深いまどろみから抜け出した聖者は、ベッドから起き上がり大きく伸びをすると、カーテンと窓を開け、春風とともに差し込む陽光を浴びた。冬の名残を示す風は、彼女に四季の連なりを伝えた。素晴らしい朝だ。聖者は「おはようございます」と誰に言うでもなく口にした。
あくびを噛み殺しながら朝食を準備する。ぼんやりと薄霧がかかる意識を制し、米を一日分炊く。その間、着替えや洗顔をしながら、おぼろげな意識が覚醒するのを待った。
みそ汁と炊けた米をそれぞれ椀に盛り、先日庭でとれたキュウリの糠漬けを切って皿に並べる。そして両手を合わせて祈りをささげる。感謝、あるいは敬畏、食物に向き合うという原初の営みをおろそかにせぬよう戒めていた。
「いただきます」
みそ汁が胃に落ちる瞬間、彼女は充足な目覚めを実感するのであった。
朝食を終えると聖者は外へ出て、小さな庭で栽培している野菜の様子を見る。先日植え付けを終えたトマトの苗に水を与える。自給自足できるほどの量ではないが、わずかにでも実を結ぶとこの上ない喜びが湧き上がってくる。聖者は農耕の尊さを小さな庭で知るのである。
庭の手入れのあと、炊きあがった米を握り飯にして、聖者は巡礼に向かう。神社や寺、あるいは教会へ足を運び、その宗派に合わせた作法に従い、手を合わせる。あらゆる神を受け入れ、同等に畏怖する。それを行為によって示していた。聖者とてこの無宗教的な巡礼が必ずしも善であるとは思わなかった。しかしながら、迷いはなかった。すべての神は等しく素晴らしいものである。博麗神社に行った際、霊夢が「うちに拝む神なんていないわよ」と溢したことがあった。聖者はこう答えた。
「構いません。それでも在るものに変わりはありませんから」
その言葉はあまりに達観的で、慈悲すらこもっていた。霊夢は口をつぐむしかなかった。
聖者の午前の業はそれで終わる。日が高く昇ったところで、彼女は場所を選ばず腰を下ろし、握り飯だけの軽い昼食を摂る。そして里の外れにある公民館に足を運ぶのである。
聖者は午後から公民館のホールで講演を行う。内容は様々で、宗教や歴史がらみの事柄から、西洋哲学はたまた異文化交流まで幅広く、投書があった内容から厳選したり、あるいは宗教家の依頼で教えを広めたりしていた。彼女に思想はなかった。知識であれば善悪問わず幅広く受け入れ、わかりやすくかみ砕き、喧伝する。それだけである。ゆえに専門家に比べれば浅い理解に留まっているのだが、その分平等であった。これは彼女がかつてアナーキストであり、特定の宗派に属さないことを信条としていたころに培ってきた哲学であった。あらゆるものに感情を挟まず、しかし情熱をもって深く掘り下げる。真理の淵が見えなければ、反逆さえままならないのである。
この集会は開かれたものであり、参加は自由である。一部の宗教家が疎ましく思うことこそあれ、基本的に他の宗派と競合するものではなかった。
本日は七名程度であろうか、昼八つになったので聖者は語り始めた。参加者たちは厳かに聞いていた。本日の内容は世界中で起きた革命についてである。聖者の得意分野であり、本日は一層語りに熱が入っていた。しかし、決して結論を急がず、問題提起に留めている。それが彼女の巧みなところであった。
講演をつつましく終えると、聖者はいくらかの講演費を参加者より頂戴する。中には弟子を名乗り過分な金銭を差し出す者さえいたが、彼らの施しを聖者は必要以上には受け取らなかった。お布施を皮切りに参加者同士の弁論が始まり、今度は聖者が耳を傾ける。論議には加わらず、ただその場に渦巻いている熱を肌に受けるのだ。彼らの弁論は恋人と過ごす瞬間のように濃密で、うめき声をあげながら分娩台に居座る時よりも長く、聖者が立ち去った後も決して鳴りやまないのであった。
