「藍様、藍様っ!」
「ああ、橙! よく来たね」
駆け寄ってきて藍の胸に飛び込む橙。
その橙を温かい笑顔で受け止める藍。
それを少し離れたところから眺める私。
「八雲一家」などといわれる私たちの、それが定位置だった。
「よーしよしよしよしっ!」
「きゃはははっ、藍様、くすぐったいですよぉっ」
というか藍、あの黒猫に甘すぎない? ゲロ甘じゃない?
なにあの顔。もはやとろけきったチーズでしょ。黒猫のチーズフォンデュかしら。
仮にも八雲の式とあろうものが……。
「あっ、紫様も! こんにちはっ!」
笑顔を向けてくる式の式にそんな内心をさらけ出すわけにもいかず、口元をそっと扇で覆う。
「ええ、こんにちは。相変わらず元気いっぱいね」
そして、当たり障りのない挨拶を返してあげるのだった。
お山に暮らしているという黒猫は、たまにこうして我が家へ遊びにやってくる。
藍に言わせれば「定例報告をさせるため」とのことだけれど、どう見ても可愛がっているだけのようにしか思えない。猫可愛がりというやつだ。猫だけに。
時おり藍には式への教育というものを説いて聞かせるものの、「大丈夫ですよ、お任せください」と受け流されるだけで、馬耳東風――いや、狐耳東風といった様子だ。
そんなにもあの黒猫が可愛いか、と思うが、自分を振り返ると強くも言えない。
そう、可愛いのだ。自分の式というやつは。
遊びもとい定例報告に来た黒猫は、藍が自ら腕を振るった「満漢全席☆フルコース」とやらを存分に堪能したようで、今では寝室で眠りこけている。
食後に眠そうにうとうとしていたのを、藍が歯磨きを命じ、それからおぶって寝室まで運んでいってやったのだ。とんでもないサービスである。一流ホテルでもそこまでは行き届いていないだろう。
数日前、藍が人里の油揚げを買い占めてきたときにはぎょっとしたが、こうして自らの式に振る舞うためだったとわかり、かなり呆れたものだ。
「紫様、片付けが終わりました」
「そう」
「はい、お茶です。熱々なのでお気をつけください」
「ん、ありがと」
夕餉のあと、黒猫の面倒を見たり食器を片付けたりしていた藍が、ようやく居間に戻ってきた。
熱めのほうじ茶と、ゴマの醤油おせんべい。やや堅め。全て私のオーダー通り。
澄まし顔で自らもお茶をすする藍を見ていると、ひとこと言ってやりたくなった。
「……ちょっとあの娘を甘やかしすぎではなくて?」
藍はこちらに顔を向け、スッと瞳を細める。
そして、喉の奥で低く笑った。
「いやはや、そうかも知れませんね。どうにも橙を見ていると、自制がききにくくなると言いますか。ただ、良いこともあるのですよ」
「ふぅん?」
「自らも式をもったことで、紫様がどれだけ私を想ってくださっているのかが実感できました」
屈託のない笑顔を見せてくる藍。そうだ、藍はこういうこと言う。
三国を傾けた九尾の魅力とは、決してその美貌のみにあったわけではない。恐ろしいまでの人誑し。心の隙間に入り込む弁舌こそが、彼女を大妖たらしめた。外界で言えば、キャバクラでNo.1になれそうな感じだ。いや、どちらかと言うとホストクラブか。
が、式の主としては、そのようなお追従にホイホイ乗ってはいられない。ピシリと言ってやろう。
「お黙りなさい。あなたがあの式を大切に想うのはわかるけれど、それが私と貴女との関係にそのまま当てはまるわけではないのだから。調子に乗らないことね」
「そう、ですね。主よ、出過ぎた言葉でした。申しわけのう存じます」
心なしか耳を項垂れるようにして、ぺしょりとなる藍。
それを見ると、謝りながら彼女の尻尾をもふもふしたくなる衝動に駆られるが、私は堪えた。
この胸に刺さった柔らかな棘が、いつだって私を冷静にさせてくれるのだ。
黒猫の寝顔を眺めていたいから、と藍が早々に居間を出ていったので、今夜は月明かりを肴に酒杯を傾けることにした。
月下独酌。寄り添ってくれるのは、ただ己が影のみである。
