もう彼女と出会うこともないのだろう。
だから私は彼女との出来事をこうやって記していこうと思う。
正直なところ、このような行為が有意義なものなのか、私には全然わからない。
だけれども、それがただの毒出しに過ぎないのだとしても、私はきっと書かざるを得ないのだ。
誰に見せるでもない。千里眼でも有さなければ見られることもない。
そんな下世話な自慰行為なのだから。
大学に入る前から、私は秘封倶楽部を高校から引き継ごうと決めていた。
きっと大学では色々な奴、興味深い奴はゴマンといるのだと無邪気に信じていた。
でも実際の大学なんてそんなに面白いものでもなかった。
みんな就活の話だとか飲み会の話だとか、そんな「現実的」な話ばかり。
とある真面目そうなサークルの新歓に行ったら皆酒を飲んでウェーイって感じ。
顔の整った女の子に言い寄ったりする連中をみて私はここに来たことをひどく後悔した。
私は彼らとは違う人種なのだと痛感した。
自然私はクラスの人間とも話をしなくなっていった。
そのころからだろうか、私は急に超能力が使えなくなった。
最初はただの不調かと思っていたけど、自分の力が急速に失われていくことを私は否が応でも自覚しなくてはならなくなった。
これでは本当に非現実的な胡散臭いオカルトサークルになってしまうというのに。
名ばかりのサークル、部室もなにもない、そんな幽霊サークル。
私はきっと食堂に取り憑くただ一体の地縛霊だったのだ。
加えて大学入学以来一度も幻想郷に行けていないという事実が私を苛んだ。
出会いには必ず別れというものがつきまとう。
幻想郷での文字通り夢のような出会いを経て、私は辛い別れを経験せざるを得なかった。
もっとも、一つの別れは新たな出会いの幕開けでもある。
彼女と出会ったのはそのころだった。
彼女とはドイツ語の授業でのグループワークで隣同士になった。
やけに発音が上手かったのを覚えている。
私がウムラウトに苦労しているのを尻目に安々とネイティブ顔負けの発音を見せてくれる。
私は昔から語学が不得手で、今の大学だって英語を半分捨てて理科と数学だけで入ったようなものだ。国語? あんなものもちろん無視した。
四苦八苦する私を見た彼女は、菫子さん、なんでドイツ語なんて選んだの?なんて言ってきた。
いや、理系ってドイツ語選ぶものだと思ってて……というと、菫子さんって意外と向こう見ずなのね、大学前の書店でどの授業を履修すればよいのか、そういう本が売ってたと思うけど買わなかったの? とくすりと笑われた。
「でも私は興味のある授業がとりたくて……」
「いくら興味があっても単位を落としたら何の意味もないよ」
彼女は俗に言う世渡りが上手い人間だったのだろう。周りと程々に仲良くしておいてテストの過去問などを入手し要領よく試験対策をする。しかし私は家に帰るとガリガリ勉強をしていた。無論その姿勢は今に至るまで役に立っている。だけれども、私は自分がかつて抱いていた万能感をどこかで捨てることができなかったのだろう。その努力を誰かに知られることがとても恐ろしかった。
思えば超能力の発現のために私は何か努力をしたのだろうか?
超能力。それはある年頃の人間にとっては羨望の的である。
かつて海外からやって来た人物がテレビでスプーン曲げを披露したとき、それに憧れた多くの少年少女たちが同じことを試みた。
面白いのは、そのうちのごく一部が曲げるのに成功したということだ。
超能力者(エスパー)と呼ばれるようになった彼らはテレビ番組に引っ張りだことなった。
事情が変わったのはそのような「オカルト」が、カルトや霊感商法の温床となる、と称する有識者の方々からの糾弾を受けるようになってからだ。
そうして彼らは急速にテレビ画面から消えていった。
テレビがまだブラウン管だった頃、インターネットもスマホも何も発達していなかった、テレビがほぼ唯一の娯楽だった時代のお話。
彼らが紛い物だったのかどうかはわからない。大して興味もない。
ただ、私は「本物」だった。
無論私はテレビなんて出ることはなかったし、むしろテレビを見ているような人たちを馬鹿にしている類いの人間だった。
実際に周りと違っていたことが幸福だったのか不幸だったのか今となってはわからない。
しかし今思うと私は恵まれていた。
高校生活で一時期孤高を気取ったりしたこともあったけど、友人関係にはそこまで不自由しなかった。
そんな周りの友達はみんな地元に近い大学に進み、私は中部圏の大学に進学した。
第一志望の京都の大学には不合格だった。
浪人をするという手もあったのだが私はどうしても気が乗らず後期で受かった大学の理工学部に進学した。
その後の友人関係は前述のとおりだ。
彼女も同じ学部だった。学科は違ったけど。
食堂で私達はそれなりに話した。
もっとも彼女のほうが会話の口火を切ることは多かった。
仲が良い、と言ってもよかったのだろうか?
講義をとっている教室が比較的近かったので食堂で出会うことが多かったとはいえ。
喋る内容は他愛もないことだ。
あまりに他愛もなかったのでどういうことを話したのかなんてあまり覚えていない。
いや、覚えているものもある。
「菫子さんって彼氏とかいるの?」
「いや、別に……」
「菫子さんみたいな可愛い子に彼氏いないんだ」
「別に可愛くなんて……」
「そんなことないよ、菫子さんは可愛いよ。だいたいこの学部、女子少ないしさ」
短い会話だ。年頃の女の子だったらそういう会話の一つぐらいはするだろう。
だけれども、そういうことを私は今まで本当に考えたことがなかった。
その意味で彼女の俗っぽさは私には新鮮だった。
そのうち私は彼女に連れられてショッピングなんかに行くことになった。
行き先は駅前のちょっと良さげなブティック。
そんなところ目配せすらしたこともなかった。
私の手を引いて慣れた手付きでドアを開ける。
きょろきょろとする私を尻目に彼女は並んだ服をチェックする。
「この服とか、菫子さんに似合うんじゃない?」
そう言って出してきたのは栗色のワンピースだった。
私には少し明るすぎる気もしたが、試着してみたところ案外似合うような気がした。
私は服なんて自分であまり選んだこともなかったから、こういう服を着るという発想すら出てこなかった。
似合うよ、と言ってくれる彼女を見ると、こういう服も悪くないかな、とか思ってしまう。
さて、超能力は相変わらず戻らない。
色々とやってみるけれどまったくである。
幻想郷にも長らく訪れていない。
あの紅白衣装の巫女だとか白黒衣装の魔法使いだとか、そんな奴らのことを思い出す。
彼らは私がいなくても平気なのだろうか?
