視界を塞ぐと、自然と音をよく拾う。
普段は意識を掠りもしない囁きと騒めき。失った感覚を他で補おうとするのだと思う。
きっとこれも同じ現象だ。
生にまつわる実感は、呼吸を奪われることでこそ得られるらしい。
水流に解かれてゆく髪の束。どこかから運ばれてきた生臭い匂い。口の中に蘇る感触は苦くて青い。
いくつかの光が瞬いては消える。暗い水底にあって、けれどもそれは確かに輝きに類するものだった。
皮膚の内を這いまわる気味の悪い焦燥。焼けつく憎悪と不毛な嫉妬。他人よりも幾分か幸薄い生涯を送ってきたように思う。
不思議と、水に溺れている間はそうした煩いを忘れることができた。
生命の根幹が掻き鳴らす警鐘はけたたましく、実に多くのことを有耶無耶にしてくれる。皮肉にも、それは日々求めている何某かに限りなく近く、醜く足掻こうとする本能は理性に諭されるままに抑制されていた。
息が詰まり、喉の奥から吐いた泡が空へと昇る。
私の中に在った透明な空間。魂というものが実在するのなら、きっとこんな形をしているのだと思う。
そんなこともまた普段の観測の埒外で、不思議な全能感は肉体の苦痛に反比例して心地よさを増してゆく。
願わくば、ずっとこのまま。
何もかもを忘れ、虚ろで確かな安息に融けてしまえたら――。
< 愚者の漣 >
空気を吸う。
気管に水滴が痞え、反射的に幾度か咳き込んだ。
遠く聞こえていた音が去り、再び狭まる認識。
どうやらまた彼岸の一線を渡り損ねたらしい。
寝そべった私の髪を撫でながら、浅瀬の揺らぎが耳元を駆けてゆく。
嗚咽と酸欠に滲んだ目を擦って醒ますと、旧地獄の遠い虚と舟幽霊の少女、村紗水蜜の丸い瞳が私を覗いていた。
それは共に仄碧くて暗く、先に見た水底と神秘にどこか似ていた。
「おかえり」
私の意識を確かめるように村紗が声をかける。
微笑の裏には緩んだ昂揚が見てとれた。舟幽霊である彼女は他者を水中に沈めて害することに根源的な充足を覚えるのだ。
ひどい性癖だとは思うが、そもそも妖怪の性など理解できる方が稀である。
思うに、彼女らが捩れた嫉妬の甘さに酔う術をもたないのは憐れましいことだ。
「あと少しだったのに……」
「何に?」
村紗の問いには答えず、代わりにその首根に腕を伸ばして同じ水面に引き寄せる。
さすがというべきか、舟幽霊は水を被ることにまるで抵抗がないと見え、容易く崩れた姿勢はそのまま靡く水辺と横たわる私の上に沈んだ。
村紗の肌が嗅覚を淡く掠める。
地上由来の大気と陽の名残。暗く湿った地の底では叶うべくもない小洒落た香りを妬ましく思った。
私と同じ水を帯びた村紗の黒髪を梳いて、間近になった耳元へ囁く。
「どこか遠くて静かなところ」
村紗は頷いた。水に束ねられた髪の一房が首筋に触れ、微かな擽ったさを覚える。
仄温かい吐息が触れると僅かに、けれども確かに、流水に奪われるばかりの体温が補われた。
「どこにもないよ、そんなものは」
彼女は私に体重を預け、錘のように私の背中を浅い水底へ押し付ける。
「たまにいるんだ、パルスィみたいなのが」
「私みたいなの?」
「死を過大評価してる奴」
釈然としない私に熱を裾分けながら、村紗は慈愛と嘲りの間で笑う。
それは無知な子供を諭すのに似ていた。確かに彼女に言わせれば、私など生まれてこの方未だ死を知らぬ幼子といえよう。
その点において反論するべくもない。長い付き合いではないが、村紗の性格は理解しているつもりだった。多少の先輩風には目を瞑る。
私は息を吐いて村紗の笑みに甘んじた。
「どれだけ生に絶望していても、覚悟を固めていても、最期はみんな苦しく藻掻きながら死んでいくんだ。死というのはね、決して救いなんかじゃないんだよ」
私は頬に触れる髪を払い、悪戯に微笑み返した。
残念ながら村紗の洞察は私が夢見る核心、あるいはその輪郭に届いてはいない。
それは私自身ですら観測しえない深遠で高尚な精神の領域にある。
「私は溺れたいのであって、死にたいわけじゃないの」
腹いっぱい食べたい、怠惰に耽っていつまでも眠っていたい。そういったものに似ている。
自ら胃袋を裂きたいわけではなければ、寝床の上で干乾びたいわけでもない。完全に正鵠を射ているわけではないけれど、言語化するならば概ねそういったところだろうか。
彼女はすかさず反論する。
「私にとっては同じことだわ」
「舟幽霊ってのは乱暴なのね」
「誰だって溺れれば息ができないし、息ができなければ死ぬものよ」
私たちは互いに歪んでおり、その幾つかが奇妙に噛み合いながらも清逸を見失って久しい。この手の議論は終着点を見出せないものだ。
私は覆い被さる村紗の後頭を引き寄せて、自らの気道でその唇を塞いだ。
無防備な熱と湿り。その行為に今更特別な意味などない。
だから私は村紗から呼吸を奪おうと努め、彼女もそれを受け入れた。
息が止まり、胸が詰まる。閉じた虹彩に幾度目かの瞬きを見る。
私はこうして溺れながらも生きてゆける。誰かを想い、呪い、虚ろな呼吸を携えながら。
村紗は違うのだろうか?
