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夢が偽りだというのならこの世界は嘘吐き達の住む箱庭
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第十一節 魔導の図書館
霊夢と魔理沙が駅近くの繁華街を歩いていると、急に傍から呼び止められた。
「霊夢さん、魔理沙さん、こんな所でなにしてるんですか? 遊んでるんですか?」
振り返ると痩せぎすの男が立っていた。見覚えは無い。
霊夢と魔理沙の二人は一瞬訝しむ様に表情を変えたが、驚く事無く、男と向かい合う。相手の気配で分かる。この痩せぎすの男は人間ではない。
「天狗?」
「ええ、そうですよ。あれ、やっぱり分かります? 外見は人間の筈ですけど」
「何となく」
「流石巫女様。それでその巫女様はここでなにしてるんですか? まさか遊び歩いているんですか? 射命丸さんから依頼は受けてるんでしょ?」
咎める様な、無遠慮な言い草に、魔理沙が気色ばむ。
「だから、今からその手掛かりを探しに行くとこだよ。お前に言われなくてもちゃんとやってる!」
天狗は何処か皮肉げな態度で息を吐いた。
「ああ、それは良かった。早く解決してくれないと危ないですからね。うちの連中は血の気が多いから」
それを聞いて霊夢の目が細まった。
「脅してんの?」
「違いますよ。天狗はあなたに手を出しません。そっちじゃなくて、町の方。吸血鬼とか訳の分からんのが何かしようとしているからってんで、暴力で解決しちまえってのが多いんですよ、天狗には」
「天狗らしいじゃん」
「そうです。実にそう。天狗らしい。後の事なんて知ったこっちゃないと言わんばかりの奴等ばかり。だからまずいんですよ。天狗の集団が町で暴れたらどうなるか、想像はつくでしょう? 天魔様が抑えてきましたが、今は衰えも見えている。今はまだですが、いずれ頭が変わったとしたら、ああ、考えるだけでも恐ろしい。射命丸さんが上に立ってくれると良いんですか」
「べらべらしゃべるわね」
「確かにその通りです。本来天狗は多弁を好まない。だから射命丸さんを好まない者も多い。それに穏健な思想も受け入れられ難い。だから勢力争いが」
「いや、あんたの事」
会話が噛み合わない上に、内容も天狗達の話で霊夢や魔理沙と関係が無い。面倒になった魔理沙は話を打ち切る事にした。
「もう良いよ、霊夢。ほっとこう。行こうぜ」
「そうね」
背を向けた二人に近付いて、男は念を押す。
「繰り返しますけど、是非早めに解決をお願いします。吸血鬼がもしも来たら、本当に戦争が起こるかもしれない」
「分かったけど、私達にばっかなすりつけんなよ。妖怪の事なんだから妖怪で片付けろ」
「それはその通りですが」
「そもそもなんで射命丸は私達に頼んだの?」
「射命丸さんの考えは分かりません。ただあなた達なら解決出来ると信じている様です」
「嘘くさ」
「おべっかも好い加減にしとけよ」
「いえ、本当に。ともかくお願いします」
「分かってるって」
そう話を打ち切って二人は歩き出す。
しばらく歩いて振り返ると、男はまだ霊夢達を見つめている。
気味の悪さと苛立ちで、二人は足早にその場を離れた。
繁華街を抜け、オフィス街に差し掛かる。先程まで聞こえていた喧騒は失せ、夜は森閑と静まっている。ビルの隙間を縫う風と何処からか聞こえるサイレンがほんの微かに聞こえてくるが、それも静寂を強めるだけだ。
寂しい雰囲気だと霊夢は思う。
辺りは静まり返っていて物寂しい。無機質なビルの並ぶ景色は凍りついているみたいだ。
それなのに隣を歩く魔理沙を見ると意気揚揚としている。町の光に照らされたその顔は底抜けの笑顔だ。
その対比が不意に言い知れない予感をもたらした。
だがその予感が何を意味しているのか知る前に、振り返った魔理沙と目が合って、思考が中断される。
「私の顔に何かついてるか?」
「何も。何で?」
「何か見てたじゃん」
「見てない」
「嘘」
「見てない」
魔理沙は鼻を鳴らすと、空を指差した。
「霊夢、ふざけてる場合じゃないんだぜ。さっきの天狗の話とは関係なく、この依頼は私達の探偵人生の成否を握っていると言っても過言じゃないんだ。こんぐらい解決出来きゃ探偵としてやってけないぜ」
「なら難しそうね。答えを探そうにも問題自体が間違っていそうだもの」
「おっ。何でそう思うんだ?」
「だって射命丸の言っていた事が全然信用ならないじゃない。あの説明じゃ、私達に頼む必要性は感じられない。背景の説明も穴が多かった。そもそも吸血鬼が危険だから私達に調べさせるなんて変よ。怪しい妖怪は吸血鬼だけじゃない。いえそれ以上に怪しい奴等が沢山居る。それに調査させるにしたって、あの射命丸の事よ、本気で調査を頼もうとしてるなら、最低限まともに調査出来る情報を寄越す筈。なのにこーんな漠然とした依頼で、しかも何の手掛かりも教えてくれない。その癖、レミリアって吸血鬼が何かしようとしているから、来日前に調べておけだなんて、普通に考えたら不可能。不可能な事を、あの射命丸が頼む筈が無い。だから今回の依頼は最初から不可解で不可能なのよ」
「あの後、色色聞いたけど、何を聞いても知らないの一点張りだったしな」
「そう。不可能よ。よっぽど劇的なヒントが道端に転がってるならまだしも」
「藁をも縋るってやつかもな」
「だからいずれにしたって無理なのよ。射命丸の後ろには妖怪の山がある。それが全く尻尾を掴めて居ないんじゃ、私達に出来る訳が無いじゃない」
「それ言っちゃう? 無理って言葉はご法度だぜ」
「魔理沙は何を考えてるの?」
「何って?」
「何であんたは依頼を受けた訳? 明らかに怪しいのに」
「霊夢だって」
魔理沙はくつくつと笑って霊夢へ振り返った。
「無理だってのは承知の上さ。でも受けない理由が無いだろ? 他に仕事を受けてる訳でもなく、暇なんだし。大金も貰えるってんだから、受けない理由が無い。貰った前金は解決出来なくても返さなくて良いって言うし」
「けど射命丸が何か企んでるとしたらそれに乗っかる事になる。射命丸は多分私達を動かす事で、事態を引っ掻き回そうとしている」
「乗っかっといて危なくなったら途中で降りれば良い」
「あんたね」
「それに」
「それに?」
「世界的に有名なモデルで、まだ見た事も無い吸血鬼。ちょっと見てみたいじゃんか」
「あんた、そういうところあるわよね」
「一言で言えば面白そうだから。これ以上の理由があるか?」
霊夢は呆れて溜息を吐く。
「無いわね」
「だろ? それで霊夢は? さっきから無理とか不可能とか言ってたけど、確かに怪しいのは一目瞭然。いつもの霊夢なら承知しないだろうな。なのに何で霊夢もこの依頼を受けたんだよ」
「勘」
「どんな?」
「この依頼を受けておいた方が良い様な気がしたの。何となくね」
魔理沙は笑う。笑って霊夢の肩を叩く。
「私は信じるぜ。その勘」
「あんまり自信は無いけど」
「つまりこんな難しい事件は私達しか解決出来無いって事さ!」
根拠の無い笑顔を向けてくる魔理沙に、霊夢も笑みを見せる。
全く根拠が無い事を誤魔化す為であるにせよ、その笑顔は確かに自信を呼び起こした。
この事件はきっと自分達にしか解決出来無い。
そう思うと優越感が湧く。
「そうね。その通り」
そうして二人は空を見上げた。既に目的地に着いていた。見上げた先には巨大なビル。今日の昼間にも訪れたビルだ。闇の中で壁面が茫洋と光っている。
「なあ、霊夢。何でビルが光ってるか分かるか?」
「何でって? ビルって夜は光ってるものじゃないの?」
「違うんだなぁ。飛んでる鳥とかがぶつからない様に、昼は光を吸収して、夜は光を発する様に出来てるんだ」
「へえ、そうなの。で?」
「探偵ってのはそういうもんだって事さ」
そう言って、魔理沙は何処からともなく箒を取り出し、にっと笑って跨った。
「意味分かんない」
「ちゃんと考えな」
「どうせ適当なんでしょ」
霊夢も魔理沙の乗る箒にまたがる。
「おい、霊夢は自分で飛べるだろ」
「良いじゃない。人に頼った方が楽なのよ」
そう言って、魔理沙を背から抱き締めた。
霊夢と魔理沙は空を飛べる。比喩でも何でも無く、自在に空を飛ぶ事が出来る。ただ同じ空を飛ぶにしても二人には違いがある。霊夢が生まれながらにして才能で空を飛べたのに対して、魔理沙は魔術を習得して努力で空を飛べる様になった。そして霊夢が自分の空を飛ぶ能力を嫌っているのに対して、魔理沙は積極的に空を飛ぼうとしている。
霊夢は自分の能力が好きではない。それは生まれに問題がある。霊夢が生まれたのはある宗教の神座を守る家系の分家で、本家に隷属すべき立場だった。主筋が絶対。分家は本家を立てろという考えが蔓延していた。当然霊夢という存在も本家の跡取りよりも下であり、全てにおいて劣っていなければならなかった。だが幼い霊夢はそんな事を知らず、家の集まりで空を飛んでしまった。本家の跡取りよりも先に才能を見せてしまった。それはあってはならない事で、その日を堺に霊夢の家は苛烈な嫌がらせを受ける様になった。主従の立場を守ろうと、幼い霊夢を刺し殺そうとする者まであった。とにかく常識外れの悪意に晒された。
らしい。
幼かった霊夢はその事を覚えていない。当時の情報は、殆ど今の保護者である紫から教えられた事だ。
確かに脳みそを揺さぶる様な怒鳴り声の雑音は偶に思い出す。そして背中には刺し跡が残っている。
それ等は全て状況証拠であって、幾ら当時の話を聞かされてもかつての事を思い出す事は無い。家が何処にあったのかすらも覚えていない。どうやって自分が捨てられて、魔理沙に出会ったかも。魔理沙の話では擦り傷だらけで衰弱しきり、死にかけていたとの事だが、覚えていなし、覚えていなくても良い事だ。
だから過去の記憶が無い事をそれ程気にした事は無い。
けれど時偶過去に囚われていると感じる事がある。
空を飛ぶのが嫌いなのもその一つだ。
一方で、魔理沙はその反対だ。
魔理沙も家から捨てられた。ある日突然。何の理由も無く、家から追い出された。魔理沙は霊夢と違って追い出された時の事を覚えているが、幾らその時の事を思い出しても、追い出された理由に心当たりは無いそうだ。ただ、魔理沙は自分が追い出された原因を劣っていたからだと信じている。自分が他人とくらべて劣っていたから家族が怒ってしまったのだと。
そんなのまだ学校にも通っていなかった幼い魔理沙を追い出す理由にならないと霊夢は疑問に感じるが、とにかく魔理沙はそう信じている。だから紫に拾われた魔理沙は魔術を勉強する様になった。未だ科学が未知の部分にある技術。それを習得すれば他人とは違う人間になれるだろうと。そして実際に魔術を習得して空を飛べる様になった。それは魔理沙にとって過去を払拭した何よりの証なのだ。
だから魔理沙は飛ぶ事を躊躇わないし、むしろ積極的に魔法で空を飛ぼうとする。それは他人と違う優れた技術だから。
霊夢と魔理沙の飛ぶ事に対する立ち位置はそんな風に違う。
「しょうがないな。じゃあ、行くぜ、霊夢」
「オッケー」
魔理沙と霊夢を乗せた箒がふわりと浮き上がる。紐で釣られているかの様に空へと上っていく。
「随分上手くなったわね」
霊夢は、魔理沙がまだ魔法を覚えたてだった頃を思い出す。その時は右へ左へ上へ下へとふらついて如何にも危なっかしかった。あれから一年経って今ではもう危なっかしさなんてまるで感じられない。箒は魔理沙の意のままに上昇していく。
もう数年。
霊夢は何となく昔の事を思い出す。紫に拾われる前は二人であちらこちらを彷徨っていた。時には親切な人に拾われ、時には施設に入れられ、時には警察に捕まった。そしていずれも追い出され、放り出され、逃げ出して、結局何処かに定住する事は無く、施しを受けたり犯罪を犯しながら何とか生き抜いていた。
そんな生活の中で、霊夢は確信した事がある。
自分の居場所は誰かから与えられるものではない。
当たり前の事だが、それが身に沁みた。
結局自分の場所は自分で手に入れなくてはいけない。そして守らなければならない。社会や他人は容易にこちらの居場所を壊そうとしてくる。施設の子供達からは鬱憤ばらしに謂われのない暴力を受けた。野宿をしていた時には警察に追い払われたり追われたりで住居や生活手段を失った。同じ宿無しに食料やお金を奪われたりもした。それを防ぐには力が必要で、その力は自分のものでなければならない。
霊夢はまだそういう力を持っていないし、自分で習得しようと努力もしていない。悪意のある言い方をすれば、紫に飼いならされていると言える。でも魔理沙は違う。自分の力を手に入れる為に、魔術を勉強して、実際に今こうして空を飛んで見せている。それは羨ましく、同時に他人事である筈なのに誇らしかった。
「もうあれから一年だからな。そりゃ上手くもなるさ」
「うん」
「て言っても、魅魔さんにはまだまだ未熟って言われてて、簡単な魔法しか教えてもらってないけど」
「うん。でもそれだけでも凄いんでしょ?」
「魅魔さんはそう言ってくれるけど、でもなぁ、もっと色色やりたいよなぁ。危ないとか言って教えてくれないなんてけちだよなぁ。せめて新しい魔導書の一冊でもあれば」
魔理沙がぼやく。それを聞いた霊夢は魔理沙を抱きしめる力を強めた。
「この事件、絶対解決しようね」
「え? おう、勿論だぜ」
