弥生の終わりを告げる春風が、手にする湯呑みへと花弁を運んでくる。
出涸らしのお茶も桜を添えれば風流なものだ。
縁側に腰掛ける霊夢は、湯呑みに目をやりながらそう思った。
風の訪れと共に感じられたのは、白黒魔女の気配。
春一番というわけでもないが、いつものように遊びに来たのだろう。
そう思いかけ、霊夢は首を傾げる。気配の主が姿を現さない。
「……魔理沙?」
怪訝に思い、声をかける。
そうすると、建物の角から見慣れた三角帽子がひょっこりと。
だが、そのまま半身だけを現し、魔理沙はこちらへ来ようとはしない。
「どうしたのよ、そんなとこで」
重ねて霊夢が呼ぶと、ようやく魔理沙は全身を現した。
その姿を見て、霊夢の口がぽかんと開く。
正確には、魔理沙の肉体の一部分を見て、だ。
「あ、あんた、それ……」
恐る恐るといった感じで霊夢が問う。
すると魔理沙は三角帽子を脱ぎ、気恥ずかしそうな顔で小さく頷いた。
「……は、生えちゃったんだ、ぜ?」
霊夢の手から湯呑みがポロリと転げ落ち、庭先に染みを作った。
千年の竹を揺らす風は、秋であろうと春であろうと変わらない。
それでも暖かくなり始めた初春の空気は穏やかで心地の良いものだった。
「お大事にー」
笑みを浮かべて診察室を出ていく七色の人形遣いに、いつもの習慣で声を掛け、違うか、と思い直す鈴仙。
なにせ彼女は患者ではない。永琳から怪しげな薬を融通してもらっているだけの関係だ。薬の名前は……そう、「胡蝶夢丸エクストラディスティニー」だったか。当初は効果も名前も、もっとシンプルだったはずだが。
薬には耐性というものがある。同じ薬を使い続けていれば効果は薄れ、より強力な成分でなければ効かなくなるのだ。
その点からすると、徐々に強い薬を求めるようになっている彼女はいささか心配ではあるのだが――。
「大丈夫でしょ」
あっけらかんと言うのは八意永琳。
この診療所の主であり、鈴仙の師匠にあたる薬師でもあるその人だ。
「あの娘が求めているのはあくまで自分の実験に用いる薬。研究は順調なようだし、そこらへんの分別はついているはずよ」
「はぁ……」
師匠がそう言うのなら間違いないのだろう。
もっとも、永琳は来客のひとりやふたりがついうっかり廃人やジャンキーになってしまったところで、「あら~」の一言で済ませてしまいそうな雰囲気もあったのだが。
「とりあえず、お茶を淹れますね。万年茶でいいですか」
「ん、それでお願い」
お茶を淹れつつ、鈴仙はぼんやりと物思いに耽る。
今日も朝から診療所にはひっきりなしに患者が顔を見せ、永琳は彼ら・彼女らを手際良く処置していた。これほど不便な場所にありながら、実力と評判だけで患者を呼び寄せる手腕は、いかほどのものか。
仮に鈴仙が腕を磨いて人里の中に診療所を開いたとして、これだけの妖怪や人間が訪れるとは思えない。
そう考えると、つい。
「はぁ~」
「あらウドンゲ、ため息を吐くと幸せが逃げるわよ。十年分くらい」
「じゅ、十年分もですかぁ!?」
「まあ、一瞬だけどね」
彼女ほど長く生きると、そういう感覚にもなるのかも知れなかった。
患者が途切れ、ふたりが診療室で一服していると、てゐ傘下のイナバが一羽、来客の存在を告げに来た。
永遠亭はだだっ広いがゆえ、全部屋に音が行き渡る呼び鈴などという便利な代物はない。だが、無駄に数だけは多い兎娘たちが伝令役を務めてくれる。患者の受付対応も来客連絡も担ってくれているので、地味に便利な存在だ。
先年、紅魔館の妖精メイドたちとお役立ち対決をしたところ、圧勝だったのだとか。
「はい、じゃあ診察室に来てもらって」
永琳が言うと、イナバはこくりと頷いてピャッと姿を消す。ほどなくして廊下がかすかに軋む音が聞こえてきた。
鈴仙は耳を動かす。足音は――ふたり分だろうか。病人とその付き添いがやって来るのはよくあることだ。
鈴仙がマスクを着けつつ診察室の入り口に目を向けていると、見知った紅リボンが現れた。黒髪の巫女である。彼女が訪れるとは珍しい。そう鈴仙が思っていると、どうやら霊夢は誰かの手を引いている様子。まあ、幼い子供など、診察を怖がって抵抗する患者も珍しくはない。
「ほら、早く観念しなさい」
