雨と埃だけ食って辛うじて生きる

ネバーネバーランド・ネバーネバーガールズ

2016/04/01 02:22:11
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「うー! うー! ぐーるぐるぐるぐる~!」

 それは、さんさんと朝日の差し込む一室で、酷くひさしぶりに親友と朝食を共にした時のことだった。

「お嬢様、例のものが遂に仕上がりましたわ」
「えッ? ホントッ? 『例のもの』って、あの『納豆』でしょ? ついに出来たの? うわーい、やったぁ!」

 と、テラスを背に、コウモリにも似た一対の羽をぴんと張り、実に嬉しそうな顔で小鉢の中をかき回しているレミィを見て、私は新聞紙片手にカップを傾けたのち、ふと、ある疑問を抱いた。
 そして私は手のものを置き、円形の食卓に目を向ける。

「お嬢様、そんな勢いでかき混ぜると、こぼれてしまいますよ」
「ホント、お姉様には、ヒトに口うるさく言うのと同じぐらい、きちんと手を動かして頂きたいものですわ」
「ええ、まったくです! やっぱり咲夜さんのご飯は美味しいですね! 朝食でも手を抜いてない! 最高ッ!」
「話を聞かずに同意するのはやめなさい美鈴」

 その言葉と共に、レミィの後ろに控えるメイド――咲夜の片手が、かすむような速度で動き、

「おおおおッ?」

 と、私の左隣の席の美鈴が、その二本の腕の手のひらでもって、包み込むようにして大きな鍔のナイフを掴んだ。
 いわゆる真剣白刃取り。
 さすがは美鈴、過剰なシエスタと同じぐらい、武術の達人としてその名が知られているだけはある。

 ――ああ、ちなみによく勘違いされているのだが、『真剣白刃取り』と『無刀取り』は、まったく別の技である。

 『真剣白刃取り』が、今美鈴のやった通り、両方の手のひらで相手の刃を挟み取る技であるのに対し、『無刀取り』は、それよりもっと広範囲の、刃を持たない者が刃を持った者を打ち倒すための、特殊な一連の技術を指す。
 つまり、『無刀取り』を名乗ることは、『刀など無くとも貴様の命は取れるのだ』という、強烈な意思表示に他ならない。
 実際、この流儀を編み出したとされる、戦国時代の兵法家・上泉信綱は、のちの無刀取りの基本となる、ONIGIRI――つまりライスボールを勢い良く投げ付ける術でもって、瞬く間に人質を取った強盗を無力化したと伝えられている。
 他にも、握飯蟹蔵・蟹之助親子の、青柿猿左衛門との、二代に渡る血みどろの死闘を描いた『猿蟹合戦絵巻』など、無刀取りの恐ろしさを示す例や史料は、本当にいとまが無い。
 まさに奥義中の奥義。東洋の神秘。米食の危険性を証明する、適切な事例であるといえるだろう。

 ――と、話がずれた。

「ちょっと咲夜さん! ナイフは無いでしょうナイフは!」
「貴方、これで注意されたの何度目だと思ってるの?」
「でも、コレが頭に刺さって食卓が血塗れになったら、いったいどうするつもりだったんですか?」
「……貴方のこと信じてたわ、美鈴」
「……その台詞、ふたりきりの時に聞きたかったですよ」
「あら、それはもしかして告白かしら?」
「はい、その通りです」
「――まあッ?」

 咲夜が、わざとらしく口元を隠す。

「主人の前で愛をささやくだなんて、美鈴、いけないヒト!」
「そーだぞ美鈴ー! だーめなんだぞー! たーべちゃうぞー!」
「出たな怪獣モケモケムベムベ! ようし、このでっかいピーマンで応戦だ!」
「ぎゃ、ぎゃおーッ?」
「お残しは許しませんよ、お嬢様」

 手の大きな鍔のナイフで、皿の緑を突き刺す美鈴。
 本気で怯えるレミィ。
 毅然とした態度で言い放つ咲夜。
 そして、

「どうしてウチは、夜型ばっかりのはずなのに、こんなに朝からうるさいのかしら」

 そう、私の右隣の席のフランが、宝石の葉を付けた枝のようなその羽を小刻みに震わせ、酷く眠そうな顔で、ポテトサラダに潜むエダマメを破壊しながら言った。
 まったくね、と、私は夜型のひとりとして同意を返す。

 ――とまあ、まとめると、こうなのだ。

 この円形の食卓には、まず私、パチュリー・ノーレッジ。賢者の石を作れる程度の、ごく普通の――学術系魔法使い。
 ある一部の、まあ、親友からは、パチェと呼ばれることも、ある。

 続いて、私の席の正面で、星蓮船早苗Bつまり大ぶりのピーマンを相手に、絶望的な消耗戦を繰り広げているのが――
 淡い紅色であつらえたツーピースに、青の混ざったような白銀の髪の幼い少女が、この屋敷――紅魔館の主である吸血鬼、レミィことレミリア・スカーレット。

 その後ろで、北欧の国旗を瀟洒に振り回し、主人の応援を酷く冷ややかな目で行っているのが――
 ミニスカートのエプロンドレスに銀色の髪の少女が、この館唯一の人間にして働き者のメイド長、十六夜咲夜。

 それから私の席の右隣で、開いたサンドウィッチにバターナイフで、色々と粉砕されたポテトサラダを念入りに塗り込んでいるのが――
 紅いミニスカートに黄金色の髪の幼い少女が、レミィの五歳下の妹かつ同サイズの吸血鬼、フランことフランドール・スカーレット。

 あと、私の席の左隣で、当然のような顔をして誰よりも食事に勤しんでいるのが――
 中華風の衣装に紅毛の少女が、外勤専門なはずのこの家の門番、種族不明の一般人妖こと、紅美鈴だ。

 つまり、この部屋には、有象無象のメイド以外の、屋敷の主だった者達が、すべて揃っているといっていい。
 そして、ここからが、私の疑問となる訳だが――
 私は食卓に目を向ける。
 今日の朝食のメニューは、キュウリとスパムのサンドウィッチ。ピーマンとスパムのソテー。トマト、チーズ、スパムのオムレツ。スパム入りポテトサラダに、スパムとスパムとスパムのサラダ――って、あれ? なんでこんなにスパム多いの?

「……すみません。保存の関係で、どうしても加工肉の利用が多くなってしまって」

 意外に真っ当な理由だった。
 ――って、咲夜、そんな台詞で私は騙されないわよ。

「知ってますか? スパムって、『スパイスド・ハム』の略なんですよ」

 ええ、他にも、『肉の格好をした何か』だとか、『豚肉とハムの漠然とした物質』、『動物の肉の予備パーツ』なんて言葉の略でもあるわね。

「えっ? そうなんですか? ……じゃあ、スパムのネイティブな発音は、ほとんど精え――」

 おい、やめろ。

「うー、このスパム、すっごいコッテリしてる~」
「こんなにイッパイだと、カラダがスパム臭くなっちゃうよぉ」

 むきゅあ、ナニ言ってるのよこのペド姉妹。やめなさい、こら、舌出すな、舐めるな、抱き合うな、そこまでよ。

「うふふ、このスパム、プリプリしてて、とっても元気がいいですね~」

 良い訳あるか美鈴。加工肉だぞ。豚さんを缶にプレスして焼き固めたモンだぞ。
 死んでるわよ。死に切ってるわよ。これ以上ないぐらい最高に『ミィィィートッ』ってヤツよ。
 ――はあ、分かったわよ。これ以上詮索しないわよ。それでいいんでしょ、アンタ達。

「イエーッ」

 なんでそんな力強く腕を揚げるのよホントに……。
 ――しかし、と、私は思う。
 こいつら、こんなにノリの良い奴らだったかしら。昔はもうちょっと、殺伐としていたような気がするのだけど……。
 まあ、実際こうなのだから仕方がない。なんかあったんでしょう、私の知らない内に。
 だけど、負けっぱなしというのは性に合わないので、この状況を利用してやることにした。
 私はレミィに声を掛ける。

「ん? パチェ、どうしたの?」

 するとレミィは、納豆をかき混ぜる箸を止め、首の据わらない赤子のように、愛らしくその首をかしげた。
 むきゅあはぁ、情熱と呼ばれるパッションが、急速に頭部に集まってくるのが分かる。
 なんかどんどん幼くなってきてるわねぇん、いくら妖怪が精神の生き物だからって、五百歳越えでこの園児っぷりは無いわー、無いわー、などと冷静に考えながらも、私はひそかに息を整え、そして続きの言葉を口にした。

 ――その代わり、ひとつ聞きたいことがあるのだけど。

「んー、今日のぱんつは、咲夜が選んだ、フリルがいっぱいのピンクでスケスケしたやつだよ」

 円卓に衝撃が走った。咲夜が瓶ごと蒸留酒を口に運び、瀟洒にそれを霧状に吐いた。
 私の中のセリヌンティウスがみずから十字架の戒めを破り、全裸となって激しく暴君ディオニスを殴打した。
 このままではメロスと裸体のツーペアだ。
 いや、暴君ディオニスも最後は感化されるに決まっているから、スリー・オブ・ア・カインドが確定したことになる。
 ああッ、ナムサンッ! 初めに出てくるチョイ役の老爺や妹の花婿までもが、ここぞとばかりに衣服を脱ぎ捨て、これではファイブ・オブ・ア・カ――
 ――と、私は正気を取り戻すと、出来る限りのジト目でもって、『その下着ごと貴方の身体を引き千切りましょうか』という旨を、出来る限り丁寧にレミィに告げた。

「……何かしら、大抵のことなら答えますわよ」

 即座に威厳を取り戻すレミィ。
 ほんの少しだけ残念ではあったが、さて、これでようやく話が戻った。
 私はもう一度食卓を見渡す。
 ――うん、今日の朝食のメニューは、もういい、本当にいい。
 私が気になるのはそこではない。加工肉のことではない。もう一度、あの寸劇を眺める気にはなれない。
 私が気にしているのは、もっともっと別の所――
 私はレミィの手元を見る。
 そこには、吸血鬼の怪力と意外に器用な箸使いでかき混ぜられた、小鉢に入った納豆があった。

 ――それなのだ。

 フランドール・スカーレット、紅美鈴、それからもちろん、この私――パチュリー・ノーレッジの食卓の前にも、『納豆』は置かれていない。
 全員、『納豆』など食べていない。
 そして、基本的に納豆は朝食で食べる物だ。ネクロノミコンにもそう書いてある。
 つまり、私の知る限りでは、この屋敷で、少なくとも定期的に納豆を食べているのは、レミィだけ。
 レミィだけが、納豆などという、あまり一般的でない食物を、好んで摂っている。
 この国の妖怪でないレミィが、もともと納豆を知っていたとは考えにくい。
 レミィは、いつ納豆を知ったのか、誰に教えられたのか。
 ――少し、好奇心がわいた。
 だから私は、こう聞いた。

『レミリア・スカーレットは、如何にして納豆を食べるようになったのか?』

 すると――
 まさに一変とは、こういうことを言うのだろう。

 咲夜が、手の酒瓶を見える速度で衣服の中に仕舞った。
 フランが、分厚いサンドウィッチにバターナイフを深く突き刺した。
 あの食い意地の張った美鈴でさえ、箸とフォークを揃えて置いた。

 部屋の空気が、瞬く間に、硬く冷たく凍り付いた。
 それから皆は、芝居の場面のひとつのように、無言でレミィに目を向けた。
 私もつられて、そちらを見る。

 ――レミィが笑っていた。

 まるで儀式の最中の様な、静寂と冷気に満ちた部屋の中、円卓の主は変わらずに、幼児の如き笑みを浮かべていた。

「ああ、そうだった。そうだった。あの頃のパチェはまだ、ずっと書斎に閉じこもってて、居なかったもんね」

 そう、箸と小鉢を卓に置き、普段の顔でレミィは言う。
 そしてレミィは、胸の前に両手を寄せ、それらの甲を相手に向ける――お気に入りの構えを静かに取ると、酷く穏やかな視線をこちらに向け――

「――じゃあ、昔話をしましょうか」

 と、いつもの声で、私に告げた。










                  - 2 -


 幻想郷に来てからの私――レミリア・スカーレットの生活は、一言でいえば、シンプルだった。

 七割程度欠けた月の下の、暗い暗い森の中。
 私の前には一匹の、妖怪と呼ぶに相応しい存在がいた。
 熊のような大きな体躯に、刃のような爪と牙。
 知性ある瞳を私に向けるその毛皮の塊は、まるで人間のように、二本の後ろ足で立っていた。
 ――それは、まさしく人の形をした犬だった。
 そして、こちらに強い警戒の目を向けるそいつに、私はみずからの名を告げると、いつものように、こう言った。

「私に従え」

 するとそいつは、腰にぶら下げた、『ヒョウタン』と呼ばれる独特の形状した容器を手に取り、荒々しく口に運ぶと、中身を勢い良く天に吐き出し、霧状になったそれを雨のように全身に浴びる。
 ――と、そいつが跳ねた。
 地面が弾けた。草木が舞った。
 十歩の距離が見る間に溶けた。そいつは即座に九歩を食らい、私の側へと身体を寄せる。
 弓のように引かれた腕に、矢じりのように鋭い爪。
 そいつは動物以上の力でもって、それらすべてで弧線を描くと、違う事無く私の肉に――
 だから私は、それより早く、そいつの頬を平手で打った。
 ――ぱちぃいん、と、森中に響き渡るほどの爽快な音を立て、そいつの身体が、潰れるように地面に沈む。
 その後、口の端から唾液と共に、獣の音を漏らすそいつに、私は再びこう言った。

「私に従え」

 しかし、そいつはすぐさま飛び上がり、七歩の距離でまた、その両腕と爪牙を構える。
 猫のように丸めた背に、低く唸りを上げる喉。
 その姿は、私の意志にそぐうつもりなど、まるで無いように見えた。
 だが、私は気にしない。
 相手が十分に理解するまで、延々と、根気良く丁寧に教え続ける――
 それが上に立つ者の勤めだと、私は知っているからだ。





 ただ勤勉に、乱暴に、みずからの理論に従って動いた私は、瞬く間に、大きな勢力を幻想郷に築いた。
 そして私は、それらの者どもの王として、毎夜のごとく――酒席に座して頬杖を付いていた。
 もはや呆れを感じるほどに、この郷の妖怪達は、酒を呑むのが好きだった。





 今日も今日とて、夜宴のさなか――

「本日は取材に応じていただき、誠にありがとうございました」

 そう言って、新聞記者を名乗るその妖怪は、笑顔と共にカメラを下げた。

「どういたしまして」

 と、私も適当な言葉を返す。
 ――その、奇妙な赤い帽子の妖怪は、まるで童女のごとき、幼い少女の姿をしていた。
 白い半袖のシャツと黒いミニスカートという、極めてシンプルな格好も、記者の仕事着というよりは、学童の制服のように見えた。
 しかし、有角、獣毛、まさに化け物と呼ぶに相応しい連中に、ぐるりと四方を囲まれているというのに、そいつは恐れる気配などまるで無く、むしろ周りの者達の方が、そいつに怯えている風だった。
 そしてそいつは、酷く愛想の良い笑顔のまま、

「いやあ、しかしまさかレミリアさんが、こんなに話しやすいヒトだったなんて。腕一本であっという間に勢力を築き上げたうえに、『でぃすてぃにー』なる奇怪な武器を自由自在に操るだとか、常に相手の返り血で真っ赤なその姿から、『すかーれっとでびる』と呼ばれ恐れられている、などと聞いていましたから、もっともっと粗暴で、がさつな方かと思ってました」

 その、妙な尾ひれの付いた伝聞に、おいおい、と、少しだけ私は頬をつり上げ、

「残念だけど、『ディスティニー』ってのは、こちらで言う『運命』とほぼ同じ意味の言葉であって武器の名前ではないし、私が真っ赤――真紅なのも、ただ、今みたいにその色を好んで着ているというだけの話だよ。それに――」

 ――私だって、マスコミには良い顔ぐらいするさ。
 そう、相手に合わせ、私はそれなりに軽い口を叩く。
 けれどそいつは、一瞬きょとんと表情を変えて、

「『ますこみ』? ――ああ、私達ブンヤの事でしたね」

 と、手帳の後ろの方を開きながら、こくこくと短い黒髪を上下に揺らした。
 その仕草は、まさに見た目通りの、女児のようなものだった。
 それからそいつは、ああ、と、何かを思い出したような動作をすると、私の耳に口を近付け、

「そういえば、ここだけの話ですが、そろそろ八雲紫が動くのではないか、という情報もあります。どうお考えに?」
「『八雲紫』?」

 私はそれを聞き返す。
 するとそいつは、恐らくそういう反応を予想していたのだろう、その顔を得たりと歪めると、

「八雲紫は、『妖怪の賢者』と呼ばれる大妖であり――この幻想郷の、管理者であるといわれています」
「――ほお」

 なるほど、と、私も顔を歪める。
 噂には聞いていたが、やはり、この閉じた郷には、『管理者』というものが居るらしい。
 続けてそいつは、その妖怪についての情報を、漏斗に落ちる水のごとく次から次へと口にしたが、それらは、『どこにあるのか分からない場所に住んでいる』や、『一日のほとんどを寝て過ごす』などといった、空想のごとく使い道の無いものばかりだった。
 そして、会話の中身が二度ほど変わり、向こうも言いたい事を言い切り、聞きたい事も聞き切ったのだろう、

「では、そろそろ、記事を書かなければなりませんので」

 そう、締めの言葉を結ぶと共に、そいつがわずかに身体を浮かせた。
 酷く自然に、翼も無く、まさに空中に立つようなその仕草は、人間の子供にしか見えぬそいつが妖怪であることを、確かに証明するものだった。
 ゆえに私は、頃合を感じ、秘めていた言葉を口にする。

「なあ」
「はい?」
「お前、『天狗』だろう?」

 すると一拍、間が開いた。

「――はい、確かにその通りですが」

 声の質が、ほんの少しだけ変わったのが分かった。
 そいつの――天狗の目に、幾重にも迷彩されてはいたが、警戒の意思が確かに宿った。
 ――当たり前だと、私は思う。
 私は、『天狗』という妖怪のことを、それなりに知っていた。
 『妖怪の山』と呼ばれる山岳を根城とする、組織化された土着の妖怪。
 この郷でも、最上位の力を持つとされる大妖の群れ。
 そして、これから間違いなく私の――我が勢力の、大きな障害のひとつとなるだろう存在。
 警戒されて、当然の相手なのだ。
 私に探りを入れに来て、当然の相手なのだ。
 しかし私は、いまだ作り物の笑みを貼り付けているそいつに、おどけるように、こう言った。

「いやなに、お前は随分と可愛らしいけれど、天狗というのは、皆そのような姿の者達ばかりなのかと思ってね」
「はいぃ?」

 天狗の首が、真横にペキリとへし折れた。
 無論、警戒の意思そのものは変わっていないが、そいつの頬が、わずかに緩んだのが分かる。
 ――冗談だと、受け取ったのだろう。
 しかし、私にとってその問いは、確かに意味のあるものだった。
 言葉通り、目の前のそいつは、あまりにも人の――少女のような姿をしているのだ。
 他の――この酒宴に参加する多くの者どもとまるで違い、最上位に属する大妖が、見事なまでに、他者を恐れさせる外見では無さ過ぎるのだ。
 だから私は、気になったのだ。
 すると天狗は、多少困ったような表情を浮かべ、

「いえいえ、確かに我々は人型の妖怪ですが、身体の大きな、ごつい体躯の天狗もちゃんといますよ。伝承通り、鼻が長いのとかも一杯いますし。ええ、でも――」

 ――ほう、と、何故か突然、そいつは酷く嬉しそうな顔をすると、

「いやあ、『可愛らしい』なんて言われたの、ホントいつぐらい振りですかねぇ。なんか新鮮で――うわあ、かなり、いや、なんかスゴイ嬉しいですよ。もう、いやですねぇ。もっと言ってくださいよ。ほら、ぷりーずぷりーず」

 中年女性のように口元を隠し、手首を何度も振るそいつ。
 おいおい、と、私は呆れ顔で言う。

「あのなあ、お前は一体いくつなんだ」

 天狗は平然と答えた。

「千歳を越えているのは確かですよ。まあ、細かい所までは覚えていませんが」

 ――私はちょうど、五百歳を迎えたばかりだった。
 そしてそいつは、別れの言葉と共に自作の新聞を私に押し付けると、噂に違わぬ見事な速度で、雲の向こうへと姿を消した。
 私はその紙面を読む。
 私の倍以上生きた存在が作り上げたそれは、特に感想を言うほどのものでもない、極めて普通のしろものだった。





 大嫌いな太陽が顔を出す前に、私はみずからの屋敷に戻る。

「お帰りなさいませ、レミリア様」
「ああ、ただいま」

 正門から掛けられたその声に、私は軽く手を上げて答える。
 門の前には紅い髪の、異形の女が立っていた。
 六本の腕に、三つの顔。この郷よりは西方の衣装に身を包んだその妖怪の名は、紅美鈴。
 彼女こそ、この家――紅魔館の無二にして唯一の門番であり、私が幻想郷に来る前からの付き合いの、信頼に足る存在だった。

「何か、私が聞く様なことは?」
「いえ、まったく。ちょっかいを掛けてくる連中も雑魚ばかりですし、本当に、腕が鈍りそうですよ」

 そう言って、美鈴――彼女は、余程のことが無い限り真ん中の口だけで話す――は、この館の名に相応しい、紅に塗れた地面の上で、その片腕の一本を、腰の曲刀達に当て――

「――おっと」

 そんな軽い言葉と共に、私の前から美鈴が消えた。
 即座に私は、彼女の動作と声の流れを頼りに、その進行方向へと目を向ける。
 ――と、一閃。
 すでに美鈴は、正門からおよそ二十歩の地点で、草むらごと一羽のカラスを斬り裂いていた。
 青草と枝達が、形を変えず宙を舞う。
 そして、身動きする間もなく両断されただろうそれは、一瞬、真っ白な紙切れにその姿を変え――

 ――ぼう、と。

 快音と紅蓮に見る間に塗れ、刃の通ったすべてのものが、弾けるがごとく燃えながら尽きた。
 美鈴の得物達の中の、ある一振りの刀の力だ――『それで斬られたものは、必ず燃える』。
 それから彼女は、その曲刀を滑らかに鞘の内に収めながら、

「――やはり。ほんのわずかですが、『気』が動物や妖怪のものとは異なっていましたからね。恐らく、どこぞの勢力が放った使い魔『達』でしょう」

 と、音も無く戻ってきた別の得物を、目視もせずに腕のひとつで受け止める。
 次いで、それも静かに鞘の中に仕舞った。
 動くと同時に放たれた、その、奇妙な形の曲刀は、凄まじい回転と、常識ではありえないような不可思議な軌道でもって、一投で二羽のカラスを――使い魔どもを、見る間にふたつに裂いていた。
 ――三体もの敵を、ひと息で討つ。
 それは、確かに相手が的のようなものだったとはいえ、まるで曲芸のごとき、酷く見事な手際といえた。
 しかし、

「天狗はカラスを僕として使うと聞いているから、もしかしたら、それかもしれないな」
「それなら、こんな術など使わずに、本物を使いそうなものですが」

 私は別に驚かず、美鈴もそれを誇らない。
 何故なら、美鈴は武術の達人だからだ。
 かつてある国で『秘宝』と呼ばれていたという、その六本の魔法の曲刀を、自在かつ同時に操る彼女以上の使い手を、人妖問わず、私は知らない。
 そして、その技量に相応しい嗅覚を持ち、かつ、万物が発する気配――彼女いわく『気』――を、視覚のごとく鋭く読み取る美鈴が、おのれの得物のすべてを鞘の内に収めたということは、もはやこの場に、警戒すべきものは存在しないという訳になる。
 ゆえに私は、何事も無かったかのように彼女に門を開かせると、それをくぐり、

「美鈴」
「はい」
「話があるから、貴方も入りなさい」

 その言葉だけで、だいたいの事情を察したのだろう、美鈴は「分かりました」と答えると、私の後に付いてきた。
 その後、誰も居ない通路を抜け、誰も居ない玄関にたどり着くと―→▼

 ▼―→―→――→◆
 ◆――→――→―――→―――→――――→◇
 ◇―――→――→―→―→△

 △―→脈絡も無く、私の前に、ひとりの少女が現れた。

「お帰りなさいませ、レミリア様」
「ああ、ただいま」

 再び掛けられたその声に、私はもう一度軽く手を上げて答える。
 銀糸に映えるホワイトブリムに、ロングスカートのエプロンドレス。その年若い人間の名は、十六夜咲夜。
 彼女も、この屋敷の無二にして唯一のメイドであり、私が幻想郷に来る前からの付き合いの、信頼に足る存在だった。
 そして私は咲夜にも、同じように言葉を掛ける。

「咲夜」
「はい」
「話があるから、少し、時間を空けなさい」

 同じく、だいたいの事情を察したのだろう、咲夜も「分かりました」と答えると、その両手でもって、玄関の扉を開いた。
 私は再びそれをくぐり、エントランス・ホールに足を踏み入れ――

「お帰りなさい、お姉様!」

 華やかな声と共に、黄金色の髪の『誰か』が、私の脇腹辺りに勢い良く突き刺さった。
 枝のような羽の先が宝石のごとく輝き、紅いミニスカートがふわりと舞った。
 見事に不意を突かれ、喉の奥から、酷く無意味に呼気が出る。
 その直後、

「お姉様!」
「お姉様!」
「お姉様!」

 続けざまに、三人の『同じ姿をした』少女達が、私の身体に跳び付いた。
 かなり体格差のある相手とはいえ、一度に四人も張り付かれては、さすがの私もたまらない。
 慌てて私は、彼女達の名を呼んだ。

「フラン、また抜け出してきたの?」

 するとフランは――フラン達は、私だけに聞こえる声で、口々に、

「安心してください、お姉様」
「ちゃんと、ちゃんと『五人目の私』は」
「『本物のフランドール・スカーレット』は」
「暗い暗い地下室で、大人しくしていますから」

 ――フランドール・スカーレット。
 それが、私の妹の名だ。あらゆるものを破壊できる、まさに理不尽の塊の様なもの。
 しかし、本当のフランがその姿を現すことは、まず無いといっていい。
 咲夜も、美鈴も、この四人の内のいずれかが、本物のフランだと信じているだろう。
 けれど、フランは――フラン達は、みずからのことを、『フォー・オブ・ア・カインド』と呼ぶ。
 ポーカーは、五枚のカードで役を作るゲームだ。
 昔々、本当に昔、私がそれとなくそのことについて聞いてみた所、彼女達はこう言った。

「『フォー・オブ・ア・カインド』なら」
「まだ、なんとか勝負になるでしょう?」
「でも、『ファイブ・オブ・ア・カインド』なら」
「もう、どうしようも無いからですわ」

 そして、まだどうにかなるはずの妹達が、私の身から――離れない。
 私の身体を真綿のように締めながら、彼女達は、皆に聞こえるように声を出す。

「――ついに、ついに始まるのでしょう?」
「戦いが、争いが、血で血を洗う暴威の華が」
「あら? そんなのおかしいわ。それなら、洗わない方がいいじゃない」
「染めたいのよ、キレイにね、暖かい血の色ってステキでしょ?」

 咲夜と美鈴が、私の顔を見た。
 ふたりの身体を、涼しいものが覆った。
 予想が、確信に変わった。

「――ついに、ですか?」

 代表して、咲夜が言う。
 私はそれに答えた。

「ああ、この辺りの連中は、あらかた私の支配下に入った。次はそいつらをまとめ上げ――」
「――土着の勢力との闘争、ですね」
「そうだ。一・二戦もすれば、有象無象をふるいに掛けられる。そうすれば――」

 私は、がらんとした館の中を見渡し――

「この家も、賑やかになるだろう」

 私の言葉に、咲夜と美鈴は、無言でその両目を伏せた。
 この屋敷には、これ以上ヒトはいらないとでも言うように。
 ――幻想郷に来てから今日まで、紅魔館には、この郷の妖怪達は、まだ誰も入り込んではいない。
 武威でもって首を垂れた連中には、いまだ、この家に入る資格はないと、私は信じているからだ。
 ここに住んでいるのは、本当に、片手で済む程度の人数――
 この私と、
 フランと、
 咲夜と、
 美鈴と、
 そして、

「――それは困りますわ、本当に」

 聞いたことのない、声が響いた。
 私はすぐさま、そちらを――屋敷の奥の方を見る。
 するとそこ――階段の踊り場には、扇を手に、東方の魔術師のごとき姿をした、黄金色の髪の少女がひとり――
 見知った背中に、それが隠れた。