周囲は自分達を認めていない。それはつまり自分達だけの居場所をまだ持てていないという事だ。
この事件を解決して、皆に自分達が探偵である事を認めさせ、そして二人の居場所を作りたい。
霊夢はそう願う。
「とにかくまずは手掛かりを」
「ああ。と言ってもレミリアが何をしようとしているか調べようにも、レミリアは中国に行ってる、日本に来てから調査出来りゃ良いけど、期限がレミリアの入国前ってなら、手掛かりはあのオフィスしか無いよな」
そう言いながら、魔理沙は箒の柄の先端を空に向けた。空に上る速度を一気に上げて、ビルの壁面を滑る様に、垂直に進んでいく。吹き荒れる風に吹き飛ばされない様に、魔理沙は箒を手と足でしっかりと掴み、霊夢は魔理沙の体を手足で抱きしめる。
「ねえ、魔理沙」
風に負けない様、霊夢は叫ぶ様に言った。
「どうした?」
「世界的なモデルの居る場所ってどんな所だと思う?」
「さあ? 知らないけど、多分きらきらしてんだろ! 夜空に咲く花火みたいにさ!」
魔理沙はケラケラと笑いながら箒の柄を傾けて宙返りする。光を放つ窓。強烈な光で中は窺えないが、レミリアのオフィスがある筈だ。
「っていうか、レミリアに直接会って聞いてみれば良いんじゃね?」
魔理沙は笑顔で箒を操り、窓を打ち破る為に突っ込んだ。
侵入者。
女性は掠れた声で呟くと、読んでいた本を閉じて、部屋の入り口に顔を向けた。従者達に緊張が走る。傍らの従者が女性にか細い声を掛けた。
「パチュリー様」
パチュリーと呼ばれた女性は口元に人差し指を立てると、息を整え、手を下ろす。それを合図に、扉が独りでに開く。パチュリーも従者達もすぐに扉の向こうに攻撃出来る様に身構える。
やがて扉が開ききった。
扉の向こうは照明の落ちた闇。
そこに居る筈の侵入者が居ない。
「消えた?」
初めから居なかったとは思えない。
今、パチュリーの頭の中には異常な量の警報が響き続けている。一階からこの部屋の扉までの殆ど全てのトラップが作動している。
それは侵入者が扉の前まで来た事を表している。
だが現に居ない。
まるで煙の如く消え失せてしまった。
それだけなら逃げたで説明がつくのだが、状況は更に複雑だ。
何故なら警報は、同時に鳴り始めたのだ。ビルの入口からエントランス、エレベータ、そしてオフィスのあるこの階にも至るところに、侵入者の検知や惑乱、排除をするトラップが仕掛けてあった。それが同時に作動したのだ。トラップが正常に作動したというのなら、まるで光の速さでビルの中を突き進んできたかの様に、全てのトラップに同時に引っかかった事になる。とはいえ、誤動作にしては全てのトラップが一斉に壊れたとも思えない。侵入者が狂わせたにしても、何故ビル中のトラップを作動させたのか分からない。それにどういう意味があるのかパチュリーには理解出来無い。
万が一、侵入者が全てのトラップを誤作動させたとして、何故そんな事が出来るのに、扉の前で警報に引っかかったしまったのかも、おかしな話だ。この部屋の扉の防衛機構は、特別強固にしてあるから、それを破れなかったというのは納得出来無い事では無いが、詰めの甘さには疑問を覚える。
今起こった出来事は考えれば考えるだけ、理に適わなくなる。そしてその答えを知るであろう犯人が消えてしまった。
それが恐ろしい。いくら考えても答えが出ないのだ。未知の脅威がいつ自分の寝首を掻くか分からないという事である。
だが怖がっていては周りの物を不安にさせる。ただでさえ部屋の中には緊張が満ちているのに、そこへ恐怖を与えてはならない。幸いにも警報はパチュリーにしか感知出来ない。隠しておけば、不安が広がる事は無い。パチュリーは心の中の疑念と恐怖をおくびにも出さず、微笑みを浮かべる。
「どうやら去ったようね」
自分で言っていながら、心の内で疑問に思う。
本当に去ったのか。
あるいは部屋の中に侵入を許したんじゃないだろうか。
パチュリーは扉を閉めると、再び本を読み始めた。パチュリーという主人が普段の行動に戻ったので、従者達の間に安堵が広がっていく。
安堵の広がる部屋の中で一人、パチュリーだけが、本に目を落としつつも、油断無く部屋やビルの中を探る。
しばらく探ったが異常は無い。まだ侵入者が残っているのなら、何か動きがあっても良さそうなものだが。やはり消えたのだろうか。次第に思考が楽観的になっていく。
幾分の平静を取り戻して思わず息を吐いた瞬間、パチュリーは勢い良く顔を上げた。
ガラス張りの壁際で台車を転がしている従者に対して声を荒げる。
「マルティカ! そこから離れなさい!」
名前を呼ばれた従者が驚いてその場から離れると、パチュリーは壁一面の窓を消した。
「え? おわ!」
外から悲鳴を上げながら侵入者が転がり込んでくる。
転がり込んできたのは幼い少女が二人。トラップを潜り抜けて来られる様な力は感じない。現に外の感知網に引っかかったからこそ侵入が分かったのだ。
だが油断は出来ない。
パチュリーは読んでいた本を閉じると静かに立ち上がった。
霊夢は痛みを堪えながら立ち上がった。蹴り破ろうとしていた窓が突然消失した事は覚えている。だがその理由が分からない。隣の魔理沙も同じ様で、混乱した顔を痛みでしかめていた。
「ようこそ」
声のした方へ向くと、女性が立っていた。今日の昼にも見たレミリアのスタッフだ。更に部屋の中には何人もの人影がある。ここが吸血鬼の根城である事を思い出し、思わず振り返ると、消えた筈の窓が壁に変わり逃げ道を塞いでいた。
囲まれた事に肝を冷やして、魔理沙を見ると、魔理沙も危機感をつのらせた表情で霊夢を見つめ返してきた。
見つめ合う二人に女性が挑発的な言葉を投げかけてくる。。
「ここが魔術師の拠点だと知っての侵入かしら?」
霊夢はその苛立ちの含まれた声音に益益逃げられない事を悟ったが、一方で魔理沙は素っ頓狂な声を上げた。
「魔術師? じゃあ、お前も魔女か?」
女性が眉根を潜める。
「も、という事は、あなたも魔術の心得があるの?」
「おう! 何なら試してみるか?」
魔理沙が嬉嬉として腕をまくる。
「ちょっと魔理沙!」
止めようとするが、もう遅い。こんな状況だというのに、魔理沙の目は止め様の無い程、輝いている。
「悪い、霊夢。他の魔術師と戦うなんてさ、初めてなんだ」
「どういう事?」
魔理沙がにっと口の端を吊り上げる。
「試してみたいんだ。今、私がどれ位強いのか」
「でも私達囲まれてるのよ?」
「分かってるよ。でも大丈夫。私達なら逃げられる。だろ?」
何の根拠も無い笑みだ。
素直には頷きかねる。
「魔理沙、でも」
魔術師と戦って勝てるとは思えない。
魔理沙が魔術の勉強をしたのは一年やそこら。一方で相手の女性は、先程の言葉からして、魔術の専門家なのだろう。どちらに分があるかと言えば、当然向こうだ。
不安に思う霊夢に対して、魔理沙は自信を漲らせている。
「霊夢、私達は色んな妖怪達をやっつけてきたんだぜ? 楽勝だっただろ?」
確かに紫や射命丸に依頼されて妖怪退治をしてきた。でもそれは形式的なもので。
「勝ちは勝ちだ。私達はそれを倒してきたんだ。だけど魅魔さんは私の事を認めてくれない。まだまだ未熟だって。それで新しい魔術を全然教えてくれない。だからここであいつを倒す。本物の魔女を倒せば私だって一人前の魔女って事だ」
そう言って、魔理沙は魔術師を名乗る女性を指差す。
「それにあいつ弱そうじゃん」
確かに女性は不健康そうな顔色で、生気が薄い。体つきもひ弱で殴り合いであれば勝てそうだ。
でも、相手が見た目通りの強さだとは思えない。仮にも吸血鬼の根城を守っているのだ。実力が無い訳が無い。
魔理沙がその事に気がついていない筈が無い。それなのに魔理沙は嬉しそうに笑って、女性へと向いた。
「という事で、勝負しようぜ」
「勝負? どうして?」
「聞いてただろ? 私が一人前になる為だ」
魔理沙の言葉に、女性はわざとらしく溜息を吐いた。
「ちなみに、一応聞いておくけれど、先程扉の前まで侵入してきたのはあなた達?」
「どういう事だ? どの扉?」
「ああ、もう良いわ。で? 勝負だっけ? それをして私に何の得があるのか、甚だ疑問だけれど」
「良いじゃんか。そこを一つ」
再び女性が溜息を吐く。
「まあ、勘違いしているピノッキオの鼻っ柱を折ってやるのも大人の努めかしら?」
「ピノキオは嘘を吐くと鼻が伸びるんだぜ」
「勘違いも嘘も同じものじゃない」
女性はくだらなそうに言って、懐から本を取り出した。
それが魔導書である事を見抜き、魔理沙は笑みを深くする。更に部屋の中を見回すと、奥には魔導書の本棚が並んでいた。というよりこの部屋には魔導書の本棚しか置いていない。言うなれば魔導書の図書館だ。未知の魔術が沢山あるのだと思うと何だかわくわくとして、魔理沙の笑みが益益深くなる。
「じゃあ参ったって言った方が負けだからな」
「何をしても良いの?」
「ああ。あんたが出来る最高の魔術でかかってこい」
「それは私の台詞だけど」
「行くぜ!」
魔理沙は会話を打ち切ると、右手を前に突き出した。
その指先が親指から人差し指と順番に明かりを灯し、五本の指先が淡く光った。それを合図に破裂音が響き、魔理沙の手元に閃光が迸る。目の眩む閃光の中で鈍い音がして、光が収まった後には、壁にぶつかって崩れ落ちている魔理沙の姿があった。
「魔理沙!」
霊夢が驚いて魔理沙の下に駆け寄ると、魔理沙は呆然と霊夢を見上げた。やがて理解が及んだ様で恐怖に瞳を染めると、掠れる声で呟いた。
「こんなに」
戦意を失い掛けている魔理沙を、女性が嘲笑う。
「どうしたの? もうお終い?」
それを聞いた瞬間、魔理沙は悔しげに顔を歪め、そして跳ね起きた。
「ふざけんな!」
魔理沙が足を突き出しもう片方の足を軸にして見えない魔法円を描く。その瞬間、魔理沙の足元から閃光が迸り、衝撃で魔理沙と霊夢は地面に転がった。
霊夢が眩暈を覚えながら何とか身を起こすと、魔理沙が壁にもたれかかりながら辛うじて立ち上がろうとしている。その目には闘志が燃えている。諦めていないのではなく、自棄で理性を失った様な凶暴な目付きで女性を睨んでいる。
「魔理沙、もうやめよう」
霊夢は痛みを堪えて魔理沙の傍に駆け寄るが、魔理沙は霊夢を一瞥もしない。
「駄目だ。あいつを倒さないと」
「もう良いでしょ? だって……無理だよ」
さっきの戦いで何が起こっていたのかはっきりと分かっている訳では無い。けれど魔理沙が何かやろうとしてもその度にあっさりとあしらわれてしまったという事は分かる。向こうで冷たい目をしてこちらを見ている魔術師は物凄く強くて、今の自分達では敵わない事は良く分かる。
でも魔理沙は退こうとしない。
「無理なんて言うな」
身を起こすと、そう言って霊夢をたしなめる。
「だって」
「退いちゃ駄目なんだ」
魔理沙は何処からともなく箒を取り出し握りしめる。
「逃げたら駄目なんだ。そうしたら前に進めなくなる。前だけを見てなくちゃ駄目なんだ。そうしなくちゃ認められない」
魔理沙が痛みで呻いた。
霊夢が慌てて抱き寄せようとするが、魔理沙は両手で霊夢の体を突き放した。
「ここで止まっちゃ駄目なんだ!」
飛び上がる様に箒へ乗った魔理沙は、雄叫びを上げて、魔導書を構えた女性へ突撃する。
女性は微かな笑い声を漏らすと、何か呟いた。
その瞬間、魔理沙の箒がバランスを失い、あらぬ方向へ穂先を向けたかと思うと、大きく回転して地面に墜落した。悲鳴を上げながら、魔理沙は女性の足元まで転がる。
「承認欲求。学校のみんなにいじめられているのかしら?」
「そんなんじゃない」
女性の問いを、魔理沙は吐き捨てる様に否定する。
「なら家族にないがしろにされているとか?」
「家族なんて居ない!」
女性は一瞬目を細め、それから得心がいった様子で手を打った。
「ああ、捨てられた訳ね。だからもう一度家に戻りたくて」
「違う! あんな家に戻ろうなんて思わない」
「そうかしら? ならあなたはどうしてそうも必死なの?」
「認めさせる為だ」
「だから家族に認めさせようって事でしょう」
「違う。みんなだ。私と霊夢以外の全部に私達を認めさせる」
「何の為に?」
「暮らしていく為に」
「暮らしていく? 理解し難い言葉ね。あなたの望みは何なの?」
「霊夢と二人で暮らしていく。その為には力が必要なんだ。誰かに頼ってたら裏切られた時に生きられない。私達の力で私達だけで生きられる様に力が無いと。それを認めさせないと、自由に生きられない!」
叫び声と共に、魔理沙は寝転がった態勢のまま女性の足に蹴りを放つ。だがすかされた。勢い余って地面を転がり、顔をあげると女性は少し離れた場所に立って、笑っていた。
息を荒げる魔理沙と女性の目が合う。女性は喜悦に満ちた目で魔理沙の事を見下ろし、笑っている。
「何がおかしいんだよ!」
魔理沙が叫ぶと、女性は口元に手を当てると首を横に振った。
「いえ、その、ね」
笑いを堪らえようとしている様だが、堪え切れない様子で肩をふるわせている。
「何だよ! 何で笑うんだ!」
女性は吹き出して笑い声を上げる。かと思うと、急に咳き込みだした。近くの従者達が女性の下に駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか、パチュリー様」
「大丈夫。ありがとう」
女性は心配する従者達を制し、懐から取り出した丸薬を飲み下す。喉の調子を確認する様に意味の無い声を出してから、再び魔理沙へ向き直った。