霊夢の言い方は剣呑だが、いったい誰を連れているのだろうか。
鈴仙が疑問に思った瞬間、業を煮やしたのか、霊夢が思いっきり手を引っ張り、同行者の姿が露わとなった。
霧雨魔理沙。
鈴仙の顔なじみでもある彼女を見て、鈴仙は思わず手にしていた湯呑みを取り落としそうになった。
「あら、霧雨魔理沙さん。随分と立派なのが生えたわねぇ」
暢気な声に、鈴仙は永琳のほうへ目をやる。
回転椅子に座したまま身体ごと魔理沙のほうを向いた永琳は、いかにも平常通りといった顔をしていた。
動揺を隠せなかった自分とは大違いだ。鈴仙は内心恥じ入る。たとえ重病だとしても、大怪我だとしても、医師が慌てた様子を見せれば患者はどう思うか。こういうところが自分の未熟な点なのだろう、と。
それにしても。
永琳が口にしたように、立派なものだ。
魔理沙の額から生えた――見事な一本角は。
「と、取れるんだよなっ!? なっ?」
永琳の反応が自然なものだったためか、俄然魔理沙は勢いづいた様子になった。
身を乗り出すようにして、真剣な目で見てくる。
一本角。
そのように形容すると、かの星熊童子を彷彿とさせるものだが、鈴仙が見た印象ではかなり異なる。
勇儀の角は赤く、黄色の星まで浮かび上がっていて、明らかに鬼の角だと判りやすい形状をしている。
それに対し、魔理沙の額から生えているのは、肌の延長のような色合いで、茸のような形状をしており、言うなれば肉体の一器官の如き見てくれだったのだ。
長さは四寸(約12センチメートル)といったところか。デキモノというにはさすがに不自然だろう。先端部分は少々赤黒い感じで丸みを帯びており、形容は難しいが、敢えて言うなら、そのまま人里を歩くと捕縛されそうな様相である。
永琳は顎に手をやり、「ふむ」と声を漏らす。
「とりあえず検査をしてみないと何とも言えないわね。けどその前に、貴方自身にそうなる心当たりはある?」
「あぁ? んー、いや、茸だらけの環境で暮らしちゃいるが、こんなのは初めてだぜ」
「ということは、『それ』が茸だと? そう思った理由は?」
「や、何となくだが」
永琳と魔理沙とのやり取りを、鈴仙はメモを取りつつ聞く。
カルテに筆記する以上の速度で思考する永琳は、記録が不得手なのだ。それをサポートするのが助手としての鈴仙の主要な仕事のひとつである。
ふと顔を上げて、患者を連れてきた霊夢のほうを見る。別に魔理沙の病状は動けないような類のものではないし、彼女の性格なら付き添いを早々に終えて帰ってもよさそうなものだ。
にもかかわらず、霊夢は当たり前のように診療室内に居座り、どこか形容のし難い表情をして魔理沙と永琳のやり取りを聴いている。
霊夢の顔つきの意味がわかったのは、鈴仙が永琳から次のように命じられてからであった。
「ウドンゲ、手袋を。患部に触れてみなさい」
「はっ、はい!」
その瞬間、魔理沙と霊夢が互いに視線を交わしたことに気づいたが、鈴仙は薄手の手袋をつけ、魔理沙から生えている角にそっと触れた。
「ひゃん!」
「ッッ!?」
びくん、と反応する魔理沙に、鈴仙は目を丸くした。
思わず永琳のほうを振り返ると、得心したというように頷く師匠の姿があった。
「やはり……触覚があるのね」
「え、え、あの、師匠?」
「額の生え際から突起の先端まで、指先で撫で上げてみなさい、ウドンゲ」
永琳が命じると、魔理沙は「え、ちょ」などと慌てた様子を見せたが、鈴仙にとっては師匠の指示は絶対だ。
「医療行為だから、魔理沙。医療行為だから」
そう言いつつ、命令に従う。
すると魔理沙は、まるで冷たい指先で背中をなぞったときのような反応を示した。
医療行為だと認識していなければ、狂気の瞳を操る鈴仙とて少々危なかったかも知れない。何か後戸でも開いてしまいそうな感じだった。
「なるほど。魔理沙、霊夢。貴方たちはすでに試したようね」
「えっ」
永琳の言葉に、鈴仙は魔理沙と霊夢を交互に見やる。
二人の反応から、薄々事情を察してしまった。
どうして霊夢が付き添ってきたのか、そして帰ろうとしないのかを。
「ダメよ、そんなことしちゃ」
「い、いや、誤解よ! 私はただ引っ張ったら取れるんじゃないかと思って」
狼狽した様子で言い返す霊夢に、永琳は真面目な顔つきで続ける。