「……ふぅ」
別にあの娘が悪いというわけではないけれども、こんな夜はどこか言い表し難い感情が酒杯にさざなみを立てる。
“藍と式との関係が、私と藍との関係にそのまま当てはまるわけではない”
これは事実だ。
藍が式を想うように、私は藍を想っているわけではない――ということではなく。
あの式が藍へ親愛を寄せるような形で、藍は私に親愛を寄せてくれているわけではない、という意味である。
式神という立場において、藍と黒猫には明確な違いがある。妖としての成熟度だ。
黒猫は若く、未熟である。それに対し、藍は私が式とした時点で相応の格を有する大妖だった。それなりのプライドもあったことだろう。
そのような相手を式として配下に置くには、強固な計算式――すなわち「わからせ」が必要となる。言うなれば、洗脳レベルの。
式が落ちても黒猫は変わらず藍を尊敬し、慕い続けるだろう。藍への黒猫の想いは、式が憑いていることによるものではないからだ。
ならば、藍は?
「……このお酒、ちょっとダメになっているかしらね」
影は何も応えてくれない。
あくる日も、黒猫は活気の塊のように屋敷内をたしたしと駆け回る。
駆け回るといってもそこはさすがに猫というべきか、午睡を妨げるような物音は立てない。私には空気の流れや震えで藍の式が動き回っているのがわかるが、うるさくしない限りは関知しないつもりでいる。
ほどなくして黒猫は、藍と共に庭のほうへ出ていったようだった。おそらくは修行と称したじゃれ合いだろう。藍は本当にそういうところが甘いというか、もっとこう、突き放せないものかと思う。
――貴女、九尾でしょ? 狡猾で狡知に長けた狐の妖なのよね? もうちょっと冷酷非情であってもおかしくないんじゃない? なんで自分の式に対して歳を重ねてからようやく産まれた愛娘に接するような感じになっているわけ?
などと言いたくなるが、藍がムスッとしたら困るのでぐっと堪える。
そのまましばらく落ち着かない気持ちのままで布団に包まっていたが、やがて庭のほうでの動きの気配が収まったのを感じた。じゃれ合いが終わったか、休憩か。そんなところだろう。
ふたりの様子が気になった、というわけでもないが、起き上がって覗きに行ってみることにした。
「ふぅー、ふぅー。……あっ、紫様ぁ!」
首元に手ぬぐいをかけた軽装の黒猫は、こちらを見るなりパッと笑顔になって手を振ってきた。
もちろん藍はそのようなことはしない。私が近付いているのが気配でわかっているだろうからだ。
黒猫とは対照的に汗ひとつ掻いていない藍は、私に一礼する。
「紫様、ちょうど休憩を入れようかというところでした。私は麦茶を取ってきますね、よく冷えたやつ」
「ええ」
いや、麦茶くらい自分の式に取って来させなさいよ、私ならそうする。
……と思ったが、考えてみるとあの娘はお客だ。藍が飲み物を用意するよう命じるのも道理に合わないかも知れない。
どこか冬の名残をはらんだ春暖の風。動いたあとの肌に心地良いのか、黒猫は目を閉じている。
見るともなしにその顔を眺めていると、ふと目を開けた彼女と視線が合った。跳ねるように駆け寄ってくる。そんな些細な動きに若さが感じられて、この娘は今、春を生きているのだと思った。
「紫様、紫様っ」
見上げるようにして黒猫が話しかけてきた。
つぶらな瞳が眩しく、とっさに目を逸らしそうになったが、それもまた感じが良くない。別にこの娘を憎く思っているわけではないのだ。
「どうしたの?」
「あの、えーっと」
言葉を探すかのようにその瞳が揺れる。
それから、口を開いた。
「――紫様っていいですよね。羨ましいなって、思ってるんです」
羨ましいというのは、私が強大な力をもっているからだろうか。それとも自らが尊敬する藍の、そのまた主だからか。
あるいは、こんな時間までのんびり寝ていやがって結構なご身分ですね羨ましいですわぁとでも言いたいのかこの小娘……っ!?
