お気に入りの本

作品集: 1 投稿日時: 2011/04/01 01:45:21 更新日時: 2011/04/01 01:57:12 評価: 0/1 POINT: 7777 Rate: 780.20

 

分類
自分の過去作を漁っていると同じキャラでもだいぶキャラが違ってて多少戸惑う
お蔵入り作
「うわ」

 探し物を手伝って欲しい。
 夕食に付き合わされた後、そう言われて久しぶりに訪れた、友人の、古明地さとりの私室。壁に掛けられたランタンが照らし出した光景を見て、一番に口からこぼれた言葉がそれだった。地霊殿の主を名乗るだけあって、彼女の部屋はちょっとした運動が出来るほどに広い。だが、その中を埋め尽くすものがあった。

 それは本。
 本がある。
 本しかない。

 壁一面にびっしりと敷き詰められた本棚は天井まで続いていて、とてもじゃないが最上段に手は届かない。
 それすらも埋め尽くして尚、行き場の無い本たちが黒い絨毯の上に詰まれているものだから、足の踏み場を探すのも一苦労だ。その山に埋もれてしまっているが、部屋の中央には作業机が置かれていた。その上にすら分厚い本が何冊かスペースを陣取っている。

その傍には大きな、あれは黒板というものだったか、黒い板と、チョーク。色々と書き込みがされているが、私には意味が分からない。きっと地獄の管理のメモ書きにでも使っているのだろうが、少なくとも私にはどうでもいいことだ。

 部屋の隅には小さなベットがあった。寝室も兼ねているらしいのでここにあるのは当然なのだが、雑多に本が詰まれたこの部屋の中にあっては、木製の質素な造りのベットはひどく場違いな空気を感じさせる。これだけの本に溢れていればかなり埃も溜まるのではないかと思ったが、そう感じないのは手入れが行き届いているからだろう。それでも私はこんな場所で眠るのは御免だ。

 所々にある本の山を崩さないよう、本棚を覗いてみた。
 背の高さから厚さまで全く統一感なく詰め込まれていた。ただし、大まかなジャンル分けだけはされているようだ。最初に目に入ってきたのはどうやらペットの管理関係のものらしい。らしいというのはその背に書かれたタイトルが役に立つのかどうか分からない物が多いからである。「ワクワク☆ちびっこ動物園」なんて本は何に使うのだろうと思ってペラペラとページを捲ってみた。
 クレヨンで書いたようなライオンとシマウマが書かれていた。どうやら絵本のようだ。

「けんかなんてやめようよ」ライオンさんはシマウマさんにいいました。

 パタンと、本を閉じた。題名からして子供向けなのは分かっていたが、いざ読んで見ると突っ込みどころ満載である。とりあえずライオンさんはこの先飢えて死ぬのではないだろうか。もっと本能のままに生きたほうがいいと思う。もっともクレヨンライオン(仮)はどう見たってシマウマを捕食できるような体をしていない。どちらにせよ、結局は絵本だ。それ以上の意味は無いのだろう。多分。

 さて見なかった事にしようと本棚をもう一度見回すと、気がついたことがある。
 この棚に収まっている本、床に積まれている本、その多くが小説であるということだ。もちろん小説にだって色々ある。しかし、特にジャンル分けはされていないようだった。推理物の隣に恋愛物が置いてあったり、あからさまな官能小説の隣に冒険物が置いてあったり。
題名の一部を横になぞると文章になるのではないかと思うほどの統一感の無さだ。

