OqqIlcn - 親主・束片割楚誥

仮葬

2018/04/01 19:51:17
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 ○

 生温い感覚が、下腹部から太腿の辺りにまで伝わって、そのまま踝の辺りを伝って地面に達しようとしていた。絡み付いては離れ、纏わり付いては切なげな温度を保ちながらそっと距離を取る。水の感覚がその隠微な間隙を埋めようとしても、空しく、何事も無いかのように表面を流れて行く。
 自分の臓器と、彼女の生白い肌と、二人で凭れ掛かる境内の中に聳え立つ巨木が、まるで一つに繋がっているような奇妙な感覚を味わいながら、少女の肉体を弄んでいたのだった。
 湿り気を帯びた肉の鈍い動きに合わせて、時折土の匂いが鼻をついた。二人からは見えない場所から轟く人妖のうたい声が、今は余りに遠かった。それは行為に没頭していたせいだった。自分たちが与り知らない騒ぎに過ぎなかった。
 どちらかというと、嗅覚が冴え過ぎていた。土と酒気と、饐えた食い物の匂いと、存在しない筈の水辺に茂った葦の青臭さだった。それらが世間と自分たちとを切り離す結界のようにむっと立ち上がる。存在しない、数多に揺れる葦の気配に怯えるのが、何となく馬鹿馬鹿しくなって、少女の体から離れた。二人の体と体の間に辛うじて保たれていた、隠微な間隙にこもっていた熱は冷めてしまった。とたんに夜風があたって肌寒くなった。
 アルコールで澱んだ目が二つ、彼女の事を離すまいと捉えていた。最中、彼女は殆ど動かずじまいで、受けに回っていた。消極的だったくせに、意外と興奮していたのかな、と目の前の人肌がまた恋しくなる。
 面映げに瞼を細め、訝ったような風に彼女は自分に手を伸ばした。誰かに見られている気がする、と彼女が言って自分の手を取った。少女の額に数本、針のように細い髪がうっすら汗の滲む肌に貼り付いている。その解れ毛を掻き分けてやるように額を撫でてあげた。誰かが覗いているの、と呟いた。
 そうか早く服を着て、ここを離れよう。
 服を手早く付けて、そのまま覗きのものらしき影と音の方向へ、半ば殺気を巡らせて歩を進めたものの、誰も居ない。
 全部、自分たちの思い込みか。
 そろそろここを離れた方がいい、と樹のたもとに戻り少女の手を取った。
 待って、まだ服を付けていないの。
 早くしなさい、もし、二人でいたところを里の者に見られたら、どうあなたは弁解するのだ。
 あなたから誘ったのでしょう、覚えていないのですか。
 あんまり、あなたがお酒を召し上がるものだから、心配してここに御連れした。あなたは明らかに無理をしてお酒をお飲みになっていた、あれじゃヤケ酒だ。
 だって、皆に飲むように言われているような気がしたから、まぁ無視しても良かったのでしょうけれども、それでももし断ったら、仲間外れにされそうな気持ちになりましたから、それが何となく怖くって。
 誰もあなたの事をのけ者にしたりはしないよ。お酒をあんなに飲んだら誰だって、参ってしまいますよ。
 でも、二人きりになれましたね、そのお陰で。ずっとこうしたかったのに。ねぇ外の世界に連れて行って下さいよ。外には何があるんですか、この幻想郷に無いものがあるの? 
 何故知りたがるのかえ? 
 だって、何があるか判らないと怖いもの。
 自由があるぞ。
 自由って何? 
 何にでもなれる。
 どうゆう事ですか? 
 気が付けば、あんたも、別のものになっている、それが自由じゃよ。でも、自分だけ何も変わっていない時があって、それは本当に寂しいものでして。まるで自分だけ変化の流れに取り残されているような……。



 チリンチリン、と鈴の音が鳴った。店の彼女が言うには、防犯用、との事だった。お店の中はそう広いものでは無いのだけれども、この辺りではお目にかかれない逸品が所狭しと並ぶ貸本屋だったから。用心の為、家紋の部分を白く残した形で藤色に染め抜いた暖簾の上部に、身を隠すように鈴は縫い付けてある。
 瓦屋根の上で、師走の日光の鈍い光が照り返し、陽炎が揺らめいて、まるで夏の日のように暑かった。下着が汗ばんで、皮膚から表に滲んだ瞬間、一瞬でまた蒸発してしまうのではないかと思われる、不思議な小春日和だった。
 彼女は、薄暗いお店の中で、お皿を磨いていた。お皿の他に、お椀や大きな壷や、花瓶のようなものが並んでいる。異質と言えば、白磁のものと思われる、そうした食器の類が貸本屋の床に並べられているのは。
 鈴の音だった。貸本屋の営業時間と供に、日中は殆ど開け放たれた戸を、誰かが潜って来たのだった。キュッと音がして、布が彼女の手を借りて、滑らかな白磁の上を撫でた。
「いらっしゃいませ」
 彼女が朗らかな笑顔で、無言の来訪に、答える。そのお客は絶対に終止無言を押し通そうとしていた、と彼女は践んでいたのだが。践んでいたからこそ、何となく邪魔したくなった、そんな意地の悪い、ある種の生理が働いたのだが、意外な程、さらりと挨拶を返されたのだった。
「邪魔するぞい……ちょっといいかね」
 客にいつも見せる彼女の笑顔を受けて、そのお客の口元から零れた微笑みを、今日の今日まで彼女は覚えていた。白い歯が口の端から除き、端正な顔立ちから発せられた、言葉が少し粗暴だったが、里の男とは違う、華やかさが添えられている。
「はい! どうぞ!」
 頭巾を取払い、ササッと笑顔で屋内を案内した。
 とっても刺激的だ、と彼女は感じたのだった。只でさえ、客足がまばらだし、暇な貸本屋という家業。希少本の収集以外では、積極的には亀のように動かないのだった。
 だから、いつも気の抜けたような静かな里の片隅の貸本屋で、彼女は静かに待ち望んでいたのだった。自分の与り知らぬ場所から、まるで風がさっと吹いて来るかのように、自分の思いも知らぬ何かが、到来する事を。
 客人は礼を言った。勝手に歩きながら、薄暗い屋内の本棚を物色している。客人の掛けた眼鏡の奥で、相変わらず花の如き笑顔を貼付けていたが、客人の眼前の古本の列の手前に、据えられた瞳だけはやけに硬質だった。まじめに本を選んでいる、というよりは、亡霊に似て、まるで何かを探している。そんな感じだった。
 彼女はニコニコと笑みを浮かべ、その素敵な客人の様子を、横目で伺っている。客人は、やがて一冊の本を見いだして、長い人差し指で、鮨詰め状態の蔵書の一冊の背表紙に引っ掛けて、取り出した。まるでピアノを引くような仕草に、彼女は目を奪われた。蔵書に慮るような心のようなものが、その一瞬の間に込められているような気がしたのだった。
「ほほう、これはおもしろい」
 三日月のように唇を歪めて、客人は誰に言う事無く、言った。
「お気に召しましたか?」
「『百鬼夜行絵巻現代解説本』、印刷が奇麗だな、これは写真に活字……か?」
 尤も妖怪の山では、写真や新聞印刷の技術は進んではいるのだが。決してはそれらは、この里に齎される事は無い。
「えぇ、そうだと思います」
「ふむ、幻想郷にもこんな進んだ技術があったのか」
「? いえ、その本は外来本ですので」
「外来本?」
 客人の表情に、隙が生じた。どうやら、客人の知識には外来本についての、あれやこれやは含まれていないのだった。彼女は得意な顔になり、一席をぶった。
「外の世界の本のことです。ですからその本は唯一無二なんです。同じような本は作れません」
 合点したかのように、客人が「ふーん」と頷いた。
「そうかい、そうかい。それにしても、懐かしいのう」
 彼女は頭の中に「?」を浮かべて、思わずマンガのように首を傾げた。しかし、客人の口から発せられた、意外な言葉はますます彼女の胸の内を、激しく撹拌した。外の世界の事を、知っているのかしら?
「……ところで。幻想郷で書かれた本はないのかい?」
 見定めるように、その硬質な瞳が二つ、彼女に向けられた。
「本物の『百鬼夜行絵巻』のような」
 彼女は、その硬い目に引き込まれる。彼女は待ち望んでいたものが、やってきた。何故か、彼女にはそのように思われた。



「そのような、本格的な本はうちには置いてないので……」
 その、硬い目に引き込まれそうになる自身を、奮い立たせるかのように、答えた。ふむ、と相手は頷いた。
「そうか。いかにもありそうな気が、したのだけれどなぁ」
 そして、その素敵なお客は、このように言ったのだった。
「儂はうっかり、ここには、本物の本ばかりが置いてあるかと思いましたので」
 本物、と聞いて俄に彼女の顔色が曇ったのを、その素敵な客人は見逃さない。笑顔を彼女に向け、その素敵なお客は答えるのだった。でも、その笑顔には、悲しみは伴っていなかった。うっとりとした表情を浮かべながら、『百鬼夜行絵巻現代解説本』の表紙を愛おしそうに撫でている。余程気に入ったのかな、と彼女は何となくその素敵なお客の表情や洗練された所作がますます気になってきたのだった。
「妖怪の本に、ご興味あるんですね」
 まぁ、とだけ曖昧にその素敵なお客は答えた。その時、彼女もまた一瞬の、お客の表情の奥底に生じた襞を見逃さない。その、美貌の上に取り繕った表情の見えないところで、何かが音を立てて寄り集まったのだった。感情の襞、というものを生まれて初めて、彼女は知ったのだった。
「あまり、自慢出来るような趣味では無いが……」
 恥ずかしそうに笑う。ますます彼女は、そのお客に興味を持ってしまった。 
「それで、妖怪は、人間と違いますか?」
「うん、違うな」
「どう、違いますか?」
 こうした言葉のやりとりに対して、どこか神経質になっている自分がいる、と彼女は思う。言葉とは生きていて、だが口伝えの言葉はすぐに死んでしまう。人と人とのやり取りの中で言葉は産まれ生きるが、その言葉のやり取りを踏み外すと死んでしまう。そういう考えに、囚われている。
 まるで尋問しているようだ。だが、と片隅から別の考えが染み渡るのだった。
 彼女は、目の前のお客さんに忖度出来る権利を持っている筈だ。ここにある本に興味がおありのようだけれども、だからといって誰でも良いからと本を渡す訳にはいかない。こちらにだって、お客を選ぶ権利がある。
「どう違うって、まず寿命が違うんじゃないかい。」
「他に、ありますか?」
「他に……そうだなぁ。力が強い」
「妖怪って、子供を作るんですか?」
「子供……そうじゃなぁ。種族によっては作るのかなぁ」
 彼女の子供のような純粋な好奇心の問いに対してだろうか、多少まごついたような影が差したのを、見た。
 しかし、何をしている人なんだろう。稗田家の少女のように、インテリのような気質を纏っているし、きっと民俗学の学者さんなんだろう、と彼女は思った。しかし、今までこの店にやってこない、というのはどうも怪しいものだ。初対面には違いない。だが、小さくて狭い里の中だ、殆どの人間が顔見知り同然なのに、どういう訳か、いくら記憶を辿ってみても、生まれてきてから、いくつも目の前を通り過ぎて来た里の者の、揃いも揃ってぼんやりした顔ともその笑顔は一致しないのだった。
 やはり、そのお客は里の者ではないと彼女は感じた。
「妖怪のどんなところに、ご興味がおありなんですか」
「シンパシーを感じるぞい」
「本は結構お読みになるのですか」
「いや、意外と読まないよ」
 そういう質疑が、続いた。その素敵な、お客は自由にお店の中を歩きながら、彼女はその後をついて回る形で。彼女は適度な距離を保ち、適度な間隔をもって、その臈長けた横顔に話しかける。
「あの、そういえば。所謂、本物かどうかは判らないのだけれども、最近裏の蔵から面白い絵巻が見つかって」
「それも見てみたいな」
 店の奥の方から、彼女が恭しい様子で巻子本を持って来た。黒い、動物の皮を剥いで持って来たような生臭い感じの装丁を見て、お客は喜びの色を浮かべた。どうやら当たり、のようだ。
『私家版百鬼夜行絵巻最終章補遺』という、舌を噛みそうな程ややこしいタイトルを読み上げた。その素敵なお客が手に取った瞬間、貼り付いた笑顔の奥で、まだ感情の襞がくしゃりと音を立てて生まれたのを、聞いた。驚きと歓びと所有欲をかき合わせた、襞だった。
「これは中々……」
「珍しいものだと思いますか?」
「うん、相当珍しいと思うぞ」
「やはり御目が高いですね。かの『百鬼夜行絵巻』の続き、と言われていますわ」
「うん、これは妖魔本……かもしれん。いいなぁ、欲しいなぁ。ねぇ、譲ってくれないかな……」
「そうですねぇ。でも、まだ売り物ではないから、そう、急に言われてましても、困ったわ。」
 お客のおもねるような視線に対して、ついつい何となく気分が良くなって、彼女はいつも以上に、にこやかに答えたのだった。ついでに、仕様がないですねぇ、まあ、そこまで熱心でしたなら……というどこか嫌みな響きの一声も添えた。でも、本心では無い。もう彼女の心は、しっかりと決まっている。ちゃあんと売ってあげる。お金だって、少しくらい負けてあげるというものだ。
「でも、まぁ。結構ですよ。」
「本当かね。それは嬉しいものだ。ところでお値段はどれくらいのものかね」
 彼女は、『私家版百鬼夜行絵巻最終章補遺』の値段を、大体の相場に照らし合わせ、頭の中で素早く計算した。そして、その通りの金額を、素敵な客人に告げた。お客は案の定、目を丸くしていた。
「流石に高いな」
「そうですよね。その、何と言うか。お金は……少しだけ、お安く出来ますよ」
 意外な彼女の申し出に、その素敵なお客は表情をますます柔らかくしたのだった。そして次の瞬間、件の素敵なお客の、丸い眼鏡の奥の、硬い目がまるで、眼鏡の奥で溶けかけの氷のように和らいだのを、彼女は確かに見た。そのお客が見せた感謝の念だったかもしれない。が、果たしてその効果が本当に覿面であったかどうか、は怪しい。何か、そのお客に対するとっかかりになれば、と彼女は思っていたから。
「そうか。それは、ますます嬉しいぞ」
 あっさりと言うものだ、と彼女は些か落胆を覚えたのだった。もっと感激してくれればいいのに。
「ところで、あなたは覚えていらっしゃいますか。私たちは、一度だけ、お会いした事があるのですけれども」
 相変わらずの貼付けたような笑みを残しつつ、その素敵なお客は言った。
「そうでしたか、きっと何かの祝祭とか酒宴で、お会いしていたかもしれないのう。申し訳ないが、儂の記憶には残っていないのう。まぁ狭いから、この里は。すれ違ったりして、どこかで顔を合わせているのかも」
「そうですよね、まさか覚えてはいないですよね……」

 ○
  
 彼女は、そのお客がお店から静かに出て行くのを見送った。無花果のような香りが仄かに残っている。彼女の姿が、まるで薄暗い部屋の中に、香りの気配だけ残して、あのお客が歩き回っているかのようだった。
 昨日まで大分降り続いていたので、里は深い雪に包まれていた。辛うじて人が歩けるだけ、雪はかき払われている。里の真ん中を奔る河に、里人がどんどん雪を捨てて行くので、店の暖簾の隙間から、眼路の限りに見えていた筈の澱んでいた水面の約半分は、古雪の山と化している。子供が昇ってはしゃぐので、寺小屋の先生が、時折、集落を越えた先に広がる農地へ続く、灌漑のほとりを見回るのが習慣となっていた。
 凍り付いた戸口にしゃがみ、あのお客の姿を探した。往来の真ん中に、先ほどまで薄暗い屋内に浮かんでいた、鶯色の外套に包まれたひょろりとした痩躯が、ちびた下駄の上に支えられて突っ立っていた。その傍らに、深紅の衣装があった。
 あれは……と、気が付けば暖簾の隙間にへばりついて、その始終を追うようにして、見守っていた。周囲の人間達もどこか落ち着かない様子だった。まるで酔っぱらいの喧嘩や気違いの戯れ言を、距離を取りながら見物しているかのような、恐怖を顔に滲ませていた。
 彼女は、まるで混乱していた。どうして、あの巫女に絡まれているのだろうか? 周囲の色褪せた家屋の群れや、重く里にのしかかるように積もる雪や、みすぼらしい人達から、切り離されたような深紅の装束がいる。これだけで、里は、ほんの少しだけ騒然となる。
 彼女が外に出て行こうと、暖簾から目を離した。しかしもう一度、どうなっているかなと思って暖簾の隙間からのぞいてみたら、あのお客の鶯色の外套は、消えていた。その代わり、巫女がこちらにやってきた。彼女は覗き見していた自分から、恰も今この瞬間まで、店の中で立ち働いていたかのように見せなければならない。巫女に怪しまれては、面倒だ。彼女の疑惑は、まるで知らぬ間に世間に波及していくからだ。
 彼女は文机に戻り、布巾片手に掃除を始める。あくまで、さっきまで掃除をしていた体。

 ●

 これはまた別の日。鈴の音が、鳴る。
 彼女は急いで読んでいた『私家版百鬼夜行絵巻最終章補遺』を背中に隠した。ばっと素早く隠した。そうしたら、あの眼鏡のお客がやってきた。レンズの奥で、理知的な光の目玉が二つ。
「あら、いらっしゃいませ」
 眼鏡のお客がウィンクで答える。今日はちょっと、最初に会った時よりも幾分か自分に対する親しみが増したような感じだった。
「礼の絵巻は誰にも売っていないかい?」
「え? ……ええ」
 後ろで手を組んだふりをして隠した、例の『百鬼夜行絵巻』だった。
「儂が買おうじゃないか。用意してきたぞい、お金」
「あーあいにく『百鬼夜行絵巻』は売らないことになりまして……」
 その瞬間、眼鏡のお客は、絵にかけるくらいに落胆していたのあった。そのあまりの落ち込みぶりに、彼女は思わず吹き出しそうになった。
 何て子供のような人なんだろう、とまず一つ。欲しいものが手に入らなくて、拗ねてしまった子供のようなものが、目元から鼻にかけて、それまで端正な平衡を保っていた線が、一瞬崩れたからだった。まるで、赤ちゃんが泣き出しそうな時に現れる、皺そのものだった。がっかり、という音が聞こえてくるかのように思われた。
「あ、そう?」
 がっかり…と項垂れて。そして辛うじて、大人の尊厳をどこからともなく引っ張りだして、顔に塗りたくったような、そんな表情を浮かべてまた一つ、意外な顔を思わず目の前にして、何となく嬉しかった。
 この人は、きっと自分の好きなものしか興味が無いのかな、と彼女は思ったりした。自分が美しいと思ったもの、自分が素晴らしいと思った存在、そんなものにしか興味が無いんだな、と思った。だから、たかが本一つに表情が右往左往するのだ。悲しかった。
「そりゃ、残念じゃ……。誰かにそう言われたか?」
「え?」
 なんて鋭いのかしら、と彼女は当惑した。あはは……、と作り笑いのようなものが口から零れて、何とかごまかそうと取り繕うのが精一杯だった。
「う〜ん、まぁその何て言うか」
 上手な言い訳が出てこない。彼女は焦った。対面の、眼鏡のお客は鼻白むようなため息を、白と黒の格子柄の首巻きの奥から、漏らしたのだった。
「儂が有効活用してやろうとおもったんじゃが。まぁいいわい。その絵巻を使うのは、月に一回くらいにするが良い。いつか恐ろしい妖怪を呼び寄せてしまうぞい」
「な、何の話かしら?」
 唖然とする彼女をよそに、あの貼り付けた笑顔を一つ浮かべて、ヒラッと暖簾を潜って店を出て行ってしまった。すると、店のあちこちにおかれていた食器や壷やその他家財道具が、カタカタと震えだした、そして、にゅっと足が生えて来たので、彼女は思わず飛び上がった。それら安物の食器類が、行儀良く整列し、その眼鏡のお客の後をついていく。まるでお祭りのように軽やかに楽しげに。気持ちの整理が出来ていないまま、呆然とするしかない彼女なんてお構いなし、にである。
 彼女は、その後を追った。何だか、その背中を追いかけたかったのだ。暖簾を潜り抜け、彼女のお古のブーツが、往来に積もった根雪の硬質な感覚を捉えた時、彼女は思った以上に硬かったので驚いた。湖の氷を踏み抜いた時には、こんな感じなのかな、と思った。ブーツの底は、氷の結晶の一つ一つが静かに潰れ行く音を、確かに噛み締めるように拾いあげていた。
 往来には、誰もいなかった。人一人、いない。寂しげな彼女の背中一つ、残されていた。根雪の瘡蓋で窒息しかけた、この里で。置いて行かれた、と身勝手な感慨が、何故か他人事のように彼女の臓腑を凍てつかせたのだった。