粘膜に覆われた柔い肌を食みながらそんなことを思う。唇の接触に合わせて目を閉じるたびに、忘れていた幾つかの知覚が神経を伝った。
いつからか縺れた指が水面を這う。浸された二人分の体温が水に溶けて流れてゆく。漣は遠く、暗い地底の彼方へと。
拡張された感覚をもってしても、もはやそれを追うことはできなかった。
仮初のこととて脆い心を繕うには事足りる。致死でない限り、何事にも心地よさはあるものだ。
「村紗はそうして死んだのね」
「貴女はそうならないようにね」
皮肉の応酬が可笑しくなり、互いに笑んだ口元を再び綴じる。
私は再び溺れるために宙を掻き、村紗は冷たい指先でその手を鎮めた。彼女はきっとこうして数多の空を奪ってきたのだろう。
村紗が地底にやってきて今日で一週間になる。私たちはそれなりに、よろしくやっていた。
†
彼女は戒律なるものに縛られており、地上では舟幽霊としての本分が満たせないそうだ。陽の下を歩くのも案外窮屈なものらしい。
そんなわけで時折隠れて地底に潜っては水辺にいるものを沈めて回っていのだという。迷惑な話である。
私が易々と沈められるほど軟ではなく、更にはその住処である橋を欠損させたことは彼女にとって不幸だった。
私が喚ぶ緑の眼の怪物は対象の業に比例して強度を増す。それは慣れない暗闇に足を取られる村紗を制圧するに十分で、かくして彼女は自らの罪を贖うという条件の下、しばし暗い地底に縛られる羽目になった。
不幸中の幸いというべきか、捩れた精神の持主同士私たちはそれなりに気が合い、奇妙な共存関係を築くことができていた。
村紗は常に私という獲物を傍に置くことで理性の形を保つことができ、私は彼女がもたらす水底に恍惚とした天啓を見ることができる。
呪いとは一種の契約であり、債務者である村紗は当然それを一方的に破棄する権利をもたない。
契約主である私自身も契約を構成する部品の一つであり、契約が結ばれている以上、村紗は私を"破棄"することができないのだ。
ゆえに私はその手で生死の一線を超えることが叶わない。なんという皮肉だろう。
「そこ、鋲で留まってなかったっけ?」
住処となる橋が古びていたのは事実で、いざ手を加えるとなると無視できない劣化が随所に見つかった。
塗装の剥がれは著しく、強く押せば裂けてしまう木目も珍しくない。こんな場所に宿っていたのかと驚くこと頻り。慣れとは実に恐ろしいものだ。
村紗はそんな橋の修繕をし、私はそれにけちをつける。欄干に腰掛けながら、私はそのきわめて良好な関係を楽しんでいた。
「そんなの使わなくても、ここは噛み合わせで維持できるわ」
村紗は柄杓を鎚代わりに木組みを打つ。魔術的に凝固した水を重石にした柄杓は十分な質量を持ち、先日の喧嘩では派手に橋板を叩き割った。
今、その鎚は償いのために振るわれている。よく計算された噛み合いは一振りごとに隙間を埋め、遂にはひとつの斜材に組みあがった。
村紗はこの手の作業に慣れており、事あるごとに星蓮船なる船を手掛けた話をした。造船の心得がある舟幽霊とは可笑しなことだ。
それに比べれば橋の修繕など容易いものらしく、私の居城はその手で粛々と再建されていった。
「ここは負荷がかかりやすい部分だからね。鋲任せにしてると錆びたときに危ないのよ」
「へぇ、そうなんだ」
「特に瘴気の多い場所は金属が劣化しやすいし」
大工仕事に興味はないが、混沌としたものが秩序立っていく過程は不思議と惹かれるものがあった。私は頷き、興味深い素振りを示してみる。
さすがの私も、合理的な結びつきを敢えて嫌うほど幼稚ではない。
「やけに素直に信じるのね。私が手を抜いてたらどうする?」
私はかぶりを振った。日頃の行いを省みるに、素直な反応を疑われるのもやむなし。
「呪いは嘘をつかないものよ。人や妖怪とは違ってね」
契約を履行しない者には相応の罰が下る。目には目を、歯には歯を。呪術とは歴とした理の具現である。
それは私が捻くれた嘘と冗句を好むこととは無関係に、ただ傲然と世界に聳えているものだ。
「もしあなたが手を抜こうものなら……」
「どうなるの?」
村紗がそれについて疎いのは少し面白かった。本来呪いとは幽霊の十八番である。
きっと直接船を沈めにかかる舟幽霊はそんな遠回しな手段は用いないのだろう。
誰もかれも、自らの手で報いを与えられるのであれば苦労しない。
「文字通り、肘から手が抜けちゃうかもね」
私は手をひらひらと揺らして村紗を脅す。くだらない冗談だが呪いに冗談は通じないので、実際のところは彼女が手を抜くまで分からない。
「ひえー、怖い怖い……」
彼女はおどけて、けれども流暢に、念仏を諳んじた。
村紗は振舞いの割に生真面目でもある。それはその仕事ぶりからも見てとれた。水の鎚は誠実に木材を組み上げ、それらはまるで最初からそうあったかのようにしっかりと突合し、結ばれていた。
これならきっと緑眼に縊られることもない。
あと数日もあれば橋は完全に修復されるだろう。穏便なる合意のもとで呪いは解かれ、村紗は晴れて自由の身となる。
「これ直したら地上に戻るの?」
「まあ、みんな心配してるだろうしね」
鎚を振るいながら、村紗は続けた。
「もしかして、行ってほしくない?」
「まさか」
私は笑って答える。背中で圧した欄干が小さく軋んだ。
「あんたには旧地獄に棲む素質があるなって思っただけ」
嫌われ者の烙印を押されたものが蠢く旧地獄。人の溺れを喰らう歪んだ性は、きっと怨念と陰湿さに満ちたこの場所によく似合う。
思うに、浮かれた陽光と不毛な戒律の下にあるよりも幾分か。
「褒めてるの?それ」
「貶してる。誇っていいわよ」
私は笑い、村紗は渋い顔をした。
粛々と遂行される修復の音を聞きながら、私は水底に瞬く星々のことを想う。
仰げども応えることのない闇の空。厚い岩盤に鎖された旧地獄にあって、そうした光にあやかることは奇跡と呼ぶに値した。
それは同時に素晴らしい気付きでもあった。
輝きとは地層の天蓋にではなく、見果てぬ地底の更なる深みにあるのだと。
「ねぇ、村紗」
私はそれを手放したくないと思う。
利己的な呪いで彼女を縛ることはできないだろうか?
