FBIで二番目に人気のない部署、異常事件課にようこそ。
きみたちの大半は、だれかに面倒をかけた結果、おそらく罰としてここに来たことだろう。
上司に真実を話したのに、信じてもらえなくてここに来たってやつはいるか?
ああ、一人だけ。それじゃあ、デモンストレーションをしないとならないな。
――いいか。UIUはジョークだ。
-UIU Orientation-
◇◇◇
FBIは子供の頃からのあこがれだった。
きっかけは両親と見ていたドラマかなにかだと思う。それは誰にでもあるアメコミのヒーローへのあこがれと変わらない程度のものだった。そして、当然のようにそんなあこがれは成長と同時に風化した。四年制大学の卒業後にニューヨーク市警<>にへ入ったのは、人並みと正義感と安定した雇用という多少の打算の結果だ。
だが、NYPDから見たFBIは予想以上に輝いていた。毎日のように起こる凶悪な、または組織的な犯罪に颯爽と現れては成果を上げる。そんな彼らの背中があまりに眩く、故に錆びついてた思いが動き出してしまった。
自分は眼の良さと人並みの正義感以外に才能の持ち合わせがない。公務員の父と教員の母の間に生まれた自分には特別な金やコネがある訳でもなかった。
だから努力するしか無かった。上司と同僚の全面的なバックアップを受け二十五歳になる歳に採用通知を受け取れたのは奇跡に近い出来事だった。
今となっては、小躍りをして喜んだ自分が懐かしい。
「ジョン、ここは禁煙だ」
周りを見れば誰の机にも灰皿は置かれていない。後ろ髪をひかれる思いで赤熱した先端を小皿に押し付けた。
「珍しいですね。前居た所<>じゃ、そんなの言われたこと無いですが」
ここはニューヨークの一角に居を構えるFBIのオフィスである。採用通知を受け取ったのは四ヶ月前のこと。つまり、この椅子――座らせる気がないNYPDのそれよりも更に硬い――に座り始めたのはつい数日前のことだ。
「そうだろうな。でも、これからはそれが常識になるんだ。そうするのが、我々の仕事だ」
「仕事の幅。広すぎじゃないですかね」
FBIには幾つかの部署――科学技術部、刑事部、情報技術部、人事部等――がある。どの部署も市民の安全を守ることを目的として活動していると聞かされていた。
だが、それにもたった一つの例外がある。私の受け取った辞令にはそんな部署の名前が書かれていた。
そこには数々の噂があった。曰く、FBIのお飾り。曰く、FBIのコミック・リリーフ。曰く、人材の墓場。私が配属されたのはそんな部署だ。
わずか数日の間に吐いたため息の数を、もう覚えていない。一番の原因はサポートスタッフ――新人捜査官につけられる教育担当の捜査官――であるハイラムだった。UIUを象徴するかのごとき初老の男は、数々の奇行で噂を証明してくれた。
「どうした? そこまで吸いたいなら、屋上へ行くと良い」
目の前のニヤけ面に自然と吐息がこみ上げる。
「いいえ、なんでもありません。それで、今日はどこで誰がグレイに攫われたんですか?」
「良い質問だ。カリフォルニア州の海岸沿いで猫が人に化けたと言う噂が広がっていてな。俺の勘じゃそのうちに喋る猫が現れるはずだ」
ため息は途切れる様子を見せない。配属されて数日が経つというのに、未だ業務を理解できていない。もちろん簡単なオリエンテーション――あれがそう呼べるものならば――はあったが、とても業務理解につながるとは思えなかった。
ならば先輩から仕事を盗めというのがこの手の職場の常識なのだが、それも期待できそうにない。少なくとも初めての現場出動で目撃したのは、エドワード――仕事と言葉遊びのどちらに割いている時間が長いか掛けの対象になっている――と、エイモス――デスクワーク派であり、唯一と言って良いUIUの常識人だ。ただし、極度の運動音痴であり彼がどうやって体力試験をパスしたのかは掛けの対象になっている――が、なにもない公園の真ん中で突然に倒れる様子だけだった。
こんな状況でどうしてやる気を出せと言うのだろうか。
「ならばこちらの仕事をお願いしようか」
いつもより幾分真面目な口調とそれっぽい封筒。ついにこの時が来たのかと、自然に背筋が伸びた。
「ずいぶん古ぼけた写真ですね。しかも、今どき珍しい」
中から出てきたのは一枚の写真と数枚の報告書。
「いいやこれは普通のカメラで撮られたものだ。少なくとも、今君が持っているものとは同じだ」
「へぇ、その割には少しばかり色味が薄いように見えます」
「奇遇だな私もそう思うよ」
「まったく、ここに来てから新しい発見ばかりです。我々の可視光域は、いつの間にずれていたのでしょう」
「ああ。だからこれを撮ったカメラマンは、メンテナンスをサボっていたんだ」
二十年ほど前までなら主流だったフィルムに映っていたのは、一人の少女だった。肩口で切りそろえられたショートヘアに幼いながらも整った目鼻立ち。満面の笑みを浮かべた彼女は両手にピースサインを出していた。
だから、それが人でないとすぐに分かったのは私の眼が良かったからだ。
その背中から伸びるものはコウモリの羽とも枯れた枝とも鳥の翼とも異なっている。歪に歪み、煤け、黒ずみ、節くれ立った棒だった。その合間からは結晶のごとき硬質な物体が垂れ下がっている。灰色に光る宝石の如き結晶体である。それが有機的な存在なのか無機的な存在なのかさえも、理解できなかった。
