数年前に血の池がなんやかんやしてからというもの、旧地獄街道なんて呼ばれていた汚らしい色街もずいぶん変わった。詳しい理由は一介の橋姫風情にはわからないが、とにかくあの場末は徐々に浄化されていって、今では立派にセンター街なんて呼ばれて、すまし顔でキレイをやっている。ひねもす橋でぼんやりしていたあの頃はもはや懐かしさのなかにある。楽しい事なんてひとつたりともなかった気もするけれど、それだけで仕事をした気になって、場末をひやかして辿る帰途にはなにか……なにかがあった気もする。
それはそんなに大仰なはなしじゃないし、なにかといえば、過去は時間が立つだけでキレイになっていくというだけのことだ。センター街にしても、それだけのことなのだ。
しかし場末からセンター街に変化するにあたって、地底の管理やらをやってる彼奴らは観光客なぞ招き始めやがるので、ひねもす橋にぼったちのわたしは邪魔者。いまは床屋なぞやって、日々ひとさまの毛髪を切断せしめている。面白い仕事ではない。勝手にあれやこれや話し出す客の警戒心の低さには心配ばかりをさせられている。貴様の背後に刃物を持った女が立っているということを強く自覚するべきだと思う。
けれど、まあ。仕事を終えてキレイになった街を眺めるようにして歩く帰り道には、不思議と、なにか満ち足りているような、言い現わすのが難しい充足めいたものがあって、わたしはいまだってそんな、漠然とした感慨を抱えて往来をすり抜けている。
ネオンライトを失った街は代わりにアタラシイ灯りに照らされていて、なんだかのっぺりと輝いている感じ。そのなかを昔では考えられないような、平和な面をしたやつらが笑いながら歩いている。ああそうか、わたしもこの街の一員なのだ。と、日々そんなふうに思う。岩肌だった天井もキレイに舗装――舗装、が正しい表現かはわからないが、とにかくそんなふう――されて、そこから注ぐやけにこざっぱりした照明がこの街の昼夜を強調して、あの頃よりずっと、今現在の夜はまさしく夜な感じの光度でセンター街を彩っていた。場末の再開発に強く反対していた一本角の鬼も、健全かつ催事のわかりやすくて良い、なんてことを聞きもしないのに教えてくれた。あの鬼が刃物を持った女を背後にして喋りまくるのには自身のフィジカルに対する全幅の信頼を感じて、少々腹が立つ。しかし実際あの毛髪には刃が立たないから、わたしのちっぽけなプライドとハサミは毎度ぼろぼろにされてしまう。そもそも角のあるやつは床屋に来ないでほしい。ふつーに、シンプルに、やりように、こまる。
そうして、ぼんやり歩いていると往来の若いやつの二人組――種族はわからん、最近では観光客もあるから判別が難しい――が笑った。なにかと思えば天井のスピーカーから流れる曲に対して、なにかおもしろかったようだ。耳をすませばなるほど、その曲はクリスマス・ソングだった。クリスマスというのは外の世界は外国とやらの文化らしいが、詳しくは知らない。知っているのは近年では流行というか、この時期の風物詩になりつつあることと、それが二日前に消化された風物詩であるということのみだ。たしかに二日遅れのクリスマス・ソングは馬鹿らしいといえば馬鹿らしいのかもしれないが、それが流れているというだけで嘲笑めかして話題にするというのも、すこし軽薄な感じもする。わたしからすれば正体不明の二人組が何で盛り上がろうがどうだっていいし、むろん例の風物詩にしたってそれはおんなじだ。ただ、無意識のうち、売れ残りのケーキが陳列されているショーケースのわき、その菓子屋のなおざりな赤い装飾をみて「赤……」と呟いてしまっていた。実際、置き去りの装飾は赤と緑でごちゃごちゃしていたのだが、緑があまり目立たないような感じがするのは、きっとわたしの瞳が緑だからなのだろう。なんにせよ、わたしには関係のないこと、なのだ。