「曲者がッ!」

 何の迷いも戸惑いも無く、美鈴はその少女に踏み込むと、片腕と曲刀の一振りを使い、雷光の速度と角度でもって、激しくそれを振り下ろした。
 しかし、その動作よりもわずかに早く、少女が片手の扇を一振り。
 それは虚空にさくりと切れ目を生むと、その漆黒の空間の中から、新たに彼女と同じ様な格好の、ひとりの少女が飛び出した。
 ――ぎしぃ、と、材質の異なるものがぶつかり合う奇妙な音が玄関に響く。
 金の髪に金の耳。その獣のごとき姿の少女は、手にした華美な細工の日傘でもって、美鈴の斬撃を確かに受け止め――

 ――ばちぃ、と。

 見る間に閃光と雑音に塗れ、強張らせるよう、その身体を丸く縮めた。
 美鈴の得物達の中の、ある一振りの刀の力だ――『それに触れることは、稲光に触れると同義』。
 並みの妖怪なら、それだけで終わる。
 そして、並みの妖怪で無くとも――美鈴が、反対側の三本の腕と曲刀を、鋭くその少女に向け――
 獣の少女が、歯を噛み締めてその顔を上げた。
 目には眩むような金色の光。背には九つに分かれた黄金の尾。
 美鈴は即座に、刀の一本を胸の前で構え――

 ――どう、と。

 大きな太鼓を打ち抜いたような爆音が響き、美鈴が、まさに呼気で吹き飛ばすがごとく真後ろに跳ねた。
 その後、私の側に足を付けた彼女は、構えを解いて無色の盾を消すと、興奮と共に唇を開く。

「九本の狐の尾、それにこの『気』迫――間違いなく、あの女は九尾の狐です」
「『九尾の狐』?」
「ええ、私の知る限りでは、異論無く上位に――十の指の内に入るほどの大妖です」
「へえ、それはすごいな」
「はい。――まさしく『よき敵』です」

 そう言い切り、美鈴は六本の腕の刃を、獣の顔で踊らせる。
 美鈴の力は知っていた。
 かつて『秘宝』と呼ばれたその曲刀達を、すべて抜き放った彼女の腕は、私の知る限りでも、少なくとも十指には入る。
 その美鈴に、そこまで言わせてしまうとは、あの子供のような姿の狐は、本当に相当の者なのだろう。
 そして、そんな大妖を、従者のごとく扱うこの少女は―→▼

「△―→まあ、首を落とせば死ぬでしょう」

 その酷く聞きなれた声は、私から見て、一番遠い場所から聞こえてきた。
 目を向けるまでも無かった。
 私の視線の先には、階段の二段上から少女の首に大きな鋏を押し当てる、白いエプロンドレスの姿があった。
 めくれたスカートの内側に見える、それ専用の奇妙な鞘。
 その、太く、厚く、複雑な模様が彫り込まれた大鋏は、木の幹すらも断てそうなほどの、鋭い刃を持っていた。
 それは、彼女の獲物である人妖の首を断つ、特殊な破魔の鋏。
 咲夜が言った。何も込めずに。

「価値ある行動を取れば、お前は死ぬ」

 その声に、九尾の狐が傘を踊らせ、美鈴が投擲の形に刃を引き絞り、咲夜が鋏の角度を狭め、そして――

 ――待て、と。

 私と少女が同時に合図し、そのすべての動きが即座に止んだ。
 そのままの体勢で、しばらく互いを見つめる三人。
 その後、九尾の狐が傘を提げ、少女の後ろに位置を変えた。
 美鈴も六本の曲刀を鞘に仕舞い、私の背後に静かに下がった。
 同時に咲夜が、鋏と共に少女の背から消え、すぐにふたつの手を開けて、私の側に現れた。
 それから四人のフランが身体を離し、私はその、少女のような形のものに、実に淡々と言葉を投げる。

「――で、どちらさまで?」

 するとそいつは、こちらの礼儀だろう、独特の動作を優雅にし――
 酷くゆっくりと、みずからの名前を口にした。










                  - 3 -


「まあ、そいつが八雲紫――パチェも知ってるでしょ? あの紫色だったわけ」

 「そういえばパチェも紫ね」と、いまだ朝食の乗った円卓で、ケラケラと笑いながら再び納豆をかき混ぜるレミィ。
 私はカップの取っ手をつまみ、無言でその中身を口内に運んだ。
 ――どう反応して良いのか、分からなかったのだ。
 確かに、レミィの口調は明るく愉快で、しかも所々ジョークを混ぜ込むような、本当に軽いものだった。
 ――話の内容とは、あまりにも裏腹に。
 だが、私の思考を揺り動かしたのは、それだけではなかった。
 話の各所に、無視できない――私の知らない情報が紛れ込んでいたのだ。

 ――美鈴が三面六臂?

「はい。そうですよ」

 なんてことの無いように、平然とした顔で美鈴が言った。
 思わず空気が喉に詰まった。カップの湖面が大きく揺れた。とっさに良い言葉が出ない。
 しかし、それでも私は、何とか代わりに美鈴を見た。
 けれど、もちろん当然、今円卓に座る彼女の顔は、腕は、私のこれまでの記憶と同じように、人並みの数しか持ち合わせていなかった。
 彼女がそうである証など、何ひとつとしてうかがえなかった。
 そして、常識のように美鈴が言う。

「いやだって、腕が六本もあったら、お昼寝する時邪魔じゃないですか。目だって六つもつむらなきゃならないですし。三倍ですよ三倍。面倒で仕方がありませんよ。もうそれなら、眠らない方がマシって感じで――おおおおッ?」

 ――ぱちん、と、美鈴がその二本の腕の手のひらで、包み込むようにして大きな鍔のナイフを掴んだ。
 本日二度目の真剣白刃取り。
 そう、彼女は武術の達人なのだ。その上、六本の刃を同時に操る、人外の剣術の名手でもあるらしいのだ。
 ――『武装時』、『戦闘形態』、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
 続いて私は、カップを置き、その大きな鍔のナイフを投げた、人間の少女の姿を見た。

「メ・イ・リ~ンッ。お嬢様や私の前で、そんな言葉を吐ける勇気と冒険心だけは、認めざるを得ないわよねぇ。私も鼻が高いわ~」
「さ、咲夜さんッ? ノーナイフッ! ゴーライフッ! 貴方には、薔薇の花の方が似合います!」
「――まあッ? また誘惑ッ? 美鈴ッ、ホントウにアナタってヒトは!」
「ぎゃおーん! そーだぞー! この妖怪どろぼうパンダめー!」
「……お嬢様、パンダの和名って知ってます?」
「フッ、私を舐めるなよ。――『シロクログマ』、だろう?」
「フッ、さすがはお嬢様。この美鈴、心底感服いたしました」
「え? 嘘? パンダの和名って、『オオクマネコ』じゃなかったの?」

 「チャイニ~ズッ!」と、訳の分からないテンションで、両手の人差し指を咲夜に突き付けるレミィと美鈴。
 私の背中を、冷たいものが覆った。
 絶対に、おかしいのだ。こいつらは、こうで無いはずなのだ。こうで無かった、はずなのだ。
 分からないことがまだあるのだ。私の知らない物事が、私の腕から、溢れんばかりに。
 そう、例えば――

「じゃあ、パンダの学名は?」

 ――ちっがーう。
 フランちゃん、ソレ、ちっがーう。

「なん、だと……ッ? フ、フラン、アナタはこの偉大なる姉を、越えようとでも、いうの、か……ッ!」
「くうッ? 『上海のマジカルうどん大帝』と呼ばれたような気がするこの紅美鈴でも、その問題は――見抜けな、かった……ッ!」
「そ、そうです! 多分、『パンダ・パンダ』とか、そういうのに決まってますわ!」
「はい、咲夜アウトー」

 『デデーンッ』と、妙に機械的な音が、何故かフランの羽の辺りから漏れる。

「正解は、『アイルロポダ・メラノレウカ』でした~。分かる訳ないよね絶対に~。という訳で、咲夜、罰ゲ~ム」
「ば、罰ゲームですか~?」
「――フッ、咲夜がやられたか。しかし、あいつは我々四天王の中でも、一番の瀟洒」
「しかも家事全般を取り仕切ってますから絶対に頭上がりません。――あ、詰みましたね、コレ」

 詰んでるのはあんた達の頭だよ。
 ちなみにこの寸劇、フランは全部ジト目のままでやってるんだから、もう、『たいした奴だ』と言う他無い。
 ――で、フランは、ひょいと椅子から立ち上がると、咲夜の手を取り――みずからの椅子に、彼女をトンと座らせた。

「フランドール様?」

 咲夜の顔に困惑が浮かぶ。
 するとフランは――

「罰ゲームよ咲夜、いいからそこに座ってなさい」

 ――『私の後ろの』フランが、変わらぬ声で、そう告げた。
 びくり、と、背中に軽い痙攣が走る。
 次いで、『レミィの後ろの』フランが言った。

「そういえば咲夜、私、前から気になっていたんだけど――」

 それに合わせて、『美鈴の後ろの』フランが、テーブルに置かれた大きな鍔のナイフを取り、

「――なんで、こんなナイフなんか使ってるの?」

 身体が震えた。
 直球が来た。
 それは、まさしく私の疑問通りの質問だった。
 咲夜の、ミニスカートのメイド服から覗くその足には、ナイフの鞘があるだけだった。
 それ以外の武器は無い。
 ロングスカートで隠さねばならないような致死の得物を、今、彼女は所持していないのだ。

 ――そう、彼女は、決して『鋏』など持ってはいない。

 しかし咲夜も、なんてことの無いような、平然とした顔のまま、

「あ、分かりましたか」
「それぐらい見れば分かるわよ。ホラ、こんなに――」

 そしてフランは、そのナイフの、『大きな鍔』を指差して、

「こんなに鍔の大きな投げナイフなんて、ある訳ないじゃない」

 再び身体が震えた。
 この両目の瞳孔が、確かに形を変えたのが分かった。
 その言葉は、私の想像とは違っていた。けれど、私に新たな疑問を生み出させるには、十分過ぎるものだった。
 私は、フランの手の内を見る。
 ――確かに、そのナイフには『大きな鍔』が付いていた。
 私は脳内の書物を開く。

 ――『鍔』とは何か?
 それは、みずからの刃で手を傷付けないようにするための仕切りであり、相手の斬撃を食い止める防具でもある。
 また、一部の刀剣類では、至近距離の武器として使用することを、想定して作られている物もある。

 つまり、『投擲』には不要なものだ。
 それどころか、過ぎたそれはナイフの重心を狂わせるため、害悪となることすらある。

 ――その大きな鍔のナイフは、明らかに投擲用のものではない。

 そして、咲夜はそんなものを投げている。
 他にナイフが無い訳がない。彼女の立場なら――この屋敷の資産なら、自由に刃を選べるはずだ。
 つまり、彼女は、それを意図的に使用している――
 私は咲夜を見た。
 すると、当然のように彼女は言った。

「まあ、『武器』として使用している訳ではありませんから、それ専用のナイフを使うまでも無いでしょう」

 「OH!」と、私の後ろのフランが鳴いた。

「模範的な答えだわ咲夜! 面白みは無いけれど分かりやすい!」

 それからフランは――四人のフラン達は、円卓の間、ちょうど私達の隙間に入るようにその身体の位置を動かすと、両肘をテーブルの上に置き、

「さて、皆もきちんと配置に付いたことですし」
「そろそろ、雑談は終わりに致しましょう」
「かつての話を進めましょうよ。さあ、誰かの絵本の白紙のページを――」
「――誰かのために、埋めましょう」

 声の質がどこか違う。私の知らない音がする。
 ――息が、詰まる。
 すると、いまだに納豆をかき回しながら、レミィが言った。

「フラン、お行儀が悪いわよ」
「でも、お姉様。私の『役』だと、この辺りが適当だとは思いませんか?」

 さんさんと朝日が差し込むテラス。納豆を踊らせる箸は止まらない。
 レミィは、決して反論しなかった。
 そしてレミィは、弱く小さく、見逃してしまうほどかすかに両頬を歪ませると、その目でしっかりとこちらの姿を捉え――

「――じゃあ、続きの話をしましょうか」

 と、変わらぬ声で、私に告げた。










                  - 4 -


「では、口上をお聞かせ願おうか」

 我が紅魔館が誇る大広間の、歴史ある長卓の中央で、私はそう、向かい側の席に言葉を投げる。
 私の席の左右には、石像のように並び立つ、十六夜咲夜と紅美鈴。
 そして私の席の向こうには、九尾の狐を侍らせ座る、八雲紫の姿があった。
 それから、次いで――

「初めまして、フランドールと申しますわ」
「あら? 私もフランドールと申しますの」
「――まあ、では、もしかしてアナタ、フランって呼ばれること、ありません?」
「え? どうして分かるんですの? よく姉に言われるんです、フラン、フランって」

 ――私達を取り囲むように座る、四人のフランドール・スカーレット。

「あの、本当によろしいので?」

 その、『困った』というニュアンスを強く含ませた八雲の声に、さすがの私も、同意せざるを得なかった。
 ゆえに私は、フランに言う。

「これから大事な話し合いをするのだから、少し、あちらに行ってなさい」

 すると、妹達が笑った。

「何を言ってるの、お姉様?」
「こんな馬鹿げた言い合いを、道化も無しにしようというの?」
「話し合う必要なんてないじゃない。ねぇ、妖怪の賢者さん?」
「貴方が一言こう言えば、そう――」

 そして、私の左前の席のフランが、カード状のものに何かを刻むと、その札を八雲にゲームのごとく手渡した。
 八雲はそれに目を落とし――
 その手から、即座にカードが消え失せた。

「では、改めまして――」

 そう、何も無かった風な顔で、八雲は話を切り出した。
 八雲は、フランの存在を無視したのだ。
 無視して良いと思ったのかもしれないし、無視する以外なかったのかもしれない。
 ただ、彼女は、明確にフランを避けた。
 それだけは、確かだった。

「――この短期間で、これほどの勢力を築き上げた手腕、まさに見事という他ありません。私も知らせを聞いた時は、あまりの驚きに布団から飛び上がってしまったほどですわ」

 八雲のその言葉は、前置きと呼ぶに相応しい、酷く分かりやすい世辞だった。
 無論、私もいちいち反応を返したりはしない。
 そして、本題に入るのだろう、八雲は柔らかく息を吸うと、

「それで、もしや、と思ったのですが、まさか、貴方はこの幻想郷を支配しようというおつもりでは――ありませんよね?」
「――ほう?」

 思わず、感情のこもった声が出た。
 その八雲の仕草は、私の想像を裏切る、酷く奇妙なものだった。
 まるで、河原の石ころと黄金の塊を交換すると聞かされた時のような、明らかにありえないといった表情と声。
 ――硝石のような、匂いがした。
 ゆえに私は、警戒と共に言う。

「もし、そうだとしたら?」
「信じられない――まさにその一言です。貴方の力は、意思は、聡明さは、今までの実績から十分に証明されています。それなのに何故そのような、みずからの名を貶める、空想のごとき哀れなことをしようとするのか、私には理解できません」
「――『哀れ』、だと?」

 私の触角が動いた。
 ――私も、ある程度は予測していたのだ。
 この少女が――八雲紫が、私の行動を止めに来るということは、当然予想の範囲内だった。
 幻想郷の管理者であるらしい存在が、勢力図を塗り変えられることを望むはずがない。争乱を求める訳がない。
 だから、事態が許容線を越える前に私を『何とか』し、これ以上の跋扈を食い止めようとする。
 それは、分かる。だが――

「――お前は、この郷を支配する事が、『哀れなこと』だと言うのか?」
「はい、申し上げるまでもありません」
「失礼だが、私はここに来てまだ日が浅い。できれば説明が欲しい所だね」

 すると八雲は、ええ、と頷き、

「では、お教えしましょう。まずは――そうですね、この郷の滅ぼし方から説明しましょうか」
「は?」

 ――今、こいつは何と言った?
 ですから、と、平然と八雲は言う。

「この、『幻想郷』の滅ぼし方ですよ」





「――まあ、幻想郷といっても、そこに住まう妖怪達の滅ぼし方といったほうが、適切だと思いますが」

 そう、長卓の中央、大広間に響き渡る声で、主役のように八雲は言う。
 もはや私は、その向かい側で、相手方の役者のごとく、彼女の望む言葉を口にするしかなかった。

「なんだと? お前は、この郷に住まうすべての妖怪を、滅ぼすことができるというのか?」
「はい、酷く簡単に」

 あまりにも平然と、八雲は言う。
 ――反応に、困る。
 確かに、幻想郷の妖怪は――私が従えた者達は、『強い』とまでは、いえなかった。
 それは、私が力でもってそいつらを支配できたことからも明らかであるし、私が知る限りにおいても、この郷ではいまだ、咲夜や美鈴に匹敵する力の持ち主には、出会っていなかった。
 ――もしかしたら、が、ひとり居るかもしれないぐらいだ。
 私は黒いミニスカートを頭部から消し去り、だが、と、再び思考を巡らせる。

 ――『弱く』は、なかったのだ。

 私が戦った者達は――私が配下にした者達は、間違いなく私達よりは弱かった。だけど――
 刃を通さない者がいたのだ。立ち木を引き抜く者がいたのだ。風のように速く動く者がいて、火を噴き出す者がいて、空を自在に駆け回る者など、わざわざ挙げるまでもない。
 ――『妖怪』と呼ぶに相応しい、化け物どもが無数にいたのだ。
 何か致命的な弱点を持っていたとしても、そのすべてが同じはずがない。
 動揺を誘うための罠かとも思った。
 しかし、そんな様子は八雲からは見えない。
 だから私は感情を隠し、平然とした顔でそいつに言う。

「面白い。聞かせてもらおうか」
「はい」

 すると八雲は、先程と同じ様に片手の扇を振るい、再び虚空に切れ目を生むと――
 さくり、と、迷い無くみずからの腕をその中に入れ、手馴れた様子で何かを引き抜く。
 そして、

「これが、この郷の妖怪達にとっての恐怖そのもの――幻想郷を滅ぼす道具ですわ」

 それを私の方に向け、きっぱりと八雲は告げた。
 私は彼女の手中を見る。
 そこには、まさに枯草色の細長い植物の茎が、それなりの数寄り集まって、手のひらに収まるほどの楕円形となった物体が――

 ――それは、まさしく『藁の束』だった。

 本当に、藁の束のようにしか見えなかったのだ。
 動きは無く、形も無難、魔力・妖力のごとき超常の力も感じない。
 ただ、確かな臭気が鼻に付いた。
 ――中に何か入っている?
 しかし、少なくとも私の知識では、それが藁の塊以上に危険なものであるようには、まるで見えなかった。
 だから私は、こう言わざるを得ない。

「なんだそれは?」
「『納豆』と申しますわ」

 ――なんと、私は首をひねるしかなかった。
 八雲の言う単語の意味が、私には、まったく理解できないのだ。
 残念ながら『ナットー』などという名前のものは、私の辞書には存在しない。
 それを当然察していたのだろう、八雲が仰々しく口を開いた。

「これは――『納豆』とは、蒸した大豆を稲藁の中に詰めて発酵させた、我が国が誇る、伝統的な食品のひとつですわ」

 そう言って藁の束を開き、中身をこちらに向ける八雲。
 見るとそこには、確かに腐っているとしか思えない、糸を引いた豆達の姿があった。
 明確な異臭が、吸血鬼の鋭敏な嗅覚に刺さる。
 私は、そのままを八雲に告げた。

「腐っているぞ」
「いえ、これが納豆なのです」
「腐ってるって」
「ですから、腐っているのではありません。これこそが、『納豆菌』の力なのです」
「ナットーキン?」

 ええ、と、八雲は優雅に微笑みを浮かべ、

「『納豆菌』とは、稲の藁の中に多く存在する、枯草菌という細菌の一種です。学名を、バチルス・サブチリス――」

 ――私は、困惑するしかなかった。

「――また、その驚異的な耐性から、かの有名なルイ・パスツールの――『万学の祖』アリストテレスが提唱し、二千年以上にもわたって信じられてきた『胚種説』又の名を『自然発生説』に止めを刺したといわれる――『白鳥の首フラスコ実験』の例外的な事象となり、同説の最後の砦として――」

 何故、わざわざこんな所で土着の妖怪に、生物の講義を受けなければならないのだ。
 しかし、八雲は悠々と授業を続け――

「――という訳でして、柔らかく蒸した大豆を納豆菌によって発酵させた納豆は、非常に栄養価と吸収率が高く、一説には、かのヒトラーが切望したとも――」

 ――さすがの私も、遂に口を挟んだ。

「――で、つまり、『ナットー』とは、大豆で作ったチーズの様なものなのだろう?」
「……酷く乱暴に言えば、その通りですわ」
「なら、早く本題を言ってほしいね。まったく、身体がネバネバしそうだよ」
「Never never――ですか。本当にそうですわね」

 ほう、と、不可解に八雲が息を吐く。
 そして、

「では、本題に入りましょう。つまり、納豆菌はとても強力な菌でして、この豆を一粒でも酒樽の中に投げ込めば――」

 ――ぱん、と小さく指が鳴り、

「たちまち酒虫を打ち負かし、お酒を台無しにしてしまうのです」
「へえ、それで?」
「それだけですわ」
「は?」

 思わず、喉から呼気が出る。
 ですから、と、八雲が言った。

「我が国では、しっかりと蒸し上げた米を使って酒を造ります。よって、大抵の細菌はその時の蒸気で死ぬ。しかし、納豆菌は極めて熱に強いため、地獄釜の中といえども、屈することはありません。そして、酒の元――酵母よりも、はるかに生命力・繁殖力が強い。ゆえに食品でありながら、酒を造る者達からは極度に恐れられるもの、それがこの――『納豆』なのです」

 そう、八雲はさくりと言葉を締め――

「――ほう」

 と、私は特に価値の無い反応を返す。
 ――何というか、本当に、そうすることしかできなかったのだ。
 八雲はそれ以上何も言わない。つまり、私に対する説明のすべてが、今ので終わったことになる。
 彼女は、これまでの会話の内容だけで、十分な情報を私に与えたつもりでいる。
 と、いうことは――
 私は、思考機械を動かした。
 その、『ナットー』というものが、酒造りにおいて大敵であることは分かった。
 だが、それが何故、妖怪殺しになるというのだ?
 時間にして一秒弱。私の想像は飛躍し、雄飛し、そして旋回すると、再び元の場所に戻った。
 それから私は、小さく首をひねったのち、

「――なるほど、実におかしな話だ。今の説明から推測するに、『酒が作れなくなると妖怪が死ぬ』ということになる。お前は、この郷の妖怪達のすべてが、一定期間酒を呑まないと死ぬ作りにでもなっていると言うつもりか?」

 ――馬鹿馬鹿しい。
 そういった意識を込めて、私は推論を吐く。
 しかし八雲は、本当に静かな声で、

「――『対酒当歌 人生幾何』」
「なに?」

 その、この国の言葉とはまるで違う独特の響きに、私は一瞬呆気に取られ――

「――『短歌行』ですね」

 そう、隣の方から声が聞こえた。
 私はそちらに目を向ける。するとそこには、能面のような顔の美鈴がいた。
 私は彼女に合図を送る。
 酷く感情の無い声で、美鈴が言った。

「魏武――この国では、曹操の呼び名の方が有名みたいですね――が、詠んだとされる詩です」

 そして美鈴は視線を送り、八雲に口を挟む意思が無いことを確認すると、

「この国の言葉に訳すと――『酒を前にしては大いに歌え、人生など幾許のものであろう』」

 話が早い、と、八雲が笑った。

「ええ、その通りですわ。――レミリアさん、貴方は、妖怪には阿片や大麻といった、麻薬の類がほとんど効かないことをご存知でしょう?」

 私は、特に反応を返さない。
 しかし八雲は、当然のように言葉を続ける。

「理由は簡単です。あれらは、人が幻を――怪異を見るためのもの、つまり、人間のためのものであって、怪異のためのものでは無いからです」

 ――そう、薬物は効きはせぬ、煙草では気が晴れぬ。
 つまり、と、八雲は言う。

「妖怪には、酒しかないのです。酒のみが、妖怪を蕩かすことができるのです」

 椅子に背を当て役者のごとく、両手を大仰に広げる八雲。
 私は、その姿に酷く、目を背けたくなるほど嫌なものを感じた。
 思わず、声が出る。

「それが――」
「――美鈴さん」

 私の言葉を切る様に、八雲が一言、名を呼んだ。
 美鈴はわずかに反応し、そして、私の合図を受け取ると、強い警戒と共にその口を開く。

「なんでしょうか?」
「貴方は、この歌がいつ頃のものかご存知で?」
「――いえ、そこまでは」

 そうですか、と、八雲は微笑み、

「この、『短歌行』と呼ばれる歌は、魏武――曹操の、ちょうど有名な赤壁の戦いの前、西暦でいえば二百七年から、八年の間の作といわれています。この頃の曹操はといいますと、官渡・烏桓を始め、連戦連勝まさに破竹の勢いで、しかも行政・軍事等の最高位である三公を廃し、その権力を一身に集めた最高権力者・丞相の地位を手中に収めたという、まさに人生の絶頂期でした。しかしその曹操をして、歌はこう続きます――」

 八雲は歌う。艶ある声で。
 まさしく詩歌のごとく、麗しく。

 ――――人生とは、例えるならば朝露のように儚きもの――――
 ――過ぎ去ってしまった日々は、はなはだ多く――
 ――――それを想えば、心は怒りに高ぶり、嘆き悲しむばかりであって――――
 ――物思いから離れることなど、出来ようはずが無いではないか――

「――そして曹操は言いました」

 八雲が、美鈴の瞳を掴んだ。
 ――言え、というのだ。
 真実であることを、間違っていないことを、確かに知る者に、証明しろと言っているのだ。
 私は許可を送り、次いで、美鈴が小さく息を吸う。
 それから言った。美鈴の声で。

「――『何をもってこの憂いを解きましょう、それはただ、酒のみである』」

 その通りですわ、と、八雲が笑った。

「みずから集めた綺羅星の如き文武百官に囲まれ、権力のすべてを手にした英傑ですら、この様な事を口にしたのです」

 ――ならば、当千、破軍、呼び名は色々とありますが、炎を放ち、空を飛び、人知をはるかに超える怪力を有す、この郷の妖怪達が、まさに怪奇幻想と呼ぶに相応しい力を持ちながら、こんな狭苦しい所で大人しく騒いでいるような飲兵衛どもが、酒無しで、本当に暮らしていけると思いますか?

