イナバの日

作品集: 1 投稿日時: 2011/04/01 00:21:11 更新日時: 2011/04/01 00:21:11 評価: 2/2 POINT: 2000000 Rate: 133335.00

 

分類
てゐ
鈴仙
永遠亭
夏コミ原稿
 序


 ひどく落ち着かない気分で、因幡てゐは竹林の中を歩いていた。

 目的は皆無。どこへ行こうというあてもなく、けれど無駄に力強い足取りで、風に揺れるワンピースの裾をさばいていく。なかばは単なる強がりだった。立ち止まっていれば、心の奥底からあふれ出る得体の知れない感情で、気が変になってしまうかもしれない。それを防ぐために、彼女は険しい顔をして道なき道の隅々まで目を光らせる。

 夜になってから、もう何時間もこうしてねり歩いているけれど、竹林の中にこれといって異変は見当たらない。野良兎たちは概ねみんな仲良くやっているようだし、彼らを脅かすような危険な妖怪も今宵は姿を現さない。気がかりだった藤原妹紅も、今日は小屋にこもって大人しく眠っているようだ。

 そうだというのに、なぜか、てゐの心はちっとも静まらなかった。

 先ほどから自分を悩ます、この奇妙な感覚はなんだろう。そうてゐは何度も自問する。一言ではとても表わせない。不安? 恐れ? 何かへの畏怖? そのように断言するには、ちょっと似つかわしくない感情も混じっているようで――それはすなわち、期待だった。

 これから、自分の想像もしないような何事かが起きようとしている。

 それに直面するのは、自分にとって果たして益となるのか。それとも、途方もない災厄に導かれるだけなのか。

 見知らぬものへの不安と期待。てゐを突き動かしているのは、そんな曖昧な感情だった。

 てゐは見晴らしの良い場所に立つ。眼下には、寝静まった竹林の全景。切り立った崖の上から眺めると、広大な敷地を有する永遠亭も、竹の海に呑まれて全く判別がつかない。そのように計算され、設計されている。この海原のどこかで、本当に自分を脅かすような何かが潜んでいるのだろうか。

 てゐはちょうどいい位置に置かれている岩によじ登り、胡坐をかき、膝に頬杖を突く。

 ここ何日か、いや、もう何年も、それでも生温い、何十年も、何百年も。彼女は退屈していた。変化のない日常に倦んでいた。

 それは、彼女の主の能力と抱える事情によって強制されたものであり、その日常に耐えしのぶことこそが、遥か昔に交わした盟約の内容だった。兎たちに知性を授けてもらう代りに、月の姫とその従者に安寧の場所となる住居を提供すること。月人たちに従えば、自由を愛する事の出来る知性が、因幡の一族に与えられる。それはてゐにとって、とても魅力的な申し出だった。

 でもその代わりに、起伏のまったくない、面白味など微塵も感じられない日常を送ることを余儀なくされた。

 少し、予想外の出来事だった。

 それでも、日常とは怖いものだ。丹念に織り上げられた退屈の網は、恐ろしいくらいに頑丈で、いつの間にかてゐも罠にかかった獣のようにそれに絡めとられてしまった。

 こんな日常も悪くないかもしれない、という錯覚を覚えるほどに。
 もちろん、そんなことでは駄目だとわかっていた。

 自分が気も遠くなるような永い生を生きてこられたのは、運命の荒波を愛し、それに揉まれることすらも前向きに楽しむことが出来たからだと、彼女は確信していた。

 だから、今のようにのらりくらりと意味のない暮らしに無限に妥協していくのは、彼女のこれまでの生き方を否定することにもつながりかねない。

 何より、そのままでも充分生きていけてしまいそうだという予感が出来てしまうことが、彼女には腹立たしかった。

 でもそれも、今日で終わりという気がする。

 彼女は眼下の風景をしきりに見渡す。どこにも、なにも、見当たらない。竹林はひっきりなしに風に揺れているけれど、その実中身はまるで変化していない。あくびが出るような停滞と退屈の中に沈んでしまっている。

 何かが起きるとすれば、どこだろう?

 てゐは息をつめ、決定的な瞬間が訪れるのを待った。

 風が、そんな彼女を冷やかすようにひゅうと吹く。

 その時、頭の裏側が、びりびりと震動した。久しく覚えていない感覚。背筋に悪寒が走り、思わず手でうなじを抑える。

 来た。やっと来た。でもどこからだ? いったいどこで何が起きている? 期待に胸を躍らせ、てゐは立ち上がり、竹林の隅々にまで目をこらす。だけど、眼下の風景に異常は見当たらない。まったくもってこれまで通り――

 待て。
 そうか。
 わかった。

 そもそも竹林なんかに、日常を変えてくれるようなものが潜んでいるわけがなかったのだ。

 あったらとっくに変えられていたはずだ。
 だから何かが来るとすれば、それは。


 空だ!


 天を仰ぐ。すると、あった。まったく予期しなかった、だけど心から待ち焦がれていたものが彼方にあった。それは月から落ちてきた。七色の光彩、オーロラの粒子を闇の中に激しく撒き散らしながら、脇目も振らずに落下してきた。日常を変えてくれる何か。退屈な日々を完膚なきまでに叩きのめしてくれるものだ。そうに違いない。

 てゐは思わず笑った。まったく、昔は兎も空を飛ぶ高等な種族だったというのに。地上を這いずりまわって生きるようになってから、夜空を見上げることなんてすっかり忘れてしまったのだ。流星の落下地点を見逃さないように、瞬きや呼吸など忘却の隅っこに追いやって、輝かしい光の軌跡を目で必死に追う。

 その赤い瞳の中には、不安や恐れなど最早微塵もない。
 ただ、希望だけが煌めいていた。

 すっと手を伸ばし、落ちていく彼方の光を、その掌にぎゅっと掴み取ろうとする。



 絶対、絶対、逃がすもんか!