私は彼らがいなくて平気ではなかった。
どんな素晴らしい夢を見ようとも、あの楽土の楽しさには叶いっこない。
結局のところ、夢は夢に過ぎなかったのだろうか?
夢はいつか覚めるもの。
だから、私は眠りに落ちる時、たまにこのまま眠りから覚めずにいたらな、とか思ってしまう。
それが吉夢であれ悪夢であれ。
無論幻想郷に行ければ何も言うことはない。
だけれどもそういう虚しい期待はいつも必ず期待通りに裏切られる。
窓から差す朝日を見るたびに、私は、ああ、また無為のうちに帰ってきてしまったんだな、と溜息をつくのだった。
ある日の食堂でこんな会話が合った。
「菫子さんは昔からこの大学を志望してたの?」
「え、ええ」
「そっか。私も同じ。この大学に師事したい先生がいたからこの大学にしたんだ」
「えっと、どの研究室?」
「赤坂研究室」
赤坂教授はこの大学では有名人だった。
花成ホルモン関係の先進的な研究で数々の学術的な賞を受賞していた。
自然研究室の人気も高かったが、彼女は成績は良かったし教授にも気に入れられていたから入るのは難しくなかっただろう。
私は特にやりたいこともなかったので桝田研究室になんとなく入った。
桝田研究室は球電(プラズマ)を主に研究していた。
桝田教授はテレビタレントとしての顔も持っており、オカルト否定派の第一人者だった。
無論真っ当な研究もしているのだが、テレビしか見ていない人たちは番組に出て超能力者や霊能力者と称する胡散臭い人物をバッサリと斬っていく姿しか知らないだろう。
いわば色物としての側面があったので真面目な学生たちは敬遠した。
私はテレビなんて全然見ない人間だったし、そのころには桝田教授もほとんどテレビに呼ばれなくなっていたから、桝田教授がテレビタレントだということは薄っすらと知っていたが、そこでどういう活躍をしているかまではよく知らなかった。
オカルト否定派の教授のもとにオカルトを体現しているような人間が就く、というのはなんとなく滑稽な構図だった。
もちろん桝田教授はテレビで見せていたような苛烈なオカルト否定をいつもは私達の前で見せることはない。
そのとき、教授は普通の大学教員である。
しかし教授に尋ねてみたことがある。
「教授ってオカルト否定派なんですよね」
「そうだけど」
「なんでそんなにオカルトを否定するんですか?」
「そりゃ、この世界で科学で解明できないものなんて存在しないからだよ。特に物理学なんかは例外なんてあってはならない。すべての現象が理論によって説明できるからこそ物理学というものは美しいのだからね」
私はその言葉を思い出すたびにため息を付いた。
実際に科学で説明できないものがあるということは自分が一番良く分かっている。
私は長らく訪れていないあの世界のことを思い出さざるを得なかった。
科学というものがこの世界で幅を効かせた結果、幻想郷というものが生まれたのではないか?
科学というものがこの世界で失権したら、幻想郷は一体どうなるのだろうか?
一度見てみたい気もする。生憎そんなことは相対性理論が実は誤りでした、なんてことが判明しない限り起こらないだろうけど。
教授の前で実際に超能力を見せてあげたらどういう反応を示すのかは気になった。
だけれども生憎私は今はただの女子大生である。
3年のあるとき、彼女と大学院についての話になった。
「ねえ、院には行くの?」
「私……行かない」
意外な返答だった。
もっとも研究室でも活躍しているらしい彼女は確かに教授推薦で大企業にも行くことはできるだろう。
「じゃあどこか企業に勤めるってこと?」
「まあそういうことになると思うんだけど……」
随分と端切れの悪い返答だった。
「どこの会社に行きたいのか、もしよろしければ教えてくれない?」
告げられた淀橋研究所という企業は聞いたこともないものだった。
インターネットで検索してみても情報が殆ど出てこない。
私は彼女がなぜそのキャリアを捨て、そんなところに行くのかひどく気になった。
だけどそういう個人的な事情に触れるのは気が引けた。
「そう、私は院に行くつもり」
「菫子ちゃんならきっと院でも大丈夫だよ。桝田教授は人格破綻者じゃないし」
「院は京都の方に行くわ。受験で不合格だったところ」
「いいんじゃない?」
そこで会話は終わった。
でも別れた後も彼女のことが気になった。
なぜあの子のことを気にしたりするのだろうか?
思えば彼女はいつも私といる。
他の友人たちと遊んだりはしないのだろうか?
そもそも私は彼女について何も知らない。
彼女は一体何者なのか?
それなりに長い間付き合いを続けていて、私はついに彼女に尋ねてみることすらしなかったのだ。
ではなぜ彼女は私なんかと付き合い続けていたのだろうか?
いくら考えてみても答えは出なかった。
ある日、私は彼女に呼び出された。
赤坂研究室のある棟の裏、人があまり寄り付かないようなところで私達は落ち合った。
「どうしたの? 急に呼び出したりして」
先に着いていた彼女の顔はどこか不安げだった。
「黙っていても何もわからないわ」
「……ねえ菫子さん、超能力って信じる?」
言葉に詰まった。
今はただの女子大生にすぎない私はどう答えるべきなのだろうか。
「信じないよね。いいよ、信じてくれなくても。……でも、これ、見てくれない?」
彼女はそういってスプーンを取り出した。
そして私に手渡す。
「一応調べてみて。さっき100均で買ってきたスプーンなんだけど」
色々といじってみるけどたしかに何の変哲もないスプーンである。
スプーンを返してもらった彼女は私にこう告げた。
「私、超能力者(エスパー)なの」
そう言って彼女は私の目の前で渡したスプーンの先端に近い柄の部分を擦ってみせた。
30秒ぐらい擦るうちにスプーンに異変が現れた。
スプーンの先端が震えている。その変化は目に見えてはっきりと捉えることができた。
そして突然彼女はスプーンを放り投げた。
私は慌てて取りに行く。
「もう一度調べてみて」
スプーンを恐る恐る調べてみる。
やはりただの折れたスプーンだった。
「私、最初は院に行くつもりだった。でも大学に入ってこういう能力が発現したの。最初は気味が悪くて仕方がなかった。でも段々と能力は強まっていった」
そりゃ気味が悪いだろう。
なにせ彼女は普通の人間なのだから。
私なんかはそれこそオカルトに興味があるような人間だったから、超能力が発現したときはむしろやったーって思った。
だけど彼女はきっとそういうものを望んでいたわけでもない。
「現れたきっかけは?」
「何気なしにスプーンを床に放り投げてみたら曲がってしまった。それで試しにスプーンを擦ってみたらこれも曲がった。……それ以来かな」
「できるのはスプーンを曲げることだけ?」
「透視とかダウジングとか、あとまだ弱いけど念力とか念写も」
面食らった。
私は彼女はどこにでもいる普通の女子大生なのだと思っていたからだ。
この大学に特別な人間なんて誰もいない、無論私も含めて、根拠もなくそう思っていた。
彼女とも「普通の友人」として付き合っていたつもりだった。
しかし彼女はそう思っていたのだろうか?