「その写真はUIUのデータベースにあったものだ。目撃証言と符号するので参考として添付した。資料にも書かれている通り、最初に目撃されたのは一ヶ月程前のニュージャージー州のケニルワース近郊。コンビニで万引きを働こうとした所を店員に通報されている」
「コンビニで万引きって……、ずいぶん所帯染みたカン人間ですね」
「ははは。奴らも目立ちたいとは思ってないだろうからな。コンビニやレジなんて初めて見たんじゃないか? ほら、ケニルワースには北米M社の本社ビルがある」
「それじゃ北米M社が秘密裏にカートやカンを囲っているみたいじゃないすか。怪しげなベンチャーならまだしも、北米M社は誰でも知っている製薬企業ですよ」
「いやいやそうとは限らんぞ、ほらFBIだって誰でも知ってる」
「家にカン人間居ないだろ起きろ」
そりゃそうだ。豪快に笑うハイラムを無視して資料に眼を通していると、一つの事実に気がついた。目撃地を示す地名は時系列をたどる毎にわずかだが北上している。そして、直近のそれはUIU本社ビル近くを示していた。
「なるほど、捜索ですか」
「ああ。カン人間に好き勝手歩き回られるのは、望ましいとは言えない」
「見つけたら捕獲しろと。了解しました。ちょっと見回ってきますよ。こんな所であなたのジョークに付き合うよりは有意義です」
「ジョン。そろそろ分かってるだろ。我々にそんな能力はない。見つけても手を出すな。我々はただ監視するだけで良い」
情けないはずの事実を笑いながら口にする。そんなハイラムの様子に少なからず不快感を覚えた。
「はぁ、それじゃ、見つけ次第報告を入れます」
せめてもの抗議にこれ見よがしにため息を吐いて見せ、私は席を立つ。
「いや、それも別にどっちでも良い。俺、奴ら<>の電話番号なんて知らないし」
「じゃ、なんのために探すんですか!」
「なんでってお前。こんなバケモノ放置してるのが市民にバレたらやばいだろ」
握りしめた拳を解きゆっくりと息を吐く。少なからず冷静になった頭で状況を整理し、そして悟った。
これが異常事件課<>という部署なのだ。
配属されてから数日で私はようやく理解した。
◇◇◇
ヴァージニア州クォンティコの海兵基地で受けた二十一周にも及ぶ訓練は記憶にも新しい。尾行術、射撃術、逮捕術、見張り術、犯罪心理、一般法規。そこで私は様々な訓練を受けた。当然ながらその中には仮想敵国に関する知識も含まれる。
そんな苦しくも眩しい日々を思い浮かべながら、私は腰の拳銃――コルト・ディテクティブスペシャル。言うまでもなくUIU配属以来初めての使用だ――を引き抜いた。
目的はただひとつ、合衆国<>の敵を打ち倒すために。
「ソヴィエトでは畑で人が採れると聞いたが。全く。本当らしい」
その老婆は体躯からすれば肩幅が広く、手足が長く、頭は小さい。そして顔は縦に短かった。それらがスラヴ人の特徴であることはFBI採用時の研修期間に学んでいた。
だから私はそれが人間でないことが分かった。スラヴ人は触手を伸ばさないからだ。
「悪い冗談だ。俺は今日非番なんだが……!」
それは全くの偶然だった。街の散策中、突然聞こえた悲鳴に駆けつければ死体と老婆と紅い絨毯があった。ただそれだけだ。当然、異常存在に立ち向かう準備はなに一つない――業務中ならあるというわけでもないが――。
「なんだこれは……、立てん……」
猛然と迫る地面を見て、自分が触手に打ち据えられたのだと気がついた。体がぴくりとも動かないのは、決して痛みのせいなどではない。
それは、末端から広がる汚泥のごとき不快感だ。それはあまりにも甘美で自堕落的な微睡みでで、背後に潜むのはあまりにもおぞましい悪意だ。吐き気にも近い睡魔に全力で抗うも視界は徐々に狭まっていく。
目の前にあるのは大口を開ける老婆の姿だ。
「く、そ……」
両足の感覚はとっくの昔に無くなっている。人差し指はトリガーに掛かったまま凍りついてる。唯一許されたのは真っ暗な世界で胎児のように体を丸めることで、救いは恐怖を感じるほどの思考力が残されていないことだ。
「まったく。変な街ね。棚に並べてある飴を食べただけで追っかけられるなんて」
ぼんやりとした意識の向こう側にあどけない声があった。それが人型であることを理解するにつれ、意識が現実に引き戻されていった。
それは、特大のキャンディケイン――最高にまずそうだ――を握りしめた茶色い布だった。
「あっ、ごめんごめん。あんたらお楽しみ中かなにかだった? 邪魔する気はなかったのよ。ただちょっと追い掛け回されてただけで」
ビル壁面を這いずる触手は、今や茶色い布へと向けられている。その口元からは止めどなくよだれが滴り落ちていた。
「なにを、言ってるんだ……、逃げろ……。私は、FBIだ」
「あっ……、そう。……うん。私は大丈夫よ。そう言う人が居るのは理解している。その、あなたが……、少しマニアックでも軽蔑しない」
ああと私は嘆く。この浮浪者は状況を飲み込めていない。放っておけば間違いなくあのバケモノの餌食になるだろう。だと言うのにこの体は一向に動こうとしない。
私の足掻きも虚しく、一本の触手が浮浪者へと襲いかかる。コンマ三秒後に向けた私の叫びを背景に、どす黒い触手が布の頭をかすめる。ほんのわずかにズレた布から覗いたのは、まだあどけなさの残る顔立ち。