そんな考えを抱かないほど私は腑抜けていない。
水も心も留まれば淀む。私はすべからく、そういうものだと理解している。
「呪いが解けたらさ、本気で私を沈めてみてよ」
私は彼女の隣に座り、乾いた髪の隙間に囁いた。
声は砂を握るようなざらつきで喉を過ぎ、四季を帯びた香りは褪せることなく彼女の帰郷を促している。
村紗は振り向きもせず、凝固した水と木材の間で一定のリズムを刻み続けていた。
それは私たちの鼓動のようになだらかで、調律された作業の連続。生命というものは、得てしてかくも無感動に続いてゆく。
「もう呪わない?」
「頑丈な橋になるのでしょう?」
「あはは、そりゃそうか」
皮肉に微笑を返しながら、村紗は片手で私の首を撫ぜる。這う指は、ただそれだけで私から幾つかの呼吸を奪った。
受け容れられたようでもあり、体よく躱されたようでもある。それ自体は多分、さほど重要ではない。
約束とは、交わすことにこそ意味がある。
結局のところ、誰もが何かに溺れたがっている。村紗はきっと私の期待に応えてくれるだろう。
余裕めいたやりとりの中に息衝く賤しい昂揚。その業について、私は彼女よりも幾分か詳しいつもりだった。
「めいっぱい醜く足掻いてあげるからね」
水と木の律動が地底の虚に響く。私は目を閉じて、村紗の背中越しに同じ旋律を探し続けた。
†
「ま、こんなとこかしら」
村紗は大仰に額を拭う。その手にはいつもの柄杓ではなく刷毛が握られており、その毛先は私の要望である赤茶色の塗料を吸っていた。
「なんとまあ」
その仕事ぶりに私は舌を巻く。修繕と銘打っていた橋の完成は、そっくり丸ごと新品に置き換えられたような仕上がりだった。
雑談に乗せて伝えていた細やかな要望もきちんと反映されている。近所を通る魑魅魍魎どもに浮かれた新装と思われるのは癪だった。
元来の姿から逸脱することなく、旧地獄の淀んだ空気に適した色彩と設計。そこには村紗の技巧と几帳面さ、幾許かの情が見てとれた。
橋板の軋みと縺れるような沈み込みに疑問を抱かなくなったのはいつからだっただろう。安定した足場に立って初めて、自分の杜撰さが恨めしくなる。
「なにか不満な点はある?言っとくなら今のうちだよ」
不具合の一つや二つ挙げてやりたかったが、そういったものは重箱の隅にも残されていなかった。
私の捻くれた意地でもって文句ひとつ見つけられないのだから、その几帳面さは相当なものだ。
「ああ、欄干には触らないようにね。完全に乾くまで二日はかかるよ」
危うく伸ばした手を引っ込める。そこに凭れる癖があるので注意しなくては。
指先で埃を拭うくらいしか策がなかった私は、潔く彼女の仕事を認めることにした。
「やれやれ、ちょっとは粗を残しといた方が可愛げがあるものよ」
そう嘯きながら、瑕疵ひとつない橋の上で手を拱く。
「おいで。これなら緑眼の怪物も満足でしょうよ」
村紗が誠実に縛られた以上、私も誠実に解かねばならない。対価はいつだって正しく支払われるべきものだ。
そこに嘘があるとするならば、被呪者に触れる必要などないということくらいだろう。私はいつものように村紗の背を抱き、その中に残る債務を探した。
無論そのようなものはどこにもなく、胸の律動はただ淡々とそこにある。
心臓の底を攫うように今一度体を押し当てても、清い戒律が彼女を離すことはなかった。
村紗もまた、私の背に手を当てる。ある種儀式めいた日々の延長。そこに然したる意味がないことを、私たちは既に確かめ終えていた。
帰る地上で、彼女は同じようにして私の知らない誰かを包むのだろうか。
「……妬ましい」
囁くと同時に、彼女の中に刺さった業の楔が霧散する。罰で罪は満たされて、報いは償いに洗い流された。
私は村紗の背中から抜けてゆく光の粒子を見送りながら、ありもしない幾つかの未来について考えてみる。
地の底の昏い河辺に腐る水と橋。私たちはきっと模範的な何かになることができるはずだった。
時と呪詛に形はなく、思えば水もまたしかり。そんな曖昧なものに追い縋るべきではないことくらいは弁えていた。
合意によって契約は解かれ、もはや村紗を縛るものはなにもない。
駄々のひとつでも捏ねれば、せめて冷ややかに笑ってくれるだろうか。
「自由になった気分はどう?」
呪詛の名残が闇に消えたのを見届け、私は彼女の身体を解放する。二人の間に開いた隙間に入り込む空気の冷たさを恨めしく思った。
「特に変わらないかな。本当にちゃんと解けてる?」
「勿論。呪いは嘘を吐かないのよ」
