死せる君の箱庭

作品集: 1 投稿日時: 2011/04/01 00:37:11 更新日時: 2011/04/01 00:37:11 評価: 12/26 POINT: 12108878 Rate: 89695.58

 

分類
夏コミ作品
 日陰の花の日向




「ここで過ごすのは、あまりお勧めしないわ。もう少し、風通しの良い部屋に移りなさい。空いているでしょ、紅魔館は」
 八意永琳はそのように言い、パチュリー・ノーレッジから聴診器を外し、一つ溜息を吐いた。しかし、パチュリーは頷かず、頭を横に振る。大図書館を動いてしまったら、自分の肩書が減ってしまう。知識の魔、動かない大図書館の定住場所が図書館でなくなったら、移動した大図書館になってしまうではないか。
「ああ、声も出さない方が良い。喉、痛いでしょう。強く咳き込むから」
「……それで、どうなの」
「だからね……もう。貴女は喘息だと思っていたかもしれないけど、違うわ。先天的なものね。元から肺が弱いのよ。肺が弱いって事は酸素を取り込みにくいから、血液循環にも影響が出る。心臓だって強くないみたいだし。貴女が今動いているのは、ある意味妖怪としての補正みたいなもの。人間だったらとっくに死んでるわ。医者、掛った事無いのね」
「生憎。それで、長くないのね」
「急激な悪化は前兆ね。ギリギリのラインで保っていた堤防が決壊したようなもの。長くないわ。でも、知ってたでしょ?」
 竹林の薬師はそう言い切り、医療道具の一式を鞄の中に仕舞いこむ。此方を気遣う気もないし、治療出来る術も持っていないのだろう。今更、驚く事はなかったし、何か焦る必要もない。日に日に苦しくなる胸は肉体維持の限界を唱えていた。魔族に近い立ち位置にいるというのに、喘息なんて持っているのも変な話だとは、ここ百年ずっと思っていた事だ。いざ、それが先天的な障害だったと教えられても、納得するしかない。何せ医者になどかかった事がないのだ。
「幸い、貴女には家族も友達もいる。幸せな最期を迎えられるわ。死んだ後だって何も寂しい事なんかない。ここは幻想郷だから。逆に未練を残して、亡霊になる手段だってある」
「私は、私でなくなったら、それは私ではないわ。未練たらしく生きるくらいなら、消滅した方が良い」
「そう。御大層な決意ね。たった百年二百年……いいえ、人間からしたら、十分悟れる範囲。悪く言わないわ」
「御苦労さま」
「ええ。定期健診には来るわ。お大事に、パチュリー」
「遠慮する。薬だけ置いていって。きっついの」
「そう。最期まで頑張りなさいね」
 永琳は背を向け、部屋を出て行く。パチュリーはそのままベッドに倒れ込み、布団を深くかぶって横を向いた。まるで身体が言う事をきかないもどかしさに憤りを募らせてばかりで、最近はまるで自分の生活が営めていない。本を魔法で持ち上げては途中で力尽きるし、たまに筋肉を使ってはみれど、元から無い筋肉は直ぐに分厚い本を地面に落した。
 今から一週間ほど前の事。何時ものような昼下がり。大図書館で本を読んでいたパチュリーに、何時にない発作が訪れた。普段なら少し横になれば楽になるものだったが、今回に限っては長引き、まともに酸素を取り入れない肺は過剰な運動で血まみれになり、咳き込み過ぎて喉は潰れてしまった。
 メイドの咲夜は勿論の事、親友のレミリアまでもが心配する程の『病状悪化』であったが、パチュリーは慌てる事も無く現実を受け止めていた。月面ロケットの出来事以来、あまり好かないから呼ぶなと言った自分の制止を振り切り、咲夜は早速飛んで行って八意永琳を呼ぶ始末。一度目は喘息の治療を試みたものの、大した効果は無く、二度目の診察で、つまり今回で『病気』ではないと告げられた。生まれながらにしてどうやら、肺と心臓が不完全に出来ていたらしい。肺は汚れた空気に対して過敏に反応し、酸素が取り込めない故に血流が悪く、血液を送り出す筈の心臓は動きが悪い。もし、そんな状態で人間が生まれたのなら、即刻余命一年を宣告されるに決まっている。
 パチュリーが百と数十年程生きながらえたのは、その身が全て人間から出来ている訳ではない故だろう。
(空気が良い場所なんて、紅魔館にあったかしら)
 何せここの主は吸血鬼だ。廊下に面した場所は窓もあるが、いざ部屋となると内側に作られている為、光も差し込まない作りになっている。地下の大図書館など論外も論外なのだろう。一応、天井が開くような作りになっている場所もあるが、あんな陽射しをまともに受けながら生活するなど、考えるだけでも怖気が走った。自分は吸血鬼ではないが、日陰者を売りにしているし、そもそも陽射しはあまり好きではない。
「失礼しますわ」
(どうぞ)
「あら、念話」
(喋るなと言われたから。これなら差し支え無いでしょ。呪文は唱えられないけど)
「魔法使いは便利ですのね」
 紅魔館のメイド長、十六夜咲夜はいつもと変わらぬ笑顔で部屋へ入ってくる。その手元にはお盆があり、水差しとコップ、それに白い紙袋があった。
「お話は伺いましたわ。風通しの良い部屋に移せとの事でしたから、もう早速準備致します」
(いらないわよ、そんな気持ち悪い部屋)
「そんな事仰らないでください。三階の客室は人間用に作ってありますから、風通しも良いですし、埃も溜まりません。それで少しでも病状が緩和するなら、良いに決まってます」
(病気じゃなかったのよ。先天的な欠陥。つまり私は障害者)
「あら、そうでしたの。まあ咳をするには違いありませんわ。空気が悪いからでしょう?」
(そうだけど)
「なら、問題ありません。さっさとベッドメイキングも済ませてしまいますから、御薬を飲んでください」
 咲夜はお盆を置くと、その場から直ぐかき消えてしまった。どのくらい時間を止められたか判断など出来はしないので、もしかしたらもう準備万端になっているかもしれない。
 メイドは館の居住者の世話を焼くのが仕事だが、どうも咲夜は焼きすぎる。過度なおせっかいはやめろなどと思ったが、その考えがどれだけ心無い物なのかを思い出し、自分を叱る。
 綺麗に洗濯された真っ白いシーツを、吐血で赤黒く染めたパチュリーに対して、真っ先に気遣い、努力したのは咲夜であるし、普段とは違う様子にまるで無力な子供のように慌てたのはレミリアだ。普段部屋から出てこないフランドールまで現れて心配しだし、遅れて来た美鈴は顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
 どうしてこれだけの人達に対して、自分が批難出来るだろうか。ここの人達は人間ではない故、本来なら人間らしい情なんて持ち合わせてはいない。仲間意識の薄い妖怪は、他の妖怪がどうなろうと、知った事ではない。だが、この紅い館に住まう住人達は皆、最小社会規模である『家族』の情を持ち合わせていた。パチュリーは、誰ひとりの親の顔を知らないし、ましてや自分の親の顔だって覚えていない。
 しかし、自分の心の中には、そして皆の心の中には、確実に相手を心遣う想いが存在していた。
 これほど嬉しい事はそうない。妖怪は生まれた時から、大概一人なのだから。生まれながらにして人類を超越している故に、仲間はまず少ない。そして一人で世を渡り歩く事を強要されれば、容易く負けないような努力を積み重ねなければならない。人外故に、敵は悉く多く、強大であったりもする。
 だがパチュリーは、終始平穏無事に終わりそうだった。
(小悪魔。面白そうな本を見繕って、三階に運んでおいて。それと、大図書館の守りは任せるわ)
(大変自信はありませんが、そうします。それとご主人)
(何)
(早速ですが、魔理沙嬢がいらしてます)
(三階に運んでおいて頂戴)
(了解しました)
 図書館に控えている使い魔に念話で指示を出してから、行動に移る。枕元に置かれた、何だか解らない薬をさっさと飲み下し、ゆっくりと立ちあがる。動けないからといって動かなければ、それだけ筋肉は衰える。長くないとはいえ、死ぬまでに不自由では、死ぬに死に切れないだろうという考えだ。
 傍らにある樫の杖を手に取り、体重を掛けながらゆっくりと足を進める。体調悪化を抑える為に、だいぶエネルギーを割いているので魔力生成へ体力を分配出来ない。普段空を飛びながら移動していた所為か、衰えた肉体も相まって相当に歩き難かった。傍から観たら絶望するほど惨めだろうなどと想像しながら、階段の前まで辿り着く。
 紅い絨毯を敷かれた、長く伸びる階段。いつもなら皆空を飛べる紅魔館に、何故階段があるのかと思うほどだった為、今日ほど階段が必要で、かつ恐ろしいものだと感じた日はない。手摺りに手を掛けながら、足を踏み外さないようにして一歩一歩慎重に昇って行く。杖を前に置き、手摺りを掴み、足を前に踏み出す。これで一歩だ。空を飛んでいれば、行動距離など気にも留めなかったというのに、まだ二メートルも進んでいない。見上げれば、踊り場までの距離は遠く、暗い。
 もう一歩、もう一歩と進むにつれ、段々と遠近感がずれて来る。紅魔館のパースが狂ったように思えた頃には、自分は足を滑らせていた。
(間抜けすぎる。私の猫度は二点)
 己の猫度を分析している間に、支えを失った頭部は今まさに階段の角へと向かっていた。百年の魔女は猫一匹にも満たない生命力だった事を悔やむ。魔法使いならせめて、魔法使いらしく死にたかったものだが……。
「おっと」
 が、猫度は多少盛り上がる。襟首をもたげられ、吊るされる姿は子猫だろう。
 定まらない視線を、瞬きしながら合わせ、漸くピントがあった先に居たものは、箒に乗った黒白の強盗だ。
「お前が三階に居るって言うから来たら、まだ二階にもいなかった」
「まりざ……」
「酷い声だ。咳しすぎて喉が潰れたって? 大魔法使いも形無しだぜ」
 霧雨魔理沙は捕まえた襟首から手を放すと、階段に座らせる。魔理沙が携帯用の小さな杖を振ったかと思うと、パチュリーは空に浮く。魔法使いが良く使う物体の移動方法だ。魔女は基本的に物臭なので、椅子から届かない範囲にある物体は全部魔法で浮かせて手に取る。
「……病弱なのに少し重い。胸とか尻とかか?」
(言われるほど大きくないわよ。運ぶなら運んで)
「念話ね。なるほど。じゃ、お運びするぜ」
 トンチキな人間魔法使いであるこの霧雨魔理沙が紅魔館にやって来るようになったのは、レミリアが異変を起こして以来だが、その目的と言えば大体が図書館での無断閲覧、無断持ち出し、窃盗目的であり、撃退されてしかるべき奴だ。何時もなら早速撃退するか、撃退されるかして通常運行となる筈だったが、今日に限っては不法侵入されて助かった。
 霧雨魔理沙にとりて、他人の家など自分の別荘ぐらいにしか思っていない節がある為、何度叱っても意味はなかったが、実際の所、不法侵入でもされない限り、ほぼ他人と接点を持たないパチュリーからすれば、貴重な知人と言える。もう少し窃盗癖が治れば、まともに魔法談義でも付き合ってやらない事はなかったのだが、希望は所詮希望である。常に彼女は彼女然としている。
「おう、咲夜。階段の途中でもやしを拾ったんだが、今日はもやし炒めか?」
(不覚にも命を助けられたから、お茶ぐらい出してあげて)
「まあ。魔理沙の無法な行いが人を救う事もあるのね。罪の三つ四つぐらいは許されたでしょう」
「それぐらいで禊げるなら、私はとっくに天人だ。まあ、紅茶に砂糖を少し多めに入れてくれればいい」
「おこちゃまな舌だこと。あ、お嬢様もそうだったわ」
(咲夜、魔理沙といちゃつくのもいいけど、私を寝かしつけてくれるとありがたいのだけれど)
「失礼しましたわ。じゃあまた後でいちゃつきますわね」
(そうして頂戴)
 咲夜に御姫様だっこをされた挙句、耳元で囁くようにして謎の優しい言葉を掛けられ、ベッドに寝かしつけられる。要らないギミックは極力排して貰いたいものだったが、変人のする事なので一々突っ込まない。
 咲夜はこの不法侵入者を変に気に入っている。一体どこに接点があるか、とんと見当たらないのだが、外の話をする咲夜は良く魔理沙の名前を出す。人間で異能力者同士、という狭い範疇で、しかも変人巫女よりも取っ付き易いキャラクターだから……であろうか。実際の所はパチュリーも知らない。
(アンタら、仲良いわよね)
「咲夜に迫られて参ってるんだ。パチュリー、なんとかならんものか」
(咲夜は子供が好きなのよ。ご主人さまも見た目子供だし、人間の子供にも優しいわ。大人には厳しいけど)
「パチュリー様、それでは私がまるで児童性愛者みたいじゃありませんの」
「パチュリー。レディーに子供とはあんまりじゃないか?」
(二人とも、どのあたりを否定して貰いたいの? 私からすれば、どっちも子供)
 自分よりも大人っぽい咲夜も、自分と同等程度に見える魔理沙も、年齢で見れば双方とも九十歳以上離れている。魔法使いと分類される輩の中ではまた自分も子供だが、少なくとも小娘よりは知識も含蓄もあると自負する。今は猫以下だが。
「突然ですけど御茶をお持ちしました」
(毎日思うけど、相変わらず理不尽よね、その能力)
「話していたと思ったら、眼の前に紅茶があった。何を言っているか大体解ると思う」
「このぐらいしませんと、紅魔館は回りませんわ。では、私はお掃除に。お二人とも、ごゆっくり」
 話の途中で、まるで小説のような立場、状況の変容を見せる咲夜に突っ込んでいたらきりがない。時間掌握者の意識的時間と、直進する時間を直進するまま歩む自分達ではまるで体内時計が違うに決まっていた。
 パチュリーは溜息を吐いてから、窓ガラスの外を望む。
 そうか、今日はまだ昼だったのだと気がついた。開け放たれた窓からは秋口の涼しい風が吹き込み、白いカーテンを揺らしている。淡く差し込む光は、日向の苦手な魔女にも心地よく思えた。少し遠くに目をやれば、紅魔館の前になみなみと水量を湛えた湖が綺麗に光っている。それを囲む緑もまた、やけに静かで、落ち着いていた。
「血を吐いたって? 喘息が悪化したのか?」
 魔理沙も同じ方向を見たまま、事も無げに言う。彼女がどのような心にあるのかはさておき、興味はある様子だ。伝えられた診断結果を教えると、魔理沙は、そうかとだけ呟く。
(よかった。死ぬと解っていても、儚くは死にたくなかったから、部屋の窓から落ちかけの木の葉なんて見えなくて)
「落葉か? ここは三階だからな。そりゃあ、無い。なんだ、サナトリウム文学を気取る気か。似合いすぎるからやめな」
(死に愛された人は、殊更繊細で、美しく出来ていると聞くわ。私は殊更繊細だけど、大して美しくは無い)
「自虐なら聞きたくないぜ」
(そう言わないでよ。死に際くらい、気遣ってくれても良いじゃない)
「儚く死にたくないんだろう」
 風が頬を撫でる。紅魔館に訪れてから約百数年。その間の殆どを薄暗い図書館で過ごしていたパチュリーにとりて、このような部屋は気分を変えるし、感情を左右する。結局、生きとし生けるもの全ては、あの憎たらしい、燦々と輝く太陽の恩恵を受けているのだなと、実感させられる。悔しいが、否定しようは無かった。
「ただまあ」
 魔理沙が椅子を引き、背をもたれる。脚を組み、腕をついてパチュリーをジッと見据えた。
「遺言くらいは聞いてやるぜ」
 そういって彼女は微笑む。嫌味の無い、屈託の無い笑顔だ。
 今更、親友のレミリアに何かを語る必要がなければ、メイドに強く申しつけて置く事もない。死の際に語るべき事があるとするならば、むしろこの数少ない知人に向けての言葉だろう。図書館の主が亡くなれば、あそこは死蔵された本の墓場と成り果てる。自分の残して来た歴史、知識、その他諸々を放置したまま逝くのは、無責任極まる。レミリアは親友でも、あの本を生かしてはくれない。咲夜は綺麗に掃除するだろうが、それだけだ。
 本は読まれてこそその存在価値が生まれる。本は読み古されてからこそ、趣がある。本に生き、本に死ぬ自分にとってこれから必要なものは、大図書館の正しい維持方法だ。
(大図書館の本だけれど)
「ああ。なんだ、一部譲ってくれるのか?」
(大図書館をあげるわ。主が居なくなってしまっては、存在価値を失うのと同じ事。本は本を読む人の傍にあるべきよ)
 この言葉に対して、魔理沙は相当意外だったのか、目を丸くしている。正気か、と口にせんばかりの表情だ。
 パチュリーの言葉は大図書館の維持だけを示したものではない。ありったけの知識を、丸ごと他人に譲る。それはつまり魔女でいう所の、弟子への引き継ぎに他ならない。
「私は、お前の弟子になった覚えはないぜ?」
(人文、医学、科学、社会、実用、多種多様の雑多な雑誌に、夥しい文庫本セット。魔術書はそれらを合わせた約二倍。漫画本もあるわよ。人間の短い命の間では読み切れない本が、貴女のものになる。是非とも、住み込みで読んでもらいたいものね)
「……継承の儀式もいらんと?」
(弟子じゃないもの。ただ、私はあの膨大な書籍群を無駄にしたくないの。貴女は本が好きでしょう、だったらあの本を使ってあげて。大図書館は私なのよ。もし、私の生きた証があるとすれば、あの図書館にしかない)
「おいおい、重たいな。私みたいな適当な人間が、お前の希望する通りにあの図書館を利用するとでも思うか?」
(本を読んでいる時の貴女、本を選んでいる時の貴女。とても乙女らしい、希望に満ちた表情でいるわ。本好きにしか出来ない顔)
 その様に言われた魔理沙が唇を噛み、帽子を眼深に被る。恥ずかしかったのだろう。パチュリーは、魔理沙が如何に本を愛し本を求めているか知っている。本を眼にした時ばかりは、魔理沙の表情はまるで花が咲いたようになるのだ。荒っぽく、洗練されておらず、力にばかり拘る魔法を使う魔理沙だが、その実どんな人間よりも純粋で透明な心を持っていた。荒事に走り、自分勝手な振る舞いをするのは『霧雨魔理沙』というキャラクターを保つ為のものにすぎない。
 幻想郷は皆色が濃い。まして、あの巫女の隣にいるとなれば、自分を保つのに苦労する筈だ。
 ……。
 これは、散々本を奪われた事に対する復讐でもあるし、話し相手を奪い続けた博麗に対する攻撃でもある。
(直ぐ答えを出せとは言わないわ。嫌なら、別に閲覧権限だけあげても良い)
「それじゃあ、大してかわらないじゃないか、権利譲渡と」
(違うわよ。主であるか、ないかは相当の違いだわ)
「お前、やっぱり私を跡継ぎにしようとしてるだろ」
 口元を隠し、魔理沙を見る。その目は少しだけ釣り上がっていたが、本気で怒っている様子はない。魔理沙がどの辺りにメリットを見出しているかはさておき、完全否定されないのならば好都合だ。
(生憎と、子供も作らなかったわ。他に引き継がせる奴といえばアリスだけど、あれは魔界でやる事があるだろうし。そうなると、貴女しかいなくなっちゃうもの。どう、人間。百年の智恵、まるごとそっくり受け取るつもりはない?)
「私が魔女になる事前提で話すんだな、お前」
(私が知らないとでも? この前持って行った本、捨食の法を効率化する本だったわね)
 魔理沙が人間の身を積極的に捨てようとしている事ぐらいお見通しだった。今更肉親の下に帰るつもりも更々ないのだろう。もし、本当に魔法使いになりたいのなら、魔法の森での修行も確かに身になるだろうが、魔素を効率的に循環させる機構を備え、尚且つ膨大な知識が埋まる大図書館で集中的に訓練すれば、ものの見事に大成する筈である。
「……けほっ……げほっ……ぐっ……ぎゅ――げほっ」
「おい。横になれ」
「ふ、うっ……えほっ……けほっ……」
 念話とはいえ、負担が掛るほど喋ってしまったのだろう。急激に肺が縮まるような圧迫感に苛まれたパチュリーは、胸を強く抑えて咳き込む。喉の痛みは耐えがたく、まるで溺れたように呼吸が出来ず、幾ら空気を吸ってもまともに通って行かない。段々と脳に行く血流が減り、視界が真っ白になる。
 自分ではどうする事も出来ず、近くにあるものに強くすがる。少しだけ温かく細いそれは魔理沙の腕だ。きっと、彼女はこれほどの苦しみは知らないだろう。きっと、これからも知らずに居るのだろう。ならば、是非そうあってほしい。
 子を作らない魔女にとって、後継者の創出は他の手段に頼るしかない。つまり、子を攫うか、誰かに託すか。子を攫う手段は幾らか考えたが、まるで思い入れの無い子供を育てる気にもならず、しかも里の人間を襲えば八雲が五月蠅い。では、自分と系統は違えど、魔法使いを夢見る娘にくれてやった方が何倍も良い。強い発作に襲われたその日に、パチュリーはそのように考えた。
 魔理沙が早く来てくれないかと、早く来ないと伝える前に死んでしまうのではないかと、気が気ではなかった。荒っぽく振る舞うコイツでも、自分より馬鹿なコイツでも、自分の愛した本を愛してくれる人だ。
(魔理沙……、もうひとつ、あるの)
「……心でも喋るな。消耗するから」
(次が無いかもしれない……だから)
「くそ……なんだよ」
(私は――小さい世界が好き。こぢんまりしていて……それでいて自由で、ずっと、幸せであれる幻想)
「――おい?」
(……小悪魔に聴いて。私、疲れたから)
 そういうと、パチュリーはピタリと動きを止めた。魔理沙の頬を冷や汗が伝う。即座に脈をとり、瞳孔を確認し……魔理沙は盛大に溜息をついた。まだ生きている。脈拍が微弱なのは何時もの事だ。
「咲夜」
「いるわ。何?」
「――疲れて眠った。私は用事があるから、帰るぜ」
「いちゃついていかないの?」
「正気かお前?」
「……辛いのよ。お嬢様も真っ暗だし。明るく喋れそうな奴といえば、アンタぐらいだもん」
「また今度な。今日は、考える事がありすぎる」
「そう。残念」
 本当に残念そうな顔をした咲夜が、小さく俯く。彼女はいつも冗談が本気だ。いつもレミリアの御蔭で騒がしい紅魔館が、まるでお通夜状態である故に、異能力者といえども単なる人間でしかない咲夜にとって、相当の心労なのだろう。ここ数日はずっと看病に当たっていたのだ。
 魔理沙は後ろ髪を引かれる思いで、部屋を後にする。パチュリーが心配であったし、何かと良くしてくれる咲夜が陰鬱なのも気がかりだ。魔理沙は紅魔館において侵入者でしかないというのに、どうもこの館の連中は、一度受け入れた奴等を家族のように扱う節がある。レミリアは傲慢だが気前が良く、パチュリーは暗いがお喋りで、咲夜は完全瀟洒の癖に御茶目で、門番は門番らしくなく、あまつさえ気軽に挨拶までする始末。妹君は魔理沙を見つけたら即座に笑顔で襲いかかってくる。
 変な館だ。変な館だと呟きながら、魔理沙は玄関から外へは出ず、窓から飛び出し、箒に乗って空へと舞い上がった。