それは、あまりにも幼い少女だった。
「頼む……、逃げてくれ」
在庫僅少の正義感を燃やし尽くしてようやく立ち上がる体は、既にふらふらだ。だが、今倒れるわけには行かない。この場に頼るべき仲間は居ない。立ち上がるべきは自分に以外に無い。震える手で拳銃を構え、目前の敵を狙う。
目的はただひとつ、合衆国<>の敵を打ち倒すために。
コンマ数秒後。老婆の触手は動体視力の限界を超えて襲ってきた。なす術もなく地面にはいつくばり、それでも手放さなかった拳銃の引き金を引く。数発の銃声は、老婆にかすりもしなかった。
「神よ……、どうか……」
屈辱だった。弾丸は尽き体は動かず、しかし意識だけは残っている。少女へ伸ばされる触手を前に無常を嘆き、そして眼を閉じる。今度こそ訪れるはずの現実から、ほんの少しだけ逃げるために。
「お兄さん、お兄さん。もしかしてマジでお困りだったり?」
それは相変わらず呑気な声だった。まるで何事もなかったように、茶色い布の少女は、私の前に立ちはだかっていた。
「早く言ってよね。私、こういうの待ってたのに」
それは相変わらず呑気な声だ。だがその細腕は、どす黒い触手を軽々と受け止めている。
蠢くそれを手のひらで霧散させ少女は不敵に笑う。老婆はこの世のものとは思えない悲鳴を上げて、無数の触手を展開した。しかし、迫る触手を前に彼女は一歩も引かない。それどころか数メートルの距離を一瞬で詰め、老婆を蹴り飛ばしてみせた。
「ふむ。直接神経系に作用するのは触手表面から放出されるオピオイド。でも、輸送方法<>が少し特殊って感じかな。大方、生体微小機構<>で適当なヌクレオチドに偽装して脳関門の有機カチオントランスポーターを突破してる……、って所かしら。面倒ね」
「神が……、我を……、救い給うた……?」
「あら面白いジョークね。でも、まだ安心できなくてよ」
起き上がった老婆は、激昂した様子で倍以上の触手を展開している。もはや壁と言って良いそれは、もはや回避できるレベルではないだろう。
「あ、やっべこれ。あかん奴や」
猛烈な勢いで迫る黒い壁。あまりに非常識なそれに、私はただ口を開けていた。
「お兄さん、ちょっと大人しくしてね」
耳元にそんな声が届くと同時、とてつもない力が体を浮き上がらせた。少女がアイベックスを思わせる軌道で壁を駆けているのだと気がついた時には、老婆ははるか彼方。
上下方向へのGに揺られる脳にあったのは、いっぱいの混乱とそれなりの安堵感、そしてわずかな疑問だった。
ようやくその動きが止まったのは、数区画も離れたビルの屋上だった。茶色い布の少女はなぜか私の右腕――老婆の触手が触れた部分――を診ている。少女はおもむろに私の右腕掴むと、なにごとかを呟いた。
「見えた分は壊しておいたから、多分大丈夫たと思うけど。しばらくは激しい運動を避けたほうが良いと思う」
離れた手のひらの後に残っていたのは、薄く小さな痣と仄かな体温。身体の麻痺は嘘のように消えていた。
「君、」
礼を言おうとした口は、その光景を前に静止した。
あれほど激しく動いたのだ、風かなにかで飛ばされたのだろう。そこに茶色い布は無かった。代わりにあったのは肩口で切りそろえられた美しい金糸と、人形のごとき整った目鼻立ち。
「私はただの無職よ。ついでに言うと、今は仕事を探してる」
「いや。君、煙が……」
太陽のような笑顔を包む金糸は、丸い瞳と同じような緋色を灯していた。
「やっべ、水、いやっ、流水はヤバい。コートだ、コートを貸せ!」
奪い取られた一張羅が無残にも煤に塗れていく。その光景を前にしても意外なほど思考は冷静なままだった。当然だ。コートの端からは異質な黒い棒が伸びている。煤け、黒ずみ、節くれ立った棒はそれの背中から伸びている。
私はもう一度深呼吸をして、身を引き締めた。
◇◇◇
「あのさぁ、私最近コミックを読んだのよ」
「それは初耳だな。――ああ、ちょっとだけ右足を上げくれるか」
つとめてそれから眼をそらし、私は答えた。
「両親を観劇の帰りに殺されたヒーローの話でさ。そのヒーローは悪いやつをやっつけたら感謝されてたワケよ。それを見て私ヒーローって格好良いなぁ~、って思ったの」
「そうか。だが、多分そいつはそんなに感謝されてないんじゃないかな」
それはあまりにもとらえどころが無い。胸の中にたまりはじめた不安を振り払うように、目前の作業に集中する。
「だからさ、私思ったの。きっと困っている人を助けたら、私も助けてもらえるんじゃないかって」
「ずいぶん打算的なヒーローだな。おっと、次は左足だ」
「あのさ、お兄さん。私聞きたいことがあるんだ」
「どうぞ」
「これ、なに?」
両の手を突き出したそれは、非難の眼を向けている。大きな鉄の錠が鈍く光った。
「私。命の恩人だった気がするんだけど~!」
それの足首には、大きな鉄の錠がはまっている。油性インキで描かれた十字架と申し訳ばかりに溶接された銀の装飾は、ハイラムの手によるものだ。
目的は当然、カン人間の収容である。
「君、カンだろう? 人間でないものに最大限の警戒を行うのは当然だ」
「おーぼーよ、ゲシュタポ化のしょーこだわ。せーとーなーさいばんをよーきゅーする」
それをUIUへ連行――正しくはそれが――してきたのはつい一時間ほど前のこと。署内がバケツをひっくり返したような騒ぎになったのが三十分前。この部屋に入ったのはつい数分前のことだ。