「整理しないの?」

 あんまりなものだから尋ねてみた。

「私は覚えてますから」

 だそうだ。確かにここはさとりの私室。なにも私が気にすることではないし、片付ける事になったら藪蛇だ。

「そんな事より、早く手伝ってください」
「はいはい」

 机の中身をひっくり返しながらさとりに言われ、さてどこを探そうかと部屋中を見回すと、先ほどのベットがやはり浮いて見えた。
探し物というのはやっぱりというかなんというか、本らしい。本棚に片付けた覚えは無いと言うので床に転がっているか、机の中に仕舞ったか……ベットの中で読んでそのまま忘れていたか。こんなところだろう。となれば机回りはさとりに任せてベットの方面を探してみようか。そう思って隅っこに鎮座しているベットに近づいたのだが、急にさとりが走ってきてそれを止めた。

「こっちはいいんです。私が探しますから」

 慌てた様子で腕を広げて通せんぼしてくる。
 どうも不自然なものだからベットを覗き込んでみたが、そこにあるのは普通のベットだ。なにも見られて困るような事は、と考えて待てよ、と思い直す。そしてひとつの仮定に辿り着いた。
「……なるほど、ね」

 どうやらその仮定は当たっていたようだ。さとりは顔を伏せ、なにやら震えている。しかし、私にはその気持ちが良く分かる。滅多に他人が入り込まないベットという場所は、何かを隠すのに持ってこいだ。その聖域を蹂躙し尽してやりたいと思ってしまうのもまた仕方の無い事なのだが、私だってそこまで子供じゃあない。たとえ旧知の仲とはいえ、個人のプライバシーを面白半分に侵害するなんて、そんな事は馬鹿のすることだ。私はそんな真似はしない。

「え……貴女そんな趣味があったんですか」

 驚く馬鹿を突き飛ばして布団をひっくり返した。
 探していた本の隣で、男同士が抱き合っていた。





 それにしてもよくもまあここまで本を集めたものだと感心する。
 地底世界という場所はその立場上娯楽品が流れてくることは少ない。あるとしても上で溢れている酒くらいなものだ。千に届くかというほどの本たちを集めるのにはよほど苦労したのだろう。

「そうですね、最初の頃は苦労しました。ですが、こいしが『御土産』を持ってきてくれる様になってからはあっと
いう間でしたね」

 淡々と語るさとりだが、その姿は部屋の隅で膝を抱えている。

「いい加減機嫌直しなさいよ」
「もう駄目です、生きていけません」

 いつも人の秘密を暴いて悦んでいるくせに、いざ自分の事となればこのざまである。
 あの後、必死に抵抗してきたさとりをベットに縛り付けて徹底的に探してしまったところ、あんな本やこんな本が出てくる出てくる。我に返って見てみれば、山のようなコレクションが目の前に広がっていた。流石にやり過ぎたと一応謝ってはみたが塞ぎこんでしまって動こうとしない。その結果が今の状態だ。こうなってはどうしようもないので、諦めて勝手に本棚を見て回らせてもらっている。
 どうせすぐに何事も無かったかの様にケロリとしているのだ。

 ずらりと並んだ本たち。その全てをさとりが読みつくしたのかは知らないが、少なくとも私には一生掛かけても不可能。しかし不思議なもので、背表紙に書かれた題名をなんとなく眺めているだけで、これがなかなか面白い。内容そのままの分かりやすい題名だったり、興味が湧いて開いてみれば想像とは全く違った物語であったり。

「なんか、面白いの」

 読書欲なんてものが私にあったのには驚きだが、大量の本に囲まれているという今の状況が、普段眠っている欲求を掘り起こしたのだろうか。私はさとりに何か面白い本はないものかと聞いていた。もちろん心の中では、私が読めそうなやつで、と付け足しておく。

「お好きに」

 顔を伏せたままさとりは答える。その声に嫌味の色は感じられなかった。

「私が面白いものが、貴女も面白いと感じるとは限りません」
「……そうかもね」

 あんな本を集めていたさとりの趣味が私と一緒だなんて思えないし。
 それならと、目に付いた手ごろな小説を片っ端から開いてみた。適当にページを開くものだから話の流れもなにも分かるはずも無いが、なんとなくその小説の書き方、雰囲気、なんてものは見えてくる。想像してみる。私の読めそうな本。読みたい物語を。
 とりあえず堅苦しいと感じる文章はパス。絶対に最後まで読みきれない。あとはシリーズ物も同じくだ。そこまで本格的に読書に浸るつもりは無い。それとジャンルは……そう、恋愛物がいい。それもドロッドロの愛憎渦巻くやつ。騙して騙されて傷つけあう、醜いお話。