「ゆえに、酒虫を殺す納豆を、幻想郷の妖怪はあまりにも恐れるのです」

 つまり、と、八雲が言う。

「そんな酒臭い者どもの上に立たねばならぬなど――これを『哀れ』と呼ぶ以外、何の言葉がありましょう」

 ――ぎしり、と。
 私の中で、何かが大きく歪んだのが分かった。
 恐らく、隣の咲夜と美鈴も、私と変わらぬ気分だろう。
 だから私は、ただ強く、不快と共にこう述べる。

「そうか、この郷の連中は、そんな糸を引く豆を恐れるのか、私には、まったく理解できないね」
「すぐに、貴方も恐れるようになります」
「馬鹿にしているのか?」
「いいえ、まったく」
「なる訳があるか」
「なりますわ」
「ならない」
「絶対になります」

 私は咆えた。

「ふざけるな! 私がそんなものを恐れる訳がないだろう!」

 すると、この郷の管理者は言った。

「ならば何故、貴方はここに来たのです?」

 ――声が詰まった。
 すらりと八雲が、刃物を引き抜いたのが分かった。
 そして私にも、この少女のようなものが、どのような存在であるのかが理解できてしまった。
 ――会話が、途切れる。
 その後、しばらくに感じる時間が過ぎ――ポン、と、助け船のように、軽快に手を打つ音がする。

「ああ、そういえば、まだ簡単な挨拶しか、致しておりませんでしたね」

 その言葉ののち、八雲がゆるりと、私の国の礼法を取った。
 それはまるで絵画のような、正式で、酷く優雅な動作だった。

「私の名は、八雲紫。この幻想郷の管理をしております。『妖怪の賢者』などと呼ばれることもありますが、まあ、我欲に満ちたひとりの女に過ぎませんわ」

 ――確かに、そう呼ばれるに足るだけの力を、持ち合わせてはいるつもりですが。
 そう言って、八雲は袖の内に手を忍ばせると、一枚の、恐らくハンカチーフだろう藍色の布切れを抜き出し――
 その、『橙色』のハンカチを私に見せた。

 ――瞳孔が、搾りを変えたのが分かった。

 喉から抜けそうになる息を、私は必死で押し止める。
 間違いなく、あの布の色は藍色だったはずなのだ。
 それなのに、今、八雲の手には一枚の――『藍色』のハンカチがあった。

「え?」

 今度は、情けなくも声を出してしまった。
 相手の行動に、予想通りの反応を見せる――それが交渉ごとにおいて、良い方法であるはずがない。
 それゆえにか、するり、と、八雲は軽い微笑みを浮かべ、

「これが、私の力――『境界を操る能力』です。私は、あらゆる境界を操れる。今のは、ハンカチの『藍と橙の境界』を操作しました」
「ほお」

 手品師の芸を見た観客のように、私はワザとらしい感嘆を上げる。
 確かに見え透いた虚勢ではあったが、張らないよりは、まだマシというものだ。
 ――しかし、それは凄まじい能力だった。
 今のは、布の色を変える程度の、まさに手品に過ぎなかったが、もし、その能力をどこまでも適用できるというのなら、それはほぼ、『全能』と呼んで差し支えない。
 無意識に、身体が椅子から浮き上がる。
 しかし八雲は、こう述べた。

「まあ、ほんの――『程度』と呼ぶに相応しい能力ですが」

 どの口でほざく――私は言った。

「へえ、それがこの国特有の、過度な謙遜というやつかい?」
「まさか」

 そう、笑顔を切り、八雲が告げる。
 ――ああ、と、私は再び気付いてしまった。
 この少女のようなものが、新たな刃を抜いたのだと、私には、また、分かってしまった。
 酷く淡々と、八雲は言う。

「本当に、『程度』に過ぎない能力なのです。その理由を今から、お見せしましょう」

 それから八雲は、腕のハンカチを一振りし――今度は藍色の布が、白い紙へと変化した。
 ――そうか、と、私は気付く。
 ほんのわずかだが、美鈴からも同じ反応を感じた。私達には、それに見覚えがあったのだ。
 つまり、あの正門の所にいたカラス達――使い魔どもは、こいつが――八雲が放ったものに違いなかった。
 あれらも、美鈴に斬り裂かれた後――刃の力のために、一瞬しか見ることができなかったが――確かに真っ白な紙切れに、その姿を戻していた。
 それは、屋敷の偵察のためか、侵入の際の迷彩のためか、もしくはその両方のためか――
 しかし、少なくとも八雲が、その口で言う通り、『寝床から飛び起きて、おっとり刀で駆け付けた』訳では無いということが、ほぼ証明されたと、そう信じられるだけの理由にはなった。
 ――まあ、当然といえば、当然なのだが。
 その後、人の形に切られたそれを手に、一転、華やかな声で八雲は謳う。

「実は私、『式』というものを学んでおりまして。基本は、陰陽道という、この国独自の魔術のようなものなのですが。式を打ち、式を打ち、ただ一心に空欄の解を求める――それを延々と繰り返しておりましたら、この様なことができるようになったのです」

 言葉の終わりに席を立ち、八雲はみずからの椅子の後ろに、その身体の位置を置き換えた。
 併せて、九尾の狐がさらにその背後へと身を下げる。
 次いで八雲は、酷く敬意を感じさせる仕草で、その人型の紙切れに思念を送ると、それを軽く椅子の右側に投げた。
 すると音も無く、紙は広がり、膨れ、色を変え――
 見る間にひとりの男へと、その姿を変化した。
 それは、欧州だろうか、ひと目見て古いと分かる、しかし近代的な軍服を身に付けた、標準からいえば、かなり小柄な中年の男性。
 その顔を見れば、何か大きな怪我を負ったのだろう、頬の辺りが削れた様であり、口元も大きく歪んでいた。
 ――だが、それだけだった。
 少なくともそれは、戦いに慣れ親しんだ軍人ではあるのだろうが、超常の力など何も持たない、唯の人間の男に見えた。
 そして、

「――『シモ・ハユハ』ッ? 嘘でしょッ?」

 私の隣から、痺れるような声が響いた。
 臓腑が、揺れた。
 見ると咲夜が怯えるように、その身体を竦めていた。

「――咲夜ッ?」

 三つの口から同時に響く、驚きしかない美鈴の声。
 本来彼女達をたしなめるべき私の心にも、驚愕以外の感情はなかった。
 常に冷静沈着であるはずの咲夜が、ここまで取り乱したのを、私は見たことが無かったのだ。
 その後、ええ、と、平然と八雲は言う。

「この国では、『シモ・ヘイヘ』の呼び名の方が、有名なようですが」
「――ああ、やっぱり」

 泣き崩れるように、咲夜が鳴いた。
 その仕草は、やはり私の中の彼女とは、酷くかけ離れたものだった。
 ゆえに私は愚かな問いを、咲夜にせざるを得なかった。

「知っているの、咲夜?」
「はい、私はあの方を、良く存じております」
「知り合いか?」
「いえ、違います。私はあの方を、母国の教科書で知りました。あの方は救国の勇士です。そして、恐らく、いえ、絶対に、五指に入る狙撃手でしょう。我が国で、ではありません。当時の世界で、でもありません。歴史上、『狙撃手』という存在が生まれてから現在までで、間違いなく、五指に入る存在です」
「え? それってつまり――」
「人類最上位の確たるひとり――『人間の英雄』と言えば、分かりやすいかと存じます」

 そう、『シモ・ハユハ』という写し身の後ろから、厳かに八雲が言った。
 次いで彼女は、再びその袖口から、人型の紙を取り出すと、

「そうですね。今度はそちらの方が知っていそうな人を、お呼びしようかと思います」

 びくり、と、美鈴の身体がわずかに跳ねた。
 即座に美鈴は、殺意のごとき視線を八雲に向け――しかし彼女は、変わらぬ響きで声を吐く。

「では、シモ・ハユハ氏は銃撃ちの方でしたので、今度は弓射ちの方を――」

 その言葉と共に、八雲は人型の紙を、今度は椅子の左側に投げると――
 新たに、筋骨隆々の肉体を、酷く古臭い東洋風の鎧で覆った、長い黒髭の男が現れた。
 無論、顔立ちを見ても、東洋人であることは間違いない。
 その人間を見た瞬間、美鈴のすべての顔が、くくく、と、歯の隙間から押し出すような声を上げる。
 それから言った。笑いを込めて。

「なるほど、なるほど」
「その姿を見たことも、声を聞いたこともありませんが」
「私の知る国々で、世界史上五指に入る弓使いの人間なんて――」
「――ああ、七・八人はいるな。でも、こういう場合、選ばれるのはふたりしかいないんですよ」
「そう、まさに別格のふたりしか。さて、この方はどちらの人か――」
「――いえ、待ってください。今、当てて見せましょう」

 そして美鈴は、三重の悲痛な声で、

「貴方は――『養由基』ですね」

 そう、私が聞いたこともない、独特の響きの名を告げた。
 その通りですわ、と、笑顔でもって八雲が答える。

「――ああ、やっぱりか!」
「よりによって『養叔』か!」
「光栄ですわ、ふざけるな!」

 泣き笑いのように、美鈴が言う。
 私は、尋ねるべきことを尋ねた。

「誰なの、美鈴?」
「『百発百中』――『必ず当たる』という意味の言葉の語源となった、私の知る国々で、無論歴史上、一二を争う弓取りです」
「……へえ、それはすごいな」
「はい。私の腕など、柳の葉にも及ばぬでしょう」

 ――そうか、と、私は思う。
 九尾の狐と――その知る限りでも十指に入るほどの大妖と、五分でやり合う気迫を見せていた貴方が、そこまで言い切る人間か。
 そして、まとめのように八雲が言った。

「私は、この『式』という技術を用いて、ほとんどすべての人間を――古今東西の、あらゆる英雄英傑を再現することができます。この技術に比べれば、私の『境界を操る能力』など、まさに『程度』と呼ぶ他無い」

 もっとも、と、八雲は笑う。

「私が打つのは再現まで。能力も、精神も、爪の先から心の底まで、同じものを作るのみ。そうでなければ――『神は細部に宿る』という言葉の通り――本当に価値が無い。つまり、当然のように私の願いを叶えてくれる存在では無いということが、欠点といえば、欠点ですが」

 そう、八雲は、ふたりの英雄の後ろから述べた。
 間違いのない敬意と共に。そうするのが、当然であるという心でもって。
 ――ああ、と、私は、どうしようもないものを喉の奥に溜める。
 はっきり言おう。このふたりの人間の英雄は、私の目から見れば、たいした力を持ってはいない。
 所詮は、人間の力なのだ。
 どんなに強力を誇ろうとも、例え十やそこらが集まろうとも、私の、そして美鈴の力には、まったくもって敵わぬだろう。
 しかも、どれだけ道具の扱いに長けようとも、鋭敏な感覚を持とうとも、咲夜の能力に比べれば、児戯のようなものに過ぎない。
 だが、と、私は確かにこう思う。

 ――このふたりとやり合えるなら、我らは今、ここにはいない。

 さて、と、酷く明るい声が大広間に響く。
 見る間にふたりの英雄が消え、八雲は人型を袖口に仕舞い込むと、九尾の狐に椅子の背を持たせ、再びそこに腰を下ろす。
 それから彼女は、その身を深く預けると、特に何事も無かったかのような朗らかな声で、私に向かってこう言った。

「では、前置きはここまでに致しまして、そろそろ、本題に入りましょう」










                  - 5 -


「――で、こっから始まるのが、あの幻想郷に名高い『命名決闘法』――つまり、『弾幕ごっこ』の誕生秘話って訳さ」

 そう、さんさんと朝日の差し込む一室で、いまだ納豆をかき混ぜながら、楽しそうにレミィは言う。
 しかし、私にはもはや、その話を聞けるだけの余裕はなかった。
 ――八雲紫が、生物の完璧な複製が可能な『技術』を、すでに実用化していると知ってしまったからだ。
 そう、『能力』ではなく、『技術』なのだ。
 他の誰かが使うことや、他の誰かに伝えることが当然できる、汎用性のある『道具』であり、普遍的かつ体系的な――『理論』なのだ。
 『書物』に、まとめられるものなのだ。
 保管し、私が手に取って読むことが可能な――ああ、そうだ! それは間違いなく、『知識』なのだ!

「いやあ、しかし弾幕ごっこには随分楽しませてもらったよ」
「はい。色んなことがありましたからねぇ。もちろん始まりはウチ――お嬢様の紅い霧を撒き散らす迷惑行為からですし、春が来なかったり、宴会が延々と続いたり、月をすり替られたこともありましたし、こちらがそこに行ったこともありました。――ああ、そういえば、お天気が滅茶苦茶になったこともありましたわね」
「あー、いいですねぇ。お嬢様と咲夜さんは、何でそんなに誘われるんでしょうね?」
「人気よ」
「人気だわ」
「――畜生ッ、あの時生足さえ出していれば……ッ!」

 しかも、八雲紫は古今東西の英雄英傑の、そして恐らくは偉人達のデータまでも、ほとんどストックしているというのだ。
 無論、この幻想郷の人間達もそうだろう。
 御阿礼の子、博麗の巫女、ラクガキ王国1&2――そうだ、本当に生物だけか? 東方の至宝『三種の神器』、私も作れる『賢者の石』、PC-98版の『フロッピーなアレ』、生み出す価値のあるものはいくらでも――私の思考は飛躍する。

「そういえば、月を取り戻しに行った後、キモダメージ?の時だったっけ、咲夜がすごい嬉しいこと、言ってくれたよねぇ」
「――えッ? ちょ、ちょっとお嬢様! それはナイショですわ! お願いですから止めてください!」
「えー、教えてくださいよ~、お嬢様ぁ」
「うー、そうだねぇ~」
「もう、お嬢様言っちゃダメですよ! もしホントに言っちゃったら、ハサミねじ込みますからね、オツムにぐりっと!」
「え?」
「なにそれ本当にこわい」

 ――『シモ・ハユハ』。
 それは、怪鳥『ケワタガモ』――英国では『王』と謳われ、その名の通り、あらゆる攻撃をみずからの毛綿でことごとく無効化する、ヨーロッパ屈指の大妖――の、唯一の弱点である眼球を、一発の旧式銃の弾丸でもって撃ち抜いて倒したとされる、北欧最強の猟師の名前。

「ああ、そうだ。月で思い出したけど、この納豆、そこに行った時のやつだったよね」
「はい。恐らく宇宙辺りで採取したはずの納豆菌を、パチュリー様に何とかして頂いたものですわ」
「え? パチュリー様がバクテリアの培養ですか? なんか、魔女ってイメージじゃないですよねソレ」
「まあ、確かにね。でも――ねぇパチェ、この納豆育てたの、パチェだったよね? ――パチェ? パチェってば!」

 ――『養由基』。
 それは、妖仙『白猿王』――一説には、あの斉天大聖の義兄弟のひとりといわれ、一軍が射ち放った矢のすべてを、その片手で簡単に掴み取ったとされる大猿の尸解仙――を、ただ弓の弦を張り、矢のそりを直しただけで屈服させてしまったという、古代中国の将軍にして、最強の弓使いの名前。

 ――と、私の首に、何か酷く柔らかなものが触れた。

「ムキュアッ?」

 思わず口から、あまりにも聞き慣れない声が出る。
 すぐさま私が後ろを見ると、そこには、首飾りのように両手を回す、四人の内のひとりがいた。
 その後フランは、保護者の響きで、

「――もう、パチュリーは、一度考え込むと本当に駄目ね」

 合わせて前から、ふて腐れた風な、小さな親友の声がする。

「……ねえ、パチェ」

 私は慌ててそちらを向いた。

「な、何かしらレミィ?」
「……この、納豆、パチェが増やしたやつだよね?」
「え? ――ええ、そうね。そうだったわね」

 レミィに小鉢を見せられて、私は取り合えずそう答える。
 それから私は、カップの中身で口内を濡らし、糖分とカフェインの力によって、何とか平静を取り戻した。
 ――そうだ。そうだったのだ。
 これが果たしてそれなのか、実の所、私には確実なことは言えないが――確かに私は、レミィに納豆菌の培養を頼まれたことがあったのだ。
 しかも、ロケットの残骸だろう、でっかいタンクを押し付けられて、菌がいるらしいから増やせ、の一言で。
 本当に、いるかどうかすらも分からないのに。――まあ、適当にやってみたら、どこぞのインフレ通貨みたいにガンガン桁が増えまくったんだけど。
 こういう時、生命力・繁殖力の異様に強い菌は、本当に楽でいい。
 ――と、再び背後から声がした。

「お姉様、そろそろ、続きの話をして下さいな」
「また、パチュリー――空白を埋めるこの魔女が、物思いに落ち込む前に」
「さあ、これまでの、終わりの話をしましょうよ」
「そして、これからの、始まりの話を致しましょう」

 そこで、ようやく私は思い出す。
 話の一部に囚われていたが、それ以外にも、整理分類しなければならない情報が、あまりにも、多過ぎるのだ。
 ――『納豆』だって、ついに出てきてしまったのだ。
 しかし、どこから手を付ければいい? 何が一番重要だ? 私の思考は千々に乱れる。
 するとレミィは、笑みの形にその顔を歪め、

「もう、パチェは仕方がない子だなぁ」

 などと、母親のような、とても暖かな瞳をこちらに向け――

「――じゃあ、これで最後だ」

 と、子供の声で、私に告げた。










                  - 6 -


「私は、妖怪に酒しか娯楽がないことを、常々、不満に思っていたのです」

 そう、光差さぬ大広間の中央で、役者のように両手を広げ、芝居のごとく八雲は言う。
 私は長卓の向かい側で、ただ舞台を眺める風に、その台詞を無言で聞いた。
 それから八雲は、両手を合わせ、

「そう、酒ばかりというのは身体に悪い。いくら妖怪とはいえ、その身を崩し、力を失ってしまうでしょう」

 ――ゆえに、『新たな娯楽』が必要なのです。
 八雲はそう、優雅に『本題』を口にする。

「それは、種族を問わず参加でき、思考でき、無論熱中でき、そしてしっかりと白黒の付く――『決闘』のような、勝負事が適当でしょう」

 ――しかし、囲碁や将棋のような盤上の遊戯では、身体は鈍るし、心も弾まぬ。
 かといって、十全の力を発揮するには、我々のそれは強過ぎる。
 もし、我らがその気で争えば、この小さな郷など、簡単に壊れてしまうでしょう。

「住処を脅かしてまで戦うなど、まさに空想、外の人間達のごとき愚かな行い。何故、我らがそのような、哀れな真似をしなければならないのでしょう」

 ――そこで、私は考えました。
 その言葉と共に、八雲は手の扇を一振りし、みたび虚空に切れ目を作る。
 次いで彼女は、腕をするりとそこに入れ――今度は、いかにも東方らしい、一軸の巻き物を取り出した。
 ――ぶわり、と、音を立て、長卓の上をそれが覆う。
 中に書かれた縦書きの文字達。
 八雲が言った。勝者の声で。

「『命名決闘法』――そう名付けました」

 怪異の特権のひとつを使い、私はそれに目を通す。
 そして、『理念』と題する章を読み――私は多分、酷く顔を歪めた。
 書かれた『理念』は、たったの四つ。
 そのふたつを、八雲が上げた。

「お分かりの通り、これは、妖怪だけのものではありません」

 それは、『一つ、妖怪が異変を起こし易くする』こと。
 それは、『一つ、人間が異変を解決し易くする』こと。
 それは、『つまり』と、八雲が言う。

「これは――『人間と妖怪の戦い』を、再現することが出来るのです」

 ――『人間』は死を恐れるがゆえに、『妖怪』という強大な怪異との戦いを、放棄し、そして忘却しました。
 しかし、この『命名決闘法』ならば、人間は命の危険なく、妖怪に勝負を挑むことが可能なのです。
 つまり、かつてのように、『妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する』――その偉大な営みを、再び繰り返すことが出来るのです。

「なお、私はこの遊戯の『主人公』として、我が幻想郷が誇る確かな『人間の英雄』――『博麗の巫女』を推挙します」

 その後、八雲は勢い良く席を蹴り――
 熱病のように腕を振るわせ、彼女は強く、次の『理念』を口にする。

「さあ、我らにしか出来ぬ、外の人間には真似できぬ、古今東西、どんな戦いよりも美しく、そして、無駄に満ちた戦いを繰り広げようではありませんか!」

 ――それは、『一つ、美しさと思念に勝る物は無し』。
 『美しさ』とは、威力と効果を――『効率』を越えし華。
 『思念』とは、争い打ち倒すことに、競争し勝利することに――勝敗という『結果』に、『過程』以上の価値を見出さぬこと。
 その後一転、静かな声で八雲は言う。

「貴方が、外の世界で、幾人の敵を倒し、どれほど領土を広げ、何度地図を塗り替えたのか――残念ながら、寡聞にして存じ上げませんが、私はそれ以上の喜びを、そちらに提供できると信じています」

 ――貴方が協力してくださるのなら、これの普及は簡単でしょう。
 それから八雲は両手を広げ、予言のように、神託のように、ただただ強く、麗しく謳う。

「さあ、かつてのように、我々の手で、『人間と妖怪の蜜月』を取り戻そうではありませんか!」

 ――それは、あまりにも美しく、そして、残酷な言葉だった。
 私の頭の冷静な部分が、折れ時だと、ささやいた。

 ――八雲の目的は、はっきりと分かっている。

 彼女の目的、それは――『新たな秩序の構築』だ。
 私に――外敵に破壊された旧来のそれを、新たにその敵すらも取り込んだ、適切で、きっと恐らくは、変わらないものに置き換える。
 だから八雲は、私に無益を諭し、力を見せ、その後、協力を持ち掛けている。
 彼女は、丁寧に、かつ確実に、私の名誉を損なわぬよう、ひとつずつ、その逃げ道を潰している。
 ――しかし何故、そうまでして八雲は、私に心を砕くのか。
 どうして、そのあまりにも圧倒的な『技術』でもって、私を取り除いてしまわぬのか。
 『私』という存在を、新たな秩序に取り込まねばならぬ、その理由は何だ。
 いったい、誰のために――

 ――分かって、いるのだ。
 彼女の目的は、あまりにも、はっきりと。

 私は、最後のひとつ――八雲の遊戯の、顔を歪めざるを得なかった『理念』を、再び見た。
 それは、『一つ、完全な実力主義を否定する』。
 それは、『つまり』――

 強きものが、弱きものに。
 強い妖怪が、弱い妖怪に。
 妖怪が、人間に。

 ――互角の勝負をするために、仕方なく、合わせてやる。
 それは一見、そういう風な意味に見えた。
 続いて私は、隣に控える者達に――咲夜と美鈴に――私がもっとも信頼する内のふたりに、その意識を向けた。
 無論、ふたりの姿は、一時は崩れはしたものの、今はもう、初めの頃とまるで変わらぬ、威風堂々としたものだった。
 従者として、側に並び立つ者として、私が誇るに足るだけの、麗しい立ち振る舞いを固持していた。
 だが、そのふたりの気配が――美鈴いわく『気』というものが、えぐれたように、消え失せていた。
 普段のふたりの姿を想えば、それはまさに、張りぼてのごとき虚勢だった。

 ――ああ、敗軍のような有様だなあ、と、私は他人事のように思う。

 そして、これはすべて、八雲の計算の内なのだ。
 彼女は、こうなるように、その口を動かし、その腕を振るった。
 寝床でそう書き上げた絵図を手に、この屋敷にやって来た。
 つまり、勝負は、この目の前に座る、少女のようなものと出会った時から――
 ――いいや、と、私は心の中でかぶりを振る。
 つまりは、そう――

 ――この幻想郷にたどり着いた時から、勝負はすでに、付いていたのだ。

 諦めも、付く。
 付かざるを、得ない。
 酒が飲みたいと――この郷の妖怪達の気持ちが、ほんの少しだけ、分かってしまった。
 だから私は、内心を隠し、その唇を開け――

「それは何時?」

 ――声が、聞こえた。
 八雲が揺れた。勝者の身体が。
 その質問の意味を、私はとっさに理解できなかった。
 しかし、あの八雲が震えたのだ。妖怪の賢者が、この郷の管理者が、私を手玉に取った存在が。
 声の主は、フランドール・スカーレット。
 四人でこちらを取り囲む、『道化』と名乗った吸血鬼にして――ただひとりの、私の妹。
 八雲は突然の、そして、不可解なその問いに答えない。
 ――と、それを見て、

「――あッ」

 そう、思わず、声が出た。
 私の身体が凍り付く。異様な衝撃が背中を襲った。
 ――私は、八雲の仕草から、質問の意味を理解してしまったのだ。
 即座に私はフランを見る――が、しかし四人の内、誰を見れば良いのか分からない。
 その後も八雲は、相変わらずの無言を続け――
 八雲の右隣のフランが言った。

「ねぇ、『かつて』って何時? 『人間と妖怪の蜜月』って、いったい何時のことなの?」

 私の左隣のフランが言った。

「質問があやふや過ぎたかしら? じゃあ、この国でいいわ。この国では、いったい何時から何時までが、『人間と妖怪の蜜月』だったの?」

 私の右隣のフランが言った。

「妖怪がこの国を支配していたのは何時? 取るに足らない人間を、その『圧倒的』な力で蟻のように踏み潰していたのは何時のことなの?」

 八雲の左隣のフランが言った。

「この国で、妖怪が武器を持った人間よりも恐れられていたのは、いったい何時から何時までのことだったの? ――教えてよ、妖怪の賢者さん!」

 八雲は、一言も言葉を発しなかった。
 ただ、彼女は卓の向こう側で、判事の声を聴く被告人のように、その身を堅く停止させていた。
 置物めいた冷たい身体に、能面じみた白い笑み。
 そしてフランは――フラン達は、口を揃えて詩歌のごとく、

「――ねぇ、『貴方が一番幸せだった頃』は何時?」

 ぱきり、と、八雲の仮面の目許が割れ――

「フランッ!」

 私は咆えた。
 ――強く、ただ強く、心の限りの言葉を吐いた。

「黙れッ! 黙れッ! 黙りなさいッ! ……お願い、だから」

 すると、妹達は素直に言う。

「はい、お姉様。そうおっしゃると信じていましたわ」

 ――その後に待っていたのは、あまりに重い沈黙だった。
 私も、八雲も、咲夜も、美鈴も、九尾の狐も――フラン以外のすべての者達は、最低限の事以外、音を立てようとしなかった。
 誰ひとりとして、『気』を残しているものはいなかった。
 皆は、ただ敗者のように、その場所にいた。
 そんな中で、私は八雲に目を向ける。
 彼女は、相変わらず作り物のような薄い笑顔で、こちらの方を眺めている風に見えた。

 ――聞かねばならぬ、ことがあるのだ。

 今、このような状態ではあるが、いや、このような状態であるからこそ、私の中に、生まれたひとつの疑問があった。
 それは、会話の主導権であるだとか、より良い立場の確保であるだとか、そういった、これからの――価値のあるもののためではなく、ただ、ひとりの妖怪として――この郷に来てしまった者として、知らずにはおれぬことだった。
 だから私は、薄く長く息を吸い――
 吐き出すように、それを問うた。

「ひとつ、教えてくれ」

 私は、八雲の目を見て言う。

「お前は、いったい『何で』動いている?」

 ――私は、パリだとか、ロンドンだとか、キョートだとかといった、この『幻想郷』という列車の――お前の目的地を聞いているんじゃあない。
 そんなものは、私にはどうでもいいし、お前は、恐らくそれを決して明かさないだろう。
 だから、お前が、『何で』動いているのか教えてくれ。
 この郷の管理は――あの強力を誇る酒浸りどもの世話は、決して楽なものではないはずだ。

「お前の燃料は何だ? 何故、お前はこれだけの事を続けられる? 高い代価を延々と支払い続けるのは誰のためだ?」

 ――私の見立てでは、お前は普遍の――大多数が支持するような、素晴らしいもののために働いているのではない。
 お前をそうまでして動かすものは何だ?
 お前は何に価値を見出している?
 自己満足か、憐憫か、それとも我らのような、怪奇幻想を並べたがる蒐集欲なのか――

「――それを教えてくれ、そうすれば、私はお前の問いに決断しよう」

 すると、八雲はふたつのまぶたを閉じ――
 ひとつ、ふたつ、みっつ――
 価値があるだろう、わずかな沈黙ののち、静かにその両目を開くと、私の方にそれらを向け、

「――私は、『追憶』で動いている」

 そう、八雲は、私の向こう側を見ながら言った。

「『かつて』は良かった。『かつて』は素晴らしかった。今よりも、未来よりも、『かつて』の方がもっとずっと素晴らしかった――そういった想いで、私は動いている」

 私は、妹と同じことを聞いた。

「『かつて』とは、何時だ?」
「『かつて』とは、『かつて』です」

 ――昔にしかなかったものと、今になって見えたものと、過去にも現在にも、そしてきっと未来にも無いだろうその『もの』を、想いのままに混ぜ合わせた、まさに楽園のような所――

「『追憶』はすべてを受け入れる。それはそれは残酷な話ですわ」

 老婆のような響きでもって、八雲はその言葉を切る。
 私は、深くこの両目を伏せ――転がる石のように、声が出た。

「実は私は、かなりの寝坊助でね。これまでの――外の世界の五百年間は、まるで眠っているようなものだった。しかし、ここに来たショックで、ようやく目が覚めた気がしたよ。だが、お前はまた、私にこの幻想郷で――『追憶』の中で、眠れというのか」

 これまで通りの声で、八雲は言う。

「はい」
「お前のためにか?」
「いいえ、いまだそれに気付かぬ者達のために、そして、薄々それに気付きながらも、目を背けている者達のためにです」
「皆のために、眠れと言うのか」
「はい。それが上に立つ者の――強き力を持つ者の、『義務』であるといえるでしょう」

 ――がぁ、と。
 見る間に意識が沸点を越えた。目の中にあるものすべてが一瞬、紅く光った風に見えた。
 『我を失う』とは、こういうことを言うのだろう。
 同時に、みずからの拳が強く無意識に舞い上がり――そうか、と、私は頭の隅の方で、酷く冷静にそれを思う。

 ――『義務』か、上に立つ者の、強き力を持つ者の『義務』か。

 私は、長卓の向こう側に座る、無力な少女の形のものを、その目で貫かずにはいられなかった。
 ――八雲、お前は、こんな偏狭の地にまで来て、望む望まず追い立てられて、なお、そんな哀れなことを口にするのか。
 惨めな見栄を、意地を、張らねばならぬと言い切るのか。