こんなことを誰彼構わず打ち明けるほど彼女は馬鹿ではないだろう。
だから私に打ち明けた?
なぜ?
「……なんで私なんかに打ち明けたの? 私があなたのことを頭がおかしい人間だと言いふらしたらどうするつもりだったの?」
「だって菫子ちゃんは私にとって大切な友達だから。そんなことしないって信じてるよ」
大切な友達。
私はそういう感覚を4年間ずっと忘れていたような気がする。
私は幻想郷に行けなくなったという事実に麻痺し続けていたのだ。
だからこそ彼女と私の仲はある意味で片務的なものだったのかもしれない。
そうやって私はこの4年間、あり得たであろう出会いをいくつ潰してきたのだろうか?
今更悔やんだってもう遅いことなのは分かっているけれども。
「……それで私に打ち明けたのはどうして?」
「やっぱりさ、私を知ってもらいたい、って思ったからかな?」
「淀橋研究所に行くっていうのもこれがあるから?」
「……うん。多分私は普通の会社勤めはきっとできっこないだろうから。淀橋研究所は超能力の研究なんかもしてるみたいで」
それは違う、と私は心のなかで叫んだ。
私だって確かに超能力者だった。
それでも結局普通の女子高生として普通の高校生活を送ることができた。
無論それは幻想郷での出会いというものがあったからだ。
だけど――
「新卒カードは一枚きりよ」
「いいよ、それはきっと普通に生きれる人たちのものだから」
「あなただって普通に生きれるはずよ。能力を隠していさえすれば」
「いいな、菫子ちゃんは。普通に生きれて」
気がついたら私は後ろを向いて駆け出していた。
なぜだかわからないけど駆けている途中、涙が溢れてきた。
そしてどす黒く、それでいてやるせない、怒りのような悲しみのような、そんな訳のわからない感情が溢れてきて止まらなかった。
私が普通に生きれた、だって?
ふざけないでほしい。
私は普通になんて生きたくなかった。
あの楽園に再び訪れたかった。
そうなれば私は普通の女子大生ではなくなるはずなのだ。
彼女こそ普通に生きるべき人間だし、私こそ普通に生きるべきでない人間だった。
神様の気まぐれというものに私は生まれてはじめて唾を吐きかけたくなった。
なぜ私には超能力がない? なぜ彼女には超能力がある?
そして彼女があそこに行くようになったなら、私はどうすれば良い?
あなただけずるい! とでも言ってやれば良いのだろうか?
生憎私はそんなふうな心地の良い嫉妬なんて抱けない。
私が抱けるのはどこまでもどろどろと煮込まれた、溶岩のようなどこまでも醜い感情でしかなかった。
気がつくと私は嗚咽を漏らしていた。
嗚咽はいつまでもいつまでも止まることがなかった。
結局私は院に進まなかった。
普通に就活をしてとある中堅企業のシステムエンジニアになった。
仕事は安定していた。
同僚とはあまりプライベートでの関わりはなかったけど、たまに飲み会に参加したりはした。
まあ、比較的充実していると言えば良かったのだろうか?
無論それは高校時代のあの頃よりはずっと小さいものではあったけど。
彼女とはあれ以来連絡を絶った。
ひょんなことから大学構内で顔を合わせないかとか心配だったけどありがたいことにそういう機会は訪れなかった。
私は彼女の顔を見ることがとても恐ろしかった。
彼女は私が強い人間だと思っていたのだろう。
だからああやって私に打ち明けた。
でも私は彼女の期待に応えられるような人間ではなかった。
それだけが申し訳なく感じた。
彼女と再会したのはたまたまだった。
何気なしにつけたテレビに彼女の顔が映っていた。
当時はオカルトブームが再燃していた頃で、テレビ各局とも心霊映像とかUFO映像などと称する嘘くさい動画をこぞって流していた。
彼女が出演していた番組もそういう類だった。
彼女は大学時代とは随分と違った服装をしていた。
派手な柄の服を着ていて、目には大きな丸いサングラスをかけていた。
以前彼女と会ったことがある人間であっても、それが彼女であると判別することはできないだろうと思った。
でも確かにネームボードに書かれているのは彼女の名前だった。
彼女はスプーンを安々と曲げてみせる。
彼女は提示された行方不明者の名前を見て、東京近郊にあるとある河川の名前と近くの建造物の名前を告げた。
生放送であったその番組の中でスタッフが言われた現場に赴くと草むらの中から遺留品と思しき靴が見つかった。
彼女は確かに番組の中で超能力者(エスパー)だった。
オカルトブームに乗じて彼女はそういう類の番組の常連となった。
そんな彼女を見るたびに、私は彼女が自分とは遠く離れたところに行ってしまったような、そんな感覚に陥った。
ある日のこと。新聞の番組欄を見ていると懐かしい名前を目にした。
”新進気鋭の超能力者とオカルト否定派の第一人者が大激突! 勝敗は果たしてどちらの手に!?”