「ふうん。呪われるのは初めてだったけど、案外こういうもんなのかもね」
村紗は気怠そうに肩を回す。
彼女が何を期待していたのか知らないが、解呪とは負の値がゼロに戻ることに他ならない。
贖いをいくら積み重ねたとて、利得を生みはしないのだ。
「最初から、誰一人自由なんかじゃないってことよ」
私の冗句に村紗は口を抑えて苦々しく笑う。釈迦に説法も時にはいい。
「なるほど、これが悟りってやつか」
棄てられた地の底にも等しく天啓は降る。
そして誰も探さない場所にこそ、思わぬ偶像が眠っているものだ。
「お疲れ様。ここでの日々も無駄じゃなかったということね」
「一応感謝しとこうかしら。呪われるなんて、間違いなく寺では得られなかった経験だわ」
「あはは、そうでしょうね」
一通り笑った後、村紗が私に向き直る。
互いに債務のない身である。微笑む瞼の向こうに幾度目かの昂揚を見た。
「それじゃあ、約束だね」
村紗が柄杓を取り出すと、その無言の呼びかけに応じて橋の下を流れる水が嵩を増す。
「覚悟はいいかしら」
流水は餓えた獣のように唸り、歪な波の衝突が川底を抉った。
水面は瞬く間に巻き上げられた泥で暗く濁り、無数の砂利で私を誘う。
村紗が柄杓を振るうと、橋の下から無数の腕が伸びて、私たちの門出を祝福した。
「待ち侘びたわ」
私は頷き、胸に手を当てて心の中に蠢く怨嗟を現出した。
淀んだ心を核にして、悍ましい嫉妬の念が肉を成す。嫉視の瞳が瞼を押し広げ、緑眼の魔物は今一度村紗と相見えた。
忌むべき対面に、村紗は柄杓を表返して警戒を強めた。
「貴女の全力で、私を遠い水底へ導いて頂戴」
私は緑眼の背中を一撫でし、そのざらつきを愛でた。対象の業に応じて強度を増すそれは、今の彼女にどんな呪詛を囁くだろうか。
捩れた思慕に呼応して、怪物の蠢く喉が低く唸る。
深みの果てに堕としてくれればそれでよく、今一度地の底に縛り得たならそれもよい。既に履行された契約の再現は叶わずとも、四肢の幾つかを手折れば如何様にもなろう。
私は親指で唇をなぞり、苦々しく息を吐く村紗へと暗く笑いかける。
真に狡猾な悪意とは、陽の下で育まれるべくもない。流れることのない心はどこまでも醜悪に淀むのだ。
「"舌切雀"――」
緑眼を象る嫉意を捏ねまわし、自身の写身へと作り変える。疑似的な分身。自らの醜悪さを心得ているゆえに、それは寸分の狂いもなく自らの化身であった。
単純に手数は倍。それについては村紗の水害霊に及ぶべくもないが、被弾に応じて自動で呪いを振り撒く性質は初見に刺さる。きっと村紗のような愚直さには殊更。
緑眼を従えて一歩踏み出す。撓むことのない底板が私を抱く。
それは地にあって背中を押すように、力強い決別を私に促した。
同時、村紗の柄杓から水弾が生じる。
その一粒一粒が煌めきとなって宙に留まる一瞬、数多の手と轟音の濁流が私の呼吸めがけて殺到した。
†
幾度目かの、けれども真新しい水層。臨界への訪問は、いつも不思議と異なる扉を開く。
世界の甘い皮膜の向こう、溢血の神秘を漂いながら泥の果てに星を探す。
観測は著しく、あるはずのない光は螺旋を描き、深層の花は絶えず虹色を宿している。
鼓動と瞬き、胸に抱いた焼尽。静かに拓けてゆく意識の数々と拡張する全能感。
塞がれたままの唇は言葉を忘れ、幾つかの饒舌は雨のように腕を伝って滴り落ちてゆく。
目覚めれば孤独な浅瀬。どのみちそこに貴女はいない。固く結んだ木組、乾いた欄干、爛れた日々の残照が積もる架橋。
ひりつく喉はどこにも無く、誰のものでもない。何もかもが沈んでいくのなら、それはとても素晴らしいことだと思う。
あぁ。
見上げれば今日も天は夜だった。
まるで、そうでない日があったかのように。
遠い彼岸を渡るなら、その白い波間に何を数えるべきだろう。
水圧に拉げる胸のその奥で、知りもしない春の香りを想った。
私は目を閉じて、遠い漣を追う。
橋の下を往く水は更々と、辿り着くことのない空を目指して流れていた。
普段は意識を掠りもしない囁きと騒めき。失った感覚を他で補おうとするのだと思う。
きっとこれも同じ現象だ。
生にまつわる実感は、呼吸を奪われることでこそ得られるらしい。
水流に解かれてゆく髪の束。どこかから運ばれてきた生臭い匂い。口の中に蘇る感触は苦くて青い。
いくつかの光が瞬いては消える。暗い水底にあって、けれどもそれは確かに輝きに類するものだった。