 ――と、私の頭部に、童女のような、ひとりの妖怪の姿が浮かんだ。

 滑るがごとく、私の口が動き出す。

「そういえば先程、新聞記者を名乗る天狗に、取材のようなものを受けたよ」
「もしかしてそれは、こざっぱりとした洋装の、短い黒髪の少女でしたか?」
「ああ、そうだが……」
「なら、恐らく『射命丸文』という鴉天狗でしょう」
「知っているのか?」
「はい。天狗の中でも、大天狗――上級幹部に匹敵する力を持つ、この郷でも、古い部類に入る妖怪です」
「へえ、新聞作りの方の腕は?」
「確か、彼女らの集落で定期的に行っている大会の順位だと、中の下、といった所でしょうか」
「ああ、なるほど、納得だ」

 ――本当に、『納得』だと思ってしまった。
 私は、震える拳をそのまま下ろし、そして、八雲の方に目を向ける。
 彼女は、相も変らぬ笑みでもって、ただ声もなく、私の姿を眺めていた。
 酷く静かに、私の答えを待っていた。

 ――分かったことが、ひとつある。

 彼女は、私達の敵ではない。
 良い悪いの話ではない。有利不利の話でもない。領土権力の類など、まさに馬鹿馬鹿しい部類の話だ。
 あまりにも、彼女には、敵対する価値が無さ過ぎるのだ。
 ベッドの上で争うなど、服を着ている者のすることではない。無論、寝巻きを脱ぐ気には、当然なれるはずもない。
 私は八雲に意識を向ける。
 もし、彼女も眠り続ける者のひとり――いや、きっと、もっとも深く眠り続ける者だというのなら――私の答えは、もはやひとつしかない。
 だから私は、無意識に、両腕の先を胸の前に集めると、それらの甲を相手に向け――
 深く、長く、隠れ潜むように息を吸い――
 ただ一言、すべてに告げた。

「嫌だね」

 大広間の空気が、見る間に凍り付いたのが分かった。
 長卓の上を緊張が走り、互いの従者が、その得物を操れるよう体勢を変えたのを肌身で感じた。
 そして私は、そんな痺れるような大気の中で、勢い良く席を蹴り――
 熱病のように腕を振るわせ、強く、次の言葉を口にする。

「馬鹿馬鹿しい! まさに『愚行』とはこの事だ! 『人と妖怪の蜜月』? どうして私がそんなものを求めなければならない? いつ私がそれを望んだ? そこまでつまらないものを、この郷の連中は本当に望んでいるとでもいうのかッ?」

 すると八雲は、出会った頃の声でもって、

「はい。望んでいると、私は信じています」
「――ああ、まさしくお前の言う通りだろう。確かに哀れなことだ。本当に――惨めなものだ。なんという女々しい連中だろう。こんな愚かな酔いどれどもなど、私が支配する価値もない。私は抜けるぞ。あまりにも馬鹿馬鹿しい。後は、お前の好きにするがいい。この郷に私が望むものなど、何ひとつとして無いのだからな――」

 ――いや、と、私は言葉を強く繋げる。
 私がこの幻想郷で望むもの――それは、ひとつだけ、あるのだ。
 今の私にぴったりな物が。もはやそれしか無いと、言い切れるような存在が。
 ゆえに私はただ強く、酷く雄々しくこう述べる。
 そう、それは――

「――『納豆』だッ!」

 『えー』と、凍った空気が、おかしな形に割れて砕けた。
 部屋の温度が急速に変化し、緊張感が見る間にたわむ。
 しかし私は、それに構わず、

「お前は言ったな、酒を喰らうものだと、この郷を滅ぼすものだと――だが、そんなことは私にはどうでもいい! 一目見て分かったのだ! 『運命』だよ! これこそ私に相応しい食材だとな!」

 すると、四方のフランが同時に鳴いた。

「素晴らしいですわ、お姉様!」
「あんな腐った豆に目を付けるだなんて!」
「好き好んであれを召し上がろうとは、もう、『さすが』と言う他ありません!」
「でも、私のお皿には絶対に盛らないで!」

 そして八雲が、無言でその手の扇を振るい、四度、虚空に切れ目を入れた。
 彼女はそこから、一枚の平皿を取り出し、長卓の上にそれを置く。
 見ると、皿の上には、親指程度の大きさの、『ノリ』と呼ばれる黒い海草の紙と、白いコメでもって器用に巻かれた――
 八雲が言った。変わらぬ声で。

「これは、『納豆巻き』と申します」
「ナットーマキ? もしかして、この形、このデザインはまさか――」
「はい。ありていに言えば、『寿司』ですわ」

 「OH!」と一声、私は咆えた。

「ジャパンの名物『SUSHI』にもなるのか、ならば、この郷の妖怪達が敗北するのも頷ける!」

 私はその、白黒のものに、かすかに震える片手を伸ばし――

「手づかみでどうぞ。味は付いていますから、そのままで」
「どうも」

 ひとつ私はそれを手に取り、迷わず口内に放り込んだ。
 次いで、ひと噛み――
 すぐに私の歯に、舌に、鼻腔に、それが当たった。

 濃いショウユの匂いがした。
 続けざまに腐敗臭が、私の鼻の奥を内側から殴った。
 ぬるぬるとしたものが、歯のすべてに絡み付く。
 ゆで過ぎた大豆の食感がした。

 喉の底から、熱いものがこみ上げる。
 しかし、それらのすべて飲み込んで、晴れやかな声で、私は言う。

「――ああ、やはり、これこそ私が望んでいた物だ。待望の品だ。素晴らしい。こんなものに出会うことができようとは――それだけでも、この幻想郷に来た甲斐というものがあった」

 その後、交換だ、と、私は告げる。

「こんなつまらぬ戦いからは手を引こう。お前の言うゲームにだって、プレイヤーとしてなら、参加してやろう。ただし――」
「分かりました。貴方がたが、こちらの生活で必要な物資、そして――」

 八雲はニコリと笑みを浮かべ、

「津々浦々、我が国が誇る納豆の数々を、お送りする事を誓いましょう」
「素晴らしい! ――だが、それだけでは足りないな」
「はい?」

 目の前の白面が、初めてだろう、不可解そうにその形を崩した。
 ――どうだ、この『程度』で終わるかよ、と。
 その仕草に強い優越感を感じながら、私は続きを口にする。

「ただ喉を開いて美食を待つのは、ガチョウのする事だ。我々が知性ある存在ならば、一歩、その先に進まねばならない」
「はあ、それはつまり――」

 八雲の目に、困惑のようなものが確かに宿る。
 ――『そうだッ!』と、私は強く叫んだ。

「咲夜ッ!」
「はい!」
「最高の納豆を作り上げるのは我々だ! 大豆の選定と調理は、お前に任せた!」
「お任せください!」
「美鈴ッ!」
「はい!」
「お前は藁だ! この幻想郷の果ての果てまで駆けずり回り、いや、世界中の藁を手にとって、納豆に最良のものを見つけ出せ!」
「お任せください!」
「――後は、まあ、我が家が誇る無駄知識の巨頭、この郷に来た事すらまだ気付いていないだろう、学者大先生サマにお出まし願えば、何とかは、なるでしょう」

 最後に私は、その両目を八雲に向け、

「以上だ。私が、最高の、そして最強の納豆を作るのに協力する、それが条件だ。いかがかな?」

 すると八雲は、多分もう二度と見られないだろう、きょとんとした目許を元のものに戻すと――
 なんというか、何故か喜びすら感じさせるような、酷く華やかな響きでもって、

「はい、承知しました。世界各地の、そちらが望む藁と大豆をご用意致しましょう」
「素晴らしい!」

 私は力の限り両手を広げ、その歓喜の意を辺りに見せる。
 それから振り付けの一部のように、颯爽と椅子に腰を下ろすと、

「――さて、私はこれから忙しくなるのだが、まだ、他に何か用はあるかい?」
「いえ、これですべてでございます」

 そうか、と、私は素っ気なく口にする。
 その後、会話の終わりを示すよう、八雲は優雅に席を立ち――
 付け足す風に、彼女は言った。

「レミリアさん」
「なんだい?」
「私は、この『式』という技術を極めました。私以上の者はいないと、この口でもって言い切れます」
「……どういう意味だ?」
「ですから、貴方がどのような道を歩まれるのか、私には、とんと想像も付きませんが――」
「きっと、ネバネバした道だろうよ」

 私の軽口に、ほう、と、八雲は軽く目を閉じると、その手の扇で口元を隠し――

「――『期待はするよ、心から』」

 それの向こう側から、これまでのものとはまるで違う、どこかで聞いたような、違和感のある響きを発した。
 八雲の奇妙な言動に、私は頭に疑問符を浮かべ――
 びくり、と、隣のふたりが――咲夜と美鈴が、強く震えた。
 その仕草で、はっと、ようやく私は理解する。

 ――あれは、私の声だ。

 四六時中聞いてはいるが、恐らくきっと、あれは私のものに違い無い。
 顔が歪もうとするのを押さえるのに、酷く苦労した。
 それは、八雲の腹の内を、一から疑い直さなければならないほどの、あまりに強烈な行為だった。
 ――つまり、彼女は、人間だけでなく妖怪すらも再現できる、その奇蹟のような技術のごとく、私に――『納豆』というものを極めろといっているのだ。
 こんな、腐った豆の製造を、自分がいる高みにまで、押し上げろといっているのだ。
 一度吐いたからには、どうあっても、魂を懸けてでも、絶対にやり遂げてもらう。安心しろ、まったく同じ代わりは、いくらでも作れるのだから――それは、そういう意味だった。
 ああ、まったく――私は思う。

 ――馬鹿笑いをするのは、今しか無いと信じたぐらいだ。

 本当に、泣き出したいぐらい馬鹿らしいので――
 馬鹿にするな、と、私は歪む。
 だから私は、恐らく、先程とまるで同じはずの声で、ジョークのごとく、軽やかに。

「――ありがとう。『あんた』の思い通りになるかは、まるで想像も付かないが、遊戯を楽しむ子供のように、努力だけは致しましょう」

 そして夜を終え、朝を迎えた大広間、私達は笑顔でもって――

「失礼いたします」
「ああ、さようなら」

 お客様のお帰りだ、と、左右のふたりに私は告げた。










                  - 7 -


「――とまあ、それから私は『納豆』を食べ始めるようになったんだよ」

 そう、光差す部屋の窓際で、納豆をかき混ぜる手を止めて、世間話のようにレミィは言う。
 私は円卓の向かい側で、ただ、その言葉を静かに聞く以外なかった。
 ――何と返せば、いいというのだ。
 『納豆』――それはあまりにも、レミィにとって、一言では言い表せないぐらい複雑なものであったし――
 何より、親友がそのような状況に陥っていたというのに、まるでそれに気付かず、書斎の奥で変わらぬ平穏な日々を送っていたという、我が身に対する罪悪感というものが、言葉を縛るほどに強かった。
 しかし、レミィは平然とした顔で、

「まあ、これできっと最後なんだけどね」

 ――は?
 言っている意味が分からない。『最後』とは、どういうことだ?
 するとレミィは、その手の小鉢をこちらに見せ、

「この納豆はね、パチェも知ってる通り、『地上と宇宙の境界』で取れた、特別な納豆菌を使って作った物なんだ」

 ――うー、少しは違った味がするかと思ってたけど、別にそんなに変わんないねぇ。
 まあ、そんなもんか、と言いながら、レミィはそのまま納豆を、白米などの助けも借りず、ぱくぱくと器用に箸で口の中に運び――私は混乱する頭を制御しながら、素早く思考を躍らせた。
 ――レミィの中で、何か結論が出ているのだ。
 レミィは、あの納豆を『特別な物』だと言った。
 確かに、あの納豆菌が私の培養した――月に行った時のものだとすると、『地上と宇宙の境界で取れた』――そう表現しても、おかしくは無い。
 地上のものではない、滅多に手に入るものではない、ゲテモノ趣味の咲夜が好みそうな――『稀少品』。
 だから、『特別な物』である――そう呼んでも、不自然では無い。
 だけど、しょせん納豆菌は納豆菌だ。大豆を発酵させる程度の能力の、枯草菌という細菌の一種に過ぎな――
 ――と、そこで私は、何か強い引っ掛かりを感じた。
 それはどこかで――偉大な誰かの実験で、聞いたことのある名前だった。
 すぐさま私は、膨大な脳内の書物を開け――

「――ねぇ、パチェ」

 それを強く遮るように、聞き慣れた響きが耳に届く。
 私は無論、そちらの方に意識を向け――
 レミィが納豆を食べる手を止めて、ネバネバした唇を開いた。

「パチェは、『胚種説』って知ってる?」

 その意図の分からぬ突然の問いに、しかし私は、当然よ、と言葉を返す。

 『胚種説』又の名を『自然発生説』――それは、『万学の祖』アリストテレスが提唱した、生命の起源に関する学説だ。
 この世界には、生命の基礎となる『生命の胚種』が満ちていて、それが物質に宿ることによって、新たな命が誕生する。
 だが、それは私達『魔法使い』にとって、単に生命に関する事柄だけでは収まらない。
 魔力、気、マナ、プラーナ、プシュケーおよびプネウマ――呼び名は様々ではあるが、目には見えない、しかし命を育むことができるほどの強大で無形の力が、この世界には溢れている――
 だからこそ、ある一部の存在が、それを能力でもって、方法論でもって、行使することができるからこそ――
 それでもって、四元素、五大、陰陽五行――この世界の構成に影響を与えることができるからこそ――

 私は言った。誇りと共に。

 ――すべての基盤よ。その理論が『正しい』からこそ、超常の技術――『魔法』というものは存在できる。

 するとレミィは――しょせん小鉢だ――納豆のすべてを口内に納め、良く噛み、そしてぐっと喉の奥に押し込むと、顔を伏せるような、その体勢のまま、

「――だけど、武術家の上泉信綱は、ライスボールを叩き付けて強盗を退治した訳ではないし、『猿蟹合戦絵巻』は、蟹の親子と猿の、子供向けのおとぎ話だ。それにケワタガモは良質な毛綿が取れる鴨の一種に過ぎないし、白猿は、ただの色素欠乏の猿でしかなかったんだ」

 ――何を言っているのだ、レミィは?
 独り言のようなその声に、いらいらとしたものが胸の奥底に溜まっていくのが分かった。
 だから私は、親友に向けるべきでない、酷く良く無い音で問う。

 ――レミィ、私に何が言いたいの?

 レミィは顔を上げて言った。

「ありがとう」

 ――びくり、と、身体が揺れた。
 その唐突で不可解な台詞に、自分の表情が見る間に歪んでいくのが理解できた。
 レミィの目には知性があった。見た目通りの女児のものでは決して無い、深く年老いた存在のそれが。
 そしてレミィは、齢と経験を重ね、言葉を重くしてしまった者の声で、

「始めは意地で食べてたよ。――辛かった。本当に、辛かった。こんなものを食べる連中の気が知れなかった。それだけでも、『幻想郷の妖怪達から恐れられている』と言われて、納得できたぐらいだよ。なのに、毎日嫌がらせのように送られてくる津々浦々の納豆ども――頭がおかしくなりそうだった」

 ぷしゅり、と、レミィの首筋から、濃い霧のようなものが鋭く漏れた。
 しかしレミィは、血のように紅いそれに構わず、酷く淡々と言葉を続ける。

「だけど――まあ、良かれ悪かれ、大抵のことは受け入れられるもんさ。ここでの生活と同じようにね。私は次第にそれに慣れ――そして、その頃には多くを知り、ようやく気付けたよ。これは確かに、八雲が言うほどのものだとね」

 音を立てて増え続ける紅霧の傷に、何ひとつ変わらぬレミィの声。
 ――いやなものが、全身を走った。
 知識や理論に裏付けられたものだけではなかった。
 それらから大きく外れた、あまり委ねるべきではない動物的な感覚――『直感』というものが、私に何か、震えるようなものを告げていた。
 酷く欲求から外れたものを、無理矢理押し付けられるような気がする。
 私の息を浅くする、とても重要なことが始まろうとしている。
 何か、私の知らない現象が、これから起こるに違いない。
 無意識にだろう、私は助けを求める風に、自分のカップに手を伸ばし――

 ――ぬるり、と。

 取っ手に触れた指先が、濡れたような、『なにか』で滑った。

「生命力、繁殖力、耐久力、そして紫外線――『日光』に対する凄まじい耐性。しかし何より、適応、共生、循環――目には見えずとも、手では掴めずとも、その存在を決して否定できない圧倒的な『実在性』。――私は、空想のごとき愚かなことをやる気になった」

 静かに流れるレミィの声。音も無く転ぶ私のカップ。
 あまりに予想外な感触に、弾かれるように私が手の先を引くと、そこには――私の指先と取っ手には、ぬるぬるとした、水槽の奥底を思わせるような奇妙な液体が、強くべったりと付着していた。
 ねちゃり、と、わずかに紅く、糸を引くほど粘度の高いそれを見て、私の中の『感情』というものが、ひさしぶりに動いた気がした。
 ――なんか、ネバネバしてる。
 不可解な、正体の分からない粘液が、私の身体に付いている。
 ――ものすごい、ネバネバしてる。
 今まで居なかったはずの存在が、知らぬ間に私の側まで近付いてきている。
 ――いやだ、落ちそうにない。
 もう、『なにか』は、起こっている。
 ――いやだ、いやだぁ……。
 私は思った。

 ――あまり、『魔法使い』を舐めるな、と。

 すぐさま私は感傷を切り離し、周りに視線と意識を向けた。
 見れば、皆のカップは、食器は、この状況を見通していたかのようなジョークのきつい朝食は――円卓とその上に並ぶもの達は、薄紅色のそれによって、すでにその大半が覆われていた。
 特に、レミィの周りが酷い。紅色がはっきりと分かるほど、その濃度が濃くなっている。
 ――いや、と、私は気付く。
 確かにそれは、レミィの身体を中心として、その勢力を広げていた。
 レミィに何らかの原因があることは、辞書を開くよりも明らかだった。

「地上のものは、多分あらかた制覇した。そして今、『地上と宇宙の境界』の――『最も遠い』ものも、この身に入れた」

 一定のリズムで刻まれる声。私はレミィに意識を向ける。
 するとレミィは、ねちゃり、と、紅く濡れた箸と小鉢を、テーブルの上に揃えて置き、

「フラン、咲夜、美鈴、それにパチェ」

 そう、私達の名をひとりずつ口にして、噛み締めるよう、レミィはその続きを吐く。

「貴方達がいなければ、私はここまでたどり着くことができなかっだろうし、何より、きっと、ここまで持たなかったと思う」

 その姿に似合った、きっと子供にしかできないだろう、酷く澄み切った笑みを浮かべるレミィ。
 紅い霧がぴたりと止んだ。身体の傷が見る間に癒えた。
 そしてレミィは、老いた瞳をそのままに、ぐるりと皆に視線を送ると――

「まあ、つまりアレだよ、何が言いたいのかっていうと――」

 主役のように、ただ強く――

「――レミィ、貴方に聞きたいことがあるわ」

 と、いつもの声で、私は告げた。










 ――さあ、『私』の話を始めよう。
 他の『誰か』では決して無い、『私』のための、『私』の話を。










                  - 8 -


 もし、これが一幕の劇ならば、ようやく私は、舞台に上がることができたのだろう。
 場面は朝、朝食の時間。
 太陽の恵みを存分に得られる一室の、しかし別のもので紅く染まってしまった円卓には、私――パチュリー・ノーレッジ、レミリア・スカーレット、十六夜咲夜、紅美鈴の四人が並ぶ。
 そして、それらの椅子の後ろには、同じ数のフランドール・スカーレット。
 この、五人かつ八人の中で、仲間外れは私だけ。
 私だけが、『部外者』と呼ばれる立場にいる。

 ――しかし、それがどうした、と、私は思う。

 私はその舌でもって、指先の粘液をペロリと舐めた。
 酷く自然に。嫌悪感は無い。
 何故なら、『訳の分からないものがあれば、取り合えず舐めてみる』――それが私達、真理を探求する者のやり方だからだ。
 そうやって、私達は新しいものを見つけ出してきたし、たまにのたうち回ったり、死んだりもしてきた。
 それが、『私達』だ。魔法使い、錬金術師、科学者――呼び名は様々なれど、知に魅せられた、『学者』という存在だ。
 ――それに、と、私は笑う。
 相手の都合を――長く厚く積み重ねてきたものを、好きなだけ無視して正論を吐けるのは、『部外者』の特権だ。
 これ以上、主役の似合う立場があるはずが無いではないか。
 ゆえに私は、はっきりとした聞き取りやすい声で、卓の向こう岸のレミィに告げた。

「レミィ、これは何なの?」

 濡れた私の指の先には、紅く染まった円卓の一部。
 甘く無く、塩辛く無く、酸味も無い、わずかに苦味を感じる風な、薄紅の奇妙な液体。
 確かにレミィは、自身の才能か、吸血鬼の能力か、紅い霧状のものを自在に操ることができる。
 それでもってレミィは、ちょっとした迷惑行為や、弾幕ごっこ等に勤しんできた。
 しかし、その霧は当然、糸を引くほど高い粘度を有してはいなかったし、それ以前に、吸血鬼の性質通り、物を濡らせるような――みずからが嫌う流水を生み出せるようなものでは、決して無かったはずなのだ。
 つまり――と、これまでとは一転、役者の声でレミィが言った。

「――『これは何か?』。パチェ、貴方は私にそう聞くのかい?」

 卓の上から私の顔へと、レミィは滑らかに視線を動かし、演技のように、その口元を大きく歪めた。
 幼い子供のものとは違う目が、老い衰えたものとは違う目が、私の瞳を強く捉える。
 すぐさま私は、言葉を返した。

「……質問が不適切だと言いたいの?」
「いや、とても適切だ。私はパチェ、貴方の知性を疑ったりはしないよ。ただ、貴方が私にそう聞くならば、私は貴方に、酷く味気の無い答えを返すしかなくなる」
「では、まずその『味気の無い答え』とやらを、聞かせてもらえるかしら」

 ――ふむ、と、レミィはその人差し指を、額の辺りに軽く押し当て、

「確か、『バイオフィルム』で合ってると思う。こちらの言葉では、『菌膜』だったかな? うん、多分。――細菌と、その分泌物によって形成された膜状の構造体、つまりコロニーだよ。ものすごく簡単に言えば、『ネバネバ』さ」
「それが何故、突然こんな所に?」

 私の声に、人差し指がぺきりと折れた。
 そして渋い顔で、レミィは言う。

「……うーん、悪いけど、そこまでは説明できないね。『生物』には疎いんだ。一応これでも勉強したんだけど、こちらには、あんまりそういう資料もなくてね。推測はできるんだけど――専門用語とか覚えるのめんどくさいし、だけど専門用語使わないと、この国では『アリガタミ』ってのが無くなるらしいし――やっぱり、脳に頼らないとダメかな? 暗記はとっても楽しくない」
「――つまり、何が言いたいの?」
「ここから先は『生物』の領域で、私には、それに答えられるだけの『知識』が無い」

 ――いえ、と、レミィは笑う。

「これを筋道立って答えられる『生物学者』がいるのかな? これは『生物』の範疇だけど、その常識からは、あまりにも逸脱してる」

 そう言って、レミィはその目をテーブルの上――私のカップへと向けた。
 私も視線をそれに合わせる。
 見れば、カップの中身――糖分の多い液体は、転んだ容器に寄り添うように、小さな円を描いていた。
 飲みやすい粘度で無いことは、源義経がチンギス・カンであるぐらい、いや、源為朝の子が琉球の祖・舜天であるぐらい明らかだった。
 そして私は、みずからの思考を口にする。
 その方が、この、舞台の上のような紅い空間には似合っている、そう、私は確かに信じたからだ。
 さて――

「――レミィ、貴方は『The 5W’s and 1H』をご存知? 五つの『W』とひとつの『H』――『質問』の基本よ。すでに、『何』は聞いたわ。『何故』と『どの様に』は、『説明できない』と貴方は言う。そして、『何時』は今この時であるし、『何処』はこの場所に違いない。これで残っているのは『W』がひとつ。――ああ、そういえば貴方、さっき私に『これは何か?』と聞き直したわね。とすると、信じられないことだけど、私はレミィ、貴方にこう聞かなければならない――」

 私の指が、再び躍る。
 指す場所は同じくテーブルの上、私のカップのある辺り。
 それは、甘味、酸味、塩味、苦味――四味をほとんど感じない、まるで無から生まれた様な、紅味を帯びた奇妙な粘液。
 息を吸い、軽く吐く。
 そして私は、一拍間を置き――恐らく、決定的だろう台詞を口にした。

「レミィ、これは『誰』なの?」

 親友は平然と答えた。

「『私』だよ」

 ――予想をしていたとはいえ、ざくりときた。
 しかし感傷は別の所に置いてある。すぐさま私は言葉を返した。

 ――コン、コン。

「それは、これが貴方の身体から生み出された――」

 ――コンコンコン。

「その、貴方の肉体から分離した一部、つまり分泌物だとか、そういったものだという――」

 ――どん、どん、どん。

「だから、そういう意味? いつもの霧に代わるというか、それとも――」

 ――どんッどんッどんッ。

「ああもうッ、うるさいッ!」

 さすがの私も限界だった。
 私は勢い良く背後に目を向け、震える扉を視線で突き刺す。
 まったく、いったい誰だ――

「――ヒトが大事な話をしてるって時に、『次第に強く』を忠実に守るようなクラシックで間の悪い馬鹿は!」
「ウチのメイド達がマトモに働く訳がありませんし、無断でこんな所まで入り込んだくせに、最後だけは無遠慮にノックするような図々しさ――いつものブンヤでしょうか?」

 ――ああ、と、咲夜のその言葉に、私はテーブルの上の新聞を見た。
 内容と同じく紅味の薄いそれを目にし、私はその発行者――手慣れた笑顔を貼り付けた、短い黒髪の鴉天狗を思い出す。
 そして――うん、なるほど――深く納得した私は、再び揺れる扉に目線を向けた。

「もしそうなら、喜んで購読を控える程度の、心のこもった宣伝ね」
「まあ、ヒトの嫌がることを喜んでするのが、カラスというものですから」

 そう言って、無礼な訪問者の対応のためだろう、咲夜は椅子から立ち上がり――

 ――トン、と。

 扉を叩く軽い音。フランの手によって両肩を押され、彼女は再度、円卓の人となった。
 『罰ゲーム、いまだ効力を失わず』――恐らく、そういうことなのだろう。
 ゆえに、咲夜はその顔を少々困惑に染めると、『代わりに』という意味を込め、美鈴の方に視線を送り――
 しかし美鈴は、まるでそれに気付かぬ風に、

「――いえ、違います。これはあの天狗の『気』ではありません。それ以前に、今の今まで、まるで『気』配を感じな――いや、これはッ?」

 美鈴の表情が、見る間にその意味合いを変えた。
 次いで彼女は、席を立つ代わりに鋭くレミィにその目を向け――親友が、酷く落ち着いた声で言った。

「まあ、誰が来たのかは知らないけれど、こんな時に来るヤツなんて、ただのひとりしか居やしない」

 それからレミィは、椅子に軽く背を押し当てると、酷く愉快そうにその口元を歪め――

「そうさ、『運命』が来たのさ」

 ――そうだ、『運命』が来たぞ。

 ざわり、と、円卓が揺れた。
 私と咲夜と美鈴の目が、すぐさま扉の方へと向きを変えた。
 板越しでも当然のように分かった。その声は、私が――私達が、間違いなく知っているものに違いなかった。
 無論、天狗のものであるはずがない。

 ――さあ、扉を開けろ、扉を開けろ、『運命』が来たぞ、『運命』が来たぞ。

 繰り返される同じ音。再開される荒いノック。
 震える扉と空気を背に、私は目線と意識を正面に戻すと、この場で一番『それ』に詳しいだろう、渦中の友に問いを吐く。

「レミィッ、これは一体どういうことッ? まさか貴方の――」

 するとレミィが、目を丸くして言った。

「……驚いた。本当に『運命』が来たぞ」

 ――そうだ、お前達の『運命』だ、お前達の『運命』が来たぞ、この扉を開けるがいい。

「だ、そうだ。――ああ、まったく、そんな『もの』が来たのなら、ここに迎える以外に無いではないか」

 そう言ってレミィは、くくく、と、喉の奥から搾り出すような笑い声を上げ、

「ならば、私が行きますわ」
「私が私のこの手でもって、あの扉を開きましょう」
「私が私の想いでもって、彼女を部屋に招きましょう」
「誰の許しも是非も無く、『誰か』をここに立たせましょう」

 フランが椅子から身体を離した。フランが扉に足を向けた。
 フランがドアノブに片手を当てた。フランが大きく両腕を広げた。
 それからフランは、その言葉通り、みずからの意思と力でもって、ゆっくりと扉を開け――

「――一応、自己紹介をしておこうかな」

 そう、扉の奥から、酷く聞き慣れた声がする。
 金糸の間に銀糸が通った。新たな紅が紅の中に増えた。
 青の混ざったような白銀の髪を揺らし、彼女は優雅にフラン達の招きに応じると、そうさ、と、その口の端を深い笑みで染め――

「この私こそ、『刃のごとき犬歯の貴族』――」

 ――淡い、紅色の両袖が躍る。

「『血税を搾り取る強欲な領主』――」

 ――ふたつの腕の先が、胸の前で奇妙な形を作る。

「『二十世紀の夜の王』――」

 ――コウモリにも似た、一対の羽が大きく広がる。

「そして――」

 ――紅い霧が、手から溢れる。

「『怪力無双』、『変幻自在』、『神出鬼没』、しかし、『夜明けと共に消え去る者』――」

 ――『吸血鬼』、と、彼女は述べた。
 濃い紅霧が室内を覆う。四人の同族がひとりを彩る。
 次いで彼女は、背丈の変わらぬ少女達の中、薄紅色のスカートの端を小さくつまむと、礼儀にかなった動作と共に、姿に似合った幼い声で――

「私の名はレミリア。――レミリア・スカーレットと申します」

 そう、まさしく私の親友は、確かに私の知っている名前を、丁寧に、私が聞いたことのある響きで告げた。





 ――私の、私の百年余りの人生で、間違いなく『キレた』といえるのは、それが恐らく――『ふざけるな』。





「さあ、『運命』が来たぞ、『運命』が来たぞ、まごうこと無き『運命』が来たぞ」
「『運命』が来たか、『運命』が来たか、まごうこと無き『運命』が来たか」

 紅く染まった円卓を挟み、ふたりのレミリア・スカーレットが交互に謳う。

「『どちらかが偽者だ』なんて、単純な話では無いのでしょうね」

 ――はい、と、咲夜の呟きを美鈴が捉え、

「どちらのお嬢様の『気』配も、お嬢様のもので間違いありません。というより、今の状態であれば、新たに入ってこられたお嬢様の方が、元々のお嬢様の『気』に近い」
「ええと、それはつまり――」
「――そんなことはどうでもいいッ!」

 ――どん、と。
 ふたりの会話をさえぎる風に、私の両腕が強くテーブルの板を打った。
 ぐちゃり、と、円卓の上の粘液が跳ね、その勢いに引かれるように、私は鋭く席を立つ。
 私は理解したのだ。この話の本質を。あまりにふざけた――そうだ! あまりにもふざけているのだ!
 私は咆えた。力の限り。

「分かった! 分かったわよレミィ! こいつが全部、貴方の馬鹿げた『喜劇』だってことはね! 新しい貴方が誰の差し金かは知らないけれど――ねぇ、レミィッ! 貴方はこう言いたいんでしょ!」

 思考が跳ねた。頭脳が躍った。
 変質した親友に、新たに現れた同じ存在、そして投合するふたり、それは、つまり――

「――『代わり』が来た! 『代わり』が来たって!」

 扉の前から卓の端へと――レミリアからレミィへと荒く視線を動かし、私は叩き付ける様な勢いで、「ふざけないで!」と、

「……ええ、そうよ、確かに私は肝心な所で役に立てない間抜けな引きこもりよ、それは間違いないわ、認めるわ、でも、だからといって――ここまでされるいわれは無い!」

 ――ヒトをあんまり舐めないで! この私が、名も無い端役のように大人しく演技を眺めているとでも思ったのッ?