 1


 目が覚めるとき、いつも視線の先には小さな蝋燭の火があった。

 戦闘要員である私たち月の兎は、いつなんどきでも敵の攻め入りに対応できるように、眠るときでも必ず明かりは灯しておくのが決まりだった。死の恐怖に取り憑かれてなかなか眠れない夜、私は揺れる蝋燭の明かりをじっと眺めながら、なるべく何も考えないように自分の呼吸の音を数え、睡魔が意識を優しくさらってくれるのを待ったものだ。

 だから今も、自分がまだ月の都にいるんだと思っていた。ゆらゆらと揺れる蝋燭がその証拠だ。これからまた、戦いが始まる。死んでゆく仲間を見て、自分の手で殺される敵を見て、意識を無理やり狂気に落とし込んで感覚を麻痺させる。その不毛な繰り返しがまた始まる。

 だけど、起き上がって円い窓から外を見たとき、ようやくここが月の都ではないことを思い出した。

 朗らかにさえずる鳥の声。ガサガサと藪を揺らす小さな野兎。さわさわと笹の葉の擦れる音。

 静かな竹林の風景が目の前に広がっていた。

「……そうだ」

 逃げてきたんだ。月からの逃亡者が隠れ住む、この永遠亭に。

 振り向くと、私が抜け出してきた布団の横に、もう一つ小さめの布団が敷かれていた。その主はもうとっくに起きだしているらしく、毛布が乱雑に畳の上に投げ出されていた。部屋の中も、なんだか種々雑多なものがごたごたと置かれていて、実に節操がない。

「えーと、なんだっけ、あの子の名前」

 二人分の布団を綺麗に片づけながら、昨日紹介されたこの部屋の主の名前を思い出そうとした。確か、それほど長い名前ではなかったはずだけど、なんだっけ? 昨夜は色々なことがいっぺんに起こり、整理がつかないうちに眠りについてしまったので、正直よく覚えていない。いずれにしろ、身の周りのことにあまり頓着しない性格のように思える。

 ざっと片付けと着替えを済ませ、部屋を出た。

 襖を開けると、太陽の柔らかな光が差し込んできた。一歩踏み出すとそこは縁側で、春の穏やかな雰囲気の下に佇む庭が一望できた。縁側がコの字型に庭を囲っていて、私のちょうど反対側から測ったように竹林が始まっていた。中央に、よく手入れされた盆栽が飾ってあるのが見えた。やたら渋いけど、誰の趣味だろう?

 呆と静かな庭に眺め入っていると、何かが視界をかすめた。

「あ」

 いた。ピンク色のワンピースに、櫛で整えたくなるような黒い癖っ毛、私のよりもふわふわした二本の兎耳。胸には小さなにんじん型のペンダントを提げている。彼女は春のうららかな陽光のもとで眠りに落ちている。両手を頭の下に枕代わりにしいて、両脚は縁側の淵から垂れ下げて。小さく可愛らしい姿は、画一的にブレザーを着ている月の兎たちとは似ても似つかなかった。なによりも、その幸せそうな表情からして違う。

 名前。名前。私は記憶の中から彼女の名前を探りだした。

「……てゐ?」

 呼ばれて、彼女はすぅっと目を開いた。ゆっくりと起き上がり、紅い瞳で私を見据える。

「あの」

 声を掛けようとした私に、てゐはにっこり笑い、ちょいちょいとこっちへ来いという合図をした。

「なに?」

 私は一歩踏み出した。そして、

「ひゃあ!」

 と、一秒後にはみっともない悲鳴を上げて、床板を踏み抜いていた。

 どうやら、床があると思っていたところには同色の紙が敷いてあり、その下は元々壊れていたようで、私はものの見事に落とし穴にはまっていたというわけだ。

「いたた……もう、なんなのよう……」

 思いっきり尻もちをついた私は、目に涙を滲ませて足を引き抜いた。

「大丈夫?」

 しれっとした顔で、てゐが私に手を差し出していた。

「……あんたが仕掛けたんでしょ」
「え? なんのことかなー?」

 思い出した。昨夜てゐの部屋に入ったときも、やたら手の込んだ悪戯が仕掛けられていて、私はまんまとそれに引っ掛かったのだ。

 てゐは私を助け起こしてから、両手をお尻のあたりで組んで、しげしげと私を眺め回した。口元には、なにやらよからぬことを考えているような笑みが浮かんでいる。

 因幡てゐ。永遠亭の嘘つき兎。それが、八意様から受けた彼女についての説明の全てだった。



 §



「ほい。お茶」
「……あ、ありがと」

 縁側に腰を下ろすと、てゐは傍にあった急須から湯飲みにお茶を注いでくれた。恐る恐る一口啜ると、目が覚めるような苦さの中にも深い味わいが感じられた。

「……おいしい」
「毒入りだけど」
「ぶっ」

 むせた。

「うそうそ。騙されやすいなぁ」

 てゐは笑って、私の背中をぽんぽん叩いてくれた。まだ来て間もないのだし、匿ってくれた彼女たちを信じていいのかどうかもわからないのだから、悪い冗談はやめてほしい。

「少しは疑り深くならないと、この先苦労するよ」
「……私を騙そうとするのなんて、あんたくらいでしょ……」
「さぁ、それはどうかな?」

 意味深なことをてゐは言う。私はお茶をさっきよりも用心深く飲む。確かに、毒は入っていない。

「ま、思う存分ふぬけるといいよ。ここはそういう場所だから」

 お茶を飲み干してから見ると、てゐは何やら考え込むように腕組みをしながら、どこか遠くを眺めていた。

「そういう場所?」
「そ。そういう場所。もうちょっと長くいればわかると思うけど、ここではずぅっと前から時間の流れが止まってるんだ」
「へぇ……そうなんだ」

 私もてゐの視線の先に目をやった。
 透明な音と光に満ちた、穏やかな竹林の風景。
 たった数日前に抜け出してきた月とは大違いの、包み込むような単調さが心地よかった。
 なるほど、これはかなりふぬけられるかもしれない。

「穏やかでいいわね」

 私が幾らか満たされた気持ちでそう言うと、てゐはふんと鼻を鳴らした。

「どうしたの?」
「いや……気に入ったんならそれでいいよ」

 てゐの口調は幾分か皮肉っぽくて、わざと心にもないことを言っているように聞こえた。

「感謝してるわ。突然なのに匿ってくれて」
「ああ、うん。ここはそういう場所でもあるから」
「随分色々な役割があるのね、ここって」
「まぁね」
「今度はどんな場所なの?」
「こんな言い方はあんたの気に入らないかもしれないけど……」
「構わないわ」
「月から逃げ出した者たちが、逃亡の果てに最後に行き着く場所。だからここは隠れ家で、袋小路でもあるんだ。ここから先は、もう逃げ場がない。穏やかなように見えてわりと崖っぷち。まぁ、外からじゃ絶対見つからないんだけどね」

 奇妙な無感動の薄い膜が、てゐの心を覆っていた。殻から孵りたくてしょうがないのに、その卵が思った以上に頑丈で、いつまでも抜け出せない雛のような。

「てゐはここが嫌いなの?」

 ふとわいた疑問をぶつけてみた。

「……どうかな。あんまり長くいすぎると、そういう感覚も麻痺してくるのよ」

 てゐはそうはぐらかすと、二本のもたりとした耳をぴんと立てて、私を見た。そこに浮かんでいたのは、私を罠にはめた時の、あの悪戯っぽい笑顔だった。 

「重要なのは、あんたがどう思うかだからね。また今度聞かせてよ。ここの感想」

 てゐはぴょんと跳ねて、裸足のまま中庭に降り立った。

「最後にもう一ついい?」
「いいよ」
「てゐも何かから逃げてるの?」

 てゐは向こうをむいたまましばらく黙った。笹の葉のこすれる音が、潮騒のように寄せては返すのを聴くと、静かの海を思い出す。あそこには生命はまったくなかったけれど、ここはとても暖かいもので満ち溢れている。こんな穏やかな場所で、いったい何から逃げるというのだろう。

