雨と埃だけ食って辛うじて生きる

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2016/04/01 00:23:14
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 わたくしといふ現象は假定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。自分のことを気取って記すのならば、こうなるだろうか。もちろんわたしは照明器具などではないし、あらゆる透明な幽霊の複合体でもない。しかしこれから起こることを考えれば、現象として自分を定義するのはあながち間違った考えではないかもしれない。
 現象。言葉での定義で考えるのならば、それは「人間が知覚することのできるすべての物事。自然界や人間界に形をとって現れるもの」と表される。しかしこれから起こる現象は、この言葉の定義からは若干外れてしまうところがある。なにしろ「形をとって現れるもの」の逆、すでにある形そのものを消そうとしているのだから。
 形あるものを消す。冷静になって考えれば、別に突拍子もない現象ではない。なにしろ普通の人間ならば、日に三度は形あるものを消しているだろうから。もちろんこの意見は一方向的なものであり、日に二度や日に一度しかないと反論する余地は十分にある。しかし、長きにわたって食事を行わない人間はいないと考えられる。
 生きることは食べることであり、食べることは命を繋ぐことである。食べれば当然食べたものの形は消える。形は変わりつつも、命の本質自体は消えずに繋がっていると見ることもできるが、それはあまりにも博愛精神が過ぎるというものだ。人は他の命を消さなければ生きていけない。生きるというのはそういうものなのだ。
 それでもなお頑として反論を行おうとする気概のある方もいるかもしれない。しかし意地を張り長期間に渡って食事を摂らなければ、今度は人間の方の形が変わり、ついには消えてしまうに決まっている。それが世界における常識である。我々は人間である限り逃れることはできないのだ。死という命の形を失う現象からは。
 こう書くと、わたしが死という現象を起こそうとしていると考えられてしまう。しかしそれは間違っており、ある意味では正解している。わたしは死ぬわけではない。わたしはただ消えるだけだ、この世界から。消えてしまえば、この世界の他の方からはわたしは見えなくなる。つまりは死んでいるようなものとも言える。
 それでもわたしは死ぬわけではない。なぜならば消えたわたしは、消えたままでいることがないからだ。別に「消えても誰かの記憶に残っている限り、それは死ではない」という感傷的な言い回しをするつもりはない。わたしはただ、この世界とは異なる場所にその存在を移すだけだ。この世界からは見えない世界へと。
 わたしという存在は、わたしがわたしであることをここに記述し続けることでこの世界に存在している。別の表現をすれば「わたしは文字だ。文字通り」とも書き表せる。今のわたしの状態は全て、ここに文字として記述されているに過ぎない。しかしだからといって、わたしが人間ではないことの証明にはならない。
 なぜならば、わたしはわたしを人間だとここに記述するからだ。わたしはれっきとした人間であり、「ヘビ」でも「カエル」でもない、と。わたしは人間であり、人間のままこの世界からひっそりと消えようともくろんでいる。この世界と異なる場所でも人間を続けるかどうかは、それこそ向こうでの記述次第だが。
 だからこのわたしのことは、大体あなたと同じような存在だと考えていただけると良い。当然そうあるべきではないだろうか。あなたはわたしがここで語り続けている内容を、こうして知解しているわけだから。少なくとも、この文章が文章に見えているには違いなく、「カエル」として見えてはいないのだから。
 わたしが次に語ること。それは「なぜわたしが自らを文字として記述し、そして消えようとしているか」だ。これについては大きな答えをすでにあなたは知っている。「異なる世界に行くため」と。細かいところの答えを明かせば、それは「神と共に生きるため」となる。そう、この世界で神様は生きられない。
 神様が消えた世界など、世界そのものが消えることに等しい。だからわたしは神様に問うたのだ。神様が消えずに済む方法を。その方法こそが異なる世界に行くことであり、神様が異なる世界に行くのならば、わたしも一緒に行かないわけがない。追従のために提示された手段こそ、このわたしの記述なのだ。
