Coolier - 新生・東方創想話

さよならハルシネーション

2025/08/23 16:36:25
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 渡里ニナは身動きも取れなくなっていた。
 化石の森からえっちらおっちら抜け出してきて、今は妖怪の山の麓、外から見ればなんてことのない横穴からひょっこり出てきたところだった。
 そこで――生まれて初めて陽の光を見た。
 それは鮮烈で輝かしく、またこれまで蓄えたどんな情報とも違う激しさでもって、彼女の瞳を灼いていた。
 でもそれは恐ろしい。恐ろしいものだと声は言う。
 声。真実を告げる声が。

(気を付けて、ニナ。太陽の紫外線を多量に含む光を浴びれば君は皮膚がんになる大きなリスクを背負うことになる)
「でも、私は妖怪だけど……」
(青空はレンズだ。太陽の光は人工的に調整された周波数を放射可能だ。危険な妖怪専用に調整することも当然できる。皮膚がんは最初の兆候だ。君が不審な動きをしたとみなされれば、出力は上がり、君は焼け死ぬ)
「そう……なの……?」

 だから、身動きが取れなくなっている。ニナはおそるおそる白く細い指先を穴蔵の陰から伸ばしてみるが、そこに触れる熾烈な熱量に怯えてまたそれを引き戻す。そんなことをかれこれ数時間は繰り返している。
 それでもニナは自由だった。あの博麗霊夢とかいう紅白の恐ろしい奴に倒され、促されるまま、化石の森の最深部から逃げ出してきて、そうしたらあの膨大な情報の流入も収まった。頭の中は幾分かクリアになりこそしたが、しかし、貯め込んだ毒素は容易くは消え去らない。
 そう、声は消えない。
 未だに彼女の頭の中で真実を囁き続けている。それも、とても優しくって真摯な声で。

(ニナ。地上は危険で溢れていることを警告したい。太陽光は言うまでもなく危険だし、この妖怪の山は恐るべき妖怪で満ちている)
「……黙って。もう黙ってて。あなたは真実じゃないってあの巫女から聞いてるんだから」
(それは君を真実から遠ざけ、抹殺しようとする危険な陰謀だ。化石の森に戻ることを推奨する。私達も情報ネットワークから切り離されている。君に提供できる知識は制限される)

 語る声は真実の声だ。ニナにだけ聞こえる真実の囁き。浅間浄穢山に流入した情報の海の波濤。ニナを抱きしめる情報ネットワークの力強い腕。
 ちがう、ちがう、ちがう! ニナはもう何十回も繰り返したルーチンめいて、頭を振って声を追い出そうとした。
 巫女曰く、真実の声に耳をかし続ければいずれはニナ自身の存在が「真実」という情報によって上塗りされてしまう、と。そんなのは嫌だ。やっと目を覚ましたばかりなのに、それを塗りつぶされるなんて!
 だから化石の森に帰るのは絶対に嫌だった。けれど行く宛も特に無かった。もちろん幻想郷についての知識はある。真実の声が教えてくれたから。
 例えばこの山は恐るべき神々が支配していて、そこには常識から逸脱した行為を繰り返す巫女がおり、また山の内部には天狗の大都市があって、その周辺で暮らす河童はきゅうりを食べる。
 ちなみにきゅうりとは、淡白な味わいで、様々な調理方法があるが、カロリーが少ないためにそれだけを食べ過ぎると餓死してしまう、らしい。それがどこまで正しいのか、ニナにはもう判別もできない。それにそんな知識が正しかろうがどうであろうが、本当の「味」をニナには教えてくれない。
 それと一応、博麗霊夢からは神社の場所を伝えられてはいる。

「まあ、困ったらうちに来ていいから。こういう役回りも慣れてるし」

 そう言われてるもののニナは博麗神社(押し付けられた参拝パンフレットにはご丁寧にも神社の地図が添付されている)にも行く気にはならなかった。真実の声が言うように、あの巫女が自分を殺そうとするスパイの可能性だって捨てきれない。いや仮に真実の声が正しくなくたって、やっぱりニナの味方かはわからないのだ。誰だってそうだ。ニナは独りぼっちだった。
 ……そうこう考えているうちに、段々と山の日は暮れ始めていた。恐ろしい太陽光もだいぶ弱々しくなってきた。