「……これまではね。確かに逃げていたかもしれない。でもこれからは」
「これからは?」
「あんた次第かな」

 そう言い残して、てゐは元気にどこかへ歩き去った。



 §



「おはよう、レイセン」
「あ、おはようございます……八意様」

 縁側でお茶の残りを呑んでいると、廊下の向こうから八意様が歩いてきた。赤と青が半々の特徴的な服と綺麗に編まれた銀髪、そして静かな知性を感じさせる瞳は、月にいたころ八意様に抱いていたイメージとは大分違っていた。なにせ逃亡の際その場にいた月の使者を皆殺しにしたというのだから、もっと凶暴な印象を受けていたのだ。

「てゐとは話した?」
「ええ……いろいろ酷い目に合わされましたけど」
「あら、早いわね。昨日の今日なのに。いつの間に罠を張り巡らせたのかしら」
「さぁ……あの子、いっつもあんな感じなんですか?」
「あんな感じ、というのがどんなのかはわからないけれど。そうね、大体において捉えどころがないわね。言っていることが本当なのか嘘なのかはまったくわからない。すべて虚偽というのもありえない話ではない。神話の時代から生きているというのも、怪しいものだわ」
「難儀な子ですね……」

 私は溜息をついた。なかなか得体の知れない奴であるらしい。これから先、うまくやっていけるのかな、と少し不安になる。

「あら、これから貴女はしばらくてゐと相部屋になるのよ」
「え……? あぁ、空き部屋が見つからなかったのですか?」
「いえ、部屋は有り余ってるわ。用意しようと思えば幾らでも用意できる。ただ……」
「ただ?」

 やはり、突然逃げてきた月の兎に貸す部屋はないというのだろうか。確かにいきなりやって来て匿うようお願いしたあげく部屋まで要求するのは、かなり厚かましい話に思えて、私は少ししゅんとした。

 八意様は表情を少し和らげた。

「そうじゃない。貴女にもちゃんと部屋はあるわ。ただ、それは私が与えるのではなくて、貴女が自分で見つけ出すものだと思うのよ」
「え……? じゃあ」
「そう。貴女がここでする一番の仕事は、自分の居場所を見つけること。自分にふさわしいと思う部屋があったら、また私に言いなさい。その時に、貴女に新しい名前を……この永遠亭で生きていくための新しい名前を与えましょう。それまでは、便宜的にレイセンと呼ぶわ。それでいい?」
「……わかりました。ありがとうございます」

 正直、なぜそんなまわりくどい事をするのか疑問だったけれど、私は素直にお礼を言った。

「しばらくはやる事もないでしょうから、のんびり永遠亭の中を見て回ったり、部屋の配置を覚えたりして過ごすといいわ。もし家事を手伝ってくれるなら」
「それは是非、やらせてください」
「そう。ならば、兎たちの仕事ぶりを観察すると、参考になるかもしれない。ただ、半分以上は真面目にやってないけどね。他に何か質問はある?」
「あの、あそこにある盆栽はどなたのですか? もしかして八意様の」
「いや、あれはね……」

 八意様は盆栽に視線を向けた。何か気がかりなことでもあるのか、少し表情が曇っている。

「姫の、暇潰しよ」

 そう言うと、八意様は廊下の向こうへ歩いて行った。




 2


 何日か過ごしているうちに、てゐの「ふぬけられる」という言葉の意味が、よりよく理解できた気がする。

 その理由は、一つにはこの永遠亭という建物が醸し出す空気にある。淀んでいる、というわけではないけれど、とかく空気に流れというものがない。いくら兎たちが元気にはしゃぎまわっていても、いくら外からの風を取り入れても、それを打ち消してしまうような倦怠感の厚い膜が、すべてを停滞の内に覆い尽くしてしまう。時間の流れが止まっているとはてゐの言葉だけれど、なるほど確かにその通りだと頷ける。

 もう一つは、この永遠亭の主、輝夜様の存在にある。

「ねぇイナバ。月は今どうなっているのかしら?」

 盆栽をいじりながら、姫様は穏やかな声でそう私に訊いた。

 姫様は私のことをイナバと呼ぶ。これはてゐを含む他の妖怪兎たちにも同じで、どうも自分のペットの兎たちを個体として認識していないように感じる。だけど、どうでもいいと思っているのかといえばそれも違うようで、兎たちが挨拶をすれば緩やかな所作でそれに応えたり、病気や怪我の者があれば気遣ったりもする。ひたすらふわふわと捉えどころがない。永遠亭を覆う空気は、姫様が作り出しているのではないかと私は睨んでいる。

 ついでに言えば、姫様はいつも良い香りを身に纏わせていた。何かのお香なのだろうか、それにしては自己主張が強いわけではなく、だけど不思議と鼻の奥をくすぐるたおやかな芳香。

「戦争のせいでぴりぴりしてます」縁側に座ってお茶を啜りつつ、私は答えた。「それが嫌で……逃げ出してきたんですけど」

「そうよね、嫌よねぇ、戦争なんて」姫様はくすくすと笑った。「逃げ出すべきだわ。不毛な殺し合いなんかからは」

「姫様のいた頃は、戦争とかはあったんですか?」

 臆病者、と言われなかったことに少しほっとして、私は姫様に尋ねた。

「目立って大きなものはなかったわ。その分、内情はどろどろしていたけれどね。豊かな生活を手に入れても、欲は尽きることなく増大し続ける。それは地上も月も変わらなかった。ねぇ、イナバは月に帰りたいと思う?」
「……いえ。ここは、居心地がいいですし。姫様はどうですか?」
「私も貴女と同じよ。ここはこんなにも満ち足りている。暇潰しだって沢山ある。これなら永遠だって退屈しないわ」

 そう言って緩やかに微笑むと、姫様はまた盆栽をいじるのに集中し始めた。

 姫様と話していると、永遠亭を覆う空気により一層深く包まれたような気がしてくる。それはとても心地よくて、考えるのをやめていつまでも身をゆだねていたいと思う。月のことなんか忘れて、ずっと。だから、姫様と話すのは、そしてこの永遠亭で全てを忘れて暮らす今のこの状況は、とても気に入っている。