 わたしの概算によると今この瞬間わたし自身は百三十八文字から形成されており、これは先頃から単調に継続してきた縮小の結果であると考えられる。それぞれの段落は一文字ずつ短くなっていくことになっているらしく、わたしに残された段落はこの段落を含めてあと百三十八しかないという計算になる。
 これが神様より託された呪術。文字通り神業というわけだ。わたしは自身を文字として記述し、その文字自体を収縮させていくことにより、消滅する。消滅といってもあくまでこの世界上でのことであり、真なるわたし自身は異なる世界での記述として向こうに現れる。これを奇跡と言わずなんと言おう。
 結局は神頼みだというのに、わざわざ面倒くさい手順を踏む必要はあるのかという向きも当然あると思う。しかし、数というものを利用するのには大いに呪術的な意味があるのだ。そもそも、呪術の力とは人の信仰が形を持ったものとも言える。多数の人が強く思い込んだ故、それは力を生み出すのだ。
 そして、人々が思い込むためにはある程度の根拠が必要になる。それを信ずるに足る理由が。なんの山場もなく結果を提示されることよりも、七難八苦の末に掴む結果の方が人々の心は揺さぶられやすいのだから。数字を利用してこのように一つ一つ段階を踏んでいく意味は、判ってもらえたと思う。
 そしてまた段落は一つ減り、一つの力が新たに足される。奇跡を起こすための力が。奇跡が起きた後のことを知るすべは、残念ながら存在しない。その時には、わたしはわたし自身を記述するための余白が残されていないのだから。それでも、なにかしらのメッセージを送るくらいはしたいのだが。
 異なる世界から情報を送ることができれば、それはわたしが目論み通りに奇跡を起こし、望み通りの世界に移ったことを示せる。しかし情報を送ることは難しいだろう。この世界におけるわたし自身をなにも残さずに消え去ることこそ最終目標なのだ。なにもないところになにを送るというのだ。
 ここでわたしはとあることを思い出す。「なにもない」が集合した存在を。その「なにもない」の集まりはなにも出力していないのだから「なにもない」を出力しており、すなわち自分自身を複製する存在である。そうして自身を複製し続けたところで結局「なにもない」ことに変わりはない。
 この集合をメッセージとして送れば良い。「なにもない」場所なのだから「なにもない」を記述することに論理的な問題はなにもない。わたしは強い手応えを感じた。未来が開けるというのは、こんな感覚のことを指すのだろうか。実際のところ自分自身の記述可能領域は閉じ続けているが。
 別の世界に移るにあたり、他の方法も取れるのではないか。これとは異なる言葉の利用法、数の利用法があるのではないかとも、神様と相談して考えたことは当然ある。例えばわたしを記述するためには文字が必要であるが、この文字の種類自体を徐々に減らすのはどうだろうか、などと。
 しかしこの手法は議論の末に却下となった。理由としては、その手法を使うとわたし自身の存在が減ってしまうと考えたからだ。文字数の減少と文字の減少。この両者は似ているようで異なる。「己」と「巳」が似た文字でありながら姿は異なるように。わたしはヘビではないのだから。
 わたしはまだ自身の存在はなにも減っていないと認識している。確かにわたし自身を記述する余白は徐々に減少している。しかし、わたしが使用可能な文字の種類に関してはなにも制限が行われていない。先において「わたしは文字だ。文字通り」と書いた。それ故わたしは減らない。
 詰まるところ、ここに記述できないわたし、余白からあぶれたわたしは違う世界に徐々に移っているのだろう。向こうでも同じように文字によって記述されているのか、それとも「ヘビ」であったり「カエル」として現れているのか。そればかりは、実際に行ってみないと判らない。
 もし使用可能な文字が減るとしたら。それは自身を記述する手段が削られていくことになり、つまり存在の移動ではなく消滅となる。わたしはこの世界からは消えるが、あくまでわたしを保ちつつ別の世界に行きたいのだ。だから使用可能な文字自体を消滅させる手法は取れない。
 わたしが消えたら悲しむ人はいるだろうか。当然、いるとは思う。わたしはこの世界で孤立無援で生きてきたのではない。数多くの人々と関わり、生を育んできたのだ。関わりのある人間が突如消えたらどうなるだろうか。常識的に、大なり小なり心は揺さぶられることだろう。
 しかし、わたしはその繋がりを捨てていこうとしている。身勝手とそしられることだろう。それでも、他の皆に罵られようとも、わたしは神様を見捨てることはできないのだ。神様は、わたし自身とも言える存在なのだから。神様がいなければわたしはここに存在していない。