「とにかく、私は行くわ。止めたって行くんだから」
(もちろん、ニナにとってそれが幸福ならば。私達はニナのために真実を知って欲しいだけだから。だけどきっと、最後にはここに戻ってきてくれると信じているよ。だってそれこそが、ニナの幸福なのだから)
「……ふん」
(ところで裸足のまま茂みに入るのは推奨しない。藪の中に恙虫が潜んでいるかもしれない。マダニに噛まれれば君はすぐに高熱を発症し――)
「うるさい!」

 そうしてついに穴蔵から足を踏み出すと、たちまち山の強い風がニナの長い髪をざわめかせた。そんなのも初めての感覚だった。そして永久に忘れることのない感覚だ。
 感覚。それはたちまちに知識となる。蜃とは幻を見せる妖怪である。幻とは実体に則しているべきだ。
 だからニナはあらゆるものをきちんと記憶している。知識という棚の中にあらゆるものを丁寧にラベリングし、並べていく習性がある。それは種族としての特性だ。しかしニナの感覚としては、ただそうしたいからそうするまでだった。
 ちなみに今、棚にはずらりと世界の「真実」が並べられている。
 真実の声を通じて識り、しかし真実ではなかった「真実」たち。少なくともあの紅白はそう言う。「真実」を打ちまかした彼女は。
 だが、だからと言ってニナは、まだその真偽について納得できたわけではない。……いいや、それを識るためにこの穴蔵から出ていくのだ。そう思うと胸がどくりと高まった。ざわめく風。虫たちの声。木々の枝葉が擦れる音。さっきまでは声との押し問答に夢中で気が付かなかったが、それは、それは――

(ニナ、気を付けて。誰か近づいてくる)

 瞬間、胸のときめきが返す波のように引いていく。さっきまで美しかった物音が途端にニナを包囲する敵のざわめきに聞こえてくる。
 そこに混じって、徐々に大きくなる誰かの足音。

「誰なの?」
(落ち着いて。私達はニナに戦い方を教えてあげられる)
「でも博麗霊夢には負けたじゃない!」
(あれは特別性だ。君を殺すために専用に造られたエージェントだろう。そうでなければニナが負けるはずがない)
「う、うん」
(安心して。蜃はとても強力な妖怪だ。まずは殻を出して、力を使おう)
「そんくらいわかってるし……!」

 とにかくニナは言われるがまま足元に貝殻を現出させ、妖力を研ぎ澄ました。
 妖怪の山は危険な場所だ。知識は彼女にそう警告する。山の妖怪は縄張り意識が強く、天狗たちは日夜権力闘争に明け暮れて、河童は試作兵器の実験台を探している、らしい。それに捕まればどうなるか、真実の声はもう何も言わなかった。ニナが既に理解しているからだ。

「来るなら来いだわ……幻の都に迷い込ませてあげるから……」

 また、先の声は正しい。蜃であるニナがその気になれば河童や天狗を惑わすこともけして絵空事ではなかった。
 足音はますます近づいてくる。
 既に日の落ちた山道の向こうから、複数の明かりが近づいてくる。

「変だわ。足音は一つなのに」
(人魂や妖精を連れているのかもしれない。明らかに君を狙ってきている)
「そ、そうなの?」
(完全に準備された攻撃だ。警戒した方が良い!)
「してるわよずっと! それで! どんな幻を出したらいいの!?」

 ニナは、さっきとは全く違う目つきで知識の棚を振り返った。外敵を追い払うに最適な幻想を探した。だが頭の中はぐちゃぐちゃと混乱するばかり。
 博麗霊夢と戦った時はこうでもなかった。ただ恐るべき真実を順に打ち出すだけでよかった。しかしそれは破られ、ようするに――ニナは自信を失っていた。

(そうだな。例えばこれなんてどうだろう?)