 日向の花の日陰




 持っていかないで。そのような声がした。
 深まる紅い霧に阻まれ、日光が現れなくなってしまった幻想郷。スペルカードルール制定後に初めて起きた大規模な異変に、霧雨魔理沙は胸を高鳴らせた。霊夢を相手に何度も練習した弾幕を披露できる機会。自分の実力を、強大な力を持つ妖怪相手に試し得る機会。一介の人間でしかない霧雨魔理沙にとって、それは夢にまで見た日だった。
 重い腰の巫女の尻をひっ叩き、異変解決へと向かわせる。当然、自分は異変の解決など眼中にはない。人里の人間が苦しもうと、里を捨てて生きる自分には大して関心の無い事だ。当然、建前としてはそれを利用する。自分を奮い立たせる為には利用する。だから心にもない事を言うのだ。
 このままでは人間が妖怪に食いつくされてしまう。
だから、お前を倒すのだ、と。
 門番をなぎ倒し、自分の力に自信を得た魔理沙は、異変を起こしているだろう主が住む紅魔館へと足を踏み入れた。紅い、どこまでも紅い館はどんな構造になっているのか、いつの間にか自覚せぬままに、とんでもなく大きな図書館へとその箒を駆っていた。
 魔理沙を圧倒したものは膨大な書籍。数十万冊にも及ぶであろう。手作りのハードカバー本に、雑多な紐閉じ。近代的なオフセット。厚い本から薄い本から面白そうなものからつまらなそうなものまで収めた本棚が、そこには山のように、大木のように屹立としている。これだけの本、人間の一生ではまず読み終えられないであろう。
 これを読むとなれば、人間の命を捨て、そして魔女になり、幻想郷が滅ぶその日まで文字とにらめっこし続けてやっと読み終えるだけの分量だ。だからまず、今はここに有る本を何でも良い、一冊でも二冊でも、拝借して試し読みを、と。
 持って行かないで。そう聴こえたのは、魔道書を漁っている最中であった。声の響く方へと箒に乗って進めば、そこにはどうやら、この図書館の羨ましい主らしき者の姿がある。
 まるで太陽に当たっていないであろう、真っ白い顔。動きはどこかおぼつかず緩慢で、しかし女が放つ気配は、自分の知る魔法使いの中で随一であった。
 大魔法使い。その言葉が当てはまる人物。膨大な知識と、魔力を蓄えた魔道の化身。
そうかお前が羨ましい奴かと、魔理沙は笑った。
「えぇーと、眼の前の黒いのを消極的にやっつけるには……」
 紫色のそいつは、それだけの力がありながら、どうも本に偏り過ぎる癖があるようだった。ヒシヒシと感じる魔力の対流を浴びながら、霧雨魔理沙はただ前を向き続ける。一体、どんな魔法を繰り出すのか。自分とは違うタイプなのか、どれほどの威力なのか。属性は、自分の魔法との相性は。
 漸く本気で、自分の魔法を試せる相手が現れたのだから、その胸の内といえば、興奮で埋め尽くされている。
「――なんてこった!」
 いざ対峙すれば、彼女の使う魔法は全て知り得る属性で、真新しいものはない。月火水木金土日。変形ではあるが、紛れもない精霊魔法使い。大変一般的だったが、しかし、それがおかしかった。大概の魔法使いは、数種類の属性に依存するのに対して、この紫色は全種類を繰り出せる。それどころか、どの魔法も第一級レベル。つまり魔女が一属性を一生かかって完成させる程度の魔法を、七種。更に、相乗どころか相克する属性までをも重ね合わせた独自魔法まで駆使する。
 怪物。天才。異形。さらに言えば、変態だ。
 こんな大魔法使いが裸足で逃げ出すようなレベルの超魔法使いが、何故、こんなところに引きこもっているのか。
 何故、自分がこんなものに勝てるだろうか?
 殺されるのではないだろうか。自分は、あのアグニシャインの炎を浴びて、骨から溶かされるのではないか。
 避けるだけが精一杯で、自分が研究を重ねて編み出したスペルなど、試している暇はない。一歩間違えば丸焦げか、溺死か、ショック死か、圧死か。どれが一番楽に死ねるかと考えていた所で、突如攻撃が止む。
「……魔法が……得意みたいなだ、お前……感心するぜ」
「むきゅ……調子悪くて、長い呪文となえられないの……」
 パチュリー・ノーレッジ。
 強大な力の代償は……その、身体の虚弱さだった。
 そんな出会い以来、魔理沙は足しげく大図書館へと通っていた。パチュリーは魔理沙が来る度、付き合う必要の無い弾幕ごっこに無心した。本の盗難を避ける為、侵入者撃退の為、理由はあっただろうが、本心はそこに無いだろうと、魔理沙は薄々と気が付いていた。その身が健全なれば、幻想郷最強の魔法使いと言っても過言ではないパチュリーは何度となく、様々な技を駆使して退治に掛ったが、魔法を受けた魔理沙はその都度学んで行く。
 力は微力かもしれない。まだまだ人間らしさも抜けないかもしれない。だが、模倣が師である事は、何かを成そうとした者にとって誰も否定しないであろう真実であったし、模倣する事によって、微力な力しかもたぬ者は新しい形を得て、形の中の内容物を埋めようと苦心する事になる。
 当然、魔理沙もパチュリーも、これが講義であるなどとは口にはしなかった。そんな事を口にすれば、自然の成り行きによって生まれた得難い関係を崩壊せしめるはめになる。
日陰に生まれ日陰に育った魔法使いと、日向に生まれ日向を愛した少女の奇妙な師弟関係は、悉く微妙な一線で保たれていた。だというのに。
この後に及んでお前を弟子にしたかったなどと告白されても、どんな顔をすれば良いのか解らなかった。大図書館を引き受ける事で得る恩恵だけを考えれば、決して悪い話ではない。むしろ都合が良すぎて仰天してしまう。パチュリーが長年掻き集め、書き貯め続けた大図書館の蔵書量は数えるだけでも数か月掛るだろう。自分の知りたい事の殆どが、あの図書館に埋まっている。直ぐに活用出来るかといえば当然無理だろうが、人間を止めて長い時間をかければ、無理でもないだろう。宗教や魔術に始まり肉じゃがの作り方からダイエット方法まで、あの図書館にはあらゆる知識が詰まっている。
 大図書館の主ともなれば、当然侍女もついてくるだろう。小悪魔を再契約すれば司書に困る必要もない。パチュリーが使っていた、高価な文房具も一式手に入る。その他、魔法道具、儀式用の装飾品、エトセトラ。
 まさに夢のような世界が、そこには有る筈だ。
 だが、いざ大図書館を引き受けるとなれば、障害が増える。自由気ままに空を飛びまわっている事に幸せを感じている自分の行動は制限されるだろうし、パチュリーは悪魔の妹の抑止力でもあったし、レミリアのワガママをきかねばならない。
 そしてもっと根本的な問題がある。
「――パチェが、お前にここを継承すると言っていた」
「悩んでる所だぜ」
「私は絶対に認めないぞ、霧雨魔理沙。ここは大図書館である以前に、紅魔館の一部だ。紅魔館は端から端に至るまで、全て私のものだ。当然パチェも、咲夜も、フランも、美鈴も、小悪魔も、メイド達も、全て私のものだ」
「お前の所有物にされるのは、多少いけ好かんがなあ」
「お前なんていらないんだよ。クソの役にも立たない」
 紅魔館の御屋形様が問題だった。彼女が言う通り、紅魔館の所有権は当然主にある。親友の知人、という関係だけで、この広大なスペースを借用させて貰えるとはとても思えない。自分とレミリアの友好度は、一般人以上、友達以下程度。今日は腹の虫が暴れているのか、異様なまでに瞳が紅く、鋭い。
 それも当然か、と唇を噛む。今まさに親友は死に掛けているのに、どうでも良い他人様にかまけて、レミリア自身はほったらかしにされているからだろう。もしくは、どうしようもない状態に憤りを感じ、やり場を求めているのかもしれない。魔理沙は心中こそ察してやるが、付き合う気は無かった。
「それにしても、凄い所だな。こんな所があるなんて知らなかったぜ。探索しておくんだった」
 大図書館最奥。魔術研究に使っているエリアだろう。先日パチュリーが残した言葉を頼り、小悪魔へと案内を頼んだところ、一番奥へ行けと言われた。ただそこで、今は止めた方が良いと止められたのは、こういう事だったのだろう。
 図書館の建築上のデッドスペースを利用しているのか、大して広くはないが、意識しなければ辿り着けない結界が張られているらしく、ここがそれなりに重要視された場所である事が伺える。結界を抜けてすぐ目に入ったものは分厚い魔道書の山と、何の実験に使うかトンと見当もつかない器具達。中央に据えられた実験机には、今はレミリアが腰掛けている。
 パチュリーが口にしていたのは、恐らくレミリアの背中に見え隠れてしている、箱庭だろう。
「で、それが、パチュリーが夢見た小さな世界か」
「お前には、何一つ関係の無い事だよ」
「そうは言うがな。お前の親友が私に預けたいって言ってるんだ。その意図まで無視する気か?」
 レミリアがふむ、と唸る。レミリアは吸血鬼らしい傲慢さを携えているが、馬鹿ではない。そして紅魔館のメンツそのものである彼女が、仲間が約束した事を勝手に反故も出来ない。論理的であるし、義理堅くもあるのだ。多少、情緒が不安定になっている面については、当然目を瞑る。藪を突いて出て来るのは鬼だけだ。
「これはパチェが、確か前に作った箱庭の、改良版だろう」
 レミリアが机からどけ、顎で魔理沙を指図する。箱庭を覗きこむと、そこにはかなり詳細な幻想郷が立体再現されていた。庭というよりも、箱幻想郷である。手元にある水晶とスイッチで鳥瞰の倍率を操作出来るらしく、地上に近接するよう調節し、そして、驚愕とした。
「……作るの、へたじゃなかったのか、アイツ」
「天才よりも下手ってだけだろう。お前は月ロケットを見て何も思わなかったのか?」
 月面ロケットは、見た目こそ常人の感性を逸脱していたが、実際に月まで航行可能な力を秘めていた。難点といえば着陸に不備がある点だが、中に乗る奴等がまともでない事を考えれば、あんな着陸も想定の範囲内だったのかもしれない。レミリアの注文通り、月にはついたのだから。
「信じられない。なんだ、こりゃ。おい、これは……空から幻想郷を幻視してる訳じゃない……のか?」
「違う。ここをみろ。ほら、お前がいた。お前は今ここに居る。パチェが知っている奴は、みんなね」
 箱庭幻想郷は、ただの模型ではない。その中には、列記とした『生活』が存在した。パチュリーが知っているである人物たちが、この箱庭の中で動き、飛び、走り回り、飯を食い、酒を呑み、笑い、歌い、悲しんでいる。試しに倍率を上げ、博麗神社を覗き見る。まるで空から主たる博麗霊夢の生活を覗き見ているかのような錯覚に陥るほど、どこまでも精巧な作りになっていた。多少、パチュリーのバイアスが掛っている為に突拍子もない行動に出る者もいるが、この中には正しく幻想郷が存在していたのだ。
「この中には時間があり、人間と妖怪もいる。幻想郷の中に、もうひとつ幻想郷がある。怖いだろう。お前が生活しているこの世界も、もしかすればパチェが作った世界かもしれない」
 確かに、うすら寒い話ではある。自分が人工知能を与えられた単なる人形にすぎず、それは全て監視され、娯楽の道具として弄ばれているのだとすれば、どれほどの思考的恐怖に陥るか解らない。だが、魔理沙はそんな禅問答に真っ向から付き合う気はなかった。これはこれ。自分は自分である。幸か不幸か、霧雨魔理沙にとって一番は自分だ。
「大図書館とコレ。悪くないぜ」
「だからやらん。ここも、これも。お前の話は聞いてやるが、くれてやるつもりはない」
「パチュリーは、悔しいが私なんかよりもずっと卓越した魔法使いだ。身体に欠陥さえなきゃ、お前より強いだろうさ」
「そうだな」
「有り余る魔力を用いて作ったのがこれ。常軌を逸脱してる。規模こそ小さいが、やっている事は八雲と大差ない。奴は好かんが、怪物である事は認める。そしてパチュリーもだ」
「ああ。だからなんだ?」
「……パチュリーは何者だ? お前、何処で拾った、あの化け物。何故飼殺してる?」
「自分から住みついたんだよ。そして気があった。だから、百年も一緒に居た。そして、これからだって一緒にいる筈だった。なのに、なあ魔理沙。いいえ、ねえ魔理沙。どうしてこうなるの。彼女は魔女でしょう? どうして死ぬのよ」
 レミリアは俯き、その手を胸元に携える。いつものポーズだが、覇気はない。やはり、自分ではどうにもならない現実に気を病んでいるのだろう。魔理沙は答えを持ってはいないが、推測なら可能だ。更なるヒントがあるのなら、答えに近い答えを出してやれるだろう。
「あいつは精霊に愛されてる感がある。人間が魔法使いに、種族魔法使いが魔法使いに、魔界人が魔法使いになったぐらいじゃ、到底辿り着けない領域だぜ。世の要素のほぼすべてを自由自在に操れる。どれだけ凄い事なのか、解るか?」
「解らないわよ。私は脳がないんだから」
「私が千年かかろうと、絶対辿り着けない場所なんだよ。精霊って奴等は気まぐれだし、とんと言う事をきかない。火力調整はし難いし、扱い辛いったらありゃしない。それをあれだけの密度、あれだけの自由度で使える。あいつが、そうだな。上位精霊か、それに準じる何かでなきゃ、無理だぜ」
「……パチェは、人と精霊のあいのこよ。魔術に傾倒したイギリス貴族と、精霊の。忌子として、幽閉されていたらしいわ。戦火の混乱に紛れて抜け出して、彷徨いに彷徨い、上海に移した私の家まで辿り着いた」
「ルーマニアの貴族気取ってたとばかり思ってたぜ、お前」
「……色々あるのよ。美鈴もその時に。段々と世界情勢も不安定になって来た頃だったわ。そこでパチェが提案したの。本で読んだ楽園に行きましょうって。東方の地には、蓬莱の国があると。今の私達があるのは、パチェの御蔭なのよ」
 人間と精霊のあいのことなれば、答えは見えて来る。
魔術かぶれのイギリス貴族が他種との交わる儀式を行った結果に生まれたのがパチュリーだろう。精霊を屈服させるだけの魔力を持ちえた人間と精霊の子供となれば、精霊の性格やクセを見抜き、操作なども、容易くは無いだろうが可能な領域にあったのだろう。後は長い時間を掛けて熟練させて行き、今に至った。
 だが……そもそも、他種との交わりは時折想像を絶するものを生み出す。それは神話に語られる怪物であったり、英雄であったり、奇形であったりだ。パチュリーの場合、能力には恵まれたのだろうが、身体的に恵まれなかった。それでも百年以上生きたのだから、これはむしろ大往生と言っても、嘘ではないだろう。
「魔女は、元から身体が強くないからな。生きた方だろう」
「それで納得できるなら、私はこんなに悩まないわ。魔理沙、何か方法はないの?」
「まあ、無理だな。あれは、魔女の矜持がある。あいつはあいつにしかならん」
 魔女の矜持、というよりもパチュリー・ノーレッジとしての矜持だろうか。自分は自分が把握する生物であるからこそ自分なのであり、認められないそれ以外になるくらいならば生きていない方がマシと考えている節がある。
「パチェがどう思うかなんて……」
「無理やり眷属にでもする気か? 確かに、吸血鬼の因子を埋め込んじまえば、もう身体の弱さなんて気にすることも無くなるだろうし、お前が死なない限り生き続けるだろうさ。けど、お前はそれを友人に強要するのか?」
「あのね人間」
「ああ、解ってる。お前がそんなの知ってるって事ぐらい、解ってるさ。でも止めなきゃ、情緒不安定なお前が勢い余ってやっちまうかもしれない。だからあえて口にしただけだぜ」
「ふん。浅い年月しか積み重ねていないお前に言われるなんて。ようは、説得出来ればいいのよ」
「相手の同意がありゃ、蹂躙にゃならんわね。好きにしな」
「……魔理沙、お前は、パチェが死んでもいいの?」
 具体的に言われると、首を捻らずにはいられない問題である。自分とパチュリーは確かに知人程度ではあるだろうが、身体を張ってまで命を救ってやりたいかと言われれば、難しい。確かに、遠回しにでも自分に師事してくれる者が消えてしまうのは、心に小さくとも闇を落とすだろう。ただ、レミリア程真剣になれるわけがなかった。所詮自分は他人だ。
「解るだろう? 私とアイツの付き合いなんて、お前等からしたら数瞬の間だ」
「解るでしょう? その数瞬の間にでも、意志ある者は永遠を見いだせる事」
「何が言いたい、レミリア」
「どうでも良い奴に、パチェの分身たる大図書館を預けたりしないって言ってるのよ」
 レミリアは背を向けて去って行く。結界から出てレミリアが見えなくなった所で、魔理沙は大きな溜息を吐いた。
 解ってる。どうでも良い奴に、大切なものを預けたりしない。少なくとも、パチュリーという大魔法使いに何かしらの想いを抱かれている。親近感はない。恋愛感情もないだろう。もっと淡白で、けれども断ち難い想い。魔法使いの書物を預けるなら魔法使い、という一見論理的な思考だが、それだけで渡せるものでもない。
それに、これ。
 この箱庭幻想郷をどうしても預けたがっている様子だった。
 見れば見るほど、弄れば弄る程精巧に出来ている事が解る。今もまさに、この箱庭に入れられた人形達は、各個人の生活を送っていた。装置を動かし、紅魔館を鳥瞰する。近接すると今度は紅魔館内部が写されるようになる。スイッチで対応した部屋の中を覗ける仕組みになっているようだ。
 咲夜は現実と変わりなく、掃除に勤しんでいる。レミリアはまだ就寝中、妹君も同じだ。門番はうつつを抜かしている。これを作った本人はどうなっているのかと、大図書館に対応するスイッチを押すと『クローズ』と表示される。どうやら、自分を思考的恐怖から守るように、作者本人の生活は覗けないようになっているのだろう。確かに、自分とほぼ変わりない生活を送る人形の生活を覗き続けては、幻と現の境界線が曖昧になりそうだった。試しに霧雨魔理沙人形の生活を覗き見れば良く分かる。自分に強い説得力を持っていても、強い自我を持っていても、自分を客観視し続ける事は精神の乖離に繋がる。自己嫌悪で死にたくなるのだ。
 箱庭から目を離し、近くの椅子に深く腰掛ける。
「お前に紅魔館は渡さない……か」
 不謹慎だが、盗るなと言われると盗りたくなる。相手の嫌がる事をして構って貰いたいのだ。単なる人間霧雨魔理沙が、人間外になろうと努力するのも、人の嫌がる事をするのも、結局はそこに行き着く。こんな小さな世界なら、自分は注目される存在になれるのではないか。常に注視される博麗の隣に居れば、それだけ観て貰える機会が増えるのではないか。
 下心が、必ず何処かにはあった。当然だが、博麗は友人だと思っている。博麗自身がどう思っているかは定かでないにしろ、彼女の身に何かあるなら、パチュリーの危機よりも余程慌てるだろうし、もし死んだとしたなら辛いだろう。自分は不誠実な人間だったかもしれないが、人並みの感情もある。
 月を追い出された後、いつまでも帰ってこない霊夢を心配して、拝殿の前でずっと佇んでいた事があった。最初こそ何となくこうしているのだと自分を納得させていたが、三日、四日と過ぎる内にどうしようもない不安に駆られ始めた。
本当に失いたくないものの喪失感は、時間が経たねば認識出来ない。漸く帰って来た霊夢を見て、泣いていたのがバレない様にと必死だったのを、良く覚えている。たぶん、霊夢は気が付いていただろう。
 では、パチュリーはどうか。
 もし、本当にパチュリーが死んだ場合、自分もまた数日、数週間経った後、悲しみに見舞われるだろうか?
 欲しいモノを手に入れて、知り合って短い奴の為に?
 答えを、自分は持っていない。
「魔理沙、ここにいたの」
 思考の合間に澄んだ声が割って入る。結界を通り、銀髪のメイドが現れた。十六夜咲夜はいつもと変わらない、魔理沙に向ける優しい表情でいる。その心には様々に思う所があるだろうが、メイド長の彼女が暗い顔をしていれば、それだけ紅魔館が暗くなるからだろう。もしかすれば、単なる天然かも知れないが。
「見つけるのに苦労したわ。ここ、意識し難いし」
「そういう場所だからな。それで、何で私を探してたんだ?」
「この前はいちゃつき忘れたので」
「あのなあ」
「聞いた。パチュリー様はここを貴女に預けるんですって?」
「レミリアには思い切り否定されたがな。お前はどうだ?」
「ここの掃除は大変だし、管理者不在だと腐るばかりだから、代わりに貴女が居ても不都合はないわ」
「ご主人さまの意図は無視か?」
「私個人に聞いたのではないの? 毎日貴女の顔が見られるなら、むしろ良い方だと思うけど」
「わからんね。本当に。お前らはさ。私の何が面白い?」
 わからない? と咲夜は笑う。いつもの優しそうな笑みではない。どちらかといえば、吸血鬼が玩具を見つけたような、サディスティックな雰囲気がある。そんな表情を見て、魔理沙は少し仰け反る。咲夜は数歩足を進めると、仰け反った魔理沙を、腰に手をあてて、上から見下ろす。忘れていたが、ここは悪魔の館だ。そして一番悪魔的なのは、レミリアよりもむしろ、コイツ。人間だと言われてはいるが、実際どうか怪しい、人間にしては力を持ちすぎたコイツだ。
「矮小な虚栄心。矮小な自己顕示。矮小な自己正当化。自分しか愛してない感じ」
「嫌われる要素満載だ。自覚はあるぜ。そうすれば、嫌でもお前らは私に目を向けるだろう。紅魔館は私を構ってくれる」
「程度の違いこそあれど、傲慢な吸血鬼的よね。私、そういうワガママみてると、放っておけなくて」
「見た目サドなのに、中身はマゾなのか?」
「そうでもなきゃ、こんな館でお仕事してないわ。手間のかかる人が増えたら、私は嬉しいもの。魔理沙」
「……寂しい奴だなお前も」
 ピクリと、咲夜の眉が動く。結局、コレも自分と同じ。いや、結局、人間なんてものは総じて同じなのかもしれない。大小の差はあるが、他人に見て貰いたいからこそ、何かをする。自己を満足させる為に何かをする。そうして他人の世話を焼けば、嫌でも他人は自分を見てくれる。それが強くなれば、皆はもっと頼ってくれる。その分心労も増えるだろうが、咲夜に関してはむしろ、それが悦びなのかもしれない。レミリアの無茶振りを否定した試しもないだろう。
 手間のかかるヒトが好き。つまり、その想いが強ければ強いほど、自分が好きなのだ。
「マゾらしくする? メイド服でも十分かと思うけど。何が必要かしら。犬耳? 首輪?」
「ご主人さまの前でやってやれ。飛び上がって喜ぶから」
「そうかしら」
「ふん。同じもの同士か。入口が違うだけで、出口は同じだ」
「相性ピッタリ?」
「最悪だろうさ。ああ、そうだ。お茶を持って来てくれよ。しばらく、ここに居るからな」
「あら、早速ね。お菓子も作ってくるわ。今後は様付けでいいのかしら?」
「まだ早いな。まあ、好きにすればいいが」
「そう。直ぐ持ってくるわね」
 先ほどとは打って変わって、つつましやかに微笑み、咲夜は去って行く。アレは悪魔的だが所詮人間。自分を求めてくれる者が減る事は、自分の存在意義に関わる。ふてくされて中々注文を出さないレミリアご主人さまに不満があるのだろうし、ここ数日寝たきりのパチュリーの世話をしても、還ってくるモノが無いから不満なのだろう。
 本物の悪魔は、そんなものを気にしない。だからやはり、紅魔館の主はレミリアなのだ。




