっかく新しい薬を使ったというのに」
 不機嫌さを隠そうともしない、そんな口調である。ここ数日、永琳はずっとこういった塩梅だった。
「で、でも、容態は安定してますよ」
 とりなすように、鈴仙は恐る恐る応えた。
 だが、

「安定しているだけじゃ意味がない」

 永琳は、ばっさりと切り捨てる。

「今の状況はあくまでも一時的なもの。快方に向かわなければ、いつ転がり落ちるかわかったものじゃないわ」



 永遠亭の診療所である。
 霊夢が入院してから三日ほどの間は、多忙を極めた。霊夢の治療はもちろんだが、なんといっても入院の体制作りが大変だったのである。永遠亭にはそれまで入院設備が無かったのだ。
 そもそも、この幻想郷では入院という仕組みがほとんど無かったのである。余程の大怪我で担ぎ込まれた時などに使われたくらいだが、昔はそれだけの怪我を負えば、たいてい命を落とす。それに、医者の側でも、長期的に患者の面倒を見るための設備や人員が用意できなかったのだ。
 その点、永遠亭にはその問題をクリアできるだけのバックボーンがあった。月の頭脳と月の技術、それに多くの妖怪兎達である。
 それらを総動員した結果、完全無菌環境の病室と二十四時間の看護体制が出来上がった。今では、この体制は完全に機能していて、専門の兎達が交代で霊夢の世話をしている。

 霊夢の容態は、入院当初から比べれば良くなった。
 全血輸血と輸液、それに幾つかの亢進剤投与。それらが効いたか、今では彼女も普通に起き上がれるまでに回復している。
 少なくとも、鈴仙にはそのように見える。

 だが、それは見せかけだ、と永琳は言った。
「放射線障害の前徴期を越えただけよ。今は潜伏期に入ったから、落ち着いたように見えるだけ。本当に怖いのはこれからよ」

 放射線障害の程度は、被曝線量と部位によって決まる。
 ある閾値を超えた線量を浴びれば、部位によらず死に至る。しかし、低い線量であっても、部位によっては回復不能のダメージを負い、重い後遺症を引き起こすこともある。消化器に障害が起これば、高い確率で絶命する。
 一時的にある線量以上被曝した場合は急性症を起こす。今回の霊夢のケースはこれにあたる。
 被曝直後は嘔吐や脱力が主な症状となる。これが前徴期。
 それから潜伏期となり、しばらくは目立った症状が出なくなる。
 だが、体内では着実に病変が進んでいる。特に骨髄障害は日を置いてその影響が出る。骨髄による造血機能が失われても、ある程度は脾臓が造血を受け持つし、既に作られた血球もしばらくは生きているからである。
 しかし、生きている血球もやがて寿命を迎える。赤血球で約120日、白血球で約二週間。そうなれば、血球数は急速に減っていく。白血球や血小板が減少するにつれ、出血や感染症のリスクは高まっていく。

 現状の霊夢は潜伏期と見られた。各症状は収まったが、検査結果から見るに状況は決して楽観できない。

「それにしても、困ったわね。思ってたより薬の効きが悪い」
 永琳は、ため息を吐いた。
 この数日、造血を補って体力を維持するよう、薬を使っている。月の頭脳が作った薬だ。普通であれば、いかに放射線障害とて十二分に効くはずである。
 だが、これが予想に反して効き目が鈍い。造血機能が回復しないのだ。悪化はしないものの好転もしない。
 輸血に頼ろうにも、量的に限界がある。幻想郷は人口が少ない上に、そもそも献血のシステムが無い。
 先日、霊夢へ用いた血液は、こんなこともあろうかと永琳が事前にストックしていたものである。慧音の手を借りてわざわざ里の有志から集めたものだ。
 だが、それも本来、緊急用である。あまり多くは用意していない。通常、永琳の薬が効くまで保てば良いからである。
 そんなわけで、いかに霊夢一人分とはいえ、継続的に血液を得るのは難しい。
「人工血液はどうですか? 月では普通に使われてましたけど」
 月でも輸血というシステムは無い。しかし、これは医療技術の発達によって単に必要ないだけである。
 永く平穏と安定が続く月では、大怪我をしたり、大病を患ったりということはほとんどない。だが、それでも何らかの理由で血を失うこともある。
 そうした場合、人工血液が用いられる。血液を補充するだけでなく、細胞の賦活、再生を促す優れものだ。
 実際、月にいた頃の鈴仙が救急医療講習で習ったことといえば、止血と輸液のやり方くらいのものだ。たいていはそれでなんとかなるし、なんとかならない場合はそもそもどうにもならない。
 もし、それが使えるなら、少なくとも輸血の問題はクリアできるはずである。
 しかし、永琳は首を横に振った。
「それはできないわ。あれを作る設備はここに無いし、作る材料もない。それに、あれは地上人には使えないわよ。身体に負担がかかりすぎる」
「はあ、そういうものなのですか」
「地上人の代謝機能は脆弱で繊細なのよ。腎臓も肝臓も人工血液を処理できない。私達と違って、ね。特に、あなたみたいな戦闘用の玉兎はいろいろと弄ってあるし」
 うーん、と鈴仙は唸る。月では当たり前のことが、ここ幻想郷では通用しない。そのギャップは何度となく経験してきたし、その都度学んでもきたのだが、それでももどかしく思うことは多い。
 永琳は天才だ。間近で見ている鈴仙はよく知っている。この師匠を超える頭脳の持ち主など、この世にはいまい。そのことを鈴仙は毫ほども疑わない。
 だが、環境がその才能を縛っている。
 良い薬を作るにはそのための材料や設備が必要だ。鈴仙も一度ならず希少な薬草を求めて幻想郷中を飛び回ったものである。
 が、幻想郷は閉じられた世界だ。手に入るものには限りがある。
 中には、どうしても手に入らないものもある。となれば、選択肢を狭めざるを得ない。
 材料さえあれば、もっと良い薬が作れるはずなのに。
 それが、歯痒い。
 そういう苛立ちを、永琳も見せる時がある。あの薬さえあれば、もっと楽なのに。そうぼやく場面は一度や二度ではない。
 しかし、無い物ねだりをしても仕方がないのだった。
 今あるものでなんとかするしかないのだ。

「でも、どうしましょう。今の薬で続けますか?」
 鈴仙の問いに、永琳は眉を寄せた。
「なぜ薬が効かないのか。それを調べる方が先かしらね。おおよそ見当はついてるんだけど」
「おー、さすがですね、師匠。何か思い当たることでも?」
 少しは頭を使いなさい、と永琳は弟子を睨む。
「私の薬が効かない。これは本来ならありえないことよ。でも、実際にそれは起きている。ならば、その要因は霊夢が持つ特殊性である可能性が高いわね」
「特殊性、ですか。そりゃまあ、あの人間、かなり変わってますからねえ」
 霊夢がいろいろと普通じゃないことは、鈴仙もよく承知している。普段からして、人間よりは妖怪に近く見えるのだ。
「彼女の特質が彼女自身のパーソナリティによるものか、それとも博麗の巫女としてなのか、議論の余地はありそうね。でも、今回に限っては、発病に至る経緯が特殊だわ。今まで長く生きてきたけど、こういうケースは初めてね」
 つまり、博麗大結界の汚染に伴う発病ということである。
「まあ、ひとまずこの件は置いておきましょう。いずれにしても、次の手を考えないとね」
 それで、この話は一区切りついた。あとは、霊夢の食事や点滴などの細々とした話になる。
 そういえば、と鈴仙は言った。
「どうして面会をお許しになったんですか。感染症のリスクはまだあるんでしょう?」
 霊夢の状況を考えれば、他者との接触は避けるべきである。だが、昨日、永琳は面会の解禁を決めた。
 そんな師匠の行動に、鈴仙は違和感を覚えた。常ならば、慎重に慎重を重ねて万に一つのリスクも許すはずのない人なのだ。
「もちろん危険はあるわ」
 永琳は頷いた。
「理由は二つ。まず、霊夢の病室は完璧だということ。霊夢があの病室にいる限り、感染症の心配はない」
 今回、急遽用意された霊夢の病室は、対病魔結界で覆われている。なにしろ、永琳が自ずから作り上げた結界だ。感染症の元となる病原は何であれ阻むはずである。ただ、あまりに強力すぎて、鈴仙達も出入りが厳しいのが難点か。毎回、全身殺菌消毒しないと入れない有様である。
「二つ目、霊夢の現状を永遠亭の外部に公開して、主に紅魔館の連中に確認してもらうこと」
 これは政治的な理由である。
 成り行きで霊夢の身柄を預かることになってしまったが、そのため、永遠亭は幻想郷の勢力図において微妙なポジションに置かれてしまった。
 霊夢の治療ができるのは永遠亭だけ。そのこと自体が、対外的には優位な立場となってしまうのだ。
 その優位と引き替えに、情報の開示を暗に求められることとなる。霊夢の無事をアピールする必要性があるのである。もし、そうしなければ、霊夢は本当に生きているのか、などと要らぬ不信を招くかもしれない。
 杞憂で終われば幸いだ。しかし、この状況下では小さな不信でも大きな脅威となりうる。永遠亭を守るために、こうした芽は早いうちに摘み取ってしまわねばならない。
「なるほど、そういうことだったんですか。そうすると、魔理沙にはこの検査結果も伝えるんですか?」
 鈴仙は、先ほどの紙の束を示す。永琳は、そうね、と顔を曇らせた。
「そうするべきなんだけど、気が乗らないわね」
 珍しく歯切れの悪い永琳に、鈴仙は首をかしげた。そんな鈴仙の視線を受けて、永琳は苦笑する。
「大したことじゃないわ。ええ、それじゃあ魔理沙が帰る頃に呼んでらっしゃい」
「は、はい」
 頷いたものの、鈴仙は今ひとつ収まりの悪い何かを直観した。
 名状しがたい、どこかつかみ所がないくせに、喉の奥でつっかえている魚の小骨のような何か。
 ただ、ひとつだけ、鈴仙にはわかったことがある。

 永琳は、まだ何かを隠している。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


 問1:原子力発電において生成される核廃棄物はどのようにして処理されるか。具体的事例を挙げて答えよ。

「わかるかーっ!」

 早苗、吠える。物理のテキストが派手に宙を舞った。

 早苗の自室としてあてがわれた紅魔館の一室である。
 早苗は毎日通うつもりでいたのだが、真冬にそれはしんどかろうということで咲夜が用意したのである。
 それに、魔女連中の研究は昼も夜もお構いなしの様子で、これに付き合うなら寝泊まりできた方が良い。そういう判断である。
 いずれにしろ、早苗にとってはありがたい話だ。こうして気兼ねなく吠えることができる場があるというのは。



 意気揚々として紅魔館に乗り込んだまでは良かったのだ。
 最初は門を通るのでさえ許してもらえなかったのだが、使命を帯びた早苗だって一歩も退かない。粘り強く門番の女性へ取り次ぎを願い、あわや激突というところまでいったところへ、運良く居合わせた魔理沙が間に入った。
 顔見知りがいるというのは、早苗にとって僥倖だった。早苗だけならば、いくら熱意があろうとうまくいかなかったかもしれない。弁の立つ魔理沙が取り持ってくれたおかげで、早苗は晴れて紅魔館の客として迎えられたのである。

 さて、入るやいなや、豪奢な内装にきょろきょろする間もなく、早苗は紅魔館が誇る大図書館へ連れて行かれた。
 待ち構えていたのは二人の魔女である。
 熱烈な大歓迎を受けた。それもそのはず、彼女たちは大変緊急に外の世界の知識を必要としていたのだ。早苗の登場は渡りに船というもので、パチュリー・ノーレッジに至っては、わざわざ本から手を離して握手を求めるなどというパフォーマンスまで見せた。これには、その場にいたレミリアも仰天する有様である。
 この図書館でこれほどの歓迎を受けたのは貴方が初めてですよ、と後に小悪魔は語った。
 それほどの歴史的大事件であった。
 もちろん、その時の早苗はそんなことなど知らなかった。魔女達はにこやかに椅子を勧め、目の前の丸テーブルにはいそいそと紅茶とクッキーが置かれる。それがどんな意味を持つのかなんて知るわけがなかったのである。
 はいはい、どうもどうも、と早苗は余所行きの笑顔で会釈を繰り返しながら、あら、意外と良い人達だわ、などと暢気にもそう思っちゃったのも無理は無い。

 んなわきゃないのである。

「それで、早速なのだけど」とパチュリーが口火を切った。

「外の世界では放射性物質の除去をどうやってるのかしら?」

 は?
 豆鉄砲を食らった鳩がいた。予想外の攻撃を受けて早苗はぴたりと固まった。

「そういう物質だけくっつけるトリモチみたいな道具があるんじゃないのか? 砂鉄に磁石くっつけるみたいにさ」
 と、魔理沙が加わり、
「壊変を鈍らせるような物を撒くのかもしれないわよ。そういった物があれば、だけど」
 と、アリスまでが。
 気付けば、早苗は三人の魔女にがっちりと包囲されていた。
 期待を込めた三対の瞳が早苗を捉え、早苗からの回答を待つ。
 え、ええっと、と救いを求めて包囲の外へ目を向けると、当主レミリアまでもが興味深そうにこちらを見ている。
 逃げ場は無かった。

 無論、早苗に答えられるわけがなかった。
 外の世界では一介の学生に過ぎなかった早苗。原子力とか放射能とかいう言葉は知っていても、そのなんたるかまで知るわけがない。
 まして、早苗はバリバリの文系である。そこそこに学校の成績は良かったが、早苗にとって数学や物理といったことは単位を取る以上の意味などなかったし、興味もない。
 そもそも、外の世界でも原子力のことなんて答えられる人間はそうそういないんじゃなかろうか。
 早苗はそう思うし、それはまた真実でもあろう。とはいえ、その時その場はそんなことを言える状況になかった。
 東風屋早苗、生まれついて宗教に身を置く彼女は、期待されるとイヤとは言えない損な性格である。

「そ、それはですねー。えーっと、とっても大変なんですよ。だからですね、そもそも、そういう事態にならないようにすることが重要なんです!」

 ほほう、と周りが頷いた。
 苦し紛れである。具体的なことを言わず、論理をすり替えようとするのは、宗教家として重要な資質であった。

「そういう事態ってことは、つまり今回みたいなケースか。放射性物質が漏れないような仕組みが何かあるのかな」
「それはあるんじゃないかしら。今、外にあるやつもかなり頑丈らしいし」
 ふむふむ、と魔理沙とアリスは頷きあう。早苗はそんなところまで考えていないのだが、勝手に解釈してくれるのは大変にありがたかった。
 だが、
「処理が大変なのはわかっている。だからそれを訊いてるのよ」
 パチュリーは手強かった。

 ですよねー。

 早苗は心の中で嘆息する。
 なんとか答えをひねり出そうと持てる知識を総動員してみるが、どうにも適当な物が見つからない。しかし、沈黙は何よりまずい。
 ええい、と腹をくくって早苗は言った。
「そ、そうですねー。例えば、ほら、えっと、埋める、とか」
 埋める? とパチュリーは眉をひそめる。
 やばい、なんかおかしなことを言ったかしら、と早苗は冷や汗を流すが、言葉はつるつると滑り出た。
「そうです! 埋めるんです! でっかい穴掘って、ガンガン放り込んで土被せて埋めちゃうんです! ええ、そうです! 全ての生まれ出づる物は土に還るのが定めなのです! 偉大なる自然がやがては解決してくれるのです! ええ、間違いありません!」

 必死である。

 とりあえずそれっぽいことを言っておいて、その場をしのぐ。早苗の訓練された現人神スキルである。神奈子によくたしなめられる悪癖だが、わりとこれでなんとかなることも多い。ハッタリも時には必要なのだ、と早苗は割り切っている。

 だが、今回は相手が悪かった。
「いやいや、そんなわけないだろ。だって、外じゃ普通に使われてる技術なんだろ? 当然、後始末だって何かしらするはずじゃないか」
「それとも、私達が思ってたより廃棄物が出ないのかしら? 外の世界には私達が知らない物理法則があるのかもしれないわ」
「もし私達の計算が多少間違っていたにせよ、事故が起こることだってあるはず。その時の対処に違いがあるとは思えないわ」
「でも、ただ埋めるだけか? 安直すぎないか、それ」
「土に還す、ということは自然に安定するのを待つということね。プルトニウムの半減期ってどれくらいだったかしら」
「プルトニウム239でおよそ二万四千年。240でも六千五百年ね。そうおいそれとは土に還らないわ」
 ああだこうだと、三人は早苗を置いて議論を始める。その内容ときたら、やれラムダがどうたら、中性子がどうの、エネルギーレベルが云々と、早苗の理解が及ぶところではない。

 ことここに至って、早苗はようやく己の立場を認識した。

 やばい。どうしよう。
 余所行きの笑顔のまま、早苗は竦んだ。
 白熱中の議論の種は、早苗が蒔いたものだ。つまり、今の早苗の一言にはそれだけの重みがある。
 それだけの価値があると思われている。
 そう、いまや早苗は外の世界の代表も同然なのである。

 無論、早苗は外の世界のことを教えるために、ここへ来たのだ。だから、ある程度質問されることは想定済みである。そのために外界の本も持てるだけ持ってきた。
 だが、しかし。

 専門的すぎるでしょうーっ!

 内心盛大に突っ込む早苗である。

 どうして電気もまともに無いこの幻想郷に、そんな科学的な知識を持つ連中がいるのだ。
 せっかく私が「しょうがないなー教えてあげますよー」と家庭教師のお姉さんモードでリードしようと思ってたのに。
 これじゃ私の出る幕がないじゃないか。
 ずるい。

 だが、早苗も引き下がるわけにはいかない。神奈子に偉そうなことを言ってここに来た手前、そうおいそれと「わかりません」とか「知りません」とか言えるわけがないじゃないか。
 とにかく、なんとかこの場をうまく乗り切るのだ。わからないことは後で調べればいい。頑張れ、私。
 必死で己を鼓舞する早苗である。そこへ、ようやく議論が落ち着いた三人が向き直った。

「まあ、いいわ。この件は後にしましょう。ところで」

 パチュリーは、隣の卓からおもむろに紙の束を抱えて、どさりと早苗の前に置いた。
 紙の中には、神経質そうな小さな文字で、びっしりと数式が――。

「落ちてきた原子炉の規模を算出しようとしているのだけど、うまくいかないの。燃料には何を使ってるのかしら? 減速材は? 臨界を保つためにどうやって中性子を制御してるのかしら? 貴方、ご存じな――」
「すみません。知りません。わかりません。ごめんなさい」

 早苗はあっさりと白旗を上げた。



 それが、初日のことである。

 以来、早苗はこっそりと勉強に励んでいる。
 かつてこれほどまでに本気で勉強したことはない。外界ではそれなりに優等生だった早苗は、テストの対策も日々の予習復習だけで事足りていたのだ。
 だが、早苗は知った。
 自分がこれまで学んできたことなど、世界の一端でしかないのだ。

 教材は、早苗が外の世界から持ち込んだ書物である。教科書や子どもの頃に買ってもらった百科事典。それに、科学を扱った小難しい一般書もろもろ。
 実は、幻想郷へ来る際、早苗はこれらの本を外の世界に置いていくつもりだった。早苗にとっては元々興味のないことであったし、幻想郷は科学と縁のない世界だと思っていたからだ。
 それを、神奈子が止めた。
 神奈子は神様をやってる割には知識欲が旺盛で、新聞も本もよく読んでいたものである。そんな神奈子だからこそだろう。おそらく、神奈子は外の世界の知識が何かしら役に立つと考えていたのではないか。
 どういう思慮が働いたにしろ、それは結果的に早苗を助けた。
 これらの本を魔女達は奪い合うように貪り読み、そのおかげで彼女達が知りたいことはだいたい知り得たらしい。
 あれから数日が経って、今では早苗に質問が来ることもほとんど無くなった。
 となれば、早苗の役割は、一応果たせたと言えるだろう。

 だが、早苗は悔しい。
 役に立ったのは早苗ではない。
 早苗が持ってきた本、いや、神奈子が持たせた本だ。
 それが、早苗には悔しい。
 だから、早苗はいまだ紅魔館に留まっている。
 遅まきながらこうして勉学に励み、失地挽回を図っているのである。
 とはいえ、

「あーもう、難しい−! どうして魔理沙さん達、あんなのがスラスラできるんだろ」

 そう上手くはいかないのである。
 元々興味の薄い分野だ。勉強が出来る出来ない以前に、モチベーションが続かない。悔しさをバネにこの数日頑張ってみたのだが、いくらやったところで、魔女連中には敵いそうになかった。
 はあ、とため息をつく。
 アリスやパチュリーはともかく、年が近い魔理沙の秀才振りが早苗にはショックだった。
 魔理沙には失礼ながら、普段の言動からはとても結びつかない姿だ。意外である。もし彼女が外の世界で生まれていたら、結構良いとこの進学校にでも通えたのではなかろうか。

「もーダメ。ダメダメ。休憩きゅうけい!」

 パタンと本を閉じて立ち上がる。
 いくら励んだとて、そう何時間も集中力が続くわけがない。そして、長くやったからといって成果が出るわけでもないのだ。
 うん、根を詰めるのは良くない。
 そう嘯きながら、早苗はいそいそとコートを羽織った。


 ホールの柱時計を見ると、時刻は昼に差し掛かろうとしていた。
 そのままホールを横切って、やたらと重厚で装飾過多な扉を、うんせと押して開く。すると、清冽な外気がたちまちに早苗の頬を冷やした。
 外は、あいにくの曇り空だった。その鈍色は、低く、そして分厚く垂れ込めていて、日は中天にあるはずなのに酷く薄暗い。はあ、と吐いた息の白さは、近く雪が降ることを教えた。
 マフラーで口元まで覆って、早苗は歩き出す。
 この寒さには閉口だが、それを我慢しても見て回る価値が、ここにはあった。

 紅魔館の庭園は、まるで海外の映画のワンシーンのように美しい。
 生け垣はきっちりと刈り込まれ、レンガを敷き詰めた道は整然として塵一つ落ちていない。円いプールとその中央の噴水は、染み一つ無いすべやかな白亜で、水面さえ凍っていなければ、澄んだ水のアーチを見せてくれただろう。綺麗にならされた花壇は、今でこそすっきりしたものだが、春になれば艶やかな花々で彩られるに違いない。
 生まれてこの方、どちらかといえば和風な生活環境にあった早苗である。こうした、いかにもな西洋風のガーデンを直に見て触れるのは、ほとんど初めてだった。
 だからかもしれない。早苗は、紅魔館の中で、この庭が一番気に入っている。
 そもそも、部屋に籠もっていると落ち着かないのだ。紅魔館は悪魔の館。どこを見ても真っ赤っかというのは、ただでさえ精神的に追い込まれている早苗にとっては、いささか堪える。
 そんなわけで、近頃早苗はよくこうしてこの庭を歩く。
 気の向くままに生け垣の角を折れ、洒落たアーチをくぐり、レンガ道をブーツの踵で鳴らしながら、てくてくと歩く。
 庭園のくすんだ緑と真っ白な雪帽子の対比がどこまでも続く。その中を歩くだけで、心のささくれが和らいでいくのを早苗は感じた。心が軽くなれば、自然と足取りも軽くなる。身体を動かせば、己の内からホクホクと暖まる。やがて、頬がリンゴのように染まる頃、ぱっと目の前が開けた。
 そこは、ちょっとした広場になっていて、その中央には一際立派な噴水、その更に向こう側は少し段差を設け、小さいながらも屋根付きの休憩所があった。
 その休憩所で、一人しばらく物思いに耽る。それが最近の早苗のパターンである。

 だが、今日は先客がいた。

 椅子に深く腰掛けて外を眺める彼女は、遠目からでもその赤毛が目を惹いた。
 紅魔館の門番、紅美鈴である。

「あら、ご客人」

 美鈴は早苗を認めて片手を上げた。
「この寒いのに、どうしたんです。こんなとこまで」

 この紅魔館へ訪れた日、門前で一触即発というところまでいった時以来である。
 早苗はほとんど自室と図書館の往復だけだったし、館内で美鈴を見たこともない。
 だから、早苗の第一印象として、美鈴は「おっかなくて融通の利かない女」である。物腰こそ柔らかいものの、いざという時には躊躇いなく拳を振るうに違いない。
 そういった荒事に慣れた人物なのだ。早苗は美鈴をそう捉えている。
 だが、今、こうして早苗へ気軽に声をかけてきた彼女は、あの時とはまるで印象が違った。

 とても穏やかで、なんというか、取っつきやすい。

「ああ、いえ、ただの散歩です。綺麗なお庭だなあ、と思って」
 早苗の言葉を聞いて、美鈴は朗らかな笑みを返した。
「そうでしょうそうでしょう。この幻想郷で、これだけのイングリッシュ・ガーデンは他にないと思いますよ」
 さも自慢げに、うんうんと頷く。その様子から、彼女もまたこの庭を愛しているのだと知れた。
 美鈴は身振りで向かいの席を勧めた。会釈してテーブルに近付き、そこでその上に載る物に気付く。
 小さなバスケットだった。その中には、たっぷりと具が入った、綺麗に切り揃えられたサンドイッチ。
「あ、お昼でしたか。すみません、お邪魔しちゃって」
「ああ、いやいや、構わないですよ。ここで会ったのも何かの縁ってことで」
 そう言って、美鈴は手に持った湯飲みを差し出した。
「あ、どうもありがとうございます」
 その湯飲みへ、美鈴は魔法瓶から紅茶を注ぐ。柔らかく揺れる湯気は、まだ十分に温度を保っていることを教えた。
「あ、美味しい!」
「でしょう。紅魔館には紅茶を淹れるプロがいらっしゃいますからね。これも頂きます? 美味しいですよ」
 サンドイッチも勧められたが、それは流石に遠慮した。それに、今の早苗はどうにも食欲がわかない。
 紅茶で身体を温めながら、早苗は改めて庭を眺める。
 この休憩所から見る景色は、この庭園の一番の見せ所をスナップショットできるように計算されているのだろう。花壇や噴水、館の位置から、その向こうに見える湖面、さらにはその遠くの山々に至るまで。
 このガーデンは、人の手が入った自然だ。いわば、自然本来のあり方を、人の基準で曲げているのだとも言える。
 だが、それでもこの庭は美しい。そう早苗は素直に思う。
 自然をねじ伏せているのではない。むしろ、選択的に自然を活かしているからこそ、生まれる美なのだろう。
 雪化粧の今でさえ、綺麗だと思うのだ。春になったら、どれほどなのか。

 そう、春になったら。

 そこで、早苗は思い出してしまう。
 自分が置かれた状況を。
 この幻想郷に降りかかる災厄を。

 この幻想郷は、そして早苗達は、無事に春を迎えることができないかもしれないということを。

「何かお悩みみたいですね」
 美鈴の声で、物思いから引き戻された。
「え、いえ、大したことじゃないですよ」
「ウソを言ってもわかりますよ。気が揺らいでますから」
「え?」
 驚いて美鈴を見る。美鈴は、そんな早苗に、ふふ、と笑った。早苗より背の高い彼女だが、そうして笑うとあどけなさが覗く。
「私、こう見えても武芸百般でして。人を見てるだけで、迷いとかブレとかがわかっちゃうんですよ。相手の体調だってわかっちゃいます。あなたは健康だけど、ちょっと運動不足気味ですね。最近は不摂生もあるかな。疲れが溜まってますよ。腰の辺りに気が淀んでる。三食きちんと食べて、適度な運動を心がけましょう」
「は、はあ」
 早苗は唖然として、応えに困った。美鈴の言葉が冗談なのか判じかねて、間抜けにもただ彼女を見返すことしかできない。

 美鈴は、穏やかな瞳をしていた。

「悩みなら、口に出すだけでも楽になりますよ。溜め込んでても、何も良いことありません。よろしければ、私が聞き役になりましょうか?」
「はあ、あの、えと」

 本当に、取っつきやすい。
 いつの間にか、懐に入られている。だが、それが不思議と厭じゃない。抜群の距離感だった。
 それでも、
「うん、あの、あんまり話せないことだから」
 早苗は、とどまった。
 事態はとても深刻なのだ。それだけに、おいそれと話すわけにはいかない。

「ま、無理に話すことはないですけどね」
 苦笑して美鈴はあっさり引き下がった。そのことを惜しい、と思ってしまうのは我が儘だろうか。

「さて、と。雪が降る前に仕事に戻りますか」

 大きく伸びをして、美鈴は立ち上がった。気付けば、バスケットの中は既に空っぽである。いつの間に食べたんだ。目を丸くする早苗をよそに、美鈴は手早く片付ける。慌てて早苗も礼を言って湯飲みを返した。