センター街の不健康な白の照明を抜けてしばらく歩けば、昔とおんなじ、あの頃のままの帰路に行き着く。かつてひねもすぼんやりとさせていただいた橋の上には大きな空洞があって、空洞は地上まで貫通して、あろうことか空を一望できてしまうのだ。青空だって、夕空だって、夜空だって、星空だって、なんだって、空と名の付く空は、今まですべてこの橋の上から見上げて来た。ふ、と欄干に肘をついて息を吐く。今日の夜空は曇っていて、星はあまり見えないけれど、なんだかさっぱりとして、例の形容しがたい充足めいたなにかを抱えたいまならピッタリの夜空に思えた。本当はすこし、物足りない感じがちょうどよくて、やはりそれには、どうしたって、言い表せないなにかがあった。また息をついて、帰途を辿る。売れ残りを陳列していたショーケースとあの赤が、妙にしみつく帰途だった。
迷惑な一本角の鬼は正午の鐘とともにふらりとやってきて、やってくれい、と迷惑な注文をしてきた。辟易としながらも一本めのハサミをダメにして、二本めを取り出した、そんな折に鬼はだしぬけに言う。どうだった、クリスマス。と、それは意図の分からない、まるではた迷惑な問いかけだった。特に、別に、何も。わたしはそのなかどれか、或いは全てを用いて鬼の問いかけに応じる。すると鬼は店外に聞こえるような音声のため息をついた。続く言葉は、お前は、というもので、その先は無言、一寸してまたため息だった。それから鬼はわたしにクリスマス・ケーキなるもののすばらしさについて高説を垂れ流し始める。興味のないわたしからすれば御高説といった方が正鵠に近く、さらにいえば要領を得ないミーハーな鬼の高説は低説と言い換えても差支えのないような内容だった。内容なんて無いような、それ、だった、のだ!
一旦終わり。
再開。
つまり鬼はわたしの無関心を糾弾したいようだったが、持てない関心は持てないし、なにより例の充足めいた感慨だってある。わたしは不思議と満ち足りているのだから。それを言うと、鬼はもはや整え終わった頭髪に夢中、鏡をみてほおほお頷くばかりでいて、わたしは降伏するようにため息をついた。迷惑な鬼はどこまでも迷惑で、鬼が来るとその後の営業ができなくなってしまうのだった。理由と云えば、ハサミのストックがすべておしゃかになるから、ただそれだけ。店じまいをして、刃こぼれの五本を家で砥ぐために持ち帰らなければいけなかった。カバン、とか、リュック、とか、ぽしぇっと、とか、そういうのを持ち合わせていないから、昼食を買ったときにもらったちゃちなビニール袋にそれらを仕舞う。そして、わたしは刃物五本が入ったみすぼらしい袋を下げて、日暮れさえを前にして、帰途につかねばならなかった。しかしまあ、こんな日もある。
ときに、どうしても納得が行かない状況というものがある。それはひとも妖怪も虫にしたって神からしても同意見なのではないかと思う。とにかく、わたしは納得が行かなかった。おとなしく家に帰ることに、なぜだか反発――緩めの――を感じて、無意味と知りながらセンター街をぶらついていた。