「こんな感じで……どう?」
「もうひとつ」

 それなら……と少し考えてボソリと言った。

「じゃあ……『死』」
「隣の棚の上から三番目」

 座り込んだままさとりが呟く。「相変わらず酷い趣味」なんて言っているが気のせいだ。
 好みが合わないのと好みを知らないのは別の話。なんだかんだいっても、私の事をわかってる。
 言われた本棚をなぞる様に探してみると……「それ」とさとりが止めた。多分これだ『真実の愛を探して』。安直なタイトルである。手に取ってみると少し重量を感じた。落ち着いた茶色のハードカバーに金色の題名が輝いている。適当にページを捲ってみた。

 びっしりと敷き詰められた活字。普段の私ならば読み始めて3分を待たずに眠りに就いてしまうだろう。
 だから、必要なのは刺激。それも勝手にページをめくる手が進むようなやつを。
 そんな私の心の内を読みきったかの様に、ページの隅で、たった一言の台詞が輝いていた。


『──この裏切り者!』


「……さすが」

 にやり、と口元が吊り上る。
 小奇麗な表紙からは想像できないような、私の大好きな展開。背筋がゾクゾクしてくる。

「これ、読ませてもらうわよ」

 部屋の隅のさとりに確認するように手を振ってやると、さとりは俯いたまま手をひらひらと振リ返した。ご自由に、ということらしい。
まあ、元より好きにさせてもらうつもり。机の傍の椅子に腰を掛ける。背もたれに体重をかけると勝手に傾いた。なかなか快適だ。

「では、私も……」

 思った通り、さとりはいつの間にか何事も無かったように復活していた。
 机の上に置いてあった分厚い本を手に取り、私の後ろに椅子を置く。間に大きめな蝋燭を挟み背中合わせのような体勢になる。思いっきり背もたれを倒すとさとりの椅子にぶつかってしまう、そんな距離。向き合ってしまってはどうにも集中できないし、隣同士でもお互いに気になってしょうがない。これくらいがちょうどいい。

「久しぶりに、ゆっくりと読ませてもらいますか」

 後ろでさとりがページを開く音が聞こえた。構うことも無いので、手元に視線を落とした。
 さて、私のこの小説への第一印象は女の怨嗟の声である。しかしそれは長い物語の中のほんの一部分。前後の文章を
読んでいない私がイメージできるのはその一瞬だけだ。どうしてそんな事になるに至ったのか、彼女はどうしてこんなことを思ったのか。それを私は知ることは出来ない。
 でも、それは現実での話。
 これは物語の中での話だ。ページを進めるだけで彼女の心情が分かる。一ページ目に戻れば彼女がどんな人生を送り、この場面に至ったか知ることが出来る。そんな世界。だが、このまま好奇心のままにページを捲って彼女の心境を知ってしまうのは少々もったいない。久しぶりに顔を出した読書欲だ。せっかくならじっくりとこの物語を楽しませてもらおう。そんな事を考えながら、最初のページを開いた。

 こうして、私達の長い夜が始まった。





 それからしばらくは静かな時間が流れていった。
 この部屋に時計は無い。この空間の中で動いていたのは蝋燭の炎と、それが照らし出す私達の影だけだった。ペット達はほとんど眠ってしまったのか館の中は本当に静か。ページをめくる音だけが聞こえてくる。橋の上で川の流れるのをただ眺めているのもいいものだが、たまにはこういう時間も悪くない。