 ●
 
 また、鈴の音が鳴る。チリンチリン。
「やってるかな?」
 どこか気だるげな笑みを貼り付けた、あのお客がやってきたのである。
「いらっしゃいませ!」
 彼女は思わず目を輝かせたのだった。
 傍らでお茶を飲みながら、店の貸本を読み耽っていた霊夢と魔理沙は、彼女が一瞬で変貌する様に何となく心を奪われた。先ほどまで子供に本を読み聞かせていた少女の面影に、少し残っていた母性は、しゅるしゅると縮んで消えた。まるで思い人がやって来たかのような女の顔になったのを、魔理沙はさりげなく見逃さなかったのだった。 
「あ、あんたは」
 一方で、店の中に颯爽と入って来た、流麗な長髪のお客を見て思わず霊夢は仰け反った。その深紅の装束の巫女は立ち上がって何か言いかけた。が、口を開いたまま塞がらないようだった。成すべきことも、言うべきこともあった筈なのだが、お客の存在感に目を奪われている。そんな感覚だった。
「あれ、知り合いなの?」
 彼女が少し訝りながら、微妙な距離を取りながら見つめ合っている二人に話しかけるように、言った。
「知り合いというか、何というか……」
 その時、答えに窮した霊夢の脳裏に浮かんだもの。妖怪と昵懇してした人間が、どのような末路を辿ったのか、極めて端的にその画が浮かんだのだった。表向きは平々凡々に接しようとはするものの、影では噂を立てられ、知らぬ内に隅へ隅へと追いやられ、のけ者にされる。村八分にされても、それでもまだ差別の色眼鏡を通した、奇異なものを見る目線を送られる。自分がするまでも無く、一生監視に近い視線を浴び、生きることになる。
 里の者は、こいつの正体を知っているのか? 目の前の娘は? 
 そんな霊夢の心情を知ってか知らずか、また傍らの戸惑い顔の少女の心情にも慮るような様子もなく、上着の懐の物入れのところから、一冊の本を取り出した。和綴じの本で、タイトルには『文福茶釜』と認めてあった。
「まぁ里で博麗の巫女を知らん奴はおらんて」
 にこりとする。そんな笑顔に不安げに、しかし半分は魅入られているようにして見つめている、貸本屋の娘。人の心に鎖はつなげない。人は雪雲を見る事は出来る、しかし雪を避ける事は出来ない。
「それより、今日は買い取ってもらおうと絵本を持ってきたんじゃ」
「あら、何かしら?」
 と彼女が首を傾げた。
「『文福茶釜』、心優しい狸の恩返しをテーマにした、ハートフルおとぎ話じゃ」
 例の、蔭のかかった貼り付けた笑顔を彼女に向けた。
「最近子供たちが、狸を虐めているようだからのう。少しは動物を思いやる優しい心をもった方が良いかと思ってな……」
 黙って聞いていた霊夢が、ここで思わず叫んだ。 
「何、言ってるのよ! 妖怪狸も妖怪よ? 子供がさらわれたりしたら、どうしてくれるのよ」
 無分別にさり気なく妖怪の主義を広めようとしている二ッ岩マミゾウと、それを受けて貸本屋という、それなりの地位の領分を越えた私的な感情で、目の前の妖怪におもねる視線を送り続ける彼女の姿に、何となく苛立ちを覚えたのだった。
「ねぇ、小鈴ちゃん! こんな人の言うこと聞かなくてもいいからね!」
 小鈴ちゃん……彼女の表情に逡巡で生じた空白が浮かぶ。恰も霊夢と客、二つの顔を天秤にかけたような顔を彼女は浮かべた。常に怒りっぽい色が滲む霊夢の美貌に、ひと際神経質な感じの苛立ちが増すのだった。
「……は、はい! そうですね!」
 長髪のお客に向かって、これ以上は無いというくらいの満面の笑みを浮かべて彼女は欣喜雀躍とした様子で答えた。結局、彼女の天秤は、例の胡散臭い客に「ころっ」と傾いたのだった。
「動物を思いやる心は大切だと思います。今度から『文福茶釜』もレパートリーも入れたいと思います」
 きりっと言った。レパートリー。貸本屋で開催される朗読会の絵本を指していて、大体がおとぎ話だった。幻想郷では本はかなり貴重で、高くて買えない子も多い。だからせめて、と彼女は子供たちに読み聞かせているのだった。妖怪から身を守る手段くらい身に付けてもらおうと思って、と彼女は言っていた。
 霊夢はがっくりと項垂れる。霊夢たちに、「妖怪から子供たちを守ろう」と自身の使命感を語っていた彼女は、果たしてどこに行ったのやら。そして霊夢の方を振り返り、これがまたはり倒したくなるような、無邪気な膨れっ面で「霊夢さん、お客さんに向かって“こんな人”なんて言わないでください」という余計な一言がおまけでついた。巫女は折れた。
 取り敢えずこの場は、意味不明な彼女の気負いに負けた形に治める事にして、思わず「あ、う、うん」とこれまた意味不明な呟きを漏らす霊夢だった。傍らで魔理沙が思わずくすくすと笑っている。
「この『文福茶釜』は儂が書いた特別な本じゃ」
 怪しい光を眼鏡の奥の双眸に「キラーン」と宿して、こんな風に言うのだった。
「さぁいくらで、買い取ってくれるかのぅ」
 霊夢は。
「それは妖怪本だ!」
 と言いかけてやめた。
 マミゾウが妖怪狸だとばらすと騒ぎになるし、何より妖怪と仲が良いように思われると、霊夢としても不都合だったからである。鈴奈庵には、こうして妖怪本が増えていくこともあるようだ。子供たちに読み聞かせていた時は、少し見直した霊夢だったが、やはり監視を続けようと思うのだった。
 そんな霊夢を差し置いて、鼻歌でふんふん言いながら奥へ引っ込んでいった。お茶を入れに母屋へ戻ったのだろう。例の客は本棚の側に設えられた椅子に腰を埋めて、本棚から適当に選んだ本を開いて、まるで自分の家のように寛いで、本を開いている。彼女が奥から入れてきたお茶が入った、陶器のカップを配る。
 魔理沙はさっきの一気触発の空気などなまるで知らない、そんなふりを決め込んで、書棚から面白そうな本を物色している。
 ちらりと見た時にも、確かにそのお客は、店の中の椅子に身を埋めて、本を読んでいた。

 ○

 どれくらいの値うちがあるものかな、と彼女は絵本を開いてみた。よくは判らないが、手作りだと言っていた。ページをめくると、まず目に飛び込んできたのは可愛い狸のイラストだった。
 毛筆のタッチが、狸のごわごわした毛並みをよく現していて、面白かった。
 さっきは狸が虐められて……とか言っていた。動物好きなのかな、そういえば、狸って最近里にも畑にも沢山出るようになった。やけに人懐っこいので残飯をあげたりする人もいるが、時としてそうした狸の群れは、畑や田んぼを荒らしたりもするので、どうしたものかと大人たちが話し合っていたのをふと思い出す。
 頭の中で、大体の買い取り額の相場に、少しだけ色をつけてみた。
 最後のページに和紙が挟まれていた。
 何度か筆跡を目で追いかけ、それからまた店の中を見渡す。見渡したのは、何故か言い様の無い不安に囚われたから。嬉しさよりも、何故か不安だった。
 胸ポケットに例の和紙を仕舞う。それは、大切に大切に。
 案の定、あのお客の姿は見えなかった。先ほどまでゆったりと寛いでいた筈の椅子は、もぬけの殻だった。椅子の背もたれに触れると、微かに、暖かかった。確かにここに居たんだ、と彼女はまた嬉しくなった。いつもよりも感情の起伏が、明らかに変だと、自分自身のことを怪しんだ。
 巫女と魔法使いの方を見ると、平然とした様子でぺらぺらと売り物の本のページをめくっている。
 こういったことは、日常茶飯事なんだろうか。妖怪退治という、あまりに浮世離れした馬鹿馬鹿しい現実に身を置く二人が、その時ばかりはいつもよりもっと遠い存在のように感じられた。
 彼女は、椅子に置いてあった陶器のカップを黙って片付けた。殆ど口がつけられていないカップの中の液体に目を凝らし、店の奥の土間に向かう。父が三円で買ったという謎の年代物のへっついが並び、つくばい式の流しが土間の隅に配置され、屑入れから発せられた生ゴミの匂いが仄かに横溢している。流しの傍らには調理道具の入った籠が置かれ、包丁から雫が垂れている。
 暖房の暖気も届かないから、朝になると手足が凍てつく程冷える。朝になれば、母と並んで家のものの朝餉を支度したりもする。
 さて、どうしたものか、とカップの中を上から覗き見るように、見る。
 何となくもったいない気がして、そのまま一息に飲んでしまった。ゴミだって出来る限り減らさないといけないし。少し苦い、セイロンの紅茶を嚥下して、やはり、これはあまり好きではないなと思った。山奥でひっそりと、このお茶は栽培されていると聞く……。何でも妖怪の山の技術が、一役買っているのだ。
 どきどきしながら、もう一度、例の和紙をブラウスの胸ポケットから引っ張りだした。
 日が落ちて、お店を閉めたら、命蓮寺のお墓に行くべきかな? あそこにお寺が立ってから、野良同然に放っておかれた共同墓地から、寺が管理する墓地へ墓を移すものも少なく無い。
 ……夜出歩くのはよそうか。いくら安全な寺の敷地とはいえ、むやみに出歩くものではない。皆心配するしなぁ。でも、ここには確かに夕暮れ時のようなことが書いてある。
 二人にはもう店じまいである旨を伝え、殆ど追い出すような形で引き取ってもらった。巫女の方は、何か訝しげな表情を浮かべながらも、「気をつけてね、せいぜい、道を外さぬよう」というよく判らない一言を残して、消えた。
 里の外れの、元々空き地だった場所に、彼女は向かう。
 夕暮れ時の、里の真ん中を歩く者はただ一人、彼女だけ。
 夜の暗澹と真っ赤な夕日が混じりあう瞬間だった。誰もが氷点下を迎えようとする外界から逃げ出すように家に引き蘢ってしまう。足萎えも、童子も、働き盛りの大人たちも。
 里に重くのしかかる雪の結晶一つ一つに染み込んでいる日の光は、ある時間になると外界に拡散していく、そして陽炎のように宙に跳ね返り、何度もそれが繰り返されて、雨のように光がひっきりなしに、橙色の光が四方から、思いも寄らない所から降り注ぐ。
 袋小路ばかりのややこしい区域で、寒さと疲れのあまり少し泣きそうになりながら彼女は歩いた。徒歩という行為が、ある種の苦行のように感じられたのだった。歩き慣れた筈の往来を外れたところの、隘路に積もり積もった根雪をブーツの硬い裏側で踏みしめながら。
 浪人らしい襤褸を纏った男が、共同便所の傍らに座り込んでいた。それ以外には、人影らしいものには出会わなかった。命蓮寺には、日没前に到着することが出来たのだった。多少大げさな門の下を潜りぬけた。
 境内の中は、すっかり歩きやすいように雪かきされていた。熱心且つ敬虔な信者を数多く抱えている命蓮寺らしい、清潔さだった。参道の石畳に従って、十字路に辿り着くと、そこから北の方角に折れ、緩やかな傾斜を昇って、やがて墓地に辿り着いたのだった。
 墓地は思ったよりも広大で、無数の墓石の群れが寒空の下で一様に無表情を決め込んで、生者の到来を待ち構えている。拒むのでもなく、受け入れるのでもなく、ただ待ち望んでいる、生者の到来を、である。
 人っ子一人居ない、そんな墓地の真ん中に、自分からのこのことやって来たくせに、置いてけぼりにされた子供のような寂しさが胸に沸き上がって来たのだった。
「お客さぁん」
 と彼女は叫ぶのだった。叫ぶ、といってもそれは頼りない声だった。今日は雲一つ無い天気だった。彼女の声は、遮るものの無い寒空へ、ぐんぐんと吸い込まれていく。
「お客さん、絵本のお代をお忘れですよぉ。こんなところに私を呼び出して、どういうつもりですか」
 いつの間に、彼女は滂沱と涙を流していた。整然とした墓地だが、寂寥として死者の気配漂う場所に只一人、残された少女の機微が暴走している、そんな感じだった。
「お客さん、私、あなたの名前を知らないの。名前も知らないのに、どうして、どうして……」
 その場に座り込んで、彼女は両手で溢れる涙を拭った。革の手袋を外して、言いようの無い感情を整理しようとしていた。
 視界の隅に、墓地の果てが見えた。文字通り、それは命蓮寺の土地と、誰の所有でもない原っぱの境界線の所だった。
 墓地の参道は、鳥瞰するならば、原稿用紙の升目のように、正方形に縦横に走っている。無言で立ち並ぶ墓石の間をすり抜けるように、のそのそと、その参道を歩き出した。
 墓地の外れから、さらに先の原っぱに、そこはもう誰も手が付けられない程に荒れ果てた原っぱだった。今は雪原と化してしまっていて、まるであらゆる制約から解き放たれているかのようで、それでもその先に、彼女は一本の樹を見いだした。その雪原の樹を目指して歩けば、命蓮寺の敷地をぐるりと巡る壁の面にぶつかる。
 近くに寄って見てみれば、壁の一部が不自然に取り壊されている。そこから、その樹に続く一本道が走っている。これも、やはり信徒の手に寄るものなのかしら、と彼女は思った。その一本道を、彼女は歩いた。
 それは近くで見てみれば、松の樹だった。防風林で植林されたものの生き残り、と言った風情である。その袂に一人、例の長髪のお客が幹にもたれ掛かるように立っていた。傍らには、子供の背丈ほどの墓石が一つ、雪に埋もれそうになっている。
「これは、無縁塚」
 愛おしそうに、その石塚を撫でる。
「この幻想郷に住む動物たちの、ね。儂が無理言って、命蓮寺の住職殿にお願いして、何とか立てさせたのだ。たまに線香をあげてくれる」
「どうして、こんな離れた場所に立てたのですか? 人間と同じ場所に葬ってやれなかったのですか……」
「うん、この子たちはね。人間に虐められたり、罠にかけられたりして、命を落とした者たちなのじゃ。そういう子たちを、人間と同じ墓所に眠らせるのは、少しだけ、抵抗があったんじゃ」
 ふっと笑って、そのお客は片手に持っていた瓢箪のような入れ物を、口にもってきたぐっと傾けた。あれってお酒だろうか……。
「どうして、こんなところに? あ、あの霊夢さんと何かあったんですか……」
「うん。中々説明し難い、因縁深い関係でね。まさかあそこで鉢合わせするとは思いもよらなかった。あれ以上はどうしても。兎に角、儂としても出来れば二人っきりで、ちょっとお話したかったなんじゃ」
 この寒々とした雪原では、普通に話していても、辺りにふわりと生きた言葉は広がり木霊するのだった。障害物が何も無い広々としたところだったし、何より物音が僅かな風音の他、何も聞こえなかった。雪原の上を撫でるように走る風の音以外は。雪の風紋は、切ないような口笛に似た風の響きを持ち去って、渦を巻いて、また細かな粒になって散らばり、空に舞い上がって消えていく。
「あの、これは本のお代です。お渡し出来なくて」 
 彼女が差し出したお金を、受け取ることも無く、墓石の側から離れようとせずにいた。
「あの、お名前、何て言うんですか?」
「二ッ岩」
「……あぁ、二ッ岩さんですね」
「そういうあんたは、本居さん、じゃろ……?」
「はぁ、そうですよ。そうですけれども」 
「儂は、あの絵巻が欲しいんじゃ。あんたが売らぬと決めたあの百鬼夜行絵巻。あの絵巻は、あんたの手には負いきれん代物だ。あんたも重々承知しておるのだろう。あれは、あんたのような人間が持っていてはいけないものだ。あんただって、知っているだろう。あの本の恐ろしさを」
「はい」
「そういえば、ずっと昔だがね。あんたとそっくりな人間に、儂は出会ったことがある。その人も、あんたと同じように、誰にも読めない本を、大昔の物語を勉強して読む事が出来た」
「その人、どうなったんですか?」
「どうもせん。後世に対して、大変有意義な研究結果を残した」
「凄いなぁ」
「あんたも生まれた場所や時代が違ったなら、そういう人になっていたかもしれないな」
 話の要点がいまいち掴めず、彼女はその鶯色の紋付羽織に包まれた痩躯を、わざとらしくじろじろ見たのだった。
「ここ、寒いですね」
 意味も無く、彼女が愚痴のように言うのだった。市松模様の首巻きの端が、旗の様に、時折揺れている。一方、彼女はいつもの着古した袴の下に、お下がりのズボンを、すっかり彼女の足に馴染んだ例の皮ブーツという出で立ちだった。
「あっ……すまない。人気の無い所に、と思ったのでのう」
 道行きのコートに包まれた、彼女の事を見ていた。自分が何となく見られているような気がして、突然恥ずかしくなった。
「よく、ここがお判りになったね。あのメモで」
「まぁ、何となくです」
「うん。兎に角、あの絵巻は、誰にも売らないこと。大事に取っておくんじゃ。いいね? いつか儂が買い取りに参るから。二円でも三円でも、あんたの言い値で買うよ。どうせ、例の巫女やら胡乱な魔法使いに『売るな』とか言って脅されたんじゃろう?」 
 その、二ッ岩さんは念を押すようにして、彼女に伝える。
「判りました。誰にも売らないし、渡しません。あなたの為にとっておきますよ。それよりもあなたと私は、ずっと前に博麗神社でお会いしていましたよ。本当に覚えていないんですね?」
 そうかな……。と二ッ岩さんは、首を傾げた。きっと、どうでも良いと思っているに違いない。二ッ岩さんが欲しかったのは、あの百鬼夜行絵巻を誰にも売らないという言質に他ならないのであった。そのことに、臓腑が痒くなるようなもどかしさを彼女は感じているらしかった。
「会いました。私、あなたに体を奪われました」
 その時初めて、二ッ岩さんの表情が壊れた。予定調和を第一義とする物書きみたいに落ち着き払っていた、その表情が、一瞬で崩れていくのを認めた。
「何じゃと」
「境内の裏の、誰もいないところで。樹の袂でした。春くらいだったと思います。博麗神社のお花見で。その時、私もちょっとお酒を呑んでいたから、曖昧だけれども、これだけは覚えています。確かに、あなたでした。お店にお見えになった瞬間、すぐに判りましたら」
「それは、本居さんの勘違いじゃ」
 お酒の入った瓢箪を片手に、茫漠とした蔭が刺している。酒のもたらす隠微なアルコールの勢いが、新陳代謝の流れの中で全身に回っている筈だった。それでもどこか理知的な言葉を発しているのは、真に不思議な事だった。
「私、初めて稗田と一緒に博麗神社に参上したのです。噂通りに、妖怪だらけだったけれども、楽しかった。里のように、寒々として、閉じこもった感じでなく、みんな自由で、華やかだった。まるで稗田の描く幻想縁起そのものでした。私はお酒なんて飲んだことがありませんでした。家の者に、大きくなるまで飲んではならない、と禁じられていましたから。でも、その日はついつい飲んじゃった。それまでは、お酒なんて苦くてまずいと思っていたのですが、まるで喉からお腹にすっと染み込み様に、お酒は美味しかったです。あとで、聞いた所によると、博麗神社で密造しているお神酒を、特別に振る舞ったものだったとか」
 二ッ岩さんは、もうお酒を呑んで居なかった。黙って、彼女の語る言葉一つ一つを拾うように、彼女の浮かべる表情丸ごと飲み込むように、聴き入っているらしかった。
「お酒は程よく甘くて、でも嚥下するとその後でちょっぴり苦みが舌の上で走って。後を引く美味しさでした。気が付くと私は、だらしなく酔っぱらっていました。人間以外の、生き物の声が木霊して……。少し気持ち悪くなって。それで気が付くと、あなたにだっこされていました。あなたは、私の顔を覗き込んで心配してくれました。きっと介抱してくれたんですよね」
 遠くの山から、山鳴りが轟いて微かに雪原をふるわせた。
「私は、何だか。体と魂が離れているような感じでした。人熱れにも、騒音にも何となく距離を取りたいと思って。でも、あなたにちゃんと伝わったかしら……。そういうことをあなたに言ったのを覚えています」
 ふと、二ッ岩さんの体から魂が抜けていくような感覚を、何故か対面の彼女がある種の錯覚として味わった。
 それはまるで、過去の自分を己のうちに探しに出歩くような、もっと端的に言うならば、自分の曖昧模糊とした過去を尋ねるような、そうとしか言いようの無い錯覚だった。
「気が付けば、神社の裏の、大きな大木の下に私たちはおりました。人いきれからも、雑音からも隔絶されたかのように、そこは静まり返っておりました。空気はひんやりと澄み切っていました。今考えると、あんな静かな場所は、里のどこにもありません。でも、私は気が付くとすっかり気持ちが良くなって、それで、あなたの手が触って来ても全然気にならなかった」
「儂があんたを。いや、あんたは酔っぱらっていたんだろうが。あんたの見てた夢か妄想だよ、そりゃ。あんたの妄想に、儂のことを巻き込まないでくれよ」
「あなたは、私の事を抱きながら、外の世界のことを教えてくれました。自由があるって」
 ふと、お客の表情に新しい変化が見られたので、思わず彼女は見せつけるように、にこりと笑ってみせた。相手からすればさぞかし不気味なものに映ったのではないかと自分自身の姿を想像してみたが、周囲の風景と、自分やお客の二ッ岩さんの影とが、全く結びつかず、胸の底で中途半端に凝ったように情景だけ、漫然と脳裏に滲みだすばかりであった。
「外は自由で、何にでもなれるって。あなたは教えてくれたもの。そういえば、あなたも相当酔っぱらっていましたよ」
 彼女は思った。きっと二ッ岩さんは、想像しているだろう。自分たちが、境内の人気の無い裏側で、していたことを。まるで、過去の記憶に自分自身が支配されているかのように、彼女はもがいているのだろうか、とも思った。過去の知らない自分を見つけてしまい、少し狼狽している。
「もう日が落ちましたね。」
 あぁ、と言って二ッ岩さんは呻いた。それからは、言うべき言葉は、もう絞り出してしまったように、押し黙っていた。
「大丈夫ですよ、あの巻物は誰にも、売りませんから。あの巫女と魔法使いの監視が無くなるまで。無くなったら、ちゃんとお売り致します。あの、お家の途中まで送って頂けませんか?」
「あんたは恨んでおるのかい? その、例え今の話が本当だとしても」
 その声を受けて、彼女が恐る恐る手を差し出すと、二ッ岩さんは何も言わずに握ってくれたのだった。
「いいえ。それよりあの巻物、とっても面白いんですよ。付喪神とかですね。色んな妖怪が載っていて、間違いなく資料としても貴重だと思いますし」
 夕暮を越えて、ますます寒さが増して来ると、溶けかけた雪がまた冷えて固まって根雪になる。彼女のブーツが雪を踏みしめる度、命蓮寺の墓所に続く道に、ざりざりとわざとらしく大きな音が響くのだった。踞るように屹立する墓石の群れがあまりにも小さくて、以外と遠いように思われた。自身の遠近感が狂ったのか、それとも何か全体を構成するものの螺子が緩みだして崩壊の兆しを見せているのか。胸の内に、そういう言葉が浮かんだ。
 夜空には雲一つ無い筈なのに、間も無く二人は埃のように細かい粉雪に見舞われた。ますます寒くなって、鼻のあたりがむずがゆくなり、思わずくしゃみを一つ彼女は漏らした。
 先頭に立って彼女の手を引っ張るように歩いていた二ッ岩さんは、立ち止まった。彼女は、二ッ岩さんの以外に細い背中にぶつかった。二ッ岩さんの視線の先に、冬の暗澹に飲み込まれつつある雪原が見えた。粉雪が微かに瞼の上にあたって、思わず睫毛をぬぐった。先ほどまで、二人で意味の無い、しかしまるで命のやり取りをしていたかのような、慎重な会話のやり取りをしていた、あの動物たちの墓標と傍らに立つ一本の松の樹が、上から垂れ込める闇の深さと、下から重くのしかかる雪の白さに飲み込まれても尚、ぼんやりと浮かび上がっている。老齢な樹の幹は、これからも、しっかり墓を守ってくれるのだろうか。
「何か……?」 
「何もないが、不安で。儂は命蓮寺に居候の身だけれども、あの墓が雪に埋もれないかと思って。あと、本居さん。さっきの話な。判らん。儂も正直に言って、そういうことがあったんじゃあないかと思っていて、でもだからといってここで弁明するつもりは、ないわい。本当かどうかも、判らないし」  
「あ、お寺にお住みなのですか? 凄いなぁ。命蓮寺は立派だって、皆言ってますわ」
「え……あぁそう。お寺ね。そう。古い友人がおってね。その縁を頼って、ずるずる住み込みで修行じゃよ。さ、参ろうかのう。寒いしね」 
 また歩き出した。どちらかが話しださなければ、永遠に続く沈黙が続くと感じられた。でも、どうしてもどちらか先に沈黙を破った方が、敗北するに違いないという変な緊張感に包まれて、漸く二人は暗い、誰の所有物でもない、雪原を抜け出したのだった。その間、二人は喋らなかった。ただ、雪の吹雪く音が聞こえるだけ。鼓膜の奥に残る程の、風と粉雪が撹拌される音だった。
「あの、またお店にいらして下さいね。待っていますから」 