「雪、やっぱり降るんでしょうか」
 別れを惜しんで、つい、そんなどうでもいいことを訊いてしまう。すると、美鈴は「降りますよ」と、妙に自信ありげに答えた。
「夜からまた吹雪くと思います。だから、そうなる前にできることはやっとかないと」
 そう言って、美鈴は横に立てかけていたシャベルを手に取った。
「あ、雪かきですか」
「ええ、雪が続くとすぐ埋まっちゃいますからね」

 そういえば、この庭はちゃんと道が見えるようにしてあるな、と今更なことに早苗は気付いた。
「あ、もしかして、このお庭の雪かき、全部あなたがやってるんですか」
 もしそうだとしたら、とんでもない労力である。守矢神社の比ではない。
「ああ、一応部下の子も手伝ってくれるけどね。こういう力仕事できるのは少ないから。私がやった方が早いですね」
「はあ、それは大変ですねえ」
「いや、そんなことないですよ。私、身体を動かす方が性に合ってますしね。鍛錬にもなりますし、それに何より」
 そこで、美鈴は朗らかに笑った。

「このお庭が雪で見えなくなるのは、もったいないじゃないですか」

 ああ、そうか。
 早苗はその時に知った。
 この庭がこんなにも美しいのは、彼女が心を込めて手入れをしているからなのだ、と。
 その誇らしげな笑顔は、早苗の心を打った。
 なんと自信に満ちているのか。
 迷いも揺らぎもない。彼女は、為すべき事を心得て、己の仕事に誇りを持っているのだ。
 そうでなければ、こんな綺麗な庭ができるものか。

 汗を流すことを厭わず、
 汚れることを躊躇わず、
 厳冬の雪風にも怯まず、

 そんな彼女だからこそ、こんなに素敵な笑顔なのだ。こんなに素晴らしい庭なのだ。

 早苗の脳裏に、過日の美鈴の姿が浮かぶ。
 初めて会った時は、門から一歩も立ち入らせまい、と鋭く早苗を睨み付けてきたものだった。
 今、早苗の前で笑う彼女とは、一見、似ても似つかない。
 だが、今なら早苗にもわかる。
 これが、仕事をするということだ。

 今、己が何をすべきなのか。それを知り、応えることができて、初めて仕事だ。
 門番として早苗の前に立ちはだかった彼女も、シャベルを持って庭を自慢する彼女も、どちらも同じ彼女だ。

 では、自分はどうだ。と、早苗は自問する。

 自分は何を求められているか知っているか。
 自分はそれにどれだけ応えているのか。

 自分は、何をすべきなのか。
 そんなことを思って、

「わかりました」

 言葉が滑り出た。

「じゃあ、私が手伝います」

「ええ!?」
 早苗の言葉に、美鈴は明らかに狼狽した。
「そ、そんな、お客さんにお仕事手伝ったりしてもらっちゃ、私が怒られちゃいますよ!」
「大丈夫です。私が自発的にやることなんですから構いません。ボランティアもまた布教活動の一環。神を敬い、神の恵みに感謝し、無心に奉仕する姿は百の言葉より雄弁でありましょう!」
 拳を胸に、早苗は高らかに言い放つ。最前までそんなことは欠片も考えていなかったのだが、なに、行動原理を布教に結びつけるのは、宗教家としての性(さが)である。

 たじたじとする美鈴へ、早苗は笑い返した。

「では、こうしましょう。私に雪かきのやり方を教えてください。実は、山の上の雪に参ってるんです。私、外ではあまり雪かきなんてしたことなくて。だから、貴方の下で学ばせてください。あ、いえ、美鈴さんはいつもどおりなさってて結構です。もしお許しいただければ、私が貴方を見て勝手に学びます。ほら、これで貸し借り無し。どうですか?」

 唖然とする美鈴である。目を丸くして、ただ早苗を見る。やがて、口をぱくぱくさせて、何かを言おうとするが、まったく声が出ない。
 そんな美鈴の前で、早苗は深々と頭を下げた。

「どうか、よろしくお願いいたします」

 まずは、己の非力を認めることから始まる。
 物理が苦手なこと。外の世界についてろくに知らないこと。雪かきも満足にできないこと。
 いや、己が至らないことなど、そもそも早苗は百も承知だった。
 それを変えるために、自分はここに来たのではなかったか。
 早苗は、二柱の神様を思い出す。山での立場を危うくしてまで、早苗を送り出してくれたのだ。早苗はその心に報いなければならない。
 ならば、へこんでなんかいられないのだ。
 無論、全てがすぐにできるわけがない。得手不得手もある。
 だが、学ぶことはできる。
 今、早苗の目の前には、誇りを持って仕事をする一人の女性がいる。妖怪であっても、いや妖怪だからこそ、その長い経験と研鑽から学ぶべきことは多い。
 だから、早苗は素直に頭を下げた。
 頭を下げて、頼み込んだ。

「わ、わ、止めてくださいよ。こんなとこ見られたら、私どんなお咎めを受けるか!」
「お願いします。私、美鈴さんに教えていただきたいんです。だって――」
 早苗は、顔を上げて美鈴をしっかと見据える。

「私もこのお庭、大好きなんです」

 その言葉を聞いて、美鈴は口を閉じた。それから天を仰ぎ、腕を組み、顎をぽりぽりと掻いて、うーんと唸る。
 そして、
「わかった」
 頷いた。
「わかった。わかりました。いいでしょう。じゃあ、手伝ってもらいます。その代わり」
 美鈴は、一転真剣な表情で早苗を見る。
「やるからにはお客さん扱いはしないからね。覚悟してもらうよ」
「もちろんです。厳しくご指導お願いします」
 ぺこり、と頭を下げる。東風屋早苗、体育会系のノリは嫌いじゃない。
「よし、それじゃあんまり時間もない。ちゃっちゃとやるよ。早苗さんはこのシャベル使って。私は倉庫から別のを取ってくるから」
「はい、わかりました。それで、私はどこをすればいいですか」
「西側に残ってるところがあるの。あっちの方ね。できるところから取りかかって。私も後から行くから」
「はい、お任せください」

 早苗は、力強く手渡されたシャベルを握る。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


「結界を構成するにあたって重要なことは、何をもって境とするか。言い換えれば、何を区切りたいか、ということだわ。それが決まって、初めて境界の定義ができる」
「そうね。境界条件が明確になれば、結界の形も見えてくる」
「最も単純な形は線一本。でも、使われる場は限られるわね」
「それだけ明確な境界条件が必要だものね。レテの河のように」
「河は区切りとしてわかりやすいから。つまり、もともとはっきりした境界を目に見える形にしたもの」
「でも、たいていの場合、結界は区切るだけでなく括る役目も負うわ」
「ええ、そう。だから、結界としての基本形は三角形」
「その場合、要も三つね」
「三は魔術で重要な数字。もともと素数は強い力を持つけれど、三は安定していて使い勝手が良い」

 面白くない。

「でも、東洋的に考えれば四の倍数というのもあるわよ」
「あいつが持っている火炉は八ね。確かに四の倍数は重要だわ。魔術に方角はつきものだし、世界を表すのに都合がよい。そうね、この場合は十二が妥当かしらね」
「十二? ああ、三を含むものね」
「そう。十二は三でも四でも割れる。約数の中でも六は完全数だし」

 実に面白くないのである。
 レミリアは、苛々としながら二人の魔女の会話を聞いていた。
 紅魔館の大図書館である。
 場にいるのは三人だけである。パチュリーとアリスとレミリア。魔理沙は朝から霊夢の見舞いに行ってしまった。早苗は紅魔館にあてがった部屋にでもいるのだろう。この場にはいない。
 三人で一つの丸テーブルを囲んでいるのだが、やっていることは皆バラバラである。
 パチュリーは相変わらず本を読んでいるし、アリスはせっせと裁縫をしている。お互い視線を交わさないまま、気のない様子で淡々と会話を続けていた。
 そして、レミリアはといえば、そんな二人の横で頬杖をついて話を聞いているだけ。その話の中身ときたら、これが実に退屈である。
 だが、苛々するのはそれだけではないのだ。

「ねえ、パチェ。もう一週間になるけど、なんか進んでるの?」
「まだ一週間よ、レミィ。それに見ての通り、ちゃんと進んでるわ」
「進んでるようには見えないね。あんたらときたら、一日中あーだこーだしゃべくってるだけじゃないの」

 要するにそういうことなのだ。
 レミリアは、魔女チームの進捗に焦っているのである。
 霊夢を助けたい。レミリアはもちろんそう思っている。しかし、世の中には得手不得手があるのだ。吸血鬼たるレミリアの手は人から奪うためのものであって、人を助ける手など持たない。
 なので、彼女自身は最初からサポートに徹することに決めていた。魔理沙達が望む環境は全て用意しよう。必要なものがあれば、なんとしてでも手に入れよう。己の権力は全てこのためにある。そう考えたのだ。
 渋る友人にも必死で頼み込んで魔女チームに入ってもらった。魔理沙とアリスの力量は確かだが、やはり不安もある。その点、レミリアはパチュリーのことをよく知っている。彼女の知識は、間違いなく役に立つはずである。

 最初の頃の勢いは良かった。三日にして幻想郷を取り巻く状況を把握し、限定的とはいえ結界の外のことまで知ることが出来たのだから。
 更に、守矢神社から早苗も加わって、その勢いは加速した。三人の魔女チームの調査結果に早苗からの外の情報が合わさり、喧々諤々の大討論。夜を徹しても議論のネタは尽きることなく、百出するアイデアはどれも輝いて見えた。
 無論、レミリアはその様子を外から見ていただけだ。細かい理論だの理屈だのは聞いたってわからないし、端から理解する気もない。
 ただ、レミリアは確信した。

 これならいける。
 霊夢は助かる。
 幻想郷は危機を乗り越えられる。

 そう思ったのだ。

 ところが、である。勢いはみるみるうちに失速した。
 あれほどに活発だった議論は、一日もするとぱったりと途絶えてしまった。
 魔女達は揃って本を読み、時折何かしらを書き付け、たまに会話があるかと思えば四方山話のような益体もないようなもの。早苗はといえば、そんな魔女達の横で所在なさげに座る時間が増えた。
 今日に至っては、パチュリーは普段の生活に戻ったかのように読書に耽り、アリスは何を作ってるのやら手芸に精を出す始末。早苗は朝から姿を見せず、魔理沙はいそいそと見舞いに出かけるしで、誰がどう見たって進んでるようには見えないのである。

 やる気あるのか、お前ら。
 っていうか、私だって霊夢のお見舞いくらい行きたいわよ!

 とは、素直に言えないレミリア・スカーレットである。

 ともあれ、このままではいけない、と思うのである。
 時間が無い、と焦るのも勿論ある。が、レミリアとして気になるのは、紅魔館としてのメンツである。なにしろ永遠亭であれほどの啖呵を切ってきたのだ。これがうまくいかないともなれば、面目丸潰れではないか。
 お見舞いに行きたくても行けない事情が、実はこの辺にあったりする。
 永遠亭に行けば、輝夜や永琳と顔を合わせることもあろう。その時には、必ずこちらの状況を訊かれるはずである。レミリアとしては、そこでかんばしくない進捗など話したくはないのだ。
 見栄っぱりと笑うなら笑え。貴族は見栄とハッタリ張ってなんぼである。

 ふう、とパチュリーはため息をついた。
 ようやく本から顔を上げて、アメジストの瞳がレミリアを捉える。
「レミィにも困ったものね。急いて結果を求める者は青い実しか得られないわよ」
「青かろうが赤かろうが美味けりゃいい」
 レミリアは、牙を見せて笑ってみせる。その顔を見て、パチュリーはごくわずかに眉を下げた。
 レミリアの狙い通りであった。
 口ではどうこう言っても、パチュリーはレミリアに甘い。このパターンならば、間違いなくレミリアの相手をしてくれるだろう。
 本に栞を挟んで、静かに閉じる。これは、パチュリーがちゃんと話をする気になったということである。この機を逃してはならない。パチュリーは多くの魔法使いと同じく気分屋である。せっかく話してくれるところを邪魔してはならない。レミリアは、パチュリーを注視したまま言葉を待った。

「まず、この幻想郷において、博麗霊夢とはどういう意味を持つのか。私はそれが重要だと考えているの」
 パチュリーは、いつものように静かに語った。
「さっきアリスとも話していたけど、場所を括るには最低でも三つの要があるはず。そのうちの一つはもちろん霊夢。では、残りの二つはどう思う、レミィ?」
「どうって、そんなこと知らないわよ」
「少しは考えて。それが無ければ幻想郷が成り立たないもの、よ。あるでしょう?」
 ふむ、とレミリアは考える。すると、ふとレミリアの頭にそれが浮かんだ。
「ああ、博麗神社!」
「ええ、そうだと思うわ。それが二つ目の要。じゃあ、三つ目は?」
 うーん、と腕を組んで考えてみる。しかし、レミリアが知る限り、何かしっくりと来るものが無い。
「わかんないわ、降参。いったい何なの?」
 レミリアの問いに、パチュリーはゆっくりと首を横に振った。
「実は私にも正解はわからないわ。でも、推測ならできる」
 パチュリーは、そこでテーブルの上にティーカップとソーサーを並べて置いた。
「このカップを霊夢、このソーサーを博麗神社とするわ。神社は幻想郷の東端に建ってて、博麗大結界の境界でもある。もう一点あるとするなら、この神社の向かい側、もう一方の端にあると考えているわ」
「端? 西の端ってこと?」
 幻想郷の西側って何だっけ、と首を捻る。すると、パチュリーは「違う」とまたもダメ出しした。
「この博麗大結界は、幻想の概念を隔てるものなのよ。物理的な端は神社にあるのだから、もう片方は概念の端であるはず。それに考えてみて、レミィ。巫女に神社。これは幻想郷の一つの側面しか表していない。もっと、幻想郷を幻想郷たらしめるもの、すなわち『妖怪』を示すもの」
 パチュリーの指が、ソーサーとティーカップを飛び越えて、反対側に着地する。
「私は、もう一方の要が八雲紫の住まいだと考えている」

 幻想郷縁起にいわく、八雲紫の住み処は博麗神社と同様に幻想郷の境にあると記されている。
 しかし、その場所は誰も知らないのだという。

「どこにあるのかは問題じゃない。おそらくは、概念上の境界に位置していると思われるから、物理的に辿り着くのは難しいかもね。あるいは、八雲紫本人が要であるとも考えられる。それとも、紫の家と紫本人を含めて四つの要となっているのか」

 いずれにしろ、とパチュリーは己の長い髪をかき上げながら続ける。

「それらが博麗大結界の要であると私は踏んでいるわ。賭けてもいい」

 ふむ、とレミリアは唸った。
「なるほど、それはわかった。で、それがどうしたっていうの」
「焦らないで。だからね、レミィ。今、霊夢に起こっている現象が、霊夢が結界の要であるせいだとしたら、他の要も同じようになってると思わない?」

 それは、そうだ。

「え、じゃあ、あの神社にも何かが起こってるの?」

 レミリアの問いに、パチュリーは、ええ、と答えた。

「この間、外の世界を調べに出た時にね。ついでに神社も調べたのよ。その結果、あの神社にも影響が見つかったわ。細かい説明はどうせレミィにはわからないから省くけど、神社の家屋、日用品、至る所に放射化したと見られる変化がある。魔理沙の話によると、あの神社はこの幻想郷で唯一重なっている部分だそうだから、当然といえば当然なのだけど。せっかく巫女が貯め込んでた冬の間の食料は、彼女には残念だけど捨てるしかないわね。今後の影響が怖くて食べられないわ」

 レミリアは苦笑する。それを聞けば、さぞ霊夢はがっかりすることだろう。あの巫女は、飲み食いに関してはうるさいから。
 ふと、見舞いに行っている魔理沙のことを思い出す。
 彼女は、はたしてそのことを巫女に伝えただろうか。

「あ、神社がそうなってるってことは、パチェの考えが正しいなら八雲紫のところにも影響が出てるってことね」
「うん、そう。実際、あいつらがあまり姿を現さないのは、そういうことなんじゃないかと思ってる」
「ふうん。あ、でもちょっとおかしくない? パチェは要が三つか四つあるって言ったけど、それなら霊夢が死ぬことをそんなに大騒ぎすることじゃないでしょう」

 そもそも、博麗大結界の要が霊夢一人だという前提で、幻想郷は成り立っているのだ。
 霊夢が死ねば、大結界が崩壊する。だから、妖怪達の誰もが霊夢を害することができない。そして、それゆえに生み出された決闘ルールが弾幕ごっこだ。
 要が幾つもあるのなら、そんな面倒なことをする意味がない。確かに、要の一角が失われれば強度は落ちるだろうが、ある程度は他の要でカバーが効くはずである。

 そして、何よりもレミリアの本能が、運命を操る内なる声が告げている。
 霊夢の死と幻想郷の死は一対だ。それはレミリアにとって明らかで揺るがない真実である。

「そうね、レミィが言うとおりだと思う。この結界の形はとても歪なの。要の中でも、博麗の巫女だけが特別重要な位置にある。だから、彼女を守るための策が幾つも設けられている。この間、早苗が言ってたわね。巫女が不慮の事態に陥った時のために、古の大妖怪達がバックアップしてるって。それだけの手間をかける理由は何だと思う?」
「んー、やっぱり人間だからじゃないの? パチェの考えどおりなら、他の要はそう簡単に壊れるもんじゃないだろうし。っていっても、あの神社のボロっちさならでかい地震でもくりゃひとたまりもないでしょうけど」
「ええ、そう。人間だから。それがポイント。だけどレミィ。人はいつか死ぬわ。それはどうしたって避けられない。だから、これほど手厚く守っている巫女も代替わりする時には必ず空白期間ができるはず。これまで何度も代が替わってきて、それでも幻想郷が存続しているんだから、巫女がいない場合の策もあるんじゃないかしら」
「じゃあ、パチェはウソだって思ってるの? 巫女が死んでも結界は無くならないって」
「ある意味ではそう。他の要さえあれば、巫女がいなくても大結界はまだ大丈夫だと思う」
「でも、それじゃあ山の大天狗とやらの妖力を担保にする意味がないじゃないか。あーもう、わかんなくなってきたわよ!」

 レミリアは、どすんとテーブルを叩いた。
 堂々巡りだ。結局、霊夢の死は幻想郷の滅亡に繋がるのか、違うのか。
 魔法使いというのは往々にしてまわりくどい。パチュリーはその傾向が顕著で、結論に至るまでがとにかく長い。理路整然と説明してくれるのは有り難いが、レミリアとしては正直、この議論に飽きてきていた。

 そんなレミリアを見て、パチュリーは呆れたように肩をすくめる。
 もっと堪え性がないと、一国一城の主としてはみっともないわよ、と言っているのだ。

「レミィが退屈なら話を止めましょうか。どうする?」
 うー、とレミリアは頬を膨らませた。
「いや、いい。続ける」
 せっかくパチュリーが話をする気になっているのだ。ここで止めてはもったいない。

 と、そっと白い手がレミリアの横から伸びた。テーブルの上に、静かに紅茶のカップを置く。
 振り向けば、咲夜がレミリアを見下ろしてにっこりと笑っていた。
 その笑みに、レミリアは図らずも、ほっと息をつく。
 よくできた従者だ。彼女ならば、気付かれないまま紅茶を置く事ができるというのに、わざと姿を見せて主の気を惹くとは。
 主たるもの、部下の心遣いには応えるべし。ティーカップに口を付けると、まろやかで程よく熱い。一口でレミリアは落ち着いた。

「まあ、なんだかよくわかんないけど、パチェは霊夢がいなくても大結界は崩壊しないって考えてるわけね。でも、それはない。私が私として断言するけど、ありえないわ」
「話は最後まで聞いて。私だってレミィの感覚を信じてるわよ。私がさっきまで言っていたのは、あくまで普通だったらという話」
「普通?」
 パチュリーは微かに頷いて、自分もティーカップに口づける。どうやら、咲夜は彼女の分も淹れなおしていたらしい。
「そう、普通。私が考えるに、博麗の巫女というのは、身も蓋もない言い方をすると人柱なのよ。生きて大結界を支える柱。だけど、この柱は長く保たないからつっかえ棒がたくさんあるの」
「でも、パチェはその柱がなくてもいいって言った」
「ええ、言ったわ。だからね、この柱は取り替え可能なのよ。元からそういう風に設計されてる。そして、取り替えが利くからこそ、できる役割がある」

 カップを置いて、パチュリーはテーブルの上で両手を組んだ。

「幻想郷に敵対する者を引き付ける。そういう囮としての役がね」
「なっ……!」
 レミリアは絶句した。構わずパチュリーは淡々と続ける。

「博麗大結界の要が巫女一人だと伝えられている理由、それ以外にないわ。もし、この幻想郷で大結界を壊そうと考える者がいれば、彼らは間違いなく巫女を狙う。そして、それが巫女の役割なのよ。その他の要は無くなれば替えが効かないから大事だけど、巫女は仮に死んだとしても次の代がある。ただ、そう簡単に死んでもらっちゃいろいろ困るから、万が一のことを考えて策を施してるんでしょう。とても優れたシステムだわ」

 つまり、博麗大結界についての情報は恣意的に歪められているのだ。
 幻想郷縁起に八雲紫の居場所が記されていないのもそのためだろう。パチュリーはそう言う。

「役目から考えて、巫女は短命なんじゃないかしらね。今でこそ私たち人ならざる者はこうしておとなしくのんべんだらりととしてるけど、昔はそうじゃなかったはずよ。巫女の周りは敵だらけ。巫女は巫女であるがゆえに狙われる。もちろん、それを退けるだけの実力も巫女の資格なのだろうけど、不測の事態はいつだって起こりえるものだから」

 レミリアは呆然とする。
 それは、一人の人間の少女が背負うには、あまりにも重く、悲しい。
 本当に、彼女はそんな役割を担っていたのか。普段の飄々とした態度からはとても結びつかない。
 だが、レミリアの奥底が告げている。
 パチュリーの言葉が真実であることを直観が教える。
 人柱。
 そういうことなのだ。
 彼女は、まさしく字義通りの人柱なのだ。
 この幻想郷を平和に保つための。
 取り替えが利く。彼女の命が、まるで機械の部品のように。
 ヒビの入った歯車はどうなる? もちろん交換するのだ。ピカピカの歯車に付け替えて、古い歯車は――。
 レミリアは彼女の姿を思い描く。どこまでも透明で、誰よりも強い彼女。怒る彼女は一際強くて、だけど、曇り無く笑う彼女はいっとう素敵で。

 ぎりっと奥歯を噛んだ。

「だからって」

 知ったことか。

「だからって、霊夢が死んでいいってことにはならない!」

 レミリアは吼える。
 霊夢は霊夢だ。
 霊夢は他のだれでもなく霊夢だ。
 取り替えなんか利くものか。
 レミリアは紅蓮の瞳で親友を睨む。

「ええ、わかってるわ。落ち着いて、レミィ」
 激したレミリアを前に、パチュリーは顔色一つ変えない。
「私だって、あの紅白を助けるために動いてるのよ。それに、今の話はこれからのことを語るための前提。本題はこれからよ」
「は?」
 本題?
 不意を突かれて、毒気が抜けた。
 レミリアは、ぽかんと口を開けてパチュリーを見る。
「思い出しなさい、レミィ。貴女のその天分。運命を視る貴女が感じるその不安を」

 友人の言葉で我に返る。

「そうだ。霊夢が死んだら幻想郷は滅びるはず……」
「私はレミィを信じてるわ。いいこと、レミィ。今、幻想郷のフェイルセーフはまともに機能していない」
「え、それってどういう……?」
「この博麗大結界を作ったやつは、こういった事態を想定していなかったってことよ。大結界自体が病んで、そのダメージが要に及ぶなんてね」

 それは、何を意味するのか。

「そう、当たり前だけど、全ての要が潰れれば、大結界も無くなる」

 ああ、そういうことか。
 ようやく、レミリアの頭の中で話が繋がる。
 脅かされているのは、霊夢の命だけではないのだ。

「なんだ、ずいぶん回り道したわりには、結局同じじゃないの。やっぱり、あの大結界を何とかするしかないんでしょう?」
「回り道とは心外だけど、ええ、それが恒久的な対策ね。でも、あの山の巫女と話してわかった。それは難しい」
「難しいって何が」
「幻想郷の外に散らばった放射性物質を完全に取り除くことが、よ。どうやら外の世界でもこの問題は持て余してるみたいね」
「そんな! だって、こんなことになってるのは外のやつらのせいだろう!」
「ごもっともね。それについては、私も思うところがあるけれど、仕方がないわ。どうにかするにしても時間がかかりそう。だから、別の手を使うわ」
「何か手があるの!? さすがはパチェね!」
「考えたのは私じゃなくてあちらだけどね」

 パチュリーが、つい、とテーブルの向こうを示す。すると、アリスが裁縫の手を休めてレミリアを見た。

「あくまで一時しのぎよ。そんなに期待しないで」
 それまでの会話も聞いていたのだろう。水を向けられたアリスは、穏やかにレミリアへ答えた。
「さっき、パチュリーが話したとおり、霊夢を含む要の全てが大結界の影響を受けているわ。まあ、といっても神社と八雲の方はまだマシでしょう。でも、霊夢の方は時間の猶予がない。今、手を打つ必要があるの」
「もったいぶらないでよ。いったい何をするの」
「貴方、本当にせっかちねえ。ポイントは、博麗の巫女が取り替え可能だってこと。ああ、霊夢が死んで代替わりさせるってことじゃないから安心して。それに、仮にそんなことをしたとしても、次代の巫女も同じように病むから意味がないわ。だから」
 アリスは、そこでそれまで縫っていたそれを、レミリアへ広げて見せる。

「身代わりを立てようと思うの」

 それは、どこかで見たような紅白衣装のミニチュアだった。

 唖然とする。
 そんなレミリアを見て、パチュリーは魔女らしく笑った。

「さあ、レミィ。待たせたわね。反撃に出るわよ」


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5.