 こんな状態を、「ふぬけている」というのだろうか? ならばそれも悪くない。

 でもなぜか、そんな風に思うときいつも、心の中で疼くものがある。瞼を閉じると、浮かんでくるのはてゐの退屈そうな横顔だった。



 §



 永遠亭の夕食は、大広間で一斉に行われる。大テーブルでは妖怪兎たちが騒がしく、少しだけ距離をおいて小卓で私、てゐ、姫様、八意様、というような配置だ。

「どうレイセン。もうここの生活には慣れたかしら?」
「ええ、はい。大体の部屋の配置は覚えました。広くてちょっと大変でしたけど」

 八意様の問いかけに私は頷く。今は空いている部屋を見て回り、その真ん中に寝転がってどんな感じかを確かめているところだ。なんせこれから何年も自分の暮らす部屋になるのだから、焦らず慎重に決めたい。

「そういえばこの前、厠探して迷子になってたけど、あれ間に合ったの?」
「てゐ、食事中!」

 私が睨むと、てゐはそっぽを向いて口笛を吹いた。まったく行儀が悪い。とこんな感じに、相部屋のてゐともそれなりにうまくやれている。相変わらず悪戯は減らないけれど、それはてゐなりの親近感の表現なのかもしれない、そう思って諦めることにした。

「家事を手伝ってくれるのは助かるわ。少し兎たちには杜撰なところがあったけれど、貴女は細かいところも見てくれているようね」
「ふん。仕事とられた兎たちがぶーぶー言ってるよ」
「あら、イナバたちに仕事してるなんて自覚があったのね。驚きだわ」

 口をとがらせるてゐに、からからと姫様は笑う。八意様に褒められて、私は嬉しかった。

「そのうち、また妖怪兎の何匹かを助手に貸してもらおうかしら」と、八意様。
「また怪しげな実験に付き合わせるっての? 御免被りたいね」
「助手? 助手って……なんのですか?」
「新薬の開発よ。言ってなかったかしら。私はここで薬師を名乗っているのよ、一応ね」
「まぁ、暇潰しだよね」
「あら、暇潰しは何にも代えがたいものじゃない」
「そうだったのですか……」

 私は箸を止め、少し考えた。正直、家事をするだけでは時間を持て余してしまう。姫様の仰る通り、この永遠亭において暇潰しとは最も重要なものだろう。ならば。

「あの……部屋を見つけてからでいいんですが、私を助手にしてもらえませんか?」

 八意様は驚いた表情で私を見た。

「助手に……?」
「ええ。あの、本当のこと言うと、薬草とか調合とかの知識は全くないのですが……でもそれも、勉強して身につけますから……お願いします」

 このままここで何もせずに時を過ごすのは、きっと長くは耐えられないだろうし、それに何よりも、匿ってくれている人たちに、居場所を与えてくれる人たちに、恩返しがしたかった。

「そうね……」

 八意様は唇に指を添えて私を見た。これまでとは違う、測るような視線で。

「それならば、私の弟子として下についてもらうことになるけれど、それでもいい?」
「はい、お願いします」

 私は頭を下げた。

「……検討しておきましょう。それも、貴女が部屋を見つけてからね」
「よかったじゃん。前から欲しがってたもんね、弟子」

 てゐはニヤニヤしながら言った。

「レイセン、変なことやらされそうになったらすぐ逃げ出していいんだよ」
「失礼ね、私は弟子に変なことなんてさせないわよ……たぶん」
「ど、どんなことやらされちゃうんでしょうかっ」
「イナバ、顔赤いわ。熱でもあるのかしら」
「ちょうどいいじゃん。ほらそこに薬師がいるよ。処方してもらいな。頭の」

 そんな風にして、夕餉の時間は過ぎていった。



 §



 家事の手伝いを終え、湯あみを済ませてゐの部屋へ戻ると、大抵何も言わずにどちらかがお酒とおつまみを持ってきて、障子を開け放し中庭を眺めつつ小さな宴会が始まる。夜とはいえ、まだまだ永遠亭は静まらない。やんちゃな妖怪兎たちの騒ぐ声、そこら中をばたばたと駆けまわる音が、淀んだ春宵の空気を楽しく掻き乱す。体の中が、なぜだかわくわくと浮き立ってしまうような夜だ。

「八意様が薬師をしていたなんてね。知らなかったわ」

 そう言って、私は日本酒を口に含んだ。少しアルコールが強めで、ピリピリと舌が刺激される。ちびちび飲まないと、早々に酔ってしまいそうだ。

「昔からだよ。これまでも幾つか薬を作ってたけど、どれも効果がよくわからないものばかりだったわ。一番わかりやすいのは、あれだ、良い夢が見られる薬」
「へぇ、そんなのあるんだ。このお酒も八意様が作ったのかな?」
「いや、そっちは姫の趣味。暇潰しになるものって結構あるもんだよね」

 確かに、世の中には実にたくさんの時間を潰す方法があるな、と感心する。月にいた頃は、訓練に追われてとても何か余興を楽しむどころではなかった。今では、こんなに穏やかに時を過ごす余暇も持てている……一緒に酒を呑む奴の性格には多少難アリだけれども。

 何匹かの妖怪兎たちが、縁側で百人一首に興じている。私もてゐに教えてもらってやったことがあるけれど、幾ら歌を覚えていようと他の兎たちの勢いとスピードには敵わなかった。遊びに全てを懸けるような彼らの気概と情熱は、最初は滑稽に感じた。だけどそのうち羨ましくなってきた。命を懸ける対象は、命それ自体である必要は決してない。それを知っている彼らのことが。

「てゐはどんな暇潰ししてるの?」
「んー、私は……」

 てゐは部屋の中に視線を彷徨わせた。隅の一角に年季の入った棚があって、そこには紙屑やら割れた容器やら像やら、形の様々な物々が無造作に詰め込まれていた。

「ああ、こういうの収拾してるんだ。変なモノばっかりだけど」
「変なとは失礼な。私の眼鏡に適ったものしか置いてないよ。こう見えても鑑定することにかけては右に出る者がいないんだから」
「はいはい。それにしては、ゴミにしか見えない物も多いわね……なにこれ? 本じゃないみたいだけど」
「ふふん、無知だね。それは新聞っていうんだよ」
「新聞……」

 見ると、大きな文字と小さな文字が所狭しと書きこまれている。雨風にさらされていたらしく、文字が滲んでいて読み辛かった。それに私と書き手との基本的な情報の共有が出来ていないのか、そこで使われている語句の羅列が頭の中でしっかりした形をとって表れてこない。

「わからないのも当然だよ。それは山の天狗たちが内輪向けに書いたものだからね」
「山? 天狗? それって……」
「この竹林の外の話だよ。時々、そういうものが時々ここにも流れてくるんだ。それを拾ってきてじっくり眺めるのが、私の趣味かな」