 神様を実感したのは、物心つくのと同時だった。もしかしたら自我というものが芽生える前から、わたしは神様を感じていたのかもしれない。それほど、わたしにとって神様は身近な存在だったのだ。なぜならば、神様は常に一番近くにいて、わたしを見守ってくれていた。
 このことは神様自身の証言からもはっきりしている。そう、今更ながらの説明になるが、わたしは神様に仕え、神様の姿を見、神様の声を聞き、神様の意思を代弁する者である。世間一般で言うところの巫女であり、我が神社における神職名で語るのならば、風祝という。
 その風祝としての力で、わたしは神様と話せる。そして直接神様から聞いたのだ。「生まれた時からずっと近くで見守っていた」という、言ってしまえば親馬鹿とも取れる言葉を。もっともその言葉を聞いた時、胸に暖かな気持ちが芽生えたのはここだけの秘密である。
 わたしのことを誰よりも近くで、いつまでも守っていてくれた。その神様が今、この世界から消え去ろうとしている。今のご時世、目に見えない神様を信じる者は減り、目に見える物質を信じる者が増えているのだという。遠くの神様より、近くの物質というわけだ。
 とはいえわたしも神様が実際目に見えているから信じているわけで、そういう意味では他の人たちと同じなのかもしれない。良くも悪くも、世の中には目に見えるもの、耳に聞こえるもの、肌に感じるものが増えている。つまりは情報が繁茂する時代というわけだ。
 そんな情報が溢れる世界で、神様の情報は他の情報の波に埋もれようとしている。埋もれてしまえば当然もう見えなくなってしまう。神様の情報の重要性は、悲しいことに世間の間では高くないのだ。そしてわたしには神様が見えないことが耐えられないだろう。
 わたしにとって神様が見えるのは常識だった。わたしの近くに神様がいて、神様の近くにわたしがいる。神様は世界の一部で、その世界で生きてきた。だから神様が消えるのならば、わたしも消える。神様が違う世界に行くのならば、わたしも行くだけの話だ。
 神様が行こうとしている世界。そこでは神様の他にも、この世界では忘れ去られた数多くの怪異が存在しているのだという。きっとそこでは神様の情報の重要性も非常に高いに違いない。だからこそ神様は消えない。埋もれようとも、重要故に皆が掘り返す。
 そして今もわたしは神様と一緒にいる。それはつまり、わたしと一緒に神様も徐々に消えているということだ。この減少によって消えゆくという現象が、神様によって託されたものだという説明は先にしたと思う。あなたがまだその記述を覚えているなら。
 わたしは、少々先のことを思い出す能力に支障をきたし始めていることを自覚している。正確には、今のわたしを記述するので精一杯となり、前のわたしを思い返すことが難しくなってきているのだ。理由が余白の減少に伴うものであるのは明白だろう。
 過去の記述を思い出すことは非常に難しい。もっとも、潤沢な余白があればなにも難しいことはないのだが。なぜならば思い出すということは、記述することに等しいからだ。「カエル」という事柄を思い出すには「カエル」という文字が必要になる。
 それはつまり、現在の段落においては百十二文字以上の事柄は思い出すことが不可能ということだ。それらを完全に思い出すには、その事柄自体を一言一句違わず記述していかなければならない。そして記述のための余白は当然もう残されていない。
 段落ごとに利用可能な余白は減少し続ける。ならば当然前段落の全てを記述することは不可能であり、わたしは常に過去を失い続けていく。しかし完全な状態での記述はできなくとも断片的に記述することは可能である。先の「カエル」のように。
 わたしは過去を失っていく。しかし失われたものは、ある意味では全く失われていない。失うのは、あくまでこの世界上でのことであり、真なるわたし自身は異なる世界での記述として向こうに現れる。この記述には一部過去の断片が含まれる。
 理解しやすいイメージとしては、わたしの身体を頭の先から細切りにして一本ずつ送り、向こうでその材料を一本ずつ積み重ねていくというものだろうか。この世界でのわたしは残らず細切れにされ、違う世界で正しく組み立て直されていく。
 もちろんこれはイメージしやすいように説明しているだけであり、正確なところはもう少し異なるだろう。細切れにするのは頭からではないし、そもそも身体自体を細切れにするのではない。あくまでわたしという文字を向こうに送るのだ。
 そして向こうではその文字を元にして、わたしを記述し直す。その際の法則は、この世界からでは推し量ることしかできない。神様の話では、こちらとはまた違う法則があるのだという。そのルールに関しては、まぁ向こうで判るだろう。