出演者の中に桝田教授の名前があった。
生放送である特番の内容は概ね想像がついた。
彼女が超能力を披露しそれを教授が検証する。
一昔前はこういう番組も数多くあったらしいが、最近では珍しい形式だった。
見るしかない、私はそう思った。
番組は胡散臭い心霊動画とひな壇に座る芸人やアイドルの大げさな悲鳴で始まった。
あとはUFOだのUMAだのそんな嘘くさい動画で尺を稼ぐ。
2時間枠をとっているが、おそらく1時間半はそういった動画で埋めるのだろう。
そして最後の30分で桝田教授と彼女を対決させる、そういう構成のはずだ。
くだらない動画とやかましいCMとを交互に見ながら私はその時を待っていた。
「それでは登場していただきましょう! 桝田文則教授です!」
司会者の紹介と共に桝田教授が奥の方から出てきた。
私が研究室にいた頃よりは少し老けた感じではあるが、顔つきとかそういうものはあまり変わっていなかった。
続いて彼女が奥から登場する。
相変わらず派手な服装と丸く大きなサングラスだった。
彼女の一通りの紹介が終わり、待望の超能力の披露となった。
どうやらスプーンを曲げるらしい。
「それではお願いします」
司会者と出演者は固唾を呑んで見守る。
彼女は深く息を吸い、スプーンの根本を擦ってみせる。
30秒ほど経ったころだろうか、突然彼女はスプーンを上に放り投げた。
スタッフがスプーンを取りに行く。画面に映し出されたスプーンはぽっきりと折れていた。
おおっ、という驚きの声がスタジオから上がった。
「いかがでしょうか、教授」
興奮気味で司会者が教授に尋ねる。
「それはトリックです」
桝田教授ははっきりとそう告げる。
「トリックですって? でも彼女は確かに……」
困惑した顔で司会者が言葉をこぼす。
「これを見てください」
そう言って桝田教授はビデオカメラを取り出した。
スタッフが慌てて受け取り、CMの後にスタジオの大画面に映し出される。
そこには彼女の後ろ姿が映っていた。
「私は先程からカメラで彼女の後ろを撮影していました」
その瞬間は確かに記録されていた。
彼女は番組でスプーンを折る瞬間、いつも決まって放り投げていた。
私に見せてくれたときとは様相が違っていた。
放り投げる瞬間、彼女は素早く洋服の脇にある小さなポケットから折れたスプーンを取り出していたのだ。
紛うことなきトリックだった。
「こういうインチキ超能力者を番組に呼ぶのはどうかとはおもうんですけどね。まあ超能力、という代物自体がインチキなんですけど」
勝ち誇った様子で桝田教授は朗々と語っていた。
彼女は俯いていた。
私はもう見ていられず、テレビを消した。
寝よう。
こんな日は今日だけでたくさんだ。
私は寝間着に着替えることもなく、ベッドに倒れ込んだ。
起きたのは11時過ぎだった。
2時間しか寝ていないらしい。
彼女はまだテレビ局にいるのだろうか?
私は彼女に浴びせられるであろう不特定多数からの残酷な視線を考える。
昔の私物が入っている、デスクの引き出しを次々と引っ掻き回す。
そしてついに一枚のくしゃくしゃのメモ紙を見つけた。
私はメモに書かれた彼女の携帯番号に電話を掛ける。
最初に彼女と出会った時、書き留めたものだ。
これだけはなぜか捨てていなかった。
落ち着いて、スマートフォンに番号を入力していく。
もとよりかからなくても当然だ。
しかしどうしても、なぜだかわからないけれども彼女と話がしたかった。
プルルル、という発信音が10回ほど鳴る。
そして14回目、これで切ろうか、と思ったそのときに、菫子さん? という弱々しい声が聞こえた。
変わらない、彼女の声だ。
「あなた……なんてことしてるのよ……?」
「ごめんね、みっともないところ見せちゃって」
「……いいわ。二人で会うことはできない?」
「申し訳ないけどそれはできない」
はっきりとしたその言葉が私の心の中に沈み込んだ。
「なんで? 別に私はあなたのこと笑ったりはしない」
「菫子さんが良くても私が良くない。勘違いしないで。菫子さんのことが嫌いとかそういうのじゃない。でも菫子さんは私のことを綺麗さっぱり忘れてほしい。菫子さんは普通に生きていける人だから、私みたいな異常な人間と交わっても良いことはないから」
異常な人間、か。
元異常な人間としていくつか思うことはあった。
でもどうしても口に出すことはできなかった。
「一つ聞かせて。トリックを使ったのはなんで? あなたは本当に今でも超能力者なの?」
「超能力って波があるんだ。人前でやるのは難しいし、今日はたまたますごく調子の悪い日だった。でも失敗したらこの番組は丸つぶれで損害賠償を請求するぞってテレビ局の人に言われて……」
絶句した。
テレビ局の悪意にだ。
そんな根も葉もない脅し、無視すればいいと思うのはおそらくは第三者だから言えることだ。
おそらく成功の場合にも失敗の場合にも台本が用意されていたのだろう。
しかしテレビ局側は失敗の場合に安全なベットを行った。
彼女は公衆の面前で笑いものにされる運命だったのだ。
「ほんと馬鹿ね……あなたって」
「でも、私は今も本物の超能力者(エスパー)だよ。だって菫子さん、今はSEやってるんでしょ? 渋谷にある久保田商事の奥から3番目の机で、奥村さんと前田さんとに挟まれて……」
たまらず私は電話を切ってしまった。
そしてすぐにスマホの電源を切った。
ひどく泣きたかった。
彼女はやはり普通に生きることはできなかったのだろうか? そんな思いが脳裏をよぎった。
翌日電源をつけてみたけど彼女からの電話はなかった。
私はそのことにほっとすると同時にやるせなさがひどく湧き上がってきた。
その日、私は会社を休み販売店に行って電話番号を変えた。
電話番号が書かれたメモも捨てた。
会社の人間からは色々と言われたけど、すみません、個人的な事情で、と押し通した。
スプーン曲げにトリックを使った彼女が本当に超能力者だったのか、今ではわからない。
あの最後の情報だって調べようと思えば調べることなんて可能だ。
でも私はFacebookだとかそういうものはやっていなかった。
私からのかかってくるかもわからない、むしろかかってこない可能性のほうがずっと高い電話に備えて探偵か何かに頼んで私のことを調べ上げていたなんて、そんなこと考えるだけでも馬鹿げている。
だけれども、彼女が本当に超能力のようなものを持っていたのかどうか、それを証明する方法はもはやない。
あの番組を最後に彼女はテレビ画面から姿を消した。
インターネットで検索してみても新たな情報は出てこなかった。
ある日新聞を読んでいたら、淀橋研究所に捜査が入ったことが載っていた。
罪名は詐欺。
超能力による事業の高配当を謳い出資者から多額の金を巻き上げていた。
加えて霊感商法による被害が多数報告されていた。
社長並びに役員数名が逮捕され実名も報道されていたが、その中に彼女の名前は見当たらなかった。
彼女は自分のことを忘れてほしいと言った。
でも私は彼女のことを絶対に忘れないつもりだった。
幻想郷は忘れ去られたものが流れ着く、そういう場所だから。
だからこうやって私はもう会うこともない彼女のことを記して記憶の中に刻み込んでいく。
たまに思うのだ。
私に超能力があったなら彼女と本当の意味で仲良くすることはできたのだろうか?
二人して能力を酷評しあい、時にどこかに冒険に出かける、そして互いを労りあう、そんなどこまでも望ましい関係を築けたのだろうか?