 パラリとページをめくると場面が切り替わった。物語はまだ序盤だが、ふたりの出会いの場面。最初の転換期だ。小さな村のどこにでもいるような女性が、役人の男と恋に落ちる。ありきたりな話だが、これはこれで面白い。やはり王道というものは安心できるものだ。
だが、私の求めるものはこの先にある。それを私は知っている。いや、知ってしまっている。最初から読み始めてみると、もしかしたら先の展開を知ってしまっているのはむしろ損をしているのではないか。そう考え始めてしまっていた。

「そうとも限りませんよ?」

 集中していたのが原因なのか、随分久しぶりにさとりの声を聞いたような気がする。少し、笑みを含んだ声だった。

「ページをめくるたびに気持ちが変わるかも知れません。裏切り者と叫んだ次のページで抱き合っていた。なんて展開だってあり得るんですから。だから本は面白いのです」
「そんなもの?」
「そんなもの」

 その言葉は不思議と、萎え始めていた読書欲を立ち直らせていた。
 良くも悪くも私の知っている展開はあの一瞬だけ。
 その先を知ることは出来たけれど、私はそれをしなかった。そして今は彼女の過去をなぞっている。
 慌てる必要は無い。ゆっくりと物語を辿っていけばいいのだ。

 ただし、そうしようにも問題が一つある。

「ご飯食べたの、いつだっけ」

 ……お腹が、空いた。
 夕食から随分時間が経ったのか、それとも慣れない事をしているからか。とにかく小腹が空いてしょうがないのである。きょろきょろと部屋中を見回してみても食べ物らしきものは見当たらない。

「ねえ」
「いつもの所に」

 さとりは顔も上げずに即答した。何か食べ物無いの?そんな問いかけすら許してくれない。

「今日はなに?」
「確か……煎餅があったかと」

 持って来てあげましょうか。と続かないことなんて分かっている。私は重い腰を上げると廊下に出た。
 疎らな照明に照らされた廊下をしばらく歩くと、そこは台所だ。ペット達の簡単な食事もここで用意しているので結構広い。どちらかといえば調理場という表現の方が相応しいかも知れない。

「勝手知ったる何とやらっと」

戸棚を開けるとそこにはいつもお菓子や果物が置いてある。最近は知恵をつけたペット達が摘み食いするようになって困っているらしい。袋詰めになっていた煎餅の一枚を齧ってみると、パキン、と乾いた音が鳴った。よかった、まだ湿気ていない。
五枚ほどを皿に移して部屋に戻ると、さとりが自分の椅子に座り直していた。小さな身体は本の海に飲み込まれていくようにも見えた。

「まだ見られて困るような物でもあるの?」
「……別に」

 そっけない返事が答えになっていた。

「ま、いいけどね」

 持ってきた煎餅を机に置いて、椅子に座る。
 最初の一枚の味の残った口の中に次の一枚を放り込んでボリボリと音を立てた。塩辛さの中にほのかな甘さを感じる
、なかなかいい物だ。

「私の楽しみにしていたお菓子はおいしいですか?」

 後ろから声が聞こえた。嫌味か。

「すごぉく美味しい、全部、私が食べちゃおうかってくらい」

 嫌味には嫌味で答える。
 素直に言えばいいのだ「私にあ〜んってしてください」って。

「パルスィ?」

 流石にやり過ぎたか、声に怒気が篭っている。

「そんなに怒らないでよ、一枚くらいならあげるって」

 出来るだけ大きな一枚を選んで、後ろに座るさとりへ背中越しに手を伸ばした。
 さとりは受け取ろうとするが、その手を煎餅が勝手に避けた。ヒョイヒョイと。不思議だ。
 数秒そうしていると歯を噛み鳴らす音が聞こえた。そろそろ限界らしい。
 私は、はぁ、とひとつ溜息を吐いた後、静かに、ゆっくりと、