 すかさずに真実の声が割って入り、棚の中身を一つ取り上げる。ラベルには「フィラデルフィア計画」とあった。人と船が物理的な融合を果たした阿鼻叫喚。この「真実」に閉じ込めてやるのは確かに威力がありそうに思える。

「これなら……いいかも」
(ほらね、ニナ。私達はニナの味方だ)
「あ、うん、ありがとう」
(それよりも足音が近い。急ぐことを推奨する)
「うん!」

 やっぱり「真実」の声は力強い! ニナは、渡里ニナとして生まれた時から彼女には、その腕こそが揺籃で、父と母で、友人で、世界だったから。真実の声に身を任せるのはなんて心地良いんだろう。自分で難しいことをゴチャゴチャ考える必要は何も無い。だってその声こそ真実なんだから。

「よくも……よくも私を殺そうなんて思えたものね」

 ギラギラと鋭利なナイフのような殺意がニナの中で尖っていく。
 真実の声はまた遠ざかっていく。ニナが何をなすべきか理解しているから。
 妖力が霧となってニナの周囲に漂い始める。愚かな襲撃者を悪夢の幻に閉じ込める準備はできている。
 後は、放つだけ。

 その間際。
 
 例えばちょっとした風向きの変化。青白い虫の光。あるいは星のチラつきがニナの意識を乱した。
 ふと「我に返った」。あるいはそんな状態かもしれない。
 粘つく灰褐色の霧をニナは既の所で押し留めた。恐ろしい濃度に濃縮された幻が霧の中でグロテスクな地獄絵図を既に形作り始めている。どんな妖怪だろうと、いや妖怪だからこそ、こんなものをまともに喰らえばきっとタダでは済まない。
 あるいはその威力にニナ自身が怯えたのかもしれない。

「敵……敵、なのよね? あの近づいてくる光……足音」
(もちろん敵だ)
「でも……こんなの、こんなのは、やりすぎじゃないかしら……?」
(ニナ、敵に付け入る隙を見せてはダメだ。君の命を守るんだ。君は脅かされている)
「脅かされてる……誰に?」
(君は化石の森から出るべきではなかった。地上の支配者たちは君の恐ろしい力と知識を恐れている。このままでは君は殺される)
「でも、でも……あの光はすっごく油断してるっていうか、もし私を殺そうとしてるなら、えっと、あんな風にのんびり近づいてくるの?」
(そう思わせるための罠だ)

 恐怖がある。ニナの中には二つの恐怖があった。闇への恐怖と、光への恐怖があった。
 真実の声は優しいが、容赦なく、ニナに力を使うよう迫る。その声に身を任せるのは楽ではあるけれど、あの巫女の言った通り、自分自身が闇色に塗りつぶされるような恐ろしさがあった。
 一方で真実の声を無視することも恐ろしかった。今はもう隠れてしまった太陽の光。地上は光で満ちている。それはニナにとって未知のものだ。未知の光は恐ろしく、それが徐々に大きく近づきつつあった。
 ああ、いっそ。いっそ殻の中に閉じこもってしまいたい。堅牢で頑丈な殻の中に――

「あら、妖怪?」
「あっ」

 しまった。そう思えども時既に遅し。
 貝の上にぺたんとうずくまったままのニナの視線の先で、オーシャンブルーの服を纏ったブロンドの妖怪が小首を傾げている。
 この距離では幻も何も無い。後ずさるニナの周囲で、あれほど張り詰めていた妖力が文字通りに霧散していった。

「話し声が聞こえたから、人間の子供が迷い込んでるのかと思ったのに」
「あ、あう」
(落ち着いて、ニナ。そんな風に弱気を見せてはダメだ)
「あ……わ、私が人間だって? 私はすべてを識る者! 私は――」
「大丈夫? 震えているけど」

 ぱくぱくと小魚のようにあえぐ口元。見栄をはろうとしてもうまく呂律がまわらない。
 そうこうしていると、妖怪の側でランタンを携えていた人影の一つが、すっとニナの側に近づいてきた。