皮膚の内を這いまわる気味の悪い焦燥。焼けつく憎悪と不毛な嫉妬。他人よりも幾分か幸薄い生涯を送ってきたように思う。
不思議と、水に溺れている間はそうした煩いを忘れることができた。
生命の根幹が掻き鳴らす警鐘はけたたましく、実に多くのことを有耶無耶にしてくれる。皮肉にも、それは日々求めている何某かに限りなく近く、醜く足掻こうとする本能は理性に諭されるままに抑制されていた。
息が詰まり、喉の奥から吐いた泡が空へと昇る。
私の中に在った透明な空間。魂というものが実在するのなら、きっとこんな形をしているのだと思う。
そんなこともまた普段の観測の埒外で、不思議な全能感は肉体の苦痛に反比例して心地よさを増してゆく。
願わくば、ずっとこのまま。
何もかもを忘れ、虚ろで確かな安息に融けてしまえたら――。
< 愚者の漣 >
空気を吸う。
気管に水滴が痞え、反射的に幾度か咳き込んだ。
遠く聞こえていた音が去り、再び狭まる認識。
どうやらまた彼岸の一線を渡り損ねたらしい。
寝そべった私の髪を撫でながら、浅瀬の揺らぎが耳元を駆けてゆく。
嗚咽と酸欠に滲んだ目を擦って醒ますと、旧地獄の遠い虚と舟幽霊の少女、村紗水蜜の丸い瞳が私を覗いていた。
それは共に仄碧くて暗く、先に見た水底と神秘にどこか似ていた。
「おかえり」
私の意識を確かめるように村紗が声をかける。
微笑の裏には緩んだ昂揚が見てとれた。舟幽霊である彼女は他者を水中に沈めて害することに根源的な充足を覚えるのだ。
ひどい性癖だとは思うが、そもそも妖怪の性など理解できる方が稀である。
思うに、彼女らが捩れた嫉妬の甘さに酔う術をもたないのは憐れましいことだ。
「あと少しだったのに……」
「何に?」
村紗の問いには答えず、代わりにその首根に腕を伸ばして同じ水面に引き寄せる。
さすがというべきか、舟幽霊は水を被ることにまるで抵抗がないと見え、容易く崩れた姿勢はそのまま靡く水辺と横たわる私の上に沈んだ。
村紗の肌が嗅覚を淡く掠める。
地上由来の大気と陽の名残。暗く湿った地の底では叶うべくもない小洒落た香りを妬ましく思った。
私と同じ水を帯びた村紗の黒髪を梳いて、間近になった耳元へ囁く。
「どこか遠くて静かなところ」
村紗は頷いた。水に束ねられた髪の一房が首筋に触れ、微かな擽ったさを覚える。
仄温かい吐息が触れると僅かに、けれども確かに、流水に奪われるばかりの体温が補われた。
「どこにもないよ、そんなものは」
彼女は私に体重を預け、錘のように私の背中を浅い水底へ押し付ける。
「たまにいるんだ、パルスィみたいなのが」
「私みたいなの?」
「死を過大評価してる奴」
釈然としない私に熱を裾分けながら、村紗は慈愛と嘲りの間で笑う。
それは無知な子供を諭すのに似ていた。確かに彼女に言わせれば、私など生まれてこの方未だ死を知らぬ幼子といえよう。
その点において反論するべくもない。長い付き合いではないが、村紗の性格は理解しているつもりだった。多少の先輩風には目を瞑る。
私は息を吐いて村紗の笑みに甘んじた。
「どれだけ生に絶望していても、覚悟を固めていても、最期はみんな苦しく藻掻きながら死んでいくんだ。死というのはね、決して救いなんかじゃないんだよ」
私は頬に触れる髪を払い、悪戯に微笑み返した。
残念ながら村紗の洞察は私が夢見る核心、あるいはその輪郭に届いてはいない。
それは私自身ですら観測しえない深遠で高尚な精神の領域にある。
「私は溺れたいのであって、死にたいわけじゃないの」
腹いっぱい食べたい、怠惰に耽っていつまでも眠っていたい。そういったものに似ている。
自ら胃袋を裂きたいわけではなければ、寝床の上で干乾びたいわけでもない。完全に正鵠を射ているわけではないけれど、言語化するならば概ねそういったところだろうか。
彼女はすかさず反論する。
「私にとっては同じことだわ」
「舟幽霊ってのは乱暴なのね」
「誰だって溺れれば息ができないし、息ができなければ死ぬものよ」
私たちは互いに歪んでおり、その幾つかが奇妙に噛み合いながらも清逸を見失って久しい。この手の議論は終着点を見出せないものだ。
私は覆い被さる村紗の後頭を引き寄せて、自らの気道でその唇を塞いだ。
無防備な熱と湿り。その行為に今更特別な意味などない。
だから私は村紗から呼吸を奪おうと努め、彼女もそれを受け入れた。
息が止まり、胸が詰まる。閉じた虹彩に幾度目かの瞬きを見る。
私はこうして溺れながらも生きてゆける。誰かを想い、呪い、虚ろな呼吸を携えながら。
村紗は違うのだろうか?