「はい、あげた」

 あげられた腕の先で、スリッパが待ち構えていた。

なぜか数ページ前の記憶がおぼろげになってしまったので、戻って読み直している。私の手の中でふたりがまた出会った。同じ場所で、同じ思いを抱いて。これも物語の中だけの特別だ。現実には同じ状況なんてありはしない。
 文章をなぞるとふたりが出会う。ページを戻せばふたりは出会っていない頃に戻る。舞台の上の人形を並び直している様で楽しいかもしれない。ほらほらまだ会わせてなんてやらないぞ〜……止めよう、むなしい。先へ進もう。





 恋愛の過程、物語の過程というものは中だるみすることが多々ある。私のように普段あまり本を読まない者にとっては余計にそう感じることが多いのかもしれない。その部分を無くす事、またはその部分すらも面白く読ませることが良い物語なのだろうが、私の手の中の安直な物語は一番簡単な方法を取っていた。

 濡れ場である。

もちろんその表現を否定するつもりは無い。男女間にそういった事は必要なものだ。それを排除してしまっては『真実の愛』とやらは完成しないだろう。
 というわけで私の手の中では二人の獣が絡み合っているのだが……どうにも落ち着かない。無意味に足を組んでみたり指でページを叩いてみたり。自然と目線が小さなベットの方へ向いてしまう。
 私も所詮は女だということなのだろうか。描写されている行為を想像してしまっていた。

「ぁ……駄目です……そんなところ」

 何故か私の読んだ文章をさとりが朗読し始めた。これも嫌味のつもりなのだろうが、いつもと変わらない、抑揚の無い声なものだからムードも何もあったものじゃない。下手くそめ。見本をみせてやる。

「嘘吐かなくて……いいんだよ」

 出来るだけ低い、男性の様な声で返してやる。その情景を思い浮かべ、感情を読み取って。
 小さなベットの上でふたつの影が重なった。大きさの違う、ふたつの影が。
 さとりは少し沈黙した後、続きを朗読し続けた。

「……いやぁ」
「身体は正直だねぇ」
「いわないでー」
「ほらぁ……こんなに」
「あん、もう、だめぇ」
「あぁ!愛してるよ……ッ!」
「ところで経験あるんですか?」
「うっさい」

 ……素に戻ってみれば馬鹿らしい。
 薄暗い部屋の中で女二人で何やってるんだか。

「というかあんた、さっきから何の本読んでんの?」

 ふと、気になった事を尋ねてみた。
 さっきから私の方にちょっかいばかり出しているのは、多分気のせいじゃない。「ワクワク☆ちびっこ動物園」を読んでるんじゃないかというほどの集中力の無さだ。
 軽く腰を上げて振り返り、さとりの読んでいる本を覗こうとしたのだが

「秘密です」

 そう言ってさとりは本を閉じた。残念ながらワクワク☆ちびっこ動物園ではなかった。
 さとりの小さな手に余る大きさのその本の表紙に、題名は無い。
 机の上に置いてあったのでお気に入りか何かではないかと推測するが、どちらにせよ、見せてくれない事には分かるはずも無い。



 さて、とさとりが立ちあがった。チャンスかと思ったが本を持ったままだった。
 なにも言わずにさとりが居なくなると、広い部屋にひとり残される。
 大人しく続きを読んでいればいいと分かってはいるのだが、何故か落ち着かない。
 地に足が着いていない、そんな感覚。靴が床を鳴らす音だけが響く。
 どうしてだろう、そんな事ばかり考えていると、さとりはすぐに戻ってきた。

「寂しかったよ〜、ですか」

 微笑むその手元からは、暖かそうな湯気があがっている。
 本の上に置かれたふたつのカップからのものだった。

「冗談」

 薄く笑ってカップを受け取ると、湯気に中てられて顔が熱くなるのを感じた。
 顔を近づけると苦々しい香りが鼻先をくすぐった。つまりは、コーヒーだ。
 独特の香りと苦味が眠気を和らげてくれる。ちょうど睡魔の気配を感じていたところだ。さとりん愛してる。
 ──ただし、