などと一瞬思いかけたが、さすがにそれは考えすぎか。
まあ、たぶん私の妖力とか、そのへんだろう。
そう解釈し、微笑みを返す。
「大丈夫よ、あなたも私みたいになれるわ、きっとね」
三千年後くらいには、という言葉は呑み込んでおく。
繰り返すけれど、別にこの娘に含むところがあるわけではないので。
「ゆ、紫様……! 私、頑張りますっ!!」
けれども彼女の笑顔は、ちょっぴり心に痛かった。
数日のあいだ我が家でさんざん遊び――修行をしていった黒猫は、小山のような風呂敷包みをお土産に背負わされて、元気いっぱいに帰っていった。
一定空間をぴょんぴょん跳ね回るスペルは、なるほど大層愛らしかったが、それをめちゃくちゃ褒めまくる藍を見ていると、現実に引き戻されてしまう。親馬鹿と馬鹿親の境界線上に藍はいた。
「いや、このように言うのもなんですが、あっという間でしたね」
黒猫を見送った藍は、しみじみとそんなことを言う。
「心配要らないわ。また顔を見せに来るまでの月日も、あっという間よ」
「なるほど、おっしゃる通りです」
一日千秋。待つ時間は長いともいわれるが、藍は言い返してくることもなく素直に頭を垂れる。
これが彼女の素の反応なのか、それとも式がそうさせているのか、私にはわからない。唯一、封じられた箱の中身を知る方法があるとすれば、式を一度落としてみることだ。
藍を式としてから十年後なら試すことができた。百年後でもできたと思う。
では、さらに年月を重ねた今なら?
「さてと、しばらくは橙の稽古に付き合うためお時間をいただいておりましたが、これよりまた紫様のご用命に従ってまいります」
藍はいつも通りの笑顔を向けてくる。
それゆえ、私も普段通りに返すのだ。
「ええ、よろしく頼むわね」
いつか訪れるであろう、式が離れた彼女の本心と向き合うその日から、目を逸らしながら。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
九尾の大妖、八雲藍。
彼女は――――ぶっちゃけ、紫のことが大好きであった……!
問題は、それが式の作用によるものではなく彼女自身の本心かということだが、藍にはわかっていた。
紛れもない本心である。
それを自覚できた切っ掛けは、紫の抱えていた寂寞にある、と藍は見ていた。
妖の力は精神の力。いかに強力な式とて、術者の精神が揺らげば隙も生まれるものだ。
『幻想郷縁起』にも纏められている、「一人一種族の妖怪」。そのひとりが八雲紫である。
同族をもたぬ彼女は、その孤独を埋めるために式を傍らへ置き――それが皮肉にも寂寥感の増幅という結果をもたらした。
式とは、術者の定めた理に則って稼働するもの。主が笑えと言えば笑うし、怒れと言えば怒る。苦言を呈せと命じればそうするし、膝枕で慰めろと命じれば躊躇なく膝を貸し与えるだろう。
これは傀儡、いわゆる操り人形の所作にほかならない。そのようにした相手と本心から通じ合うことができるのは、「人形遣い」と呼ばれる異能者のみである。
式神は、どこまで行っても友にはなり得ない。
そうしたことを百も承知で九尾を式としたはずの紫の心が、ある日揺らいだ。
それは、とある神社の先代巫女が亡くなった日であったかも知れないし、冥府に花開く妖の桜が湛えるものを知った日であったかも知れない。
ともあれ八雲紫の動揺が生んだ微細なバグが、九尾本来の意識を現へと引き戻したのだった。
当初、九尾は紫をブチ殺そうかと考えた。相手は油断している。食事に毒でも仕込めばイチコロだろう。
なにせ非想非非想天よりも高い、九尾の狐のプライドである。小間使いのように使役されるのは屈辱でしかなかった。