「感染するタイプの病気だったらどうするの」
「え、あ、……はい」
珍しく殊勝に頷く霊夢に、「誤解って何が?」と問い質すことを控えるだけの情けを、鈴仙も有していた。
突起に対し、触れたり撫でたり軽く引っ掻いて切片を採取したりといった検査を済ませると、永琳は別室へ行った。普段なら診察室内で診断まで完結するのだが、珍しい。
室内には魔理沙と霊夢、そして鈴仙だけが残された。
「……なぁ、治るんだよな? これ」
そう話し掛けられた対象が自分だと思わず、鈴仙の返答は一瞬遅れた。
「……えっ、そ、うだね。治るよ。師匠は、えっと永琳様は天才だから。こんなおっきいおできみたいなやつなんて、すぐに取れちゃうんだから」
実際鈴仙もそのように信じてはいたが、内心では触覚があるのが少々厄介だとも思っていた。触れた感触がわかるということは、神経が通っているということ。すなわち、そのまま外科的処置として切除すれば足りるとは限らないことを意味する。
また、患部が額だというのも難点だ。脳や眼球など、重要な器官が近い。
とはいえ、患者に不安そうな顔を見せるのは御法度だ。鈴仙は努めて平常通りの顔つきを保ちながら、魔理沙を励ます。
気の置けない仲である霊夢もまた、さすがに悪態をつくのは気の毒だと思ったのか、勇気づけるような言葉を掛けていた。
「――戻ったわ」
四半刻(約15分)ほどで永琳が戻り、回転椅子に座る。
そして何故か霊夢のほうに目を向けた。
「霊夢、付き添いはここまででいいわ。帰りなさい」
「は? 帰りなさいって、そんな」
魔理沙のことが心配なのは事実なのだろう。博麗神社では霊的な処置も試みた上で、効果が見られなかったから永遠亭を頼ったのだと聞いた。
鈴仙の立場としては複雑だが、地上の面々と月の者たちは完全に和解したわけでもない。友人たる魔理沙をひとり置いて帰るのも心配なのかも知れない。
不服そうな霊夢に、永琳は言う。
「魔理沙にはしばらく入院してもらう。貴方はここに居ないほうがいい。でないと、魔理沙の角が興奮しちゃうから」
「え……」
霊夢は絶句し、キッと魔理沙を睨む。
「へ、変態! この変態ッ!!」
「な、なんで私に言うんだよ!」
悲鳴じみた声を上げる魔理沙を後目に、永琳は続けた。今度は何故か鈴仙のほうを見て。
「主治医は鈴仙に務めてもらうわ」
「えっ!?」
クシャクシャの両耳がピンと立つほどの衝撃を受けて、鈴仙は赤眼を剥いた。
患者を不安にさせないとかなんとかの配慮は頭から吹っ飛ぶ。
「なな、なんで私なんですかっ!? 師匠が、師匠が治療しないでどうするんですか!」
先ほどまで魔理沙を励ますことができていたのは、あくまでも自分の師匠である永琳が治療を施すと思っていたからである。鈴仙が担当するなら、100%の完治確率は大幅に下がり、せいぜいが20%……いや、10%を切るかも知れない。
プライドだの誇りだのの問題ではなく、患者のためにも、この主治医交代は受け容れるべきではないと思った。
「貴方が適任だと思ったからよ」
だが、永琳はごく自然な口調で言う。そこには、患者を練習台にして鈴仙に経験を積ませようだとか、鈴仙の狼狽える様を面白がっているだとか、そうした色は欠片も見えなかった。普段の永琳なら、顔見知りの診療や治療を鈴仙に任せることはなかったはずだが、何か深慮があってのことなのだろうか。
「ウドンゲ、貴方は私を厚く信じてくれているようだけど、その私の判断は信じてくれないの?」
「ぐ、っ……けど、魔理沙は……?」
そう、仮に鈴仙が引き受けたとしても、肝心の患者が信じて身を委ねてくれなければ意味がない。診療所側の内輪芝居に堕してしまう。
「永琳が信じた、お前を信じる……」
「ま、魔理沙!」
「……って言えればよかったんだがな」
「ま、魔理沙ぁ!?」
鈴仙のくしゃくしゃ耳がへにょる。当然と言えば当然だ。薬師としての経験が圧倒的に浅い鈴仙が下手な手を打ち、角だか突起だかが取れないままになってしまったら、一生歩く公然××人間として過ごさねばならなくなる虞がある。
そうなれば、魔法の森に一人で引き籠もっている彼女の自由なライフスタイルも、微妙な意味合いを帯びるようになってしまいかねない。
