文々。新聞連載小説『藤花を手折る』

作品集: 1 投稿日時: 2011/04/01 00:52:48 更新日時: 2011/04/01 00:52:48 評価: 3/6 POINT: 3023331 Rate: 86381.60

 

分類
上白沢慧音
稗田阿求
あきゅけね
「本当にやって来るなんて……心底からご自分の寺子屋が大事なのですね」

 そう言う阿求の顔は、逆光の影に隠されたせいで、慧音にはよく見えなかった。立ち上がって窓の桟に身を預ける狡猾な阿礼乙女は、しかし、きっと笑っている。かげろうみたいに儚いだろう魂の限りを尽くして、凄絶な欲望のために行われる嘲笑だ。

 すでにして落ちた日が、ふたりのどんな表情を照らしてくれるわけもなかった。まして、書物の日焼けを避けるために窓のほとんど設けられていない稗田邸の書斎のこと。遠くに置かれた灯明の、その中に揺れる緋色、赤色は、何か照らすには未だ足りなかった。それは、怖れとは違う何かだけ爛々とたぎらせていた。地獄の燐火に身を焼かれるような焦燥で、慧音の心はざらついていた。

「本当だと、約束してくれるか」

 ぎゅッ、と、つくった拳を、正座した膝の上で何度も何度も触れ合わせた。いま、自分自身の感情を握りしめているこの両手が、もう直ぐ自分以外の誰かのものになるのだ。決して抵抗があるわけではなかった。それで寺子屋を救えるのなら、命を棄てても良いと、どんな運命もあえて受け容れると何度も自分に言い聞かせてきた。しかし、その相手が彼女だとは。友人だと思っていた稗田阿求が、自分にそんな風に思っていたとは――――。

「何をです」

 溜息ひとつ吐いて、阿求が答える。
 すでに笑みは浮かんでいなかった。否、もう棄ててしまったのかもしれない。笑うべきことではないと阿求が思ってくれているのだとしたら、それは慧音の現状を肯おうと試みるささやかなしあわせだった。稗田阿求の中に、そんなひと筋ほどの良心が残っていたら。実際は、虚しいだけの願いだとしても。

「本当に、この晩のことで、稗田の財力で寺子屋を救ってくれると」

 なるべく、落ち着き払って問うたつもりだった。
 しかし、声の響きとは裏腹に、心臓は爆弾を抱えてしまったみたいに何度も何度も脈打っていた。胸の奥だけが別の何かに取って代わられたように。ただ、弾け続けることだけを仕事とする愚直な機械になってしまったように。

「初心(うぶ)な物言い……」

 阿求は哄笑する。

「もちろん。九代目の阿礼乙女は、誠実を旨として十数年を生きて参りました」

 自らの唇の端を、彼女は舌先でぺろと舐めてみせた。何の意味も持たない、“脅し”だろう。そうは思っても、それは蛇に睨まれた蛙の気持ちを連想させるにはあまりにも十分すぎるのだ。慧音は、蛇にその身を捧げようとしていたのだった。

「誠実。その口が言うか」
「あら。どこの誰とも知れない狒々爺のものになるよりは、御阿礼の膝元にかしずく方が、よほどにましだとは思いませんか。“先生”?」

 くう――ッ!
 奥歯を軋り、激情を噛み殺す慧音。ああ、今が満月の晩だったら、半獣の姿に化身していたら。自分は激昂して、とうに阿求を突き殺していたはずだろう。然るに今晩は新月で、人間が夜闇を怖れるのが道理であるごとく、いかなる化生も月の光なきを嘆く晩。半分が人間である彼女の身体は、いつも以上に人間でしかない。