が、そこで思い留まれるのが長年を生きた妖狐たる所以。九尾は冷静になって考えた。ここで紫を弑したとして、自分にどのような益があるのか、と。
自分が紫の式として動いていることは、この郷の中でも方方に知られている。今さら紫を消したとて、その事実までもが消えるわけではない。ただ裏切り者のイメージが広まるだけだろう。それどころか、簡単に下剋上を許すような弱者に従わされていたと思われて、かえって侮られる虞れすらある。
あれこれ考えを巡らせた末、九尾が選んだのは引き続き「藍」として、状況を観察することだった。面従腹背は狐のお家芸である。
そうして表面上は変わらぬ日々を過ごす中で、九尾は気付く。主が持て余す心の隙間に。
一定の交友関係は紫にもあった。しかし、それらはある種の緊張をはらむものであり、対抗心めいたものが介在していた。そこで、弱みを見せられる相手として紫は式を欲し――式であるがゆえの不信と寂寥に囚われてしまったというわけである。
そのことを察した九尾は思った。
(――ふむ、これは……いいな!)
圧倒的強者であるはずの相手が、胸中に寂しさを抱えている。まるで親とはぐれた幼子のように。
時おり僅かに垣間見せる紫の不安げな瞳の揺らぎは、九尾のツボを的確に突いた。それは萌えであり、彼女を推しとさせるのに十分なものだったのである。強さの中の弱さを、九尾は愛おしんだ。
それからというもの、藍はいっそう甲斐甲斐しく紫に尽くすようになった。
掃除に炊事に洗濯。紫が飲み物を欲すれば直ちに取ってきて、眠たいと言えば抱きかかえて寝室へと連れて行く。結界の管理代行から着替えの手伝いに至るまで、なんでも行った。
ひとえに紫の心をたらし込み、自分に依存させるためだ。
藍が優しく接すれば接するほどに、紫は九尾の本心を覗こうとはしなくなるだろう。表面上は支障なく動いている式をわざわざチェックする必要性などない。そこに致命的なバグが紛れ込んでいようとも。
こうして九尾――否、藍は主の心の隙間という安地を見出したのだった。
無論、唯々諾々と命令に従うだけではない。
藍による会心の一手は、黒猫の妖を自らの式としたことだ。「橙」というその式と戯れていると、紫はほんの少しだけ不機嫌そうになる。
そう、ほんの少しだけ。されど主の眼が緑色に陰る様子は、藍の心を高揚させた。
ふたりきりで稽古を付けてやっているときに、橙が言ったことがある。
『藍様って、紫様のこと大好きですよね』
『おや、どうしてそう思う?』
『だって、私と話しているときでも、たまに紫様のほうを見るじゃないですか。とても嬉しそうな顔で』
『……ふむ。ところで橙、そのことを紫様に話したりは?』
『いえ、していませんけど?』
『そうか、ならいいんだ。いいかい、それを紫様に言ってはならないよ。ああ見えてシャイな方だから』
そして藍は、念のために橙の式に禁則事項として上書きをしておいた。
紫には不安でいてほしいし、橙と話しているときには少しだけ不機嫌になっていてほしい。そのためには、第三者から見た率直な印象など余計なものでしかないのだ。
いつか紫が九尾の本心を知りたいという誘惑に抗えなくなり、自分に憑いた式を落とす日が来るかも知れない。
そのときにはどのように反応してやろうか、と藍は考える。
ありったけの呪詛を吐き出すのもいい。――極上の絶望を見せてくれるだろう。
「貴女が寂しがっていたのはわかっていた」と打ち明けてもいい。――とびきりの羞恥を見せてくれるだろう。
それを夢想するだけで、この先、幾千年でも仕えられる。
そう思い、八雲藍は密やかに笑うのだった。
~完~