そのとき、魔理沙の肩に霊夢が手を置いた。
「私は賛成よ。鈴仙が治療すること」
「お、おい霊夢、他人事だと思って」
魔理沙が眉を顰めると、その額から生えた角も抗議するかのようにプルンプルンと揺れる。そう言えば、魔理沙の角は煮込む前のきりたんぽのような硬さであった。
「別にそんなこと思っちゃいないわよ」
「じゃあ何だってんだ」
「勘」
短いその応えに、魔理沙は押し黙る。
鈴仙からするとまったく答えになっていないように思えたが、もしかすると二人の間には、それで通じる何かがあるのかも知れない。
いずれにせよ、鈴仙に窺い知れるものではなかった。
永琳が、手をパンと叩く。
「では決まりね! じゃあ霊夢は帰った帰った。魔理沙は入院。必要なものがあれば霊夢にでも取ってきてもらえばいいわ」
魔理沙はにわかに慌てだし、「何も要らないからな!」などと霊夢に言っている。
おそらくは、いくら友人といえども、自分の家には足を踏み入れてもらいたくないのだろう。こちらの気持ちは鈴仙にもよくわかった。
こうして、永遠亭での魔理沙の入院生活と、鈴仙の必死の治療法模索の日々が始まった。
「師匠ぉ~」
「どうしたのかしらウドンゲ。何でも教えてあげるわ。魔理沙の治療のヒント以外なら」
「くぁぁ~! 聞きたいのそれなんですけど!? 一番!」
まるで時でも飛ばされているのではないかと思えるほどの2日間が過ぎ、3日目のこと。
問診だ、検査だと始めは気合いの入っていた鈴仙も、さすがに埒が明かないと永琳に泣きついてみたが、斯くの如しであった。返事は優しいが、肝心なことは何一つ教えてくれない。……考えてみれば、大抵そんな感じの気もするが。
「聞いたわよ。魔理沙は何だかんだで楽しそうにやっているそうじゃない」
永琳の言うように、魔理沙が永遠亭に馴染んでくれているのは鈴仙としても幸いだった。額の角がてゐに知られたら格好の悪戯対象になるのでは、と心配したのだが、以前てゐは永琳の患者に悪戯を仕掛けて、半殺しの目に遭ったことがある。爾来、彼女は病気を原因とする事柄に関しては決して悪戯の対象にはしなくなった。これは永遠亭が診療所としてやっていく上でも重要な教育だったから、鈴仙としても安堵したものだが。
ともあれ、魔理沙はてゐを始めとする妖怪兎たちとも上手くやれているようだし(そうでなければ普段から宴会の幹事などできないだろうが)、永遠亭で供される食事もお気に召しているようだった。今の輝夜の舌を満足させる食事なのだから、これもまた当然と言えば当然かも知れないが。
「それはそうなんですけどぉ……」
魔理沙は、治療にも協力的だった。治すためには当たり前の話だが、鈴仙の指示や提案は素直に聞き入れ、それに反することはしない。栄養をしっかり摂れと言ったらきちんと食事を取るし、身体を動かせと言ったら兎たちと追いかけっこをする。睡眠時間も適切に確保しているようで、これは輝夜も見習うべき、などと永琳は言っていた。
が、それだけに心苦しい。
鈴仙が懸命に書庫を漁っていると魔理沙が顔を出し、「専門的なことはわからんが、困ったことがあったら何でも言ってくれ」などと声を掛けてくる。夜遅くでも、朝早くでも。
彼女の入院が長引いているのは鈴仙のせいでもあるというのに、笑顔でそんなことを言ってくるのだ。
「胃がキリキリ痛むんですぅ~」
「はい、胃薬」
「あ、ども……じゃないんですってば!」
そう言いつつ、鈴仙は手渡された胃薬を服用する。2分経たずに胃痛が消えた。やはり天才か……。
「師匠が助言をくれたら、魔理沙だって今日にでも退院できるんじゃないですか?」
時は金なり、ですよ! などと付け加えてみるが、ピンと来ない様子で首を傾げられた。金にも時間にも執着しない蓬莱人の類は、これだから困る。
粘りの姿勢を見せる鈴仙に根負けしたのか、永琳は指を一本立てて言った。
「仕方ないわねぇ。じゃあひとつだけ。鈴仙、貴方から見ると、私は天空を翔ける龍のようなものかも知れない。けれども、道端に生い茂る草が最大の薬効を示すこともあるのよ」
煙に巻かれたと思いつつも、鈴仙は治療のための調査研究に戻る。
通常の患者の診察助手からは一時的に解放されているのが、せめてもの救いだった。