センター街は先日とは打って変わって正月、というこれまたヘンな風物詩一色な装いをしていた。餅やら、みかんやら、ヌサ、やら……。昨夜の帰り道にみたショーケースの売れ残りや、例の赤色。それらは影さえ残さず、まるで初めからそうだったかのように消え失せていた。もちろん、天井のスピーカーからクリスマス・ソングなんて流れておらず、代わりに変な、ぱーぱー、みたいな、ザ・和、みたいな曲が垂れ流しになっている。だから、どこぞの誰かの軽薄な笑い声も当然聞こえてこない。センター街にあるのは正月という風物詩、それを彩るさまざま、それのみだった。けれど、わたしはどうして、数時間の彷徨をした。シャカシャカと揺れる刃物入りのビニール袋が、なにか苛立ちと似通っているように思えた。
そんな街をさまよえばさまようほど、件の納得から遠ざかる感じがして、わたしは、一体全体じぶんはなにを探し求めているのだろうという気が起きた。忽ちすべてくだらなくなって、居ても立っても居られず踵を返して帰途を辿る。数分しないうち、無意識的に街を抜けていて、そしてふいにハッとする。橋の上を通り抜けんとするわたしの歩みを止めたのは、天蓋から注ぐ夕暮れの赤だった。
ふ、と息をついて、欄干に肘をつく。見上げた空はずばりの夕空、日暮れは夕暮れ、夕景等々ジャストの朱色で、わたしはうっかり見惚れてしまう。薄い雲がゆっくりと流れていく。そして、わたしはこの夕暮れの赤に悔しいような、惜しいような気持ちにさせられた。赤と云うには朱すぎるその空は、まるでわたしに舌を出しているように思えた。おまえの探しているのは、あの赤でも、この朱でも、そしてこの街にあるどんなアカでもない。おまえの探しているものはもうどこにもないぞ、馬鹿め、馬鹿め……。そんなふうに。わたしはため息を吐く。例の形容しがたい充足は抱えたままだった。四分、それか一八秒ほどそれを眺めて、もうひとつだけため息を吐いたら、わたしは持っていたビニール袋を橋の上から投げ捨てるふりを、するのだった。
帰って電気をつけると、また、白い光が部屋に満ちる。そして、ダメになったハサミを砥ぎながらある想像をしていた。その想像には呆れてしまう。想像の中のわたしは苺の乗った白いショート・ケーキを幸せそうに頬張っているから、それはもう、どうしようもなく、呆れてしまうではないか。今年もどうせ、初詣なんて行かないくせに。思わずハ、と笑ってしまった。
それはそんなに大仰なはなしじゃないし、なにかといえば、過去は時間が立つだけでキレイになっていくというだけのことだ。センター街にしても、それだけのことなのだ。
しかし場末からセンター街に変化するにあたって、地底の管理やらをやってる彼奴らは観光客なぞ招き始めやがるので、ひねもす橋にぼったちのわたしは邪魔者。いまは床屋なぞやって、日々ひとさまの毛髪を切断せしめている。面白い仕事ではない。勝手にあれやこれや話し出す客の警戒心の低さには心配ばかりをさせられている。貴様の背後に刃物を持った女が立っているということを強く自覚するべきだと思う。
けれど、まあ。仕事を終えてキレイになった街を眺めるようにして歩く帰り道には、不思議と、なにか満ち足りているような、言い現わすのが難しい充足めいたものがあって、わたしはいまだってそんな、漠然とした感慨を抱えて往来をすり抜けている。
