魔法の森。
アリス・マーガトロイドは自宅の庭で人形芸の練習に勤しんでいた。
もうじき行われる人里の祭りで披露する予定のものだ。
観客を引き込む冒頭。
チラ見してきた通りすがりの者すら掴んで離さない流れ。
クライマックスへと突き進むエモエモな盛り上がり。
そして感動のフィナーレ。
全幻想郷が涙する,これは運命の物語――。
「……完璧ね」
アリスはひとり呟く。
自分の才能が恐ろしい。人形芸を駆使した劇において,このアリスほど精髄を極めた者は存在しないのではないか。
そんなことすら思った瞬間だった。
――パチパチパチパチパチ
鬱蒼とした魔法の森には似合わない,場違いな拍手の音。
「!?」
アリスは驚き,拍手音のしたほうを向く。
そこには茂みからひょっこり顔を覗かせる,古明地さんちのこいしちゃんがいた。
「すごーい! お人形さんごっこ,とっても楽しそうだね!」
~こいしちゃんと人形遣いのアリス~
「なんであなたがここに……?」
アリスは思わず一歩後ずさる。
アリス邸の周りには結界が敷いてあった。敵対者や不審者,白黒の魔法使いが侵入しようとすれば直ちにわかる。
「ん? ふらっと来ただけだけど」
あっさりとした答えにアリスは眉をひそめた。
そういえば,古明地こいしは“無意識を操る程度の能力”の持ち主だという。
結界は侵入者の意識に反応する。
そう設定しなければ,風に吹かれて飛んできた葉っぱや小枝にもいちいち対応しないといけなくなり,かえって効率が悪くなるからだ。
反面,無機物などの侵入は感知できないという弱点があった。
だとすると無意識下で動くこいしが結界に反応しないのも道理である。
アリスはため息を吐いた。
「……そう。まあいいわ。お帰りはあちらよ」
玄関口から続く道を人形で指し示す。
人形劇は見られて恥ずかしいものではないが,練習はあくまでも練習だ。本番に向けてクオリティを高めねばならず,アリスは殊更に舞台裏を開示して親近感を持たせようとするタイプではなかった。
だが,こいしはその場でゆらゆらと揺れるのみで,立ち去ろうとしない。
それどころかアリスへ向けて話しかけてきた。
「ねぇ,ちょっと聞きたいんだけど」
「帰りの道ならあちらよ」
「自分で思ったとおりにお人形を動かして,思ったとおりに喋らせる。それって虚しくならない?」
こいしの言い分に,アリスは思わず腕を組んだ。
これほど無遠慮な質問をされたのは,射命丸文に取材されたときと,伊吹萃香とやり取りしたときと,博麗霊夢と雑談したときと,東風谷早苗に押しかけられたときくらいなものである。意外と多かった。
なお魔理沙や咲夜は,あれでいて存外不躾なことは聞いてこない。
「別に虚しくならないわ」
「ふーん」
不満げな顔をするでもなく,納得したような表情を見せるでもなく,こいしは相槌を打つ。
小首を傾げるようにして,さらに口を開いた。
「いい歳してお人形さん遊び。本当のところ,自分でも少しイタいなって思ったりは?」
こいしの言い回しに,アリスは少々意外なものを感じた。
通常,妖怪や妖精であれば「いい歳をして」などの言い方はしない。
もし妖怪らにも年齢相応の振る舞いが求められるなら,八雲紫のファッションあたりはヤバいことになってしまう。
人間の心情に近しいサトリ妖怪だからこその表現だな,とアリスは解釈する。
「しないわね。私は人形遣いだから」
「ふーん」
またしてもゆらゆらと揺れるこいし。ゆらゆら。ゆらゆら。
その様子をアリスは訝しむ。先ほどからのこいしの問いかけは,ひとによっては煽りとも受け取っただろう。
しかし,この程度でキレていては天狗の取材など到底受けられないし,弾幕遊戯も楽しめない。ほんの僅かな隙間を搔い潜る弾幕戦においては,感情を乱した奴から墜とされてゆくのだ。
こいしは両手で帽子のつばを握ると,くいくいと動かした。
「自分で虚しいともイタいとも思ってなくても,他のみんなからそう思われることもあるよね。気にならないの?」
「……」
ここで初めてアリスは即答をしなかった。
気になるかならないかで言えば,多少は気になる。だが,気にするかしないかで言えば,気にしないようにしている。結論としてはそんな感じだ。
とはいえ,これは単純な問題ではない。
たとえば人形芸を披露したとして,自分では上手くできたと思った舞台が,観客からは面白くなかったとしよう。その場合,観客からの「面白くない」という反応を気にするべきかどうか。
『他のみんなからどう思われようと,自分が気にしなければ構わない』
もしそのように考えるなら,人形劇作家としての成長は閉ざされ,独り善がりに堕しかねない。『他のみんなからどう思われるかを気にしないこと』のリスクは,そこにある。
「……まったく気にならないと言えば嘘になるわね」
アリスは慎重に口を開いた。
「けど,あまり気にし過ぎても意味はない。ひとの心は自由に変えられるものじゃないから」
スイッチひとつで動きを切り替えられる人形と,意思を持つ他者は異なる。
