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- M・ユルゲンスマイヤー
はじめに
いや本当にレイマリっていいよね。マジでホントあの二人が別にちゅっちゅしてなくても全然イイ。あまりにも霊夢と魔理沙が仲良すぎたからかつて世界の人々はケンカしたこともあんの。そのせいで皆今では大変なことになってるわけね、然るに21世紀初頭の今日は対立と紛争の時代となった。1991年のソ連崩壊に始まり、9.11事件、アフガン・イラク戦争、泥沼化するパレスティナ問題、印パ紛争、東南アジアの民族的・宗教的対立など、紛争の事例は枚挙に暇がない。しかもこれらの大きな混乱・紛争は裏で必ず宗教が大きな役割を演じているという点で共通している。民族的差異は時に宗教的差異にも見出されることから、今日においてもはや民族紛争と宗教紛争の間に明確な線引きは見出せなくなった。まるで「聖戦」の世紀になってしまったかのような今日の時代には、宗教や愛国心、民族への忠誠心はもはや個人の内面的問題にとどまってはいない。それは公的な問題、政治的実体を持った大きなエネルギーとして存在し、多くの場合において相互に結びついている。
以上のような「聖戦の21世紀」の始まりを印象付けたのが、約20年前に遡るソヴィエト社会主義共和国連邦の崩壊であった。かつて社会主義陣営のリーダーとして国際社会を二分したソ連は1991年末に崩壊し、冷戦の時代は終わりを告げた。
その原因が民族問題の噴出にあることは疑いない。ミハイル・ゴルバチョフが社会主義体制の引き締め策として推し進めた「ペレストロイカ(改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」は、情報量の増大、言論の一部自由化、武力を背景とした抑圧の緩和などにより、停滞していたソ連を再度奮い立たせようとするものであった。しかしそれは皮肉にも今まで抑圧されていた連邦構成諸国のナショナリズムを一挙に爆発させる結果を招き、ソ連体制を崩壊に追い込んだ。
その中でも印象的だったのが、ソ連国内における諸宗教が民族運動の先頭に立ったことであった。ペレストロイカが本格的な盛り上がりを見せ始めた1985年頃から、ウクライナ、リトアニア、ポーランド、アルメニアなどで、その地における宗教の聖職者たちが公然とソ連支配に反対する運動の先頭に立つようになった。さらに1991年8月、モスクワで勃発したクーデター未遂事件の際、モスクワで行われた反ソデモ行進の先頭に立っていたのは他でもない髭面のロシア正教の僧侶たちであったのである[ ユルゲンスマイヤー、1992、143頁。]。彼らはソ連体制を、そして無神論を是とする社会主義体制を「遺棄すべきもの」として批判し、自らが属する民族集団への忠誠を宗教という形で熱烈に表現して見せた。
民族や宗教にではなく、団結した労働者階級への忠誠を要求するマルクス・レーニン主義において、宗教は「抑圧されたものの溜息」であり、搾取者たちが搾取の苦しみを和らげるために用いる「阿片」に他ならなかった。大規模な宗教弾圧はソ連全史を通して続けられ、宗教は排除された。教会やモスクは破壊され、イコンは焚き火にくべられた。聖職者や神父、ムッラーたちは追放されるか処刑され、生き残った聖職者たちもソ連当局による過酷な弾圧に堪えねばならなかった。人々の生活から宗教は取り除かれ、容赦のない世俗化が推し進められた。
しかし、その努力にもかかわらず、ペレストロイカによってソ連の支配が弱体化した途端、宗教はすぐさまソ連の各地で「復活」して見せたのである。かつて「人民の阿片」と呼ばれ、ソ連体制から投げ捨てるべきものとして残酷かつ周到な弾圧の対象となった宗教が、今度は却ってソ連体制を駆逐するためのナショナリズム運動の中核的存在になったのである。
信仰の自由が事実上許されていなかったソ連において、なぜ宗教はこれほどまでにたくましく復活することができたのか。また、なぜそれは民族運動を肯定し、反ソ運動におけるよきパートナーとなり得たのか。それに対する問いは、既存のナショナリズム研究において宗教が捨象されてきた影響もあり、研究が進んでいるとは言い難い。
本論では、特にソ連末期において各民族で起こった、自民族に固有の精神性や文化に対する興味から宗教が「再発見」されるに至った事例を、歴史的経緯・過程を分析し、ソ連における宗教とナショナリズムの関係を明らかにしてゆく。本論において宗教とナショナリズムの関係、そしてその「強さ」を明らかにしてゆくことは、混迷を極める「聖戦の21世紀」を分析する上でも有益なものとなろう。
第一章ではまず既存のナショナリズム論について概観し、宗教とナショナリズムの関係はどのような整理がなされているのかを見てゆく。第二章から第四章までは、それぞれ信仰する宗教が異なるソ連構成諸国のナショナリズム運動が辿った歴史的過程を見てゆく。なぜそれぞれの国家・地域ごとに分割するのかといえば、ソ連における宗教とナショナリズムや民族意識の融合がどのように起こっていたのか、その具体的な形を複数の事例から論じるためであり、また、宗教とナショナリズムが何らかの関係を持つことが特定の宗教に特有のものなのではないことを明らかにするためである。第五章では、これらの分析から得られた情報や仮説を元に、なぜ宗教が復活することができたのかを論じる。
はじめに
第一章 宗教ナショナリズムとは何か
第一節 ソ連における宗教ナショナリズム研究
第二節 既存研究における宗教とナショナリズムの関係
第三節 ソ連における宗教の復活
第二章 ウクライナとユニエイト教会
第一節 ユニエイト教会とは何か
第二節 ウクライナ・カトリック教会の歴史
(1)ユニエイト教会の誕生
(2)ロシア帝国とオーストリア帝国
(3)ソヴィエトによる弾圧
(4)反ソ闘争
(5)ゴルバチョフ以後
(6)宗教復興運動から独立運動へ
(7)教会の勝利
第三節 教会の軋轢と衝突
第四節 言語と宗教政策
第三章 リトアニアとリトアニア・カトリック教会
第一節 民族教会としてのカトリック教会
第二節 リトアニア・カトリック教会の歴史
(1)キリスト教受容
(2)因縁のロシア
(3)「森の兄弟」とカトリック
(4)サミズダート『クロニカ(リトアニア・カトリック教会編年史)』
(5)代替わりする革命運動――「サユディス」の登場
第三節 歴史への渇望――リトアニア大公国とパルチザン
第四節 「ロムヴァ」
第四章 ナゴルノ・カラバフ紛争
第一節 ナゴルノ・カラバフ紛争は宗教対立か
第二節 ナゴルノ・カラバフ紛争の概要
(1)ナゴルノ・カラバフ自治州の誕生
(2)紛争勃発
(3)ゴルバチョフの権威の失墜
(4)民族浄化の完了とソ連崩壊、そして決着
第三節 宗教的差異を機軸とした対立
第四節 民族起源の修正――カフカス・アルバニア王国
第四章 ロシア・ナショナリズムとロシア正教会
第一節 歴史的背景
第二節 ロシア正教の歴史
(1)「精神的憲兵」
(2)体制化とナショナル・ボリシェビズム
(3)ゴルバチョフとロシア正教
第三節 ナショナル・ボリシェビズムの潮流
第四節 ロシア・ナショナリズム
(1)ロシア・ナショナリズムの始まり
(2)鬼子「パーミャチ」
(3)「スラブ派」と「激情理論」
第五節 普遍性の排撃とロシア・ナショナリズム
第六章 結論
第一節 宗教の再発見
第二節 「歴史の見直し」――再構築される民族の神話
第三節 宗教の復活――栄光の過去への憧憬
結びにかえて
第一章 宗教ナショナリズムとは何か
ソ連における宗教的ナショナリズムの復活を研究する上で、まずはソ連や従来のナショナリズム研究において論じられてきた宗教を概観し、その問題点を明らかにする作業が必要である。
これまでのナショナリズムの研究において、宗教は捨象された要素のひとつであり、長らく宗教が民族意識の形成に与える影響が軽視されてきていた。ナショナリズムの世俗性・近代性を重視し、宗教を捨象する傾向は従来のソ連研究においても同様であった。たとえ両者が関連づけられることがあったとしても、それはソ連崩壊後の中央アジアやコーカサス地方のイスラーム復興運動を中心にして論じられており、その他のソ連地域における宗教ナショナリズムの復活について包括的な研究を行った論考は少ない。
本章では、ソ連の宗教ナショナリズムについて具体的な検証に入ってゆくにあたり、これまでのソ連史研究やナショナリズム論を概観した上で、なぜナショナリズム論から宗教が捨象されたのかについて若干の考察を行いたい。
第一節 ソ連における宗教ナショナリズム研究
ゴルバチョフが推し進めたペレストロイカ政策は、時に「パンドラの箱」に例えられる。この喩えは、疲弊し切ったソ連体制の引き締めを狙って実施された民主化改革が、ナショナリズムという予期せぬ怪物をソ連に解き放ってしまったことを象徴的に表している。事実、既に様々な角度から論じられているソ連研究においては、ソ連の崩壊の直接の原因がソ連国内の少数民族の民族的感情の爆発によるものであったという点についてはおおむねの意見の一致を見ることだろう。
しかし、ソ連体制下において宗教が民族意識に及ぼした影響については、今に至るまで包括的な研究がされていないこともまた事実であろう。宗教がナショナリズムに及ぼす影響はほとんどがソ連崩壊後の「宗教復興」か、もしくはソ連成立以前、ソ連を構成していた各少数民族のエスニック・アイデンティティの形成に及ぼした影響が僅かに論じられているだけにとどまっていた。本論の目的は、既存研究において空白地帯となっているソ連時代の宗教ナショナリズム運動について包括的な研究を行い、ソ連体制下におい宗教がかくもたくましく復活を遂げることができた理由を解明することこそにある。
ロシア政治文化の代表的な研究者である廣岡正久によれば、もともとソ連は「民族の牢獄」と呼ばれたロシア帝国の同化政策、いわゆる「一人のツァーリ、一つの宗教、ひとつの言語」というスローガンを色濃く受け継いでおり、ロシアにおける諸民族の政治的統合はもっぱら異民族の同化という形で進められていた。そのような状況において、地方ごとに土着化した「民族教会」や「民族宗教」は少数民族にとって、彼らの民族性を守るための最も重要な拠り所であり、これらの教会や信仰はソ連全史を通して求心力を失うことはなかったという[ 廣岡、2000、189頁。]。民族と宗教、この二つに対する抑圧と同化の危機が常に存在したからこそ、ソ連では宗教ナショナリズム的運動が絶えることはなかったのである。ソ連における宗教的ナショナリズムは「復活」したのではなく、抑圧が消えて「復興」したのが注目を浴びたに過ぎず、ソ連体制の下においても、宗教はソ連構成諸国の民族意識の中に根を張って生き続けていたのである。
しかしながら、ソ連成立前でもソ連成立後でもなく、ソ連体制下において宗教は民族意識の高揚にどう関連していたのか、廣岡の論考では詳しく明らかにされていない。ソ連のナショナリズムを分析する上でこの「空白地帯」が何故生まれたのか。それには既存のナショナリズムにおける宗教軽視の影響がある。
第二節 既存研究における宗教とナショナリズムの関係
政治学や社会学における既存のナショナリズム研究においてはどのように宗教の役割が論じられてきたのだろうか。
まず、民族を「想像の共同体」として捉え、それが生成されてきた世界史的過程を論じたベネディクト・アンダーソンはナショナリズムの近代的世俗性を重視する。彼によれば国民という「想像の共同体」が創出される背景には、既存の社会を支えてきた宗教共同体の崩壊があるという。
彼は、前近代の世界では、聖書文字のラテン語、コーランのアラビア語という風に、「聖なる言語」が存在論的な真理と結合し、「○○教的世界」というような宗教共同体を支えていたとする。それが近代化に伴う諸所の事由によって衰退し、代わりに「印刷資本主義」の発展がもたらした大量の出版物の受容を通じて、同質的な空間を共有する“国民”という想像の共同体の概念が形成されていったという。つまり彼の「想像の共同体」の議論は、民族共同体の形成過程中に宗教共同体の意識が生きていれば成立し得ないのである。
また、同じくゲルナーも、民族共同体の形成に宗教的な繋がりは必要ないと主張し、それどころか宗教はナショナリズムの興隆とそれに伴う民族の形成過程から完全に排除されていると主張する。彼は、ナショナリズムはあくまで近代の工業化による社会構造の変化の賜物であり、従って前近代社会における血縁や地域共同体は、民族的アイデンティティの形成からは切り離されていたと主張する。さらに、前近代社会では個々人のアイデンティティの形成に大きな役割を担っていた宗教は、近代社会に入るとある領域内における人々の同質性よりも差異性を際立たせることになり、結果的に同質的な民族の構築を阻害する要因として、民族から排除されるという。
しかし時代の進展とともに両者の主張には明確に現実と符合しない点が浮上し、民族の形成過程から排除されたとされる宗教と民族はもはや不可分のものとなりつつある。少なくとも今日においては、民族の形成もしくは民族的アイデンティティの形成に宗教が大きな役割を果たしていたことは間違いない。
具体的な例を挙げるとすれば第二章で取り上げるウクライナが好例となる。同国で起こった民族運動および分離独立運動は、当初は西部ウクライナで信仰されるユニエイト教会の信仰自由化を求めたものであった。西部ウクライナ三州(ガリツィア地方)は元々ロシア帝国ではなく、歴史的には長らくハプスブルグ帝国領であり、ウクライナがソ連に併合されてからもウクライナ人としてのエスニック・アイデンティティを保持し続け、東部ほどにロシア化が進行することはなかった。ナショナリズムが完全に世俗的な世界での現象ならば「ユニエイト信仰なきウクライナ・ナショナリズム」はあり得たのか。それは明確に否であろう。
この現象を、アンダーソンやゲルナーの世俗的なナショナリズム論で解明することは難しい。したがってここで重要になってくるのはユルゲンスマイヤーが主張する宗教ナショナリズム論である。
ユルゲンスマイヤーは、むしろ「近代において」こそ宗教がナショナリズムに及ぼす影響は強まっていると指摘する。彼は「非西洋社会」においては完全に世俗的なナショナリズムよりも宗教ナショナリズムがより多くの支持を集めていることを示し、宗教ナショナリズムは公的領域における倫理、道徳の力を喚起し、不正や汚職が蔓延る世俗的な政治文化を排除しようとする動きである、と論じる。基本的にユルゲンスマイヤーの主張は、世俗ナショナリズム、つまり民主主義と宗教ナショナリズムが根源的に敵対関係に無いということを説明してはいるものの、彼は同時に、宗教ナショナリズムと世俗ナショナリズムには決して相容れない違いがあることをも同時に論じられている。つまり、宗教ナショナリストは「人間の法律や民主的な機関は聖なるものによって正当化されること」や「共同体的な価値は個人的な価値よりも上にあることを前提とすること」などを主張するため、両者が完全に同調することは決してないと主張する[ ユルゲンスマイヤー『ナショナリズムの世俗性と宗教性』。]。
彼のこの主張は、宗教ナショナリズムが高揚するのを非西洋社会に限って論じている点、世俗的な社会と宗教の対立をキリスト教徒とイスラームという単純な対立構造に転化してしまっている点などにおいていくつか難点があるものの、今日における宗教ナショナリズムの基本的な発生原因について初めて論じた点において重要である。彼は宗教ナショナリズムが決して前近代的な神権政治を求める政治運動ではなく、あくまで世俗的なナショナリズム運動と宗教的価値観が手を携え、並存する近代に特有の現象であると主張したのである。