 しらしらと幻想郷に雪が降る。

 煙のような薄い雪片が、静かに静かにたゆたいながら、凍った空から舞い降りる。
 それは、一つ一つは草の吐息にすら溶けてしまうほど儚いというのに、今では幻想郷の全てを覆い尽くしていた。
 葉が落ちてしまった木の枝、転がる石ころ、色あせて疎らになった下生え、通る者がめっきり少なくなった獣道、凍り付いた小川、モノトーンの森、遙か遠くの青みがかった山々、雪はなにものにも等しく降り積もり、白く白く染め上げてゆく。

 そのはずなのに。

 そこだけは、雪がなかった。
 深く抉られたすり鉢状の穴の底。そこだけは、まるで円く切り取ったかのように、黒く湿った土肌がむき出しになっていた。
 無論、雪は等しく降る。一つ一つは小さくとも、雪は確実に熱を奪っていくのだ。これほど静かに降る雪でさえ、一晩も積もれば人すら殺し、呑み込んでいく。
 しかし、その残酷な自然を、そこは頑なに拒んでいた。
 いかに降ろうとも、その土に触れると雪はたちまちに溶けていく。
 溶けた雪は、やがて白い湯気となってゆらゆらと立ち上り、びょうと風に吹かれて消えていった。


 彼女は、その光景を穴の淵から眺めていた。
 荒涼としていた。
 華やかさも彩りもなかった。
 柔らかさなど微塵も見あたらなかった。
 そんな光景を瞳に映して、彼女はわずかに唇を歪める。
 かつての、この場所を思ったのだ。
 美しかった。
 豊かだった。
 命が溢れていた。
 ここは、かつてそんな場所だった。

 だが、今、それらは彼女の記憶にのみ残るものとなってしまった。
 もはや見る影もない。彼女の目の前に広がるのは、とっくに死んでしまった世界だった。

 ぎゅっと、彼女は拳を握りしめる。

 喪失感を埋めるのは、あてどのない憤りだった。
 もの言わぬまま彼女の前から去っていった、あの日のあの世界のために、彼女は悼み、悲しみ、憤った。
 それは、あまりにも長く生きすぎた彼女にとっては、久しい感情だった。

 まだ、己の中にこれほど激しいものが渦巻いていたのか。

 そう、彼女自身が驚くほどに、それは彼女を裡から揺さぶり、叩きつけ、焔となって焦がした。

 だから、彼女は笑った。
 唇を吊り上げて、笑顔を作った。
 それは、彼女なりの宣戦布告である。

 彼女は、くるりと白いパラソルを回して、穴に背を向けた。
 ふわり、と赤いチェックのスカートが翻る。
 もう、振り返ることはない。次にここへ帰ってくるのは、きっと全てが終わってからだから。
 彼女は、雪上に足跡を刻みながら、優雅にしなやかに歩いて行く。

 その先には、まだ見ぬ敵が待っているはずだった。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


 幽々子の様子がおかしい。
 妖夢は、そのことに気付いていた。
 何がどうというわけではない。元々幽々子は日々を緩やかに、たゆたうようにして過ごす。白玉楼から出ることも稀なら、誰かが訊ねてくるのも稀。書を読み、歌を諳んじ、酒を嗜み、花を愛で、幽霊と戯れる。毎日がそんな感じで、およそ変化というものに乏しい。
 春雪異変以来、何かしら宴会だの珍客だのと多少騒がしくなったものの、それでも冥界は基本、静寂と平穏を保っている。
 今だって、幽々子は湯飲みを持ったまま、ぼんやりと縁側に座って雪景色を眺めている。
 見た目だけならいつもと変わらない。冬はこうして雪見をするのが幽々子の常だ。生者には厳しい寒さも、死者にとっては心地良いもの。日向ぼっこでもするかのように、亡霊は冬を楽しむ。
 ただ、妖夢は感じるのだ。これでも生まれてから今までずっと仕えてきた主である。理屈はわからずとも、何かが違うことを妖夢の直観が告げていた。

 その直観を通して見れば、
 遠くを見ることが多くなったように思う。
 ため息が深くなったように思う。
 熱燗をちびちびと舐めて、ほんのりと頬を染めながらも、その表情にはどこかしら影が差しているように思う。

 理由は、はっきりしている。
 先日、永遠亭で行われた会議。幽々子の変化はその頃からだ。
 霊夢が病に倒れたこと。
 幻想郷が危機的状況にあること。
 会議から帰った後、妖夢は幽々子からそのように聞いた。
 ホウシャセンやらジンコウエイセイやらと知らない言葉が多くて、いまいち詳しい経緯は理解できなかったのだが、それでも大変だということはわかった。
 ならば、自分は何をすべきなのか。
 当然、妖夢はそう考えた。
 だが、主は言った。
「何もしなくていいわ。いつもどおりでいいの」
 妖夢は西行寺家の使用人だ。主が動くなというならば、生真面目な妖夢は無論それを守る。

 しかし、妖夢は気になるのだ。
 幽々子のいつにない憂い顔が。
 そして、気になってしまうと、なんとかできないものかと思ってしまう。
 主を想うがゆえに、考えてしまう。

 動くなという命に、思いが逆らってしまう。
 歯痒い。

 このジレンマこそが、目下の妖夢の悩みなのであった。

 気晴らしに剣を振ってみたりもする。しかし、迷いのある剣は切れを欠く。普段なら造作もなくできることができなかったりして、己の未熟に情けなくなる。悪循環である。
 今朝の稽古も振るわなかった。なので、妖夢は主に隠れて、そっとため息をつくのである。


 そんな時だった。
 屋敷に務める幽霊が、ふらふらと来客を告げに泳いできた。
 はて、いったい誰が。
 そう思いながら、妖夢は気を引き締める。
 白玉楼へ訪れる者は限られている。そして、そのうちのいくらかは招かれざる客であり、場合によっては荒っぽい歓迎をせねばならない。となれば、剣の不調などと言ってられないのである。
 平常心、平常心。
 妖夢は門へと向かいながら、己に呟く。
 ただでさえ、幽々子があんな状態なのだ。これ以上、主を煩わせるようなことなどあってはならぬ。
 濡れ縁から下り、ざくざくと雪を踏みしめて歩く。こうして歩く間に、凍えた空気が妖夢の頭を冷やしてくれる。普段は仕事の邪魔にしかならない雪だが、この時ばかりは役に立った。
 良い具合に頭が冷えて、身体は暖まる。一つ大きい深呼吸をして、佩いた刀に手をそえて角を折れた。さて来客は誰ぞと門を見れば、

「うわっ!」

 そんな心構えなんぞ、一撃で吹っ飛んだ。

「ごきげんよう」

 四季映姫・ヤマザナドゥが、微笑んで会釈した。


「まあまあ、一献」
「勤務中なので遠慮します」
 徳利を持った幽々子を映姫は片手で受け流した。
「あら、せっかくの雪見に、お酒無しなんて」
「私は雪見に来たのではありませんよ」
 幽々子に映姫、どちらも笑顔だが、後ろに控える妖夢はそれが怖い。
 映姫がまとう気は、抜き身の真剣のそれである。未熟とはいえ、妖夢とて剣の道を歩む者。映姫が臨戦態勢にあることは見誤るべくもない。
 対する幽々子はいえば、刃を前にしても一切臆さない。やんわりと受け止めつつ、酒杯を勧めるあたり、流石である。
 いや、少しは緊張しましょうよ。
 見ている妖夢の方が逃げ出したくなるような緊迫感であった。

「今日来た理由、貴方は既にわかっているでしょう。出しなさい」
「はて、出せと申されても何のことやら」
「しらを切るというのですか。この閻魔を前にして」
 なめられたものですね、と映姫は笏を口元に当てて、はんなりと笑う。そして、ゆっくりと今度は妖夢へと視線を移した。
「妖夢」
「は、はいっ」
 たまらず背筋を伸ばして応える。いまだ半人前の妖夢には、今の閻魔の笑顔は怖ろしすぎた。
「貴方、この本が何か知っていますか」
「は?」
 映姫が手を置くのは、机に乗っていた和綴じの本である。
「いえ、知りません。最近、幽々子様がお読みになってらしたようですけど」
 幽々子が読むのは、たいてい古い詩歌や歴史書だ。西行寺家の倉の中から、幽々子本人が適当に引っ張り出してくるのだが、詳しい中身は妖夢も知らない。
 妖夢は学に関しては疎い。そもそも興味が無いのだ。生活に困らぬ読み書きが出来れば十分。そう考えている。
 映姫は、嘆息して言った。
「妖夢、貴方はもう少し周りを注意して見なさい。目に見える物全てが貴方にとってわかりやすい形というわけではないのです」
「は、はあ」
 突然の説教である。しかし、なぜ自分が怒られねばならぬのか、妖夢にはさっぱりわからない。
「まあまあ、閻魔様。妖夢は何も知らないのよ〜」
「知りうる状況にありながら何も知らないということが問題なのです」
 取りなすような幽々子の言も、映姫はばっさりと切り捨てた。
「いいですか、妖夢。この本」
 そう言って、映姫はその本を手にとって、妖夢へ表を見せる。
「これは、閻魔帳です」
「は?」
 その言葉をうまく飲み込めず、妖夢は固まった。
 エンマチョウ、エンマチョウ。今の話の流れにまったくついていけない。
 ただ、なぜだろう。
 何か、とんでもなくマズイ予感がする。
 妖夢は背中をじわりと生温い汗が伝うのを感じた。
 そんな妖夢を尻目に、映姫はその本をぱらぱらとめくり読む。
「そうですね、この中身からすると、時代としては一つ前の大回帰の頃でしょうか。ええ、貴方も知ってるとは思いますが、閻魔帳は閻魔が裁いた魂達の生前の行いや罪状を記した記録です。門外不出、複写禁止、是非曲直庁の最重要機密文書なのです。普段は厳重に管理されているはずのこの文書が、なぜここにあるのか」
 そこで、映姫は、にっこりと笑う。
「もちろん、許可無く見るのは重罪です」
 虎でも即死しそうな笑顔だった。

 わかった。
 やっと妖夢にもわかった。
 閻魔様が殺る気に満ちているのもわかりすぎるくらいわかった。

「あら、そんなに大変な本だとは知らなかったわ〜」

 いかにも初耳です、みたいに目を丸くする幽々子。そんな主のわざとらしさに、妖夢はがっくりと肩を落とした。
 幽々子に振り回されるのはいつものことだが、さすがに今回は相手が悪い。

「事情はわかりました。幽々子様がよもやどこかの人間まがいの本泥棒などやっていたとは全く気付きませんで。ええ、幽々子様も悪気があってのことだとは思いますが、せめて私へご命令なされば、諫めることもできましたものを、まさかご自分で手を染めるとは思いもしませんでした。しかし、それでも主は主ですゆえ、大変理不尽ながら代わりにわたくしめを罰して頂くよう、ひらに、ひらに」
 額を畳にこすりつけるようにして、謝意を表明する。魂魄妖夢、使用人としての心構えは先代より厳しく仕込まれているのである。
「妖夢、妖夢、貴方全然フォローしてないわ。それじゃ私が悪代官か悪家老みたいじゃないの」
 ぱたぱたと扇子を振って抗議する幽々子。
「それに、私は泥棒になんか入ってないわよ。これは本当」
「え?」
 顔を上げて主を、次に映姫を見る。映姫は、ええ、と頷いた。
「確かに、泥棒についてはそうですね。是非曲直庁の厳重な警備を潜り抜けられる者などそうそういません。そもそも、そんな大それたことを考える者も滅多にいないのですけど」
 首を竦めて、映姫はスカートのポケットに手を入れた。
「これが犯行声明のようです」
 取り出して、机に置く。
 それは、紫色の小さな折り鶴。
「今日、出勤したら私の執務室の机にありました。全く不甲斐ない話ですが、これを見るまで犯行があったことすら気付きませんでしたよ」
 ぽかんとして、妖夢はその折り鶴を見る。小さな子どもの手のひらに乗るほどの、お猪口にでも浮かべられそうなサイズだった。にもかかわらず、皺一つ無いその優美さ、完璧な角度。
 誰の仕事なのか。察しの悪い妖夢ですら一目瞭然である。
 妖夢は今の今まですっかり忘れていた。

 そういえば、一番そういうことをしでかしそうなお方がいたではないか。

「それで、いつからですか」
 じろりと映姫は幽々子を睨む。幽々子は扇子で口元を隠しながら、くすくすと笑った。
「あれが落ちてきた次の日にはありましたわ」
「本当に手回しのいい……。それで、貴方はどうするつもりですか」
「さて、どうしましょう」
「読んだのでしょう」
「ええ、読みましたわ」
 よろしい、と映姫は深く頷いた。
「では、二人とも表に出なさい」
 閻魔の瞳が、剣呑な光を帯びていた。
 ごくり、と妖夢の喉が鳴る。覚悟はしていたが、これは、怖い。
「あらあら、私もかしら」
「当たり前です、西行寺幽々子。本当は地獄で千年も暮らしてもらうところですが、大変残念なことに貴方へそれを課すことが出来ません。だから私が今ここで裁くしかないのです。妖夢が貴方を庇い立てしたところで、私の裁きは変わりません。そして、妖夢」
「は、はいっ」
「貴方は為すべき事を履き違えている。おおかた幽々子から何もするな、とでも言われていたのでしょう。しかし、全てが表に見えているわけではありません。言葉通りに捉えていては見えないものがあるのです。そう、貴方は少し素直すぎる。貴方は常に幽々子の道具たらんとしているようですが、道具は道具の役割を知ってこそ道具たりえるのです。受け身で待つのではなく、為すべき事を弁えて待ちなさい」
 天頂から浴びせるような説教だった。雷が落ちるとは言い得て妙である。その言葉は妖夢自身が驚くほどに、深く浸みた。
 呆けたように、浸みるに任せる。任せるしかなかった。
 そんな妖夢を見る映姫の眼が、そこでふっと和らぐ。
「ただ、今の貴方ではそれを理解することも難しいでしょう。だから、貴方はもっと経験を積まねばならない。もっと学ばなければならない。そうしなければ、今は軽い罪でも、いつかきっと取り返しの付かない重い罪を背負うことになるでしょう。ここで私が軽く裁いてあげます。その迷いを晴らしなさい」
 映姫の後ろで、幽々子が苦笑した。そんな主の姿を視界の端で捉えて、妖夢は何かを掴みかける。

 いいのだ。

 理屈ではない。妖夢は力強く腰の刀を握る。

「よろしくお願いします」
 妖夢は、今度は本当に心の底から、頭を下げた。



 二対一だ。
 かつての永夜、あの時以来である。妖夢と幽々子二人が協力して闘った。
 当たり前だが、四季映姫は強かった。
 弾幕ごっこである。定められたルールで闘う以上、お互いどこかに隙はある。
 しかし、それでも閻魔の強さは尋常ではない。幽々子が蝶で絡め、妖夢が斬る。完全に詰むはずの攻撃を映姫は緻密な精度で躱した。それどころか、逆に妖夢達が嫌うところへ鋭く突いてくる始末。
 三セットで、一つでも取れば妖夢達の勝ち。そんな甘い条件を許してもらったというのに、最初の一戦は二分と経たず敗れた。
 二戦目はもう少し持ちこたえた。守りに徹したのだ。まずは敵を見極めるべし。幽々子の言である。
 実は、妖夢は守りが苦手である。堪えることが性に合わないのだ。足が速いゆえに拙速を尊ぶ。攻撃は最大の防御というわけだが、本来、西行寺家の守り刀であるべき魂魄家としては、いささか問題である。
 しかし、およそ防御というものに関しては、守られるべき幽々子が最も得意とするところだったりする。幽々子の攻撃範囲は絶大で、しかも分厚い。いかな映姫とて、そう易々と突破できるものではないのだ。
 だから、待った。
 幽々子に守られながら、妖夢はひたすらに機を窺い、待ち続けた。
 映姫のラストジャッジメント。その一瞬の隙を突いた。
 十二分に矯めた足で、神速の居合いである。
 映姫が明らかに驚き、目を見開いた。タイミングは完璧だったはずである。
 だが、惜しかったのだ。
 ただ、精度がほんのごくわずかだけ、足りなかった。際どいところまでいったが、浅かった。
 結果、二戦目も負けた。
 妖夢のミスで負けたようなものだ。萎れる妖夢へ、しかし幽々子は笑顔で言った。
「良くやったわ、妖夢。これで次は必ず勝てる。私と貴方がいて、負けることなどあるはずがないもの」
 妖夢を励ますだけの空元気ではない。主の言葉は、そんなに安いものではないのだ。そのことを妖夢は知っている。
 理屈ではない。
 妖夢は、幽々子の刀だから。
 幽々子のためだけに研がれた刀なのだから。

 最終セットは長期戦になった。
 三十分を越えても、互いに一歩も譲らなかった。
 映姫が放つ卒塔婆を幽々子の蝶が散らし、妖夢の斬撃を映姫が流す。
 いつ果てるともなく、戦いが続く。
 妖夢の剣が次第に重くなっていく。足が鈍る。冬だというのに、真夏の猛暑の中でマラソンでもやってるかのように息が上がる。
 妖夢だけではない。幽々子もまた、普段の雅な立ち居振る舞いなぞどこへやら。亡霊のくせに汗みずくで、今にもぶっ倒れそうな顔色である。
 対する映姫も同じく、閻魔の象徴たる重そうな帽子をかなぐり捨てて、髪振り乱して笏を構える。あれほどの精妙さを見せた動きは今や見る影もなく、閻魔の衣装は斬られ食われてボロ同然の有様だった。
 だが、三人とも顔は笑っている。
 妖夢と幽々子の息はぴったりで、互いに視線を交わし合うことすら必要ない。絶妙のコンビネーションだった。
 映姫は、そんな二人の姿を見て、己が置かれた苦境にもかかわらず、本当に嬉しそうに、口元を綻ばせる。
 既に、三人が三人とも、思考などは蒸発している。
 そんなものは必要としなくなっていた。
 互いに、早く終われ早く終われと願っていたはずの戦いは、だから、あっけなく終わった。



「ふふ、負けてしまいました」
 白玉楼の庭の中、深い雪の中でだらしなく大の字になって、映姫は呟いた。
 爽やかな笑顔だった。
「ありがとう、ござい、ました」
 言葉は切れ切れ、足はがくがくに震えながらも、辛うじて妖夢は一礼する。その後は、すとんと膝の力が抜けた。そのままばったりと、雪の中に倒れ込む。冷やっこい雪の感触は、どんな暖かい布団よりも柔らかくて気持ち良かった。
「こ、これは流石に、堪えました、わ」
 幽々子は、ぜえぜえと肩で息をする。はしたなくも襟や裾が乱れていたが、直す余裕も無いらしかった。
 それから、しばらく、互いの荒い息だけが続いた。
 言葉を発することなどできないのだ。それほど、三人とも疲労が濃い。
 真冬の雪の中である。普通の人間がこの状態であれば、このまま凍死してもおかしくない。だが、幸いにして、三人とも寒さには強かった。半人たる妖夢ですら、半霊のおかげで平熱は低い。
 三十分は過ぎただろうか。
 やがて、むくりと映姫は起きた。立ち上がって、大きく伸びをする。こきこきと関節が鳴った。
 とっくに、息は整っていた。
 流石は閻魔である。妖夢など、まだ指一本すら動かすことなどできないというのに。
「さて、やることもやりましたし、戻るとしますか」
 いつの間にやら、映姫はその手に例の閻魔帳を携えていた。
 そして、ちらりと幽々子を見る。
「幽々子」
「はい」
 幽々子は、居住まいを正して、真っ直ぐに映姫を見返した。映姫もまた、そんな彼女の視線を受けて、静かに頷く。
「私は、これから独り言をいいます」
 幽々子は小さく微笑む。独り言に頷くわけにはいかないのだ。
「この幻想郷が置かれた事態、上の方でも重く見ています」
 映姫は、独り言のくせに、ぶっ倒れたままの妖夢にも聞こえるように話す。
「外の担当から伝え聞いたところでは、例の落ちてきた物体について、外の世界でもその処遇を揉めているようです。どうやら、あれはある国の軍事的な意味を持つものらしいですね。今となっては時代遅れみたいですけど。外交的なしがらみがあって、この国もなかなか思うように動けないようです。ただ、別の筋からの情報では、仮に動けたとしても、実際には手が出せないとも聞きました。毒が強すぎて近付けないのだとか」
 ぞわり、と妖夢の背筋を冷たいものが撫でる。
 それは、雪のそれとは異質な――。
「つまり、外の世界はどうも宛てに出来ないということですね。最悪、この件に関しては、『こちら』だけでどうにかすることになるかもしれません。まったく、人の世界はなんとも身勝手で後先を考えない。昔に比べればまだしもですが、それにしてもなかなか改まりませんね」
 ふう、とため息をつく。それは、何を思ってのことか、とても、重い。
「この事が、外の世界でも大きな火種となるかもしれません。そうなると、我々も幻想郷のことばかり構ってもいられないのです。八雲紫が犯した罪は大変に重いものですが、それでも、まあ、はっきり言えばたかが一妖怪の所業、今の外の状況から比すれば大したことじゃありません。後できっちりとケリを付けることにはなりましょうが、上の方では外のことが先決だと考えています。そこで」
 映姫は、こほん、と一つ咳をした。
「もし、もしですが、万が一にもあり得ないとは思いますが、もし、八雲紫によるこの行為が、今の外の状況を大きく変えることになるとしたら、解決への糸口になり得るとしたら、ええ、そんなことは本当にあり得ないでしょうけど、そんなことになったとしたら、上の石頭連中も、ご一考くださるかもしれませんね」
 雪の中に半分埋まった妖夢へ、映姫はちらりと視線をくれる。妖夢は、慌てて視線を背けた。
「ただし、大変個人的なことですが、上の連中からお目こぼしを頂いたとしても、私の腹の虫が治まりません。とはいえ、病人を痛めつけるのは本意ではありませんので、あのスキマには早く本調子になっていただきたいものです」
 はあ、と再び深いため息をついた。そして、また幽々子を見る。
 笑みは消えて、表情は既に引き締まっていた。
「以上、独り言おしまいです。では、ごきげんよう。くれぐれも精進を怠らないように」
 言うが早いか、映姫はたちまちに飛び去った。

 そして、後には、ボロボロの主従だけが残る。
「妖夢」
 主の呼びかけに、妖夢は身体を起こした。まだ節々が痛むものの、我慢できないほどではない。
 幽々子を見る。主は姿勢を正したままだ。慌てて妖夢も彼女にならい、雪の上に正座する。背筋を伸ばせば、自然と心も引き締まる。そうして、改めて幽々子を見れば。

、幽々子は、閻魔が見えなくなった空の彼方を見ていた。
 穏やかな、笑顔だった。

 ああ、幽々子様が戻ってきた。

 妖夢は、そのことに気付いた。
 主の顔(かんばせ)を覆っていた憂いが、消えている。

 今となれば、それが何だったのか明白だ。映姫が親切丁寧に妖夢へ教えてくれたからである。
 幽々子は、紫のことを案じていたのだ。
 彼女の古くからの親友である、彼女のことを。

 八雲紫が病んでいる。いつから知っていたのだろう、と妖夢は思う。
 おそらく、あの会議の時には感づいていたのではないか。妖夢の主は、それはそれは聡明な方なのだから。
 そして、彼女と付き合いの長い八雲紫もまた、大変に頭の切れる方なのだ。妖夢は二人の会話を横から聞くことが多いが、その内容はたいてい高尚すぎておよそ理解できたためしがない。殊に、この二人はやたらと婉曲的な言い回しを好むものだから、尚更である。
 だが、だからこそ、紫の為すことには意味があるのだ、と妖夢も考える。
 重罪と知りつつ、あえて閻魔帳を盗み出して幽々子へ託した理由があるはずなのだ。

 これは、妖夢の勘である。
 物心つく前から幽々子を見てきた妖夢の、勘。

 映姫が来るまで、幽々子は悩んでいたのだと思う。
 紫の身を案じるがあまり、己がなすべきことについて。
 妖夢が、もどかしく剣を振っていたように。

 その迷いが、今晴れている。
 幽々子も、そして妖夢も。

 閻魔が白黒付けてくれたのだ。

「幽々子様」
 妖夢の声に、幽々子は従者を向いた。
「お召し替えを。ああ、その前にお湯を用意致します。お腹も空きましたね。お風呂の後はご飯にしましょう。それから――」
「ええ、そうね。それから――」

 幽々子は、人差し指を唇にあてて、悪戯っぽく言った。

「それから、鶴を折りましょう」
「は、はい!?」

 予想外の言葉に、妖夢は目を白黒させる。そんな妖夢の姿を見て、幽々子は面白そうに笑う。まったく、いつもどおりの幽々子がいた。

 ちらちらと、静かに雪が降り始める。
 粉雪だった。
 妖夢の半霊が、くるりと輪を描いた。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


「はーい、いらはい、いらはーい! 永遠亭特製八意印の感冒薬だよー! 咳頭痛発熱くしゃみ鼻水鼻づまりなんでもこれ一錠でピタリとおさまる! 坊ちゃん嬢ちゃん父ちゃん母ちゃん爺ちゃん婆ちゃん誰にだってバシッと効いちゃうよー! これが一ビン三十錠入り、これさえあれば家族みんなでこの冬は健やかに過ごせるってもんだよー! さあて、あなたのご家族の健康がお値段なんとたったの――」
 てゐがビンを掲げて声を張り上げる。
 体は小さいくせに声はでかい。しかもよく透る。
 往来に行き交う人は多いが、今日はあいにく雪がちらつく曇り空、みな背を屈めて早足である。しかし、そんな人々のうちの幾人かが、てゐの声で足を止める。そして、止めてしまえば、あとはてゐのペースである。
「はいはいまいどー! あ、おねーさんちはチビちゃんがまだ小さいからこっちの水薬の方が良いよ、甘いし。はいまいどー! あ、おばちゃん久しぶりだねー。おじさんの方はどう? あはは! そうかー、張り切ってるねー。また顔出すよー。はい、まいどー!」
 掴んだ客は離さない。客の人となりから家庭事情までしっかり押さえた上でのセールストーク。その口の巧さはさすがのてゐである。

 いつもこれくらい熱心に仕事してくれると楽なんだけどなあ。

 てゐの横で、鈴仙はそんなことを思う。
 普段ならば、仕事を言いつけてもすぐ逃げてしまうのである。これまで鈴仙が何度頭を痛めてきたことか。
 しかし、今日は珍しく積極的だ。おそらくは永琳なり輝夜なりが直接指示したのだろう。
 そして、いざやる気になったてゐときたら、これが実に優秀なのである。
 鈴仙一人では、とてもではないがこれほどの集客はできないし、客あしらいだって上手くいかない。
 そう思うと、なおさら鈴仙としては複雑である。もちろん、自分が客商売に向いていないことはわかってるのだが、こうして差を見せつけられると、真面目にやってきた自分はいったい何だったのかと考えてしまう。

 と物思いにふけっていると、突然脛を軽く蹴られた。そこで鈴仙は我に返る。
 未だに慣れない愛想笑いをしながら、鈴仙は用意していた湯飲みを客に差し出した。
「あの、これサービスです! 栄養滋養満点の永遠亭特製甘酒! あったまりますよ! ええ、こちらは無料です。お薬をお買いでない方でも結構ですよ。さあさ、みなさん、どうぞどうぞ!」


 治療方針を転換する。
 永琳がそう決めたのは、一昨日のことである。
 このまま一進一退を続けても埒があかない。もっと踏み込んだ治療を行う必要がある。
 永琳はそのように鈴仙へ語った。
 切っ掛けは、八雲紫からの手紙であった。
 その日、使いと称する猫又の少女が持ってきたものである。
「外界の材料や器具を融通してくれるそうよ」
 手紙を読んで、永琳は満足そうに頷いた。
「よかった。これで次の手が打てるわ」
 ただでさえ物資が少ない幻想郷である。外界からの補給は有り難い申し出だった。
 なにしろ、永遠亭は霊夢という爆弾を抱えているのだ。治療の選択肢が多いに越したことはない。
 早速、使いの少女、橙が案内する場所まで、鈴仙とてゐは何匹かの兎をお供に出かけた。そして、多くの薬剤や薬草、その他何に使うのか想像もつかない医療器具の諸々を入手したのである。
 帰ってきた鈴仙へ、永琳は一枚の紙切れをよこした。
「このレシピどおりに甘酒を作りなさい」
「甘酒、ですか。ええっとどれくらい……」
「できるだけ多くよ。そうね、最低でも三百杯分」
「さ、さんびゃく!?」
「はい、ぐずぐずしない! 時間は貴重なのよ。すぐに取りかかって」
 こうして、追い立てられるように大量の甘酒を作ることになった鈴仙である。
 丸二日作り続けてなんとかノルマを達成し、やれ一息ついたかと思えば、今日はそれを人里で配ってこいとの命令が下った。
「できるだけ多くの人に配りなさい。普段のお得意様はもちろんだけど、これまで馴染みのない人達にも。老若男女分け隔て無くよ。一人一杯」
「えーっと、配るだけでいいんですか?」
 恐る恐る、そんなことを訊く。
 なんとなれば、この甘酒、見た目も味もそれっぽいが、材料は酒粕とは似ても似つかない怪しげなものばかりなのである。これがただのサービスでないことは明らかで、こんな胡散臭いものを人に飲ませて大丈夫なのかと、鈴仙は気が気じゃない。
 すると、永琳は人を食った笑みを見せて答えた。
「大丈夫よ。その時が来ればちゃんとわかるわ」


 というわけで、こうして露店販売を行っているのであった。
 天気には恵まれなかったが、ペースはおおむね順調である。むしろ、この寒空に温かい甘酒は好評で、これを目当てに寄ってくる者も多い。
 一刻もすると、露店用の分は無くなった。てゐの方も売り切れである。
「これなら早く帰れそうだね」
 店をたたみながら、鈴仙は息を弾ませた。この後は置き薬の客回りだけだ。始める前はどうなるかと思っていたのだが、てゐのおかげでなんとかなりそうである。
 しかし、
「さて、どうだろうねえ」
 てゐはそんなことを言う。頭の後ろで手を組んで、ニヤニヤしていた。
「どうって何がよ」
 てゐは答えず、鈴仙の背後へ視線で示した。
 訝しんで後ろを振り返る。
「げっ」
 うっかり、そんな声が洩れた。

「少し、話をしてもいいかな」

 柔らかくそう語りかけてきたのは上白沢慧音である。その隣で稗田阿求が会釈する。
 どちらも笑顔である。しかし、まとう雰囲気には有無を言わさぬものがあった。
 厄介なことになった。
 鈴仙は天を仰いだ。