この後、聖者は里の本屋に寄り、一冊の新書を購入したのち、家に戻る。そして昼同様に簡素な夕食を摂り、行水、洗濯などを済ませ、それから書斎にこもる。この頃、外はすでに暗い。灯油ランプのあかりが消えるまで本を読み、栞の先は夢の中へと持ち込むのであった。
聖者のこのような生活は、落伍者の風体を装っていた以前からは考えられないものだった。清貧かつ贅沢な暮らしぶりは、誰に伝えるでもなく広まった。一部では妖怪らしくないと糾弾されたが、彼女は決してやめなかった。次第に聖者の講演は流行りとなり、今では予約必須の大繁盛である。しかし、聖者は栄華の道をも拒んだ。努めてつつましく、極めて凡庸な生活を、七十二侯晴れ雨問わず、また飽きもせず続けた。
我慢ならぬは唯一無二の親友である針妙丸である。聖者の変貌ぶりをはじめから見ていた彼女は、お得意の掌返しがいつ始まるのかを心待ちにしていた。講演会を開くという申し出に協力し、参加者を集ったのも最初は針妙丸の役目であった。しかし数が増えるばかりで何も変わらぬ。現状にうんざりしていた。
あるよく晴れた小春日和、とうとう針妙丸は聖者の家に乗り込んで啖呵を切った。
「せーじゃ、せーじゃ! 昔のお前はギラギラしていたじゃないか。堕落の果てで私のお椀に注いだ酒を飲み、浮世を嘆いた仲ではないか。誓いはいずこへ消えたのだ。とうとう私を捨てたのか。せーじゃ! お前はお前をやめるというのか」
聖者は一瞬ぎょっとしたが、すぐに慈母の笑みを携えてこう返した。
「私は私です。未来永劫、天邪鬼な私ですわ」
それは悟りでもあり、また懺悔のようでもあった。深く考えた者のみが浮かべる、受容の表情、だが針妙丸は納得いかぬ。熱にほだされ針先を天に突き立てながら叫んだ。
「鬼に騙されているんだ。堕落こそが平和の礎だ。そして革命だけがお前をお前足らしめるんだ! せーじゃ! お前は正しくあってはならぬ、総括し他者を批判せよ。善に唾を吐きかけ、天に中指を突き立て、宴を乱し、どこまでも堕ちなくちゃいけないんだ!」
「ええ、あなたの言う通りです。私には鬼が宿っております。邪な鬼が。ゆえに私は己を律し、祈るのです。それが道理というものでございましょう」
「まだ世迷い事を。ええい貴様の心に潜む鬼を成敗してくれる。神妙にせい」
針妙丸は針を構え、聖者の元へと距離を詰める。聖者は笑みを浮かべ、両手を合わせていた。それを見るだけで吐き気がした。
「ああああああああ!」獣のような咆哮をあげ己を奮い立たせた針妙丸は、その手に持った針を深々と聖者の胸に突き刺した。細い針、されども骨を滑り、肉を突き破り、その先端は急所へと達した。聖者は変わらぬ笑みのままその場に倒れ伏した。
手に残る痺れ、肉を突き刺した確かな殺意の感覚、針妙丸は刹那にそれを理解した。
「あ、あっ、刺しちゃった、せーじゃを」
動揺、胸の内に去来するざわめきはすぐに後悔へと形を変え、彼女の理性を呼び起こした。転身は異常なまでに早かった。
「医者、医者に連れてかなくちゃ」
針妙丸はその小さな体躯で聖者を担ぎ上げ、無我夢中で走った。心音の止まった静かな体が、重くのしかかる。それでも足は動き続けた。強い願いが小槌に呼応し、彼女の力を底上げしていた。
小槌の加護を受けた針妙丸は、韋駄天の速さで病院にたどり着いた。医者は極めて冷静に聖者を受け入れ、処置を施した。聖者は心臓マッサージ、電気ショックにより息を吹き返した。最近は人工呼吸などしないのだ。心音と呼吸を確認した医者は、胸に刺さった異物の除去に取り掛かった。卓越した縫合術により、傷跡は残らなかった。
かくして聖者は死の淵からよみがえった。運び込まれてから目を覚ますまで半刻とかからなかった。医者が説明するより先に針妙丸は涙を流しながら聖者に謝った。