今となってはもうわかるまい。
私はこれからもずっと普通の人間として生きていこう。
それが私に課せられた枷であってそのもう一端は彼女の足首に嵌められている。
それこそが私と彼女をこの世界に縛り付けておくための一番の方法なのだから。
だから私は彼女との出来事をこうやって記していこうと思う。
正直なところ、このような行為が有意義なものなのか、私には全然わからない。
だけれども、それがただの毒出しに過ぎないのだとしても、私はきっと書かざるを得ないのだ。
誰に見せるでもない。千里眼でも有さなければ見られることもない。
そんな下世話な自慰行為なのだから。
大学に入る前から、私は秘封倶楽部を高校から引き継ごうと決めていた。
きっと大学では色々な奴、興味深い奴はゴマンといるのだと無邪気に信じていた。
でも実際の大学なんてそんなに面白いものでもなかった。
みんな就活の話だとか飲み会の話だとか、そんな「現実的」な話ばかり。
とある真面目そうなサークルの新歓に行ったら皆酒を飲んでウェーイって感じ。
顔の整った女の子に言い寄ったりする連中をみて私はここに来たことをひどく後悔した。
私は彼らとは違う人種なのだと痛感した。
自然私はクラスの人間とも話をしなくなっていった。
そのころからだろうか、私は急に超能力が使えなくなった。
最初はただの不調かと思っていたけど、自分の力が急速に失われていくことを私は否が応でも自覚しなくてはならなくなった。
これでは本当に非現実的な胡散臭いオカルトサークルになってしまうというのに。
名ばかりのサークル、部室もなにもない、そんな幽霊サークル。
私はきっと食堂に取り憑くただ一体の地縛霊だったのだ。
加えて大学入学以来一度も幻想郷に行けていないという事実が私を苛んだ。
出会いには必ず別れというものがつきまとう。
幻想郷での文字通り夢のような出会いを経て、私は辛い別れを経験せざるを得なかった。
もっとも、一つの別れは新たな出会いの幕開けでもある。
彼女と出会ったのはそのころだった。
彼女とはドイツ語の授業でのグループワークで隣同士になった。
やけに発音が上手かったのを覚えている。
私がウムラウトに苦労しているのを尻目に安々とネイティブ顔負けの発音を見せてくれる。
私は昔から語学が不得手で、今の大学だって英語を半分捨てて理科と数学だけで入ったようなものだ。国語? あんなものもちろん無視した。
四苦八苦する私を見た彼女は、菫子さん、なんでドイツ語なんて選んだの?なんて言ってきた。
いや、理系ってドイツ語選ぶものだと思ってて……というと、菫子さんって意外と向こう見ずなのね、大学前の書店でどの授業を履修すればよいのか、そういう本が売ってたと思うけど買わなかったの? とくすりと笑われた。
「でも私は興味のある授業がとりたくて……」
「いくら興味があっても単位を落としたら何の意味もないよ」
彼女は俗に言う世渡りが上手い人間だったのだろう。周りと程々に仲良くしておいてテストの過去問などを入手し要領よく試験対策をする。しかし私は家に帰るとガリガリ勉強をしていた。無論その姿勢は今に至るまで役に立っている。だけれども、私は自分がかつて抱いていた万能感をどこかで捨てることができなかったのだろう。その努力を誰かに知られることがとても恐ろしかった。
思えば超能力の発現のために私は何か努力をしたのだろうか?
超能力。それはある年頃の人間にとっては羨望の的である。
かつて海外からやって来た人物がテレビでスプーン曲げを披露したとき、それに憧れた多くの少年少女たちが同じことを試みた。
面白いのは、そのうちのごく一部が曲げるのに成功したということだ。
超能力者(エスパー)と呼ばれるようになった彼らはテレビ番組に引っ張りだことなった。
事情が変わったのはそのような「オカルト」が、カルトや霊感商法の温床となる、と称する有識者の方々からの糾弾を受けるようになってからだ。
そうして彼らは急速にテレビ画面から消えていった。
テレビがまだブラウン管だった頃、インターネットもスマホも何も発達していなかった、テレビがほぼ唯一の娯楽だった時代のお話。
彼らが紛い物だったのかどうかはわからない。大して興味もない。
ただ、私は「本物」だった。
無論私はテレビなんて出ることはなかったし、むしろテレビを見ているような人たちを馬鹿にしている類いの人間だった。
実際に周りと違っていたことが幸福だったのか不幸だったのか今となってはわからない。
しかし今思うと私は恵まれていた。
高校生活で一時期孤高を気取ったりしたこともあったけど、友人関係にはそこまで不自由しなかった。
そんな周りの友達はみんな地元に近い大学に進み、私は中部圏の大学に進学した。
第一志望の京都の大学には不合格だった。
浪人をするという手もあったのだが私はどうしても気が乗らず後期で受かった大学の理工学部に進学した。
その後の友人関係は前述のとおりだ。
彼女も同じ学部だった。学科は違ったけど。
食堂で私達はそれなりに話した。
もっとも彼女のほうが会話の口火を切ることは多かった。
仲が良い、と言ってもよかったのだろうか?
講義をとっている教室が比較的近かったので食堂で出会うことが多かったとはいえ。
喋る内容は他愛もないことだ。
あまりに他愛もなかったのでどういうことを話したのかなんてあまり覚えていない。
いや、覚えているものもある。
「菫子さんって彼氏とかいるの?」
「いや、別に……」
「菫子さんみたいな可愛い子に彼氏いないんだ」
「別に可愛くなんて……」
「そんなことないよ、菫子さんは可愛いよ。だいたいこの学部、女子少ないしさ」
短い会話だ。年頃の女の子だったらそういう会話の一つぐらいはするだろう。
だけれども、そういうことを私は今まで本当に考えたことがなかった。
その意味で彼女の俗っぽさは私には新鮮だった。
そのうち私は彼女に連れられてショッピングなんかに行くことになった。
行き先は駅前のちょっと良さげなブティック。
そんなところ目配せすらしたこともなかった。
私の手を引いて慣れた手付きでドアを開ける。
きょろきょろとする私を尻目に彼女は並んだ服をチェックする。
「この服とか、菫子さんに似合うんじゃない?」
そう言って出してきたのは栗色のワンピースだった。
私には少し明るすぎる気もしたが、試着してみたところ案外似合うような気がした。
私は服なんて自分であまり選んだこともなかったから、こういう服を着るという発想すら出てこなかった。
似合うよ、と言ってくれる彼女を見ると、こういう服も悪くないかな、とか思ってしまう。
さて、超能力は相変わらず戻らない。
色々とやってみるけれどまったくである。
幻想郷にも長らく訪れていない。
あの紅白衣装の巫女だとか白黒衣装の魔法使いだとか、そんな奴らのことを思い出す。
彼らは私がいなくても平気なのだろうか?
私は彼らがいなくて平気ではなかった。
どんな素晴らしい夢を見ようとも、あの楽土の楽しさには叶いっこない。
結局のところ、夢は夢に過ぎなかったのだろうか?