しかし具体的に、ソ連体制下において弾圧されていた宗教ナショナリズムがどのようにして復活を遂げることが出来たのか、ユルゲンスマイヤーの著作にはあまり多くが語られていない。彼の主著である『ナショナリズムの世俗性と宗教性』においても、やはりソ連崩壊後のイスラーム復興運動について多く論が割かれており、具体的にソ連全土においてどのような形で宗教的ナショナリズムが高揚したのかについては詳しい分析がなされていない。
第三節 ソ連における宗教の復活
ソ連における宗教の復活がなぜ起こったのか。それを論じるためには、まずソ連における諸民族を取り巻く環境を踏まえ、その上で宗教的ナショナリズムにどのような形態があったのか、それについて考える必要がある。
かつて、帝政ロシアやソ連はその強力な同化圧力、政府による画一的・統一的なナショナリズムの押しつけ、少数民族への弾圧から「民族の牢獄」と渾名された。ある民族にとっての民族的アイデンティティの根源となっているものは、民族全体で共有される独自の歴史や文化性・精神性が必要である。しかし、国家や特定民族への忠誠ではなく労働者階級への忠誠を絶対とするソヴィエト・イデオロギーの要請から、ソ連は少数民族を弾圧し、解体させることで「ソヴィエト人」の創出を目論んだ。ソ連の諸民族への弾圧は言語や文化、宗教、国旗や国章などのシンボル、歴史的建築物など、民族意識と結びつきうるすべての要素を破壊し、ソ連構成諸国から民族的な特徴を削ぎ落とした。このような背景から、ソ連末期に分離独立を目指す諸民族にとって、ソ連によって破壊され尽くした民族的アイデンティティを再生させることは危急の課題であったと思われる。
このような背景を踏まえると、ソ連における宗教の復活は諸民族の民族的アイデンティティを再生させようとする民族運動の中で再生され、民族意識と再度結びつくことで復活したのではないかとの仮説を立てることができる。それはなぜソ連おいて宗教がナショナリズム運動の中で復活したのかについての解答にもなる。
そこで第二章からは、ソ連構成諸国におけるナショナリズム運動がどのように高揚し、その中で宗教とナショナリズムはどのように結びついたのかについて個別に検証を行ってゆく。国家・地域ごとに分けて分析するのは、宗教とナショナリズムの融合が特定の宗教や国家の文化などに特有のものでないことを証明するため、それぞれ信仰されている宗教が異なる地域を挙げる必要があるためである。その上でそれぞれの地域の事例を比較し、その中で各連邦構成諸国の宗教的ナショナリズム運動に共通する要素を発見してゆくという検証方法を取り、ソ連における宗教の復活がなぜ起こったかを明らかにしてゆく。
図 2 ソ連全図
ロシア Aウクライナ Bリトアニア Fアゼルバイジャン Lアルメニアhttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Republics_of_the_USSR.svg
第二章 ウクライナとユニエイト教会
第一節 ユニエイト教会とは何か
西部ウクライナ(ガリツィア地方)は東欧最大の国家であるウクライナにおいてすら、人口・面積共にほぼ十分の一の一地方である。ガリツィア地方は1722年の第一次ポーランド分割によってオーストリア帝国領となり、後にオーストリアがハンガリーと連合することによってオーストリア・ハンガリー帝国領となった。第一次大戦後、ガリツィアはポーランド領となり、独ソ戦後にまたポーランドがソ連に編入されたためにソ連領となった。この歴史的背景のため、ガリツィア地方は他のウクライナ地方とは異なる歴史的文化をはぐくむことになった。19世紀頃、ロシア帝国領となったガリツィア地方以外のウクライナで苛烈なロシア化政策が進行していたのとは対照的に、ガリツィア地方では比較的自由な民族生活が営まれていた。様々な文化・学術団体も形成され、リヴィヴ大学ではウクライナ語の授業も行われていた。ウクライナ、特に西部ウクライナ人たちは、ロシアに同化されることなく、一貫して自らの民族的アイデンティティを保ち続けていたのである。
このような比較的寛容な民族政策の下、独自の発展を遂げたのがウクライナの民族宗教であるウクライナ・カトリック教会、通称ユニエイト教会である。ユニエイト教会はその特異な歴史的事情からきわめて民族的な色合いを帯び、1596年のブレスト合意以降、一貫して西部ウクライナ地方の民衆から高い支持を受け続けていた。それはソ連がユニエイト教会への弾圧を開始した後も変化することはなく、ウクライナ人たちはユニエイト教会への弾圧を跳ね除け続けていた。
ウクライナの宗教とナショナリズムの関係において特徴的なのは、最初は宗教自由化を求める運動だったものが、次第に反ソ的・政治的な色彩を帯び、最終的にはソ連からの分離独立を目指す運動へと変化していった点である。ウクライナ人たちはウクライナ民族の民族的アイデンティティと不可分に結びついていたユニエイト教会を復活させようとする中で眠っていた民族意識を再び覚醒させ、やがてそれらはソ連からの分離独立運動という形で発揮された。ユニエイト教会問題から噴出した民族性への興味はソ連崩壊を前後してウクライナにおいて一大ムーヴメントとなり、過去の歴史の再評価の動きや民族語の再生、ユニエイト教会以上に古いウクライナ自治独立正教会の復古を招いた。ウクライナの宗教ナショナリズム運動は、ソ連によって抑圧されていた民族性の復古を求める動きだったのである。
この章では、ウクライナにおけるユニエイト教会の自由化問題の歴史的経緯を追いながら、同時にウクライナで起こった歴史の再評価運動やウクライナ自治独立正教会の復活について触れる。
第二節 ウクライナ・カトリック教会の歴史
(1)ユニエイト教会の誕生
ウクライナのキリスト教の歴史は他の西洋諸国と比べて比較的浅く、九八八年にキエ大公国の大公ボロディーミル(ウラジーミル一世)によってギリシャ正教が導入されたことに始まる。ウクライナにギリシャ正教会はビザンチン総主教の支配下に置かれ、以後ウクライナは急速にキリスト教化されてゆくこととなり、ローマ、ギリシャに次ぐ「第三のキリスト教圏」として国際的地位を向上させ、東欧に名だたる大国として発展してゆくこととなる[中井、1998、103頁。]。
十一世紀に入り、キエフ大公国は度重なる戦乱やキプチャク・ハン国の侵攻などによって極度に弱体化したため、キエフ大公国の文化や宗教はハールィチ・ヴォルィーニ大公国に引き継がれることとなった。しかし結局、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はキエフ大公国のような勢力を獲得することは出来ず、十四世紀に入るとウクライナの大部分はリトアニアとポーランドによって分割された。布教活動の後ろ盾であった国家を失ったウクライナの正教会は、このときからポーランド経由で行われるローマ・カトリックの活発な布教活動に脅かされ始めた。
そのため、16世紀頃、ウクライナ正教会はローマ・カトリックと「合同(ユニア)」することを決定する。これはウクライナの正教側がローマ教皇の首位権を認め、神学において最大の論争の種である三位一体論(フィリオクエ[ 「霊性は父と子から発するか否か」を巡る論争。子(イエス)からも発生するとなると、キリスト教は一神教ではありえず、教会に権力が集中する。])を受け入れる代わり、合同後の教会に正教式の典礼を残すというものであった。つまり、両教会を合同させて両教会の間の差異をなくすことで、教会のポーランド化を進める理由を消失させるという、いわば「肉を切らせて骨を断つ」取引であった[神学的には、ブレスト合意後のウクライナ正教会はローマ・カトリック教会の一分派になったと見られている。理由としては、ブレスト合意によりウクライナ正教会はローマ教皇権を認めたこと、三位一体論を受容したこと、これによってウクライナの教会の管轄がコンスタンティノポリス総主教庁の管轄からローマ・カトリック教会の管轄に変わったことなどが挙げられる。]。
そして1596年、両教会はブレスト(現ベラルーシ領)において会議を持ち、正式に合同を宣言した(ブレスト合意)。こうして、教義はカトリックでありながら典礼はギリシャ正教会式という珍妙な宗派が誕生することとなった。これがのちのユニエイト教会の誕生の瞬間であった。
(2)ロシア帝国とオーストリア帝国
しかし、両教会の合同に賛成したクレメンス八世を除けば、ポーランド王国はユニエイト教会が「ウクライナのポーランド化」を阻害するとして冷淡な態度を取り続けていた[ 廣岡、2000、194頁。]。そのため、ユニエイト教会は四面楚歌の状況下で苦しい教会運営を余儀なくされた。18世紀後半にウクライナの東部がロシア帝国領となると圧力はますます高まり、ユニエイト教会は「裏切り者」として古巣のロシア正教会からも痛罵されるようになった[ 中井、同書、104頁。]。
1796年までにロシア政府はキエフを含む四つの大司教座を廃止させ、ユニエイト教区のロシア正教区への転換、信徒の強制的な改宗などを平行して進めてゆき、1835年にはついにブレスト合意の無効宣言まで行い、東部ウクライナからユニエイト教会の影響力を完全に消失させた。これによって東部ウクライナは正教化されるのと同時に、完全にロシア化されてしまったのである。
一方、1772年の第一次ポーランド分割により、ガリツィア地方はオーストリアに併合された。オーストリアはユニエイト教会にかなり寛容な態度を示し、ローマ・カトリックとユニエイト教会を平等に取り扱うことを約束し、事実1806年には大司教座が復活して両教会の地位は名実共に平等になった。また、1774年には首都ウィーンにギリシャ・カトリック(ユニエイト)神学校が開校し、ユニエイト信徒たちの知的レベルは飛躍的に向上した。1783年には同様の神学校がガリツィアのリヴィヴにも開校し、大学の講義では一部ウクライナ語で講義が行われ、この時期にウクライナ語が民族語として一応の成立を見ることとなった。
この時期に神学校や大学で学んだ者たちはウクライナ人の知的エリートとして民族意識の醸造に大きく貢献し、ポーランド分割からの百年間、ユニエイト教会を接点としてガリツィア地方の民族意識は強固なものとなっていった。この「黄金時代」に育まれたウクライナ人たちの民族的アイデンティティは、第一次大戦後、この地が再びポーランド領となったことで更に強化された。
(3)ソヴィエトによる弾圧
第一次世界大戦後、ガリツィアはソ連領土となる。このときすでにユニエイト教会はかなりの規模に成長していた上、オーストリアの手厚い庇護によってウクライナ人たちの民族的アイデンティティと完全に融合していたのは先述した通りである。ソ連当局がユニエイト教会の民族的色彩とローマ・カトリックの影響力が及ぼす政治的影響を強く警戒し、ユニエイト教会の解体を決定したのも当然の成り行きであった。
1945年頃からユニエイト教会に対する攻撃が始まった。ソヴィエト当局側はローマ・カトリック教会との合同を「利敵行為、背信行為」と非難し、「欧米的なキリスト教ファシズムであるカトリック教会」と合同したユニエイト教会は自発的にロシア正教に改宗すべきだと喧伝した[ 中井、同書、106頁。]。また、同年にはユニエイト教会のスリピイ大司教と4人の司教、聖職者800人以上が逮捕された。彼らはいずれも「ソヴィエト国家への背信行為」「独軍への協力」という理由で弾劾され、その多くがシベリアに流刑になった[ 中井、同書、106頁。]。さらに下級聖職者に対してはロシア正教への改宗が強要された。1946年には986人のユニエイト司祭がロシア正教への改宗を余儀なくされた一方、最後までこの圧力を突っぱねた740人の司祭は逮捕され、国外に追放された。こうした反ユニエイト・プロパガンダと殲滅作戦が徹底的に続けられた結果、ユニエイト教会の組織構造はロシア正教会の地位を脅かすことがない程度にまで弱体化させられていった。
そして同年三月、ソ連政府代表と「再合同」のためのイニシアチブ・グループ代表との宗教会議がリヴィヴで開かれ、ガリツィアのユニエイト教会はついにロシア正教会との「再合同」を一方的に決定されてしまう。事実は当局によって「自発的な統合」という言葉に粉飾され、ガリツィアのユニエイト教会は名目上消失することになった[ 中井、同書、107頁。]。
(4)反ソ闘争
非合法化されたユニエイト教会の信徒たちは果敢に反ソ闘争を開始する。シベリアに流刑となった聖職者たちは過酷な環境での強制労働を耐え抜き、刑期を終えた彼らは、その信仰の篤さとより先鋭化した政治的主張を携えてウクライナに戻ってきた。ユニエイト教会の信仰が絶えて久しいウクライナ東部に強制移住させられた司祭は、そこでたくましく信徒を増やしていった。さらに宗教的信条に基づいて反ソ闘争を開始したのは聖職者だけではなかった。非合法化されたユニエイト教会は教会を持つことが許されなかったため、その宗教儀礼は遺棄された教会や人家でひそかに伝えられた。また、ユニエイト信者の庇護の下、ユニエイト教会式の日曜礼拝やクリスマス、イースター(復活祭)もソ連の目をかいくぐって続けられた[ 中井、同書、109頁。]。
これにはソ連当局も黙ってはいなかった。1968〜1969年の間に、非合法宗教活動を続けていたユニエイト司祭が20人近く逮捕された。また、遺棄されたユニエイトの教会を倉庫にして非合法な宗教サービスの実施を阻止する試みも始まった。このあからさまな弾圧に対し、ユニエイト教会の信者たちはストライキを実行したり、取り壊しが決まった教会に篭城してこの試みを阻止した[ 中井、同書、113頁。]。
さらにユニエイト教会にとっては異母兄弟に当たるローマ・カトリックもこの反ソ闘争を支持した。時のローマ教皇であったヨハネ二十三世の粘り強い努力の結果、ユニエイト教会首長であったスリプイ府主教がシベリアから釈放された。彼はシベリアで過ごした苦難の十七年の後、ローマに渡り、九十二歳で没するとヴァチカンによって列聖された。
さらにヴァチカンは1978年、史上初めてのスラブ人教皇ヨハネ=パウロ二世を選出するという戦略的人事を行い、ヴァチカンのソ連への心理的な影響力を拡大しようと試みた。国籍的にはポーランド人であり、母をリトアニア人に持つこの教皇もユニエイトに深い同情を示し、彼らのソ連における信教の自由の保障、および「ギリシャ・カトリック(ユニエイト教会)」の法的承認と自由化を求める声明を発表した[ 廣岡、同書、206頁。]。教皇のメッセージは地下教会として非合法の宗教活動に身を投じていたユニエイト教会の信徒たちに熱烈に歓迎された。
(5)ゴルバチョフ以後
1985年、ゴルバチョフが登場して反宗教政策が緩和されると、ユニエイトたちはこれを好機と受け取った。長らく地下教会として苦汁をなめてきた彼らは、これを機に公然と社会の前面に出てきて、宗教活動・政治活動を始めるようになる。