 得意げに言って、てゐは杯を一気に干し、新たに日本酒をそこに注いだ。

「外、か……」

 八意様から、竹林の中を歩き回るのは自由だけれど、その外へ出ることだけは禁止されていた。永遠亭に施した何かの術が弱まってしまう可能性があるからだ。だから普段、竹林の外がどうなっているかなんて考えることはなかった。でもいざ世界が私の知らないところで回っているという証拠を突きつけられると、好奇心が湧きあがってくる。だからといって、八意様の言いつけを破るつもりはさらさらないけれど。

「ねぇてゐ、またこういうのが流れてきたら、私も見ていい?」
「いいよ。そこの棚に置いてあるのは閲覧自由だから。他のところ勝手に開けたら、命の保証はできないけど」

 どうせなにかしらの罠が仕掛けられているに違いない。私は畳に寝そべっておつまみを口に運びながら、時々てゐに質問してそこにある文章の意味を理解しようとした。すると確かに、不思議なほど早く時間が過ぎていった。私にも、暇潰しが一つ見つかったかもしれない。





 3

 ある夜のこと。暗く静まり返った廊下を歩き、用を済ませて厠を出ると、ふわりと良い匂いが鼻の奥をくすぐった。気配は感じなかったけれど、誰かがここを通ったらしい。この匂いは……と、私は記憶の中からそれと結びつく人物を探す。かいでいると、暖かい気持ちと安心が湧きあがってくる香り。いつまでも包まれていたいと思うほどの。

 そうだ。

「姫様?」

 そう暗闇に問いかけると、応えの代わりに、遠くで玄関の扉が閉まる音がした。こんな夜更けにどうしたのだろう。

 こういうのを、風に誘われたというのかもしれない。私は姫様を追って、永遠亭の玄関から外に出た。

 春なのに冷え込む夜だった。はぁと息を吐くと、白い靄が立ち上ってすぐに見えなくなった。星々は冴えた輝きで空を飾り、月はさながら光の世界からの覗き穴のよう。私は不精しないでちゃんと着替えてきたことにほっとしつつ、空気を吸い込んで姫様の匂いを探した。永遠亭の周囲を巡るわけでもなく、竹林の中へ入ってしまったらしい。いったいどこへ行くのだろう?

 あたりは笹の葉の擦れる音に満ちていた。夜禽たちは寂しげな鳴き声をもらし、時折得体の知れない何かが茂みを揺らす。いつも水を汲んでいる井戸も、月の光の下にあって不気味な雰囲気を纏っていた。身の危険を感じるわけではなくとも、好んで出て行きたい場所ではない。それでも、このまま部屋に帰って寝てしまうということはしなかった。寒さや若干の恐怖よりも好奇心のほうが勝ったからだ。

 でも竹林に分け入った途端、むせかえる下草の匂いに邪魔されて、姫様の匂いは追えなくなってしまった。どうしよう、と途方に暮れる。目を凝らして足跡を探したけれど、固く乾いた地面には何も残っていなかった。諦めるしかないか。そう思って唇を噛んだとき、自分の耳に響いてくるものを感じた。

「あ……!」

 思わず笑い出しそうになる。自分の能力のことをすっかり忘れてしまうなんて、少しふぬけすぎなんじゃない? 私は意識を耳に集中して、波長を探った。

 竹林の波長は低く変化に乏しいため、すぐに姫様を捉えられた。姫様の波長も低空飛行という感じで安定しているけれど、少し気が昂ぶっているのか、大きく振れ幅が揺れ動く一瞬がある。よほど楽しみにしていることがあるのだろうか。こんな暗い竹林の奥に? 頭の中で疑問符を膨らませつつ、姫様がいると思われるほうへ小走りに向かった。

 こんな風に波長を探りながら暗闇を恐る恐る進んでいると、月での戦争を思い出す。自分に向けられる明確な殺意に耐え、一瞬の隙をついて弾を敵に撃ちこむ。転がる死体が敵のものか味方のものかということにすら目もくれず、ただひたすら自分の命を守るために殺し続ける。その感覚がよみがえってきて、私は体を震わせた。

 思わず立ち止まる。

 遠くの茂みの前に、こちらを睨んでくる敵の姿を見る。

 違う。いるわけがない。ここはもう月じゃないんだ。絶対に安全なんだ。死の影に怯える必要なんてない。そう自分を奮い立たせて、一歩一歩、奥へとまた進みだした。

 しなやかな竹が一本一本、月の光を浴びてどこか神秘的に輝いている。朝昼の竹林と夜のそれは、全然表情が違う。見通しが良い分明るいうちは親しみやすいけれど、暗くなると別の世界へ誘っているように思えて……それが、さっきみたいな恐怖を呼び起こしたのかもしれない。まったく子供じゃあるまいし、独りじゃ夜にも出ていけないの? 臆病になったものだ、と思う。でもそれは間違いで、私は元から臆病なのだ、きっと。でなければ月から逃げ出したりはしないし、暗い夜にも怯えたりはしない。

 しばらく行くと、広場のような場所に出た。そこが目的地であるわけではなかったけれど、私は足を止めた。

「小屋……?」

 円形の平地の端に一軒の平屋があった。装飾を排した実用一辺倒のものだ。今は中から人の気配はしないけれど、誰かがここで暮らしているという生活感はそこかしこに漂っている。

 もしかしたら、姫様はここに住んでいる誰かと会っているのかもしれない。そしてその人は、姫様にとってきっと特別な人なのだ。でなければ、あんなに嬉しそうな波長を発するはずがない。姫様に追い付けばすべてわかるだろう。再び駆けだそうとしたとき、オレンジ色の光が空を昼のように照らした。



 §



 強く激しい光を周囲に撒き散らせて遠くの空に浮かび上がったのは、一羽の巨大な鳥だった。体躯は燃え盛る炎で出来ていて、優雅な翼の一振りごとに耐えがたい熱風がここまで吹きよせてくる。羽ばたく度に球形に凝縮された炎の塊が生み出され、さながら火の雨が天から地上に降り注いでいるようだった。

 姫様はあそこにいるのだろうか。だとしたら危ない。私は吹きすさぶ熱風に逆らって、火の鳥が猛威を振るう危険地帯へと走り出した。

「……熱っ……!」

 熱せられた空気の塊を吸いこみそうになって、口元を抑える。近付くにつれ、周囲の竹に引火しているところを通り抜けなければならなかった。火の鳥は、この竹林をまるごと焼き払ってしまうつもりなのか。私はブレザーを脱ぎ捨てて袖をまくり、飛んでくる火の粉にいっそう注意を払いながら先へ進んだ。

 またひらけた場所に出た。でも今度のはさっきの小屋があった場所とは違い、炎のせいで根こそぎ焼き尽くされたような暴力の痕がそこかしこにあった。何か鋭い爪で抉られたような大穴も地面に穿たれている。まだ火の雨は収まらない。私は顔を上げ、空に浮かぶ鳥を観察した。