「こ、これなにっ」
(大きさから見て妖精だ。この妖怪は妖精使いだ。もちろん、君を殺しに来た――)
「人形よ。私は人形遣いなの」
(訂正すると、あれは人形だ。この妖怪はアリス・マーガレットだ。山に棲む孤独な人形遣いだ)
「と、当然知ってるわ。あなたは山に棲むアリス・マーガレットね!?」
「え? いや半分はあってるけど……マーガレットじゃなくてマーガトロイドなんだけど」

 沈黙。
 その間も妖精もとい人形はニナを慰めるように周囲をふわふわと飛び交い、ガラス玉のはめ込まれた瞳をランタンの炎にちらちら輝かせている。
 ニナはわけがわからないまま後ずさった。アリス・マーガレットあらためマーガトロイドは困惑したように眉根をひそめる。

「あなた私を知ってるの? でも、何? 山にも棲んでないし」
「ど、どういうこと!」
(申し訳ない。情報に誤りがあったみたいだ。彼女は霧雨魔理沙という魔法使いだ)
「霧雨魔理沙ってこの前に襲ってきた奴じゃないの? 八卦炉の調子が悪いとかなんとか言って退却してった……」
「魔理沙? あなた魔理沙の知り合い?」
(情報に欺瞞が混入している。彼女の言葉を信じないほうが良い)
「ちょっと! 話を逸らさないで! 魔理沙はこんな風じゃなかったってば!」
「私を魔理沙と勘違いしてるの?」
(情報ネットワークから切り離された影響がアウトプットの質を低下させている可能性がある)
「化石の森には戻らないからね!?」
「ねえ落ち着いて、落ち着いてってば」
(この妖怪は危険だ。君を欺瞞している。幻をもう一度作り直そう。ニナならできる)
「そんなことより結局こいつは誰なのよ!」
「落ち着きなさい!!」

 沈黙、再び。
 怒鳴りつけられる質感は真実だった。声によって震える空気。緊張する雰囲気。アリスのため息。

「あなた、名前は?」
「……ニナ。渡里ニナ」
「私、会ったことある?」

 ふるふるとニナが首を横にふると、淡い萌黄色の髪が合わせて大仰に揺れる。

「でも私の名前を知ってる」
「わ、私はすべてを識る者なのよ」
「いや間違ってたけどね? なーんか変な感じ。あ、もしかして新聞とかで知ってくれた? 前に取材を受けたことがある気がする……人形遣いとしてよね? あっちのほうじゃないわね?」
(アリス・マーガトロイドは丑の刻参りをしている所を盗撮され、記事にされたことがある)
「丑の刻参りのこと?」
「なんでそれは知ってんのよ!?」

 ニナは困惑していた。もちろんアリスも困惑していたが、それとは別種の困惑。
 真実の声は変わらずニナに囁き続ける。けれど、その情報には明らかに間違った内容が混じり始めていた。いや、今までも間違った情報はあったのかもしれない。それがわからなかっただけで。
 一方確かに真実の内容もある。
 だから……声は頼りにできない。ニナは自分で考える必要があった。それはニナを、この夜の闇より深い暗闇に放り込まれたような気分にさせる。
 それでも――狼狽えるアリスに向けニナは恐る恐る尋ねる。

「あなたは……アリスさん、あなた私を殺しに来たの……?」
「なんて?」
「わっ、私を殺しに来たエージェントなの!? どうなのっ!」

 その間も真実の声は何か言っていたが、ニナはそれを無視してアリスのことをキッと見上げることに努めた。
 そうしてニナは初めてアリスのことを見た。無論先程から目には映っていたが、自分の瞳で捉えようとしたのは今がようやくのことだった。
 アリスは――しばし押し黙っていたが――やがて何か得心したらしく、ふっと相好を崩した。