 植物界被子植物門双子葉植物網シソ目シソ科ミズトラノオ属




 『彼女』の『原産地』は南インドだったのだろうか。
 植民地支配を広げていたイギリスの東インド会社が綿や絹類の輸入の為防虫剤として使ったのが、かの花の葉だ。それに紛れてか、はたまた元から東インドに咲いていたのか。少なくとも『彼女』は自らをタミル語で『パチョリ』と名乗った……か。いや、父がそう聴こえたのかもしれないし、そもそも名乗らず、父が原産地の現地語を使って『彼女』を『パチョリ』と名付けたのかもしれない。もはやそんなもの、知る由もない話だった。
 魔術結社の幹部でもあった父が、どうしてそのパチョリと交わろうと思ったのか。魔術的な価値を見出したのか、はたまた情欲を掻き立てられたのか、さてはパチョリが誘ったのか。自分が、パチョリ・ナレッジが、パチュリー・ノーレッジが、今こうして在るのだから、兎に角交わりはしたのだろう。生まれいでた子を、父と母はどう思ったのだろうか。
 母であるパチョリの顔は覚えていない。父の顔も、曖昧だ。記憶にあるものは、豪奢な建物の図書館に、ずっと閉じ込められていた事ぐらいだろう。生まれてからずっとであるから、そもそも幽閉されていた事実すら知らなかった。
(逃げなさい。逃げなさい)
 最後の父の顔は、逆光で良く見えなかった。ただ、扉を前にして、彼は肩を抱き、逃げるように促した。外の世界などまるで知らないパチュリーを一人で逃がすなど、余程焦っていたのか、それとも捨てる気だったのか。解りはしないが、パチュリーは死にたくは無かった。いや、むしろ、外の世界を知らないばかりに、胸は高鳴っていた。
 大乱に紛れて、本に読んだ世界に憧れて、東を目指した。
 東へ。楽園があるとされる東へ。
「……」
 目を開け、窓の外を見る。もう日は落ち、星達が瞬いていた。夜風を冷たく思い、改めて布団を被り直す。窓際には懐かしい花が、小さな鉢に幾つか植えられて飾られていた。あんな思い出を想起するのも、きっとこの花の所為だろうとして、溜息を吐く。
 パチョリはまだ花を咲かせてはいない。初々しい緑色の葉を湛え、静かに佇んでいる。乾燥させねば香りも無いが、パチュリーはこの花が好きだった。小さい頃からずっと、閉じ込められていた図書館はパチョリの薫香が焚かれていたからだ。良く魔理沙には寺院くさいと言われたが、そもそも寺院など立ち入った事もないであろう彼女は、誰かに教えられた知識を口にしただけだろう。
「咲夜が飾れと五月蠅くてね。用意させたよ。当然用意したのは咲夜だけど。変な奴」
 ベッドで寝そべる自分の背後からレミリアの声が聞こえる。振り向かず、身を少し振るわせた。それで十分だったのだろう、レミリアは頷き、椅子に座ったまま足を組む。
「あの香りを嗅ぐと、貴女が来た頃を思い出すわ。か弱そうで、殴ったら死にそうな顔をしているクセに、嫌に強情で、自分勝手な奴だった。客人として招き入れてみたら、今度は図書館を占拠し出して、何だこいつと思ったわよ」
(そりゃワガママよ。箱入りだったもの。まさしく、箱にね)
「でも、巡り合わせだった。ヨーロッパも飽きて、上海にも飽きた所だった。どれだけ君臨しても暇は暇だったし、人間は私を大して恐れなくなった。東を目指していたって?」
(始皇帝は支配を永遠にする為、不老不死を望んだ。徐福という男は不老不死の薬の在り処を知っているとして、始皇帝は彼に望みを託したわ。でも、結局帰らなかった。彼は蓬莱で永遠を得てしまった。蓬莱の国。扶桑の国。エキゾチックジャパン。常世には楽園があると、本で読んだの。だから、私はとにかく東を目指した)
「生活力なさそうなのに、良く上海まで辿り着いたと思うわ」
(魔法使いだもの。もう、暫く使っていないけど、人心を操ろうと思えば簡単なのよ?)
「そして、私達は貴女の御蔭で幻想郷に辿り着いた、良い所だよ本当に。もう、支配欲に支配される必要もない。好きに生き、好きに笑い、好きに泣き、好きに暮らして行ける。辿り着いたんだ、ここに」
(……うん)

 当時、生活に苦は無かった。人間など本当に他愛ないモノで、意志を操る魔力をぶつけてやるだけで、大概の人間が言いなりになったのだ。自分が超越者だと自覚したのはこの頃。まさか人間が魔法を使えないとは、最初は知らなかったのだ。
 インドを出てから東へ東へと海岸沿いに渡り歩き、大きな街があると聞いて辿り着いたのが、上海であった。
『こんばんは?』
 人から見れば余程怪しい自分なのだから、だったら余程怪しい場所の方がなじめるだろうと考えていた。その館はやたら紅く、現地の人々も殆ど近寄らず、夜には吸血鬼が出るとまで噂されるような場所であった。東と言えば蓬莱、蓬莱といえば日本語としか頭になかったパチュリーは、不躾に戸を叩き、日本語であいさつする。
 中から出て来たのは、紅い髪の女だった。今とはとても比べられない程とがった空気を放っており、目つきも鋭い。
 紅美鈴が最初に放った言葉は流暢な日本語で
『どこのガキだ?』である。
言葉使いが荒いと咎めると、思い切り笑われてしまった。
『武侠。貴女の弱点は……特になし。すごい。でも大して強くないわ』
『言うね。どこの廻し者だい?』
『インドから来ました。魔法とか使えます。雇ってください』
『軟弱野菜みたいなやつはいらないよ。雇って貰いたかったら私を殴り倒す事だね』
『殴れません。魔法使いですので。なので魔法で殴ります』
『へぶっ』
 彼女は気功の達人で、百対一だろうと人間相手なら絶対負けない程強いと後から聞いた。

「美鈴、あの時かなり凹んでたわ。日本やアメリカの奴等とも小競り合い繰り返して、負けなしだったのだから」
(今思うと、可哀想な事をしたわね。まあ、あれで上下関係決まったようなものだけど)
「増長してたから。いいのよ、あの位で。私が押さえる手間が省けたわ。日本租界で暴れたら、また面倒だったし」
(あそこは日本租界だったの? 今初めて知ったわ)
「……」
 
『お嬢様、御客人です。インド人。そうは見えませんけど』
『インドに友人なんていたかしら。まあ、通しなさいよ』
 応接室に通されると、立派な部屋の上座にはふんぞり返った吸血鬼が一匹。街の噂は本当だったのだなと妙な感心を抱きながら、対面に座る。パチュリーが魔都には似合わない空気を纏っていた所為か、レミリアは早速それについて貶し始める。暇だったのだろう、散々罵った所でやっと落ち着き、要件を聞き始める。
 単身東へ向かうのも飽きた頃合いだった。折角楽園を目指すなら、人外らしい仲間がほしい。まずは小手調べにとこの紅い館に踏み込んだ訳だったが、それがまさか大正解だったとは、つくづく運が良い話だ。
『で、働きたいって? お前が? 何が出来るんだ』
『魔法とか使えます。行く行くは御社を上海一のマフィアにしてみせます』
『なんか違うだろそれ……メイド志望じゃないのか?』
『爆発魔法とか使えます』
『爆発魔法とはなんだ?』
『はい。敵が攻めてきても、撃退出来ます』
『……ふぅん……じゃ、実演してみて』
 当時のパチュリーはまるで加減と言うモノを知らなかった。幼い所為もあっただろう。実演してくれと言われて、実際その通りしたのだ。あの場に人間がいなかった事だけが救いと言える。応接室はものの見事に、家財道具一切合財吹っ飛び、爆発した。
 レミリアは激怒するどころか『採用!』と、アフロになった頭をかきむしりながら、ゲラゲラと笑っていた。

「魔法使いといえば陰気な奴ばかりで、いや、貴女も十分陰気だったけど、何か違った。いわば馬鹿だった」
(未だに応接室、ちょっと黒ずんでるものね)
「……領地を追われて、何をするにも苛立っていた私を変えてくれた。違う事をしようって、思わせてくれた」
(恥ずかしい記憶だわ)

『何、アイツが図書館を占拠した?』
『はい。雇ったのなら領土を寄こせ、と』
『面倒な奴だなアイツ……締め出してくる』
『御自らですか?』
『お前じゃ勝てないでしょ』
『えぐえぐ……』
 貴族の臣下になったのだから、領土ぐらい与えられて当然だろうと、何故かそんな風に思った時期があった。きっと本の読み過ぎで周りが見えてなかったのだろうが、少なくとも当時の自分はそのように考えていた。それに、紅魔館の図書館はとても居心地が良かったのだ。
 根なし草の自分にも根がほしい。そう願った。
 結局、籠城虚しく扉は破られる。殴られた事など無かった自分は、初めてげんこつを食らったのだ。ある意味、最初の物理的な痛みだ。幽閉はされど、虐待された記憶はない。外へ出してもらえない、お嬢様然として暮らしていたのだから。
『欲しきゃちゃんとおねだりしろ、馬鹿者め』
『一生分のお給料は、この図書館でいいわ、ご主人』
『レミリアでいいよ。まったく、なんなんだろうね、お前は』
『私? 私はパチュリー・ノーレッジ。花と知識の魔法使いよ、レミィ』
『馴れ馴れしい……けど、まあ、いいっか』

「鴉も人間も魔法で追っ払うわ、使いこんで本買いこむわ、門番パシリにするわ……当時の貴女は散々だった」
(楽しかったわ。初めてお家が持てて)
「かった、じゃない。これからも楽しいのよ」
(ごめんね、レミィ)
「……」

『レミィ、永住地を見つけたの』
『はて、どこに行く気なんだ、パチェ』
『違うのよ。紅魔館ごと大移動して、永住するの。最近、上海はキナ臭いわ』
『美鈴が話してたな。蒋介石がうんたらと』
『人間の動乱に巻き込まれるのは面倒だから。だから、移住しましょう』
『出来るの?』
『私は魔法使いですので。魔法使いは、魔法を使うモノです』

 ――きっときっと良い所だから。

(ごめんね、レミィ。ごめん)
「死ぬのか、パチェ。お前は永遠になれなかったのか?」
 その言葉に、振り向く。レミリアは顔を手で押さえ、けれども受け止めきれない涙は絨毯にしたたっていた。こんなにも強く、こんなにも慈悲深い彼女なのに、大きな瞳を腫らして、パチュリー・ノーレッジの為に泣いてくれている。
「方法なら、幾らでもある。ここは幻想郷だ。永琳に頼み込めば蓬莱の薬だってあるし、幽々子に頼ったって良い。みんなみんな嫌いだけれど、貴女の為だもの。私は土下座だってするわ。それが嫌なら、私の眷族になって。夜属になりましょう。ねえ、パチェ……おねだりして頂戴よ……」
(貴女、噛むのヘタクソじゃない。痛いの、嫌よ)
「何が貴女をそうさせるの? 楽に生きれば良いじゃない。ここは幻想郷なのだから。まして本来寿命もないような魔女なのに。どうしてそう強情なの。貴女の夢見た蓬莱はここよ」
(楽園は夢見たわ。でも、永遠を夢見た訳じゃない。私は私なのよ。顔は解らなくても、産んでもらった事に感謝しているの。この精神も、この肉体も、父と母から授けられた大切なもの。私の身体と心が唯一の両親との絆なのよ。これを捨てたり、改変したりするならば、私は死を選ぶ。レミィ)
「……」
(ありがとう。貴女は家族だものね。本当は、貴女の意志も尊重してあげたい。でも、これは私最期のワガママだから)
「……嬉しかったの。貴女が現れて、何かが変わるんだと、思ったから」
 そういって、沈黙。レミリアは黙ったまま、俯いている。
 初めて彼女に逢った時、自分は相当に奇異な目で見られていた。街を根城にして魔都を演出しようと企むレミリアに、中国のマフィアを纏め上げていた美鈴。そんな怪物達の根城に迷い込んだ自分。今でもありありと思い出せる記憶だ。
(……私も、そう思ったわ、レミィ)
 死に逝く者は、ただ自らの歴史を布団の中で回想する記録再生装置にすぎない。死に逝く者が残すものは、生きた証と、思い出のみだ。パチュリー・ノーレッジは確実にそれらを残せたし、自分の生き様にも十分満足している。未練など一つもなく、ただ清らかな、友人達との絆がある。
 なのにどうして生き汚くあろうと思うだろうか。友人達は大切な存在であるし、出来れば悲しい想いをさせたくは無い。しかし、パチュリー・ノーレッジが形成されて今に至るまで、自分を自分然として保って来たものを、今更ぶち壊せるほど、無神経にはなれなかった。
「死は……怖く、ないの? わた、私は、怖くて仕方が無い。自分が消えてしまうなんて、信じがたい……」
(私は死なんて怖くない)
「何故?」
(私には貴女達がいるもの。私を覚えていてくれている人達がいるわ。それに、私が残したものを守ってくれる人もいる)
「……魔理沙? 何故アイツなんだ。私も嫌いじゃあない。けど、あれはただの人間よ」
(夢見る乙女に年齢も種族も関係ないの。だから、私も立ち上がらなきゃ)
 そのように言い、パチュリーは動かない身体に鞭打ち、時間を掛けて立ちあがる。図書館の魔女が、図書館以外で死ぬ訳にはいかない。本と共に歩んだ生は、本と共にあらねばならない。紅魔館に招かれて百年。そしてその一生分の給料は、あの図書館なのだから。
「パチェ、無茶は」
(今日は調子が良いわ。魔理沙に、引き継ぎしておかないと)
「あいつなら、咲夜と戯れてるよ」
(なら邪魔しなきゃ。それに、それは貴女の所為)
「……?」
(命令しないご主人様なんて、ご主人様じゃないのよ、レミィ。あれは根っからのメイドなのだから)
 レミリアに肩を貸して貰い、覚束ない足取りで大図書館を目指す。本来はもっと小さい筈であるが、紅魔館は中に入れば城と言っても過言ではない程の規模を誇っている。それもこれも、あの空間弄りが得意な十六夜咲夜の御蔭だ。
 溜まりに溜まった本は、最初こそ地下室の隅に堆く積み上げるだけだったが、彼女の空間拡大の恩恵でそれら全てが図書館に収まり、大図書館の体を保っている。
 階段を下り、また更に地下へと下って行く。大きな鉄扉を押し開いた先にあるものは、愛すべき子供たち。
「咲夜!」
 レミリアが声を張り上げる。幼い声は空間に反響し、木霊した。それから数秒後、服の裾を整えながら、咲夜が慌ててやってくる。何時もより三秒ほど遅い。
「はい、お嬢様」
「いちゃつき終わったか?」
「え、ええ」
「なら仕事しろ。言わずとも解るな?」
「はい、パチュリー様のお薬と、お飲み物と、お気に入りの枕をお持ちしますわ」
「もうひとつ、鉢もだよ」
「はい」
「もうひとつ」
「は、はい」
「お前のご主人様は誰だ?」
「レミリア・スカーレット様ですわ」
「宜しい、行け」
「かしこまりました」
 多少の焦りは見えるものの、命令された咲夜は活き活きとしている。紅魔館は正しいヒエラルキーの下にあるべき場所だ。ご主人様がいつまでもウジウジして、ああでもないこうでもないと文句ばかり垂らし、半死人に付き添っているだけでは、メイドの一人もついてこない。ご主人様は下々に命令を下し、そして対価としてその慈悲深い誉れを授ける。
そうでなくてはいけない。
(主人は主人たれ。なれば臣下は臣下たる事が出来る)
「パチェには敵わないわ」
 それだけ言い残し、彼女は背を向けて手を振る。きっと泣いているのかもしれない。だが、パチュリーが声を掛ける必要はなかった。自分達は十分に親友で、十分に家族だ。今更何か一つでも、わざわざ相手の気持ちを口に出してやる必要はない。レミリア・スカーレットは吸血鬼だ。情の深い、まだまだ歴史の浅い吸血鬼。夜の王として、情け深く君臨していれば良い。去り逝く者に振り向く意味はない。
ただ、前を見れば良い。
「パチュリー様、お持ちしましたわ」
(……そう。じゃあ、私の机においといて。それと、貴女の手を少し借りるわ)
「はて、なんで御座いましょう」
 咲夜が小首を傾げる。身体を張れない自分に代わるものといえばお前だと言えば、ああ、と納得してくれた。
(そのパチョリの鉢)
「はい」
(日陰に飾っておいて。晩秋には咲くでしょうから。パチョリはね、直射日光が苦手なのよ。日蔭者でね)
「畏まりました。それはそうとして、何をお手伝いすれば?」
(武装なさい。魔理沙に最初で最後の稽古をつけるから)
 まだまだ半人前のアイツだ。では、本物の魔法使いとやらが如何にえげつなく、如何に恐ろしいか知っておく必要がある。彼女は幻想郷から出る事はないだろう。だが、今後とんでもない異変を起こす馬鹿が居た場合、綺麗事で片付けられるものではないのだから、汚い方法も覚えておくべきだ。
 弾幕ごっこに則らないのは反則だ? そんな言い訳が通じない奴がいたら、ただ無残に負けるだけ。それに、図書館の管理方法も教えて置く必要がある。更に、小悪魔の使い方にも注意が必要だ。使い魔に生気を吸われて死にましたなんて冗談にもならない。この小さな世界を守る為に必要な術を、覚えて貰わなければ困る。が、あまり時間もない。強硬策を取る他ないようだ。それに、確認しておきたい事もある。
(魔理沙は?)
「奥の研究区画で、ミニチュア幻想郷を弄ってますわ」
(あまり『自分』の観察はしてないわよね?)
「あれで賢いのです。自分の究極的客観が危険な事ぐらい、知ってましたわ」
(なら、いいわ。そう、案外賢い。なら、解るかしら)
「あれは……何のために?」
 咲夜が疑問に思うのも当然だ。実際、あの箱庭に正しい使用方法も意味も無い。それを見て、弄り、自分なりの意味を見出す事にこそ価値があるもの。あれは単なる思考実験装置でしかない。かなり精巧に作りはしたが、所詮作り物だ。あの中で生活を営む人形達もまた、パチュリーの知り得る範囲の行動を繰り返す者達に過ぎない。
(あれを見て、考えなさい。自分の幸せに疑問を持った時、きっと役に立つ)
 幸が疑問だったり、不幸が疑問だったり、自分の意味が疑問だったり、そういった答えの無い答えを見つけるヒントを見出す事も出来る。あれはそういう箱庭なのだ。
「では、準備致します」
(咲夜)
「……はい?」
(魔理沙をよろしくね。仲良いから、大丈夫だと思うけど。あと、今までありがと)
「……そんなこと、仰らないでくださいまし。貴女様はまだ、ここにいますわ」
(そうね。うん。じゃあ、お願い)
 咲夜が一礼して去って行く。冗談のきかない彼女は、きっと本気の武装でやってくるだろう。それでいい。彼女はこの紅魔館に勤め始めた頃から、ずっと完全で瀟洒なのだから。異能を許容しやすい幻想郷ですら持てあましてしまうような能力の彼女が紅魔館にやって来たのは、そう昔でもない。
 咲夜は紅魔館の戸を叩き、雇って欲しいと現れた。身なりは良くないし、レミリアも最初は疎ましく思っていたのだろう。何せ運命能力者に対して時間能力者など天敵以外の何者でもない。しかし、いざ働かせてみれば、与えた仕事は全部完璧にこなし、レミリアのワガママも、パチュリーの無茶な注文も全てを受けて叶えた。
 彼女はもっと別の名前だったが、功績を認められてレミリアから新しい名前を授かった。酷いネーミングセンスなのは相変わらずだったが、紅魔館に来てからとんと笑わない咲夜が笑ったのである。
 あの瞬間から彼女は紅魔館の家族だった。過去は語らないし、レミリアがきいても答えはしない。けれども、そんな事は瑣末な問題で、彼女は今の彼女として完全で瀟洒にあり、そして愛されている。パチュリー自身も、どれだけ助けて貰ったか数えきれない程だ。
「ナイフありったけ。スペルカード全部。気概も気力もましましですわ、パチュリー様」
(じゃあ、そうしましょうか。そうだ、はいこれも)
「はて。貝殻?」
(念話の送信機。念じれば会話が通るわ。必要だから)
「他に必要なものは、医者ぐらいですか?」
(あとでいいわ。ねえ咲夜。最期に教えてくれるかしら?)
「はい、話せる事でしたら」
(貴女は誰?)
「そんなことですか。私は紅魔館のメイド、十六夜咲夜です。それ以上でもそれ以下でも御座いません。もし宜しかったら、お好みの過去オプションもご用意して御座います。ジャックザリッパーだろうと、月人だろうと、神様だろうと、単なる乞食だろうと、捨て子だろうと、咲夜は演じますわ。何せ、私は紅魔館の物品、お好きなように。御満足頂けましたか?」
(上等。貴女は貴女ね、咲夜)
「お嬢様はお嬢様らしく、パチュリー様はパチュリー様らしく、魔理沙は魔理沙らしく、私は私らしく、今ありますわ」
 本当に敵わない奴がいるとするならばコイツだと、思わずにはいられない。そっくり全部をヴェールに覆い隠したまま、きっとこの先も咲夜はあるのだろう。それが彼女の矜持であり誇りだ。実質紅魔館の全権を握りながら、決して前に出る事のない駒を演じるメイド。レミリアが気に入る訳だ。
「では、魔理沙を」
(ええ、お願い。私達は秋風。短い間に吹き去り郷愁を植え付ける、理不尽な突風)
「了解しましたわ」
 秋が深まって行く。出来る事ならパチョリが咲く晩秋まではどうか……。いいや、今しかない。
パチュリーは受け取った薬を口に含み、水も使わずそのまま全て飲み下した。もう、限界なのだ。