 慧音の自宅は、人里の外れにある。
 大通りから離れており、家影も疎らな場所である。真っ昼間だというのに、道行く人影もなく、喧噪も遠い。
「大したおもてなしもできなくてすまない」
「はあ」
 出された湯飲みを前に、鈴仙は途方に暮れる。
 部屋は六畳程か。家具らしいものはほとんどない。太脚のがっしりしたテーブルと座布団、あとは暖房用の火鉢があるだけだ。
「この部屋は元々寺子屋で使ってたんだよ」
 部屋を見回していた鈴仙へ、慧音は笑って説明した。
「生徒が増えてここじゃ入りきらなくなってね。今は使ってない。広いところを借りてそっちでやってるんだ」
「はあ」
 どう答えていいのかわからず、生返事の鈴仙である。茶に口を付ける余裕も無い。
 ちらりと隣のてゐを見れば、こちらは遠慮無く出された煎餅をかじりながら茶をすすっていた。相変わらず、暢気というか神経が太いというか。それが鈴仙には羨ましく腹立たしい。
「さて、前置きはこれくらいにして、本題に入ろうか」
 慧音の言葉に、鈴仙は居住まいを正した。
 元よりあまり楽しい話にならないことはわかっている。ならば、腹を括るしかない。
 慧音の真摯な視線を、鈴仙は真っ向から受け止めた。
「この幻想郷に何が起こっているのか、教えてもらえないだろうか」
「お答えできません」
 即答する。慧音らと会った時には既に用意していた答えである。
「お答えできません、か。ふむ、すると、何が起こっているか知ってはいる、と?」
「それもお答えできません」
 木で鼻を括ったような応えに、慧音は苦笑した。
「とりつく島もないか。それは永琳殿のご指示で?」
「お答えできません」
 三度同じ答えを返す。何を聞かれても鈴仙はこれを貫くつもりである。
 鈴仙は永遠亭の立場というものを弁えている。
 今、力ずくで慧音と阿求から逃げることは容易い。だが、人里での荒事は御法度である。そんなことをすれば、鈴仙は厳しく咎められるし、永遠亭の看板に泥を塗ることになる。
 かといって、鈴仙の口から幻想郷の状況を話すこともできない。幻想郷の土台を揺るがす大事だ。そうおいそれと話せるものではないし、そもそも鈴仙にそんな権限はない。
 無論、慧音も阿求も、そんな鈴仙の事情はわかっているのだろう。わかっていてなお、どうにか情報を引き出そうとしているのである。
「ふむ、困ったなあ。どうあっても話してくれないか。では、質問を変えようか」
 あまり困ったようには見えない口ぶりで、慧音は身を乗り出した。
「ずばり訊きたい。博麗霊夢はあとどれくらい保つ?」
 その質問に、鈴仙は息を呑んだ。その反応に、慧音は人を食った笑みを見せる。
「なに、そんなに驚くようなことじゃない。こちらにもそれなりのツテがあるんだ」

 切っ掛けは、ある茶店の店主である。
 慧音も馴染みのその茶店は、団子が美味いと界隈でも評判の老舗である。店主は還暦過ぎてもバリバリの現役で、なかなか代を譲ってもらえないと息子がこぼす。そんな頑固一徹の老人である。
 この店主の孫が寺子屋に通っている関係で、慧音もよくこの店へ足を運ぶ。茶をご馳走するから孫の話を聞かせろとうるさいのである。
 そんなこんなで、いつものように会話をしていたある日、店主がぽつりと言ったのだ。
 最近、あの子を見かけないなあ。
 なんのことかと慧音が聞き出すと、目立つ紅白衣装の客が週に一度くらいの割で来るのだそうである。頼むのはいつも団子一皿と梅茶で、ゆっくり時間をかけて平らげた後、お土産に団子を買って帰る。
「あの子はねえ。うちの団子をほんとに美味そうに食ってくれるんだよ」
 店主はそう言って相好を崩した。
「あんな顔して食われちゃあね。職人冥利に尽きるってもんだよ。こっちも嬉しくなるさ」
 呵々と笑う店主は、しかし、そこで顔を曇らせる。
「いつも来てくれたんだがねえ。そりゃあ、最近は天気もよく荒れるが、ほら、今日は良い天気じゃないか。どうしたんだろうねえ。風邪でもひいてなきゃいいんだが」

 気を付けていれば、情報はいくらでも入ってきた。
 食料品店、日用品店などの店主や店員は、彼女のことをよく覚えていた。なにしろ目立つ格好である。この冬、天気が良い日はいつも買い出しに来ていることがそれでわかった。
 里の魔法屋や符術屋では彼女が書いた符や札を卸して売っている。平和になったとはいえ、里の外に出るならこの手のものは必需品だ。彼女の手による品はたいそうよく効くとのことで売れ行きも良いのだという。近頃は仕入れができなくて困る、と彼らはぼやく。

 大人だけではない。寺子屋の子ども達ですら彼女のことを知っていた。
「わたし、前に助けてもらったよ」
 生徒の一人である少女は、はにかみながらそう言った。
 お使いの帰り道、野犬に追いかけられたのだという。走って逃げたが、子どもの足と犬ではもちろん勝負にならず、あわやというところで横から体を抱きかかえられた。
「目をつぶってたから何があったのかわかんないの。でも、なんかすっごい音してた。ばーんとかどーんとか。あと、犬がキャンキャン鳴いてて」
 目を開けたときには犬の姿はなく、彼女が立っていた。彼女は、少女に怪我がないことを確認すると、それで素っ気なく去ってしまった。少女がお礼を言う間も無かったという。

 ある程度情報が集まれば、いつから彼女が姿を見せていないのかおおよそわかる。
 慧音は博麗神社へと赴き、そこに彼女がいないことを確認した。そこから稗田家へ飛び、阿求に事の次第を話す。

「慧音さんからお話を伺いまして、私も独自に情報を集めました」と、阿求は語った。
 稗田には転生の度に蓄えた膨大な資料と、それに絡む妖怪側との太いパイプがある。歴代稗田と知己の妖怪は多い。
「あいにく八雲紫さんは捕まりませんでしたけど、それでも霊夢さんに何かがあったことはわかりましたよ」
 もっとも、とそこで阿求はくすくすと笑った。
「霊夢さんがどこにいるかは、さっきまでわからなかったんですけどね」
 やられた! 鈴仙は唇を噛む。
 見事にカマをかけられたというわけである。
「まあ、そんなわけだ。今更私達に隠し事なんか意味がない。だから話してくれないだろうか。なに、私も阿求も口は固い。この話が外に洩れることはないから安心してくれ」
 慧音は己の胸に手を置いて言った。もちろん、彼女が誠実な人となりであることは鈴仙もよく承知している。
 でもなあ、と鈴仙は苦る。
 なにしろ、事が大きすぎるのである。鈴仙の一存では決められない。だいたい、話すにしても、何をどこまで話せばいいというのか。

「いいじゃん、全部話しちゃえば」
「ちょ!?」
 目を剥く鈴仙をあしらうように、悪戯兎がヒヒヒと笑う。
「だいたいさー、そんな簡単なカマに引っかかるようじゃ、どのみち鈴仙の負けだって。遅かれ早かれこちらさんが欲しいネタを引き出されるに決まってる」
 痛いところを突かれて、鈴仙は、ぐぅと唸った。
 そもそも、こうした腹の探り合いは苦手なのである。だからこそ、何を聞かれても知らぬ存ぜぬで通すつもりだったのだが。
「あ、あんたねえ!」
 ただ、それでも素直に認めたくはないもので。
「あんた、いったいどっちの味方よ! 煎餅バリバリ食ってる余裕あったら、あたしの援護射撃くらいしなさいよ!」
「えー、私ついてきただけだしー。鈴仙が勝手に墓穴掘ったんだしー」
 食ってかかるが、暖簾に腕押し、馬耳東風である。この兎の垂れ耳はきっと左右が直結しているに違いない。いつか耳穴に糸を通して凧揚げしてやる。そんなことを、鈴仙は半ば本気で考えた。

「まー、でも、潮時だったんじゃない?」
 てゐは、そう言いながら急須の蓋を取った。火鉢にかけていた薬缶からお湯を注ぎ、自分の湯飲みに茶を足す。
「そろそろ、人間達にもある程度状況は知らせた方が良いよ。あんまり秘密にこだわりすぎると、変に勘ぐった奴が出てくるからさ。いざ事が起こると、そういうのが一番タチ悪いんだ」
 だから、そうなる前に話が分かる奴には正しい情報を知っておいてもらおう。
 そんなことを、てゐは湯飲みを傾けながら言った。
「こら! そんなこと、あんたが決められるわけないでしょ!」
「いいって、いいって。そんなことこだわるより、巻き込んじまった方が私達だって仕事が楽になるんだからさー」
「はあ? 何言ってんの、あんた」
「わっかんないかなあ。ほら、実際、兎の手も借りたいほど忙しいわけじゃん」
 てゐが顎で部屋の隅を差す。そこには、今日の仕事道具が積まれている。
 それで、てゐが言うところを鈴仙は察した。
「里の人間達に仕事を手伝わせようっていうの!? ほんと、何考えてるのよ、あんたは!」
「別におかしいことは言ってないよ」
 てゐは、やれやれといった風に肩を竦める。
「あのねえ、鈴仙。ぶっちゃけるとさあ、早くうちらとしては厄介払いしたいじゃん。あの巫女にはとっとと治って出てって欲しいわけよ。だって、あいつがいるとおちおち騒ぐこともできないしさー。息が詰まって仕方がないよ」
「さすがてゐさん。ぶっちゃける時は聞いてるこちらが引いちゃうくらい徹底してますねえ」
 笑顔の阿求に取り合わず、てゐは続ける。
「だからさ、しょーがないから、私も仕事してるわけ。鈴仙に任せてちゃいつまで経っても終わんないじゃん」
「なによそれ」
 鈴仙は、むうっと膨れた。だが、悔しいことに事実である。てゐによって格段に効率が上がることは、先の露天売りで証明済みだ。
「私はさ。なんでもいいから、早く元の生活に戻りたいの。で、こうしてこの偉い先生がタダで協力してくださるっていうんだからさー。そりゃー乗った方が得じゃん」
 タダ働きするとは言ってないが、と慧音が苦笑する。
「まあ、話を聞いてしまえば協力することにやぶさかでもない。何か里の方へ頼み事があるなら、私から話をつけてもいいぞ」
「私からも口添えしますよ。稗田の名はこの里でよく通るのです」
 三対一である。
 うー、と鈴仙は唸った。
 正直な気持ち、里の協力は得たいところである。
 まずはなんといっても血液。霊夢と同じ型の血液が安定して手に入るなら願ってもない。
 それと、健康な肉体を持つ人間が数人。正確にはそれらの人間達から得られる新鮮な組織が欲しい。これは永琳が作った薬の試験に使う。必要な量はほんのごく僅か。皮膚や粘膜の一部でいい。
 あとは、大変地味な問題ではあるが、霊夢の身の回り品の補充。魔理沙が見舞いに持ってくる物もあるが、実際、病人一人が生活する上で必要な物は細々と多いのである。

 ただ、どうにも上手く丸め込まれている気がする。
 それが今ひとつ気にくわない鈴仙である。

「あーもう、わかった! わーかーりーまーしーたっ! えーっと、私じゃどのみち説明できないんで、お二人とも師匠に会ってください。お聞きになりたいことは、直接師匠から聞いた方がいいでしょ」
 投げやりに叫ぶ。きっと後で永琳からお仕置きされることになるのだろうが、そこはもう諦めた。どうなとなれ、である。
「ありがとう」
 慧音と阿求は、深々と頭を下げた。
「感謝する。この人里を守るためにも、我々でできることは喜んで力になろう」
 慧音の真摯な言葉が面はゆい。鈴仙は、むすっと口を結んで彼女のつむじを眺めた。
「さあさあ、話もまとまったところで早速なんですけどねー」
「こらこら」
 揉み手をするてゐを鈴仙は押さえる。
「ちゃんと決まるのは師匠次第なんだから先走るな」
「そんなのもう決まったようなもんだよ。今回のコレだって、ギブアンドテイク考えてるはずだしね」
 まあまあ、と慧音が間に入った。
「永琳殿との話は抜きにしても、こうして時間を取らせてしまった礼はしよう。何をしたらいい?」
「さすが慧音先生は話がわかる。実はですねー」
 と、てゐが身を乗り出した時である。

「おーい、慧音ー、いるー?」

 がたがたと玄関の引き戸を開けながら呼ばわる声一つ。お、と慧音が腰を浮かす間もあらばこそ、声の主は勝手知ったるとばかりに上がり込んで、からりと部屋の襖を開けた。
「よっ」
 藤原妹紅である。
「お、見慣れない靴があったと思ったらお前らか。珍しい」
 そう言いながら、彼女は鈴仙の顔を見た。はあ、ととりあえず愛想笑いをして鈴仙は会釈する。立場上、付き合いはそれなりにあるものの、未だに距離の取り方が慣れない相手である。
 一方、妹紅は特に気にする様子もない。片手を上げて挨拶を返すと、「寒い寒い」と身を縮こまらせて火鉢に寄ってきた。
「今日はまた一段と冷えるなあ。雪もこれからまたひどくなりそうだし、ほんと、もう勘弁してほしいよね。早くあったかくならないかなあ」
「さあさあ、そんな時にはこれですよ」
「お、気が利くね!」
 てゐが差し出した湯飲みに、妹紅が頬を緩めた。いかにも温かそうなそれは、
「あ」
 いつの間に温めておいた物か。鈴仙が止める間もなく、妹紅は例の甘酒をぐいっとあおった。


 ジャーン!


 突如鳴り響く大音量のブラスと軽快なドラム。
「え、ちょ、なに、え!?」
 鳴っているのは、妹紅の体である。突然の事態についていけず、目を白黒させて自分の体を見下ろす妹紅。慧音と阿求は、ぽかんと口を開けるのみである。
「え、あの、おい、なんだこれ!」
 叫ぶ声に狼狽から苛立ちがこもる。とっさに鈴仙はてゐを見たが、てゐは青い顔でぶるぶると首を横に振った。どうやらいつもの仕込みではないらしい。
 やがて、イントロが終わり、勇壮なメロディが続く。

 千年幻想郷である。

 ぷーっと慧音が吹き出した。
 阿求もくの字になって肩を震わせている。どうやらツボに入ったらしい。
「……どういうことか説明してくれる?」
 顔を真っ赤にして、妹紅が鈴仙を睨んでいた。かすかに涙が浮いているのは、やっぱり恥ずかしいらしい。さすがにいたたまれず、鈴仙は見て見ぬ振りをする。
 なるほど、その時が来るからわかる、か。
 説明してわかってもらえるだろうか。ほぼ絶望的な問いに両耳をしおらせて、鈴仙は引きつった笑顔で応えた。
「お、大当たり〜」


「エクセレント!」
 妹紅を見るや、永琳は叫んだ。
「よくやったわ、ウドンゲ! これ以上はない最高の素材よ!」
 上機嫌である。これほど手放しで弟子を褒める彼女は、かなり珍しい。
「はあ、ありがとうございます」
 だが、その賛辞も鈴仙としては胸中複雑である。妹紅を永遠亭に連れてくるために、どれほど苦労したことか。全身焼け焦げだらけのまま、鈴仙は虚ろな笑みを返す。
「ひとまず、話だけは聞かせてもらおうか」
 こめかみに青筋を立てて、妹紅は獰猛な笑みを見せた。
「聞いた後であんたをボコる」
 既に音楽は止まっている。永琳が一枚の符をぺたんとおでこに貼ったのだ。どうやら、それを貼っている間は止まる仕組みらしい。荒い鼻息で符がふわふわと揺れ、その様を見て阿求が本日何度目かのツボに入った。

「単純なことよ」
 もちろん、永琳は妹紅の恫喝などどこ吹く風である。
「貴方の体を霊夢の治療に使わせてもらうわ」
「は?」
 おそらく霊夢の事情を知らない妹紅に構わず、永琳はとくとくと語った。
「自家移植よ。霊夢自身の健康な骨髄を取っておいて、後で彼女に移植するの。でも、ここじゃまともな設備が無くてね。骨髄の培養と保存をどうするか悩んでいたのよ。そこで、誰か他の人間の身体を使おうというわけ。もちろん、誰でもいいというわけじゃないわ。抗原が適合しないと意味ないからね。だからウドンゲ達に探してもらってたのよ」
 つまり、例の甘酒はその適合者を判別するための試薬だったのである。
「ま、待て。なにがなんだかわからんが、怖い話をしている気がするぞ!?」
「怖くないわよ。ただ、ほんのちょっと痛い思いはするかもしれないけど」
 ふふふふ、と永琳は静かに笑う。それは身内である鈴仙から見ても、いや、鈴仙だからこそ怖ろしかった。
 永琳が妹紅を見る目は、なにか楽しい玩具を見つけた子どものそれである。
「か、帰る! なんで私がそんなわけわからんもんに付き合わなくちゃならないんだ!」
「あらつれない。せっかくだからゆっくりしていきなさいな。どうせ貴方も入院するんだもの」
「何勝手に決めてんのよ!? うわ、離せこら!」
 がっしりと妹紅を羽交い締めにして、永琳は艶やかにその耳元で囁く。
「後でたっぷりノーガードで殴らせてあげるわ。その代わり、今は私のターンね」
「イヤだ! うわ、やめろ、おい! 慧音、何ぼーっと見てんだよ、助けろよ!」
「すまん、諦めろ」
「諦めろじゃねえよ!? なんでそんなやんちゃ坊主を見るような慈愛のこもった目で見てんだよ! 止めろよ!」
「妹紅、あまりその格好で喋るな。見ろ、阿求がそろそろ死にそうだ」
「好きでこんな札付けてんじゃねえよ! ここに来るまでさんざん笑ったくせに!」
「いや、努力は、努力はした。でもな、うん、プッ」
「笑った! 今、笑った! おい、慧音!」
「ところで永琳殿。私と阿求は別の話があるのだが」
「ああ、その話ならだいたい予想はついてるから姫にしてちょうだい。ついでに姫の相手をしてくれると助かるわ」
「心得た。では、妹紅を頼む」
「ええ、任せて」
「頼むじゃねえ! ちくしょー! こら、ばか! おーい!」
 妹紅がずるずると永琳に引きずられていく。それは、さながら大型の肉食獣が得物を咥えていくが如しである。
 半ば憐憫を込めてそれを見ていると、脇腹を小突かれた。
 そちらを向くと、てゐが親指を立てていた。
 どうだ。言ったとおりだろう。そんな得意げな顔である。
、鈴仙は、深いため息を吐いた。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


「こないだ早苗に聞いたんだがな。外の学校は面白そうだぜ」
「学校? 寺子屋なんて子どもが通うものでしょ」
「違う、違う。外じゃ大人になっても学校に通うらしいんだ。早苗だってどこかの学校に行ってたってさ」
「ふうん、でも何が面白いの? いまいちピンとこないんだけど」
「だって面白いじゃないか。大人になってもたくさん勉強するネタがあるんだぞ」
「勉強が面白いの?」
「面白いだろ」
「わかんないわねえ」
「霊夢は勉強とか修行とかキライだもんな」
「だって、めんどくさいんだもの」
「知の楽しみがわからんとは嘆かわしいな。そうそう、面白いといえばな、なんでも試験が一年に何回もあるらしいぞ」
「試験? なんでそんなもんが面白いのよ」
「面白いだろ」
「面白くないわよ」
「それだけ競争する機会が多くなるってことだぜ。楽しいじゃないか」
「あんたは単純でいいわねえ。そんなに競争ばっかりしてちゃバテちゃうでしょ」
「見返りがあるならいいだろ」
「見返りあるの?」
「良い点取ったら、イチリューダイガクとかイチリューキギョーとかに入って偉くなれるらしいぞ」
「へえ、偉くなりたいの? お役人にでもなる気?」
「そういうのは性に合わんな。私は魔法使いのままで偉くなりたいんだ」

 霊夢の病室である。面会できるようになってからというもの、ここに通うのが魔理沙の新しい日課となった。
 研究の合間を縫ってのことだから、時間はまちまちである。朝に行くこともあれば、日が傾きかけた頃になることもある。
 霊夢の体調は、やはりまだ良くない。以前よりは回復したというものの、今でも毎日の点滴は欠かさないし、飲食は制限されたままだ。薬草粥が不味いと霊夢はぼやく。
 だが、それでも霊夢の顔が見られる。話すことができる。それが魔理沙には嬉しい。
 紅魔館は、魔術師の端くれとしては申し分のない環境だったが、やはり魔理沙には物足りない。行き詰まると、どうしても霊夢の顔が頭に浮かぶ。
 行き先が博麗神社から霊夢の病室になっただけともいえる。会って話す内容はなんでもいい。魔理沙は喋り上手である。ネタには困らない。

「そういや、その早苗がな。最近、雪かきを教えてもらってるんだってさ」
「雪かき? 教えてもらうもんなの、あれ」
「外じゃあんまり雪が降らないらしいからな。やり方というかコツがよくわからんらしい」
「ふーん、で、誰が教えてるの?」
「紅魔館の門番」
「はあ!? なんでまた」
「詳しいところは私も知らん。でも、なんか気が合ってるみたいだぜ。さっき、紅魔館に寄ったら、蹴りの練習してた」
「雪かき関係ないじゃん」
「拳法の鍛錬とセットで教わってるんだってさ。その方が効率が良いんだと」
「何の効率なんだか」

 ずっとこうして彼女と一緒にいられたらいいのに。
 そう、魔理沙は願う。
 こうしたくだらないお喋りをいつまでも続けていたい。そんなことを思ってしまう。

 もちろん、そんな余裕などないことは魔理沙もわかっている。
 今こうしている間にも霊夢の残り時間は短くなっていく。その焦慮は仮眠を取っている間ですら魔理沙を炙る。最近は、進む時計の針が煩くて、ついには時計を毛布でくるんで部屋から放り出す。それくらい、今の魔理沙は時が怖い。
 だが、そんな時ほど、魔理沙はこの友人の顔を思い出す。
 会いたくて会いたくてたまらなくなるのだ。
 そして、どうにも我慢できなくて、とうとうここに来て彼女の顔を見る。彼女の声を聞く。すると、魔理沙に憑いていた何かがすとんと落ちる。
 そして、安堵するのだ。
 ああ、霊夢はまだここにいる、と。

 そんなことをしている場合か、と己の中で叱咤する自分がいる。
 状況を考えろ。今は少しでも先に進まなければならないのだ。
 至極当たり前のことを、頭の中で囁く自分がいる。

 だが、魔理沙は救いを求めていた。

 このお喋りが、あまりにも楽しすぎるから。
 このひと時が、あまりにも心地よいから。

 それが束の間のことであっても、いや、それだけに、魔理沙はその時間を大事にしたい。

「あら、誰か来たわ」
 霊夢が扉の方を向いた。つられて魔理沙もそちらを見ると、扉のガラス窓に人影が映る。
「こんにちは」
 カラリと扉が開いて、金髪と碧い瞳が覗いた。アリスである。
「ああ、いらっしゃい」
 霊夢の挨拶に、アリスは頷いて応えた。
「あら、意外と元気にしてるわね」
「おかげさまでね。身体がなまって仕方がないわ」
「普段はのんべんだらりと過ごしてるくせに、よく言うわね」
 そこで、アリスは部屋を見回して、魔理沙に目を止める。
「よお」魔理沙が手を上げると、アリスはわずかに目を細めた。
「なんだ、いたの」
「いたぜ。朝からな」
「あんた、あんまり病人のとこに入り浸ってんじゃないわよ。霊夢が疲れるでしょ」
「そんなに長居はしないぜ。それに霊夢が寂しがってかわいそうだからな。こいつはボランティアだ」
「はん、寂しがってるのはあんたの方じゃないの?」
 図星を突かれて、魔理沙は一瞬口ごもる。その間に、アリスはさっさと魔理沙の隣の椅子に腰掛けた。
「ま、魔理沙のおかげで退屈はしないわよ」と、霊夢は肩をすくめて言った。
「ここにいると、ほんとに寝てばっかりなんだもの。楽なのはいいけど、さすがに飽きてきたわ」
「そんなあなたに、素敵なプレゼントを持ってきたわ」
 そう言って、アリスは抱えていた箱を近くのテーブルに下ろした。長さは三○センチほどの細長い箱である。綺麗にラッピングされてリボンがかけられたそれを、霊夢は目を丸くして見る。
「あ、ありがと」
 お礼を言う霊夢の頬が赤い。普段、こうしたいかにもな形のプレゼントなど貰ったことがないのだ。
「素敵なって自分で言うところが凄いよな」
 茶化す魔理沙を、アリスは横目で睨んだ。
「うるさいわね。さあ、開けてみて」
 促されて、おずおずとリボンを解き、丁寧に包装を剥がしていく。現れたのは真っ白な桐箱で、さらにそれを開けると、
「あ、人形」
 一体の人形がそこに眠っていた。
「あ、これ、私?」
 長い黒髪に大きくて赤いリボン。肩口を切った赤いブラウスに白い袖。赤いスカート。
 それは、いつもの霊夢の格好をした人形だった。
「えーっと、なんで私?」
 当惑した顔の霊夢である。アリスの人形作りの腕は、もちろん霊夢もよく知っている。しかし、見舞いの品として適当なのかというと、さすがに霊夢も人形遊びをするような年ではないのだ。まして、自分を模した人形である。これをどうしろというのか。霊夢は訝しむようにアリスを見た。
「そう、それは霊夢の人形よ」アリスが頷く。
「霊夢の、身代わり人形」
「身代わり?」
 そこで、霊夢も、ああ、と頷く。
「厄除け人形ってこと? へえ、あんたらしいわね」
 面白そうに人形を覗き込む霊夢へ、アリスは微笑んだ。
「効き目は保証するわよ。なんてったってその道のエキスパートが手がけたんだもの」


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


 幻想郷で人形に詳しい者といえば、一般にはアリス・マーガトロイドが知られている。
 彼女は、人形を作ることにも操ることにも蒐集することにも長けている。特に人形繰りにかけては幻想郷随一との声も高く、その技術には幻想郷の重鎮すらも一目置くという。
 また、近年では無名の丘に人形の妖怪が住んでいることが確認されている。幻想郷縁起によれば、彼女、メディスン・メランコリーは、人形の立場向上を掲げて活動しているとのこと。本人が人形なのだから、当然人形のことはよく知っているのだろう。ただ、妖怪化してまだ日が浅いせいか、その見識には偏りがあるのだとか。
 そして、あまり多くには知られていないものの、この幻想郷にはもう一人、人形に関するエキスパートがいる。

「それが私です」
「どこ向いてしゃべってんのよ」

 レミリアのツッコミをスルーして、その少女は長い髪と大きなリボンを流してくるりと一回転した。

「お初にお目にかかりますわ、夜の王。私が流し雛の長、鍵山雛です。どうぞ、以後お見知りおきを」

 少女はドレスの裾を持ち上げて優雅に一礼した。名前と役職の割に、そういった仕草がよく似合う。本場の社交界を知るレミリアから見ても、その様は洗練されていて非の打ち所がない。
 ただ、惜しむらくは、ここがセレブなパーティ会場ではなく、日本の山奥、幻想郷の古びて寂れた小さな神社であることか。

 博麗神社である。ここの主が床に伏して十日余り。誰も世話する者のいないこの場所は、早くも荒廃の兆しが見えていた。
 雪は屋根にも境内にも深く積もり、木枯らしが吹き上げた落ち葉は秩序無く雪の上に散らばる。
 空からは、ちらちらと雪が舞っていた。今日は朝からこんな天気である。鈍色の雲がのっぺりと遠くの山々まで続いていて、おかげでレミリアとしては過ごしやすい。
 まあ、それはそれとして。
「で、誰なのこいつは」
 レミリアは少女を顎で示しながら、隣を見た。
「今、自己紹介してたじゃないの」
 パチュリーは、ぼそぼそと小さく応えた。鼻が埋まるくらいマフラーを巻いているので、声がくぐもっていつも以上に聞き取りにくい。
「見た目はアレだけど、神様らしいわよ、これでも」
「神様?」
 レミリアが怪訝な視線を向けると、雛はにっこりと笑った。


 明日、新しい実験装置を試すから神社へ行く。だから一緒についてきて。
 パチュリーがそう言ったのは、昨夜のことである。
 レミリアとしては、ことが順調に進むのならば異論はない。ただ、なぜ自分がついて行かねばならないのか。魔理沙とアリスはどうしたのか。
「あいつらには、他にやってもらうことがあるのよ」
 それに、とパチュリーは続けた。
「レミィにも手伝って貰いたいことができたし」
 親友にそんなことを言われれば是非もない。ただでさえ自分が動けないことに苛々していたのだ。そんなわけで、真っ昼間、吸血鬼としては不健康な時間帯にもかかわらず、意気軒昂として門を出たのである。

 すると、神社に先客がいたのだった。
 鍵山雛。
 流し雛という行事によって崇められる厄除けの神であった。


「私が魔理沙に呼んでもらったのよ」
 パチュリーは説明した。
「あいつがその神様と顔見知りだっていうからね。じゃあってことで、連れてきてもらったわ」
「はい、連れてこられちゃいました」
 雛はおっとりと応えた。なるほど、吸血鬼であるレミリアを前にしてこの落ち着き振り。確かにただ者ではない。
「まあ、神様だってのはわかった。で、それがどうしたって?」
 レミリアの問いに、パチュリーは肩をすくめた。
「相変わらず性急ね、レミィは。まずはこの前の話を思い出して。身代わりを立てるって話をしたでしょう」
 ああ、とレミリアは頷く。
「したね、確かに。アリスが霊夢の人形作ってたっけ」
 レミリアも制作途中のものを見たことがある。人形そのものの精巧な作りはいつものことだが、霊夢が身につけている服や小物までもを再現する手腕は、まったく見事としか言いようがなかった。
 本人いわく、「この程度作れないようでは人形師とは言えない」とこともなげであったが、それにしても霊夢のことをよく観察しているものである。
「そう、あの人形に霊夢の身代わりをやってもらうのよ。一時的に厄災をあれに移すの」
「へえ、この間もそんなこと言ってたけど、できるの?」
「できるからやるのよ。そのために、この神様の力を借りるの」