「ええ、失礼。おかしかった訳ではないの。ただ、そう、とても、ええ、うん」
「何だよ!」
「とにかくあなた魔術師に向いてるわ」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げる魔理沙に向けて、女性は微笑みを向ける。
「今の西洋魔術の根本は自己実現だから。その意味であなたはとても向いている。そんな下らない、失礼、根拠の無い、ではなく、子供っぽい? いえ、とにかく馬鹿げた願望をそれ程までに醸成しているのは才能よ」
「お前、ぶっ殺すぞ」
「そう、それ。今のは冗談みたいだけど、さっきの願望を吐露するあなたは真剣だった。必要であれば私を殺してやるという位に。そんなにも幼い願望に、あなたは自分自身の全てを託している。魔術を修めるのに必要なのは自己を変革したいという願望。その為に魔術を究めたいと望む事こそが魔術を習得する近道になる」
「何が言いたい」
褒めているのか貶しているのか、分からない。
だが女性の表情に浮かぶ酷薄な笑みが、酷く不快だった。
「いえね、同じく魔術を究めんとする魔術師として、折角だから後輩のお手伝いをしてあげようかと思って」
「何だ。授業でも開いてくれるのか?」
「ええ。その通りよ」
女性はそう言って魔導書を近くの従者に渡した。そして虚空からまた別の魔導書を取り出す。
攻撃が来る。
恐怖を抱いた魔理沙の背筋に冷や汗が流れた。
「何をする気だ?」
慌てて立ち上がり身構える魔理沙に向けて、女性は残虐な笑みを深める。
「あなたの願望をもっと強くしてあげるわ」
女性が腕を水平に伸ばし、壁際に立つ霊夢を指さした。
「霊夢がどうしたんだよ」
嫌な予感が湧いた。
霊夢は関係無い筈だ。
呆然とする魔理沙の視界の中で、女性は霊夢に向かって歩いて行く。
「やめろ! 何すんだ!」
慌てて箒にまたがり、女性へ突撃しようとするが、箒はすぐに制御を失って、魔理沙は地面に投げ出された。地面に転がりながらも急いで立ち上がり、女性に向かって駆け出す。だが足が意のままに動かず転んでしまう。
床に打ち付けた顔を上げて、魔理沙は叫ぶ。
「霊夢! 逃げろ!」
女性は霊夢の傍まで近寄ると、魔理沙へ振り返った。
「願望っていうのはね、喪失感を埋めようとした時が一番強くなる。分かるでしょう? あなたは家族に疎んじられていた事が悲しかった。だから家出をして、だから魔術に傾倒した。けれど今、あなたの喪失感を埋めているものがある。それがあっては魔術の邪魔になる。いえ、それを取り除けばより魔術への才能が増すでしょう」
「やめろ! 霊夢、早く逃げろ!」
女性が霊夢に向き直った。
その目は酷く冷たい。霊夢の背に怖気が走る。
まるで霊夢を殺してしまう事がこの世の理であるかの様に、女性は冷徹に霊夢の事を見つめてくる。
恐怖で震えながら、霊夢は懐から符を取り出した。相手を縛り付ける呪術符だ。霊夢は怯えを振り払う様に符を放った。
符が過たず女性の服に張り付く。
途端に女性の動きが止まる。
体を縛る術が効いた。
意外な思いと安堵で、霊夢が息を吐いた瞬間、女性の服に張り付いた符が、水に溶かされた様に溶け崩れた。
霊夢が目を見開く。
「あなたも出来るのね」
女性が微笑んで霊夢に手を伸ばしてくる。
殺される。
霊夢は後退ろうとするが、足が上手く動かない。
恐怖で凍りついている。
女性の手がゆっくりと近付いてくる。
触れれば自分は殺される。
恐怖で目を瞑った瞬間、瞼の裏が真っ白な光で包まれた。
続いて吹き荒れた暴風に薙ぎ払われて霊夢は床に打ち付けられる。
呻き声をあげた霊夢が息を吸うと、焦げた臭いが鼻につく。混乱しながら顔をあげると、魔導書を構えた女性が魔理沙の方へ向いていた。女性の視線の先に居る魔理沙は険しい顔をして両手を女性に向かって突き出している。
見れば、魔理沙の立つ場所から女性の立つ場所まで床と天井に一直線の焦げ跡がついている。更にその先の、霊夢達の退路を絶っていた壁にまで、焦げ跡のついた大きな穴が空いており、夜空が見えた。
「これでも駄目かよ」
魔理沙が苦しげに呟くと、女性が魔導書をしまって手をたたく。
「凄いじゃない。今のは防御しないと危なかったわ」
魔理沙が渾身の攻撃を仕掛けたが、それすらも防がれてしまったらしい。
実力の差は圧倒的だ。
魔理沙はこの女性に敵わない。
それが決定的に感じられた。
同時に霊夢の体が動いていた。一気に跳ね上がり、魔理沙に向いている女性の背後を襲う。女性が音に気がついて振り返り、視界に霊夢を捉えた瞬間、その視界から霊夢が消える。
女性の頭上に現れた霊夢は取り出した針を首筋に振り下ろす。
刺せる。そう霊夢が確信した瞬間、衝撃に揺さぶられて気を失った。
突然地面から湧き上がってきた蔦に横から殴られた霊夢は、跳ね飛ばされて、力無く宙を舞い、頭から床に突っ込んだ。激突する寸前で、魔理沙は霊夢を抱き止め、二人して地面に倒れこむ。
「霊夢! おい、霊夢!」
魔理沙の呼びかけに霊夢は答えない。完全に気を失っている。
「くそ」
悪態をついて顔をあげた魔理沙は息を飲む。女性の足元の魔法円から、霊夢を殴った蔦がその数を増しながら生え出して、じりじりとその先端を魔理沙達へと伸ばしてきていた。合図があればいつでも襲いかからんと近付いてくる蔦に、魔理沙は慌てて霊夢を引きずりながら後ろに下がり、床に落ちた箒を拾い上げて、霊夢を載せ、自分も乗った。
「さあ、次は何をしてくれるのかしら?」
もう何も出来無い事を知った上で、女性が挑発めいた言葉を投げてきた。魔理沙は激昂しそうになるが、手元でのびている霊夢に視線を落とし、覚悟を決める。
「負けだ」
女性に聞こえない様にそう呟くと、箒で浮き上がる。
女性が何か合図をしようとしているのを見て、魔理沙は蔦に背を向け、箒を急発進させた。考えがあっての事ではなく、単に蔦から逃れる為だ。背後から蔦が迫ってくるのを感じる。
部屋の奥へと進み、魔導書が収められた本棚の群れに突入する。進む先を見ると、魔導書の図書館は随分奥まで続いていた。少なくともビルの面積よりも大きそうだ。空間が捻くれているのだろうかと魔理沙が疑問に思っていると、不意にぞっと悪寒を覚えた。このまま嫌な予感がする。思わず引き返そうとしたが、背後からは蔦が迫ってきている。
行くか戻るか、迷っている間にも箒は進み、そして本棚の奥から金属の軋み合う様な唸り声が聞こえた。
魔理沙の体が硬直する。
同時に一角からのそりと影が現れる。
魔理沙は慌てて目を逸した。
見てはならないものだと魔理沙は直感した。
それを見れば、自分の内が滅茶苦茶にされると感覚的に理解出来た。
魔理沙は息を詰めると箒を反転させる。当然戻る先には蔦が居るが、這い出てきた影と対峙するよりは多分ましだ。
反転した魔理沙の向かう先から、幾重にも絡み合いながら蔦が迫ってくる。
最早何も考えられなかった。
思考を働かせる時間が無い。
咄嗟の判断し、蔦にぶつかる寸前で穂先を上にずらし、蔦の上を越えようとする。蔦は魔理沙の動きに反応して蔦を上へ伸ばしてくる。それを避けようとするが避けきれず、殴られたが、魔理沙は必死で箒を掴み、襲い掛かる蔦の合間を塗っていく。やがて女性や従者達の居る元の場所に戻ってきた魔理沙は、一瞬女性を睨みつけた。
女性はただ微笑むのみで何も言わず、傍を通りぬける魔理沙を止めようとはしなかった。
魔理沙はそのまま壁に空いた穴を通りぬけ、外へと飛び出す。殆ど同時に背後から、蔦の奔流が壁を破壊する音が聞こえた。魔理沙は我武者羅に箒を飛ばし、追ってくる蔦から逃げる。
しばらく飛んでから背後を振り返ると、もう蔦は追ってこなかった。安心した魔理沙は項垂れて、霊夢を揺する。霊夢は喉が詰まった様に咳き込んでから顔をあげ、そしてすぐに自分が箒に引っかかっている事に気がついて、器用に箒の上で態勢を変え、魔理沙の後ろに座る。
「どうなったの?」
「逃げた」
「何とか生きて逃げられた訳ね」
危うく殺されかけた事を思い出し、霊夢は安堵の息を吐いた。
その吐息が首筋に掛かった魔理沙は体を震わせると、小さな声で呟いた。
「ごめんな」
「え?」
突然謝られても霊夢には何の事か分からない。
「危ない目に合わせて」
「いつもの事じゃない」
町に捨てられて二人で生きてく中で多くの無茶をした。紫に拾われてからも頼まれもせずに事件に首を突っ込んだり妖怪退治をしたりと無茶ばかりしている。危ない目なんて今更だ。
「それに負けちゃって」
「それは」
相手が悪かったからだと言おうとして霊夢は口を噤んだ。その言葉は魔理沙を貶す事と同義だ。では何を言えば良いかというと思い浮かばない。何を言っても魔理沙の自尊心を傷付けてしまう気がする。
何と言って良いか分からず黙っていると、魔理沙はまた小さな声で呟いた。
「負けちゃった」
魔理沙は力無く項垂れた。
「魔理沙」
霊夢はその背に抱きついて何か言おうとしたが、どうしても励ましの言葉が思い浮かばなかった。
「パチュリー様」
霊夢と魔理沙が逃げていったのを見送っていたパチュリーを、従者が呼びかける。
「良かったのですか? 逃がしてしまって」
「捕まえてどうするのよ」
「いえ、どうすると言われても。だってさっき殺すとか何とか」
「何でそんな事しなくちゃいけないの?」
「いえ、そう言われましても」
パチュリー様が言ったのにという言葉を飲み込んで、従者の語尾がすぼんでいく。
「まあでも確かに、連絡先位は聞いておけば良かったわ。フランの良い遊び相手になったかも」
「フランドール様の?」
「ええ、良いと思わない?」
冗談なのか、自分を試しているのか、本気でそう思っているのか。問われた従者は周りに救いの視線を向けたが、周りも理解出来無いという視線を返してくるだけだった。
「どう、何でしょう?」
結局従者はそれだけ言って、壁に空いた穴を見る。二人の少女は命辛辛といった様子で逃げ去っていった。あんな怖い目にあったのなら、二度とこのビルとレミリア様に関わる者に近寄らないだろう。フランドール様の友達になってくれる訳が無い。フランドール様はただでさえあれなのに。
そんな事を考えて再びパチュリーに視線を戻し、従者はぎょっとした。
パチュリーが笑っていた。口を釣り上げ、目を見開き、興奮した様な笑みを見せている。常に無い表情だ。怒っている様にも見える。
何か怒らせたかと怯える従者を余所に、パチュリーは壁に空いた穴に近寄り、哄笑を上げた。
「パチュリー様?」
怯える従者に名前を呼ばれ、パチュリーは満面の笑みで振り返る。
「中中強かじゃない? あの子達。やっぱり良いと思うわ。きっと良い手駒になる」
くすくすと笑うとパチュリーは穴から身を乗り出した。遠くの空を箒で飛ぶ二人が小さく見える。
「私の魔導書があれば場所は追える。まあ、丁度良かったわね。貴重な魔導書って訳じゃないし」
混乱している従者達に穴を塞ぐ様に指示するとパチュリーは元の椅子に戻って、再び本を読み始めた。本を読みながらパチュリーは考える。霊夢と魔理沙。八雲紫のお気に入りだと聞いていたから警戒したが、まだ未熟。あらゆるトラップを抜けてやってきた最初の侵入者はあの二人ではない様だ。なら最初の侵入者は誰で、何の目的を持ってきたのか。やはり八雲紫の手の物か。あるいは吸血鬼を退治しようとする英雄気取りか。はたまた単にレミリアの一ファンなのか。
考えても仕方の無い事と分かっていながら、パチュリーは文字に目を滑らせつつ、じっとその事を考えた。
俯いてしまった魔理沙を見ていると心苦しかった。
普段は明るく振舞っているけれど未だに両親に捨てられた過去が魔理沙を苛んでいる事を霊夢は知っている。その劣等感を払拭する為に必死で魔術を習っていた事を知っている。魔理沙にとって魔術がいかに大事だったのか想像出来る。
だから霊夢には想像がつかない。
霊夢からすれば魔理沙は負けたって仕方が無い。相手はずっと魔術を勉強していた口ぶりであったし、まだ駆け出しの魔理沙が太刀打ち出来ないのは道理だ。でも魔理沙にとっては違ったのだろう。魔術で他人に負けるなんてあってはならなかったのだろう。魔理沙にとって魔術で負けるというのは単にそれだけの意味ではなくて、きっと両親に捨てられたという事実を再び目の前に突きつけられた様なものなのだろう。
その苦しさは霊夢には分からない。
でもだからこそ、霊夢は心苦しい。
きっと魔理沙が苦しんでいると想像出来るのに、魔理沙がどれだけ苦しんでいるのか分からない事が悲しくて苦しかった。
ああと魔理沙が呻いて、益益項垂れる。
その様子を見ているのが辛くて、霊夢は必死の思いで魔理沙を抱きしめた。
「魔理沙!」
「ちくしょう!」
その瞬間、魔理沙が頭を跳ね上げて、後ろから抱きしめていた霊夢の顔面に魔理沙の後頭部がぶつかった。
「いったっ!」
痛みに叫んだ魔理沙は後頭部を押さえながら振り返る。
「大丈夫か、霊夢」
霊夢は鼻を締め付ける不快感に顔を顰めながら大丈夫だと答えを返す。
「悪い悪い」
本当に悪いと思っているのか疑問を呈さざるを得ない、軽薄な笑みで魔理沙は謝ると、それから一つ伸びをする。
「ああ、ちくしょう!」
「魔理沙?」
何だかさっきと様子が違う。
「何だ?」
「落ち込んでないの?」
「落ち込む? 何で?」
何でと問い返されると困ってしまうが。
負けたから?