魔理沙の入院から4日目の深夜。
基本的に夕方や明け方に元気が出る鈴仙としては、真夜中の活動は辛いものがある。
しかし、患者を抱えている以上は、眠たいなどとは言っていられない。医者の不養生とは言われるが、こういうことなのだと実感する日々である。
「はぁ……」
自室にて、書見用の眼鏡を外し、鈴仙は眉間を揉みほぐす。
菌糸類の生態から霊的な原因、毒物、薬物、呪いまで一通りの関連文献を漁ってみたが、それらしき症状は見当たらない。いや、正確にはいくつか出てきはしたのだが、いずれも魔理沙の角を生ぜしめた原因とは異なるようだった。
あの、温かく脈打つような突起の正体とは、いったい何なのだろうか。
「おっす、かなりキツそうだな」
コトリ、と目の前に湯呑みが置かれた。部屋に広がるのは焙じ茶の香り。いかにも地上らしき雑味と野趣に溢れた、しかし美味しい飲み物である。刺激物が含まれておらず、夜中に飲む上でも優しいチョイスだ。
「魔理沙、ごめん……」
「ありがとう、だろそこは。いや、礼を言うのは私のほうか? すまんな、鈴仙」
「はは、あんたも謝ってるんじゃん。けど、そういうのはいいから。患者に謝らせて喜ぶ医者なんて、認めるわけにはいかないし」
それは鈴仙の本心でもあった。
患者が謝らねばならないというのは、病気や怪我をしたことが悪いのだと言っているも同然だ。医者は患者のために怒ることもあれば叱ることもあるが、決して責めることだけはしない。獄卒ではないのだ、医者は。
「で、何しに来たの。進捗状況を確認しに来たならお生憎様。まだまだ手がかりは不明って感じよ」
つい突き放したような言い方になってしまうのは、疲労と、焦りもあるのだろう。つくづく師匠のような余裕ある薬師になるまでの道のりは遠い、と鈴仙は思ってしまう。天才ではない自分は地道に一歩一歩進んでいくしかなく、それですら後退している可能性だってある。
魔理沙は鈴仙のそんな態度を気にした様子も見せず、そのままそばに腰を下ろした。
「いや、懐かしいというか、わかるなと思ってさ」
「は? 何が?」
「私も研究とかが行き詰まったら、夜を徹して研究書にあたって調べまくるからさ、そういうときは追い詰められた感じがするのもわかるんだよ。けど、ちょっと肩の力抜いたほうがいいぜ。私が言うのも何だけどな、そうしたほうが見つかることもある」
そう言われて、鈴仙は苦笑した。
魔理沙の言うとおりかも、と思ったのだ。それに、文献による調査が行き詰まっているのも事実だった。
「そうね……もう一度聞くけど魔理沙、貴方に心当たりはないんだよね? どこかの祠を破壊したとか、道祖神を蹴倒したとか」
「するか、そんなこと! 思いつく限りの心当たりは霊夢のとこ行く前までに総当たりしたぜ。それについては全部話したつもりだ」
「ううん……、触覚があって、けれど痛みはないのよね? 良性の腫瘍……にしては形状や大きさが異常だし」
鈴仙が調べ始めたときの問診で、触れれば感触はわかるが、何もいじらなければ痛みは感じない、と魔理沙は言った。握り締めたり引っ張ったりすると痛い。これは、手の指に同じことをした場合とほぼ変わらないようだった。
「……とにかく、もうちょっと調べてみるよ。貴方はもう休んで。寝不足が悪影響を及ぼしてもいけないし。困るでしょ? その角がそれ以上大きくなったら」
「お、おう。困るな……」
魔理沙は不承不承といった様子で立ち上がる。大人しく指示には従ってくれるのだ。
「ごめんね、魔理沙。私、師匠のような天才じゃないから、時間かかっちゃうけど」
「ん……私、はそれでいい、と思う。そうじゃなきゃ――」
「え?」
「いや、何でもない。じゃあな、お前もあんま根詰めないでくれよ」
そう言って、魔理沙は静かに部屋を出ていく。
ただ、不意に見せた彼女の暗い表情が、妙に気にかかってならなかった。
鈴仙が手がかりを見つけられないまま、5日目の朝を迎えた。
永遠亭の面々が朝餉をとるための広間で、鈴仙は魔理沙と顔を合わせる。心なしか額の角が肥大化しているように見えた。
「おはよう魔理沙。えっと、角、大丈夫?」
「ああ、おはよう鈴仙。大丈夫、何ともない――ッ、ぜ」