夢はいつか覚めるもの。
だから、私は眠りに落ちる時、たまにこのまま眠りから覚めずにいたらな、とか思ってしまう。
それが吉夢であれ悪夢であれ。
無論幻想郷に行ければ何も言うことはない。
だけれどもそういう虚しい期待はいつも必ず期待通りに裏切られる。
窓から差す朝日を見るたびに、私は、ああ、また無為のうちに帰ってきてしまったんだな、と溜息をつくのだった。
ある日の食堂でこんな会話が合った。
「菫子さんは昔からこの大学を志望してたの?」
「え、ええ」
「そっか。私も同じ。この大学に師事したい先生がいたからこの大学にしたんだ」
「えっと、どの研究室?」
「赤坂研究室」
赤坂教授はこの大学では有名人だった。
花成ホルモン関係の先進的な研究で数々の学術的な賞を受賞していた。
自然研究室の人気も高かったが、彼女は成績は良かったし教授にも気に入れられていたから入るのは難しくなかっただろう。
私は特にやりたいこともなかったので桝田研究室になんとなく入った。
桝田研究室は球電(プラズマ)を主に研究していた。
桝田教授はテレビタレントとしての顔も持っており、オカルト否定派の第一人者だった。
無論真っ当な研究もしているのだが、テレビしか見ていない人たちは番組に出て超能力者や霊能力者と称する胡散臭い人物をバッサリと斬っていく姿しか知らないだろう。
いわば色物としての側面があったので真面目な学生たちは敬遠した。
私はテレビなんて全然見ない人間だったし、そのころには桝田教授もほとんどテレビに呼ばれなくなっていたから、桝田教授がテレビタレントだということは薄っすらと知っていたが、そこでどういう活躍をしているかまではよく知らなかった。
オカルト否定派の教授のもとにオカルトを体現しているような人間が就く、というのはなんとなく滑稽な構図だった。
もちろん桝田教授はテレビで見せていたような苛烈なオカルト否定をいつもは私達の前で見せることはない。
そのとき、教授は普通の大学教員である。
しかし教授に尋ねてみたことがある。
「教授ってオカルト否定派なんですよね」
「そうだけど」
「なんでそんなにオカルトを否定するんですか?」
「そりゃ、この世界で科学で解明できないものなんて存在しないからだよ。特に物理学なんかは例外なんてあってはならない。すべての現象が理論によって説明できるからこそ物理学というものは美しいのだからね」
私はその言葉を思い出すたびにため息を付いた。
実際に科学で説明できないものがあるということは自分が一番良く分かっている。
私は長らく訪れていないあの世界のことを思い出さざるを得なかった。
科学というものがこの世界で幅を効かせた結果、幻想郷というものが生まれたのではないか?
科学というものがこの世界で失権したら、幻想郷は一体どうなるのだろうか?
一度見てみたい気もする。生憎そんなことは相対性理論が実は誤りでした、なんてことが判明しない限り起こらないだろうけど。
教授の前で実際に超能力を見せてあげたらどういう反応を示すのかは気になった。
だけれども生憎私は今はただの女子大生である。
3年のあるとき、彼女と大学院についての話になった。
「ねえ、院には行くの?」
「私……行かない」
意外な返答だった。
もっとも研究室でも活躍しているらしい彼女は確かに教授推薦で大企業にも行くことはできるだろう。
「じゃあどこか企業に勤めるってこと?」
「まあそういうことになると思うんだけど……」
随分と端切れの悪い返答だった。
「どこの会社に行きたいのか、もしよろしければ教えてくれない?」
告げられた淀橋研究所という企業は聞いたこともないものだった。
インターネットで検索してみても情報が殆ど出てこない。
私は彼女がなぜそのキャリアを捨て、そんなところに行くのかひどく気になった。
だけどそういう個人的な事情に触れるのは気が引けた。
「そう、私は院に行くつもり」
「菫子ちゃんならきっと院でも大丈夫だよ。桝田教授は人格破綻者じゃないし」
「院は京都の方に行くわ。受験で不合格だったところ」
「いいんじゃない?」
そこで会話は終わった。
でも別れた後も彼女のことが気になった。
なぜあの子のことを気にしたりするのだろうか?
思えば彼女はいつも私といる。
他の友人たちと遊んだりはしないのだろうか?
そもそも私は彼女について何も知らない。
彼女は一体何者なのか?
それなりに長い間付き合いを続けていて、私はついに彼女に尋ねてみることすらしなかったのだ。
ではなぜ彼女は私なんかと付き合い続けていたのだろうか?
いくら考えてみても答えは出なかった。
ある日、私は彼女に呼び出された。
赤坂研究室のある棟の裏、人があまり寄り付かないようなところで私達は落ち合った。
「どうしたの? 急に呼び出したりして」
先に着いていた彼女の顔はどこか不安げだった。
「黙っていても何もわからないわ」
「……ねえ菫子さん、超能力って信じる?」
言葉に詰まった。
今はただの女子大生にすぎない私はどう答えるべきなのだろうか。
「信じないよね。いいよ、信じてくれなくても。……でも、これ、見てくれない?」
彼女はそういってスプーンを取り出した。
そして私に手渡す。
「一応調べてみて。さっき100均で買ってきたスプーンなんだけど」
色々といじってみるけどたしかに何の変哲もないスプーンである。
スプーンを返してもらった彼女は私にこう告げた。
「私、超能力者(エスパー)なの」
そう言って彼女は私の目の前で渡したスプーンの先端に近い柄の部分を擦ってみせた。
30秒ぐらい擦るうちにスプーンに異変が現れた。
スプーンの先端が震えている。その変化は目に見えてはっきりと捉えることができた。
そして突然彼女はスプーンを放り投げた。
私は慌てて取りに行く。
「もう一度調べてみて」
スプーンを恐る恐る調べてみる。
やはりただの折れたスプーンだった。
「私、最初は院に行くつもりだった。でも大学に入ってこういう能力が発現したの。最初は気味が悪くて仕方がなかった。でも段々と能力は強まっていった」
そりゃ気味が悪いだろう。
なにせ彼女は普通の人間なのだから。
私なんかはそれこそオカルトに興味があるような人間だったから、超能力が発現したときはむしろやったーって思った。
だけど彼女はきっとそういうものを望んでいたわけでもない。
「現れたきっかけは?」
「何気なしにスプーンを床に放り投げてみたら曲がってしまった。それで試しにスプーンを擦ってみたらこれも曲がった。……それ以来かな」
「できるのはスプーンを曲げることだけ?」
「透視とかダウジングとか、あとまだ弱いけど念力とか念写も」
面食らった。
私は彼女はどこにでもいる普通の女子大生なのだと思っていたからだ。
この大学に特別な人間なんて誰もいない、無論私も含めて、根拠もなくそう思っていた。
彼女とも「普通の友人」として付き合っていたつもりだった。
しかし彼女はそう思っていたのだろうか?