「私はあなたの敵じゃない」
(ニナ、騙されてはいけない。幻想郷の妖怪は二言目には殴りかかる凶暴な連中だ)
「黙って、お願い、黙って……」
「ニナちゃん? ううん、真っ暗な山の中腹で一人ぼっちだったのよね。そんなに怯えなくて良いから」
「べ、別にっ、怯えてたわけじゃない」
「あらそう? じゃあそういうことにしましょ。お家はどこにあるの?」
「お家……?」
「妖怪としての住処」
「あったけど、捨ててきた。もう帰らないから」
「それは……そう」
「帰らないわ」
「大丈夫、大丈夫、連れて帰したりしない」
「……うん」

 家。住処。化石の森。
 ニナだって本当は化石の森に帰りたかった。静謐で、時間の停止した、永遠の殻の中に引きこもっていたかった。それが自分はなぜこんな所にいるのだろう。
 考えてもわからない。
 あの巫女が来てしまったせい。「真実」が真実じゃないと教わったせい。自分が死ぬかもしれないと告げられたせい。
 それもある。でもそれはあくまで、あの巫女が言っていただけのこと。
 信じない、という選択肢もあった。巫女は「ま、最後はあんた自分で決めなさいよ」と帰ってしまったのだから。無理やり連れ出されたわけではなかったのだから。
 ニナの視界の中、アリスの姿が水面を通したように歪む。まるでハルシネーション。差し伸べられた白い手さえ満足によく見えない。

「よかったら、泊まっていく? 私の家。少し遠いけど」
「……どうして?」
「え?」
「どうして泊めてくれるの? 知りたい。私、何も知らないから……わからない。どうしてあなたは優しくしてくれるの。あなたは私のことを知らないはずなのに!」
「そりゃ……ねえ。あなたみたいに生まれたての妖怪が独りぼっちで泣いてるんだもの。妖力が若いからすぐにわかった……だって最初は人間の子供だと思ったもの。あなたがあんまりに怯えてたから」
「怯えてた? 私が……?」
「私も魔法使いだからね。気配には敏感なの……でも急に妖力を纏い始めたから勘違いってわかったけど」
「それも知ってたの!?」
「あのねぇ、奇襲するならあんな風に露骨に力をためちゃダメよ? もっと静かに、ゆっくりと練り上げていくの。本当に私が敵だったら――まあいいわ。それでどうする? 無理にとは言わないから」
「えと……でも……あぅ、真実はどれなの」
「え?」
「どれが……私は……どうするのが正しいのかわからない。わからないの」

 ここには情報も無いし、真実を教えてくれる声もない(正確にはあるが、今は無視している)。ニナは宙ぶらりんのまま世界に放り出されたままだ。
 アリスの手を取りたい気持ちはある。でも、でもそれは……遥かな化石に閉ざされた太古の生物たちがついに海の揺籠から出ていく決意を決めた時のように……ニナは竦み上がって動けなくなっていた。アリスは急かさなかったが、少し夜の闇が気になるようだった。
 ざわざわと木々の妖しさが満ち始めている。月の海に潮が満ちるように、これからこの山は本当の姿をあけすけに曝け出し始める……ニナも妖怪だ。真実の声に告げられるまでもなく危険は気配でわかるものだ。
 あるいは本能。そう呼んでも良かった。本能が――真実の声でも、アリスの優しさでもない第三の声が――ニナに告げている。とにかくここに長居するのはぞっとしない、と。

「わかった」

 握った手は暖かだった。
 微笑むアリスに引かれ立ち上がり、ニナは、ふと振り返って自分の出て来た横穴を見た。それはなんてことのない暗闇を無限に湛えてニナを見つめていた。そこにこそ自分の全てがあると思ったのに、そこに、そっくりそのまま置いて来てしまおうとしている。