その上、ゴルバチョフは1986年からその翌年にかけ、ウクライナの政治囚と宗教的異論派(「異論派」とは「反体制派」のソ連的な言い回し)のほぼ全員を釈放した。彼らは釈放されるや否や、すぐさま「ウクライナ・カトリック教会再建委員会」を結成、1987年の終わりにユニエイト教会の再建を求める四万人分の署名を集め、モスクワに事態の改善を嘆願しようとした。しかしモスクワはこれに弾圧で答え、ウクライナ共産党経由で「禁止されているユニエイトのミサに参加した者には罰金50ルーブルを課す」と達した。しかし、リヴィヴのとある司祭は半年の間に3000ルーブルの罰金を払いながらも活動をやめなかった[ 中居、同書、110頁。]。
1988年6月、ユニエイト教会の主教フィリモン・クルチャバら五人の代表は、ロシア正教会受洗千年祭にヴァチカンの代表として出席した二人のヴァチカン枢機卿との会談に成功し、ローマ教皇とユニエイト教会の合法化に向けた協力の要請を取り付けた。これによってユニエイトらは世俗国家・ソ連の「獅子身中の虫」として、カトリック教圏のみならず、世界中の西側諸国の注目を集めることとなった。ソ連当局はユニエイトたちに対する警戒を強め、彼らを「ごくわずかな狂信者であり、外国勢力と手を結ぼうとするファシスト」と喧伝し続けていた。一方のユニエイトらもこれには黙っておらず、ユニエイト教会の再建を要求する署名を一ヶ月の間に十万人分揃えて当局に突きつけ、彼らが決して「ごくわずかな狂信者」ではないことを知らしめた[ 中井、同書、114頁。]。
また、この頃からユニエイトたちの宗教復興運動はますます先鋭化し、ウクライナのいたるところでハンスト、デモ、署名活動などの抗議が行われるようになった。また、一部のユニエイトたちがロシア正教会側に移管されたユニエイト教会の占拠騒ぎを起こし、たびたび民警と衝突した。ユニエイトたちの抗議活動が平和的な範囲にとどまらなくなってきたのである。
(6)宗教復興運動から独立運動へ
また、この年の初めにはリヴィヴ市に「ウクライナ・キリスト者民主戦線」なる組織が結成された。その綱領にはユニエイト教会の合法化だけでなく、良心的兵役拒否の承認、イースターとクリスマスを休日にすること、複数政党制の承認、昔の国旗・シンボルの復古、ウクライナが民族派政権によって独立を成し遂げた1918年1月23日の祝日化などが盛り込まれていた。ウクライナのユニエイト教会問題が、次第に政治的にラディカル化していったのである[ 廣岡、同書、207頁。]。その後もウクライナでは雨後の筍の如く同様の組織が増殖し、これによってユニエイト問題での不満が全ウクライナに民族運動として広がっていった。これは上述したような宗教復興運動に触発される形で、ガリツィア地方の知識人層が本格的な政治活動を開始したことによるものだった。
この動きはガリツィアだけにとどまらず、乱立した政治組織を通じて全ウクライナに飛び火していった。1989年9月初頭、保守派優勢の維持が狙いと見られていた新選挙法案の民主化を求め、多くの大規模なデモが起こった。瞬く間にウクライナ最大の反ソ独立運動組織に成長していたルフをとめることはできなかった。ルフは同年9月、キエフで創設大会を開いたが、これには著名なウクライナ人作家、経済学者、法律家、人民代議員までもが参加し、元政治犯、宗教自由化を求める活動家、多数の政治的組織のメンバーと共同戦線を張る事を宣言した。また、「ウクライナ・ヘルシンキ同盟」、環境保護団体である「緑の世界協会」、ソヴィエトによるウクライナ弾圧の追悼組織である「ウクライナ共和国追悼記念協会」、「ウクライナ語協会」など、ウクライナ国内におけるありとあらゆる政治的組織がルフを中核として団結した[ 中居、同書、114頁。]。すでに民主化運動の会員数は25万人に達しており、彼らはみな一様にソ連の支配を糾弾し、ウクライナの民族的な権利の拡大と、ソ連の諸国家の「連邦化」、あるいは「連盟への移行」を要求した。
ルフのこうした過激な言論はロシア化が進んだ東部ウクライナではあまり歓迎されなかったものの、ウクライナの西部、ガリツィア地方は西側の諸外国から「自由ウクライナ」の名前で呼ばれるほどに政治活動が活発化していた。この活発な政治運動を支え続け、ウクライナを民族運動の震源地にし続けていたのは、やはりユニエイトたちの宗教自由化を求める激しい政治的活動だった。こうして、クレムリンが恐れ続けたウクライナの民族運動と宗教運動の融合、そしてその爆発が、ついにその兆候を見せ始めたのである。
(7)教会の勝利
1989年に入り、もはやソ連当局はユニエイト教会問題を「存在しない問題」として無視することはできなくなった。いまやユニエイト教会問題はより深刻な民族問題に格上げされ、その熱狂は全ウクライナの大規模な独立運動に発展しつつあった。当時、すでに民族感情が爆発していたバルト三国やトランス・コーカサス地方情勢と比較すれば、ウクライナ情勢は確かに比較的落ち着いていたとされるウクライナ情勢は、ここに来て俄かにクレムリンの関心事となった。また、ウクライナでウクライナ語教育の復活や過去の「大飢饉」への再評価などの動きも活発化していたことで、ユニエイト教会は「抑圧されるウクライナ」の民族性・精神性のシンボルと化すようになっていた。クレムリンもウクライナ共産党も、揃ってユニエイト教会問題対策の方向転換を迫られたのである。
そういった意味で象徴的だったのが、同年9月に相次いで発表されたウクライナ共産党第一等書記ウラジーミル・シチェルビツキーの解任劇であった。ウクライナ民族政策=宗教政策緩和反対派であった彼は、その直前にソ連共産党政治局からも追放されていた。ソ連はウクライナのユニエイトたちに対し、保守派の指導者の首を挿げ替えることで、教会を自由化する用意があることをアピールしたのである[ 廣岡、同書、207-208頁。]。
そして1989年12月、ゴルバチョフはヴァチカン訪問を訪問し、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世と会談する。ゴルバチョフはこの会談の中で、ユニエイト教会を含むカトリック教会の合法化を約束し、続けてウクライナの宗教問題評議会が声明を発表した。その声名により、ユニエイト教会の合法化、ミサの場所の提供、住民投票を経た上での教会の再建などが決定された。これは彼らユニエイトが数十年に渡る闘争に勝利した瞬間であった。
第三節 教会の軋轢と衝突
彼らユニエイトの信者たちは、ソ連の成立と共にいち早く“体制化された”ロシア正教会とは対照的に、その民族性・自立性を保ち続け、ウクライナの独立運動の巨大な震源であり続けた。辺境・ウクライナの一地方の民族宗教であるユニエイト教会の信者たちが、無神論を標榜する巨大帝国・ソ連と50年以上に渡って熾烈な闘争を繰り返し、最終的には譲歩を引き出して宥和政策を取らせたことは瞠目に値すると言えるであろう。
しかし、宗教の自由化によって新たに浮上してきた問題もあった。その最たるものがロシア正教会に奪われたユニエイトたちの教会資産の返還要求であった。その後に訪れたユニエイト教会の力強い復活によって目線が逸らされていたとはいえ、同化政策の象徴であったロシア正教会とユニエイト教会の間にはもはや無視できないほどの意識の断絶があるのも事実であった。また、ウクライナ全土に散在するウクライナ正教会も「民族宗教」として弾圧の対象になっていたにも関わらず、現在にいたるまでユニエイト教会との関係はどこかぎくしゃくとしたものが残り続けているという。
ロシア正教会とユニエイト教会の間をさらに悪化させたのが教会の分裂である。ゴルバチョフのヴァチカン訪問後数週間のうちに、ガリツィアのロシア正教会聖職者が相次いでモスクワ総主教教会を離れ、ユニエイト教会に改宗し始めたのである。ウクライナにおいて宗教が自由化された後、新たにユニエイトに「再改宗」した教会の総数は、地下に潜行していたユニエイト教会の司祭よりを凌駕する数に登ったという[ 廣岡、同書、209頁。]。また、ウクライナが主権宣言をすることになる1990年には、ユニエイト教会の教区は一気に2000程度にまで増加したと言われている[ 中井、同書、115頁。]。この力強い宗教復興は、1991年12月にソ連が崩壊し、「棚から牡丹餅」的にウクライナの独立が果たされた後も続くことになる。これによってウクライナにおけるロシア正教の影響力は弱まり、ロシア正教会とユニエイト教会の軋轢はますます強まることとなった。
「完全自治独立権」の確立を謳った「ウクライナ自治独立正教会」の再興は、ウクライナにおける宗教的混乱を象徴するものであったと言えるだろう。1980年代末、宗教の自由化とともに復活したウクライナ自治独立正教会は、1596年以前にウクライナに存在したという「真のウクライナ教会」の復古を目指すものであった。これはウクライナ独自の民族性を求める民衆の中で一定の求心力を持ち続け、過激に民族主義的な言動によってウクライナ全土で信者を獲得していった。ユニエイトたちはウクライナ自治独立正教会に対し、彼らは正教会であるから、何らかの意味でロシアと一体化されると主張したが、自治独立正教会側はこれに対し、ユニエイト教会はその歴史においてポーランドの影響を受けているから、ユニエイト教会に改宗する者は何らかの意味においてポーランド化されると反駁したという。ユニエイトとロシア正教会、ウクライナ正教会、そして自治独立正教会信徒の間の軋轢を、ユルゲンスマイヤーは「ウクライナのナショナリズムの大義をどの宗教の形態が本当に代表するか」を問題としたものだったと述べている[ ユルゲンスマイヤー、同書、179頁。]。
真のウクライナ教会――換言すれば「真の民族教会」――の復活を掲げたウクライナ自治独立正教会の復興は、そのままウクライナという国家における民族の文化性や歴史観、精神性の混乱を端的に表すものであったといえるだろう。
言語と宗教政策
かつてウクライナ作家同盟の議長であったオレシ・ホンチャルは1968年、実際にあった教会弾圧事件を題材にした長編小説『ソボール(大寺院)』の中で「教会を守れ。教会はおまえたちのたましいだ!」と書いた。そしてほぼ同時期に、ウクライナの反体制家であったモロスは「教会に対する闘いは文化に対する戦いである」と主張した[ 中井、同書、112頁。]。これこそがウクライナの民族主義者、反体制派の主張の根幹であったと言えるであろう。ウクライナにおける反ソ運動は常にユニエイト教会の周辺で活発化し、やがてはユニエイトに対する攻撃がウクライナ民族そのものに対する攻撃だとみなされるようになった背景には、過去の歴史への関心の増大が大きく関係している。
『ウクライナ・ナショナリズム』の著者である中井和夫はウクライナのインテリゲンツィアや青年層の間に強くウクライナの宗教的遺産への関心が高まっていることを指摘し、神学、祈祷、宗教的伝統と習慣、教会音楽、芸術、建築などの宗教的文化が再評価されてきていると指摘している[ 中井、同書、112頁。]。特に言語政策に関する関心は、ウクライナ人たちが「ウクライナ民族なるもの」に対しての関心を深めてゆく中でユニエイト教会と同じように争点となった。1960年頃から活発化したウクライナ語復権の動きはインテリ層を中心に大きなうねりとなり、ソ連末期の1980年代末にはウクライナ作家同盟が「ウクライナ語のアルファベット『G』の再導入」や「ウクライナ語の国語化」を要求した[ 中井、同書、91頁。]。これらは民衆レベルで感心事になるものではなかったが、これもウクライナの民族性を取り戻す運動の一環として挙げることが出来よう。
1933年頃、ウクライナで起こった人為的な大飢饉「ホロモドール[ ホロモドールとは、1933年頃にソヴィエトの強制的な農業集団化によって引き起こされた大量虐殺である。農産物の強制的な徴発による大飢餓は一説によるとウクライナで数千万人の餓死者を出したといわれる。]」の見直しもそういった運動のひとつであった。ホロモドールの存在はソヴィエト政権によって長らく「存在しない飢饉」であるとされてきたが、数百万とも数千万とも言われる餓死者を出したこの飢饉の存在は、グラスノスチ下のウクライナにおいて進められる「歴史の見直し」運動の主要な争点となった。
まとめ
以上のように、ウクライナではユニエイト教会の復興を求める運動が、次第にソ連からの分離独立を目指す運動へと変化していったことがわかった。彼らにとってユニエイト教会はウクライナ民族全体の「たましい」であり[ 脚注21を参照。]、ソ連に弾圧され、抑圧され続けるウクライナ民族の悲劇的な運命のシンボルであった。そしてそれらはペレストロイカによって反ソ運動が高揚してくるにつれ、次第に分離独立やウクライナ民族の解放と文化的ナショナリズムを象徴するシンボルとして注目されるようになったのである。
また、ペレストロイカ後期には民族語教育の復活や過去の大虐殺の再評価が進み、ユニエイト教会の復古と同時にウクライナ自治独立正教会という極めてナショナリスティックな古代宗教の復古も起こった。ペレストロイカ期から一気に激化したこれらの運動はすべて、ウクライナ国民が「非ロシア的な」ウクライナ・ナショナリズムを目指した故に生じた運動であった。
また、ウクライナの教会組織はすべてロシアの影響から独立したウクライナを擁護しているという点において一致していたが、それらは「誰がウクライナの民族性を象徴する宗教となるか」という問題から次第に関係が悪化してゆくことになる。ユニエイト教会とロシア正教会、ウクライナ正教会、ウクライナ自治独立正教会の四者間の静かな争いは、ペレストロイカ以降のウクライナにおいて起こった民族性の再生運動の混乱ぶりを象徴しているのである。
第三章 リトアニアとリトアニア・カトリック教会
第一節 民族教会としてのカトリック教会
リトアニアは小国である。国土面積は約65000平方キロメートル、現在でも人口は約330万人ほどである。バルト海に面した三つの国家、いわゆる「バルト三国」の中では一番南に位置している。ヨーロッパ世界からの出口とも、スラブ世界への入り口とも言える場所に位置するリトアニアは、小国の歴史の常に違わず、長らく大国の力に翻弄される木の葉のような歴史を歩んできた。長閑で慎ましやかな中世都市が国内に散在するこの辺境の国が、約二十年前に超大国・ソヴィエト連邦と「大立ち回り」を演じたということは、実際の歴史を見ても俄かには信じられないことである。
ポーランドやロシア、ドイツ、ソ連などの大国に蹂躙され、同化の危険に曝され続けてきたリトアニアにとって、自己の民族的アイデンティティを長く保つことは容易ではなかった。そんな歴史的背景からすれば、リトアニア人たちがそれを宗教に求めたことは当然の成り行きであったと言える。1831年に起こったロシア帝国への蜂起の時、1940年頃のソヴィエトによる侵攻のとき、いち早くパルチザンを組織し、自己のアイデンティティの復古を唱えたのはいずれもリトアニア・カトリック教会であった。リトアニアが完全にソ連の支配に飲み込まれた後も、カトリック教会はソ連最長の歴史を持つサミズダート(地下出版物)『リトアニア・カトリック教会編年誌(クロニカ)』を発効して国内外の異論派たちに必要な情報を融通する一方、反体制活動家を教会に匿い、支援すらした。リトアニア人の民族的アイデンティティとカトリック教会は前述のウクライナ以上に強かったが、反面当局の弾圧も激しかった。