 よく見ると、鳥の胴体部分に白い人型のものが見える。姫様ではない。雪のように白く、柳の枝のように長い髪、ところどころに札が貼り付けられた赤色のもんぺ。不敵に地上を見下ろす表情、危険に輝く緋色の瞳。あの少女が、灼熱の鳥を生み出しでいるのだろう。人……? そう呼べるのかも怪しい。そして姫様は、こんな奴に会うためにここまで来たのか。私は空に浮かぶ少女を見るのをやめ、再び地に目を落とし姫様の姿を探した。

 はっ、と息を呑む。
 激しい光熱の嵐の中に、力なく倒れ伏している着物姿の――

「姫様ッ!」

 轟音に掻き消されて呼び声は届かない。しかし姫様は地面に両手をつき、よろよろと立ちあがった。左の肩から腕にかけて酷い火傷を負っている。美しかった黒髪には血がこびりついていて見る影もない。あの怪我はまずい。早く永遠亭に連れ帰って八意様に治療してもらわないと死んでしまう!

 ぼわっ、とまた空が明るくなった。火の鳥の攻撃がくる。次に直撃を受けたら、きっと姫様は耐えられない。私は炎の踊る戦場へと足を踏み入れた。

「危ない!」

 叫んで、私は茫然と立ちすくむ姫様を抱いて横ざまに転がった。紙一重のところで火の弾の直撃を受けずに済んだ。熱だけでなく勢いもあるらしく、突っ込んだ所の土はひび割れ、抉られていた。あれを食らっていたかと思うとぞっとしない。ごくりと唾を呑んで、私は服に引火していないか確かめ、姫様を見る。

「姫様、だいじょう」

 不意に、強く襟首を掴まれる。
 姫様が立ちあがって、私の襟首を両手で掴んでいる。

「ひめさ」

 再び息を呑む。
 姫様は私を睨みつけていた。黒い瞳に、激しい怒りの色を浮かべて。

「あ」

 恐怖に背筋が凍る。
 剥き出しの感情が流れ込んでくる。それは敵意にも似て、私の意思を強引に殴りつけて委縮させてしまう。

 怖い。

「……!」

 姫様の目が私から逸れる。いつの間にか周囲に、光の輪のようなものが浮かび上がっている。それは徐々に形をはっきりさせ、強い熱を帯びていく。

「邪魔よっ!」

 そう叫んで、姫様は私を突き飛ばした。その瞬間、輪はくっきりと輪郭を持って凝縮し、姫様の体を締め付けた。

 絶叫が聞こえた。姫様の体が、刹那のうちに火柱に包まれる。着物が黒く炭化し、人型だったものがゆっくりと崩れていく。悲鳴はぶつりと途絶え、全てが終わったあとには灰すら残らなかった。

「あ、ああ……」

 私は力なくそう呟いた。周りにはまだ忙しなく弾幕が降り注いでいる。しかしそれらの放つ光とは裏腹に、私の意識は暗闇へと呑みこまれていった。



 §



 暗闇の中に火が揺れている。それは小さな蝋燭の灯だ。風にゆらゆらと掻き消されそうになりながらも、燭台の上で必死にその存在を保とうとしている。その火を絶やしてはいけない、と言われた。敵が攻めてきてもすぐに準備ができるように。仲間たちが言っていた。目覚めた時あの火を見ると、死が怖くなくなるんだって。そう言った奴は皆死んでいった。私を置いて。

 次の瞬間には、その火は優しい輝きになっていた。窓から吹きこんでくる竹林の風に、楽しげに身をくすぐられていた。それを見る時、私はいつも一日が始まることを実感する。仲間とは呼べないまでもより近しいと感じられる人たちに囲まれて、次々に新しいことを学んでいく。

 やがて、火は荒々しい火焔となる。竹林を焼き払い、空気を焦がす灼熱の悪魔。それが私を包みこんで――そこで目が覚めた。

「ん……」

 目を開くと引き戸が見えた。手前に何足かの靴もある。明かりが灯っている。ここは……

「あ、起きた? なんかうなされてたね」

 てゐの声がする。ここは、永遠亭の玄関だ。

 私の隣で、てゐは上がり框に座って両脚をぷらぷらさせていた。身を起こすと、捨てたはずのブレザーが毛布代わりに掛けられていたらしく、冷たい木の床にそれが滑り落ちた。少し意識が朦朧としている。どうして私は、

「まったく、ここまで運んでくるの大変だったんだから。もう二度とこんなことしないでよ。あいつらの殺し合いは見るに耐えないし」

 そうだ。

「ひっ、姫様が」
「待ちな」

 すぐに出て行こうとしたところを、てゐに止められた。何を呑気に構えているんだ。早くしないと――

「姫なら無事だよ。まぁ、確実に酷い有様にはなってるだろうけど」
「え、そんな、だって火が」
「忘れたの? 姫は蓬莱人だよ」
「あ……」

 思い出した。蓬莱の薬の効果。死を捨てて得られる永遠の命。説明を受けた時は、ただ単に延長された長寿を得られるくらいのものだと思っていたけれど……あんな風に焼かれても、再生できるものなのか。

「あの、どうして」
「待った。まずはこれ飲んで落ち着きな。そうしたら順番に答えてあげるから」

 そう言っててゐが差し出したのは、湯気とともに香ばしい匂いを立ち上らせる黒い飲み物だった。白いマグカップに入っている。まったく見たことのないものだ。

「これ……」
「珈琲っていうんだ。嗜好品の一種。気つけにもなるから、ゆっくり飲んだほうがいいよ」

 言われた通り、口の中に含んでみる。焼けつくような味が舌を打つ。

「う、これ、苦い」
「我慢して飲んでれば、そのうち美味しくなる。意識もしゃきんとしてくるしね」

 私には熱すぎたので、ふぅふぅ冷ましながら、少しずつ飲んでいくことにした。そうしていると、確かに心が落ち着いてきて、さっきまでに起きた出来事を整理できるようになった。

「……訊いていい?」
「いいよ」
「……あの火の鳥の中にいたのは」
「藤原妹紅。理由はよく知らないけど、姫に恨みを抱いてこの竹林まで追いかけてきた」
「あんな事をやるのは、今日が初めてじゃないの?」
「もう何百年もやってるよ。飽きずにね」
「どうして、そんな」
「さぁ。初めは姫も、身に降る火の粉は払わなければならないって感じで、仕方なく相手してたみたいね。だけど、そのうちに楽しくなってきた。楽しいから、飽きないんだろうね」

