「ふんっ」
ご主人様の部屋の前を通りがかったときのことである。障子戸の隙間から、気合の入った声が聞こえてきた。
障子を開くと、ご主人様の背中が手元のものと何やら一心不乱に格闘していた。
「いったい朝っぱらからなにをやってるんだいご主人様」
ご主人様は私の声に手をとめて振り返った。
その両手には宝塔が握られていた。
「おやナズーリン、こんな時間からいるなんて珍しいですね」
「たまにはと思ってね、無縁塚ではいつもやることがあるわけでもない」
残念ながら無縁塚は、退屈とも無縁とは言いがたかった。
「それよりご主人様は朝っぱらからそんなに気合を入れて、いったい何をしているんだ。フンフンと声が外にまで聞こえてきたよ」
「それなのですがね、宝塔には色々な機能があるじゃないですか」
「確かに、何のために作られたのかわからなくなほどだね」
レーザーが出たり、封印を解いたり、おでんの具になったり(いい出汁が取れるのだ。ダジャレではなく)。
「まだ隠し機能があるんじゃないかと」
「おや、気づいたかい」
私は不敵な笑みを浮かべてみせた。
「あるんですか」
ご主人様がごくりとつばを飲んだ。
「まず右に一回ひねって、左に二回」
私が説明を始めると、ご主人様は真剣な目をたずさえ、宝塔を操作し始めた。
ご主人様の手が屋根っぽい部分をぐりぐりとひねる。力を入れ過ぎると折れるので注意だ。特に最近の宝塔は精密機器が詰まっているので扱いは慎重に。
「そのあとA、B」
「はい」
ご主人様がA、Bボタンを押し終えた。
「すると爆発する」
ゆっくりとご主人様の口が開き、顔面蒼白になった。
「ええっ!?ど、どうしましょう!」
「まあ嘘なんだが」
「なんだ、嘘ですか。まったく、びっくりするじゃないですか」
ご主人様はほっとため息をついた。
「しかし、実は嘘というのも嘘だとしたら?」
「えっ」
偽りなく、宝塔は爆発した。
我々はアフロとなった。
ご主人様をおちょくるのは、たのしい。
*
「ナズーリン助けて!」
「なんだい騒がしい」
私が命蓮寺の食料庫を漁っていると、ご主人様がどたどたと駆け込んできた。
「ちょっと来てください!」
「いま忙しいからあとでもいいかい」
「はい!」
私の尻尾をむんずと掴むとご主人様は歩き出した。
「なるほどね。できれば尻尾を引っ張らないでほしいな」
ご主人さまが尻尾を引っ張るので、尻尾の安寧のため私はムーンウォークでご主人様の後ろをついてゆくこととなった。私の華麗なステップに廊下ですれ違った響子が声を忘れて見入っていた。
このムーンウォークは正式名称をバックスライドと言い、実はマイケル・ジャクソンがライブで披露しムーンウォークとして一躍有名になる以前から存在した技なのだ。そしてバックスライドの起源を遡ると毘沙門天さまにたどり着く。バックスライドはもともと毘沙門天様が天岩戸に引きこもった天照大神を引きずり出すために宴会芸として披露した技なのである(いまいちウケなかった)。つまり私がムーンウォークの名手であっても何ら不思議はない。
「実は、庭に植えた芋なんですが」
「手は離さないんだね」
ご主人様は庭の一角を指差した。
少し前に畑にしたのだ。聖いわく、修行の一環らしい。
「枯れちゃいました!」
「ああ……芋ね」
「ジャガイモの実、まだなってないのに……」
ご主人様がしゅんとしていた。楽しみにしていたようなので少し気の毒であった。勘違いなのだけれども。
「根から掘ってみたまえ。もう全部掘っても大丈夫だ」
「ええ?でもまだ枯れていないのもありますし……」
「いいから」
ご主人様は畑に刺してあったスコップを抜くと、しぶしぶ枯れた芋の根を堀りはじめた。
「芋蓮、芋ーリン、芋輪……ごめんなさい……」
「勝手に仲間の名前を芋につけるのはどうだろうか。それと芋ーリンと芋輪がいまいち区別がつかないな」
そして、悲しみとともに土を掘り進んでいたご主人様であったが、やがてあるものに気づいた。