すると魔理沙は呆れた様に溜息を吐いた。
「さっきの魔女にか? なら負けて当然じゃん。向こうとは年季が違うんだし」
「うん」
それはその通りである。
ただ魔術は魔理沙にとって大事な事だと思っていたから、落ち込むのだろうと思っていたし、さっきは落ち込んでいたみたいに見えた。
「まあ、ちょっと位はショックだったけど。でもそれ以上に悔しい! ああ、ちくしょう! あんなあっさりやられるとは思わなかった! つーか、本当に最初に一発目で一気に自信を打ち砕かれた!」
「落ち込んでないみたいね」
「あ、でも霊夢を危険な目に合わせちゃったのは本当に悪かったと思ってるぜ」
「あ、そう」
落ち込む事と悔しがる事は随分違う。落ち込むというのはエネルギが無くなっている状態で、悔しがるというのはエネルギが溢れ出ている状態だ。勿論どちらかと言えば悔しがっている方が良い。魔理沙に落ち込んで欲しくない。
「落ち込んでないのね? 何か簡単に勝てるとか、絶対に認めさせるとか言ってたから、それで負けて落ち込んでるのかと」
「そんなの言葉だけのものに決まってるじゃん。自分を奮い立たせるっていうかさ。言霊みたいなの。最初に言っただろ? 自分がどれ位出来るのか試してみたいって」
確かに言っていた。
「でも駄目だった。やっぱり私はまだまだ。今日それが分かった」
魔理沙は悔しそうに、でも何処か嬉しそうにそう言った。
空元気にも見えない。
霊夢が面食らっていると、魔理沙は「だから、ほら」と笑って懐から本を取り出した。
魔導書だ。
「え? それって」
「あそこから借りてきた。これを覚えてもっと強くなるぜ」
「あんた」
あの最中に抜き取ってきたのか。
たくましいと言うか、抜け目が無いと言うか。
「他人から盗んだもので認めてもらうつもり?」
霊夢が呆れていると、魔理沙は笑みを収めて遠くを見つめる。
「認めさせるて言ってるのは、魔術でじゃない。魔術は力だぜ。力はあくまで自分を守る為のもの。幾ら力をつけたってそれじゃあ反発されるだけだ。分かってるだろ、霊夢。力を持っただけの奴等はみんな嫌な奴等だった。それじゃあ認めさせる事は出来無い。認めさせる為には華やかで綺麗じゃないと駄目なんだ。あのレミリアみたいに、画面の中できらきらして。そんな風に自分を着飾らなくちゃいけない。だから探偵なんだろ? 小説の中に居るみたいな、華華しい探偵に着飾って世界に認めさせるんだ。私達って存在を。そう決めただろ? 霊夢」
力強い笑みを見せられて、霊夢は力が抜けた。魔理沙にもたれかかりながら小さな声で肯定する。それから顔をあげると、霊夢も魔理沙の様に笑みを浮かべた。
「やっぱあんた凄いわ」
「は? どういう意味だよ」
「そのまんま」
「皮肉か?」
「違う。本当に」
敵わないと思った。そしてそれを嬉しいと思った。
そう思った理由は自分でも分からない。
「分かんないけど」
「何だよ。まあ、良いや。繁華街近いしそろそろ降りるぞ」
「降りるの?」
「流石に事務所まで飛んでくのはしんどい」
次第に高度を落とし人気のない路地へと着陸する。裏路地なので電灯の明かりは仄かで、辺りは暗い。すぐ傍に駅前の繁華街がある筈だが、ほんの少し外れただけなのに、全く人気が無く物寂しい。
「折角だし、何か食べて帰ろうか?」
「そうだな。何する? そういやこの前退治した妖怪が鰻屋やってるって言ってたじゃん。そこにしよ」
「異議無し」
繁華街の方角へ歩き始めた二人だったが、数歩歩いて霊夢が立ち止まった。
「何か変な音聞こえなかった?」
「え? そうか?」
魔理沙も耳を澄ませてみたが繁華街の喧騒が微かに聞こえてくるだけだ。
「どんな音だった?」
「分かんない。なんか、どん、みたいな感じ」
「全然分からん。駅の方で何かあったんじゃない?」
「方角は」
霊夢は振り返り、繁華街とは反対の方角を指さした。
魔理沙は目を細め、薄暗い路地を遠くまで見透かす。だが人の気配は感じられない。
「言ってみるか」
「うん」
二人は緊張した面持ちで歩き出した。辺りを警戒しつつ、枝分かれする路地を覗き込みながら、いつでも戦える様に構えて進んでいく。
三つ目の枝分かれする路地に何も居ない事を確認し、やはり勘違いだったのかと二人が思い始める。二人は顔を見合わせ、少し離れた四つ目の路地裏の入り口を見つめ、また顔を合わせる。特段言葉を用いなかったが、二人の間で次の路地裏に何も無かったら帰る事にしようという合意が形成された。
頷きあった二人が前を向いて歩き始めた途端、それは四つ目の路地裏から現れた。
不意の影に、二人は身構える。
だが出てきたのが、行きに出会った痩せぎすの天狗であった。二人はその事に気が付き、体から力を抜く。天狗は二人に気が付かなかった様子で、二人に背を向け、反対の方角へと歩き出す。
「なーんだ」
霊夢は呟くと、魔理沙と顔を見合わせた。
「帰ろうか?」
「そうだな。あ、でも一応今日の事言っとくか。なんか向こうも切羽詰まってるみたいだし」
「今日の事って言っても」
「少なくともあの事務所の奥の部屋は、魔導書しかなかった。つまりあそこはあの魔女の根城。レミリアの拠点って訳じゃない」
「何で? 吸血鬼と魔導書って何となく似合ってるけど」
「レミリアはモデルだぜ。例えば衣装とか保管しなくちゃいけないだろ? でもそんなスペース殆ど無かった。あそこは魔導書の図書館だ。それ以上の機能は無い」
「魔理沙言ってたじゃない。あそこのビルは凄い警戒網だからきっとレミリアの拠点に違いないって。レミリアは魔術で何かしようとしているのかも。その為の基地とか」
「ああ、そうか。そういう可能性もあるな。ううん、でも何となくあそこはあの魔女の為の部屋って感じだったけど」
魔理沙は一瞬悩む風に腕を組んだが、すぐに頭を振った。
「考えてもしょうがない。とにかく情報共有が大事だぜ。金は貰ってるし、ちょっとは仕事してるところを見せとかないと」
「それもそうね」
霊夢が同意すると、魔理沙は駈け出した。
霊夢も慌てて後を追う。だがふと天狗の出てきた路地裏が気にかかり途中で立ち止まった。天狗はこんな所で何をやっていたのか。さっきの音の正体は何だったのか。その単純な疑問を解消する為に、霊夢は路地裏を覗き込む。
一方で、魔理沙は天狗の背に追いつき、「おい!」と声を掛けた。
天狗は驚いた様子で振り返る。
「ああ、魔理沙さん。どうしました? 息せき切って」
「ちょっとレミリアの事で報告があってさ」
「何か進展が?」
天狗が一歩近寄ってきた。
「そんなはっきりとした話じゃないけど」
「どんな小さな事でも構いません、今はとにかく情報が欲しい」
近づいて来た天狗を見上げて、魔理沙は何処まで話して良いものか算段しつつ、ゆっくりと口を開いた。
その瞬間、背後からつんざく様な霊夢の声が響く。
「魔理沙! そいつから離れて!」
魔理沙は驚いて、訳も分からぬまま、大地を蹴って離れようとした。だがその前に、腕を掴まれる。思わず振り返ると、天狗と目があった。その何の表情も浮かんでいない顔に見つめられた途端、男の顔が歪む。その向こうの星空も歪む。急速に気が遠くなり、胸の内が白い糸で絡め取られ、締め付けられる様な不快感が満ちた。どんどんと締め付けられて、自分の中身が押し潰されていく様な感覚がした。
魔理沙が天狗に捕らえられた。
それを見た霊夢の背に怖気が走った。
さっき路地裏を覗き込んだ霊夢は、そこに溶け崩れた天狗を見つけた。何か薬品を使ったのか、まるで地面と同化する様に体の半分以上が崩れ、尚も溶け続けていた。その天狗は、今魔理沙を捕らえている天狗と全く同じ姿をしていた。同じ姿の天狗が、一方では路地裏で溶け、もう一方では魔理沙を捕らえている。双子という可能性は低いだろう。霊夢は、天狗を殺して成り代わったのだと直感的に理解していた。
そういう妖怪だとすれば、魔理沙を捕らえた今、次にする事は。
気を失った魔理沙に天狗が顔を近づける。
そして天狗の髪の色が少しずつ黒から、魔理沙と同じ金色に変わり始めた。顔立ちも少しずつ幼くなり、体も少しずつ萎んでいく。
魔理沙に成り代わろうとしている。
それに気がついた霊夢は目を見張ると、懐から針を取り出した。
「やめろ!」
怒鳴り声を上げた霊夢は魔理沙に変化しつつある天狗へ針を投げつけた。
それを天狗が辛うじて躱した。
その時にはもう、霊夢は天狗の背後をとっていた。
背後に回った霊夢に気が付き天狗が振り返る。その天狗の視界から逃れる様に霊夢は身を屈め、足払いを掛ける。あっさりと天狗の足は掬いあげられ、バランスを崩した天狗は魔理沙を手放して倒れこんだ。
霊夢が慌てて魔理沙を抱きとめると、魔理沙は目を見開き、跳ね起きる。
「うお! 何だ! 霊夢! 大丈夫か?」
魔理沙は辺りを見回し、「あ」と声を上げた。
魔理沙の視線を追うと、道化姿の人影が路地の向こうに駆けて行くのが見えた。
天狗に成り代わっていた者が正体を現したのか。
霊夢と魔理沙は急いで後を追おうとしたが、魔理沙がふらついて倒れこんだので、追跡を諦める。
「何だったんだあいつ」
「分からない。ピエロ?」
「天狗だったよな? 何がなんだか」
「天狗なら向こうの路地裏で死んでた。多分あのピエロは姿を盗んだんだと思う」
「何なんだ、あいつ?」
「分からない」
「紫に聞いてみるか?」
「そうね」
八雲紫はこの辺りの妖怪の元締めの様な立場にある。誰よりも妖怪に詳しい事は確かだ。正体の分からない妖怪の事なら八雲紫に聞くのが良いだろう。
「いや、待て」
魔理沙が頭を押さえる。
「天狗に成り代わってたんだよな?」
「うん」
「だから天狗の敵って事で良いんだよな?」
「それは、そうなんじゃない?」
「なら紫の敵って事でもあるよな? 妖怪の山に敵対するって事なんだから」
「それは、どうかしら。でも多分、そう」
「だよな。なら大丈夫だよな」
魔理沙が何を確認しようとしているのか分からず、霊夢は眉を潜めた。
「何かまずい事あるの?」
「いや、杞憂だってのは分かってるんだけど」
「何?」
「何で射命丸は私達にレミリアの事を依頼したんだろうって話」
何が言いたいのか分からない。
「何となくそれって紫が決めたんじゃないかって思ってさ」
「何の為に?」
「それだ。レミリアをこの町に呼んだのも紫だろ? それで私達に依頼が来る様に仕向けたのなら、紫の狙いは何だ。そこに、射命丸の言っていた不審死。今日もこのビルで起こった。私達が来るのを見計らってたみたいに。そして今度はピエロだ。これも私達を襲ってきた」
「紫が私達を殺そうとしているって事?」
「いや、私達を殺すならもっと簡単に出来るだろ。何か別の企みがある気がするんだ」
霊夢は考える。確かに幾つもの事が短期間の内に重なりすぎている。それは魔理沙の言った通りだ。だがそれが何を表しているかと言うと、やはり魔理沙の言う通り分からない。
「いや、でも天狗が殺されてるって事は、やっぱり紫の仕業じゃないのか。でも何か引っかかるんだ。いやー、でも、さっきあの天狗に掴まれた時、自分が自分じゃなくなる様な凄い感覚で、思い出しても怖かったし、その怖さで神経質になってるのかも」
「どっちにしてもあのピエロが天狗に成りすます可能性があるのなら、射命丸には報告しなくちゃいけない」
「そうだな」
魔理沙は同意して、自分の手の内に目を落とす。
そこには一冊の魔導書が握られている。
霊夢もそれに目を落とす。
「あるいはさっきの魔術師があなたを殺そうとして差し向けたのかも」
「それも辻褄が合わない。時間的にも、やった事も。私を殺すなら、やっぱりさっきのビルで殺せた筈だ。あいつは最初から私達を殺す気が無かった」
「それは理屈に合わないのは紫が犯人っていう説も一緒よね」
「そう。いずれにしたって確証は無い。ただ何となく引っかかるだけだ」
「勘ね?」
「勘だ」
魔理沙はしばらく魔導書を見つめてやがて顔を上げた。
「とにかく視点を複数持っておく事は大事だぜ」
続く
~其は赤にして赤編 11(探偵2中)
夢が偽りだというのならこの世界は嘘吐き達の住む箱庭
最初
~其は赤にして赤編 1
一つ前
~其は赤にして赤編 9
第十一節 魔導の図書館
霊夢と魔理沙が駅近くの繁華街を歩いていると、急に傍から呼び止められた。
「霊夢さん、魔理沙さん、こんな所でなにしてるんですか? 遊んでるんですか?」
振り返ると痩せぎすの男が立っていた。見覚えは無い。
霊夢と魔理沙の二人は一瞬訝しむ様に表情を変えたが、驚く事無く、男と向かい合う。相手の気配で分かる。この痩せぎすの男は人間ではない。
「天狗?」
「ええ、そうですよ。あれ、やっぱり分かります? 外見は人間の筈ですけど」
「何となく」
「流石巫女様。それでその巫女様はここでなにしてるんですか? まさか遊び歩いているんですか? 射命丸さんから依頼は受けてるんでしょ?」
咎める様な、無遠慮な言い草に、魔理沙が気色ばむ。
「だから、今からその手掛かりを探しに行くとこだよ。お前に言われなくてもちゃんとやってる!」
