公園には誰もいなかった。音もなかった。マエリベリー・ハーン以外に人の気配はなく、閑散とした景色だけが広がっていた。
メリーは血で黒く凝り固まった砂場の前に佇み、見てはいけないものを見てしまった。
お昼に食べた蟹のクリームパスタが戻ってきそうだった。
勿体ない、と頭のどこかで静かに考えた。それを塗りつぶすかのように、強い腐臭が鼻をついた。
「もしもし、蓮子。ねぇ、蓮子、なんで電話に出ないの」
表面が黒く固まった砂場には大きな山ができていた。ただ砂をかき集めて積み上げていったような、稚拙な山だった。
そこから人の手足が生えている。
小さな手。指がふっくらとしていて、まだ幼い子供の手。メリーは訳がわからぬまま、指だけで忙しなく携帯電話を操作した。
ぢりぢりぢりぢりぢりぢりぢりぢちりぢりぢちりりぢりりりりりりりりりりり。
頭の中で発信音だけがぐるぐる回るように鳴り響いて聞こえた。
宇佐見 蓮子は電話にはでない。時刻は朝の十時を過ぎたばかりで、まだ講義中なのかもしれない。
あれ、そうだった?
二人の受講科目は異なっている。メリーは彼女の予定を把握しているつもりだったのに、気が動転して、今蓮子が何をしているのかが想像もつかなかった。もしかしたら今日は大学に行ってないのかもしれない。まだ眠っていて、着信に気が付いていないのだ。あのふかふかのベットで、蓮子は寝返りを打っている。彼女は夢見が悪いから、不意をつくように人の腹部に膝を繰り出してくることが、たまにある。
「――ょっと、メリー、メリー!」
気付くと、祈るように握りしめていた携帯電話から耳に馴染んだ声がうるさいほどに発せられていた。
「蓮子!」
「ぐ、うるさ……。なに、朝の十時じゃない。世の中の23%の夜更けまでネットゲームをしてる人たちがまだ就寝している時間じゃないの」
「嗚呼っ、この小憎たらしい言い回し、ほっとするわ!」
「え?」
「ううん、なんでもないわ。それより、ありがとう。今ならこの前、貴方のベットで寝てた時に食らった膝蹴りのことを許してあげられそうな気分よ」
「うそ、あれ、え? それ本当? だったらごめん、全然覚えてないわ」
「それ覚えてないことを謝ってるの? それとも膝をいれたことに謝っているの?」
「メリー。常識で考えて、見覚えのない事で謝らなきゃいけない必要があるとでも?」
「もうその非常識さ加減が最高よ蓮子、後で絶対泣かす」
「ちょっとテンションおかしくない? どうかしたの。いや、メリーの頭がどうかしてるとは常々思っているけども」
「その言葉、覚えておくから。じゃなくて、貴女と面白おかしく話をしてる場合じゃないのよ。私、嵯峨野の方の公園にいるんだけど……そうね、簡潔に言うわ。死んだ子供が砂場に埋められている」
すぐに言葉は返ってこなかった。
電話の向こうで蓮子が思案気に押し黙る姿が目に浮かぶ。
「それってつまり」
メリーは砂の山を見つめ、子供の亡骸を悼みながら一つ頷いた。
「出たわ。殺人鬼が」
半年ほど前から京都の地方新聞を賑わかしている事件があった。公園で親が子供を遊ばせている時、いつの間にか姿を消して、ふと公園内の遊具の何処かに死体となって発見される。メリーの目にとある景色がよみがえった。ワイドショーのレポーターが被害者の母親にマイクを向けた時、母親の泣き崩れる生々しい姿が見られた。顔を涙で濡らしてぐちゃぐちゃに歪める。外聞を気にする余裕もない姿が、見ている方にも似た苦痛を想像させたのだ。
京都市内各公園で一月ごとに事件が続いていた。メリーが見た子供で、被害者は六人に増えた。
「とりあえず、余計なことをしないで大人しく警察を呼ぶといいわよ。下手に逃げたら疑われてしまうかもしれないから」
蓮子の指示は混線していた頭の中へ、綺麗にすっと入り込んだ。
メリーはお礼を述べて電話を切った。彼女に連絡をして、本当に良かった。メリーは目を閉じて一つ、二つ、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。平べったい携帯電話を裏返しにし、電池パックの入ったカバーを指でずらして取る。たまに開ける機会があって、大抵は少しだけ苦戦した上で開くのだけど、今回はすんなりとカバーが開いた。電池を一旦抜き、記録媒体を取りだした。そして、傍に落としていたカバンの中からペン入れを取り出す。ケースにはまた別の記録媒体があった。それを装着し直し、メリーは携帯電話についたカメラを砂山へと向ける。静かな公園にシャッター音が異様なほどに響いた。四枚ほど取って、元の記録媒体に戻す。
「はい、もしもし警察さんでしょうか。私は市内に住んでいる大学生なんですが、ええ、はい。子供の遺体を見つけました。一昨年に火災のあったショッピングモールの近くの、ええ、そこです。そこの公園の砂場です。周りに人はいないです、近くの交番なら……わかりました、そこへ行くようにします」