ネオンライトを失った街は代わりにアタラシイ灯りに照らされていて、なんだかのっぺりと輝いている感じ。そのなかを昔では考えられないような、平和な面をしたやつらが笑いながら歩いている。ああそうか、わたしもこの街の一員なのだ。と、日々そんなふうに思う。岩肌だった天井もキレイに舗装――舗装、が正しい表現かはわからないが、とにかくそんなふう――されて、そこから注ぐやけにこざっぱりした照明がこの街の昼夜を強調して、あの頃よりずっと、今現在の夜はまさしく夜な感じの光度でセンター街を彩っていた。場末の再開発に強く反対していた一本角の鬼も、健全かつ催事のわかりやすくて良い、なんてことを聞きもしないのに教えてくれた。あの鬼が刃物を持った女を背後にして喋りまくるのには自身のフィジカルに対する全幅の信頼を感じて、少々腹が立つ。しかし実際あの毛髪には刃が立たないから、わたしのちっぽけなプライドとハサミは毎度ぼろぼろにされてしまう。そもそも角のあるやつは床屋に来ないでほしい。ふつーに、シンプルに、やりように、こまる。
そうして、ぼんやり歩いていると往来の若いやつの二人組――種族はわからん、最近では観光客もあるから判別が難しい――が笑った。なにかと思えば天井のスピーカーから流れる曲に対して、なにかおもしろかったようだ。耳をすませばなるほど、その曲はクリスマス・ソングだった。クリスマスというのは外の世界は外国とやらの文化らしいが、詳しくは知らない。知っているのは近年では流行というか、この時期の風物詩になりつつあることと、それが二日前に消化された風物詩であるということのみだ。たしかに二日遅れのクリスマス・ソングは馬鹿らしいといえば馬鹿らしいのかもしれないが、それが流れているというだけで嘲笑めかして話題にするというのも、すこし軽薄な感じもする。わたしからすれば正体不明の二人組が何で盛り上がろうがどうだっていいし、むろん例の風物詩にしたってそれはおんなじだ。ただ、無意識のうち、売れ残りのケーキが陳列されているショーケースのわき、その菓子屋のなおざりな赤い装飾をみて「赤……」と呟いてしまっていた。実際、置き去りの装飾は赤と緑でごちゃごちゃしていたのだが、緑があまり目立たないような感じがするのは、きっとわたしの瞳が緑だからなのだろう。なんにせよ、わたしには関係のないこと、なのだ。
センター街の不健康な白の照明を抜けてしばらく歩けば、昔とおんなじ、あの頃のままの帰路に行き着く。かつてひねもすぼんやりとさせていただいた橋の上には大きな空洞があって、空洞は地上まで貫通して、あろうことか空を一望できてしまうのだ。青空だって、夕空だって、夜空だって、星空だって、なんだって、空と名の付く空は、今まですべてこの橋の上から見上げて来た。ふ、と欄干に肘をついて息を吐く。今日の夜空は曇っていて、星はあまり見えないけれど、なんだかさっぱりとして、例の形容しがたい充足めいたなにかを抱えたいまならピッタリの夜空に思えた。本当はすこし、物足りない感じがちょうどよくて、やはりそれには、どうしたって、言い表せないなにかがあった。また息をついて、帰途を辿る。売れ残りを陳列していたショーケースとあの赤が、妙にしみつく帰途だった。
迷惑な一本角の鬼は正午の鐘とともにふらりとやってきて、やってくれい、と迷惑な注文をしてきた。辟易としながらも一本めのハサミをダメにして、二本めを取り出した、そんな折に鬼はだしぬけに言う。どうだった、クリスマス。と、それは意図の分からない、まるではた迷惑な問いかけだった。特に、別に、何も。わたしはそのなかどれか、或いは全てを用いて鬼の問いかけに応じる。すると鬼は店外に聞こえるような音声のため息をついた。続く言葉は、お前は、というもので、その先は無言、一寸してまたため息だった。それから鬼はわたしにクリスマス・ケーキなるもののすばらしさについて高説を垂れ流し始める。興味のないわたしからすれば御高説といった方が正鵠に近く、さらにいえば要領を得ないミーハーな鬼の高説は低説と言い換えても差支えのないような内容だった。内容なんて無いような、それ、だった、のだ!