応えながら魔理沙の顔が一瞬歪んだのを、鈴仙は見逃さなかった。
「正直に答えて。痛みは?」
「いや、だから何とも、ッあ!」
血の気が引くのを感じる。魔理沙に痛みが出てきた。これは明らかに悪化の兆候だ。
麻痺していた患部に感覚が戻るようなケースでは、痛みが快復の徴だということもある。しかし、魔理沙の場合はそうしたケースには該当しない。
「すまん、ちょっと今、痛かった」
「ズキズキ? それとも鈍痛?」
「刺すような痛みだったかな。でも今は痛くない」
「そう、一過性の痛み……? でも、いえ……」
鈴仙が思考に沈んでいると、ふたりの周囲に兎たちが集まってきた。口々に「どうしたの?」だの「大丈夫?」だのと言っている。心配してくれているようだ。
そのとき。
「ほら、あんたたち、散った散った! 朝ご飯の邪魔になるでしょ!」
言いながら跳ねるようにやって来たのは、てゐだった。妖怪兎たちのまとめ役ということもあり、大きくなりつつあった兎集りはすぐになくなる。
「ったく、鈴仙も辛気臭い顔してるんじゃないよ。魔理沙もそんな角なんて平気だって言ってるじゃない。ねぇ魔理沙?」
「おう、平気――ッ!?」
てゐに向けられた笑顔が、苦痛に歪む。
そのやり取りで、鈴仙の頭に何か引っかかるものがあった。
「痛みがないわけじゃ、ないのよね? 魔理沙」
「うぐぐ、いや、あッ、痛む――いや、痛まな、い?」
「今、この瞬間、痛みはある?」
「いや……ないな。ないぜ」
鈴仙は大きく息を吸った。
内心で、ごめん魔理沙、と呟く。
「魔理沙、貴方は角が生えても平気だと思っているし、大丈夫なのよね?」
「ああ、こんなの平――ぐあッ!?」
「……!! てゐ、魔理沙をどこかで休ませてあげて。なるべく誰も近寄らないように」
「えっ? ちょお、鈴仙?」
言い置いて、鈴仙は書庫へ駆けてゆく。
もしかしたら、もしかして、魔理沙の病の正体は。
夕方。
その日の最後の患者も帰った後。
鈴仙は薄暗くなった診察室で、永琳と向かい合っていた。
「見つけた、と思います」
「あら、そう。なら裏取りも済ませてきたのね」
永琳は笑みを浮かべるが、鈴仙は反対に師を睨みつけた。
「師匠は、だから私に任せたんですね」
「怒っている?」
「まさか。だって、事実ですもの。私に怒る資格なんてない」
鈴仙が言うと、永琳は笑みを深めた。
が、どこか呆れや憂いの色が含まれているように思えたのは、鈴仙の願望ゆえだったのかも知れない。
「じゃあウドンゲ、患者の治療には私も立ち会ったほうがいいかしら?」
「……いないほうがいいです。邪魔ですから」
そんな鈴仙の言葉に、永琳は満足気に頷くのであった。
夜。
鈴仙に呼ばれた魔理沙は、襖を軽くノックし、彼女の部屋に入る。
行灯の炎と影が揺らめく室内は、夢幻のようにも感じられた。
鈴仙は上着を脱いでおり、シャツとスカートだけのくつろいだ様子だった。シャツは胸元までボタンが外されていて、鎖骨があらわになっている。
「よ、よう。どうしたんだ」
我知らず、声が上ずってしまった。
数瞬遅れてそのことに気付き、魔理沙は頬が火照るのを感じた。
鈴仙は魔理沙に近寄ってきて、じっ、と覗き込むように見てくる。
「朝はごめんね、痛かったと思うけど、もう大丈夫だから」
「え、あ、うん」
魔理沙はごくりと唾を飲み込む。
先日お茶を持っていったときとは違い、鈴仙の部屋には甘い香りが漂っていた。これは白檀か、それとも伽羅か。
「……ねぇ、魔理沙。私、まだまだ未熟だし、天才でもないから、さんざんあれこれ調べて遠回りしちゃったかも知れない。たくさん待たせちゃったね」
「いや、そんな」
「魔理沙も辛かったんじゃないかな。研究が遅れて――周りに、遅れを取って」
「え……」
どくん、と心臓が跳ねる。
動揺の間隙を縫うようにして、鈴仙の言葉が滑り込んできた。
「魔理沙、聞かせてほしい。正直に打ち明けてほしい。私と同じように、天才じゃない貴方の悩みを」
目に映る光景がゆらゆらと揺れる。
いや、揺らめいているのは行灯の炎か。鈴仙の、月兎の、目が、眼が、赤い、眼が。
「貴方の周りには、いつだって天賦の才に溢れる者たちがいた。図書館の魔女も、魔法の森の人形遣いも、神社の巫女も――」