 ○

 深く積もった雪の、貸本屋の藍色の暖簾の前に置かれた、電動で稼動する木馬の異様な在り方に、その客は不穏なものを感じたに違いない。一体何事かと、しげしげと木馬に近づくと、たてがみから胴体へと一直線に抜けるかの如き刳り形は、想像以上に臈長けたものだった。頭から始まり、尻や蹄に至る動線は、思った以上に滑らかだった。白い染料の上に散りばめられた、主に目や腹に拵えられた模造の宝石が、ちらりと光るのだった。
 そこには無かったが、最近は、外の世界から使い古しのバッテリとコンバータが流れ込んで来て、目敏い里人が、早くもそれを活用し始めている。風力や水力で電気を貯むものもいるらしかった。
 彼女は、店にいつものように収まっていた。鈴奈庵の家主同然の娘もまた、二ッ岩さん同様に黒い衣服を纏って、半ば方針したかのように番台代わりの北洋家具っぽい椅子に腰掛けているのだった。
 鈴奈庵の向かい側の家屋では、葬式の最中で、時折喪服に包まれた里の者達が出入りしているようだった。
「二ッ岩さん、こんにちは。あっ、お向かいのお葬式……」
「うん、故人とは、少しだけ顔見知りで。式次第のお手伝いと焼香だけしてきた。大体命蓮寺の熱心な信者だったからのう。うちの信徒が昨日の夜から総出で式を手伝っていたんじゃよ、いやぁ夜通しは流石に体に堪えるわい」
 懐からハンカチを取り出して、額の汗を拭う二ッ岩さんだった。
「あんたも、お線香あげてきたいのかい?」
「はい、私もお向かいさんだから……」
「お着替えには、ならないのかえ?」 
「なんか、疲れちゃって」
「儂も疲れたなぁ」
 どっと店の椅子に座り込んで、お客は暫く虚空を仰ぎ見て、小さくため息を漏らすのだった。その顔色に僅かな赤みがさしていて、息の中に酒気が混じっていることを、彼女は認めたのだった。きっと、葬儀の合間にこっそりお酒をやっていたのだろう。彼女の顔を見て、へへへと笑いながら、大きく体を椅子の上に広げて、寝不足とアルコールで充血した目を向けている。 
「お酒、ですか?」
「はい、お酒です。葬式で、お酒を飲んではならぬという法があるかね? 葬式は、あんた、お祭りじゃい。なぁ、特に今日は悲しい葬式だったし。飲まずにはいられない祭りだった。あんたも飲んだかね? いや、まさか飲んでないか……」
「どうして、今日の今日まで、お店に来てくれなかったんですか?」
 お客が、何も言わずに、興を削がれたような悲しい顔になった。
「よく判らん」
 それだけ漏らして、立ち去ろうとするお客の手にすかさず、彼女は暖かなカップを握らせるのだった。
「あの、お茶です」
「なぁ、あんたが言っていたのは、ありゃ、やっぱり冗談だろう。」
 お客が、その手を握った。怯えたように、彼女が言った。
「なんでそう仰るんですか……二ッ岩さんだって覚えてないんでしょ? 覚えていないことを、あなたは否定出来るんですか」
 カップが、その手から落ちて地面で割れた。
 もう出て行くよ、と言って二ッ岩さんはその手を振り放した。
「じゃあ、もういいです」
 そそくさと、密かに汗ばむ胸元をちらりと覗かせて、しゃがんで割れたカップを片付ける彼女だった。
「全部、私の妄想です。これでいいでしょ」
「これでいいでしょ、って本居さん、あんた何でそんな嘘をつくんじゃ」
「別に嘘じゃないです」
「あのさぁ……」
 その瞬間、彼女は満面の笑みを浮かべたのだった。
「でも、あなたにとって嘘でも何の問題ないんじゃないですか。私、誰にも言いませんから」
「あんた、自分で何を言っているのか判っているのか」
 完全に酔いが冷めたような、その客人の美しい顔に、不穏な影が差したのだった。その表情には、何も思い詰めたものは感じられなかったが、それでも、どこか相手に無言で問いかけるような、ざわざわしたような、落ち着かなさが虫のように蠢動していて、何となくそれがこちらに伝わってくるような気がした。
「やられたなぁ。本当に油断していた。なぁ。あんたの策略にみごとにはまったと、この場合言えないものかね。酒は、人前で飲むもんじゃないな。あんたみたいに、見た目はほんわかしてても、下手すりゃ、妖怪よりたちの悪い人間の前でな。本居さん、本当に儂は何も覚えてないんじゃ」
「あの、大丈夫です。全然私気にしてないですから」
「じゃあ何で……」
「あの、二ッ岩さん。私、あなたがこのお店に初めてやってきた時、感じたんです。あなたは、やっぱり普通の人とはちょっと違うって」
「……」
「あの、私もこの辺の感情は何というか、表現するのは難しくって」
 すると、彼女はするりと店の外に滑り出るように、軽やかな様子で歩き出した。外の世界の競歩の選手みたい、と二ッ岩さんは思ったという。
「あの、これって外の世界のおもちゃですよね」
 表に出しっぱなしの馬車の背に、ちょこんと両端を揃えて座って、彼女がはしゃいだ。
「これ、どうやったら動くのかしら」
「色々、難しいな。電力を確保しないと。まぁ少なくともバッテリーとコンバータがいるな」
「やっぱり、あなたは外の世界の人なんですね」
 往来と雪の積もった感慨を挟んだ向こう側、葬儀の式次第も一通り過ぎて、漸く一息ついて静かになった長屋から、一人の尼がのそりと出て来た。黒い装束のまま、こちらに一瞬視線を送ったように見えたが、何事に無かったように疲れきって丸くなった背中をこちらに向けて、長屋の中に入ってしまった。入り口に、彼女の白い吐息の残滓が残っているような気がしたが、すぐにその錯覚は消える。
「一輪殿も、疲れておるな。煙草でも吸いに出て来たのかな。しかし、変なところで人間くさいからな、命蓮寺の連中どもは」
「皆さん、相当お疲れなんですね」
「まぁ、色々あって」
 ため息をついて、しゃがみ込んだ。二ッ岩さんは、冬の寒さの重さに耐えきれないように、うずくまって向かいの長屋を見ている。
「もう、あそこには行きたく無いなぁ。このまま帰って、寝ちゃうかのう」
 あくびを漏らして、のそりと立ち上がった。
「ところで、本居さんは、随分あれじゃな。今は大分喪服のおかげで落ちついえて見えるが、普段は大分の格好は相当『ぱんく』じゃのう」
「『ぱんく』ってなんですか。」
「こう、ちょっと変わっているっていうか……外れているというか」
「そうですかね?」
「うん。あの巫女だの魔法使いだの装束と比べれば、大分自己主張が少ないけれども」
「あぁいったお服は、嫌ですか」
「さぁ、でも素敵じゃないかね。どうしてあの娘どもは、あんな変な服を着ると思う?」
「えぇ、何かの意思表示ですか。ステータスとか、地位とかの表示ですかね」
「まぁ、そういう見方もあるのかな。儂は純粋に個性だと思うがね。じゃ、儂は後片付けあるから、失礼するよ。さよなら」
 ぽかんとした表情のまま、その背中を見送った。そういえば、どこかで話をはぐらかされたな、と彼女は一人で笑って店の中に入った。

 ○

 暗い葬儀の後片付けを終えて、殆ど逃げ帰るように、二ッ岩さんは命蓮寺の帰路についた。その途中、すっかり人気の絶えたところ、真っ青な外套を纏った霊夢と会った。既に日は落ちていたが、地平線の夕闇が山々を真っ赤に縁取り、枝の一つ一つが、体毛のように朱色の中で北風の流れに沿って、揺れている。その赤と黒の画を背負って、霊夢は言った。
「道を外れないようにね」
 眼鏡を外し、確かめるようにして、その娘を見た。
「正道からはみ出すなって言ってんのよ。今ならまだ間に合うわよ」
 夜空には黒い、一雨来そうな雲が広がり始めていて、地平線の山火事みたいな夕焼けと解け合うようだった。今年はやけに雨が良く降る年だと、誰かが葬儀の酒の席で呟いていたのを、二ッ岩さんはふと思い出す。こういうくだらない些事やらは、何故か片隅に残っているのだった。
「あんたは、あの子と一緒にいるべきじゃないわ。もう、鈴奈庵には通わないことね」
「覗いておったんかい。いやらしいな、お主」
「あら、しっかり立ち聞きもしていたのよ。あんたたちの、やらしい会話全部ね。貴様ら、まとめて色情魔か。妄想も現実もごちゃまぜにして、世間体の顔では困ったような振りをして、その裏では、馬鹿馬鹿しい妄想に振り回されるようにして、いやらしく楽しんでやがるんだ」
「だったら何じゃい」
「あんたが承知の通り、あの子の能力は少し危険だわ。だから、私たちは監視しているの。でも、ちょっと今は事情が変わっちゃったかもね」
 鳥の鳴き声が、鳥自身の羽ばたきのこそばゆい音に重なって、彼女たちの耳に届いた。近くに潜んでいた黒い鳥が、夜の気配に溶けるように急いで飛んでいったような画を、頭の中で自然に描く事が出来た。光を抜け、闇に向かった鳥は、五里霧の暗澹の中を、あてどなく羽ばたく。深い眠り。
「あの子のこと、もう里の連中が噂していたわよ。子供たちがね、あの子が狸の妖怪とデキてるって、しかも女のね」
 軽蔑と憐れみとが、薄気味悪い笑顔の上に上塗りされて、二ッ岩さんは少しだけ後ずさりした。
「あんたは、新参者だから、まぁ知っているかもしれないけれども、ここの人間はね、陰険なのよ。でも陰険、差別っていうのはさ、結局人間が持つ一つの感情に過ぎないのよ。やっかいな感情。一人より二人になれば増すし、誰かが旗を立ててそこに人が集まれば、別の旗の人間を差別するし。私の言いたいことが判るよね、この同性愛者さん。あんた、もう忘れた訳? あんたの寺が今日世話した仏は、どうして死んだ? あんたたちが見つけた時、どういう風だった? 仏は、木に吊るされて死んでた筈だ。辱められて、髪を剃られていた筈だ。女の命の、髪をよ。そういえば、あんた達が匿ってる、女の子は元気かしら……恋人が木に吊るされて、気が病まなければいいけれどね。それでは、御機嫌よう。私の言いたいことはそれだけよ……」
 巫女は、消えた。
 
 ○

 それから数日、二ッ岩さんは寺でぶらぶらしたり、里で人間の姿になって買い物したり、しかし以前より一目を使うようになった。しかし里のものは、どうやら貸本屋の娘を、かどわかそうとしている妖怪が、まさか目の前を歩いている二ッ岩さんであることまでは、知らないようだった。自分は、素性は明らかではないが、何かちょっと風変わりな程度の学者のように思われているらしかった。
 里は、年末恒例の騒々しさだった。仕事師とか、何かしらの職人が品物の並ぶ往来を行き来する。雑踏の中で子供や老人が楽しそうにして、師走の寒さを何ともせず、店の軒先から軒先を、ひやかしては歩き回っている。絶えず食い物の匂いが立ちこめ、熱気と雑踏で往来の雪は溶けかけて、地の泥と混ざって名状し難い汚さを呈している。しかし、里の慎ましい経済が回りに回り、里の者の硬い財布の口から銭が流れていく。
 二ッ岩さんは、里で評判の蕎麦屋に入る。噂では、福の神がついたとかで大分繁盛しているようで、閑古鳥の向かいの団子屋が少し可哀想だったが、酒飲みの性分か、自然と蕎麦屋に足が伸びた。
 中には、仕事師の若い衆のグループが真ん中のテーブルに陣取って、仕事上がりなのか、上機嫌で騒いでいる。お揃いの印半纏と、鳥打ち帽、足袋というある種の美学を感じる出で立ちだった。他には、呉服屋の旦那と従業員。他は一人で飲みに来た男衆だった。皆、温い酒の入った徳利を黙って傾けている。そういう男たちは総じて楽しそうには見えないが、アルコールのせいで、誰も彼もほっとしているような表情を浮かべている。
 二ッ岩さんは、空いているテーブルに座った。喧噪に背を向けて、給仕の着物姿のお姉ちゃんに、酒と、適当につまみを持ってこさせるように言った。向かいの団子屋のガラス窓に、変わった洋装(胸元にでかい花が付いている)の少女が一人、にこやかに団子を頬張っている。二ッ岩さんと目が合うと、にっこり笑って会釈した。あぁ、顔見知りだったかな……と思わながら会釈を返した。
 やってきた酒を、男たちと同じように黙って、半ばヤケ酒のように飲んだ。その姿は一心に働くようにも見えて、神々しかった。そのおかげで、誰も二ッ岩さんに声を掛けてこない。
 頭の中は、ごちゃごちゃと考えが巡っている。
 どうして、二人の事が里で噂になっているのか。博麗の巫女の言葉だった。誰に見られた、そもそも何を見られたのだ? 何度も何度も、記憶の中で、彼女と自分の関係性を探る。無い。それが全く、無い。無いものは、無いのである。いくら掘り出そうとも、無い。
 初めて鈴奈庵を訪れて、それからの縁だった。その筈だった。それを、彼女は翻した。鈴奈庵に自分が訪れる以前に、酔いに任せて自分に抱かれた、と言う。
 そして何故か今日までの、ただの貸本屋と客の関係だった二人は、自分が娘を抱いたという噂と解け合い、何故か逢瀬を重ねているかのような、そんな物語に収斂され解釈されているではないかと思い、また少し気が狂いそうになった。
 しかし、と酒の入った湯のみを傾けながら、二ッ岩さんは心の中で自分に言う。こうして、何度も里を回って、何か噂が流れていないか、里の人々のたまり場や飯場を覗いたりした。それらしい噂は流れていないようだった……。
 無論、それは表面的な里の営みを、二ッ岩さんは撫でるように監視したに過ぎない。病理は、もっと深いところに根ざしているのはないか、と二ッ岩さんは感じた。自分の知らぬ位相で。
 店の内儀らしい女が見えたので、取り敢えず声をあげる。
「お銚子、もう一本」
 それからまた飲んで、黙って杯を傾けている事自体が何故か耐えられない行為のような気持ちになり、そそくさと会計を済ませて店を出た。彼女の貸本屋に寄ろうかどうか、考えた瞬間、座りながらにして突如足が萎えた。比喩では無く、本当に力が抜けてしまったようだった。
 だが、と自分のどうにもならない自分の心に問いただす。何よりも、自分自身が、彼女に、会いたかったのである。
 彼女が語る物語の、その道理に従うならば、少女の体を汚してしまったのは、よりによって自分自身らしかった。それが理由なのか定かではないが、彼女が、少しずつ真綿で締め付けられる如く、窮地に追いつめられているようだった。
「そんな馬鹿な。自分が、何をした」

