「優曇華」
薬草の栽培室で、私は弟子の名を呼んだ。
同じ部屋にいるわけではない。また、部屋を出てすぐのところにいるわけでもない。だから、普通ならこうして呼んでみたって、彼女は来やしない。
が、あの耳はどこからでも私の声を聞きつける。ケモッ娘の聴力を舐めてはいけないのである。ただし耳を物理的に舐める、もといペロペロするのは良い。さらに言うなら、ハミハミするのは凄く良い。たまらない。
永遠亭はケモッ娘(擬人化兎)の楽園である。好きなときにケモッ娘の耳をハミハミできるだなんて、私はなんて幸せな生活を送っているのだろう。神に感謝しなくては。
ああ、でも、もしできたら、今度八雲家や妖怪の山や地底を訪ねてみたい。そして思う存分モフモフペロペロハミハミにゃんにゃんしたい。
噂では、この幻想郷には、ネズミっ娘さえもいるそうじゃないか。ああ、尻尾の付け根をぐりぐりしたい、お腹をなでなでしてみたい。
「師匠?」
「あら、いたの優曇華」
見るものを魅了する完璧ナーススマイルで弟子を迎える。
彼女の耳はいつものようにうな垂れていた。ああ、甘噛みしたい。
「何の御用でしょうか?」
貴女の耳をハミハミしたいのよ。そしてそのまま耳でぺちぺちされたいの。
と言いたいところだが、グッとこらえる。そういったことはTPO、タイム・プレイス・オケイションが大事なのだ。それを間違えるほど、私は落ちぶれていない。ケモッ娘は貴重な財産、大事に扱わなくては。
今すべきは尻尾なでなでだ。いや違う。
「これとこれと、あとあの薬草の成長を促進させてくれるかしら?」
私の弟子はただのケモッ娘ではない。言うならば、一味違うケモッ娘だ。
どういうことか説明しよう。彼女の眼は、物の波長を操るのである。彼女自身はそれを「狂気の瞳」などと呼んでいるが、この能力で操れるのは狂気どころではない。応用すれば、その使い道は無限に広がるのだ。
そして、その無限大の使い道の一つが、今頼んだ「薬草の成長促進」である。
薬草の波長を操り成長を速めれば、栽培にウン十年かかるものも、ほんの数週間で収穫できるのだ。結果、研究や製薬がとてもはかどるし、貴重な薬もポンポン作れる。
これこそが、優曇華が他のケモッ娘とは一味違う理由である。愛弟子である。
「すいません師匠それ無理です」
惜しむらくは、彼女が私の弟子であり、私が彼女の師匠であるということだ。
いや、だからこそ、ヤブに教わって変な知識を身につける恐れがなくてすむのだが、最大の問題がある。
甘やかせないのである。師匠たるもの、弟子を甘やかすようではいけない。だから私は、例えば優曇華をだっこぎゅーして耳とかほっぺとかぷにぷにしたり、貴女は可愛いわね偉いわね本当に凄いわねって褒めちぎったりできないのである。
私にできるのは、せいぜい、お疲れ様と声をかけてやるとか、味も栄養バランスも完璧な食事を考えてやるとか、うたた寝してる優曇華が風邪をひかないように毛布をかけてやるとか、あと冬に耳が冷えたりしないように特製耳カバーをつくってやるとか、国士無双の薬の四回目で敵が吹っ飛ぶようにしといてやるとか、てゐが作った落とし穴を先に埋めといてあの玉の肌が傷つかないようにしておいたりする程度だ。
本当はもっと色々してあげたいのである。甘やかせないとは本当に辛いことだ。
だがこれが、師匠という立場の定めなのである。だから優曇華には、いかに彼女が辛くとも、我慢してもらわなくてはならない。辛く当たってごめんなさい優曇華。でも私だって辛いのよ――。
「師匠……?」
「どうかしたかしら?」
胸にこみ上げてくるどうしようもない悲しみと、両目から滝のようにこぼれる涙を必死に押し隠して、再び八意印のパーフェクトスマイルを見せる。
師匠たるもの、弟子に弱さを見られてはならないのである。ああ、なんて無常な摂理。でも挫けてはならない。師匠であることを押し通さなくては。優曇華の明るい未来のためにも。
「や、ですから、申し訳ないですけど、植物の成長促進は無理です」
嗚呼! そうね、優曇華、私が間違っていたわ。きっと貴女は今、色々な仕事の疲れが溜まってへとへとなのね。狂気の瞳なんて使う体力が無いのね。
ごめんなさい、今日はゆっくり休むと良いわ。いえ、貴女が望むなら明日も明後日も!