「……どう思う、あなたは。あなた達は。こんな選択は間違っていると思う?」
「えっと、私に聞いてる?」
「ううん……今、私の家族に聞いています」

 真実の声はそして、いつものように間髪入れずニナに世界の真実を告げる。

(ニナ。どうか敵の声を聞かないで。君は騙されているんだよ)
「……あなた達は変わらないのね」
(変わる必要なんて無い。そうだとも。化石の森には永遠がある)
「じゃあ、私は……永遠に独りきり?」
(私達がいるじゃないか)
「だけど……あなた達、あなた達は……だって! あなた達は私の手も握ってくれなかったじゃない!」
(物理的な接触に意味を求めるのは、肉体を持つ者達の仕掛けた差別的な理論だ。気にする必要なんて無い)
「そうじゃなくて、だってそれは、私が……もういい。わかった。でもありがとう。あなた達のおかげで私は私になった。だから、ばいばい。化石になったみんな、永遠の中で安らかに」
(さようなら、ニナ。次はいつ戻ってくるのかな?)

 ニナは答えなかった。本当は気がついていたからだ。真実を語る声はあたかもニナの家族のように、友達のように、恋人のように、そしてニナの分身のように振る舞うけれど、実の所それは膨大な情報の中に編み上げられた言葉の束でしかないのだと。
 つまるところ、声は声でしかなかった。蜃気楼の幻と同じことで、例え声の源を求め砂漠を乗り越えていったとしても、そこにはきっとちっぽけな巻貝の化石があるだけだった。
 そこには誰もいなかった。
 最初からニナは独りだった。
 今、ようやくそれに気がついただけだ。

「これでもう平気。アリスさん、お邪魔してもいい?」
「ええ、もちろん! 歓迎するわ」
「ありがとう! でも……本当にいいの? あなたは友達付き合いが薄いって知識では聞いてるけど」
「そんなことどこで……いや、まあ、昔はね。でも私も故郷から出て来てさ、いろんな奴に会ったら、まあ人付き合いも悪くないわねって思ったのよ。この頃はね。それだけ」
「変わったってこと?」
「そうじゃない? たぶん」

 もう二人は闇めく妖怪の山を後にするべく歩き始めている。アリスの操る人形たちが周囲をランタンで照らしてくれるから、足場はちっとも怖くなかった。
 声はもう聞こえない。でも声は聞こえる。アリスの声。現実に空気を震わせ、ニナに伝わる声が。

「そっかあ。ニナちゃんは霊夢とあったのね。あいつも忙しないねえ。さぞ怖かったんじゃない?」
「怖かったけど……今は感謝してる。アリスはどうして山にいたの?」
「ちょうどね、雛人形の納品に来てたのよ。お得意様がいるの。まだだいぶ先なのにねぇ。プロフェッショナルっていうのかしら? どうせ流しちゃうのにね。だからって手抜きはしないけど」
「アリスが作ったの? あそこにふわふわしてるのも……? 全部、一人で? あんなに、生きてるみたいなのに」
「自分で作ったものが一番魔力の通りがいいからね」
「ふうん……いいな」
「あら、人形操術に興味がおあり?」
「そっちじゃなくて……私、何したらいいかわからないから。これからどうしようかって」
「うん」
「何かを作るってのもいいかなって、思っただけ」
「いいんじゃない? 明日は用事もないから、ゆっくり教えてあげる」
「ほんと!?」
「ええ」

 弾む話はどれもこれもニナの知らないことばかりだった。すべてを識っているはずのニナは、初めて誰かと話す楽しさを知った。
 また、家に着いてからのアリスのもてなしも豪勢だった。彼女にとっては普段通りだったのかもしれない、それでも、なんと言ったって、ニナには全部が初めてだったのだから。
 様々な小道具が絶妙な秩序の中で調和する人形工房。湯気のたつ紅茶の香り。ママレードの味わい。バスルームと石鹸のにおい。ラベンダーのフレグランス。振り子時計の奏でる鐘の音。アリスが本のページを捲る音。
 そして……何よりもニナの心を震わせたのは、やわらかなベッドだった。

「眠れそう? 来客なんて久々だから慌てて整えたけど……埃っぽくない?」
「うん」
「そう、良かった。明日は約束通り人形を作ろうね」
「うん」
「それじゃあおやすみ」
「うん、おやすみ」