「これは……」
掘り出したものを両手にとる。とたんにご主人様の両目は輝きだした。
「ジャガイモだ!ジャガイモは地中になるんですねナズーリン!」
「さあ、残りも収穫しようじゃないか」
「はい!」
私も手伝い、すべての芋を掘り出した。農家が育てるような立派なものではなかったが、白蓮や村紗たちの手によって様々な料理となり、おいしく頂くことができた。
余った分はいくつか無縁塚に持ち帰らせてもらった。
私は命蓮寺の食料庫から、今週ぶんの部下の食事を拝借せずに済んだ。
*
ある日、私が命蓮寺に立ち寄り、一通りするべきことを終え帰ろうとするとご主人様に引き留められた。
「ナズーリン」
「はいはい、今度はなんだい」
「ちょっと頼みが……」
ご主人様はそこまで言うと、先の言葉を濁した。
私はその様子を見て察した。
「また宝塔か、どうせ部屋にあるんだろう」
「いやあそれがどうも見つからなくて……」
私が続きを言ってやると、観念したようにご主人様は後ろ頭をかいた。
たいてい、ご主人様が宝塔をなくすときは私室にあるのだ。対して物も多くない私室でどうして毎度無くしてしまうのか不思議なものだが、おおかた平和ボケしているんだろうと私は気にしていなかった。どうせすぐ見つかるのだ。
そして今回もその通りであった。
「まったく、やっぱり自分の部屋に在るじゃないか……」
今回の無くし方はなんともお粗末で、文机の上に放置されていた巻物の下に置いてあった。
入って十秒で見つかるのは新記録かもしれない。届けてやろうと宝塔を手に取ると、その下に真っ黒な手帳があった。これは私とご主人様が外の世界で隠遁生活をしていた頃に私が渡したものである。うっかりの多いご主人様に、メモにでも使えと押し付けたのだ。随分喜んで受け取ったけれど、その後の様子を見る限りメモとしては使っていないようだった。しかしながらこの手帳は随分と使い込まれた様子だ。
私は思わぬ邂逅に驚きながらも手帳を開いた。どう使っているのか気になったのだ。
『じゃがいもが根になるとは初めて知った。里の童子でも知っていそうなことだが、私は知らなかった。妖怪として暮らしていたころは肉ばかり食べていたせいであろう。思えば毘沙門天代理として働き出してからも、人々との交流は信仰の対象としてのものであったし、人間の生活に関して、基本的な知識が随分欠けているのかもしれない』
ははあこれは日記だなと読み始めてすぐに分かった。毎日つけているわけではないようだ。この記述はつい先週のじゃがいも騒動についてのものであるから、おそらくこれが一番新しいページであるようだった。
好奇心もいくらかあったが、ひとの日記を覗き見するのは後ろめたかったので、ぱらぱらと軽くめくってから閉じようとした。
しかし、一ページだけやけに開き癖のついたページがあり、目に留まった。そのページは他と比べると全体的に文字が雑で、走り書きのようであった。滲んでしまっている箇所もある。私の目は吸い込まれるようにそのページを読み始めた。
『私は聖輦船から幻想郷を眺めていた。聖を救出したとして、果たしてこの地は聖や私達を受け入れるだろうか。太陽に宝塔を透かしてみてもその輝きは何も語らなかった。今思えば私はひどく混乱していたのかもしれない。ある思いつきが私を貫いた。』
それは聖を皆で封印から開放した、あの日の日記であった。
『宝塔、つまり聖を開放する手段を、この聖輦船から投げ捨ててしまうという考えであった。その考えはじわじわと頭頂から背筋を通って指先まで伝わっていった。なぜ聖を助ける必要があるだろうか。どうせ人間はいくら時を重ねたって、変わらず愚かだろう。聖の封印を解いたところで同じことを繰り返すだけじゃないか。それはあの日からいつも、私の内側から耳元でささやかれる言葉であった。信じられる私は、もはや信じることに対して最も懐疑的であった。もし、宝塔をいまここから投げ捨ててしまえば、すべては破綻する。聖の開放は叶わない。それだけでなく、私は私を私よりも信じる仲間から罵られ、二度と信頼を寄せられることは無いだろう。殺される可能性だってある。そのことについて考えると心臓が高鳴り、腕が震えるのを感じた。