なるべく動揺を抑えた声は、それでもやはり少しだけ震えがあった。
死体を見つけただけではない。死体を写真でおさめた罪悪感もそこには含まれていた。
必要な事とはいえ、メリーは苦しげに眼を細め、唇を固く結んだ。手を合わせ冥福を祈る。踵を返した。追い風が吹くと、公園内の生き生きとした木々が揺れ、夏の匂いが漂う。晴れ晴れとした夏の盛りの事だった。
風は涼しいが、室内には風でも拭いきれない程の熱気がこもっていた。
メリーはふらふらと立ち上がり、部屋の隅に合った冷蔵庫を勝手に開ける。冷凍コーナーを開くと、小さなカップの、だけど若干高価で美味しいアイスクリームが幾つも並んでいた。メリーの顔に子供が喜んだ時のような笑顔が浮かんだ。楽しげに笑いながら、一つ一つ種類が違うカップを手に取って、どれにしようか丹念に選んでいった。
「メェェリィィ」
おもむろに濡れた腕がメリーの首根に巻きついた。
「きゃあ」
「わー平坦な声。じゃなくて、それ駄目。抹茶食べたらホントに怒るからね」
腕はすぐに離れ、彼女は濡れた髪をタオルで拭いながら、ベットへと腰かける。リモコンでテレビの電源を入れてから、飲みかけのペットボトルに口をつけた。
風呂上がりの蓮子の髪からは、薄っすらと花の香りがした。メリーが使った覚えのないコンディショナーだろうか、今度試しに借りようかと考えながら、メリーはカップアイスを一つ選んで冷蔵庫の扉を閉めた。
「メリーのそれなに?」
「定番のストロベリー」
「抹茶取ってよ。メリーに食われる前に食べとかなきゃ」
「抹茶なんて苦いじゃない。アイスは甘いのに、なんでわざわざそんなフレーバー出してるのかわからないわ」
冷蔵庫から抹茶味を取り、専用の使い捨てスプーンと一緒に放って渡す。
蓮子は頭にタオルを乗せたまま、カップアイスの蓋を取り始める。足を左右交互に揺らし、一匙掬って口へと入れた。
「それが良いの。逆にさ、チーズケーキとかあるけど、あれって普通に本物のチーズケーキ買って食べた方が良いレベルで味が一緒なのよね」
「ちょっと前に期間限定で売ってたの良かったわよ。ラズベリー&チョコクッキー味」
「ふーん?」
スプーンを咥えたまま、蓮子はテレビのチャンネルを変えていった。
なんとはなしにそれを眺めていくと、しばらくしてもテレビの画面はころころと変わり続ける。
流石に辟易としてきたのでメリーは蓮子を軽く睨み付けた。
「ねぇ目が回らないの?」
蓮子は答えなかった。スプーンはまだ口に咥えている。
パキッ、と蓮子の薄い唇の向こうから、小さな甲虫が潰れたような音が生まれた。
「あ」
チャンネルの回転は終わり、一つのニュース番組が映っていた。
途端、心臓が跳ね上がった。先日の嵯峨野の方の公園で起きた事件のことが報じられている。キャスターは時系列をまとめたホワイトボードを見ながら、勝手な憶測を立てていく。メリーの視線はもうテレビから離れることができなかった。
子供は犯人としばらく遊んでいた形跡が見られた。つまり、子供の目で見て、警戒心を抱かない容姿の可能性が高いと、報じられている。
ただし、殺害方法は残忍さそのものが具現したようなものらしい。
手足が切断され、切断口に丁寧に砂を擦り込められていた。加えて、遺体は砂場を掘って頭から逆さに埋められていた。手足を切断された時はまだ、意識が残っていると予想されている、と男性キャスターはわずかに口元を歪めながら平坦な声で原稿を読み上げていく。
「倫理放送委員会に引っかかりそうな番組よね」
蓮子は関心の薄い声で、食べきったアイスのカップをゴミ箱へと放り投げた。そうしてから、ベットから跳ねるように立ち上がり、洋服に袖を通し始める。
「折角だから、どこか食べにでない? 最近、良い蕎麦屋を見つけたから、今日は奢ってもいいわよ」
「本当?」
意外な言葉にメリーは素直に喜びを浮かべた。
「その蕎麦屋は少し遠いわよ。なにせ、嵯峨野まで行かなきゃいけないからね」
にやりと笑う蓮子とは対照的に、メリーの笑みは崩れかけ、口端が引きつっていた。
メリーは血で黒く凝り固まった砂場の前に佇み、見てはいけないものを見てしまった。
お昼に食べた蟹のクリームパスタが戻ってきそうだった。
勿体ない、と頭のどこかで静かに考えた。それを塗りつぶすかのように、強い腐臭が鼻をついた。
「もしもし、蓮子。ねぇ、蓮子、なんで電話に出ないの」
表面が黒く固まった砂場には大きな山ができていた。ただ砂をかき集めて積み上げていったような、稚拙な山だった。
そこから人の手足が生えている。
小さな手。指がふっくらとしていて、まだ幼い子供の手。メリーは訳がわからぬまま、指だけで忙しなく携帯電話を操作した。
ぢりぢりぢりぢりぢりぢりぢりぢちりぢりぢちりりぢりりりりりりりりりりり。
頭の中で発信音だけがぐるぐる回るように鳴り響いて聞こえた。
宇佐見 蓮子は電話にはでない。時刻は朝の十時を過ぎたばかりで、まだ講義中なのかもしれない。
あれ、そうだった?