「ああごめん、ごめんよせーじゃ、私が間違ってた、ごめんよぉ」
「あなたが罪の意識に苛まれる必要はありません。鬼は死んだのですもの」
聖者は笑った。針妙丸はようやくその笑みの持つ暖かさを、正面から受け取ることができた。
聖者はとうとう神格を得た。復活こそが神の証明であり、儀式である。かの事件は友情譚として語られ、聖者の懐の広さを示す物語となった。ふたりは時の人となり、あらゆるメディアが彼女らを求めた。針妙丸は喝采で迎えられた結末に恥じらいと懺悔で臨んだが、聖者はそれらには応じず、粛々と同じ生活を営んでいた。弟子入り希望者は増え、経典や教義すら存在しない新たなる宗教に発展しかけたが、それら俗世に関わらず、聖者は何もしないを続けていた。
一連のムーブメントに占星術学者である飯綱丸氏が見解を示した。
「彼女は今や星となった。同じ軌道を日の光に寄り添い、公転する星なのだ。それはいうなればレボリューション、つまりは革命を起こし続けていることにほかならぬ。我々はそれを見、導きを受け取るばかりだ。彼女はなにも施しはしない。光り、そして巡るのだ」
鶴声は山を越え里中に響き渡る。聖者の革命的生活様式は、スーパースターの輝きを幻視させられるよう操作されたのである。飯綱丸は聖者を利用しようと企んでいた。聖者を定義し、パイオニアとしてあらゆる権利を得る。占星術師は大胆に空を敬い、心の中でほくそえみながら星さえ支配してしまうのである。実を結ぶのは早かった。彼女の配下が聖者に接触し、取材を敢行したのだ。
そこまでしてようやく聖者は声明を発した。
「たくさん本を読みました。どれも素敵な経験でしたが、血肉に変えるのは容易ではございません。できることから少しずつ、もちろん辛い時もあります。抑制は難しい。おてんとうさまが見ている。そう戒めるしかありません。私は普通に過ごしているだけです。ですがその普通が難しいことはよく知っているつもりです――」
つらつらと言葉を並べる。そこには普遍的な、真理の断片のほのめかしがあるばかりで、それ以外は謙虚な生活のみが語られていた。
だが聖者の言葉は文字となり、本に姿を変えて出版された。たちどころにすべての本屋に出回った。本は飛ぶように売れ、弟子たちは歓喜に打ち震え、聖者は相変わらずの微笑みを浮かべ、飯綱丸はほくそえんだ。三者三葉の笑いが波紋のように広がる。言霊が宿った本は分霊として御神体となった。一家に一冊聖者の本。それが当たり前になるまで、幾ばくも無いだろう。
さてまたしても針妙丸は苦悩していた。彼女は以前浴びた不本意な喝采の余韻からすでに解き放たれていた。祝福したいが胸のつかえは取れない。
聖者はやったのだ。徒然なる日々を繰り返し、堕落の誘惑を断ち切ってレボリューションを続けていたのだ。彼女のひたむきな願いはついに叶った。彼女は大スターとなることで、天邪鬼の本懐を成し遂げたのだ。
しかし、しかしだ。針妙丸は納得できなかった。
(あいつを変えるのは私、私でなければならないのだ。本など、活字の群衆など、そのような愛すら持たぬ無象にたぶらかされたなど、信じられるはずもない。私でなければならなかったのだ。ちくしょう、ちくしょう)
本を手に取る。表紙に映った聖者は髪が伸び、イエスに似た顔になっていた。ふざけるな。
針妙丸は本を買った。小さい身体で親友の本を持ち上げレジへ持ってくる彼女の姿、それは本屋の店員には逞しく、そして健気に映った。あくまで敬虔な友人を装って本を買ったのだ。
帰り道、針妙丸は表紙を見ながら打ち震える。あきらめきれぬこの情念、恋慕にも似たその思い、洪水のような怒りはどうしようもなかった。