「……黒いんだけど」
「コーヒーですから」

 顔を上げると、それがなにか?とさとりが笑っていた。
 ニコニコしているさとりをじっと睨む。
 本当に、いちいち無意味な嫌がらせをしてくれる。

「黒いわよね」
「……ほんと、どうにかなりませんか」

 しばらくの沈黙。
 さとりは諦めの溜息を吐くと、懐から小瓶を取り出してくれた。中には小さな白い四角形がいくつか入っている。
 そのうちの一つを取り出してコーヒーへ落とすと、黒い液面に小さな波紋を作った後、黒いコーヒーは少し色を落とした。
 つまりは、角砂糖。苦くて飲めたものじゃない眠気覚ましを変身させる、魔法の調味料。
 私はそんな様子を眺めながら腕を組んで満足気にうんうんと頷く。我ながらなんでこんなに偉そうなんだ私。

「ふたーつ、みーっつ……よーっつ」

 不満げに呟くたびに、コーヒーと顔色は白く染まっていって、

「……いつつ」

 五つめの角砂糖を私の手の平に落とした時には、道端に転がった手袋を見るような目で私を見ていた。
 しかし、そんな顔をされても私の飲み方をさとりに理解できるとも理解してもらおうとも思わない。私が美味しければばそれでいいのだ。
 さとりはもう一つ溜息。それを尻目に砂糖を口へ。噛み砕くことはしない。ゆっくりと、焦らす様に嘗め回す。口の中に広がったねっとりとした甘さを洗い流すようにコーヒーを口へ。一気に飲み干した。味覚を共用しているわけでもないのに、さとりが表情を歪めた。

「それにしても、随分冷えてきましたね」

 自分のコーヒーで口直しをすると、さとりが言った。確かに、少し寒気を感じるかもしれない。
 小さくなってきた蝋燭が暖を取っていたのか、そもそもこの部屋が暖かいのかは分からないが、言われるまでそうは思わなかった。
 時間はわからないが、おそらく随分夜も遅い。冷え込んでくるのも仕方が無いだろう。
 厚手のマフラーを持ってきていてよかったと思う。

「……そのマフラーが妬ましい」

 今日初めての妬ましいは、さとりの口からだった。




 とりあえず、寒くはなくなった。
 眠気も吹き飛んで、再びお互いに無言の時間が流れる。
 左手に感じる重みも、少し軽くなってきていた。
 幸せも絶頂を過ぎれば、後は収束するばかりである。
 『裏切り者』。その叫びは、そんな時期での言葉だった。

 数時間前の私にとって、その言葉は憎しみの声にしか感じられなかった。
 男の裏切り。それに対する報復なのだと、そう思っていた。
 しかし、真実は違った。
 女の、ただの勘違い。
 男が他の女と楽しげに話していた。
 たったそれだけ。それ以上には何も無い。
 本当に些細なすれ違い。

 そして、二人は死んだ。
 女の無理心中だった。

「…………」

 それだけ。
 それでこの物語は終わり。
 右手に感じる重さと釣り合う事のない、あっけない幕引き。
 本を閉じた私は、しばらく呆然としていた。

「……貴女が言ったんですよ?読みやすくて、ドロッドロの恋愛もので……死ぬ。酷い話」

 さとりの声に我に返る。
 気がつけば、手の中のハードカバーを小突いていた。 
 乾いた音だけが眠気を思い出し始めた頭に響く。

「うん、間違ってはいないんだけどね……」
「なにか不満でも?」
「一言で言うなら……馬鹿」

 吐き捨てるように、素直な感想を口にする。
 なんて愚か者。
 こんな奴に一瞬でも同情した自分も馬鹿らしい。
 想いが届いて、気持ちが重なって、身体を重ねていたのに。