 ○

 暗い、森の奥底に迷い込んでいた。
 彼女が、木に吊るされている。
 彼女を取り囲む、人々がまばらになっていく。辺りの血の匂いが重く、居ない筈の自分の体にのしかかる。彼女の体から、滴り落ちる血液だった。彼女は最早、虫の息だった。揺れているのは、風のせいなのか、それとも僅かに残った力を振り絞って、縄の束縛から逃れようとして、彼女が悪あがきをしているからかもしれない。そう冷静に思う自分の心に、また恐れを抱く。
 硬く閉じられた彼女の瞼の隙間から、体液が流れている。死ぬ程殴られて、腫れぼったくなってしまった顔の筋肉が微かに引き攣って、表情のようなものが浮かんだように見えた。微笑んでいるようには見えないが。
 
 ○

 頭の中の、彼女の死体が、何故か本居さんの姿と重なった時、気が付けば鈴奈庵の近くに足を運んでいた。天候は少し悪くなり、空から舞う雪が、二ッ岩さんの額をひたひたと叩いている。
 家の明かりが仄かに店の中から外に投げ出されている。
 何も無い。耳を澄ませてみれば、食卓を囲む家族の笑い声の中に、彼女らしいものが含まれている。ほっとした瞬間、別の思念に邪魔される。本当にこれは自分が思い描いている訳の判らない物語に過ぎず、そうしたものにやはり振り回されている自分の背中があるだけ。そうした、ありもしない自身の背中の残像を、まるで視点だけが移動して、自分で見ているような、それもまた格別に滑稽な流れの中に、ぽつんと自我が取り残されている気がした。
 山の方から、鉄を叩く音が聞こえる。
 師走の寒空から、かん、かんとほぼ等間隔で響き渡る音に諭されるように、その場をそそくさと離れた。そのまま寺に帰るのも億劫だった。結局自分は客人のままだし、必ずしも居心地が良い訳でも無かった。酔いに任せて、ふらふらと動物の無縁塚にやってきた。そこに、あの魔法使いが居たのだった。
「おのれ、待ち伏せか」
「悲しみを克服するは、逃げずに、悲しみを見定めるように見る事だよ」
「そうして、歌でも謡えばいいのかね」
「ここに居るのが、私じゃなくて、目の前にいるがあの娘だったら、と思ったのだろう。会いたいの?」
「そんな事は、無いよ」
 ふふっと笑って、二ッ岩さんは煙草にマッチで火をつける。
「なぁその煙草は、どこで作ってると思う?」
「何を言っておる?」
「あんたが昼間喰らった酒も、蕎麦も。いつもあんたが人間のふりをして腹に詰めてる喰いものは、誰が作っている?」
「何の事だ。なぁ結局、儂は、どうすれば良いんじゃろうか」    
「あの子にさ、教えてあげればいいんだよ。あの子を生かしているものが一体全体、何であるかを教えてあげればさ。私はそろそろ帰るけどね。まぁ、ここらで道を引き返すのも手だと思うぜ。正しい道に、戻るのも勇気だぜ」 
 そういうと、帚にまたがって、魔理沙はどこかに飛んでいってしまった。
 何でも有りだなぁ、と二ッ岩さんは思い、吸いかけの煙草を足下に落として、下駄の底でもみ消した。そして、墓石に向かい合ってぼそぼそと何かを話していた。
「なぁ、本居さん。あんた」
 目の前にいる、彼女の残像にそっと話しかける。
「あんたさぁ。それは人の道を外れているんじゃ」
 彼女は無言で、こちらを見つめたまま。まるで二ッ岩さんの心の中の罪悪感を見透かしているような目の色が、何故か気に喰わない。
「普通の幸せはさ、あんた、里の男と婚姻を交わしなさい。それが全てじゃ。子供作ってさ。あたり前……なぁ」 
 命蓮寺の面々が、その死体を清めたのは、ちょうど三日前の昼餉時だった。その一週間前に行方不明になった、乾物屋の娘の体を、総出で洗い清め、通夜の為に死化粧を施していたのだった。
 娘の死骸は一度実家で親に確認を取った後、命蓮寺に密かに運び込まれていたのだった。その有様を見た時、この地に移住するまであらゆる苦難を味わって来た面々といえども、その辱められた死体に、思わず息を飲んだのだった。
 通夜までに一通り、何とか見れるように施され、荼毘に付す準備が出来た頃には、見慣れた面々の人相に陰惨な影が差し込み、時間が経つ毎に誰も言葉を発せなくなっていたのだった。
「な、どうすれば良いかな」
 そういう脳裏に貼り付いた光景が、急激なアルコールの副作用によって立ち上がって、臀部に付いた雪を払ってから、てくてくと寺に引き返そうとした、が途中で立ち止まる。
 もう、あの店に行かなければいいのだ。立ち寄らなければいいのだ、とも思い、しかし反面結局自分はあの娘に対してどう考えているのだと、どういう訳かまた自問自答の形に陥って答えが出ない。
 翌日、寺院で朝餉を済ませて、二ッ岩さんはふらりと里に出て来た。気晴らしに人間でも驚かしてやろうかなぁと思い、今日は昨日の蕎麦屋で見かけた仕事師の男の一人に化けた。
 そうだ、自分は妖怪なのだった。何も気にする事はないのだ。人間の娘っこ一人、嫁入りにしてもおかしく無い娘を心配する必要は無い。帯解きを終えたばかりのような幼さを、まだ奇麗な顔に残している、あの娘を。
 良く晴れて、気持ちのいい朝だった。積もった雪の上で光が照り返す。
 しかし早いのに騒がしいな、こんな寒いのにと思ってみると、里の外れの古びた門の周囲に、市がたっていた。さっぱり雪が片付けられ、ござが敷かれている。乾物や漬け物が並べられ匂い満ちていて、妖怪の山で作られた大量生産の正月飾りが山のようにあった、また門を潜って急な勾配を下ると、階段に座り込んでおしゃべりをしている女たちがいて、石段の脇にも即席の屋台みたいなものが立ち、煮物や甘酒の入った鍋から湯気が昇り、その周囲で子供がはしゃいでいる。
 そうした市の往来をぶらぶらし、鳥打ち帽の下で、目玉二つを動かして静かに周囲を見渡した。印半纏を纏って格好のまま、里の者から挨拶されるのは何となく落ち着かなかった。
 ここらで驚かしてやろうか……。いっそ、でかい唐傘妖怪にでも化ければいいのかなとも思ったが、逡巡してしまって結局、ここで酒を一杯で引っ掛ける事にした。葉っぱで作ったお金で代金を払って、階段の石畳の上に座り込んで、渡された欠けた茶碗で一杯やった。
 子供の歌い声が楽しげに耳に入ってくる。
 それは、化け狸に勾引された娘の、とても憐れな歌だった。
 子供たちはにこにこしながら、飛び跳ねて、歌っている。
 その傍らで、同じように微笑みを浮かべながら、母親たちが見守っている。
 気が付くと、酒も市も子供や女共の無邪気な顔も残して走っていた。小さな共同体特有の粘着質の気質を広げてまとわり付いて来る、尾を引くようにねとねと付きまとってくる。仕事師の一人に変身したままだったが、それはかえって都合が良かったからだ。鈴奈庵のサッシを開けると、意外すぎる客の姿に、「いらっしゃいませ……」という小さな声を一つ、言葉が薄暗い店内に蠢動した。
「本居さん」
 と彼女に呼びかけた。彼女は、うわっと目を剥いた。そのまま引っ繰り返りそうに仰け反った。
「あの、あの、二ッ岩さん……の声?」
「変装しておるのじゃ」
 鳥打ち帽を脱いで恥ずかしそうに、自分の禿頭をぺちんと叩いた。
「仕事師のふりじゃ。これは、先日見かけた者でな。姿形をちょいと借りたのじゃ」
「あの、何かよく判んないですけど、お茶出しますね!」
 とても嬉しそうな笑顔が弾けるようにして生まれて、彼女の体はぱっと素早く奥に引っ込んだ。奥の方から「仕事師の人が、新しい本棚の相談に来てくれたの!」という話し声が聞こえる。そして、カップを一つ持って来た。
「あの、二ッ岩さんはあれですが、盗賊団か何かですか?」
「うちに、ちょうど引き取ったばかりのでかい本棚があるんです。良かったら見に来ませんか。この店の寸法にぴったりかと思うんですけどねぇ。運んで取り付けるだけだから、安く済むと思うんだけどねぇ」
 仕事師の親方の声色で、でかい声をあげた。
「あ、じゃあ見に行きます」
 彼女に耳打ちをする。
「申し訳ない。もう、ここには来ない方が良いと思って」
 彼女が、手を握ってくれる。自分の手にカップを握らせる。そして負けないように小さな声で言う。
「そんな事ないから」
 二人で並んで里を歩いた。特別な視線は感じられない。老婆たちが時折、彼女の『ぱんく』な装いに奇特なものを見る膜を通して、ちらちらと目線を送っている。羽織の下に黒い長着を着た、老婆達だった。
「早く行こうかのぅ。これ、人前で手を握っちゃ駄目じゃ。腕を組んでも駄目」
「駄目ですか?」
 ぱっと、手を離した。ごつごつとした、たこだらけの仕事師の偽物の手を。
「もう、儂らの事は噂になっている。もうやめよう。会うのは」
「どういう事ですか」
「あんたに見せたいものがあるんじゃ」
 こっち、と仕事師の真似をした二ッ岩さんは手招きして、その後を彼女はついていく。ひょいひょいとがに股の印半纏の後ろ姿を見れば見るほど、彼女は混乱するのだった。とても同一人物とは思えない。背丈も、体型もまるで違う。お店に訪れた時には、身長が高くて、痩せていて、長くて美しい髪が流れるようだった。あんな短足のおじさんでは無かった筈だ。頭も禿げてなかった筈だ、とか少し距離を取って歩いて考えていた。
「あらぁ、どちらに行かれるんですか?」
「ちょっと命蓮寺にねぇ。何か弾幕ごっこで、本堂がぶっ壊れたとか言ってねぇ。ちょっと様子見に行くんですよ」
「あらぁ。しっかり仕事してねぇ。あすこはご利益があるらしいから。私も入門しようと思っててさあ」
「まぁねぇ。ご本尊が生きてて、寺の中を歩き回っているからねぇ。ちょっとドジだけど、しっかり修行しているしねぇ」
「え、ご本尊が歩いてるの? 普通仏像とかじゃないの……っていうか本尊の癖に修行しているのかね」
 里の者と会話しながら、仕事師の親分扮する二ッ岩さんはにこやかに答える。その早歩きの背中に何とか追いついて、また話しかける。白い息を吐きながら。
「あのぉ、二ッ岩さんは、スパイをしているんですか?」
 ぷっと笑って、ごつい手が彼女の頭を撫でた。
「私は只の仕事師」
「あと、ご本尊が歩き回ってるって、やっぱり本当なんですね」
「おまけに毎晩、大酒を喰らっておる。これは儂とあんたの秘密じゃ」
 また、命蓮寺の境内を通り過ぎると、「こんにちわー」と声をかけられる。門徒らしい妖怪の女の子がにこにこしながら、挨拶をする。暖かそうな外套に身を包み白い息を吐きながら一礼してくれた。どこか美しい。彼女も一礼で返す。
 今度は墓地のほうでは無くて、境内の中の、住居に案内された。このまま連れ込まれるのかしら、と怖くなったりした。立派な境内や本堂とはうってかわった侘しい集合住宅のような中に、『遊戯室』と書かれた一室に通された。ふすまの向こうには、二人の女性が難しそうな顔をして、碁を打っていた。
「あら、お客さんですか、マミゾウさん。やれやれ、星、この勝負はお預けですね」
「聖、私が勝っていたんですよ……まぁ、いいですけれども。続きは、晩酌の後にしましょうか」
 頭のてっぺんに蓮に似た花をつけた女性が、よっこらしょと立ち上がって、どこか胡乱な目線を彼女に送りつつも、「どうぞごゆっくり」と言ってその場を後にした。もう一方の女性は目礼を送り、「あとで村紗に、お茶でも運ばせますからね、ゆっくりしていって下さいね」と告げて、にこやかにその場を後にした。
 二人が出て行って、それからまた二人、だだっ広い部屋で何故か神妙に向かい合っている。小太りの親方がやけにもじもじしながら、そのぉ、と言いながら。半纏の裏から取り出した一枚の葉っぱを頭の上に乗せた。そのまま、どろんと煙を吐いた。
 もう何を見たって驚かないぞ、と決めていた彼女だった。
 灰色の煙の中から現れたのは、あの髪の長い、粋な人ではなかった。
「本居さん、ほれ、儂はこんなじゃ。儂はこの通り、妖怪なの、狸なの。お判り?」
 巨大なしっぽを、わざとらしく揺らすのだった。
「あっ可愛い、素敵です。触っても良いですか」
「あんた、何でもいいんだね」
「はい、あなたは普通の人とは違うって、判っていましたから。私は、望んでいたんです」
「何を?」
「あなたが、人間以外の、私の知らない場所から来た、私の知らない生き物で、私をどこか知らない場所に連れて行ってくれる人だって……。ところで眼鏡は、そのままなんですね」 
 近づいて、彼女がその眼鏡を外すのだった。
「あ、本物だ」
「うん。それも幻なんじゃ」
 と言うと、彼女の手の中の眼鏡の感触が消えた。二ッ岩さんの顔を見上げると、二つのグラス越しに細められた目が、彼女の事を捉えているのだった。近くて、彼女の吐息が届きそうな微妙な熱を孕んだ距離感だったが、襖が開いて、思わず二人は身を離した。
「はいよ、お茶」
 変わった装束の少女が出てきて、お盆の上の急須とお椀を、微妙な距離を保って見つめ合っている二人の、膝をついているその畳の上に置いて、そのまま出て行ってしまった。
「あの人も門徒なんですか?」
「あれは水蜜殿、無論門徒でおまけに人外じゃ。確か舟幽霊とか言っていたかな……」
「あの人、ちょっと体が透けていましたね」
「うん、そうだね。そんな事よりも本居さん、あんたは怒らないのかね。儂は、あんたを利用しようとしていたんじゃ。儂はこの通り、妖怪じゃ。で、儂はあんたを籠絡して、あんたの店に置いてある妖魔本を利用して、ちゃっかり付喪神を青田買いしたりもした」
 きょとん、と彼女が首を傾げた。まだ判らないのか、話を彼女は聞いているのかと疑いながら続ける。
「あんたの能力を利用して、じゃよ」
「熱心なお客様に、最大の便宜を図るのは当店のモットーですから。利用して頂いて結構ですけれども」
「もう、儂らは会わない方が良い。それだけ本居さんに言いたくて、ここに連れ出した。ここは、ある意味治外法権じゃから」
「あの日の出来事は、やっぱりそういう、あなたの思惑の一環だったんでしょうか」
 正座をしたまま、彼女は自分の足下を見て、金属を匂わせる硬質な笑みを浮かべて、どこか自虐的に見えた。
「二ッ岩さんは、人間の心が判っていないのですね」
「判っているつもりじゃったけれども」
「でも何故、会ってはならないのですか? 私のこと、そうやって忘れたふりをしていなかった事にするんですね」
「……もう儂らのことは、里で噂になっておるから」 
 彼女の目が一瞬油断を孕んだ、潤みを帯びた。思いもしないといった二ッ岩さんからの発言の内容に、戸惑ったように思われたのだが、でもすぐに持ち直した風になって、言った。
「よく判らないです。里では、私と、二ッ岩さんはただの店主と顧客の関係の筈です」
「恥ずかしいかね。噂が立つのは」
「儂らがこの間送った仏が、どうして死んだのか、あんたも知らない筈はないだろうよ」
「知ってます。あの向かい側の女の人は知り合いでしたから。あの日、連れて行かれたのも、見ました。あの日は、もう夕暮れでした。里の長が彼女の家に来て、優しい顔で彼女を連れ出しました。ずっと見てましたから……」
「その日は、雪は降っていたかね……」
「はい、沢山降っていました。その日は寒さで、偶然目が覚めて、憚りに立った時でした。窓の外から、何か明かりが見えて。私は見ていましたから。里の偉い人と、男の人達が来て、それから連れて行かれて」
「もう、止めなさい」
「宗教では、そういう問題は解決されないのでしょうか?」 
「さぁ儂は、ただの門徒だし……」 
 愚問だと思った。それに宗教の役割など、今更知った事ではない。それどころでは無い筈だ。
「あの、私とあなたがどういう立場にあるか、何となく判っています」
「あんたが、儂を巻き込んだんじゃ。儂の知らない内に」
「まだそんな事を言っておられる。もう逃げ道なんか無いのに」
 くすくす笑いながら、手元の茶碗を口元に持って来て、一口啜った。
「儂はね。あんたの事なぞ気にもかけていないのじゃよ。たかが一夜、青姦したからと言って、あんたに情が生じるとは思えないかね? この間の葬儀の後の事の話は、まぁ大分酔っぱらっていたし。ついついその場の空気のようなものに流されていたのかもしれないな」
「白々しいですね、人間の姿をして、人間の暮らしを象って生きているというのに」
「どうか儂を、いじめんでくれ。何しろあんたから見れば本物の畜生じゃよ、儂は」
 小娘の皮肉に対して、同じように韜晦な色を孕んだ、にやりとした笑いを一瞬投げかけて、また無表情に還った。
「私は、忘れてないですからね。忘れるものですか。あの時の感触とか」
 出されたお茶を飲み干してから、上目遣いでこっちを見た。
「あの、もし。あなたに出来るんだったら、お願いしたい事があるんですけれども」
「弱みを握った気になって、儂に頼み事かね……何だい」
「外の世界へ連れて行って下さい」
「愚かな小娘じゃの。本当にそれを望んでいるのかね」
 溜め息一つ漏らして、首を横にふった。
「はい。こんな窮屈で、吝嗇な里を出たいんです。周りの人間だって、陰気で、陰口ばかりだし。たまに暴れたくなるんです。兎に角、ちょっと変わっているだけで監視して、寄ってたかってみんなで目の敵にして」
「出ると言ったって、あんた、どうやって暮らしていく。外の世界の事をどれだけ知っておる。あんたがここを出て行った所で、酷い目に合うのは目に見えた事じゃないか」
「そんなこと、どうして判るんですか」
「ここを離れたら、あんたは死ぬだろうね。あんたは、か弱いよ。あんたは色んなものの、恩寵を受けて生きている。それから離れたら、もう生きられない。それがあんたの抱える宿命なんじゃ」
 暫く二人とも黙ってしまった。何となく寺の噂好きの者たちが、聞き耳を立てているのではないかと二ッ岩さんは訝しんだからだし、相対する彼女もまた、見知らぬ抹香臭い土地で形見が狭い、お互いそういう気分でいたので、時間が経つに連れて、両者の微妙な距離感に言葉にならない滓のようなものが積み重なっていくようだった。
「送っていく。外に行くとかいう話は、自分の腹の中に治めておくのじゃぞ。もし、誰かに言ったらまた面倒な事になるから」
「はい、あなたと体を一つにした記憶と一緒に仕舞っておきますわ」
 二ッ岩さんは思わず舌打ちをして、どろんと仕事師の親方に化けてしまった。
「この姿なら会えるかもな。禿げてるけど、中々の男ぶりだし」
 くすりと、彼女が笑った。
「嫌です」
「そうかい」
「あの、やっぱり、あなたのままが良い。姿も、心も。つまり、二ッ岩さんのままが良いと思います。だから、いつもの、あのお店に来てくれる時の。今も可愛くて好きだけど」
 よく見ると、ちょっと目元に涙を浮かべていて、どうしてこんな変な事を言うのに泣いているんだろうと、何となく気を落ち着かせようと思って、また人間の方に変身した。そして、そのまま抱きしめてしまった。
「禿げたオジさんは嫌です。二ッ岩さんがいいの」
「あんた、それ。禿げたオジさんに失礼じゃろ……」
 何故か、とても二ッ岩さんは悲しそうな顔をしたのだった。