部屋には鋼鉄の扉と格子の入った窓が設けられている。そこはUIUに設けられた、カンの収容部屋――ハイラム曰く、UIU創設以来初めての使用――である。
「司法省<>が守るのは人の権利だけだ」
非難の視線にも飽きるであろう頃。椅子の上のそれは拘束された範囲でとれる精一杯の動作でため息を吐いてみせた。
「だけど、傷の手当はしてくれるんだね」
その声色には悪意が満ちていた。だからその瞳は挑発の色を帯びているに違いない。私は手早く絆創膏の余りを救急箱にしまうと、出口のノブに手を掛けた。
「ちょっと待ってよ、もーちょっとお話しようよ! どーせ暇でしょ?」
「お前、喧嘩売って――」
それが視界に入った瞬間、思わず体が静止した。それは、濡れた瞳だった。わずかに湿り気を帯びた目尻は、あどけなさの残るそれに絶妙な色を付加している。ほんの一瞬であるが、それに眼を奪われていた。
「お話、しよ?」
見る間に悪意に染まっていく瞳に、己の迂闊さを悟った。ロリコンかな。ふざけんな文句あるなら帰るぞ。ちょっとまった撤回するわごめん。
後ろ手にノブの感触を確かめ、慎重に言葉を選んで口を開いた。
「状況だけだ。君についての」
「そうそう、それが聞きたかった」
「君のことは上司に報告済みだ。だが、不運にも無力化<>は、命じられなかった。今後の扱いについては現在協議中だ。それまでは、ここで大人しくしていて貰う」
「ここに居て良いの?」
その頭上に浮かぶ疑問符に疑問を覚え、質問すると暖房の効いた部屋は久しぶりだと答えた。頭を抱えたくなる衝動をこらえて言葉を続ける。
「多分数日もすれば元の場所なり、UIUの施設なり、外部機関なりに送るとは思うが」
「ご飯は?」
「まぁ、最低限の食事は保証する」
「ねぇねぇ、だったらあめ玉頂戴よ」
休日のウォルマートに溢れるそれが目の前にある。
「食事内容を決めるのは、私じゃない」
返事が帰ってくる前に、扉を閉めた。
◇◇◇
処遇なんてすぐに決まるだろう、だから一時的にあれの世話係を頼む。そんな根拠もなければ正当性も無い指示に、軽率にも首を縦に振った自分を恨んで一週間。
上から指示の来る気配は、今日も無い。
「食事だ」
寝ぼけ眼だったそれは朝食を見るや瞳を輝かせ、インスタントのオートミール――すごくまずそうだ――を口に運ぶ。
「じっと見ないでよ、照れるじゃない」
「いつお前が妙な気を起こすとも知れん。バケモノを監視するのも仕事の一つだ」
「そんなことしないって、殺しちゃったら血が吸えない」
過去に数度似たようなことがあった。その度私は黒光りする銃口を突きつけ、それは銃口を張り付いたような笑みで眺める。私はいつもそれに怯えていた。
「そんなに私を怖がらせるのが楽しいか?」
それはささやかな反抗のつもりだった。既に屈している心を認めたくない。そんな意地からでた言葉だ。事実として恐れているのだからそんな言葉に意味は無い。
だから、それは意外な光景だった。
ちょっと待って。マジ。どうしよう胸がドキドキする。
胸を手を当て視線を泳がせる姿は、まるで狼狽しているみたいだった。だがそんなはずない。なぜならこれはバケモノだ。バケモノがこの程度で怯えたりするはずない。
だから気を緩めてはいけない。もう一度グリップを握り直し、そっとハンマーを起こした。
「あなたってさ……。もしかして本気で私を怖がってるの?」
「当たり前だ。最初からそう言ってる」
「どうして? どうして、あなたは私が怖いの?」
その声におどけた調子はない。脅すような凄みもない。そこにあるのは年端もいかぬ少女が抱く澄明な疑問だけだ。
「お前が、吸血鬼だからだ」
幾らかの言葉を選び、私は答えた。
「でも、最初に私を見た時は人だと思ってた」
「当たり前だ。お前は布をかぶっていた。羽が見えなかったじゃないか」
背中と椅子に挟まれてしわくちゃ――痛くないのだろうか――のそれを指差し、問う。それは少しばかり考えるそぶりを見せてから手を打った。
「こうしたら、私は怖くない?」
確かにそれは怖くなかった。確かにそれは少女に見えた。なぜならそれは、背中に羽を隠していた。そんな馬鹿な。私は首を振ってその妙な考えを振り払った。
「お前はバケモノだ。それこそ、全人類に羽が生えでもしない限り」
「じゃ、みんなに羽が生えてたら?」
耳を疑った。私の感覚が正しいならその声色には懇願が混じっている。ありえない。バケモノが私になにを願うと言うのだ。
「よしんば生えたとして、お前はやはりバケモノだよ」
「どうして?」
「私はお前がバケモノだと知っている」
なにがこれの態度を急変させたのか、未だに理解できない。理解できない以上、脅威が去ったわけではない。目の前の彼女がからからと笑っているからと言って。その姿が年ごとの少女に類似しているからと言って、油断してはいけない。
だから黒光りするそれをホルダに突っ込んだのは、不用意に刺激をしないための安全策だ。誓って無邪気な笑みに、毒気を抜かれたからではない。
「ぎゃおー、食べちゃうぞー。あっ、ちょっ、タンマ。銃はなしで」
緊張が解けると同時、体に疲れが押し寄せる。ようやく笑い止んだそれは、何度も深呼吸をして荒れた息を沈めていた。
「なにが面白いんだ、お前は」