二人の受講科目は異なっている。メリーは彼女の予定を把握しているつもりだったのに、気が動転して、今蓮子が何をしているのかが想像もつかなかった。もしかしたら今日は大学に行ってないのかもしれない。まだ眠っていて、着信に気が付いていないのだ。あのふかふかのベットで、蓮子は寝返りを打っている。彼女は夢見が悪いから、不意をつくように人の腹部に膝を繰り出してくることが、たまにある。
「――ょっと、メリー、メリー!」
気付くと、祈るように握りしめていた携帯電話から耳に馴染んだ声がうるさいほどに発せられていた。
「蓮子!」
「ぐ、うるさ……。なに、朝の十時じゃない。世の中の23%の夜更けまでネットゲームをしてる人たちがまだ就寝している時間じゃないの」
「嗚呼っ、この小憎たらしい言い回し、ほっとするわ!」
「え?」
「ううん、なんでもないわ。それより、ありがとう。今ならこの前、貴方のベットで寝てた時に食らった膝蹴りのことを許してあげられそうな気分よ」
「うそ、あれ、え? それ本当? だったらごめん、全然覚えてないわ」
「それ覚えてないことを謝ってるの? それとも膝をいれたことに謝っているの?」
「メリー。常識で考えて、見覚えのない事で謝らなきゃいけない必要があるとでも?」
「もうその非常識さ加減が最高よ蓮子、後で絶対泣かす」
「ちょっとテンションおかしくない? どうかしたの。いや、メリーの頭がどうかしてるとは常々思っているけども」
「その言葉、覚えておくから。じゃなくて、貴女と面白おかしく話をしてる場合じゃないのよ。私、嵯峨野の方の公園にいるんだけど……そうね、簡潔に言うわ。死んだ子供が砂場に埋められている」
すぐに言葉は返ってこなかった。
電話の向こうで蓮子が思案気に押し黙る姿が目に浮かぶ。
「それってつまり」
メリーは砂の山を見つめ、子供の亡骸を悼みながら一つ頷いた。
「出たわ。殺人鬼が」
半年ほど前から京都の地方新聞を賑わかしている事件があった。公園で親が子供を遊ばせている時、いつの間にか姿を消して、ふと公園内の遊具の何処かに死体となって発見される。メリーの目にとある景色がよみがえった。ワイドショーのレポーターが被害者の母親にマイクを向けた時、母親の泣き崩れる生々しい姿が見られた。顔を涙で濡らしてぐちゃぐちゃに歪める。外聞を気にする余裕もない姿が、見ている方にも似た苦痛を想像させたのだ。
京都市内各公園で一月ごとに事件が続いていた。メリーが見た子供で、被害者は六人に増えた。
「とりあえず、余計なことをしないで大人しく警察を呼ぶといいわよ。下手に逃げたら疑われてしまうかもしれないから」
蓮子の指示は混線していた頭の中へ、綺麗にすっと入り込んだ。
メリーはお礼を述べて電話を切った。彼女に連絡をして、本当に良かった。メリーは目を閉じて一つ、二つ、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。平べったい携帯電話を裏返しにし、電池パックの入ったカバーを指でずらして取る。たまに開ける機会があって、大抵は少しだけ苦戦した上で開くのだけど、今回はすんなりとカバーが開いた。電池を一旦抜き、記録媒体を取りだした。そして、傍に落としていたカバンの中からペン入れを取り出す。ケースにはまた別の記録媒体があった。それを装着し直し、メリーは携帯電話についたカメラを砂山へと向ける。静かな公園にシャッター音が異様なほどに響いた。四枚ほど取って、元の記録媒体に戻す。
「はい、もしもし警察さんでしょうか。私は市内に住んでいる大学生なんですが、ええ、はい。子供の遺体を見つけました。一昨年に火災のあったショッピングモールの近くの、ええ、そこです。そこの公園の砂場です。周りに人はいないです、近くの交番なら……わかりました、そこへ行くようにします」
なるべく動揺を抑えた声は、それでもやはり少しだけ震えがあった。