「なんでッ! この私がッ! あんたにッ! 名も無い端役のように扱われなくちゃならないのよ!」

 ――こんな寸劇をしてないで、はっきり言えばいいじゃない! あんたがどんな愚かなことをしたって、どんなものになったって、いまさら私の評価が変わるとでも思ってるのッ? 『代わりを用意しましたので、どうぞよしなに』? ――馬鹿にするなッ! どうあがいても、あんたは私の親友よ!

「いいからさっさと本題を言いなさい! こんな回りくどい胡乱な話は、あんたの昔話だけで十分なのよ!」

 ――どん、と。
 再び私の両腕が、強くテーブルの上の粘液を打った。
 頬に掛かるほど派手に飛び散るそれを無視し、私はその両眼でもって、卓の向かい側のレミィを刺す。
 わずかに目を丸くし、その身を硬直させるレミィ。私は新たな言葉を撃つために、鋭く速く息を吸い――

「――うん、まさしくその通りだ」

 そう、私の後ろから声がした。
 すぐさま私は背後を見る。
 すると、扉の前のレミリアが、やはり聞き慣れた響きでもって、

「あんたには申し訳ないが、私はパチュリーの肩を持つよ。綺麗に終わらせたい気持ちは分かるけれど、確かにこのやり方は、親友に向けるものとしては少々敬意が足りていない風に感じるし、何より――『私はパチュリーの言い分の方が好き』なんだ。礼儀よりも、是非よりも――遅れて来た『部外者』の私ならば、当然のように、そう思う」

 ――もちろん、あんたも同じ意見だろう、私が思うんだ、決まってる。
 そう言って、口元を歪めたもうひとりのレミリアは、胸の前に構えたその両方の手の先から、さらに勢い良く紅霧を溢れさせ――

「だから――言わなくても分かるだろう!」

 その叫びと共に、濃霧は一瞬にして、棒状に、槍状に、レミィの得物――いや、『命名決闘法』が、『ごっこ』と呼ぶに相応しい『遊戯』ならば――それはレミィの、『お気に入りの玩具』へと姿を変え――
 レミリアが言った。レミィに対し。

「『あんた』が、『私』で『あった』なら――なぁッ!」

 ――そこから先は、あまりにも早かった。

 紅々とした閃光が一直線に走り、その残り火が室内を紅く染め上げた。
 原始的な楽器のごとき、酷く清んだ音が私の耳を貫いた。
 レミリアが、その片腕を勢い良く振り下ろした。

 紅い霧で出来た、宝石のように光り輝くその槍は、私のすぐ側――手を伸ばすまでも無い距離を通り抜け、円卓を走り、上に乗っていた物共々それを粉々に破壊すると、迷わずレミィの胸元へと突き刺さり――

「ぎゃおーッ?」

 祖となる領主の二つ名のごとく、その身を串刺しにされたレミィは、安い人形のように軽々と椅子から吹き飛ばされ、直線を描くよう宙を舞うと、そのままの勢いで、部屋の外へと姿を消した。
 ――あまりの展開に、さすがの私も唖然とする。
 取り合えず私は、ホコリとスパムがべっとりと付いた身体のまま、レミィが飛んでいった先――テラスの方へと目線を向け、それから再び、まだ部屋の中にいる方のレミリアへと――
 振り向いた瞬間、彼女が居た。

 ――びくり、と、粘液に塗れた身体が震える。

 しかし、もうひとりのレミリアはそれに構わず、濡れた私の肩に手を置くと、酷く見慣れた笑みのまま、

「さて、パチュリー。私の『役』は、取り合えずここまでだ。後はよろしく。あいつの様を、見届けてやってよ」

 その聞き慣れた響きが、私の中の空白を消した。
 すぐさま私は、離れようとするレミリアの手を捕らえ、強い意思と言葉でもって、ただただ強く彼女に問う。

「待ちなさい。貴方にも聞きたい事があるわ。貴方は誰なの? レミィのそっくりさん? 八雲紫の玩具? それとも――」
「――『お前は誰だ?』。パチュリー、貴方は私にそう聞くのかい?」
「レミィのようなことを言わないで! ……ええ、分かったわよ、こう聞けば良いんでしょう?」

 既知の相手の先の見える会話に、私は早々に言葉を変える。
 道化のごとき彼女に対し、感情を叩き付けることがどれだけ無意味か――それが分からぬほど、私は冷静さを失ってはいない。
 ゆえに私は、諦めと共に息を吸い、軽く吐き、その後、ほんの一拍の間を置くと――
 前と同じように、しかし、先程とは逆の言葉を口にした。

「レミリア、貴方は『何』なの?」

 彼女は平然と答えた。

「『あいつ』とは、『違う』ものさ」

 ――予想外の回答に、ざくりときた。
 そうさ、と、まるで親友と同じものが言う。

「『あいつ』は、あの亡霊とか、小鬼とか、月人とか、武神とか、不良天人とか、記者じゃ無い方のカラスとか、魔法使いな僧侶とか、聖人君主な仙人とか、その他諸々の連中とは、まるで『違う』のさ」

 大量に並べられたそれらの人物に、すぐさま私は共通点を見出す。

「『異変』の首謀者達ね」
「ああ、そうさ、『命名決闘法』――『弾幕ごっこ』の主催者達さ」

 強い意図のある言い直し。
 私は即座に言葉を返した。

「レミィは、『そうでない』と言いたいの?」

 ――それは、明らかな誤りだった。
 『命名決闘法』――『弾幕ごっこ』による異変を起こしたのは、レミィが間違いなく最初のはずなのだ。
 少なくとも、世間一般ではそういうことになっているし、レミィの昔話からも、そうであろうと読み取れる。
 無論、私の知識でもそうだ。

 ――何より、レミィがそれを起こしていない訳が無い。

 何故なら、レミィの『異変』の時、私はそのただ中に居たのだ。
 一参加者として、それの終わりまで、役を勤めた。
 つまり、その分類ならば、今並べられた者達の中に、レミィは入って当然の存在なのだ。
 入らなければ、おかしいはずの存在なのだ。
 しかし、レミリアは小さく首を振り、

「――大切なのは、『行動』なんだよ」

 そう、彼女は、あまりにも穏やかに告げた。

「内心なんて、どうでもいいんだ。『そうでなくてはならない』んだ。読心の三つ目など、地中に押し込めて置けば良い。すべては、『何を為したか』だ。これは一人称の小説じゃあないんだよ、パチュリー。その口でもって、その身でもって、みずからの思考を証明しなければ、誰もそれが分からない。『分かってしまってはならない』。たとえ、『何』を考えていようとね」

 ――あ、そうそう、と。
 レミリアは、どこからともなくカード状の物を取り出すと、爪で何かをさらりと刻み、その札を私にゲームの如く手渡した。
 私はそれに目を落とし――

 ――ぎしり、と。

 私の中で、親友と同じように、何かが大きく歪んだのが分かった。
 即座に私はレミリアを見る。
 すると彼女は、特に想いもためらいも無く、

「そいつは、話の中では曖昧にしていたけれど、八雲紫が受け取ったのと同じものだよ」

 ――一番良い時に、あいつに言ってやるといい。きっと喜ぶ、うん、多分。
 そう言って、レミリアは私の手から離れると、コウモリにも似た一対の羽をこちらに向け、再び来た道をゆっくりとたどる。
 同時に、フランのひとりがドアノブを掴んだ。
 音も無く開かれる重い扉。今度は、私も止めようとはしなかった。
 『直感』というものが告げていたのだ。今の彼女を押し止めることなど、もう、どうやっても出来ない、と。
 ――それに、と、私は思う。
 私は――私は遂に、この話の『全貌』を掴んでしまったのだ。
 『レミリア・スカーレット』について知らなければならないことは、少なくとも最低限、教えられてしまった。
 だから彼女は、円卓を――『舞台』を破壊し、その『役』を降りようとしている。
 ならば、彼女を止められる道理は無い。
 そしてレミリアは、来た時と同じように、四人のフランに彩られながら扉を潜り――

「――あ、忘れてた」

 五組の羽がぴんと張る。
 次いで彼女は、身体をねじ曲げるようにしてこちらに振り向くと、付け足す風に、いつもの声で、

「『罰ゲーム』は終わりだよ、咲夜。そろそろ、自分の手足で動くといい」

 その後、小さな響きと共に戸は閉まり――

 ――トン、と。

 再び扉を叩く軽い音。同時にフランが――フラン達が、安い手品の様に煙に包まれ、その結果と同じく、姿を消した。
 代わりに絨毯の上に舞ったのは、同じ絵柄の四枚のカード。
 窮屈そうに押し込められた笑顔の道化に、対角に刻まれた五文字のスペル。
 それは、まさしく五十三分の一のカード。たった一枚しか無いはずの、対の居ない無二の存在。
 それが、四枚。当たり前のように地に落ちた。
 私はそれらを、何ともいえぬ、複雑な目でもってただ眺め―→▼

「△―→パチュリー様」

 酷く聞き慣れた響きに振り向くと、咲夜が居た。
 さほど変わらぬ状況に置かれていたというのに、染みひとつ無い――『ロングスカート』のエプロンドレス姿の彼女は、私に優雅に一礼し、

「失礼致します―→▼」

 △―→その一言と共に、ひやり、と、私の身体に冷気が走った。
 同時に私の顔から、髪から、服から、ホコリが、粘液が――『汚れ』というものが、まさに見る間に綺麗に消えた。
 湯を浴びたかのように心地よい感触と、同性とはいえ、知らぬ間に下着まで替えられてしまったという、多少の嫌悪感。
 服の冷たさと併せ、少々憮然とした顔で咲夜を見ると、彼女は変わりの無い表情で、

「行きましょう、パチュリー様。『舞台』は壊れてしまいましたが、『結末』は待っています」

 あまりに落ち着いた、涼やかな声。
 私は、聞かねばならぬことを聞いた。

「咲夜、貴方はどこまで知っているの?」

 すると咲夜は、能面のような白い笑みのまま、

「昔話の通りです。それ以上の――『レミリア様』のことについては、パチュリー様の方がお詳しいはず。そして―→▼」

 △―→彼女の後ろから、声が聞こえた。

「ただ深く目をつむり、夢見の盾で延々とこの身を守り続けるのも」
「訳知り顔で展開に合わせ、即興で台詞を吐くのも」
「どちらももう、疲れました」

 私は確信をもって、それらの音の主に目を向ける。
 六本の腕と、三つの顔。
 この郷よりは西方ではあるが、何時もと違う――前とは明らかに『文化』の違う東方の衣装に、腰にずらりと並べられた、精緻な文様が施された魔法の曲刀の数々。
 それは、まさしく汚れひとつ無い――『三面六臂』の美鈴だった。
 そして私は、最後に、部屋の一番奥にして手前、四枚の道化師の間――閉まった扉の方を見る。
 我が手には五枚目のカード。最後の『役』札。私は、理解せざるを得なかった。
 つまりは、そう――

 ――私は、本当に『部外者』だったのだ。

 咲夜、美鈴、フラン――彼女らは、皆、私の知らない姿を持っていた。
 無論――いや、私が親友だと思っていた相手こそ、もっとも知らない者だと言って良いぐらいだ。
 私は、レミィの吹き飛ばされた先――部屋の外に目を向ける。

 ――『行きたくないな』と、ごく自然に思ってしまった。

 しり込みする理由は、いくらでもあるのだ。
 私の知識は間違っていた。足りないものが多過ぎた。
 どのような立ち位置を取ればいい? どこまでなら許容できる? 私は、いったい何をするべきなのだ?
 正論片手に飛び込めるほど、近くて楽な場所ではない。
 資格を問えば、恐らく無い。

 ――うん、ものすごく行きたくない。

 だが、と、私は確かに思う。
 行かない理由は、ひとつも無いのだ。
 ――ならば、私は覚悟を決めなければならない。
 私は、手のひらを静かに腹部に当てると、口から不思議な響きを流す。
 それは、きっと私以外理解できないだろう魔法の言葉。鯉口を切り撃鉄を起こす、私の中の起動の呪文。
 見る間に下腹部に方陣が浮かび、その奥底が、満月の夜の波にも似た大きな振動と、身を焦がし尽くすような粘り付く熱を――

「――んッ」

 思わず喉から空気が漏れた。丹田から全身に、膨大な魔力が行き渡っていくのが分かる。
 しかし、肉体に支障は無い。――起動は成功。ふう、と、私は小さく息を吐く。
 それは、私の体内に仕舞われた、最大級のマジックアイテム。
 『弾幕ごっこ』用のレプリカなどでは決して無い、正真正銘の『賢者の石』の力。
 ――私が出来る準備は、このぐらいのものだろう。
 着膨れするほど道具をぶら下げるのは、私の流儀に反するし、何より、今からそれらを取りに行くのは、あまりにも間抜けが過ぎる。
 それでも、私が死ねば――このサイズの『石』が制御不能に陥れば、半径十五マイル程度は、完全に消滅させられるだろう。
 ――しかし、と、私は笑う。
 私は友に会いに行くだけなのだ。ならば、うん、これで良い。
 どういう展開になるのかは、まるで想像も付かないけれど――でも、それだけなら、どのような道筋をたどろうとも、これで『畜生』と言わずに済むだろう。
 だから私は、扉に背を向けると、親友の昔話の場面のごとく――

「咲夜」
「はい」
「美鈴」
「はい」
「行きましょうか、レミィの元へ」

 と、ふたりの従者を従えて、部屋の外へと足を進めた。










                  - 9 -


 絨毯からレンガへと、私は踏み締めるものを変え、天井から太陽へと、頂くものを取り替えた。
 円卓はすでに壊れ、従順な役者達も、皆、装いを変えて舞台から降りた。

 ――だが、『結末』はまだ付いていない。

 私の前に、ひとりの『親友』と呼びたい存在がいる。
 名前はレミリア・スカーレット。彼女のことを、私は常にレミィと呼ぶ。
 紅い水溜りの中、置物のように仰向けに横たわり、みずからの――吸血鬼の弱点であるはずの日光を、平然と浴び続けるレミィ。
 はるか上空を見つめ、身動きひとつしないその姿に、私は――

「――『空』って、本当に青かったんだ」

 そう、子供の声で、レミィが言った。
 私もつられて、それを見る。
 雲ひとつ無い、真っ青な空。透き通るような、何も無い世界。
 ――空を見上げたのは、何時ぐらいぶりだろう、と、ふと、場違いなことを考える。
 そして、酷く場違いで無いだろうことを、レミィが言った。

「どうしても、答えられない難問があったんだ」

 五ほど齢を足した声。
 私は無言でそれを聞く。

「もし、例えば――絶対に無いことだろうけど――八雲紫なんかに、こんな風に聞かれた場合、いったい私は、どう答えればいいんだろう?」

 ――そこで、声が止まった。長く止まった。
 それからレミィは、不自然に強く息を吸い、何度か、せきにも似た荒い呼吸を繰り返すと――
 突如、これまでの仕草が無かったかのような軽快な響きで、おどけるように、レミィはそれを一気に述べた。

「『――で、ローマ並にスゲェ広大な神聖レミリア王国は、西暦何年から何年まで、今でいう、どこからどこまで存在していたんですか? 歴史の教科書で言うと、何ページ目ぐらい?』」

 ――ぎしり、と。
 タチの悪いジョークのようなその調べに、顔の表面が、荒く歪もうとするのが分かった。
 酷い労力を掛け、私はそれを無理矢理押さえ――何ひとつ変わらぬ風に、軽やかな声でレミィが言う。

「そうだね、八雲紫風に言えば、『貴方は、外の世界で、幾人の敵を倒し、どれほど領土を広げ、何度地図を塗り替えたのですか?』って所かな?」

 ――ああ、難問だ。難問だ。とてもとても、難問だ。
 そう、レミィは、カラカラと安い鈴のような笑い声を上げる。
 私は沈黙でそれに答えた。――そうする以外、何が出来るというのだ?
 そしてレミィは、一転、諦めを多分に含んだ声で、

「もし、『レミリア・スカーレット』が、あの亡霊なら、小鬼なら、月人なら、武神なら、不良天人なら、記者じゃ無い方のカラスなら、魔法使いな僧侶なら、聖人君主な仙人なら――」
「――そして、今貴方の側にいる、苔むした魔法使いであるのなら」

 ――ぴくり、と。
 私の言葉に、レミィは一瞬その響きを止め、

「……その通りだよ。こんなものを、『難問』としなければならない理由は無い」

 軽いため息。疲れた笑顔。
 ――そうさ、と、レミィが言う。

「大抵のことには意味が、意図がある。何をするのもしないのも、『理由』というものが必要だ。『気が触れているのでなければ』ね。愛情、良心、信仰心――なんでも良い、納得に足るだけの理由が」

 ――あいつらはいいんだ。あいつらは、『命名決闘法』の――『弾幕ごっこ』の主催者になっただけなんだから。
 そう、レミィは、すでに聞かされたものにも似た、主語を隠した言葉を並べる。

「あいつらはこう言うだけでいい――『そんなことに興味は無い』とな。どんな強大な力を持とうとも、無限の時間があろうとも、それに興味が無ければ――それをする気がまるでなければ、しないのは当然だ。何故、そのような粗暴で愚かな――『哀れな』ことをしなければならない?」

 ――『しかし、レミリア・スカーレットは違う』。
 レミィはそれを言わなかった。私もそれを問わなかった。
 言うまでもなく、問うまでもなかった。
 ただ、レミィは、背中を覆う水溜りから、引き剥がすようにしてその両腕を持ち上げると、紅いものが滴るそれを、役者のように天へと掲げ――
 レミィは謳う。雄々しき声で。
 まさしく凱歌のごとく、麗しく。

 ――かつて、『レミリア・スカーレット』という吸血鬼がいた!――
 ――――齢は五百! その力は、まさに大妖の中の大妖!――――
 ――ひとたび彼女が腕を振るえば、城壁すらも打ち砕き!――
 ――――それが走れば、大地はえぐれ!――――
 ――その翼でもって自在に空を飛べば、隼すら、亀のように軽々と捕まえるだろう!――

 そして、沈黙が生まれた。
 他人を賞賛する響きが消えた。信念に彩られた情熱が失せた。
 レミィの顔が、ゆっくりとその表情を変える。
 怒りが見えた。痛みを感じた。苦いものを含んだ風に、意味ある皺が眉間に寄った。
 左右の頬が非対称に大きく歪み、刃のような犬歯を見せ、その両目は、確かに、この青空で無いものを見ていた。
 首を絞めるように狭まる双手。尽きずに流れる紅い水。
 それからレミィは、ただの一言。

「――『何故だ?』」

 悲劇の主役の人形のように、レミィの両腕の繰り糸が落ちる。
 それらはパシャリと音を立て、水溜りに大きな波紋を生むと、その動きに押されるように、湖面が静かに面積を広げた。

「『人間より妖怪の方が支配する価値がある』? ――馬鹿を言うな、あんな、小銭を握り締めて狭い酒場に入り浸っているような哀れな連――」

 ――いや、しょせん酒は酒だ、どこで呑もうと、何を考えて呑もうと、それとこれとは関係ない、決して、ある訳が無い。
 そう、無数に踊る波紋の中で、深く目を伏せるよう、レミィはその言葉を強く歪めた。

「だが、やはり飲兵衛は飲兵衛だ。そんな水気の多い連中が、この郷の飾られた者達とは違う――そう、合理に身を縛られ、不合理に喉笛を噛み付かれながら生き続ける外の人間達よりも、『支配する価値』というものが高いとは、どうしても、私には思うことができない」

 ――少なくとも、地の利はあれど、百二十五倍の戦力差を覆した上に、身体能力でいえば二倍も違わぬはずの敵対者を、千体以上、自身の手でもって撃ち倒す――そんな妖怪を、私は知らない。

「英雄『シモ・ハユハ』――『レミリア・スカーレット』が居た時代の話だ。その気になれば、会うことのできた人間の話だ」

 苦笑と敬意の混じった声。それに対応するように、新たな模様が水面に生まれた。
 ゆっくりと、音も無く、しかし確かに、大きく広く。
 背中の傷が開いたように、紅く浅い水溜りは、ただ、波紋と共に陸地を減らす。
 そして再び、レミィが言った。

「――『何故だ?』」

 繰り返される重い沈黙。私の側まで波が来た。
 無音と同義の音の中、紅に塗れるレミィを見つめ、私は、何のすべも意図も無く――ふと、ある台詞が脳裏に浮かんだ。
 それは、まさに今の状況にぴったりな、いや、今しか使い道が無いだろう部類の言葉。
 無意識に、息を吸う。
 次いで自然に、私の口から――

「大切なのは――」

 ――そこで、『ふたり』の声が同時に止んだ。
 困惑を含んだ視線を感じる。互いの瞳が強く絡んだ。その後レミィは、唇を静かに閉じ、私にその順番を譲る。
 だから私は、今度は意識的に息を吸い――
 出来る限り『誰か』に似せた、あまりにも穏やかな声でもって、

「――大切なのは、『行動』なのよ」

 と、かつて聞いた言葉を述べる。

「内心なんて、どうでもいいの。『そうでなくてはならない』の。読心の三つ目など、地中に押し込めて置けば良い。すべては、『何を為したか』よ。これは一人称の小説じゃあないのよ、レミィ。その口でもって、その身でもって、みずからの思考を証明しなければ、誰もそれが分からない。『分かってしまってはならない』。たとえ、『何』を考えていようとね」

 すると、一拍。
 大人のように、レミィが笑った。

「――ああ、その通りだ、その通りだよパチェ。まさに一言一句、文句の付け様がない」

 レミィが、老いた瞳で私を見る。
 その、奥の奥まで見通せるが、決して無色ではない、まるで狂人を思わせるような、怯えるほどに清んだ目で、

「――『何故だ?』」

 びくりと身体が強く震えた。『非』というものを思わず感じた。
 紅い海が、私の靴を無言で食んだ。
 息が詰まる。心が揺れる。私の両手の指達が、不自然なものに形を変える。
 しかしレミィは、それらに触れずに、

「『レミリア・スカーレット』は証明したぞ。まさに怪奇幻想――『妖怪』と呼ぶに相応しい化け物どもを、それ以上の力でもって丁寧に押さえ付け、この郷の、領土でいえば大半を支配した」

 ――無意識に、喉の奥から呼気が漏れた。
 レミィの言葉は、私の、借り物の台詞に向けられたものではなかった。
 それゆえ私は安堵と共に――そうだ、と、確かに思う。
 レミィは、この幻想郷を力でもって制覇しようと、そして、なかば制覇してしまったのだ。
 自身に強い征服欲があることを、その莫大な武力でもって他者を屈服させ、服従させる行為を酷く望んでいることを、丁寧に、証明してしまったのだ。
 他の『異変』の首謀者達とは違い、『命名決闘法』――『弾幕ごっこ』が無かったために。

 ――そう、他の者達は、『命名決闘法』に基づいた、『遊戯』の主催者になっただけなのだから。

 ゆえにレミィは、こう問わざるを得なくなった。

「難問があるんだ。どうしても、どうしても私には、答えられない難問が」

 ――世界を、少なくとも大陸のひとつぐらいは支配できる能力を持ち、それをする意思があり、それができる時間もあった、なのに、彼女がそれをしなかったのは――

「『何故だ?』」

 ――ぞくり、と、首筋が凍えた。
 その声は、レミィの口から出たものではなかった。

「――『何故だ?』『何故だ?』『何故だ?』――」

 静かだが、異様なほど険しい響きが辺りを覆う。呪詛にも似た、強い力と想いがあった。
 それは、本当に聞き慣れた声。私の後ろから聞こえる声。
 だから私は、その言葉の主に会うために、首と視線を背後に向け、

「▼←―『『何故だ?』』―→△」

 繰り返される呪術の響き。私の想像通り、そこには咲夜が立っていた。
 ロングスカートのエプロンドレス。その靴と足の先を、私と同じく紅い海に沈め、

「△←―『何『何故だ?』?』―→▼」

 吐き出されたその声が、響きが、言葉が、歪むように大きくぶれた。
 口が、顔が、身体が、無数の彼女を重ねたように、何重にもぼやけて見えた。
 視線が、表情が、感情が、咲夜の意思がまるで読めない。
 ただ、彼女は、その揺れ幅を段々と強く、大きなものに変え、

「▼←―『何故『何故だ?』だ?』―→△」

 しかし、それだけだった。それ以外、おかしな部分は何も無かった。
 咲夜は恐らく想いのままに、私の後ろ――紅い水の上でひとり、その口々から、同じ言葉を吐き続けていた。