「だって私はバケモノだよ。怖がられた嬉しいに決まってる。ぎゃおー、ぎゃおー」
「おい、お前」
「フランよ。フランドール」
「お前、ヒーロー志望はどうしたんだよ」
それは一瞬不機嫌な顔をした後に答えた。
「言ったでしょ。無職だって、少し前まで居た場所があんまり退屈だから逃げ出してきたの。でも……、知らなかったのよ! この辺じゃあめ玉一つ食べるにもお金とやらが必要って言うじゃない。まさか三食昼寝付きの生活があれほどに尊いものだったなんて……」
「だから仕事を、か。失礼だが。お前を雇う店があるとは思わない」
「分かってるわね。笑えるくらい相手にされなかったわ」
頭の痛い話だった。半笑いの様子から察するに、全て本当という訳ではないのだろう。逆に考えるなら大部分は事実だ。
「ね、お兄さん」
「ジョンだ。ジョン・ウィルキー」
「私知ってるよ。お願いを聞いてもらったら、お返しをしなきゃいけない」
「まぁ、そうだな」
「ジョン。私、飴が食べたいな」
小首を傾げた紅の瞳がこちらを見つめている。これほど強く意志の籠められた瞳を、私は二十五年程の人生で見たことがない。
「血は入ってなくて良いな?」
それは今日一番の笑顔で頷いた。
「ところでお前、どうして私が冗談で怖がっていると思ったんだ?」
「どうして、お前は冗談だと思ったんだ?」
「いや、だってマジック書きの十字架とか見せられてマジで言ってるって思わないじゃん」
◇◇◇
それからの二週間。椅子の上の彼女と交わした言葉は多くない。しかし、そのわずかな情報に多くの発見があった。
彼女は人と接した経験が極端に少ない。だから知識の多くを書籍に依存している。少しばかりズレているのはそのせいだ。彼女は人と同じように生活をする。笑いもすれば泣きもする。多少血液に執着のあることと背中の羽を除けば、全く普通の少女だ。
だから私は思ったのだ。
「屋上はあちらよ」
呆れたような声に思考を中断される。その指は天井を、その視線は胸ポケットから半分頭を出したオールド・ジョーに注がれていた。
「ああ、いやいや。ここで吸うつもりはない。これは癖みたいなもんだ。考え事をするときの」
「なら良いけれど、吸い過ぎは良くないわよ。タールやニコチン代謝物には発癌性がある」
「知っているよ。常識じゃないか」
「へぇ、そうなんだ。それは……、知らなかった」
彼女の指は相変わらず真上を差している。追い出すような視線に背中を押され、慌ただしく廊下へ出た。真っ先に眼に入ったのは、渋い表情のハイラムだった。
「ここからなら、外の公園のほうが近いぞ」
「盗み聞きは趣味が悪いですよ、ハイラムさん」
「情報共有だ。本来なら私も同伴すべきだが、カン人間との接触は最低限にすべきだからな」
いつものニヤけ面は無い。なにかを言い淀むようなその顔は、どこか悲しみを思わせる。率直にそのことを問うと、ハイラムは何度か口ごもった後に口を開いた。
「お前はあれが、怖くないのか?」
「どうして、そう思いますか?」
「お前のそんな顔を、初めて見たからな」
口元を確認するがなにもおかしな所はない。
「最初はとても恐ろしかったですが……、話してみれば存外に私達と違わない。知らないというのは恐ろしいことなのだと、この仕事を始めて思い知らされましたよ」
「私はこの仕事をもう長いことやっているが、実際の所カン人間なんてのは大体そんなもんだ」
知らないっていうのは恐ろしいな、本当に。どこか含みを持った口調でハイラムはそう続け、紙コップを傾けた。
「なぁ、ジョン。お前、怖いものはあるか?」
「ありますよいくらでも。例えば今なら、貴方からどんな無茶な指示が飛んでくるかとハラハラしている」
「おっ、それは良い勘だ。実はカリフォルニア州に喋る猫が現れたと噂になっていてな」
「お断りします」
やはり私はこの男が好きになれない。だが、そんな意思表示が伝わらなかったのか。ハイラムは私の側に歩み寄ってきた。何を言うでもなく壁にもたれ掛かり窓の外に広がる青空を見上げ、そして紙コップを傾ける。ただそれだけだ。
付き合っていられない。小さく礼をして踵を返した。
「なぁ、ジョン。辛い仕事だよなぁ。同僚からは馬鹿にされるし、活躍した所で誰に知られることもない。だがな、誰かがやらなければならないんだ。こんな思いをするのは、私達だけで十分なのだから」
いつも通りの諦めた様な口調。それはUIUの問題から眼を背けているようにしか思えなかった。本当に、そうだろうか。私達が取るべき選択肢は他にもあるのではないでしょうか。喉元までせり上がった言葉をハイラムが遮った。
「ああそうだ。ジョン。いい忘れていた事があった――」
続く言葉に頭を打つような衝撃を受ける。
気を落ち着かせるため、私は屋上へ向かう足を早めた。
◇◇◇
呆れた顔がこちらを見ていた。
「なに言ってんだこいつとでも言いたそうだな」
「なに言ってんだこいつ」
ハーシーズのチョコバーを口に放り込みながら、彼女は答えた。苛立ちを隠しきれず、私は彼女に詰め寄る。
「君の護送日が決まったんだよ。明後日だそうだ」
「ああ、そういうこと。合点が行った。私は研究所に戻されるってことね」
「私たちは、君を実験動物として扱ったりしない」