 そうだったのだと、彼女は考える。

 自分はちっぽけな、何もできない少女だったということを、慧音は思い出していた。身分や職業の貴賎を問わず、束脩の類も乞わずに何年も寺子屋を続けられたのは、ただ運が良かっただけなのだ。それが今となっては雨漏りの修繕もままならず、破れてぼろぼろになった教本も、新しいのを用立てることさえできない。金が無くとも志さえあればどうにかなると考えていた。しかし現実は何よりも非情で、そういうくだらない思い違いを叩き潰すために、世界は上手く廻っているのかもしれなかった。自分ひとりのつまらない見栄や虚栄のせい、だとは思いたくなかった。ただ清廉でいたいというだけの思いに反して、年々、寺子屋を運営する金を得るために、高利貸しの元へ足を運ぶ回数は多くなっていった。返す当てのない借金は、慧音がもともと持っていた学問への夢の大きさを凌駕する勢いで、あっという間に膨らんでいく。子供の頃から親しんだ読み本も、高名な学者が遺した畢生の書も、隔てなく売り払ったらそこそこの金になった。奢侈を避けて晴れ着も手放し、接ぎの当てた服を着るのにもどうにか慣れた。元から大して大きくもなかった家は、今は百姓が住んでいる。

 しかし、金は足りなかった。
 何をしても、どこを見ても、道は閉ざされていた。

 そうして今となっては薄汚れたちっぽけな志と、日々に身を苛む借金、それから命だけが、彼女が持っている何ものかだった。高利貸しもそれと解っているから、彼の慧音を見る目も、いつしか厭らしい熱を帯びるようになっていった。偶然を装って、その脂ぎった手が慧音の髪の毛や肩に触れることが多くなっていった。金が払えないのなら、と、その先をにやにや笑って言わない高利貸し。そんな下手な脅しに、何度も唇を噛む羽目になった。

 だから上白沢慧音の破滅は、そう遠くないものと思われた。
 稗田阿求が、食客として自分の元に居るのはどうかと申し出るまでは。
 そして、慧音自身の身体と引き替えにして、寺子屋を救うと嗤いだすまでは――。

「ねえ、先生。私、あなたが好きですよ。だから、自分のところに迎えたんです」

 先生、先生と、阿求は何度もつぶやいた。

 それが、遊んでとせがむ子供たちの顔と重なって、慧音は途端に吐き気を覚えた。頬の内側を削り取る生臭さに耐えかねて、思わず両手で口元を覆った。しかし、そんなものは幻だった。吐き出されるべき何かは始めからなく、熱を帯びた不快がはらわたを浸す毒だった。その毒を吹きつける阿求が、窓から離れて慧音の元にやって来る。彼女の書斎は、人の背を凌ぐ大きさの書棚が秩序だって配されながらも、幾つもの書物が乱雑に押し込められて、人の通るだけの隙間を圧迫していた。けれど、肩先さえ一枚の紙にも触れさせず、静かに歩いて来る阿求。彼女はこの世界の“王様”だった。ふたりぼっちの世界に立つ、ひとりぼっちの王様だったのだ。

 阿求が掻き分け、慧音が吸い込むのは、古い紙が発する甘ったるい洋菓子めいたにおい。かび臭さと夜のにおい。すでに日は落ち切っていた。湿った土の温度が部屋の中までも這い込んで、慧音はむせ返りそうだった。

「先生――――」

 と、阿求は再びつぶやいて、慧音の肩に手を触れた。

 それから、胸元にまで垂れている銀色の髪をひと房手にとって、親指で何かを探すように、何度も何度も掻き分けていた。彼女は目を伏せていた。物憂い顔をして、先生と呼んでいた。それを繰り返す彼女は、なぜだか美しいと慧音は思った。こんなときなのに、自分は阿求を嫌悪しているのに。灯明に透く肌の白さも、緋色と混じり合った藤色の髪の毛も、薄く透明な翅を炎で焼くあわれな虫の、死の輝きを思わせるには十分だった。