リトアニアの分離独立運動において特徴的なのは、反体制運動とキリスト教教会の関係が当初から一致していたことである。ウクライナの分離独立運動が当初は純粋にユニエイト教会の自由化を求めたもので、ペレストロイカの進展とともに周囲を巻き込んだ独立運動に発展していったのとは異なり、リトアニアでは一貫してキリスト教教会がソ連からの分離独立運動を主導していた。パルチザンや反体制運動の多くはリトアニア・カトリック教会の司祭や聖職者、神学校の生徒たちであったし、パルチザンの支援やザミズダートの発行などを通してキリスト教教会が主体的に運動を展開していた。リトアニアではキリスト教教会は明確に一種の政治組織であったのであり、司祭や宗教家は民族的エリートでもあったのである。
また、ペレストロイカ期に独立運動がいよいよ高揚してくるにつれ、彼らの心中に忘れ難く生まれてきたのは東欧に名だたる大国であったリトアニア大公国への憧憬であった。彼らは大国の末裔としてのリトアニアに民族的アイデンティティを見出し、リトアニア大公国の歴史を再生させることで民族性の再生をはかろうとした。
本章では、なぜリトアニア・カトリック教会が主導した民族運動の歴史を概観しつつ、リトアニア大公国の歴史への憧憬、多神教「ロムヴァ」の復古などの動きから、リトアニアにおける民族性の再生がどのように行われていたのかについて見てゆく。
第二節 リトアニア・カトリック教会の歴史
(1)キリスト教受容
リトアニアの歴史は十三世紀頃、キリスト教世界との出会いから始まる。当時、リトアニアはめぼしい町や人口密集地帯が存在しない閑散とした土地だった。地方豪族による半封建体制の下、人々は農業を中心とした慎ましやかな暮らしをし、自然や動物などの自然の生命力を崇拝対象とするアニミズム信仰の中で生きていた。
1226年、聖地を追われたチュートン騎士団は流浪の果てにたどり着いた現在のラトビア、エストニアに侵入を開始した。この侵入に対し、異教信仰篤いリトアニアは諸部族の連合軍を興して戦った。この戦いの中でリトアニアはポーランド王家との婚姻によってローマ・カトリックに改宗し、平和にキリスト教化された。その後チュートン騎士団を破ったリトアニア=ポーランド連合王国は勢力を増し続け、東欧随一の大国となった。
しかし、反対にこれがリトアニアの第一の衰退の始まりでもあった。名君であった大公ヴィータウタスの死後、この東欧の強国に対して危機感を強めた諸外国によってリトアニアは徐々に弱体化し、モスクワ大公国の隆盛も相俟って、領土は縮小の一途を辿った。このため、リトアニアは諸外国に対抗するために1569年にポーランドとルブリン協定を結び、連合王国となった。しかし、両国間の国民が平等に扱われることが決定された途端、リトアニア人貴族たちは次々と母国語を捨て、ポーランド人に同化し始めたのである。それゆえ、リトアニアの社会構成は必然的にポーランド人上流階級とリトアニア人農民という構成になった。
このようなポーランド人の優越は貴族だけにとどまらず、教会にも及んだ。16世紀当時、すでに農民たちの間にもカトリック信仰は浸透しつつあったが、リトアニアの教会ではミサもポーランド語でなされ、教育も教区ごとにジェスイット派神父によりポーランド語で行われた。この時期のリトアニアからは多くの優れた歴史家や著述家、詩人が生まれたが、彼らの傑作はほとんどポーランド語で書かれている[ 畑中、1996、28頁。]。こうした文化・宗教面における「ポーランド化」の影響は根強く残り、リトアニアのナショナリズムは19世紀末まで大きなうねりを見せることはなかった。
(2)因縁のロシア
リトアニアとロシアの付き合いは、1772年、第一次ポーランド分割でロシア帝国の委任統治領となったところから始まる。その後もポーランド分割は繰り返され、1794年、リトアニアはポーランドと合同してロシア帝国への反旗を翻したが失敗、その翌年の1795年にはリトアニアはロシア帝国の行政県に編入された。
このような政策に対して19世紀になるとリトアニア人たちの民族意識が高揚し、1831年、「ポーランド共和国」の復活を目指したリトアニア・ポーランドが再び合同で蜂起する。この叛乱にはリトアニア貴族から農民までもが参加し、リトアニア・カトリック教会もこの蜂起に対して最大限の協力をしたものの、結局ロシアに鎮圧されてしまう。この蜂起に対するロシア側の報復は大きかった。ヴィリニュス大学は閉鎖に追い込まれ、小学校ではロシア語が必修科目となる一方、学校でのカトリック的な宗教教育は禁止され、許されたのはロシア正教のみだった。また、カトリック教会も苛烈な弾圧を受けた。ロシアはカトリック教会が保有していた土地を没収し、カトリック教徒をロシア正教に改宗させるなどした。また、1963年にもロシアに対する蜂起が起こったが、このときは約9000人のリトアニア人たちがシベリア送りになり、数百人の聖職者や信者が投獄、このうち約130人が処刑された[ 畑中、同書、30頁。]。
結局、帝政ロシアのリトアニア支配は約120年続き、この間にも多くの知識階級が反体制ということで裁判にかけられ、シベリアに追放された。このような抑圧的な社会の下ではあったが、蜂起の相次ぐ失敗でポーランド人貴族が大量に流刑に処されたことでリトアニア人たちのナショナリズムは完全に覚醒した。リトアニアはロシア帝国の苛烈な同化政策と抑圧を耐え抜き、自分達の民族・文化に対するアイデンティティを育んでいったのである。
(3)「森の兄弟」とカトリック
1940年8月3日、リトアニアはソ連に併合され、リトアニア・ソヴィエト社会主義共和国となった。
リトアニアの支配にあたり、ソ連政府がまず目をつけたのは教会であった。その社会的構造から高等教育を受けた者が多くないリトアニアにとって、民族運動のリーダーシップを取ることができる知識人(インテリゲンチャ)は必然的に教会の聖職者たちであったのである。ソヴィエトはこれを危険視し、宗教イデオロギーの根絶によってリトアニア人たちの民族的アイデンティティを除去しようとした。
1940年にモスクワからの指令により、リトアニア政府内部に「宗教活動を取り締まる監督機関」が設置される。その間にカウナス大学の神学部、哲学部が閉鎖され、また、4つあった神学校のうちの3つも閉鎖に追い込まれた。残りのカウナス神学校は閉鎖を免れたものの、それでも校舎の4分の1が赤軍に引き渡され、生徒数も500名から150名に削減された。これだけの規模を持った神学校をすべて閉鎖には追い込めなかったものの、ソヴィエトはこの後もカウナス大学に圧力をかけ続け、神学校の学生数をその後さらに25名にまで削減させた。神学生になるには政府の宗教評議会の許可を得ねばならず、神学生たちはいつでも政府の監視下に置かれることになった[ 畑中、同書、14頁。]。
宗教関連の新聞社や団体なども閉鎖に追い込まれ、大司教・司教のほとんどが虐殺、またはシベリアに追放され、300人あまりの神父が逮捕された。聖職の地位を許された神父も教会内とその周囲でしか活動が許されなくなり、この弾圧を生き残った教会も、葬式を行うごとに7000ルーブルなどという重税に苦しんだ。
第二次世界大戦中、その混乱に乗じる形で「森の兄弟(ミシュコ・ブロリアイ)」と呼ばれるパルチザンが組織され、ソ連治安維持部隊に対する執拗な攻撃や、ソヴィエト体制の協力者(リトアニアではイストリビテリと呼ばれる)の襲撃を行った。このパルチザン活動に身を投じた兵士の数は、ラトビアで最大1万5千人、エストニアでは1万人に達したとされるが、中でも大規模だったのはリトアニアで、なんと5万人もの「森の兄弟」が分離独立活動に身を投じていたとされる[ 畑中、同書、119頁。]。
これほどの大規模なパルチザン活動を支えていたのは、やはりカトリック教会の神父や聖職者たちであった。カトリック教会はパルチザンを援護し、必要物資やパルチザンの会合場所の提供、ソヴィエト支配への抵抗を呼びかける啓蒙活動、パルチザン間のメッセンジャー、パルチザンの隠匿などによって積極的にパルチザンの活動を支援した。また、神学部の学生たち自らが銃を手に取り、パルチザン活動に身を投じることも少なくなかった[ 畑中、同書、154頁。]。
パルチザンとKGBの血で血を洗う抗争により、1950年代にはリトアニアの「森の兄弟」による抵抗運動は徐々に下火になっていった。しかしリトアニア人民族主義者たちは抵抗をやめなかった。彼らは地下活動に転じることでソ連体制の目をかいくぐり、リトアニアの独立をひそかに支援し続ける一大勢力となって行くのである。
(4)サミズダート『クロニカ(リトアニア・カトリック教会編年史)』
スターリンが死去し、ニキタ・フルシチョフがソ連の最高指導者となってもリトアニアの人為的な文化破壊は止まらなかった。1950年にはすでにリトアニア国歌の斉唱、国旗掲揚が禁止されていたのに加え、1956年頃には「新インテリゲンチャ」と呼ばれる知識人創が共産主義体制下で生まれた。彼らは共産主義運動、コムソモールに参加するようになり、子どもたちはソ連国家に忠誠を誓うように教育された[ 畑中、同書、182頁。]。ソ連の弾圧によってパルチザンやインテリたちが消えたことにより、「リトアニアのソ連化」が本格的に進行し出したのである。ロシア本土の子どもは11歳から外国語を学ぶにも関わらず、リトアニアでは例外的に5歳からロシア語の学習が義務付けられた。また、教会は次々に廃棄され、見せしめのために美術館や博物館、KGBの記録保管庫として使用された[ 原、2007、144頁。]。このようなソヴィエトによる文化破壊をリトアニア人は「文化的皆殺し」と呼んだ。
このような事態を前にしたカトリック教会は、再びその組織力と緊密なネットワークを活かして独立運動を再開する。1968年には聖職者数名が率いる大規模な宗教自由化の請願運動が始まった。1971年末にブレジネフと国連宛に提出されたリトアニアの宗教政策への抗議文書は何千という署名を集めた。このように、リトアニアの民族運動のけん引は、常にリトアニア・カトリック教会の聖職者たちが担っていたのである。
そして1972年3月17日、ソ連の反ソ運動史上、特筆すべき事件が起こる。ソ連最古級の歴史を持つ反体制ザミズダート(地下出版)、『クロニカ(リトアニア・カトリック教会編年史)』の創刊である。最初こそ主にカトリック教徒向けの宗教色の強い記事がほとんどだった『クロニカ』だが、それは次第に人権や文化思想的内容、民族語などについての意見表明がなされるようになってゆき、政治的にラディカル化していった。また、このサミズダートに触発され、『アウシュラ(夜明け)』、『ヴァルパス(鐘)』、『ディエヴイ・イル・テヴネイ(神と祖国のために)』などのサミズダートが次々と創刊され、リトアニアはソ連国内で最も頻繁にサミズダートが見られる共和国となった。
結局、『クロニカ』は1989年、82号を持って終了し、ソ連最長の歴史を誇るサミズダートとなった。そして『クロニカ』休刊から二年後、ソ連は各共和国のナショナリズムのエネルギーに耐え切れず崩壊してゆくのである。
(5)代替わりする革命運動――「サユディス」の登場
しかし、リトアニア・カトリック教会の反ソ運動はゴルバチョフ登場のあたりから徐々に低下し始める。相変わらず宗教自由化の請願や抗議活動は行われていたものの、リトアニア・カトリック教会自体が独立運動のけん引役となることはなくなった。苛烈な同化政策、宗教への弾圧はいつしかリトアニア人たちか信仰心を奪い去り、新たに独立運動の主体となっていた若者たちは、宗教を知らぬ新インテリゲンチャになっていた。リトアニア・カトリック教会の神父や聖職者がサユディスの中で中核的な働きをすることは出来ず、1987年のキリスト教改宗六百年祭弾圧を最後にリトアニア・カトリック教会による独立運動は影を潜めてゆく。
1988年6月3日、リトアニア人知識人500名が会合を持ち、リトアニア人民戦線(サユディス)の設立を決定したことで、バルト諸国の分離独立運動の動きは一挙に盛り上がった。サユディスは同年の8月23日、他のバルト諸国と歩調を合わせ、総延長600キロメートルにも達する「人間の鎖」を完成させ、広く国際社会の注目を得ることに成功した。これはバルト三国がソ連に併合される発端となった独ソ不可侵条約の無効を求めたもので、最終的には全バルトで200万人が参加した。10月にはラトヴィア、エストニアでも人民戦線が結成され、三国はソ連からの独立を求めて共同歩調を執ることになった。
独立派の内紛からサユディスが分裂した後も、リトアニア民族主義者たちの活動は日に日に過激化していった。これに対し、ゴルバチョフはついに軍事での弾圧を決意した。
1991年の1月13日、ゴルバチョフは首都ヴィリニュスにKGB軍を投入、13名の犠牲者を出す「血の日曜日」事件に発展する。ソ連共産党の指示で設立された「リトアニア救国委員会」とリトアニア民族主義者はにらみ合いを続けたが、1991年モスクワで起こった8月クーデターがこれに終止符を打った。このクーデターの失敗によってバルト三国は決定的となり、この年の9月、ついにリトアニアの独立がソ連政府によって承認され、リトアニアは独立を回復することになった。
第三節 歴史への渇望――リトアニア大公国とパルチザン
また、リトアニアの独立運動で重要な要素となっているのが歴史の存在である。かつて遠くモスクワにまで影響力を振るったリトアニア公国の記憶は消えることなくリトアニア人たちの意識に残り続け、それはリトアニア・ナショナリズムの構成に大きな影響を及ぼした。それはその後、1990年のリトアニアの独立宣言の際にも表れ、独立宣言は「独立確認(リトアニアはソ連編入に関する正規の手続きを踏んでいないため、現在のリトアニアはソ連によって実効支配されているに過ぎないという表現)」という珍妙な表現によって為された。独立運動も末期になってくるとリトアニア公国時代の歴史に関心を集めるようになり、土日にリトアニア人の農民たちが遺跡に繰り出して清掃活動を始めるようになったという[ 畑中、同書、193頁。]。また、科学者や哲学者、経済学者や芸術家などの才人が多く名を連ねたサユディスにおいて最も熱望されたのが歴史家の存在だったという[ 畑中、同書、192頁。]。
彼らは帝政ロシア・ソ連によってもたらされた「歴史の断絶」を常に感じており、また断絶した歴史について知ることを欲していた。それは血で血を拭う争いの果てに葬られた「森の兄弟」たちについても同じであり、民族運動が高揚してくると、かつて民族のために独立運動を戦ったパルチザンの消息についての情報提供が呼びかけられるようになった。失われた歴史への渇望は民族運動に熱狂するリトアニア人たちを動かし、それはサユディスの結成集会において「スターリン時代に弾圧された者の名誉回復と犠牲者の慰霊碑の建設」を求めてゆくという綱領として残されることになった[ 畑中、同書、191頁。]。
第四節 「ロムヴァ」
また、キリスト教以前にリトアニアにあった多神教信仰(バルト信仰)を「ロムヴァ」と呼び、復活させようとする動き・団体も存在している。「ロムヴァ」という名はかつて古プロイセン(現在のロシア・カリーニングラード州)にあった神殿に由来し、原義は「心の拠り所」を意味するという[ Wikipedia日本語版、「リトアニアの宗教」、『ロムヴァ』。最終アクセス:2011/02/06]。この地の多神教信仰はカトリックが国教となった16世紀まで続いており、そのためかリトアニアでは十字架に多神教のシンボルを絡めた、他の地域では見ることが出来ない特殊な十字架がよく見られる。