ハイラムから聞かされたのは二つ。フランドールは北米M社の所属であったこと。もう一つは彼女をそこへ返還することだ。北米M社はドイツに端を発し北米に本社を構える巨大な製薬企業である。彼らが異常存在を欲する理由は、一つしか無い。
「私ってお高いのよ、こう見えて。吸血鬼ってレア物らしいから」
巨大製薬企業<>は政界への影響力が強いことで有名だ。彼らの機嫌を損ねることは、UIUにとって致命的な事態を招きかねない。返還は妥当な結論の一つだろう。
「フランドール。君には感謝しているんだ。君が居なければ私は今ここに居ない」
「おお、やっと気がついたか。ならば崇めたまえ。お布施は現金で結構よ」
「だから、恩返しをさせてくれ。君がUIUに残ることを望むとさえ言ってくれれば、私は全力で助力する」
カン人間との協力体制構築は、上にとっても少なからず魅力的に映るはずだ。それこそ、政界からの圧力と天秤に掛けても良い程度には。
まずは彼女は対話が可能なカン人間であると示し、返還決定を差し戻させる。その後に待遇を他捜査官と対等なレベルまで改善していく。それが私の考えるプランだった。
「それさぁ、椅子に縛り付けながら言うことじゃないよね」
「さんざん脅かすからだろう。だが、君が無害であることは私が一番良く知ってる。君が協力してくれるなら、すぐにでも待遇は改善される」
「ほんとかなぁ」
半笑いの笑みにのらりくらりとした返事。いくら言葉を重ねても変わらない調子に、焦りだけが募っていく。実現の可能性が低いことは分かっていたが、当人にまで拒絶されるのは想定外だ。
掛けるべき言葉はあっという間に尽きる。ぐるぐると回り始めた思考を、極大のため息が遮った。
「昼間はひ、じんどーてきな実験で体を痛めつけられ、夜になったら心を痛めつけられる。ああなんて可哀想な美少女だろう」
とか思ってるんでしょ馬鹿馬鹿しい。小鼻を膨らませて彼女は言う。
「小説やコミックじゃないんだからさ。冷静に考えてみて。彼らにとっての私は資産なのよ。それもとびきりに重要な。ぞんざいに扱って不利益を被るのは彼らの方。言ったでしょ、吸血鬼はレア物だって。向こうに戻ればおやつも昼寝も好きなだけ。ふかふかのベッドがあるし、お風呂にだって毎日入れる。あなた達を選ぶ理由がないわ」
それは自慢げな顔だ。だが口元の笑みには、ほんの僅かなこわばりがあった。私はそれを見逃さない。
「だが君は外を求めた。だから、今ここに居る。なぁ、フランドール。お前、寂しかったんじゃないのか? 一人ぼっちが」
白く細い喉元がわずかに上下した。
考えても見れば簡単なことだ。極端な知識の偏りに、不安定な感情。最初にあった時から彼女はどこか浮世離れした気配を身に纏っていた。敵意が無いのにも関わらず不用意な言動を繰り返していたのも、ただ話がしたかったのだと考えれば合点が行く。
事実彼女は、俯いたままでこちらを見ようとしない。そう、そうね。私はきっと寂しかった。行く宛の無い言の葉を漏らすだけだ。
「君は、一人で居るべきじゃない。私だけじゃない。もっと色んな人と話して、色んな経験をして、そうすれば君は……、」
「そうね……、私は寂しいよ。あなたと話せなくなるのは少し残念。でも、私にはもっと怖いものがある。だから私は戻るよ」
張り付いたような笑顔がこちらに向けられている。
「ありがとう。気持ちは、とても嬉しかったよ」
私はそれに、どんな言葉も返せなかった。
◇◇◇
ビル近くの公園。そこはベンチや自販機が置いてある程度だが、署員の休憩所や面倒事からの退避場所として人気の場所だ。だがそれも昼間だけの話。定時も過ぎた今となっては人影もまばらである。
そんな静けさと燃え尽きる寸前のタバコが、今の自分には心地良かった。
「その様子だと、フられたか」
夕陽の中に居たのはハイラムだった。なぜここに居るのかと言いたくなる気持ちを堪え――私は退勤済みだが、この男には山ほど仕事が残っていたはずだ――、タバコを差し出す。小さく礼をして、ハイラムはタバコをふかし始めた。
「ハイラムさん。私達の仕事は、いつから少女を悲しませることになったのでしょうか」
「よくあることだよ。お前の初めて扱ったカン人間が少女の容姿だった。それ以上でも、それ以下でもない」
「ハイラムさんは……、この仕事を辞めたいと思ったことは無いんですか?」
すぐに返事は返ってこなかった。代わりだと言わんばかりに紫煙が風に流れて行く。深く、深くそれを吸い込んだ後、ハイラムは口を開いた。
「君、日にどのくらいタバコを吸う?」
「二箱ほどですが」
「喫煙年数は?」
「五年ほど」
「あそこにベンツが停まっているな」
「後二十五年ほど足りねーよ起きろ」
豪快に笑うハイラムに思わず脱力する。悟ったのはハイラムのつまらない暇つぶしに嵌められたという事実だ。
「お先失礼します」
胸の奥に渦巻くものを押し殺し、努めて静かに立ち上がる。そしてビルへ向けて出した足は途中で止まった。ハイラムの声がそうさせたからだ。
「全く最高に美味いな。タバコって奴は。こんな素晴らしい物を咥えるのに、どうしてこんな寒空の下に来ないといけないんだろうな」
「ハイラムさんがうるさいからじゃないですか」
「いつからお前はそんなに素直になった」
『タバコは体に悪い』『煙にも有害成分が含まれる』だれでも知っているような通り一遍の知識を口にする。ハイラムはカラカラと笑った。
「常識じゃないですか」