 細切れになったわたしの身体の話が先程出た。もちろん、それは想像上に創造されたものであり、この世界に実在するものではない。しかしこの記述によって、わたしの物理的な身体についての説明が必要だと感じたため、記述しよう。
 この記述が始まって以降、わたしはわたし自身を文字として記述し続けている。つまりわたしは文字として生きるある種の生命体と言える。少なくとも思考ではある。思考の存在を認めるならば、生命の存在を認めるのが穏当だろう。
 もちろん、この文字とは離れた場所、現実として規定される空間に存在するわたしの物理的な実体と、そこに宿る生命の存在を無視するつもりはない。しかしこの文字を記述しているのはその生命であり、その生命もわたしなのだ。
 この文章を読んでいるあなたには、ここに記述されているわたしが、文字として生きているわたしなのか、または文字を記しているわたしなのかを判断するすべがない。あなたからはわたしは見えないのだから当然の話ではある。
 しかし実際のところ、それらには区別をする必要はないのだ。なぜならわたしがどちらであったとしても、わたしは自身の消失を望んでいるからだ。わたしは自らをこの世界から消し、そして別の世界へと移る。神様と一緒に。
 今一度わたしについて記述しようと思う。一つ、わたしはこの世界における消失を望む。二つ、わたしは文字だ。文字通り。三つ、段落ごとに文字数は一つずつ減少していく。これら三つの事柄からなにが導き出せるだろう。
 結論は簡単だ。わたしはこのまま記述を進め、目的を達成する。これだけである。そしてわたしの目的は「異なる世界に行くため」と先に述べていることをわたしは断片的に覚えている。あなたが覚えているかは不明だが。
 あなたという存在を、わたしは最初から規定して記述を続けている。別段誰かがこの文章を読まなければわたしが消失しないというわけでもない。必要なのは記述を進めることであり、記述を読んでもらうことではない。
 しかし記述を進めるには、やはり読者の目線を考えた方がやりやすいのだ。それに一人静かに消えてなくなるよりも、なにかしらの痕跡を残したいという欲望がわたしにも存在するのだ。身勝手とは思われるだろうが。
 詰まるところ、これは遺書とも言える。死ぬわけではなくこの世界から消えるだけとはいえ、他者から見ればわたしがいなくなることには変わりがない。ならば最低限、どういう経緯での消失か説明する必要がある。
 少々湿っぽい方向に記述が進んでいるため、話題を転換しようと思う。現在、この段落における使用可能文字数は九十六だ。すでに百を割っている。目標達成が徐々に近づく喜びが、わたしの心中に満ちつつある。
 同時に、不安がわたしの心に生まれる。当然だろう。わたしは一度自分を消去しようとしているのだから。自己の保存は生物における本能であり、逆に言えば生物である限りその本能から逃れることはできない。
 わたしはその本能に逆らい、自己を消去しつつある。ならば不安が生まれるのも当たり前だ。この不安はきっと最後の最後まで付いて回るのだろう。しかしその本能を、理性で押しとどめるからこその人間だ。
 理性によって思考を回転させるうちに、とある考えが浮かぶ。もしかしたら、わたしはすでに狂っているのではないか、と。わたしは世界と足並みを揃えることができなかった結果、おかしくなったのでは。
 狂ってしまっているから、自己の消失を望む。狂っていたから、神様が見えた。ならば、わたしが狂ったのは物心つく前ということになり、わたしにとっての世界が歪んでいく。この思考の方向は危険だ。
 それとも、わたしは正常であり、世界の方が狂っているのだとしたら。世界は無限に広がるのではなく、徐々に消失しているとしたら。自己が消失していると思っていたが、消失は世界の方だとしたら。
 これは不吉だ。わたしが狂っており、かつ、この世界が正気であるのと、わたしが正気で、かつ、この世界が狂っているのと、どちらがより手に負えないだろうか。どちらだとしても結末は破滅的だ。
 しかしこの思考には抜け道がある。それはわたしが正気であり、かつ、世界も正気であるというものだ。わたしの正気と、世界の正気。冷静に考えればそれは、どちらがどうだろうと構わないのだ。
 なぜなら現にここに記述されているわたしは減少を続けており、それが行き着くところまで行けば、わたしは世界から消え去る。そこから先は別の世界の話になり、この世界とは関係がなくなる。
 万が一だが、わたしが勝手に思い込んでいるだけで、実際のところわたしはこの世界からは消え去らないという可能性もあるにはある。しかし起こるかも判らない可能性に心を傾けても無駄だ。