(せめてせめてあいつが、この暴力を許しませんように)
ありったけの祈りを込めて、針妙丸は親友の顔が映し出された本をびりびりに破いた。
あくびを噛み殺しながら朝食を準備する。ぼんやりと薄霧がかかる意識を制し、米を一日分炊く。その間、着替えや洗顔をしながら、おぼろげな意識が覚醒するのを待った。
みそ汁と炊けた米をそれぞれ椀に盛り、先日庭でとれたキュウリの糠漬けを切って皿に並べる。そして両手を合わせて祈りをささげる。感謝、あるいは敬畏、食物に向き合うという原初の営みをおろそかにせぬよう戒めていた。
「いただきます」
みそ汁が胃に落ちる瞬間、彼女は充足な目覚めを実感するのであった。
朝食を終えると聖者は外へ出て、小さな庭で栽培している野菜の様子を見る。先日植え付けを終えたトマトの苗に水を与える。自給自足できるほどの量ではないが、わずかにでも実を結ぶとこの上ない喜びが湧き上がってくる。聖者は農耕の尊さを小さな庭で知るのである。
庭の手入れのあと、炊きあがった米を握り飯にして、聖者は巡礼に向かう。神社や寺、あるいは教会へ足を運び、その宗派に合わせた作法に従い、手を合わせる。あらゆる神を受け入れ、同等に畏怖する。それを行為によって示していた。聖者とてこの無宗教的な巡礼が必ずしも善であるとは思わなかった。しかしながら、迷いはなかった。すべての神は等しく素晴らしいものである。博麗神社に行った際、霊夢が「うちに拝む神なんていないわよ」と溢したことがあった。聖者はこう答えた。
「構いません。それでも在るものに変わりはありませんから」
その言葉はあまりに達観的で、慈悲すらこもっていた。霊夢は口をつぐむしかなかった。
聖者の午前の業はそれで終わる。日が高く昇ったところで、彼女は場所を選ばず腰を下ろし、握り飯だけの軽い昼食を摂る。そして里の外れにある公民館に足を運ぶのである。
聖者は午後から公民館のホールで講演を行う。内容は様々で、宗教や歴史がらみの事柄から、西洋哲学はたまた異文化交流まで幅広く、投書があった内容から厳選したり、あるいは宗教家の依頼で教えを広めたりしていた。彼女に思想はなかった。知識であれば善悪問わず幅広く受け入れ、わかりやすくかみ砕き、喧伝する。それだけである。ゆえに専門家に比べれば浅い理解に留まっているのだが、その分平等であった。これは彼女がかつてアナーキストであり、特定の宗派に属さないことを信条としていたころに培ってきた哲学であった。あらゆるものに感情を挟まず、しかし情熱をもって深く掘り下げる。真理の淵が見えなければ、反逆さえままならないのである。
この集会は開かれたものであり、参加は自由である。一部の宗教家が疎ましく思うことこそあれ、基本的に他の宗派と競合するものではなかった。
本日は七名程度であろうか、昼八つになったので聖者は語り始めた。参加者たちは厳かに聞いていた。本日の内容は世界中で起きた革命についてである。聖者の得意分野であり、本日は一層語りに熱が入っていた。しかし、決して結論を急がず、問題提起に留めている。それが彼女の巧みなところであった。
講演をつつましく終えると、聖者はいくらかの講演費を参加者より頂戴する。中には弟子を名乗り過分な金銭を差し出す者さえいたが、彼らの施しを聖者は必要以上には受け取らなかった。お布施を皮切りに参加者同士の弁論が始まり、今度は聖者が耳を傾ける。論議には加わらず、ただその場に渦巻いている熱を肌に受けるのだ。彼らの弁論は恋人と過ごす瞬間のように濃密で、うめき声をあげながら分娩台に居座る時よりも長く、聖者が立ち去った後も決して鳴りやまないのであった。