「先生、というのをやめろ。阿求」

 覇気もなく、しかしためらいもなく。
 慧音は、自分に触れる阿求の手を払いのけた。
 一瞬でも、相手のことを美しいと思うことは、自分の心に狂気の兆候を見つけるのと同じ怖ろしさを持っているように思われた。今や自分が自分であるためには、阿求を憎み続けるより他にはないから。

 突然の拒絶を目の当たりにして、阿求は少しだけ驚いた素振りを見せた。
 しかし、直ぐに一歩退きながら、

「では先生も、私を呼び捨てにするのをおやめになるべきですわ。ふたりのときは……そうですね、私を“御主人”とでも読んでいただきたい」

 と、言った。

「ばかなやつ。俗悪な小説にでもかぶれたか」
「何とでもどうぞ。人間の高潔はもともと俗悪を土台にしているものですから」
「屁理屈だけは一流なことで」
「ふふ。転生が八回ともなれば、色々な心得が磨かれるのです。冗談や、狡猾のすべも」

 じいと慧音の眼を覗き込んだ後。四つん這いになって、ゆっくりと阿求は這って来る。

 その両手が慧音の膝を這い、衣服越しに腹を撫でた。再び肩に触れ、頸を押しひしぐ真似を見せた。頬を手のひらが覆い、耳の裏をすうと指が食んでいった。自分よりもっとずっと小さな重みに押し倒されて、慧音はそのまま仰向けに倒れ込んだのだった。命じられてもいないのに、両脚をどうと投げ出して。それは阿諛だ。その奥にあるものを、私の肉体を弄べば良いという自棄的な阿諛。自分の志を、志だったものを満足させるために差し出す、醜い媚態だ。だから、今から、自分は阿求に抱かれるのだ。

「御主人……」

 そう呼ぶと、ぞくり、と、身体が跳ねる気がした。
 悪寒が髄の奥から染み出してきて、消える気配さえいつまでもなかった。
 くッくッと、阿求は喉の奥を鳴らしている。小さな手で慧音の身体にしがみつきながら、自分の目的が達せられたことを悦んでいる。見えない枷で自分自身の手足を縛ったらしいことを、慧音はぼんやり考えた。

「もっと、呼んで」
「御主人」
「もっと」
「御主人」
「――よく、できました。じゃあ、ご褒美に、」

 伏せていた身体を起こし、阿求はにんまりと笑んで見せる。

「私も、“慧音”と、呼んであげる」

 ゆっくり、ゆっくり、ふたりの身体は重なっていった。
 虚ろなくすぐったさを感じたまま、慧音は、自分の唇を塞ぐ息苦しさがやけにぎこちないものだと思った。唇を唇でこじ開けられる感触。震えた様子でこちらの歯を探り、その奥にあるものを召し出そうと舌を挿し入れる阿求の接吻は、疑いようもない懸命だった。

 ――私は、彼女に何を求められているというんだ。

 そんな疑問が直ぐに浮かぶほど慧音は冷静で、それでいて答えが直ぐに出てくるはずもないほどに、息苦しさが頭の中に渦巻いていた。苦しい、苦しい。純粋に冷めきった思いは、いつか熱になる逃げ道を見つけていく。何度目か、歯に触れる舌を、慧音は優しく噛もうとした。それから自分もまた、不器用に舌を差し出して、吐く息をひとつ、『御主人』に向けて捧げていった。(未完)
二時間ではここまでが限界でした。
チェリーボーイのトリコモナス
http://twitter.com/#!/kouzu
作品情報
作品集:
1
投稿日時:
2011/04/01 00:52:48
更新日時:
2011/04/01 00:52:48
評価:
3/6
POINT:
3023331
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86381.60
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POINT
0. 23331点 匿名評価 投稿数: 3
1. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 06:45:06
おい、……おい!
2. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 10:50:58
その後、文を見たものは誰もいなかった……ですねわかりま(ry
3. 1000000 奇声を発する(ry ■2011/04/01 13:46:25
おいいいい!!
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