粘膜に覆われた柔い肌を食みながらそんなことを思う。唇の接触に合わせて目を閉じるたびに、忘れていた幾つかの知覚が神経を伝った。
いつからか縺れた指が水面を這う。浸された二人分の体温が水に溶けて流れてゆく。漣は遠く、暗い地底の彼方へと。
拡張された感覚をもってしても、もはやそれを追うことはできなかった。
仮初のこととて脆い心を繕うには事足りる。致死でない限り、何事にも心地よさはあるものだ。
「村紗はそうして死んだのね」
「貴女はそうならないようにね」
皮肉の応酬が可笑しくなり、互いに笑んだ口元を再び綴じる。
私は再び溺れるために宙を掻き、村紗は冷たい指先でその手を鎮めた。彼女はきっとこうして数多の空を奪ってきたのだろう。
村紗が地底にやってきて今日で一週間になる。私たちはそれなりに、よろしくやっていた。
†
彼女は戒律なるものに縛られており、地上では舟幽霊としての本分が満たせないそうだ。陽の下を歩くのも案外窮屈なものらしい。
そんなわけで時折隠れて地底に潜っては水辺にいるものを沈めて回っていのだという。迷惑な話である。
私が易々と沈められるほど軟ではなく、更にはその住処である橋を欠損させたことは彼女にとって不幸だった。
私が喚ぶ緑の眼の怪物は対象の業に比例して強度を増す。それは慣れない暗闇に足を取られる村紗を制圧するに十分で、かくして彼女は自らの罪を贖うという条件の下、しばし暗い地底に縛られる羽目になった。
不幸中の幸いというべきか、捩れた精神の持主同士私たちはそれなりに気が合い、奇妙な共存関係を築くことができていた。
村紗は常に私という獲物を傍に置くことで理性の形を保つことができ、私は彼女がもたらす水底に恍惚とした天啓を見ることができる。
呪いとは一種の契約であり、債務者である村紗は当然それを一方的に破棄する権利をもたない。
契約主である私自身も契約を構成する部品の一つであり、契約が結ばれている以上、村紗は私を"破棄"することができないのだ。
ゆえに私はその手で生死の一線を超えることが叶わない。なんという皮肉だろう。
「そこ、鋲で留まってなかったっけ?」
住処となる橋が古びていたのは事実で、いざ手を加えるとなると無視できない劣化が随所に見つかった。
塗装の剥がれは著しく、強く押せば裂けてしまう木目も珍しくない。こんな場所に宿っていたのかと驚くこと頻り。慣れとは実に恐ろしいものだ。
村紗はそんな橋の修繕をし、私はそれにけちをつける。欄干に腰掛けながら、私はそのきわめて良好な関係を楽しんでいた。
「そんなの使わなくても、ここは噛み合わせで維持できるわ」
村紗は柄杓を鎚代わりに木組みを打つ。魔術的に凝固した水を重石にした柄杓は十分な質量を持ち、先日の喧嘩では派手に橋板を叩き割った。
今、その鎚は償いのために振るわれている。よく計算された噛み合いは一振りごとに隙間を埋め、遂にはひとつの斜材に組みあがった。
村紗はこの手の作業に慣れており、事あるごとに星蓮船なる船を手掛けた話をした。造船の心得がある舟幽霊とは可笑しなことだ。
それに比べれば橋の修繕など容易いものらしく、私の居城はその手で粛々と再建されていった。
「ここは負荷がかかりやすい部分だからね。鋲任せにしてると錆びたときに危ないのよ」
「へぇ、そうなんだ」
「特に瘴気の多い場所は金属が劣化しやすいし」
大工仕事に興味はないが、混沌としたものが秩序立っていく過程は不思議と惹かれるものがあった。私は頷き、興味深い素振りを示してみる。
さすがの私も、合理的な結びつきを敢えて嫌うほど幼稚ではない。
「やけに素直に信じるのね。私が手を抜いてたらどうする?」
私はかぶりを振った。日頃の行いを省みるに、素直な反応を疑われるのもやむなし。
「呪いは嘘をつかないものよ。人や妖怪とは違ってね」
契約を履行しない者には相応の罰が下る。目には目を、歯には歯を。呪術とは歴とした理の具現である。
それは私が捻くれた嘘と冗句を好むこととは無関係に、ただ傲然と世界に聳えているものだ。
「もしあなたが手を抜こうものなら……」
「どうなるの?」
村紗がそれについて疎いのは少し面白かった。本来呪いとは幽霊の十八番である。
きっと直接船を沈めにかかる舟幽霊はそんな遠回しな手段は用いないのだろう。
誰もかれも、自らの手で報いを与えられるのであれば苦労しない。
「文字通り、肘から手が抜けちゃうかもね」
私は手をひらひらと揺らして村紗を脅す。くだらない冗談だが呪いに冗談は通じないので、実際のところは彼女が手を抜くまで分からない。
「ひえー、怖い怖い……」
彼女はおどけて、けれども流暢に、念仏を諳んじた。
村紗は振舞いの割に生真面目でもある。それはその仕事ぶりからも見てとれた。水の鎚は誠実に木材を組み上げ、それらはまるで最初からそうあったかのようにしっかりと突合し、結ばれていた。
これならきっと緑眼に縊られることもない。
あと数日もあれば橋は完全に修復されるだろう。穏便なる合意のもとで呪いは解かれ、村紗は晴れて自由の身となる。
「これ直したら地上に戻るの?」
「まあ、みんな心配してるだろうしね」
鎚を振るいながら、村紗は続けた。
「もしかして、行ってほしくない?」
「まさか」
私は笑って答える。背中で圧した欄干が小さく軋んだ。
「あんたには旧地獄に棲む素質があるなって思っただけ」
嫌われ者の烙印を押されたものが蠢く旧地獄。人の溺れを喰らう歪んだ性は、きっと怨念と陰湿さに満ちたこの場所によく似合う。
思うに、浮かれた陽光と不毛な戒律の下にあるよりも幾分か。
「褒めてるの?それ」
「貶してる。誇っていいわよ」
私は笑い、村紗は渋い顔をした。
粛々と遂行される修復の音を聞きながら、私は水底に瞬く星々のことを想う。
仰げども応えることのない闇の空。厚い岩盤に鎖された旧地獄にあって、そうした光にあやかることは奇跡と呼ぶに値した。
それは同時に素晴らしい気付きでもあった。
輝きとは地層の天蓋にではなく、見果てぬ地底の更なる深みにあるのだと。
「ねぇ、村紗」
私はそれを手放したくないと思う。
利己的な呪いで彼女を縛ることはできないだろうか?