 古来より、人形(ヒトガタ)は身代わりに使われる。呪術としては東西を問わずベーシックでオーソドックスなメソッドである。
 人形を用いて模した相手を呪うも良し。お守りに使って危難を防ぐも良し。
 素人でも簡単に手が出せるお手軽さの割に、応用がいろいろと利いて便利なのである。

「ええ、あの人形なら私も今朝見せていただきましたわ。綺麗で可愛らしくて、本当に素敵」
 雛は手を合わせて微笑んだ。どうやら、アリスは見舞いに行く前に、ここへ立ち寄ったらしい。
「ですから、喜んで私の眷属として加えさせていただきましたわ」
「眷属?」
「人形をこの神様の支配下に置くのよ」
 怪訝な顔をするレミリアへ、パチュリーがフォローを入れる。
「この国には、流し雛って行事があるのよ。ケガレを人形に移して、その人形を川に流すの。水にはケガレを洗い清める意味があるから、文字通り、ケガレは水に流してしまうわけ。この神様は、そういう流し雛の長。人形に移したケガレが全部清められるまで見守る厄除けの神様」

 雛の支配下にある人形は、ケガレ、すなわち厄災を肩代わりする役目を負うとことになる。
 言い換えれば、雛が人形を支配下に置けば、それは自動的に身代わり人形となるのである。

「最初は、アリスがそのための術式を組む予定だったの。だけど魔理沙がね。それならうってつけの奴がいるって言うから、それじゃあ会ってみようかってことになって」
 なるほど、餅は餅屋というわけである。
「あの黒白も顔が広いね。そんで、これからどうするのさ」
 レミリアの問いに、パチュリーは呆れたように首をすくめた。
「だから、実験よ。咲夜」
「はい、こちらに」
 控えていた咲夜が、提げていたバスケットから金属製の箱を取り出した。サイズはパン一斤程度。そして、その宝箱のような形状は――
「オルゴール?」
「ええ、そう」
 目を丸くするレミリアへ応えながら、パチュリーは受け取ったオルゴールの蓋を開いた。

 カランコロンと澄んだ音色が流れ出す。どこか楽しげで、そのくせ妙に物悲しい、そんなメロディ。
 少女綺想曲。
 霊夢の曲だった。
 オルゴールの中は、神社のジオラマになっていた。鳥居も本殿も、豆粒のような賽銭箱もある。そして、境内の真ん中で、小さな巫女の少女がくるくると回って踊る。
 図らずも、レミリアはその動きに見惚れた。
 単純なゼンマイ仕掛けのはずなのに、その踊りも曲も、レミリアを捉えて離さない。

 ほう、と雛が息を洩らした。
「素敵。貴方が作ったの?」
「ええ。こういうの作るの、結構得意なの」
 パチュリーの声は、微かに得意げな色を含んでいた。
「今回の身代わり人形は、ただ厄災を引き受けるだけじゃダメ。博麗の巫女の身代わりでなければならない。だから、巫女の背景も含めてできるだけ似せる必要がある」
 パチュリーは視線をオルゴールへ落とした。既に、人形の動きは緩やかに失速し始めている。
「巫女であることを示すには神社も必要。これを作ったのはそういう理由よ。このオルゴールの巫女は、霊夢であって霊夢じゃない。博麗の巫女というシンボルなの」

 ふと、先日の会話をレミリアは思い出す。
 博麗の巫女は人柱である。取り替え可能な、部品としての人間。
 レミリアは、博麗霊夢を気に入っている。
 はたして、彼女の何が己を惹きつけるのか。
 それは、霊夢だからなのか。
 それとも、博麗の巫女だからなのか。
 レミリア自身は前者だと思っている。巫女であろうがなかろうが、自分が惹かれたのは彼女の個性であり、魂だ。
 しかし、だとすると、このオルゴールへ心惹かれるのは何故なのだろう。
 博麗の巫女を象ったというこの人形の少女が、こんなにも心を乱すのは何故なのだろう。
 そんなことを、レミリアは思った。

「一応、あの人間の娘から事情は伺ってるのですけど」
 雛は、そこで少し困った顔をした。
「どうにもことが大きすぎます。私、個人に降りかかる災厄は引き受けられるのですが、幻想郷全体となりますと、さすがに私の神格ではカバーできません」
 年一回、流し雛の行事がある。
 紙を折って作った人形へ、その年の厄を移して川に流す。雛は川の下流で、その人形とともに厄を集める。
 集めた厄は、雛が一年かけて清める。そして、次の年には新たにその年の厄を引き受けるのだ。
 人形一体につき、人一人一年分。それがこの儀式のルールである。当然、身代わりの元となる人間は特定の個人でなければならない。
 つまり、博麗の巫女という漠然とした概念は対象に出来ない。
 雛はそう言っているのである。
「その辺の紐付けはこちらでなんとかする」
 と、パチュリーは応えた。
「このオルゴールはそのためのもの。アリスが作ったあの人形と、このオルゴールは魔術的に繋がっている。あちらが発動すれば、こちらは博麗の巫女たる博麗霊夢になるのよ。細かい部分は調整中だけど、そうなるように術式を組んでいるわ」
「ふーむ、あまりよくはわかりませんけど、それで貴方は私に何をお望みかしら」
「オルゴールの魔術回路を仕上げるには、貴方の力が必要なのよ。本番ではもちろん身代わり人形を動かすのだけど、あれは一度動かせば止められない。それに、あの人形自体が特別製で、そうそう代わりは用意できない。だから、貴方が人形の代わりにこのオルゴールを動かして欲しい。そうすれば実際に動いているのを見ながら、術式を整えられる」
 まあ、と雛は両手を合わせて微笑んだ。
「そういうことでしたらおやすいご用ですわ。喜んでご協力させて頂きます」
「ありがとう。それじゃ早速だけど、オルゴールのネジを巻いてもらえるかしら。貴方が巻くことでネジを通じて力が伝わるはずよ」
 そう言って、パチュリーはオルゴールを雛へ渡した。受け取った雛は、言われたとおりにネジを丁寧に巻いていく。いっぱいに巻ききったところで手を離すと、再びオルゴールが音色を奏で出した。
 そのオルゴールには、最前にはなかった魔力が確かに宿っていた。くるくると踊る人形によって鍋を攪拌するようにエネルギーが練り上げられ、やがて十二分に矯められたそれは、流れ出る曲に沿って薄く延ばした鋼のように震えてたちまちに周囲へ広がっていく。
「へえ」
 レミリアは感嘆の声を洩らした。
 単純な魔力であれば、もちろんレミリアはいくらでもこれ以上のエネルギーを放射することができる。だが、この波動の優れたところは、その細やかさにあった。
 魔術にはデリケートさが大事だ、とパチュリーはよくレミリアに語る。
 例え小さじ一杯の材料であっても、小粒ほどの狂いがあってはならない。魔方陣の誤字などもってのほかだし、方位や時間だって重要だ。
 全てが計算通りに仕上がって、初めて魔術は成り立つ。
 そして、パチュリーが編んだ魔術は、もはや芸術品と言って良かった。
 その精緻さこそが、パチュリーを彼女たらしめるものだ。それは、レミリアには決して真似の出来ない技である。
「さすがね、パチェ。良い仕事してるわ」
 世辞ではなく、レミリアは友人を褒めた。だが、パチュリーはゆるゆると首を横に振る。
「ダメよ。まだムラがあるわ。もう少し練り上げないと」
 パチュリーは、雛の手の中にあるオルゴールへ手を伸ばした。かちり、と小さな音がして側板が外れる。パチュリーはその中を覗き込み、小さな歯車や回るドラムを睨んだ。
 パチュリーは多くの魔術師と同じく、職人気質だ。納得のいく仕事ができるまで、とことんこだわる。
「あなた、もう少し魔力を絞って。そう、いいわ。そのままで。そう。そこから渦が作れるかしら。ええ、あなたの波長にこれを合わせるの。ダメ。ここは黄金比にならなくちゃいけないんだから。やり直して」
 そして、一度ハマリ出すと長いのだ。こうなってしまうと、パチュリーは他の一切を受け付けなくなる。付き合わされる雛も大変である。
 レミリアは肩を竦めた。
「しばらくかかりそうね。やれやれ、せっかく来たってのにどうしたものかしら」
「お茶になさいますか? すぐにご用意できますけど」
「そうだねえ」
 咲夜の勧めにレミリアは思案する。
 パチュリーが手を借りたいと言うからここへ来たのである。しかし、今のところパチュリーは雛との共同作業で十分らしい。
 案外、退屈そうにしていたレミリアへ親友が気を配ってくれたのかもしれないが。

「いや、お茶は後にしよう」

 レミリアは後ろを振り返った。

「どうやら仕事が出来たらしい」

 参道の階段を上って姿を現した彼女を、レミリアは腕を組んで迎えた。
 八雲藍である。


「久しぶりじゃないか。聞いたところじゃいろいろと忙しいらしいが、少しは暇になったのか?」
 レミリアの軽口に、藍は一瞥しただけで取り合わなかった。鋭い目で境内を見回し、その視線がぴたりとパチュリー達に止まる。
 すうっとその目が細くなった。
 凍てつくような目である。
 そこに、感情の色は無い。能面のような無表情と相まって、藍のそれはひどく人間味を欠いていた。
 いや、正しく妖怪めいていた、と言うべきか。
「何をしている」
 発した声は、撥で弾いた弦に似ていた。
「今すぐそれを止めろ」
 それは確かに命令口調ではあったが、意味するところは命令などではなかった。
 そんな優しいものではない。
 空が青い、雪が冷たい、そんな当たり前のことを当たり前のように喋っている。そんな様子だった。
 既に決まっていいること、あるべきことをただそのように伝えるためだけの。
 それは、通告である。
「随分だね」
 レミリアは、パチュリー達から藍の視線を遮るように移動した。真っ向からその眼光を受け止める。
「止めろと言われて、はいそうですかと素直に聞くと思ってるの?」
 組んだ腕を解いて、右手を腰に置く。左手は日傘。
 何が起こっても動ける姿勢である。
 藍もようやくレミリアをまともに見た。無機質なトパーズの瞳が僅かに揺らぐ。
「お前達は何もわかっちゃいない。大結界に手を出すのを止めろ。お前達ごときがどうにかできるようなものではない」
 その口ぶりから、レミリア達が何をやっているのかは把握しているらしかった。
「はん、やってみないとわからないさ。あんたは黙って見てな」
「やってみるまでもない。大結界の要の重さがどれほどのものか、お前達は知らんだろう。甘く見るな。そんな簡単で単純な話じゃない」
「簡単で単純な話さ。私はパチェを信じる。それだけだよ」
「度し難いな。ヒヨッコ魔女にそんなでかいチップを賭ける気か。お前が勝手に沈むのは構わんが、こちらを巻き込むのは勘弁願いたい」

「ほう?」
 レミリアは高まる己の裡を抑えながら、ちろりと牙を内側から舐めた。
「ご大層な口を利くじゃないか。じゃあ、教えてくれよ」
 藍を睨む。木っ端妖怪ならただそれだけで慄きひれ伏す吸血鬼の眼力である。
「お前は言ったな。何もするなと。ただ待ってろと。外の世界の連中がそのうちどうにかしてくれるだろうってな。ならば問おう。外のご親切な連中は何をしてくれたんだ? 霊夢は良くならない。幻想郷の外は今でも死に満ちている。あれから十日余り。何か変わったか? これから変わるのか? いつ変わる? いつ良くなる?」
 高圧的に藍へ迫る。
 半分はブラフである。最近、藍が滅多に姿を現さないことはパチュリーらから聞いている。せっかくこうして捕まえられたのだ。この機にできるだけ情報を引き出さなければならない。
 藍は無言だった。
 レミリアの眼力に寸毫とも怯まない。
 しばし、互いに睨み合う。この間も、レミリアの背後ではパチュリーと雛が作業を続けている。雛はともかく、パチュリーは藍の来訪程度で手を止めたりしない。それはもちろん、彼女がレミリアを信頼している証だ。レミリアとしても、体を張る意味があるというものである。

「どうせ言っても止めまいが、質問には答えよう」
 硬い表情を崩さないまま、藍は静かに言った。
「結論から言えば、外の世界はおそらくあと一ヶ月以上はこのままだ。外の人工衛星も処理されず、森には高レベルの放射線が撒き散らされるままとなる」
 やはり、とレミリアは奥歯を噛む。
 レミリアの直観は正しかったのだ。
「今、外では蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。近辺の町へは避難勧告が出されて、その規模は数万人。しかし、それでも外では直接的な被害は軽く見られている。なにしろ、この辺りは町からある程度離れた山奥だからな」
 その言葉にシニカルなものを感じるのは、レミリアの気のせいだろうか。
 幻想郷がここにあるからこそ、外の世界から省みられないともいえる。
「そうなることは、あれが落ちた時にはわかってたんだろう? なぜ言わなかった」
「決まっている。邪魔だからだ」
 藍はきっぱりと言い切った。
「各々が勝手に動かれてはこちらの作業の邪魔になる。特にお前達のような新参者はな」
「へえ」
 レミリアは唇の端を吊り上げる。
「ついでにもう一つ教えてもらおうか。私らを除け者にしてあんたは何をやってる?」
「答える必要はない」
「なぜ」
「お前達が知る必要はない」
「ふん、知る必要はない、か。自分の仕事は邪魔されると怒るのに、私らの仕事を邪魔するのは説明なしかい。それじゃ筋が通らないな」
 そこで、レミリアは一歩だけ前に出た。
「八雲藍、お前が何を気にかけているのか、当ててみようか」
 藍の右眉がぴくりと動いた。その反応を楽しみながら、レミリアはわざともったいぶって、一息置く。
「何を言っている?」
 藍の声は変わらず硬い。しかし、わずかな変化をレミリアは感じ取っていた。
「つまりこういうことさ。私らに大結界のことを、博麗の巫女のことを、お前はこれ以上知られたくないんだろう?」

 あえて何を知っているのかはぼかす。
 それでも藍には通じるはずだからである。
 すなわち、それは大結界の要の数について。博麗の巫女の役割について。博麗の巫女を守るための仕組みについて。
 幻想郷のシステムを成り立たせるためには、これらを知る者はごく少数、それも幻想郷の管理を担う者でなければならない。
 換言すれば、それを知る者は、それだけで幻想郷の脅威となり得るのだ。

 藍の表情は変わらない。だが、微かな気の揺らぎにレミリアは気付いていた。
 やがて、
「だとしたらどうする」
 藍は、ため息を吐くように、そう言った。
 依然として表情は硬いままだったが、その言葉には苦渋が滲み出ている。
「お前達は、自分の立場を危うくしていることを知っていて、なお止めないというのか」

 幻想郷の脅威は排除せねばならない。そうしなくては、この小さな箱庭は簡単に崩れ去ってしまうからだ。
 このまま突き進めば、紅魔館は幻想郷の敵となる。藍はそう言っているのである。

 だが、
「はん、余計なお世話だよ」
 レミリアは笑い飛ばした。
「私はここを気に入っている。盟約もあるし、好んで乱は起こさないさ。こんな知識、あったってなくったって私はちっとも構わないんだ」
「ならば――」
「だがな、今は非常時だ。お前が気にしてることなんて、この危機を乗り越えなきゃ無駄になるぞ」
「それこそ余計なお世話だ、レミリア・スカーレット。お前が気にかけるまでもなく、私はそのために動いている。だから邪魔するなと言ってるんだ」
「じゃあ、何をしてるのか言ってみな。その答え次第じゃ考えてやる」
「言うつもりはない。お前達が知る必要はないことだ」
「またそれか。納得できるか。それじゃあやっぱり、私は私の直観に従うだけさ」
「いい加減に聞き分けろ。お前達があがいたところでどうにもならん」
「あがいた結果を決めるのは私だ。お前じゃない」

 互いに一歩も退かない。
 既に、藍の仮面は剥がれ落ちていた。露わになった激情はレミリアすらも圧倒したが、それがレミリアには快い。

「どうやら平行線らしいね。さて、こういう時はどうしようか?」
 そろりと右手を下ろしながら、レミリアはにんまりと笑った。
 すると、そこで初めて藍も笑う。
「いいのか? ここは永遠亭じゃないんだぞ」
 言葉の意味は明白だった。
「今日は遊んでくれるんだ。嬉しいね」
「あいにく忙しい身でね。ゆっくり遊んでいる暇はない。手加減はしないよ」
「結構なことさ。狐狩りは貴族の娯楽。せいぜい楽しませてもらおう」
「言うじゃないか。たかが五百年程度生きた吸血鬼風情が」
 藍が、前で組んでいた両手を解いた。右手には苦無。左手には呪符。それを見て、レミリアも右手の爪を伸ばす。
「咲夜、手を出すなよ」
「でもお嬢様。まだお昼ですわ」
 咲夜が天を指さして言う。
「なに、丁度良い曇り空。軽い運動なら大丈夫よ。それに、これくらいのハンディはくれてやる」
 レミリアの台詞に、藍が苦笑した。
「私を相手にハンディとは舐められたものだ。負けたときの言い訳にならねばいいがな」
「有り難く受け取っておけ。私は気前がいいんだ」
 レミリアは、神社の外を顎で示した。
「場所を変えよう。ここじゃ後で霊夢に怒られる」


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


 永遠亭から出ると、魔理沙の口から知らず重い息が漏れた。
 自分が思っている以上に気疲れしていたらしい。霊夢との会話は楽しいが、彼女の前で普通を装うことがどれほど難しいことか。肩はひどく凝って鈍く痛み、顔の筋肉が軋みを上げる。
 歩きながら首を回して少しでもほぐそうとするが、この疲労は一日二日程度のものではない。焼け石に水だった。
「ひどい顔してるわね」
 隣でアリスが言った。
「ほっとけ」
 そう吐き捨てながら、魔理沙はなんとか笑顔を作る。それを見て、アリスは唇をへの字に曲げた。
「意地っ張り」
「ほっとけ」
 箒に乗って空へ浮かぶ。はらはらと降る雪は、朝方よりも幾分多くなっていた。この調子では、夜にはまた吹雪くかもしれない。
 魔理沙に遅れてアリスも飛ぶ。行き先は同じなので、自然、並んで飛ぶことになる。
 二人の間で沈黙が続く。聞こえるのは風を切る音だけだ。やがて、竹林を抜けて視界が広がると、二人とも申し合わせたようにスピードを上げる。

 それからどれくらい飛んだ頃だろうか。
「ねえ、魔理沙」
 アリスが声をかけた。
「なんだ」
 億劫に応える。実のところ話をする気分じゃないのだが、無視すればそれはそれでアリスがうるさい。
「あんたの方、どうなってるの?」
「どうって、何がだよ」
「あんたの担当のことよ」
 横目で魔理沙はアリスを見る。アリスはわずかに眼を細めて魔理沙を見ていた。その視線を受け止めきれず、魔理沙は再び前を向く。
「ちゃんとやってるぜ。順調さ」
 アリスの視線を頬に感じた。魔理沙はマフラーを直す振りをして、少しでもそれから逃れようとする。
 だが、アリスの追求は止まない。
「嘘」
 その言葉は、身構えていたにもかかわらず魔理沙を容赦なく貫いた。
「あんた、最近永遠亭に入り浸ってるじゃない。今日だって朝から私やパチュリーと顔合わせないまま出て行っちゃうし」
「今日は朝から山に行ってたんだ。厄神様を連れにな」
「それはわかってるわよ。でも、私達と細かい打ち合わせ無しで、あんた勝手に出て行ったでしょう。その後、私もパチュリーも慌てて準備して出たのよ」
「今お前達がやってるあれは、お前がメインだろ。アイテムだって出来てるんだし、今更細かいこと話す必要ないじゃないか。それに、私だって手伝えることはやってるだろ」
「ええ、それもわかってる。でも、あんただって他にやることがあるって言ってたじゃない。だから、あんたに重い作業は振らなかったのよ」
「じゃあいいじゃないか。私は私でやるべきことをやってるさ。それでいいだろ」
「ほんとにやってるならね。でも、そうは見えない。近頃のあんたは外出が多すぎる」
 アリスが魔理沙へ近付いていく。魔理沙は、急加速して彼女を振り切りたい誘惑を堪えた。
 逃げても解決にならない。そう思慮が働くくらいの分別はあった。
 やがて、互いのコートの袖が触れあうくらいの距離になる。無言のまま魔理沙の横顔を観察するアリス。その圧力を振り払うように、魔理沙は言った。
「大きなお世話ってもんだぜ、アリス。私の研究はフィールドワークも多いんだ。図書館に籠もりきりってわけにもいかないさ」
「フィールドワーク、ねえ」
 アリスの蒼い瞳が魔理沙を射る。
「じゃあ、教えなさいよ。あんたがやってるっていうなら」
 その言葉に、魔理沙は箒を強く握りしめた。
「おいおい、私を疑ってるのか?」
 ゆっくりとアリスの方へ首を向ける。心の中を悟られないように、笑顔のままで。
 挑発に乗ってはならない。魔理沙の理性はもちろんそう告げていた。
「私が仕事をしないで遊んでるってお前は言いたいのか?」
 だから、冷静に。表向きは冷静さを保つ。そう見えるように振る舞う。
 アリスの瞳を、魔理沙は真正面から受け止めた。
 さあ、来い。
 魔理沙は乱れる心をねじ伏せて、アリスを迎え撃つ。

 アリスは変わらず魔理沙を見ていた。
 並んで飛びながら、わずかも表情を緩めることなく、まばたきすらせずに、ただじっと魔理沙の顔を見る。
 そんなアリスは、とても人形めいていた。

「なるほど」
 しばし睨み合った後、アリスはぽつりと呟いた。
「それも嘘なのね」
 再び、言葉が魔理沙を貫く。
「お、おい」
「なんだ。ちゃんと仕事してたのね。疑って悪かったわ」
「ちょ、ちょっと待て――」
 反射的に喋ろうとした魔理沙を、アリスは遮った。
「それで」
 ずいっとアリスが顔を寄せる。それに圧されるように、魔理沙はスピードを緩めた。
「あんた、何を隠してるの」
 その言葉に、魔理沙は愕然とする。
 まさか、こうも簡単に看破されるとは思ってもみなかったのだ。
「バレないとでも思った? 人間観察は人形作りの基本よ。あんたの顔もそれなりの間、見てきたからね。あんたが知らないあんたのことだって私は知ってるのよ。はん、小賢しいことをするわね。遊んでる振りして本当のことは隠し通そうだなんて。ああ、そういえばこの国にあったわね、そんな話。チューシングラだっけ?」
 顔を離して、アリスは笑った。
「まさか、私達に気を遣ってるわけ? あんたが? 似合わないわよ、そんな可愛げのあるマネ。そうやって本当のことを黙ったまま一人で背負い込んで、あんた何やるつもりだったのよ」
「ま、待て。そうじゃない。違う!」
「じゃあなんだってのよ。ここしばらく、あんたと一緒に仕事をしてわかったわ。あんたは宿題を忘れるタイプでもないし、宿題ほったらかして遊んでるタイプでもない。出された宿題きちんと済ませるタイプよね。目標が決まったらガムシャラに頑張るのはあんたららしいっちゃらしいけど。でもね魔理沙、最近のあんたの行動はおかしなことだらけ。腑に落ちなかったのよね。私の観察力が鈍ったのかと思って。でも、うん、合点がいったわ」
 うんうん、としたり顔でアリスは頷く。その様子を見て、魔理沙は自分の頬が火照るのを感じた。
 もしかして、これは褒めてくれているのか。あのアリスが。
「いや、だから、これは違うって! 私は何も隠してなんか――」

「いい加減にしなさいよ」

 笑みを消して、再びアリスは魔理沙を睨んだ。
「今更そんな白々しいマネは止めてよね。いい、魔理沙? 私達はチームで仕事やってるの。チームだからこそスタンドプレーなんかあってはならない。あんたが何を調べて何を隠してるのか知らないけど、ことが今回のことに絡むんなら、情報はオープンにすべきだわ」
 それに、とアリスは声を落として続ける。
「あんたごときが悩んで背負い込んだって、やれることなんかタカがしれてるでしょ。なんのために私やパチュリーと組んでやってると思ってんのよ。もっと、」

 私達を頼りなさいよ。

 最後の声はひどく小さかった。
 睨んでくるその目が、どこか悲しそうな色を帯びて見えた。そして、それは魔理沙を責め立てたどの言葉よりも、沁みる。
「……ん、すまん」
 素直に謝る。この場で更にアリスを振り切れるほど、魔理沙は大人じゃなかった。
 だが、言葉はそこで詰まる。
 魔理沙は確かに隠している。
 この数日間、調査して積み上げたデータとそこから導いた推測。
 それを話すことに抵抗があった。
 それに、それは魔理沙自身、まだ確証が持てないでいることだ。まだ漠然として形になっていないところもある。

 いや、それも含めてのことか。内心、魔理沙は自嘲する。

 魔法使いは本来スタンドプレーなものだ。
 自分勝手で人と協力しようなんて考えない。自分が得た知識は自分だけのもので、自分だけが使えればいい。人に教えるなんてまっぴらごめん。
 そういった生き方をする代わり、誰にも頼らない。独立不羈の精神を貴ぶのが魔法使いという生き物だ。
 そして、そんな生き物の一人である彼女が、自分を頼れと言う。
 それは、彼女が魔理沙を一人前の魔法使いとして認めていないということなのだろうか。
 そうかもしれない。魔理沙は少しだけそのことに傷付く。
 魔法使いとしての知識や技術がアリスやパチュリーに及ばないのは自分だってわかってるのだ。
 普段なら、それでも頼るなんてことはしない。だが、今の魔理沙には目的がある。
 なんのためにチームでやっているのか。
 今、魔理沙が抱えていることも、もしかすれば彼女らがうまくまとめてくれるかもしれない。それは、魔理沙としては正直癪に障るところだが、アリスの言うことには理があった。

「わかった。とりあえず話はする。だけど、ここじゃなくていいだろ。まずは――」



「あら、私はここで聞きたいわ。聞かせてちょうだいな」



 その声を聞いて、魔理沙は総毛立った。箒に急制動をかけて空中静止。アリスも弾かれたように魔理沙から距離を取り、人形四体を前面に展開する。
 魔理沙は帽子のつばを直しながら前方を睨んだ。

 薄暗いモノトーンの空に浮かぶ、鮮やかな赤いチェック模様の人影。
 白いパラソルをくるりと回しながら、彼女は艶然と笑う。

 風見幽香。
 それが彼女の名である。


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6.