天狗は何処か皮肉げな態度で息を吐いた。
「ああ、それは良かった。早く解決してくれないと危ないですからね。うちの連中は血の気が多いから」
それを聞いて霊夢の目が細まった。
「脅してんの?」
「違いますよ。天狗はあなたに手を出しません。そっちじゃなくて、町の方。吸血鬼とか訳の分からんのが何かしようとしているからってんで、暴力で解決しちまえってのが多いんですよ、天狗には」
「天狗らしいじゃん」
「そうです。実にそう。天狗らしい。後の事なんて知ったこっちゃないと言わんばかりの奴等ばかり。だからまずいんですよ。天狗の集団が町で暴れたらどうなるか、想像はつくでしょう? 天魔様が抑えてきましたが、今は衰えも見えている。今はまだですが、いずれ頭が変わったとしたら、ああ、考えるだけでも恐ろしい。射命丸さんが上に立ってくれると良いんですか」
「べらべらしゃべるわね」
「確かにその通りです。本来天狗は多弁を好まない。だから射命丸さんを好まない者も多い。それに穏健な思想も受け入れられ難い。だから勢力争いが」
「いや、あんたの事」
会話が噛み合わない上に、内容も天狗達の話で霊夢や魔理沙と関係が無い。面倒になった魔理沙は話を打ち切る事にした。
「もう良いよ、霊夢。ほっとこう。行こうぜ」
「そうね」
背を向けた二人に近付いて、男は念を押す。
「繰り返しますけど、是非早めに解決をお願いします。吸血鬼がもしも来たら、本当に戦争が起こるかもしれない」
「分かったけど、私達にばっかなすりつけんなよ。妖怪の事なんだから妖怪で片付けろ」
「それはその通りですが」
「そもそもなんで射命丸は私達に頼んだの?」
「射命丸さんの考えは分かりません。ただあなた達なら解決出来ると信じている様です」
「嘘くさ」
「おべっかも好い加減にしとけよ」
「いえ、本当に。ともかくお願いします」
「分かってるって」
そう話を打ち切って二人は歩き出す。
しばらく歩いて振り返ると、男はまだ霊夢達を見つめている。
気味の悪さと苛立ちで、二人は足早にその場を離れた。
繁華街を抜け、オフィス街に差し掛かる。先程まで聞こえていた喧騒は失せ、夜は森閑と静まっている。ビルの隙間を縫う風と何処からか聞こえるサイレンがほんの微かに聞こえてくるが、それも静寂を強めるだけだ。
寂しい雰囲気だと霊夢は思う。
辺りは静まり返っていて物寂しい。無機質なビルの並ぶ景色は凍りついているみたいだ。
それなのに隣を歩く魔理沙を見ると意気揚揚としている。町の光に照らされたその顔は底抜けの笑顔だ。
その対比が不意に言い知れない予感をもたらした。
だがその予感が何を意味しているのか知る前に、振り返った魔理沙と目が合って、思考が中断される。
「私の顔に何かついてるか?」
「何も。何で?」
「何か見てたじゃん」
「見てない」
「嘘」
「見てない」
魔理沙は鼻を鳴らすと、空を指差した。
「霊夢、ふざけてる場合じゃないんだぜ。さっきの天狗の話とは関係なく、この依頼は私達の探偵人生の成否を握っていると言っても過言じゃないんだ。こんぐらい解決出来きゃ探偵としてやってけないぜ」
「なら難しそうね。答えを探そうにも問題自体が間違っていそうだもの」
「おっ。何でそう思うんだ?」
「だって射命丸の言っていた事が全然信用ならないじゃない。あの説明じゃ、私達に頼む必要性は感じられない。背景の説明も穴が多かった。そもそも吸血鬼が危険だから私達に調べさせるなんて変よ。怪しい妖怪は吸血鬼だけじゃない。いえそれ以上に怪しい奴等が沢山居る。それに調査させるにしたって、あの射命丸の事よ、本気で調査を頼もうとしてるなら、最低限まともに調査出来る情報を寄越す筈。なのにこーんな漠然とした依頼で、しかも何の手掛かりも教えてくれない。その癖、レミリアって吸血鬼が何かしようとしているから、来日前に調べておけだなんて、普通に考えたら不可能。不可能な事を、あの射命丸が頼む筈が無い。だから今回の依頼は最初から不可解で不可能なのよ」
「あの後、色色聞いたけど、何を聞いても知らないの一点張りだったしな」
「そう。不可能よ。よっぽど劇的なヒントが道端に転がってるならまだしも」
「藁をも縋るってやつかもな」
「だからいずれにしたって無理なのよ。射命丸の後ろには妖怪の山がある。それが全く尻尾を掴めて居ないんじゃ、私達に出来る訳が無いじゃない」
「それ言っちゃう? 無理って言葉はご法度だぜ」
「魔理沙は何を考えてるの?」
「何って?」
「何であんたは依頼を受けた訳? 明らかに怪しいのに」
「霊夢だって」
魔理沙はくつくつと笑って霊夢へ振り返った。
「無理だってのは承知の上さ。でも受けない理由が無いだろ? 他に仕事を受けてる訳でもなく、暇なんだし。大金も貰えるってんだから、受けない理由が無い。貰った前金は解決出来なくても返さなくて良いって言うし」
「けど射命丸が何か企んでるとしたらそれに乗っかる事になる。射命丸は多分私達を動かす事で、事態を引っ掻き回そうとしている」
「乗っかっといて危なくなったら途中で降りれば良い」
「あんたね」
「それに」
「それに?」
「世界的に有名なモデルで、まだ見た事も無い吸血鬼。ちょっと見てみたいじゃんか」
「あんた、そういうところあるわよね」
「一言で言えば面白そうだから。これ以上の理由があるか?」
霊夢は呆れて溜息を吐く。
「無いわね」
「だろ? それで霊夢は? さっきから無理とか不可能とか言ってたけど、確かに怪しいのは一目瞭然。いつもの霊夢なら承知しないだろうな。なのに何で霊夢もこの依頼を受けたんだよ」
「勘」
「どんな?」
「この依頼を受けておいた方が良い様な気がしたの。何となくね」
魔理沙は笑う。笑って霊夢の肩を叩く。
「私は信じるぜ。その勘」
「あんまり自信は無いけど」
「つまりこんな難しい事件は私達しか解決出来無いって事さ!」
根拠の無い笑顔を向けてくる魔理沙に、霊夢も笑みを見せる。
全く根拠が無い事を誤魔化す為であるにせよ、その笑顔は確かに自信を呼び起こした。
この事件はきっと自分達にしか解決出来無い。
そう思うと優越感が湧く。
「そうね。その通り」
そうして二人は空を見上げた。既に目的地に着いていた。見上げた先には巨大なビル。今日の昼間にも訪れたビルだ。闇の中で壁面が茫洋と光っている。
「なあ、霊夢。何でビルが光ってるか分かるか?」
「何でって? ビルって夜は光ってるものじゃないの?」
「違うんだなぁ。飛んでる鳥とかがぶつからない様に、昼は光を吸収して、夜は光を発する様に出来てるんだ」
「へえ、そうなの。で?」
「探偵ってのはそういうもんだって事さ」
そう言って、魔理沙は何処からともなく箒を取り出し、にっと笑って跨った。
「意味分かんない」
「ちゃんと考えな」
「どうせ適当なんでしょ」
霊夢も魔理沙の乗る箒にまたがる。
「おい、霊夢は自分で飛べるだろ」
「良いじゃない。人に頼った方が楽なのよ」
そう言って、魔理沙を背から抱き締めた。
霊夢と魔理沙は空を飛べる。比喩でも何でも無く、自在に空を飛ぶ事が出来る。ただ同じ空を飛ぶにしても二人には違いがある。霊夢が生まれながらにして才能で空を飛べたのに対して、魔理沙は魔術を習得して努力で空を飛べる様になった。そして霊夢が自分の空を飛ぶ能力を嫌っているのに対して、魔理沙は積極的に空を飛ぼうとしている。
霊夢は自分の能力が好きではない。それは生まれに問題がある。霊夢が生まれたのはある宗教の神座を守る家系の分家で、本家に隷属すべき立場だった。主筋が絶対。分家は本家を立てろという考えが蔓延していた。当然霊夢という存在も本家の跡取りよりも下であり、全てにおいて劣っていなければならなかった。だが幼い霊夢はそんな事を知らず、家の集まりで空を飛んでしまった。本家の跡取りよりも先に才能を見せてしまった。それはあってはならない事で、その日を堺に霊夢の家は苛烈な嫌がらせを受ける様になった。主従の立場を守ろうと、幼い霊夢を刺し殺そうとする者まであった。とにかく常識外れの悪意に晒された。
らしい。
幼かった霊夢はその事を覚えていない。当時の情報は、殆ど今の保護者である紫から教えられた事だ。
確かに脳みそを揺さぶる様な怒鳴り声の雑音は偶に思い出す。そして背中には刺し跡が残っている。
それ等は全て状況証拠であって、幾ら当時の話を聞かされてもかつての事を思い出す事は無い。家が何処にあったのかすらも覚えていない。どうやって自分が捨てられて、魔理沙に出会ったかも。魔理沙の話では擦り傷だらけで衰弱しきり、死にかけていたとの事だが、覚えていなし、覚えていなくても良い事だ。
だから過去の記憶が無い事をそれ程気にした事は無い。
けれど時偶過去に囚われていると感じる事がある。
空を飛ぶのが嫌いなのもその一つだ。
一方で、魔理沙はその反対だ。
魔理沙も家から捨てられた。ある日突然。何の理由も無く、家から追い出された。魔理沙は霊夢と違って追い出された時の事を覚えているが、幾らその時の事を思い出しても、追い出された理由に心当たりは無いそうだ。ただ、魔理沙は自分が追い出された原因を劣っていたからだと信じている。自分が他人とくらべて劣っていたから家族が怒ってしまったのだと。
そんなのまだ学校にも通っていなかった幼い魔理沙を追い出す理由にならないと霊夢は疑問に感じるが、とにかく魔理沙はそう信じている。だから紫に拾われた魔理沙は魔術を勉強する様になった。未だ科学が未知の部分にある技術。それを習得すれば他人とは違う人間になれるだろうと。そして実際に魔術を習得して空を飛べる様になった。それは魔理沙にとって過去を払拭した何よりの証なのだ。
だから魔理沙は飛ぶ事を躊躇わないし、むしろ積極的に魔法で空を飛ぼうとする。それは他人と違う優れた技術だから。
霊夢と魔理沙の飛ぶ事に対する立ち位置はそんな風に違う。
「しょうがないな。じゃあ、行くぜ、霊夢」
「オッケー」
魔理沙と霊夢を乗せた箒がふわりと浮き上がる。紐で釣られているかの様に空へと上っていく。
「随分上手くなったわね」
霊夢は、魔理沙がまだ魔法を覚えたてだった頃を思い出す。その時は右へ左へ上へ下へとふらついて如何にも危なっかしかった。あれから一年経って今ではもう危なっかしさなんてまるで感じられない。箒は魔理沙の意のままに上昇していく。
もう数年。
霊夢は何となく昔の事を思い出す。紫に拾われる前は二人であちらこちらを彷徨っていた。時には親切な人に拾われ、時には施設に入れられ、時には警察に捕まった。そしていずれも追い出され、放り出され、逃げ出して、結局何処かに定住する事は無く、施しを受けたり犯罪を犯しながら何とか生き抜いていた。
そんな生活の中で、霊夢は確信した事がある。
自分の居場所は誰かから与えられるものではない。
当たり前の事だが、それが身に沁みた。
結局自分の場所は自分で手に入れなくてはいけない。そして守らなければならない。社会や他人は容易にこちらの居場所を壊そうとしてくる。施設の子供達からは鬱憤ばらしに謂われのない暴力を受けた。野宿をしていた時には警察に追い払われたり追われたりで住居や生活手段を失った。同じ宿無しに食料やお金を奪われたりもした。それを防ぐには力が必要で、その力は自分のものでなければならない。
霊夢はまだそういう力を持っていないし、自分で習得しようと努力もしていない。悪意のある言い方をすれば、紫に飼いならされていると言える。でも魔理沙は違う。自分の力を手に入れる為に、魔術を勉強して、実際に今こうして空を飛んで見せている。それは羨ましく、同時に他人事である筈なのに誇らしかった。
「もうあれから一年だからな。そりゃ上手くもなるさ」
「うん」
「て言っても、魅魔さんにはまだまだ未熟って言われてて、簡単な魔法しか教えてもらってないけど」
「うん。でもそれだけでも凄いんでしょ?」
「魅魔さんはそう言ってくれるけど、でもなぁ、もっと色色やりたいよなぁ。危ないとか言って教えてくれないなんてけちだよなぁ。せめて新しい魔導書の一冊でもあれば」
魔理沙がぼやく。それを聞いた霊夢は魔理沙を抱きしめる力を強めた。
「この事件、絶対解決しようね」
「え? おう、勿論だぜ」
周囲は自分達を認めていない。それはつまり自分達だけの居場所をまだ持てていないという事だ。
この事件を解決して、皆に自分達が探偵である事を認めさせ、そして二人の居場所を作りたい。
霊夢はそう願う。
「とにかくまずは手掛かりを」
「ああ。と言ってもレミリアが何をしようとしているか調べようにも、レミリアは中国に行ってる、日本に来てから調査出来りゃ良いけど、期限がレミリアの入国前ってなら、手掛かりはあのオフィスしか無いよな」
そう言いながら、魔理沙は箒の柄の先端を空に向けた。空に上る速度を一気に上げて、ビルの壁面を滑る様に、垂直に進んでいく。吹き荒れる風に吹き飛ばされない様に、魔理沙は箒を手と足でしっかりと掴み、霊夢は魔理沙の体を手足で抱きしめる。
「ねえ、魔理沙」