 ――そう、ただの『ひとり』で。

 彼女の他には誰も居なかった。私の背後には咲夜以外、誰ひとりとして居ないのだ。
 必ず居るはずの存在が、居て当然の存在が、そこには決して居なかった。
 だからだろう、大きく震える声で、咲夜は言う。

「△←―『何故だ『何故だ?』何故だ?』―→▼」

 咲夜の隣――紅い海に堤防のごとく突き立っているのは、鞘に包まれたままの姿の、精緻な文様の六本の曲刀。
 そして、荒い円形に置かれたその刃達の中心には、あまりにも見覚えのある、ただ一枚のカードがあった。
 窮屈そうに押し込められた笑顔の道化に、対角に刻まれた五文字のスペル。
 それは、まさしく五十三分の一のカード。たった一枚しか無いはずの、対の居ない無二の存在。
 あらゆるものの代わりになれる、ポーカーにおける万能の札――『ワイルドカード』。
 それが、新たに一枚。紅い水の上に落ちていた。

 ――何と思えば、良いというのだ。

 ゆえに咲夜は、すべてを呪う声でもって、

「△←―『何故だ?』/『何故だ?』/『何故だ?』―→▼」

 と、己が身を引き千切る風に、その身体の数を増やす。

「▼――――→『何故だ?』――→◆」
「◆―→『何故だ?』―――――→◇」
「◇―――――→『何故だ?』―→△」

 紅い海に波紋が生まれる。咲夜は――咲夜達は、その足でもって言葉と共に、墓標のごときそれに向かった。
 次いで刀の前に立ち――声が止む――彼女達は、それぞれの柄を強く握ると、祈るように目をつむり――開眼、同時にそれらを引き抜いた。
 淡く輝く刃が見えた。名を残すだけの魔力が漏れた。銀色の髪が柔らかに舞った。
 六振りの得物を、ただのひとりで手にした咲夜は、かつての持ち手の在り方のごとく、すべての身を重ねるよう、同じ場所に集めると――
 私達の方に、その表情の見えない顔を向け、酷く、本当に感情の無い音で言う。

「▼「◆「レミリア様、パチュリー様、教えて頂きたいことがあります」◇」△」

 ――それは、今すぐにでも、他人を殺せる響きだった。

「私は、『人間』です」
「化け物のような力を持とうとも」
「化け物のような行為をしようとも」
「どこまでも、ずるく生き残ってしまう『人間』です」
「ゆえに、貴方がたの――『妖怪』のことなど、決して分からぬ部類の話なのでしょう」
「ですから、教えて頂きたいのです」

 ゆっくりと、六本の切っ先が弧線を描く。
 相対する者を斬る様に、断つ様に、かつての主がそうだっただろう風に、六臂のごとき姿でもって、咲夜はその曲刀達を舞わす。
 それぞれの刃に鋼鉄の意思が宿った。他人を討つに足るだけの、強い殺意と重さが乗った。
 そして、一斉に――
 三面では足りぬ無情の顔が、けだもののごとく唇を裂いた。

「私は誰を憎めば良いのですか?」誰にこの刃達を突き立てれば良いのですか?」誰のためにこうならざるを得なかったのですか?」誰が私の敵なのですか?」誰を殺せばこの話は終わるのですか?」誰に私は――この想いをぶつければ良いのですかッ?」

 脳が狂うような、歪んだ響き達が私の頭部に刺さった。
 濁流のようだった。しかし清流のようでもあった。
 皆が同時に、しかも何重にも折り重なって、けれど、そのすべてが理解できた。
 言葉も、意味も、想いの丈も、手探りで口に運んだ菓子のように、必要なものは全部、私の中に入ってしまった。
 だが、私の口は動かなかった。動かすことができなかった。
 私には分からなかったのだ。本当に、何ひとつ。
 いったい私は――何と答えれば、良いというのだ。

「私のッ、何倍ッ、何十倍も生きてるんでしょうッ? それぐらいッ――私に教えろッ!」

 阿修羅のごとき怒りと共に、すべての刃が鋭く落ちた。
 咲夜の気迫か、刀の力か、大樹の絵を描くよう、紅い海が無数に割れる。
 それでも私は、答えなかった。
 答えることが、できなかった。
 本当に、本当に、いったい私は――何と答えれば、良いというのだ。
 私はただ、哀れな沈黙を一心に守り――

「――それは『私』だ」

 と、レミィが言った。

「妖怪は精神の生き物だ。自己の否定は最大の毒だ。同じ毒を食みながら、『私』だけが、この『私』の『私』だけが、こんな恥知らずな姿になってまで命を繋ぎ、そして、『納豆』などというふざけた手段でもって、ただのひとり逃げ切ったのだ――彼女『達』を存分に利用しておきながら、な」

 ――ならば、八雲紫ではなく、この幻想郷でもなく、『私』こそが、貴方の想いをぶつけるに相応しい。
 そう言って、レミィは紅い水に背中を押される風に、ゆっくりとその身体を浮かした。
 幼い子供のような、酷く華奢なその体躯を。

 ――レミィの言葉通り、妖怪は精神の生き物だ。そして、自己の否定こそ最大の毒だ。

 そう、『絶対にするはずの重要な行為を、何故か理由無くしなかった』――それが生み出す『矛盾』以上に、自己を否定するものがある訳がない。
 しかも、レミィ達は、それをここで行ってしまったのだ。
 みずからの意思と行動でもって、それを望み、実行できることを証明してしまったのだ。
 きつい毒だ。哀れな毒だ。いくらその身が強かろうと、ひと吸いで、命を奪える無尽の毒だ。
 心の中にその毒の存在を認めるということは、当然それで死ぬことを意味する。
 目を背けなければならないのだ。決して自覚してはならないのだ。
 たとえ証明したとしても、心の目で、それをまっすぐに見てはならない。
 だからレミィは、幼い子供のように振舞うことで、そして美鈴は、恐らく、隙あらば眠りに付くことで――できるかぎり、夢中の砦に隠れ潜むことを選んだのだろう。
 ――だが、美鈴は持たなかった。
 レミィと違い、自身に希望を見出せなかったことも大きいだろう、しかし、一番の理由は――『夢』というのは、良いものばかりでは無いからだ。

 ――目覚めた後、悪夢の続きが待っていると分かれば、誰だって、死にたくもなる。

 人間である咲夜が、それをどれだけ理解しているのか――残念ながら、今の私には知るすべが無い。
 『ゆえに』だろうか、『しかし』だろうか。
 レミィの言葉を無言で聞き終えた咲夜は、その遺品の一部を紅に沈めたまま、あまりに静かな声で、ただの一言。

「▼「◆「ブッ殺すぞ」◇」△」

 △―→どん、と、過程無く、大きな鋏が紅い海に突き立つ。
 その、太く、厚く、複雑な模様が彫り込まれた大鋏は、木の幹すらも断てそうなほどの、鋭い刃を持っていた。
 それは、彼女の獲物である人妖の首を断つ、特殊な破魔の鋏。
 初めて見る、昔話の中のもの。『大きな鍔のナイフ』などとという玩具では決してない、正真正銘の咲夜の武器。

「タダで死んでやるものか」

 言葉と共に、レミィが、多くを受け入れるよう軽く両手を広げた。
 その身が以前よりも小さく見えた。久方ぶりに、立った姿を見た気がした。
 ――直後、私は気付いた。
 その、紅いものに強く塗れたレミィの身体には、それまであったはずのものが消え去っていたのだ。
 コウモリにも似た一対の羽――吸血鬼の証のひとつが、その背から完全に失われていた。
 ――『溶けた』という言葉が頭に浮かび、恐らく、きっとその通りなのだろう。
 それゆえにか、咲夜が言った。

「その、器を使わなければ、まともに血もすすれぬような御身体で、ですか?」
「ああ、――だが、昔は違った」
「はい、存じております」

 音の無い一拍の間。
 ――だけど、と、軽快にレミィが笑う。

「言っておくけど、これでも、『スカーレットデビル』と呼ばれ恐れられていた傑物だよ」
「『衣服に血をこぼす鬼』ですか?」
「ああ、――だが、昔は違った」
「はい、存じております」

 二度目の沈黙。
 それからレミィは、紅い海の中心で、コウモリの羽の代わりのように、舞台の上の役者のごとく、その両手を大きく、精一杯広げると――
 強く、熱く、歌劇の様に麗しく、ただ一心にレミィは謳う。

「さあ、中身の腐り果てたこの主人が、最後に相手してやろうというのだ! お前も従者なら、つまらぬことを言っていないで、いいからさっさとかかって来い!」

 ――と、ふと、レミィは、何かを思い出した風にその表情を変え――
 ぶわり、と、紅い霧状のものがレミィの周囲を覆う。
 それから一転、レミィは何度か荒々しい呼吸を繰り返すと、何故か酷くたどたどしい声で、

「咲、夜」
「はい」
「貴方は、かつての、言葉通り、『私』が、生きている間、中、いつも一緒に、居て、くれた。――ありがとう」

 咲夜の身体が大きくぶれ、次いでイカリのごとく、その大きな鋏が紅から上がった。
 弧を描くように私から離れゆく咲夜の身体。噛み締めたような濃密な殺気がその位置を変える。
 ――酷く濃い、ザクロの実の匂いがした。

「待ちなさいッ!」

 思わず、声が出た。
 レミィの状態のことを気にしている場合では無かった。荒事を得意としない私でも分かった。
 ふたりは、本当に、どちらかが死ぬような戦いをしようとしている。
 笑い話やジョークの類ではない。少なくとも咲夜はそのつもりでいるし、レミィも、みずからの意思でもって、それを受け入れる気持ちでいる。
 ――理解が、できない。
 何故、ふたりが殺し合わねばならないのだ。互いに死の覚悟を持って、その得物を振るわなければならないのだ。
 不可解だった。理不尽だった。何か重要なものがずれている。
 しかし、そして当然、今の私の言葉程度では、ふたりの行動に――心境に変化は無い。

「危ないょ、パチェ」
「はい、少なくともこの一帯は、『安全』とは決して呼べなくなるでしょう」

 こちらに顔を向けること無く、相対したままふたりは告げる。
 再度役目を果たせる位置に向かう白刃の群れ。しなやかに折れ曲がる子供の両腕。
 いまだふたりは、無論のごとく、互いを殺害しようとしている。

 ――止めなければならないのだ。

 本当に、あまりにもふざけているのだ。こんな理解ができない展開で、私の親友達を失ってたまるか。
 ――だが、何と言えばふたりは止まる?
 はなから正論などでは動いていない。同性に泣き落としが効く訳が無い。
 怒りはとうの昔に使い切り、ええっと、もう、どうしよう。
 感情なのか、理論なのか、ふたりは多分、同じものに従って動いていて、けれど、それが私には、まったくもって共感できない。
 不条理だ。どうすればいい。私の知るふたりは、こんなにも、私とは違うものだったのか?
 しかし、だからといって、このままふたりが殺し合うなど、あって良い訳が無い。
 私の思考が千々に乱れる。脳にハギスを押し込まれた気がした。だけど私は、一生懸命頭脳を巡らせ――

 ――ああッ、もうッ!

 そして自然に、その言葉は出た。

「――『養老院ではお静かに』ッ!」

 ふたりの動きが、同時に止まった。
 しかし私は止まれない。吐き出すよう、その台詞の意味を私は咆えた。

「貴方達、『ここ』がどこだか分かってるのッ? 分かってるんでしょッ? だったら、今すぐそれを止めなさい!」

 ――貴方達が『ここ』まで流れ着いてしまったのは、貴方達が、これから始めようとする馬鹿げた行為を、その思念のみを制限とする災禍のごとき暴力の行使を、天と地と、そこに住まうあらゆる者達が完全に忘れ切るほど長い間、延々と行ってこなかったからなのよ! だから、お願いだから――

「――こんな偏狭の地にまで来ておいて、望む望まず追い立てられて、いまさら、まるで自分がそうだったかの様に、そんな真似をしないでよ!」

 私の言葉が終わると共に、静寂が訪れ、次いでゆっくりと、ふたつの目線がこちらに向いた。
 前と同じく、咲夜の表情は分からなかった。しかし、レミィの瞳には、強い理解の光が見えた。
 先程、私に言葉を奪われたことに対する、確かな『納得』というもので満ちていた。
 そう、私が今述べた台詞は、みずから生み出したものではない。
 あれは胸の内に仕舞われた、一枚のカードに刻まれていた文句。
 すべてを終わらせるはずだった言葉。破滅させられる者だけが知っていた言葉。
 そして恐らくは、哀れみと共に八雲紫がもみ消したであろう言葉。
 手にするだけで勝利が堅い、ポーカーにおける最大の札――『ワイルドカード』。
 それを思わず、私は切った。
 罪悪感は無い――なんであろうと止まれば良い、そう深く信じ込む。

 ――無論、効果はすぐさま現れた。

 刃の大樹がその枝々を曲げた。子供の両腕がだらりと落ちた。
 相変わらず、咲夜の表情は分からなかった。しかし、レミィの瞳が、長く、細く、その形を変えた。
 同時に左右の頬が大きく歪み、ふたつの犬歯が鞘から抜かれ、その視線は、確かに、この私の両目を捉えていた。
 ぞくり、と、身体が強く強張る。

 ――それは、明らかに、『笑っている』ように見えたのだ。

 その後ふたりは、同時に一言、恐らく変わらぬ顔をして、酷く良く通る声で私に告げた。





「嫌だね」





 先手を打ったのはレミィだった。
 いや、それを『先手』と呼んで良いのだろうか、レミィはその襟首に両手を掛けると、迷い無く、みずからの衣服を――身に着けているものを引き千切った。
 紅に塗れたボタンが飛んだ。濡れた生地が紙のように裂けた。
 紅色に染まったその幼い素肌が、鎖骨から胸先へと流れ、すぐにへその見える辺りまで、大きく太陽の下に晒された。
 予想外の事態に、咲夜の動きが完全に止まる。
 あの、『まるで』時間を止める『ように』ではなく、『本当に』時間を止めて行動することが出来る、十六夜咲夜の動作が。

 ――と、直後、視界のすべてが紅に染まった。

 とっさに私は防壁を張った。いや、『張っていた』と言った方が正確だろう。
 私の体内に――賢者の石に組み込んでおいた術式が、生理的な反応と変わらぬ速度でもって、意識とは無関係に防壁を張った。
 そして、それは極めて適切な行動だった。
 でなければ、今、私は同じ姿ではいられなかっただろう。

 ――それは、まさしく『弾幕』だった。

 豪雨に打たれる傘のように、防壁が完全に紅色で埋まり、それに似合った無数の雑音が、私の両耳を煩わしく刺した。
 咲夜とはまるで違う方角に居るというのに、主力に殴られたようなこの被害。
 私は予測する――これは恐らく、『全方位』攻撃に違いない。
 次いで私は、レミィの戦術を読む――その目的は、きっと、『主導権の確保』。

 ――つまり、だ。

 いくら凄まじい身体能力を誇るレミィといえども、時間を操る咲夜相手では、どうしても、その対応が後手後手に回らざるを得ない。
 無論、それが不利な状況であることは言うまでも無い。
 だからレミィは、力技でもって強引に機先を制し、次いで、どれほど動きが速かろうと――たとえ時間を止めたとしても、回避・接近することが不可能な、全面・全方向の攻撃でもって、まずは咲夜の行動を潰す。
 普通の人間なら、その一手で終わりだろう。しかし、咲夜は何らかの手段で、それに耐え得るはずだ。
 彼女の持つ曲刀のどれかに、それが可能なものがあったと昔話で聞いているし、何より、それぐらいのことはしてしまう存在なのだ、十六夜咲夜という人間は。
 ――だが、当然、咲夜の動きは酷く限定されることになる。
 ゆえに、所在が定まる。住所が割れる。
 咲夜は、『まさに時間を止めるぐらい速く動ける』という、自身の最大の武器を失ったことになる。
 後は簡単だ。この攻撃の終了の権利はレミィが握っている。咲夜には、それが何時なのか分からない。
 時間の停止も延長も、ここではあまり意味が無い。
 アキレスがどれだけ速く走ろうとも、カメの速度は変わらないのだ。
 時間を止めれば、攻撃もその場で停止する。
 咲夜の体感時間が変わらないのであれば、彼女は紅く堅い檻の中、時間を遅くすれば遅くするほど、長く待ち続けることになる。
 四方を囲まれ、緊張状態を維持したままでの、何時とも分からぬ受身の待機だ。その消耗は、想像以上のものだろう。
 ――よって、咲夜がどうあがこうが、戦いの主導権は今、レミィが握っている。
 そして、レミィの戦術はこうだ。
 全方位射撃によって咲夜の位置を固定し、特定し、次いで攻撃終了の時点から、『攻撃が止んだ』と認識されるまでのわずかな時間を利用して、彼女に、その莫大な身体能力でもって強襲を仕掛ける。
 いくら咲夜が、今の攻撃を十分に防ぐ事が出来ていても、それで同じ様に、レミィの渾身の一撃も防げるとは限らない。
 いや、防げる訳が無い。レミィの『渾身』とは、そういう威力のものを指す。
 咲夜は、気が付く間も無くレミィと出会い、同時に、その盾ごと身体を粉砕されて終わる。

 ――つまり、本気なのだ、レミィは。

 本気でレミィは、咲夜を殺せるような手を打つつもりなのだ。
 ――強く、無意識に奥歯を噛む。
 相変わらず防壁の外は、紅い豪雨が降り注ぎ――

「――ぁッ」

 思わず、舌打ちにも似た声が出た。予想よりも、『雨』の威力が高いのだ。
 自動発動の簡易防壁では、少しばかり荷が重い。賢者の石の過剰な魔力がなければ、破られていた可能性すらある。
 普段なら、即座に本式のものに更新する所なのだが、この状況では、万が一張り替えの際に隙間ができてしまった場合、私の身がかなり危ない。
 なにせ本当に威力が高いのだ。雨の一滴一滴が、人体程度なら貫通できるだろう威力がある。
 仕方が無い――私は代わりに、さらに大量の魔力をつぎ込むことで急場をしのぐ。
 これは迷彩なのだ。ならば、それほど長くは続かないはずだ。
 それに、他にできることも無い。私はただ、防壁を殴り付ける紅雨を眺め、再び魔力を足し、そしてまた眺め――

 ――今、何秒経った?

 おかしいのだ。想定と違う。確かに、緊急時で時間の感覚が遅くなっているのは分かる。
 だけど、それにしたって、いくらなんでもこれは長過ぎる。
 威力の方も過剰なのだ。今の私ならば問題は無い。
 しかし、咲夜は私のように、自分の意思で防壁を強化できる魔法使いでは決して無いのだ。このままでは――
 まさか、と、声が出た。

「このまま、力尽くで押し切るつもりなの、レミィは?」

 信じられない。正気を疑う。
 本当にレミィは、最後の礼を言うほど深く側に置いていた自分の従者を、顔も見せない全方位攻撃でもって、何もさせずにすり潰す気なのか――
 まさか、と、声が出た。

「あの咲夜が、そんな簡単に終わるはずが無いだろう?」

 ――びくり、と、背筋が震える。
 その、酷く聞き慣れた――そう、先程までこの耳に届いていた響きは、私のすぐ後ろ、まさに『真後ろ』から聞こえてきたのだ。
 そして、言葉を無くす私に構わず、声の主は悠々と、その台詞の続きを述べる。

「しかも、あいつは美鈴の得物を全部、そう、あの曲刀の数々をすべて手にしているんだぞ。まさに『パーフェクトメイド』――ふたりがかりで戦っているようなものさ。そんな――そんな私の誇り達が、この程度の『弾幕』で、終わる訳がない」

 本当に自慢げな声が、雑音を打ち消すよう私の身体を覆う。
 問うまでも無かった。気配もあった。間違いなく今、私の後ろには『誰か』居る。
 人の傘で雨をしのぐように、この防壁の内側には、私以外の『誰か』が、当然のごとく入り込んでいる。
 障壁の維持、状況の確認、首の稼動範囲等から、現在の私では、その姿を目視することができない。
 だけど、私にはそれが『誰か』分かっていて、その存在理由の予測も付く。
 だから私は、こう聞いた。

「貴方はいったい、どちらの『もの』なの? 八雲紫? それともフラン?」

 すると、ひと息。
 ――どちらでも良いさ、と、声がする。

「どっちだって、変わりは無いんだよ。本当に、何ひとつ」

 ――八雲紫が、『式』という技術でもって完璧に再現し、さらに本物と偽物の境界を操作することで生まれた『私』。
 フランが、石塊から偶像を削り出すように、まったく別の存在を、概念すら完全に破壊し切ることで生まれた『私』。

「そのふたつは、同じものだ。何もかも、変わらぬものだ」

 ――この場に居られるなら、それで良い。本当に、その程度のことに過ぎないんだ。
 そう言って、友と違わぬ声を持つ彼女は、唇を閉じ、静かに私の返答を待った。
 ゆえに私は、その期待に答える。

「じゃあ、この不可解な状況を説明して頂けるかしら――」

 そこで私は、ほんの少しだけ迷い、

「――『レミリア』?」

 と、親友の名前で彼女を呼んだ。
 すると彼女は、酷く穏やかな声で言う。

「ああ、『パチュリー』。ここに居る『私』は、あそこに居る『あいつ』じゃあない。それで良ければ、いくらでも」
「……ありがとう」

 その言葉は、酷く自然に出た。
 先程の彼女もそうだった。いや、あれが本当に彼女だったのかは、実際の所、推測の域を出ないのだが。
 それでも、この私の後ろにいる、『親友と決して変わらぬもの』は、『まるで同じ』であるが『違うこと』を、『私のため』に、わきまえてくれている。
 今、私が『レミィ』と愛称で呼ぶことができる『レミリア・スカーレット』が、ただのひとりしか居ないことを、しっかりと理解して、そして尊重してくれている。
 だから、まるで『レミィ』と変わらぬはずなのに、彼女達は私のことを、『パチュリー』と名前で呼んでいる。
 ――『レミリア・スカーレット』は『レミリア・スカーレット』だったのだ。どこから生まれ出ようと、どこまでも。
 無意識に呼気が出た。肩の力が抜ける。私の耳に、再び雨の叩く音が届いた。
 だから私は息を吸い、次いで、そのまま思考を口にする。

「――どうしてこうなったのかが、さっぱりと分からない。なんでレミィと咲夜が殺し合わなければならないの? 動機があまりにも不明瞭なのよ。それに、フランや美鈴のこともすっごく気になるし、でも、やっぱり一番訳が分からないのは――」

 ――そこで、思わず咆えた。
 ただ強く、ただただ強く、理不尽を、不可解を、不条理を、今まで言えなかった思いの丈を、そう――

「――なんでこれだけキッツイ話になってるってのに、鍵となるアイテムが、よりにもよって『納豆』なのよ! 何をするにしたって、されるにしたって、もうちょっと、マシなモンがあったでしょうにッ?」
「うん、それは本当にごもっともな意見だ。私も逆の立場なら、絶対にそう思う」

 ――ごめんなさい、と、実に済まなそうな声がする。
 いや、別にそんな、謝ってもらう必要なんてないんだけど。

「じゃあ、質問に答えよう。――実の所、『納豆』自体が重要って訳じゃあ、決して無かったんだよ」
「なんですって?」

 どういうことだそれは、長い昔話といい、あれだけ引っ張っておきながら、いまさらそんなことを本気で言うのか。
 しかし、そして当然、彼女は私の反応を予想していた風に、

「パチュリー、私が本当に欲しかったものが『何』か、分かるかい?」

 酷く静かなその問いに、私は平静を取り戻すと、過去の記憶を掘り起こし、次いで、かつてのレミィの言葉を述べる。

「――『実在性』ね」

 その通り、と、声がした。

「この世の誰がまぶたを閉じようとも、あらゆる者が目を背けようとも、たとえ、みずからの本心でもって、それのすべてを否定したとしても、『絶対にそこにある』という存在の確定、完全なる精神からの独立――それが私は欲しかった」

 そう、懐かしき時代に想いをはせるような、穏やかな響きで彼女は言う。
 それから彼女は、その声に、何か諦めにも似た軽いものを溶かし込むと、

「もちろん、そんなものが簡単に手に入るはずも無い。取り出すのも受け入れるのも、『高度な同調』――いわば、『絶妙な相性』というものが必要だ。『精神』から『物理』へ――『無』から『有』へと、おのれの『根幹』をそっくり入れ替えるようなものだからね。私にとって、それが可能なほど心血のつながりが――執着が強かった『物質』は、ただのふたつしか見当たらなかった。――それだけのことさ」

 彼女の言葉に、私は鋭く思考する。
 ――レミィがそこまで濃い想いを持つ、ふたつの『物質』とはいったい何か?
 そして私は解を出す。それは、つまり――

「『人間』である咲夜と、この話の鍵――『納豆』ね」
「――ああ、我ながら馬鹿げた選択だとは思うよ。だけど、残念ながら、『哀れな』真似をするよりは良い」

 その声からは、酷いツバキの匂いがした。
 ――『だから』か、と、私は思う。
 レミィは長寿だ。『妖怪』という種の立場から見れば定かではないが、少なくとも、定命の存在と比較すれば、その歩みはまさに、『歴史』と呼ぶに相応しい。
 そんなレミィが、この郷で『納豆』に費やした時間など、全体からすれば、ほんのわずかな――隙間のようなものに過ぎないだろう。
 しかし、おのれの威信のすべてを賭けて、嫌になるほど食べ続け、そして真剣に――まさに魂を削って手を尽くした『納豆』は、レミィにとって、ほとんど並ぶものが居ないほどの、極めて重要な存在となっていたのだ。
 だからレミィは、『納豆』を『使う』ことができた。
 『納豆』を、おのれと同化させるに足る高みにまで、押し上げることができた。
 ――でなければ、レミィは咲夜を『使う』しかなかった。
 無論、それはレミィにとって、『死』を選ぶに等しい行為だろう。
 『仕様が無い』――そういう程度の問題ではない。妖怪は精神の生き物なのだ。『行動』ではなく、『心情』で散る。
 『死んだ方がマシだ』という行為をしなければならなくなれば、それをする前に、本当に死んでしまう存在なのだ。
 つまりレミィは、あらゆる意味で、『納豆』に救われたといっていい。

 ――だが、それならそれで、新たな疑問がわいてくる。

 それがレミィにとって、あまり好ましくない疑いであることは理解している。
 レミィは、みずからの意思と行為でもって、その場所までたどり着いたのだ。それはレミィ自身の功績であり、同時に誇りでもあるだろう。
 しかし、私にとってその問いは、絶対にはっきりさせなければならない類のものだった。
 今後のために、我々のために、私はそれを、精密に検証しなければならない。
 だから私は――

「ねぇ、レミリア」
「なんだい、パチュリー?」

 ――彼女に『それ』を、確かに問うた。

「『可能性』として聞くわ。――貴方が『こう』なったのは、八雲紫の計算の内ではないの?」

 すると、打てば響いていた親友と同じ声が、それを境にぴたりと止み――

「……レミ、リア?」

 まさか、と、声が出た。

「計算でこの場に立てるのならば、私は今、ここにはいない」

 ――びくり、と、背筋が震えた。
 新たに聞こえた少女の響き。
 それは、決して親しくは無いが、確かに聞いたことのある――昔話に出ていたひとりのものだった。

「そう、計算だけで――『既知』の積み重ねだけで、すべてが上手く行くというのなら、貴方達など必要無い。勝手に踊って勝手に倒れて、そして、勝手に死んでしまえばいい」
「へえ、それは酷な言い方だね。だけど、その口振りからすると、あんたは『運命』を信じたって訳かい?」
「いいえ、私は『運命』など信じません」
「じゃあ、いったい何を信じているんですか?」

 ――再度、背筋が震えた。
 芝居のごとき台詞の交換に、また、新たな響きが加わったのだ。
 それは、当然聞いたことのあるものだった。つい先程まで聞いていたものだった。もはや聞こえなくなったと、堅く信じていたものだった。
 その後、紅毛の少女だろう、姿の想像できる声が言う。

「――あ、ということはアレですね? 何度でも、何度でも、繰り返せば良いだけです。もっと強く、もっと速く、いつかたどり着けると信じて、祈りと共に、その拳を突き出すだけです」
「ほお、それはつまり、『信仰』かい?」
「――そうですわね。ですが、残念ながら、私は『神』など信じません」

 ――どうなっているのだ、これは?
 私は思う。おかしいのだ。
 いや、確かに声の主達も十二分に不可解なのだが、そうではなく、背後から聞こえるそれらのすべてが、皆、同じ場所から聞こえてくるのだ。
 音の出所が一点に集まっている。その出口が重なっている。しかし、まるで全部が異なっている。
 物真似などでは決して無い、絶対に変えられぬはずの声の性質――『固有の言霊』というものが、まったくもって同じではないのだ。
 ――まさか、これは、ひとりでは――『個』では無い?
 思わず、声が出た。

「そこに居るのは、いったい『誰』なの? 貴方は、『レミリア・スカーレット』ではないの?」

 すると、『レミィ』と違わぬ声が言う。

「いいや、『私』は『レミリア・スカーレット』だよ。だから、『私』は『あいつ』じゃあ無い」

 強い意図と、そして深い違和感を感じる奇妙な返答。
 無論、すぐさま私は、その思いを言葉に変える。

「その言い方だと、まるでレミィが、『レミリア・スカーレット』では無いと言っている様ね」

 彼女は平然と答えた。

「ああ、その通りだよ。あそこにいる『あいつ』には、もう、ほとんど『私』は残っていない。もはや大半が『別のもの』だ。だから、『あいつ』は『私』じゃあ無い」

 ――なんですって?
 無視できない言葉を言われた。考慮すべき問題が増えた。
 予想外の回答に、私の脳が即座に運転を始め――

「――嫌らしい言い方を致しましょうか?」

 そう、あの、『八雲紫』と変わらぬ声が言う。

「あそこに居る『レミリア・スカーレット』は、もはや、中身の腐り果てた『皮の袋』のようなもの」

 ――誰が『毒が消えた』と言いました? 致死のものを食んだのです、そのまま死ぬのが道理でしょう?
 あれだけの言葉を吐いておいて、その存在を噛み締めておいて、いまだ、無事でいられる訳が無い。
 さらに、その身をつかさどる、もっとも重要な『根幹』まで入れ替えようとしたのです。
 いったいどうして、彼女が同じものでいられましょう?