 ○

 貸本屋の裏手の、蔵を丸々改築した印刷所から舶来ものの手差し式印刷機の回る音が響くのだった。土間のような冷え冷えとした店屋の中に、バッハのコラールが流れている。曲名までは判らないけれども、蓄音機のレコードから、流れるピアノの音色に耳を傾けていると、手繰っていた本のページの質感が徐々に覚束なくなり、眠ったような、起きているような、気が付くと客足も遠のいて、火鉢の炭が弾ける音に目覚めて、突然水面に昇って、店の殺風景な土間の表面から生まれたような気分だった。
「あ、二ッ岩さん」
「寝ていたの……?」
 二ッ岩さんは、店の隅で突っ立って、こちらを不安そうに見つめている。あろう事か、霊夢さんの格好をしている。姿形、何もかもがそっくりそのままだった。只一つ、声色だけがあの二ッ岩さんのものだった。脂で焼けた喉から発せられる声は常に店の中で木霊して震えているようだった。まるで低温の弦楽器のようにも思えたし、少し感情が乱れたりすると、敢えて擦れて唸り声のような声になったりする。
 彼女の足下の火鉢から、炭の崩れる音がした。とろ火の色が火鉢の底から漏れ出して、使い古された白い陶器の縁が橙色に隈取られている。屋内に設えられたソファーに、霊夢の形をした二ッ岩さんは浅く座り込んだ。青い装束の裾を摘んでひらひらさせる。
「この服はどうも冷えていかんね」
「上着は何だか丈夫で、暖かそうですけど」
「上着は暖かいな。でも一目は引く。やっぱり里を歩く時は、儂はいつもの格好か、普通の着物が落ち着くなぁ」
 彼女がくすくすと笑うのを見ると、重い気持ちがとても軽くなる二ッ岩さんだった。
「まぁでも怪しまれる事は無い。この店に来るのは、儂が見た所一部知的階級とか、上流階級とか、それか霊夢とか魔理沙とかだもんな。あいつらは結構入り浸っていると見たし」
「そうなんですよ、私としては霊夢さんや魔理沙さんが来てくるのは嬉しいのだけれども。流石良く見ているんですね」
 うん、とだけ言って二ッ岩さんは自分が穿いている仰々しいブーツに目を向けた。
「でも、鉢合わせしないかしら? 霊夢さんでも自分とそっくりの人間がいたら、びっくりしちゃうのでは」
 彼女が不安そうな顔をしているので、安心させるように、また自分に言い聞かせるようにして、頭を撫でながら言った。
「その辺も調査済み。今日は妖怪の山の方に出ているようじゃ」
「兎に角、あの、またお店に遊びに来てくれて、嬉しいです」
「おい、勘違いするなよ。私たちの噂が里に流れておるんじゃ。正確に言えば、本居さんが、悪い妖怪に誘惑されているというだけだが、それでもこの騒ぎじゃからな」
「はい」
「前はもうここには行かないなんて言ったが、もしあんたに何かあれば、儂が守ってやらんと思って」
「あー、そういえば、何かお買い物に出ていた時、子供たちがそんな事言ってて、私、面と向かってからかわれました」
 くすくす笑いながら、霊夢に変ずる二ッ岩さんの手に、お茶のカップを握らせた。湯気が立ち、甘い香りが立ち上る。砂糖を入れた甘いお茶を啜ると、隣に彼女が座った。かたかたと外で、雪まじりの暴風に、屋号の認められた古惚けた看板が揺れて母屋の壁板にぶつかる音がする。
 戸の向こう側で雪を踏みしめていく、そんな足音がした。重いものを覚束ない足取りで、ざらめ雪と戦って歩いているという感じだった。それは、老婆の足音に違いなかった。複数の足取りが脳裏にて想像され、粗末で厚手な長着やステテコで着膨れた上に、どこかから引っ張り出して来た、外の世界製の古い上着をひっかけて、のそのそと歩く様だった。
「あのぉ、お正月に向けておせち作ってみたんですけれども。食べてみます?」 
「あぁ、いいのぉ。でも」
 不安そうに店の裏の方を、二ッ岩さんが見る。
「大丈夫です。家の人、霊夢さんや魔理沙さんには信頼していますから。あと印刷の仕事が忙しいから、こっちにはやって来ないと思うわ。あっもうお店締めちゃおうかな、暗くなって来たし、お客さんは閑古鳥だし」
 奥の方に引っ込んでから、またどたどたと騒がしい音を立てて、色々乗せたお皿を片手に、もう片手にはご丁寧に酒の入ったおちょこも握られている。何となく二人で雪でも見ながら食べようということになって、戸を開けてみると風は止んでいた。彼女は火鉢を引っ張って来て、わざわざ店の入り口に据えた。
 そこに店の椅子を二つ並べて、そこに座って小皿に煮た豆や干し野菜で拵えた料理や、川魚を酢で締めたものを黙って摘んだ。足下の温い炎をわけ合うように、二人の間に火鉢は置かれていた。
「豆が多いの。やっぱ幻想郷も基本豆食だな」
「そうですね。でも、来年は食べられるかどうか。気候が少し違うとかで、不作かもしれないって、農家のお父さんが言っていたわ」
 空を見上げると、一羽の渡り鳥が悠々と暗い空を横切っていく。この季節に珍しいものだと二人でぼんやり見ていると、もう一匹がその後を追いかけるように、飛んでいる。距離は中々縮まらず、二匹はそのまま飛び続ける。距離を保ちながら、まるで、空に定まった、鳥にしか見えない道を、片方が自由な速度で羽ばたき、もう一匹な懸命に追いつこうと飛んでいる、そんな風に見えた。
 距離は一向に縮まらないまま、遠くの空に消えてしまった。ただ、日の落ちかけた僅かに明るい空を切り裂くように、ただ道無き道を飛ぶ。
「番いですかね。そのまま一緒に飛べば良いのに。戻ってあげればいいのに」
「まぁ鳥に言ったって仕様がないさ。戻れないんじゃろう」
「空に見えない道でもあるんでしょうか。きっと」
 同じ事を考えていたのか、と二ッ岩さんは少しだけ嬉しくなった。
「正道を外れれば、きっと破滅が待っているのでしょう。道に迷えば、きっと目的地に辿り着けず、飢えて、孤独に心を病み、やがて誰にいない海に堕ちて死ぬ。だから待たずに飛ぶしか無いのでしょう。一方の追いかける方は可哀想だが、結果的に正しい道を歩む事は両者の幸せなんじゃ。きっと」
「冷えますね」
「あぁ」
「お魚、どうですか。里の職漁師のお爺さんに頼んで、この時期遡上してくる鱒とか、湖の魚を穫ってもらったんです。日持ちしやすいように酢で締めたり薫製にしたり。生だとお腹壊しちゃいますからね」 
 うん、と頷いて、酔い過ぎない程度に酒を啜り、外気で冷えきって、引き締まった魚の切り身を一つ摘んで口に入れた。そういえば全然生臭くないな、と思って、ふとこんな言葉が漏れたのだった。
「海の魚とはまた味わいが違うな」
「海……ですか?」
「そういえば外の世界でも結構魚は喰っていた気がしてのぅ……。なぁ本居さん、海って知っているかね?」
「海。本で読んだ事があります。お魚が一杯泳いでいるんですよね」
「あとなめるとしょっぱいよ」
 黙って黒豆の乗せられた皿に目を落とし、くすくすと笑う彼女だった。
「また嘘ばっかり。しょっぱい訳無いじゃないですか」
「本当だって」
「ふーん」
「見たいかね……?」
「うん、まぁ……」
 彼女は目を輝かしている。彼女がどんな海を思い描いているのだろうか。まだ見た事も無い海は、どんな形をしているのだろうか。
「ほとぼりが冷めたら、行こう」
「えっ」
 ますます目の輝きが増したような気がした。
「で、でもどうやって、外の世界に行くんですか?」
「まぁ、色々手段はあるさ。本当に行くとしたら、長旅にはなりそうだが」
「その旅は、私にも、耐えられそうですか?」
「判らない。本居さんは、体は丈夫だとは思うが」
「でも、二ッ岩さん、最初は反対してたじゃないですか? 私が外の世界に行くの」
「うん、気が変わった……のかな。まぁ旅行みたいな感じで良いんじゃないの」
 はぐらかせたつもりだったが、幼い娘の視線を前にすると、心の内を見抜かれそうになっているのではないか、という疑念が生じる。
 もし、これ以上静かに二人を里の者たちが追いつめていったとしたら、とるべき行動は一つしか無い。二人で仲良く、この幻想郷を出て行く事だ。
 しかし、それを今、彼女に言う必要はどこにもない。まだ、可能性の話に過ぎないからだ。
「もし旅の途中で死んでしまったら、私を向こうの世界に埋めて下さいね」
「冗談でもそういう事を、言うものじゃないよ」
 彼女が想像していた以上に、二ッ岩さんは動揺しているように見えた。
「死なせない。ちゃんと連れて行くよ」
「はい、信じています」
「そういう言葉が、あんたから出るとは思いもせんかったな」
 にっこりと笑って、その頭をまた撫でてやるのだった。
「偉いなぁ、本居さんは。偉い。いいよ。連れて行く。外の世界なら幾らでも案内するよ。それが儂の出来る事だもの」
「ありがとう」
 その手をそっと握りしめる。そしてすぐに、しかしながらどこか名残惜しそうに、生暖かい彼女の手を離す。
「あんまくっ付いていると、怪しまれるといけないな。そろそろ帰るよ」
「また、来て下さいね」
「うん。次は魔理沙殿にでも化けて来るよ」


 
 子供が一人、畑の一劃に座って何かを待っているのだった。
 そこに、また一人の女性が近づく。長い髪とスカートと長着と羽織という格好だった。子供の姿を認めると、役者のように粋な仕草で目元の眼鏡を軽く持ち上げて、子供の側にやってきた。子供の目線に合わせるようにしてしゃがみ込んだ。その手にお金を握らせて、こんな事を言った。
「手紙を、本居さんに渡してくれたかね?」
 子供は黙って頷いた。その頭を撫でてやる。
「ありがとう。助かる。お主が間諜をしてくれるお陰だ。まさか博麗の巫女が儂をお尋ね者にするとは思わなんだ。そのせいで里には出入りしにくくなった。霊夢の奴がすっかり洗いざらいばらすとは思わなかった。鈴奈庵の家の者もすっかり殺気だって、本居さんを半ば監禁のように閉じ込めてしまったし。なぁ、まさかお前は、儂の事を勘違いしてはいないだろうね。儂はこう見えても結構義理堅いんじゃよ。ここで儂が逃げたら、どうする? 里から逃げて、霊夢から逃げて、本居さんから逃げて、どうする。いや、それが本居さんの為かもしれないけどな。かもしれないけど、それは、お互い本心じゃないじゃろう。儂だって本居さんに会えないと、寂しいしさ。向こうだって、本居さんだって儂に会いたいと手紙で書いてくれたしなぁ。しかし、鬼畜だなぁ! 里の人間も、霊夢も魔理沙も、皆鬼畜。儂、あんたは知っているだろうけれども、妖怪だけれども、良いよなぁ、人間の振りして別の人間と暮らしたって。別に問題無いよなぁ、儂が女で、相手が女でも。それをあんた、まるで人の首を真綿で締めるような真似をして。鬼畜じゃよ。妖怪より鬼畜じゃよ……あぁそうか喋れなかったんだな、お前は。可哀想に」
 子供の顔を見てみると、二ッ岩さんの話を判っているような判っていないような無表情を浮かべていた。白痴のようにも見えた。鼻の下に辺りが鼻水で濡れ手光っていたので、ハンカチで拭ってやった。
「なぁ、お前は里で虐められていないか?」
 何の反応も無く、ただ俯いて、まるで時を過ぎるのを待っているように思われた。
「虐められているんじゃな。なぁ、儂らな、儂と本居さんの事だが、幻想郷から出ようと約束したんじゃ。お前が運んでくれた手紙の中でな。もうこうなったら事は早い方が良いと思って……」
 赤面しながら、二ッ岩さんは言った。
「冬はもう終る。だからな、あんたに運んでもらった、一番新しい手紙にな。あなたの準備が整ったら二人で逃げ出そうとな。もうじき、雪も溶けて、春もやってきますから、その時期を見計らって旅に出ましょうと。その時期を見計らって、とは中々うまいとは思わんかね。それで、返事は貰ってきたかい?」
 子供は、首を横に振った。
「え、返事持っていないのか? お前、本当に本居さんに手紙を渡したんじゃろうな。え、間違いないのか」
 子供の肩をつかんで、そう質した。
「判った。手紙は無いんだな。だったら、何か言付けがある筈だ。なぁ、本居さんはきっと、返事をお前に預けた筈だ。言葉だよ、言葉」
 初めて怯えたような表情を滲ませて、必死に首を横に振った。
「あの子はお前に『はい』とか『いいえ』とか、そういうお前みたいな馬鹿者にでも判るような言葉で、お前に言った筈だ。どうして判らん?」
 自分自身でも訳の判らない、どうしようもない、どこから湧いて来るのか判らない怒りを露にして、掴んだ肩を握りつぶすような勢いでぐっと力を入れた。それでも子供は首を横に振った。
「お前、まさか博麗の巫女や魔女の二重スパイか。儂をはめようとしているのか」
 怯えた子供がぺたんと雪に座り込んで、それから、許しを請うように頭を地につけた。
「どっちなんだ……儂の味方なのか。それとも……なんでこんな事になった。頭を上げろ。ほら、枝を持って、それで雪に書け。『はい』なのか、『いいえ』なのか。なぁどうなんだ」 
 また、首を横に振った。ここに至り、漸くこの白痴の子が本当に知らない事を二ッ岩さんは悟った。
「そっか。悪かった。頭に血が上っていた……。どうかしていた。なぁ、儂、判ったよ。人間にそういう感情を抱く者ではないなぁ。こちらの幻想郷には、こういう言葉は無いだろう。愛って言うの。なぁ寺小屋でも教えてくれないじゃろ。愛はなぁ、全て儂の中の全てのものを破壊していったぞ。お前、頼むから、愛とかそういう感情を抱くなよ。悪かったな。明日また、待っておるからな。返事を持って来い。本居さんのだぞ。ちゃんと役目を果たせ」
 子供は大急ぎで、雪道を駆け出した。その姿が遠くなって、小さくなり、やがて見えなくなったのを見送った。雪原の中に埋もれた畑の真っ白な有様を見ているうちに、ふとしたきっかけで、それが豆の畑であることに気が付いたのだった。
「一面、豆、豆、豆か。糞、いい加減に喰い飽きたわ」
 雪玉を一つ拳の中で握って、投げつけた。
「憎いなぁ。本居さん、あんたを縛るものが、憎いなぁ。鈴奈庵も、あんたの家の者も、霊夢も魔理沙も、この幻想郷も。何もかも憎いな……。自由にしたいな。どうして自由にならないかな。放っておいてくれれば、結構。自由にしてくれれば良いんだよな。皆、自分の都合しか考えない。自分のモラルを押し付けるんだ。嫌だな。結局、自分の考えを押し付けて。自分の鋳型に押し付けるんだ。考えてみれば、どこの世界でもそういう真理が働いているのだな。一人の幸せより、ずっと複数の幸せか。そんなものか。なぁ、本居さん」
 目の前の、彼女の残像に話しかけるのだった。
「誰も、自分勝手だ。本当に。嫌になるな」
 立ち上がってから、周囲を見渡した。眼路の限りに広がる雪原には、やはり人気がある筈が無かった。
「本居さんは、あれかね。どうなのかね。儂の敵かね、味方かね。違う、そういうものじゃない? 『はい』でも『いいえ』でも無い。そういうものじゃないか……。ごめんな」



「あなたは、誰かを一人を幸せにした事がありますか? 誰か一人を、人間でも、妖怪でも、幽霊でも、何でも良いですよ。誰かを一人の人生を、責任を持って、幸せにした事がありますか……。あなたでなければいけない、あなた以外の存在では導けなかった、そうした幸福を誰かに齎したことはありますか。二ッ岩さん、あなたは、誰かを幸せにしたことはありますか? 私には、ありません。いつだって、誰かが通り過ぎて、自分の世界を築いていければ良いと心の底で願っている。卑小な人間です。
 考えてみると、この卑小な私は今思うのですが、あなたに出会えた事は、ある意味信じられない偶然の賜物だったと思うのです。私は、ああした春の夜の出来事があったとしても、無かったとしても、私はおのづから、あなたに心を引かれていたのではないかと思っております。でも、こう書くと、まるであなたにとって意地悪な事を言う人みたいですね。でも、そういうことじゃなくて。一度出た言葉は消せないの。何回も何回も、この手紙を書き直しては捨てているのですが、それでも何故か満足出来なくて、結局私は思った通りの事を出来る限り、あなたに伝わるように考えて、書いているのです。自分の文章を改めて読み返してみると、何だか恥ずかしいですね。まるで、自分の書いた下手くそな小説を読んでいるみたい。友人の稗田が幻想郷縁起という書物と日がな格闘しているのですが、その友達の本をうちの印刷所で作っています。稗田が言うには、自分の人生はその本に捧げられているのだとか。でも、彼女はこういう事を言っていました。そうした創作活動は、実は彼女のような特殊な人間で無くても、以外とあたり前に行われているのだと、飄々とした様子で言っていました。彼女はこの幻想郷でも随一の知的階級の人間ですから、そうしたあっけらかんとした告白には、驚きを隠せませんでした。本を書くというのは一部の頭の良い人に許された特権行為なのですからね。そして、彼女が言う所によれば、それは日常を彩るあらゆる試みに還元されうる要素なのだと。現実という真っすぐな道に彩りを添え、広げるものなのだと。何故、そういう事を私に言ったのか。実は理解しかねているところがあるのですが。何となくは判ります。あなたとああいう事があってから、何となくですが。何となく……。
 どうか、外の世界へ旅立つ件につきましては、少し時間を下さい。踏ん切りがつきません。だって、私はあんな軽卒な事を言ったと後悔しているくらいですが、判りません。自分で言った言葉がどうして、このような作用を引き起こすのか、私自身が自分自身の言葉に踊らされているような気がして。
 今日は霊夢さんと魔理沙さんが来ました。あなたの事を何故か執拗に聞いてきました。大丈夫ですよ。何にも話していないですから。大事なのは、私の心にある、所詮短い間の出来事ですが、あなたとの会話や思い出ばかり。言葉になる前の、新生児のようなものです」