風に負けない様、霊夢は叫ぶ様に言った。
「どうした?」
「世界的なモデルの居る場所ってどんな所だと思う?」
「さあ? 知らないけど、多分きらきらしてんだろ! 夜空に咲く花火みたいにさ!」
魔理沙はケラケラと笑いながら箒の柄を傾けて宙返りする。光を放つ窓。強烈な光で中は窺えないが、レミリアのオフィスがある筈だ。
「っていうか、レミリアに直接会って聞いてみれば良いんじゃね?」
魔理沙は笑顔で箒を操り、窓を打ち破る為に突っ込んだ。
侵入者。
女性は掠れた声で呟くと、読んでいた本を閉じて、部屋の入り口に顔を向けた。従者達に緊張が走る。傍らの従者が女性にか細い声を掛けた。
「パチュリー様」
パチュリーと呼ばれた女性は口元に人差し指を立てると、息を整え、手を下ろす。それを合図に、扉が独りでに開く。パチュリーも従者達もすぐに扉の向こうに攻撃出来る様に身構える。
やがて扉が開ききった。
扉の向こうは照明の落ちた闇。
そこに居る筈の侵入者が居ない。
「消えた?」
初めから居なかったとは思えない。
今、パチュリーの頭の中には異常な量の警報が響き続けている。一階からこの部屋の扉までの殆ど全てのトラップが作動している。
それは侵入者が扉の前まで来た事を表している。
だが現に居ない。
まるで煙の如く消え失せてしまった。
それだけなら逃げたで説明がつくのだが、状況は更に複雑だ。
何故なら警報は、同時に鳴り始めたのだ。ビルの入口からエントランス、エレベータ、そしてオフィスのあるこの階にも至るところに、侵入者の検知や惑乱、排除をするトラップが仕掛けてあった。それが同時に作動したのだ。トラップが正常に作動したというのなら、まるで光の速さでビルの中を突き進んできたかの様に、全てのトラップに同時に引っかかった事になる。とはいえ、誤動作にしては全てのトラップが一斉に壊れたとも思えない。侵入者が狂わせたにしても、何故ビル中のトラップを作動させたのか分からない。それにどういう意味があるのかパチュリーには理解出来無い。
万が一、侵入者が全てのトラップを誤作動させたとして、何故そんな事が出来るのに、扉の前で警報に引っかかったしまったのかも、おかしな話だ。この部屋の扉の防衛機構は、特別強固にしてあるから、それを破れなかったというのは納得出来無い事では無いが、詰めの甘さには疑問を覚える。
今起こった出来事は考えれば考えるだけ、理に適わなくなる。そしてその答えを知るであろう犯人が消えてしまった。
それが恐ろしい。いくら考えても答えが出ないのだ。未知の脅威がいつ自分の寝首を掻くか分からないという事である。
だが怖がっていては周りの物を不安にさせる。ただでさえ部屋の中には緊張が満ちているのに、そこへ恐怖を与えてはならない。幸いにも警報はパチュリーにしか感知出来ない。隠しておけば、不安が広がる事は無い。パチュリーは心の中の疑念と恐怖をおくびにも出さず、微笑みを浮かべる。
「どうやら去ったようね」
自分で言っていながら、心の内で疑問に思う。
本当に去ったのか。
あるいは部屋の中に侵入を許したんじゃないだろうか。
パチュリーは扉を閉めると、再び本を読み始めた。パチュリーという主人が普段の行動に戻ったので、従者達の間に安堵が広がっていく。
安堵の広がる部屋の中で一人、パチュリーだけが、本に目を落としつつも、油断無く部屋やビルの中を探る。
しばらく探ったが異常は無い。まだ侵入者が残っているのなら、何か動きがあっても良さそうなものだが。やはり消えたのだろうか。次第に思考が楽観的になっていく。
幾分の平静を取り戻して思わず息を吐いた瞬間、パチュリーは勢い良く顔を上げた。
ガラス張りの壁際で台車を転がしている従者に対して声を荒げる。
「マルティカ! そこから離れなさい!」
名前を呼ばれた従者が驚いてその場から離れると、パチュリーは壁一面の窓を消した。
「え? おわ!」
外から悲鳴を上げながら侵入者が転がり込んでくる。
転がり込んできたのは幼い少女が二人。トラップを潜り抜けて来られる様な力は感じない。現に外の感知網に引っかかったからこそ侵入が分かったのだ。
だが油断は出来ない。
パチュリーは読んでいた本を閉じると静かに立ち上がった。
霊夢は痛みを堪えながら立ち上がった。蹴り破ろうとしていた窓が突然消失した事は覚えている。だがその理由が分からない。隣の魔理沙も同じ様で、混乱した顔を痛みでしかめていた。
「ようこそ」
声のした方へ向くと、女性が立っていた。今日の昼にも見たレミリアのスタッフだ。更に部屋の中には何人もの人影がある。ここが吸血鬼の根城である事を思い出し、思わず振り返ると、消えた筈の窓が壁に変わり逃げ道を塞いでいた。
囲まれた事に肝を冷やして、魔理沙を見ると、魔理沙も危機感をつのらせた表情で霊夢を見つめ返してきた。
見つめ合う二人に女性が挑発的な言葉を投げかけてくる。。
「ここが魔術師の拠点だと知っての侵入かしら?」
霊夢はその苛立ちの含まれた声音に益益逃げられない事を悟ったが、一方で魔理沙は素っ頓狂な声を上げた。
「魔術師? じゃあ、お前も魔女か?」
女性が眉根を潜める。
「も、という事は、あなたも魔術の心得があるの?」
「おう! 何なら試してみるか?」
魔理沙が嬉嬉として腕をまくる。
「ちょっと魔理沙!」
止めようとするが、もう遅い。こんな状況だというのに、魔理沙の目は止め様の無い程、輝いている。
「悪い、霊夢。他の魔術師と戦うなんてさ、初めてなんだ」
「どういう事?」
魔理沙がにっと口の端を吊り上げる。
「試してみたいんだ。今、私がどれ位強いのか」
「でも私達囲まれてるのよ?」
「分かってるよ。でも大丈夫。私達なら逃げられる。だろ?」
何の根拠も無い笑みだ。
素直には頷きかねる。
「魔理沙、でも」
魔術師と戦って勝てるとは思えない。
魔理沙が魔術の勉強をしたのは一年やそこら。一方で相手の女性は、先程の言葉からして、魔術の専門家なのだろう。どちらに分があるかと言えば、当然向こうだ。
不安に思う霊夢に対して、魔理沙は自信を漲らせている。
「霊夢、私達は色んな妖怪達をやっつけてきたんだぜ? 楽勝だっただろ?」
確かに紫や射命丸に依頼されて妖怪退治をしてきた。でもそれは形式的なもので。
「勝ちは勝ちだ。私達はそれを倒してきたんだ。だけど魅魔さんは私の事を認めてくれない。まだまだ未熟だって。それで新しい魔術を全然教えてくれない。だからここであいつを倒す。本物の魔女を倒せば私だって一人前の魔女って事だ」
そう言って、魔理沙は魔術師を名乗る女性を指差す。
「それにあいつ弱そうじゃん」
確かに女性は不健康そうな顔色で、生気が薄い。体つきもひ弱で殴り合いであれば勝てそうだ。
でも、相手が見た目通りの強さだとは思えない。仮にも吸血鬼の根城を守っているのだ。実力が無い訳が無い。
魔理沙がその事に気がついていない筈が無い。それなのに魔理沙は嬉しそうに笑って、女性へと向いた。
「という事で、勝負しようぜ」
「勝負? どうして?」
「聞いてただろ? 私が一人前になる為だ」
魔理沙の言葉に、女性はわざとらしく溜息を吐いた。
「ちなみに、一応聞いておくけれど、先程扉の前まで侵入してきたのはあなた達?」
「どういう事だ? どの扉?」
「ああ、もう良いわ。で? 勝負だっけ? それをして私に何の得があるのか、甚だ疑問だけれど」
「良いじゃんか。そこを一つ」
再び女性が溜息を吐く。
「まあ、勘違いしているピノッキオの鼻っ柱を折ってやるのも大人の努めかしら?」
「ピノキオは嘘を吐くと鼻が伸びるんだぜ」
「勘違いも嘘も同じものじゃない」
女性はくだらなそうに言って、懐から本を取り出した。
それが魔導書である事を見抜き、魔理沙は笑みを深くする。更に部屋の中を見回すと、奥には魔導書の本棚が並んでいた。というよりこの部屋には魔導書の本棚しか置いていない。言うなれば魔導書の図書館だ。未知の魔術が沢山あるのだと思うと何だかわくわくとして、魔理沙の笑みが益益深くなる。
「じゃあ参ったって言った方が負けだからな」
「何をしても良いの?」
「ああ。あんたが出来る最高の魔術でかかってこい」
「それは私の台詞だけど」
「行くぜ!」
魔理沙は会話を打ち切ると、右手を前に突き出した。
その指先が親指から人差し指と順番に明かりを灯し、五本の指先が淡く光った。それを合図に破裂音が響き、魔理沙の手元に閃光が迸る。目の眩む閃光の中で鈍い音がして、光が収まった後には、壁にぶつかって崩れ落ちている魔理沙の姿があった。
「魔理沙!」
霊夢が驚いて魔理沙の下に駆け寄ると、魔理沙は呆然と霊夢を見上げた。やがて理解が及んだ様で恐怖に瞳を染めると、掠れる声で呟いた。
「こんなに」
戦意を失い掛けている魔理沙を、女性が嘲笑う。
「どうしたの? もうお終い?」
それを聞いた瞬間、魔理沙は悔しげに顔を歪め、そして跳ね起きた。
「ふざけんな!」
魔理沙が足を突き出しもう片方の足を軸にして見えない魔法円を描く。その瞬間、魔理沙の足元から閃光が迸り、衝撃で魔理沙と霊夢は地面に転がった。
霊夢が眩暈を覚えながら何とか身を起こすと、魔理沙が壁にもたれかかりながら辛うじて立ち上がろうとしている。その目には闘志が燃えている。諦めていないのではなく、自棄で理性を失った様な凶暴な目付きで女性を睨んでいる。
「魔理沙、もうやめよう」
霊夢は痛みを堪えて魔理沙の傍に駆け寄るが、魔理沙は霊夢を一瞥もしない。
「駄目だ。あいつを倒さないと」
「もう良いでしょ? だって……無理だよ」
さっきの戦いで何が起こっていたのかはっきりと分かっている訳では無い。けれど魔理沙が何かやろうとしてもその度にあっさりとあしらわれてしまったという事は分かる。向こうで冷たい目をしてこちらを見ている魔術師は物凄く強くて、今の自分達では敵わない事は良く分かる。
でも魔理沙は退こうとしない。
「無理なんて言うな」
身を起こすと、そう言って霊夢をたしなめる。
「だって」
「退いちゃ駄目なんだ」
魔理沙は何処からともなく箒を取り出し握りしめる。
「逃げたら駄目なんだ。そうしたら前に進めなくなる。前だけを見てなくちゃ駄目なんだ。そうしなくちゃ認められない」
魔理沙が痛みで呻いた。
霊夢が慌てて抱き寄せようとするが、魔理沙は両手で霊夢の体を突き放した。
「ここで止まっちゃ駄目なんだ!」
飛び上がる様に箒へ乗った魔理沙は、雄叫びを上げて、魔導書を構えた女性へ突撃する。
女性は微かな笑い声を漏らすと、何か呟いた。
その瞬間、魔理沙の箒がバランスを失い、あらぬ方向へ穂先を向けたかと思うと、大きく回転して地面に墜落した。悲鳴を上げながら、魔理沙は女性の足元まで転がる。
「承認欲求。学校のみんなにいじめられているのかしら?」
「そんなんじゃない」
女性の問いを、魔理沙は吐き捨てる様に否定する。
「なら家族にないがしろにされているとか?」
「家族なんて居ない!」
女性は一瞬目を細め、それから得心がいった様子で手を打った。
「ああ、捨てられた訳ね。だからもう一度家に戻りたくて」
「違う! あんな家に戻ろうなんて思わない」
「そうかしら? ならあなたはどうしてそうも必死なの?」
「認めさせる為だ」
「だから家族に認めさせようって事でしょう」
「違う。みんなだ。私と霊夢以外の全部に私達を認めさせる」
「何の為に?」
「暮らしていく為に」
「暮らしていく? 理解し難い言葉ね。あなたの望みは何なの?」
「霊夢と二人で暮らしていく。その為には力が必要なんだ。誰かに頼ってたら裏切られた時に生きられない。私達の力で私達だけで生きられる様に力が無いと。それを認めさせないと、自由に生きられない!」
叫び声と共に、魔理沙は寝転がった態勢のまま女性の足に蹴りを放つ。だがすかされた。勢い余って地面を転がり、顔をあげると女性は少し離れた場所に立って、笑っていた。
息を荒げる魔理沙と女性の目が合う。女性は喜悦に満ちた目で魔理沙の事を見下ろし、笑っている。
「何がおかしいんだよ!」
魔理沙が叫ぶと、女性は口元に手を当てると首を横に振った。
「いえ、その、ね」
笑いを堪らえようとしている様だが、堪え切れない様子で肩をふるわせている。
「何だよ! 何で笑うんだ!」
女性は吹き出して笑い声を上げる。かと思うと、急に咳き込みだした。近くの従者達が女性の下に駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか、パチュリー様」
「大丈夫。ありがとう」
女性は心配する従者達を制し、懐から取り出した丸薬を飲み下す。喉の調子を確認する様に意味の無い声を出してから、再び魔理沙へ向き直った。
「ええ、失礼。おかしかった訳ではないの。ただ、そう、とても、ええ、うん」
「何だよ!」
「とにかくあなた魔術師に向いてるわ」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げる魔理沙に向けて、女性は微笑みを向ける。