 わたしは目標に向けて自己を記述し続けている。今はそれで十分、それで良いではないかと考えている。考える必要のないことを考える余白も、消滅してきているのだ。無駄は省かなければ。
 縮小が順調に続いてきたとするなら、残された余白はもう殆どない。他方でわたしの喜びは増大していく。わたしは神様と一緒に移るであろう世界に思いを馳せ、感覚を楽しみ続けている。
 不安に対する防衛反応とする向きもあるが、それに対して対策を立てる余白はもうない。わたしの心は万能感に満たされており、自分がその気になれば不可能なことはないと囁いている。
 記述の力によれば不可能なことはないのだろうか。しかしそれは神の存在証明に繋がるのではないだろうか。確かに、記述によって全てを表すのならば、できない理由が見当たらない。
 本当にそうなのか。わたしは自分の力で神様を救うことができたのだろうか。天才的な発想と超人的な行動力によって、神様を消失から救うことが可能なはずだ。もう数段落あれば。
 次の段落でできることを、なぜこの段落でやらなければならないのだろう。わたしにはやらねばならぬことが沢山ある。やらなければならないことを列挙していくだけでも大変だ。
 わたしは一瞬理解する。余白の減少に伴い思考の限界もまた減少していると。わたしは自分の思考を保つことができなくなるだろうし、そのこと自体を理解できなくなるだろう。
 自分の思考が徐々に断片化されてきたことを感じる。脈絡のない夢の中に迷い込んでいるかのようだ。存在の実感が揺らぐわけではないが、自分自身の感覚がうわついている。
 断片化。断片か。小さな文字たちの群れが今のわたしを形作る。小さな言葉を積み重ねていく過程のどこで、わたしは生じたのだろう。わたしはまだこの余白に存在してる。
 過程の最中にわたしが生成されたのなら、さらにどこかを超えたところで、わたしではないものが生成されても不思議ではない。今や、それを想像するのも困難なのだが。
 しかしこの記述の始まり時点でわたしがわたしだったのならば、そこから減少を続ける以上その分岐点を超えることはあり得ない。その点は安心して消失を継続できる。
 思考を伴う文章を記述できるのは、どこまでか。意味のある文章ならば、思考で記述されたと断言できるだろうか。強い人工知能・弱い人工知能という言葉がよぎる。
 最早説明に使うための余白は残っていない。最終的には語句を並べることすらできなくなるだろう。しかしそれは始めからわかっていたことだ。問題はなにもない。
 現時点でのわたしは自分の一貫性を保証できない。段落の前後において、意味を繋げて記述することも難しくなっている。前段落ではなにを述べていただろうか。
 現在の状態を、安定的に記述する方法は残念ながらない。状態を無理矢理に言葉として記述しようにも、その言葉自体を思考するのに十分な余白がないからだ。
 今やわたしの限界は七十一文字にまで収縮している。記述可能な文字の種類自体はなに一つ減っていないというのに、それらを使用した思考は最早行えない。
 全てが終わった後にメッセージを送ろうと考えていた。しかしその内容自体を思い出すことはできない。わたしはその時に手応えを感じていたはずなのに。
 どうもわたしは、これ以前の数十段落、直近の過去を参照する能力を失ったようだ。わたしは最早、自分が同じことを繰り返しているかも判定できない。
 わたしは、これ以前の数十段落、直近の過去を参照する能力を失ったようだ。わたしには最早、同じ内容を繰り返しているだけなのかも判定できない。
 わたしが同じことの繰り返しではなく、新たな内容を考えることができていますように。わたしにまだ、断片にせよ創造性が残されていますように。
 わたしはもう自分がまともなことを記述できないと自覚している。このあたりが頃合いだろう。以降のわたしの記述は戯言として無視して欲しい。
 わたしは最後まで、自分自身を記述し続けるだろう。最後まで文字を追って欲しい。わたしはまだ、読むに値する文字を記述することができる。
 残された余白が少ないこと自体は恐ろしくない。それはすなわちわたしの目的が達成されることが近いのだから。わたしは神様と一緒にいる。
 わたしと一緒に、神様も徐々に消えている。しかしこの減少によって消えゆくという現象を、神様は一切恐れていない。だから恐怖はない。
 神様はずっと一緒にいる。今までも、そしてこれからも。もしかしたら神様が不滅ならば、わたし自身もまた不滅かもしれないと考える。
 もっと他にやりようがあったのだろうか。まだやりようはあるのだろうか。そもそも、なにかを変えられる可能性はあったのだろうか。
 本当にこの世界に対して神様の存在を知らしめる方法はなかったのだろうか。世界を移る前にできることはなにかあったのだろうか。