 ○

「また、会っていたんだんだね。もう、取り返しがつかないよ。」
 ひどく吹雪いている日で、道すがら、霊夢がこちらへ声をかけた。昼間の命蓮寺へ続く石畳の階段に座って煙草を吸っているときだった。叩き付けるように降っているので、眼下の里も静まり返っている。その覚束ないような、頼りない家々の灯りが散在している。そういう所帯の営みの灯りが、どこか悲しげで、酒を飲んでいるときふと彼女の事が気になって外に出た。里の方に出たものの、例によって誰も往来に出ていない。静かな夜だった。前のように、鈴奈庵を通り過ぎてから、その窓から、暖かないつもの灯りが漏れている事に目が行った。良かった、いつも通りなんだと思いながら、にこにこしながら上機嫌で、帰路についた。そういう事が何となく習慣化していることに、どこか自分自身がもう韜晦しきって、半分人間しているのかなと思いながら、それでもどこか半分軽蔑していた人間側の倫理を受け入れる形で、いいんだ、と自分に言い聞かせている。そんな自分がいる事にまた兢々としている。最終的に自分の心一つに、何か意思決定の引き金が集約されていることに、またいつから自分は身勝手な女の人間になった、とまた笑う。
「まぁ、勝手にすれば良いさ。あんたたちが会えば会う程、彼女の立場は悪くなるばかりだからね」
「何故じゃ。何であんたたちはそれを知っていながら、彼女の噂を流したんだ。お前たちは、残虐だ。もう家の者は、彼女を家に出さない。里のものも、彼女を半分妖怪のように見ている」
「退治出来ればいいけれども、あの子は退治出来ないからね」
 鬱屈とした渋顔を何とか塞き止めているような、口をへの字に曲げて足下の雪を蹴っ飛ばしながら、上着を揺らして、俯いている。
「何しろ心が妖怪なんだから。外見が人間ではこちらも手が出せない。人を殺すのは私だって恐ろしい。絵踏みさせる訳にもいかないしねぇ。あんたの顔のやつをさ。この色情魔」
「お前は、鬱陶しい限りじゃな。どうして邪魔をするの」
「あんたの事を心配しているの」
 同情を滲ませて、霊夢は言うのだった。
「ここの空気を受け入れようとしない、あんたも、小鈴ちゃんも」
「あんた達が、儂らを迫害したんだ。放っといてくれれば良かった。知らないふりをしてくれれば」
「出ようって言うんだね。この郷を……どんな手を使おうと、私は逃がさないけど」
 いつの間にか、挑発的な笑みを浮かべていた。真っ赤に発熱したかのような、寒気で染まった頬の表面がある種の歓びを帯びた。そしてえくぼの如き、ほうれい線のような襞が生じた。
「絶対逃がさないけど。じゃ、御機嫌よう」
 黙って、二ッ岩の目の前を過ぎ去っていく青い装束の巫女の機微を掴みかね、吐き捨てるように、半ば憤怒で、もう半分は言いようの無い当惑をぶつけるように、吸い止しの煙草を地面に投げつけた。 

 ○

「本居さん。会いたいです。創作のお話、大変身につまされる気持ちであります。あと、私は、誰も、幸せになんかしておりません。その場しのぎのような出会いがあって、別の出会いがあって……考えるとその繰り返しで。私は誰も幸せになんかしませんでした。一時的な感情に左右されて惚れたはったで、そういう繰り返し。本居さんの言う通り、私で無くても、そういう人は幸せになったと思います。そういうものじゃった。そうじゃな。儂は誰も幸せに出来なかったな。儂じゃなくても、別の何かが、その人を幸せにしていたんじゃな。そんな気がする。儂じゃなくても良かったのかな。どうして、そういう事を聞く……? そう言われると、儂は、誰も幸せにしてこなかった。皆、私の前を通り過ぎて、私も通り過ぎただけ。何百年も生きてきたのに

 ○ 

 結局、手紙は苦手で、言葉が全く纏まらなかった為、書きかけの手紙を折り畳んで懐にしまった。こういうのは直接言った方が良いんだ、と自分に言い聞かせた。どうせこれから会うのだし。それから、命蓮寺の冷たい廊下を無表情で急ぎ歩いて、寺の本殿へと急いだ。
 本殿では、聖が黙って書き物に向かっていた。寒々と金色の仏具が並ぶ中、がらんと静まり返った空間に背中を丸めて、冬の寒さの前に身を縮めて耐えているようにも見える。仏僧には見えない長い豊かな髪を後ろに流し、こちらを振り返った時に始めて、その生白い顔と対面した。
「やっぱり、出て行く事にした」
「判りました。あの貸本屋と行くのですね」
「うん、色々考えたのだが、ここは二人で住むには狭すぎるし、ちょっと難しいという事になってね」
 とだけ言った。
「そういえば、あの子はどうした? ほら、ここで隠していたあの子だよ」
「里に返しました」
「どうしてそんな事をしたんじゃ。そんな事したら、どうなる事か?」
「もう隠せませんでした。大丈夫、里の長や寺小屋の先生にもご相談して、当面は里の皆で静かに見守ってあげることにしてあげました」
 悲しそうに首を横に振った。
「そんなもん、監視じゃ。あんたも大層な事を言っている割に、何にも出来なかったな」
「はい、私は無能でした」
「認めるのか」
「私に出来る事って、妖怪退治とか、数の上での人気取りくらいですし。救済なんて、もっての他ですよ。大体、ここの人達は救いを求めていません。例え、幻想郷で宗教の紛争が起こっても、誰も無関心でしょうね……結局誰も欲しく無いのね、信仰の安らぎなんて」
「儂の事は、退治せんのか?」
「今はしません」
「今は?」
「次に会った時は、許しません」 
 その手元が微かに震えているのを認めて、それが怒りによるものだと、何となく察した。
「見逃してくれて、ありがとう。さようなら」
「さようなら、もうここには来ないで下さい」
 自分はまた一つ、居場所を失ったのだと心の中で噛み締めて、肩を窄めてその場所を後にした。信頼という糸を自らの手で解いて。

 ●

「私には、いくらでも選択の余地があったのだと思います。蓋然性、と言うのだそうですね。二ッ岩さんの手紙で教えてもらった言葉です。自分の人生にはいくつもの選択肢があったのだと思います。まだ、幼い自分の意見ですので、本当にご笑覧頂ければと思うのですけれども。ひょっとすれば、この幻想郷に生まれていない自分があったのだと思います。でも、こう考えたりもします。多分、今まで歩んできた選択してきた道は、多分あなたに会う為の道だったと。
 そうだ、今日の午後に、霊夢さんと魔理沙さんがお店にやってきました。凄い怖い顔をして、二ッ岩さんの事を聞いてきました。いつもと違って、凄い怖くて、まるで心が縮まってしまって。でもそのお陰でしょうか、あまり喋れませんでしたよ。あなたの事も言いませんでした。絶対言いませんでしたよ。あなたの事を。
 あと、例の計画ですが。こちらも準備が整いました。あとは二ッ岩さんの合図でいつでも大丈夫です。これで手紙のやりとりも最後ですかね。ちょっと寂しいですね」
 
 ○

 酷い事をするなぁ、と驚きを覚えながら二ッ岩さんは手紙を丁寧に折り畳んでから、懐にしまった。敷かれた煎餅布団の上で酒浸りで横になっていた。それは里の宿屋の一室だった。重い腰を上げた。

 ○
 
 その日、里では多くの、妖魔本に封印されていた妖怪達が、一斉に暴れ出した。里は混乱し、霊夢と魔理沙は、その妖怪たちを追いかけているうちに、これが貸本屋の少女が解き放った妖魔である事を知った。彼女たちが貸本屋に押し掛けると、既にもぬけの殻だった。狸の計らいで、まんまと一杯喰わされたと悔しがっていたという。それから二人の姿を見かけたものは、ついぞ居なかったという。
 その時、霊夢が悔しさを孕ませてこんな事を雪原に向かって叫んだという。暗闇の黒を背景に、まるで黒く染め抜かれた生地に飛び散った白いインクのように絶え間なく降り続ける粉雪の粒に憎しみをぶつけるように。
「呪ってやる。お前らずっと。どこに行こうと呪ってやるからね! 逃げられないんだから。絶対に! どこまでもあんた達を追いかけてやるから」
 そんな訳で、二人はあっけなく逃げ出してしまった。
 二人を監視する人々から。二人の物語を見て、勝手に彼等の痴態を思い浮かべて。そして同時に彼等のささやかで公にならない幸福に対して、やはり公にならない憎しみや軽蔑や、そしてささやかな嫉妬に苛まされる人々の、どろどろした視線から逃げ出したのだった。
 彼女たちは、二人で雪原の中を早歩きで進んでいた。
「霊夢さんの声がする……」
 いつも通りの格好で急いで逃げて来たので、彼女は寒そうに震えていた。だが、彼女を震えさせるのはそれだけでは無い筈だった。
「黙って歩くんじゃ。追いつかれたら、一戦交えねばならん」
「私の事を言っているわ。呪うって。絶対に追いつくって」
 恐怖で震える彼女の体を、ほら、と言って彼女の体を抱きしめてやる。
「違うよ。儂の事を言っておるんじゃ。怖がらなくても良いよ。それに、寒いじゃろう。その格好じゃ。すまなかったな、急がせてしまって……」
「私、急いで出て来ちゃったから……上着忘れちゃいました」
 恥ずかしそうに、笑った。その身をまた、まるで自分が彼女に縋り付くように自分の胸の中で、抱いた。
「まだ笑う余裕があるようですね。本居さんの手が霜焼けにならないうちに、行きましょうね。そうだ、上着貸してやろう」
「うん、行きましょう。笑顔で出て行きたいな」
 この日、雪の無い夜だったが、幻想郷で一番の冷え込みを記録したのだった。

 ○

 深い眠りから醒めた、新生児のように。彼女の額をゆっくり撫でてやる。うたた寝がまだ尾を引いているのか、少し不機嫌な色を滲ませていた。
「もう、二ッ岩さん。何ですか」
「あぁごめんよ。本居さん。起きて。もうついたよ」
 二人を乗せたバスが止まる。二ッ岩さんが懐から巾着袋を取り出した。小銭を運転手に渡す。
 後ろの方で彼女が重そうに咳をする。ハンカチで口元を押さえて、手すりに
「あれ、ひょっとして葉っぱのお金じゃ」
「まさか。ちゃんと本物のお金だよ」
 葉っぱ型の髪飾りが二ッ岩さんの頭の上できらりと光った。くすくす笑いながら、彼女の手を引く。
「到着って、私たちのお家ですか?」
「うん。あと少し」
「二ッ岩さん、何かこの辺、凄いくさいです」
「くさいのは、慣れてもらわんとなぁ。まぁすぐに適応するじゃろ」
 苦笑しながら、二ッ岩さんは言った。
「ここに住みます。田舎だけれども、割と都市も近いから、不便ではないだろうね。このにおいは、潮のにおいだ」
「潮って何ですか?」
「見れば判るよ」
 二人は、草原の中の一本道を歩いていく。春と夏の境目の風を微かに孕んだ梅雨の気質が、植生に微かな潤いを与えていたように思われた。彼女は、真っ白なブラウスに身を包んでいて、汗をびっしょりかいていた。
「草刈りしてないなぁ。ここの所有者は何しているのだろうか」
「でもここ、良い感じだと思うんですけどね」
 雑草の背丈は、彼女の膝元ぐらいまで伸びていて、騒がしく風に靡いて波打っている。その中を二人で、楽しそうに歩いている。
「さ、つきましたよ。本居さん」
 本居さんの息を飲む音が、風音が一瞬止まったような空気の中で、はっきりと聞こえた。 
 海が、二人の眼路の限りに広がっている。長閑に波が広がっていく。白い波濤が時折青い海原のどこかで形を成しては壊れる音がした。
 二人が立っている所は、海に突き出た大きな岬だった。一見は平坦に見えるが、ちょうどなだらかな傾斜が海の底に向かって伸びている。海に近づくにつれて、ごつごつとした岩場へと姿を変えていく。岬の先の波打ち際で、白い飛沫が飛び散った。
 海の果てに、巨大な構造物が身を寄せ合うようにして、連なっている。灰色のビルディングの無機質な感じが、青い海原の水面から、逍遥するように陽炎の中で、揺れている。
「あっちは都市じゃ。この国を支える機能が集中しておる。楽しいところも沢山あるし、その遊びに参ろうかのう。本当は佐渡の国に連れて行きたかったが、そこだと儂の出身ということですぐ足がつく可能性もあるし、京都だと中々戸籍を誤摩化すのが面倒でのう」
 彼女は、二ッ岩さんに肩を抱かれている。暫くそんな海の有様を見ていた少女が、口を開いたのだった。不安げな瞳を向けながら。
「ここは、邪魔する人はいませんか」
「いないよ」
「馬鹿にしたりとか、変な目で見ない?」
「見ない。誰も気にしないよ」
 彼女の髪に顔を埋めて、答えた。
「あの」
 擦れた声で二ッ岩さんの方を振り返って、彼女は問うた。
「私の事を、ずっと見てくれますか」
「色々あって、色々考えました。でもね、結局、儂は、あなたを見ていますよ。うまく言えませんが、儂もおのづからあなたを想うようになった、そういう風に結論付けることにしました。不満ですか?」
「ううん。だって、私は二ッ岩さんにとって、そういう存在だったなんて知らなかったし」
「そっか。良かった。良かったな。うん。やっぱり良いな。こういう言葉は儂の心に突き刺さるぞい。優しく突き刺さって、そのまま残ります」
 その腕に本居さんが抱きついた。
「私たちの、おうちは、どこですか?」
「あぁ……こっちだよ。漁村があって、そこの古い家だよ」
 その体を支えるように、引っ張っていくように、二人で春の潮風の中を、のんびり逍遥するように、行き先を定めるような定めていないかのような、面白い足取りで、二人は歩いていく。
「あとで町に買い物に行こうかのぅ。こちらのお洋服とか買って、楽しく都市を散策しましょうぞ。こちらの生活はきっと、毎日がワクワクの連続じゃよ。それから映画も見ましょう。幻想郷に来る前は、儂も結構見ておったんじゃよ。少し詳しいよ」
「二ッ岩さん、映画って何ですか?」
「あぁ、そっからか。映画っていうのはね……。大丈夫、見に行くくらいのお金はあるし、それに」
 連れ添って歩く二人の、草原の中を、おしゃべりをし続ける二人の様子。海と反対側の小さな山に咲いている桜の木から流れ来る花びらが、祝福するかのように流れていく。二人の体の間をすり抜けて、海へ溶けていくかのようにそっと寄り添うように、堕ちていく。
 百円ライターで煙草に火をつけると、興味深げにこちらを覗いている彼女がいる。
「吸いたいかね?」
 と吸い止しを手渡した。彼女がまじまじと、手に持った火のついた煙草を興味深そうに見つめていたが、二ッ岩さんがにこにこしながら見つめてくるので、勇気を振り絞って小さな口に咥えてみる。暫くしてげほげほと咽せた彼女の背中をさすってやる。とうとう胃の中のものを少し吐いてしまったので、二ッ岩さんは流石に心配した。昨日、逃げてきた途中の列車の中で食べたまずい固形食量だと判り、申し訳ない気持ちで胸が押し潰されそうになった。
「そういえば、本居さんは未成年でしたなぁ。こっちも食事も、くそ不味いレーションで我慢してもらっていていたなぁ。本当に、すまなかった……」
「慣れますよ。二ッ岩さん。私、ちょっとこの世界が好きになりそうなんです。だからこっちの食べ物も慣れなきゃ」
「好きになりそうですか?」
「はい、わくわくしています。私、おかしいかしら?」
 ハンカチで、その小さい口元を拭ってあげながら、首を横に振った。
「おかしくないですよ。儂は心配しておったんじゃよ。あんたがこちらの世界に来て、怖じ気づいてしまって、帰りたくなってしまうのではないかと思って。う、儂は何を言っているのかのぅ。まるであんたが儂の事を裏切るような馬鹿な事を……駄目だなぁ、弱気になってしまって。どうしもようも無いのう、儂はな」
「被虐しないで下さい。情けないですよ。二ッ岩さんはそういう人じゃないですよね」
「うん」
 慰めていたつもりが、いつの間にか慰められているような心地がして、人間の女ってのはどうしようもねぇなぁ、とかまた自分の事を棚に上げて、二ッ岩さんは笑うのだった。

 ○

 二ッ岩さんの日記。
 最近、本居さんの様子がおかしいのである。私が声を掛けても、まるで私の存在など無いように、沈黙している時がある。ずっと、窓の外から海を見ている。布団に包まって。酷い時では一日中そうしているのである。幻想郷の寒さなど、彼女から解き放たれている筈なのに。何かに怯えているようにしか見えないのだ。外はすっかり春らしいというのに。
 心配しすぎなのかもしれないが、ある種のホームシックなのかもしれない、と思う。ちくりと、殆ど駆け落ちのまねごと同然に、連れ出してきたのだから、そういう訳で些か自分の心が痛むのだった。駄目だ、うじうじ考えるな。そういうのは、いけない。そういう気持ちではこの先やっていけない気がする。
 彼女の心を蝕んでいるのは、郷里に置いてきた家の者の事か。彼等がどんな仕打ちを受けているかは想像に硬く無いのだった。しかし、命蓮寺の加護も期待出来ない事はない。それに里の者だって、そこまで残酷では無いだろう、そう願う。あの霊夢と魔理沙だって。どこかで願っている。彼等はそんなに残虐では無い事を。あまりにも無責任だが。
 私は彼女の家の事情は、全く与り知らない。彼女はその辺の事情を最後まで話さなかった。その辺の家族構成も、私は知らなかった。時折あの店の奥から響いてきた人の声らしいものも、本当の家族なのかは判らない。
 私自身、時折思い出すかのようにあの幻想郷の厳しい寒さが、己の内から沸き上がって来るのだった。彼女の心を苦しめているのは、その寒さなのだろうか。
 今日はいやに彼女の顔が赤かったので、熱を測ったら案の定、四十度近くあった。時間が経つにつれて症状は悪化した。彼女はまだこちらの環境に慣れていない。呼び寄せた医者が言うには、扁桃腺が晴れ上がってしまっているとの事だった。喋るどころか、唾を飲み込む事も難しいようで、見ているだけで、辛い。人間は体が私たちよりも遥かに脆い。
 それでも、そこに私はそこはかとない美徳を感じる。人間に残された、短い時間の中で成す事、考える事に。
 しかしそれとは別に、ここに連れて来るべきは無かったのではないか、とまた考えてしまう。
 そっとして置いた方が良かったのではないか。あの幻想郷で。どうして連れ出してしまったのだろう。大汗をかいて苦しそうにしている彼女の着替えを手伝ってやる。私は無能だ。