「その通り、上出来だ。ところでだ」
それは地を這うような低い声だった。何故か胸の奥に入り込んできた言葉に、思わず息を呑む。
お前はそれを考えたことがあるか。
振り返った先にあったのは真摯な瞳。続く言葉が脳を駆け巡り、次々と記憶が叩き起こされて行く。流行く映像の中で紅い瞳が輝いた。当たり前だ。私は同じ質問を過去に一度聞いているのだから。
「いいえ。普通はそんなことを一々考えません」
「だろうな、まったくそうだろう。笑い話にでもしなきゃやってられないな、全く」
そこに居るのはいつも通りのハイラムだ。いつも通り軽薄な笑みを浮かべる初老の男だ。だから、気が付いていなかっただけだ。その目元に確かな自信が潜んでいることに。
「なぁ、ジョン。誰にも覚えてもらえないっていうのは。寂しいもんだ」
「ハイラムさんは好きですね……、そういうの」
「ああ、大好きだ。だから、私はこの仕事を続けているんだ」
ハイラムは眼を輝かせてそう言う。ひどく眼が痛かったのは、地平線の夕陽が眼に刺さっていたからだ。
◇◇◇
その背中は静かに空を見上げていた。
「夜空は好きか?」
日はもうとっくに落ちている。電灯の一つもない空間にぽつんと座るそれに、私はゆっくりと歩み寄った。
「あら、見つかっちゃった。連れ戻されちゃうのかしら」
背中はゆっくりと振り向き、いつも通りの笑顔を見せる。少しばかり強張っているあたり、多少は気まずいのだろう。
「前から知っていたよ。署内じゃ、ここでしかタバコ吸えないから」
喫煙所を示す看板を指差し、私はそれの隣に腰掛ける。そこはビルの屋上。足の裏には、夜の街が広がっていた。
「珍しいだろ?」
「ええ、そんな紙束一つにここまでこなきゃ駄目なんて。冗談としか思えない」
白い息が虚空へと消える。視線はあいも変わらず上へと向けられていた。
「話をしないか?」
「やーよ。私はお家に帰るから」
「違うよ。なんでもない話だ。君について、知りたいと思って」
なら、良いけど。緩む口元を隠すかのように、それは口元に手を当てた。視線は相変わらず空に向けられている。
「なにを見ているんだ?」
「景色を見てた」
今日は新月だ。スモッグの掛かった空には、月ばかりか星の一つも浮かんでいない。
「好きなのか?」
それは小さく首肯して足をぶらつかせた。
「今日みたいな夜空は安心する」
「真っ暗なだけじゃないか」
「そりゃそうよ。だから安心するの」
昔と同じだから。続く言葉には特別の想いが籠められているのだろう。幾分か大人びた横顔がそれを証明していた。
「どうせ見るなら、空よりもあっちの方が良くないか?」
指差すのはニューヨークの街。眠らない街と言う名に恥じず、林立するビルのどれにも光が灯っている。無数のテールランプに型どられた紋様が暗闇に浮かび上がっている。少なくとも空よりはずっと美しいはずなのに、それは興味を示さない。ただ眼を瞑って首を振るだけだった。
「記念に見ておいて損はないと思うが」
「そんな気分じゃないのよ。今は」
「怖いのか? あんなものが」
横目が何度かこちらを見る。意を決した様にこちらへ向き直ったそれは、私の鼻先に人差し指を突きつけた。
「人の気も知らずに。あなたが代わりに見てくれるとでも言うの?」
「ああ」
「知らないから……、どうなっても」
大きな吐息の後、しばらくして手のひらが視界を遮った。暗闇の中を静かに異物感が走り抜ける。暗闇が過ぎ去った後、目の前に広がるのは先ほどと変わらない町並みだった。
夜とは思えない光の海に、コンクリートの林が広がっている。無数のサーチライトが天空へ立ち昇っている。それは見慣れた光景だ。
「よく見て」
何度見ても変わらない。そこにあるのは見慣れた光景だ。夜とは思えない光の海にコンクリートの林が浮かんでいる。テールランプに型どられた橋が、はるか天空へと続いている。ただそれだけだ。
「もっとよく見て。それはなに」
代わり映えのしない街が広がっているだけだ。天空に林立するコンクリの林が光の粒子を残し、無限に続いている。虚空に浮かぶ無色透明のテールランプが一定の間隔で明滅し、同期の取られた集団が膨張と収縮を繰り返した果てに掻き消える。ただそれだけだ。
「まぁ、いつも通りの街にしか見えないわよね。でも、そんなの当たり前。技術的特異点<>なんてこの世には無数にある。人間の想像力には限界が無いのかもしれないけれど、予測には限界があるのよ。あなたが今見ているものは未来の可能性の一つ。世界に最初から用意されている可能性の一つに過ぎない」
目前の光景は絶えず変質を続けていた。
網膜を刺激する光の粒子はだんだんと粒が荒くなっている。歪んだカーボンナノチューブの柱が音もなく地平の向こうへと倒れた。なにもかもがありえない。分かっていたのに、それでも心は平然としていた。認識と感覚が取り返しのつかないほどに剥離していたのだ。
「結局の所さ。異常存在なんて言うのは淀みなのよ。普通と違う。ただそれだけ。だから容易に飲み込まれるし、そうなっても本人は気がつかない。いつの間にか居なくなってた知り合いを見て、私はそれに気がついた」
声のする方へ頭を向ける。ぐにゃぐにゃと歪む視界の中に、人らしき影を見た。
その声からはどうしようもないほどに懐かしさを覚える。ようやく像を結んだ網膜がとらえたのは、ただ羽が生えているだけの幼い少女。刺々しい世界の中で、一対の羽根はあまりにも些細だった。