19世紀にリトアニア民族誌学者が農村部に伝わる歌や物語を集めるようになったが、1960年代に入るとそこで集めた資料をもとにして多神教の復興を目指す運動が起こった。1967年、ヴィリニュス大学の教授であり、その後リトアニアの文部文化省民族文化部部長を務めることになるヨナス・トリンクーナス (Jonas Trinkūnas) が、異教時代に重要な祭日であった夏至の日を祝った。これが「ロムヴァ」運動の始まりであったとされる。
「ロムヴァ」復興はリトアニア人が持っていた民族性や精神性の復興を目指したものであったが、ソヴィエト政権はこれを認めず、1971年に「ロムヴァ」の解散を命令した。活動に参加していた教師は失職し、活動家は投獄されたが、それでも運動は秘密裏に続けられた。
1980年代後半、ペレストロイカが進展したことにより、「ロムヴァ」運動は徐々に認められるようになる。1987年、環境団体や文化団体の設立を認める法案が議会を通過し、「ロムヴァ」は「リトアニア民族文化連盟」として活動することが許されるようになった。1988年には元の地位を回復した彼らは再び「ロムヴァ」を名乗るようになった[ ジョーンズ・ペニック、2005、276頁。]。独立後、リトアニア政府に公認されたこの運動は大衆からもおおむね支持されたが、リトアニア・カトリック教会はこの民間宗教の復興運動には反対しているという。1991年から92年にかけて国内外で集会を開いた「ロムヴァ」は、ヴィリニュスの中心地に多神教時代の祭壇を設けるなどして積極的に活動を続けているという。
これらの動きは、リトアニアがソ連によって破壊された民族性や精神性を復活させようとする中で生まれてきた運動であり、過去の歴史や宗教、文化に対しての関心が高まってゆく中で、キリスト教導入以前のリトアニア民族の宗教を復権させるという動きが出てきたことによるものだろう。ウクライナでもウクライナ自治独立正教会が正教会からの分離を行ったのと同じように、ソ連以前の民族に対する関心が古来の宗教への興味・関心に発展し、ある特定の宗教が復興することはソ連地域では間々見られる現象であった。
まとめ
ここから得られる結論は、リトアニアの独立運動は決して未来ばかりを志向したものではなかったという事実である。それは確かに抑圧されることのない民族の未来を求めるものであったし、信仰の自由化を求める動きではあったが、それらの根底には常に「歴史」が分かちがたく存在していた。結成したてのサユディスが行ったのはまず独ソ不可侵条約の真相究明を求める動きであったし、キリスト教会が発行していた「クロニカ」は当初、その名の通りソ連体制によって隠蔽されていたリトアニアの歴史や信仰について伝えることを旨としていた。リトアニア・カトリック教会はソ連体制の弾圧によって断絶した民族の歴史や精神性、文化、神話などを想像させることで、彼らの民族的アイデンティティを華やかなりしリトアニア大公国時代に呼び戻させた。彼らは民族の精神を信仰に求めるのと同時に、帝政ロシアやソ連の「文化的皆殺し」によって壊滅せられた自国の歴史をも修復し、編纂していったのである。
第四章 ナゴルノ・カラバフ紛争
第一節 ナゴルノ・カラバフ紛争は宗教対立か
次に、民族対立が大規模な流血を伴った例、具体的にはコーカサス地方のアルメニア・アゼルバイジャンについての考察を行う。
ソ連国内において民族対立が大規模な流血を伴ったのはコーカサスや中央アジアであり、いずれもムスリムが関係している点について特徴的である。確かに「ロシアの柔らかい下腹」と呼ばれるコーカサス地方がアジアとスラブ世界の重要な交差点であったことは事実であるし、アルメニア人がキリスト教徒、アゼルバイジャン人がムスリム(しかも世界的にはかなりのマイノリティになる十二イマームのシーア派)であることなどから、この紛争はキリスト教対イスラーム教の対立で捉えられかねない危険性を孕んでいる。
しかし、両国の紛争が起こったのは19〜20世紀初頭にかけてのことである。それ以前この地方に住んでいた人々は「コーカサスのタタール人」と呼ばれており、そこに住む人々たちは自分たちを単に「人間」と呼んでいた[ 佐藤、2006、125頁。]。彼らは、人間にはキリスト教徒の人間とムスリムの人間の二種類がいる、という単純な人間観を持っており、文化的・民族的アイデンティティは概してかなり希薄であったといえる。
この民族対立に宗教が関係なかったということではない。宗教的な差異はむしろ、アルメニア・アゼルバイジャン間ではなく、もっぱらソ連との関係性の中で理解された。彼らは宗教を基軸にした「ひいき」が存在するという被害者意識から、ソ連体制に対しての不信感を強めていったのである。互いへの不満やソ連への不信感、失われた民族性・歴史への関心はやがて新たな民族起源の主張という形で現れ、それはかつてこの地で栄華を誇ったカフカス・アルバニア王国への関心を呼んだ。
ここでは、この紛争の勃発後に創作、もしくは相手への反感から曲解ないし拡大解釈されたものである可能性が高い事実は出来るだけ排除する努力[ 現在世界に流通しているナゴルノ・カラバフ紛争の歴史的経緯のほとんどはアルメニア経由のものであろう。世界中に多数のアルメニア・コミュニティを持つアルメニア人の言論の影響力は贔屓目に言ってもアゼルバイジャン人とは比較にならないほど大きい上、この時期の紛争報道はほとんどキリスト教圏である欧米諸国、ソヴィエト=ロシアを経由して発信されたため、宗教を基準とした心理的バイアスの影響を無視できない。事実、ハルセルの著書の中では、アゼルバイジャン人知識人がワシントンの国会図書館にアゼルバイジャン関係の本がアルメニア関連の本と比べて非常に少ないこと、西欧の大学にはアゼルバイジャン語や文学を教えているところがひとつもないことを指摘している。ここでそのような主張を排除するのは、このようなアルメニア寄りの主張ばかり採用してしまう事態を避けるためである。]をしつつ、ナゴルノ・カラバフ紛における両国の民族性再生の動きについて見てゆく。
第二節 ナゴルノ・カラバフ紛争の概要
(1)ナゴルノ・カラバフ自治州の誕生
ナゴルノ・カラバフ自治州の歴史は18世紀に遡る。ナゴルノとはトルコ語で「黒土のぶどう畑」の意味である。それに1828年のトルコマンチャーイー条約締結以後、ここを新たに支配したロシア人が、ロシア語で「山が多い」という意味の「カラバフ(現地語でカラバグ)」という意味を付け足し、以後この地方は「ナゴルノ=カラバフ」という通称で呼ばれるようになった[ ハルセル、1991、56頁。]。
19世紀初頭、カラバフ地方はガンジャ・ハーン国、カラバフ・ハーン国に分かれていた。当時コーカサス地方を中心に覇権を争っていたロシア帝国とオスマン・トルコ帝国による戦争(コーカサス戦争)はロシア帝国の勝利に終わり、1828年にトルコマンチャーイー条約の締結により、アゼルバイジャンはロシア帝国に併合されることとなった。その結果、キリスト教国であるロシア帝国の庇護を望み、イランに住んでいたアルメニア人の農民約57,000人がカラバフ地方に移住した[ ハルセル、同書、57頁。]。その結果、1882年には同州のアルメニア人人口は38パーセントに上るようになった。その後もアルメニア人はこの地に移住し続け、1920年のアルメニア民主共和国成立時には、同州のアルメニア人人口は94パーセントに達していた[ 佐藤、2009、181頁。]。
1920年にグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの三国で構成されたコーカサス連邦が崩壊すると、以後誕生した三つの民主共和国もそれぞれ赤軍の攻撃を受けて併呑された。あたらにソヴィエト・アルメニア共和国とソヴィエト・アゼルバイジャン共和国になった両国は、このナゴルノ・カラバフの帰属をめぐって火花を散らした。
1923年、スターリン率いるソ連共産党は、南方のムスリム、具体的に言えばトルコの親アゼルバイジャン感情を無視できず、ナゴルノ・カラバフ自治州を設立、同州の管理権をアルメニアからアゼルバイジャンに移管した[ ハルセル、同書、57頁。]。こうしてナゴルノ・カラバフはアルメニアの「イルデンタ(領土回復運動)」の対象となった。
(2)紛争勃発
そういった意味で、ペレストロイカによって言論の自由が保障されたことは、その不満を爆発させるのにまたとない機会となった。1987年頃から、アルメニアはこのナゴルノ・カラバフ自治州の帰属をアゼルバイジャンからアルメニアに移管するよう、大規模な署名運動を開始した。
また1988年の2月、アルメニアはソ連史上初、空前絶後の規模のデモをアルメニアの首都エレバンで開催した。このデモの参加者数は数十万人、一説によると百万人に達したと言われ[ デューク、カラトニツキー、1995、229-230頁。]、彼らはエレバン市内の広場に座り込みを敢行、ナゴルノ・カラバフの帰属変えを訴え続けた。
この抗議集会の発生により、アゼルバイジャンのアルメニア感情は急激に悪化、両国の関係は緊張した。このデモの直後の1988年2月、アゼルバイジャンの首都近郊の工業都市スムガイトでアゼルバイジャン人が暴動を起こし、アルメニア人23人を含む32人を殺害する「スムガイト事件」が発生した。このとき犠牲になったアルメニア人の多くがナゴルノ・カラバフ出身者かその子弟であった[ 北川、1995、817頁。]。
その後もアルメニア人狩りは続発し、反対にその報復としてアゼルバイジャン人狩りも発生するようになった。それは徐々に頻度を増してゆき、ついにはナゴルノ・カラバフ自治州内でも小競り合い、暴動、殺し合いが起き始めた。
しかし、これに対する当局の反応といえば全く曖昧で、前時代的で例外的な事件として当惑するのみであった。このポグロムに対する少数の加害者の裁判も悪戯に長引き、当局はこの暴力に対して断固たる姿勢を示すことが出来なかった。ナゴルノ・カラバフの帰属、そして続発するポグロムに対してのソヴィエトの優柔不断な姿勢に対し、アゼルバイジャン人も苛立ち始めた。1988年11月にはバクーのレーニン広場に数千人のアゼルバイジャン人が集い、18日間に渡って「ナゴルノ・カラバフ!」の大合唱を続けた[ ハルセル、同書、54頁。]。1988年12月にはソヴィエト特殊作戦部隊スペツナズがデモ隊を襲撃、多数の市民をレーニン広場から追い払った。この衝突によって3人が死亡、30人が負傷した。この事件を機にアゼルバイジャン人の反ソ感情は無視できないほどに大きくなり、それらはアゼルバイジャン共産党の腐敗などの政治不信もあり、次第にそれは独立を志向した政治的な運動に発展してゆく[ デューク、カラトニツキー、同書、242頁。]。
88年末にはアルメニア政府によって国内に住むアゼルバイジャン人が強制退去させられた。追い出されたアゼルバイジャン人は難民キャンプでテント暮らしを強いられるようになり、日々苦しくなる生活は専ら優柔不断なソヴィエトに向けられるようになった。これらの勢力をも取り込んで、両国の関係は民族浄化に繋がる不気味な兆候を見せ始めたのである。
(3)ゴルバチョフの権威の失墜
1989年、やっと重い腰を上げた当局はナゴルノ・カラバフ自治州を一時直接統治下に置いたものの、結局有効な処方箋を書くことが出来ずに、同州の管理権はアゼルバイジャンに戻された。このことがアルメニア人を大きく失望させ、1988年12月にアルメニアを襲い、約25000人の犠牲者を出した大地震がその落胆に追い討ちをかけた。この間にもナゴルノ・カラバフでは両民族同士の抗争、両国国境での小競り合いが相次いでいた。
また、この大地震によって信頼感が失墜したソ連共産党の変わりにアルメニア人の精神的支柱になったのがカラバフ委員会であった。この委員会は1988年2月のデモのときに誕生した非公認組織だったが、地震によって大量に生まれた孤児の面倒を見るなどして次第に支持を増やしていた。1988年の半ばには、同組織は「アルメニア国民運動」に改組され、絶大な支持を背景に次第に反体制組織としての性格を強めていった[ デューク・カラトニツキー、同書、235-236頁]。
(4)民族浄化の完了とソ連崩壊、そして決着
90年1月、アルメニアから強制退去させられたアゼルバイジャン人が中心となってバクーで大規模なデモが行われたが、これがアルメニア人のポグロムに発展、この騒乱はアゼルバイジャン全土の都市に波及し、多数のアゼルバイジャン人がアルメニア人の家庭を襲撃、アルメニア人のほとんどが家を捨ててアルメニアに避難するという事態に発展した。事態を重く見た当局はKGB軍にバクー制圧を命令、アゼルバイジャン人からなる150人の犠牲者を出した(バクー事件)。これによってアゼルバイジャンからのアルメニア人の民族浄化は完了し、バクーに20万人いたアルメニア人は姿を消した。
1991年にモスクワで発生した「8月クーデター」は両国にはほとんど影響を与えなかった。1990年に実施された民主的選挙で、アルメニアでは初めての非共産党系のアルメニア国民運動が第一党となり、アゼルバイジャンでは民族官僚に支配された共産党が連邦離脱の意向を表明していたのである。極度に民族主義化した両国は混乱の局地の中、ソ連崩壊後を生きることになった。
同年9月、ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア人たちは「アルメニアへの帰属」ではなく「独立国家としての独立」を表明した。この動きに対してアゼルバイジャン政府はナゴルノ・カラバフに総攻撃をかけたが撃退され、そのままナゴルノ・カラバフはソ連崩壊後の混乱に紛れる形で「ナゴルノ・カラバフ(アルツァフ)共和国」として独立することになった。その後も1992年2月、アルメニアのホジャリ県で613人のアゼルバイジャンが虐殺されるホジャリ大虐殺などが起こり、両国の民族浄化は確実に進んでいった。
現在、ナゴルノ・カラバフをめぐるアルメニアとアゼルバイジャン情勢は比較的安定しており、国内の民族衝突などの大きな事件も、民族浄化が完了した現在では起こっていない。民族浄化が完了したことにより、両国の紛争は完全な解決を見たのである。
第三節 宗教的差異を機軸とした対立
次に、宗教がこの民族紛争に及ぼした影響を見ていく。一見すれば、アルメニア人がキリスト教を、アゼルバイジャン人がイスラーム教を信仰していることから、この紛争が宗教対立の要素を含んでいることは誰の目にも明らかであろう。しかし、アルメニアとアゼルバイジャン間での宗教対立の要素は薄いと言わざるを得ず、むしろ宗教対立の要素はアルメニアとアゼルバイジャン間ではなく、紛争を調停できないソヴィエトの優柔不断さに対する不信感として出現したのである。
アゼルバイジャン人側の主張するところによれば、この紛争に両民族間の宗教的違いは関係がなく、むしろ中央当局がナゴルノ・カラバフ紛争をアルメニア・アゼルバイジャン間の民族紛争を「宗教対立」にすり替えたがるところに不満を持っており、バクー事件発生直後のアゼルバイジャンでは宗教に関する不満を口にすることを忌避する傾向すらあった[ ハルセル、同書、54頁。]。しかし、アゼルバイジャン人はロシア人が同じキリスト教徒であるアルメニア人を優遇し、自分たちムスリムには露骨な差別意識を持っていると感じており、それがアルメニアの言いがかりに対して断固たる態度を取れない理由だと考えていた。