この後、聖者は里の本屋に寄り、一冊の新書を購入したのち、家に戻る。そして昼同様に簡素な夕食を摂り、行水、洗濯などを済ませ、それから書斎にこもる。この頃、外はすでに暗い。灯油ランプのあかりが消えるまで本を読み、栞の先は夢の中へと持ち込むのであった。
聖者のこのような生活は、落伍者の風体を装っていた以前からは考えられないものだった。清貧かつ贅沢な暮らしぶりは、誰に伝えるでもなく広まった。一部では妖怪らしくないと糾弾されたが、彼女は決してやめなかった。次第に聖者の講演は流行りとなり、今では予約必須の大繁盛である。しかし、聖者は栄華の道をも拒んだ。努めてつつましく、極めて凡庸な生活を、七十二侯晴れ雨問わず、また飽きもせず続けた。
我慢ならぬは唯一無二の親友である針妙丸である。聖者の変貌ぶりをはじめから見ていた彼女は、お得意の掌返しがいつ始まるのかを心待ちにしていた。講演会を開くという申し出に協力し、参加者を集ったのも最初は針妙丸の役目であった。しかし数が増えるばかりで何も変わらぬ。現状にうんざりしていた。
あるよく晴れた小春日和、とうとう針妙丸は聖者の家に乗り込んで啖呵を切った。
「せーじゃ、せーじゃ! 昔のお前はギラギラしていたじゃないか。堕落の果てで私のお椀に注いだ酒を飲み、浮世を嘆いた仲ではないか。誓いはいずこへ消えたのだ。とうとう私を捨てたのか。せーじゃ! お前はお前をやめるというのか」
聖者は一瞬ぎょっとしたが、すぐに慈母の笑みを携えてこう返した。
「私は私です。未来永劫、天邪鬼な私ですわ」
それは悟りでもあり、また懺悔のようでもあった。深く考えた者のみが浮かべる、受容の表情、だが針妙丸は納得いかぬ。熱にほだされ針先を天に突き立てながら叫んだ。
「鬼に騙されているんだ。堕落こそが平和の礎だ。そして革命だけがお前をお前足らしめるんだ! せーじゃ! お前は正しくあってはならぬ、総括し他者を批判せよ。善に唾を吐きかけ、天に中指を突き立て、宴を乱し、どこまでも堕ちなくちゃいけないんだ!」
「ええ、あなたの言う通りです。私には鬼が宿っております。邪な鬼が。ゆえに私は己を律し、祈るのです。それが道理というものでございましょう」
「まだ世迷い事を。ええい貴様の心に潜む鬼を成敗してくれる。神妙にせい」
針妙丸は針を構え、聖者の元へと距離を詰める。聖者は笑みを浮かべ、両手を合わせていた。それを見るだけで吐き気がした。
「ああああああああ!」獣のような咆哮をあげ己を奮い立たせた針妙丸は、その手に持った針を深々と聖者の胸に突き刺した。細い針、されども骨を滑り、肉を突き破り、その先端は急所へと達した。聖者は変わらぬ笑みのままその場に倒れ伏した。
手に残る痺れ、肉を突き刺した確かな殺意の感覚、針妙丸は刹那にそれを理解した。
「あ、あっ、刺しちゃった、せーじゃを」
動揺、胸の内に去来するざわめきはすぐに後悔へと形を変え、彼女の理性を呼び起こした。転身は異常なまでに早かった。
「医者、医者に連れてかなくちゃ」
針妙丸はその小さな体躯で聖者を担ぎ上げ、無我夢中で走った。心音の止まった静かな体が、重くのしかかる。それでも足は動き続けた。強い願いが小槌に呼応し、彼女の力を底上げしていた。
小槌の加護を受けた針妙丸は、韋駄天の速さで病院にたどり着いた。医者は極めて冷静に聖者を受け入れ、処置を施した。聖者は心臓マッサージ、電気ショックにより息を吹き返した。最近は人工呼吸などしないのだ。心音と呼吸を確認した医者は、胸に刺さった異物の除去に取り掛かった。卓越した縫合術により、傷跡は残らなかった。
かくして聖者は死の淵からよみがえった。運び込まれてから目を覚ますまで半刻とかからなかった。医者が説明するより先に針妙丸は涙を流しながら聖者に謝った。
「ああごめん、ごめんよせーじゃ、私が間違ってた、ごめんよぉ」