囁かれる言葉が上下にブレる。上下? 音の波が、ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら。
「そうだとしても、貴方は怯まなかった。恐れなかった。彼女ら以上に積み重ねれば届くと信じていたから」
鈴仙の眼の赤がぼやけて滲む。灯籠流しのように、祭に並ぶ提灯のように。
「だけど、鳥だって羽ばたき続けられるわけじゃない。貴方が悪いわけじゃない。疲れて休むその僅かな瞬間に、緑の眼をした怪物が心へ滑り込んだとしても」
赤・緑・赤・緑。
視界が二重写しになったように、ブレる、ブレる。
額の角が、そっと握られた。
「話してほしい、魔理沙。――間近に天才がいる苦しみなら、私が一番よくわかるから」
耳打ちされたその一言が決壊の合図だった。
堰を切ったように、魔理沙は話しだす。
万巻を積み重ねる魔女のことを。自律と魂の内奥へ挑む人形遣いのことを。論理を超えて一足飛びに目的へ至る巫女のことを。その他多くの綺羅、星の如き才能のことを。
そのどれもが敬意の対象であり、目標であり、自身の意欲を引き出す起爆剤であり――苦しみの根源であった。
ひとつひとつの懊悩を出すそのたびに甘い言葉と匂いが魔理沙を慰め、額の角は鈴仙の手により撫で擦られた。
「――あの日、あいつは言ったんだ。研究は順調だって。もうすぐ成果を見せてあげられるって。逆に私はちょうどそのとき、実験が大失敗したところで」
「だから、思ってしまったんだね、思ってはいけないことを」
囁かれ、魔理沙の身体が大きく震えた。
頬を伝う液体が顎から落ち、畳の上で弾ける。
「ああ……そうだ。私は思ってしまったんだ、『失敗すればいい』って!」
「――そりゃぁぁぁぁっ!!」
次の瞬間、魔理沙は凄まじい勢いで押し倒された。
胸から喉、鼻の奥、そして額にかけて、何かがずるっと引き抜かれるような感触。
後に残ったのは、宿便が出たような、しぶとい鼻詰まりが解消されたような、そんな清々しい気持ちだった。
「呪状突起、だと?」
「ええ。別名を“心の角”という。それが魔理沙、貴方に生えていたモノの正体よ」
深夜。
あれから診察室へと場所を移し、鈴仙は魔理沙に説明をしていた。
彼女の額から引き抜いた角は、硝子瓶の中に収められている。
本当に跡が残らないかどうかは心配だったが、魔理沙の額はつるりとしていて綺麗なものだ。アザどころかシミひとつない。若い人間の肌だった。
「元々、悪心というのは自身の心に存在するもので、精神が弱ったときに表へ出てくるの。えっと、帯状疱疹ってわかるかな。あれも似たようなものなんだけど、身体の抵抗力が弱まったら顔とかお腹とかに湿疹が出るんだよね」
「あー、私はなったことはないけど、里のおばちゃんとかから時どき聞くな」
「うん、それの心バージョンね。精神は肉体に影響を及ぼすから、結局は肉体の外観に変容をもたらすんだけど」
ただ、一晩寝て起きたらいきなり三寸だの四寸だの、というサイズには通常ならない。
おそらくだが、魔法の森に漂う魔素と邪心とによる相乗作用なのではないか、と鈴仙は語る。
「魔理沙の場合、その、同業者に対して『研究が失敗すればいい』と思っちゃったんだよね」
「……ああ」
「貴方にとって研究は非常に大事なもので、だから他者に対しても失敗を願うような心の働きはタブーだった。だからストレス反応が過剰に出たんだと思う」
「言わば、私は私自身によって罰されたってわけか」
自嘲気味に魔理沙は言う。
鈴仙は、敢えてそれには乗らず、説明を続けた。
「悪心の表れ方にもいろいろあって、必ずこうなるっていうのはないんだけどね。そもそも、どうして『失敗すればいい』なんて思ってしまったのか。その根本を認めたくなかった貴方は、自分の気持ちを押し込めた。言い換えると――『嘘』にした」
嘘にされた彼女自身の心は、自らの存在を示すために額という目立つ場所へ現れた。
「そして貴方が嘘を吐くたびに根を深く張っていき、ゆくゆくは本心を乗っ取るつもりだったのかも知れない。痛みが生じてきたのはその兆候だろうね」
「ひぇ……」
鬼の角は邪心の象徴であり、力の証でもある。そうでありながら、罪業を示す角は鬼自身を苦しめるものだ。