 竹林で、姫様の波長を読んだ時のことを思い出した。確かに姫様は、あの時嬉しがっていた。妹紅と殺し合えることが楽しくてたまらないからだ。だけど。

「殺し合いが、楽しいなんて……おかしいよ」

 あんなもの、私にとっては恐怖の体験でしかない。殺意の前に晒されると身がすくむ。それを楽しむなんて到底出来っこない。絶対に。

「いつもの姫を知ってるでしょ。常に暇潰しを求めている。じゃないと、倦怠の波に呑まれてしまって、とても生きていけなくなるから。永遠の命を持っている分、生きるのがつまらなくなるのは致命的だよ。姫はそれが怖いんだ。だから」

 命の取り合いすらも、暇潰しにしてしまった、ということなのか。それは、命を湯水のように使い捨てることの出来る蓬莱人の考え出した、究極の娯楽だ。納得しがたいことではあるけれど、そうなのだろう。私を突き飛ばした時の姫様の目が脳裏をよぎる。激しく怒っていた。それは、妹紅と二人だけの楽しみを邪魔されたからだ。それに、もしかしたら。

「死ぬことすら、楽しんでるのかな」
「……さぁね。それはわからない」
「……そうだ。八意様は、八意様は何も言わないの?」

 あれだけ姫様のことを想っているなら、そんな命を粗末に扱うようなことについて、何も口出ししないはずがない。

「言わないよ」
「どうして! だって八意様は、姫様のこと」
「同じ蓬莱人だから、じゃないかな。望んだり生きたりすることに飽きるのは、永遠の命を持つ者にとっては最大の恐怖だってこと、理解してるから。だから止めない」
「でも……」

 不意に、中庭の盆栽を一瞥して、それを姫様の暇潰しだと答えた時の、八意様の顔を思い出した。憂いを帯びた眼差しが、不思議と印象に残ったのを覚えている。あれは、あれの意味することは?

「……八意様は、姫様のことを愛してるんだよね」
「そう言いたいのなら」
「でも、妹紅がいなきゃ、姫様は生きていけない。それって……」

 自分では、姫様を満足させることができない。誰よりも愛している人が、自分以外の誰かを何よりも必要としている。それはとても辛く苦しいはずだ。

「……やめさせなきゃ」

 袋小路だ。三人とも不滅の命を持っているために出来てしまった、永遠の袋小路。
 こんなこと、誰かがやめさせなきゃいけない。絶対におかしい!
 私は今度こそ立ちあがって、引き戸に手を掛け開けようとする。

「だから、待ちなって! あいつらのところに行ったって無駄死にするだけだよ」
「じゃあ、てゐはこのままでいいと思ってるの!? 八意様と、姫様が、そんなことになってるっていうのに!」
「……何もしなかったと思う?」

 低い声で、てゐは言った。

 私は思わず息を呑む。
 てゐは、顔を歪めて、赤い瞳で、私のことをひしと見据えている。

「やってみたよ、私だって。あいつらについていってさ。話聞いて、それは不毛なことだって言って、止めようとした。でも耳を貸さなかった。やめられないっていうんだ。最初にあった憎しみなんてとっくの昔に忘れてる。ただ殺し合うことが楽しいって。止められなかったんだ。私ではね」

 それを聞いて、私は自分が勘違いしたことを思い知った。

 八意様と同じように、てゐも苦しんでいるのだ。それが、私がここへ来た次の日の朝、てゐが見せた表情の意味だ。倦怠感と無力感に押し包まれた雛のような。それはまさしく、この状況を示していたに違いない。

「……ごめん」
「いいよ。気にしないで」
「……てゐにだって、止められなかったのなら……」

 私にだって、止められるはずがない。
 力なく、てゐの隣に腰を下ろす。

「誰か――」

 祈るように両手を組む。
 誰か、この状況を動かせる人はいないのだろうか。
 だけど、いるはずがない。この竹林には、私と、てゐと姫様と、八意様と……藤原妹紅しかいないのだから。

「私も……」

 ふと、隣でてゐが呟いた。

「え?」
「私もね、そうやって願ったよ。別に両手組んで祈ったわけじゃないけど……そうしたら、どうなったと思う?」
「……どうなったの?」

 立ちあがって、てゐは私の前に立ち、お尻のあたりで両手を組み、私に笑いかける。
 顔には、いつものあの笑顔が戻っている。悪戯を企んでいる時の、そして成功した時に見せる笑顔が。

 てゐは言った。明るく、希望に満ちた声で。

「あんたが降ってきたのさ!」



 §



 がたっと音がして、引き戸が開いた。冷たい風が忍び込んでくる。暗闇を背にして、血みどろの姫様が……生々しい殺し合いの痕をその身に残す姫様が、幽鬼のようにそこに立っていた。

 それを見て、姫様は殺し合いを楽しんでいるというさっきの確信は、一気に吹き飛んでしまった。顔が青白い。生気もない。瞳は虚ろで、血塗れの。これが、楽しんでいるだって? そんな馬鹿な話があるか!

「ひ、ひめさ」

 言葉を発すると同時に、熱いものがこみ上げてきた。喉がぐいと何かを押し込まれたかのような異物感に襲われる。視界が歪む。世界が揺れる。こんなの絶対に正しくない。絶対に。でも何もできない。ああ、どうして――

「姫様!」

 気がつくと、姫様に抱きついていた。

「……離しなさい。汚れるわ」

 姫様は不機嫌そうに、かすれた声でそう言った。

「いやです」
「命令よ」
「嫌です!」
「……なんなのよ」

 私は首を振って、姫様の胸元に縋りついた。血の匂いがする。それに混じって微かに、姫様のあの、安心させるようなお香の匂いもする。もうやめてくださいとは言えない。言っても無駄だし、姫様に嫌われてしまうかもしれないから。だから、今は、ただこうして泣くことしか出来ない。

「イナバ、これは」
「さぁ、自分の胸に訊けってところかね」

 てゐがすっきりした声で、そう答えた。

「たとえ邪魔だったにしろ、あんたの命を救おうとしたんだ。それに対してあんたがどういうことをするか、私には物凄く興味があるね」
「頼んだわけじゃないわ。余計なお節介よ」
「それは関係ない。まぁ、自分の好きなようにすればいいよ」

 姫様は溜息をついた。

「ひっ……く、う……」
「……ほら。顔がぐちゃぐちゃよ。わかったから離れて、湯浴みの準備して」
「えうぅ……はい、わかり、まし、たぁっ……」
「綺麗に洗ってもらうわよ……何にやにやしてるの」
「べつに。じゃあ、私はここで。それじゃおやすみ」