特に不興を買っていたのはバクーに存在する宗務局の存在である。アルメニアのアルメニア教会は完全ではないものの、宗務行政を自律的に行っていたのに対し、アゼルバイジャン国内のイスラーム教の宗教活動は宗務局によって(他の地域より比較的自由にではあったが)統制されていた。これはアゼルバイジャン人にとっては「キリスト教びいき」に他ならなかった[ 山内、同書、174頁。]。それはやがて首都バクーから産出される石油をソ連共産党によって一方的に搾取されることへの不満も取り込み、宗教的・民族的感情を中心にソ連体制への不信感が広がっていったのである[ ナハイロ・スヴォボダ、1992、613頁。]。
アルメニア側はアルメニア側でやはりソ連に対して宗教を機軸とした不満を募らせていた。アルメニア人たちは、ロシア人はコーカサス地方やソ連以南のトルコ、イランのムスリムに「遠慮している」と感じていた。それはナゴルノ・カラバフ自治州をめぐる紛争のそもそもの発端となった1920年代の国境線画定に端を発するソ連への不信感であった。アルメニア人たちの主張によれば、ナゴルノ・カラバフをめぐる領土問題は、1920年代のトルコやイランに対するソ連の妥協の結果存在するのであり、自分たちはその政策の犠牲になっているのだと主張した。従ってこれは帰属換えの要求なのではなく、アルメニア人が愛してやまぬアララト山のように[ アララト山とはトルコ共和国の東端にある山で、かつては周辺に数百万のアルメニア人が住まう土地であった。旧約聖書に記される大洪水の際、ノアが乗った「箱舟」が漂着した地であると信じられるこの山は、長らくアルメニア人にとって「民族の故郷」として憧憬されていた。またここは第一次大戦後、多くのアルメニア人がトルコ人によって虐殺された土地でもあることから、アルメニア人にとっては苦難の歴史とアルメニア・トルコ間の因縁を象徴する地でもある。]、神聖な領土を回復するための一種のイルデンタ(失地回復運動)なのだと主張した。
優柔不断なソ連共産党に対する不信感は次第に大きくなり、それは1987年3月にナゴルノ・カラバフ自治州の帰属換え要求が却下された時点で決定的となった。アルメニア人たちはここで明確な反ソ感情を抱くようになり、かつて自分たちの祖先が庇護を求めたはずのロシア人がもはや味方では有り得なくなったことを確信した。モスクワに拠を置くセルゲイ・グリゴリャンツという異論派知識人は、アルメニア人の反ソ感情の急激な悪化に驚き、「アルメニア人は、国境の向こうのアゼルバイジャン人に対して民族的感情をぶつけていたものだったが、今や彼らはソヴィエト権力に対してそれをぶつけている」[ ナハイロ・スヴォボダ、1992、544頁。]と述べた。
また、この宗教を機軸とした民族意識の対立はソ連全体に異教徒間の相互不信を煽る形となった。先述したグリゴリャンツの主張や事実上のソ連共産党機関紙であった「プラウダ」などはアルメニアに対して同情的な見方を示し、反対にタタールや中央アジア、そしてトルコなどの諸外国の新聞や知識人までがアゼルバイジャンに対して同情的な見方を示していた[ 佐藤、2008、186頁。]。ナゴルノ・カラバフ紛争は世俗国家を謳うソ連において、宗教を機軸とした民族間の分裂を生じさせる契機にもなったのである。
第四節 民族起源の修正――カフカス・アルバニア王国
また、アゼルバイジャンにおいて特殊なのは、ウクライナやリトアニアで起こった「民族性の模索」や「歴史の再評価」の動きが、民族起源の修正という形で現れたということである。先に紹介したウクライナやリトアニアにおいては、歴史はもっぱらソ連との差別化と、自己の独立性を主張するためのものであった。
1965年、アゼルバイジャン科学アカデミー会員であったズィヤ・ブニャトフ(Ziya Buniatov, 1921-1997)は自著『七世紀から九世紀までのアゼルバイジャン』の中で、それまで考えられていたアゼルバイジャンの歴史とはまったく違う民族起源を主張し、カフカス地方の歴史的境界線に新たな理解をもたらした。彼が主張したのは、アゼルバイジャンの民族的起源を6世紀以前にこの地に存在したカフカス・アルバニア王国に求める説であった。カフカス・アルバニア王国とは紀元前2〜7世紀頃にトランス・コーカサス地方に存在したとされる古代国家であり、以前はトランス・コーカサス一帯に強勢を誇っていたという。ブニャトフの主張は、アゼルバイジャンがこのカフカス・アルバニア王国の後裔に当たると主張したのである。
ブニャトフの主張によると、この地に住むカフカス・アルバニア人たちは4〜18世紀頃までアルバニア教会という正統のキリスト教を信奉していた。このアルバニア人はキリスト教徒ではあるが、アルメニア教会のドグマである単性論(「イエスは完全な神であり完全な人である」というカルケドン信条を受け入れていない異端派の主張)を受容していなかったため、アルメニア教会とはまた違う宗教観を持っていたという。後にこのアルバニア教会のほとんどはアルメニア教会に同化されたため、その後の歴史的な文献にはほとんど登場しなくなったものの、組織自体は19世紀まで存続していたことがわかっている[ 北川、1995、73頁。]。
ブニャトフは、後にこの地を支配したカリフによってアルバニア人の多くがトルコ人と同化し、イスラーム化されたという歴史的事実に注目し、このことがカフカス・アルバニア人たちの民族的アイデンティティを大きく変化させたのだと主張した。ブニャトフは、このときアラブに支配されたことでカフカス・アルバニア人たちの大半がイスラーム教に改宗したが、そのときを境に彼らは次第にアゼルバイジャン人としての民族的アイデンティティを持つようになり、反対に、アルバニア教会では採用されていなかった単性論を受容し、アルメニア教会やグルジア教会に改宗した少数の者たちは、自らをアルバニア人でなくアルメニア人やグルジア人であると認識するようになったと主張した。つまり、アゼルバイジャンこそがカフカス・アルバニア人の正統な後裔であり、現在のアルメニア人のやグルジア人の大半は同化ないし改宗によって民族的アイデンティティが変化したカフカス・アルバニア人だと主張したのである[ 北川、「歴史記述に於ける境界 : エスノヒストリーとアゼルバイジャンの解体」、1994。http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/html/10129/770/1995_tokutei_65.pdf]。
この説は「宗教的混乱を民族的対立であるかのように印象づけるもの」としてアルメニアからは猛抗議を受けたものの、反対にアゼルバイジャン国内では大きな影響力を持つようになった。この説の正誤はさておき、かつてこの地に存在したカフカス・アルバニア王国の範囲をどこまで拡大するかによって、彼らの後裔であると考えられるアゼルバイジャン人が所有するべき領土の歴史的正統性の拡大解釈が可能になったためである。当然、このブニャトフの主張はおよそ20年後に再燃したナゴルノ・カラバフ紛争の際に大きく取り上げられ、ナゴルノ・カラバフをアゼルバイジャンが領有するべきだという主張の主要な論拠となった。
まとめ
ナゴルノ・カラバフ紛争はペレストロイカ政策によって蓋が緩んだソ連が最初に吐き出した腐敗ガスであった。ある時期より以前には目立って軋轢が生じなかった民族間で突如衝突が起こることは間々あることであるが、ソ連という抑圧の時代を経た結果、それは他の地域と比較してもずいぶん歪んだ形で噴出し、結果ソ連史上でも類を見ない規模の流血の事態を招いた。
アルメニア・アゼルバイジャン紛争において特徴的なのは、それまでは両国ともかなりの程度世俗化されており、宗教への愛着が高くなかったにもかかわらず、紛争の勃発と同時に宗教的差異がクローズアップされてきた点である。アルメニア・アゼルバイジャン間では宗教的差異は注目されなかったが、それはソ連との関係において突如関心ごととなり、「ソ連は相手方に味方している」という被害者意識にもっともらしい理由を付加するのに一役買ったのである。
また、アルメニア、アゼルバイジャン諸国では、ソ連の抑圧によって失われた民族性の再生や断絶した過去の歴史に対する関心が「新たな民族起源の提唱」という形で出現したということもこの地に特殊な事例である。ウクライナやリトアニア、後述するロシアでは、民族意識の高揚とともに起こった自民族の精神性・文化性への関心はもっぱら失われた宗教や歴史、言語などの文化的要素を再生させようとする動きとして現れたが、アゼルバイジャンにおいてそれは宗教的アイデンティティを論拠にしたまったく新しい民族起源説の提唱と歴史修正という形で現れた。これはもともと異民族・異教徒がモザイク画のように入り乱れて居住しているトランス・コーカサスでは、最初からその民族全体に共通する歴史や文化、精神性を定義することが困難であったためであろう。そのため、それは現在の民族が成立する以前の古代にまでさかのぼる必要があったのである。
いずれにせよ、アルメニアやアゼルバイジャンにおいても、民族意識の高揚とともに歴史への関心が高まっていたということは特筆すべき事実であろう。
第四章 ロシア・ナショナリズムとロシア正教会
第一節 歴史的背景
当時世界最多の少数民族を抱えていたソ連にとって、民族意識の高まりとナショナリズム的運動の高まりは国家の土台を大きく打ち震わせるものであった。コーカサス地方に始まり、中央アジア、バルト三国、ウクライナに順次飛び火していった民族運動の大波は体制を揺るがし、ソ連70余年の歴史に終止符を打たせることになった。
しかし、ソ連を悪夢のように苛んだ民族運動の大波は非ロシア系諸民族の専売特許ではなかった。ソ連2億6000万人の約半分、1億4000万人を数えたロシア人の民族意識の高揚がソ連に及ぼした影響も、非ロシア系民族が引き起こした諸問題の深刻さに変わりはなかったのである。
そもそも、ロシア人の民族意識の高揚が「ネオ・ナショナル・ボルシェヴィズム」ないし「ナショナル・ボルシェヴィズム」として現れ始めたのは1960年代以降であった。フルシチョフによるスターリン批判によってソヴィエト・イデオロギーの権威が失墜し、社会主義が現実世界に不適応だと徐々に露見してくるにつれ、一部知識人の間で新たなソヴィエト国家統合のイデオローグを模索する動きが始まった。また、こうした動きは先述したような非ロシア系諸民族の民族意識の高揚や人口的な台頭に対する危機感の現われでもあった。
国勢調査によって判明したイスラーム系諸民族の人口増加率と相対的に下がるロシア人の出生率は、1億4000万のロシア人に「ソ連におけるロシア人の二流民族化」の可能性をつきつけた。事実、ロシア人の権利を著しく制限する動きは特に独立後のバルト三国で先鋭化し、ラトヴィアなどでは非ラトヴィア語話者の就労条件などを厳しく制限する法律を策定しようとする動きがあった[ 佐藤、2006b、197頁。]。ソヴィエト体制下で起こったロシアのナショナリズムの高揚は、非ロシア系諸民族の民族意識の高揚に対する防衛的反応であったと言えるのである。
かくして、ロシア人によるナショナリズム運動は難しい選択を迫られることとなった。ひとつは強力なロシア国家を愛国心によって強化し、「ソ連の長兄」としての強いロシアを復活させようとする「ナショナル・ボルシェヴィズム」的路線を取るか、それとも世俗的・非自然的なソヴィエト・イデオロギーを否定し、それらによって抑圧されてきた文化や精神性、宗教などの「聖なるロシア」の再発見を通じて自己の民族的アイデンティティを取り戻そうとする「ロシア・ナショナリズム」路線を取るか、であった。前者はあくまで社会主義体制にナショナリズムを動員するという形を取るので反宗教的・反社会的傾向が強かったが、後者は伝統回帰の形を取る以上、ロシア人の民族宗教と化したロシア正教の信仰を避けて通ることは出来なかった[ 廣岡、2000、167-168頁。]。いずれにせよ、両者はいずれの場合もロシア正教会に一定の関心を寄せており、なおかつその理想の根底には正教信仰と圧倒的強さの両方を兼ね備えた「聖なるロシア」の理想があったのである。
ここでは、1960年代から勃興するロシア・ナショナリズムの潮流の潮流について詳しく論じつつ、ロシア正教会がソ連におけるロシア・ナショナリズムに占めていた立場、役割について考察を行ってゆきたい。
第二節 ロシア正教の歴史
(1)「精神的憲兵」
ロシアにおける“ロシア・メシアニズム”は今日ではよく知られている[ ロシア・メシアニズムについては高野雅之『ロシア思想史―メシアニズムの系譜―』やフョードル・ドストエフスキーの長編小説『悪霊』に詳しい。これは「ロシアこそ神に選ばれた民族であり、降りかかる苦難を率先して背負い込むことで世界を救う神の使命がある」という西欧世界への対立意識から生まれた思想であり、それに対する形でロシア国民の物理的・精神的潜在力に対する極端な信仰を生んできた。これは後に「スラブ派」という独特のナショナリズムの形態として現れてくる。]。中でも「第三のローマ」たる祖国に対する狂信的な信仰・憧憬は、ロシアに西欧文化への感情的な不信感と「文明の伝達」という大義名分の下での異民族支配の正当化、ロシア化政策、反ユダヤ主義などを生んだ。
それには歴史的な要素も絡んでくる。988年にウラジーミル1世によって国教として採用されたことに端を発するロシアのキリスト教の歴史は、11世紀に起こったカトリック教会との分裂によって転換期を迎える。普遍的教会を志向するローマ・カトリック教会とは反対に土着主義を強めたロシア正教は、民族教会の自治独立権を尊重し、それぞれの民族による民族語による礼拝を認めるなど、急速に細分化してゆくこととなる。その結果、ロシア正教会はロシアにおける国家的・民族的統一を支える精神的原理としての役割を担うようになってゆく。それはロシア正教会が、13世紀から2世紀に及んだ「タタールのくびき」と呼ばれる異民族支配の時代にさらに強まっていった[ 廣岡、「ロシア正教」『世界民族問題辞典』1992、1240頁。]。
しかしそれは反対に、ロシア正教会がロシア帝国の支配において“精神的憲兵”の役割を果たすことにも繋がった。ロシア正教会は帝国教会としての性格を強め、「一人のツァーリ、ひとつの言語、ひとつの宗教」というスローガンの下に膨張と異民族の同化を続けるロシア帝国の政策を追認せざるを得なくなっていった。
(2)体制化とナショナル・ボリシェビズム
ロシア正教会の精神的憲兵としての役割はソヴィエト連邦が成立した後も変わらなかった。1917年にレーニンの「戦闘的無神論」を信奉するボリシャヴィキが勝利すると宗教弾圧が開始され、政教分離の布告、土地・施設などの教会資産の没収ないし廃棄、聖職者の迫害、宗教の社会的役割の排除などが実行された。しかし1941年に独ソ戦争が勃発すると、スターリンはロシア正教会に利用価値を見出し、反宗教政策の緩和と引き換えに独ソ戦の“聖戦化”や、正教会による愛国心の鼓舞などの協力を取り付けた。正教会もそれに応え、戦勝を祈願する祈祷は独ソ戦の間、間断なく続けられていた。
スターリンの死後、新たに台頭したフルシチョフが行った反宗教キャンペーンはソ連史上最も徹底的かつ大規模に行われ、一度は復権の兆しを見せたロシア正教会は大打撃を蒙った。しかし、ブレジネフ政権の停滞の中でロシア正教会はソ連外交に活き延びる道を見出し、ソヴィエト政権の意向を伝えるメッセンジャーとして積極的に海外へと飛び出していった。他にも、独ソ戦時の混乱に乗じて復権への意欲が高まるウクライナのユニエイト教会やリトアニア・カトリック教会などへの弾圧にも加担したロシア正教会は、“精神的憲兵”から“ソヴィエト支配の尖兵”ないし“クレムリンの勅使”としての性格を強めていった。