寺で信徒を見ていると、殴り飛ばし、頭蓋を砕き心臓も頭もぐちゃぐちゃになるまで踏みつけたいという想像に駆られることが少なくなかった。私を拝む信徒たちは意志の力を信じている。来世を信じている。聖のことは、誰一人信じずに封印した。
意志で繋がれた聖輦船で、意志より弱いものなど無いのだと吐き捨てる行為は、私が支払って欲しかった代償を仲間たちに請求するということかもしれなかった。
私は宝塔を、飛行する聖輦船からぶら下げた。宝塔から指を一本ずつ離した。二本の指でつまむ形になった。あとはこの親指から力を抜けば宝塔はこの手からどこかに落下し、眼下の森に紛れ、行方はおおよそ知れなくなるだろう。正直に言うと私は高揚していた。聖のことも、仲間のことも、大好きだ。愛してる。だからこそ、裏切りは私に至上の高揚をもたらした。たぶんこれは信念とか狂気とかそういうものじゃなくて、壊すのは楽しいということでしかないんだろう。欲望は理性の形をしている。どこまで人のように、神のように振る舞ってみせても、結局私は妖怪なのだ。
かくして宝塔は落下した。一瞬だけ、太陽光をきらりと反射した。その後の行方はもう知れなかった。思わず、あ、と声が出た。しばらく呆然として、今後のことを思った。魔界を超えて、聖が封印された結界の前で仲間たちは私に宝塔を使うよう急かす。そして私はこう答える、捨てました。口元が引きつった。きっと許されないだろう。なぜか涙が出た。私は何がしたかったのだろうか。よくわからなかった。涙は止まらなかった。いつの間にかナズーリンが傍らにいた。どうしたんですかご主人様。私はどう言うべきかわからなかった。自分さえも何がなんだかわからなかったのだ。ただ、宝塔を落としてしまった、と答えた。ナズーリンは優しいので、全くドジなんだから。探してきますよ。秘密にしといてあげます。と言って飛び立った。またもや涙が出てきた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった』
「ナズーリン?」
背中から突然ご主人様の声がかかったので、私は思わず手帳を巻物の裏に隠しながら振り返った。
「なんだい」
「ありましたか……?」
ご主人様は部屋の入口に立っていた。伺うような瞳だったが、単純に申し訳ない気持ちの表れなのか、それとも他になにか含みがあるのかはわからなかった。
「ああ、ここにあった。全くどうしていつも無くすかね」
「すいません」
私が何食わぬ顔で宝塔を手渡すと、ご主人様はいつものように困り顔を浮かべた。
「あと、宝塔を見つけたときに、私が以前ご主人様に渡した手帳を見つけたんだ。随分使い込んでいるようで嬉しいよ」
「あれですか。使い易いのでとっても重宝していますよ。ただ、一緒に頂いたペンの墨は切れてしまいましたが……書くものでしたらいくらでも用意できますし、今でもありがたく使わせていただいています。残念ながらもう少しで全てのページが埋まってしまいそうなのですが……」
ご主人様が手帳について話すことに注意深く耳をすませたが、くるくると喜びと悲しみの間を行き来する声色からは何もわからなかった。あの場所に置いてあったということに意味があるのなら、私はそれについてなにか言うべきことがあるという気がしたのだ。
「どうかしましたか?」
「……なんでもない。喜んでもらって何よりだ。無縁塚に使えそうな手帳が流れ着いたらまた渡すよ」
「ぜひお願いします」
私は話すべきことについて、話すことができなかった。
そもそもかけるべき言葉などないのだろうか。