そんな考えを抱かないほど私は腑抜けていない。
水も心も留まれば淀む。私はすべからく、そういうものだと理解している。
「呪いが解けたらさ、本気で私を沈めてみてよ」
私は彼女の隣に座り、乾いた髪の隙間に囁いた。
声は砂を握るようなざらつきで喉を過ぎ、四季を帯びた香りは褪せることなく彼女の帰郷を促している。
村紗は振り向きもせず、凝固した水と木材の間で一定のリズムを刻み続けていた。
それは私たちの鼓動のようになだらかで、調律された作業の連続。生命というものは、得てしてかくも無感動に続いてゆく。
「もう呪わない?」
「頑丈な橋になるのでしょう?」
「あはは、そりゃそうか」
皮肉に微笑を返しながら、村紗は片手で私の首を撫ぜる。這う指は、ただそれだけで私から幾つかの呼吸を奪った。
受け容れられたようでもあり、体よく躱されたようでもある。それ自体は多分、さほど重要ではない。
約束とは、交わすことにこそ意味がある。
結局のところ、誰もが何かに溺れたがっている。村紗はきっと私の期待に応えてくれるだろう。
余裕めいたやりとりの中に息衝く賤しい昂揚。その業について、私は彼女よりも幾分か詳しいつもりだった。
「めいっぱい醜く足掻いてあげるからね」
水と木の律動が地底の虚に響く。私は目を閉じて、村紗の背中越しに同じ旋律を探し続けた。
†
「ま、こんなとこかしら」
村紗は大仰に額を拭う。その手にはいつもの柄杓ではなく刷毛が握られており、その毛先は私の要望である赤茶色の塗料を吸っていた。
「なんとまあ」
その仕事ぶりに私は舌を巻く。修繕と銘打っていた橋の完成は、そっくり丸ごと新品に置き換えられたような仕上がりだった。
雑談に乗せて伝えていた細やかな要望もきちんと反映されている。近所を通る魑魅魍魎どもに浮かれた新装と思われるのは癪だった。
元来の姿から逸脱することなく、旧地獄の淀んだ空気に適した色彩と設計。そこには村紗の技巧と几帳面さ、幾許かの情が見てとれた。
橋板の軋みと縺れるような沈み込みに疑問を抱かなくなったのはいつからだっただろう。安定した足場に立って初めて、自分の杜撰さが恨めしくなる。
「なにか不満な点はある?言っとくなら今のうちだよ」
不具合の一つや二つ挙げてやりたかったが、そういったものは重箱の隅にも残されていなかった。
私の捻くれた意地でもって文句ひとつ見つけられないのだから、その几帳面さは相当なものだ。
「ああ、欄干には触らないようにね。完全に乾くまで二日はかかるよ」
危うく伸ばした手を引っ込める。そこに凭れる癖があるので注意しなくては。
指先で埃を拭うくらいしか策がなかった私は、潔く彼女の仕事を認めることにした。
「やれやれ、ちょっとは粗を残しといた方が可愛げがあるものよ」
そう嘯きながら、瑕疵ひとつない橋の上で手を拱く。
「おいで。これなら緑眼の怪物も満足でしょうよ」
村紗が誠実に縛られた以上、私も誠実に解かねばならない。対価はいつだって正しく支払われるべきものだ。
そこに嘘があるとするならば、被呪者に触れる必要などないということくらいだろう。私はいつものように村紗の背を抱き、その中に残る債務を探した。
無論そのようなものはどこにもなく、胸の律動はただ淡々とそこにある。
心臓の底を攫うように今一度体を押し当てても、清い戒律が彼女を離すことはなかった。
村紗もまた、私の背に手を当てる。ある種儀式めいた日々の延長。そこに然したる意味がないことを、私たちは既に確かめ終えていた。
帰る地上で、彼女は同じようにして私の知らない誰かを包むのだろうか。
「……妬ましい」
囁くと同時に、彼女の中に刺さった業の楔が霧散する。罰で罪は満たされて、報いは償いに洗い流された。
私は村紗の背中から抜けてゆく光の粒子を見送りながら、ありもしない幾つかの未来について考えてみる。
地の底の昏い河辺に腐る水と橋。私たちはきっと模範的な何かになることができるはずだった。
時と呪詛に形はなく、思えば水もまたしかり。そんな曖昧なものに追い縋るべきではないことくらいは弁えていた。
合意によって契約は解かれ、もはや村紗を縛るものはなにもない。
駄々のひとつでも捏ねれば、せめて冷ややかに笑ってくれるだろうか。
「自由になった気分はどう?」