「今の西洋魔術の根本は自己実現だから。その意味であなたはとても向いている。そんな下らない、失礼、根拠の無い、ではなく、子供っぽい? いえ、とにかく馬鹿げた願望をそれ程までに醸成しているのは才能よ」
「お前、ぶっ殺すぞ」
「そう、それ。今のは冗談みたいだけど、さっきの願望を吐露するあなたは真剣だった。必要であれば私を殺してやるという位に。そんなにも幼い願望に、あなたは自分自身の全てを託している。魔術を修めるのに必要なのは自己を変革したいという願望。その為に魔術を究めたいと望む事こそが魔術を習得する近道になる」
「何が言いたい」
褒めているのか貶しているのか、分からない。
だが女性の表情に浮かぶ酷薄な笑みが、酷く不快だった。
「いえね、同じく魔術を究めんとする魔術師として、折角だから後輩のお手伝いをしてあげようかと思って」
「何だ。授業でも開いてくれるのか?」
「ええ。その通りよ」
女性はそう言って魔導書を近くの従者に渡した。そして虚空からまた別の魔導書を取り出す。
攻撃が来る。
恐怖を抱いた魔理沙の背筋に冷や汗が流れた。
「何をする気だ?」
慌てて立ち上がり身構える魔理沙に向けて、女性は残虐な笑みを深める。
「あなたの願望をもっと強くしてあげるわ」
女性が腕を水平に伸ばし、壁際に立つ霊夢を指さした。
「霊夢がどうしたんだよ」
嫌な予感が湧いた。
霊夢は関係無い筈だ。
呆然とする魔理沙の視界の中で、女性は霊夢に向かって歩いて行く。
「やめろ! 何すんだ!」
慌てて箒にまたがり、女性へ突撃しようとするが、箒はすぐに制御を失って、魔理沙は地面に投げ出された。地面に転がりながらも急いで立ち上がり、女性に向かって駆け出す。だが足が意のままに動かず転んでしまう。
床に打ち付けた顔を上げて、魔理沙は叫ぶ。
「霊夢! 逃げろ!」
女性は霊夢の傍まで近寄ると、魔理沙へ振り返った。
「願望っていうのはね、喪失感を埋めようとした時が一番強くなる。分かるでしょう? あなたは家族に疎んじられていた事が悲しかった。だから家出をして、だから魔術に傾倒した。けれど今、あなたの喪失感を埋めているものがある。それがあっては魔術の邪魔になる。いえ、それを取り除けばより魔術への才能が増すでしょう」
「やめろ! 霊夢、早く逃げろ!」
女性が霊夢に向き直った。
その目は酷く冷たい。霊夢の背に怖気が走る。
まるで霊夢を殺してしまう事がこの世の理であるかの様に、女性は冷徹に霊夢の事を見つめてくる。
恐怖で震えながら、霊夢は懐から符を取り出した。相手を縛り付ける呪術符だ。霊夢は怯えを振り払う様に符を放った。
符が過たず女性の服に張り付く。
途端に女性の動きが止まる。
体を縛る術が効いた。
意外な思いと安堵で、霊夢が息を吐いた瞬間、女性の服に張り付いた符が、水に溶かされた様に溶け崩れた。
霊夢が目を見開く。
「あなたも出来るのね」
女性が微笑んで霊夢に手を伸ばしてくる。
殺される。
霊夢は後退ろうとするが、足が上手く動かない。
恐怖で凍りついている。
女性の手がゆっくりと近付いてくる。
触れれば自分は殺される。
恐怖で目を瞑った瞬間、瞼の裏が真っ白な光で包まれた。
続いて吹き荒れた暴風に薙ぎ払われて霊夢は床に打ち付けられる。
呻き声をあげた霊夢が息を吸うと、焦げた臭いが鼻につく。混乱しながら顔をあげると、魔導書を構えた女性が魔理沙の方へ向いていた。女性の視線の先に居る魔理沙は険しい顔をして両手を女性に向かって突き出している。
見れば、魔理沙の立つ場所から女性の立つ場所まで床と天井に一直線の焦げ跡がついている。更にその先の、霊夢達の退路を絶っていた壁にまで、焦げ跡のついた大きな穴が空いており、夜空が見えた。
「これでも駄目かよ」
魔理沙が苦しげに呟くと、女性が魔導書をしまって手をたたく。
「凄いじゃない。今のは防御しないと危なかったわ」
魔理沙が渾身の攻撃を仕掛けたが、それすらも防がれてしまったらしい。
実力の差は圧倒的だ。
魔理沙はこの女性に敵わない。
それが決定的に感じられた。
同時に霊夢の体が動いていた。一気に跳ね上がり、魔理沙に向いている女性の背後を襲う。女性が音に気がついて振り返り、視界に霊夢を捉えた瞬間、その視界から霊夢が消える。
女性の頭上に現れた霊夢は取り出した針を首筋に振り下ろす。
刺せる。そう霊夢が確信した瞬間、衝撃に揺さぶられて気を失った。
突然地面から湧き上がってきた蔦に横から殴られた霊夢は、跳ね飛ばされて、力無く宙を舞い、頭から床に突っ込んだ。激突する寸前で、魔理沙は霊夢を抱き止め、二人して地面に倒れこむ。
「霊夢! おい、霊夢!」
魔理沙の呼びかけに霊夢は答えない。完全に気を失っている。
「くそ」
悪態をついて顔をあげた魔理沙は息を飲む。女性の足元の魔法円から、霊夢を殴った蔦がその数を増しながら生え出して、じりじりとその先端を魔理沙達へと伸ばしてきていた。合図があればいつでも襲いかからんと近付いてくる蔦に、魔理沙は慌てて霊夢を引きずりながら後ろに下がり、床に落ちた箒を拾い上げて、霊夢を載せ、自分も乗った。
「さあ、次は何をしてくれるのかしら?」
もう何も出来無い事を知った上で、女性が挑発めいた言葉を投げてきた。魔理沙は激昂しそうになるが、手元でのびている霊夢に視線を落とし、覚悟を決める。
「負けだ」
女性に聞こえない様にそう呟くと、箒で浮き上がる。
女性が何か合図をしようとしているのを見て、魔理沙は蔦に背を向け、箒を急発進させた。考えがあっての事ではなく、単に蔦から逃れる為だ。背後から蔦が迫ってくるのを感じる。
部屋の奥へと進み、魔導書が収められた本棚の群れに突入する。進む先を見ると、魔導書の図書館は随分奥まで続いていた。少なくともビルの面積よりも大きそうだ。空間が捻くれているのだろうかと魔理沙が疑問に思っていると、不意にぞっと悪寒を覚えた。このまま嫌な予感がする。思わず引き返そうとしたが、背後からは蔦が迫ってきている。
行くか戻るか、迷っている間にも箒は進み、そして本棚の奥から金属の軋み合う様な唸り声が聞こえた。
魔理沙の体が硬直する。
同時に一角からのそりと影が現れる。
魔理沙は慌てて目を逸した。
見てはならないものだと魔理沙は直感した。
それを見れば、自分の内が滅茶苦茶にされると感覚的に理解出来た。
魔理沙は息を詰めると箒を反転させる。当然戻る先には蔦が居るが、這い出てきた影と対峙するよりは多分ましだ。
反転した魔理沙の向かう先から、幾重にも絡み合いながら蔦が迫ってくる。
最早何も考えられなかった。
思考を働かせる時間が無い。
咄嗟の判断し、蔦にぶつかる寸前で穂先を上にずらし、蔦の上を越えようとする。蔦は魔理沙の動きに反応して蔦を上へ伸ばしてくる。それを避けようとするが避けきれず、殴られたが、魔理沙は必死で箒を掴み、襲い掛かる蔦の合間を塗っていく。やがて女性や従者達の居る元の場所に戻ってきた魔理沙は、一瞬女性を睨みつけた。
女性はただ微笑むのみで何も言わず、傍を通りぬける魔理沙を止めようとはしなかった。
魔理沙はそのまま壁に空いた穴を通りぬけ、外へと飛び出す。殆ど同時に背後から、蔦の奔流が壁を破壊する音が聞こえた。魔理沙は我武者羅に箒を飛ばし、追ってくる蔦から逃げる。
しばらく飛んでから背後を振り返ると、もう蔦は追ってこなかった。安心した魔理沙は項垂れて、霊夢を揺する。霊夢は喉が詰まった様に咳き込んでから顔をあげ、そしてすぐに自分が箒に引っかかっている事に気がついて、器用に箒の上で態勢を変え、魔理沙の後ろに座る。
「どうなったの?」
「逃げた」
「何とか生きて逃げられた訳ね」
危うく殺されかけた事を思い出し、霊夢は安堵の息を吐いた。
その吐息が首筋に掛かった魔理沙は体を震わせると、小さな声で呟いた。
「ごめんな」
「え?」
突然謝られても霊夢には何の事か分からない。
「危ない目に合わせて」
「いつもの事じゃない」
町に捨てられて二人で生きてく中で多くの無茶をした。紫に拾われてからも頼まれもせずに事件に首を突っ込んだり妖怪退治をしたりと無茶ばかりしている。危ない目なんて今更だ。
「それに負けちゃって」
「それは」
相手が悪かったからだと言おうとして霊夢は口を噤んだ。その言葉は魔理沙を貶す事と同義だ。では何を言えば良いかというと思い浮かばない。何を言っても魔理沙の自尊心を傷付けてしまう気がする。
何と言って良いか分からず黙っていると、魔理沙はまた小さな声で呟いた。
「負けちゃった」
魔理沙は力無く項垂れた。
「魔理沙」
霊夢はその背に抱きついて何か言おうとしたが、どうしても励ましの言葉が思い浮かばなかった。
「パチュリー様」
霊夢と魔理沙が逃げていったのを見送っていたパチュリーを、従者が呼びかける。
「良かったのですか? 逃がしてしまって」
「捕まえてどうするのよ」
「いえ、どうすると言われても。だってさっき殺すとか何とか」
「何でそんな事しなくちゃいけないの?」
「いえ、そう言われましても」
パチュリー様が言ったのにという言葉を飲み込んで、従者の語尾がすぼんでいく。
「まあでも確かに、連絡先位は聞いておけば良かったわ。フランの良い遊び相手になったかも」
「フランドール様の?」
「ええ、良いと思わない?」
冗談なのか、自分を試しているのか、本気でそう思っているのか。問われた従者は周りに救いの視線を向けたが、周りも理解出来無いという視線を返してくるだけだった。
「どう、何でしょう?」
結局従者はそれだけ言って、壁に空いた穴を見る。二人の少女は命辛辛といった様子で逃げ去っていった。あんな怖い目にあったのなら、二度とこのビルとレミリア様に関わる者に近寄らないだろう。フランドール様の友達になってくれる訳が無い。フランドール様はただでさえあれなのに。
そんな事を考えて再びパチュリーに視線を戻し、従者はぎょっとした。
パチュリーが笑っていた。口を釣り上げ、目を見開き、興奮した様な笑みを見せている。常に無い表情だ。怒っている様にも見える。
何か怒らせたかと怯える従者を余所に、パチュリーは壁に空いた穴に近寄り、哄笑を上げた。
「パチュリー様?」
怯える従者に名前を呼ばれ、パチュリーは満面の笑みで振り返る。
「中中強かじゃない? あの子達。やっぱり良いと思うわ。きっと良い手駒になる」
くすくすと笑うとパチュリーは穴から身を乗り出した。遠くの空を箒で飛ぶ二人が小さく見える。
「私の魔導書があれば場所は追える。まあ、丁度良かったわね。貴重な魔導書って訳じゃないし」
混乱している従者達に穴を塞ぐ様に指示するとパチュリーは元の椅子に戻って、再び本を読み始めた。本を読みながらパチュリーは考える。霊夢と魔理沙。八雲紫のお気に入りだと聞いていたから警戒したが、まだ未熟。あらゆるトラップを抜けてやってきた最初の侵入者はあの二人ではない様だ。なら最初の侵入者は誰で、何の目的を持ってきたのか。やはり八雲紫の手の物か。あるいは吸血鬼を退治しようとする英雄気取りか。はたまた単にレミリアの一ファンなのか。
考えても仕方の無い事と分かっていながら、パチュリーは文字に目を滑らせつつ、じっとその事を考えた。
俯いてしまった魔理沙を見ていると心苦しかった。
普段は明るく振舞っているけれど未だに両親に捨てられた過去が魔理沙を苛んでいる事を霊夢は知っている。その劣等感を払拭する為に必死で魔術を習っていた事を知っている。魔理沙にとって魔術がいかに大事だったのか想像出来る。
だから霊夢には想像がつかない。
霊夢からすれば魔理沙は負けたって仕方が無い。相手はずっと魔術を勉強していた口ぶりであったし、まだ駆け出しの魔理沙が太刀打ち出来ないのは道理だ。でも魔理沙にとっては違ったのだろう。魔術で他人に負けるなんてあってはならなかったのだろう。魔理沙にとって魔術で負けるというのは単にそれだけの意味ではなくて、きっと両親に捨てられたという事実を再び目の前に突きつけられた様なものなのだろう。
その苦しさは霊夢には分からない。
でもだからこそ、霊夢は心苦しい。
きっと魔理沙が苦しんでいると想像出来るのに、魔理沙がどれだけ苦しんでいるのか分からない事が悲しくて苦しかった。
ああと魔理沙が呻いて、益益項垂れる。
その様子を見ているのが辛くて、霊夢は必死の思いで魔理沙を抱きしめた。
「魔理沙!」
「ちくしょう!」
その瞬間、魔理沙が頭を跳ね上げて、後ろから抱きしめていた霊夢の顔面に魔理沙の後頭部がぶつかった。
「いったっ!」
痛みに叫んだ魔理沙は後頭部を押さえながら振り返る。
「大丈夫か、霊夢」
霊夢は鼻を締め付ける不快感に顔を顰めながら大丈夫だと答えを返す。
「悪い悪い」
本当に悪いと思っているのか疑問を呈さざるを得ない、軽薄な笑みで魔理沙は謝ると、それから一つ伸びをする。
「ああ、ちくしょう!」
「魔理沙?」
何だかさっきと様子が違う。
「何だ?」
「落ち込んでないの?」
「落ち込む? 何で?」
何でと問い返されると困ってしまうが。
負けたから?