 今生ける人、今死せる人




 紅魔館の、端から端までが完全に張りつめている。気配に脅えた妖精メイド達は宿舎に引きこもり、そろそろ騒ぎ出すであろう蝙蝠達もまるで啼き声を上げない。月は煌々と紅い光を照らし、紅い館をより演出していた。
 霧雨魔理沙は自分の家から持って来た、ありったけの魔法道具と魔道書で武装していた。普段は着ない皮製のベストを着込み、スカートも鎖帷子を編み込んだ香霖堂特製である。肩から掛けたハート型のポーチには薬品類、腕に巻き付けられたホルダーにはカードが詰まっている。帽子の中にも暗器類がねじ込んであり、即座に取り出せるよう配置してある。
 そして切り札、八卦炉は手元にはなかった。切り札は切り札然とあるべきだと、パチュリーのお達しだ。
「まさか紅魔館が戦場になるとはな」
(今の貴女なら、近代兵器で武装した一個小隊ぐらいなんとかなるでしょう。でも相手はそれ以上だから)
 パチュリーは大図書館の、いつもの席に坐してお茶を啜っている。暢気なものだが、今日は顔色も良い。
 パチュリーの提案は魔理沙にとって青天の霹靂である。どうせ何かあるだろうと予想していたが、まさか戦争ごっこを始めるとは思わなかった。勝利条件は大図書館の防衛、および咲夜が参ったと言うまで。敗北条件は大図書館の占領、および魔理沙が参ったと言うまで。オフェンスは咲夜、ディフェンスは魔理沙だ。パチュリーは咲夜に手加減抜きと申請している為、相手の言葉を真に受ける咲夜は、絶対的に手加減抜きで来るだろう。故に魔理沙も、普段なら絶対しないような、ファッションセンス抜きの完全防備だ。
「咲夜の戦闘力は?」
(ありったけの装備で武装させたわ。やる気も満々。一瞬で叩きのめされないよう気をつけなさい。ただ、時間制御は三回までにしてある。そもそも、時間止めるような怪物が、紅魔館を襲う状況が想定出来ないもの)
「常時時間止められてたら、勝てるわけがないな」
(ポイントは解るかしら?)
「虚を突く。さあ、もう時間だぜ」
(いってらっしゃい)
 戦闘は三回。その都度時間を止められるよう配分してあるのだから、いやらしい。まずは紅魔館侵入防衛。続いて大図書館侵入防衛、そして本土決戦だ。当然、咲夜が中へ中へと侵入する度に、此方の仕掛けたトラップの猛攻も激しくなるので、彼女自身も気は抜けないだろう。だが、何せあちらは紅魔館を知り尽している。ここは魔理沙のホームではなく、咲夜のホームなのだ。
(念話で話しかけるわ。これは講義なのだから)
「いらん世話だな」
(本当は、貴女がここを出た時点で既に魔女失格だけど。貴女は行動型だものね)
 いきなりマイナス点をつけられたが、一々気にしていられない。自分は固定砲台ではなく、移動砲台なのだ。パチュリーとは根本的に在り方が違う。
 紅魔館を出て正面に構える。夜風は冷たく、何時もよりも冷えたように思えるのは気候の所為か、はたまた奴の殺気か。演技とはいえ、役を与えられたメイドはやけに強い。そういう意味では、陶酔して別のモノになる巫女的な属性を備えている様子だ。
 紅魔館正面庭園の要所は二か所。門と、入口だ。門には使い魔を放って有る。これはまず敵わないだろう。こんなもので咲夜が落とされていたら、異変解決など出来はしない。
 どこからくるか。どういう手段を使ってくるか。ナイフの数も威力も制限はされていない為、当たり処が悪ければ死ぬ。
(魔理沙)
(なんだ、やかましいな)
(もう突破された。次の準備)
 ……。
「んな馬鹿な!」
 緊張が解け、行き場の無い理不尽感を声にして吐き出す。
(開始直後、咲夜は門を高速突破。貴女が紅魔館の扉を開けた瞬間にすれ違いで入ったわ。時間止めてね)
(ぐが……)
(相手は超常能力者よ。ジャパニーズニンジャね。てか、咲夜忍者じゃないの?)
(あいつ、マジ?)
(マジにやれって言ってるからね。ほら、大図書館が危ないわ、ハリーハリー)
「畜生!」
 完全に虚を突かれた。構想としては、ぬるい門を突破させた後、庭先に配置した使い魔のレーザーで動きを奪い、此方がタイミングを見計らって弾幕で一網打尽にする筈だったのだが、門の防衛のヌルさを逆手に取られてしまった様子だ。
 舐めすぎていた。小手先でどうにかなる相手じゃない。そもそも、此方は相手を捕捉すらしていない。箒に乗り、室内で出せるギリギリの速度を出して大図書館入口まで辿り着く。ルール上此方が配置に付くまで行動はしない、となっているが、さてどうか。
(まさか、まだ入って無いよな?)
(弱すぎて、ルールを破る必要性も感じないんじゃない?)
(癇に障るぜ)
(その程度の価値しかないんだよ)
 パチュリーがだいぶ煽る。本気でそう思っているのか、はたまた意欲を掻き立てる為に言っているのか。反骨の魔法使いにとって、どちらだろうと結局効果は同じだった。言われれば頭に来る。
「舐められたもんだぜ」
 大図書館扉前で構え、相手の出方を伺う。いや、出方を伺っている暇などないかもしれない。
 ここは地下であり、視界が悪い。ただの人間である咲夜は夜目などきかないだろう。大図書館に至る為の階段は一か所しか存在しない。なれば、どうしてもここを通らなければいけない。ではどうするかといえば、最初から弾幕で防御壁を何か所か用意していれば良い話。それで倒す必要ない。相手がどの地点を通ったか解れば十分……という構想の下、魔理沙は一応の防御陣を築いている。
(魔理沙)
(なんだ。まだ流石に誰も来ていないぞ)
(不測の事態には備える必要があるってことを学ぶべきね)
(なんだと?)
「あ、魔理沙。どうしたの、その格好。あれ? 吸血鬼狩り? 御姉様狩るの? 混ぜて混ぜて」
「なんてこったい」
(ね?)
 背後から声をかけたのは、悪魔の妹フランドールだ。階段を正面にし、図書館を超えた向こうに、彼女のねぐらがある事をすっかり頭の外にやっていた。
(おいパチュリー、お前、フラン呼んだだろ)
(アンタの見通しの甘さだよ)
 そう言われてしまうと、反論しようがなかった。一応のルールは存在するが、ルール外の事態に対処するルールは存在しない。つまり、予想外の事が起きたら、並行して処理しなければいけないのだ。敵が外だけとも限らないし、闖入者がルールを守るなど誰も保障しない。
「フラン、実はな、今から狩ろうとしている御姉様の尖兵である咲夜に追われてるんだ。是非倒して貰いたい」
「どのくらいまで倒すの?」
「ギュッとしてドカンとしない程度だ。レバ剣とかも駄目だ。なんなら、咲夜にまとわりついておねだりするだけでも良い」
「邪魔しろって事ね!」
「フランは頭が良いな。そうだ」
「暇だし、つきあったげる。じゃ、いってきまーす」
「……ふう」
(そうそう。使えるものは何でも使うのよ。ただまあ、リスクは考えた方が良いわ)
(……凶手?)
(想定範囲内。アンタの敵はむしろ私である事を心得るべき)
 フランを向かわせる為に、弾幕防御壁は解除してある。自分の手元で爆発されては困る爆弾を投げたのだから当然だが、しかしそれ以来とんと音沙汰が無い。暗く、ジメジメとした空気が喉元にまとわりつき、まるで音のしない空間で時間を過ごす事は、精神的に苦痛にもなる。そしてそんな中、わずかな音が響けば、嫌でも緊張感が走る。
 瞬間、咄嗟に気配を感じた魔理沙が伏せると、頭上を紅い弾幕の塊が通過していった。
「魔理沙! 咲夜は私を守ろうとしたんじゃない! 嘘ばっかりついて!」
「げぇ……」
(友好度の問題。アンタが咲夜より妹様と仲が良い訳が無い)
「くそ……フラン!」
「なによ!」
「すまなかった! 明日は朝まで遊んでやるから、許してくれ!」
「ホントに?」
「ホントだ、こりゃ嘘じゃない。嘘だったら私を解体して内臓を鉄の棒に巻きつける遊びしてもいいぞ」
「魔理沙は気前が良いのね!」
(遊んでいる間に巻きつけられなきゃいいわね、魔理沙)
(やかましいわ)
(ちなみに通過されたわよ。貴女が喋ってる途中に)
「ぐあ……」
 嬉しそうに駆けより、抱きついてくるフランドールを捕まえ、くるくるとまわして遊ぶ。五百歳とはいえ、精神年齢子供でいたいけな吸血鬼を戦争のダシに使うモノじゃない。
 楽しそうに回るフランドールだったが、やはり彼女も紅魔館の空気を重く思っていたのだろう。いつもより、多少わざとらしくはしゃいでいるように思う。パチュリーの死が間近に迫り、姉も、メイド長も、門番も真っ暗で不愉快な気分を味わっていたのだろうから、こうして余計に笑顔を作ってしまうのも頷けた。
「で、魔理沙は何してたの?」
「解ってやってんだよな」
「まあ。でも、楽しいのは好きよ?」
「なんというか、パチュリー最期の講義だそうだ。御姉様が許してくれたら、私はこの大図書館に居座るらしい」
「……そうなんだ。うん。じゃ、邪魔しないわ」
「お前はどうだ? 私が大図書館の主になったら、嫌か?」
「嫌じゃないわ。パチュリーが言うならきっと貴女しかいなかったのよ。でも、パチュリーが死なない方がもっといいわ」
「そりゃ、当然だな。ああ、使って悪かったな」
「ううん。じゃ、私は大人しくしてる。明日は遊んでね?」
「……了解。また明日、フラン」
 子供、と言っても、子供を本気で演じられる大人、と言うのが正しいだろう。フランドールは姉と同様、何もかも知っていてふざけている。多少、一般的な価値観からかけ離れているし、空気も読めないだろうが、やはり家の一員が亡くなる事に対して、感傷的になっているのだろう。
 自分は部外者。霧雨魔理沙は、ただただ死に逝く知人に後を託されただけの存在だ。彼女達のように、深刻になってやれはしない。今の自分には、なんの感慨も無いのだ。
 魔法が好きなだけで、魔法を全てとしていた魔女の集大成を預かる。その道の者が近くに居たのなら、魔理沙は不敬と罵られただろうか、それとも良く乗っ取ったと褒められるだろうか。
 本来は、ただの村娘に過ぎないのに。
 元から実家に馴染めなかった事もある。父は厳しかったし、母は優しいが、父に付き切りであった。唯一親身になってくれたのは、森近霖乃助だが、それもいつの間にか独立し、魔法の森の入口に越してしまった。わざわざ、あんな人のいない場所にだ。
 地価が安いから、なんて、当時は説明していたが、そもそもあそこは誰の所有物でもないのだから、タダである。当時父から信用を置かれていた霖乃助なのだから、それなりに貯蓄もあったろうし、父に頼れば里の中に出店出来ただろう。けれども、彼は確か、常々漏らしていた筈だ。
 自分には合わない。
 人間、いや、精神を持つ生物須らく、何か違和感を覚える。自分の居場所がここでは無いと思う瞬間がある筈だ。
ただ、社会に組み込まれていればその意識も和らぐし、固定された地盤を形成すれば、そこが安住の地であると納得する。だが、立派な父、立派な家柄、立派な生活、これだけのモノがあろうとも、しかし、ここに居場所はないのだと、考えてしまう奴がいる。
 結局はそれが全部だ。結局は、それが霧雨魔理沙だった。
 人間らしくない力にあこがれ、人間らしくない生活を夢見、人間らしくない扱いをされたい。
 いつか、父を見返すのだ。いつか、里の人間を驚かすのだ。そんな一心で、魔法使いを名乗った。
(魔理沙、ほら、大図書館が占拠されるわよ)
(時を止める奴なんかに敵う訳がないだろう)
(諦めるの?)
(何の背景も無い戦いだぜ。私には背負うモノが無い。何の感慨もない戦いに命を張れるか?)
(そんなんじゃ、図書館なんて守れないわよ)
(違うんだよ。お前はそれで良いのか? こんな適当な人間に、お前の大事な図書館を譲って)
(わからないわよそんなの)
(なんだと?)
(答えって言うのは常々、やりきった後にしか出ないのよ。途中で諦めるのは、答えを見たくないから。アンタが自分をどんなボンクラと思っているかは知らないけど、少なくとも私はアンタに『それなりのもの』を見てるのよ。私は答えを出したいから、さっさと付き合いなさい。その重たい扉を開いて、折角協力してくれてる咲夜と戦いなさい。背景が無いなんて知ったこっちゃないわ。そんなもん、後から幾らでも付いてくるわよ、さあほら、雑魚魔法使い、さっさと、扉を、開きなさい)
 こんなものに付き合う咲夜も咲夜だ。何も得る物がない戦闘なんてゴミ以下、何一つ価値なんて見出せない。これに勝とうが負けようが、咲夜が欲する感謝の言葉など微々たるものだろう。
 もし、ここを譲ってもらったとしても、素直にレミリアに返すのが無難だろう、などとまで考えてしまう。管理するにはでかすぎる。管理するには広すぎる。それに、霧雨魔理沙では紅魔館を守る事も危うい。誰かに蹂躙されるくらいなら、元からレミリアが幅をきかせていれば良い。こんな大した事のない魔法使いの守りなど最初から当てにされるだけ無駄だ。
 大図書館の扉に背を向ける。自分の居場所はここでもない。
(そう、残念――咲夜、突撃)
「何?」
 パチュリーが、何を思ったか咲夜に命令を下す。瞬間、鉄製の強固な扉が悲鳴を上げてぶち破られ、中から大量の弾幕が飛び出してくる。力を帯びたナイフの弾は正面の壁に激突し、不自然な軌道を描いて兆弾、魔理沙へと襲いかかった。
「んがっ」
 確実に被弾しかねない弾道の弾を箒で叩き落としてから、改めて箒に乗る。目指す場所は階段だが、しかし次の瞬間に見たものは、広大な図書館と、そびえ立つ本棚の森だった。
(咲夜、時間制御解放。回数無制限。年寄りになるまで使いなさい)
「チッ……全く勝手な奴だ」
「パチュリー様も、貴女にだけは言われたくないでしょうね」
 周囲にナイフの弾を漂わせた咲夜が、いつもの顔で言う。笑顔とメイド服にこそ変化はないが、彼女は右手に予備のナイフを、空いた左手で増幅器(オプション)を弄んでいる。それがどれほどの脅威となりえるかは解らなかったが、少なくとも異変解決時のソレで有る事は間違いない。
 パチュリーの真意はまるで見えない。霧雨魔理沙は今すぐにでも、陽のあたる世界へと飛び出してしまいたかったが、それは許してもらえない様子だ。今もまさに、咲夜のナイフは嵐となって、霧雨魔理沙を穿とうと降り注ぐ。
咲夜を説得出来ないものか。いざ本気で正面からぶつかりあって勝てる相手ではない。彼女はパチュリーに命令された通りに本気らしく、その移動も、時間停止を認識出来ない者からすれば空間跳躍に等しい理不尽さだ。
「さく……」
 声を掛けようとして、眼前にナイフが現れる。その奥には、それを突きだす腕、そして美しい貌。彼女はニンマリと、おおよそ普通ではない笑顔を湛えていた。実に、悪魔らしい悪魔だ。
(咲夜はアンタが欲しいんですって。……何せ、私よりも理不尽な注文をするだろうアンタは、咲夜の奉仕心を余計刺激するだろうから。マゾヒストねえ)
 交渉の余地無しか。兎に角近寄られれば終わりだ。帽子の中から媒体になる星型の魔法の粒を放り投げ、自分の周りに使い魔の結界を築き上げる。時間を止められようと、此方の中に入ってこられないのでは、奴も此方を倒しようが無い。密度を上げればナイフも相殺可能だろう。
 こうなるとどうしても八卦炉が必要になるが、設置トラップにしている為に手元には無い。魔法使いは触媒がある方がより強い魔法を放つ事が出来る。アリスのグリモワール、パチュリーの各種リボン、そして自分の八卦炉や箒だ。空を飛ぶのに箒は都合が良く、体内に渦巻く魔力を解放するのに八卦炉が活躍する。
 どうにか、図書館に設置した八卦炉に咲夜を近づかせたい。使い魔を纏いながら、軌道を修正して行く。本棚は対魔法防御が施されているので、ここから狭い場所に誘いこんでも被害は最小限に留められるだろう。
「こいつかな」
 腰に巻いたホルダーから、小さい杖を取り出す。いつもは自宅で実験をする折に使う、携帯用の教鞭のような杖だ。何も出力装置がないよりはマシだろう。咲夜は時間を止めながら距離を詰めてくるが、狭い本棚のスキマではその機動力も生かし切れていない。
(そうそう……時間を止められようがなんだろうが、近づけさえしなきゃ魔法使いは負けない。問題は攻撃を当てられるかどうか)
(事前準備した魔法使いは、負ける道理が無い)
(良く覚えてるじゃない)
 ノンディクショナルレーザーに用いるカードを、咲夜が通り過ぎた場所へ飛ばして設置し、格子状の壁を形成、どんどんと彼女の背後を狭めて行く。咲夜のナイフは使い魔に相殺されて消されるばかりだ。彼女は苦虫をかみつぶしたような顔で此方を睨みつけているが、魔理沙の知った所ではない。
「行き止まりだぜ」
「アンタがね」
「避けられるものなら避けてみろ咲夜。避けたら、なんだって言う事聞いてやるよ」
「それじゃ困るわ。なんだって命令してもらわなきゃ。だから、命令するよう命令するわ」
 咲夜の眼の色が変わる。彼女はその手に懐中時計を持っていた。次の瞬間、自分の四方八方が、弾幕とナイフで埋め尽くされていた。その後、まるでスローモーションのように世界が回り始める。焦ったら終わりだ。目を瞑り、思い描いた通りの動作をする。
(魔女の武器は……情報)
 狭められて行くスペースに慌ててはお終いだ。時間の流れに沿い、ゆっくりとスペルカードを二枚抜く。
(空間把握)
 まとわりつく空気に、咲夜の殺気に惑わされず、一言一句間違わず、スペルカード宣言。
 図書館の天井に設置された八卦炉が、小出力のマスタースパークを発射するも、当然それは咲夜に避けられて床を焦がすばかりだ。それで終わりか、咲夜の眼はそのように語っているが、当然終わりではない。
(……それとたまの度胸かしらね)
 咲夜の弾幕は刻一刻と迫る。どこにも逃げ場はない。
 ではどうするか。
「行くぜ必殺」
 彗星、ブレイジングスター。自分ごと弾になり、弾を弾き飛ばしてしまえば良い。単純明快、誰でもわかる。動けないのなら動けるような状況を作れば良い。勝てないのなら、勝てるだけの策を練れば良い。例え相手が時間掌握者だろうと、やられなければ問題無い。
霧雨魔理沙はただ力をぶつけるだけの人間や妖怪ではない。自分が他人とは違うと悟り魔術を志した時点で、魔を使役する幻想物、世の理を読み解く魔法使いだ。
「……」
 咲夜はその光景を心静かに見守っている。
避けられないのか。
(覚悟)
 いいや、違う。避けるつもりなど無いのだ。
(さ、咲夜!)
 魔法や霊力に頼らない、完全物理攻撃。咲夜は此方と衝突する事を前提に、ナイフを腰に構えた。弾幕は凌げても、このままでは無残にも串刺しにされる。
数瞬の判断。もうそれは眼の前だ。手元に何があるか。あるとすれば、このちっぽけな杖のみ。
(私はメイドです、パチュリー様。ご主人様はレミリアお嬢様です。そして貴女はご友人。私はメイドです。ご主人様がそうしろというのならば、誰でもご奉仕しますわ。けれどやはり、他人は他人。しかも、自分より弱いかもしれない)
(咲夜……?)
(今後も気持ち良くご奉仕させていただくのならば、自分よりも強い方が良いに決まっていますわ。自分の領土を守る気概に溢れるお方が良いに決まっています。私のナイフ如きで刻まれてしまうのならば、良いお付き合いなんて出来ませんでしょう)
(……)
(これは手向けの花です。そして新しい領土の主人を迎える儀式ですわ。どうか)

 杖を突き出し、勢いに任せて、誰もその心底を知り得ない十六夜咲夜へと、突撃する。

 どうか、心安らかにお逝きくださいまし。新しい主人は、こんなにも強い人だから。貴女よりも馬鹿で、貴女よりも落ち着きが無くて、貴女よりも理不尽かもしれない。けれども、彼女ならこの大図書館を守れますから。自分はそれを支えて行く事が出来ますから。どうか。

 ゆっくりと死に近づく主人の友人に対しての礼だろう。衝突と同時に空間を割るような音が爆ぜる。霧雨魔理沙は歯を食いしばり、十六夜咲夜はその細い両腕で、罅の入った銀のナイフを支えていた。
 時間にして数秒も無いだろう。しかし、当人達にとってこの合間は、あまりにも長かった。ナイフがぶち折れ、杖がぶち折れる。双方とも、衝突の反動を受けて左右に飛び、本棚へとぶつかり、地面へと落ちた。
「ぜぇ……げほっ……二人とも……」
 パチュリーが息を切らせて近づき、安否を確認する。最初に目を覚ましたのは魔理沙だった。頭を振り、身体の怪我を確認した後ゆっくりと立ち上がり、倒れたまま動かない十六夜咲夜へと近づく。
 何か、紅魔館の人間や魔理沙では計り知れない想いがあったのだろう。模擬戦でしかない、利益の無い戦いで本気を出すのだから、彼女の紅魔館に対する思い入れはハンパな物なのではない。
 自分は彼女がこんなにも愛する紅魔館の一部を貰い受ける事になる。奪う事を何とも思わない霧雨魔理沙にも、それがどれだけ重要な出来事なのか、良く分かった。きっと、今更引き返せないのだろう。
「……怪我は」
「手を切っただけだ。咲夜は運んでおくから、お前も寝てろ」
「……そう。なら大丈夫ね」
 引き返せないのだ。誰かが強要する訳でも、絶対的に必要なものでもない。
 ただそこにあるものは、パチュリー・ノーレッジの矜持。
 己を示し、己の信じたものを残す為だけの行為。紅魔館に利益は無く、霧雨魔理沙とて望んではいない。
しかし、いざ死を眼の前にした時、どのような形であれ、ヒトは過去を振り返る。振り返り、再び自分の立場に振り戻った時に開眼するものは『今できる事は何か』という問いと答えである。
「やめろ、頼むから、やめてくれ、パチュリー」
「他のヒトに頼めないのよ。それに、いつまた酷い発作が襲うかも解らない。知ってる? 死に際の人間や生物って、突然元気になったりするのよ。ここに仕えていたメイドにも、何人か居たわ。そして数日後、ぽっくり死んだ」
「どうして」
「我欲する者に与えん」
「……」
「げほっ……ぐ、ん。ごめんなさい、魔理沙。限界なの。でも、儚くは死にたくない。私はここに来て……貴女達と戯れている時が、一番楽しかった。日陰の女は結局、日向無しには生きられなかった。大図書館に日を当てたのは、貴女」
「そんな理由か? そんな理由で私に、大図書館を預けるのか?」
「答えはもうすぐよ。咲夜も頑張った。この戦いに、意味を見出すのは、貴女」
 パチュリーが、リボンを解く。魔力ストックになっているのだろう。患ってから相当に落ち込んでいた彼女の生命力が、幾分か回復する。しかし、それでも一時的なものだ。もし、弾幕戦などしたら、あっという間に尽きてしまう。
「我は百年の魔女。七曜を預かりし精霊の担い手。紛う事無き、咎人也。いざ、我が武威にて冥府へと誘わん」
 賢者の石が具現化する。
 大量の魔道書が彼女を守るようにして飛び交い始める。
 霧雨魔理沙はどうするべきか。