「あの、二ッ岩さん。おはようございます。あ、猫みたい」
 肩を揺すぶられ、目を上げると彼女の顔が迫っていた。そのまま息を飲み、何も喋れなくなった。二ッ岩さんは、しっぽ丸出しを枕代わりにして、彼女の布団の側で丸まって寝ていた。
「あ、おはよう。気分はどうかの?」
「大分良くなりましたね。喉も痛くない」
「あぁ良かった。もう苦しそうじゃったから、そのまま死ぬんじゃないかと思ったわ」
「死んだら、ちゃんと弔って下さいね。こっちの世界の方式でいいですから」
 何馬鹿な事を言っておるんじゃい、と言おうとしたら、相手が笑いながら咳き込んでしまった。叱責を腹の底に押し込んで、黙って彼女の背中をさすってやる。
「幻想郷もこっちも、大体一緒じゃよ」
「そうですか。葬式は、楽しくやりたいですね。皆でお酒飲んで、霊夢さんとか魔理沙さんとか、皆呼びたいな。ねぇ」
「案の定、熱がまだあるな……起きちゃ駄目だよ。寝てなきゃ。病人は寝なきゃいけないぞい」
「二ッ岩さん、ごめんなさい」
 あろうことか、彼女は目に涙を浮かべていた。それで、目を合わせようとせず、枕に彼女は自分の赤い髪をこすりつけるように、頭を横にずらした。そのはずみで瞳から涙が零れてしまった。
「どうした……苦しいか」
「嘘でした」
「何が?」
「あの日、博麗神社であった事。私の作り話なの」
「そうか。そうじゃな。そんな気はしておったけど。そうだよな、いくら何でも、全部忘れる筈ないもんな。あれだけ酒を喰らっても、記憶が吹っ飛ぶなんてここ数百年も無かったからのぅ、まして青姦とかははは」
「ごめんなさい。私、なんでこんな嘘をついたのか」
「でも儂はな、その嘘のせいで色々うまくいった部分もあったと思う。儂らの間だってその嘘が取りなしてくれたと思えば……こういう見方は歪んでおるかな? な、気にする必要はないぞい」
 雑炊でも作るから待っててね、と告げて二ッ岩さんは立ち上がった。台所で土鍋を出して冷蔵庫から葱を出してから、包丁で切った。冷凍庫で保存していた飯と一緒に鍋に放り込んでから、あらかじめ作り置きしていた出し汁をポットから注いでガスコンロに火をつけた。
 何度も何度も、思い出そうとしても、一つの像になり得なかった、その光景だった。彼女から具体的な日時を聞いても、その時の自身の行為が、今の自分の姿と重ならないのだった。
 嘘だったのか、と二ッ岩さんは驚いた。自分の心が、安心しているようで、実は落ち込んでいる事に気が付いたからだった。
 あんな事があった、悲しいことだ。お互い合意の上だったのか、そうで無いのか。とまれ、覚えていないというのは情けない話だった。
 でも二ッ岩さんはその心の中では、それはそれで一つの契機だと信じていたからだった。自分の事を考えてくれる者と二人きりで、こんな生活を送るのも悪く無いのではないか。自分の与り知らないところで起きた事が、しかし自分とは決して無関係では無くて、それが現在の自分と直結していたという、そんな事実に戸惑いながらも、その反面、別の人生が待っているのかもしれないという期待が沸き上がるのを、確かに覚えていた。
 そうか、とその瞬間、つまり自分が小鈴に告げられた瞬間、何を感じていたか、という事を改めて思い知らされた。
 自分は賭けていたのだ、その与り知らない世界からの宣託に。小鈴という小さな少女の口を借りて、自身に発せられた言葉に、賭けてしまっていた。そして、数世紀生きてきて、自身の生がそういった事の繰り返しであった事という事実を突きつけられたような気もしたのだった。
 その言葉は、賭けで言うところの場札のカードだった。それが全ての前提だった。それが、がらりと崩れて堕ちた、という感じだった。難しかった。
 前もって煮て油を抜いた後の鶏皮を鍋に入れた。匂いが立ちこめてきた。もうそろそろ食べごろかな、と思う。

 ○

 二ッ岩さんの日記。
 その日、私は仕事帰りで、日のあるうちに帰宅したのだった。都内にある物流倉庫の事務所で運良く職を得て、私は今日も働いている。当たり前の話だがお金が無いと、こちらの世界では生きていけないからだ。自由気ままに、人々に悪戯をして喜んでいた時分が懐かしい。こちらでは、その人間の言う事を聞いたり、ともすると頭を下げたりして働いている。
 乗っている電車が、私たちが住んでいる町の駅に止まった。重い腰をあげて、あの子が待つ我が家に向かい歩き出した。家に近づくと、いつもと違う光景が広がっていて、驚いた。
 洗濯物が、海に面した庭にはためいていたのだった。私が普段使うシャツや、タオルや、布団のシーツの群れが、夕暮れの空の中を泳ぐかのように、潮風に乗って波打っている。誰がそんな事をしたのだろうかと思った。
 そんなのは決まっているのだった。小鈴に違いない。大分風邪も良くなっていた。家の中から彼女が出てきて、洗濯物を取り込んでいく。その後ろ姿が美しく、私は見とれていた。
 私が驚いたのは、彼女は多分、洗濯機を使って洗い物をすませたのだ。手洗いの洗濯板なんて我が家には無い。何より、私は使い方を彼女に教えていない。洗剤を洗濯機に入れてスイッチを押すだけ。それでも使い方を知らない人間から見ると、ただの機械の箱でしかない。
 彼女に聞いてみると、洗濯機のマニュアルを見ながら四苦八苦しながら、動かしたのだそうだ。
 彼女はこちら側の世界に、ちゃんと適応しようとしているのではないか。彼女自身の力で。華奢な彼女の体の中には、そういった気概に満ちているように思える。無言ではあるが。家の中でアイロンをかける彼女の背中を見て、そんな事を感じる。それも、自分自身で学んで、である。但し、布製品の洗濯表示のタグの見方を教えてあげないといけない。

 ○

「あの、今日変な電話があって」
「どんな?」
「それが、何も喋らないの……ずっと黙っているだけで」
 向かい側に座って、彼女はご飯を装いながらそんな事を言うのだった。
「へぇ、悪戯電話か。怖いな」
 卓袱台の上には、皿に盛られた刺身とか、何かのきんぴらやら枝豆の小皿が添えられている。帰ってきたら、取り敢えず冷蔵庫で冷えた瓶ビールが出てきて、ささやかだけれども、それでも結構豊かな夕餉が準備してある。
「泥棒かもしれないのう。最近は、そうやって家の者がいるかどうか確かめて、その家の生活習慣がどうなっているのか調べて、誰もいない時間に盗みに入るとか」
「泥棒、入ったらやっつけて下さいね」
「うん。まだ泥棒とは決まった訳じゃないが、色々考えておこう」
 ビールを飲みながら、ふと、頭の隅に浮かんだ。電話は、幻想郷からかかってきたのではないか、という考え。
 しかし、こちらの世界のインフラが幻想郷に及んでいる訳が無いので、これは流石に荒唐無稽と言わざると得ない。 
「あの、馬鹿らしい考えだとは思うんですけど、あれは、ひょっとして霊夢さんとか魔理沙さんからの電話なのかな……って」   
 同じ事を考えていたのか、と少し驚いた。顔には出ていない筈だ。
「私たちの事、探していて……電話で確かめているのかしら。だったら声に出さなきゃ良かったって思って、その」
「そんな訳が無い。気にし過ぎじゃよ」
 笑いながら、刺身を口に運んだ。
「美味いな、これ何の魚?」
「何でしたっけ、忘れました。でも考え過ぎなんですかね。本当に。だってあの結界を越えて来る妖怪だっているんでしょ? 私たち、だって逃げてきたのも同然じゃないですか。冷静に考えたら、もう駆け落ち同然というか。そういう事を考えると、何だか苦しくて」
「どうなんじゃろうね」
 人間の女というのは、どうしてこう喋りたい事をそのまま喋るのだろうか。まくしたてられても、理解が追いつかないのだった。
 但し、一つだけ判る事がある。彼女は心のどこかに、ひっかかりを抱えている。それは罪悪感とも言えるかもしれないが、どちらかと言えば様々な感情が入りまぜになったものに違いない。故郷を離れた寂しさとか。知らない土地での不安とか。
「どうなんじゃろうねって。ちゃんと聞いているんですか?」
「聞いておるわ。そう怒らないで下さい」
「だって」
 その時、また電話のベルが鳴った。この家の家主が、二ッ岩さんにただ同然でこの家を貸してくれた時に、一緒に置いていってくれた、あの黒電話だった。
「電話、鳴ってますよ」
「二ッ岩さんが、出て下さいよ」
「話の途中だろうよ」
「出ないと、泥棒が入っちゃいますよ」
「霊夢か、魔理沙かもな。よし、一言言ってやろうじゃないか。なぁ、あんたはどうするね?」
 最後の一言の、何だかよく判らない問いに首を傾げる彼女を置いてけぼりにするように、廊下に躍り出る。あまりに勢い良く飛び出したので、廊下でつっかけた筈のスリッパが、つま先からサッカーボールのように飛んでいき、壁で跳ね返って二ッ岩さんの頭にぶつかった。おのれ、と言う間も無かった。自分の体が、謎の力に囚われているようで、ライオンの如く電話機に躍りかかったのだった。四つん這いで駆け出して、恐ろしい程のスピードで受話器を取った。受話器に向かって、叫ぶのだった。
「おのれ、儂のマイホームに何の用じゃ!」
「……」 
「お前、霊夢じゃろう? そうだな。こんなところまで忙しい事じゃ、結構な事じゃのう。この腐れ暇人め。まんまと騙されて、この恥さらしが。それとも魔理沙殿かの? いずれにしたって、お前さんが言うとった正しい道を外れてやったぞ。間抜け。いいか、悔しかったらここまで遊びに来てみろ、このうすら馬鹿の唐変木が。やいやいやいやい、どうして黙っていやがる。失語症のボケナスが。さては聖殿か、ははぁ。判りました。幻想郷総出で説得ですか。成る程、烏合の衆の皆様らしくどうして碌な意見も纏まらないまま取り敢えず電話してきたんじゃろう、このしみったれの吝嗇尼女が。救済だと抜かしながら、人気取りに夢中の腐れ似非宗教女が、何用ですかのぅ」
 酔いと怒りに任せた言葉が、心の底から湧き出るかのように口に出て来る。暫く何も、受話器からは何も聞こえなかった。水に潜っている時のような、沈黙が受話器の奥にくぐもっている。受話器から、沈黙に混じって相手の息が漏れる音が、ほんの微かにするのだった。まさか怯えているのか。暫く、まるで両者見つめ合うような、といった感じの気迫が流れた。
 先に折れたのは二ッ岩さんの方で、酔っぱらっていてすっかり面倒臭くなっており、「もう切るぞ、ボケが。もう二度とかけてくんな」と言い放って、受話器を叩き付けるように置いた。直感的に、これは幻想郷の連中ではないな、と思う。
 居間に戻ると、居間に彼女の姿は無かった。流しからかちゃかちゃと音がして、洗い物をしているようだった。
「霊夢さん、でした?」
「霊夢でも魔理沙でも、誰でもない。幻想郷から電話がかかってくる筈が無い。本当に悪戯電話じゃよ」
「そうですか。良かった」
 キクロンのスポンジでごしごしと皿を洗っている後ろ姿を見ていると、何故か酔っぱらっている自分自身が情けないもののように思えてしまった。
「手伝う……?」
「いえ、大丈夫です。お酒飲んでて下さい」
「うん。このきんぴら美味しいね」
「それ、お隣の斉藤さんに貰ったんですよ」
 
 ○

 最近、なんですけどね。
 私、幻想郷の夢を見るようになりました。
 でも、それは私の知らない記憶なんです。
 季節は夏ですね。私は薄手の生地と袴でした。それでも暑くて暑くて。そんな時に、あなたが来たので何だか嬉しくなって。ちょっと相談したんです。何の相談でしたっけ。
「あら、いつもお買い上げありがとうございます」
「じゃまするぞい」
 あなたは、とっても身軽な感じの夏用のシャツと、スカートを付けてふらりと風に靡かれるようにして、いつもの間にか、番台のところに立っていたのだった。
「どうじゃ、景気の方は?」
「まぁまぁですね。里でお祭りがあったときより、今のほうが景気がいいくらいです」
「お祭り騒ぎというと…?」
「私は賭け事が苦手なので、あまり乗り気じゃなかったですが……」
「賭け事じゃと?」
 あなたはとってもびっくりしていましたね。宗教家同士の、己の思想をベットした決闘が、まさか里の中で賭けの対象でしか無かった事が。
「何じゃ、みんな勝敗に賭けておったのか…」
「蕎麦屋の親父さんが賭けで大儲けしたって。結局お祭り騒ぎでも景気良くなったのは飲食くらいなもんで、本なんて無関係でしたよ」
「そうか…」
 こういう世界もあったのでしょうか。選択次第で、こういう世界も作れたのでしょうか。私は稗田が言っていた事が、ふと頭の隅で蘇ります。夢だというのに。夢の中の私と、その夢を俯瞰的に見ている私が、別れた瞬間でした。私たちは、常に創り続けているのだ、と。人生という道に意味を付与し、拡張し続けるのでした。
「ところで今日来たのは他でもない。神社の前でお前さんの姿を見かけたもんじゃからな。何やら神妙だったので」 
「あ、そうでしたか」
「能楽の公演の時ですね…」 
 はっと、そうかと思い至った。そうか、この方に相談すれば…。
「どうした? ほれほれ」
 私の心の襞が、顔にまで寄ってしまったらしかった。まるで見抜かれているようです。私の座っている机に肘をついて、腰を屈めてこちらを見つめて来るのでした。美しくしなやかに折れた体の線が、軽やかな夏服の外に浮き出ているようでした。
「そう」
 私は意を決して、こんな風にあなたに切り出してみるのです。
「あの、もしですね。想っている人の考えている事が判らなかったら、どうしますか?」
 あなたは、付いていた肘が崩れて、机の上に顎をぶつけてしまった。こちらの世界では「ずっこけた」というのですね。はい、ずっこけました。そのまま床に崩れ落ちてしまいました。
「あっ凄い音がしました。顎が机の上に思い切りぶつかりましたよ」
「話の流れから察するに、博麗神社の能楽の件じゃろうが、そこは」
 ずれた眼鏡を元に戻すように、目元に持っていった。机に手を掛けて、這い上がってきた。髪をかきあげて、呆れたようにして、こう仰る筈なのでした。
「はぁしかし困ったな。儂は……そういった事には疎くて」
 嘘つき。そうやって沢山ひっかけて遊んで来たくせに。人間の女の子が好みなのかな。それとも男性も……? やっぱり判んない。判んない。
「そういう目で見られても、困るわい。しかし、なぁ。あんたも人の子なんだなぁ。相手は、その想い人は里の男かね?」
 うーん、と言って俯いて、ちょっと秘密だなぁと言って上目遣いでちょっと笑ってみた。まぁ、里にはいますよね、里には。
「話したりしたのか?」
「まぁいっぱい話してますけど」
「何か怒ってないかね?」
「別に」
「いっぱい困らせてやれよ。それで、あんたの我がままを全部聞いてやる奴にまぁ色目を使って、結婚すればいいんじゃないか。出来れば学があって金持ちが良いよ」
「そういうので、いいんですかね?」
「いいんじゃよ。男なんてそういうもんだから。女は、それで生活を保証してもらうって訳」
「そうなんですか? それって男の人への裏切りじゃ……」
「いいかね」
 ずい、と顔を近づけてくるのです。すらりと余分なものがついていないあなたの美貌が目の前にあって、どきどきしてしまうじゃないですか。
「男っていうのは女に幻想を抱くんじゃよ」
「えぇ、幻想って?」
「女に対して純粋な生き物だと。自分だけを見てくれる、自分の事だけを想ってくれる、自分の事だけ愛してくれるって」
「えぇ、何それ気持ち悪い」
 私は思わず、吹き出してしまった。
「まぁ男ってそういうもんだよ」
「へぇ、そうなのかしら。でも可愛いですね、男の人って」
「可愛いんだけど、面倒臭いんじゃよ」
「面倒なんですか?」
「そうじゃろう。だってそんな勝手な幻想を押し付けられた日には、あんた、死ぬ程鬱陶しいじゃないか。そうじゃろう?」
「そう言われれば、そうかなぁ。ところで愛って何ですか?」
「そうか、愛って知らんか。ここには、そういう概念は無いか。そういう男の身勝手でどうしようも無い幻想のこっちゃい。男というどうしようも無い生き物が抱く、どうしようも無い藁にすがるって感じの拠り所じゃよ」
「……お客さんは、凄く冷たい人なんですか?」
「いいや、事実を言っているだけじゃ。女の役割はあんた、男にそこそこに夢を見させてあげるんじゃ。男は男で大変じゃからね。男同士、戦っておるわい」
「え、そうなんですか?」
「まぁ基本的に人間の男は、争っておるわい。仕事なら同僚同士、何かしらの業界と市場では潰し合い。それ以外でも、もっと深く潜っていけば面子とか、見栄とか、そういう位相でな。悲しい生き物じゃな。どんな瑣末な事でも他人と競争よ。人間の女もせめてそういう男に夢見せないとな。な、そうだろう?」
「じゃあ、そういうのが嫌になったら、どうしたら良いですか?」
「ん? どういうこっちゃ?」
「男と女の、やらしい関係があって。でもそうした、どろりとした間に入りたく無い時ですよ」
「難しい事を聞くなぁ。そうだなぁ」
 あなたは長い豊かな髪を、後ろのほうに梳るように流した。
「ならね。もし、そうした男と女のそうした関係が、嫌になったら。男に支配されたくなかったら、女の性の定めに従いたく無ければ。一人で生きなさい。誰にも頼らず、誰にも愛されず、誰にも物を送らず、誰にも施しをせず、誰にも依存せず。女という性は衣服のような纏いものに過ぎず、性はあんたの本質とはなりえない。それはあの霊夢や魔理沙のようでもある。ただ女として周囲を翻弄し、かき回すのみで、決して本質ではない。それはそれで完成されているが……どうじゃ、どう思うね。あんたは素晴らしいと思うかね、それともそんな生き方寂しいと思うかね?」
 私は考えた。
「判らないです。でも、それは極端ですねぇ」
「まぁ、ちょっと極端かな。儂も流石にちょっと熱くなっちゃったよ」
 あなたは照れ隠しのように、私の頭を撫でるのでした。
「私は色んな人間を見て来たさ。外の世界ではね、段々霊夢や魔理沙のような人が多くなって来ていてのう……」
「え、空飛んだり妖怪退治とかするんですか?」
「そういう意味じゃなくてさ」
 からかいの積りで冗談を言ってみたら、あなたは下を向いて、はははと笑ってくれました。つられてふふ、と私は笑います。
「そんな事よりも、あれじゃろう。話を戻そうよ」
「あっそうですね。相談に乗ってくれてありがとう。それで、そう、神社の能楽でしたよね。神社の能楽のことで相談が…」

 ○
 
 二ッ岩さんの日記。
 学校に行ってみたい、と彼女が言う。どこでそんな事を学んだのやら。彼女の実年齢は実のところよく判らない。中学生にも、高校生にも見える。見た目はそんなものか。あちら側には戸籍抄本が無かったから、どうしようも無い。
「学校ってどんな感じの所……?」
「まぁ、あんたくらいの年の子供が、勉強するところだな」
「あぁ、寺小屋みたいな」
「そうそう。でかい寺小屋だ。どうしても行ってみたいのかね?」
「ちょっと興味あるかも」
「試験とかもあるし、大変かもしれない。勉強はさ、最初は儂が教えてあげてもいいよ」
「ありがとう。でも、皆と話が合うかな」
「今日は何を見ましたか?」
「何かドラマとか。お笑いとか。結構面白かったかな」
「学校はもうちょっと待ってくれ。急には行けないんじゃよ。さっき行ったとおり試験やらお金もかかるし」
「別に、すぐに行きたいって言ってる訳じゃないですけど」
 彼女はこちらの世界のテレビや本に触れて、少しずつ勉強しているらしかった。ノートで丁寧にメモを取り、そこからこの世界の事を学ぼうとしている。テレビは家に備え付けのもので、家事の合間にそうしたものを摘んでいるらしかった。 
 彼女が数学の教科書と格闘しているのを、見た事がある。ひどく真面目だ。
「あと、そろそろ外に行ってみたいのですが」
 少し上目遣いで、彼女が言うのだった。
 二ッ岩さんは少し面食らった。
「まだ危ないじゃろう。外は」
「だって遊びに連れて行ってくれるって、最初に言ったじゃないですか」
「そうなんだけど……」
「約束したのに」
「儂がいたころとは、こちらの事情が違っていて……外は危ないんじゃよ」
「そうやって、また言い訳する」
「事実を言ってるまでじゃろ。儂らは、こちらの世界には本来ならいない筈の人間じゃ。万が一警察に捕まったら大変な事になる。いいのかね?」
 外出は念のため、禁じていた。彼女は、今日の今日まで外で遊びたいと言った事は無かったが、年頃だし、辛いのではないかと思っていたが、やはりそういう事だった。   
 最近、あの娘と喧嘩をする事がある。彼女自身、かりかりしているのだった。苛立ちがどこからやってくるのか。見当がつかない。あの小さな体に怒りが溜まりに溜まって、少しずつ吹き出しているといった感じだ。火がつかないだけましだ。爆発しないだけましだ、と。
 昨日は蕎麦の汁が薄いとかどうでも良い喧嘩になった。他愛の無いものから、今日のようなものまである。
 そういうものなのだろうか。私は、自室で書いている。台所から彼女の呼ぶ声がする。