「なんなら有給休暇ならぬ悠久休暇でもいいのよッ……!」
「師匠……?」
「優曇華、疲れているのならいつでも言いなさいね?」
「え、あの、お気持ちはありがたいですけど、別に疲れてはないですよ?」
「え?」
あら、私の早とちりだったの。――はて、では何故、優曇華は狂気の瞳が使えないのだろう?
ここで私は、ある最悪の発想に至った。
反抗期だ。
ひょっとして優曇華は、私に対する反抗期に入ったのではないだろうか。もっと分かりやすく噛み砕くなら、私のことが嫌いになったのではないだろうか。もしそうなら、この世の神という神は死ぬ。そして私は運命を憎悪する。
「ああ……なんということなの……」
「師匠、何考えてるのか存じ上げませんが違います」
神はまだ生きていたわ……!
良かった、私の最愛の弟子は私を見捨ててはいなかった。この事実だけで、あと数百年は生きていける。どっちにしろ死なないが。
それはさておき、だ。疲労でも反抗期でもないとしたら何だろうか。
彼女の能力は、一日何回までと制限されているようなタイプのものではない。よほど酷使すれば話は別だろうが、そんなことは私がさせない。
当然だ。もし酷使して、私の可愛い優曇華が、肌荒れを起こすとかニキビに悩まされるとかなったら、それは人類最高の宝に傷がつくのに等しいではないか。
「ふむ」
五秒くらいの思考で思いついた仮説は、およそ二万五千パターン。さらに五秒かけ、ありそうにないものから順に消去していく。
結果、ゼロになった。一段階もどす。一つ。これだ。根拠にはイマイチ欠けるが、私のポン、いやチー、いやカンがそう告げている。
「さては貴女、優曇華と見せかけて実はてゐね!?」
あまりに似ていて気付かなかったがそうに違いない。もうだまされてなるものか。
まったく、八意永琳一生の不覚である。私が「一生の何々」を背負ったら、つまり永遠に消えないじゃないか。おのれ、てゐ。
「違いますよ。第一、私とてゐじゃ背格好からしてまるで違うでしょうに」
優曇華がいうからには疑う余地無く真実だろう。これで最も有力な仮説が潰れてしまったことになる。
どうせなら理由を訊かずともズバリと当ててみせたかったのだが、できないようだ。
優曇華が「凄いです師匠!」と目を輝かせるシーンを見たかったのだが、どうも無理らしい。血涙が出そうだが諦めるしかない。
「悪いけれど、どうしてか教えてくれるかしら?」
怒っていると思われないよう、細心の注意を払いつつ理由を訊いた。優曇華を怖がらせてはいけないからだ。ケモッ娘を怖がらせるようなやつは馬に蹴られてしまうがいい。
優曇華は、少し苦笑しながら答える。
「いえそれが、ヒトミちゃん、『コレ』ができたから先月でやめちゃって」
「……は?」
小指を立てつつ言った優曇華。意味が分からない。
さらに優曇華は続ける。
「今はヒトミちゃんの後輩の、アケミちゃんが働いてます」
「……?」
「なので今私、狂気の瞳は使えませんけど、夜の蝶の明美が使えますよ」
――ねえ優曇華。
あなたの能力って、源氏名だったの……?
それにしても序盤から師匠かっ飛ばしすぎです。や、異論の余地は無いのですが。
あの耳でぺちぺちされたい。