またブレジネフ時代には、ソヴィエトのイデオロギーにナショナリズムを“接ぎ木”し、ソヴィエト国家の強化を図ろうとする「ナショナル・ボルシェヴィズム」を支持する一派が現れ、現実への適応力を失したマルクス・レーニン主義のイデオロギーをソ連一国だけで完結させようと画策した。この国家主義的、大ロシア主義的傾向を含む思想は共産党保守派や軍部エリートに支持されたものの、その反宗教的な性格ゆえに民衆レベルにまで支持者を増やすことができなかった。
(3)ゴルバチョフとロシア正教
フルシチョフによるスターリン批判以来、ソヴィエト・イデオロギーへの求心力が凋落の一途を辿っているのは誰の目にも明らかであった。計画経済の失敗やそれに付随する深刻化するモノ不足、共産党官僚の腐敗によって社会主義体制の虚飾が剥がれ落ちてゆく一方、アフガン戦争の泥沼化や冷戦の終結などによって国内からの求心力だけでなく国際的な威信も低下しつつあったソ連では、次第に社会主義体制やスターリン主義に代わる新たな国家統合のイデオロギーを模索する動きが活発化していた。
そういった動きに対して起こったのが、ゴルバチョフによって進められた「ペレストロイカ」や宗教政策の緩和であった。ペレストロイカによって西欧化が進められる一方、1988年のロシア・キリスト教伝来千年祭を起点にして宗教政策が転換され、ロシア正教会の活動が大幅に緩和された。これはロシアに燻りつつあった、正教と専制を機軸とする「聖なるロシア」への回帰を待望するロシア・ナショナリズムをソヴィエト体制に取り込もうとする動きであった。この政教和解によってモスクワのダニーロフ修道院が復興され、そこに総主教公邸と教会間渉外局が設けられた。ソ連とロシア正教会の距離は物理的にも心理的にも飛躍的に接近したのである。
だが、これはロシア正教会にとっては必ずしも都合のよいものではなかった。ロシア正教側からすればソヴィエトが持ちかけたこの政教和解はロシア正教会の抱き込みを企図したものにほかならず、完全に自由な宗教活動が保証されたわけではなかった。文化的・歴史的現象としてのロシア正教会の評価を巡る論争は依然として不安定であったし、当局から教会内の総主教選挙などに対する圧力は続いていた[ 廣岡、2000、185頁。]。
また同時に、このソヴィエトとロシア正教会の不安定な関係は、ゴルバチョフや共産党がロシア・ナショナリズムの高揚に対して必ずしも明確な方針を打ち出せていなかったことの表れでもあった。共産党の力によってロシア正教会の“市民権”が復活したことに呼応し、ロシア・ナショナリズムの思想と運動も次第に力強い活動を始めてゆくことになった。そして1991年末、ロシア国内で発生した8月クーデターを民主派に否定されたソ連は、その年の暮れについに崩壊してしまうのである。
第三節 ナショナル・ボリシェビズムの潮流
ナショナル・ボリシェビズムがロシア・ナショナリズムとソヴィエト・イデオロギーの合流を試みた思想であったことは先述した。しかし、ナショナル・ボルシェヴィズム運動は概して宗教的運動だったとはいえ、それは基本的にロシア・ナショナリズムの合わせ鏡的傾向が強く、その反宗教的言説はどこかぎくしゃくとしている感が否めないものだった。ロシア人のナショナリズムに訴えかける際、ロシア正教会がロシアに及ぼした影響を意図的に排すことはそれほどに難しかったのである。
それ故、ソヴィエト体制化におけるナショナル・ボリシェビズムの思想的核心はロシア帝国との“連続性”を強調する方向へ動いた。ナショナル・ボリシェビズムはボリシェビキによる革命を帝政ロシアとの「断絶」と捉える正統的ソヴィエト歴史学とは異なり、ソ連とロシア帝国の歴史的連続性を強調し、その文化や遺産の継承者としてのソ連を擁護する。
この立場に立ったのが、ソ連における代表的な反宗教雑誌『科学と宗教』である。同誌は一貫してナショナル・ボリシェビズム路線を取り続けており、ロシア・ナショナリズムの対極に立つものとしてコスモポリタニズムやユダヤ・シオニズムを挙げ、これらに強く反対する。それはまた国家主義を表明し、「聖なるロシア」の守護者たるボリシェビキ的な中央集権的独裁体制とソヴィエト国家至上主義を支持していた。
また、ニコライ・ゴルジェンコは1984年に『ロシアの受洗』を上梓し、その中でロシア正教会の役割を否定的に論じている。ゴルジェンコはポーランドやナチス・ドイツなどの歴史的「外敵」とロシア正教の内通行為、12世紀頃のロシア正教会による大規模なロシア異教文化破壊などの論証を試み、その上で「搾取と抑圧の道具」であるロシア正教会批判を行った。
また、80年代に「キリスト教的」ボリシェビズムを唱えたゲンナジー・シマーノフは、自身のサミズダート誌『ムノーガヤ・レータ』において、ボリシェビズムは西欧的価値観の流入から「聖なるロシア」を守護する使命を担っているとしてソヴィエト国家を擁護した。
驚くべきはソ連の公的な雑誌やサミズダートに至るまで、平然とロシア至上主義的主張がなされている点である。マルクス=レーニン理論において民族は「消滅すべきもの」として否定的に論じられ、1977年のブレジネフ憲法において「ソヴィエト人」という新たな人間共同体の創出が確認されているにもかかわらず、ナショナル・ボリシェビズムにおいては明らかにロシアだけが特権的・支配的立場に据えられていることがわかる。その中には常に古色蒼然たる「第三のローマ」の理想があった。それは同時に、「民族の牢獄」たる帝政ロシアの復古をも意味しており、「ソ連の長兄」たる大ロシア民族の復活をも意味していた。その最深部にはロシアと神の“特別な関係”を信じるロシア・メシアニズム的な流れが常に存在していた。
前述してきたように、ナショナル・ボリシェビズムは次第に過激化していたロシア・ナショナリズムの傍流でしかなく、倒錯したボリシェビズムに過ぎなかった。しかしこの思想はソヴィエト時代を通奏低音のように流れ続け、ソヴィエト連邦崩壊後もロシア共産党という狭い空間の中で生き続けていたのである。
第四節 ロシア・ナショナリズム
(1)ロシア・ナショナリズムの始まり
ロシア・ナショナリズムは所謂「宗教ナショナリズム」の一種である。それは“正教信仰”を共通の特徴とする点においてほぼ一致しているが、この言葉が意味する思想的傾向は多い。それは「聖なるロシア」がソヴィエト体制化で喪失されてしまったことへの漠然とした危機感を訴える論調から、ソヴィエト社会に存在する非ロシア的なもの全てへの攻撃的な論調、非社会主義的で親ソヴィエト国家的な傾向を持つファッショ的論調など、思想的傾向は多彩を極めた[ 廣岡、2000、173-174頁。]。
もともとロシア・ナショナリズムがソ連社会で“復権”し始めたのは1960年代のことで、文学者たちが教会などの宗教的・歴史的建造物の破壊に対し、憂慮の念を示したことから始まった。その時点ではまだ反ソ的な言論ではなく、単純に歴史的・文化的な遺物の保全を訴えるものであった。しかしその後の1964年、レニングラードで「全ロシア国民開放、社会キリスト教同盟」が発足し、社会主義でも資本主義でもなく、正教の上に立つ形での第三のキリスト教的社会民主主義の提唱がなされた。このグループのメンバーは二十人ほどであったものの、これが反ソ的ロシア・ナショナリズムを提唱した最初のグループとなった。
その後、ロシア・ナショナリズム的主張の多くは「ロシアの民族性とは何か」についての議論という形でなされるようになった。文筆家や批評家、その他の知識人たちはロシア人の失われた精神性・文化的独自性を捜し求め、時には忘れ去られたはずのスラブ派の議論まで持ち出して積極的に議論を戦わせた。彼らは「ソヴィエト的なもの」と「ロシア的なもの」を峻別し、社会・経済発展の停滞、官僚の腐敗、文化的伝統の喪失、チェルノブイリ原発事故に代表される自然破壊などの「ソヴィエト的なもの」を否定した上で、「ロシア的なもの」である正教信仰を中心とした歴史的・文化的な伝統に立ち返ろうとしたのであった。
こうした宗教的ナショナリズム運動の理論的指導者だったのが、ソヴィエト科学アカデミーの有力会員であり、ロシア正教の熱心な信者であった文学史家ドミトリー・セルゲイビッチ・リハチョフ(Дмитрий Сергеевич Лихачёв,1906〜99)であった。彼は「土壌主義」の立場に立ち、何よりもまずロシア文化の独自性と、それへのロシア正教会の多大な貢献を評価した。リハチョフはロシアの伝統的な異教文化を駆逐したとされるキリスト教文明を擁護し、ロシア文化は異教的伝統を背景としながらも、結局はロシア正教会を中心として形成されたキリスト教文化であると主張した。また彼は「開かれた愛国主義」を訴え、愛や善、憐憫、寛容、他民族とその文化への尊敬と理解などがロシア文化の特質を為していると述べ、ロシア中心主義、排外主義に対して常に敬称を鳴らし続けた。
(2)鬼子「パーミャチ」
しかし、リハチョフが訴えるところの「開かれた愛国主義」を奉じず、反対に排外主義的傾向を強めたロシア・ナショナリストたちもいた。そういった中でも過激であったのが「パーミャチ(Памят)」であった。彼らは60〜70年代頃に始まるロシア・ナショナリズムの高揚の中で生まれた“鬼子”であった。「パーミャチ」とはロシア語で「記憶」を意味し、もともとは上記のような歴史や民族などの「失われた記憶」を思い出そうとしたロシア・ナショナリズム形成運動における合言葉であった[ 安井、「パーミャチ」『世界民族問題辞典』、1992、907-908頁。]。
しかし、それらは次第に排外主義的な方向へと傾倒してゆくことになる。70年代末、「パーミャチ」の名前を冠した文化財保護団体がモスクワに現れた。彼らは当初ロシアにおける愛国心の覚醒を企図し、そのために歴史的遺産や文化財を保護しようとする一介の博愛主義的グループに過ぎなかった。しかし、同団体は次第に欧米の「帝国主義勢力」やユダヤ・シオニストの陰謀がロシアの文化やロシア正教会=ロシアにとって脅威になっていると主張するようになり、80年代中頃から次第に強烈な反ユダヤ主義、排外的民族主義に傾倒していった。
彼らはその主張のあまりの過激さ故に市民からは敬遠されていたが、この後「オチェチェストヴォ(Отечество,祖国)」や「スパセーニエ(Спасениед,救国)」など、同様の排外主義的ナショナリストグループが次々と結成されていったことは、排外主義や反ユダヤ主義がロシア・ナショナリズムと必ずしも相反するものではなく、その狂信性ゆえに極端な排外主義、反ユダヤ主義と結びつき得る危険性があることをも示していた。
(3)「スラブ派」と「激情理論」
また、ソ連の歴史の後半部分では実に多種多様な思想が復古されるか、新しく提唱されるかし、ソ連の停滞と腐敗を乗り越えるための精神的・道徳的原理をロシアの中に作り出そうという動きはますます拡大した。
そのひとつが「スラブ派」と呼ばれる主張である。スラブ派とは「西欧がもたらした資本主義的・近代主義的価値観がロシアを堕落させる」という内容で、18〜19世紀に近代化が推し進められていたロシアで流行した思想であった。このスラブ派の主張はソ連の腐敗とそれに伴う社会の荒廃という状況下で再び求心力を持つようになり、1960~80年頃には「ネオ・スラブ派」と呼ばれる潮流を新たに形成した。彼らは西欧キリスト教圏に対するロシアのキリスト教文化の優位性を主張し、西欧的な合理主義を否定する。そして「精神性」において西欧に勝るロシア民族は西欧的な合理主義を超克し、新たな文明の担い手になる使命があると主張した。彼らはロシア正教会の“純潔”を守るという立場からバルト三国や中央アジア・コーカサスのイスラーム系諸国家と絶縁し、ロシア正教圏であるウクライナ、ベラルーシなどのスラブ系民族とだけ同盟を組むべきだとする、一種の孤立主義に傾倒していった。このロシア・メシアニズムと「聖なる孤立主義」を織り交ぜたスラブ派のように、1970年頃からロシア・ナショナリズム運動は徐々に孤立を志向するようになり、またロシア・ナショナリズムを「超常的、オカルト的なもの」と見る動きが強まってゆく。
そう言ったロシア・ナショナリズムの思想的変遷の中で最も異彩を放っていたのが「監獄の学者」を自称したレフ・グミリョフ(Лев Никола́евич Гумилё,1921-1992)の「激情理論(Пассионарная теория этногенеза)」である。
両親が高名な詩人であったグミリョフは、父がスターリンによって「人民の敵」として銃殺刑に処されたことにより、自らも14年に渡るラーゲリ(収容所)生活を余儀なくされた。グミリョフはこのラーゲリの中で様々な知識人と出会ったことで独自の民族理論を確立し、それを「激情理論」と名づけた。
彼が関心を抱いたのは自然史としてのエトノス(民族集団)の運命についてであった。グミリョフはエトノスは特定の風景に依存して形成され、誕生、発展、消滅の運動を必ず経ると主張する。エトノスは宇宙変動のエネルギーの過剰集積、彼が言うところの「激情(passionarity)」によって引き起こされた生物の生化学的変化によって誕生し、発展する。やがて爛熟期を迎えたエトノスは、他のエトノスとの接触から生まれるアンチ・システムによって消滅に至る。この期間は1200〜1500年ほどになり、それらの特定民族の形成・発展・衰退までの過程は全て数値化できるとグミリョフは主張した。
グミリョフによれば、人類史は様々なエトノスの誕生・発展・消滅を繰り返しつつ衰退していっており、人類は過去において9回の「激情」の発露を体験したことになっている。さらに彼の主張によると、11世紀にモンゴル人、13世紀にリトアニア人が激情を発露させて以降、人類は新たな激情の波を体験していない。その上、8〜9世紀に誕生し、17〜18世紀に爛熟期を迎えた西欧文明は今後衰退期に入ることが予想されており、西欧よりも500年ほど歴史が浅いロシア文明には大きな可能性が約束されていることになる[ 佐藤、2008、267-268頁。]。このことと、「エトノスは他のエトノスとの接触によって衰退を迎える」という主張がロシア人の大いなる躍進の可能性と、そのために反西欧的行動を取ることへの論拠となったのである。
これほどまでに似非科学的な民族理論は他に類を見るまい。しかし、この「激情理論」は当時のロシア人たちの間で大いに流行し、なおかつ真剣に信じられた。1981年に『自然』誌上の論文で「アンチ・システム」の概念を流用した反欧米化・反混血化的主張がなされたこともその証左のひとつである。グミリョフの「宇宙エネルギーによる民族形成」という主張はロシア人が持つ「神の使命を負ったロシア人」の発想や原始的な宇宙観と共鳴現象を起こし、ロシアの西欧化を推し進めようとする主張を押し流してゆく一方、一刻も早い「聖なるロシア」の復活という動きをますます強めることとなった。
第五節 普遍性の排撃とロシア・ナショナリズム