「あなたが罪の意識に苛まれる必要はありません。鬼は死んだのですもの」
聖者は笑った。針妙丸はようやくその笑みの持つ暖かさを、正面から受け取ることができた。
聖者はとうとう神格を得た。復活こそが神の証明であり、儀式である。かの事件は友情譚として語られ、聖者の懐の広さを示す物語となった。ふたりは時の人となり、あらゆるメディアが彼女らを求めた。針妙丸は喝采で迎えられた結末に恥じらいと懺悔で臨んだが、聖者はそれらには応じず、粛々と同じ生活を営んでいた。弟子入り希望者は増え、経典や教義すら存在しない新たなる宗教に発展しかけたが、それら俗世に関わらず、聖者は何もしないを続けていた。
一連のムーブメントに占星術学者である飯綱丸氏が見解を示した。
「彼女は今や星となった。同じ軌道を日の光に寄り添い、公転する星なのだ。それはいうなればレボリューション、つまりは革命を起こし続けていることにほかならぬ。我々はそれを見、導きを受け取るばかりだ。彼女はなにも施しはしない。光り、そして巡るのだ」
鶴声は山を越え里中に響き渡る。聖者の革命的生活様式は、スーパースターの輝きを幻視させられるよう操作されたのである。飯綱丸は聖者を利用しようと企んでいた。聖者を定義し、パイオニアとしてあらゆる権利を得る。占星術師は大胆に空を敬い、心の中でほくそえみながら星さえ支配してしまうのである。実を結ぶのは早かった。彼女の配下が聖者に接触し、取材を敢行したのだ。
そこまでしてようやく聖者は声明を発した。
「たくさん本を読みました。どれも素敵な経験でしたが、血肉に変えるのは容易ではございません。できることから少しずつ、もちろん辛い時もあります。抑制は難しい。おてんとうさまが見ている。そう戒めるしかありません。私は普通に過ごしているだけです。ですがその普通が難しいことはよく知っているつもりです――」
つらつらと言葉を並べる。そこには普遍的な、真理の断片のほのめかしがあるばかりで、それ以外は謙虚な生活のみが語られていた。
だが聖者の言葉は文字となり、本に姿を変えて出版された。たちどころにすべての本屋に出回った。本は飛ぶように売れ、弟子たちは歓喜に打ち震え、聖者は相変わらずの微笑みを浮かべ、飯綱丸はほくそえんだ。三者三葉の笑いが波紋のように広がる。言霊が宿った本は分霊として御神体となった。一家に一冊聖者の本。それが当たり前になるまで、幾ばくも無いだろう。
さてまたしても針妙丸は苦悩していた。彼女は以前浴びた不本意な喝采の余韻からすでに解き放たれていた。祝福したいが胸のつかえは取れない。
聖者はやったのだ。徒然なる日々を繰り返し、堕落の誘惑を断ち切ってレボリューションを続けていたのだ。彼女のひたむきな願いはついに叶った。彼女は大スターとなることで、天邪鬼の本懐を成し遂げたのだ。
しかし、しかしだ。針妙丸は納得できなかった。
(あいつを変えるのは私、私でなければならないのだ。本など、活字の群衆など、そのような愛すら持たぬ無象にたぶらかされたなど、信じられるはずもない。私でなければならなかったのだ。ちくしょう、ちくしょう)
本を手に取る。表紙に映った聖者は髪が伸び、イエスに似た顔になっていた。ふざけるな。
針妙丸は本を買った。小さい身体で親友の本を持ち上げレジへ持ってくる彼女の姿、それは本屋の店員には逞しく、そして健気に映った。あくまで敬虔な友人を装って本を買ったのだ。
帰り道、針妙丸は表紙を見ながら打ち震える。あきらめきれぬこの情念、恋慕にも似たその思い、洪水のような怒りはどうしようもなかった。
(せめてせめてあいつが、この暴力を許しませんように)
ありったけの祈りを込めて、針妙丸は親友の顔が映し出された本をびりびりに破いた。