「あなたに分かる?」
それに籠もる切な願いに私は気がついていた。両の目から雫を垂れ流しているのだ。気が付かないはずがない。それは弱々しく見えた。迂闊に触れれば壊れてしまうだろう部分がむき出しになっている様に思えた。
だから私ははっきりと告げた。
「いいや、わからないよ」
それの時間が静止する。
「……あんた見てたよね、聞いてたよね? 私今この景色がどの程度正気なのかすら分かんないんだけど?」
「なにを言ってるんだ。空は青い。今は夜だから暗い」
「違うわ。目の前にあるものを、どうして信じられないのかしら」
「分かる。私には分かる、君はちゃんと異常だよ」
「勝手なことを言うな。なんで分かるんだよ!」
「だって、この世界に、羽の生えた人間なんて居るわけがない」
それは眼をまん丸に見開き、何度もまばたきをした。
目に映る視界はすっかり懐かしいものに戻っていた。いつも通りの世界。正常な世界だ。夜とは思えない光の海に、コンクリートの林が広がっている。天空を突き刺すのは無数のサーチライトだ。カーボンナノチューブの塔ではない。
「情けないな。バケモノの癖に一人が怖いなんて。真夜中だっていうのに、大声で笑ってしまいそうだ」
「あ、当たり前でしょ。誰だって一人は怖いに決まってる!」
「前提がおかしい。冷静に考えてみろ、そんな簡単に全ての人間から忘れて貰えるなら。FBIなんてとっくの昔に廃業だ」
「な……! 人間の認識なんて脆いのよ。当然だと思ってしまったが最後、誰にも認識されなくなる。感覚器が受容した信号が処理されなくなる。現にあなたは、この夜空に特別の思いを抱いたりしなかった」
「お前、UIUの仕事がなにか忘れていないか?」
「知ってるわよ、有名よ。監視するくらいしか能のないジョークみたいな集団だ――、って。あなたまさか」
『羽の生えた人間なんて、居るわけない』『触手を伸ばす人なんて、居るわけない』『空は青いに決まってる』固定観念を否定して笑いを誘う。それをジョークと言うのだと、私は知っていた。
「私達は異常でもなければ正常でもないからな。お前たちを監視し続けるには持って来いだろう。奴ら<>にゃ無理なことだ、私に言わせりゃとっくにお前らの側だからな」
「だ、だからって気合一つで覚えていられるわけない。人間の記憶は脆いから」
「ああそうだな。だから忘れないようにノートにでもメモしておこう」
「一万年前のラスコーで似たようなことやって似たようなこと言った奴は三日後に飽きてどっか行きやがったよ!!」
「牛は長生きすると吸血鬼になるのか……」
ぷるぷると肩を震わせる姿に、少しの罪悪感を覚える。
「お前なんか、大っ嫌いだ!!」
「当たり前だ。お前はバケモノで、私は人間なんだからな」
あかんべーをして逃げていくそれの背中を静かに見送る。
一人残された屋上で改めてジッポとオールド・ジョーを取り出した。
「ろくでもない仕事だよな。本当に」
私はちっぽけな自尊心以外になにを守れただろうか。怒りに震える肩を思い出す程に無力感が胸を満たして行く。
頬を撫ぜる夜風がひどく冷たかった。
◇◇◇
UIUは多忙な部署だ。いつ何時第四時接近遭遇<>が発生し緊急出動<>が掛かるか分からない。だから、私が事務所の机の上でタバコをふかしているのは業務上仕方のないことだ。
「禁煙だっつってんだろタコ」
「やだなぁ、知ってますよ」
UIUの捜査官は護送の対応に追われて出払ってしまった。がらがらの事務所に居るのは私とハイラムの二人だけだ。
「だけど、昔を思い出すのも、たまには良いじゃないですか」
肺胞の一つ、毛細血管のそのまた末端まで行き届くよう深く息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。有害かどうかなんて今は関係ない。
「お前、今ごまかそうとしたな」
「ばれましたか」
赤熱したそれを灰皿に押し付けて外を見る。道路の向かい側に、黒服の男が集まっていた。
「きっと嫌われましたから」
見送りになど行ったところで機嫌を損ねるだけだろう。
どんな理由を付けたところで、笑いものにされて面白いはずがない。結局の所、私達はそんな方法でしか彼らと関われない無意味な集団なのだ。
名残惜しさが無いと言えば嘘になる。しかし、これがお互いにとっての幸せな行動であると、私は知っている。
「そうでもないみたいだぞ」
窓の外。ハイラムの指差す先では黒服達が影の中へ消えて行くところだった。
その中で一際小さな背中が影の境界に立ち止まっている。それはなにかに気がついた様にゆっくりと振り向くと、小さく手を振ってみせた。
そこにあったのは笑顔だ。まるでお見通しだとでも言わんばかりのいやらしい笑みだ。
私はたまらず立ち上がり、そして外出用鞄を引っ掴んだ。
「ハイラムさん。仕事に行きましょう。仕事。今日はどこにどんなグレイが現れたんですか?」
「よくぞ聞いてくれた。オーシャンサイドの喋る猫が読書に目覚めたらしくてな。放っておいたら次はチョップスティックでも弾き出すだろうと専らの噂だ」
「それは大変ですね。早速取材に行きましょう。ドッキリの看板は」
「もう用意してある」
がらがらの事務所に、年甲斐もない笑い声が響き渡った。