ご主人様の部屋の前を通りがかったときのことである。障子戸の隙間から、気合の入った声が聞こえてきた。
障子を開くと、ご主人様の背中が手元のものと何やら一心不乱に格闘していた。
「いったい朝っぱらからなにをやってるんだいご主人様」
ご主人様は私の声に手をとめて振り返った。
その両手には宝塔が握られていた。
「おやナズーリン、こんな時間からいるなんて珍しいですね」
「たまにはと思ってね、無縁塚ではいつもやることがあるわけでもない」
残念ながら無縁塚は、退屈とも無縁とは言いがたかった。
「それよりご主人様は朝っぱらからそんなに気合を入れて、いったい何をしているんだ。フンフンと声が外にまで聞こえてきたよ」
「それなのですがね、宝塔には色々な機能があるじゃないですか」
「確かに、何のために作られたのかわからなくなほどだね」
レーザーが出たり、封印を解いたり、おでんの具になったり(いい出汁が取れるのだ。ダジャレではなく)。
「まだ隠し機能があるんじゃないかと」
「おや、気づいたかい」
私は不敵な笑みを浮かべてみせた。
「あるんですか」
ご主人様がごくりとつばを飲んだ。
「まず右に一回ひねって、左に二回」
私が説明を始めると、ご主人様は真剣な目をたずさえ、宝塔を操作し始めた。
ご主人様の手が屋根っぽい部分をぐりぐりとひねる。力を入れ過ぎると折れるので注意だ。特に最近の宝塔は精密機器が詰まっているので扱いは慎重に。
「そのあとA、B」
「はい」
ご主人様がA、Bボタンを押し終えた。
「すると爆発する」
ゆっくりとご主人様の口が開き、顔面蒼白になった。
「ええっ!?ど、どうしましょう!」
「まあ嘘なんだが」
「なんだ、嘘ですか。まったく、びっくりするじゃないですか」
ご主人様はほっとため息をついた。
「しかし、実は嘘というのも嘘だとしたら?」
「えっ」
偽りなく、宝塔は爆発した。
我々はアフロとなった。
ご主人様をおちょくるのは、たのしい。
*
「ナズーリン助けて!」
「なんだい騒がしい」
私が命蓮寺の食料庫を漁っていると、ご主人様がどたどたと駆け込んできた。
「ちょっと来てください!」
「いま忙しいからあとでもいいかい」
「はい!」
私の尻尾をむんずと掴むとご主人様は歩き出した。
「なるほどね。できれば尻尾を引っ張らないでほしいな」
ご主人さまが尻尾を引っ張るので、尻尾の安寧のため私はムーンウォークでご主人様の後ろをついてゆくこととなった。私の華麗なステップに廊下ですれ違った響子が声を忘れて見入っていた。
このムーンウォークは正式名称をバックスライドと言い、実はマイケル・ジャクソンがライブで披露しムーンウォークとして一躍有名になる以前から存在した技なのだ。そしてバックスライドの起源を遡ると毘沙門天さまにたどり着く。バックスライドはもともと毘沙門天様が天岩戸に引きこもった天照大神を引きずり出すために宴会芸として披露した技なのである(いまいちウケなかった)。つまり私がムーンウォークの名手であっても何ら不思議はない。
「実は、庭に植えた芋なんですが」
「手は離さないんだね」
ご主人様は庭の一角を指差した。
少し前に畑にしたのだ。聖いわく、修行の一環らしい。
「枯れちゃいました!」
「ああ……芋ね」
「ジャガイモの実、まだなってないのに……」
ご主人様がしゅんとしていた。楽しみにしていたようなので少し気の毒であった。勘違いなのだけれども。
「根から掘ってみたまえ。もう全部掘っても大丈夫だ」
「ええ?でもまだ枯れていないのもありますし……」
「いいから」
ご主人様は畑に刺してあったスコップを抜くと、しぶしぶ枯れた芋の根を堀りはじめた。
「芋蓮、芋ーリン、芋輪……ごめんなさい……」
「勝手に仲間の名前を芋につけるのはどうだろうか。それと芋ーリンと芋輪がいまいち区別がつかないな」
そして、悲しみとともに土を掘り進んでいたご主人様であったが、やがてあるものに気づいた。
「これは……」