鬼が嘘を嫌うのは、肉体に深く根を張る角が激しい苦痛をもたらすからではないかといわれている。
「ほんと、治療が間に合ってよかったよ。危ないところだった」
「まったくだぜ。……ん? そういや時間を追うごとに悪化するなら、永琳がさくっと治してくれるわけにはいかなかったのか?」
魔理沙が言うのは、至極もっともだ。
同じ診療所に腕の良い薬師がいるというのに、どうして新米のような者に任せるのか。緊急を要さない病気ならともかく、一刻を争う病気ならベテランが担当すべきでは。
「心の角を引き抜くには、あらかじめ心を柔らかくしておかないといけないの。つまり、素直になって原因を打ち明けてくれないと、肉体や精神に下ろした根が抵抗するのよ。ねぇ魔理沙、仮に師匠――永琳様が私と同じようなことを言ったとして、貴方は正直に言う気になった?」
「……あぁ~、すまん、無理かも」
今にして思えば、鈴仙が原因を調べようと必死に時間を費やすのも、魔理沙に永遠亭内での自由な行動を認めるのも、全ては永琳の目論見であり、采配であったのだと想像がつく。鈴仙のその姿を見ていたからこそ、患者である魔理沙は心を開いてくれた。まあ、ちょっと赤眼の力も使わせてもらったが。
回り道のように思えるあれこれが、実は最短距離を進むためのものだったということはあるものだ。
「やっぱ、敵わないなぁ……」
鈴仙は主のいない診察室をぐるりと見回して、ため息を吐くのだった。
翌日の朝、魔理沙は元気に退院をしていった。
事情が事情だけに再発の虞がないのかは気になるところだったが、最後に永琳が説明したところによれば、一度大きな呪状突起ができてしまえば精神に抵抗力がつくので、たぶん心配はないだろうとのこと。
ちなみに、6日間にわたる入院費はというと、薬効を有する珍しい茸などの提供をそれに充当する約束を交わしたようだ。魔理沙も他の患者のためになるならと快諾していた。
「お疲れ、ウドンゲ。はい百年茶」
「え、あ、ありがとうございます」
魔理沙がいなくなり一息ついたタイミングで、珍しく永琳がお茶を淹れてくれた。
常ならぬ事態に、鈴仙としては思わず疑問符が浮かんでしまう。
「そんな顔しないの。別に毒なんて盛ってはいないから」
「はぁ」
強度の薬効耐性を有する永琳が言う「毒」や「薬」を言葉通りに捉えるのは危険だと、鈴仙は長年の経験で知っていた。
永琳にとっては薬でも、鈴仙にとってはそうでないことだっていくらでもある。
が。
「あ……美味しい、です」
「でしょう。今では輝夜も大満足の一杯よ」
鈴仙は信じて口をつけることにした。
今回は本当に労いなのだと思ったからだ。
「師匠、私ってまだまだですよね」
「当然でしょう」
「うぐぅ……」
今ならちょっとは優しい言葉を掛けてもらえるかも、などという下心は見透かされていたようだ。呆れたような目を向けられ、鈴仙は無駄にダメージを負った。
「けどね、今回の患者さんを最短で治療したのは貴方よ、鈴仙」
「し、師匠ぉ……! あだっ!」
「調子に乗らない」
湯呑みを置いて抱きつこうとした鈴仙は、デコピンを食らってしおしおになった。
永琳はペンをくるくると器用に回し、鈴仙を指し示す。
「貴方はドジでノロマで考えも遅い」
「ひぇぇ」
「でも、百を調べ、千を考え、万の行動を取れば、一つくらいは得られるものもある。そして、それこそが世界に見放された唯ひとりを救うかも知れない」
俯きそうになっていた鈴仙は、その一言で顔を上げた。
「覚えておくといいわ、鈴仙。救われたひとにとっては、その事実だけが全てなのだということを」
今日も朝から、無愛想な顔をした蓬莱人が患者を案内してくる。
待合室として設けた部屋には、すでに人が集まりだしていた。
もしかすると、いつか永琳の片腕として、本格的に診察や治療を任せてもらえる日が来るのかも知れない。
そのときに患者を治せるのが、鈴仙ひとりだけという可能性もある。
調べよう。考えよう。行動しよう。
それが逃げ続けてきたはずの彼女の指針となった。
鈴仙・イナバ診療所。
後にそう呼ばれることになり得る施設の、それが第一歩だった。
~完~
心温まるお話を読ませていただきました。とても面白かったです。