 風見幽香がその場所を見つけたのは、まったくの偶然だった。
 あてもなく散策をしていると、深い森の中で突然華やかな色が目を射たのである。

 そこは、一面の秋桜畑だった。
 おそらくは、元々どこかで人の手によって作られたものが幻想入りしたのだろう。初めて見た時には既に野生化して長く、どこもかしこも野放図に伸びきっていた。
 だが、群生する秋桜達は、みな生き生きと花弁を広げていた。
 黄色、白、赤、薄紅色。
 色とりどりの秋桜が所狭しと咲き誇り、一季節限りの短い命を精一杯謳歌していた。
 一筋冷たい秋の風が吹けば、それは楽しそうにその重い頭を一斉に揺らして応えた。

 美しかった。
 豊かだった。
 命が溢れていた。
 そこは、そんな場所だった。

 ここを見つけたのは、自分が最初だ。
 特に根拠は無かったが、幽香はそう思った。そして、彼女はその考えがたいそう気に入った。風見幽香は自分だけの秘密が大好きである。
 それに、この場所を他の誰かに荒らされたくない。そんな思いもある。
 それは、人から忘れ去られてもたくましく生き抜く花達への、彼女なりの敬意でもあった。

 以降、毎年秋になると幽香はその場所を訪れた。
 日毎に短くなっていく秋の日の下で、彼女はつぼみから花咲き、枯れ散るまでを見続ける。ただそれだけの贅沢な時間。
 全てはただ自然のままに。決して手を付けることは無かった。

 やがて、幻想郷になじんだその地にも、妖精が生まれるようになった。
 秋桜の妖精は、その花にちなんで活発で愛らしかったが、時折無謀にも昼寝をする幽香へちょっかいを仕掛けた。その度に、幽香は笑顔でプロレスごっこやフルコン空手ごっこや海兵隊訓練ごっこで優しく遊んであげるわけだが、おおむねその関係は良好と言えただろう。

 その短い秋の日々は、長い生を当たり前のように過ごしてきた彼女の、ささやかな楽しみの一つとなった。


 だが、それは喪われた。


 また来年、と約束を交わしたばかりだった。

 あまりにも理不尽に。
 あまりにも唐突に。
 彼女らと再び出会うことは無くなってしまった。



「でもね。私は彼女達と死に別れたことを嘆いているわけではないの」
 幽香は静かにそう語った。
「これでも長く生きてきたからね。私の前から去っていった者達なんて覚え切れないほどいる。自然の摂理には逆らえないもの。生きている以上、別れは避けられないわ。だから、その点は仕方が無い。ただ、」
 彼女の目が、細くなる。
「ただ、気に入らないの。だって、彼女達は外の世界で忘れ去られたもの、要らないと決めつけられたものたち。この幻想郷は、そんな彼女らを受け入れて、穏やかに過ごしていける場所のはずだった」
 ところが、その平穏は奪われた。
 こともあろうに、要らないからと棄てられた外の世界からの干渉によって。
「ねえ、こんなことってあるかしら? 仮にあの可愛い秋桜達に害なすものがこの幻想郷に生きる者ならば、私はここまで怒らなかったわ。まあ、そりゃあ、もしそんなやつがいたんならそれはそれで容赦しないけれど。でも、よりにもよって、外の世界の者が彼女達を傷つけた。殺してしまった。この私から奪ってしまった。それは許されないわ。許されるはずがない」
 そこで、彼女は、きゅいっと唇を釣り上げる。
 それは、まるで肉厚の刃物を思わせる、アルカイックスマイル。

「というわけで、教えてもらえるかしら。知ってるんでしょう? 外から落ちてきたあれが何なのか」


 魔理沙の背筋が冷えた。万全の防寒装備なのに、その声を聞くだけで震えそうになる。
「さあて、知らんなあ」
 魔理沙の前髪の端っこが数本切れ飛んだ。
「魔理沙!」
 アリスの叫びを、片手で制する。
「そんなにカリカリすんなよ。カルシウムが足りないんじゃないのか?」
 幽香は一閃したパラソルを再び肩に戻した。
「あなたの骨でカルシウムを補充してもいいのよ?」
 表情は依然として変わらぬ笑顔である。

 やばい。

 魔理沙の本能が告げた。
 肌が粟立つ。うなじの産毛が逆立つ。このくそ寒い時期に何故か最も冷たさを感じるのは己の内側で、動悸が勝手に速くなる。
 魔理沙とて、これまで何度か彼女と戦ったことはある。
 それでも、今、彼女の前にこうしていることが怖くてならない。

 ごくり、と唾を飲み込んだ。
 今すぐにでもなりふり構わず逃げ出したい身体を気力でねじ伏せる。

「知ってどうする。落ちてきたアレに八つ当たりしたいのか? それこそ無駄だぜ。ありゃ結界の外側だし、とっくに粉々だ」
「そうねえ、ことのついでならそうしたいけれど、今はいいわ」
 幽香は頭を傘の柄にもたれかけながら、そう言った。
「それに、私がどうしようと私の勝手よ。貴方はただ私に教えてくれればいいの。あれが何なのか。何故落ちてきたのか。それだけよ。イエス? それとも痛めつけられてイエス?」
「痛まないでノーが希望なんだがな」
「あら、それはお互い困るから無しよ。死人に口なしって別のシチュエーションで使う言葉でしょう?」
 思わず笑ってしまいそうになって、辛うじて堪えた。自分の命をネタにしたジョークでも人は笑えるらしい。
 問題はそれがジョークであるかどうかだが。

「アリス」
 顔を幽香へ向けたまま、魔理沙は声をかける。
「ここはいいから、お前は先行っててくれ」
「な、あんた何言ってんのよ!」
「幽香もその方がいいだろ? サシでやりあおうぜ」
「そうね、私は構わないわよ」
「じゃあ、決まりだ」
「ちょ、ちょっと魔理沙!」
 気色ばむアリスを遮って、魔理沙は一喝した。
「いいから行け! 何度も言わせるな!」
 あえて、その意図までは喋らない。幽香に余計な情報を洩らすことになるからだ。
 ぐっとアリスが黙る。アリスは聡い。魔理沙の考えが伝わったのだろう。

 幽香へ今の幻想郷について話すべきかといえば、答えはノーだ。
 なんといっても、彼女は強力すぎる。幽香はその力ゆえに普段そうおいそれと動くことはないが、もし彼女がその気になったならば、それを止めることは容易でない。
 その上、風見幽香という妖怪は基本的に誰かの言うことを聞かないのだ。彼女が幻想郷を愛する一妖怪であることは確かだが、はたしてこの幻想郷の危機を知った時、彼女がどう出るか。それが魔理沙には読めない。
 リスクは冒せない。少なくとも今の状況では。
 かといって、幽香が退くこともまたありえない。今、彼女が抱えている怒りは本物で、彼女にとって魔理沙達はただの情報源でしかないのだ。
 ならば、戦うしかない。
 それが幻想郷の流儀だ。
 さて、弾幕ごっことなった時、問題となるのは彼我の差である。
 幽香は強い。彼女と戦ったからこそ魔理沙はよく知っている。
 だが、幸い幽香は弾幕ごっこというものをよく心得ている。殺し合いは弾幕ごっこの枠から外れる。一応、やり過ぎないように手加減はしてくれるはずなのだ。
 ただし、当然ながら、力量差が縮まればその分加減ができなくなる。
 ここで魔理沙とアリス、二人で彼女に対した場合、確かに戦況は有利になる。しかし、リスクも増えるのだ。
 ここでアリスが怪我をしようものなら、霊夢の身代わり人形計画に支障が出る。
 それだけは避けなければならない。
 つまり、ここは魔理沙一人で戦うのがベストなのだ。

「……無理すんじゃないわよ」
「任せとけ。軽く遊んでいくぜ」
 アリスは、小さくため息を吐いてそこから離れた。
 次第にアリスが遠くなっていく間も、魔理沙は幽香から目を離さない。無論、幽香もまた魔理沙を微笑みながら見返すだけだ。
 やがて、十分に離れたところで、魔理沙は肩と首をほぐした。

「さて、始めるとするか。こっちもそんなに暇じゃないんだ。一本勝負でいいか?」
「ええ、お好きにどうぞ」
 悠然として構える様子も見せない幽香である。
 どうやら、先手はくれてやるらしい。
 魔理沙は、一回だけ深呼吸した。冷たい空気を肺に入れると、それだけで身が引き締まる。
 体内に魔力を練り上げて術式を通す。びりびりと両手の先で箒が震える。使い慣れた魔法に呪文は不要で、あらかじめ幾つかの魔術回路をリンクする。
 そして、最も大事なのは闘志。
 因果なもので、一度戦うと決めると、怖れが消えてわくわくしてくる。
 魔理沙も荒事に慣れて長い。危険だとわかっていても、相手がとてつもなく強いとわかっていても、いつだって弾幕ごっこは楽しいものだ。
 乾いた唇をなめて、魔理沙は宣言する。

「行くぜ!」

 ぎゅっと箒を絞る。たちまちに膨れ上がり、爆発する魔法。
 舞い散る雪の中、魔理沙は歓喜の雄叫びを上げて突撃した。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇


 勝負の多くは、戦う前に決まっている。
 敵の戦力を冷静に分析し、己の得手不得手を理解し、いかに敵の力を弱めるかに腐心し、時と場所を考え、様々な局面を考えた上で用意周到に備えておく。
 備えあれば憂い無し。そういうことだ。
 勝負はやってみなければわからない。そんなことを言えるのは無責任な見物人か馬鹿である。

「――なんてのは理想論だがな!」

 レミリアは体を捻りながら飛び苦無をかわした。苦無はレミリアの右脇をかすめて背後の木に刺さり、爆散する。
 木の破片が散弾となってレミリアを襲うが、既にレミリアはその場にいない。盾にしたモミの木を二歩で駆け上がり、木のてっぺんから左腕を一閃する。
 己が血をナイフに変えて、地上の藍を狙う。弾速は銃弾並み。破壊力は榴弾並みである。
 たちまち、藍が立っていた辺りに爆煙が巻き上がる。ナイフは五本。これらがほぼ時間差無しで着弾したのだ。並みの者であれば、これだけでほぼ片が付く。
 しかし、相手は八雲藍である。これで済むはずが無かった。
 反撃は背後からだった。爆煙に隠れて、レミリア同様、木を登ってきたのである。
 斬撃を右腕で受ける。ざくり、と藍の爪が深くレミリアの腕に食い込んだ。
「チッ!」
 受けた衝撃を回転に変えて、強引に蹴りにいく。狙いは頭。
 手応えがあった。
 だが、浅い。
 前に出て打点をずらされたのだ。
「くっ!」
 今、レミリアの胴体はがら空きだ。無理に攻めを繋げた代償である。
 藍の左手には一枚の符。退魔真言。
 貼られたら、それで勝負が終わる。それだけの威力があることは、東洋魔術に疎いレミリアですらわかった。
 かわすには近すぎる。そして、防ぐ時間も無い。

「なーんてね」

 藍の顔色が変わる。
 先ほどレミリアへ斬りつけた右腕が、無数の蝙蝠に絡め取られていた。
「無礼者め。勝手に近付くんじゃないよ。下賤な狐風情が」
 レミリアの左手から、紅玉が弾ける。
 超高速の紅い砲弾が、至近距離で藍の腹に炸裂した。
 たまらず、藍が呻く。
 レミリアが右腕をホールドしていたため、まともに衝撃を食らったのである。
 藍の体が傾ぐ。それに合わせて、レミリアも藍の右腕を放した。
 しかし、まだ終わりではない。
 藍は苦悶に顔を歪めるが、それでもまだ意識を保っている。レミリアを睨むその眼からは闘志が消えない。
 とん、と藍が枝を蹴って後ろへ飛んだ。
 回復するまで距離を取るつもりだ。

 させじ、とレミリアが藍を追おうとして、

「あちちちち!」

 限界が来た。
 蝙蝠達を体に戻して、レミリアは地上へ駆け下りる。その勢いのまま適当な木陰へ飛び込んで「あちあち」と雪の上で転がり回り、煙がくすぶる己の体のそこかしこを懸命にさすった。

「咲夜にはああ言ったけど、さすがに昼は厳しいな」

 レミリアは涙を浮かべて顔をしかめた。


 戦いに備えておくことは、もちろん重要だ。
 だが、戦いというのは自分の都合だけで行えるものではない。相手だって同じように備えはするものだし、周囲の状況は刻々と変わるものだ。
 その結果、不利を承知で戦うことになることは往々にしてよくある。そして、無茶を知りつつ勝ちを狙わねばならない状況なんてごまんとある。
 なに、多少の不利など恐るるに足らず。レミリアのパワーなら大抵のことはひっくり返せるのである。それが吸血鬼というものだ。
 しかし、やっぱり吸血鬼でもある。
 いかに曇天とはいえ、日光に身を曝すのは辛い。これはもう根性とか努力とか備えとかそういうものでどうにかなるものじゃない。


「惜しかったな」
 そう言いながら、藍が木陰から姿を現した。
「追い打ちがあれば決まったかもしれん。幼くともさすがは吸血鬼か。なかなか良いのをもらったよ」
 まだ顔色が蒼い。右手で腹を押さえているところを見れば、ダメージが抜け切れていない様子である。
 しかし、眼光変わらず炯々として、口元は獰猛にめくれ上がる。
 凄絶である。
「たっぷりとお返しをしなければな」
 ぎりぎりと引き絞った弓に似ていた。そんな声である。
 なるほど、どうやら火を付けてしまったらしい。
 レミリアはにやりと笑う。
 そうだ、もっと燃えろ。戦いとはこうでなくてはならない。
「遠慮するな。もっとたくさんくれてやる」
 牙を剥きだして応えた。
「私は気前がいいんだ」


 普段なら、藍ももう少し時間をかけて回復を望んだだろう。
 だが、彼女はそうしなかった。ダメージの残る身体でレミリアの前に現れた。
 レミリアが日光から受けたダメージの回復を、少しでも短くするためだ。
 お互い、タフネスには自信がある。敵の回復を許せばそれだけ決着までに時間がかかる。藍はそれを嫌ったのである。
 となれば、戦いは自然と密度が濃くなる。小さな勝負では埒があかない。レートは上がる一方である。
 まして、かたや吸血鬼、かたや九尾の狐。
 互いに強ければ強いほど、遊びはより過激になっていくものだ。
 戦いは、早いうちに弾幕から近接格闘へとシフトしていた。


 藍が呪符をばらまく。一枚に大した威力はないが、当たれば動きが削がれる。牽制である。
 呪符の間に、苦無を放っている。レミリアからは呪符が邪魔になって見えない。そんな絶妙な位置だ。
 レミリアは止まらない。針の穴を通すように、矮躯を隙間にねじ込んで藍へ迫る。何本かの苦無が肩口と脇腹と腿を切り裂いたが、スピードは緩めない。
 眼(まなこ)は真っ直ぐ藍の胸元。
 藍の道服の刺繍の縫い目すら見えるほど近接して爪を伸ばす。
 三連撃。右下、左下、右。その全てを藍は体捌きだけでいなす。
 藍の裏拳。精確にレミリアのこめかみを狙ったそれを、レミリアは急旋回して躱し、更に藍の左から回り込んで後ろを取る。
 ぎゅっと右拳に込めた魔力を解放する。
 閃光。
 しかし、藍は既にそこにいない。
 上。
 藍が飛ぶ。レミリアも追って飛ぶ。
 くるりと前転しながら、藍がまた呪符をばらまく。しかし、これは牽制ではなかった。
 速い。しかも重い。
 これはかわせない。レミリアは舌打ちして己の血を弾丸に変えた。藍目がけて、百を超えるそれを一息に放つ。
 妖力と魔力が衝突した。
 空気が震える。地面が爆発する。岩が弾け飛び、木々が無惨に削られて倒れていく。
 レミリアの目の前で、空間が煮えたぎり、軋みを上げる。思わず眼を細めたその瞬間、その爆炎の中から藍が現れた。
 身構える。しかし、間に合わない。
 ずしん、と腹に衝撃。それが藍の蹴りであったことに気付くまでコンマ一秒もかかった。
 それは、まるで大砲だった。
 レミリアが吹っ飛ぶ。とっくに雪など霧散して露わになった地面へ、受け身も取れず激突した。そこから、二度、三度とバウンドし、更に転がる。
 苦痛の呻きすら出せない一撃だった。
 意識を手放せばどれほど楽だろうか。だが、あまりに苦しすぎてそれすら叶わない。
 だらしなく開きそうな口を、矜持をかき集めて固く結ぶ。渾身の力で奥歯を噛みしめ、体内からひしり上げる内臓の悲鳴を堪えた。

「休めると思うなよ」

 声を聞く前に、レミリアの身体は飛んでいた。直後、それまで転がっていたところが弾ける。
 二度、三度、苦痛を押して空からの追撃をかわす。一瞬でも止まることはできない。止まればただの的だ。
 しかし、回復が追いつかないところで無理に動けば、当然ツケがたまる。
 ただでさえボロボロだった体内がシェイクされて、七度目を転がってかわしたところで、ついに、ごぼん、と喉奥が鳴った。
 自身がびっくりするほど紅い血の塊を吐いた。とろけたチーズのように粘ったそれを吐き散らし、立ち上がろうとしてつんのめる。
 霞む視界の中、レミリアは倒れながら、己が作った血だまりの中へ右手を付いた。

「仕方ない、か」

 突っ込んだ右手を握る。
 血だまりが、ぶるり、と生き物のように震えた。

「どうやら、出し惜しみできないらしい」

 右手の中で、血が集まり、形となっていく。それは、捻れ、伸び、厚みを増して、赤光を放ち――

「大サービスだ。たっぷり食らいな!」

 レミリアの身の丈よりも長い、深紅の槍となる。

 振り向きざまに、全身を捻って、レミリアは投擲した。

 これまでに倍する閃光。轟音。
 衝撃波が螺旋となって、レミリアの周囲を地面もろとも吹き飛ばす。
 紅く禍々しい稲妻が風を引き裂き、風は炎をまとって空へ走る。
 藍が放った妖力を呑み込み、うねり、弾き飛ばして、それは神速で藍を捉えた。

 神槍。そう名付けられたスペルカードである。

 間を置かず、空から衝撃が地に伝わる。
 相手が躱せなかった証左である。いかに藍といえど、ただでは済まない。取っておきの大技である。
 しかし、ここで倒れるわけにもいかなかった。これほどのことをしても、所詮は時間稼ぎ。八雲藍とはそういう相手だ。
 気力を振り絞り、日陰を求めてレミリアは走る。先ほどの絨毯爆撃であらかた見晴らしが良くなってしまった。数百メートルを走ってようやく破壊を免れた大岩の影に飛び込み、そこでついに力尽きる。
 岩肌にもたれかかりながら目を閉じる。己の膂力だけで吹き飛ぶ程度の岩陰が、今は何よりも心強かった。乱れた息をなんとか整えようと、唾を飲み込む。

「オン キリカ ソワカ」

 その声に、レミリアの息が止まる。

「オン ダキニ ギャチ ギャカネイエイ ソワカ!」

 その真言とともに、上空で妖力が爆発した。同時に、己の槍が消失したことをレミリアは知る。
「スペルカードで相殺したか。なかなか楽できないね」
 嘆息して、レミリアは岩陰から藍の方を見上げた。

 藍は、ゆっくりと地上へ降りつつあった。
 右腕が、ぞっぷりと血に染まっていた。相殺したとはいえ、無傷とはいかなかったらしい。おそらく、直撃を避けるために、あえて右腕を犠牲にしたのだ。だらりと力無く下がった様子から、しばらくは使い物にならぬことは明らかだった。
「やってくれる」
 藍の瞳が、真っ直ぐにレミリアを捉えていた。
「荼吉尼天の力を借りてこの有様だ。まったくとんだ馬鹿力め」
 右腕を左手で押さえながら唇を歪める。
「思ったよりしぶといわね」
「それはこっちの台詞だ」
 互いに肩で息をしながら、レミリアは笑い、藍は苦る。
「いいかげんにしろ。暇じゃ無いって言ってるだろう」

 既に戦い始めて二時間が経つ。
 中天にあったはずの太陽が、今ではかなり傾いてしまった。
 冬の日は短い。ましてここは深い山奥、幻想郷である。あといくらもすれば、黄昏が降りてくる。
「時間が無い。そろそろ決着を付けるぞ」
 降り立った藍は、押さえていた左手を離して拳を構えた。
 レミリアも苦笑して身を起こした。岩陰から出て藍の前に立つ。
 できればもう少し身体を休めたかったが、仕方が無い。
 これがルール無用の殺し合いなら、藍は問答無用でレミリアに襲いかかってくるはずだ。だが、彼女はそうせずに正々堂々、レミリアと拳を交えるつもりでいる。
 レミリアとしては、その心意気に応えなければならない。気高く生きるとはそういうことだ。
 藍の前、十歩のところでレミリアも構える。
 互いに間合いの中である。

「来な」レミリアが誘う。
「応」藍が乗る。

 藍が走った。
 レミリアが受ける。
 左拳。払い。右貫手。捌く。脛。甲。爪。裏拳。受け。左回し蹴り。軸足狙い。手刀。掴む。払う。絡める。払う。爪。爪。足払い。跳躍してこめかみ狙い。捌く。掌底。
 藍は利き腕がつぶされ、レミリアも動きに切れが無い。
 そんな状況で、どちらも徒手のみで闘う。
 もはや、大技を出す余裕などないのだ。
 だが、それでもやはり人外は人外だった。その技の応酬は、ただそれだけで十分に鋭い。
 横薙ぎ。捌く。膝狙い。跳躍。突き。肘。腰から崩し。強引に投げ。受けながら首締め。逃れて三連撃。躱して二段蹴り。
 これらの攻防に一秒もかからない。
 この幻想郷においてすら、それを視認できる者がどれほどいるか。
 どちらも同じ高みにあってこそ見える世界。
 そんな戦いである。

「楽しいな」
 藍の十連撃をいなしながら、レミリアは笑った。
「楽しい、か。気楽だな、お前は」
 連携に割り込んだ手刀を払って、藍がため息を吐く。
「何を言う。お前だって楽しんでるだろう」
「バカを言え。こちらは早く終わらせたいんだ。粘るにも程があるぞ」
「はん、だってお前」
 中段突きを弾かれてがら空きになった胸元に滑り込み、レミリアは藍の顔を見上げる。
「顔が笑ってるぞ」
 きょとんとした藍の頬を軽く撫でて、すぐに離れる。藍は、唇をへの字に曲げた。
「こういうのは久しぶりなんだ」
 だから察しろ、と藍は決まり悪そうに蹴りを放つ。それを軽くかわして、レミリアは小さく羽を揺らした。
「なんでもいいさ。今は楽しもうじゃないか」
 ひとときの享楽こそ、長命の妖(あやかし)が最も愛するものだ。
 互いに背負うものがある。
 守らねばならぬものがある。
 退くに退けない意地がある。
 だからこそ、いまこのひとときを楽しみたい。
 それは、いずれ終わりを迎えるものだから。

 レミリアの身体から、白い煙の筋が上がる。
 腕からも、背中からも、頭からも、足からも。
 冬の弱い日光が、ついにレミリアの再生力を上回ったのだ。
 途端に、レミリアの動きが鈍る。それは、今までのスピードからすれば、止まっているに等しかった。
 藍の左回し蹴りが、まともに胸板へ入った。
 レミリアの息が一瞬止まる。レミリアは蹴られた勢いを殺すことすら出来ず、水平に百メートル以上も吹っ飛んだ。
 何本かの木々をクッションにして、ようやく地面へと転がる。その時には、既に起き上がることすらできない有様だった。
 苦悶に唇を歪める。辛うじて急所は外したものの、痛いものは痛い。

「まだ続けるか」
 藍がレミリアの方へ歩きながら問うた。レミリアは苦笑して苦痛が治まるのを待つ。
「咲夜」
「はい、お嬢様」
 呼べば、従者はたちどころに現れる。咲夜は日傘を持ちながら、倒れたレミリアを優しく抱き起こした。
「あっちはどうなった」
「ええ、どうやらパチュリー様は作業を終えられたようですわ。先ほどあの神様も帰られました」
「そうか、ご苦労」
 レミリアは近付いてきた藍へ、にっと笑った。
「終わりにする。私の負けだ」
 それを聞いた藍の顔は、いかにも渋い。
「何が負けだ。こんな勝ちに意味は無い」
 藍は吐き捨てるように言った。
「あえて勝ちを狙わず時間稼ぎ。この不利な状況で、この私を相手にただ足止めに徹するか。その姿勢には敬意を表しよう。貴女の気高い精神は本物だ」

 レミリアの目的は、藍にパチュリー達の邪魔をさせないこと。
 日中の吸血鬼にとって、時間が経つほど不利になる長期戦は極めて厳しい。
 だが、レミリアはそれをやり遂げた。
 満身創痍、身体はどこもかしこも重く熱を帯びていて、首を動かすだけでも顔をしかめるくらい痛い。
 そこまでしてもなお、レミリアは目的を違えなかった。

「なに、大したことじゃない」
 レミリアは咲夜に身体を預けながら、藍を見上げた。
「友のために体を張るってだけのことだ。貴族の嗜みってものさ」

 目的は達した。
 パチュリーの実験は終わり、藍はそれを阻止できなかった。
 ならば小さい勝ちなど譲っても構わない。

 聞いた藍は、呆れたというように小さく首を横に振った。
「まったく、余計なことをしてくれた。貴女は何を守ったのか、何が起こっているのかまるでわかってないんだ」
「あんたがなかなか教えてくれないからね。仕方ないさ」
「これ以上、教えるつもりはない。貴女達が首を突っ込むのを今更止めはしないが、今度邪魔をすれば――」

 そこで、藍の顔色が変わる。

「なにっ!?」
 虚空を見上げる。
「それはどこだ。うん。む、そうか。ええい、次から次へと!」
 舌打ちをする藍。その表情に余裕は無い。
「うん、うん、わかった、すぐ行く! そこで待ってろ!」
 藍は再びレミリアへ向き直った。
「急用が入った。すまないが、これで失礼する」
「お、おいおい、なんだいったい」
「すまない。説明する時間も惜しいんだ。では」
 挨拶もそこそこに、藍はふわりと飛び上がる。もはやレミリア達を見向きもしない。そのまま、あっという間に空の彼方へすっ飛んでいってしまった。
 遠慮も何も無しの全速力である。

「……なんだいありゃ」
 取り残されたレミリアは、ぽかんとして藍が消え去った空を見た。
「そうですねえ」
 咲夜は興味が無さそうに相槌を返す。
「方角からすると、あれは竹林のあたりでしょうか。気になりますか?」
「んー、いや」
 戦いの余韻を楽しむ間もなく去って行った彼女のことを、いくらかの憐憫と嫉妬を込めて思う。
 八雲藍には信念がある。
 忠義があり、自らを恃(たの)み、それらを支え束ねる強さを持っている。
 そんな彼女が、レミリアを放っぽいて飛んでいく。それほどの何かが起こっているということだ。
 ならば、任せてしまって問題あるまい。
 確かに、彼女はレミリアに敵対する立場であるが、レミリアは知っている。
 戦ったからこそ、八雲藍が信に足ることを知っている。
 滅多なことはすまい。
 そう思えるほど、レミリアは敵である八雲藍を信頼していた。
「惜しいな」
「ん、なんですか?」
「ああ、なんでもない」
 レミリアは苦笑する。
 惜しい、と思ったのだ。
 彼女が八雲紫の式であることを、である。
 あれほどの傑物を従える紫を、レミリアは羨んだ。
 まったく、あんな性格の悪い女になぜ仕えているのか。
 実にもったいない。

「ところでお嬢様」
「ん」
 咲夜は、後ろから抱きかかえたレミリアの顔を覗き込んだ。
「たくさん遊んでお疲れでしょう。そろそろお休みになられては」
「むー」
 子ども扱いされるのは引っかかるが、こうして咲夜に抱かれながらそう言われると眠くなるものである。
「確かに疲れた。よし、寝よう。起きるまで起こすな」
「かしこまりまして」
 咲夜の体温を感じながら、レミリアは目をつぶる。
 たちまち押し寄せる眠気は、全身の疲れを甘美にとろかして心地よい熱へと変えていく。その熱に身を委ねれば、意識はあっさりと融けていった。
 深く暗くて温かい闇の中へ落ち込む直前、ふと藍の顔が浮かんだ。

 ああ、お前。

 そして、戦いのさなかに気付いたそのことを思い出す。

 お前、式が外れかけてるな。

 そこで、レミリアは意識を手放した。


 ◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆◇◇◇◇◇

※ここから先はプロットのみです。

魔理沙vs.幽香
何度か突撃を繰り返す魔理沙。
しかし、幽香の防壁は厚く、なかなか突破できない。
その上、幽香の弾幕によって進路が遮られ、自慢の機動性を削がれてしまう。
そこで、魔理沙は星弾幕で幽香を包囲し、幽香の方を誘い出す。
当初、軽くあしらっていた幽香だが、地味にしつこい攻撃にしびれを切らし、ついに幽香の方から動く。
幽香の分厚い花型弾幕と魔理沙のレーザー。
壮絶な撃ち合いとなる。
魔理沙の防御は幽香のパワーの前では紙同然なので、ただひたすら躱すしか無い。
一方、幽香とて魔理沙のパワーは侮れないので、基本はパラソルで防御。
だが、魔理沙は回避しながら少しずつトラップを仕込む。
やがて、幽香が大技をしかけた隙に、トラップを発動。シュート・ザ・ムーン。
予想外の後ろからの攻撃。機動性に劣る幽香は回避できない。
そこへ、魔理沙は正面から突っ込む。幽香の防御が後ろに回っている隙に、最大火力をたたき込む作戦。
しかし、爆炎の向こうに見えたのは、血まみれでパラソルを魔理沙へ向ける幽香。
あえて後方を防御しないことで、魔理沙の攻撃に備えたのだ。
マスタースパーク激突。
互いに絶大な威力を持つエネルギーだが、次第に魔理沙が押されていく。
ついに押し切られてあわや、というところで、
藍が魔理沙を助ける。
水入りが入って怒る幽香。呆然とする魔理沙。
藍は幽香へ詫びながら、勝負をいったん自分へ預けてくれないかと持ちかける。
では、代わりに情報を教えろと詰め寄る幽香。
知ってどうするのか。そう問う藍。
幽香は笑う。外へ行く、と。
答えに唖然とする藍と魔理沙。だが、幽香を止めることもできず、藍は一枚のメモを書いて渡す。
地上から結界を抜けるのは危険だから、上空、幽明結界の一部から外へ抜けること。
外に出たらメモの場所を訪ねること。
承知した幽香は、魔理沙へ再戦を約束して優雅に去る。
ことが勝手に終わってしまった魔理沙は、どうにも収まりが悪い。
なぜ自分を助けたのか、藍へ問う。
藍は言う。

「魔理沙、お前は幻想郷の最後の希望だ」

遠くの空から、アリスとパチュリーが飛んでくる姿が見える。


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6.5.
ある日の夕方、メリーは蓮子からの電話を受ける。
この一週間ほど、蓮子は研究が忙しいとかでろくに話もできない状態だった。
事情を蓮子から聞くと、やっかいそうな教授に自分の能力を知られたのだという。
そこで、その教授の研究に付き合う羽目になっているのだとか。
なぜそんな教授と関わりを持ったのかと問うと、どうやら蓮子が書いた
宇宙論レポートが気に入られたらしい。
教授が蓮子を読んで話をしているうちに、蓮子が口をすべらせてしまった
というわけだ。
しかし、なぜ院生でもない蓮子が研究を手伝うなどやっているのか。
蓮子が答える。
蓮子の能力によって得られる時刻は、この世界のどの時計よりも精確だから、ということらしい。

「教授が言うには逆らしいよ。時間って伸びたり縮んだりするからね。私が知る時間はそういう空間的な歪みに左右されないんだって。かっこいいよね!」

眉唾である
遅刻常習の蓮子が何を言ってるのか、とメリーは胡散臭く思うが、
ともあれ元気にやってるならそれでいいと安堵する。

それから、お互いの近況を話し合う。
蓮子が入手した新たな都市伝説諸々。
メリーがキャンパスで見かけた美人がナンパ男を傘でぶん殴る話。
馴染みの喫茶店にメニューが増えた。
来月、一駅離れたところに新しいブティックが開店すること。
その他いろいろ。

最後の方で、蓮子はおもむろに「ところで」と切り出す。
メリーはもちろんわかっている。最後に取っておきの話が来るのだ。
ちょっとヤバイルートから入手した写真を見てくれ、と蓮子から頼まれる。
航空写真。
どこかの森らしき中に、ぽっかりと円い穴が開いている。
そして、その近くには結界の綻び。
そのことを蓮子へ告げると、満足そうに蓮子が頷く。
理由はわからないが、それに蓮子が関わっている研究に結びつくらしい。


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7.
日課となりつつあった紅魔館の庭仕事の途中、早苗は魔理沙に呼ばれる。
図書館にはアリスとパチュリーも同席。
4人で机を囲んで、魔理沙が切り出す。
これからする質問に正直に答えてくれ。
そこで、魔理沙は早苗へ幾つかの質問をする。
人工衛星がどんなものか知っているか。
原子炉について知っているか。
放射線というのがどういうものか知っているか。
放射線の危険は? 何がどう危険なのか知っているか。
それらの質問に、早苗は偽らず答える。
今、魔理沙が求めているのは、その答えそのものではなく、早苗がそれを知っているかどうかだからだ。
聞き終えて、魔理沙は頷く。
おおむね予想通り。そういうことだ。
次に、魔理沙は抱えていた疑問を公開する。
博麗大結界が隔てているものは、具体的に何なのか。

例えば、衛星が落ちてきたあのクレーターには、いまだに雪が積もらない。
外の世界ではもちろんそのはずだ。ばらまかれた放射性物質はいまだ緩やかに崩壊を続けており、崩壊熱が出ている。
つまり、熱は結界の内側に届いていることになる。
しかし、崩壊熱とともに出る放射線は内側に来ない。

人工衛星の姿はこちらに無い。
もちろん、衛星はぶつかって粉々になってしまったはずだが、破片一つ内側には来ない。
これまで、幻想郷へ流れ着いた物には、幻想郷に無いものが多い。
携帯電話しかり、パーソナルコンピュータしかり。
では、なぜ人工衛星はこちらに来ないのか?