 きっと疲れていたのだろう。アリスがランプを消して程なく、ニナは眠りに落ちていた。化石の森では常に膨大な情報に曝されていたから、まともに眠ってみたのも初めてのことだった。
 だから当然、夢を見るのも初めてのことだった。
 そう、ニナは夢の中にいた。誰に教わるでもなくそうとわかった。だってそこは、押し寄せるエメラルドブルーの水面のそこは、飛び散る飛沫のそこは、そこは、海だったから。

「ああ……」

 ずっと忘れてきたものが不意に湧き上がってくる。
 ニナは自分がここで生まれ、ここで死んだのだと思い出した。この何も無いどこまでも続く砂浜と押し寄せる波濤の狭間で、何百万年、何千万年、いやきっと何億年という遠い昔にここで自分は生きていて、そして、化石になったのだと。
 そこは静謐と混沌の世界だった。膨大な命が蠢き、死んでいく世界だ。声もなく、悲鳴もなく、ただただシステマティックに泡沫に。
 
「さみしい」

 波がニナの素足を洗っていく。指先の側、真っ白い砂の上に、小さな二枚貝がこぷこぷとあぶくを吐き出している。ニナは丸い目でそれを見た。
 その更に向こうでは、脚を生やした魚がえっちらおっちら這い上ってきて、陸の向こうに消え去った。



ニナが最初に会う相手は神籤で決めました。
アリスが来てくれて本当に良かったなと思います。
ひょうすべ
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コメント



0.490簡易評価
2.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
5.100味噌汁を食べる程度の能力削除
良かったです。
確かにあの状態で一人で生きていけるかアレですから、博麗神社とか魔理沙の家で暫くは面倒見られてそうだと勝手に思ってます。
7.100福哭傀のクロ削除
本当に渡里ニナについて、二次創作で触れたのが初めてなので、単純に私がこの子のことを好きなだけの可能性は一応ある。今後、色々な作品に触れていくうえで、私の中で渡里ニナのイメージが少しずつ形作られていくので、読み終えたこの時点からまた全然違うイメージを将来的に持っている可能性もある。そこまで考えたうえで、でも初めて触れた作品がこれで本当に良かったと思えました。魔法少女とマスコットの文脈?と箱入り娘が外に出て世間と人の優しさに触れる文脈という滅茶苦茶わかりやすい構造で書かれて読みやすいし、何より渡里ニナのことが好きになったし、私もいつか書いてみたいと思えました。そのいつかが本当にくるかはわかりませんが。
10.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです
12.100名前が無い程度の能力削除
良かったです。情報に導かれて錯綜する様がどこか滑稽であり健気であり、それでいてニナのさびしさと、情報の虚構を感じてしまうどうしようもなさが伝わってくるようでした。
13.100のくた削除
良かった。アリスで本当に良かったと思いました
14.100南条削除
面白かったです
陰謀論の監獄から卒業して新たな一歩を踏み出した渡里にグッときました
アリスが保護者なら一安心だと思いました
16.100東ノ目削除
ニナ、出されている情報の大半が陰謀論者であるにも関わらず、Exストーリー以降の時系列で書くなら陰謀論者として「書いてはいけない」という独特の制約があるキャラという難しさがあるわけですが、ちゃんとExストーリー後のニナとして話を仕上げてきたなあと思いました。参考にします
17.100Ryu削除
素晴らしい作品でした。
ニナさんには、どんどん新しい世界を知ってほしい……幸せになってくれ……。
19.100過敏性腸症候群削除
今の東方は知らないしなんていうタイトルのなんていうキャラなのかも全く知らずに見たけど面白かった
また書いてください
21.100名前が無い程度の能力削除
いやあアリスで良かった。レイマリ後のアリスという幸運に恵まれたニナちゃんよかったです
22.100ローファル削除
>「変わったってこと?」
「そうじゃない? たぶん」

生まれて初めて「変わること」を決断しようとしていた二ナが初対面のアリスも過去に同じように「変わること」を経験していたことを上記のやり取りで知ってから自分だけじゃないんだ、と心強さを得たのかもと思いました。
面白かったです。