掘り出したものを両手にとる。とたんにご主人様の両目は輝きだした。
「ジャガイモだ!ジャガイモは地中になるんですねナズーリン!」
「さあ、残りも収穫しようじゃないか」
「はい!」
私も手伝い、すべての芋を掘り出した。農家が育てるような立派なものではなかったが、白蓮や村紗たちの手によって様々な料理となり、おいしく頂くことができた。
余った分はいくつか無縁塚に持ち帰らせてもらった。
私は命蓮寺の食料庫から、今週ぶんの部下の食事を拝借せずに済んだ。
*
ある日、私が命蓮寺に立ち寄り、一通りするべきことを終え帰ろうとするとご主人様に引き留められた。
「ナズーリン」
「はいはい、今度はなんだい」
「ちょっと頼みが……」
ご主人様はそこまで言うと、先の言葉を濁した。
私はその様子を見て察した。
「また宝塔か、どうせ部屋にあるんだろう」
「いやあそれがどうも見つからなくて……」
私が続きを言ってやると、観念したようにご主人様は後ろ頭をかいた。
たいてい、ご主人様が宝塔をなくすときは私室にあるのだ。対して物も多くない私室でどうして毎度無くしてしまうのか不思議なものだが、おおかた平和ボケしているんだろうと私は気にしていなかった。どうせすぐ見つかるのだ。
そして今回もその通りであった。
「まったく、やっぱり自分の部屋に在るじゃないか……」
今回の無くし方はなんともお粗末で、文机の上に放置されていた巻物の下に置いてあった。
入って十秒で見つかるのは新記録かもしれない。届けてやろうと宝塔を手に取ると、その下に真っ黒な手帳があった。これは私とご主人様が外の世界で隠遁生活をしていた頃に私が渡したものである。うっかりの多いご主人様に、メモにでも使えと押し付けたのだ。随分喜んで受け取ったけれど、その後の様子を見る限りメモとしては使っていないようだった。しかしながらこの手帳は随分と使い込まれた様子だ。
私は思わぬ邂逅に驚きながらも手帳を開いた。どう使っているのか気になったのだ。
『じゃがいもが根になるとは初めて知った。里の童子でも知っていそうなことだが、私は知らなかった。妖怪として暮らしていたころは肉ばかり食べていたせいであろう。思えば毘沙門天代理として働き出してからも、人々との交流は信仰の対象としてのものであったし、人間の生活に関して、基本的な知識が随分欠けているのかもしれない』
ははあこれは日記だなと読み始めてすぐに分かった。毎日つけているわけではないようだ。この記述はつい先週のじゃがいも騒動についてのものであるから、おそらくこれが一番新しいページであるようだった。
好奇心もいくらかあったが、ひとの日記を覗き見するのは後ろめたかったので、ぱらぱらと軽くめくってから閉じようとした。
しかし、一ページだけやけに開き癖のついたページがあり、目に留まった。そのページは他と比べると全体的に文字が雑で、走り書きのようであった。滲んでしまっている箇所もある。私の目は吸い込まれるようにそのページを読み始めた。
『私は聖輦船から幻想郷を眺めていた。聖を救出したとして、果たしてこの地は聖や私達を受け入れるだろうか。太陽に宝塔を透かしてみてもその輝きは何も語らなかった。今思えば私はひどく混乱していたのかもしれない。ある思いつきが私を貫いた。』
それは聖を皆で封印から開放した、あの日の日記であった。
『宝塔、つまり聖を開放する手段を、この聖輦船から投げ捨ててしまうという考えであった。その考えはじわじわと頭頂から背筋を通って指先まで伝わっていった。なぜ聖を助ける必要があるだろうか。どうせ人間はいくら時を重ねたって、変わらず愚かだろう。聖の封印を解いたところで同じことを繰り返すだけじゃないか。それはあの日からいつも、私の内側から耳元でささやかれる言葉であった。信じられる私は、もはや信じることに対して最も懐疑的であった。もし、宝塔をいまここから投げ捨ててしまえば、すべては破綻する。聖の開放は叶わない。それだけでなく、私は私を私よりも信じる仲間から罵られ、二度と信頼を寄せられることは無いだろう。殺される可能性だってある。そのことについて考えると心臓が高鳴り、腕が震えるのを感じた。