ロシア正教を中心としたロシア・ナショナリズムのうねりはやがて共産党によって肯定され、それは1988年のソ連共産党とロシア正教会の政教和解につながってゆくことになる。しかし、このロシア・ナショナリズムの高揚は必ずしも共産党に好意的に働かず、かえってロシアの復古主義を強める結果となり、それがソ連8月クーデターの失敗を招いた。共産党支配に嫌気が差していたロシア民衆はソ連維持を目論む共産党守旧派のクーデターに冷淡な態度を貫き、反対にクーデターへの徹底抗戦を呼びかけるエリツィンを新しい指導者として迎え入れたのであった。それは単純に「聖なるロシア」という抽象的な言葉で表されるものの実現という以上に、社会主義体制の制度疲労や共産党の腐敗を追放することによって「強いロシア」の再建を目指す運動であった。
ロシア・ナショナリズムにおいて特筆すべきはその思想性と狂信性である。ロシアのナショナリズムには、リトアニアやウクライナ以上に「ソ連体制は絶滅されなければならず、ロシアはロシア正教的な伝統に立ち返らなければならない」という脅迫的な思いが通奏低音のように流れており、その傾向はやがてグミリョフが主張した「激情理論」のような特殊なナショナリズム論をも生んだ。あたかもソ連体制の崩壊が必然であるというようなこれらの説が公然と影響力を持ちえたのには、ロシア民族が抱える「普遍性」への忌避感がある。
彼らは歴史において常に膨張を志向するにも関わらず、資本主義や民主主義、西欧社会的合理主義やローマ・カトリックなどの外来の思想を徹底的に排撃する傾向を持ち合わせていた。彼らの深層意識には常に古色蒼然たる「第三のローマ」の理想が存在し、それは西欧に比べて立ち遅れている自国という矛盾をも浮き彫りにし続けてきた。それを肯定するのが西欧的な価値観の排撃とロシア・メシニズム、そして自己の民族が持つ精神性・文化性の称揚なのであった。
冷戦の終結とソ連体制の失敗によって再び高まった西欧への対抗意識や、台頭する異民族に対しての危機感は、ソヴィエト・ロシアに再び「普遍性の排撃」と「自己の民族性の称揚」のナショナリズムをもたらした。その運動は「パーミャチ」のような排外主義・反ユダヤ主義に結実したものの、基本的には新たな国家統合のイデオロギーを過去から「発掘」するという形を取り、徐々に深化していった。そしてこの「発掘」の結果に見出されたのがロシア正教会と「聖なるロシア」の理想であり、それは本来的に普遍性を志向する社会主義体制の排撃という形でロシア・ナショナリズムに包摂されていったのである。
第六章 結論
第一節 宗教の再発見
ソ連体制下における各ソ連構成諸国の宗教とナショナリズムの関係、そしてソ連崩壊へと繋がる民族運動のプロセスと、それに対しての宗教の関係を概観してきた。それらは大きく分けて、宗教的対立が暴力・流血を伴った例、民主主義的にソ連からの離脱を図った例、国家統合のイデオロギーを模索するための言論活動が主だった例、という三つのパターンが存在していた。それぞれの地域の宗教的ナショナリズム高揚の事例に共通していたのは、宗教がソ連体制の緩和によって「再発見」され、民族運動と接合したということである。
ウクライナのユニエイト教会自由化やリトアニア・カトリック教会が繰り広げた分離独立運動においては、抑圧に喘ぐ教会がソ連体制下で虐げられる民族の苦難のシンボルとして認知されるようになり、ペレストロイカ後期には宗教の権利回復運動が大衆を取り込む形で民族の解放を求める運動へと転化していった。
また、アルメニア・アゼルバイジャン紛争においては、民族紛争の激化とともにソ連と両国の間に横たわる宗教的差異がクローズアップされ、それによって宗教的行為に関する不満が民族的な不満にすり替わっていくことになった。
また、ロシアでは異民族の台頭による危機感から「一刻も早くソ連体制を打倒し、正教的価値観に基づいた強いロシアを復活させねばならない」という意識が共有され、現実への適応力を失った社会主義体制をロシアから追放しようとする運動を生んだ。
その形態は様々であれど、ソ連の宗教的ナショナリズムは、常に自己が所属する民族が抱えた不満に応じる形で「再発見」され、民族性の拠り所としての注目を浴びるようになっていっているのである。
第二節 宗教の「再発見」――再構築される民族の神話
ペレストロイカ以前における宗教とナショナリズムは、いわゆるイスラーム原理主義などに代表される宗教ナショナリズムとは違い、当初から両者が手を携えていたわけではなかった。民族運動と宗教復興運動はもっぱら別の次元で繰り広げられており、それは神父や聖職者、もしくは信仰心厚い一部のインテリたちの手によって主導されていただけで、第二次世界大戦直後の混乱期を除いては、あまり大きなうねりになることはなかった。非インテリ層である労働者や年金生活者、学生たちにとって宗教を信仰することはひとつの反体制の意思の表現でもあったが、それはおおむね純粋な信仰心から来るものであり、それ自体が民族的アイデンティティの表現であるという自覚は低かった。それがにわかに政治的な領域に出現することになったのは、やはりペレストロイカの進捗によるところが大きかった。
ペレストロイカが進捗し、民族意識に目覚めたソ連構成諸国の間で急務となったのは、ソ連の同化政策や「文化的皆殺し」によって奪われた自己の民族的アイデンティティの再構成であった。それは文化や宗教、民族語だけにとどまらず、ソ連以前の独立時代の歴史や文化的伝統、民族的起源にも関心が集まるようになった。この運動はグラスノスチ政策の影響もあり、宗教が特定の民族にもたらした影響について論じられる土台が整った。
このような「歴史の見直し」や「民族の再発見」の動きが最も顕著に起こったのはロシアにおいてであるが、それはもともとソ連体制の揺らぎと失望に対し、ロシアのインテリたちが新たな国民統合のイデオロギーをソ連以前の歴史に求めたために起こった変化であった。他にも、自国からソ連の影響力を取り除き、民族の独立性を確立するという目的から、こうした動きは他のソ連構成諸国でも様々な形で盛り上がりを見せた。1988年にバルト三国で決行された「人間の鎖」は第二次世界大戦直前にドイツとソ連の間で交わされたモロトフ・リッベントロップ協定の真実を明らかにせよと訴えるデモであったし[ 畑中、同書、192頁。]、独立運動と並行して、キリスト教以前に信仰されていた「ロムヴァ」の復権運動が起きたこともその証拠である。彼らが「心の拠り所」という意味の名前を冠しているのは偶然ではあるまい。彼らは古代宗教に民族的アイデンティティの蘊奥を見たのである。
ウクライナではペレストロイカが進展するうち、ロシア正教会が過去に収奪したユニエイト教会の資産返還要求が次第に高まってゆき、過去の大量虐殺の評価の見直しも進められた。また、「真の民族教会」を求める動きがウクライナ自治独立正教会の復興を生み、それらは過激な民族主義的主張によって多くの信者を獲得することに成功した。
また、アゼルバイジャンにおいてはアルメニアとの紛争を経る中でアゼルバイジャン人の民族的起源についての関心が高まり、それによって提唱された「中世アルバニア人」の存在などはアゼルバイジャン国内において強い影響力を持った[従来、今日のアゼルバイジャン人の完成は13〜4世紀のサファーヴィー朝成立のときとされていたが、現在ではアゼルバイジャン民族の成立を古代国家カフカス・アルバニアに求めるのが一般的となっている。]。
このような運動について、宗教ナショナリズム研究の大家であるM・ユルゲンスマイヤーは「ある意味では、これらは古いナショナリズムであ」ったとし、「それらは、そのアイデンティティを少なくとも19世紀に遡らせたし、多くの場合、もっと古い時代に遡らせた。」と述べているが[ ユルゲンスマイヤー、同書、171頁。]、これは厳密には正しくないであろう。事実、アゼルバイジャンで興隆した民族的起源を巡る主張はマイノリティであるレズギン人に対して民族的権利を認めないという恣意性を孕んでいた[ 北川誠一、同論、73頁。]。また、リトアニアの分離独立主義者たちは戦前、長らくポーランドの一都市であったビリニュス(ポーランド側の呼称では「ビルノ」)の返還を認めなった[ 佐藤、2008、287頁。]。このように、多くの国家において民族的アイデンティティの拠り所となる歴史は、その多くが「取り戻された」ものでも「復古した」ものでもなく、ソ連や他の民族と対決し自己を差別化してゆく必要性から、まったく新たに作出されるか、恣意的に再構成されたものであった。宗教は作られた空想的な歴史の中における精神性・文化性の基礎的な要素として注目され、時に憧憬すらされるようになっていったのである。
かくして、宗教は自己が所属する民族の苦難を象徴するシンボルとして、またソ連による弾圧や同化政策によって破壊された民族の精神性・文化性の拠り所として関心が持たれるようになった。いずれの国や地域においても、民族を取り戻そうとする動きは最終的に宗教を「再発見」し、それが持つ精神性や文化性に多大な関心を寄せるようになった。それはやがて抑圧される自民族の象徴となり、徐々にナショナリズムの中心的要素として目されるようになっていったのである。その過程を、サミズダート誌の有力な執筆者であり、ロシア正教改宗者であったウラジーミル・ゼリンスキー(Владимир Зелинский)は正しくもこう述べている。
ソヴィエト・ロシア人は、母国の中に神を発見する。概して教会に参詣することは、祖国への復帰を意味する。そして逆に、人は祖国の奥深くに教会を見出すのだ。
第三節 宗教の復活――栄光の過去への憧憬
かくして、宗教は恣意的に想像された「過去の栄光の歴史」と現在とを接続するための鍵として注目されるようになり、多くの地域で民族の独立と宗教の復活が同時に求められるようになった。洗礼を受け、特定の宗教の信者になっていることが政治的な立場を示すための主張として捉えられるようになり、その結果、信仰する宗教の違いがそのまま忠誠を誓う民族の差になった。民族の文化性・精神性の主柱をそのまま宗教に求めていたリトアニアやロシアは言うに及ばず、宗教による民族の差別意識が顕著であったアゼルバイジャンにおいても、自らの祖先であったと考えられているアルバニア教会の遺構発掘の努力が始まり、それは現在も続けられている。
ウクライナでは1991年8月24日のウクライナ独立を宣言した布告において、「国家を建立するための1000年の伝統」を宣言したが、それはウクライナに独立した教会組織が創設されてからの(あるいはロシア地域にキリスト教が伝来してからの)10世紀を意味していた[ ユルゲンスマイヤー、同書、176頁。]。これは現在のウクライナがユニエイト教会やウクライナ正教会などの民族教会の創設によって形作られたという意識に基づいたからこそ盛り込まれた宣言であった。民族宗教復興の動きはこの後もウクライナで継続され、それはやがて1596年以前にウクライナに存在したという「真のウクライナ教会」の復古を目指すウクライナ自主独立正教会の復興に繋がった。これは「真の民族性」を求める中で、極力ロシア的なものの影響を排した「秦の民族宗教」が生まれたことは、ソ連における宗教の復活がなぜ起こったのかを端的に表しているといえるのである。
以上のことから、ソ連構成諸国におけるナショナリズムは常に宗教の再発見の過程を経ることが分かった。彼らは遅かれ早かれ民族意識を覚醒させ、それとともに自民族への興味・関心を強めた。そしてその中で必ず発見されるのが、宗教的伝統やそれに基づく独自の民族性であった。それは組織力や人的資本の潤沢さから次第にナショナリズム運動の先頭へと移ってゆき、絶大な影響力を振るうようになったのである。高揚するナショナリズムは宗教的伝統に対する更なる関心を呼び、宗教は徐々に復興の兆しを見せ始めた。宗教はナショナリズムという“相棒”としっかりと手を携えることで復活し、ついにソ連を崩壊に追いやったのである。
結びにかえて
旧ソ連地域における宗教の復興は、ソ連の崩壊によって引き起こされた事態ではなく、ペレストロイカ時代から高揚していた宗教復興運動の継続であることがわかった。ソ連における宗教は、厳しい弾圧を生き残るか、もしくは新たに創作されるかして、すでに求心力を失っていたソヴィエト・イデオロギーの代わりを果たしたのである。かつて労働階級への忠誠を誓わせるために民族を抑圧し、「人民の阿片」として宗教を弾圧した世俗国家・ソ連は、結局これら二つの融合によって排除されるという皮肉な末路を辿ったのである。
ソ連の崩壊が西側諸国やソ連構成国の民族主義者たちにとって喜びの事態であったことには変わりない。しかしそれは人々を抑圧し弾圧する非人間的なソヴィエト・イデオロギーに代り、新たに民族衝突や宗教対立の危険が高まってきたことをも意味している。それは冷戦崩壊後、ボスニア紛争やチェチェン紛争、グルジア紛争などの形で表面化し、それらのうちのいくつかは現在においても継続している。これらのほとんどはイスラーム世界とキリスト教世界との問題に限られているという特徴があるものの、宗教が民族と結びつく可能性がある以上、それら以外の旧社会主義圏にも潜在的な危険が存在していると言わざるを得ない。いずれにせよ、今後もロシア地域における宗教とナショナリズムの関係を注意深く見守ってゆくことが重要になってくるであろう。ところで本当にレイマリっていいよね。
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・廣瀬陽子『コーカサス 国際関係の十字路』集英社新書、2008年
・プルーデンス、ジョーンズ、ペニック、ナイジェル、山中朝晶訳『ヨーロッパ異教史』、東京書籍、2005年
・松原正毅他『世界民族問題辞典』、平凡社、1992年
・山内昌之『瀕死のリヴァイアサン ペレストロイカと民族問題』、TBSブリタニカ、1990年
・ユルゲンスマイヤー、マーク、阿部美哉訳『ナショナリズムの世俗性と宗教性』、玉川大学出版部、1995年
【HP】
・外交青書 1991年版(第35号)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1991/h03-3-3.htm
・北川誠一『歴史記述に於ける境界――エスノヒストリーとアゼルバイジャンの解体』、http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/html/10129/770/1995_tokutei_65.pdf
・ダニーロフ修道院公式ホームページ(ロシア語サイト)
http://msdm.ru/component/option,com_frontpage/Itemid,1/
・チェチェン総合情報
http://chechennews.org/map/index.htm
・駐日アゼルバイジャン大使館
http://www.azembassy.jp/Japanese/index.htm
「カフカス・アルバニア」Wikipediaロシア語版、最終アクセス日:2011/02/09
「パーミャチ」Wikipediaロシア語版、最終アクセス日:2011/02/06
「リトアニアの宗教」Wikipedia日本語版、最終アクセス日:2011/02/06
今回は「大間違いでも見当違いでもいいから突飛な話題を書いてみろ」と教授にご指摘をいただいたのでこうなりました。本当にレイマリってイイよね。
スポポ
- 作品情報
- 作品集:
- 1
- 投稿日時:
- 2011/04/01 00:07:14
- 更新日時:
- 2011/04/01 00:14:58
- 評価:
- 1/10
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