 いや、今更だ。出来る事は、強くその手を、大図書館の獣に向ける事のみだ。





 想起 箱庭幻想郷




 足掻きに足掻き、出来る限りの事は全てやったつもりだ。だが、限界はあった。その限界を知った時、猛烈な恐怖に駆られた。
 自分が無くなってしまう。築き上げた平穏も、書き続け、集め続けた本も、死の前には何の意味もなさない。魔女であるのに、魔女だからこそ、堆く積み上がった歴史を失うのは、あまりにも恐ろしかった。
 その時、倣いにしたものは何か。死なぬ妖怪では規範にならない。結局、死してはまた生まれて増える、有象無象の人間だった。当然見下していた。妖怪からしてみれば食料で、魔女からしてみれば生贄程度の存在。世の理を操り超常を支配する存在が、そんなか弱いものを見本にするのか。
 ただ、葛藤している暇もなかったのだ。刻々と迫る時を、押しとどめるには弱すぎた。
 人は死に際に何を残すのか。ごみのように死んでいった人間達とて、何かあっただろう。歴史、物、子孫。自分に何があるのか。どれなら手が届くか。歴史を作るほど表舞台には立ってはいない。物といっても覚えた知識を書いただけ、子孫を作る程の甲斐性もなかった。
 今更外に出て歴史を作れる筈もない。子供を生むには体力がなさすぎる上、相手もいない。
 そんな最中、ふと目に止まったものは、いつの日か作った箱庭霊界であった。幽霊の量が増えた事を切欠に、観賞用、冷房用として作った箱庭霊界。最初こそレミリアも喜んでいたが、その内飽きて図書館の隅にひっそりと仕舞われていた。幽霊を解放し、その箱庭をジッと観察する。
 歴史は作れないにしろ、歴史を保存する事なら出来るのではないか。書き写した知識ではなく、知識を元に物を作る事なら出来るのではないか。子を産めずとも、子と相違なく愛せる世界を作る事なら出来るのではないか。
 天啓に思えたのだ。この、何も成す事なく生きて来た魔女が最期の時節に授かった閃きは、万金にも値する。
 思いついた後は、急かされるようにして箱庭作りに取り掛かった。いつ訪れるか知れない死に脅かされながら、まるで毎日を硬度の低い宝石を扱うようにして過ごす。これが出来るまでは、何がなんでも、死ぬ訳にはいかない。
 幻想郷を飛び回り、その地形の一切を隈なく書き写して行く。四季折々の美しい幻想郷を組みたてようと、片っ端から資料を集めて回った。図書館の奥に押し込められている、資金集めの為に売り払った詐欺紛いの魔法道具達の中からも、使えるものはないかと漁りに漁り、苦手ではあったが、人里にも降りて人間から妖怪からと、話を聞いて回った。
 数平方メートルの範囲に、自分の知り得る幻想郷を再現して行くのだ。小規模スケールの太陽を産み、月を再現し、炎を授け、水を注ぎ、森を培養し、繁栄を授け、山々を築き、世界を整えた。
 どうやって人を用意するかと悩んだ結果、渋々アリスに協力を仰いだ。物作りに関してエキスパートである彼女が作る人形を譲り受ければ悩まずに済んだだろうが、それでは意味がない。細かい作業だったが、どうにか見知る人物達を、特徴を捉えながら完成させ、箱庭の中へと納める。
 いざ始動と相成ったが、実際に箱庭を稼働させてみると、箱の中の彼女達は一切の身動きをとらなかった。
 また悩む日々が訪れる。どうして彼女達は動かないのか。霊夢は縁側から動こうとせず、魔理沙は部屋に引きこもったまま、咲夜は掃除せず、レミリアは寝たきり。他の妖怪達も人間達も、須らく同じようなものだった。まるで生きているのに死んでいる。ある意味、怖気の走るようなグロテスクな風景だった。
 必要なものは何か。活気を与える以前の問題だ。
 人里の調整をしながら、稗田阿求人形と、上白沢慧音人形を手に取った所でやっと足りないものに気が付く。
 歴史とは自然の流れから何も無い所に生まれ、絶えまなく流れて行く。この箱庭幻想郷は、つまるところ歴史の中途から作られている。箱庭幻想郷を用意した所から、自然と時間が流れて皆が集わねば、正しい動きはしない。しかし、そんなものを悠長に待っていられる程時間はない。
 では最初からロジックに埋め込むしかない。
 稗田阿求、そして上白沢慧音から資料を預かり、箱庭に組み込んで行く。出来る限り忠実に再現はするのだが、そもそも歴史は主観によって変化する為、整合性は此方で合わせた。
 再度稼働させて様子を見る。しかし、どこかぎこちない。ある程度まともなのは一番歴史を知っている紅魔館のみで、残りはどれをとっても変、としか言いようがない。霊夢が嫌に積極的であったり、魔理沙が慎ましやかだったりと、見方を変えれば面白いのだが、目指すものとは異なる。
 何処かが変だ。いざ長い間観察していると、もっとも見落としてはならない部分を見落としていた。
 ここにあるものは現実ばかりで、幻想が何もない。では幻想とは何か。結局根本問題だ。
 一つ気になっていた事。箱庭という結界の内にあれば再現可能かと思っていたが、やはり必要なもの。その日に博麗神社まで飛び、彼女の居場所を聞き出す。博麗霊夢は知らないと答えたが、答えた先から現れてくれた。
 ある程度濁して、ことの次第を大妖、八雲紫に伝える。初めから教えてくれるとは思っていなかったが、彼女は意外にも幻想郷が作られたあらましと、自分の居住場所を告白してくれた。その時の眼は、恐らく憐れみだろう。如何わしい術を使い、人間も妖怪も翻弄する妖怪とは思えぬほどに寂しく、優しい表情だった。
 気がつけば、一年が過ぎ二年が終わり。今度は新しい勢力が顔を覗かせ始める。どこまで再現すべきかと悩みに悩んだが、妥協はするべきだとして、命蓮寺を箱庭に建立し、手打ちとする。
 新しい要素は新しい不具合を産むものだったが、しかし。八雲紫から預かった情報を組み込む事によって、それらは意外にもすんなりと全ての調和を保ったのである。
 舞台は整った。パチュリー・ノーレッジの偏見も相当に組み込まれているであろうが、そこには一見紛う事無きミニチュア幻想郷が出来あがったのである。
 この小さな世界で生きる子達は皆、自分で考え、自分で動く。様々な人々の様々な思惑が、幻想郷を動かして行く。これは確かに、劣化コピーであったかもしれない。見る人が見れば、他愛ない玩具に過ぎないかもしれない。しかし、その努力まで否定する者は単なる愚か者であり、人を認められない矮小な人物だろう。
 ここにはパチュリー・ノーレッジの生き様が積み上げられている。歴史と、知識と、魔力と、努力だ。
言いかえれば、それしかなかった。たったそれだけで、小さい世界は再現可能だった。
 御遊びに、幾つかのギミックも仕掛けてある。ガラスで覆われた数メートル四方の箱庭の台に据えられたボタンを組み合わせて押すと、異変が起きたり、天変地異が起こったり、ストーリーが紡がれたりするように出来ている。
 紅霧異変、春雪異変、砕月・永夜異変、幻想郷開花異変、博麗神社乗っ取り事件、地霊異変、月面旅行、宝船事件、気象変動・天人事件。パチュリーの知り得る限りの異変がまず、詰め込んである。天変地異は八雲紫の助言で据え付けたものだ。六十年に一度の周期で花が咲き乱れたり、川が氾濫したりするようになっている。テストで一度起こしたのみなので、次の六十年後そのスイッチを押すのは自分ではない。
 ストーリーに関しては、ちょっとした御遊びも仕掛けてあり、後から好きなように弄れるよう、ちゃんと説明書も用意してある。遊びではあるが、それにも重要な意味合いが当然存在する。この箱庭は幻想郷ではなくフィクションである、という明確な境界線なのだ。ドッペルゲンガーが本人と入れ替わるように、極端に酷似した存在は本物と刷り替わる可能性がある。これは所詮箱庭で、されど箱庭だ。
 基本的に組み込んだ物は本当に他愛ない物語と、幻想郷に存在する人々の、推測される過去の話など。当人達が見たら吹飯ものかもしれないが、何も知らない他人が見たら楽しめるだろう。
 とにかく、この箱庭はそういうものだ。
完成したら、様々な人々に見て貰いたい。パチュリー・ノーレッジという魔女がいかなるものを作ったのか。パチュリー・ノーレッジという人が、どんな人だったのか。
そして感じてほしいのだ。特に人間には。
 死せる者の黄昏。歩み至った先にいかなる答えを見出すか。
 さあ、いざ。最終調整に踏み切ろうとした時である。
 多岐に及ぶ作業、長い月日。気がつけばもう、三年も経過していた。だからだろうか。いや、恐ろしくて後回しにしていたと言える。後回しにしていたが故に、完全に頭の中からすっぽりと欠落していた、重要なものがあった。
 この箱庭の紅魔館には『パチュリー』が居ないのである。
 本当なら最初に作る筈だったパチュリー人形が無い。理由としては、自分を客観視出来ない事。自分が自分を作ると、思考的恐怖に陥る。まして、これは遺作だ。遺作の中に別の自分が生きていると考え始めたら、酷い未練が残る。
 しかし、自分無しで完成させる訳にはいかない。それでは、紅魔館が欠落してしまう。ここに再現されたものは、須らく、パチュリー・ノーレッジが生きている間の幻想郷なのだ。そして、これからも生きている幻想郷である。
 ……。見たくない、目を逸らしたい現実。しかし、日に日に貧血は酷くなり、咳も普段以上に出るようになった。完成させねば。だが、自分の人形を作るのは、あまりにも恐ろしかった。アリスにも相談してみたが、彼女もまた、自分の人形だけは作らないという。理由は自分と同じ、自分を客観視し続ける恐怖があるからだ、と。
 この世で一番恐ろしいものは、己自身。
 己自身。では、他人に作って貰う他ない。
 自分を加えた上での、紅魔館の歴史を紙に起こして行く。箱庭に組み込むものは、パチュリー・ノーレッジの軌跡なのだ。これを組み込まない事には、箱庭が完成したとはとても言えない。自分を除いた紅魔館の動きをよく観察してみても、やはりどこかぎこちない。元から動きの少ない場所という所為もあるだろうが、それにしては活気がない。
 活気だ。生物の営みには活気が必要なのだ。それを与えるものは、円満な家族であり、コミュニティである。自分を含めて暗い意味で健全な紅魔館は、やはり自分が必要だった。
 ……。
 自分が必要なのである。この思考、この葛藤。これが、パチュリー人形を作る上での障害に他ならない。
 頭をかきむしり、物に当たる。死に逝く恐怖に全身が粟立ち、吐き気すら催す。普段筋肉を使わないものだから、急激に動かした腕の筋がつってしまい、身悶えする。阿呆か、馬鹿か、何度も何度も自分を罵り、今度は興奮のあまり動悸が激しくなり、血流が悪くなる。白くなる思考を、腕に噛みついてまでして、なんとかとどめようと努力するも、気が付いた頃には小悪魔に起こされていた。
 不甲斐無く思い、憂鬱になる。小悪魔はただの雇われだというのに、酷く心配してくれた。なんだかんだと荒っぽく命令したのにだ。たまに謝ってみれば、今更か、らしくないから止めろと怒られた。召使いにである。
 誰も。
 誰も、死など望んではくれていない。死を望まれるほど、自分は迷惑もかけていないのだろう。それは幸いだろうか。繋がりの薄さ故の不幸だろうか。レミリアは、妹君は、咲夜は、美鈴は、泣いてくれるだろうか。
 こんなにもなってしまった魔女に、涙を流してくれるだろうか?
 もはや、死に逝くものが期待するものは、生者の涙以外になかった。
 自分の人形を作ってくれる人物となると、あまり選択肢はない。人形作りに協力してくれたアリスに頼み込んだが、これは断られてしまった。小悪魔を遣いに出した所為かもしれない。どうせ、余計な事を喋ったのだろう。半べそをかきながら否定したというのだ。きっと死ぬだの死なないだのと口にしたに違いない。そんな重たい責任を背負えないと、彼女は断った。
 しかし、こんなボロボロの自分が赴いたところで同じだっただろう。当然、小悪魔を責めるつもりはない。
 とはいえ、アリスに否定された後、他に誰を頼れば良いのか思いつかなかった。家族たる紅魔館人々には頼み難いし、かといって他人に任せられる程、軽い人生は送っていない。
 消去法、なのだろうか。
一人、不肖の弟子がいる。自分も相手も、師弟関係にあるとは口にしていないが、たびたび現れては弾幕で争い、その都度研究したり模倣したりする彼女は、正式な儀式を踏まないまでも、弟子といっても過言ではなかった。
 残すものはあらかた作り終えた。大図書館の本達も、このまま死蔵させておく訳にはいかない。するとなれば、正式な魔女を目指す本が大好きな人間弟子に全てを預け、管理を任せた方が良いだろう。
 その為には、教えねばならない。この図書館の守り方。管理方法。小悪魔の扱い方。そして箱庭の操作方法。紅魔館での所作もそうだ。とにかく、学ばせねばならない。
 ……。ならないが、時間はない。レミリアを説得している暇もない。
 幸い、レミリアが大事にしているメイドとは関係良好と見えた。悪いとは思うがなりふり構っていられない。メイドを足掛かりにして、レミリアの説得をはかろうと、そう考えた。
 やがて、彼女がやってくる。いつものニヤニヤ顔で、今日はどんな本をパクろうかと、人が死にかけであるのに。
 だが、それでいい。彼女は彼女然と、霧雨魔理沙は霧雨魔理沙でなくてはならない。パチュリー・ノーレッジが、最期までパチュリー・ノーレッジであったように。魔女はどんな過去を持とうと、魔女でなくてはいけないように。

 ――パチュリー。

 何の因果もない娘だ。

 ――――パチュリー・ノーレッジ。

 幻想郷なんて特殊な土地に生まれて、超常能力を羨むあまりに、道を踏み外した哀れな娘だ。術式はめちゃくちゃで、智恵も及ばず、立派な魔女など遠い先の現実でしかない、そんな霧雨魔理沙。
 だが、と思う。
 だが、パチュリー・ノーレッジには、そんな不完全さこそが愛しく思えた。生まれた時点で可能性の潰えていた自分とは違う、無限の広がりを彼女に見出していたのだ。十年、百年と掛るかもしれない。もしかすれば、千年経っても今のままかもしれない。
 しかし、稀代の魔女の慧眼には、霧雨魔理沙が燦然と輝く金星の夜を、我ここにありと泳いで回る姿が見えた。
 太陽かと見間違う程の明かりの中、星の弾幕を瞬かせ、ニヒルに笑い、自由自在に縦横無尽に駆け回る姿が見えた。
「パチュリー、お前の死因は戦死だ。病気じゃない。寿命でもない。お前は、お前の愛する大図書館を守って死んだ。掠奪者たる私に、奪われたんだ。お前はここの主、だった。残念だったかもしれないが、勇敢に戦った。カッコいいだろう」
(儚く――死にたくなかったの)
「じゃあ、望み通りだな。お前は幸せだよ。死にたいように死ねるんだ。幸せだよ、パチュリー・ノーレッジ」
(世界が――回るわ。ぐるぐると、色々まわって、まわって……ああ……そう、ありありと思いだせる)
「……」
(家を出た時の事……旅先で人間や獣に襲われた事……上海に辿り着いた時の事……美鈴の尖った声、レミィの笑い声)
「そうか」
(初めて小悪魔を召喚した時の事……妹様と喧嘩した事……幻想郷への筋道を見つけた時の事、みんなの不安そうな顔)
「……そうか」
(幻想郷に辿り着いた時の安堵の声……調子に乗ってボロボロにやられたレミィの泣き顔……)
「ああ、ああ、そうだな。百年は、長いからな」
(咲夜が現れた時の事……咲夜が初めて笑った時の事……それに、貴女が来た時の事……)
「私も思い出せるぜ。お前は、偉く強かったな」
(……貴女は……霧雨魔理沙)
「――……あ、ああ。ああ、そうだ。そうだとも。私だぜ。霧雨魔理沙さんだ」
(そう……か……そうだったんだ……だから……わたしは……貴女を、選んだ)
 駆け巡る走馬灯。
去来する、言い知れない想いに、胸が苦しくなる。
それは身体から来る痛みではなく、もっと心地良い何かだ。
 壊れた装置のように、何度となく、何度となく、記憶が巡り巡って行く。
 東方の最果て、全ての記憶が詰まった大図書館の中で、本に抱かれながら、未練なく、憂いなく、意気揚々と死に逝く。
 矜持を持ちながら朽ち果てる事が、まさかこれほどまでに快感であったとは、想像だにしなかった。
 生を受けて百十余年。
人間と同等の寿命だろう。
 知識は埋まれど人生は隙間だらけだった。
何せ百年、図書館にしかいないのだから。
 文字に起こせば平べったい、
語る事は多くない生。
 だが、そこには確実に、
誰にも覆す事の出来ない深い想いがある。

 カタチがある。

 良い生だった。

 曇りなく、
 疑いなく。



 ……良い生だった。







 動かない本棚





「ご主人、こちらの荷物はどうしましょう」
「そいつは倉庫にぶち込んでおいてくれ。足もとの荷物はワレモノだから扱いに気をつけろよ」
「はい。ではこちらの……元ご主人のものは」
「何が入ってるんだ」
「マジックアイテムやら、その他諸々」
「箱庭があるだろ」
「はあ」
「一般公開するから、それと一緒に飾るディスプレイには丁度いい。人前に出せそうなものを見繕っておいてくれ」
 いざ大図書館に引っ越してくると、面喰ったのはその煩雑さだった。当然、機能的な煩雑なのだろう。パチュリー的に欲しいモノがすぐ取れる場所にはあったのだろうが、他人からするとそれは煩わしいもの以外何物でもない。大図書館に来て最初の仕事は、この広大な場所の整理整頓と機能向上。どうせ、暫くすれば魔理沙的煩雑さになる。そうなれば、もう間違いなくその場所は魔理沙の物だ。それに、最初ぐらいは整理しておかねば、いざ箱庭の一般公開の折りになって慌てるハメになる。
 パチュリーはだいぶ前から先が短い事を悟っていたのだろう、図書館の管理方法から紅魔館でのルールまで、須らく本に納めていた。さながら分厚い取り扱い説明書である。それとは別途にまた資料があり、此方には権利譲渡の条件と契約書、そして箱庭に関する資料、紅魔館が現在に至るまでの経緯などが、ハードカバー本で三冊程用意されていた。
 普段から細かい事など気にしない霧雨魔理沙だったが、知人最期の頼みとあれば聞かない訳にもいかず、資料を全部読み終わったのは、彼女が亡くなって二週間経った昨日である。
 パチュリー・ノーレッジの葬儀は遺体無しで行われた。魔理沙の攻撃によってズタボロになった訳ではなく、最期まで強く美しくあった彼女らしく、消えて失せたのである。人間として死に、精霊として消えたのだ。
 レミリアはそれについて理解し、紅魔館だけでの密葬とあいなった。ただ、葬儀の終わりにレミリアは『あいつが帰ってきたらさっさと退けよ』と言い放っている為、まだ親友の死を受け止めていないのかもしれない。もしくは、人間ではなく精霊としての復活を期待しているのだろう。
 レミリアには悪いが、恐らくそれはない。彼女は死を確実に受け止め、満足して逝ったのだ。
 大魔法使い、パチュリー・ノーレッジは死んだのである。
「私は箱庭の様子を見て来るから、小悪魔、お前は整理を続けてくれ」
「はい、ご主人。あの」
「なんだ?」
「出来れば、その机のペン」
「ああ、パチュリーが使ってた奴か」
「頂きたいのです。駄目でしょうか」
 小悪魔が分厚い本を本棚に納め、改めて振り返る。紅く長い髪で顔は見えないが、思う所があるのだろう。
「マニュアルには『小悪魔がおねだりしても、簡単に物を与えてはいけない、つけ上がる』と書いてある」
「……そうですか」
「構わん、形見に持ってけ。それに、お前の家も仕事場もここなんだ。新参の私に遠慮する必要もないぜ。何かあれば、一言寄こせ」
「――ありがとうございます、ご主人。末長く、どうか」
「ああ」
「では早速なのですが、再契約の儀式としまして精気を多少頂きたいのですが」
「パチュリーはお前をよく見てた。お前が何を考えているのかフローチャートまで組んであるぞ、この小悪魔取扱説明書」
「うぐ」
「私はお前らよりも年下で、人間だが、ここの正式な主で、そして魔法使い様だ。使い魔がナマいうんじゃない」
「失礼しました」
「じゃ、よろしく」
「はい」
 新しい主を傀儡にしようと企む小悪魔を適当にあしらい、研究区画へと向かう。同じ部屋だというのに、歩けば五分も掛るような場所にある為、箒に乗って移動する。
棚と称するにはあまりにも壁的な本棚の合間を潜り抜けて行く。何度となく御世話になったが、いつみてもこの光景は圧巻だ。彼女が誇り、彼女が拠り所とした理由に十分値する。
 ……これからは自分が統治する領土だ。泥棒には十分注意する必要があるだろう、などとぼんやりと考え、一人笑った。
「……お、何してるんだ、こんなとこで」
「あら、魔理沙様。ごきげんよう。此方に御用事でしたか」
「様って……」
 結界を通り抜けると、そこには咲夜が居た。彼女は振り向き、優しい笑顔を投げかける。レミリアが魔理沙の大図書館居住を許可したのは、パチュリーの遺言であったが、十六夜咲夜の説得が大きかった。実質的な紅魔館の支配者たる咲夜がどうしても、と言えば、レミリアはまず否定出来ない。その辺り、パチュリーの思惑通りだったのだろう。
 逆に言えば、咲夜にイニシアチブを取られた事になる。今後彼女に逆らうとなれば、相当の覚悟が必要になるだろう。
「大図書館の主ですもの、当然敬称付きになりますわ」
「悪い気はしないが。まったく、マゾだなお前も」
「生粋のメイドですの。ご主人様達のワガママをきいて生き甲斐にする生物。何なりとご注文を」
「こんな所で何してたんだ?」
「箱庭を見ていましたわ。箱庭の中で働く私を」
 咲夜の隣に立ち、箱庭を覗き見る。クローズアップされた箱庭は、紅魔館内部を映し出していた。箱庭の時間は夜らしく、レミリアが意味も無く館を徘徊し、フランドールが地下で暴れ、咲夜は門番をいじめていた。
「私って、そんなに美鈴を苛めていましたっけ?」
「何せパチュリーの主観の世界だからな。奴にはそう見えたんだろうさ」
「そう、ですわね。ええ、確かに。戯れていたといえばそうですわ。あの子、直ぐサボるからその相手をする為に」
「苛めと戯れを一緒にされたら、美鈴もイタタマレナイぜ」
「あら。魔理沙が、いえ、魔理沙様がいらっしゃいましたわ」
「む……」
 あまり自分は見たくないのだが、箱庭の中で自分がどんな立場にあるのかは気になる。それにしても、咲夜は延々と自分を見続けて憂鬱にならないのだろうか。そこを質問すると『主観と客観は同期されたように全く同じで瀟洒ですわ』と答えられた。元から自分を完璧だと自負している人間には、この箱庭も思考恐怖を巻き起こす事が無いのかもしれない。
 箱の中の霧雨魔理沙は、箱の中の十六夜咲夜と楽しそうに会話して、紅魔館の中へと案内されて行く。どうやらこの魔理沙は図書館が目的ではないらしい。咲夜が掃除をさぼり、二人でティータイムを始めた。
「あらやだ。セキララですわね、この装置」
「会話、聞こえるかな」
 据え付けられたスイッチで二人の行動をクローズアップする。この人形達は一応自律人形に分類される。とはいえ、この程度ならアリスでも可能だろう。場所が限定されている為だ。アレが目指しているものは、限定されず動く、人と大差ない人形である。
 しかしこの中に限っては自律人形。つまり、自分で物を考え、自分で行動して自分で喋る。
『大図書館はまだ開かないのか?』
『閉鎖中よ。でも、大図書館って』
『解らないが、大図書館に行かなきゃいけない気がするんだ』
『そう、何故かしら。誰もいないのに』
 咲夜、そして自分も、眉を顰める。この二体の人形の会話に酷い違和感があった。会話を眺めながら、大図書館を認識出来ていない不具合について考え、一つ思いつく。
「咲夜。机から大図書館マニュアルを持ってきてくれ。それと付属の本も」
「二秒お待ちください」
「ああ」
「持って参りました」
 流石の瀟洒さだ、などと褒めるでもなく、本を受け取って何度も捲り直す。マニュアルにしては、付属本の厚さが普通ではない事に対して違和感を覚えていたが、どうやら答えは単純なものであったらしい。
「ここに書かれているものは、紅魔館の歴史ですわね。パチュリー様が紅魔館にいらしてからの」
「なんでこんなもん、とは思ったが、なるほど」
 最後のページに、魔理沙宛のメッセージが紙きれ一枚挟んである。
「『尚、パチュリー・ノーレッジは存在していません。貴女の思う私を作って、加えてあげてください。紅魔館の歴史を入力する事によって、正常に動作します』だとさ。……あいつ、やっぱり自分で自分を作れなかったんだ」
「ああ、だからご自分を見る事がなかったんですわね、パチュリー様」
「しかし……」
 貴女の思う私を作ってください、と言われても、そう簡単に出来るものでもない。マニュアルにはアリスが技術協力しているとは書かれているが、この箱庭の住人を作ったのはパチュリーである。箱の中とはいえ、自律稼働する奴等をどう作るかなど、まるで解る訳がない。一応手順も書いてあるのだが、方法があまりにも高難度だ。
「何年後になる事やら」
「そうでしょうか。直ぐ出来るからこそ預けたのだと思いますけれど」
「……むう」
「それに、完成しませんと一般公開出来ませんわ、魔理沙様」
 咲夜の眼は早く作れ、と言っている。
 紙きれに書かれたパス(単純にスイッチの組み合わせ)を入力し、クローズとされていた大図書館をこじ開ける。
そこには、ミニチュアスケールだが本物と大差ないディテールの大図書館が存在した。パチュリーが主に作業をしていた机がポツンとあり、小悪魔の人形が据えてある。
 小悪魔の人形は、此方を見上げている。いや、正確には箱庭の天井なのかもしれない。だが、魔理沙にはその小悪魔人形が、早く作ってくれと懇願しているように思えた。
「魔理沙様の、紅魔館における最初のお仕事は、この箱庭を完成させる事ですわね」
「最初の作業が一生続きそうだがな」
「大丈夫ですわ」
 咲夜がそのように言い、魔理沙の手をとる。その瞳は期待に満ちていた。彼女の瞳に答えるだけの力を、自分は持っていない。一体、どんな買い被り方をすればそのような言葉を発せられるのだろうか。パチュリーもそうだった。皆が、何か霧雨魔理沙に期待している。
「魔理沙様は、私を倒し、そしてパチュリー様に引導を渡した。これは、並大抵ではありません。貴女は何か成し遂げられる力を持っている。そう思うからこそ、私は、そしてパチュリー様は、貴女に期待していますわ」
 ……この館に腰を据えると決めた時点で、せめて元主の願いの一つや二つぐらいは、叶えてやらねばならない。責任なのだろう。縛られる事を嫌い、好きに生きて来た霧雨魔理沙、初めての責任だ。これほどまでに重たいとは思わなかった。これほどまでに期待されるとも考えていなかった。
「私は誰だ? 未来の大魔法使い様だぜ、咲夜」
「ええ、そうでしょうとも」
 その肯定に、力強く頷く。死んだ彼女の遺言を再現せねば。
 せめて、人形としてだけでも、彼女には未来永劫、幸せで居てほしい。
 魔理沙は咲夜にお茶を持ってくるように指示してから、腕をまくり、箱庭への情報入力にかかった。
 口だけならば、何とでもいえると解っていながら。