寺で信徒を見ていると、殴り飛ばし、頭蓋を砕き心臓も頭もぐちゃぐちゃになるまで踏みつけたいという想像に駆られることが少なくなかった。私を拝む信徒たちは意志の力を信じている。来世を信じている。聖のことは、誰一人信じずに封印した。
意志で繋がれた聖輦船で、意志より弱いものなど無いのだと吐き捨てる行為は、私が支払って欲しかった代償を仲間たちに請求するということかもしれなかった。
私は宝塔を、飛行する聖輦船からぶら下げた。宝塔から指を一本ずつ離した。二本の指でつまむ形になった。あとはこの親指から力を抜けば宝塔はこの手からどこかに落下し、眼下の森に紛れ、行方はおおよそ知れなくなるだろう。正直に言うと私は高揚していた。聖のことも、仲間のことも、大好きだ。愛してる。だからこそ、裏切りは私に至上の高揚をもたらした。たぶんこれは信念とか狂気とかそういうものじゃなくて、壊すのは楽しいということでしかないんだろう。欲望は理性の形をしている。どこまで人のように、神のように振る舞ってみせても、結局私は妖怪なのだ。
かくして宝塔は落下した。一瞬だけ、太陽光をきらりと反射した。その後の行方はもう知れなかった。思わず、あ、と声が出た。しばらく呆然として、今後のことを思った。魔界を超えて、聖が封印された結界の前で仲間たちは私に宝塔を使うよう急かす。そして私はこう答える、捨てました。口元が引きつった。きっと許されないだろう。なぜか涙が出た。私は何がしたかったのだろうか。よくわからなかった。涙は止まらなかった。いつの間にかナズーリンが傍らにいた。どうしたんですかご主人様。私はどう言うべきかわからなかった。自分さえも何がなんだかわからなかったのだ。ただ、宝塔を落としてしまった、と答えた。ナズーリンは優しいので、全くドジなんだから。探してきますよ。秘密にしといてあげます。と言って飛び立った。またもや涙が出てきた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった』
「ナズーリン?」
背中から突然ご主人様の声がかかったので、私は思わず手帳を巻物の裏に隠しながら振り返った。
「なんだい」
「ありましたか……?」
ご主人様は部屋の入口に立っていた。伺うような瞳だったが、単純に申し訳ない気持ちの表れなのか、それとも他になにか含みがあるのかはわからなかった。
「ああ、ここにあった。全くどうしていつも無くすかね」
「すいません」
私が何食わぬ顔で宝塔を手渡すと、ご主人様はいつものように困り顔を浮かべた。
「あと、宝塔を見つけたときに、私が以前ご主人様に渡した手帳を見つけたんだ。随分使い込んでいるようで嬉しいよ」
「あれですか。使い易いのでとっても重宝していますよ。ただ、一緒に頂いたペンの墨は切れてしまいましたが……書くものでしたらいくらでも用意できますし、今でもありがたく使わせていただいています。残念ながらもう少しで全てのページが埋まってしまいそうなのですが……」
ご主人様が手帳について話すことに注意深く耳をすませたが、くるくると喜びと悲しみの間を行き来する声色からは何もわからなかった。あの場所に置いてあったということに意味があるのなら、私はそれについてなにか言うべきことがあるという気がしたのだ。
「どうかしましたか?」
「……なんでもない。喜んでもらって何よりだ。無縁塚に使えそうな手帳が流れ着いたらまた渡すよ」
「ぜひお願いします」
私は話すべきことについて、話すことができなかった。
そもそもかけるべき言葉などないのだろうか。
星ちゃん、笑うとめっちゃ可愛いんだけど獰猛の牙も見えるので慎ましい笑顔しか見せてくれなそう。