魔理沙は推察する。
早苗が外の世界の一般的な人間の知識を持っているとすれば、早苗が知る常識が通常は博麗大結界の境界となるはずだ。
もし、原子力という概念、常識で隔てているとすればどうか。

放射線が恐い。これが外の世界の人間の常識だ。
目には見えないが、確かに存在する。これは原子力という概念の重要な要素。
だから、放射線は結界を越えられない。
放射性物質も越えられない。これは、『放射線を出す物』という概念だからだ。
もちろん、原子炉も越えられない。
しかし、外の常識では、崩壊熱というものが知られていない。
だから、崩壊熱は、ただの熱として結界を越える。

では、人工衛星はどうだろうか。
早苗は人工衛星がどういうものか知っている。
携帯電話もパーソナルコンピュータも知っている。
しかし、人工衛星は、破片一つこちらへ来ない。
人工衛星という概念も隔てているのか。現状はおそらくそうだ。

魔理沙はここに作為を感じる。

そもそも、あの人工衛星はなぜここへ落ちてきたのか。
これは偶然だろうか。

魔理沙の疑問に、四人で考え込む。
しかし、それがわかったとしてどうなるのか。そうアリスは問う。
魔理沙は、この謎が今回の異変を解く鍵になると踏んでいる。
魔理沙の魔法使いとしてのカンである。

パチュリーは言う。
確かにそれは鍵かもしれない
しかし、今は時間に余裕が無い。
身代わり人形計画に集中すべきではないか。
時間が稼げた後で、じっくり検討すればいい。

アリスも同調する。
ただし、アリスは魔理沙が気にしている点に理解を示す。
魔理沙の魔法使いとしてのセンスは決して悪くない。
インスピレーションと論理的思考、それに努力。
言葉には出さないが、アリスは魔理沙の力量を認めているのだ。
とはいえ、パチュリーの言もまた一理ある。
霊夢の病状は、日を追って悪くなっているはずなのだ。
実際、アリスは魔理沙と一緒に永琳から直接話も聞いている。
時間がないのは確かだ。
身代わり人形を軌道に乗せ、霊夢の病状を和らげてから、あらためて三人で魔理沙の仮説を詰める。
現状ではそれが一番効率的だ、とアリスは言う。

二人に言われて、考え込む魔理沙。
納得はしていない。何かが心の中で引っかかっているのだ。
不安が消えない魔理沙。
結局、その場で話は打ち切られる。
パチュリーもアリスも忙しい。魔理沙も手伝うことは山ほどある。
早苗も門外漢ながら手伝いを申し出た。
こうして、四人がかりで準備を進め、やがて計画実行の日がやってくる。


計画実行の日。
満月の夜。
パチュリーはオルゴールを持って再び博麗神社へ。
藍の妨害がまた入ることを考えて、レミリアも同行する。
アリスは霊夢の元へ。こちらは身代わり人形の起動のため。
魔理沙は永遠亭の外で警戒に当たる。
霊夢はその日、薬によって眠っている。その間に、霊夢の病気を人形に移す予定。

時を待って、起動開始。
アリスが人形を起動し、同調してパチュリーのオルゴールが回り始める。
まずは順調。
霊夢の病厄が少しずつ人形へと移っていく。
その間、霊夢の傍で永琳と鈴仙はバイタルをチェックしている。
その顔つきは険しい。

博麗神社。
レミリアの前へ、再び藍が現れる。
以前とは違う、憔悴しきった姿。
既に右手は回復している様子だが、頬がこけて、身体の肉も落ちている。
ただ、目だけが獣じみて輝く。
隣で身体を支える橙は涙を浮かべて、そんな藍の顔を見上げている。
何があったのかと驚くレミリア。
その身体で戦うつもりなのか。
しかし、藍は凄絶な笑みを浮かべながら、違うと首を横に振る。
準備が完了した。どうやら間に合った。
貴女達が何をしようが、大勢に影響は無い。
いや、この状況、せいぜい利用させていただこう。
藍はそうレミリアへ語る。
訝しく思うレミリア。なんのことか問い詰めようとするが、藍は取り合わない。
藍は、一方的にレミリアへ語りかける。
覚えておいてくれ、レミリア・スカーレット。
これから起こることが何であっても、それは省みて貴女達のためになるのだと。
そして、心せよ。
霧雨魔理沙は、我々の最後の希望だ。

魔理沙は、魔力の流れを感じながら、永遠亭上空で考え事にとらわれていた。
いったい、自分は何が引っかかっているのか。
それを思い出そうとしている。
幽香との戦い、藍の言葉、パチュリーとアリスの意見、早苗から聞いたこと。
いろいろなことが頭に浮かび、過ぎ去っていくが、これだというものにヒットしない。
そこで、ふと魔理沙は霊夢の顔を思い浮かべる。
あの平和で賑やかなひとときが、まるで遠い過去のように思える。
そんな感慨に耽って、はっとする。
そういえば――。
魔理沙は、永遠亭をうっちゃって、全速力で飛び出す。
記憶が確かならば。
寒さのせいではない鳥肌を立てて、魔理沙はある場所目がけて飛んでいく。

早苗は、久々に帰った我が家でくつろいでいた。
神奈子と諏訪子はいつものようにコタツに入って銚子を傾けている。
紅魔館で鍛えた足腰のおかげか、最近は雪かきも以前ほど苦にならなくなった。
できることからコツコツと。
そのことをしみじみと実感する早苗である。
春になったら、紅魔館の庭にならって花壇でも作ろうかと考えている。
華やかなのはいいことだ、と神奈子も諏訪子も上機嫌。
なんといっても、こうして三人が揃って語り合うことが何よりも喜ばしい。
そんな中、文が神社に訪ねてくる。
天魔の容態が良くなってきた、と報告に来たのだ。
最近、紅魔館でやってた何かのおかげでしょうか。早苗さんは何かご存じありませんか。
新聞記者モードで寄ってくる文に苦笑する早苗。
さて、あの計画のおかげだとしたら思わぬ僥倖だけれども、はて?
天魔が回復に向かっている。あの計画の内容。それが意味するところは。
大変だ!
早苗は血相を変えて空へ飛び立つ。

パチュリーは呪文の詠唱を終えてオルゴールを閉じる。
それが儀式の終了だった。
術式は成功したはず。パチュリーは息を切らせてレミリアへ伝える。
それを聞いて、藍は哄笑する。
魔女よ、貴女の能力は素晴らしい。まさか成功するとは思わなかったよ。
だが、魔女よ。貴女はわかっているだろうか?
今しがた開いたその扉が、新たな砂時計をひっくり返してしまったことを。
藍の様子に、レミリアもパチュリーも鼻白む。
だが、その鬼気に呑まれて二人とも動けない。
一本のナイフが飛ぶ。
そのナイフを橙が弾いて咲夜を睨む。
藍は咲夜へと視線を移す。非礼を一言わびて、橙を抱き包み、くるりと一回転したかと思うとその場から消え去った。
後には、言いしれぬ後味の悪さが残る。
レミリアは、永遠亭へ向かう。

儀式が終わって、肩で息をするアリス。
その横で、永琳と鈴仙がてきぱきと動いている。
霊夢から採血し、検査のために二人は病室から出て行く。
アリスは身代わり人形が確かに機能していることに満足して、霊夢の寝顔を見る。
そこへ、外からの喧噪。
乱暴に扉を開けて、魔理沙が飛び込んでくる。
服も帽子も泥に汚れて酷い有様。
そこかしこに雪をくっつけた魔理沙が、蒼い顔で霊夢の横にやってくる。
霊夢が目を開けて、魔理沙の方を見る。
その視線の先は、魔理沙の握った手。
ボロボロになった赤いリボン。
霊夢が微笑む。その笑みに、魔理沙の顔が歪む。
霊夢の笑みが、歪む。
眉を寄せて、唇をかみしめて、全身を震わせて。
痛い。ぽつりと呟く。
痛い。痛い。痛い。
霊夢の名を呼びながら、魔理沙は霊夢を抱き起こす。
霊夢の頬に、自分のすり切れた手を滑らせて、彼女の髪を梳く。
ずるり、と束になって髪が抜ける。
悲鳴。
アリスが息を呑む。
霊夢が苦しげに息を吐く。
病室へ飛び込んでくる永琳と鈴仙。
魔理沙は強引に霊夢から引き離される。
魔理沙は叫ぶ。何度でも霊夢を呼ぶ。近付こうとする。
しかし、魔理沙は兎達に捕まえられ、後ろに引っ張られる。
アリスが何かを言っている。
永琳と鈴仙が厳しい表情で注射器を用意する。
更に病室へやって来たレミリアの怒声。
だが、魔理沙には聞こえない。見えない。
見えるのは、霊夢だけ。
苦しげに目を閉じていた霊夢が、うっすらと目を開けて魔理沙の方を見る。
その儚い笑みには、やはり死相。

それから二日。
霊夢は昏睡に陥る。


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8.
レミリアは眠る。
夢の中。
紅霧異変の時の紅魔館上空。
あの夜のように、月を背負ってレミリアは待つ。
やがて、霊夢がゆっくりと浮かび上がってくる。
あの日、あの時のように。
しっかりとレミリアを見据えている。
レミリアは問う。知っていたの。
霊夢は答える。知っていたわ。
二人は会話を続ける。

あの日、霊夢はあれが落ちてくることにいち早く気付いた。
そして、落下によって何が起こるのかをいち早く悟った。
だから、霊夢は大結界に即興でルールを追加したのだ。
あれを幻想郷へ入れてはならない。
あの日、あの瞬間、あの場所で。
霊夢はそれを成し遂げた。
それは霊夢だからこそできる離れ業だった。
しかし、その作業が終わるまでのほんの一瞬。
霊夢は放射線を大量被曝した。

魔理沙が拾った、落下地点のクレーターに落ちていたリボン。
それが証拠だ。
あの日、魔理沙と会う前に、霊夢がそこにいたという事実。
その瞬間、霊夢が最大強度の結界を張ったがゆえに、衝撃波にも飛ばされなかった彼女のリボン。

つまり、霊夢には二つの病状が重なっていた。
一つは、放射線の直接被曝による急性症。
もう一つは、大結界の汚染による体内被曝に似た症状。
永琳の薬が効きにくかった理由はこれ。

アリス達による身代わり人形は、霊夢が博麗の巫女であることを前提としている。
そして、その効能は後者の症状に限られていた。
身代わり人形が、「博麗の巫女としての病厄」を受け持った代わり、
霊夢が博麗の巫女であるがゆえに受けられる、天魔などの大妖怪達によるバックアップ、それが受けられなくなった。
だからこそ、天魔の病状が回復し、霊夢は直接被曝の症状が顕著になった。

死ぬことが恐くないのか。レミリアは問う。
恐いわ。霊夢が答える。
でも、希望がある。だから怖れていないわ。
そう言って、霊夢は笑う。
そして、真摯な瞳でレミリアを見る。
あんたに頼みたいことがあるの。
魔理沙のことを、助けてあげて。

そこで、レミリアは目覚める。
そして、己がなすべきことを悟る。
レミリアは咲夜を呼び、ペンと紙を用意するよう命じる。


魔理沙、アリス、パチュリーは計画の失敗に沈み込んでいる。
魔理沙が感じていた不安の正体をもっと詰めていれば。
悔やんでも遅い。身代わり人形は発動してしまった。今更簡単には止められない。
明るい材料もある。永琳の薬がきちんと効くようになった。
そのおかげで、霊夢は辛うじて持ちこたえている。
だが、時間はやはりない。
早く次の手を打たねば。
そう焦るが、アイディアは浮かばない。
魔理沙は、頭を冷やす、と紅魔館から離れる。
魔理沙が離れた後、レミリアが図書館にやってくる。
レミリアはパチュリーへ活を入れる。
しょげるな。諦めるな。
魔女の誇りはどうした。
私が視る運命は、まだ道が繋がっていると教えている。
もし、他のことが信じられなければ私を信じろ。
励まされて、ようやくパチュリーもアリスも動き出す。
また一からやり直そう。
二人は、積み上がった資料へもう一度手を伸ばす。


早苗は美鈴と会って話す。
これからどうなるのか。不安が隠せない早苗。
難しいことはわからないから、と美鈴は苦笑する。
世界はいろんなものが組み合わさってはじめて一つ。
私もあなたも小さな一つだけど、大きな一つを構成する大事な一つだ。
あなたにできないことが私はできるし、私ができないことをあなたができる。
適材適所。
各々が自分にできることをやる。世界が回るってのはそういうことだ。
自分の仕事も満足にできない者に、他者のことを助けることなど出来ない。
私の役目はここを守ること。お嬢様達がやっていることを邪魔されないように。
そして、ささやかながら、この庭を見ることで心を休めることができればいいなと思う。
早苗は美鈴の言葉を噛みしめる。
頭ではわかる。しかし、心がついていかない。
早苗はため息をつく。その視線の先には、遠ざかっていく魔理沙の姿。


魔理沙は空を飛びながら物思いに耽る。
こうして行き詰まったときは、霊夢に会いたくなる。
しかし、今の霊夢は面会謝絶中。
もしかすれば、このまま二度と会えなくなるかもしれない。
そのリアルな恐怖は魔理沙を縛る。
そんな思い悩む魔理沙の前に、藍が現れる。
話がある。
そう言われて藍についていく魔理沙。
着いたところは、博麗神社。
そこは、いつの間にか綺麗に掃除されていて、境内いっぱいにびっしりと魔方陣が描かれている。
その魔方陣のパターンを読みながら、魔理沙は怪訝に思う。
似ている。霊夢が使う魔方陣に。
なにごとか、と問う魔理沙へ、藍は土気色の顔で笑う。

幻想郷を救う方法が、一つだけある。

驚く魔理沙。出来の悪いジョークだ、と笑い飛ばしたい魔理沙だが、藍の鬼気迫る笑顔に引き込まれる。
藍は語る。
幻想郷を救う、ただ一つの方法。
簡単だ。博麗の巫女が代替わりすればいい。
「バカな。代替わりしたって、次代の巫女が病む。意味が無いぜ」
魔理沙の反論。しかし、藍は意に介さない。
魔理沙、お前達は博麗大結界についてずいぶん詳しく調べたみたいだな。
その時に思ったはずだ。この大結界のシステムがうまく働いていない、と。
だがな、魔理沙。この結界の成立には、紫様が関わっているんだぞ。
あの紫様が気付かないと思うか?
あり得ない。そんなことは、あり得ないよ、霧雨魔理沙。
きちんと考えられているさ。こういう事態に備えてな。

藍の笑顔に不気味なものを感じて、魔理沙は身震いする。

お前達が調べたとおりだ。博麗の巫女というのは、代替わりが前提なんだ。
もっとも、言うほど簡単じゃないがね。
ずいぶん準備に手間取ったよ。橙にも手伝ってもらったが、それでも手が足りなくてね。
こんなに時間がかかってしまった。
紫様にも長く辛い思いをさせてしまった。
だが、これでもう大丈夫だ。
幻想郷は救われる。

話が見えず、魔理沙は後じさる。

博麗の巫女というのは、誰でもいいってわけじゃない。
まず、人間の少女であること。
健康であること。
大妖怪とも渡り合える強さ。
ただまあ、この強さについては修行してゆくゆく身に付けていけばいいから、必須というわけではない。素質は大事だがね。
普段なら、代替わりする頃、紫様がどうにかして次代の候補を見つけてくるんだ。
しかし、今のような非常時には、例えば紫様が動けず、幻想郷が脅威に晒されている場合、即戦力が必要になる。
そんな時のために、予備の博麗の巫女候補がいる。

そう、お前だ。霧雨魔理沙。
数々の異変に長く関わってきた実績。
風見幽香のような大妖怪にも立ち向かう実力。
まったく申し分ない。
他にも、そう、悪魔の狗や山の巫女のような人間の少女もいる。
だが、彼女らは実力はともかく、実績が足りない。
それに、各々大きな勢力に属していて、中立が保てない。
その点、魔理沙、お前なら適任だ。
お前が次代の――

「ほんとに笑えない冗談だな」
突然の話に混乱しながらも、辛うじて激発を堪える魔理沙。
なぜ? 良い話だろう。魔理沙が巫女になれば全てうまくいくんだ。
無論、魔理沙は博麗の巫女になることで、これまでのような魔法使いではいられまい。
巫女としての修行も必要だ。
だが、素養は十分だ。むしろ、霊夢よりも巫女としては優秀になるやもしれん。

「そんなことを言ってるんじゃない!」
そこで、魔理沙は気付く。
藍は、『幻想郷を救う』とは言ったが、『霊夢』は……?

藍の酷薄な笑み。
古来、この国では大きな災厄を神として奉り崇めることで鎮めてきた。
魔理沙達は、惜しいところまで届いていたのだ。
博麗の巫女は代替わりが前提。
そして、幻想郷全体に関わるほどの大きな災厄を払うには、巫女の身代わりを立てるのではなく、巫女が身代わりとなるのだ。
すなわち、巫女へ災厄を移し、神として奉ることでケガレを払う。

霊夢の命と引き替えに、幻想郷を救う。
そういうことだった。

魔理沙は叫ぶ。これまで霊夢を助けるために頑張ってきた自分は何だったのか。
自分が巫女になる。霊夢が死ぬ。
それは、あまりにも過酷な話。
魔理沙は逃げる。なりふり構わず、その場から逃げる。

一日だけ待ってやる。
そう、藍は言う。
心が乱れたままでは儀式もうまくいかない。
心身潔斎して明日、日没の頃、ここに来い。
逃げる魔理沙の背中から、藍の声だけが追ってくる。
魔理沙は、何もかもを振り捨てて、全速力で神社から離れる。


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9.
魔理沙の家。
全てを忘れるため、魔理沙は酒に溺れる。
しかし、どれほど呑んでも藍の言葉が頭から離れない。
どれほど取って置きの良い酒を飲んでも、全然美味しくない。
藍の言葉が嘘ではないこと。
限られた時間の中で、それでもわざわざ一日だけ時間をくれたこと。
それが藍の誠実さの表れであることは、魔理沙にもわかる。
しかし、魔理沙にとって何の慰めにもならない。
幻想郷が助かるただひとつの道。
そのために、魔理沙はただ頷くだけでいい。
魔理沙の人生と、霊夢の命。
それで幻想郷が救われる。
頭ではわかる。
しかし、魔理沙は厭だった。
もし、霊夢の命が助かるのなら、それならまだ意味があるのかもしれない。
しかし、霊夢は死ぬ。
魔理沙は、魔法使いを棄てることになる。
どちらも厭だ。
身勝手なことは承知の上で、それでも魔理沙は藍の言葉を拒絶する。
そして、拒絶する自分を嫌悪する。
それで幻想郷が助かるのなら、それでいいじゃないか。
賢くなれ。
そう囁くもう一人の自分がいる。
一方で、自分が今まで積み重ねてきた魔法使いとしての努力と魔法を棄てられないと叫ぶ自分がおり、またそんな自分をエゴだと責める自分がいる。
だから呑む。しこたま呑んで、吐いて、まどろみに身を委ねて、悪夢で飛び起きて再び呑む。
そんなことを、果てもなく繰り返す。

時間の感覚がわからなくなった頃、アリスとパチュリーが訪ねてくる。
二人は、惨憺たる有様に顔をしかめる。
何があったのか、と問われても魔理沙は答えない。
酒瓶を抱えて丸まったまま、動こうとしない。
なだめたりすかしたり、二人は魔理沙へ言葉をかけるが、魔理沙には届かない。
ついに、二人は魔理沙は愛想を尽かし、魔理沙の家を出て行く。
「いつもはしぶとくてしつっこくて諦め悪いくせに、何よそのていたらくは」
「つまらないわね。少しは骨があると見込んでたのだけど、どうやら見込み違いだったわ。眼鏡変えようかしら」

二人が出て行くと、いよいよ魔理沙の家を訪ねる者は誰もいなくなる。
やがて、家にある酒を全て飲み尽くしたところで、ようやく魔理沙は動き出す。
酒を買ってこよう。
胡乱な頭でそんなことを考え、よろめきながら箒に乗る。
空を飛ぶと、それまでの鬱屈した感情がスピードとなって表れる。
躊躇い無しのフルアクセル。
半ば自暴自棄に魔理沙は歓声を上げて冬の空をすっ飛ばす。

すると、突然、魔理沙の目の前には、脅えて立ちすくむ妖精の少女。
最初からいたのか、それとも飛び出してきたのか。
酔った頭では判断がつかないものの、魔理沙は全力で強引にターンと急ブレーキ。
辛うじて少女をかわして止まる。
ほっと一息吐いたところに、怒声が降ってくる。
チルノがかんかんになって魔理沙の危険運転を責めている。
気付けば、そこは紅魔館の傍の湖。
虫の居所の悪い魔理沙は、自分が悪いことは承知の上で、チルノを挑発する。
弾幕ごっこでもやれば、少しはすっきりするかと思ったのだ。
案の定、挑発に乗るチルノ。
周りの妖精達もチルノを応援する。
それが癇に障る魔理沙は、大人げなく全力をチルノに向ける。
しかし、結果は惨敗。
こんなはずでは、と何度も挑むが、ことごとく負ける。
魔理沙は悔しがるが、どうにもならない。
ついには、情けなくも湖のほとりへ墜落。したたかに打ち付ける。
頭上には、得意げなチルノ。
弾幕で勝てず悔しい魔理沙は、どうにかやりこめたくて仕方がない。
そこで、なぞなぞを出す。

お前が住んでいるかまくらのすぐ近くで、盛大に焚き火をしている奴がいる。
お前は火の近くに近寄れない。
しかし、放っておけば火でかまくらは溶けて崩れる。
さあ、どうする?

そんなやつ、あたいにかかれば簡単に凍らせちゃうよ!
「火で近付けないって言ったろ。どうやってそいつを凍らせるんだ」
じゃあ、遠くからやるもん!
「お前の力が通じるのはせいぜいかまくらの中だけだ。そういう問題なんだよ」
なにさ、それ! そんなのずるいじゃん!

そうだな、と魔理沙は自嘲する。
ずるい。世の中はこんなにもずるくて不条理だ。

癇癪を起こすチルノ。
いいよ! そんなら、あたいがもう全部凍らせちゃえばいいんだから! あたい最強だもん! それくらい楽勝よ! それなら文句ないでしょ! かまくらだって、ずっとずっと大きくしてやるんだから! そんで、ぜったいぜえったい溶けないくらい厚くしてやるんだからね! そうだ、いっそお城作っちゃおう! それからみんなも呼んで、毎日パーティやって――

そこで、魔理沙は引っかかる。
今、チルノはなんと言ったか。

お城作って、パーティやってー
「いや、その前だ」
えー、なんていってたっけ?
(溶けないくらい厚く、とかだよ、チルノちゃん)
「惜しい、もう一声」
もー、覚えてないってばー。いいじゃん、そんなのー
「かまくらを大きくするとか言わなかったか?」
あ、言った言った。なんだ、覚えてるんじゃん。なんで訊くのさ。

それだ。
魔理沙が震える。
息をすれば、頭の中が壊れてしまう。慎重に、慎重に、掴んだそれをたぐり寄せる。
間違いないか。
間違いないだろうか。
騙されていないか。
自分が掴んでいるこれは本物か。
形が整ったところで、ようやく深呼吸。
「境界条件」
ぽつりと呟いて、
魔理沙、咆吼。

「それだ――――――――――――ッ!!!」

魔理沙はチルノの手を取って踊り出す。
面食らったチルノは、なすすべもなく振り回される。
ぽかんとしていた周りの妖精達は、状況はわからないながらも、楽しそうな魔理沙につられて互いに手を取って踊りに加わる。
ひとしきり踊りに踊ったところで、魔理沙は感謝のキスの雨をチルノにしこたま降らせ、チルノがぐにゃぐにゃになったところを抱きしめて、その冷たさで酔いを無理矢理覚ます。
そして、チルノを解放すると、再び箒にまたがって、紅魔館へと突撃。
慌てふためくメイド達を吹っ飛ばしながら図書館のドアをぶち破り、パチュリーとアリスの前でフルパワー急制動。その衝撃で小悪魔がスカートを押さえながら床を転がっていく姿には目もくれず、魔理沙は二人の前で頭を下げる。

すまなかった。私が悪かった。反省している。また一緒にやりなおそう。
まあ、それはそれとして、とりあえず話を聞いてくれ。
霊夢を助ける方法がわかった。

怪訝な顔をする二人へ、魔理沙はアイディアを披露する。

ことが幻想郷の外で起こっている。だから今まで手が出せなかった。
だが、幻想郷を広げたらどうか?
物理的にではなく、概念として。
幻想郷に原子力の概念があれば、問題のあれも幻想郷の中へ来る。
そうなれば、幻想郷内部で対処が出来る。

「なにバカなこと言ってんのよ。せっかく霊夢が作ったガードを無駄にするつもり?」
「そうじゃない。あれが外にある限り、私達は放射線の問題を外の常識で考えなきゃならん。でも、もしあれが内側にあるんなら、幻想郷の常識で対処できるんだ」
「なにか考えがありそうね。いいわ、聞かせてごらんなさい」

魔理沙は、二人に考えを話す。
聞いた二人は、胡散臭いと眉を寄せる。
本当にうまくいくのか。
大丈夫だ。間違いなくうまくいくさ。
自信に満ちた魔理沙を、パチュリーはまだ疑い深そうに見る。
「そもそも、どうやってあれを幻想郷に取り込む気なの?」

よくぞ聞いてくれた、と魔理沙は胸を張る。

「原子炉を作ろうと思う」


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10.
再び永遠亭会議。

反対だ!
舌鋒鋭く、藍が切り込む。
会議は最初から大荒れの様相。
参加者は、魔理沙、アリス、パチュリーの他、レミリアと咲夜、幽々子、永琳と輝夜、神奈子と早苗、慧音と阿求、それに藍。
原子炉と聞いて、藍と早苗が即座に反対の構えを取った。
何を考えているのか。
せっかく放射線から守られているのに、幻想郷を滅ぼす気か。
口を極めて魔理沙を攻撃する。
しかし、魔理沙に堪えた様子はない。

この計画の骨子は二つ。
(1)原子力の概念を幻想郷へ取り込むこと
(2)幻想郷の放射線を除去すること
このうち、(1)については、原子炉を作ることで対応する。
原子炉ができることで、外との概念の差がなくなるはず。
そして、(2)については。
魔理沙は、人の悪い笑みを浮かべながら藍を見る。
早苗によれば、この原子力によって、兵器、事故など、多くの人命が失われたのだとか。
一方で、原子力によって得られたメリットも多いと聞く。
発電、外惑星探査、放射線物理学でいえば、X線による診療や治療、電波望遠鏡、などなど。
これほどに大きな災厄と利益。この二面性は、日本古来の神によく似ている。
荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)。
そう、この国では大きな災厄を神として奉り崇めることで鎮め、御利益を願ってきた。
魔理沙は言う。
幻想郷に落ちてきたあれを、原子力の神として据える。

「おそらくだが、あれは半分妖怪化してるんじゃないかと思う。だからここへ落ちてきたんだ。妖怪化してるんなら、神にすることだってできるだろう」
付喪神というくらいだからな、と魔理沙は笑う。

渋い顔をする藍。
自分の言葉を、こう返されるとは思わなかったのだ。
しかし、神にするなど、そう簡単にいくものだろうか?