 泣いている私と、呆れ顔の姫様を残して、軽やかな足取りでてゐは玄関から歩き去った。





 4


 鈴仙・優曇華院・イナバ。
 それが、八意様――お師匠様が私に与えてくれた名前だった。

 どんな意味をその名前に込めたのか、お師匠様は多くを語らなかった。レイセンという読みに、鈴と仙という漢字をあてたのはいったい何故か、私には見当もつかないし、「優曇華院」というのはお師匠様の付けてくれた愛称で、どうしてそんなたいそうな単語を、しかもニックネームをこの地で生きて行くための本名に組み込んだのかはさっぱりだ。さらにお師匠様は、名前の最後に姫様の使う「イナバ」という愛称も採用した。これはまぁ、苗字の代わりだと思えば理解もできる。しかし全体として、何やら妙なものをゴタゴタと寄せ集めた印象を抱いたのは確かだ。

 名前が決まってから、てゐにそのことについて話をすると、彼女は笑ってこのように答えた。

「まぁ、名前で重要なのはそれに込められた意味だけじゃないからね」
「どういうこと?」
「名前ってさ、込められた意味以前に『名乗る』ものとして機能するじゃない。いざ名乗られた時、相手はその意味を逐一考えると思う? 評価するのは何よりもその響きとか呼びやすさでしょ。だから意味について考えるのは暇潰しにはなるけど、あんまり気にしすぎてもしょうがないって」
「ふぅん、そんなものかな。でも、どうして生きていくのに名前が必要なんだろう……それも、永遠亭のみんな以外誰もいないこの竹林でさ。用を言いつけるなら、愛称だけでも充分こと足りるわけでしょ」
「もしかしたら、そこに希望があるかもね」

 意味深なことを言って、てゐはにやりと笑った。

「どういうこと?」
「名乗るにしても、名乗るための『外部』がなければ意味がないというのはその通り。ならさ」
「……お師匠様は、そういう『外部』が将来現れることを予感してるってわけ?」
「だったらいいね、という話だよ」

 名前の他にも私が獲得したものはあった。とうとう部屋を決めることができたのだ。

「ウドンゲ、本当にここでいいのね?」
「はい、ここでお願いします」
「一応、理由を聞いておこうかしら」
「ここなら研究室に近いですから、お師匠様の呼びかけにもすぐに応えることができます。それに、台所や庭からも遠くないので、炊事洗濯にも便利です。なので、ここを選びました」
「……なるほど。自分の職能を理由に選んだわけね。わかったわ。じゃあ今日から、この部屋を貴女に与えます。これからも期待してるわよ」
「はいっ!」

 恩返しをするという決心は未だ薄れてはいない。永遠亭の恩人たちに報いるためなら、私は何だってやるだろう。

 そう、何だって。







 そして、月日が流れて。

「たったいま侵入者があったわ。私は姫と共に永遠亭の奥へ隠れる。貴女とてゐは兎たちを指導して侵入者の足止め、それと催眠廊下で姫に近づけないようにしてくれればいいわ。わかったかしら?」
「はい、わかりました。相手が何者であろうと、決して罠は破れません」
「姫と貴女は決して月人たちには渡さない。そのためにも、頑張るのよ」
「はい!」

 そう言って、お師匠様は扉の向こうへと消えた。

「じゃあてゐ、あんたは先に行って撹乱して」
「わかってるよ。ほどほどにやるって。ただまぁ、見物ではあったね。あんたがお師匠様に嘘をつくなんてさ」
「決めたことは守るわ。約束だもんね」
「まぁ同盟を結んだわけだから、正しくは『盟約』かな。それじゃ行ってくるよ……よろしくね、共犯者」
「それはちょっと悪い感じがして嫌だなぁ」

 笑いあって、私たちは別れた。

 私がお師匠様についた嘘は二つ。私たちは――私とてゐは、侵入者が何者なのかを知っている。それと仕掛けた罠は、確実に破られるだろうことを知っている……破られるように仕組んだのだから、当然だ。

 月からの交信があった時、私は真っ先にその場にいたてゐに話した。月に帰らなければならない。もうここにはいられない。私のせいで、姫様まで連れ去られてしまう――そう言って取り乱す私に、てゐはある提案をした。逆にそれを利用しよう。月人たちがやってくるとなれば、確実にお師匠様は大がかりな目くらましを施す。それは竹林だけでなく、竹林の外部にも影響を及ぼすだろう。そうすれば、絶対に外からそれを止めるものがやってくる。そして必ず一枚噛んでくるであろう妖怪の賢者は、幻想郷に月からの侵入者があることをよしとしない。

「最近ここに流れてきたのに、面白い新聞があってさ。文々。新聞っていうんだけど。記者は射命丸文。内輪向けが好きな天狗にしては、山の外部のことを沢山書いてる奴でね。そいつによると、何かの異変があったら、必ず博麗の巫女か黒白の魔法使いがそれを解決するらしいよ。ほら、前にあった紅い霧も、春が来なかった時も、そいつらが解決したんだって」
「じゃあ……お師匠様が異変を起こしたら、そいつらが必ず止めにくるってこと?」
「そう。そうしたら、永遠亭のことが幻想郷に知れ渡る。晴れて永遠亭は、外に開かれることになるわけ」
「……お師匠様たちには、嘘をつかないといけなくなるね。裏切ることになるのかな」
「こう考えればいいよ。助けるために、救うために、裏切るんだ」

 外に開かれたことで、それがあの身動きのとれない状況の打開に繋がるかどうかはわからない。だけど、僅かでもその可能性があるなら……恩に報いるためなら、何だってやる。たとえ一時的には、裏切ることになったとしても。それが姫様とお師匠様と、そしててゐと私を救うことになるならば。

 月の民を裏切り、私とてゐで永遠亭が開かれることを画策すること。
 それが、私たちの同盟――「兎角同盟」の盟約の内容だった。

「……来たわね」

 私は、目の前の侵入者に話しかける。

「遅かったわね。全ての扉は封印したわ。もう姫は連れだせないでしょう?」

 この二人の少女が、私たちの救済への糸口になる。
 私は不敵に笑いかけ、彼女たちに向かって人差し指を向ける。

「いい? この廊下、催眠廊下は私の罠の一つ。 真っ直ぐに飛べないお前達は、私の力で跡形も無く消え去るのよ」

 きっと、希望に満ちた瞳を輝かせて。

「私の目を見て、もっと狂うが良いわ!」



 こうして、私とてゐが交わした盟約の達成の日――





 イナバの日が始まった。
 去年の夏コミにて頒布した『ななうた。 〜Rainbow Tales〜』の原稿です。

 てゐちゃんと結婚しました。
Angelica
http://schwarzemilch956.blog134.fc2.com/
作品情報
作品集:
1
投稿日時:
2011/04/01 00:21:11
更新日時:
2011/04/01 00:21:11
評価:
2/2
POINT:
2000000
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簡易匿名評価
POINT
1. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 01:59:41
この永遠亭は良い……!
2. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/01 04:37:23
ご結婚おめでとうございます。
名前 メール
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