「あれの中の『レミリア・スカーレット』は、五分も残れば良い所。ほうっておけば見る間に消える、日向の雪のごときもの」

 ――ですが、と、『美鈴』と等しい声が言う。

「今、あそこで戦っているふたりは、間違いなく、『レミリア様』と咲夜です」

 そう、あまりにも不可解なことを、『それら』は私に告げるのだ。
 私の思考が、軽い混沌に覆われる。
 ――しかし、確かに私にも納得できる部分があった。『そこまでか』――脳裏の奥でそう思う。
 今までの不自然が、私の内側でかちかちと音を立て、必然へと組み変わっていく。

 あの、雲ひとつ無い空の下で、自分のことを他人事のように名前で呼んでいた姿が――
 咲夜と戦う前の、唐突な、何かと入れ替わった風な酷くたどたどしい声が――

 ――説明が、付くのだ。
 レミィの中に、死に掛けた『レミリア・スカーレット』と、『別のもの』が共存していると考えれば。

 だが、レミィの中にいる『別のもの』とは、いったい『誰』なのだ?
 『レミリア・スカーレット』が完全に死に絶えたレミィは、本当に『レミィ』と呼べる存在なのか?

 いや、今はそんなことより、もっともっと重要で、差し迫ったことがある――
 だから私は、多くのことを棚に上げると、背後の『それ』に向かって、こう問うた。

「――じゃあ、レミィはいったい、これから『何』をするつもりなの?」

 すると、美鈴と同じ声が言う。

「私の『役』は、もう終わっています。私は、果たせる役目を果たしました。レミリア様のことも、咲夜のことも、そしてもちろん、パチュリー様のことも。憶えておいてください、パチュリー様。私『達』が残せるものは、もう何もありません。後は、貴方がたがどうするかです、それを使うも使わないも、パチュリー様次第です」

 柔らかで聞き取りやすいが、意味の掴めない不明瞭な言葉。
 その後一転、実に軽やかな響きで彼女は述べる。

「――と言う訳で、今度こそ、この幻想郷を支配いたしますか、レミリア様?」

 ――まさか、と、レミィと同じ声がした。
 続いて、八雲紫と同じ声が言う。

「では、この郷を滅ぼすおつもりで?」

 ――まさか、と、再びレミィと同じ声がした。
 それから彼女は、酷く穏やかな口調でもって、

「ここは良い所だよ。本当に、良い所だ。『弾幕ごっこ』も悪く――いや、面白かったよ。とにかく派手で、無駄に満ちた――あの八雲が自慢するのも分かる出来だった。もし、パチュリー――貴方達に出会わなければ、外の世界の五百年と、ここの十年を取り替えてもいいぐらいだ」
「……レミィ、リア」

 思わず私は、彼女を親友と同じ様に呼びそうになり――
 ならば、と、実に軽快な声がする。

「それじゃあ、お嬢様! 今こそ愛想をうーうー振り撒きまくって、この幻想郷をカリスマのどん底に突き落してやりましょう!」
「いえいえ、そんなことより、酷く若々しい言葉を吐き出して、その頬を熱く濃いもので濡らすのはいかが?」
「何言ってるんですかッ? やっぱり恋愛ですよ! 真っ赤な顔して恥かしいこと言いながら、ちゅっちゅちゅっちゅ致しましょうよ!」
「でしたら、けだもののごとき者どもに無力にも押し倒され、同じ獣の様な声を上げる方がよろしいのでは?」

 ――ああ、そうだね、どれもこれも、素晴らしい。

「だけど、『私』が望むものじゃあない。『私』がしたかったことじゃあない。『私』が想い描いていた、この身を焼き焦がすような『それ』じゃあない」

 その、親友と同じ声が、私の耳に届くと同時に――
 私は背後に異変を感じた。『それ』の気配が大きく膨らむ。目の前の紅い弾幕の一滴一滴が、当然のようにこの目で見えた。
 ――ぐるり、と、『世界』のすべてが踊るのを感じる。
 そう表現するしかなかった。激しい弾雨が渦へと変わった。
 防壁と空気と紅い水が、その機能を保ったまま一定の比率でじゃぶじゃぶと混じっていく。
 時間が、空間が、それ以外の知覚できないあらゆるものが、今まで私の知っていたものとは、まったく別の『法則』に入れ替わっていった。
 思わず声を出し――代わりに甘い味がした。
 飴玉のように鼻孔をくすぐるその偉大な鈍痛色の結晶は、ぴりぴりと痺れるような温かみと共に背骨を揺らして私の口から飛び出すと、左目のすぐ後ろの辺りでさらりと七曜に溶けた。

 ――あ、これは、だめだ。

 私はそう、確かに右手の先の七番目の指の腹で感じ取る。
 そして、それらのすべてを無視するように、はっきりと、正確に――レミィの声『達』が言った。

「『空が青い』と知ったのは、多分、五百年近く前だろう。だけど、『空が青い』と理解したのは、ごくごく最近のことだった」
「今度は、あの青空が、決して張りぼてで無いことを確かめたい」
「いつもの――こんな身体を縛り付けるような構えではなく、精一杯両腕を広げて、この大空を自由に飛びたい」

 美鈴の声『達』が言った。

「『飛ぶな』と言われて生まれてくる鳥はいません。『走るな』と言われる獣もいません。『泳ぐな』と言われる魚もいない」
「私は、この世界が、本当に私達のような存在を許せるほど寛大なのかを知りたい」
「確かにそれは迷惑でしょう、ふざけてます、『私の側でそれをするな』、だけど私は、そんな愚かな行為を望みます」

 八雲紫の声『達』が言った。

「効率を信じ、過剰を良しとし、ただ一心に不平等な勝負を求める――そんな人間のやり方ではなく」
「威力や効果に目を背け、性能を無視し、諦観でもって平等な勝負を求める――そんな妖怪のやり方でもなく」
「私が待ち望んだ、大いなる馬鹿な存在は、もっともっと不条理で、理不尽で、そして不可解なものでなくてはならない」

 「そうだッ!」と、レミィが謳う。
 ――『どうしよう』と、声がした。
 「そうだッ!」と、レミィが謳う。」と、美鈴が謳う。
 ――『どうしたの?』と、『誰か』が聞いた。
 「そうだッ!」と、レミィが謳う。」と、美鈴が謳う。」と、八雲紫が謳う。
 ――『遅刻中』と、『彼女』は言った。
 「そうだッ!」と、レミィが謳う。」と、美鈴が謳う。」と、八雲紫が謳う。」と、『私』が謳う。
 『そうだッ!』と――『彼女』のその親友が謳う。

「『あの』二十世紀の『後』半に生まれたッ!」電子のゲームの主役のようにッ!」私は葛藤『無く』空を飛びッ!」そ『して』ッ!」く『た』ば『るま』で飛び続けたいッ!」何度で『も』ッ!」何度でもッ!」私『の』ために――死に『果』たせッ!」

 ――『私』は問うた。

『貴方はッ、貴方達はいったいッ――「何」だっていうのッ?』

 ――『私』が答えた。

「『私は』私だッ!」『絶対に』ッ!」他の『誰かの』ッ!」『意思じゃあ無い』ッ!」

 さあッ――….・..・∵





 ・.・..・∵





 ・.・∵





 ・∵





 ∵



 ∵―→▼



 ▼―→――→◆



 ◆――→――→――→――→●

 ●―――→―――→―――→―――→―――→―――→■
 ■――→――「『私の時間』で、四十六時間と三十二分、待ちました」―→―――→――→〓

 〓――――→――→―――→――――→=
 =―――→――→―→――→――→―→――→――――→――→□

 □――→―――→――――→―「そして、『これ』の準備に、三時間と十二分掛かりました」―→――→○

 ○―――→――→―――→――→◇
 ◇――→―→△

「△―→私は、私は確かに申し上げましたわ、レミリア様――」

 そう、穏やかな、本当に穏やかな声の流れが、雲ひとつ無い青い空の下、紅い海の上を波紋無く広がる。
 気付けば豪雨は見る影も無く消え去り、私は――『私』は? 『私』は『何』だ? いったい今、『何』があった? 私はあの防壁の中で、どのくらい時間を費やしたのだ? そもそも――『そもそも』? 『何』が『そもそも』だというのだ? あの時、私に前提とすべき『何か』があったとでも――『あの時』?
 ――何かがおかしい。『おかしい』と感じること自体をおかしく感じる。まさに、『理解ができない』。
 何もかもが、あやふやなのだ。まるで濃霧の中にでも居たような気分だ。
 確かに、何か酷く重要なことがあったような気がする。しかし、別にそんなことは何もなかったような気もする。
 ――いや、だからこそ、うん、ああ、そうか、そうだ――今は、そんなことを考えている場合では無いのだ。
 なにせ、と、私は視線と意識を正面へと向け――
 はっきりと良く通る声で、咲夜が言った。

「もし、あの『肝試しの時』のことをお話になるのなら――『オツムにハサミをねじ込む』とッ!」

 ――歓喜がわいた。歓声が弾けた。
 咲夜の両手に渾身の力がこもり、銀に輝く得物の先が、レミィのその後頭部へと――

「三時間と十二分ですッ! 頭蓋を割るのにッ、三時間と十二分ッ! ああッ、まったくッ――」

 ――今なら、はっきりと分かるのだ。

「――前々から思っておりましたわッ! レミリア様ッ、貴方はッ――貴方は頭が堅過ぎますッ!」

 ――素晴らしい声が聞こえる。本当に、人生を謳歌しているだろう『人間』の声が。
 『どうしてか』は分からない。ただ、確実に『分かる』のだ。あらゆる疑問が、手に取る風に。
 何故、ふたりが殺し合っているのか。互いに死の覚悟を持って、その得物を振るっているのか。
 これまで、まるで想像も付かなかったそれらの事柄が、まるで我が身の事の様に、はっきりと、理解できてしまったのだ。
 すべてはレミィの言葉通りだった。つまりは、そう――

「――ああッ、やはりッ、『タダでは死んで』頂けませんかッ!」

 ――歓喜の歌が聞こえる。力強い、肉体と精神の賛歌が。
 同時に、レミィと咲夜のその身体が、大きく立場と攻守を変えた。
 『うらめしや~』――と、長い銀色の舌をベロリとむき出したレミィは、幼い姿を強調するような堅く大きいリボンを頭に飾り付けたまま、なぎ払う風にその片手を鋭く背後へと振るい――直撃、布袋と綿で出来た可愛らしい動物のごとく、咲夜の身体を軽々と吹き飛ばした。
 ――と、直後、それとはまったく関係の無い、片腕の攻撃の範囲外の空間が、見る間に歪んで大きく曲がり、当然のように弾けて裂けた。
 紅と空気と光がねじれ、海の一部が霧へと変わる。
 言うまでもなく、それはレミィの仕業だろう。しかし、そして無論のことだが、そこに咲夜の存在は無い。
 彼女は変わらず、胸の前に刃を構えたまま宙を舞い――ほんの一瞬だが動作が遅れて、レミィがその追撃に動いた。
 ああ、と、私は確かに再度思う。

 ――やはり、レミィは『本気』なのだ。

 レミィは、攻撃を『置いて』おいたのだ。
 つまり、レミィは咲夜の行動を見越して、不可視の射撃を仕掛けておいた。
 もし、咲夜がレミィの片腕を、得物の一振りの力――『無色の盾』でもって受け止めず、時間を操ってそれを回避し、反撃に適した位置に身体を運んでいたのなら――彼女の命は、当然のように失われていただろう。
 レミィはそれを主たる目的としていたし、もちろんその攻撃――恐らく魔眼の力だろう――には、それだけの威力も、十二分にあった。
 それは本当に良く分かった。嫌になるほど、理解できた。
 なにせ――私は思う。
 レミィのその不可避の攻撃の範囲内には、私の居場所がすっぽりと収まっていたからだ。

 ――そうきたかッ!

 両頬が笑みの形に大きく歪んだ。冷や汗が出た。なんか色々な、出てはいけないものさえ出そうになった。
 防壁が揺れる。きしみを上げる。次いで、すぐに当たり前のようにヒビまで走り――

 ――私は、何十年かぶりに、本気で動いた。

 口から何層にも価値ある低音と高音が流れた。両手の先が十数もの意味ある形に変化した。
 胸の前に無数の魔方陣が浮かび、防ぎ切れなくなった衝撃波のせいで私の身体が軽く浮き上がると、直後、障壁が決壊――強烈な打撃が、新たな防壁を痺れさせた。
 ――酷く、本当に重い息を吐く。
 危なかった。……うん、なんというか、もう、洒落にならないぐらい危なかった。
 下手をすれば、今ので『私が』終わっていた。
 というか、ここまで出来るとは思わなかった、『私が』。
 こういう荒事から遠ざかって長いから、もっと錆びてるかと思ってた、『今も』。

 ――『思ってたより私ってスゴイ』。

 そう、強固かつ強靭な防壁の中で、私はとても場違いなことを考える。
 ――と、同時に、酷く場違いで無いことも考慮する。
 やはり、面の攻撃――直接攻撃ではなかったとはいえ、本気のレミィの一撃は、簡易防壁には荷が重過ぎる。
 こんなことなら、最初から本式のものを張っておけば良かった。いや、それよりも、防壁につぎ込む魔力の量が少な過ぎたのだ。
 簡易のものであろうと、つぎ込む魔力次第で強度は相当な所まで上げられる。
 そして、今の防壁の魔力量は、明らかにレミィに対応できるものではなかった。

 ――どうやら私は、本当に、錆びてしまっていたようなのだ。

 私は気付く。判断の誤りだけではなかった。――無いのだ。何か、私の身体の中の魔力が、ごっそりと、失われているような気がするのだ。
 今と先程の防御だけで、これほどの消耗を実感するとは……。
 こんなことなら、自分の力を過信せず、何か強力なマジックアイテムを準備しておくべきだった。
 体内に魔力体を納めておく技術だって、すでに編み出してあるのだ。
 こんな時の為のソレだろうに、いや、何があっても大丈夫な様に、常日頃から適切な――『哲学者の石』クラスの防御を仕込んでおくべきだった……。
 それは、まさに『私らしくない』と感じるほどに、明確で、しかも致命的な失敗だった。
 ああ、まったく――私は思う。
 ここまでこの身が錆びていようとは、あの『ふたり』とは、まるで違って―→▼

「△―→本当に、本当に無茶苦茶ですわ、レミリア様。私が言うのも何ですが、ありていに言えば『ずるい』。美鈴がいなければ、まったく、どうなっていたことでしょう……」

 そう、唐突に私の前に現れた咲夜は、一転、酷く穏やかな声で言葉をつむぐ。
 しかし、彼女のその姿は、響きほど優雅なものでは決してなかった。
 ――まず、咲夜の片手には、複雑な文様が彫り込まれた曲刀――まあ、これはいい。しかし、その衣服は、葡萄酒を掛けられた様な色濃い染みの他に、まるでイバラの中をかき分けて進んだ風な、小さな切り傷が無数に刻まれていたのだ。
 血がにじむ部分も多々あった。人間は痛覚の大半を皮膚で感じ取るのだ。心地良い状態な訳が無い。
 続いてレミィも、ゆっくりと私の方を向く。
 見れば、悪戯をした後の子供のごとく、大きな銀の舌を見せ付けるレミィの周りには、きらきらと、何か紅色に輝くものが舞っていた。
 咲夜の酷い様子から、私にはその存在の予測が付いた。
 それは、恐らくガラス片のように良く切れる小さな物体で、レミィの意思でもってその周囲を浮遊し、太陽の光を反射している。
 ――『刃物をリンゴに押し込むのではなく、リンゴを刃物に押し付ける』。
 レミィは、人間の強度を考慮した、酷く嫌らしい手段を取っていたのだ。
 ――と、私は気付く。咲夜がこんなにも悠長に話を続けているのは、彼女が、『私を盾にしているから』だと。
 レミィはきっと、『せめて意図的には』私を巻き込まないようにするために、その攻撃の手を休めている。
 そして、一振りの刀を手に、変わらぬ響きで咲夜は言う。

「けれど、貴方の命は私のものです。確かに、この私が『賜わり』ました。だから――」

 ――直後、咲夜が飛んだ。
 まるで棒高飛びでもするように、彼女は水面に刃を落としてその身体を浮かせ――

「どんな手を使ってでも――『ブッ殺す』」

 ――ばちぃ、と。

 見る間に閃光と雑音が生まれた。紅い海が沸き立つように大きく震え、レミィの身体が強く強張る。
 それは、恐らく『稲光と同義の電流』――昔話にある通り、美鈴が残した得物の力。
 それから一転、咲夜は荒々しくその曲刀を担ぎ上げると――

「▼「◆「そうだッ!」◇」△」

 と、叩き付けるように彼女『達』は言う。

「▼「私の『もの』だッ!」◆」私だけの『もの』だッ!」■」他の『誰』にもッ!」□」どんな『事象』にもッ!」◇」『くれて』など――やるものかッ!」△」

 △―→直後、滑らかな一刀がレミィの首筋に振り下ろされ、何十回も切り損ねたような、下手くそな切り口をその場所に生み――

 ――これは、『儀式』だ。

 私は思考する。
 業火に包まれるレミィの身体。わずかに紅いものを吐き出す咲夜。
 そのすべての『何故』を、私は我が身のように理解していた。
 ――これは、『儀式』なのだ。『レミリア・スカーレット』による、『十六夜咲夜』のための『儀式』。
 『主導権』は咲夜にあるのではない。戦いを始めたのは彼女では決して無い。
 咲夜は『受け入れた』側であり、この、どちらかが死ぬような過酷な行為を望んだのは、間違いなく、レミィの方なのだ。
 すべてはレミィの言葉通りだった。つまりは、そう――

 ――『タダで死んでやるものか』。

 その一言で、この死闘は出来ている。
 ――妖怪は精神の生き物だ。『行動』ではなく、『心情』で散る。
 『死んだ方がマシだ』という行為をしなければならなくなれば、それをする前に、本当に死んでしまう存在だ。
 それはつまり、あらゆる精神の問題を、死ぬことで終わらせられる存在でもある、ということだ。
 耐え切れなければ死ぬだけだ。耐え切れるのならば生き続ければ良い――それはある意味、強い不満を生じぬ生き方でもあるだろう。
 そして、美鈴はそのために死んだ。だが、咲夜は――『人間』はいったいどうすればいい?
 『人間』である咲夜は、『妖怪』のように精神の生き物では決して無い。
 死ぬような想いを胸に秘めながらも、生き続けることが出来る存在なのだ。
 ならば、咲夜はその想いをどうすればいい? 肉体に死が訪れるまで秘め続けろとでもいうのか?
 それとも、何時か耐え切れずそれを撒き散らし、皆によってたかって刈り取られてしまえば良い、とでもいうつもりか――

 ――これは、『儀式』なのだ。

 『レミリア・スカーレット』という『妖怪』が、残りの命のすべてを賭けて、『人間』である『十六夜咲夜』の想いを『喰らう』ための『儀式』。
 この楽園のような郷で生きる上で、決して必要で無いものを、不適合な部分を眠りに付かせるための『生贄の儀式』。
 もし、途中で殺してしまっても、それはそれで仕様が無い。いや、ひとりの『妖怪』として、それは望ましい状況ですらある――レミィは、そんなつもりで動いている。
 そうでなければ、『あいつ』の想いを喰らい尽くせる訳が無い。そうでなければ、この『私』が戦う価値が無い――ふたりは、そんな想いで動いている。
 だからふたりは――極めて優れた『妖怪』と『人間』は、それから無言で、歓喜を撒いて、その技術と能力を存分に振るい――
 そして、私が知る中で、もっとも激しい『妖怪』と『人間』の戦いは――まるで時間の流れの違うふたりの殺し合いは、すべての刃を使い果たした咲夜が、その両腕と渾身の力でもって、レミィの首の皮一枚を引き千切ったことで終わった。





 こうして、『レミリア・スカーレット』は『死んだ』のだ。
 それは私の目から見ても、本当に明らかだった。





 すべてを終えた咲夜の姿は、一回りは小さく、まるで年相応の少女のように見えた。
 その身からはすでに情熱は消え、激情も消え、無論、得物のひとつも無い。
 ただ咲夜は、少女の頭ほどもある丸い物体を、無言のまま高く両手で持ち上げると、まるで大切な贈り物か何かのように、その胸で強くそれを抱いた。
 酷く安らかな顔で、死にゆく様に。
 次いで咲夜は、その胸の中のものに押された風に、ゆっくりと、しかし確実に、後ろに向かって倒れていった。
 時間の流れのまるで違う『咲夜の世界』で、延々と積み重ねられた莫大な疲労。
 全身に刻まれた大小の切り傷。
 何より、まさに小バエを箸で捕まえるような高度な技巧と忍耐、それと、レミィの小指の爪先によって削り取られた大きなわき腹の空洞は、『人間』の意識を奪うには、十分過ぎるしろものだった。
 ゆえに咲夜は、そのまま身体を紅い海へとささげ――

 ――音も無く。

 その軽い肉体を、ひとりの少女が捕まえた。
 中華風の衣装を身にまとい、二本の腕を持つその少女の様な妖怪は、優しく咲夜を抱きかかえると、赤子に向けるような暖かな瞳を彼女に向ける。
 そして、私に軽く一礼すると、咲夜の治療のためだろう、髪と同じ色の海を蹴って天へと飛翔、この場から姿を消した。
 ああ、と、その時、私は確かにこう思う。

 ――これで、『終わった』のだ、と。

 酷く単純にそう思う。眺め続けていた血と肉の衝撃で、心が上手く動いてくれない。
 ただ、分かったのだ。これで本当に、『終わってしまった』のだと。
 『レミリア・スカーレット』は死んだのだ。『十六夜咲夜』が殺したのだ。
 『レミリア・スカーレット』は――少なくとも、私が『レミィ』と呼んだ『レミリア・スカーレット』は、もういない。

 ――レミィは、死んだのだ。

 ――レミィ『が』、死んだのだ。

 ――ああ、『終わった』のだ。

 ――レミィが最後に食べた納豆は、いったいどんな味がしたのだろう。
 私は、本当に価値の無いことを考え、ふと、レミィが眺めていた風景と同じものを再び見ようと、そのまま深い想いも無く、咲夜達が消えた先――天を見上げた。
 雲ひとつ無い、真っ青な空を。透き通るような、何も無い――

 ――『あった』。

 雲ひとつ無い、透き通るような真っ青な世界に――『あった』。

 ――『何か』が、落ちてくる。

 いや、『何か』では無いものが、落ちてくる。
 私は目を見開いた。ようやく、『感情』というものが働き始めた気がした。
 私はそれを知っていた。酷く見慣れたものだった。もはや見ることは無いだろうと、深く信じていたものだった。
 その、少女の頭ほどもある丸い物体は、このために彼女達は飛んだのではないかと思わせるほど高い位置から、まっすぐに、落ちてきた。
 大きな鋏の所へと。六本の魔法の曲刀の所へと。それらをすべてまとった残りの部分の所へと。――私の所へと。
 私はただ、それを見た。
 そして思った。
 そう、『終わった』のだ。ならば、『新たに始まらなければならない』。

 ――これは、『儀式』なのだ。

 その後、声も無く、音も無く――
 不規則に回り、髪を振り、薄い笑みすら浮かべるその『丸い物体』は、違える事なく私の側、紅い海の水面へと落ち――










 かつて、『レミリア・スカーレット』という吸血鬼がいた。
 齢は五百。その力は、まさに大妖の中の大妖。
 ひとたびでも彼女が腕を振るえたならば、城壁すらも打ち砕き。
 もしそれが走れれば、大地はえぐれ。
 その翼でもって自在に空を飛ぶことさえできれば、隼すら、亀のように軽々と捕まえただろう。

 ――『嫌だね』と、『誰か』が言った。

「いつもの――こんな身体を縛り付けるような構えではなく、精一杯両腕を広げて、この大空を自由に飛びたい」

 ――さあッ! あの二十世紀の後半に生まれたッ、電子のゲームの主役のようにッ!――

「私は、この世界が、本当に私達のような存在を許せるほど寛大なのかを知りたい」

 ――――葛藤無くッ! くたばるまでッ! この大空を飛び続けようッ!――――

「私が待ち望んだ、大いなる馬鹿な存在は、もっともっと不条理で、理不尽で、そして不可解なものでなくてはならない」

 ――『そうだッ!』と、『誰か』が言った。

 その翼でもって自在に空を飛べば、隼すら、亀のように軽々と捕まえるだろう!
 それが走れば、大地はえぐれ!
 ひとたび彼女が腕を振るえば、城壁すらも打ち砕き!
 齢は五百! その力は、まさに大妖の中の大妖!
 かつていた、『レミリア・スカーレット』という吸血鬼のごとく!