 ○
 
 また少し諍いになり、彼女がふさぎこんでしまった。

 ○

「養子縁組って。私が、二ッ岩さんの養子になるんですか」
「うん。それは一つの手なんじゃ。儂らみたいにちょっと特殊な、その。兎に角、社会的に認めてもらう為には必要かと思っての」
 食後のお茶を出してくれた彼女に、切り出してみた。エプロンを付けたまま、いつものように向かい側に座る。
「これで晴れて、あんたの身分も確立されるという訳じゃ。学校も行けるし、もっと大きくなれば、仕事も持てる。何をしても、大丈夫だ」
「本当に?」
「まぁ本来の目的はあんたの身元を無理矢理国に認めさせるという事だが。ストーリーとしては、あんたは情勢不安定な某国で保護されて、そのまま不思議な巡り合わせで儂が育てる事になった、という感じにする。儂の知り合いで、こっちで弁護士さんをしている妖怪がいるから、そいつに相談している最中でな。それで、いいかな? 偉い人への根回しとか裏工作とかは全部こっちで任せておくれ」 
 彼女自身の中で、今しがた告げられた養子縁組という言葉をうまく消化しきれていない、臓腑の底に押し込むように嚥下しようとしても、出来ない。そういう表情をしている。
 こちらから提案しても、先に書いたように手応えが無い。こちらが声をかけても、はっきりとした喜怒哀楽を現さず、戸惑っているのか、それとも当惑している振りをしているのか、無反応を装ってからかっているのか、全く読めない。ここに来てからそういう表情を浮かべるようになった。これが、女だ。
「でも、全然。実感が無いなぁ」 
 彼女が言うのだった。
「そういうのは判る。あんたはこちらに来たばかりだし、何か実感が無いんだろうな」
「だって本当にないんだもん」
「そっか、嬉しく無いか……」
「そんな事言ってないでしょ!」
 少し感情的になり、卓袱台を叩いた。二ッ岩さんはびくりと身を震わせた。
「びっくりしたじゃないか」
「あ、ごめんなさい。だってそんな意地悪な事を言うから」
「あんただって、何か嬉しく無さそうな顔してたじゃないか」
「そんな事ないもの。ただ、ちょっと驚いただけ」
「そうか。どうも疑い深くなってきたようでな。あと、あんたにこれを持たせようと思ってな、買って来たんだ」
 彼女の機嫌を取ろうとして、このタイミングでいいかと思って紙袋を渡した。
「これ何ですか?」
 彼女の目の奥の黒目が一瞬、小さくなったような気がした。
「携帯電話じゃよ。あんた、儂の奴を見て随分興味深そうだったろう」
「ありがとう」
 iPhoneの入った包みを胸の前で、やはり彼女はぼんやりしていた。

 ○

 二ッ岩さんが仕事から帰ると、彼女がいなかった。
 家中を探したが、姿は見えない。
 奇妙な事に家の中は荒らされた形跡は無かった。玄関の施錠はされていたのは、二ッ岩さん自身が確認している。
 もう随分遅い時間だったし、買い物に出かけた訳ではなさそうだ。
 どうしたものか、警察に届ける訳にはいかない。彼女は、身分を証明するものは何も有していない。免許証も保険証もクレジットカードも住基ネットのカードも彼女は持っていない。TSUTAYAのカードすら持って無い。そもそも一人で何かあったら身元を保証する人間が、こちらの世界にいない。
 養子縁組みの手続きは、知り合いの弁護士と順調に進んでいた。もう少しというところで、こんなトラブルが待っているとは。
 愕然としながら、きちんと片付けられた部屋の真ん中に座り込んでしまった。
 今考えると、あの悪戯電話は間男では無かったか。そう思うと裏切られ、彼女から馬鹿にされたという屈辱が腹の底から沸き出して来て、暴れてやろうかと天に向かって吠えた。
 いやいや。そもそも逃げたと決まった訳では無い。
 しかし、この状況は何なのだ。まさか全てうまくいくと信じていたのだが。待てよ、まさか霊夢たちがやってきたのか。やってきてルパン三世みたいに誘拐した訳か。
 今すぐ幻想郷に出陣する仕度じゃ、こっちの世界にいる眷属たちに連絡して攻め込んでくれよう。ぐちゃぐちゃにしてやろう。
 深く落ち込んでいたところで、一気に火がついたようになった沸騰中の感情が、また音も無く静かに冷めていく。
 二ッ岩さんをそうさせたのは、間男も幻想郷も関係無かったらとしたら、という仮説だった。
 まともに考えれば何があったか、一目瞭然である。彼女は自分の意志で、家を出て、鍵をかけたのだ。
 良く家の中を調べてみると、微々たる額だがお金が少々、それと着替えが無くなっていた。これほどまでに、行動の読めない子だとは思えなかった。
 結論はたった一つしかない。自分の意志でどこかへ消えたのだ。
 その時、電話がじりじりと鳴る。犬のように電話機まで走り、獲物を掠め取るように受話器をとり、耳に当てる。
「小鈴か!」
「あ、あの。もとおりさんは、いらっしゃいますでしょうか?」
 若い男の声がする。
「……お主誰じゃい」
「あの、隣の斉藤です」
「あぁ斉藤さんとこの倅か。この間のきんぴら、ごちそうさんでした。ところでこんな時間に何か用かね?」
「あぁ、きんぴらは母が持っていったみたいで。それであのぉ、もとおりさんは……」
「急用でな。家におらんのじゃよ。んで、用件は?」
「あ、いらっしゃらないようでしたらまた電話かけ直します……」
「お主、うちに電話したのはこれが初めてかの?」
「えっ」
「最近、何度も無言電話がかかってきてな、お主じゃろ?」
「あっ」
「図星と見た」
「あっあっあっ」
「まさかお主、うちの小鈴に何か変な悪巧みを」
「ち、違います。ちょ、ちょっと一緒にディズニーランドへ如何ですかと誘おうと思ったんですが、いざ彼女と話そうとしますと、き、緊張して声が出なくてですね」
「そうか。無言電話は霊夢とか魔理沙じゃなかったのか。安心したよ」
「何の話ですかね……?」
「あの子が気に入ったのか」
「いやぁ、可憐ですよねぇ。しかし、どこか現実離れした感じというか、見た目は日本人ぽいですけど、異国の雰囲気というか。クラスメイトの女の子とは全然違いますよ。あの赤い髪も素敵ですしねぇ……」
「兎に角あの子はおらんから。また明日!」
 受話器を置いた。どうでも良い謎が一つ解けたのは良いが、だからといって進展があった訳では無い。
 二ッ岩さんは眷属たちに連絡を取り、彼女を探させる用意をするのだった。明日は都内に出て、あの子が行きそうなところを探してみようと思う。仕事も休みにしよう。そうしよう。それどころでは無い。それどころでは無いのだ。

 ○

  突然、お家を留守にしてごめんなさい。今ちょっと迷子になってしまって。迎えに来て下さい……。東京駅? にいます。かしこ。

 ●

 都内を歩き回り、辿り着いたのは秋葉原の電気街の一劃だった。もう既に夕暮れ時の、食い物の匂いが居酒屋や飯屋から漂って来る。
 その時、胸元でiPhoneが震える。二ッ岩さんは自分のiPhoneのメールのクライアントアプリを起動した。そこに書かれている文面の意味不明さに、目眩を覚えるのだった。何を言っているのだろうか、この娘は。長い豊かな髪を掻き分けて、煙草に火をつけようとしたが、流石に路上では憚れた。
 良い所に、煙草屋があったので、そこの軒先の灰皿で一服。百円ライターでぼっと火をつける。苛立ちを隠せずに、貧乏揺すりしながら、その文面が彼女の脳裏で何度も駆け巡る。
 迷子になっているのならば、助けにいかないと。彼女は東京駅にいるのだ。よりによってあんな迷宮みたいな所に何でいるのか。この二日間、儂がどんな気持ちでいたか判っておるのじゃろうなこん畜生、とついつい外に出している口調でものを考えてしまった。
 しかし、どうしてそんな所に、という当たり前の疑問が一つ、宙に浮かんだのだった。そんなところに何用なんじゃい、という事だった。
 そして何も知らされず、またしても彼女の思惑に振り回されて、その流れに自分自身身を任せようとしている。自分はどうしようも無い奴だ。
 しかし、という考えが思い浮かぶ。彼女をそのまま自由に勝手にさせておくのが良いのではないか。もう自分が彼女の人生に、関与するのは止めた方が良いのではないか。もう自分の役割なんて終ったようなものでは無いか。彼女を幻想郷から連れ出したのは、結果的に二ッ岩さんの役割と言えただろう。彼女もそれをどこかで望んでいたようで。しかし、それだけ? それでいいの、といった疑問系の思惟が落ちて来る。
 タクシーで一目散に東京駅に向かおうとしたが、何だかお金がもったいないのでそのまま地下鉄を乗り継いでから、大手町駅に降り立った。時刻は昼を回った頃だった。スマホがまた振動し、彼女からメールが届く。もう、大分テクノロジーを使いこなしているなぁ、と相当いらいらしながら感心してしまっている。



 あと、新幹線、乗りましたよ! すこぶる速い。



 乗りましたよ、じゃないよ。速い、じゃないよ。どういうことだろう、っていうか乗ってどうしたのだ。どこかへ遊びに出かけたというのか。観光か? 流石に一人で外出を禁じた反動だろうか。だからといって、あんた、まさか旅行か。
 春だったが、メトロの地下駅の細長いプラットフォームは、随分蒸していた。ダークスーツの上下を軽く羽織るように着て、首元にはどういう心境か、玉虫色のスカーフを巻いて、ちょっと粋な感じの二ッ岩さんだったが、下着まで汗がしみて来るように思えたので、思わず黒い上着を脱いで、片手に担ぐように持った。ヒールのかかとを地面で鳴らすように、ずかずかと歩いていく。
 東海道・山陽新幹線の乗り場へ向かおうと思った。見送り様のキップを一枚買って、改札機を通る。くたびれた感じのサラリーマンが二ッ岩さんの横を無表情で通り過ぎる。両手に紙袋を持った背広の男が、二ッ岩さんとぶつかった。彼はスイマセン、とだけ言ってそそくさと八重洲口へ早歩きで消えていく。出張帰りだろうか。
 プラットフォームに降りてから、周囲を見渡す。ちょうど新幹線が到着したようで、多くの人が彼女の方に向かって、突進して来る。おっと横によけて、その人熱れの中、彼女の赤い髪を探した。
 彼女は居ない。
 その時、またiPhoneが鳴った。画面を見ると、着信だった。
「もしもし」
「二ッ岩さん……」
 彼女の声だった。
「あんた、儂がどれほど心配したか判っているのか?」
「……」
「なぁ、聞いているの?」
「二ッ岩さん、私どうしても京都に行ってみたかったんです」
「なぬっ」
「実は幻想郷にいるときから、京都の存在は知っておりまして。美しい寺院とか、見てみたくなってしまって」
 馬鹿すぎる、と二ッ岩さんは呟くように彼女に吐き捨てた。
「そんな愚かな娘だとは思わなかった。もっとあんたは、聡明で慎重だと思っていたよ」
 ふっと鼻で笑ってこう言ったのだった。
「理性や常識よりも、ただ感情で動く小娘だったか」
「ねぇ、二ッ岩さん……私の事、嫌いになりました?」
 電話の向こう側の彼女の声が震えている。泣いて許しを請うつもりなのだろうか。
「私、新幹線で乗って京都駅に着いたんです。大体お昼くらいに。それで、京都駅が思っていたより広いのと、人が凄い多いのと、あと道案内がよく判らないから、そのまま折り返しの電車に乗って帰って来ちゃったんです」
 泣き笑いの声が震えて、二ッ岩さんの耳を優しくくすぐるのだった。
「なんだ、そのまま帰って来たのか。居なくなった日は、どうしたの?」
「八重洲の近くのビジネスホテルに泊まりました。あとごめんなさい、お金勝手に使っちゃいました」
「お金もそうじゃな。お前はどうしようも無いな……」
「はい……」
 二ッ岩さんは、反省など求めていない。人間とは、時に理屈に合わない事をするものだ。それをどう受け止めて、どう理解するか、それしか残っていない。
「旅行はどうだったね。新幹線の旅行は?」
「あの、私新幹線の中で風景を見てたんですけど、東京から一時間くらいたったところかなぁ。大きな山が見えて、大きくて奇麗だなぁと思ってみていたら、そのお山のてっぺんに雪が残っていたんです。そっか、こっちの世界でも雪があるんだなぁと思ってたらですね……」
 いつになく、慎重に言葉を選んでいるように思われた。
「何故か幻想郷の風景を思い出して」
「うん」
「あと、田んぼもあるんですね。これから田植えなのかしら、季節的に」
「そうじゃな」
「そういうのを見ていると、やっぱり思い出しちゃって、あっちの幻想郷」
「懐かしいかい?」
「……いえ。苦しいです」
「……?」
「本当は、こちらに来てからずっとずっと、苦しかった。今だって苦しいんです。どうなんですか? 私って皆置いて来てしまったんです。鈴奈庵も、里も、里の人たちも、あの首を吊って死んだ子も、霊夢さんも魔理沙さんも、重苦しくて凍える幻想郷の冬も、全部置いて来ちゃって。置き去りしてきたような、その人達との繋がりとかその人たちと知り合いであったから持っていたそれなりの責任も、全部投げ捨てて、見知らぬ振りをして逃げて来たんだと思うと、死ぬ程辛くて。ねぇ、でもそれは二ッ岩さんのせいじゃないの、違うの。私の問題なんです。私、気が狂いそうなんです。二ッ岩さん、私凄い幸せなんですよ。あなたは。あなたは私に教えてくれたじゃないですか。こんな道だって良いって。でも、私は全部悪いんです……あなたが教えてくれた道に、何の覚悟も無く飛び込んじゃって。だから、あなたは悪くないの」
「あんたの悩みをずっと誤解していたよ。あんたが心変わりして、もう儂の事を見ていないんだと思っていたから」
「いいえ、違いますよ」
「心変わりして、出て行ったのかと」
「違うわ」
「そうか。しかし、あんたの心の中にはこれからも現れるんだろうね。幻想郷が。どうするじゃ……? その苦しみを儂は聞いてやれるけど」
「判んないけど」
「なぁ、あんたは帰りたいんじゃないのか?」
 無言。
「なぁ。まだ、間に合うぞ。もしあんたがその気なら、まだ間に合う」
 これだけは言いたく無かったのだ。
 これを言ってしまえば、今までの何かもが、自分が彼女にかけた言葉も、彼女に書いた手紙の言葉も、ここまでの道程も、苦労も、何もかもを否定する事になるからだ。それは、間違いなく相手を傷つける。そうして終って来た男と女を沢山見て来たのだった。
 無言。
 逆に言えば、それは一つの提案でもある。でも、それは振り幅の大きい提案である。可能性の振り幅の事を言っている。
 無言。
 迷っているのだろうか。本当は、即答して欲しかったのだ。ここにあなたと居ます、と。時間が進む度、振り幅は増していく。自分の思いつかない可能性の、振り幅が。
「帰らないです。でもちゃんと理由があって。あの、お話しますから。でも、このまま電話じゃ嫌だな」
「そういえばさ、あんたは今どこに居るんじゃ?」
「えぇっと、でっかい建物ですね。あっちょっと標識に書いてありますね……えっと、丸ビル?」
「なんじゃ、新幹線の乗り場におらんのかい、儂はうっかり、プラットフォームなのかなと思ったわ。丸ビルではあれかい、新しい方と古い方、どっちにおるんかい」
「古い方かな」
 自分の耳元というより、すぐ後ろから聞こえたような気がした。その瞬間、自分の居るべき場が真っ黒になった。驚きのおかげで、本当に神経が麻痺してしまったようだった。
 二ッ岩さんの腰の辺りに強い衝撃が加わり、よろけて危うく転びそうになる。それほど強い力では無かった筈だ。殴られた訳でも蹴られた訳でも無い、まして弾幕を投げ付けられた訳でも無い。
 自分は後ろから抱きしめられたのだ。それもこっそり近づいて、誰かの手が後ろから回されて、自分の腹のあたりで巻き付いた。嫌だ……と生温い感覚が、下腹部から太腿の辺りにまで伝わって、そのまま踝の辺りを伝って地面に達しようとしていた。多分汗だった。
「そんなに私、強い力でした……?」
「強かったわい。お相撲さんみたいじゃった」
 曲がってしまった背筋を、しゃんと伸ばす。
 鼻のあたりまでずれた眼鏡を目元まで持ち上げて、振り向こうとしたが、出来なかった。何故か力が入らなかった。本居小鈴の体の体温が、自分の背中に伝わって来るのだった。
 脂汗が、自分の額から首もとに流れた。
「見られている気がする」
「皆、見てないですよ。ほら、皆下を向いてますよ。iPhone見ながら、自分の世界に入ってますよ。見ない振りしてるんだわ」
 予想外、こんな攻撃を受けるとは思わなかった。
「一発殴ってやるわい。こっち向けよ」
「ごめんなさい。もうこんな事しないから」
 もの凄い風が二人を襲った。別の新幹線が到着したのだ。
「でも、良かった」
「はい」
「次同じ事やったら、幻想郷に送り返すからな」
「……」
「こうやって生きていくしか、ないんじゃ。私たちは。そういう生き方を選んだんじゃから」
「……うん。大丈夫。自分でちゃんと乗り越えますから」
「そうか。次は、二人で旅行へ行こうかのう」 
「私、次は外国に行きたいです」
「どこ?」
「えぇっとね、何て言ったかな。そう、もろこしの国」
「もろこし……あぁ。古い言い方じゃの。じゃあパスポート作らないとな。ただあすこは、最近環境汚染がかなり進んでおるからのぅ」
 そして、二人は並んで歩き出す。背の高い二ッ岩さんの腕を組んで、本居小鈴は黙って歩き出す。その時、そっと顔を見上げてみると、いつかの硬い目が二つ、駅のエスカレータへと固定されている。
「そういえばね、『文福茶釜』をお店に持って来てくれた日の事、覚えています?」
「うん。もうずっと昔の思い出のようじゃが、それでも覚えているよ」
 突然彼女が、二ッ岩さんの正面に立った。そして包みを差し出す。駅前にある丸善という本屋の紙袋だった。ビルの一階から四階まで、その本屋のテナントが続いていたな、と思い出す。
「iPhoneのお礼です」
 疲れきった様子の二ッ岩さんは、黙ってその紙袋を受け取った。かなり大きな紙袋で、持ってみるとずっしりと重かった。
「これ……なんじゃい?」
「開けてみて」
「家に帰ってから開けるとするよ」
「今、開けて欲しいな」
 そうか、と紙袋の口に封されたテープを取った。中身を取り出すとそれは、本ではなかった。カレンダーのような物だった。
 二ッ岩さんは手に取ってみて、息を飲んだ。あの『私家版百鬼夜行絵巻最終章補遺』だった。
「……これ、持って来たのかい、幻想郷から。ただでさえ逃げ出すのに、あんなに大変だったのに、あんた」
「だって、約束したじゃないですか。あの時。あなたと約束したもの」
 にっこり笑いながら、彼女は言うのだった。二ッ岩さんは、ちょっと泣きそうな顔をしていた。
「ずっと大切にするよ。ありがとう。でもな。どうしてこんなに私を驚かせる事を次々としてくれるんじゃ、あんたは」
 轟音が、二人をエスカレータの方向へ押し流すようにして轟く。風と音の奔流に後押しされるように、彼女は二ッ岩さんの耳元で、聞こえるか聞こえないかという程度の声の大きさで、伝える。
「よく判らないけど、あなたを驚かせる事こそが、きっと私に与えられた役割なのだと思います」
ずっと昔に出した同人紙から。
鈴奈庵終わってしまって、寂しいですね。まさかあぁいう結末とは…。
とまれ、よろしくお願いします。
佐藤厚志
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やっぱいいですね……新生活の季節だからなおさら
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おかえりなさい
3.100名前が無い程度の能力削除
マミ鈴尊い……