            ※

 つまり、これらは様々な素材で出来ていた。粘土細工にしてあるもの、中に綿が詰めてあるもの、藁がつめてあるもの、他には石や草や花、そもそも物質で出来ていない人形もある。中身こそ違えど……果たしてどのような技術か、見た目は皆均一性のある、実に良くカタチの整った人形達なのだ。
 作業手順はパチュリーの拵えた説明書に書いてあるが、一体どのレベルの者を対象にした説明書なのか、霧雨魔理沙では単語を拾うので精いっぱいだ。とてもこれでは敵わんとして、アリスにも話を伺ったが『任されたのなら手前で作れ』と門前払いを食らう始末である。
 紅魔館の魔術関連は全てパチュリーが担っていた為、他に詳しい奴もいない。その他知識人を当たるにしても、そんな質問をすれば鼻で笑われるだろう。魔理沙が置かれている状況というのは、実に繊細で、他人が干渉し難い問題だ。
「精が出るな、雑魚魔法使い」
「正しくそれを実感していた所だぜ、畜生ご主人」
 詰め込んで何日が経っただろうか。図書館の整理もおざなりなまま、霧雨魔理沙は停滞期にあった。パチュリーのマニュアルに従い、箱庭への入力作業は一部を除いて終えたが、そんなものは誰にでも出来る。周辺に散らばる残骸は全て人形制作で出たゴミだ。
元から作る事に特化していない霧雨魔理沙にとりて、ジッと机の上で作業する事は苦痛以外のなにものでもなかったが、ようやく形らしい形は出来た。が、アリスなどには死んでも追いつけそうにない酷い出来で、それこそパチュリーにすら足もとにも及んでいない。子供が戯れに作った土くれ人形のクオリティを多少上げた程度の出来だ。
 大見得を切っておいてこれでは、誰にも合わせる顔がない。
「……なんだそれは」
「パチュリー以外に見えるか?」
「喧嘩売っているの?」
「自分でも落ち込んでるんだ、そう責めないでくれ」
「自覚あるのね」
 レミリアは人形を手にし、顔を顰める。新しい家人の様子を見に来たのだろう。そいつがしている事といえば、低クオリティのフィギュア制作である。魔理沙自身もその辺りは解っているので、言葉もない。
「ま、愛嬌はあるわね。あと、目はもう少し座ってる感じだわ。性格の設定資料は?」
「これだが」
「……この『陰気臭い』『眠そうにみえる』ってのはちょっと違う。『外だと陰気臭く見える』『外だと眠そうにみえる』に書き換えた方が良いわ」
「そうか? じゃあここだが」
「ふむ。細かい修正だけど、精霊を扱う程度の能力と七曜を操る程度の能力についての差異が問題だわ。それと……」
 レミリアは魔理沙製パチュリー人形に注文をつけながら、あれこれと修正を加えて行く。咲夜から話は聞いているらしい。実際、こういう細かい点については、魔理沙よりも紅魔館の怪物達の方がよほど詳しい。
とはいえ、人形のデキに対して深く突っ込まないのは、レミリアも咲夜もだいぶ制作が苦手だからだろう。
「こんなもんかしら」
「悪いな」
「パチェの遺品のお披露目に必要なら、まあ手伝いぐらいするわよ。お前はもっと努力しな」
「はいはい」
「あ、そうだ。すっかり忘れてたわ」
「なんだ?」
「花よ。花。それにそろそろ咲く頃だわ」
「花だ?」
「起源物を組み込まない手はないわ。特にお前みたいに魔力も少なくて、何かと至らない奴が人形を作るならね」
 手厳しいレミリアはニンマリと笑い、羽をぱたぱたと動かす。起源物と言う事はつまり、パチュリー・ノーレッジの起源に関わるものなのだろう。まるでその辺りについて聞いた事がない魔理沙は小首をかしげる。
「確か鉢があったのだけれど。まあ、庭に出て門番に聞けば解るかしら」
「そうかい」
「魔理沙」
「なんだ?」
「出来たら、認めるよ。その時の愛称は、マリーで良い?」
「死んでもやめてくれるか?」
 カカと笑い、レミリアは去って行く。彼女なりに、一応は現実を受け止めていると見えた。過去、何人も召使いや友人を失って来た事だろう。何せ五百年だ。五百年もあれば、五十まで生きる人間が十人は入れ替わる。乱世の時ならもっとだろう。一期一会の人間、妖怪、同族を合わせたら、両手両足でも足らないだろう。
 あれは人間を食料にする怪物だが、その内に秘めるものは長い年月を生きる吸血鬼としての矜持と、誇り。そして似つかわしくない、繊細な心だ。不敵に笑う姿すら、哀愁が漂う。
 パチュリーが残した紅魔館の歴史について書かれている本にも、レミリアの記述は多い。親友として、居候として、魔女として、様々な観点から、レミリア・スカーレットが考察してある。
 最初は煩わしい奴だと思っていた。今だってそう思っている。だが、彼女程慈悲深い奴も、幻想郷にはいないだろう。
 祖国を追われ、産まれ落ちた館と共に世界を転々とし、吸血鬼らしく生きようと努力するも、しかし現実の幻想度は日に日に薄まって行く。吸血鬼を恐れる輩などいなくなり、最後にはレミリアという夜王の名前も失われた。鬱屈とした毎日、荒む精神と、弱まる力。上海を最後にし、彼女は静かに消えようとまで考えていたという。
 ……だが、それを救い、彼女を幻想たらしめたのが、パチュリー・ノーレッジだ。
 親友の死は彼女の心にどんな闇を落としたのか。魔理沙では、理解するのに生きた時間が、まだ足らない。
 工作ナイフを机に置き、ウンと背伸びをして立ち上がる。百年も机の前に座っていたら、身体が鈍って仕方がなかっただろうなどと思いながら、箒を手に図書館を後にする。
 パチュリーが起源とする花、と言われれば、当然パチョリの花を思い出すが、あまりピンとこないでいた。大図書館にはこの臭いが染み付いていて、いつの間にか慣れてしまっていたが、花自体は観た事が無かったのだ。
確かに、精霊は何にでも宿り得る。幻想郷を見渡せば解るが、幻想郷の、特に美しく咲く花などには、そこそこの力を宿した妖精などが住み着いている。元から精霊の者、長い年月を経て妖精からランクアップして精霊になった者などがおり、日本文化圏においては、自然の権化として奉られる事もしばしばだ。
 精霊イコールではないが、つまりは神に近しい存在である。守矢神社に居を構える神二柱も、元を辿れば山坂の神と、民族宗教の集合体に他ならない。想いや願い、目に見えない力とは、人間と同じようにして意志を宿し、具現化する。
「よう」
「む、霧雨魔理沙……何時の間に侵入……」
「生憎、お前の上司だ」
「これは魔理沙様、こんな雑多な庭にどんな御用でしょう」
 魔理沙が自分の上司だと思いだしたのか、美鈴は太極拳の構えを魔理沙に向けながら敬語になっている。言葉と身体が不一致だ。
「パチョリを探してるんだ。生憎、私は生葉を見た事がないでね。大概、乾燥品かオイルだけだったからな」
 独特の香りがあり、人によっては避けられる傾向があるタイプのアロマになるパチョリは、寺院などで薫香として焚かれている事が多い。エキゾチックと称するのは簡単だが、なんとも言い難い臭いだ。鎮静効果などが見込めるので、読書する環境には丁度良いだろう。
「ああ、あのアジア的な香りの。摘むと臭いが付くんですよね。ただ、その分虫も寄ってこないので、嫌いじゃないです」
「図書館で焚いてたのも、この庭園にあったものか?」
「ええ。パチュリー様が好んでいたもので。摘んで乾燥させたり、蒸留してオイルにしたりしてましたね。何で好んでいたんでしょうね?」
「名前、名前」
「……あ、あー、あー、な、なるほど。あー、そっか!」
 どうやら今更気が付いたらしい。彼女は頭をかきながら『こりゃまいった』などと言っている。
「パチョリはタミル語。ナレッジは英語。花と知識の魔女だ」
「パチュリー様は、なんでもご存じでした。でも、図書館ばかりにいるから、体験が少なくて、現実とかい離した行いも多かったですね。ああ、パチョリならこっちです」
 美鈴に導かれ、紅魔館の庭園でもだいぶ奥まった場所に連れられる。そこにはシソ科らしい葉を湛え、小さく白い花を咲かせた植物が、かなりの数植えられていた。元から育ち易いものなのだろう。木陰に植えられているのは、直射日光が苦手な為だ。まさしく、パチュリーそのものらしい在り方と言える。
「パチョリも日が苦手なんです。パチュリー様も苦手でしたね、インド出身なのに」
「あいつは、お前に良くしたか?」
「初対面で殴られました。殴れといったのは私ですけど」
「そりゃまた過激な出会いだな」
「魔法の実験台にするし、使いっパシリにするし、命令は理不尽だし、そりゃあもう新参のクセにめちゃくちゃでしたよ」
「奴らしいな。遠慮、知らなそうだし」
「ええ。でも、それは彼女が寂しいからなんですよ。ずっと図書館に幽閉されて、父も母もまともに顔を合わせず、最後は家を追い出された。だから、彼女は構ってほしかったんです。それに、家族が欲しかった」
「お前の推測か?」
「そうですけど、違います。魔理沙……魔理沙様。私はですね、パチュリー様と魔理沙様、似たもの同士のように思えるんです。あえて、今言っておきます。貴女はどうしようもない寂しがりだし、ワガママだし、根なし草」
 美鈴はパチョリを一つ摘み、此方へと差し出す。生えた状態とは打って変わって、摘まれたパチョリの芳香が鼻を突く。それを受け取ると、美鈴は帽子で顔を隠し、俯く。
「未だ信じられないんです……未だに。信じられないけれど、心の何処かでは、理解してて、思い出すと、涙が出て、悔しくて、悲しくて、どうにもならなく、なるんです。あの、あの寂しがり、向こうの世界に行って、行って、さ、さみし、がって……う、寂しく、泣いたりしてませんよね? 暗くて、本がたくさんないと、みんなに囲まれてないと」
「パチュリーは満足して逝ったよ。それに、沢山のものを残した。そうだろう?」
「……はい」
「それに、一番デカイのも、ある。今、完成させようと、だからここに来たんだ。あれを見れば、忘れっぽい妖怪のお前らでも、何時でも思い出せる。紅魔館にどんな奴がいたのか。パチュリーってのは、どんなもんだったか」
 自分が作っているものは、きっとそういうものなのだ。泣き虫のこいつ等の心を埋め合わせる装置。妖怪のクセに寂しがりだった、紅魔館の奴等をいつまでも泣かせない為のもの。こんな過去もあったなと、笑いあえるようにするもの。その責任は重い。
 パチョリを握りしめ、美鈴に背を向ける。
 彼女は魔理沙を根なし草と、ワガママと、寂しがりと表現した。まさしくその通り、まるで一つも否定できない程、どうにもならない正論だ。父と喧嘩して家を出て、殆ど一人で暮らして来た。あっちに行き、こっちに行き、適当にぶらついては適当な住処を見つけて過ごす毎日。やがてそれが耐えられなくなり、家を構えた。それでも、寂しがりの自分は、ワガママな自分は、知り合いにも、兄代わりにも、ちょっかいを出しては迷惑を掛けて行く。
 やがて見つけた遊び場の一つが、紅魔館だっただけだ。
 パチョリの花を胸に抱き、死んだ彼女の香りを思い出す。どこか古臭く、懐かしい香り。この香りを嗅いだのは、何時が最初だっただろうか。紅魔館に初めて来た時はただ黴くさいだけかと思っていたが、何か違う。
 その内思い出すだろうなどと考え、館の中に戻る。今は箱庭完成に向けて頭がいっぱいだ。
 地下へと降り、大きな扉を押し開いて図書館へ入ろうとしたところで、服の裾を何者かに掴まれる。振り向けば、そこにはフランドールが佇んでいた。
「パチュリーの匂い」
「そっか。最近図書館じゃ焚いてなかったしな、お香も。これだよ、この花」
 フランドールは花を受け取ると、それをおもむろに握りしめ、小さくしてしまう。また取りに行くのは面倒だが、大図書館の主は妹様のご機嫌取りも仕事の内だ。批難の声は上げず、その行為を見守る。握りしめた所為で、より一層パチョリの香りが辺りに広まった。乾燥させたものとはまた違う、瑞々しくも淡さの無い刺激臭だ。
「臭い、とれないぞ、それ」
「……パチョリ」
「ああ、そうだ」
「あの子の匂いよ。むしろ、あの子そのもの」
「……ああ」
「吸血鬼でもないのに、日向が苦手なあの子。魔理沙も日陰の人になるの?」
「どういう意味だ?」
「加工品は、所詮加工品なのよ。模造品も、模造品でしかない。そこに絶対的な価値観がない限りは」
「難しい物言いだな。トンチか何かか?」
「貴女は誰?」
 フランドールはそこまで言うと、握り潰した花を床に打ち捨てた。凶悪な握力の御蔭で、半ば水分が失われている。魔理沙はそれを拾い上げてから、図書館に入ると扉を背にして、潰された花をおもむろに見つめる。
「加工品は加工品。模造品は模造品。お前は誰だ……か」
 解っている。
 霧雨魔理沙はパチュリー・ノーレッジではない。如何に頑張ろうとも、霧雨魔理沙がパチュリー・ノーレッジになり得たりはしないのである。自分は自分。他人は他人。言われずとも解っている。
 解ってはいるが、今は彼女に少しでも近づかなければ、皆が欲するものを完成させられないのだ。
「……最初から、無茶なんだよ。私みたいな小娘が、どうやってあんな魔法使いの真似が出来る? 一生を魔法に費やした妖怪だぞ? 私なんて、まだ魔女ですらない。物作りだって経験も少ないんだ。私は、霊夢のような天才じゃない。パチュリーのような出自でもない、強力無比な吸血鬼でもない。なあ……咲夜」
 足音もなく近付いて来た咲夜を牽制するように、しかし、想いを吐露するように、力ない言葉を紡ぐ。目の当たりにする現実に、どうにもならない葛藤が襲うのだ。自分はパチュリーに馬鹿にされているのではないかとまで、考える。考えて、しかし、あの最期の瞳が冗談を言っていたとも、とても思えない。
「答えは、やりきった後にしか出ないと、パチュリー様は仰いましたわ。そしてパチュリー様は答えを見つけて、満足して逝った。魔理沙様、何故、そうして踏みとどまるんですの?」
「足りないんだよ、明らかに。私には高等な創作技術は無いし、それを補う魔力も無い。例えこの花を人形に組み込んだからと言って、出来るものが完成品だとは限らないだ。それに、これを組み込んで駄目なら、私にはもう術がないんだぜ」
「やってもいないのに何故解るんですか」
「……」
「……。解ってます。重たいんでしょう。責任が。ちゃらんぽらんに生きて来て、まともに責任なんて背負った事がない貴女様にとって、重圧でしかない」
「……ああ」
「何が足らないか。答えは明白ですわ。貴女様は単なる客人で、パチュリー様に対する気持ちなんて微々たるもの。モチベーションは上がらないし、失敗すれば役立たずと罵られると思ってる」
「……ああ。そうだよ。当たり前だろう?」
「馬鹿にするのもいい加減にして欲しいものだわ。誰が、どうでもいい奴に大図書館を預け、誰が、どうでもいい奴の為にご主人様を説得して、誰が、他人の居住を許可すると思ってるの?」
 咲夜の眼を見るのは恐ろしかったが、顔を上げざるを得ない程の言霊。その高圧的な言葉は、震えていた。スカートの裾を握りしめ、唇をかみしめ、目尻に涙を湛え……十六夜咲夜は、怒っていた。咲夜の泣いた姿など、きっとご主人様ですら見た事はないだろう。葬儀の折にも、彼女は瀟洒に振る舞っていた。涙をこぼす事なく、眉一つ動かさず、紅魔館の日陰にひっそりと佇む墓に献花していた。その咲夜が泣いているのだ。
「そんな程度の失敗で、アンタを放り出したりしないわよ。紅魔館の人達は、アンタを家族として認めようと、必死に自分を説得しているの。パチュリー様の遺言だもの。パチュリー様がアンタに預けると言ったのだもの。そんなアンタが、そのへんのあまっちょろい能力者や妖怪以下の訳がない」
 言葉も無い。最初こそ、駄目なら出て行こうと考えていた。何せ自由人を売りにしていたのだ、レミリア等もそれで納得して適当にするだろうと、思っていた。だが、実際に領地を得て、紅魔館の人々と過ごし、馴染み始めてしまった後では、また自分が根なし草になってしまうのではないかという恐怖が湧きあがったのだ。
 霧雨魔理沙はどうしようもなく、寂しい生物だった。そして、ここに暮らす人々もまた、同じ。一度仲間と認めたものを、そう簡単に放りだす訳がない。皆が皆、放りだされて来たのだから。紅魔館に限らないだろう。幻想郷と言う場所は、そういう場所なのだ。
「……くそ」
 ただ、同時に芽生えるものがある。共同体になればなるほど、煩わしい関係は増えるのだ。根は欲しかった。安住の地に迎え入れられ、そこで悠々自適に暮らせるのならば文句など一つも無い。だが、家族としての責任は付いて回る事になる。ましてそれが死者の遺言で、今までホボ他人であった『家族』ならば、尚更だろう。
「どちらへ」
「散歩だ」
「……お気をつけて」
 凄む咲夜に背を向ける。
 彼女が怒っているのは、霧雨魔理沙を信じているからだ。そもそもどうでも良い他人ならば、わざわざ怒気を荒げて無駄な体力を使う筈もない。しかし、だからこそ、それが煩わしい。

            ※

 箒に飛び乗り、紅魔館を後にする。行くあてなどない。ない故に、夜の空を駆け、その足は直ぐ元の自宅へと向いた。
 家というものは、人が住まなくなると直ぐに寂れる。雰囲気もあるだろうが、支配権が家主から居候達に移った時点で、ある種空気的な改築が行われる節がある。虫や小動物達がねぐらにすると、家は余計に寂しい産物と成り果てるのだ。
 自宅の扉の前に立ち、小さく言の葉を紡ぐ。同時にロックが外れ、扉は大きな口を開いた。
 中に入ると何をするでもなく、紅魔館からくすねたワインの瓶を手に取り、下品にもラッパ飲みしてから、その身をベッドへと放り投げた。
(……)
 やはり、どこよりも落ち着く我が家。何も気兼ねする必要がなく、何の因果もなく、何の徒労もない。自宅とは常にそうあるべきだった。今、一応の自宅とされている紅魔館は、そんな心許せる雰囲気はない。右を見ても左を見ても、早く完成させろという視線ばかり。たまに別の話をしても、必ず話題に入ってくる。
 出来もしない事を期待されるプレッシャー程、辛いものはない。魔法使いなら他の魔法使いが行っていた事を出来るか。答えは当然否だ。学んだ魔法系統が違えば、学んだ過程も違う。まして、歴史がそもそも違いすぎる。勝手に預けて逝った彼女は百年。自分は良い所十年。この九十年の差を如何にして埋めるかなど、手法や発想でどうにかなるものではない。
 手詰まり。堪らなく憂鬱だった。
(……ん)
 感情的になっていた所為だろうか、ポケットにはフランドールに握りつぶされたパチョリの葉をいつの間にか詰め込んでいた。カラカラになってしまっているソレを、呆として見つめながら、大きな溜息を吐く。
 咲夜は答えを出す前に諦めるなと言う。その言葉もまたパチュリーからの受け売りだ。
彼女が亡くなって数週間。彼女の落とした影が薄まるにはまだまだ早すぎる。大図書館の秩序と存在意義は、未だ彼女の下にあるのだ。霧雨魔理沙は後釜を任されただけに過ぎない。そして長生きの彼女等の事だ、その影をいつまでも、いつまでも引きずっているに違いがない。そうなると、今後ずっと、霧雨魔理沙は大図書館の主ではなく、大図書館の主を任された人、というだけの肩書になる。
 咲夜は家族になれるよう皆が納得しようとしていると言う。当然、無理だろう。
 イレギュラーは何年たってもイレギュラーだ。
 咲夜は違うかもしれない。だが、レミリアが、フランドールが、美鈴が、小悪魔が、認めるだろうか?
(――何が家族だ)
 自分にも、家族と呼べるものが居た頃がある。
もう十年近く、顔も合わせていない。人里に下りても霧雨道具店の近所だけには近寄らないようにしていた。父も母もきっと健在だろう。
 離縁となった切欠は確かに魔法もあっただろうが、基本はそこではない。肌にあわなかった、とでも称すものか。
『霧雨魔理沙』は、そこにはいなかったのである。大きく立派な父と優しい母。人里の中でもかなり裕福な部類に入るだろう霧雨家の息女は、当然何不自由なく暮らしていた。いつかは大きくなって店を構えたいと意気込む弟子の小僧達や、何かと世話を焼いてくれる小間使い。年長で父からの信頼も厚かった霖乃助。実に大所帯の騒がしい家ではあったのだが、魔理沙がその中に混じり、楽しく笑い合っていた記憶はない。
 両親の過保護もあっただろう。まだ夜這いなども残る土地だ。最愛の娘に悪い虫を付けたくなかったのか、魔理沙が店に立つ事を、両親は快く思わなかった。当然外へ出されなかった訳でもないが、同じ年頃の娘達よりも、ずっと家の奥に居る事が多かった。
 小さいながら、経済的に不自由は無くとも、人間の子供としての不自由があるのだと思い悩んだのも、その閉鎖的な状況が要因している。
何かが違う、という小さな悩みは、狭い部屋で圧力が掛る。時折小間使いに連れられて外に出ても、それを発散するには当然あたわず、無邪気にはしゃぎ回る子供達を遠巻きに見ながら、更なる疎外感を肥大化させていった。
 五つになる頃。弟子達の中では一番接する機会が多かった霖乃助が独立する。父は彼に道具店を継がせるつもりで居たらしく、大いに怒り、大いに嘆いた。霖乃助は何度も頭を下げ、父を説得する。一番弟子の門出だとして、父は最後に出資の話を持ちかけたが、霖乃助はそれを断ってしまった。
 彼の夢は大きな店を構える事でも、大きな家族を持つ事でもない。そもそも、あの半人半妖に夢などなかったのだ。その、人とも妖怪ともつかぬ身を、最初から後ろ暗い方向に達観していた。能力が生かせるから道具屋を営むのだ、などと彼は口にしていたが、それも建前だろう。
 出自は誰も知らない。ただ彼は、やはり自分には合わなかったとして、誰も来ないような森の入口に、店を構えた。
 そういう意味では、霖乃助の所為なのだろう。霧雨魔理沙は、自分がこの霧雨家に居場所がないのだと気がついてしまった。むしろ末恐ろしかったのは、あのまま霖乃助が家を継いでいたのなら、間違いなく自分が彼の嫁となっていたという現実だ。当然嫌いではないし、むしろ好意を抱いてはいるのだが、それは他人としてではなく、兄としての想いが強い。
 生まれてからずっと居るのだ。もはやそんなもの、近親相姦と相違ない。
 まして、霖乃助が嫌がるだろう。彼は『そういうもの』が苦手だったからこそ、今まさに、一人で店を構えているのだから。でもなければ、膨大な霧雨家の財産を丸々ぶん投げたりはしない。
 家族の定義とは? 血とはいかなるものか? 考えれば切りがなく、考えるだけ不毛だった。ついこの前まで迎撃される側だった自分が、紅魔館に家族として簡単に迎え入れられる訳がないのも、当然の話なのである。
(……私は、みんなとは違う)
 私は違う。
 馬鹿を言うなと、厳しい父はその子の髪を掴み、叱りつける。娘を愛していない訳ではなかっただろう。むしろ、愛しているからこそ、馬鹿な事を言う娘を強く戒めたに違いない。ただ、幾ら叩かれようとも娘は頑なに言う事を聞かなかった。
 母の止める声も、小僧達の説得も、娘には何一つ、通用しなかった。
 原因は何か。一番親しくしていた兄代わりと言っても過言ではない男が独り立ちし、他に店を構えた。娘が居場所を狭められ、窮屈に思って飛び出したがっていると、少なくとも両親は考えていた。自分達の育て方が悪かったのか、当然、反省もしたし、これからについても話し合った。
 魔理沙は違ったのだ。魑魅魍魎が跋扈するこの幻想郷において、普通ではない力を持った者達はゴマンといる。力の無い人間達は肩を寄せ合い、まとまって暮らすのが常であったが、時折違う力を持った子が生まれ出でる。過去に妖怪の血が混じっていたり、能力者の血が隔世遺伝したりと、様々要因はあるが、こと魔理沙においては生粋の人間だったのだ。
 人間だというのに、魔理沙は人間である事を否定した。人間らしい家族の生活を否定した。
 自分も空を飛びまわりたい。こんな窮屈な場所ではなく、大空を駆け巡り、好きな事をして、好きに行きたい。自分は人間だが、人間でありたくはなかった。
 小娘一人が生きて行くには厳しい世界だったかもしれないが、しかし、魔理沙は実に器用に、シタタカに、あちらこちらを渡り歩いては迷惑をかけ、けれども憎めない、という天性の気質で幻想郷を生き抜いた。
 やがて一人で生きる術を身につけ、誰もこないような森の中に居を構える。一人身ならば一人であろうと、魔法使いになりたいのなら、魔法使いになる為に最も近い手段を選ぼうと、理由は様々あったが、魔理沙は一人である事を選んだ。
 最初こそ順調な一人暮らし。誰にも気兼ねせず、自由に生きられる生活。苦労も責任も無い、奔放としたものだった。
 だが、自分でも自覚しない内だろうか。
 部屋の中には物があふれ始める。元から珍奇な物を集める性癖ではあったが、一人で暮らすようになってからというもの、それが顕著に現れ始めた。物があふれていないと落ち着かず、夜も眠れない。自重する幅が減ったからだと自分を納得させてはいたが、どうも違う。
 やがて、自分が寂しさを紛らわせる為に物を集めていたのだと気が付き、酷い恐怖に駆られた。それから、また以前のように、あちらに行きこちらに行きと、他人に迷惑をかけ始めるようになる。
 迷惑をかければ、相手は観てくれる。気にしてくれるからだ。自覚はあった。そして、それをやったあとは何時も自己嫌悪に陥った。陥りはしたが、しかし、元来からの孤独症は治る訳もなく、延々と繰り返す事になる。
 どれだけ、どれだけ否定しようとも、孤独は恐ろしかった。
 そんな人間が愛した場所。寂しがりの霧雨魔理沙の心を満たしてくれる場所。そこが紅魔館だった。
 ……その紅魔館の、大図書館の主は、もう居ない。新しい主は今、また孤独の家にいるのだ。
(一番倒したかった奴を、倒しちまった。満身創痍の、病人を。私はこれから、何を指針にして生きればいい。お前の居た図書館で、お前を超える事だけを考えて暮らせって言うのか。あそこにいればいるほど、お前を超えられる気がしない)
 パチュリー・ノーレッジ。七曜の魔女。彼女はこの、萎れた花のようにではなく、溢れる気概と共に死んだ。自分の築き上げた歴史と共に、作り上げた想いと共に、彼女は美しく消えていった。
「ん……」
 ぼんやりと己を省みている頭に、かすかな声が響く。項垂れた身体を起こし、窓の外をのぞき見ると、玄関に人影が見てとれた。
夜行性の多い幻想郷で夜分遅く現れる人物など、それこそ数多居る為に特定は出来ない。直ぐに出ようかどうかと迷ってから、ふと気が付く。
 自分の纏う魔力が、微量ながら緩やかに、玄関側へと流れているのだ。そうかと頷いて、魔理沙は玄関を開ける。
「ご主人」
「小悪魔か。なんかようか?」
 小悪魔は何かを言い淀み、下を向いている。その手元には小さな鉢が抱えられていた。
「……あの」
「……なんだよ」
「これ、メイド長が。パチュリー様が最後に愛でた花だと。咲いたんです、パチョリ」
「ふぅん」
「あの、休養でしたら、大図書館のお部屋をお使いください」
「どこで休んでもいいだろう、別に」
「そうじゃありません。主なら、せめてどこへ行くかぐらい、下々に声を掛けてくださっても、いいじゃありませんか」
「関係ないだろう、どこへ行こうと」
「違います。主は主らしく、振るわなきゃいけないんです。でないと、下の者達は困ってしまいます」
「適当にすればいいだろ」
「……メイド長や門番長はどうか解りません。けど、私のような悪魔は使役されるからこそ在るんです」
「じゃあ、大図書館の掃除でもしててくれ」
 言葉を受けて、小悪魔はその紅い髪を揺らし、横に振る。命令を与えられたのならばその通りにすればいい。だが、当然彼女の意図はそこにはない。魔理沙も解ってはいたが、正しく回答してはやれなかった。霧雨魔理沙が大図書館の何なのか。答えも持ちえないまま、帰れないのだ。
「パチュリー様に」
「またパチュリーか。解ってるよ、散々聞いた。でも私はアイツの代わりにはなれない」
「そんなこと、みんな解ってます。貴女みたいな半人前の半人前、パチュリー様の代わりになんか、なる訳がない」
「……お前」
「――紅魔館の皆は家族です。私や、妖精メイドなんかは違うかもしれない。どうせ、個体識別名もないような存在です。でも、皆様は邪険に扱ったりはしなかった。そして私は、お仕事を与えられていれば幸せだった。こんな、縁もゆかりもない私すら、受け入れてくれるのが、紅魔館だった」
「だから、なんだよ」
「……みんな家族ですけど、みんな個人なんです。あのレミリアお嬢様が、大親友の代わりになんて、貴女を選ぶ訳がないじゃありませんか。貴女は貴女として、お嬢様は大図書館の居住を許可したんです。メイド長だって、貴女個人を見たからこそ、預けたんです。ご主人。誰も、貴女にパチュリー・ノーレッジは望んでいない」
 言われずとも解っていると、口にしようとしたが、言葉にはしなかった。霧雨魔理沙は、ずっとパチュリー・ノーレッジの影を追っていたのだ。アイツじゃなきゃ出来ない、アイツにしか出来ない。自分にはどうしようもない。自分では届かない。そればかりだ。半ば弟子のような待遇を受けたのだから、先代の意志を継ぐのは当然だろう、などという常識に、完全に囚われていた。
「パチュリー様は、貴女が霧雨魔理沙だからこそ、預けたんです。貴女がパチュリー様になる事なんて、望んでない。貴女は、ご主人、霧雨魔理沙として、紅魔館の一員なんです」
 唇をかみしめ、彼女はゆっくりと言い切る。その手は震えていた。仮にもご主人に対して反抗しているのだ。もしかすれば、契約違反に当たるのかもしれない。その負荷も去ることながら、反抗する事で、自分の契約が打ち切られるかもしれないという恐怖があるのだろう。今の生活を、失いたくないのだ。失いたくはないが、言わずにはいられなかった。
「……大図書館の掃除、続けます」
「ああ」
「忘れないでください。貴女は、霧雨魔理沙として、期待されているんです」
 小悪魔は深々と頭を下げてから、霧雨邸に背を向けて飛び立とうとする。
 今、今声を掛けねば、魔理沙はきっとまた、惰性に任せてそのままだ。皆の言葉がどれだけの重みのあるものかと計りかねていた自分にとって、自分の存在意義をかけてまで想いを告白してくれた小悪魔の言葉は、自覚するに十分だった。
 レミリアは魔理沙を如何に認めるかと悩み、咲夜は魔理沙が引き継ぐ意味について吐露し、美鈴はパチュリーの想いを代弁し、フランドールは魔理沙とパチュリーの差異について口にし、そして小悪魔は、遠回しにしか言葉を紡げない住人達を代表して、わざわざ不甲斐ない主人を探しに来てくれた。
「小悪魔」
 もしここで何も言えないのならば、きっと自分は最低の人間、いいや、生物なのだろうと、思わざるを得ない。そして見られざるを得ない。結局、自分が一番寂しかったのだ。もしかしたら、大図書館が『自分の本当の居場所』になるのではないかと、期待していたからこそ。誰かが、自分を迎えに来てくれるのではないかと。
「はい」
「お前は、私が主人でも構わないのか? 本当に、霧雨魔理沙で構わないのか?」
「この人についてきて良かったと、そう思われるような主人を目指してください、ご主人」
「おい」
「……はい」
「どこへ行くんだ?」
「あの、掃除に、戻ろうかと」
「手ぶらで帰る気か。私は道具や魔道書を取りに戻っただけだぜ。ご主人様に荷物抱えさせる気か?」
「あ、あ、は、はい」
「その鉢と、あっちの道具一式。それと図書館からパクった本。鞄に詰め込め。さあ、戻るぞ」
 パチュリーの代わりになど、なる訳がない。霧雨魔理沙はたった十年の魔女。しかも人間だ。強大な魔法は使えないし、作る事にもとんと疎い。愚かで弱くて智恵も足りないかもしれない。しかし、百年の魔女に期待されている。百年の魔女に期待された霧雨魔理沙を、また皆が期待している。誰にも必要とされず、ただ、疎まれる事で他人の気を引いていた魔理沙には、あまりにも夢のような厚遇ではないか。
「いくぞ。家に帰らなきゃ」
 微かに蘇る、父の罵声。皆の憤る声。そんな過去を歩んでも、今の自分はここにいる。