すると魔理沙は呆れた様に溜息を吐いた。
「さっきの魔女にか? なら負けて当然じゃん。向こうとは年季が違うんだし」
「うん」
それはその通りである。
ただ魔術は魔理沙にとって大事な事だと思っていたから、落ち込むのだろうと思っていたし、さっきは落ち込んでいたみたいに見えた。
「まあ、ちょっと位はショックだったけど。でもそれ以上に悔しい! ああ、ちくしょう! あんなあっさりやられるとは思わなかった! つーか、本当に最初に一発目で一気に自信を打ち砕かれた!」
「落ち込んでないみたいね」
「あ、でも霊夢を危険な目に合わせちゃったのは本当に悪かったと思ってるぜ」
「あ、そう」
落ち込む事と悔しがる事は随分違う。落ち込むというのはエネルギが無くなっている状態で、悔しがるというのはエネルギが溢れ出ている状態だ。勿論どちらかと言えば悔しがっている方が良い。魔理沙に落ち込んで欲しくない。
「落ち込んでないのね? 何か簡単に勝てるとか、絶対に認めさせるとか言ってたから、それで負けて落ち込んでるのかと」
「そんなの言葉だけのものに決まってるじゃん。自分を奮い立たせるっていうかさ。言霊みたいなの。最初に言っただろ? 自分がどれ位出来るのか試してみたいって」
確かに言っていた。
「でも駄目だった。やっぱり私はまだまだ。今日それが分かった」
魔理沙は悔しそうに、でも何処か嬉しそうにそう言った。
空元気にも見えない。
霊夢が面食らっていると、魔理沙は「だから、ほら」と笑って懐から本を取り出した。
魔導書だ。
「え? それって」
「あそこから借りてきた。これを覚えてもっと強くなるぜ」
「あんた」
あの最中に抜き取ってきたのか。
たくましいと言うか、抜け目が無いと言うか。
「他人から盗んだもので認めてもらうつもり?」
霊夢が呆れていると、魔理沙は笑みを収めて遠くを見つめる。
「認めさせるて言ってるのは、魔術でじゃない。魔術は力だぜ。力はあくまで自分を守る為のもの。幾ら力をつけたってそれじゃあ反発されるだけだ。分かってるだろ、霊夢。力を持っただけの奴等はみんな嫌な奴等だった。それじゃあ認めさせる事は出来無い。認めさせる為には華やかで綺麗じゃないと駄目なんだ。あのレミリアみたいに、画面の中できらきらして。そんな風に自分を着飾らなくちゃいけない。だから探偵なんだろ? 小説の中に居るみたいな、華華しい探偵に着飾って世界に認めさせるんだ。私達って存在を。そう決めただろ? 霊夢」
力強い笑みを見せられて、霊夢は力が抜けた。魔理沙にもたれかかりながら小さな声で肯定する。それから顔をあげると、霊夢も魔理沙の様に笑みを浮かべた。
「やっぱあんた凄いわ」
「は? どういう意味だよ」
「そのまんま」
「皮肉か?」
「違う。本当に」
敵わないと思った。そしてそれを嬉しいと思った。
そう思った理由は自分でも分からない。
「分かんないけど」
「何だよ。まあ、良いや。繁華街近いしそろそろ降りるぞ」
「降りるの?」
「流石に事務所まで飛んでくのはしんどい」
次第に高度を落とし人気のない路地へと着陸する。裏路地なので電灯の明かりは仄かで、辺りは暗い。すぐ傍に駅前の繁華街がある筈だが、ほんの少し外れただけなのに、全く人気が無く物寂しい。
「折角だし、何か食べて帰ろうか?」
「そうだな。何する? そういやこの前退治した妖怪が鰻屋やってるって言ってたじゃん。そこにしよ」
「異議無し」
繁華街の方角へ歩き始めた二人だったが、数歩歩いて霊夢が立ち止まった。
「何か変な音聞こえなかった?」
「え? そうか?」
魔理沙も耳を澄ませてみたが繁華街の喧騒が微かに聞こえてくるだけだ。
「どんな音だった?」
「分かんない。なんか、どん、みたいな感じ」
「全然分からん。駅の方で何かあったんじゃない?」
「方角は」
霊夢は振り返り、繁華街とは反対の方角を指さした。
魔理沙は目を細め、薄暗い路地を遠くまで見透かす。だが人の気配は感じられない。
「言ってみるか」
「うん」
二人は緊張した面持ちで歩き出した。辺りを警戒しつつ、枝分かれする路地を覗き込みながら、いつでも戦える様に構えて進んでいく。
三つ目の枝分かれする路地に何も居ない事を確認し、やはり勘違いだったのかと二人が思い始める。二人は顔を見合わせ、少し離れた四つ目の路地裏の入り口を見つめ、また顔を合わせる。特段言葉を用いなかったが、二人の間で次の路地裏に何も無かったら帰る事にしようという合意が形成された。
頷きあった二人が前を向いて歩き始めた途端、それは四つ目の路地裏から現れた。
不意の影に、二人は身構える。
だが出てきたのが、行きに出会った痩せぎすの天狗であった。二人はその事に気が付き、体から力を抜く。天狗は二人に気が付かなかった様子で、二人に背を向け、反対の方角へと歩き出す。
「なーんだ」
霊夢は呟くと、魔理沙と顔を見合わせた。
「帰ろうか?」
「そうだな。あ、でも一応今日の事言っとくか。なんか向こうも切羽詰まってるみたいだし」
「今日の事って言っても」
「少なくともあの事務所の奥の部屋は、魔導書しかなかった。つまりあそこはあの魔女の根城。レミリアの拠点って訳じゃない」
「何で? 吸血鬼と魔導書って何となく似合ってるけど」
「レミリアはモデルだぜ。例えば衣装とか保管しなくちゃいけないだろ? でもそんなスペース殆ど無かった。あそこは魔導書の図書館だ。それ以上の機能は無い」
「魔理沙言ってたじゃない。あそこのビルは凄い警戒網だからきっとレミリアの拠点に違いないって。レミリアは魔術で何かしようとしているのかも。その為の基地とか」
「ああ、そうか。そういう可能性もあるな。ううん、でも何となくあそこはあの魔女の為の部屋って感じだったけど」
魔理沙は一瞬悩む風に腕を組んだが、すぐに頭を振った。
「考えてもしょうがない。とにかく情報共有が大事だぜ。金は貰ってるし、ちょっとは仕事してるところを見せとかないと」
「それもそうね」
霊夢が同意すると、魔理沙は駈け出した。
霊夢も慌てて後を追う。だがふと天狗の出てきた路地裏が気にかかり途中で立ち止まった。天狗はこんな所で何をやっていたのか。さっきの音の正体は何だったのか。その単純な疑問を解消する為に、霊夢は路地裏を覗き込む。
一方で、魔理沙は天狗の背に追いつき、「おい!」と声を掛けた。
天狗は驚いた様子で振り返る。
「ああ、魔理沙さん。どうしました? 息せき切って」
「ちょっとレミリアの事で報告があってさ」
「何か進展が?」
天狗が一歩近寄ってきた。
「そんなはっきりとした話じゃないけど」
「どんな小さな事でも構いません、今はとにかく情報が欲しい」
近づいて来た天狗を見上げて、魔理沙は何処まで話して良いものか算段しつつ、ゆっくりと口を開いた。
その瞬間、背後からつんざく様な霊夢の声が響く。
「魔理沙! そいつから離れて!」
魔理沙は驚いて、訳も分からぬまま、大地を蹴って離れようとした。だがその前に、腕を掴まれる。思わず振り返ると、天狗と目があった。その何の表情も浮かんでいない顔に見つめられた途端、男の顔が歪む。その向こうの星空も歪む。急速に気が遠くなり、胸の内が白い糸で絡め取られ、締め付けられる様な不快感が満ちた。どんどんと締め付けられて、自分の中身が押し潰されていく様な感覚がした。
魔理沙が天狗に捕らえられた。
それを見た霊夢の背に怖気が走った。
さっき路地裏を覗き込んだ霊夢は、そこに溶け崩れた天狗を見つけた。何か薬品を使ったのか、まるで地面と同化する様に体の半分以上が崩れ、尚も溶け続けていた。その天狗は、今魔理沙を捕らえている天狗と全く同じ姿をしていた。同じ姿の天狗が、一方では路地裏で溶け、もう一方では魔理沙を捕らえている。双子という可能性は低いだろう。霊夢は、天狗を殺して成り代わったのだと直感的に理解していた。
そういう妖怪だとすれば、魔理沙を捕らえた今、次にする事は。
気を失った魔理沙に天狗が顔を近づける。
そして天狗の髪の色が少しずつ黒から、魔理沙と同じ金色に変わり始めた。顔立ちも少しずつ幼くなり、体も少しずつ萎んでいく。
魔理沙に成り代わろうとしている。
それに気がついた霊夢は目を見張ると、懐から針を取り出した。
「やめろ!」
怒鳴り声を上げた霊夢は魔理沙に変化しつつある天狗へ針を投げつけた。
それを天狗が辛うじて躱した。
その時にはもう、霊夢は天狗の背後をとっていた。
背後に回った霊夢に気が付き天狗が振り返る。その天狗の視界から逃れる様に霊夢は身を屈め、足払いを掛ける。あっさりと天狗の足は掬いあげられ、バランスを崩した天狗は魔理沙を手放して倒れこんだ。
霊夢が慌てて魔理沙を抱きとめると、魔理沙は目を見開き、跳ね起きる。
「うお! 何だ! 霊夢! 大丈夫か?」
魔理沙は辺りを見回し、「あ」と声を上げた。
魔理沙の視線を追うと、道化姿の人影が路地の向こうに駆けて行くのが見えた。
天狗に成り代わっていた者が正体を現したのか。
霊夢と魔理沙は急いで後を追おうとしたが、魔理沙がふらついて倒れこんだので、追跡を諦める。
「何だったんだあいつ」
「分からない。ピエロ?」
「天狗だったよな? 何がなんだか」
「天狗なら向こうの路地裏で死んでた。多分あのピエロは姿を盗んだんだと思う」
「何なんだ、あいつ?」
「分からない」
「紫に聞いてみるか?」
「そうね」
八雲紫はこの辺りの妖怪の元締めの様な立場にある。誰よりも妖怪に詳しい事は確かだ。正体の分からない妖怪の事なら八雲紫に聞くのが良いだろう。
「いや、待て」
魔理沙が頭を押さえる。
「天狗に成り代わってたんだよな?」
「うん」
「だから天狗の敵って事で良いんだよな?」
「それは、そうなんじゃない?」
「なら紫の敵って事でもあるよな? 妖怪の山に敵対するって事なんだから」
「それは、どうかしら。でも多分、そう」
「だよな。なら大丈夫だよな」
魔理沙が何を確認しようとしているのか分からず、霊夢は眉を潜めた。
「何かまずい事あるの?」
「いや、杞憂だってのは分かってるんだけど」
「何?」
「何で射命丸は私達にレミリアの事を依頼したんだろうって話」
何が言いたいのか分からない。
「何となくそれって紫が決めたんじゃないかって思ってさ」
「何の為に?」
「それだ。レミリアをこの町に呼んだのも紫だろ? それで私達に依頼が来る様に仕向けたのなら、紫の狙いは何だ。そこに、射命丸の言っていた不審死。今日もこのビルで起こった。私達が来るのを見計らってたみたいに。そして今度はピエロだ。これも私達を襲ってきた」
「紫が私達を殺そうとしているって事?」
「いや、私達を殺すならもっと簡単に出来るだろ。何か別の企みがある気がするんだ」
霊夢は考える。確かに幾つもの事が短期間の内に重なりすぎている。それは魔理沙の言った通りだ。だがそれが何を表しているかと言うと、やはり魔理沙の言う通り分からない。
「いや、でも天狗が殺されてるって事は、やっぱり紫の仕業じゃないのか。でも何か引っかかるんだ。いやー、でも、さっきあの天狗に掴まれた時、自分が自分じゃなくなる様な凄い感覚で、思い出しても怖かったし、その怖さで神経質になってるのかも」
「どっちにしてもあのピエロが天狗に成りすます可能性があるのなら、射命丸には報告しなくちゃいけない」
「そうだな」
魔理沙は同意して、自分の手の内に目を落とす。
そこには一冊の魔導書が握られている。
霊夢もそれに目を落とす。
「あるいはさっきの魔術師があなたを殺そうとして差し向けたのかも」
「それも辻褄が合わない。時間的にも、やった事も。私を殺すなら、やっぱりさっきのビルで殺せた筈だ。あいつは最初から私達を殺す気が無かった」
「それは理屈に合わないのは紫が犯人っていう説も一緒よね」
「そう。いずれにしたって確証は無い。ただ何となく引っかかるだけだ」
「勘ね?」
「勘だ」
魔理沙はしばらく魔導書を見つめてやがて顔を上げた。
「とにかく視点を複数持っておく事は大事だぜ」
続く
~其は赤にして赤編 11(探偵2中)