一旦終わり。
再開。
つまり鬼はわたしの無関心を糾弾したいようだったが、持てない関心は持てないし、なにより例の充足めいた感慨だってある。わたしは不思議と満ち足りているのだから。それを言うと、鬼はもはや整え終わった頭髪に夢中、鏡をみてほおほお頷くばかりでいて、わたしは降伏するようにため息をついた。迷惑な鬼はどこまでも迷惑で、鬼が来るとその後の営業ができなくなってしまうのだった。理由と云えば、ハサミのストックがすべておしゃかになるから、ただそれだけ。店じまいをして、刃こぼれの五本を家で砥ぐために持ち帰らなければいけなかった。カバン、とか、リュック、とか、ぽしぇっと、とか、そういうのを持ち合わせていないから、昼食を買ったときにもらったちゃちなビニール袋にそれらを仕舞う。そして、わたしは刃物五本が入ったみすぼらしい袋を下げて、日暮れさえを前にして、帰途につかねばならなかった。しかしまあ、こんな日もある。
ときに、どうしても納得が行かない状況というものがある。それはひとも妖怪も虫にしたって神からしても同意見なのではないかと思う。とにかく、わたしは納得が行かなかった。おとなしく家に帰ることに、なぜだか反発――緩めの――を感じて、無意味と知りながらセンター街をぶらついていた。
センター街は先日とは打って変わって正月、というこれまたヘンな風物詩一色な装いをしていた。餅やら、みかんやら、ヌサ、やら……。昨夜の帰り道にみたショーケースの売れ残りや、例の赤色。それらは影さえ残さず、まるで初めからそうだったかのように消え失せていた。もちろん、天井のスピーカーからクリスマス・ソングなんて流れておらず、代わりに変な、ぱーぱー、みたいな、ザ・和、みたいな曲が垂れ流しになっている。だから、どこぞの誰かの軽薄な笑い声も当然聞こえてこない。センター街にあるのは正月という風物詩、それを彩るさまざま、それのみだった。けれど、わたしはどうして、数時間の彷徨をした。シャカシャカと揺れる刃物入りのビニール袋が、なにか苛立ちと似通っているように思えた。
そんな街をさまよえばさまようほど、件の納得から遠ざかる感じがして、わたしは、一体全体じぶんはなにを探し求めているのだろうという気が起きた。忽ちすべてくだらなくなって、居ても立っても居られず踵を返して帰途を辿る。数分しないうち、無意識的に街を抜けていて、そしてふいにハッとする。橋の上を通り抜けんとするわたしの歩みを止めたのは、天蓋から注ぐ夕暮れの赤だった。
ふ、と息をついて、欄干に肘をつく。見上げた空はずばりの夕空、日暮れは夕暮れ、夕景等々ジャストの朱色で、わたしはうっかり見惚れてしまう。薄い雲がゆっくりと流れていく。そして、わたしはこの夕暮れの赤に悔しいような、惜しいような気持ちにさせられた。赤と云うには朱すぎるその空は、まるでわたしに舌を出しているように思えた。おまえの探しているのは、あの赤でも、この朱でも、そしてこの街にあるどんなアカでもない。おまえの探しているものはもうどこにもないぞ、馬鹿め、馬鹿め……。そんなふうに。わたしはため息を吐く。例の形容しがたい充足は抱えたままだった。四分、それか一八秒ほどそれを眺めて、もうひとつだけため息を吐いたら、わたしは持っていたビニール袋を橋の上から投げ捨てるふりを、するのだった。
帰って電気をつけると、また、白い光が部屋に満ちる。そして、ダメになったハサミを砥ぎながらある想像をしていた。その想像には呆れてしまう。想像の中のわたしは苺の乗った白いショート・ケーキを幸せそうに頬張っているから、それはもう、どうしようもなく、呆れてしまうではないか。今年もどうせ、初詣なんて行かないくせに。思わずハ、と笑ってしまった。
健全な仕事に就いたパルスィでしたが相変わらずひねくれていて安心しました
一つの記憶から時間が棘を抜いて、形を整えて、思い出にしてくれるのだと考えています。だだからこそ、パルスィは帰路につきたくないのかもしれませんね。きっとまだ、素晴らしい何かが道端の端に転がっているのかもしれないから。
ただ、このパルスィはそれと同時にその赤と群青の混ざったようなマジカルアワーの感情を処理もできるくらいには大人なんだなあと、この短さでも感じることが出来ました。ご馳走様でした。面白かったです。
こういう感情は確かにあるのだ、と納得させられてしまいました。面白かったです。