呪詛の名残が闇に消えたのを見届け、私は彼女の身体を解放する。二人の間に開いた隙間に入り込む空気の冷たさを恨めしく思った。
「特に変わらないかな。本当にちゃんと解けてる?」
「勿論。呪いは嘘を吐かないのよ」
「ふうん。呪われるのは初めてだったけど、案外こういうもんなのかもね」
村紗は気怠そうに肩を回す。
彼女が何を期待していたのか知らないが、解呪とは負の値がゼロに戻ることに他ならない。
贖いをいくら積み重ねたとて、利得を生みはしないのだ。
「最初から、誰一人自由なんかじゃないってことよ」
私の冗句に村紗は口を抑えて苦々しく笑う。釈迦に説法も時にはいい。
「なるほど、これが悟りってやつか」
棄てられた地の底にも等しく天啓は降る。
そして誰も探さない場所にこそ、思わぬ偶像が眠っているものだ。
「お疲れ様。ここでの日々も無駄じゃなかったということね」
「一応感謝しとこうかしら。呪われるなんて、間違いなく寺では得られなかった経験だわ」
「あはは、そうでしょうね」
一通り笑った後、村紗が私に向き直る。
互いに債務のない身である。微笑む瞼の向こうに幾度目かの昂揚を見た。
「それじゃあ、約束だね」
村紗が柄杓を取り出すと、その無言の呼びかけに応じて橋の下を流れる水が嵩を増す。
「覚悟はいいかしら」
流水は餓えた獣のように唸り、歪な波の衝突が川底を抉った。
水面は瞬く間に巻き上げられた泥で暗く濁り、無数の砂利で私を誘う。
村紗が柄杓を振るうと、橋の下から無数の腕が伸びて、私たちの門出を祝福した。
「待ち侘びたわ」
私は頷き、胸に手を当てて心の中に蠢く怨嗟を現出した。
淀んだ心を核にして、悍ましい嫉妬の念が肉を成す。嫉視の瞳が瞼を押し広げ、緑眼の魔物は今一度村紗と相見えた。
忌むべき対面に、村紗は柄杓を表返して警戒を強めた。
「貴女の全力で、私を遠い水底へ導いて頂戴」
私は緑眼の背中を一撫でし、そのざらつきを愛でた。対象の業に応じて強度を増すそれは、今の彼女にどんな呪詛を囁くだろうか。
捩れた思慕に呼応して、怪物の蠢く喉が低く唸る。
深みの果てに堕としてくれればそれでよく、今一度地の底に縛り得たならそれもよい。既に履行された契約の再現は叶わずとも、四肢の幾つかを手折れば如何様にもなろう。
私は親指で唇をなぞり、苦々しく息を吐く村紗へと暗く笑いかける。
真に狡猾な悪意とは、陽の下で育まれるべくもない。流れることのない心はどこまでも醜悪に淀むのだ。
「"舌切雀"――」
緑眼を象る嫉意を捏ねまわし、自身の写身へと作り変える。疑似的な分身。自らの醜悪さを心得ているゆえに、それは寸分の狂いもなく自らの化身であった。
単純に手数は倍。それについては村紗の水害霊に及ぶべくもないが、被弾に応じて自動で呪いを振り撒く性質は初見に刺さる。きっと村紗のような愚直さには殊更。
緑眼を従えて一歩踏み出す。撓むことのない底板が私を抱く。
それは地にあって背中を押すように、力強い決別を私に促した。
同時、村紗の柄杓から水弾が生じる。
その一粒一粒が煌めきとなって宙に留まる一瞬、数多の手と轟音の濁流が私の呼吸めがけて殺到した。
†
幾度目かの、けれども真新しい水層。臨界への訪問は、いつも不思議と異なる扉を開く。
世界の甘い皮膜の向こう、溢血の神秘を漂いながら泥の果てに星を探す。
観測は著しく、あるはずのない光は螺旋を描き、深層の花は絶えず虹色を宿している。
鼓動と瞬き、胸に抱いた焼尽。静かに拓けてゆく意識の数々と拡張する全能感。
塞がれたままの唇は言葉を忘れ、幾つかの饒舌は雨のように腕を伝って滴り落ちてゆく。
目覚めれば孤独な浅瀬。どのみちそこに貴女はいない。固く結んだ木組、乾いた欄干、爛れた日々の残照が積もる架橋。
ひりつく喉はどこにも無く、誰のものでもない。何もかもが沈んでいくのなら、それはとても素晴らしいことだと思う。
あぁ。
見上げれば今日も天は夜だった。
まるで、そうでない日があったかのように。
遠い彼岸を渡るなら、その白い波間に何を数えるべきだろう。
水圧に拉げる胸のその奥で、知りもしない春の香りを想った。
私は目を閉じて、遠い漣を追う。
橋の下を往く水は更々と、辿り着くことのない空を目指して流れていた。
村紗が他者を沈めることを空を奪う、と表現されていたのが
とても好きです。