            ※

 持つ者と持たざる者の境界線など、本当に小さな差異でしかない。どれだけ才能溢れようとも、機会がなければ得る事は出来ず、どれだけ凡庸だろうと、機会さえあれば得られるのだ。それを手繰り寄せる為に努力する者、努力せずとも手繰り寄せる者。実に世は不公平に出来ており、幻想郷もまたそんな理不尽から解放されてはいない。
 霧雨魔理沙は自らを持つ者だと思っている。その実は当然持たざる者であったが、持つ者となる為の努力など、忌むべき物の一つでしかないと考えていた。
しかし、心でどう思おうと、霧雨魔理沙は手繰り寄せる努力をしたのだ。努力する自分を嫌いながらも、泥にまみれる事を忌避しながらも、いつかは自分が真に持つ者として君臨する事を、夢見ていた。
 かくして、機会は与えられた。それが努力の賜物であったとは当然思えない、所謂偶然が如き幸運と言えよう。それを得る事に、魔理沙は極端な恐怖を抱いていた。
「……このテキストだが」
「あ、私の歴史です。とはいえ、殆ど図書館にしかいませんから、パチュリー様と大差ないです」
「まさかお前分のも入力してなかったなんて。あいつも案外仕事がおざなりだな」
「大雑把なのです。ご主人、無駄口を叩いてないで、さっさと仕事してください」
「ったく……」
 知識の集積所。百年経っても得られるかどうか怪しい、究極的な知の要塞を譲り受けたは良いが、それを生かすだけの力を自分は持ちえないと、脅えていた。しかもこの機会は、努力した結果に得たものとは程遠いものだ。自分が好き好んで他人に嫌がらせをしていたら、目をつけられて、貰った、という、全ての努力が無意味であるかのような結果である。
「レミリア、どうだ、良く出来ただろ」
「ほう。人間は成長するのね。ただ、もう少し可愛げがあっても良いでしょ、その人形」
「私からみたら、あいつはこんな感じだよ。気だるそうで、病弱で、ちっさく喋って早口だ」
「ま、素人にしちゃ上出来でしょう。全体的にはどこまで出来ているの?」
「先代様の歴史を組み込んで、全体的なテストを終えたら完成だろうさ」
「ねえ、そのパチェ人形、動かして見せてよ」
「ああ」
『……むきゅー』
「へえー」
「お前さんの助言通りにしてみたぜ。まあ使ったのは、裏庭のじゃなく、鉢に入ったパチョリだが」
「ありあり、ありだわ。なんだ、良いじゃない。やるわね、マリー」
「その呼び方やめてくれるか?」
 嫌々ながらにも、努力を続けて来たというのに。いつか自分の力で伸し上がるのだと夢見ていたのに。まるで自らの歴史を覆されるような幸運に、嫌悪感を抱いた。笑えば良いのに、結局霧雨魔理沙は、そんな幸運を素直に受け取れない程に、矮小で凡庸な存在だったのだ。そんな自己嫌悪が、余計に自らを雁字搦めにして行く。
 そして仮にも持つ者となった魔理沙を襲ったものは、今まで無視し続けて来た責任という重圧である。
持つ者にも種類があるのだ。自由奔放に持つ者、縛られながらも持つ者。霧雨魔理沙は、恐らくは前者を夢見ていたのだろう。持つ者となったからこその疑問。当然、持たざる者からすれば、そんなものは羨ましい悩みでしかない。持たざる者の悲惨さは、それこそ数多とあるのだ。持たざる者にもまた、種類種別、その悲惨さのランクがある。
「魔理沙様。そういえば、何故魔法使いになりたいなんて、思ったのですか?」
「普通じゃなくありたいなら、魔法が手っ取り早かったんだよ。お前みたいに、元から超常能力を持ってる訳じゃないんだ。幻想郷なら論理的に魔女になれるだけの幻想と、書物がある。あまり口にはしたくないが、努力したぜ。血豆を作りながら杖を振って、骨を折りながら空を飛んだ」
「同情は必要ですか?」
「されたくないから語らないんだ。でも、お前は言えば、心地良いくらいに同情してくれるだろう、咲夜?」
「きっと報われますわ。報われた暁には是非、私の専属をレミリアお嬢様から魔理沙様に移してくださいまし」
「謀反か? 楽しみだぜ」
「不甲斐無き主に用事は御座いませんの」
「さくやぁーー! 私の花柄ナイトキャップどこーー?」
「はいはい、ただいまー」
「咲夜」
「はい?」
「ありがとな。これからもよろしく」
「……ええ、当然ですわ。貴女様はレミリアお嬢様の御友人で、大図書館の主ですもの」
 人は努力すれば報われると言う。当然、そんなものは戯言だ。報われたとしても、当人が目指す報われ方であるとは限らない。そして、大概の者達は志半ばに倒れるか、地面を這いずりまわるかのどちらかである。何を是とするか、何を非とするか。全ては心の持ちようではあったが、当然、持つ者の方が良いに決まっている。
 霧雨魔理沙とは、持たざるにしても、我慢すれば恵まれていると思えなくもない、そんな人生にあった。しかし心は必ず上を見ていたし、上を見る努力を続けていた。この努力が報われる日が来るのではないかと、それだけを糧に、人道を踏破しようと必死だったのだ。
 堅実な努力を重ねた先に、手に取れる幸せがあると信じていた。人生に無駄なものなど無くて、全ての失敗や努力は総じて通じているからこそ、未来に降ってわいたような幸福が齎されるなど、まるで考えてはいない。
人生において無駄が無いなど子供騙しも良い所だ。最終的に全てを決定づけ、己の欲する幸福として納得出来るものは、自分の努力から出た幸福なのだと、そう信じていた。
「へえー、これがぁー。もう完成ですか?」
「折角だから、私のエピソードも加えようと思ってな。まだだぜ。美鈴も何か要望はないか?」
「老兵に語る過去はないのです。あとはただ長すぎる余生を暮らすだけ。振り返るのは自分の心の中だけで十分。それよりも魔理沙様」
「なんだ?」
「身体は鈍りませんか? 何せ、定期的に侵入してくる輩がいなくなってしまったので、私も戦闘不足なんですよ」
「なるほど。いいぜ、付き合ってやる。ちゃんと防衛しろよ?」
「はい。新しい大図書館の主は少し心もとないですから、門番もそれなりに頑張らないといけませんしね」
「言うじゃないか、美鈴」
「言いますとも。今の紅魔館を守るのが私達なのですから」
「今日は先代様の高位魔道書付きだ。吠え面かくなよ」
「え、じゃあ遠慮しようかな……」
「遅い遅い。表にでな、紅美鈴!」
 しかし、どれだけ吠えようとも、嘆こうとも、自分達には今しかない。得るものを得たのならば、それに頷くしかない。破棄して誰かが幸せになる訳でもないのだ。
破棄すれば、それだけ不幸せな者達がのさばる事になる。そして自分すらも、きっと幸せではないだろう。それが自分の努力から生まれた現実では無いとしても、新しい可能性を孕んだ現実を否定出来る程、霧雨魔理沙は馬鹿ではなく、そして人非人でもない。
「……」
「どうした、フラン」
「哲学者の庭」
「なんだそりゃ」
「訳のわからない事ばかり考えて、答えの見えない答えを探し、最終的には自分で納得して人生を全うする人達が暮らす場所」
「皮肉か?」
「いいえ、賞賛。そんなものは無いって皆知っているくせに、それを受け入れられず無念に死んで行く人達がいる。幸せってきっと自分の内にしかないのよ。それを受け入れるか、受け入れないかがタダ一つの分かれ道だわ。持とうと持つまいと、生物を不幸にするのは常に己。それを面と向かって突きつける装置があるのなら、それは賞賛してしかるべきだと思うのよ。みんな優しいから、なかなか口にしないもの」
「フランは頭が良すぎて、たまに何を言っているかサッパリ解らんな」
「貴女も五百年程地下室に詰められてみなさいよ。思考が全部内側に向くから、裏返って客観しか出来なくなるの」
「感情のブラックホールだな。で、フラン的にこれはどうさ」
「どうやって見るの?」
「このスイッチをだな……ほら、お前が居た。私なんかと違って、思考恐怖には陥ったりしないだろ。元から変だしな」
「……私、幸せそうね」
「ぶすっとしてベッドに座ってるだけだが、そう見えるのか」
「うん。貴女も私に幸せを与えてくれる人になるかしら、魔理沙」
「さあな。まあ、か……」
「ん?」
「か、家族、らしいし。配慮は、する」
「ふふ。うん」
 新しい世界を享受し、そこに新しい幸せを見つける作業を繰り返す事が、今求められる事だ。現実は変容すれど、在り方そのものが変容した訳ではない。それこそ、最終的な決定権は己にしかないのだ。持つ者となった責任を背負い、本当に持つとは如何なるものなのかと考える哲学者としての道。諦観せず達観せず、常に強い自我と客観性を示す生き方。
 ……奇しくも、この箱庭幻想郷というものは、霧雨魔理沙の疑問を解消するに足りるものだった。
パチュリー・ノーレッジが見越していたかどうかは別として、この箱庭には強い説得力がある。
 その者がその者足る為の装置。
オブジェクトガーデン。
 ここにある人も歴史も全て、今生ける者達への賛歌なのだ。






 霧雨魔理沙としての結末。亡き大魔法使いの庭、生き続ける君へ。




 ここ数日、あまり休養らしい休養をとっていなかった。誰が急かす訳でなく、決められた納期がある訳でもないのだが、心が急いていたのだろう、魔理沙は管理者用の操作盤と睨めっこを続けていた。
 歴史再生モードでパチュリーを選択。時代をスクロールさせながら、近代幻想郷にあわせる。時代的に存在しない者達の姿や建物が消え失せ、十年程昔の幻想郷を再現する。うまく調節出来ている様子だと一人頷き、咲夜に淹れて貰った紅茶を一口する。
 酷い苦さだ、と顔を振るわせ、残っていた入力を済ませてしまおうと意気込む。
そもそも、パチュリーは己で語っていたように、語るべき物語が生まれる程の生を歩んでいない。殆どが図書館での生活なのだ。だからこそ、彼女は自分の生きた世界に在る人々と世界を、自分を埋め合わせるようにして、必死に作った。
 手元の幻想郷年表、パチュリーと小悪魔のテキストを参考にしながら、行動を与えて行く。
 最初こそ不安だったが、パチュリーの人形は良く出来た。レミリアの太鼓判付きである。制作協力者としてアリスにも見せたが、彼女もまた、貴女レベルで良くやったわねと有難くも憎たらしいコメントを残していった。
 魔理沙から見ても、実に自然だと自負している。動きが少なく、思考は多いが行動は伴わない為、ルーチンの形成が楽なのだ。パチュリー人形はある意味、一番面倒にして、一番簡単な存在だったと言える。制作過程において、読解出来ない用語や実践不可能な魔術の類は、実際必要なかった。他の人形ならば必要だったのだろう。これも元の制作者が、自分を難しい存在だと考えているが故の仕様。周りからみれば、そうでもない。
 ただ、それでパチュリーを蔑むつもりも、当然無い。誰が、どこの阿呆が、こんな世界を作り動かせるというのか。これは客観の世界なのだから、客観にすればパチュリーが簡単、というだけの話である。その実は、正しく迷宮のような脳みそなのだ。
「ん……珍しく動きがあるな……」
 二人のスケジュールを照らし合わせると、同じような時期に同じような項目が存在する。『制作期間』『出張』とあるが、それを入力した後は、そもそも彼女達がそれに従い、勝手にするだけなので、内容が不明である。制作のしおりの冒頭には『細かい部分まで再現していたら終わらないので、故に自律思考型になっています。性格設定さえ間違わなければ、その通りにするでしょう』との注意書きがある為、実際再生してみなければどんな動きをするのかまるで不明だ。この辺りについては小悪魔に確認を取れば良いだろうとして、さっさと次の作業に移る。
 スクロールを弄ると、漸く咲夜が登場する時代になった。博麗神社で時代に応じた容姿をした霊夢が暴れ始め、博麗が次世代に移り替わった事により、妖怪達が顔をのぞかせ始める。テキスト通り入力して、その部分を何度か繰り返し再生する。パチュリー的にも重要な出来事だったのだろう。ここだけは異常に入力項目が多く、テキストはびっしりと紙を埋め尽している。
 八雲などもそうだったが、重要人物の登場には力が入れてある。そこを間違えると、幻想郷の動きがガラリと変わってしまうからだ。本筋は崩れると、取り返すのに苦労する為、魔理沙もそこへ注力する。
「やあ、大魔法使い見習い。調子はどうかしら」
「すこしまて」
「ん。咲夜、お茶」
「ただ今」
 此方が作業する脇で、レミリアがくつろぎ始める。あれほど魔理沙がここに居る事を毛嫌いしていたレミリアも、今では魔理沙の作業を見てちゃちゃを入れるのが日課となっていた。レミリアは、魔理沙自身が大図書館に馴染めて来ているから、あえてその瀟洒さを崩す事はない、という謎の美学を語っていた。
 あかぬけた、と言う事だろう。魔理沙自身もそれは実感している。段々と自分が大図書館の一部として機能している事を、実感しているのだ。当然、その悟りはこの、大規模な装置の御蔭であるし、何よりも紅魔館の人々の御蔭だ。
「よし。こんなもんだな。今日は何しに来た?」
「これは、入力さえすれば、在る程度のものが再現可能だったわよね」
「ああ。愛憎劇も恋愛劇も出来るぞ」
「何故そこに特化してるのよ」
「恋愛係だからな。で、何か再現したいものでもあったか?」
「パチェの最期」
 紅茶に伸ばした手が一瞬止まる。訝る様な目を向けると、レミリアはウンと小さく頷く。考えれば、確かにレミリアはパチュリーの最期を知らない。知っているのは魔理沙と、咲夜と、影から見ていた小悪魔だけだ。大親友たるレミリアがこれを見たがるのも、致し方が無い事と言える。今までは恐ろしくて聞けなかったのだろう。少なからずの時間が開き、親友の最期に立ち会えるだけの覚悟が出来たと見える。
 魔理沙としては、否定するつもりはない。一番知るべき人が知りたいというのなら、明かすべきだ。明かした場合、レミリアは魔理沙を怨むかもしれない。かもしれないが、理解もするだろう。全てはパチュリーの望みから生まれたものだ。
「いいぜ」
「私はお前を怨むかもしれないぞ?」
「ご主人様を信用するよ」
「……そうかい。じゃ、お願い」
 舞台を大図書館に設定。登場人物はパチュリー、魔理沙、咲夜、乱入したフラン、影に居るだけの小悪魔だ。細かい設定はいらない。パチュリーの背負う背景さえ指定してしまえば、後は自動で再現するだろう。必要な歴史は、ほぼ完全に揃えてある。
 一応、形だけだが、限定自律人形達へ許可を申請する。パチュリー、咲夜、フラン、小悪魔が承認。
 しかし、魔理沙人形が難色を示した。在り得ない事ではない為、この場はご主人様の面目を立て、無理に承認して貰う。
 主観の設定は自分ではなく、パチュリーだ。レミリアが見たいのは、彼女の最期。彼女の記憶である。
「いたたまれませんわ」
 咲夜が呟き、レミリアが頷く。自分は静かに目を閉じた。二度も、彼女の死に目を見たくは無い。数値入力を済ませ、魔理沙は席を立つ。
「どちらへ」
「ずっと詰めてたからな。完成だ。終わったら呼んでくれ。そろそろ日を浴びないと、本当に日陰の魔女になっちまうぜ」
「マリー」
「ああ」
「御苦労」
「……ああ」
 ウンと背伸びをして、魔理沙はその場を咲夜に任せ、階段を上って勝手口から表に出る。久々の日光に思わず目を瞑り、手でひさしを作って、大きく空を仰いだ。
 本気で取り掛かり、約一カ月だ。一か月も、いいや、魔理沙の技量からすれば、たった一カ月で完成にこぎつけた。当然、自分一人の力ではない。レミリアが、フランが、咲夜が、美鈴が、小悪魔が、紅魔館総出で箱庭の制作に携わった。あの箱庭幻想郷は紅魔館の集大成ともいえる。しかし、パチュリーの項目に関しては全権、魔理沙に委ねられていた。ここだけは、絶対に魔理沙が担当せねばならないと、遺言にも残されていた通りにした。
 何故そこまで彼女、パチュリー・ノーレッジは霧雨魔理沙にこだわったのか。今となっては誰も知る由もない。
 彼女が残したものは無事公開にこぎつける。紅魔館の一大アトラクションとなるだろう。ちなみに、公開料を取って財政を潤すように、という細かい遺言は計算高いパチュリーらしい、ただでは転ばない発想である。
 しかし恐らく、レミリアから批難の声が上がるだろう。その場合、現実的な咲夜がきっと宥めるに違いない。
「ふぁ……ふぅ」
 近くの木陰を見つけ、そこに陣取る。帽子を顔から被ると、そのまま力なく、後ろに倒れる。
(死ぬほど疲れた……)
 早く人間の身からおさらばしたいものだと、思わずには居られなかった。超常的な奴等が一般人の紅魔館において、人間的な生活をする魔理沙は気疲れも多い。そもそも咲夜がレミリア、フランドールのスケジュールで動いている為、お腹が空いた頃に食事があるとは限らず、風呂に入りたい頃に入れるとも限らない。快適な暮らしをしたかったら、あの吸血鬼等に合わせるしかないのだ。
 きっと、数年も経たない内に、自分は人道を踏破するのだろうと、そんな自覚がある。見るだけでも劣等感を催したパチュリーの遺産達も、この短い間に糧となる物が増えて来た。
 ……才能はあったのだろう。彼女は見抜いていたのだろうか。基本を知らない霧雨魔理沙が、ちゃんとした教本を手に、しっかりとした環境で魔道に取り組めば必ず開花する……と。
(お前は凄いな、パチュリー。お前は、本当に凄い奴だよ)
 その言葉を、生前にかけてやれなかった自分が憎まれる。彼女はそんな言葉を欲したりしないかもしれない。かもしれないが、賞賛されるべきものは賞賛されなければいけない。才能と努力の価値は、そんな些細な言葉から生まれる。身をもって知っているからこそ、悔やまれた。
(パチョリ・ナレッジ。花と魔法の少女。お前は死ぬまで少女だった。生まれた時からきっと、何一つ変わらないんだろうな。飄々としていて、疑問はあるけど悩みはなくて、本さえ読んでいれば幸せで……魔法なんて、お前の人生のオマケみたいなもんだったんだろうさ。私がどれだけ努力しても得られない魔法を、お前はいともたやすく再現してみせる。私は、お前のオマケを全てにしたんだ。そして、結局は、お前のオマケこそが、お前の全部だった。皮肉だな。でも、幸せだな、お前は)
 目を覆うような弾幕。次々と紡がれるスペル。何もかもを翻弄する、異色の魔法。太陽の下で目を瞑れば思い出せる、短いながらに凝縮された記憶達。
(お前は、私達といて楽しかったと、そういってたな。そうだな、私もたぶん、楽しかったんだろう。それに、嬉しかったんだ。自分が必死になって勉強して、練習した魔法を、全力で打ち込める。その都度、お前は何も言わず、新しい魔法を見せてくれる。私はそれを汲み取って……埋まりそうにない差を、必死に埋めようとしていた。ああ、そうだな。楽しかった)
 木陰を好んだか、傍に自生したであろうパチョリを見つけ、葉を摘み取る。何も儚くなどない。温暖で日陰ならば、幾らでも生えるような花なのだ。実にしぶとく、図太い、繊細さの欠片もない、そんな野草。それは彼女の香りだ。
 もし、あと少しでも、精霊としての要素が強かったのなら、彼女はこの花のように何度でも蘇っただろう。そして、誰も悲しむ事無く、今日も今日とて霧雨魔理沙は大図書館の本を狙い、パチュリーの講義を目当てに、忍びこんだに違いない。
 戻ってはこない日々。戻りようの無い日常。時は進み、そして今は、今しかないのだ。
「隣、失礼するよ、マリー」
「その愛称勘弁してくれ」
「いやよ。アンタもレミィと呼びなさい。大人しく」
「いいのか、こんな昼間っから日傘も差さないで」
「いいのよ」
 全てを見終えたであろう彼女は、何時も通りどこか高圧的だったが、怒気はない。
 もう愛称は決まっているらしく、これを覆すには並大抵の努力では収まらないだろう。魔理沙は大きく溜息を吐き、身体を大きく伸ばす。これからもずっとそう呼ばれる。自分が魔女になっても、ずっとだ。
「直射日光は身体に悪いぞ」
「うぉ……びりびりする……たまんないわね、ちくしょうが」
 レミリアが隣で横になり、その小さな手を大きく広げ、天へと翳す。木陰だろうと漏れる光は痛いだろうが、きっと痛い程度ならどうという事もないと思えるほど、霧雨魔理沙の隣にいても良いと考えているのだろう。彼女は魔理沙を認め、家族として迎え入れた。パチュリーという影を引き摺りながらも、新しい魔女を迎えた。
「マリー」
「なんだ、レミィ」
「……彼女は、変な子だったわ。どんな事があろうと、自分が一番。しかも理不尽に強いくせに、身体は弱かった。なんでこんな奴雇っちゃったんだろうって、暫く考えたわ。暫く考えて、でも何か、何かがあるんじゃないかって、ずっと期待してた」
「……」
「馬鹿だけど頭が良くて、強いけど身体が弱くて、変だけど、そう、もっと変だった。何もかも諦めていた私達を、彼女が幻想郷へ導いた。彼女は紅魔館を変えてくれた。鬱屈とした毎日を、煌びやかな日々に変えてくれた」
「レミィ」
「……う……あ、あっ……ぐっ……」
 天に差し伸べた手を、強く握りしめる。
「例え……あ、う……どれだけ運命を操ろう、とも……わた、わたしは、一番の親友を……親友の運命を変える事が出来なかった……あの時、無理やりにでも……無理やりにでも、眷属にしてしまえば……っ……うっ……ううぅぅぅぅ……」
 その身を捩り、陽射しを避けるようにして、まるくなる。
「レミィ、お前は今、陽射しにやられて、痛がってるだけだ。だから、別に泣いたって誰も文句は言わないぜ」
 誰が、文句など言おうものか。言おうものなら、魔理沙は館の主の為、そいつを魔法で弾き飛ばすだけの気概はもう、用意してある。この主がいるからこそ、紅魔館は回る。レミリアがあり、紅魔館には歴史があるのだ。そして、紅魔館があるからこそ、今までの自分とは違う霧雨魔理沙がある。
 レミリアは魔理沙にしがみつくようにして、声にもならない声をあげる。嘆きよりも、呻きに近い。どうしようもない涙。心の奥底からの悲しみ。死に直面した、死を理解してしまった者の声。理性など容易く吹き飛び、なりふり構わなくなってしまう程の、深い深い嗚咽だ。
 それがどれほど続いただろう。
 レミリアは、何事も無かったかのように立ち上がり、陽射しを憎らしそうに見上げる。
「……天命のくそったれ。マリー」
「……なんだ」
「お前は死ぬなんて言ってくれるな。お前は、殺してでも生かす。もう、私は友達を失いたくない」
「……適当にしろ、馬鹿ご主人」
「魔法使い。お前は私が死ぬまで、一生魔法使いだ」
「……そうかい」
「では、また今夜……ところで」
「なんだ?」
「良い最期だった。まさか、お前が本当にパチェの弟子だったなんてね」
 そういって、レミリアは去って行く。強く慈悲深い主らしい背中を湛えて、彼女は今日もある。
 しかし、一体何の話か。何か不具合があったのだろうか。
 確か、申請の折に魔理沙人形が戦闘を否定した筈だ。無理強いした所為で、どこかおかしくなっているのかもしれない。とはいえ、もはや何一つ、魔理沙に出来る事も無い。それだけの自信と誇りが、あの箱庭には詰まっているのだ。
(パチュリーの傑作だぞ。きっと、そうだな、私の落ち度だ……終わったと思ったけど、今夜も、調整か……なあ……)
 自分は欠伸を一つし、顔から帽子を被る。
 未だ流れぬ涙に、疎外感を感じていた。自分だけが、この紅魔館において生者の悲しみを共有出来ないのだ。幾ら想おうと、パチュリー・ノーレッジに流す涙はない。
 魔法使い。
 己は魔法使いだ。魔法使いを目指して生き、魔法使いの誉である領地も手に入れた。これから目指すものは、本物の魔法使いとなる為の研究だろう。のらりくらりとしている暇はない。そんな事をしていたら、寂しがりのレミリアに首を噛まれて、同族にされてしまう。吸血鬼で魔法使いとなったら、何か凶悪な響きこそあるが、中途半端感が否めない。魔術を志したからには、周りに笑われないように、紅魔館の体裁も考え、一刻も早く魔女になるべきだ。自分はこの館の一員なのであるから。
(……まほうつかい……)
 長い間気張っていた所為で疲れもあるのか、瞼が重くなる。そろそろ寒くなる頃合いだというのに、温かい陽射しは容赦なく襲いかかる。ぼんやりと浮かぶ魔法使いという単語に、客観視した箱庭幻想郷での自分を思い出す。
 そもそも、霧雨魔理沙は何を動機に、魔法使いなんてものを目指したのか。