こんなことを誰彼構わず打ち明けるほど彼女は馬鹿ではないだろう。
だから私に打ち明けた?
なぜ?
「……なんで私なんかに打ち明けたの? 私があなたのことを頭がおかしい人間だと言いふらしたらどうするつもりだったの?」
「だって菫子ちゃんは私にとって大切な友達だから。そんなことしないって信じてるよ」
大切な友達。
私はそういう感覚を4年間ずっと忘れていたような気がする。
私は幻想郷に行けなくなったという事実に麻痺し続けていたのだ。
だからこそ彼女と私の仲はある意味で片務的なものだったのかもしれない。
そうやって私はこの4年間、あり得たであろう出会いをいくつ潰してきたのだろうか?
今更悔やんだってもう遅いことなのは分かっているけれども。
「……それで私に打ち明けたのはどうして?」
「やっぱりさ、私を知ってもらいたい、って思ったからかな?」
「淀橋研究所に行くっていうのもこれがあるから?」
「……うん。多分私は普通の会社勤めはきっとできっこないだろうから。淀橋研究所は超能力の研究なんかもしてるみたいで」
それは違う、と私は心のなかで叫んだ。
私だって確かに超能力者だった。
それでも結局普通の女子高生として普通の高校生活を送ることができた。
無論それは幻想郷での出会いというものがあったからだ。
だけど――
「新卒カードは一枚きりよ」
「いいよ、それはきっと普通に生きれる人たちのものだから」
「あなただって普通に生きれるはずよ。能力を隠していさえすれば」
「いいな、菫子ちゃんは。普通に生きれて」
気がついたら私は後ろを向いて駆け出していた。
なぜだかわからないけど駆けている途中、涙が溢れてきた。
そしてどす黒く、それでいてやるせない、怒りのような悲しみのような、そんな訳のわからない感情が溢れてきて止まらなかった。
私が普通に生きれた、だって?
ふざけないでほしい。
私は普通になんて生きたくなかった。
あの楽園に再び訪れたかった。
そうなれば私は普通の女子大生ではなくなるはずなのだ。
彼女こそ普通に生きるべき人間だし、私こそ普通に生きるべきでない人間だった。
神様の気まぐれというものに私は生まれてはじめて唾を吐きかけたくなった。
なぜ私には超能力がない? なぜ彼女には超能力がある?
そして彼女があそこに行くようになったなら、私はどうすれば良い?
あなただけずるい! とでも言ってやれば良いのだろうか?
生憎私はそんなふうな心地の良い嫉妬なんて抱けない。
私が抱けるのはどこまでもどろどろと煮込まれた、溶岩のようなどこまでも醜い感情でしかなかった。
気がつくと私は嗚咽を漏らしていた。
嗚咽はいつまでもいつまでも止まることがなかった。
結局私は院に進まなかった。
普通に就活をしてとある中堅企業のシステムエンジニアになった。
仕事は安定していた。
同僚とはあまりプライベートでの関わりはなかったけど、たまに飲み会に参加したりはした。
まあ、比較的充実していると言えば良かったのだろうか?
無論それは高校時代のあの頃よりはずっと小さいものではあったけど。
彼女とはあれ以来連絡を絶った。
ひょんなことから大学構内で顔を合わせないかとか心配だったけどありがたいことにそういう機会は訪れなかった。
私は彼女の顔を見ることがとても恐ろしかった。
彼女は私が強い人間だと思っていたのだろう。
だからああやって私に打ち明けた。
でも私は彼女の期待に応えられるような人間ではなかった。
それだけが申し訳なく感じた。
彼女と再会したのはたまたまだった。
何気なしにつけたテレビに彼女の顔が映っていた。
当時はオカルトブームが再燃していた頃で、テレビ各局とも心霊映像とかUFO映像などと称する嘘くさい動画をこぞって流していた。
彼女が出演していた番組もそういう類だった。
彼女は大学時代とは随分と違った服装をしていた。
派手な柄の服を着ていて、目には大きな丸いサングラスをかけていた。
以前彼女と会ったことがある人間であっても、それが彼女であると判別することはできないだろうと思った。
でも確かにネームボードに書かれているのは彼女の名前だった。
彼女はスプーンを安々と曲げてみせる。
彼女は提示された行方不明者の名前を見て、東京近郊にあるとある河川の名前と近くの建造物の名前を告げた。
生放送であったその番組の中でスタッフが言われた現場に赴くと草むらの中から遺留品と思しき靴が見つかった。
彼女は確かに番組の中で超能力者(エスパー)だった。
オカルトブームに乗じて彼女はそういう類の番組の常連となった。
そんな彼女を見るたびに、私は彼女が自分とは遠く離れたところに行ってしまったような、そんな感覚に陥った。
ある日のこと。新聞の番組欄を見ていると懐かしい名前を目にした。
”新進気鋭の超能力者とオカルト否定派の第一人者が大激突! 勝敗は果たしてどちらの手に!?”