アリスとて積極的に虚しいとかイタいとか思われたくはないが,誰かがそう思うのは止められない。ならば気にするだけ時間の無駄だ。
こいしは頭を右に傾け,それから左に傾けた。
その動作は,妙に人形っぽく見える。
「だったら」
そこで言葉を切り,こいしは俯いた。
魔法の森に風が吹き,木々がざわめく。
「……気になって,気になって,どうしようもなくなったら?」
彼女の表情が変わったわけではない。
彼女の声音が変わったわけでもない。
しかし,そこにはほんの僅かな切実さが混じっているように,アリスには思えた。
だから,正面から答えた。
「やめるわ。人形から手を引く」
「えっ」
こいしは顔を上げた。
その目を真っ直ぐに見てアリスは続けた。
「――手を引けるものならね」
右手の小指を動かす。和蘭人形らが浮き上がる。
左手の小指を動かす。倫敦人形らが浮き上がる。
右手の薬指を動かす。西蔵人形らが浮き上がる。
左手の薬指を動かす。瑞西人形らが浮き上がる。
露西亜人形らが,仏蘭西人形らが,京人形らが,オルレアン人形らが浮き上がる。
右手の親指に力を込めるとゴリアテ人形が起動し。
左手の親指に力を込めるとレベルティターニアが起動し。
アリスの庭は瞬く間に人形たちで埋め尽くされ,グランギニョル座と化した。
右手の人差し指。上海人形。
左手の人差し指。蓬莱人形。
数百を超え,地上を空中を目まぐるしく動き回る人形たちは,人形遣いアリス・マーガトロイドの技術であり,信念であり,執念であり,誇りである。
決して折れることのない,その生き様。
七色の幻惑的な人形劇が,こいしを目眩く世界へと誘った。
短くも長い劇は終わり,人形たちが揃って礼をする。
一拍遅れて,
――パチパチパチパチパチ!!
再び響き渡る拍手を,アリスは澄ました顔で受け取った。
「とまあ,これが私の答えよ。参考になったかしら?」
こいしは手を叩きながら何度も頷く。
「ありがとう!!」
「それは良かった」
そして,ひとつ咳払い。
「――幕は降りたわ。お帰りはあちらよ」
人形たちが指し示した方向へ,今度こそこいしは溶けるように消えていった。
地霊殿。
先ほどから書斎で唸っているのは,古明地さとりである。
ただ今絶賛スランプ中。
もうじき行われる人里の祭りで頒布する予定の新刊が,ちっとも進まない。
机上に広がる原稿用紙は,半端に書き進められたところで止まっている。
「ううぅ……登場人物たちが思うように動いてくれない……」
地底印の魔剤を呷る。椅子の横には数本の瓶が転がっていた。数日前からずっとこの調子だ。
「まだまだ締め切りまでには余裕がありますからね」などと調子に乗っていた半月前の自分を殴ってやりたい。そんなことを思う。
「だいたい,これは本当に面白いのかしら……」
心に余裕がなくなると,『自分の書いている作品が本当に面白いのか症候群』まで発症してしまう。だが,さとりは11点の矜持にかけても新刊を落とすわけにはいかなかった。
その時,ノックの音がした。
集中していて気づかなかったが,館に住まうペットの誰かだろうか。
さとりは意識を作品外の事柄に割きたくなかったため,ドアの外にいるであろう相手の心を読もうともせず「今は忙しいので後にしなさい」とだけ言った。
すると,ドアが開く音がした。
「は?」と思いつつ顔を上げると,そこには地霊殿の住人のなかで唯一さとりの命令に従わない存在がいた。古明地こいしである。
「こ,こいし……今は」
「ねぇお姉ちゃん! 聞いて聞いて!」
やたらと目をキラキラさせた妹に,さとりは何も言えなくなってしまう。
このまま原稿用紙に向かっていても進まないし,少し話を聞くくらいならいいか,と思い直した。
「何かしら?」
「あのね,自分で思ったとおりにお人形を動かして,思ったとおりに喋らせるのって,全然虚しくないよ!」
「は?」
小説のことかな?
お人形こと登場人物たちは,ちっとも思い通りに動いてくれないんだが?
さとりは理不尽な怒りを覚えた。
「それとね,いい歳してお人形さん遊びに熱中するのだって,ちっともイタくないよ!」
「うぐっ……!?」
さとりは謎のダメージを受けた。
普段なら受け流せるのだが,ほら,締め切り前の修羅場なので……。
「あとね,他のみんなから虚しいとかイタいとか思われてても,気にしなくていいからね!」
「えっ」
そんなこと思われてたの……?
さとりは椅子が飴細工のごとく溶けたような錯覚を覚えた。頭がくらくらする。
そしてこいしは,満面の笑みを浮かべて言い放つ。
「どうしても気になって仕方なくなったら,潔く筆を折ればいいんだって!!」
「あ,ああ,あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
堪らずさとりは机に突っ伏した。
上からこいしの言葉が降ってくる。
「――って,アリスさんが言ってた。よかったね!」
そして,肩を軽く叩かれる感触。
ほどなくして,書斎のドアが閉まる音。
後には小刻みに肩を震わせるさとりがひとり,残されたのだった。
―― 了 ――