「……じん」
「ん……」
「ご主人」
 うつらうつらとしていた所に、小悪魔の小さな声が響く。帽子を取り、辺りを見回せば既に暗くなっていた。
地面に寝ていた所為で身体のあちこちが痛み、しかも寒さに肌を擦るほどだ。
 よほど疲れていたのだろう。
「すまんな。ところで、お前は何してる」
「はい。そろそろ公開と聞きました。何せ荷物整理がだいぶ滞っていたので、誰が来ても見苦しくないよう、再開しようかと思ったんです。これは捨てる分です」
「なんだ?」
「子供を騙して小遣いを巻き上げる用の、エセアイテム群ですね。魔術的価値もありませんから、処分しようかと」
「ほう」
 小悪魔が抱えて来た木箱の中には、これでもかと言う程胡散臭い魔法道具が詰め込まれている。妖精の飛び出す小瓶だとか、癇癪玉程度にしかならない魔力破片、水晶玉と言う名のガラス玉、子供用の魔法の杖などだ。本当に魔術的価値が皆無なものばかりである。こんなものを子供に売りつけていたのだから、パチュリーも業が深い。
「ん、こりゃ。私が折った杖だな」
「図書館に落ちてました。あ、でもこれは捨てませんよ。直そうと思って。大切な物でしょう?」
 木箱の中を漁ると、そこには咲夜との戦闘でぶち折った、小さな杖が入っていた。小さい頃から、単純な魔法を使う為に使用していたもので、折ってしまったのは大変惜しく思っていた。しかし、あの戦闘内容からして、むしろそんな玩具一本で済んだのは奇跡だろう。下手をすれば確実に串刺しだったのだ。そして、咲夜は退く気もなかった。
「……」
「どうかされましたか?」
「……同じものがあるな」
「ああ……その杖。沢山ありますよ。パチュリー様が手ずから作ったんです……ああ、もしかして……嘘……なんてこと」
 その言葉に……どれだけの衝撃を受けたか、魔理沙自身、殆ど自覚出来なかった。ただ小悪魔に捨てるなと指示し、その足は真っ直ぐ、図書館へと向かっていたのだ。
 全身が総毛立ち、緊張のあまりに膝が震える。ありとあらゆるものが想起されては消えて行き、いつの間にか、視界はだいぶぼやけていた。
「咲夜」
「魔理沙様。先ほどの再現ですけど……パチュリー様が」
「なんだ」
「……パチュリー様が、魔理沙様は、正式な弟子だったと。そう述懐して、逝かれましたわ」
「なんてこった……畜生……」
「魔理沙様?」
 何もかも、全部ぶち壊しだ。
 持つ者とか、持たざる者とか、納得を得る為の努力とか、そんな悩みが、一撃で吹き飛ぶだけの衝撃。
ここに来て新たに得たと思った、これからも積み上げて行くであろうと思ったその想いは、愚かしすぎる彼女の御蔭で、台無しになってしまった。
『お嬢ちゃん……』
 本当に頭に来たのだ。丈夫に出来た箱庭を、思わず殴りつけてしまいたくなる程に、頭に来た。
「お前って奴は本当に……最悪だぜ……パチュリー」
 スイッチを操作して大図書館をクローズアップする。
 そこには、過去の彼女のいつもの姿がある。
気だるそうに、眠そうに、陰気に、パチュリー・ノーレッジは本を読んでいる。
「パチュリー……」
 まだ確認していない項目がある。
パチュリーと小悪魔の小さいエピソードだ。箱庭全体からすれば然したる問題もないこれだが、霧雨魔理沙からすれば、どうしようもない程の問題。改めて、入力したエピソードを再生すると、彼女達が語り出す。

『だからつまり、どういう事です?』
『……どうもこうも。子供は攫えないでしょ?』
『まあ。紅魔館はお嬢様の御蔭で規制されちゃいましたし。その代わり、生贄は提供されるみたいですけど』
『そんな生きる気力も無い人間は要らないのよ。子供じゃないしねえ』
『じゃあ攫うんですか?』
『うんにゃ。良い考えがあるの。ここ、幻想郷だし』

「……パチュリー……ぱちゅりぃ……おまえぇ……お前って奴はさぁ……本当に……馬鹿だなぁ……どうしようもないくらい、どうにもならないくらい……ぱちゅりぃ……」
 箱庭を前に、膝から崩れ落ちる。まさかこんな所に、己の起源があったなど、まるで想像だにしなかったのだ。もはや漏れるものは嗚咽のみで、感情を垂れ流すだけ。まともな言葉は、湧いてもこない。
「魔理沙様、その」
 咲夜が差し出した手を、強く握る。

『子供で、従順で、魔法の才能がある子が良い』
『あはは。跡継ぎなんて。そんな弱気な事おっしゃらないでください、ご主人』
『解るのよ。まだ先かもしれないけど。きっとそんなに長くない。最近、咳も酷いし、動悸も激しいから』
『そんな』
『備えあれば憂いないわ。ま、子供騙し程度だけど、丈夫なの作りましょうか。小悪魔、材料用意』
『……ん。はい。解りました。でも、長生きしてくださいね』

「わたしは、ちくしょう……お前は、なんで覚えてなかったんだよ……妖怪はさぁ……忘れっぽくて……本当に、馬鹿だよなぁ……パチュリー……ちくしょぅ……ちくしょう……」

 その日は、堪らなく憂鬱だった。
 小間使いに連れられて、おこずかいを貰い、久々の外出であるというのに、まるで気が乗らない。周りより良い服を着て、誰が見てもお嬢様然とした霧雨魔理沙だったが、その心はどこまでも落ち込んでいた。
小さいながらに、己の身を案じていたのだ。
 きっと、この先もずっと、あの箱の中に詰められたままなのだと。決められた相手と結婚して、決められた人生の上を行くのだと、その不自由さに身悶えしていた。
 空を見れば、悠々自適に空を駆ける鳥に天狗に妖怪に。幻想郷はこんなにも自由なのに、どうして自分はこんなにも不自由なのか。自分には、空を駆け巡るだけの可能性は無いのだろうか。
 贅沢といえば、それまでだ。苦労せずとも食べて行ける身なのだから。これもまた、持ちえる者の悩みだったのだろう。
 そんな上の空で炉端を歩み、泥だらけになりながら走り回る子供達を遠巻きに見ては、また憂鬱になる。
『お嬢様、ほら、何か面白い事をしているみたいですよ』
 小間使いが人だかりを指差して言う。何が面白いものか。皆がはしゃぐ姿など見ても、どうせ暗くなるだけなのだ。
 そうは思ったが、やがてその人だかりの頭上に、綺麗な花が咲いた。
『……あれは?』
『はて。もしかしたら、魔法かも知れません』
 妖怪が人里に現れるようになって久しいが、魔法使いなるものが里へ下りて来る事はそう無い。大概の魔法使いは家の中に閉じ籠り、一生を研究に費やしているという。抵抗はあったが、魔理沙の足はその物珍しさにつられていった。
『さあさあ、ごらんあれ。けほ。この小さな杖を一振りすれば、なんと不思議か空に綺麗な花が咲く』
『みせて、みせてよ、おねえちゃん』
『はいはい。ほら、それ』
 頭からすっぽりと布を被った女性が小さな杖を振るえば、先ほどとはまた違った色の、花火のような光が中空を舞う。集まった子供たちはそれを見て、大きな声をあげて興奮した様子だ。魔理沙もまた、今まで見たことがない不思議な光景を、食い入るように見つめていた。
『今ならこんな素敵な杖を、とってもお安く提供出来ます』
『……お嬢様、その。たぶん詐欺ですけど……安いですし、お買い求めに、なります?』
『うん……ねえ、まほうつかいのお姉さん』
 詐欺だと言われても、魔理沙にはその杖が、悉く魅力的に見えた。ここは幻想郷で、自分が幻想郷の住人で、もし、その力が努力によって得られるものならば、その足掛かりとして、是非とも手に入れたかった。魔法を使い、人では出来ない事をしてみたい。いいや、正確には、不自由な箱の中から、飛び出したかったのだ。
『――ほう、なかなか。ええ、どうしたの?』
『頑張れば、それよりもっと凄い魔法が、出来る?』
『あら……お嬢ちゃん……』

「……ちくしょう……お前は……私の、私の人生の……最初じゃあないか……お前の御蔭で……散々だ……散々なんだよ……魔法、魔法がさ……すごく、綺麗で……面白くて……いつか、いつかわた、私も……魔法は……魔法は、奇跡みたいで……私は、憧れて……魔法使いに、なりたくってぇ……ッ」

 零れ落ちる涙が、今まで彼女の為に零れ落ちる事のなかった涙が、とめどなく溢れては流れて行く。こんなのはあんまりだ、こんな酷い話があるかと、嘆き、喚き、どうにもならなくなり、咲夜に縋りつく。これではまるで先ほどのレミリアと同じだ。憂鬱になる程悩み、苦しい程に葛藤し、縁もゆかりもないと思っていた魔法使いの跡継ぎとなったと思えば、その実が本当は、彼女の撒いた種そのものだったなど、冗談にも等しい。
「パチュリー……何で死んじまったんだよぉ……まだ、まだ、習って無い事が、ありすぎるだろうが……そうだろ……なあ、パチュリィ……」
「……もう、もういらっしゃいません。魔理沙様、そんなに、泣かないでくださいまし……」
「だ、だって……ああ……悲しくて……でも、悔しいくらい、嬉しくて……う、うぅぅぅ、ぁぁ」
 矛盾する気持ちに翻弄される。
報われる事のないと思っていた努力が、そのまま眼の前に顕現したのだ。しかもそれが師の死と同時では、なんと言葉にして良いかも、まるで思い浮かばない。
 再生を終えた箱庭が、通常の世界に立ち戻る。大図書館はそのままの通り。彼女は、いつものように、静かに、本を読んでいる。霧雨魔理沙の記憶に一番長く残る姿。きっと、彼女は死ぬ際まで、魔理沙が自分の撒いた種であるとは、知らなかったのだろう。だからこそ、最期を再現したあの戦闘で、彼女はその気づきを口にした。
 何が、持たざる者か。霧雨魔理沙は、最初からすべて、持っていたではないか。
「……馬鹿野郎」
 本を読む彼女に、悪態を吐く。悪態を吐いてから、そのぐしゃぐしゃになった顔を、大きくほころばせた。
 図書館の魔女は、何も有る筈がない空を見上げ、ニコリとほほ笑む。

『お嬢ちゃんは、魔法が好きかしら』

 死せる彼女の箱庭は、あらゆるものを再現再生する。それを信じるか信じないかは、本人次第だ。そしてまた、この箱庭に生きる娘達も、そんな幻想の境界線に立っているのだ。






 大魔法使いの昼下がり




 そこには大きな扉が存在した。
紅魔館という豪奢な建物らしい、実に厳つく高圧的な扉であり、その在り方が妙に不愉快だったのだ。懇意にしているメイド長の咲夜の話では、この中には大量の蔵書を抱えた図書館があると言うのだが、中を見た者は誰もいなかった。
その扉が妙に気になる。
 何故こんなにも気になるのか。自分は、どうしてここに足を踏み入れたいと望むのか。解決するには入るしかない。
 普段は扉に手をかけただけで、魔法的な力で弾かれるばかりだったが、どうやら今日は違うらしい。
手をかけ、その重たい扉をゆっくりと引く。
 空気の流動が起こり、被っていた帽子が後ろに吹き飛ばされた。普通なら、帽子を取る為に振り返るだろうが、けれども眼の前に広がる光景に圧倒され、それは出来なかった。
 そこには、夢のような世界が広がっていたのだ。この書物の少ない幻想郷で、ここだけは書籍の海が形成されていた。書籍の森が広がっていた。知識の要塞が築かれていたのだ。
 足を踏み入れ、奥へと進んで行く。途中、赤毛の娘と目が合ったが、彼女はニコリと微笑んで、会釈をした。こんな娘が紅魔館に居ただろうか。
 やがて視界が開ける。本棚に囲まれるようにして、そこには机があり、一人の少女が椅子に腰かけ、本を読んでいた。
「……なによ、また来たの?」
「……初対面の筈だが」
 そのように言うと、紫色の少女は小首を傾げ、ああ、と頷く。幻想郷の人々は本人が納得すれば他人に説明などしないので、幻想郷住人には間違いない仕草だが、此方は納得出来ない。ここは何で、お前は誰なのか。
「まあ、座りなさいよ。折角来たんだし。迷惑だけど」
「お前、魔法使いだな?」
 むしろ、それ以外在り得ない。今までこの紅魔館に居て、誰も知らなかったのだから、そういう認識阻害の魔法を掛けて居座っていた可能性もある。
「今日は記念すべき日だから、お茶ぐらい出してあげるわ。たまには落ち着いて、お茶でも飲みながら本を読みなさい。ここで焚かれる薫香には、鎮静効果があるの。貴女みたいな落ち着きのない人には、ピッタリだわ」
「黴臭い」
「慣れるわよ、霧雨魔理沙。大魔法使い見習い」
「お前、名前は」
「パチュリー。パチュリー・ノーレッジ。お忘れ?」
 少女……少女?

《情報更新。霧雨魔理沙(紅魔館ver.1.12b)適用》

 違う。パチュリーだ。
 自分は何を考えていたのかと、訝る。
パチュリー・ノーレッジの正面に座ると、分厚い本を寄こされる。いつの間にか現れた咲夜がお茶を持って来た。
それを一啜りすると、なにか言い知れない懐かしさで、胸がいっぱいになる。
「おお、いたいた。パチェ」
「パチュリー? あれ、魔理沙もいるじゃない」
「パチュリー様、お庭の花ですけど、そろそろ摘みますか?」
 やがてぞろぞろと、紅魔館の住人が集まり始めた。皆は一様に笑顔だ。何か、本当に良い日なのだろう。
「ああそっか。なんだか知らんが、なんか、良い日だな」
「でしょう。ここには全部がある。何一つの欠落もない。私には、不満も、憂いも、恐れもない。今日は本当に良い日」
「ああ……ああ、そうだな」
 本を開く。読める単語を必死に拾いながらページをめくる。
 その都度、何故だろうか。魔理沙らしからぬ、優しい気持ちがヒシヒシと湧きあがってくるのを感じた。そして、眼の前にいるこの少女に、どうしても言わなければいけない言葉があったのだと、思い出す。
「なあ、パチュリー。お前は、凄い奴だな」
「あら、どういう風の吹きまわし?」
「わからん。でも、言わなきゃいけないような気がしたんだ。どうしても。それと、頼みたい事がある」
「まあ、今日は良い日だし。聞いてあげるわ」
 嬉しい筈なのに、心地良い筈なのに。
「――魔法、教えてくれるか?」
 霧雨魔理沙はどうしても、涙を堪え切れなかった。
 皆が泣きじゃくる魔理沙を囲う。どうして泣くのか、どうして嬉しそうなのか。でも大丈夫。お前は馬鹿かもしれないけれど、悪い奴じゃないって、みんな知っているから。
「小悪魔。小さい杖があったでしょ、アレ持ってきて」
「……はい、わかりました、ご主人」
「いいのか?」
「ええ。暇つぶしくらいには、なるでしょうから」
 パチュリー・ノーレッジは本を閉じると立ちあがる。泣きながら、笑いながら、胸を張って言うのだ。
「予定変更ね。とっておきの魔法を見せてあげるわ」
 平穏な紅魔館に、新しい風が吹いた。
                          了
日常を失った我々に残されたものはなんだったか。
ぶっちゃけ今までの生活に戻る事は出来んだろうし、これからも苦節を積み重ねる事になるのだろう。あの大震災は私に恐怖を植え付けるとともに、職をいつ失うかという不安感と、今後の不確かに未来への絶望感を存分に残して行きやがりました。
でも、そんな中でも、ただ生きるだけでは足らないのが人間というもので、震災の中でも私の頭の中は七割方趣味で埋め尽くされている様子。
こんな時だからこそ、笑ってねーとやってけねーよと。
例大祭で出すはずだった新刊まだ確認してねーよと。
東方新作出る限りやりつづけてーよと。
まどマギ早く続きみてーよと。
エヴァ完結するまで死ねねーよと。
辛い時こそ、心に潤いを!!
あと、風呂はいりてえ!!!! はいりてえ!!!
俄雨
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作品情報
作品集:
1
投稿日時:
2011/04/01 00:37:11
更新日時:
2011/04/01 00:37:11
評価:
12/26
POINT:
12108878
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89695.58
簡易匿名評価
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0. 108878点 匿名評価 投稿数: 14
3. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 02:40:35
よかった。かなりよかった
泣いたよ
素晴らしい作品だ
5. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 06:36:32
大変でしょうけど頑張って
新刊楽しみにしてます
6. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 07:49:45
心の底から、面白いと思いました。
7. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 12:29:06
本で読んで面白かった作品は、web上で読んでも面白い、と。
ありがとうございました。
大変だと思いますが、頑張ってください。
新刊楽しみにしております。
8. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 12:56:34
泣いた
すごく、よかったです
9. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 16:33:57
うおお面白い。
14. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/02 12:58:23
泣かせていただきました……。
16. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/02 14:48:45
面白過ぎて読むのをやめられなかった。登場人物みんなが素敵です。
18. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/02 23:38:58
がん、ときた
21. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/03 19:32:32
最高です
25. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/07 11:58:32
大魔法使いの弟子か、いいな
26. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/25 03:43:10
なぜだ、なぜコレを本話で出さない…!
筆舌に尽くし難いとはこのことか、只々圧倒されるのみです。
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