「馬鹿以外の何者でもないわ」

 つまずいた。それも勝手に。
 隣を歩く者に頼ることもなく。その者に責任を擦り付けて、殺した。
 聞いてみればよかったのだ。「あの女だれ?」とか「私のこと、好き?」とか。
 ただ、好きになった相手のことを信じてやればよかった。
 そうすればハッピーエンド。二人は幸せに過ごしましたとさ、めでたしめでたし。
 そんな『もしも』の世界を考えていると、怒りで息が詰まった。

 でも……

「でも、彼女は彼の気持ちを知らないから」

 そう。
 やっぱり、自分で知っていることしか信じ切れない。
 私がこんな事を考えられるのも、二人分の想いを知っているから。
 これが物語の一番の特別。
 知ることの出来ない感情も、心境も、行動も。
 その全てを知ることの出来る特別な世界。
 現実を生きる私が文句なんて言えないのだ。

 ……でも、こいつだけは違う。
 私の後ろに座るさとりだけは、ずっとこんな世界で生きている。

「あんた、最悪ね」
「急に失礼なこと言いださないでください」
「だってそうじゃない。今の私みたいに皆のこと笑ってるんでしょう?」

 『馬鹿な奴ら』って。その半開きの瞳で全てを見透かしながら。
 彼女にとって、人も妖怪も、それぞれ一冊の本でしかない。
 その気持ちを、記憶を知ろうと思えばページを開けばいい。
 そんな単純で、つまらない存在。

「まぁ、否定はしませんが……」
「いや、否定しなさいよ」

 当然のように返すさとりに椅子越しにゴッツンコ。少し鈍い音がした。
 しかし、否定してくれないと調子が狂う。自分でも結構酷い事を言ってると思うのだけれど。

「半分ですね」
「半分?」
「半分正解。ということです。私にとって他人の記憶が本だというのは、その通り」
「間違いの方は?」
「単純云々の部分です。私は本を読むのが好きですから」

 私の横にさとりの呼んでいた緑色の本が差し出された。

「たとえばこの本。随分昔から読み続けているお気に入りの一冊ですが……終わってくれません」

 困ったものです、とさとりは苦笑する。
 受け取ってみるとそんなに厚くもない。私の膝の上のものよりも薄いくらいだ。
 開いてみてくださいと言うので、その表紙を捲ると、

「……まっしろ?」

 そこには、何も書かれていなかった。
 純白の、ただの紙束が私の手の中に広がっている。

「馬鹿には読めない本ですから」
「誰がバカだこのやろう」
「ま、冗談はさておき……」

 返してください、とさとりが手を差し出してきた。
 なんだか腹が立ったので返さなかった。

「結局私は本を読むのが好きなんですよ……特にそんな『本』が」
「……やっぱり最悪じゃない」
「ええ、だから私は嫌われ者です」

 当然のように言って、さとりは笑う。
 好かれようとか、悪いことだとか、そういうことを思ってはいないのだろう。こいつはそういう奴だ。
 平気で人の心に入り込んで、食い尽くす。ある意味本の虫。狂った読書家。
 それが古明地さとりという妖怪なのかもしれない。





「……さとり様、朝ですよ。起きてください」

 コンコンと、ノックの音と死体運びの黒猫の声が聞こえた。
 いつの間にか時間的には朝になってしまっていたらしい。蝋燭の火はいつの間にか消えていた。
 私が一晩掛けて得たものは、さとりの性格の悪さの再確認だけだったようだ。
 それが有益だったのかはわからない。

「帰って大人しく寝てればよかったわ」
「今更そんなこと言わないでください。私だって付き合わされたんですから。朝食、食べていきますか?」
「もちろん」

 席を立って、私はうんと身体を伸ばした。
 
ちさと
作品情報
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投稿日時:
2011/04/01 01:45:21
更新日時:
2011/04/01 01:57:12
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