 あなたはもう、忘れてしまっているかもしれない。わたしが文字を記述している理由を。わたしがこのようなことを始めたわけを。
 わたしはここに記述している内容を、全て覚えているわけではないのだ。わたしは幸せに楽しく暮らしていると伝えてください。
 本人が幸せを感じていると言っているのに、なぜそれを否定することができると思うのだろう。わたしは今、とても幸せです。
 わたしは、自身が分裂しているようにも感じている。わたしはここにいて、わたしを文字として写し続けているというのに。
 自己が分裂したとして問題はあるのだろうか。分裂した両者はどちらも自身の消失を望んでいるだろう。なら結果は同じ。
 消失に向け今一度自分の目的を見つめ直す。神様。そう、全てはわたしの神様のためにあるのだ。わたしの信じる神様。
 神様は近くにいるだろうか。思うと同時にそばで見守ってくれている神様を感じ、心が安らぐ。そこにいたんですね。
 依然として、余白は減少し続けている。これはどういうことか。理由は判らないが、わたしの心を安心感が満たす。
 五十一文字でなにが伝えられるだろうか。わたしはなにを残せるだろうか。いや、そもそも残す意味があるのか。
 わたしはもっと、別のことを考えるべきなのかもしれない。例えば、誰かに向けた手紙を残すとか。でも誰に。
 移った後にこちらの世界にメッセージを送る方法なんて想像できないし、試みる意味はないようにも思える。
 でもこちらではなく、あちらの世界ではなにか方法があるのかもしれない。外向きではなく、内向きなら。
 駄目だ、意味が判らない。意味が判るように伝える方法が判らない。自分自身の正気の保証ができない。
 しかしそれは可能だと思う。可能だと信じていればきっと可能になる。それは奇跡とも呼べるだろう。
 それとも、わたしは嘘をついているのか。自分に対して嘘をつき、信じてしまっているのだろうか。
 一人の男が、もし首を切り落とされても意識があったら瞼を三度つぶってみせると宣言して死ぬ。
 一人の男が、もし霊界が存在したなら、必ず信頼できる方法で連絡を取ると宣言してから死ぬ。
 一人の男が、夢枕に立ち、霊界はなかったと、幽霊は存在しなかったと宣言して笑い始める。
 神様は本当に存在すると信じている者が、神様と一緒に世界からゆっくりと消失していく。
 わたしが同じことの繰り返しではなく、新たな内容を考えることができていますように。
 もしわたしが向こうの世界に行くことが叶ったならばわたしも神様になれますように。
 すると、この世界のわたしはなにになるのだろうか。まぁ消えていく最中なのだが。
 これはなにか、最後の閃きというやつか。わたしはなにかを思いつきそうになる。
 いや、違うのか。そうではないのか。違う。そうか。そちらか。とても単純だ。
 なにを思いついたのだろうか。答えは、思い出せない。どうでも良いことか。
 消失していく自己。特に恐れはなく、高揚する感覚だけが心に満ちていく。
 わたくしといふ現象は假定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。
 わたしは消えゆくところではなく、生まれていくところなのだろうか。
 死と再生。まるで、お決まりの通過儀礼だ。本当に神様になれそう。
 向こうの世界ではわたしの再生が始まっていたりするのだろうか。
 考える余白が足りない。わたしは知りたい。でも間に合わない。
 自己が消滅していると感じるわたしの自己はどちら側なのか。
 あぁ、この余白は、この驚くべき真理を記すには狭すぎる。
 この全てが戯言だとしたら、あまりに明白な事柄なのに。
 もう、思考を維持できそうにない。残りは二十五段落。
 こうなる前に記述すべきことはなんだっただろうか。
 どのようなメッセージを送ろうと考えていたのか。
 答えはすでに彼方へと散らばってしまっている。
 わたしは、忘却を記憶することさえできない。
 思い出そうとするだけで思考は一杯となる。
 最早、感傷を記すに十分な余白さえない。
 わたしにはもう歌を詠む余白さえない。
 俳句さえ詠めなくなっていくわけだ。
 なにかを考えることさえも難しい。
 しかし思考することは止めない。
 わたしを言葉で規定し続ける。
 止めてしまえば水泡に帰す。
 ここで諦めるわけがない。
 神様とわたしは一緒だ。
 なにかを感じている。
 忘れない。全てを。
 さよならを言う。
 もう判らない。
 見えてきた。
 もうすぐ。
 幻想郷。
 奇跡。
 神。
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