出演者の中に桝田教授の名前があった。
生放送である特番の内容は概ね想像がついた。
彼女が超能力を披露しそれを教授が検証する。
一昔前はこういう番組も数多くあったらしいが、最近では珍しい形式だった。
見るしかない、私はそう思った。
番組は胡散臭い心霊動画とひな壇に座る芸人やアイドルの大げさな悲鳴で始まった。
あとはUFOだのUMAだのそんな嘘くさい動画で尺を稼ぐ。
2時間枠をとっているが、おそらく1時間半はそういった動画で埋めるのだろう。
そして最後の30分で桝田教授と彼女を対決させる、そういう構成のはずだ。
くだらない動画とやかましいCMとを交互に見ながら私はその時を待っていた。
「それでは登場していただきましょう! 桝田文則教授です!」
司会者の紹介と共に桝田教授が奥の方から出てきた。
私が研究室にいた頃よりは少し老けた感じではあるが、顔つきとかそういうものはあまり変わっていなかった。
続いて彼女が奥から登場する。
相変わらず派手な服装と丸く大きなサングラスだった。
彼女の一通りの紹介が終わり、待望の超能力の披露となった。
どうやらスプーンを曲げるらしい。
「それではお願いします」
司会者と出演者は固唾を呑んで見守る。
彼女は深く息を吸い、スプーンの根本を擦ってみせる。
30秒ほど経ったころだろうか、突然彼女はスプーンを上に放り投げた。
スタッフがスプーンを取りに行く。画面に映し出されたスプーンはぽっきりと折れていた。
おおっ、という驚きの声がスタジオから上がった。
「いかがでしょうか、教授」
興奮気味で司会者が教授に尋ねる。
「それはトリックです」
桝田教授ははっきりとそう告げる。
「トリックですって? でも彼女は確かに……」
困惑した顔で司会者が言葉をこぼす。
「これを見てください」
そう言って桝田教授はビデオカメラを取り出した。
スタッフが慌てて受け取り、CMの後にスタジオの大画面に映し出される。
そこには彼女の後ろ姿が映っていた。
「私は先程からカメラで彼女の後ろを撮影していました」
その瞬間は確かに記録されていた。
彼女は番組でスプーンを折る瞬間、いつも決まって放り投げていた。
私に見せてくれたときとは様相が違っていた。
放り投げる瞬間、彼女は素早く洋服の脇にある小さなポケットから折れたスプーンを取り出していたのだ。
紛うことなきトリックだった。
「こういうインチキ超能力者を番組に呼ぶのはどうかとはおもうんですけどね。まあ超能力、という代物自体がインチキなんですけど」
勝ち誇った様子で桝田教授は朗々と語っていた。
彼女は俯いていた。
私はもう見ていられず、テレビを消した。
寝よう。
こんな日は今日だけでたくさんだ。
私は寝間着に着替えることもなく、ベッドに倒れ込んだ。
起きたのは11時過ぎだった。
2時間しか寝ていないらしい。
彼女はまだテレビ局にいるのだろうか?
私は彼女に浴びせられるであろう不特定多数からの残酷な視線を考える。
昔の私物が入っている、デスクの引き出しを次々と引っ掻き回す。
そしてついに一枚のくしゃくしゃのメモ紙を見つけた。
私はメモに書かれた彼女の携帯番号に電話を掛ける。
最初に彼女と出会った時、書き留めたものだ。
これだけはなぜか捨てていなかった。
落ち着いて、スマートフォンに番号を入力していく。
もとよりかからなくても当然だ。
しかしどうしても、なぜだかわからないけれども彼女と話がしたかった。
プルルル、という発信音が10回ほど鳴る。
そして14回目、これで切ろうか、と思ったそのときに、菫子さん? という弱々しい声が聞こえた。
変わらない、彼女の声だ。
「あなた……なんてことしてるのよ……?」
「ごめんね、みっともないところ見せちゃって」
「……いいわ。二人で会うことはできない?」
「申し訳ないけどそれはできない」
はっきりとしたその言葉が私の心の中に沈み込んだ。
「なんで? 別に私はあなたのこと笑ったりはしない」
「菫子さんが良くても私が良くない。勘違いしないで。菫子さんのことが嫌いとかそういうのじゃない。でも菫子さんは私のことを綺麗さっぱり忘れてほしい。菫子さんは普通に生きていける人だから、私みたいな異常な人間と交わっても良いことはないから」
異常な人間、か。
元異常な人間としていくつか思うことはあった。
でもどうしても口に出すことはできなかった。
「一つ聞かせて。トリックを使ったのはなんで? あなたは本当に今でも超能力者なの?」
「超能力って波があるんだ。人前でやるのは難しいし、今日はたまたますごく調子の悪い日だった。でも失敗したらこの番組は丸つぶれで損害賠償を請求するぞってテレビ局の人に言われて……」
絶句した。
テレビ局の悪意にだ。
そんな根も葉もない脅し、無視すればいいと思うのはおそらくは第三者だから言えることだ。
おそらく成功の場合にも失敗の場合にも台本が用意されていたのだろう。
しかしテレビ局側は失敗の場合に安全なベットを行った。
彼女は公衆の面前で笑いものにされる運命だったのだ。
「ほんと馬鹿ね……あなたって」
「でも、私は今も本物の超能力者(エスパー)だよ。だって菫子さん、今はSEやってるんでしょ? 渋谷にある久保田商事の奥から3番目の机で、奥村さんと前田さんとに挟まれて……」
たまらず私は電話を切ってしまった。
そしてすぐにスマホの電源を切った。
ひどく泣きたかった。
彼女はやはり普通に生きることはできなかったのだろうか? そんな思いが脳裏をよぎった。
翌日電源をつけてみたけど彼女からの電話はなかった。
私はそのことにほっとすると同時にやるせなさがひどく湧き上がってきた。
その日、私は会社を休み販売店に行って電話番号を変えた。
電話番号が書かれたメモも捨てた。
会社の人間からは色々と言われたけど、すみません、個人的な事情で、と押し通した。
スプーン曲げにトリックを使った彼女が本当に超能力者だったのか、今ではわからない。
あの最後の情報だって調べようと思えば調べることなんて可能だ。
でも私はFacebookだとかそういうものはやっていなかった。
私からのかかってくるかもわからない、むしろかかってこない可能性のほうがずっと高い電話に備えて探偵か何かに頼んで私のことを調べ上げていたなんて、そんなこと考えるだけでも馬鹿げている。
だけれども、彼女が本当に超能力のようなものを持っていたのかどうか、それを証明する方法はもはやない。
あの番組を最後に彼女はテレビ画面から姿を消した。
インターネットで検索してみても新たな情報は出てこなかった。
ある日新聞を読んでいたら、淀橋研究所に捜査が入ったことが載っていた。
罪名は詐欺。
超能力による事業の高配当を謳い出資者から多額の金を巻き上げていた。
加えて霊感商法による被害が多数報告されていた。
社長並びに役員数名が逮捕され実名も報道されていたが、その中に彼女の名前は見当たらなかった。
彼女は自分のことを忘れてほしいと言った。
でも私は彼女のことを絶対に忘れないつもりだった。
幻想郷は忘れ去られたものが流れ着く、そういう場所だから。
だからこうやって私はもう会うこともない彼女のことを記して記憶の中に刻み込んでいく。
たまに思うのだ。
私に超能力があったなら彼女と本当の意味で仲良くすることはできたのだろうか?
二人して能力を酷評しあい、時にどこかに冒険に出かける、そして互いを労りあう、そんなどこまでも望ましい関係を築けたのだろうか?
今となってはもうわかるまい。
私はこれからもずっと普通の人間として生きていこう。
それが私に課せられた枷であってそのもう一端は彼女の足首に嵌められている。
それこそが私と彼女をこの世界に縛り付けておくための一番の方法なのだから。
良かったです。
超能力を失った董子が曲がりなりにも新たな人生を踏み出していてよかったです
奴を絶対に幻想郷へ行かせないという強い意志を感じました