死体を見つけただけではない。死体を写真でおさめた罪悪感もそこには含まれていた。
必要な事とはいえ、メリーは苦しげに眼を細め、唇を固く結んだ。手を合わせ冥福を祈る。踵を返した。追い風が吹くと、公園内の生き生きとした木々が揺れ、夏の匂いが漂う。晴れ晴れとした夏の盛りの事だった。
風は涼しいが、室内には風でも拭いきれない程の熱気がこもっていた。
メリーはふらふらと立ち上がり、部屋の隅に合った冷蔵庫を勝手に開ける。冷凍コーナーを開くと、小さなカップの、だけど若干高価で美味しいアイスクリームが幾つも並んでいた。メリーの顔に子供が喜んだ時のような笑顔が浮かんだ。楽しげに笑いながら、一つ一つ種類が違うカップを手に取って、どれにしようか丹念に選んでいった。
「メェェリィィ」
おもむろに濡れた腕がメリーの首根に巻きついた。
「きゃあ」
「わー平坦な声。じゃなくて、それ駄目。抹茶食べたらホントに怒るからね」
腕はすぐに離れ、彼女は濡れた髪をタオルで拭いながら、ベットへと腰かける。リモコンでテレビの電源を入れてから、飲みかけのペットボトルに口をつけた。
風呂上がりの蓮子の髪からは、薄っすらと花の香りがした。メリーが使った覚えのないコンディショナーだろうか、今度試しに借りようかと考えながら、メリーはカップアイスを一つ選んで冷蔵庫の扉を閉めた。
「メリーのそれなに?」
「定番のストロベリー」
「抹茶取ってよ。メリーに食われる前に食べとかなきゃ」
「抹茶なんて苦いじゃない。アイスは甘いのに、なんでわざわざそんなフレーバー出してるのかわからないわ」
冷蔵庫から抹茶味を取り、専用の使い捨てスプーンと一緒に放って渡す。
蓮子は頭にタオルを乗せたまま、カップアイスの蓋を取り始める。足を左右交互に揺らし、一匙掬って口へと入れた。
「それが良いの。逆にさ、チーズケーキとかあるけど、あれって普通に本物のチーズケーキ買って食べた方が良いレベルで味が一緒なのよね」
「ちょっと前に期間限定で売ってたの良かったわよ。ラズベリー&チョコクッキー味」
「ふーん?」
スプーンを咥えたまま、蓮子はテレビのチャンネルを変えていった。
なんとはなしにそれを眺めていくと、しばらくしてもテレビの画面はころころと変わり続ける。
流石に辟易としてきたのでメリーは蓮子を軽く睨み付けた。
「ねぇ目が回らないの?」
蓮子は答えなかった。スプーンはまだ口に咥えている。
パキッ、と蓮子の薄い唇の向こうから、小さな甲虫が潰れたような音が生まれた。
「あ」
チャンネルの回転は終わり、一つのニュース番組が映っていた。
途端、心臓が跳ね上がった。先日の嵯峨野の方の公園で起きた事件のことが報じられている。キャスターは時系列をまとめたホワイトボードを見ながら、勝手な憶測を立てていく。メリーの視線はもうテレビから離れることができなかった。
子供は犯人としばらく遊んでいた形跡が見られた。つまり、子供の目で見て、警戒心を抱かない容姿の可能性が高いと、報じられている。
ただし、殺害方法は残忍さそのものが具現したようなものらしい。
手足が切断され、切断口に丁寧に砂を擦り込められていた。加えて、遺体は砂場を掘って頭から逆さに埋められていた。手足を切断された時はまだ、意識が残っていると予想されている、と男性キャスターはわずかに口元を歪めながら平坦な声で原稿を読み上げていく。
「倫理放送委員会に引っかかりそうな番組よね」
蓮子は関心の薄い声で、食べきったアイスのカップをゴミ箱へと放り投げた。そうしてから、ベットから跳ねるように立ち上がり、洋服に袖を通し始める。
「折角だから、どこか食べにでない? 最近、良い蕎麦屋を見つけたから、今日は奢ってもいいわよ」
「本当?」
意外な言葉にメリーは素直に喜びを浮かべた。
「その蕎麦屋は少し遠いわよ。なにせ、嵯峨野まで行かなきゃいけないからね」
にやりと笑う蓮子とは対照的に、メリーの笑みは崩れかけ、口端が引きつっていた。