そこで、魔理沙は神奈子を見る。
力を借りたい。魔理沙は頭を下げる。
正一位である神奈子であれば神格は申し分ない。新しい神を作るのに協力して欲しい。
神奈子は唸る。幻想郷であれば、確かにその方法は有効だ。
また、この場にはいないが、諏訪子は元々正真正銘の祟り神。原子力のように荒ぶる面を持つ相手こそ与しやすい。
とはいえ、問題もある。
壊れた原子炉と大量の放射性物質。幻想郷中に散らばったそれらは大変に危険だ。
はたして、どうやって集めるのか。

「萃めればいいんだろう? 簡単じゃないか」

声とともに、萃香がその場に現れる。
皆が驚愕する中、萃香は魔理沙へ笑いかける。
萃香は、ここしばらくの間、個人的な用事で出かけていたのだという。
帰ってきたらなにやら面白そうなことになっている。
これは乗るしかない。自分も一枚噛ませてくれ。

これで、(2)については道筋が出来た。
では、(1)についてはどうなのか。
原子炉というのは、そう簡単に出来るのですか。
そう、阿求が尋ねる。

そもそも核燃料をどうする。
この幻想郷ではウランなど採れない。
その質問にも、魔理沙は動じない。
「おいおい、古くはパラケルススの流れを汲むこの私を何だと思ってるんだ? 卑金属を貴金属に変えるくらいお手の物だぜ」
藍が呻く。
核燃料を錬金術で錬成するというのだ。
理論的には可能だ、とパチュリーは言う。
純金を錬成するよりは簡単だ。
錬成の術式によって濃縮度も思いのまま。臨界の制御も外の世界の原子炉よりはるかに容易だと。
ただ、技術的な課題は多い。山の河童の力が借りたい、と魔理沙は再び神奈子へ。
そこで、藍が反論。
「ふざけるな! 原子炉を甘く見るな! あれはそんな簡単に作れるものでも、扱えるものでもない!」
「簡単じゃないのはわかってる。だから、あんたも協力してくれ」
魔理沙の言に、毒気を抜かれる藍。
魔理沙は説明する。
原子炉の設計には、大量の計算が要る。
また、得られる材料にも限りがあるから、机上のシミュレーションは入念にしたい。
藍の計算力なら、これらを十二分にこなせる。
だから、頼む。と、今度は藍へ頭を下げる魔理沙。
藍は困惑する。
藍としては、原子炉などどうでもいい。魔理沙を巫女として早く問題解決したいのだ。
だが、魔理沙は退かない。
それでは、霊夢が助からないからだ。
レミリアも後押しする。
原子炉は、紅魔館の敷地中で作る。万が一の時は自分の責任で全てを終わらせる。
最悪の場合、妹の力を借りてでも。
レミリアの覚悟は本物だ。そのことを藍もわかっている。
本当にいよいよの時は、きっと紅魔館ごと消滅させるだろう。
それが藍には苦い。
「だが、時間が無い!」
藍は叫ぶ。霊夢の命が限られている。こんな状況で、悠長に原子炉など作っていられるか。

「あら、時間稼ぎなら得意よ」

そこで、輝夜が口を出す。
期間限定であれば、霊夢へ永遠の術をかけて病状を止めることができる。
あまり長くはないが、三ヶ月くらいなら大丈夫だ。
「上等だ。それだけあれば十分だぜ」

次第に包囲網が狭まりつつある藍。
そこへ、今度は早苗が強硬に反論する。
原子炉を作るなど冗談じゃない。甘い。事故が起こったらどうするのか。
その反論へ、魔理沙は「そのとおりだ」と頷く。
「だから、そういう原子力の怖ろしさを、幻想郷に広めてくれ」
これには、早苗も面食らう。
魔理沙は言う。
原子力の概念を取り込むには、その明暗すら必要だ。
私らは原子炉を作ってそのメリットをアピールする。
早苗、お前は原子炉のデメリットをアピールしてくれ。
それができるのは、外の世界で原子力のことを知っているお前だけだ。
その言に、早苗は呆れる。
それでは博麗大結界をペテンにかけるようなものではないか。
「ペテンとは人聞きが悪いぜ」
それに、これは早苗にとって悪い話じゃないはずだ。そう魔理沙は続ける。
原子力反対運動の先鋒として守矢神社が立つ。
幻想郷の危機を訴え、やがて、原子力の厄災を払って鎮める。
それは、信仰を増やすチャンスじゃないか。

さすがの早苗も考え込む。
霊夢を助けるため、布教のためとはいえ、リスクも大きい。
困って神奈子を見ると、神奈子はそれほど反対ではない様子。
守矢神社には口伝の大祓がある。それを使えば、確かに役目は果たせるだろう。
ただし、それにはヒモロギが必要だ。
何か、原子力に所縁のある呪い物がないだろうか。そう、神奈子が問う。
そこで、一同考え込む。
原子力という近代科学の産物と所縁のある呪い物などはたしてあるのか。

と、そんな時、遅れて妖夢がやってくる。
手には千羽鶴。
それを見て、これだ! と早苗が叫ぶ。
千羽鶴を病人へ送るという呪いは、かつて広島で被爆した一人の少女の願いから生まれたものだ。
まさに今回の目的にうってつけといえる。
お膳立ては揃った。
どのみち、いくら早苗がここで反対したところで魔理沙達は原子炉を作ろうとするだろう。
それは、結局原子力推進派と反対派という形になってしまうわけで、そうなればやはり魔理沙の目的に乗ることになる。
神奈子の口添えもあって、ようやく渋々ながら早苗はその役目を引き受ける。

藍も、もしこれが失敗すると判断すれば、即座に魔理沙へ巫女になってもらうという条件で、やはり渋々受ける。

こうして、霊夢を助けるための一大作戦が始まる。


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11.
紅魔館の図書館で原子炉の設計開始。
作る原子炉は沸騰水型の軽水炉。
比較的構造が簡単だし、水は湖から楽に引いてこれる。
大きさは小さくて構わない。
ごく短時間、あの人工衛星の原子炉が幻想郷に来るまでの時間が稼げればいいからだ。
せいぜい五分。長くても十分くらい臨界が保てればいい。
どこに作るか。
レミリアが提案する。紅魔館の地下、フランドールの部屋を貸すと。
フランドールの部屋は、物理的にも魔術的にも強固な結界で普段から覆われている。
そのうえ、流水でいつでもフランドールを遮蔽できるよう、水路も整っている。
場所としては申し分ない。
しかし、その間、フランはどうするのか?
パチュリーの問いに、「心配ない。宛てはある」とレミリアは請け負う。

核燃料の錬成は、魔理沙の研究、魔法物質生成が役に立つ。
魔法の森には、魔力を生物濃縮するキノコがある。
このキノコ、魔力があるレベルに達すると石化してしまうのだが、これを使うと、複雑な魔術回路無しで新物質が生成できるのだ。
これにパチュリー自ら術式を組み、賢者の石を使えば、放射性核種の錬成は十分可能。
もっとも、これを使うにはそれなりに大きな魔力が必要。
しかもほんの一握りの物質を錬成するために大量の材料が要る。
魔力は魔理沙の八卦炉を使うとして、材料は幻想郷中からかき集めなければならない。そこで、萃香が手伝うことに。
原子炉そのものには近寄れないため、遠隔操作が必須。
アリスは原子炉の遠隔制御術式と実際の操作を担当する。
特に、臨界の制御は極めて精密な操作が要求される。
制御物質が多すぎれば臨界が止まるし、少なすぎれば暴走する。
これがこなせるのはアリスだけである。
原子炉そのものの設計は魔理沙が中心で行う。
これに藍がついて、計算式を詰めていく。
互いに我の強い連中が四人集まって喧々諤々の大議論。
魔理沙の計算のミスを藍がこきおろす。藍からの計算で不足分をアリスが催促。パチュリーが調査資料を読みながら脱線していくところを魔理沙がチョップで止め、怒ったパチュリーが魔術書で魔理沙を狙う。魔理沙がスウェーバックでかわすと藍の後頭部に直撃し、つんのめった藍がアリスの人形を押しつぶすという凄絶な血の連鎖がいつ果てともなく続く。
たまりかねて仲裁を試みた小悪魔が四人がかりで剥かれることなど日常茶飯事。
まさに阿鼻叫喚地獄絵図。
しかし、設計は順調に進んでいく。

早苗は、原子力反対派としての立場作りに忙しい。
天狗達の印刷機を借りてパンフレットを作り、人里へ下りて原子炉の危険性をアピールする。
演説をかますと、やたらと舌の滑りが良くなり、ノリノリの早苗。
さりげなく布教も混ぜながら、原子力反対運動をまとめていく。
ちなみに、この運動の中で博麗大結界反対派や妖怪排斥派も取り込み、紅魔館や永遠亭への直接攻撃を防止する役目も負う。

一方、紅魔館も原子力推進アピールを行う。
豊富なエネルギー。X線や粒子線による医療技術向上などなど。
実のところ、こんな実用的な原子炉など作る気は無いので詐欺もいいところだが、そこは魔理沙の巧みな弁舌が映える。
聴衆の中には、いまいち意味がよくわかっていないながら盛り上がるルーミアやリグルや妖精達。

山の天狗達は、ここぞとばかりに両陣営について面白おかしく記事を書き飛ばし、読者を煽る。
真贋織り交ぜたひどい内容だが、これは神奈子の指示。
どうせ外の世界になぞらえるなら、これくらいでいいのだと苦笑する。

慧音と阿求は、千羽鶴をみんなで折ろうともちかける。
また、一部の人々は霊夢の病を知り、進んで献血や手伝いを永遠亭へ希望する。
その意外な人望に、阿求は「巫女としての知名度は低いのに、看板娘としての人気はあるのですね」と笑う。

やっと千羽鶴から解放された妖夢。
これで一息つけると思っていたところに来客。
レミリアと咲夜、それに会ったことのない少女。
「妹よ。ここでしばらく預かってもらうわ」
そんなことをレミリアは言う。
どういうことかと問うと、咲夜が一枚の紙を妖夢へ見せる。
止む事無き事情により下名の白玉楼への滞在を認むるもの也。
たいそうご立派な印は紛れもなく是非曲直庁閻魔のもの。
真っ青になる妖夢の後ろから、幽々子が現れる。幽々子は事情を既に事情を知っている様子。
凶悪暴虐無邪気な笑顔を見せるフランドールを、艶然とした笑みで歓迎する幽々子。
更にこの後、映姫もやってくる。
妖夢が冥界にいながら地獄を知るのはこれからである。

永遠亭では、妹紅が腐っている。
霊夢の骨髄を預かる身なので、輝夜との喧嘩は禁止されている。
しかし、顔を合わせればやはり衝突は絶えない。
ご飯ひとつとっても、やれお前の方がおかずが多いだの、そんなにガサツでろくなマナーも身に付けないでまったくどういう教育を受けたのかしら親の顔を見てみたいわホホホあらそういえば知っていたわなどという諍いが日常茶飯事で、とかくストレスのたまる日々。
仕方が無いので鈴仙をいじる。
そんな折、慧音が里の人々を連れてくる。とたんに活気づく永遠亭。
妹紅もいつの間にか永琳から叱り飛ばされながら手伝う羽目に。

外の世界。
メリーが蓮子と電話中。
蓮子の研究は順調の様子。あと少しで解放される、と蓮子が喜んでいる。
なにしろ、蓮子の能力の特性上、どうしても夜間が主となるため、昼夜逆転生活を余儀なくされているのだ。
蓮子の愚痴に相槌をうちながらテレビを見ていると、種子島宇宙センターからのロケット打ち上げが映っている。
そのロケットの先端に人影。赤いチェック模様のベストとスカート。白いパラソル。
見間違いか、とメリーは目を擦る。

ようやく理論的な設計の目処がついてきた。
そんな折、にとりが紅魔館にやってくる。
「やあやあ盟友、なにやら手が入り用とのことで助けに来たよ」
威勢良く言いながらも人見知りのにとり。魔理沙の陰に隠れながら、アリスとパチュリーの冷たい視線に脅える。
魔理沙の仲介で、なにはともかく河童の協力によって具体的な設計に取りかかる。

原子炉建設のため庭が潰されると聞いて、早苗が紅魔館に飛んでくる。
門の前で美鈴が迎える。
一応、立場上表向きは敵同士なので、早苗は紅魔館へ入れないが、早苗はせっかく美鈴が手入れしている美しい庭が無くなることに憤慨する。
美鈴は寂しく笑って感謝しながら、早苗を諫める。
そして、一枚の写真を見せる。
かなり古い。写真の中には、美しい庭の中で日傘を差したスカーレット姉妹。
昔のことです。私がお屋敷に勤めだしたころ、この庭を造れと命令されたんですよ。
そう言って穏やかに目を細める美鈴。
それを見て、早苗は何も言えなくなる。
ずるい、と思う。
長いため息を吐いて、わかりました、と早苗は頷く。
私はレミリアさんのやり方にやっぱり賛同できません。
だから、ノーを言い続けます。
せっかくの美しいお庭を汚してまで行うべきことなのかと訴え続けます。
それは、ここが幻想郷である限り、必ず誰かがやらなければならないことだからです。
それができない美鈴さんのために、それが言えない誰かさんのために。
それでいい。美鈴は、写真をしまいながら微笑む。


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12.
外の世界。
国際宇宙ステーションにデブリ接近。
あわや大惨事かという寸前、デブリは弾かれたように軌道を変えて宇宙ステーションから外れていく。
滞在している宇宙飛行士は、窓からパラソルを差した美人を目撃。彼女は、にっこりと笑いかけたあと、遠ざかっていく。
しばらくあっけに取られていた飛行士。地上からの問い合わせに、のろのろと答える。
知ってるか。最近のメリー・ポピンズはデブリ掃除が趣味らしいぜ。


三ヶ月後、原子炉完成
複雑な魔方陣が敷かれた炉心は、見たまんま魔女の鍋。
燃料はショートカットされたケーキが積み重なった形。
外の世界では燃料の元となるものをイエローケーキと呼び表すことから、じゃあ合わせてみましょうと、アリスと咲夜が共同で作った物。ちなみに、ちゃんと食える。
このケーキを、錬成したジルコニウム合金にルーンを彫り込んだ容器で覆った物が燃料棒となる。
ケーキは術の発動によって低濃縮ウランへと変化。錬成された瞬間に、順次崩壊を始めて中性子を放出する。
燃料棒と互い違いになるようにして、炭化ホウ素の制御棒を並べる。
これら全てをヒヒイロカネの容器でくるみ、純水で浸す。
この容器の上部から蒸気を取り出し、タービンを回して電気を作る。
もっとも、ここで作る電気はおまけであり、あくまで原子炉として動かすことが目的の第一である。
紅魔館に設えた管制室で、緊張した面持ちの三魔女。
特に、緻密な制御を要求されるアリスのプレッシャーは大きい。
計算上は、これでもかという徹底的なシミュレーションによって完璧な仕上がり。
錬成実験もやって、ちゃんとウランができることも確認した。
システムは特に冷却系を入念にチェック。
錬成式はパチュリーによっていつでもパージできるようになっており、もしもの時はウランから元の糖分や乳分と果実の固まりへ戻る。
それでも、やはり不安は残る。
魔理沙は、アリス、パチュリーと視線を交わす。
互いに頷いて、準備に入る。
魔理沙が八卦炉で魔力を供給。その魔力をパチュリーが受けて、ゆっくりと原子炉へ流していく。アリスは圧力計と線量計を見ながら、反応に備える。
最初の燃料錬成が始まる。
中性子の放出を確認。
アリスが慎重に制御棒を引き抜いていく。
炉内温度上昇。
圧力も高まっていく。
そして、臨界。

守矢神社。
早苗は祝詞を唱えている。
守矢神社口伝の秘術大祓。
自分にしかできない大役。しかし早苗に気負いは無い。
傍にいる神奈子、諏訪子の力を借りて、早苗は奇跡の力を解き放つ。

妖怪の山、上空。
多くの鴉天狗が扇を手にして浮かんでいる。
統率しているのは文。
天魔直々の命である。せっかくの一大イベントだというのに取材に飛び回れない。そのことを内心悔しがる文。
しかし、お役目とあらば仕方が無い。
神徳の風が高まるのを感じながら、文は号令をかける。
大祓の風が、天狗の扇で幻想郷を吹き抜ける。

人里近くの川。
季節外れの流し雛が始まっている。
船に乗っているのは、雛人形以外に折り鶴も多い。
慧音と阿求も、それぞれ折った鶴を船に乗せて流す。
川が流れていく先では、鍵山雛がくるりくるりと回って踊る。

永遠亭。
霊夢の治療が最終局面を迎える。
輝夜が霊夢にかけた永遠の術を解く。
同時に、鈴仙へ須臾が永遠になる術をかける。
鈴仙は国士無双でドーピング済み。これにより、鈴仙はγ線すら捉え、操ることができる。
骨髄自家移植のため、鈴仙は霊夢の病変した細胞を破壊。
体内の放射性核種は無害化。これは、後で永琳の薬によって除去する。
原子力の概念が幻想郷に来たからこそできる治療である。
ピコセカンドの時間の中で、大手術が始まる。

白玉楼。
ボロボロで死んだ目の妖夢が、机に突っ伏している。
今日、やっと、レミリアがフランを迎えに来て連れて帰ったのだ。
門まで見送った時のことを思い出す。
元気よく手を振って遠ざかっていくフラン。
悪い子じゃない。
だが、白玉楼は半壊状態。まだまだ妖夢の苦労は終わらない。
そんな妖夢の頭を撫でながら、幽々子は遠い空の向こうへ思いを馳せる。

クレーターの傍に建てられた守矢神社の分社。
その小さな社の上で、萃香は一人手酌で酒を飲む。
傍らには陰陽玉型の通信機。
やれやれ、一時はどうなることかと思ったが、なんとかなりそうじゃないか。
そう言って上機嫌の萃香。
それにしても、霊夢はみんなに好かれてるな。見なよ、この人望。誰かさんとは大違いだ。
そう腐るなって。私はちゃんと見舞いに行ったろ。
これを機に、もっと素直になりゃあいいんじゃないの。
あ? ああ、言ってないって。誰にも言ってない。
約束だもんね。だーれも見舞いに来てくれなくて寂しくて一人お布団被ってシクシク泣いてました、なんて言ってないよ。
あはは、怒るな怒るな。
お、そろそろだ。さて、大詰めの一仕事、頑張りますかね。
萃香は、ぐいと瓢箪を呷った後、社の上で立ち上がって、厄災を萃める。

紅魔館。
美鈴は、地下の気の流れが気になっている。
原子炉などというものに詳しくも無いが、こういった循環するものについては感覚的に善し悪しがわかる。
一部、脆い部分がある。
工事は美鈴も手伝っていたので、どこなのかはわかる。
考える。
補強するにも、今からでは河童達に知らせたって間に合うまい。
だが、自分なら。
適材適所。
美鈴は、部下に警備を任せて、一人その場へ赴く。

蒸気圧がおかしい。
アリスがそのことに気付く。
変動が大きい。今はまだ許容範囲内。しかし、このままこれが続けばまずい。
魔理沙がにとりへ伝える。
にとりは慌てて仲間の河童を従えて問題の箇所を調べに行く。
そこは既に蒸気漏れが起こっていた。
蒸気は高熱高圧、そのうえ高レベルの放射性物質が含まれている。とても近付けない。
しかし、誰かがそれを止めている。
そこへ、蒼白な顔の咲夜がやってくる。
おろおろするにとりから事情を聞き、唇を噛む咲夜。
咲夜は、涙を浮かべた門番隊の子を捕まえて、この場を封鎖するよう命ずる。

圧力が安定した。
しかし、三人とも限界が近付いている。
魔理沙の八卦炉はオーバーヒート気味。パチュリーは呪文の詠唱が途切れがち。アリスも消耗が激しい。
もう十分に時間を稼いだ。
パチュリーは停止のプロセスを開始する。
ウランの錬成を止め、壊変途中の核種も含めて無害な化合物へと再構築。制御棒を全挿入。炉内温度を下げるため、冷却系をフル稼働。
臨界停止。
原子炉は次第に停止していく。
じっくり時間をかけて、やっと全てのプロセスが終わる。
同時に煙を吹いて壊れる八卦炉。
倒れ込む三人。
横で控えていた藍と橙が三人を介抱する。

朦朧とした意識の美鈴。
抱き起こしているのは、河童のマークが入った防護服姿の咲夜。
無茶をするわね。
呆れた顔の咲夜。その目尻に涙が浮いて見えるのは、美鈴の気のせいだろうか。
咲夜の隣にはてゐの姿。
どうやら、時間を止めて永遠亭まで担ぎ込まれたらしい。
お嬢様が庭を元に戻すそうよ。私は館内のことで手一杯。部下の子はいまいち使えないし、早く良くなってちょうだい。
クールに言い放つ咲夜。しかし、掴まれた肩を持つ手がわずかに震えていることに美鈴は気付いている。
わかりました。美鈴は笑って応える。

紅魔館のテラス。
レミリアとフランがティータイムを過ごしているところへ、疲れ切った三魔女が出てくる。
ご苦労、と労うレミリア。壊せなくて残念、と笑うフラン。
そこへ、空から火の玉が落ちてきて、湖へ落下。
派手な水しぶきが振ってきて、全員水浸しになる。
はしゃぐフラン。目を丸くする三魔女。青筋を立てて震えるレミリア。
なにごとかとテラスに出てきた藍。
すると、湖から飛び出してテラスに降り立つ風見幽香。
清々しい笑顔で、ごきげんよう、と服の裾を絞る。
幽香は魔理沙を見、藍を見て、笑う。
どうやら、つまらないことにはならなかったみたいね。間に合って良かったわ。
間に合ったとはどういう意味か。
訝しむ藍。幽香は、決まってるじゃないの、と濡れた髪をかき上げる。
幻想郷に新米が来たんでしょう?
そいつに幻想郷(ここ)のしきたりを教えてやろうって話よ。
幽香は魔理沙を見る。
あいにく巫女がお休み中らしいから、異変解決はもう一人の主人公が頑張らなきゃね。
魔理沙は苦笑する。
八卦炉が壊れてしまった。さすがに丸腰ではきつい。
問題無いわ、と幽香が頷く。
この傘を貸してあげる。防御にも攻撃にも使える優れものよ。私は久々に働いて疲れたわ。ここで休んでるから、使い終わったら返しに来て。
全員の視線が魔理沙に集まる。魔理沙は仕方が無いな、と立ち上がる。
帽子を被り、傘を受け取って箒にまたがり、大詰めのために飛び立つ。

『彼女』は、いつの間にか明確な意識を持っていることに気付く。
クレーターの底に、人の姿を得て立っている。
そこへ、見たことの無い誰かが、空から下りてくる。
よう。
幻想郷へようこそ。
私は普通の魔法使いだ。魔法使いが何かわかるか?
ここは楽しいところだぜ。毎日が楽しくて飽きない。あんたもきっと気に入るだろう。
だが、だ。ここは基本、緩いとこなんだが、守らなきゃならん一線もある。
異変を起こしたら、弾幕ごっこで片をつける。
それがルールだ。
弾幕ごっこは初めてだろう? いいさ、私が特別に教えてやる。なに、すぐに慣れる。難しいことじゃない。
せっかくだから、楽しもうぜ。
あ、そうだ。あんた名前はなんていうんだ?
『彼女』は考える。
名前。そう、自分がなんと呼ばれていただろうか。『彼女』は思い出しながらそれを口にする。
なるほど、と彼女が笑う。
良い名前だ。覚えておくぜ。
さて、じゃあ、始めようか。


長い長いまどろみの中から、霊夢は目覚める。
自分の家じゃない。だが、ゆっくりと時間をかけて、霊夢は思い出す。
よう、おはよう。
声をかけられて、そちらへ首を向ける。まだ身体がうまく動かない。首も動かすことすらしんどい。
魔理沙が、霊夢を見て笑っている。
ずいぶんお寝坊だったな。もう春だぜ。外じゃ桜が咲き始めてる。
霊夢は声を出そうとして困る。自分はどうやって声を出していたか。ゆっくりと呼吸しながら、




区切って応える。
無理すんな。しばらくはリハビリきついらしいぜ。覚悟しとけよ。
退院できたら花見をしよう。
そうだ、新しい奴が来たんだ。神様だってさ。見た目はちっこいけどな。案外面白い奴だぜ。
霊夢は、強ばった顔の筋肉を動かして笑う。
そして、その笑顔に心を込める。
ありがとう、魔理沙。



外の世界のニュース。
<<新エネルギーの実用化に展望>>
3月△△日、K大理学部の岡崎夢美教授の研究チームは、並行世界理論による画期的なエネルギー機関の開発に成功したと発表した。
基本的な理論は××年の岡崎論文によって提唱され、△△年には各国の研究室によって検証されたもので、十分に現実性があるとして世界中から注目が集まっていた。
技術的な課題により実現が危ぶまれていたが、今回、新たな制御方法の確立によって実用化の目処がついた。
この新エネルギー源により、××年12月のR国人工衛星コスモス△△号落下事故から始まった世界的脱原子力の流れが加速すると見られている。
既にT社やF社からの技術提携が発表されており、実用化は早ければ本年中にもと――。
諸事情によりボツとなった長編です。
どういう事情かは内容でお察しください。
闇に葬る予定でしたが、供養がわりにこの場へ上げることにしました。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
deso
作品情報
作品集:
1
投稿日時:
2011/04/01 02:23:34
更新日時:
2011/04/01 02:23:34
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4. 1000000 名前が溶解 ■2011/04/02 01:38:02
間が合ったと言うか何というか、話としては非常に作りこまれていて面白いものでした。
正式な完成版ではないのは残念ですが、久しぶりにストレートに大作といった話を読めて満足です。
5. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/02 05:48:21
非常に面白かったです。
細かく作り込まれた物語にぐっと引き込まれて、一気に最後まで読んでしまいました。
時期が時期というのが悔やまれます。
是非とも完成版を読んでみたいとても良い作品でした。
6. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/03 03:56:50
超大作。
世が世なら……実に残念。
文句なしの満点どうぞ。
7. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/04 13:24:02
面白かったです。
名前 メール
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