 ――『コインいっこ、いれる?』。










 ――『それ』は、酷く良い音と共に、その中に消えた。










 『それ』は、『それ』は、紅玉の、朝の海に彗星と落ち。
 其のあらゆる思考の末、または果て無き意気地が生み落とし、燦爛たる想いの放物線。

 ――波紋が生まれたのだ。

 波紋が踊る。波紋が踊る。小さく、小さく、流れが変わる。
 円舞のように、輪のように、紅い水が孤を描く。
 飛沫の柱を生み出して、星達の如く地に落ちた『それ』は、まるでそうなるのが必然である風に、海の中へと姿を消した。
 小指ほどの深さも無い、紅い紅いその奥へ。
 そして飛沫は波紋を生み出すと、円の波は水面を走り、そこに浮かぶすべてのもの達に、『それ』の帰還を知らしめた。

 ――すると、音も無く。

 波紋が揺れる。波紋が揺れる。小さく、小さく、形が変わる。
 海の上に顔を出す、ありとあらゆる存在が、自身の役目に気付いた風に、その奥底へと沈んでいった。
 大きな鋏が、六本の魔法の曲刀が、それらをすべてまとった残りの部分が――
 急速ではなく、迅速でもなく、ただ、紅い波紋に従う風に、ゆっくりと、その姿を隠していった。
 衣服も、武具も、何もかも。
 私の知っていたものが、私の知らなかったものが、ひとつも違えること無しに、同じ場所へと向かっていった。
 その後、あらゆるものが、波紋と共に海に消え――
 弾けるように、それは起こった。

 ――まず、螺旋が生まれたのだ。

 螺旋が躍る。螺旋が躍る。大きく、大きく、流れが変わる。
 波紋を越えて渦へと変わり、それは円を描いて水面を駆けると――その先端が、中心が、押し上げるがごとく空を目指した。
 天地の間に線が生まれ、棒が生まれ、大地の水を吸い上げたそれは、瞬く間に、柱へと至る。
 紅い海が、みるみるとその面積を縮めた。
 天に向かった螺旋の群れは、まさしくあるべき位置に収まる風に、その身を束ねて一個と化した。
 そして、紅く輝く螺旋の柱は、鋭く昇る逆さの滝は、枝に分かれて大樹を描き――その分岐の終着が、意味ある姿に変化した。
 螺旋が歪む。螺旋が歪む。大きく、大きく、形が変わる。
 腕の形に螺旋が踊り、螺旋の形に腕が舞い、紅で織られたその袖を、貫く風に五指が通った。
 同時に幹が両手を広げ、そこに無数の葉がしげり、その隙間のすべてを紅で覆うと、それらは皮膜を張った前足へと転じた。
 四肢があった。五体を越えた。その犬歯は刃のように尖っていて、その背には、大きな一対の羽があった。
 ――それは、酷く美しい『女性』の姿をしていた。
 ああ、と、私はその姿を見て思う。

 ――そうだったのだ、と。

 『昔の』レミィは、確かに、このぐらいの背丈があったのだ、と。
 ちょうど、今も昔も変わり無いフランなら、脇腹辺りに抱き付くのが適当だろう大きさだったのだ、と。
 ――私は再び、古い親友の姿に目を向ける。
 コウモリにも似た一対の羽。青く輝く白銀の髪。しかし何より、その身を麗しく覆う、かつて見慣れていた『真紅』の衣装。
 『スカーレットデビル』――血をこぼすまでもなく、みずからの意思でもって真紅の色をまとう鬼。
 それは、輝かしいまでに、私の記憶の底に眠っていたレミィだった。
 だから思わず、私は聞いた。

「――貴方は、いまだ『レミリア・スカーレット』なの?」

 『それ』の視線が、私を捉えた。宝石のように澄んだ目だった。感情の無い瞳だった。
 次いで『それ』は、想い無く、静かにその首を横に振る。
 ――少し、力が抜けた。
 分かっては、いたのだ。当然のように、それは分かり切っていたことなのだ。
 だけど、さすがに『本人』に否定されると、少々、きた。
 しかし、私はその想いを咄嗟に隠す。特に深い意味は無い。まさに、それは反射のような見栄だった。
 すると『それ』は、こちらの変化に気付かなかったのか、もしくは気にもしないのか、この私から瞳を外すと、そのまま目線を空へと向けた。
 天のさらに向こうへと。ここではないどこかへと。これからの行き先を、その目で確認するように。

 ――『それ』は、『そこ』に行くのだろう。

 『そこ』がどこなのか、今の私には分からない。
 だが、どこであろうと、『それ』は必ず行くのだろう、レミィと咲夜と美鈴の、その亡骸の想いを連れて。

 ――そう、私『以外』の想いを連れて。

 無意識に、両手の先がこぶしに変わる。
 ――分かっては、いるのだ。それが当たり前のことなのだ。そうなって、しかるべきはずのものなのだ。
 『貴方達と私は違う』――その一言で、すべての片が付いてしまう。
 何故ならレミィ達は、『私の様に』、水が低きに流れるがごとく、矛盾無くこの場所に居る訳ではないのだ。
 私は滑らかにこの楽園のような郷に来て、苦しむこと無く――何ひとつ変わらぬ生活を送っている。
 ――『レミィ達とは違って』。
 なにせ――私は思う。

 ――私は、レミィに言われるまで、『幻想郷に来た事』すら、気付くことができなかったのだから。

 レミィ達とは違い、私はこの先何年ここに居ようとも、皆のようにはならぬだろう。
 レミィ達が苦しむ原因は、私とって、『知識』以上のものでは無い。
 理解は出来る。確かに理解は。――だが、それに対する共感は無い。
 私が分かりもしないものを、レミィ達は宝物のように思っていて、そのために皆は死に掛けたり、本当に死んだり、あげくの果てに、それを燃料に、恐らくは、『なにか』すら分からないだろう『どこか』へと、これから飛び立とうとしている。
 まるで月旅行の時の再現だ。ただし、今度は関わることすらできなくて、しかも、その次など決して有りはしない。
 やはり、私は完全なる『部外者』で、『傍観者』で、書物のページを捲る様に、この話を眺めている事しか出来なかった。
 『だから、私が置いていかれるのは必然なのだ』。異論無く私はそう思い――

 ――ふざけるな、と、身体が動いた。

 思わず私は、足を踏み出して『それ』の片手を掴んだ。
 『それ』の顔が、驚いたように表情を変える。
 同時に、上質な生地にも似た柔らかな感触と、哺乳類のごとき暖かな体温と、そして、命に関わるもののような『なにか』を感じた。
 一瞬、腕から背中に痙攣が走る。
 本能がその手を離しそうになり、知識と意地がそれを防いだ。
 かなり強く握っているせいか、手のひらの感覚も鈍い。――いや、これは、掴んだ手と腕の境界を感じない?
 見れば手の甲と指達が、袖と同じ色の『もの』によって覆われていた。
 ――だが、それがどうしたというのだ。
 取り合えず私はもう少し強く握る。……多分、強く握った気がする。
 続いて私は『それ』の目を見る。……思考の一部が飛んだ気がした。
 ――ああ、なるほど、私は思う。
 私の本能は正しかった訳だ。恐らく、このままだと数分で私は死ぬ。
 削り切られるのか吸い尽くされるのか同化するのか、どの方法なのかはまだ分からないが、少なくとも、私という存在が消えてなくなる。
 ――だが、それがどうした、と、言えるほど私は情熱的ではない。
 私は『魔法使い』――『学者』なのだ。
 取り合えず舐めてみて、新しいものを見つけ出し、たまにのたうち回ったり、死んだりもする真理の探求者。
 それが『私』だ。『私』という存在だ。向こう見ずではあるが、バクチ打ちで決して無い。
 だから、そう、私は決断する。

 ――咲夜と美鈴は、『もう、いい』。

 あのふたりは、『もう、いらない』。
 もちろん、咲夜と美鈴は、私にとって大切な存在だ。代わりのいない者達だ。それは間違い無い。だけど、優先順位というものがある。
 だから、あのふたりは、もう、いい。
 今、屋敷に戻っているだろう分だけで、満足、する。
 だけど、だけど『レミィ』、貴方だけは、貴方だけは決して逃がしはしない。
 私の知らない所で、勝手に苦しみ勝手に死んで、そして、そんな名前も呼べないような『もの』になってしまったことなんて、全部、棚に上げてやる。

 ――逃がしてなど、やるものか。

 その程度の能力で、妨害で、この私を――
 貴方が、貴方だけが『パチェ』と呼んだ存在を、止められるとでも思ってるのッ?
 ふざけるな、そうだ、本当に、ふざけるな、だ。
 このまま私を置いて行くつもりか。この『パチェ』の想いなど、歯牙にも掛けず飛んで行くつもりか。
 身体が震える。力がこもる。『ふざけるな』――そうとしか思えない。

 ――『貴様』を、このまま行かせてたまるものか。

 ゆえに私は、確かに誓う。
 引き止められぬことは分かっている。『これ』はそういう『もの』では無い。それを求めた果てではない。
 決してここには居られぬ存在だ。レミィと咲夜と美鈴が、その想いの極みを束ねて、こういう形になったのだ。
 ――だが、それでも、貴様をこのまま行かせてなるものか。
 何としてでも、残してやる。
 レミィという存在の隣に私が居たというそれだけは、どうあがいてでも、貴様のその身に刻んでやる。
 他の『誰か』のためではなく、『私』のために、『私』だけのためにッ。

 ――『レミィだったもの』は、ただ、宝石の目で私を見ていた。

 思考を躍らす。思考を躍らす。いつの間にか、腕の感覚が消えていた。
 ――と、よみがえる。よみがえる。はるか以前に感じるそれが――昔話が、普段の会話が。
 かつて聞こえた台詞の群れが、前後のような規則も無しに、私の頭脳に飛来する。

 ――こんな恥知らずな/『気が触れている』/衣服に血をこぼす鬼/小銭を握り締めて/かかって来い!――

 ぐらり、と、意識が揺れた。
 ――あれ? おかしい? 私の中に、澱みにも似た『なにか』がある。
 決して私のものでは無いだろう、いや、しかし、まるで我が身のことのような、けれど、それよりも今は――私は思考をさらに巡らせ――
 言葉が跳ねる。言葉が跳ねる。私の意志とは関係なく、台詞の破片が脳裏を飛翔。

 ――――酷く味気の無い/罰ゲーム/読心の三つ目な/『誰か』/訳知り顔で/ぎゃおーッ?/遅れて来た――――

 思考が歪む。思考が歪む。
 意識が、記憶が、視点がねじれ、想い無く、私の口から響きが漏れる。

 ――『武術家』/のネイティブな発音/を撒き散らす迷惑行為/めー!/紫色だった/食卓が血塗れ――

「――――『アイルロポダ・メラノレウカ』――――」

 ――我が国が誇る/万学の祖/古今東西の/チーズの様な/可愛らしい/『妖怪の賢者』/まさに別格――

「――――『バチルス・サブチリス・バリエタス・ナットー』――――」

 ――ぱん、と。
 私は、自分の中の『なにか』を砕いた。
 もういい、うるさい、やかましい。いったい『誰か』は知らないが、どんな出来『役』なのかも知らないが、礼は言おう、今までの。だけど、だけどこれ以上――『私』の話に口を出すな。
 私は視線と意識を戻す。すると、唐突な台詞のためだろう、『それ』の顔が、酷く不思議そうなものに変わっていた。
 しかし、そんなことは知るものか――私は即座に思考を終わらせると、強く深く息を吸い、次いで、おのれの意思と知識でもって、しっかりとした言葉を吐いた。

「貴方に、『ふたつ』、質問があるわ」

 反応は無い。だが、異論が無いならそれでいい。
 私はその続きを言う。

「貴方は、『吸血鬼』なの?」

 『それ』は、首を横に振った。

「では、『納豆菌』なの?」

 『それ』は、再び首を横に振った。
 だから私は、そう、と、他人に聞かせる風に呟くと――
 『命名決闘法』にのっとった決闘のごとく、実に良く通る響きで、私はそれを『宣言』した。

「――なら、私は貴方を『発見』したわ」

 再度、『それ』は不思議そうな目を私に向け――私は述べた。極めて強く。

「日光を浴びて無事な吸血鬼などいない! 人の形に集まれるような納豆菌もいない! ――ゆえに、貴方はそのどちらでもない!」

 ――いえ、こんなことが出来る『生物』なんて、この地上にいる訳が無い!
 どんな種でも不可能よ! それは証明するまでも無い!
 しかも、貴方はそのどちらでも無いことを、おのれの意思でもってはっきりと認めた――つまり、疑う訳なんて何も無い!

「だから私は、今ここに『宣言』するわ! ――貴方は、『新しい生物』よ!」

 ――『アイルロポダ・メラノレウカ』! 『バチルス・サブチリス・バリエタス・ナットー』!
 いまだ理解できず首を傾ける『それ』に、高らかな声で私は謳う。
 『アイルロポダ・メラノレウカ』の時の誰かの様に。『バチルス・サブチリス・バリエタス・ナットー』の時の誰かの様に。
 『私』が『私』であることを。『私』という存在を。この『パチェ』と呼ばれた精神を。
 口から溢るる言葉でもって、『私』は『私』を謳歌する。

「――『学名』よ! 『新しい生物』を最初に見つけ出した『学者』には、その『名称』を決定できる権利が与えられる!」

 ――『魔法使い』――『学者』である私は、一番最初に貴方を『発見』したわ!
 そして、それを周囲に『宣言』し知らしめた私は、今、確かにこの瞬間、貴方の『命名権』を得た!

「これは『権利』よ! 私の『権利』よ! 他の誰のものでも無い!」

 肩の辺りまで感覚が消えた。しかし、私は『それ』を捕らえ続ける。
 この距離では防壁など意味が無い。だが、それがどうしたというのだ?
 たとえ、今ここで『それ』に打ち殺されようと――

「――そうよ! 貴方の意思にかかわらず、私が貴方に『名前』を付ける!」

 この『パチェ』と呼ばれた精神を、『レミィ』と呼んだ存在を、あの『命名決闘法』の――『弾幕ごっこ』のカードのごとくッ!
 ――と、『それ』の五本の指達が、私の片手を逆に掴んだ。
 腕が引かれる。身体が軽々と宙に浮く。私が状況を――『抱き上げられた』と気付いた時には、目の前にはすでに、『それ』の大きな瞳があった。
 透き通った宝石の目が私を見つめる。瞳孔が勝手に大きく開き、変な声まで出そうになった。
 すると『それ』は――『レミィだったもの』は、一転、瞳を意思あるものに置き換えると、その表情を柔らかな、『まさに幼い少女のごとき』満面の笑みに変え――

 酷く、懐かしい感じがした。
 鮮明に浮かぶ、いまだ『追憶』にならない匂いがした。

 そして強く抱き締めるように、その形の良い耳を、私の口元に寄せた。
 一瞬、思考が止まって、それから色々考える。
 体温も上がって、下がって、少し上がって、また下がって、身体の感覚が薄くなって――ああそうか――私は理解する。
 とても、とても、良く分かった。こいつは、『アレ』だ。どう考えても、うん、これはきっといや論理的かつ親友生理学的に判断してもはやもはや間違いなく――

 ――ああもうッ、『畜生』ッ!

 顔がすごいこと歪んだ。こいつは絶対許せない。
 だから私は思いっ切り、大きな声で言ってやった。

「貴方の名前は――ッ!」

 ――『学名』には、様々な規則がある。
 ラテン語でなくてはならない。属名と種小名からなる二名法等で表さなければならない。その場合、すべての文法形式は一致させなければならず、かつ、属名は頭文字を大文字で、種小名以下は特定の場合を除き、すべて小文字で書かなければならない、等。
 しかし、そんなことは知ったことか。
 ――ああ、私は思う。確かに私は『学者』だ。真理を求める『魔法使い』だ。
 だから、そのために必要な規則には、当然の様に従おう。
 ――だが、と、私は笑う。
 こんな、こんな動物でも、植物でも、細菌でも、そして恐らくは妖怪ですらない『まったく新しい生物』に対応した規則など――まだ誰も作り上げてはいない!
 ゆえに私は、本当に好き勝手な名前を渾身の力で叩き込み――私の憶えている限り、もっとも大きいだろうその声音の衝撃には、十分に、この身の戒めを解かせるだけの威力があった。
 束縛から逃れた私は、ぼすん、と、きちんと両足で立ったつもりが、力無くお尻まで地面に付けた。
 ――べちゃり、と、顔が紅くなるような音がする。
 さすがに恥かしいので、私は思いの通わぬ身体を無視し、魔法の響きで立ち上がる。
 すると、そうきたか、という目が私を見ていた。
 だから、そうきたぜ、という目を私は返す。
 再び、酷く、いや、まるで懐かしくもない感じがした。鮮明に浮かぶ、決して『追憶』にはならない匂いがした。
 ――と、直後、上空に強い存在を感じ、私達はそちらを見た。

「――え? レミリア、さん?」

 その気配と声の主は、私にも見覚えのある少女だった。
 白い半袖のシャツに黒いミニスカート。短い黒髪の上には、奇妙な形をした赤い帽子。
 カメラを手に、雲ひとつ無い青空にぽっかりと浮かぶその少女の姿の妖怪は、酷く混乱したように、いつもの手慣れた笑みも無く、

「あれ? なんか育ってません? 昔? みたいに? しかも、そのかつて見たことのあるような真紅の衣装――え? 『スカーレットデビル』?」

 それから彼女は、急に何かを取り戻した風に、その顔を齢を重ねたものに変化させると、強い警戒をもって、ただ一言。

「――お前は、『誰』だ?」

 ああ、なるほど、これはこれは、ちょうど良い――
 だから私は、その鴉天狗に言った。

「可愛く撮ってよ」
「――あッ、ハイ」

 すると彼女は、記者の習性だろうか、それとも意外に素直なのか、その手のカメラを反射的に構え――
 私達は笑顔を交わし、そして――
 そう、そして――

「――いってらっしゃい、『レミィ』」

 私の言葉と共に、『親友』が、本当に葛藤無く地を蹴った。




















「なるべきものは、なるべくしてなるのだ」

 そう、光届かぬ地下深く、神さびた密室の中央で。
 拳を開き腕を開け、円卓の『誰か』は厳かに謳う。

「たとえ、馬鹿な行為であろうとも、言葉の売り買いから始まろうとも」

 そう、『レミリア・スカーレット』と違わぬものが謳う。

「千年であれ、万年であれ、天竺が生んだ使い切れない数の果てであろうとも」

 そう、『十六夜咲夜』と同じものが謳う。

「埋もれた木箱の底の底、古黴に沈み切った色の無い記録であろうとも、サビすら思い出せない旧い樂曲であろうとも」

 そう、『紅美鈴』と等しいものが謳う。

「どんな不条理で、理不尽で、不可解なものであろうとも――結局は、なるべきものは、なるべくしてなるのです」

 ――郵便受けから溢れ出る、領収書の束さえ気にしなければ、と。
 そう、『八雲紫』と変わらぬものは、穏やかに目を伏せ、ゆっくりと言葉をつむぐ。
 そして『それ』は、東方の魔術師のごとき法衣の両袖を緩やかに持ち上げると、その先端の形を丸いものに変え――

 ――ダン、と。

 荒々しく円卓に叩き付けられる両拳。木々と大気が音を立てて震えた。
 『それ』の顔が見る間に歪む。頬が弾け犬歯が見えた。
 弓撃つがごとく腕を引き、弾撃つ風に目で見据え――
 『それ』は咆えた。歓喜と共に。

「――『なった』ぞッ!」

 独裁者のように振り回される二本の手。
 『それ』は熱意のままに言葉を放つ。

「『ならざる』ものではなく、『なるべき』ものになったのだ! 『泥』ではなく、『星』に酔うものが現れたのだ! ――『幻』が、ついに『空』を『想』ったのだッ!」

 ――『不条理』よ! 『理不尽』よ! 『不可解』よ! 『幻想』が、『空』を――『真実を覆い隠すもの』が生み出しし『空想』よ! 今こそ我が――

「黙れ」

 ――音も無く、『それ』の胸から刃が生えた。
 行ったのは八雲紫。知らぬ間に刻まれたかすり傷のごとき切れ目から現れた彼女は、扇ではなく、日傘でもなく、その少女趣味な紫のドレスに似合わぬ白く輝く剣でもって、『それ』を背後から貫いた。
 道士の衣が大きく震え、しかし、『それ』は酷く落ち着いた声で、その刃物の名を述べる。

「……『草薙の剣』、ね」

 『草薙の剣』――またの名を、『天叢雲剣』、『草那芸之太刀』、『霧雨の剣』。
 それこそ、東方の至宝『三種の神器』の中のひとつ。
 偉大なる旧き荒神が産み落とし宝刀にして、東方で生まれしもっとも尊き神の一柱にして、稀有なる軍神、迅雷に勝りし素戔鳴尊の一刀を、弾きて逆に砕きし剣。
 神代より延々と語り継がれる『武』の象徴。四海に比類なき力を秘めた強大なる神の武器。
 そのようなものでもって、紫は『それ』を突き刺した。
 だから『それ』は、想いのこぼれる声で言う。

「――ああ、まったく。自分の中に、いまだ形振りの構わぬほどの熱情が、紅く輝く燎原が広がっていると実感できるのは、本当に、本当にうれしい」

 ――草薙の剣の件だけに、うふふ(はぁと)。
 無言で紫は刃をひねり、『それ』の身体がびくりと揺れた。
 細かな痙攣を続ける『それ』。しかし『それ』は、震える顔を無理矢理後ろに向けると、その目で紫の瞳を捉え、

「やったわ」

 直後、画面の向こう側の胡散臭い手品のように、『それ』の姿が過程無く消えた。
 刃に残されたのは一枚のカード。
 窮屈そうに押し込められた笑顔の道化に、対角に刻まれた五文字のスペル。
 それは、まさしく五十三分の一のカード。たった一枚しか無いはずの、対の居ない無二の存在。
 ――剣を一振り、ふたつに裂けた。
 空気をすり抜け落ちる札。紫はそれを気にもせず、無言のままに鞘無き刃を地に下ろし――

「まったく、合成食品みたいに味気無い姿ね、『マエリベリー』」

 ――弾けるように、背後を見た。

「やあ」

 そこに、『彼女』が、いた。
 薄暗い地下室の一角の、天蓋の付いた豪奢なベッドの上――
 腰の半分以上を寝台に埋もれさせた『彼女』は、頭の帽子をすこしだけ持ち上げるという紳士的な仕草でもって、紫の視線に軽く答えた。
 合わせて、短く柔らかな髪がぱさりと揺れる。
 紫の眼球が大きく変化し、かたかたと、至高の剣が異音を立てた。
 『彼女』の表情が笑みの形に変わる。その口の端から、矢じりのように鋭く長い犬歯が見えた。
 ――息を呑み、次いで吸う。
 刃を強く震わせたまま、酷く感情のある声で紫が言った。

「――『貴方』なの? 本当に、『貴方』なの? 『その名前』で私を呼んだということは、『それ』が『貴方』で間違い無いのッ?」

 すると、『彼女』は軽快に答えた。

「そんな訳ないじゃないッ!」

 紫の瞳が、呆然としたものに変わる。
 しかし『彼女』は、それを一切気にするとなく胸元の鮮やかなリボンを整えると、その背の造木のごとき一対の羽を大きく揺らし、飛び立つように腰を上げる。
 そして、理解の追い付かぬ紫の姿をしかとその目で捉えると、朗々と、役者のように両手を広げ、『彼女』は酷く滑らかに台詞をつむぐ。

「――ああ、なんてかわいそうな子なの? たしか『優』の数は私より多かったはずなのに! こんな刃のごとき犬歯の生えたヒトガタが、宝石の葉を付けた枝のような羽を持つ女の子が、この世に存在する訳ないじゃない! そんなことも区別できなく――想像することすら失ってしまっただなんて!」

 ――『黙れ』、と。
 意思のこもった一刀が、紫と『彼女』の間を裂いた。
 踊るような姿勢で止まる『彼女』。再び剣を構える紫。
 ――一瞬の静寂。
 その切っ先を『彼女』に、わずかに外して向けながら、強い響きで紫が言った。

「――なら、どうしてッ? どうして『貴方』はここに居るッ? 私をからかいに来たとでもッ!」

 自信をもって、『彼女』は答えた。

「『私』を信じに来たのよッ!」
「――は?」

 馬鹿馬鹿しい驚愕によって、紫の顔が再び変わる。
 しかし『彼女』は、眉と眉の間に深くしわを寄せると、大きく一息。
 ――一転、海外の青春映画のように勢い良く頭の帽子を放り投げると、その天を指差すような姿勢のまま、燎原の火のごとき熱情に溢れた声でもって、『彼女』は一気に、

「――分からない? なら答えましょう! 『私』は、あの星の天蓋の彼方から、デパートの地下食料品売り場まで、この世界には信じるに値するものが必ずあると信じている! だから! 『私』は! 生クリームとアンコとカスタードとサクサクのパイとチョコレートと体重計と後まあ神様とかメリーとか、それらと同じぐらい、『私』は『私』を信じているッ!」

 ――直後、音が聞こえた。
 『彼女』の真上の空間から、ほんのわずかだが、確実に。
 小から大へ。低から高へ。
 何度も、何度も、繰り返し繰り返し、段々と強く、段々と速く、あまりに強い確信のこもった、訳の分からない衝撃が走った。
 無茶を感じる異音が響く。『なにか』が少しずつ変化する。

「まあ、何が言いたいのかというと――」

 その調べが部屋を覆う頃には、目にも分かった。
 叩き付けるように、割るように、それを生み出す空間が、無理な形に変化した。
 小から大へ。低から高へ。
 何度も、何度も、繰り返し繰り返し、段々と強く、段々と速く、いつかたどり着けると確信のこもった、訳の分からない破壊が起きた。
 無茶を通す轟音が響く。『なにか』が少しずつ剥がれていく。
 ――馬鹿のような、連打が続いた。
 そして、酷くあっけなく、結末は訪れた。

「――『パチュリーの石』って、とってもスゴイ」

 砕けたのだ。その『なにか』が。
 無理に歪んだ空間が、ほんのわずかだが、確実に。
 正式な方法とは決して考えられなかった。ただただ力で押し通したものだった。
 しかし、間違いなく、『なにか』は理不尽にも破壊され――
 直後、それは完璧に癒えた。
 音も無く、衝撃も無い、それがあったことなど一切感じさせぬ風に、そこは以前と少しも変わらぬ、薄暗い地下の一室に戻った。
 ――だが、それで十分だった。
 一瞬だけ開いたかすかな隙間、そこから放たれた黒色の弾丸は、意思ある軌道を描いて薄暗闇をひた駆けると、違えなく、紫の胸を突き抜いた。
 紫の身体に衝撃が走り、その肉体が大きく震える。
 ――一拍の間。
 両手でもって、紫はそれをしかと抱く。
 撃ち出されたのは、ぼろぼろに古びて痛んだ、黒い中折れ帽子。
 紫は旧式の空き缶のようにトップの開いたそれを目にし、確認し――心の聞こえる響きで言った。

「……思い、出したわ。『あの子』って、自分の持ち物には全部、名前を書く派なんだった」

 その言葉に答える『彼女』は、もう、どこにも居なかった。
 だから紫は、無言で帽子を深く被ると、そのまま目線を上へと向けた。
 天蓋のさらに向こうへと。ここではないどこかへと。これからの行き先を、その目で確認するように。
 大きな切れ目が天井に生まれた。頭を飾る帽子のように、それが開いて青空が見えた。
 紫は偉大な太刀を手に、それに匹敵するだろうもの達を辺りに浮かべ――
 そして一言、最後に述べた。

「――貴方と貴方の姉君に、心から感謝します」

 何の葛藤も無く消える紫。暗闇と静寂が地下室を包む。
 だから『フランドール・スカーレット』は、高らかな声で始まりを告げた。










                  - 0 -


 本来、満月になるは、一面吹雪も膨れていたのだった。
 文字通り、その人間は30分はもつ程度のは無理も無い、もしこの霧が人もやけて数倍程度はもつように見えた。

 ――小さな旅。地を走る船。打ち捨てられた星。そして最も大きな遅刻劇。

 窓の終わり、中秋の中心地は、満月になるは常にもとより明るく、春はひっそりで夜を止めてでも強くなったのだ。
 霧の少ない洋館がまるであまり時間も無い頃を果たして永遠の夜ににも存在して見えるのだった。

 ――親友は今頃どうしているだろうか、砕けた魔女の石を見て思う。

 特に日の花が困っていたの仕業だとしても、ベラドンナの島が満開な場所であるこには人気を容易に返す為できる。
 本来、本当にはだがあり、何時の間には欠片を冬だった、とてもじゃないけど妖の欠けていような内に、まだ来ない郷を探し出した。

 ――ここは、活動の止まった場所。そして伸び続ける記録。

 『どこ』でもない『どこか』に、『彼女』は、いた。




















 ――スタートボタンを押してください。





 ――Start以外ありません。





 ――モードを選択できません。





 ――プレイヤーを選択して下さい。

     神隠しで本当に困ったちゃん
        『八雲紫』
           能力__:『ウサミレンコ』の遅刻を許せる程度の能力
           移動速度:あいつに追い付けるぐらい
           攻撃範囲:あいつに届くぐらい
           攻撃力_:あいつを捕まえられるぐらい





 ――プレイヤーを選択して下さい。

     楽園の普通な自機
       『レミィ・P・ノーレッジ』
           能力__:普通のSTGの『自機』程度の能力
           移動速度:うー!
           攻撃範囲:ぎゃおー!
           攻撃力_:どかーん!





 あきらかな不可能を、不条理、理不尽、不可解で吹き飛ばすのがSTGの『自機』の能力です。
 それでは貴方に、よいPLAYと、よい終末を――










 ネバーネバー納豆。
おしお
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コメント



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1.14無名の卍解削除
え、なんなのこれは……予測できない
2.3奇声を発する(ry削除
これは…
3.14無名の卍解削除
3年間ずっと探し続けていました。
改めて読んでもこの世で最も面白い物語だと思います。
本当にありがとうございます。
4.14無名の卍解削除
>もっともっと「で」不条理で
「で」は不要ですかね?

とても凄まじかったです
5.無評価おしお削除
>4. 無名の卍解 様
ありがとうございます。本気で気付かなんだ。
6.14無名の卍解削除
なんか変わってるーー!?
ネバネバ納豆と空気感の変化が逆向きで面白かったです
7.無評価おしお削除
 
 ∵<ここのお話が楽しい人は『サメジマ』と創想話で作者検索すると良い。